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彦根城石垣めぐり

2016-12-18 | 日記
昨日はボランティア養成講座の一環で彦根城見学の日であった。お天気に恵まれ気温も比較的温かく、石垣に沿って歩くには都合が良かった。
かつて彦根城を訪れた時は中堀沿いの松並木・「いろは松」に立っている自分を記憶しているのだが、今回、バスは京橋口駐車場に着いた。車中で持参のおにぎり昼食を済ませた後、キャッスルロード街並みを覗いて、私には小さい発見であった


  12月17日(土)

しっかり学ぼうという気持ちで緊張はしていたが、肝心の頭が付いていかないかも・・・という不安が大きい。難しい事はさておき今日の日記は、記憶に残った石垣についての基本的な言葉だけでも拾っておこうと思う。

京橋を渡って入城、内堀を目の前に学芸員下高氏の説明が始まった。「腰巻き石垣」・「鉢巻石垣」・「総石垣」という名称を初めて聞いて、社会見学に来た小学生のようにワクワク嬉しくなってきた。屋形船が目の前を静かに通り過ぎて行った。
        (画像はクリックすると拡大する) 
  

木製の大手橋を渡って大手御門跡に入ると、左手の枡形に置かれた説明版にはこう書かれていた。そのまま書き写し、先ず確認しておこう。

   【この彦根城は、慶長5年(1600年)井伊直政が、関ケ原の戦いに徳川四天王の一人として
    抜群の功をたて、この戦いに敗れた石田三成の居城佐和山を与えられ、慶長6年(1601年)
    上野の国高崎城から佐和山城へ移ってきた。その後、直政は城を彦根山に移そうと考えたが
    実現せず病死、慶長8年(1603年)その子直継が父直政の遺志をうけて彦根城の築城に着手
    した。時の将軍家康は特に奉行を差し向け7ケ国12大名にも応援させ、元和8年(1622年)
    現在の彦根城が完成。築城を始めてから実に20年の月日を要したもので、城地面積約0.25㎢
   (75800余坪)周囲4km(1里)高さ50メートルの彦根山に築城した平山城である。 
    昭和26年(1951年)に彦根城天守閣をはじめ天秤櫓・太鼓門櫓・西の丸三重櫓・佐和口多聞
    櫓を重要文化財に指定され、さらに同27年(1952年)には天守を国宝に、同31年(1956年)
    には彦根城一帯を特別史跡に、同38年(1963年)に馬屋を重要文化財にそれぞれ指定され
    ている。また、新日本観光地百選の一つとして琵琶湖八景「月明彦根の古城」として知られてい
    る。】

ついでながら国宝に指定されているのは江戸時代以前に築かれた天守で、姫路城(S.6)・犬山城(S.10)・松本城(S.11)・彦根城(S.27)・松江城(H.27)の五城である。

氏の説明は続く。見上げると     
『鐘の丸』の石垣まで山の斜面を登る様に造られている高さ1~2m程の「登り石垣」を見た。敵の水平移動を妨ぐ為の物だそうだ。このような石垣も初めて聞き見て知って、驚いた。
お城の石垣の役割は「建物の基礎」でもあり「お城の防御」でもあるんだな。
 
『鐘の丸』の壮大な石垣を見上げながら説明を聞く。
石垣は大小様々な石を1つ1つ積み上げて、見事な曲線を描きながら頑強な物に仕上げなければならないのだから、石工さんの技術は素晴らしい。海や山の石切り場によって硬さや色が違うだろうし、形や大きさが異なる石をキッチリ納めて作る巨大な芸術作品だ。
花崗岩しか知らない私、ここでちょっと石の種類について調べてみた。
岩石は生成の課程で「火成岩」と「堆積岩」と「変成岩」の3種類に分けられる。字からなんとなく分る様な気はするが、マグマが冷えて固まった火成岩に属する岩石は冷え方によって更に細かく分類されるらしい。彦根城に使われているのは主に滋賀県の湖東で多く採れる「湖東流紋岩」という石だとか。
        

「隅石」(すみいし)と呼ばれる石垣の角の部分に使われている石に墓石が1つ有った。石不足の理由による場合もあるが、敵の武将の墓石を組み込んで自分の権力を示した場合もあるらしい。こちらの墓石は・・・・・と見上げながら皆んなどのように想像しただろう。
大和郡山の天守台の「逆さ地蔵」は有名である。天守台変形部分の今回の解体修理(平成25年10月21日~平成29年3月下旬完成予定)では、お地蔵さまや五輪塔が転用材の中に混じっていたのを思い出す。
そうそう「隅石」の用語と共に、「築石」(つきいし)の用語も忘れないようにしたい。
  
石垣の積み方には自然石をそのまま積む「野面積み」(のづらづみ)と石の接合面を加工して積む「打ち込み接ぎ」(うちこみはぎ)と石を加工して隙間なく積み上げる「切り込み接ぎ」と言うのがあるそうだ。
概して「野面積み」は原始的な積み方で、隙間も多く敵が比較的登り易いが、「打ち込み接ぎ」になると、隙間に間石(あいいし)を噛ませるので登りにくくなるそうだ。「切り込み接ぎ」は尚更である。

ちなみに「野面積み」の石垣は細長い石を奥に長くなるように並べられ、これを「牛蒡積み」手法と言い、「打ち込み接ぎ」の石垣は石の角を斜めに落とし込む様に積まれ「落とし積み」手法と言うらしい。
天秤櫓の石垣ではその両方を対象的に見ることが出来る。「廊下橋」を境にして、右(西側)は「野面積み」で築城当時のもの、左(東側)は「打ち込み接ぎ」で嘉永7年(1854)修理の際に積まれたものだそうだ。
              

石を加工するには切らなければ(割る?)ならないが、それには「矢穴」と呼ばれる穴を掘りそこに楔(くさび)を打ち込むらしい。石工さんは石が割れる方向・石の目を見定めて先ず線を引いてから作業されるそうだ。楔でなくても木を打ち込んで木に水分を含ませ膨張させると割れる石もあるという。矢穴のある石を数か所で見た。
  
いずれにしても400年昔の人の知恵はスゴイなぁ~と思った。ふと思い出した。いやいやエジプトのクフ王のあのピラミッドこそ恐ろしや!

『鐘の丸』と『太鼓丸』を繋ぐ「廊下橋」を渡ると『本丸』の石垣が見えてくる。ここでは石田三成の居城が在ったという佐和山がきれいに見えた。無機質な物に注目して歩いて来たので緑の山を眺めると何かしらホッとした。が、次の瞬間、石田三成のお城が在った所なんだと思うと又戦国時代に引き戻された。(笑)
             

いよいよ『本丸』に入る「太鼓門」に来た。入り口左手に巨大な自然石がそのまま石垣に使用されているのが印象深い。
それに「太鼓門」の両側の石垣も珍しいらしい。
デザインと言うより、より頑丈な門にする為かも知れないなぁ~。
門をくぐると裏側は欄干付きの縁になっていた。デザイン?それとも何らかの意図があったのだろうか。
   

天守閣を目の前にして改めて、そうか・・・彦根城はこんな姿だったけな。犬山城と姫路城以外は何処も同じような感覚で眺めていた私だった。金箔の装飾が目に飛び込んでくると同時に複雑な屋根の造りに興味が湧いた。今、パンフを広げ外観の特徴を読んでいると、「入母屋破風」(いりもやはふ)・「切妻破風」・「唐破風」・「高蘭付き廻縁」・「花頭窓」(かとうまど)等の言葉を覚えた。
正面&側面&背面の写真を並べておこう。(石垣は側面のもの)
そうそう天守閣の石垣は「牛蒡積み」であった。
振り向くと彦根市街と琵琶湖が広がっていた。親戚が住んでいる滋賀県の宝物を目の前にして、より身近に感じた。
        

今日は特別な場所・『井戸曲輪』(いどくるわ)の見学も付加して下さった。(曲輪とは城郭内の区画の事で、天守や御殿がある中心区域を「本丸」、城主家族などの住居や重要施設のある区域を「二の丸」、それを取り囲む防衛施設のある区域を「三の丸」というようなもので、石垣や土塁や塀などで分けられている。)
内堀を挟んで丁度「玄宮園」が在る方向で、『本丸』を取り囲む石垣を案内して下さった。垂直に近いグッと迫って来る迫力のある石垣に身体がぞくぞくした。感動!足元にも細心の注意が要る。皆んな慎重に歩いた。
敵はこちらから攻める事は絶対に不可能だろう。天守を守る為の石垣の役目はここまで求められたんだ、実にスゴイ!と・・・・・・・
        

コンパクトフラッシュの画像を追ってここまできたが、写真に写る案内板を読み返して気付いた。「雁木」(がんぎ)という言葉の説明と「鏡石」の画像が抜けている。説明版の切り抜きで補っておく。それに「多聞櫓」という建物は兵士の詰め所でもあり「矢倉」とも言われる様に武器の保管場所でもあった長屋と覚えておこうかな。
                        
                           
随分いろいろな説明を聞き私の頭は飽和状態になっていたが、お城はまだまだまだまだまだ広い。充分な満足感と適度な疲労感のうちに研修は終わった。個人では体験できない今回の貴重な彦根城見学に心から感謝。今後、石垣を見る私の目は輝くことだろう。(笑)
最後になんとまぁ~「さようなら」のタイミングで2羽の白鳥が現れ、見送ってくれた。バイバイ。








有馬温泉歴史ウォーク

2016-12-15 | 日記
師走に入ると急に日常が忙しくなる気がする。ゆっくりやろう、と先ず自分に言い聞かせている。「ぶらり湯けむり 太閤秀吉・ねねが愛した有馬温泉」というお誘いのタイトルに心が動いて今年最後の歩きに参加した。有馬温泉は湯に浸かって御馳走を食べる所という思い込みがあって、昔訪れた時にはホテル(兵衛向陽閣)周辺の散策など思いもよらなかったよナ。

  12月10日(土)
午前10時、神戸電鉄「有馬温泉」駅に集合。
有馬温泉発見の伝説があって、その昔、大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の2神が、傷ついた3羽の烏が湧き出た泉で湯浴びをしていると数日後に治ったのを見て、この湯こそ万病に効くと世に広めたというのである。散策の途中で3羽の烏が置かれていた。楽しい話だなぁ~(笑)

飛鳥時代、舒明天皇(じょめいてんのう)や孝徳天皇が有馬で入湯されたとか。奈良時代聖武天皇の頃、大火災が発生して有馬が全壊した時、僧行基が復興再建を果たし、平安時代に起きた大洪水・山崩れで荒廃した有馬を僧仁西が再興したと伝えられているそうだ。その後、鎌倉、室町、安土桃山と時代が変わるなか何回も大きな災害に見舞われながらその度修復歴を繰り返してきたという。豊臣秀吉は特に有馬温泉がお気に入りで自らの湯殿を造ったり、1000人余りの客を招いてお茶会を開いたりお花見を催したり、有馬温泉の繁栄に随分力を注いだらしい。

さて、散策コースの最初の名所は有馬川に架かる赤い格子の『太閤橋』であった。親柱に豊臣家の家紋・五七桐や秀吉の馬印(うまじるし)である瓢箪(千成瓢箪)が浮彫りされているのを見ると、有馬の人達の秀吉への思いが伝わってくる。
この橋の周辺は「湯けむり広場」と呼ばれていて、後に見る太閤の座像や噴水、袂石などがある。
有馬川に沿う遊歩道を進むと同じく赤い格子の橋・『ねね橋』が在って、橋の袂には秀吉の正室北政所ねね像が立っていた。身体をよじって見つめているその先は太閤像であるらしい。
2つの橋の間の川底は石造りの親水公園になっていた。(私達2人はソコで昼食弁当を食べた。)なるほど観光客を楽しませる為のいろいろな工夫が伺える。
           
                             (画像はクリックすると拡大する。) 

太閤通りを左に入って「湯本坂」を登り始めると木造三階建の古い格子戸の家が並んでいてビックリする。まもなく太閤泉・共同浴場「金の湯」の前に来ると、温泉湯が飲める飲水所や湯の色が茶褐色した足湯があって温泉場に来た気分がしてきた。上り坂は更に続いて湯煙の昇る「御所泉源」(ごしょせんげん)に来た。案内板には【 金泉(赤湯)には、塩分と鉄分が多く含まれ、特に塩分濃度が日本一の温泉として有名です。泉質:金泉(含鉄・ナトリウムー塩化物強塩高温泉) 温度:97℃ 深さ165m 】と書いていた。金泉の色は水に含まれている鉄分が空気に触れると酸化して赤くなるのだそうだ。
                            

見上げるばかりの鐘楼と巨大な2基の五輪塔のある「温泉寺」(おんせんじ)に来た。
本堂の外からでも拝顔できる大きな薬師如来像が祀られている。薬師如来像の両脇には日光・月光菩薩そして十二神将が侍る大変立派なお寺で、奈良時代に僧行基が薬師如来像を祀ったのが始まりと言われている。(ちなみに五輪塔は平清盛と慈心坊 尊恵の塔らしい。)
         

次の「極楽寺」(お寺の創建は聖徳太子とか)に至る「ねがい坂」の途中に、行基像と「ねがいの泉」と名付けられた木の葉を模った水飲み場と例の三羽烏が置かれ、観光客の足を止めていた。
極楽寺境内の奥にある「太閤の湯殿館」には、1995年のあの阪神淡路大震災で寺の庫裏下から秀吉が自分用に造っていた石組みの湯屋(浴場)跡が見つかり、蒸し風呂・岩風呂の遺構etc.が展示されているらしい。
             

道路を挟んで、ねねの別邸跡と伝えられている「念仏寺」が在る。先ず目に飛び込んでくる法然上人の何と可愛く凛々しい少年像、お知恵を頂けるというので撫ぜる人が多く、頭の天辺は色が変わっていた。勿論私も撫ぜたよ。(笑)
御本尊の阿弥陀仏立像は快慶作と言われている事、樹齢300年余の沙羅双樹の花が咲くという事、寿老人が祀られているという事、私には大変魅かれるお寺であるが、今日は団体での歩きが目的なので、勝手な行動は慎まなければならない。
      

有馬温泉の神社仏閣で人気ランキング二位と言われる「湯泉神社」(とうせんじんじゃ)は愛宕山の中腹に在り、先ほどの温泉寺の境内から鳥居をくぐる。(一位はやはり温泉寺のようだ。)
見上げると200段もあるかと思う石段が続いていた。参拝を諦めた人も居て私も迷ったけれど、やっぱり踏み出した。こちらの主祭神はあの3羽烏と関わりのある神様二柱だそうだ。有馬温泉の守護神として、また子宝の神様として信仰が篤いらしい。
          

共同浴場「銀の湯」の辺りには沢山の鬼瓦が道路脇に置かれていた。それらは古くなった寺院の物で魔除け・邪気払いの意をもっているらしい。「炭酸泉源」に通じる「タンサン坂」では芸術的な色んな顔を楽しめて、登りの"しんどさ”もそれ程気にならずに泉源に着いた。ここは標高430mで今日のコースで一番高い所だと聞く。そういえば「湯本坂」からずっと上り坂を歩いて来たのだった。

屋根付きの炭酸水が湧く井戸は今は枯れていたが、手前左横にある蛇口をひねると飲めるようになっていた。勿論みんな順番に飲んだ。想像していたような不味いキツイ味ではなかったが、何とも表現し難い妙な味がした。目の前の案内板には【炭酸ガスを含んだ温泉で、昔は砂糖を入れてサイダーとして飲まれていました。 炭酸せんべいの名前の由来ともなっています。】と書かれていた。「焼酎を持って来れば良かったなぁ~」なんて冗談を言っている人がいたっけな。(笑)
          

                            

有馬籠くつわ本店では溜息がでるほど繊細な茶道具の籠を見た。工房では職人さんが竹籠等を作っていられるのを見せてもらえた。
次に立ち寄った「林渓寺」(りんけいじ)では蕾の頃から真紅という梅の木・『未開紅』を見た。確かに小さな蕾なのに色は紅、㋂下旬に八重の見事な花を咲かせるという。この実を食べると子宝に恵まれるらしい・・・・・
和やかな雰囲気のメンバーで、又冗談が飛んだ。「ねね様には子どもがいなかったけれど、この梅の実を食べればよかったのに。」「ねね様は梅干しがお嫌いだったのじゃないかしら。」いえいえ、時代が少しずれるのでは。。。。。
   
すぐ近くの「妬(うわなり)泉源」に来た。この名は昔、美人がこの泉源の前を通ると湯が噴き出したことから付けられたといわれているそうだ。(笑)
かつては妬神社の赤い鳥居の右下に在る網の張った小さな井戸から湧いていたそうだが今は枯れていて、右斜め方向少し上がった所で湯煙が立っていた。この金泉は最初に見た「御所泉源」を経て各旅館に配られているそうだが、有馬には数か所に泉源があるというから地下はお湯で繋がっているんだ。スゴイよな。

細い路地を下っていくと左手に青いシートで覆われた家があった。先月テレビニュースで聞いたばかりの火災現場、隣家からの出火で全焼した有馬人形筆のお店らしい。ぜひ自分の手で握ってみたかった美しい人形筆、私もお店再開の日を待つ一人である。
            

「有馬天神社」に来ると、赤銅色の階段に驚く。
境内には高い楼がそびえ、地下200mから98℃の湯がゴボゴボと音をたてて湧き出て、白い湯煙が激しく立ち昇る景色は壮観で思わず目を見張る。「天神泉源」である。この神社は有馬温泉の鬼門の方角を治める守護神・厄除け神社として信仰が篤いらしい。御祭神は菅原道真公で神社の社殿右側には天満宮、左側には温泉鬼門除の石柱が立っていた。
          
  
最後は「善福寺」。まるで人里離れた所に在るかのような気持ちになる山門へとドキドキしながら石段を上がって行くと、枝垂桜の大樹が私達を迎えてくれた。市民の木に指定され「糸桜」と呼ばれているそうだ。お寺は727年に行基上人が創建し、1191年頃仁西上人が再興したと言われている。利休をひきつれてこのお寺で茶会を催すのが大好きだったという太閤秀吉もこの二僧の献身が在ってこそと喜んでいたかもね。庭には千利休の供養塔が在った。
               


12時半ツアーの歩きは終わってお弁当を頂いた後、「有馬御苑」の金泉に(桧の露天風呂にも)入浴して午後2時過ぎポカポカの身体で帰路についた。案内人さんのお陰でいろいろな知識を得て有意義な楽しい歩きであった。
有馬川沿いにも枝垂桜が沢山あったので春には電車で〝Let's go!"、再度訪れてお花見を楽しみ、外湯のあの「金の湯」と「銀の湯」に浸かってみるのもいいだろうなぁ~