OGUMA    日々軌 小熊廣美の日々新

規格外の書家を自認している遊墨民は、書は「諸」であるという覚悟で日々生きている。

気楽に綴らせていただきます。

古典から学ぶ

2016年06月29日 | こども書道
金文、木簡臨書






おまけ

 一カ月ほど前


一枚一枚見せにくる。課題に余計なものを書いていたのを許していた。
半紙の端っこに、一枚目は顔、二枚目は胴体、三枚目は脚だった。

つなげたのを見せられて判ったのだが…やっぱ、てんさい!?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミスター・オネスト

2016年06月24日 | 書道・筆文字
京橋・加島美術 7月2日までだったか、

「NANKOKU 比田井南谷展」

現代書道のレジェンドの一人である南谷のまとまった作品を観る機会はなかなかなかった。

南谷のよさを引き出すいい空間での展示で、書に興味のない方にも観てほしいと思えた。

新しい書を求めて輝いていた作家の、アメリカでの様子などもビデオなどで垣間見れる。

アメリカで書を教えるにあたって、書をかくことにおいては“自分に正直でなければならない”と教えたとか。

今のわたしにも響く言葉であるが、書の本質のひとつをついた言葉であると思う。

そこから、向こうで“ミスター・オネスト”と呼ばれたとか。

1060年代の話し。


会場で長唄のさんちゃんとばったり。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

半跏思惟像

2016年06月20日 | 文化・芸術
日韓国交正常化50周年記念
特別展 ほほえみの御仏―二つの半跏思惟像― 

明日から7月10日まで、東京国立博物館、なのだが、本館特別5室に、たった二体だけの仏像の展示なのだ。

たった二体だけみるのに、1000円の観覧料とは高いか安いか。 
お隣ではじまるギリシャ展は300点で1600円である。
これも素晴らしいので、結論をいえば、今回は両方みるといいと思うのだ。
今回、仏教、仏像ファンはもちろんだが、仏像がなんなんだ、と思っている方におススメである。
なぜって、二体しかないんだから。笑

そうじゃなくて、である。もうたぶん二度と一緒になることがない二体をじっくり比較しながら見ることができる最初で最後の機会だからである。
このイベントはまずは、韓国側で展示されて、日本展となる。
日韓国交正常化50周年だそうだが、昔の百済との交流があって、仏教も仏像も入ってきたあたりからでも、ざっと1500年の交流の歴史がある。


半跏思惟像は、インドで、釈迦が悩んだ姿だとして生まれ、中国を経て、韓国では、釈迦から弥勒菩薩になり、日本に伝わり、聖徳太子信仰が生まれるとさらに観音様に半跏思惟像の仏像は変わっていったそうだ。

今回、韓国代表は6世紀 国宝78号の半跏思惟像。日本代表は7世紀 国宝 奈良 中宮寺門跡の半跏思惟像。

半跏(はんか)とは、座禅の時、両足を反対側の腿にのせる結跏趺座とはならず、右足のみ左の腿にのせ、台座に座っているから、左足は下に伸ばしている。お釈迦様の悩んだ姿はいつしか、モノを考える奥深い思考の形となっていく。
これをもっと現代の人間に近づけて考えていくと、ロダンの考える人になっていくか!?

ポーズというか、韓国国宝78号は、自然にくねる。横から見ると、やり過ぎではないかと思うほど。日本は一つ一つ丸いが、直線的である。


正面からの動きはなお自然な感じ


今は肌が黒いが、もともと肌色の顔料が塗られていたようである。


像は、韓国は銅製。日本は木製。クスノキの木だそうで、上野駅公園口を降りてすぐ国立博物館に向かう途中、東京文化会館横のクスノキが大きく青葉がきれいだった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛のレッスン

2016年06月17日 | 書道・筆文字
amorということではなくて、「愛」という字のプロポーションが好きだと。
楷書よりも少し崩れた方が好きだと、そのメキシコ人の女性は言った。


愛はどう書こうが、人がどう言おうが、愛には、まったく決まりがない。
お習字的にまったく見事な愛など、そこに愛は存在するのかどうか。
崩れて読めなくったって、愛の真実はそこここにあるのかもしれない。

彼女の愛は、明るく伸びやか。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

はん居

2016年06月12日 | 文化・芸術

遇はざれば 薪にはつる煤竹も
  花添ふごとに 映ゆるたのしさ   調


租庸調からの「調」とは面白い。織物の研究をしていたので、今の織物での納税にあたる「調」かららしい。その松岡先生の掲出の歌はプログラムの表紙裏にあった。


その歌の通り、拾ったすす竹を花器にして松岡先生は花を活けてみせたという。その花器を使って弟子は、その教えの通りに今また花を活けた。
その茶室の床の間には、これも三七郎所蔵のはんさんの朱墨でかかれた梵字の軸が掛っていた。

六本木はん居での長唄公演の三七郎の会ではいい時を過ごさせていただいた。

三味線方の殿方たちもしぶかった、笛方の百貴さんもよかった。もちろん三瓶さんとの土蜘も迫力があった。新曲胡蝶での三味線の撥が胡蝶に見えたのは三味線姫君方の艶っぽさだったか。


三七郎という名取になっての初めての唄を国立劇場で聴いて以来の三七郎さんの唄なので、二十年数年ぶりの三七郎の長唄だったのだ。ずいぶんいい唄い手になっていたが、三七郎さんにとって、松岡調という先生の存在は大きかった。お茶、お花、書と総合的に日本の粋を学んだ。

今日は、思いがけず、小川で和紙作りを教えたことのある金唐紙制作の池田さんとばったり。三七郎さんと音楽と美術の違いはあっても芸大からの友人だという。その池田さんは、その昔、三七郎さんに連れられて、はん居にて、松岡先生のお茶の稽古に詣でたことがあったというからうらやましい。

流行や今風を追いかけるのではなく、じっくりやってきたことを丁寧にみせる。伝統が新鮮にみえたのは、三七郎さんの構成力と、はん居の佇まいだったかな。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

麦の秋

2016年06月11日 | 文化・芸術
90回目の草月の大々的ないけばな展を新宿タカシマヤでみたとき、一枚だけアイフォンで撮らせていただいたのをここに。
確か、渡邉さんという東北の方の作品だったか。

お花の世界も、草月創始者の勅使河原蒼風らの造詣という意識は今もなお健在であるようだが、蒼風らの時代の前衛的造形意識という印象はない。書も含め、前衛というジャンルはあっても、前衛を感じさせる作家はまれなのと同じ。そういう時代になっているのだ。


蒼風の御子息で三代目家元となった宏さんは、竹のインスタレーションが大きく大胆で新鮮だったが、そのお嬢様で四代目の茜さんは竹を扱っても大胆ななかにも繊細さを感じさせていた今回。

ほかの流派でも、お花というなかでの造形は、花を使わないものまででてきた。そして、そこには、造形だけではなく、映像や音楽という要素まで入るようになってきた。
書も文字を書かないで、書というジャンルにあるのとまた同じであるようだ。

他のジャンルと同じように、パフォーマンスがあるが、競い、優越をつける花バトルまででてきている。書も同じか。


今は、その伝統にどっぷりつかり鑑賞するほどの精神的な余裕は感じられず、何か目立ったこと、目新しいことに目が行く時代になった。

お花のいくつかの展覧会をみて、これでもかこれでもかという制作態度を多く感じ、食傷気味になっている。

そんなとき、いま野にあってみなぎる麦の穂をつなぎ合わせて塊りにし、洋風の赤紫の花を大胆に挿した一つの小さな作がその時の私の感性にとてもここちよく感じたのだ。

日本文化は、それっぽければ、それでいい、となってしまったようなところがあるが、一個人の作家は、今と真剣に対峙しなくてはいけないのだろう。
言葉ではたやすいが、そう簡単ではない。他人事ではない。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする