OGUMA    日々軌 小熊廣美の日々新

規格外の書家を自認している遊墨民は、書は「諸」であるという覚悟で日々生きている。

気楽に綴らせていただきます。

昭和

2018年02月28日 | 日記
三丁目の夕日は、東京での話である。
そのころの埼玉は、今井屋に残っていた。



古傷を痛めた私は、縁あって、東上線の奥の方まで治療を受けにいった。電車で一時間強乗って、東上線の奥の方のマラソンで新記録を出した設楽選手のご実家の方に行った。

治療が終わって、家に戻ろうとすると、本数すくなく、電車がすぐ来ない。
ならばと、さらに奥の終点、寄居まで行く。

駅前の観光案内所で、食事処をたずね、近くには二件。そのうち一軒は休み。今井屋さんを紹介される。

外から見て、昭和だ。それも三丁目の夕日の頃の埼玉は寄居の風景だ。
中に入って、テーブル、椅子、も昭和だ。
13時半頃だったか、客が一人でて、私が入る。
4人かけのテーブル4つ。
4人の学生風の若者もすぐ出ていった。
定番であろうカツドンを頼む。
お新香の小皿まで昭和だ。

天井は相当低い。
家族での商売らしいが、
そこの人まで、マニュアル化していない昭和の心で対応しているのだ。

甘じょっぱいくせになる味だと評判らしいが、その味よりもその空気感が郷愁を誘った。
あとにも三人入ってきて、常連さんらしく、かつライスを頼んでいた。今井屋さんのある寄居はすごい。
寄居の書どころと云われたくらい多くの書家もでた。恩師の設楽のおじいちゃんや中島邑水先生もそのカツドンを食べたことはあるんだろうと思った。

そこから、二両編成のローカル線である八高線に乗って、高麗川まで、そこから川越経由で帰宅。
また、それなりの現在に戻った。
いくつか昔のことが浮かんでは消えた一日。

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いはひ

2018年02月26日 | 書道・筆文字
延喜式内 伊波比神社とかく。

「比」の字は、前のものに似せて書いた。
前のものは、カタカナの「ヒ」を二つ書いたような楷書の形ではなく、行草体や、草書の始まりの章草体などにみられるカタカナの「ム」を二つ書いたような「比」で書いてある鳥居の社標を真似たものかもしれない。

伝言ゲームではないけれど、何事も、だんだん変わってきてしまうことがある。
伊波比神社は、祝神社と社名が変わったところもあるように、祝であったり、斎であったりの神社であるとすれば、楷書をベースに章草の気分をいれて、すこし変わった形の一文字をもって、案内のための標柱にも、魂をいれたいと思った。

「比」はもともと人が並んでいる形らしい。もう一つ「ヒ」を入れて3人にし、その下に「氷」を入れたら、今なら“パシュート”と読んでくれそうである。
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青年よ下ネタ明るく披露せよ

2018年02月23日 | 日記
朝日は埼玉版の記事なので、全国の皆さんにも、少し。兜太先生の訃報記事の2日目、22日版である。

熊谷の八木橋百貨店で「金子兜太と金子家の俳人たち」をプロデュースした兜太先生と同じ熊谷高校出身で69歳の方の話なのだが、兜太先生の名前に初めて接したのは、熊谷高の入学式の日に配られた学校新聞だったという。そこで、記事のままに続けてみると、

すでに俳人として活躍していた金子さんの「青年よ、包茎は手術すべし」で結ばれた文章が強烈な印象で残ったという。

という記事。50年以上前の話である。兜太先生40歳代でそうであった。私の話は25年くらい前であると思うが、やはり熊谷のお寺で、兜太先生、冬男先生の句碑建立の除幕式のことである。

句碑を刻した名人の石匠は、職人気質で兜太先生と同年配だったか、その茶目っ気もある石匠が控室で一緒になった兜太先生に「先生、まだあっちの方は元気かい? あっしはまだまだ元気だ」などと話しかけてきたことを、その除幕式のあいさつのなかで、兜太先生はそのまま披露し、「こっちはもうだいぶ前からだめだ」としながら、その石匠の職人としての技だけではなく、あっちの方も称えた。




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手すさび

2018年02月22日 | 文化・芸術
兜太先生の追悼記事など眺めながら、記事中にもよく載る代表句をいくつかペンや小筆を使ってじゃれているうちに一つ私のなかで小さな発見があった。

湾曲し火傷し爆心地のマラソン

原爆という人類の重い課題を社会的に前衛的に表現した現代俳句の有名句。

それに対して、
弟子筋や兜太ファンでなければ知らないと思われる句に、私が「月によせて」としながら、書作品群の中に、しゃれで肉づきの「腰」の入っている一句を作品にしたと昨日ここに記したが、それは、

頭痛の心痛の腰痛のコスモス

この句は、どうとらえるか様々だろうが、私にとっては、コスモスが秋桜ではなく、飛躍して宇宙として捉えてもいい句であったのだが、二句はリズムが似ていた。
と私の小さな発見。




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兜太逝きこの世さびしくなりぬ

2018年02月21日 | 日記
兜太先生が逝ってしまった。
この世の生命あるものが一瞬しゅんとして萎えたような感覚。

私は俳句の弟子でもないが、あの豪快繊細、素朴さ快活さを宗とし、気にしてきた大御所であった。

四半世紀以上前、私が中国遊学時代に日中和歌俳句シンポで宇咲先生を仲立ちに先生と面識を持った。帰国後、知り合いの設計した大きな福祉施設のゼネコン側の現場監督として秩父で日銭を稼いでいた一日、皆野の山中の民宿で、海程の句会が行われていて、安全靴はいたまま飛び入り参加、恥をかいたりしたのも懐かしい。その後、海程の若手の皆さんの句会に参加、いろいろ学ばせていただいた。

実家で母とキウイの話になって、「あのキウイは美味しかったねー」と。
あるイベント時、兜太先生のご自宅に先生を送り届けて、実家近くの皆野の山で育て奥様の皆子さんが大切に保存していたキウイをたくさんいただき、あの時のキウイの味は私も忘れられないおいしさであった。
そのことは一度前に書いた。

そんなこんなで時代は過ぎて、戦中派の先生の憂慮する時代になった。
昨年は、初めてであるが兜太先生の句を池袋コミカレで発表。随分縁遠くなり、そのまま伝えず。また不義理をしてしまったままだ。
代表句は目にするだろうが、「頭痛の心痛の腰痛のコスモス」はどうだ。これを書かせていただいた。

毎月、先生のふるさと秩父に行くが、これからなお先生を思うことがおおくなるのだろう。
弟子でもなく多少の縁をいただいたが、いまでもあこがれの心の師であった。
どこか受け継いで、生きていく。

宇宙はまた日本も春めいてきている。



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函館

2018年02月15日 | 日記
函館の「函」という字も、「凾」と昔から書かれたりもしていますが、白川説によれば、もともと矢を入れるふくろだったとか。
それはさておき、江戸時代には「函館」ではなく「箱館」と書くのが普通だったようですが、今回、新選組をキーワードに、その周辺を探りながら、筆文字を書いて、幕末と現代をつなぐ新選組書展の課題の一つに「箱館(函館)」がありました。

その11回目の審査を終えましたが、これから結果発表の準備をして詳細は月末に新選組のふるさと歴史館HPに載る予定。今回も、子どもから大人まで力作揃い、とまでは言っても問題ないでしょう。

そうそう、その「函館」と土方歳三の関係を、審査終了後、お茶をいただきながら、歴史の専門家である宮地先生が事細かにお話しくださる。
勝海舟と西郷隆盛の会談後の、西郷に対する勝の心持ちの話も、史実を細かに研究したなかでの人間勝海舟がいて、興味深かった。通り一遍の歴史の説明ではなく、臨場感あふれるもので、その翌年の函館では、五稜郭のそこに土方が必死の形相でいた。土方は34歳で逝ってしまうが、年を重ねていくほどに魅力的にみえてくる。

先生はたんたんと語るだけであるのに。
歴史は、人間の熱い血が動いてなっていることをあらためて思う。

日野には「星の王子さま」というオーガニックカフェがあり、そこでランチのあとにオーナーお勧めの混ざりもののないチョコレートを買って、その時のお茶うけとした。
バレンタインデーが似合わぬそこにいた男どものなかで、話題の土方なら、似合う。



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