OGUMA    日々軌 小熊廣美の日々新

規格外の書家を自認している遊墨民は、書は「諸」であるという覚悟で日々生きている。

気楽に綴らせていただきます。

正式

2014年11月28日 | 文化・芸術
正式に、ユネスコ無形文化遺産登録になった「細川紙」。
新聞地方版の記事は大きく大きくそれを取り上げていた。

紙漉きよりも瀕死状態なのが、簀桁やそれに関わる道具の製作者である。
小川には簀桁を作る職人がいなくなって久しい。

そして原料である楮の供給者。
昔は、村民の多くが、楮を育て、採取もし、皮を剥いで、子どもまで、小遣いを稼いだ。
今は申し訳程度に地元の楮が存在している。

どちらも今、みあった仕事にならない。

そこで新聞記事のシメの組合長の言葉。
「道具や楮がなければ細川紙の将来はない。道具作りも含め、日本の和紙文化全体が登録されたという理解を広めなければ」と。

そう、日本の和紙文化全体が登録されたという理解、が大事なのである。
前にもここで触れたが、だから、登録は、他のいい紙を漉く産地や個人、それに携わる職人や環境も加えて「手漉き和紙」がよかったかと思う。
せめて、文化庁やマスコミは、そういう理解を広めてほしい。


昨日も今日も、小春日和。芸術の秋も大詰めか。昨日は、原宿の齊藤芳子展、好文画廊の倉田孝次展、ともに書から抽象に歩んだ人達の作品を観る。
お手本のない世界を創っていく作業は、なかなか険しい。

正式に、「改組 新 日展」となって、出直しという日展も観る。日展は、審査に外部審査員を各科3名ずつ入れて審査に臨んだという。
いつもとは違った緊張のなかで、各科、出品点数は昨年比で微弱ながら、質はよくなったと自負しているコメントがビデオから流れていた。

内部から観えた質の高さより、外からみて、ガラッと変わった日展を観たかった…などとは期待しないが、日展は日展の空気のままだった。
日展だけ、じゃないのは心に留めておかなければならないが、日展は良くも悪くも公募展の象徴なのである。

ここに来て、社会の仕組みも、政治も官僚も、文化行政も、みんな構造疲弊のように思える。
今のままではいけない、という緊張感が漂わなくてはいけないのだろう。


ああ、正式とは儀式の一種であるのかもしれない。

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まんぷく

2014年11月22日 | 書道・筆文字
吉福、みて、満腹ならぬ、満福。


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あらかん

2014年11月17日 | ニュース・講座


あらしかんざぶろう ではない。
アラフォー、とかのアラ還である。
還は還暦である。

昨日は、秩父の街を見下ろすレストランで、タクシー・サウダージさんと食事。
秩父の夜景は、おじさん3人での食事なので、それなりでいい。

11月30日日曜朝、または翌週BSでの再放送予定の「題名のない音楽会」は、あら還ギタリスト特集。
ちちてつタクシーの運転手だった気のいいおじさんのタクシー・サウダージさんなどが出演。
初代司会者の黛敏郎さんがいたら、どうなっていたかな、などと思う。

楽しみである。
最近のビッグコミックスペリオールにも特集になっていたが、赤裸々に今までの人生を語っていた。
12月11日の夜は、渋谷でタクシー・サウダージさんのライブがあるそうな。
そんな人生から生まれ出たボサノバを聴きたいもんである。


狂花  いちごは夢よ



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むすぶ

2014年11月15日 | 今日の筆文字
小倉昌之作・演出の娯楽天国公演「ワンダブル」を観る。

ミュージカルか? と思うほど、導入の歌声に惹かれた。
鑑賞後、ひとりで隣りの駅まで歩く。
出会いとは…と、小倉の演出を思いだしながら、静まり返った夜の下落合の住宅地を抜けた。

結花

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ギンナンは茹でる

2014年11月05日 | 文化・芸術
3日の丸一日がかりの書のWSの解説の時に、敦煌莫高窟の特集のあった昔の銀花という雑誌を持って行って使った。
あらためて銀花をみると、2001年版である。
そこに西域の絣でつくる小特集があり、手提げ、で登場していたのがはやしさんであることを私は発見!

そして今日、私ははやしさんと何年振りかで遇った。
国立・ノ―ションで今日からはじまった「はやしのりこBAG むすんでみました」である。
相変わらず、追随を許さないはやしワールド全開である。

この方は、炊飯器を持たない。炊飯器は時間がかかってよくないという。さらに、美しくないという。
電子レンジも美しくないという。存在理由というより、カタチが、のようだ。

はやしさんのパウンドケーキをいただく。これがまた美味い。
昨日拾い集めて、茹でたといういうギンナンをいただく。茹でる、がポイントである。
おまけに、みんなが食べやすいようにペンチで割っている姿に、人間の労力の正しい使い方をおもう。

サムゲタンも自分でつくるといい、簡単だから、と作り方を説明してくれる。
コチジャンはなお簡単だといい、また、説明してくれる。
買う物だと決めつけていたり、インスタントになれた我々には真似がなかなかできない。
この方の労力は善用である。

はやしのりこBAGにパワーがあるのは、その生き方にある。
飾り気のない本物のものづくり作家だと思う。




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2014年11月04日 | 書道・筆文字
赤は、大と火とに従う。
火があかあかとと燃えている。
だからどうした?

白川静は、火によって人の罪科を祓う古儀があったものかと思われる、と記す。
さらに、おそらくその修祓によって、その罪科は赦免されるのであろう。赤に攴を加える形が赦である。と記す。

今の時代でも、赤々と燃える火の前では、人は心も温かく、真心を呼び出しているように思えるのは私だけであろうか。

そんな赤を二つならべて、「赫」。
火が真っ赤にかがやくところから、派生して、かがやく。徳の明らかなさまなどという意味も持つようだ。

盛唐時代の名品を書く一日WSで、顔真卿の斐将軍詩のなかの一字「赫」を70センチ四方の紙に書いた方がいて、ぶっきらぼうであるようで、それがもう二度は書けないと思われるような線条とモダンさ。
魅力的。

つくづく、いい書は、どこから生まれるかはわからない、と思う。

同じサイズに別の方が書いた顔氏家廟碑からの「顔」も臨書を超えて、顔真卿のアクの強さみたいなところを捉えて書いたものは紙面に威圧感があって、いろんな方の人生の刻まれた顔写真の写真集があるなら、そのタイトルに使いたかった。これもそれっぽさを狙った書家の書ではでない味があった。

書は書家だけのものでないことをしみじみ感じた一日。



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