OGUMA    日々軌 小熊廣美の日々新

規格外の書家を自認している遊墨民は、書は「諸」であるという覚悟で日々生きている。

気楽に綴らせていただきます。

薔薇と桜と

2010年03月24日 | 文化・芸術
赤い薔薇は情熱、白い薔薇は真実。
夫婦にとってこの二つが必要……。

映画「スイートリトルライズ」の一齣である。原作の江國香織さんの小説にもでてくるんだろう。
孤と孤が二つになったから、孤ではなくなるわけもなく、新たな孤が首をもたげてくる……繊細な感情、それを空気感として伝えている映画のように思えた。
その空気感に触れればいいとおもえる映画で、監督の矢崎さんの詩情、今も健在なり。

アメリカの超娯楽大作をみてバカになるのも時にはいいけど、映画っていう世界も、メジャーのようだけど、いろいろなスタンスがあるんだな、とあらためておもった次第。

昨日は、新宿東口脇の武蔵野館をでて、中央線で国立へ。
西友のある通りをいくと、ノーションという器や雑貨を扱うお店がある。
そこで今日から「箱瀬淳一展」。輪島の漆作家である。

その飾り付けに箱瀬さんも来るというので、合流。

昨年の2月、このノーションで書を学ぶ仲間と、輪島・金沢の旅(漆芸技術の学校訪問、箱瀬工房見学、輪島日本酒飲み比べ?、総持寺座禅、箔体験、21世紀美術館見学他盛りだくさんでした)をしたりするなかで、箱瀬さんにはお世話になりっぱなしでした。

その箱瀬さんの作品がお椀からお重から、お皿から様々、無地から蒔絵からあります。
そして、国立の桜に合わせ、桜をモチーフにした蒔絵も多くあるのが今回の特徴です。
鈴虫のひげ一本の見事さだけでも、観て損はない。


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言葉

2010年03月22日 | 書道・筆文字
言葉があれば……。
ここでの「ある」は、心にひっかかっているとか、血肉を持っていれば、みたいなイメージ。
または、イメージがあれば、そこに、ぴったりの言葉を探してくることもある。

そういうものがピタッとくると、おのずから作品ができてくる。
そういうものがピタッとこないので、ぐだぐだしている。
集中力も関係あるね、もちろん。

現在、書く、刻す、意匠を考えるなど仕事があるのはうれしいが、作品を制作するのに、こういうことは邪魔になることも多い。
転換術、展開術を身につけないといけない。こういうの上手いのか下手なのかよく自分でもわからない。
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断念

2010年03月15日 | 書道・筆文字
ハングルのあの人工的ともいえる文字をいつか作品に、と考えてきて、それが今年か(5年前くらいに、一字だけ書いたものはあるけど)、と取り組み始めていたが、今回は断念。

韓国の作家でなく、私がハングルの書の魅力を見せたかった、(いいや、私が書いたところで、ハングルの美しさは伝わらない、ということだけは断言できる)。
もう少しあの国のことを勉強しないといけない、ということだ。

こんな時はティータイム。
ユジャ茶か。いいや、プーアール茶にレモングラスを入れる。
プーアール茶に何かひきつけられるものの、美味しくいただけないという方に試してもらいたい。深く爽やかな風味。
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みんな同じじゃつまらない

2010年03月14日 | 文化・芸術
みんな同じじゃ つまらない
みんな同じじゃ 恐ろしい

と今日、色紙に書いたのをしばしながめる。筆者は三遊亭圓窓師匠。
なるほど、から、そのとおり、と拍手。
俳諧味も充分。

圓生の名跡をめぐって、圓生直弟子の圓丈さんと圓楽の一番弟子の方が高座で対決!なんぞと記事があったけど、これは遊びの範疇の話でしょうね。落語は洒落でなくっちゃね。

そんなこととは関わりを持たない同じ圓生の弟子、圓窓さんはいいねー。
その弟子、三遊亭窓輝。苦節15年? 新打昇進おめでとう。

3月25日、上野鈴本演芸場を皮切りに、新宿末広亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場、5月19日の国立演芸場まで、13日間の新打昇進披露興行が行われる。
その昔の笑点に出てたころのおやじに似て、なかなかハンサムであるし、礼儀正しい印象。期待しよう。

ところで、実家の裏の家から出て、小江戸といわれる街の市会議員になっている兄貴がいるが、その同期議員に圓窓さんの弟子がいる。市会議員だけど、たしか、「そうり」と呼ばれている。「窓理」だったかな?
肩書きじゃねーぞ、みんな日本のため頑張ろう。いや、世界のためにガンバロー。

もう一人、色紙に書いていたのは雲龍さん。雲龍さんの筆記具の持ち方はなかなか美しい。自然を意識している雲龍さんならでは、か。
こちらは「遮那」が再リリースされたとか。これも、おめでとう。



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美はどこから

2010年03月08日 | 文化・芸術
昔は学校でぞうきんがけがあった。
廊下をひとりでぞうきんがけをする。
隙間を空けてぞうきんをかけると、
きれいな線がみえた。

これは、と思い、
わざと隙間を空けて雑巾がけをする。
わー、なんと美しいんだ。

少年は、そのバーコードのようなストライプ紋様に感動した。
その美の発見が、伊東氏の美術家としての歩みのはじまりだという。

隙間を空けながら雑巾がけをする少年が、先生に叱られたのも言うまでもない。
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味噌こんにゃく

2010年03月07日 | 和紙作り
今日は小川の和紙総合体験2日目。
昨年夏ぶらり体験センターに寄ってくれた版画の摺り工房を経営している方や、来日8年になるアメリカ人でフォトグラファーとしても活躍している方、世田谷美術館の和紙造形大出身の方の3人が今日の受講生。2人、今日はお休み。

漉く、(原料の楮の表皮を)削る、(漉いた紙を)搾る、(原料を)煮る、(漉いた紙を)乾かす、(トロロアオイの根を)叩く、など作業はたくさんありました。
慣れないことを真剣にやる受講生の姿勢は美しい。

さて、昼休みは、現在、センター和室改装作業中で、センター改修プロジェクトの恩人、伊東さんらと美術教育や現代美術の話題などで盛り上がる。
センター長格のU女史が、ダビンチじゃない俗世間の「最後の晩餐」の話題を切り出す。

私は最後に食べるとしたら、「みそこんにゃく」と。
最後までできないダイエットをきにしているのかな。
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半泥子展へ

2010年03月05日 | 文化・芸術
魯山人とはまた違うけど……などと私の周りの評価が高い川喜田半泥子。
私には財界の趣味人程度の認識しかなかった。

今回、特に陶器の研究者の面を持つ知人と、半泥子の伊賀水差の「慾袋」を見たときの衝撃を今も鮮明に語る知人この二人が私を動かしてくれた。銀座は終了してたので、横浜そごうへ。
半泥子は自分を客観的にみて、素人を自認している部分がある。というか、アマチュアの精神がある。そこに現れたのは自在心。そこからのシャレもある。
ここが魯山人とは大きく違う。
共通点は物の格を知っていることか。
だから、

下手で、不器用で、
上品で、力の強いものが
上の上。

と半泥子はいう。
その辺は、ちまたの「下手がいい」とは違う。

帰りに、池袋芸術劇場5階ギャラリーで今日から開催の「シルバーから、わ・か・ばまで」書道展へ。
5時ころ到着。そしたら「6時開場予定」とある。「え~」である。
幸いなことに主催者側代表のロオウ先生が点検作業中に気づいてくれて中へいれてもらう。
まだ、照明調整など高い台に乗って作業もしていたが、そこに乗っているのは主催者側の美術新聞社のカヤハラ社長じゃないか。そうなんだ、上を下もない。みんな主催者が無名の参加者を迎え入れようとしている。そんなところがいいなー。
そしてこれもアマチュアの書の祭典だ。
ここでは下手はよくない。懸命である。でも、そこが尊いだろ。
下手は狙うものではない。

これからは、プロの公募展を喰うイベントがでてきてほしいねー。
日野の新選組のふるさと歴史館で開催中の「新選組書展」もいいよー。

プロの公募展は、今、本当にそれが必要なのか考える時にきている。
新聞社の事業はそろそろか…。文化部はどうなんだ。
TV局主催の……、あー、今こそ、書にとって、大切なモノは……???

文化的視点!!!!!





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鼎談 おやじギャグ編

2010年03月04日 | 日記
鼎談とは、三つの脚を持つ器を「鼎」ということから、3人で談ずることを「鼎談(ていだん)」という。
などとよく言われる。

中国は殷から春秋戦国時代にかけて青銅器文化が栄え、神聖な儀式に用いられることからはじまり、王権の象徴として用いられたりした。

その金属の聖なる器に文字が鋳こまれたことから、それを金文と呼ぶ。ほかに彜(イ)文というほか、鐘鼎(しょうてい)文ともいう。これは青銅器で作られた楽器「鐘」と、器の代表としての「鼎」からとった。

青銅器の種類はことのほか多い。
酒器、食器、楽器、兵器くらいに分けてくれればいいが、酒器だけでも、爵、角、尊、壺……などなど似て非なるもの。食器も鬲、敦、豆、盂、盆……きりがない。

そういう中で、「鼎」である。肉などを煮る、あるいは盛る器とされる。
三本脚はすわりがいい。だが、鼎に限らず、酒器なども三本脚が多い。そして、鼎のなかには、四角い「方鼎」があって、これは脚が四本。

今日はある企画の相談が持ちこまれ、自宅で打ち合わせをする。駅で若い知人とばったり遇ったので、その氏も交えて三人で雑談交じりに進行。

二人より三人の方が発想が広がることが多い。こと新しいアイデア出しには、(ちょいと言葉の使用法に無理があるが)対談より鼎談だ。四人以上集まると冗談も必要になる。夏になると怪談も合う。
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曲水の宴

2010年03月03日 | 書道・筆文字
人はまず健康でありあいと思うのは古今東西同じ。
病は邪気の仕業。
人は邪気がつきやすいので折をみて特別に祈ったり、禊ぎをした。
それが節句なんだろう。

寒い冬から春暖かな季節になると気も狂いやすくなる。そういうときは禊ぎが必要な時なんだろう。
場所は日々流れ、新たな命を与えて続けてくれる川のほとりで。

その禊ぎの節は、もう4世紀には、春うららかな行楽行事も兼ねて、緩やかに流れる小さな沢のほとりにそれぞれ座り、上流から酒を注いだ觴(さかずき)を流し、觴が流れ着くまでに詩を詠むという風流な行事になっていた。

いまは杭州の蘭亭の地で、その時にできた詩を集めて、一冊の記念集をつくり、その序文を、その地区の長官であった王羲之(おうぎし→書聖。俳句でいえば芭蕉、お茶でいえば利休。バンクーバーでいえばキム・ヨナである。あれ!?)がほろ酔い気分で書いた。

それがのち、幾多の物語をうむ書道史上もっとも有名な「蘭亭序」である。
この類の話はみんな書いているのでこの辺で。

わが日本も「曲水の宴」を平安人がまねて、今もそのまねごとをしてニュースになることがある。俳句の季語にもなっている。きょくすいのえん、ごくすいのえん、といわれる。

腑に落ちないのが、觴が流れ着くまでに詩ができないと、罰則で酒を飲まされた、とよく巷で説明されている部分。
そうじゃないだろう。もうちょっと真実っぽく風雅な説明を願いたい。

さて、邪気は人形(ひとがた)で川に流すようになり、人形は平安にひいな遊びとなって、やがてひな祭りとなっていくようであるが、桃の節句といわれもするが、王羲之がいた4世紀ころは、三月はじめの巳の日の行事で「上巳」の節句は大事にされたという。もうひとつ大事にされたのが重陽。9月9日、重陽の節句。桃の節句に対し、菊の節句という。
五節句のうち、この日が一番忘れられている。

ま、そういうことをいいたかったわけじゃない。

桃の節句が終わって、春は女性の化粧も変わって、華やぐ。
いや、そういうことがいいたかったわけじゃない。

曲水の宴を開いた王羲之は、真蹟も伝わらず曖昧模糊としていて、アンチ羲之もいるが、私は羲之を支持する。
それは自然なる筆意を想像し、追えるからである。

惰性と堕落がすぐそばにある。そうした紙一重の表現。これが羲之を学ぶ時の注意かと思う。
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せんじ

2010年03月01日 | 書道・筆文字
書に関わる逸話などをあつめた宋時代の釈適之『金壺記』を会員同士で読みあい、書論研究をしてきた書論研究会関東支部の面々。

そのメンバーで初の合同書展である「金壺展」が開かれた。
各方面で活躍する研究者が多いなか、書壇で活躍する方もいて感心。

作品がいいの悪いのを評する前に、書がそこにある喜び、といった書展であったし、会員がにこやかにいい呼吸をしている印象。
お誘いいただいたのは高橋蒼さん。早大で大和絵の研究をしていた人が、今は書の可能性を求めている人だ。

その早大の後輩でもある、と紹介を受けたのは井垣清明さん。
昭和に活躍した井垣北城のご子息であるが、この方がなかなかいい味。生まれは「せんじ」だそうだ。「千住」を「せんじゅ」と読むのはせんじの人でないらしい。



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