上手く書きたい。
上手くなりたい。
だから、頑張る。
他の人より、上手くなりたい。
みたいな向上心は否定するものではない。
だが、そんな風にみえる作品は、観ていてこちらも苦しいことが多い。
明清時代の長条幅のそれぞれ展開された行草書を半紙に一日中書いて、
朱で直されるわけでもない。解らずも無心で眼と手と心の一致を求めている。
専門家筋なら、否定されがちな基礎の草書も知らない方々が書いた明清の行草。
その臨書から生まれた行草作品は、最後にすこし大きな紙二枚を渡して書いたものの一枚。
面白い作品が多く生まれた。ここに同じしんにょうのある作お二人の作品を並べた。
結果的に私も書けない作品のとある二人の作品は、ストーリーがいっぱいありそうで、観ていて気持ちいい。
「遊」は、空洞があるようにみえて入ったら気持ちよさそうだし、「蓮」は、しんにょうが全体を包み込んでいき、しんにょうが愛になっている。
子どものように書けたらいい、とよく言われてなかなかできない世界がある。
それがあった、と思えた日曜の一日ワークショップ。