第六話 離れ
ジャンジャンジャン。
朝から、せんだんの木でくまぜみが鳴いています。
風は止まり、背戸から入ってくるわずかな風が涼を運んできます。
さなは、昨日の夕方、仲間達と一緒にとった這蝉が羽化し、蚊帳の天井に
とまっているのを発見しました。夕べは頼りなかった青く透けて弱弱しかった羽は、
黒々としたたくましい羽に変わっていました。
沢で採ってきた蛍は、夜にはあんなに輝いていたのに、もう死んでいました。
山道が頂上に伸びる度に飯場が移動していきました。
魚売りの女達は、その飯場まで毎日魚を運びあげるのでした。
高いところほど、魚の値段が安くなる暗黙の了解の恩恵を受けなくなった
さなの家では、今までより高くなった値段で魚を買うようになりました。
「今日あがった、新鮮な魚はいらんかーい。」
海の女達の、潮に鍛えられた、しわがれてもよく通る声が山に向かう
新しい道から聞こえて来ます。天秤棒で担ぐ魚箱の数は4段に増えていました。
魚箱から滴り落ちるしずくの水溜りに、つがいになったとんぼが、
卵を産みつけています。
江田島湾には、青い海に白い筆で引いたような航跡が
延びて、やがて海に溶けていました。
昭和15年もうだるような暑い夏でした。
朝夕の風の止まる頃、どこの屋根下も、淀んだ空気が動きません。
軒にかかったくもの巣だけが揺れています。黄色い尻をした蜘蛛が、
網にかかった獲物に近づいていきます。
残った力でもがく獲物を尻から出す糸でたくみにくるんでいます。
さなは、母の作る分葱の入った味噌汁の
匂いで、いつものように目が覚めました。
さなは、高等小学校に行くか、広島県立広島高等女学校(さなが入学する
昭和16年に広島県立広島第一高等女学校に改称。通称第一県女)に
行くか迷っていました。光男が唯一の楽しみにしている酒を飲みながら
考え事をしていました。光男は、村では誰一人行かせたことのない
第一県女に、さなを行かせるのをためらっていました。
道が伸びたことに合わせ、伊藤はそれまでの海に近い宿屋から登口の
離れを宿舎として使うようになっていました。
さな達姉妹も一緒に食事をするようになりました。
さなには5つ違いの背の高いすらりとした器量よしの姉がいました。
中村の高等小学校を卒業し、高田村の役場に勤めていました。
伊藤は、東京出身でさなの家に寄宿する頃には、島なまりの言葉も
理解できるようになっていました。裸電球のもと、夜な夜な繰り返される
光男とさなの話し合いが続きます。
「われは、なして県女に行きたいんじゃ。」
「うちは、女先生になりたいんよ。」
「島じゃったら、高等小学校を出ても、なんぼでもなれるど。」
島影に沈む夕日
伊藤が、ある晩こんなことを光男に話したことで、
あっさりさなの第一県女行きは決定しました。
「光男さん、今からの世の中は、女も学問をつけて仕事を持ち、
政治に参加するようにならなければならないのです。」
と光男に話しました。
女が政治に首を突っ込むなんて聞いたこともない。
光男は面食らったものでした。伊藤は、アメリカやヨーロッパの例を出し、
光男にわかりやすく説明しました。石工の光男には到底理解できる事柄では
ありませんでした。しかし、その頃には、伊藤の仕事のやり方に絶大の
信頼を寄せていた光男は、こともなく同意しました。
(つづく)