OGUMA    日々軌 小熊廣美の日々新

規格外の書家を自認している遊墨民は、書は「諸」であるという覚悟で日々生きている。

気楽に綴らせていただきます。

2014年09月28日 | 書道・筆文字
あれ、はまぐり、ってどう書くんだっけ?

蛤 でしょ。

いや、ちがう……、と思っていたら、ひぐらし、だった。

「蜩の記」である。

最近、宣伝されている映画である。

新聞広告は全5段をみる。

主役たち4人の写真入りで、役所広司さん以下の主な出演者の名前。次に監督、脚本、原作、音楽家の名前。
最近多いのは、そこに題字を書いた人の名前がよくあるが、そこにはなし。

だが、この題字が、それっぽいで終わらず、媚びず、でいい。
用意周到な上手さであるが、技量から自然に生まれたようでいい。
題字などは、書家の書である必要はないし、違った表現があっていい。ただ、最近、目にするタイトル類はむごいものはなはだ多し。
選ぶ方の責任でもあるのだが。

ここには書家の書の良さが伝わる。
名前はなくとも、その書が静かに語る。

こんな題字を選べる監督以下スタッフが作った映画なら、期待してしまうというものだ。











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彫刻十箇条

2014年09月22日 | 書道・筆文字
彫刻にはもっと肝腎な根本生命がある。詩の魂である。立体感を重んずる余り、一にも二にもその事ばかりで彫刻を律していると、いつの間にか彫刻の生命が無機的なものとなる。

と高村光太郎は綴る。
書にも同じようなことが言えそうである。

続けて、

芸術の総勘定としての生命がかえって圧しつぶされてしまう。

と綴って、さらに、

量の問題は彫刻の本質の問題であって、彫刻の内的生命の問題ではない。立体感ばかりで彫刻は生きない。

と。書も本質はみたがるが、内なる書の生命をどこにおいて現代の書は歩んできたのだろうか。


その立体感をまでも生かすのは彫刻家の内にある詩の魂である。

と光太郎。注釈が続く。ここの注釈は大事である。


ここに詩というのは、必ずしも文学の謂ではない。いわゆる「詩的」なという事ではない。詩的にあつかえというのでは尚更ない、あの一つのものの事である。これがあるからこそ、そもそも彫刻もはじまるのである。この根本無くして何の立体感ぞ。……

と続く。


また、こうも綴る。

……構造が無くとも指を指らしく作ることは出来る。関節があり、指の腹があり、爪があれば、指には違いない。けれどもそれは指だという記述に過ぎない。……

造形的構造がなければ指として存在しない、と。書の世界にも通じそうな話である。


それっぽい文化症候群時代では、うけそうにない話しかもしれない。
ここまで読んでくれた方は、「昭和」度が高い?








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紙風船

2014年09月20日 | こども書道
黒田三郎の詩を気にいった赤い鳥は、それに曲をつけた、といっても今の子どもにはなんのことかわかるはずもない。
だけど、原詩である「紙風船」はわかってくれたかな。

人魚姫にでてくるとかいうフレーズをそのまま使ったというのが寺山修司らしい「なみだは…」も。

写真はともに小5作。なぐり書きで手本にもならないものをみて書いても、上手くまじめである。
このまじめな作品の裏側で、詩情をふつふつと湧かせてほしいのである。

小3の女の子は、はじめはまじめに書いていたが、最後には「ぞうさん ぞうさん お鼻が長いのね」まではよかったが、その後、「ぞうよ かあさんも 馬なのよ」ときた。
シュールである。

さてさて、昨日は池袋モンパルナス書会(正式名は、池袋コミカレの“日々の筆文字”というのであるが…)に、身体の使い方の先達の出口先生が見学にきてくれたので、急きょ、身体のイメージトレーニングを指導していただいた。出口先生いわく「書はもとより健康法になっている」と。
無駄な力みはいらない。本当のリラックス状態をめざせ。

魂からの元気、子どもも大人も、根本から、湧きでるほど、がいい。
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能の裏

2014年09月18日 | ニュース・講座
電子書籍とは、私はどうも縁がない。
能の中所さんもそうかな、とおもいきや、

Kindle書店より出版したという。


能の裏を読んでみた
隠れていた天才

中所宜夫

ということだが、タイトルの「隠れていた天才」とは、中所さんのことを言っているのか、
と思えるほど、能の奥の奥まで追求してやまない中所さんであるので、能に興味ある方で、電子書籍に馴染んでいる方にはお薦めである。
定価715円。いまなら期間限定100円セール中とか。
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上手くなるコツ

2014年09月17日 | 日記
こつこつ。


なるほど…。
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竭と孑

2014年09月08日 | 書道・筆文字
「竭」をこだわって書いていたのは今春、高校を卒業し、この後、すぐ台湾の大学に進む女の子であった。
竭の音は、ケツ。意味は、尽きる、尽くす、である。
4年間、台湾で、尽くして、尽きて、ほしい。そして、先を新たに見出してほしいものである。

あまり見かけない漢字の、「竭」は、九成宮醴泉銘の臨書のなかで出会った一字である。半紙にも、大きい紙にも、その女の子は「竭」である。 
昨日は10時から20時近くまで、唐時代の初めの楷書を中心として、楽しみながら黙々と書き込んでいく一日ワークショップであった。
このメンバーは、唯物でない人たちであるので、ほぼ教えないが、手さぐりで自分で、自分と筆の関係を探っていく。

金沢や京都から、わざわざデング熱騒ぎの代々木公園に隣接する施設まで足を運んでくれるのは主宰者への信頼である。
主宰者いわく「書はおもしろい」と。そうしながらも、よくある書の稽古風景には不満のようである。
湧きでてくるエネルギーのなか、いい書を定着させるのはそう簡単ではない。

施設は、立入禁止区域も多く、出入り口も一か所に規制されていたりで、一泊しても、蚊は一匹もみなかった。
ぼうふらは漢字で、一般的に、孑孑と書く。「孑」の音はケツである。が、正式には孑孒と書くらしい。
いずれにしろ、消毒が進む中、ぼうふらにとっては、一生を尽くせない2014年である。

それぞれが、それぞれの生き方の中で、めざせ完全燃焼! 
そういえば、2回目参加の男の方は雁塔聖教序の「然」を全紙2分の1に、見事に書き納めた。
犬肉を焼いて、燃える意が「然」。用義が拡大されて、「燃」ができたが、漢魏以前は、燃えるは「然」であった、と。


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