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写真付きで日記や趣味を思いつくまま気の向くままに。

宇津江四十八滝ハイキング

2015-06-21 | 日記
雨を心配しながらも、飛騨宇津江の滝と森に咲くササユリを見たさに岐阜まで行くことになった。
クラブツーリズム専用列車「かぎろひ」に往復6時間、バスに5時間乗って散策時間は3時間、なんという旅かと思うが、機知ある添乗員さんのお陰で楽しいツアーであった。
大阪上本町から出発して名古屋まで走る「かぎろひ」に途中乗車した私はこの「かぎろひ」が大好きである。(笑)
ちなみに〝かぎろひ”とは?輝く陽の光、朝焼けということで、日が昇る前に茜色した金色の空を思い浮かべてみよう。有名な「東(ひむがし)の野に かぎろひの立つ見えて かえり見すれば 月かたぶきぬ」(東の野に陽炎が立つのを見て、振り返って西の空を見ると傾いた月が見える)という柿本人麻呂の歌が思い浮かぶよな。
とにかく添乗員さんの話を要約してみると「希望に満ちた列車で楽しい旅!」をイメージしているらしい。

 6月20日(土)
午後1時30分やっと「宇津江四十八滝自然公園」に着いて、小雨に濡れながら滝見物となった。四十八は標高1200mの滝上山を源として、距離にして880mの間に大小様々な13滝が流れ落ちている。カメラをかばいながら足元にも注意し、成るべく我が身も濡れたくない思いでアングル等吟味している余裕はなかったよ。(笑)
パンフの説明をもらって、1~13滝を順に並べてゆっくり思い出してみようと思う。
(画像はクリックすると拡大する)


   ①魚返滝(うおがえり滝) 高:6.0m 幅:1.5m これより魚が上れないほど険しいことから。<次の滝まで100m>
   ②朝霧滝(あさぎり滝) 高:2.5m 幅:4.0m 朝、たちこめる霧が、美しく流れるように見えるから。<50m>
   ③平滝(ひら滝) 高:3.0m 幅:4.5m 地形的に平たく、滑らかに流れることから。<40>
   ④函滝(はこ滝) 高:11.5m 幅:4.5m 方形の滝壺から剣が突き出ているように見えるから。<50m>
   ⑤上段滝(じょうだん滝) 高:10.1m 幅:6.8m 平滝から連続して見える滝の一番上にあるから。<70m>
   ⑥梵音滝(きよのき滝) 高:5.7m 幅:3.5m 水の落ちる音が梵鐘のように聞こえるから。<100m>
     ⑦王滝(おう滝) 高:18.8m 幅:7.0m 滝群の中で最も大きく優れているから。<80m>
   ⑧銚子口滝(ちょうしくち滝) 高:10.8m 幅:2.0m 銚子に柄のついた器で盃に注いでいるように見えるから。<50m>
   ⑨障泥滝(あおり滝) 高:9.8m 幅:6.5m 泥よけの布馬具あおりに似て幅広いから。<展望台まで50m>
   ◎展望台 天気がよければ穂高連峰を眺望できるらしい。<40m>
   ⑩わん水滝(わんすい滝) 高:1.5m 幅:3.5m おわんの中で渦を巻いて流れるように見えるから<40m
   ⑪瑠璃滝(るり滝) 高:6.0m 幅:4.0m 滝壺が木漏れ日を受けて瑠璃色に輝くから<30m>
   ⑫布晒滝(ぬのさらし滝) 高:3.0m 10.5m 水面が白く泡立ち布をさらしているように見えるから<80m>
   ⑬上平滝(かみひら滝) 高:2.0m 幅:3.0m 滝群の最上流部にあり平らな岩盤を滑らかに流れるから<最後>


以上13滝、もし名付け親が別人であれば違った名前になっていたかも知れないなぁ~と思ったが、素直な気持ちで見たほうが楽しいよな。
私達2人は滝に2時間半かかったようで、後の30分を四十八滝山野草花園・「花の森」のササユリにかけた。
折しもササユリは見頃、そして幸いかな九輪草も今年は遅く開花したようで見頃、花の森はしっとり水分を含んだ緑に映えて実に綺麗だった。
              

そして午後8時5分、「かぎろひ」は名古屋駅を出発した。
高島屋デパ地下で買い込んだ名古屋味噌かつ&幕の内弁当をプレミアムモルツで今日の夕食とする。
     満足満足幸せ気分。

柳生街道(剣豪の里)

2015-06-18 | 日記
てくてくまっぷ「柳生街道(剣豪の道)コース」を歩く。
柳生新陰流(しんかげりゅう)で有名な柳生家一族を生んだ里である。名前をよく耳にした柳生石舟斎(1527~1606)は柳生宗厳(むねよし)のことで、柳生家厳(いえよし)の子であり柳生宗矩(むねのり)の親である。そして柳生十兵衛即ち柳生三厳(みつよし)や柳生宗冬(むねふゆ)は宗矩の子どもである事を頭の隅に置いておこう

 6月17日(水)
天気は薄曇り、雨は降らない様なので出かけた。
奈良駅午前8時19分発のバスに乗り、柳生バス停に降りたのは9時9分。歩き始めると「柳生焼窯元 井倉」の看板が見えて、店に入ってみた。昔、柳生で手に入れたお気に入りのお薄茶碗を思い出した。割れてしまった今、我が手に残るあの使い易さ(大きさ・形・重さ)と温もりがまるで大切な人との別れであったかのように何時までも忘れられない私・・・・・
色んな作品を楽しませてもらっていると「私を連れて帰って下さいな。」とふむふむお嫁さんが私の耳にささやいた。見るからに素朴なそれでいてユニークな魅力あるミニ置物、思い出にと彼が買ってくれた。傍に置いて毎日ふむふむお話しましょうね。

先ずは家老屋敷から。
江戸末期の柳生1万石家老であったという小山田主鈴(しゅれい)の旧邸で武家屋敷の様式を見ることができる。が、今日は立派な石組塀と白壁を見るだけにして屋敷の中は省略した。

八坂神社」に行く。
キリッと気持ちの引き締まる感じがする神社であった。江戸幕府の第4代将軍・徳川家綱の剣術の兵法師範を務めたと言う柳生藩第3代藩主 ・柳生宗冬が社殿を造営したそうな。能舞台が拝殿になっていて、その向こうで赤い口をカッと開いて睨みを利かせ見張っている狛犬が印象的だった。
     (画像はクリックすると拡大する)

その後、丁度見頃かなと思って、花しょうぶ園に入った。
入場券に描かれている様な綺麗な菖蒲は何処に??手入れされているとは思えないひよろひょろの菖蒲がちらほら咲いているだけで、見るも哀れな園の様子だった。奥に進むと中途半端なアジサイ園が広がっているだけだった。期待は見事に外れ、時間とお金(650円)を無駄にした思いで園を出た。
次は柳生家の菩提寺・「芳徳寺」(ほうとくじ)に行こうと、道を尋ねたお年寄りの優しい口調と笑顔に癒され気分が和み、しょうぶ園で崩れた柳生の里のイメージは少し修復されたかな。

正木坂(まさきざか)の途中で私は芳徳寺をパスすることにして正木坂道場の前で休憩。戻ってきた彼と合流して、山の中にある「天乃岩立神社」(あまのいわだてじんじゃ)の奥に在るという「一刀石」(いっとうせき)を見に行った。
石の鳥居をくぐると一人ではちょっと歩けない雰囲気の薄暗い参道、谷の向こう側にはゴロゴロと大きな岩が積み上がっている。そして目の前に苔蒸した巨岩が4つ並んでいて、その奥に式内社・「天乃石立神社」拝殿が在った。天の岩戸から飛んできたという伝説のあるそれらの奇怪な巨岩がご神体の古社はひっそりと静かに鎮座していた。
柳生石舟斎が天狗と思って切ったという伝説の一刀石は更に100mほど奥、陽の当たる場所に在った。彼と石を比較すると解る様に確かに巨岩で、約7m四方あるという。勿論この不思議な割れ目は花崗岩特有の自然分離と考えられているようだ。
鳥居を出る時、頭を垂れながら不思議な世界から抜け出るような気がした。
               
    
現実に立ち返り、山を下って「疱瘡地蔵」(ほうそうじぞう)に向かう。
こちらも巨石に彫られた「中村六地蔵」の傍を通り過ぎると祠が在り、高さ3mもある大きなお地蔵様が祀られていた。鎌倉後期(1329)に疱瘡よけに作られたそうであるが、案内板の説明によると像の右下に「正長元年ヨリサキカンベ四カンゴウニヲヰメアルベカラズ」と彫られ、徳政一揆で農民が貸借なしを宣言した「正長元年柳生徳政碑」でもあり、貴重な国史跡だそうだ。
    私の目では銘文を確認できなかったが、歴史の証がこのような形で残されているとは驚きである。

そこから円成寺まで東海自然歩道をたどる事になる。
急な登りも終わる標高355m「阪原峠」(さかはらとうげ)に来たので、12時30分お昼を食べる事にした。
山肌も道も辺り一面松葉で覆われているのでよく見るとそれは三鈷の松葉であった。嬉しい!見上げると大きな三鈷の松の木が2本並んでいて、なんとラッキーな場所かと感激しながら腰を下ろして食べた。いつもの様にお楽しみのおにぎりと温かいコーヒとお菓子が数倍美味しく感じたね。松葉1つを拾って懐に入れて持ち帰った。
ついでながらこの阪原峠は「かえりばさ峠」とも言われているそうで、昔、柳生から大柳生へ嫁ぐ花嫁さんが故郷を名残惜しんで振り返ったというのである。胸が熱くなるよなぁ~・・・・・

さて、梅雨の季節、ぬかって滑りやすい箇所もあったが無事山を下る事ができた。視界が開けホッとして、田植えの終わった見渡す限りの水田を眺めていると、100人程の団体さんがやって来た。うわぁ~これからあの峠の坂を上がるのだからキツイよな。今回のコース「円成寺~柳生の里」は柳生の里から出発するのが正解のようだ。

阪原峠から30分「おふじ井戸」に来た。
お藤とは柳生宗矩の妻になった器量よしの村娘、昔、学校の先生から聞いたような気がするそのお話はこうである。
井戸の傍で洗濯をしていたお藤に、側を通りかかた柳生宗矩が馬上から「その桶の中の波はいくつあるか」と問いかけたところ、お藤はすかさず「お殿様がここまで来られた馬の歩数はいくつ」と問い返したという。宗矩はその才気と器量に惚れ込んで妻に迎えたという。
又もう1つには、宗矩の問いかけに「はい、七三(なみ)は、二十一波でございます」と答えたと言う話もあるようだ。そして「仕事せえでも器量さえよけりゃ、おふじ但馬(柳生但馬守柳生宗矩)の嫁になる」との里歌も残っているというから面白い。
これらの話を編み出した人間様の知恵に感心するとともに、器量のいい女性は昔も今も得なんだなぁ~と少し羨ましい気が起きる私であるが、いやいやお殿様の妻が幸せだとは限らないだろうしなぁ・・・(笑)

井戸から歩くこと4・5分の所に「南明寺」(なんみょうじ)が在った。鎌倉中期に建てられたという重文の本堂はどっしりとして簡素な造りであった。十三重石塔も実に大きかった。
ここで今日のコースの半分ぐらいの道のりのようだ。

街道の道案内標識は大変行き届いていて、細い田んぼ道でも迷わず進んでいける。
畦道から虫取り網を持って歩いて来られた2人連れ、「何が取れるの?」「蛙」「えっ!?蛙お好きなの?」「ええ 大好きよ!」「写真撮らせてもらっていいかしら?」「 いいですよ。」彼女が嬉しそうに差し出してくれたのがコレである。ケースの中で蛙はぴょんぴょん跳ねていた。ひぇ~~。
先日テレビで見て聞いたニュース、逃げ出したペットのイグアナの飼い主が女性だったのに驚いたが、世の中好みは様々、いろんな女性がいるようだ。蛙の方がましだよな。

「多聞神社」と「水木古墳」を過ぎて行くと、標識があって「山口神社」まで500mと知る。ここに花を植えた人のさりげない優しさに感動。
夜支布山口神社」はこんもりとした森の中にあった。急な石段を上がると案内板に(Yasyu Yamaguchi Jinja Shrine)と訳されていて、マップには〝やぎう”とルビが打たれているが、(やぎゅうやまぐちじんじゃ)でいいのだろう。
本殿を囲む朱の玉垣の前の狛犬は、先日大和郡山市の菅田比賣神社(すがたひめじんじゃ)で見たのと同じ形式の狛犬であった。今後も訪れた神社の狛犬を見るのが楽しみになった。
境内の右の方に、国指定 重要文化財 「立磐神社」(たていわじんじゃ)があり、檜皮葺のとても美しい社殿であった。これは春日大社の享保御造替時に本社本殿第四殿をこちらへ移譲されたものらしい。今は山口神社の摂社となっているが、元々ここには大きな立岩が在って古代から巨石信仰の地だったそうである。
           

静かな山間の小さな神社に心洗われ、午後2時45分神社を後にしばらく行くと梵石の前を通り、その後は雑木林や竹林を抜け、せせらぎの音高く長く耳に響くようになった。今日のゴール・忍辱山円成寺も近い。
バスは2時間に1本というから16時7分に乗り遅れるわけにはいかない。ラストスパート一生懸命足を運んだ。そして無事バス停に到着。予期せぬ臨時バスがでていて、ゆったり揺られて近鉄奈良駅に帰ってきた。歩行距離は約17km、よく頑張った自分に拍手、お疲れ様。


筒井順慶の通った道

2015-06-10 | 日記
近鉄線平端駅踏切から東方へ50m程の所にある筒井順慶の五輪塔覆堂の前をよく通るのに、歴史に弱い私は「順慶さん」(地元では尊敬と親しみを持ってこう呼ばれているそうな)についてあまりよく解っていない。兼ねてよりもう少し知ってみたいという気持ちがあったので、大和郡山市の「郡山再発見ウォーク〈筒井順慶の通った道〉」に参加する日を待っていた。

  筒井順慶(1549~1584)
 天分18年(1549)筒井で生まれる。父・順昭は28才で病死。幼名・藤勝2才で家督を継ぐ。18才で得度、陽瞬坊順慶を名乗る。筒井順慶が織田信長の援護で宿敵・松永久秀を滅ぼしたのが、天正5年(1577)10月10日。松永久秀が多聞城戦東大寺を焼いてから10年の事。その後、天正8年(1580)織田信長より大和国中一円存知の朱印状を授かり、大和一国の支配を任される。
 筒井順慶は、神仏を信仰し、謡曲・茶の湯に名手の呼び声があった。戦いに明け暮れた日々であったが、36才の若さで病死。 (「郡山再発見ウォーク」で当日頂いた資料より)

  
  6月10日(水)
梅雨に入って今日は早や中休みか?晴れた。歩きのコースは筒井駅に集合して筒井城跡~菅田比売神社~請堤~千体寺~八雲神社~郡山八幡神社~近鉄郡山駅で、順慶公が天正8年に先祖伝来の居城・筒井城を棄て郡山城へと移る時に通ったと思われている吉野街道を歩く。

民家の間の狭い路地を抜けると石標「筒井順慶城跡」が在って、レンコン畑と畦道の北側に金網のフェンスで囲まれた空き地が筒井城跡。そしてその蓮池は筒井城の濠跡だという。へぇ~・・・こちらのレンコンにはロマンがあって、美味しそうだなぁ~(笑)
筒井城は外堀で囲まれた範囲が東西500m、南北400mの平城で、中世のお城としては大きかったそうである。発掘調査では堀を埋める祭祀(さいし)に用いられた沢山のカワラケや大規模な石組の井戸が見つかっているらしい。石仏も出たそうなので何処に保管されているのかと尋ねたが、ボランティアガイドさんの返事はなかった。
       (画像はクリックすると拡大する)

城跡の北側、道路を挟んで「光専寺」というお寺が在った。
こちらには江戸中期の作とされる高さ70cmの木造順慶座像(市の指定文化財)が保管されているそうで、毎年9月の第1日曜日には順慶公の命日法要が営まれるという。そして9月第2日曜日に行われる「順慶祭り」の日には一般公開されるらしいので、今年はその機会に是非訪れてみたいと思う。(この神社の裏手がお城の外堀遺構。)

道路を東に進むとすぐ近くに「菅田比売(すがたひめ)神社」があった。ここは筒井城本丸の一角に位置するそうだ。境内東側の水路は内堀跡らしいが、南側に残っているという土塁は確認できなかった。延喜式神名帳に記載のある式内社で、御祭神は天照大神の姉・伊豆能売神(イズノメ)らしい。難しい事はさておき、拝殿前の狛犬の一方は玉を取り一方は子どもの獅子がひっついていて私には珍しく新発見であった。
ところで同じ郡山市八条町にある菅田神社と何らかの関係があるのかなぁ~。
           

北に進んでスーパー・オオクワの裏手を更に北に進むと量川(はかりがわ)に直面するのだが、ここが「順慶請堤」(じゅんけいうけつづみ)と言われている。
筒井城を洪水から守る為に順慶公が築いた請堤だそうだ。洪水の時は筒井側に堰を立てたので北側の集落丹後庄(たんごのしょう)が水に浸かったそうである。そのような訳で本当か冗談か、筒井町と丹後庄町は今もあまり仲は良くないとか・・・・・そんな事ないよネ。

そこから歩く事15分、「千体寺」に来て驚いた。古めかしい山門と鉄筋コンクリート造りの本堂を見たのである。千体寺縁起によると創建は平安時代(980)とか。
本堂には鎌倉時代に作られたという国の重要文化財、高さ198cm、幅142cm、奥き89cmの紫檀塗螺鈿厨子(したんぬりらでんずし)が有って、阿弥陀三尊が安置されているそうだ。正面と左右には千体仏と言われる小さな阿弥陀千体仏が置かれているらしい。きっと綺麗なお厨子の様で見たい気がするが、拝観には大和郡山市役所の許可が要るとのことである。

のどかな田園風景の広がる中をさらに北へ進むと石の鳥居が見えてくる。
八雲神社」(やくもじんじゃ)で、江戸時代中期の建築、創立や由緒は不詳らしい。小原池という〝ため池”の中の島に建っている。池を掘った土を盛り上げて造られた神社だといわれている。拝殿の右手奥に廻ると朱の一間社春日造りの社殿を直に拝する事ができた。
鳥居と拝殿の間には表門が在って、かつては屋敷が建っていたと考えられているそうだ。
丹後庄の人達には大切な神社のようだが「郡山に住んでるけどこんな神社が在ったなんて知らんかったわ。」「私も」という声が参加者のあちこちで聞こえてきた。
       
 
それからは柳6丁目に続く吉野街道を歩いた。
金魚の養殖場もあって「金魚が泳ぐ城下町」を感じながら天井町を過ぎ、市街の中心地に入るのだが、何度か車で走ったことのある道ながら歩くとこんなにも距離があるのかと・・・・・
「郡山城外堀 八幡堀池跡」の石標を見て間もなく四辻に来ると、銭湯「大門湯」(おおもんゆ)が在って「郡山城外堀・柳町大門跡」の石標を見た。へぇ~。大門湯の名はきっと大門跡の大門 から付けられたんだろうなぁと一人で納得したよ。(笑)
これで郡山城は筒井城よりはるかに大きかったのが解かるよな。     

ところで郡山城跡は桜の名所、石垣に枝垂れる桜が実に美しい。いまは天守台の整備工事中だが平成29年3月末に終わったら、昔の友と一緒にもう一度あの天守台に登ってみたいなぁ~。
「大門湯」の横に噂に聞いていた「金魚が泳ぐ電話ボックス」が在った。何処に在るんだろう一度見てみたいなぁ、とずっと前から思っていたので嬉しかった。(笑)

目の前が「柳八幡宮」とも言われている「郡山八幡神社」である。歩きも終わりに近づいてきた。
こちらの神社の創建は室町時代初期だそうで、元は郡山城跡西側に在ったのが郡山城築城に際し錦町に移され、その後文禄3年(1593)に今の柳町に移されたそうだ。郡山鎮護の八幡宮として歴代城主の尊崇を得て今日に至っているらしい。
境内には金毘羅宮等7つの摂社がある大きな神社で柳町の人達の篤い信仰があるようだ。
      
八幡神社を後に路地を曲がり曲がって歩いて行くと「郡山城 中堀跡」の石標を見た。 郡山城は内堀・中堀・外堀と3つのお堀が有ったのだ。歩いてこそ目に留まる小さい石標にはちょっとした感動を覚えるなぁ~。
一角にお地蔵さんの祠が在って皆んなでお参りした。ついでながらお地蔵様の日は23日と24日で、お参りの際に鰐口を四回打つそうであるが、4回とは知らなかったよ。ご真言は確か「オン カカカビサンマエイ ソワカ」だったかな。
       午前11時30分、ゴールの近鉄郡山駅に到着。ハイ お疲れ様。


 順慶に関するお話
1つ、皆がよく知っている「元の木阿弥」という諺は順慶に由来しているという説。
父の順昭が28歳で病死し順慶が2歳で家督を継ぐわけだが、戦国時代故に攻められるのを防ぐ為、遺言に「自分の声によく似た木阿弥という盲人を寝所において、病中だと見せかけるように」と命じたそうだ。やがて順慶が成長し、木阿弥は沢山のご褒美をもらって元の木阿弥に戻ったという。

1つ、順慶が秀吉に献上したという「筒井筒」と呼ばれる修復茶碗が重文に有るそうで、写真を見せて下さった。
秀吉の家来がうっかり割ってしまって打ち首にされそうになった時、才ある武将細川幽斎が「筒井筒 五つに割れし 井戸茶碗 咎をば我に 負いにけらしな」と詠んで秀吉の怒りを鎮めたという。

知らなかった事いろいろ見て聞いて、参加してよかった よかった。

落花生の苗

2015-06-08 | 日記
近畿地方、今年の梅雨入りは6月3日だった。近くの田んぼに水が入り田植えが近づいてきたらしい。2・3日もすればグヮグヮグヮグヮ♪ 蛙の歌がにぎやかに聞こえてくるだろう。
我が家の小さい庭の小さい花が毎年同じサイクルで顔を見せてくれるわけだが、今日サフランモドキが二輪咲いた。小さな感動がこの歳になると大きな喜びになるのをつくづくと感じる次第である。

  6月8日(月)
メダカの赤ちゃんの卵を見つけてホテイアオイを買いに走ったホームセンターで好奇心からふとその気になって手に取った野菜の苗、トマトときゅうりの花にも感動。こんな花からあんな実が生るのかぁ・・・・・
そして今日、スーパーの出店で昔懐かしいお菓子を買ったおじさんから落花生の苗をもらって、〝やる気”がちょっと出てきた私。実は張り切っていた「シイタケのなる木」の栽培がうまくいかず、しょげていたところなのである。
ブログ日記も長らくご無沙汰なので、庭に咲いている花でも並べておこうかな。
              
               (画像はクリックすると拡大する)


ところで落花生の育て方をネットで調べてみると、住友化学園芸の欄に≪ラッカセイは漢字では「落花生」と書きます。花がしぼむと、つけ根にある子房柄(しぼうへい)と呼ばれる部分が地中にもぐって行き、やがて実になるという、珍しい育ち方からついた名前です。≫と説明があって、へぇ~ これは面白い!と興味津々。観察しながらしっかり育て、花だけではなく実も見たいと思う。
そうそう落花生をビールのおつまみに好んで食べていた昔、千葉の友人が送ってくれた落花生がやはり一番美味しかったなぁ~。


話かわって、今日はナン作りにチャレンジした。廃車して大好きなパン屋さんに行けず、ナンとお手軽レトルト食品のホテルカレーで済ますお昼の楽しみがなくなっていた。勇気をだして試みたが、当然ながら満足するには及ばなかったよ。(笑)
誰か簡単に美味しいナンの作り方教えてくれないかなぁ~。