いい作品であると思った。
なぜここに?
うちのマンモス集合住宅の昨年11月の文化祭にあった。
ある方の家に飾られてあったらしい。
それを譲るという。
昭和の気分のあるいい作品である。
名のある作家だと思った。
大きな大きな色紙作品で、ゴミにしてしまう作品ではない。
そして私の知人の家で格式ある正月飾りの一部となった。
そして廻って今、私の所に。
落款印は、「弘」「秀竹」と。
秀竹先生は、弘という本名かはしらないが、昭和書壇の一角を担った三村秀竹の作品だろう。
水郷に小舟が浮かんでいる。
上の方の作品が私は好みだが、
上の作品からは、
明るくきらきら光っている水郷に、岸につながれた小舟がぽつり、波にゆだねて静かに揺れている。
そんなイメージを想起させられるが、詩の一節だろうか。
潮来あたりにこの作品があったらいいのに、と思う。
大雪後一週間たったが、まだたっぷり雪がそこここにある。初めて西武秩父駅よりバスに乗る。
朝、出発時わたしも含め4人、途中2人乗り込んだだけのマイナー路線ではあったが、バスの運転手さんは録音じゃなく、マニュアルじゃなく、肉声で一言ひとことアナウンスしていた。雪がまだ側道に残っていて、車幅に余裕なく、大型車同士のすれ違いなどには、減速、ブレーキ。そんなにでもないのに「強いブレーキ失礼しました」とまで、アナウンスしていた。買い出しのおばさま、杖の女性には、降車時「気をつけて」とやさしい声で、乗車の感謝の声とともに届けていた。
最後の乗客の私のバス降車以降の道筋も、道を間違えないよう間違えないよう、丁寧に丁寧に教えてくれた。
夕方、違う路線で駅に向かう。
今度は、バスの乗り継ぎである。
乗り継ぐ待ち時間は、田舎なりの中心街の観光案内所による。
出た瞬間、雪解けのしずくが傾斜のある地面でまた凍っていて、不覚にも、私はすってんころりんと転んだ。
観光案内所に入ろうとした青年は「大丈夫ですか?」と気遣ってくれた。
乗り継ぎのバスが遅れてきた。駅まで小一時間。車内は高校生でいっぱいだった。空いている席もあったが、バックなど置いてあって、席を空ける気などない。大声で周り中で話しもしているのはしかたないか。まるでスクールバス状態だった。途中で降りる学生もいたが、そういう学生の周りには空席があっても座りたいと思わなかった。
終点の駅で降りたのは3人。
私が最後、その前が私に声をかけてくれた青年。
バスを降りて駅を前にして、私は青年に先ほどの気遣いの礼をいった。
ご縁で、レッドアローも隣りに乗って帰った。
一年前にコロラドから日本に帰ってきた彼には、なにかと忙しく動く日本は少し落ち着かないようで、すこしゆっくり、ゆったりがいいという。
いい感覚で誠実で、朝のバスの運転手さんの気持ちよさもあって、秩父は快晴だった。
私の高校時代は、バスの中の高校生に似ていたのかもしれない。
今日の一日は今日しかない。後悔することなく、一番いい呼吸ができる状態で生きろ。
朝、出発時わたしも含め4人、途中2人乗り込んだだけのマイナー路線ではあったが、バスの運転手さんは録音じゃなく、マニュアルじゃなく、肉声で一言ひとことアナウンスしていた。雪がまだ側道に残っていて、車幅に余裕なく、大型車同士のすれ違いなどには、減速、ブレーキ。そんなにでもないのに「強いブレーキ失礼しました」とまで、アナウンスしていた。買い出しのおばさま、杖の女性には、降車時「気をつけて」とやさしい声で、乗車の感謝の声とともに届けていた。
最後の乗客の私のバス降車以降の道筋も、道を間違えないよう間違えないよう、丁寧に丁寧に教えてくれた。
夕方、違う路線で駅に向かう。
今度は、バスの乗り継ぎである。
乗り継ぐ待ち時間は、田舎なりの中心街の観光案内所による。
出た瞬間、雪解けのしずくが傾斜のある地面でまた凍っていて、不覚にも、私はすってんころりんと転んだ。
観光案内所に入ろうとした青年は「大丈夫ですか?」と気遣ってくれた。
乗り継ぎのバスが遅れてきた。駅まで小一時間。車内は高校生でいっぱいだった。空いている席もあったが、バックなど置いてあって、席を空ける気などない。大声で周り中で話しもしているのはしかたないか。まるでスクールバス状態だった。途中で降りる学生もいたが、そういう学生の周りには空席があっても座りたいと思わなかった。
終点の駅で降りたのは3人。
私が最後、その前が私に声をかけてくれた青年。
バスを降りて駅を前にして、私は青年に先ほどの気遣いの礼をいった。
ご縁で、レッドアローも隣りに乗って帰った。
一年前にコロラドから日本に帰ってきた彼には、なにかと忙しく動く日本は少し落ち着かないようで、すこしゆっくり、ゆったりがいいという。
いい感覚で誠実で、朝のバスの運転手さんの気持ちよさもあって、秩父は快晴だった。
私の高校時代は、バスの中の高校生に似ていたのかもしれない。
今日の一日は今日しかない。後悔することなく、一番いい呼吸ができる状態で生きろ。
色紙には、申年にちなんで、申づくしの「暢神(ちょうしん)」と書いた。
「暢」を勇んで大きく書いて「神」は伸ばしたいのに下がない。
しょうがないので、最後の「丨(コン)」は隣りに続けた。
“こころのびのび”という字だから、いいでしょ。
この戯書(偽書!?)名作(迷作!?)は、国立・ノ―ションに在り。
JICA横浜にて、南米日系の中学生に和紙作りを教えさせていただいた。
ずっとJICA横浜で、日本と南米、北米の日系人次世代研修を支えてきたビアさんはまさに架け橋。
その方のご縁だった。
この子どもたちはブラジル、アルゼンチン、ボリビア、ペルー、パラグアイなどから36名。この子たちは素晴らしかったが、そのことはまた。
その中に、アルゼンチンの日本語学校の子が1人。
8年前に和紙紹介のためにアルゼンチンへいった和紙仲間のリーダーは遠矢さんという女性。
私はご一緒できず和紙に書いた書作品のみアルゼンチンへ。
アルゼンチンの日本語学校での交流ができたのも、遠矢さんとその学校のデリア先生とのご縁だった。
その翌年、日本語学校の社会人組のアルゼンチン側が来日。遠矢さんらはデリア先生と再会を果たし、一日、私は書を教えたりして交流した。
今回、日系人協会の方に、デリア先生はいま、校長となっていることをお聞きしたが、遠矢さんはいない。
その遠矢さんは病魔に侵され数年前に亡くなってしまった。
来日しているそのアルゼンチンの中学生に、デリア先生に遠矢さんのことを伝えてくれ、と頼んだ。
遠矢さんもメキシコやアルゼンチンとの架け橋だった。
ずっとJICA横浜で、日本と南米、北米の日系人次世代研修を支えてきたビアさんはまさに架け橋。
その方のご縁だった。
この子どもたちはブラジル、アルゼンチン、ボリビア、ペルー、パラグアイなどから36名。この子たちは素晴らしかったが、そのことはまた。
その中に、アルゼンチンの日本語学校の子が1人。
8年前に和紙紹介のためにアルゼンチンへいった和紙仲間のリーダーは遠矢さんという女性。
私はご一緒できず和紙に書いた書作品のみアルゼンチンへ。
アルゼンチンの日本語学校での交流ができたのも、遠矢さんとその学校のデリア先生とのご縁だった。
その翌年、日本語学校の社会人組のアルゼンチン側が来日。遠矢さんらはデリア先生と再会を果たし、一日、私は書を教えたりして交流した。
今回、日系人協会の方に、デリア先生はいま、校長となっていることをお聞きしたが、遠矢さんはいない。
その遠矢さんは病魔に侵され数年前に亡くなってしまった。
来日しているそのアルゼンチンの中学生に、デリア先生に遠矢さんのことを伝えてくれ、と頼んだ。
遠矢さんもメキシコやアルゼンチンとの架け橋だった。
楮の皮をむく。
楮は毎年、同じようでも、成長も違って、毎年違うわけだが、そのタチはそう変わらない。、
それに比べ、そこに関わる人間模様は、随分変わってきているように思える。
紙つくりの根っこの部分の楮の皮むきをしながら、ふと考えた。
時代の波にのって紙も漉かされてしまうようだ。
日野市の新選組のふるさと歴史館では、山岡鉄舟らの幕臣尊攘派にスポットを当てた特別展開催中。
鉄舟も、維新後でなく、高山時代の幕末の資料もあって、観れてよかった。2月中旬まで。
さて、第9回新選組書展の作品募集が始まっている。
課題は、
「誠」
「会津公御預り与相成居候(あいづこうおんあずかりとあいなりおりそうろう)」
「流山」
である。大きさは半紙大。
近藤勇が新政府軍に投降した地である流山の市民のみなさま、旧会津藩領である福島県のみなさまはじめ、だれでも参加できる書展です。
名作、迷作を期待しております。
詳しくは、
日野市の新選組のふるさと歴史館HPから。
また「第9回新選組書展」で、検索してみてください。
締切、1月31日消印有効
鉄舟も、維新後でなく、高山時代の幕末の資料もあって、観れてよかった。2月中旬まで。
さて、第9回新選組書展の作品募集が始まっている。
課題は、
「誠」
「会津公御預り与相成居候(あいづこうおんあずかりとあいなりおりそうろう)」
「流山」
である。大きさは半紙大。
近藤勇が新政府軍に投降した地である流山の市民のみなさま、旧会津藩領である福島県のみなさまはじめ、だれでも参加できる書展です。
名作、迷作を期待しております。
詳しくは、
日野市の新選組のふるさと歴史館HPから。
また「第9回新選組書展」で、検索してみてください。
締切、1月31日消印有効