OGUMA    日々軌 小熊廣美の日々新

規格外の書家を自認している遊墨民は、書は「諸」であるという覚悟で日々生きている。

気楽に綴らせていただきます。

曲水の宴

2010年03月03日 | 書道・筆文字
人はまず健康でありあいと思うのは古今東西同じ。
病は邪気の仕業。
人は邪気がつきやすいので折をみて特別に祈ったり、禊ぎをした。
それが節句なんだろう。

寒い冬から春暖かな季節になると気も狂いやすくなる。そういうときは禊ぎが必要な時なんだろう。
場所は日々流れ、新たな命を与えて続けてくれる川のほとりで。

その禊ぎの節は、もう4世紀には、春うららかな行楽行事も兼ねて、緩やかに流れる小さな沢のほとりにそれぞれ座り、上流から酒を注いだ觴(さかずき)を流し、觴が流れ着くまでに詩を詠むという風流な行事になっていた。

いまは杭州の蘭亭の地で、その時にできた詩を集めて、一冊の記念集をつくり、その序文を、その地区の長官であった王羲之(おうぎし→書聖。俳句でいえば芭蕉、お茶でいえば利休。バンクーバーでいえばキム・ヨナである。あれ!?)がほろ酔い気分で書いた。

それがのち、幾多の物語をうむ書道史上もっとも有名な「蘭亭序」である。
この類の話はみんな書いているのでこの辺で。

わが日本も「曲水の宴」を平安人がまねて、今もそのまねごとをしてニュースになることがある。俳句の季語にもなっている。きょくすいのえん、ごくすいのえん、といわれる。

腑に落ちないのが、觴が流れ着くまでに詩ができないと、罰則で酒を飲まされた、とよく巷で説明されている部分。
そうじゃないだろう。もうちょっと真実っぽく風雅な説明を願いたい。

さて、邪気は人形(ひとがた)で川に流すようになり、人形は平安にひいな遊びとなって、やがてひな祭りとなっていくようであるが、桃の節句といわれもするが、王羲之がいた4世紀ころは、三月はじめの巳の日の行事で「上巳」の節句は大事にされたという。もうひとつ大事にされたのが重陽。9月9日、重陽の節句。桃の節句に対し、菊の節句という。
五節句のうち、この日が一番忘れられている。

ま、そういうことをいいたかったわけじゃない。

桃の節句が終わって、春は女性の化粧も変わって、華やぐ。
いや、そういうことがいいたかったわけじゃない。

曲水の宴を開いた王羲之は、真蹟も伝わらず曖昧模糊としていて、アンチ羲之もいるが、私は羲之を支持する。
それは自然なる筆意を想像し、追えるからである。

惰性と堕落がすぐそばにある。そうした紙一重の表現。これが羲之を学ぶ時の注意かと思う。
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