熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

上野動物園の賑わい

2007年03月31日 | 生活随想・趣味
   もう何十年ぶりであろうか、孫を連れて上野動物園に出かけた。
   何時ものとおり上野駅も上野公園もごった返していたが、この時は、上野公園の桜が満開であった所為もあり、西郷隆盛像の辺りから上野動物園入り口までの桜並木は、人人人で、前に進めないような混みようであった。
   大音響のサウンドは禁止されていたので騒音はなかったが、路上にビッシリと張り巡らされたブルーのシートで人々は思い思いに飲んだり歌ったり平成の花見を楽しんでいた。

   私の動物園との付き合いは、子供の頃、近くにあった宝塚動物園で、たまには、天王寺動物園か阪神パークに行った程度で、上野動物園は東京に移ってきて娘を連れて行ってからの付き合いだがそれほど行った思い出もない。
   初期のパンだの頃なのだが、あの頃のことは殆ど何も覚えていない。

   外国での動物園の思い出だが、私は、北京に行った時に、確か、何処かへパンダを見に行った記憶がある。
   ほかに外国の動物園に行ったのは、これも娘を連れてパンダを見に行ったワシントン動物園とイギリスに住んでいた頃に行ったロンドンなどの動物園、サンパウロ動物園、それに、キウイを見に出かけたシドニー動物園くらいだが、上野の方が一寸飲食や休息スペースが多いくらいで何処も似たり寄ったりで良く似ていると思っている。
   サファリ・パークについては、世界各地にあるので、旅の途中、あっちこっち立ち寄った。自動車のアンテナを立てたままであったので、サルに折り曲げられたこともある。

   一時、サッチャー政権の頃、経営不振でロンドン動物園が閉鎖されることが決まった。
   結局、経営のやり方を変えて維持することになったが、動物愛護の喧しいイギリスでさえ簡単に動物園が抹殺されるのである。
   戦争の頃、猛獣などが逃げると危険なので、動物を殺してしまうのだが、パリの動物園の場合は、パリのレストランで像のステーキなどが提供されていた言うことである。
   
   上野動物園だが、可なり丁寧に管理されていて、子供たちにとっても、楽しめるように色々工夫がされていて中々素晴らしい。
   多少、たて看板などの説明が難しい感じだが、保護者が読みながら説明すればよいのであろう。
   ただ気になったのは、やはり檻の中なので動物に元気がないことと、それに、毛がはげたり、多少傷が付いた動物がいたことなどである。

   唯一の乗り物がモノレールで、東駅から西駅に行くのに、陸橋を渡って不忍池の側を通るのだが、上から広々とした池を見渡せるのが良く、天気が良かったので気持ちが良かった。
   白鳥や鴨を筆頭に、水鳥や野鳥が想像以上に沢山水面に浮かんでいたり、水辺で遊んでいるのに多少驚きを感じた。
   遠くの岸辺に霞のように浮かび上がる桜が咲いていて、その向こうに東京のビル群が見える、やはり、都会地の公園であるが、池畔で、涼風に吹かれて陽の光を楽しみながら憩うのも中々気持ちが良い。   

   ところで、やはり、動物園は子供天国で、丁度、春休みに入っていて子供たちであふれている。
   つまらない公共施設を沢山作るよりは、このように、子供たちが嬉々として遊び楽しめる公共の場を沢山作り、そしてその質を豊かにすることであろう。
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久しぶりの宇治散策のひと時

2007年03月30日 | 生活随想・趣味
   宇治は、私が学生生活をスタートした最初の地で、正に、青春の思い出の凝縮した土地でもある。
   昔の兵器庫の跡地に作られた京大宇治分校も、入学後ほどなく閉鎖されて旧三高の吉田分校に統合されたのだが、あの当時は、全くの仮校舎といった感じで、塹壕がキャンパスのあっちこっちに残っていた。
   近所に、隠元和尚の創建した黄檗山万福寺があって、中国風の雰囲気が漂っていたのだが、この隠元和尚が請来したお茶の木が宇治茶の起源であろうから、周りに綺麗に刈り取られた茶畑もあった。

   私は、宇治駅の側の茶問屋の二階に下宿して、大学の生協で買った中古自転車で分校に通っていた。
   今のようにコンビニやデパチカのない頃で、三食は生協食堂でお世話になっていたので、殆ど毎日学校に出かけて行った。

   暇な時には、宇治川の畔をよく散策した。
   今でも、立ち木に遮られて宇治川の岸辺から平等院は見えないが、平等院の門前から岸辺に出て小橋を渡って宇治川に横たわる塔島と橘島に出て周りの風景を眺めるのもたのしみの一つであった。
   平等院の反対側には、小高い佛徳山の山並みが続き麓に宇治上神社や興聖寺がある。
   その間を宇治発電所からの水が勢いよく流れ出ていて、上流の天ヶ瀬ダムからの宇治川本流に合流して宇治橋の方に白波を立てて流れ下る。
   右手上流は、すぐに急峻な山に入るので元々水流は激しくて、佐々木高綱と梶原景季の宇治川合戦での先陣争いも分かろうと言うものである。
   この天ヶ瀬の山並みが四季折々に装いを変えながら変化して行く。特に、一日の内でも雨風や霧や靄、空気と陽のゆらめきに微妙に反応しながら時々刻々と変化してゆく風情は本当に素晴らしかった。

   久しぶりの宇治だったが、春たけなわなのにJR宇治駅で降り立つ観光客など誰もいない。バス客が大半でそれに京阪での観光が殆どで、JRは昔と同じのんびりした関西の田舎ローカル線のままで牧歌的なのが良い。
   懐かしい下宿の部屋の窓を眺めながら裏道の路地に入って平等院に向かった。
   今でも、新茶の季節に、この宇治は県神社の祭・県祭で賑わうのだが、これは夜の奇祭で昔は夜這いが許されていたとか言うことだが、とにかく、この辺りの路地は日中でも殆ど人通りがなく寂しい。
   平等院の門前は、茶問屋の売店や喫茶飲食店、みやげ物店が並んでいて多少小奇麗になったが観光ずれし過ぎて、昔のほっとした雰囲気が完全に消えてしまっていて寂しい。

   平等院正門の内外にある巨大な藤棚の藤はまだ蕾が固く、境内で咲いている花は、池畔の枝垂桜一本と、紅色のボケの大木一本だけで、桜はまだちらほらで華やかな春の風情はなかったが、うす曇の湿り気を帯びた爽やかな空気感が正に宇治そのものであった。
   鳳凰堂は、宇治川合戦など多くの混乱を経ながらも無傷のままよく歴史の風雪に耐えてきたと思う。何時見ても優雅で素晴らしいが、ことに、正面の阿字池に浮かぶダブルイメージは、空が夕闇に染まる頃が一番美しくて格別である。
   土門拳の「平等院鳳凰堂夕焼け」と言う茜雲に染まる夕空に浮かぶ甍を写した素晴らしい作品があるが、たった一枚しかシャッターを切れなかったようだが、屋根だけのイメージなので一寸惜しい。
   今なら、土門氏のように大型カメラを組み立てる苦労をしなくても、ブレ防止機能の付いた一眼レフなら、プロとは行かないまでもシャッターチャンスを失することなくそれなりの写真は撮れる。

   現在、国宝の阿弥陀如来坐像と天蓋の平成大修理中である。
   しかし、博物館・鳳鐘館で、修理の終わった光背の背もたれの部分である光背二重円部相部と箱型天蓋の正面と覆いの部分が展示されていて真近に見ることが出来る。
   ここには、ほかに、鳳凰堂の屋根の頂上の一対の鳳凰、梵鐘、52体のうちの26体の雲中供養菩薩像などの国宝が展示されている。
   私は、楽器を持ちながら雲中で楽を奏する菩薩達の像が好きで、最初に阿弥陀堂の四方の白壁に浮かぶ色々な楽師たちの彫刻を見たときには感激したのだが、あの法隆寺の天女像なども同じで、ハレの儀式には雅楽の演奏と天女の舞は欠かせなかったのであろう。

   学生の頃何度も訪れた時には、梵鐘も鳳凰も野ざらしであったし、阿弥陀堂の御仏や雲中供養菩薩像も昔のままの状態で安置されていた。
   今回、修理の終わった阿弥陀如来像だけは阿弥陀堂に安置されていたが、美しく金箔を施された坐像が、光背も台座も天蓋もなしに安置されていると聞いたので、今までのイメージを壊したくないので、完全に修理が終わるまで待とうと思って阿弥陀堂に入るのを止めて平等院を出た。
   
   塔島から橘島に歩き小橋を渡って対岸に出て、宇治上神社に向かった。
   宇治神社の境内を左に抜けて進むと公道の真ん中に赤い鳥居が見えて、その道のずっと前方に簡素な門があり拝殿が見える。
   この神社は、国宝であり世界遺産でありながら、境内出入りは拝観料なしの全くフリーパスである。
   もっとも、名水の桐原水と小さな祠春日神社とが付属した、拝殿と本殿が二列に並んだだけの小さな神社であるが、背後の本殿が面白い。
   
   非常にカーブの急な湾流刀のように反り返った曲線の美しい屋根の長屋風の建物で、正面の屋根が長く背後は短くそのパンバランスが良い。
   正面は、端から端まで下から上まで全く同じ意匠の格子障壁で、その内部に、3棟の「内殿」があり、この本殿は、いわば覆屋なのである。
   三つの内殿は、屋根と左右の内殿の壁が覆屋と共有されているが、完全に入れ子の感じで、「中殿」が応神天皇、「左殿」は莵道稚郎子、「右殿」は仁徳天皇が奉られていると言う。
   学生の頃は、一度もここへは来たことがなかったが、世界遺産に登録されてからはちょくちょく訪れて、隣の源氏物語ミュージアムにも出かけている。
   この日は、新入りのバスガイドの講習であろうか、ベテランのガイドに引率され熱心にメモを取る若いバスガイドの一団がこの宇治上神社を訪れていた。

   宇治は、確かに自然の微妙な変化と美しさは格別だが、とにかく、冬は寒くて夏は暑い、住むのに大変なところだと言う印象が強い。
   この日は、この宇治上神社から直接京阪宇治駅に向かって醍醐への道を急いだ。
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豪華絢爛妍を競う醍醐の枝垂桜

2007年03月28日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   今までに、何度も訪れているのだが、醍醐の桜には巡りあえなかった。
   しかし、とうとう春爛漫と咲き誇る満開の枝垂桜の素晴らしさに始めて出会うことが出来たのである。
   偶然に、一日だけ京都で時間が取れたので、迷うことなく宇治に向かった。
   宇治は私が、京大の一回生の時に一年だけ下宿をした思い出の土地なので、あの頃楽しんでいた平等院横の宇治川の畔を散歩したくて良く出かけるのだが、今回は、六地蔵から昔なかった地下鉄で醍醐まで出かけて、田舎道を三宝院に向かった。
   
   醍醐寺との最初の出会いは、丁度宇治に下宿をしていた頃、自転車で、吉田の学部に行っての帰りに中書島辺りで道を間違って北東に向かったようで、前方に忽然と素晴らしい五重塔が現われ、それが醍醐寺の国宝の五重塔であったのである。
   もう40年も昔になるのだが、あの頃は、宇治の平等院も醍醐寺も、観光シーズンを外せば、訪れる人も少なく閑散としていて寂しいほどであった。
   私はあの辺りの雰囲気が好きで、醍醐寺に行く時には、時間があると、小野小町縁の随心院や平等院の阿弥陀様と兄弟のように良く似た国宝の仏像のある日野の法界寺を一緒に訪れるのだが、今回は、残念ながら三宝院近くを歩いただけで東京に帰えらざるを得なかった。

   秀吉の醍醐の花見は、あまりにも有名だが、その当時の風情はどのようであったのか、文献や歴史資料などから推し量る以外にはなさそうである。
   しかし、今、妍を競って豪華絢爛と咲き乱れている三宝院の桜の豪華さは淡いピンクの枝垂桜で、門をくぐった中庭もそうだが、特に、隣の霊宝館の裏庭の何本かの古木の巨大さとその美しさは格別で、月光を浴びた美しさは如何ならんと想像をかき立てられる。
   この霊宝館では、今、春の特別展が開かれていて、秀吉が詠んだ歌を自筆した醍醐花見短籍が3点展示されている。
   秀忠や利家のモノ等もあるが、秀吉のには松と言う署名がなされていて、かなり達筆で、茶の湯もそうだが、やはり天下人だけあってただの猿で終わっていない。
   どの程度、秀吉の意向かは分からないが、三宝院の豪壮な日本庭園を見ても秀吉の可なり確かな審美眼を感じることが出来る。
   やはり関西人なので、どうしても秀吉ビイキになるのだが、聚楽第や大阪城の遺構などを見ていても、秀吉の残した文化遺産に一つのエポックメイキングな文化の頂点を感じており、そんな目で見ながら秀吉の醍醐の花見を想像していた。

   建物の一室が休憩室になっていて、その部屋からは、この豪華な枝垂桜が一枚の巨大なガラス窓からパノラマのように展望出来、庭園からの風情とはまた違った美しさがあって素晴らしい。
   入り口に、休憩室と書かれた小さなプレートが付いているだけなの奥まった部屋なので、展示場に入った人の大半は知らずに素通りして見ずに出てしまっていた。

   私が、桜鑑賞は関西に限ると思っているのは、東京近辺の桜が殆ど染井吉野で、花は豪華で素晴らしいが、何処も一本調子で面白くないからである。
   上野の森の桜も、千鳥が淵の桜も満開で美しいが、殆ど何処も同じ感じで、殆ど風情が感じられないのである。
   それに、気象庁の桜開花宣言も、染井吉野主体のようだが、桜を十把一絡げにしているようで、誤解を招いているような気がしていてしっくりしない。
   もっとも、阪急沿線の駅頭の桜情報も気象庁に合わせていて、知る人ぞ知る桜情報は、直接、調べる以外に方法はなさそうであるが。

   ところで、京都の桜だが、一挙に咲くことは少ないのだが、桜の種類が多いので、3月のはじめから4月の終わり頃まで、姿や色形の違った桜が何処かで咲き続けていておもしろい。
   京や奈良の里山を歩いていると、人知れず、山桜が咲いて散っていく風情を感じることがあるが、私はそんな桜が好きで、学生の頃、良く春になると田舎を歩いたのだが、そんな所為もあって、桜の下で、宴を張って酒食を楽しむ気持ちはさらさらない。
   三味線程度ならイザ知らず、大音量でカラオケをがなりたてて悦に入っている人々の心境は分からない。
   桜の下で、歌を詠む、秀吉の頃の花見の情景や、浮世絵の花見風景を見ていると、随分、現在の人々の文化度が落ちたものだと思っている。

   しかし、春が来ると、そわそわして、美しい桜花を見たくてあっちこっちを歩いているのだから、桜や紅葉のシーズンには、たまらなく気分が高揚するのは花好きの証拠でもあると言うことである。
   
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私のアメリカ

2007年03月26日 | 政治・経済・社会
   アメリカ史の権威猿谷要先生の岩波新書「アメリカよ、美しく年をとれ」を読んで、久しぶりにアメリカ生活が懐かしくなった。
   私が、アメリカで生活したのは、1972年から1974年の2年間ウォートン・スクールで学んでいた時だが、丁度ニクソン大統領がキシンジャーを派遣して中国に渡りをつけ毛沢東と会い、ヴェトナムからの撤退するなど極めて重要な歴史的エポックメイキングな時期だったが、ウォーターゲート事件で墓穴を掘って退陣を余儀なくせざるを得なかった時期でもあった。

   それに、丁度第一次石油危機の時代でもあり、あの強大な経済大国が、石油不足で翻弄されていた頃でもあったが、フィラデルフィアからニューヨークまで車で行くのに1ドルずつしかガソリンをスタンドでは買えなかったので、長い列のガソリンスタンドを梯子しなければならなかった。
   仕方がないので、列車アムトラックで移動したのだが、経営危機に陥っていた鉄道会社の業績が一挙に回復した。
   丁度この頃、日本ではトイレットペーパーが市場からなくなったと聞いていたが、そんな経験はアメリカではなかった。

   後に、ヨーロッパ生活をした頃には、ロンドンがビックバンに沸き、ベルリンの壁が崩れてソ連が崩壊し冷戦が終結した時期でもあったのと同様に、私にとっては、世界歴史の貴重な節目の経験を外国でしたために、国際情勢についての歴史的な激動と変化を身近に強烈に感じることが出来て幸せであった。

   あの頃、ニューヨークを筆頭に治安が悪かった。
   アメリカの大企業が本社をニューヨークから地方に移していて空洞化していたし、夜に繁華街を自由に歩けなかった。
   私が住んでいたペンシルバニア大学のキャンパスは、少し繁華街から離れていたが、構内の地下鉄駅で女学生が被害にあったり、数ブロック先の銀行にピストル強盗が入って、日中、TVで実況放送をしていることもあった。

   私は、時々ニューヨークやボストンやワシントンには出かけたが、まだ、田舎は平穏で、プリンストン大学など治安が良かったし、それに、郊外に住んでいた友人などの自宅は施錠しなくても大丈夫で、治安については地方差が大きかった。
   余裕はなかったが、休暇を利用して、アメリカの中を移動した。
   友人と、セントルイスまで飛行機で飛んで、そこから車で、メサベルデ国立公園やロッキー山脈を越えて、西部劇で良く出てくるモニュメントバレーや三州合流点を経てグランドキャニオンとラスヴェガスに出た。
   ニューヨークや東部の大都市と違った全く異質な別のアメリカを経験した旅であったが、アメリカの巨大さと底知れぬ実力を垣間見た思いがした。
   友と別れて、私は一人、イエローストーン国立公園に出かけたが、一切の人工的な開発や手をつけることを排除して徹底的に自然を守っていたのにはビックリしてしまった。自然の風景は感動的な美しさであった。

   もう一度アメリカの巨大さを経験したのは、クリスマス休暇に学生達が企画したフロリダ・バス旅行に参加した時であった。
   雪が舞う厳寒のフィラデルフィアを出て数日間旅を続けながらあっちこっちを観光し、フロリダに入ってディズニー・ワールドやフロリダ国立公園を経て最後にマイアミに着くと、人々が浜辺では海水浴をして楽しんでいる。
   一つの国で、南北で冬と夏が同居しているのである。
   フロリダの内海の海岸には、ハリウッド映画で登場するような豪華ヨットが係留された豪邸が延々と続いていた。
   私は、戦前の日本人が、この風景の片鱗でも見て知っておれば、鬼畜英米と言ってバカな戦争などしなかったのにとこの時思った。
   私は、このアメリカの生活を経験してから出来るだけ世界を歩こうと思って随分旅をして来たが、やはり、アメリカでの学生生活の貴重な経験が今でも大きな心の支えになっているような気がしている。


   

   
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ヴェトナム椿ハイドゥン・キング

2007年03月25日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   ベトナム椿ハイドゥン・キングが、優雅な姿を現した。
   蕾をつけて数ヶ月だが、寒いために中々開花しなかった。
   室温5度以上、ベターなのは10度以上と言うのであるから、室内でもまだ寒いくらいだったが、玄関のタイル張りの空間においておいたが幸い枯れずに花を咲かせてくれた。
   日本椿のように花弁が落下するのではなく枝についたままで萎れるのだが、可なり花持ちが良い。
   昨年、温かくなったので急いで陽の明るい庭に出して育てたのだが、虫に新芽を食われて散散であり、その木は今年は花を付けなかった。

   花によっては、日本の気候に合わせて庭植えでも根付く場合があるが、やはり、なまくらな私には、植物の室内管理は難しい。
   アザレヤの場合は、元々日本の皐月だからと思って庭植えをしたらピンクのバラのような美しい花を何年か咲かせて喜ばせてくれたが、結局弱かったのか枯れてしまった。
   年末に手に入れたアザレヤを暖かい日に外に出して取り込むのを忘れたので枯れてしまったが、温室育ちの花ほど自然の寒さには弱い。
   イギリスには、キューガーデンもそうだが、大きなアザレヤの木の茂る一角があって、アザレヤ公園として鮮やかな花で妍を競いあって人々を魅了している。
   もうすぐ、そんな季節になるが、落ち着いた日本庭園に彩を添える皐月や久留米つつじなどの風情と違って、バラを愛するヨーロッパでは、同じサツキ・つつじ族でも扱いの違いが面白い。

   今年は気候が異常だったのか、もう既に殆どの椿が最盛期を終えて落下し始めている。
   一番遅い筈の黒椿ナイトライダーやブラックオパールも咲き始めている。
   ただ、気になるのは、そんなに寒くなかった筈だと思うのだが、何故か、今年は、椿の霜焼けと言うか寒さにやられて椿の葉っぱの緑色が退色して褐色や黄みを帯びてきていて痛々しい。
   勢いよくたけのこ芽の新芽を出し始めた気の早い椿もあるが、つや木と言われる椿だからやはり緑の艶々した葉が命である。

   小鳥達は、椿の蜜を目的に椿の木に群がるのだと思ったら、それだけではなく、花弁や蘂も食べている。
   美しく咲き始めたので翌日写真を撮ろうと思って見ると、無残に花弁が食いちぎられていることが多い。
   今年の崑崙黒の宝珠型の花弁も殆ど突かれて先っぽがなくなってしまっている。
   特に大きなヒヨドリが犯人で、花は落とすは植木鉢をひっくり返すはで、迷惑千万である。
   あの咲き乱れる染井吉野の蕾を食いちぎって落としているのも小鳥達だが、これは食べていると言うよりは戯れにとしか思えない。
   早く咲けば、寒さにやられ、それに、春一番の被害を受けることもあり、小鳥達にも荒らされて、戸外に咲く椿の花で、いたみや欠点のない美しい花を探すのは、結構難しいが、それでも、この季節になると、頻繁に椿の切花を洋式和式取り混ぜて小さな花瓶に挿すのを楽しみにしている。
   たとえ一日で花が落ちても、椿の一番美しい時に、色や形の違った椿を切花として楽しめるのは格別でもある。

   今、庭に咲き誇っている他の椿は、ピンク、赤、白の羽衣椿、アラジシ、花富貴、岩根絞、さつま紅など10種類ほどだが、秋に咲いた花も何故か時々忘れた頃に咲き始める。
   洋椿も何種類か咲いているが、総てカメリア・ジャポニカ、即ち、日本椿が欧米で品種改良されて里帰りした椿である。
   皆、バラのように豪華で華やかで、色も一寸毒々しく派手になっているが、これはやはり欧米人好みなのであろう。
   16世紀の半ば、信長や秀吉の時代に宣教師によって種が移植されて、それが、欧米や大洋州に移植されて品種改良されてきた。
   中国やアジア各地に移植されたのは8世紀頃でずっと古いが、日本のカメリアの世界親善旅行は、遥か以前から異彩を放っている。
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川合玉堂展・・・高島屋日本橋

2007年03月24日 | 展覧会・展示会
   日本の限りなく郷愁を誘う懐かしい風景を凝縮したような素晴らしい川合玉堂の作品を一堂に集めた絵画展が、高島屋日本橋店で開かれている。
   没後50年であるから、玉堂の描いた日本の田舎の風景や風物は、私が子供の頃、即ち、神武景気や岩戸景気と言った高度成長が始まりだした頃には、まだ、日本のあっちこっちに少しは残っていた。
   特に、戦時中の爆撃は都会地に集中していたようなので、日本の田舎はそのまま戦前の状態を維持しており、京都や奈良を歩いても、あの頃は、玉堂が切り取って残した日本の残像は、鮮やかに残っていた。

   玉堂は、京都で円山・四条派の絵画を学んで画家としてスタートして、23歳で東京画壇に転じて、橋本雅邦門下として狩野派を極めたと言うことだが、両派を融合した独特の画風が、人々を魅了するのであろう。
   それに、ヨーロッパの絵画にも興味を持っていたようで、今回展示されていた「雨後」など、雨後の靄に煙る森の中の草地に虹が立っている風景画など、ミレーの絵を髣髴とさせるし、他の風景画を見ていてもターナーや印象派の画家達の印象が垣間見えていて面白い。

   私がビックリするほど美しいと思ったのは、六曲一双の「行く春」と言う小さな作品で、美しい薄いコバルト・ブルーとさみどり基調の渓流を下る屋形舟を描いた絵であった。
   玉堂の絵は殆ど茶色や黄土色など暖色の淡い色彩を基調とした絵が多いような気がするが、この絵だけは、醒めるようなブルーやグリーンのトルコ石やアクアマリンを淡くしたような宝石のように美しい色彩なのである。
   緑に映えたががたる切立った岸壁を背に、波立つ渓流を、三艘の外輪をつけた屋形船が下って行く。前方には、淡い山桜のしだれ枝が渓流に突き出た岩にかかって春の風情を醸し出している。
   「自ら水になって描けば水になる」と言ったとか。深山の渓流を行く舟を描きながら、実に優しくて懐かしい印象を与えるこの絵の魅力は、何重にもイメージを膨らませてくれる。シューマンの『ライン』や、聞えてくる筈のないようなベートーヴェンの『田園』、そして、マーラーの交響曲までが聞えてくるような、そんな素晴らしい絵である。

   金地の襖に梅の古木をあしらった豪快な「紅白梅」などの大作もあったが、私の好きなのは、馬を引いて山道を歩む里人や野良仕事で働く村人などを描いた風景画で、殆ど、斜めに構図を取っていて遠近法を無視したような描き方が実に良く、それに、日本古来の日本画の技法を極めながら、何処か、原田泰治や安野光雅の世界に通じるような感じを出していて好きである。
   それに、2~3点あったが、桜は派手な染井吉野ではなく山桜なのが良い。

   東京国立近代美術館にある秋の風景を描いた「彩雨」と同じ場所を描いた春景色の「渓村春雨」が展示されていた。
   渓流の側に、空中に足場をかけ木で作られた長い水路があり、草の生い茂った草葺屋根の水車小屋の水車に勢いよく水を流しだしている一軒の農家の風景であるが、背後の雑木林や手前の傾斜のきつい田んぼ、山道を歩く村人の風情などを描きながら、実に懐かしい良き頃の日本の田舎を思い出させてくれる。
   秋の絵には、美しい紅葉をバックに野良仕事をする人々を、春の絵には、葉桜になりかけの山桜と番傘を差して歩く人を描いていて、その厳しいが長閑な山村の生活が滲み出ていて懐かしい。

   自分で絵を描いて賛を書く「自画自賛」の絵を玉堂は、仕事の後でほっとした時、憩いのために書いたというが、そんな、プライベートな絵も展示されていたが、とにかく、本当に心を豊かにしてくれる素晴らしい絵が多い。
   もう一度出かけて、少し温かくなったら、京都か奈良の里山を歩いて見たいと思っている。
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オルセー美術館展・・・東京都美術館

2007年03月23日 | 展覧会・展示会
   愈々終わりに近づいてきたので、東京都美術館の「オルセー美術館展~19世紀芸術家たちの楽園」を見に行った。
   印象派の絵画が多い所為もあって会場は大変な熱気で、それに、空間が豊かで自然光が差し込む明るい実際のオルセー美術館の雰囲気とは違った環境で、出開帳の芸術作品にとってはどのような思いであろうか。
   
   オルセー美術館は、1986年開館だから、実際の展示品を最初に観たのは前の印象派美術館で、その後、開館直後から何度か出かけているが、広い会場に膨大な絵画などの芸術品が展示されているので、一日で見切れるわけではなく、ルーブル美術館もそうだが、旅行での見物だと何か目的を持って目標を決めていかないとフラストレーションを起こしてしまう。
   ルーブルに入ると、廊下の向こうに翼を広げて立つ階段上のサモトラケのニケが圧倒的な第一印象を与えるが、このオルセーは、138メートルもある美しいアーチ状の天井の高い元駅舎の広いホールが広がっていて、天球儀を奉げ持つ乙女達の群像彫刻などが置かれた彫刻群が出迎えてくれ、その開放的で明るい空間が目を見張らせる。
   私は、一番最初に、左手のひっそりとした小部屋のミレーの「晩鐘」と「落穂拾い」を目指したのだが、もう、これも20年ほども前になる。
   二月革命の1848年から第一次世界大戦勃発の1914年までの絵画などが、このオルセーに収容されているので、印象派の絵画の名作の大半はここにあり、今回も展示品の目玉は印象派の絵画であった。

   今回、私は、週日の閉館間際の一時間半を鑑賞に当てたが、それでも大変な人出であった。
   しかし、最初の一時間くらいは列に並んで牛歩の歩みだが、その後は客が出口の売店に殺到するので、十分に鑑賞出来たし、美術館や博物館の鑑賞は閉館間際に限ると思っている。
   東京都美術館は会場内が暗くて、絵画に上方から電気の照明が照らしているので、油絵などは反射して見辛いのが難点で、実際のオルセーの明るくて解放的な雰囲気で絵の具の香りまで感じられるのとは大きな違いである。

   作品は、一通り来ていて非常に楽しめるが、やはり、看板作品は来ていなかったし、アラカルト的で不満が残る。
   例えば、マネのルーアン大聖堂でも一点だけしかなかったので、時刻や光の加減で微妙に変化する瞬間の美しさを複数の連作で見せてくれるオルセーとは桁違いだし、それに、ルノアールにしろゴッホにしろ他の印象派の画家にしろ、複数の大作が並んで展示されていると一挙に画家に対する理解や思い入れが増幅されるのだが、それが出来ないもどかしさがある。
   しかし、私の場合、記憶にあった何点かの作品を除いて、あまりにも多すぎて現地では見過ごしていた絵画などを、今回は、一点づつ丹念に鑑賞出来たので、その意味では幸いであった。

   ところで、この口絵の黒ずくめの衣装に身を固めた非常に気品のある婦人を描いたマネの「すみれのブーケをつけたベルト・モリゾ」は、恋人とも言われる弟の妻であるが、強く印象に残っていて、記憶している何点かの一つであるが、やはり、マネの大作で非難を巻き起こした非常に人間的でリアルなヌードを描いた「オランピア」や「草上の昼食」などが来ていないのが寂しい。
   しかし、マネを中心とした印象派の画家達を描いた群像が2点あり、その1点はラトゥールの「バティニョールのアトリエ」と、もう1点はバジールの「バジールのアトリエ」で、、モネ、ルノアール、ゾラなどが描かれていてその当時の雰囲気などが分かって面白い。
   今回は、前述のモリゾやその娘を描いた印象派画家の絵画などが数点あってマネの背景が少し滲み出していて興味深い。

   私が、もう一つ注目して見たのは、象徴派のギュスターヴ・モローの「ガラテア」の美しい絵である。
   ヨーロッパに移り住んでから、新しく興味を持った画家が二人いて、一人はオランダのフェルメールだが、もう一人は、このモローであった。
   最初に見たのは、フランスの何処かで、「サロメ」を描いた小品だったが、細密画のように丁寧にルネッサンスの頃の画家のように描かれた一寸怪奇だが素晴らしい絵で、その色彩の何とも言えない鮮やかな美しさに魅了されたのである。
   このガラテアは、キプロス王ピグマリオンが象牙で作った人形に命を吹き込んだと言う絶世の美女で、荒々しい洞窟の中にモローが描いた裸身のキプロス王妃の輝きは郡を抜いている。
   神話や聖書からインスピレーションを得て描いたモローの幻想的な世界は、一寸狂おしいほどの怪奇性を帯びているが、だから、あれだけの美しい色彩を生み出せるのであろう。
   ついでながら、もう一人、色彩が美しいルドンの絵だが、今回は、残念ながら、小品と無色の板絵だけだったので、その美しさを楽しむことが出来なかった。

   世界の美術館を回っていて、当然、ダヴィンチやラファエルロ、レンブラントの絵画などを目当てにしているのだが、ついでに、フェルメールなどは殆どないのだが、モローやルドンの絵を探す楽しみも持っている。
   上野の森の東京都美術館の1時間半の楽しい散策であった。
   
   

   

   
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アルミンクのワーグナー「ローエングリン」・・・新日本フィル定期

2007年03月22日 | クラシック音楽・オペラ
   冒頭から正にワーグナーサウンド。アルミンクがブラームスなどのドイツ音楽をプログラムに組んで新日本フィルに重厚なドイツ音楽を訓練して来た甲斐があったのであろう、それに、ソリストの素晴らしさとも相まって、とにかく、5時間近い「ローエングリン」のコンサート形式の演奏会は圧倒的な熱狂で終わった。
   小澤征爾やロストロポーヴィッチが振らなくても、新日本フィルは、アルミンクの下でチケットを完売するコンサートを演奏できるようになったのである。
   世界のヒノキ舞台で活躍し、熱狂的な拍手と歓声に慣れ切っている筈の超ベテランでテルラムントを歌ったセルゲイ・レイフェルクスが、カーテンコールの列の端で満面の笑みを湛えて嬉しそうに笑っていたのを見ても、昨夜の演奏会の素晴らしさが分かる。

   ワーグナーのオペラは、どの演出も殆ど動きの少ない静的な舞台が多いので、極端に言えばコンサート形式でも十分だが、飯塚励生の演出した舞台は特筆に価するほど素晴らしく、オーケストラ、ソリスト、合唱団、バレーとの効果的なマッチングがアルミンクの演奏を更に際立たせていた。
   高台にあるオルガンスペースを頂上にして台形の階段をつけてその下にリング状の中二階の舞台を設営して、その下のオーケストラの場所だけを残して総てをステージとして取り込み、一階席の上手側通路を花道にしてローエングリンと白鳥の登場や花嫁の入場行進に使うと言う並みのコンサート・オペラの域を遥かに超えた本格的な演出である。
   舞台には、カーテン代わりにダヴィンチの裸の男性が両手両足を開いて立っている「ウイトルウイウス的人間」の絵や、ニ幕では陰謀の舞台なので黒い布幕、三幕では結婚とハッピーエンド(?)の舞台なので白い布幕などをバックに使い、精霊の降誕などは照明を駆使するなど、私がこれまでに観た多くのワーグナーオペラより凝った演出だと思った。
   合唱団を上手く使って舞台に溶け込ませ、バックの素晴らしいオルガンと呼応して素晴らしい背景を作り出していた。
   ついでながら、栗友会合唱団の素晴らしさは、もう既に、新日本フィルの演奏会では必須の存在になってしまっている。

   私が始めて「ローエングリン」を観たのは、もう40年近くも以前のことで、大阪万博でのドイツ・ベルリン・オペラでの舞台であった。
   チャールズ・クレイグのタイトルロール、スペインの名花ピラール・ローレンガーのエルザで、うろ覚えだが指揮はロリン・マゼール(?)。私は、ローレンガーの清楚で美しい「エルザの夢」とそれに始めてまともに聞いた第三幕の「結婚行進曲」が今でも耳の何処かから聞えてくるような気がしている。
   その後、ロンドンのロイヤル・オペラで、音楽監督のハイティンクの指揮で一度聞いているが、それほど聴くチャンスはなかった。
   あの時は、ハイティンクが、ワーグナーのオペラを殆ど舞台にかけて振っていたので、幸いにもワーグナーを存分に聴く機会があったのだが、どれがどうだったのか、誰が歌ってどんな舞台だったのかも、残念ながら良く覚えていない。
   ギネス・ジョーンズやルネ・コロがまだ最盛期で圧倒的な舞台を展開していた頃のことである。

   ローエングリンのデンマークのテノール・スティー・アナーセンは、欧米で活躍しているワーグナー歌いとのことで、一寸往年のルネ・コロを思わせるような歌唱で、最初は多少不安定だったが、最終の「名乗りの歌」や「別れの歌」など、素晴らしく美しい熱唱で胸が熱くなるくらいであった。
   ドミンゴが、ワーグナーでもこのオペラは、リエンチと共に最もイタリア的なオペラで、ヴェルディのメロディになっている所もあると言うくらい美しいパートが多く、このアナーセンは、ワーグナーの底知れない迫力とリリックな美しさを兼ね備えた貴重なワーグナー歌手なのであろう。

   ドイツのソプラノ・メラニー・ディーナーは、中々チャーミングな歌手で姿形が絵になっており、それに、バイロイトでエルザを歌ったと言うのであるから極め付きのエルザで、とにかく、名だたる指揮者の下でシュトラウスやモーツアルト、ウエーバーなど幅広いオペラを歌っており、今回の舞台では一番観客を魅了した歌手かも知れない。
   私がワーグナーに引き摺り込まれたのは、初めて聴いた大阪フェスティバル・ホールでのビルギット・ニルソンとウイントガッセンの「トリスタンとイゾルデ」の「愛の二重唱」だが、今回の二人の二重唱もワグナー節の魅力全開の歌唱であった。

   ところで、エルザを陥れて王国を乗っ取ろうとする悪役のテルラムント伯爵のセルゲイ・レイフェルクスだが、何度も見ており久しぶりの舞台である。思い出すのは、同じ悪役で、プラシド・ドミンゴのオテロを徹底的に貶めて窮地に追い込んだヤーゴ役のロイヤル・オペラの舞台であるが、それが蘇ったような素晴らしいレイフェルクスを観た。
   今回は、妻のオルトルートに唆されての悪巧みだが、あの個性的な顔とパンチの効いたバリトンが正にテルラムントにぴったりで、オルトルートのアレクサンドラ・ピーターザマーとの相性が実に素晴らしい。

   そのドイツのメゾ・ソプラノのピーターザマーだが、二幕の冒頭オーケストラが始まると、舞台のただ一点だけ微かに光の当たるところに、彼女の彫りの深い横顔がレンブラントの絵のように浮かび上がり、腹にとぐろを巻く悪の咆哮を予感させる姿からして印象的で、とにかく、夫を誑し込んで復讐を誓わせ、エルザ姫に取り入って騙して踏み躙る魔女の魅力は抜群で、それに実に迫力のある歌唱が圧倒的である。
  
   ビックリするくらい声量豊かで凄いと思ったのは、ハインリッヒ王を歌ったポーランドのバス・トマシュ・コニェチュニで、是非彼のウォータンを聴きたいと思って聴いていた。
   それに、素晴らしいバリトンを聞かせてくれたのは、日本人歌手・石野繁生の王の伝令で、既に、このNJPで「ドイツ・レクイエム」で聴いているのだが、朗々と舞台を圧倒する美声は流石である。

   何れにしろ、これだけのワーグナーの世界を現出したのは、指揮者クリスティアン・アルミンクの力量で、彼の紡ぎだすコンサート・オペラもこれで4回目で、来シーズンは、シュトラウスの「こうもり」だと言うが、正に、ウィーンっ子の面目躍如の舞台となるであろう。
   カラヤンも若い頃、NHK交響楽団の指揮に来日していたが、アルミンクのように定期の半分も振る有能な若手外人指揮者も少ない。
   来期シーズン、小澤征爾のステージが定期演奏会から消えるので、止めようかと思ったが、アルミンクを聴ける間は続けようと思って、定期の予約を継続した。

   
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PASMO大丈夫か

2007年03月21日 | 生活随想・趣味
   3月18日から、JRと同じ様に東京の私鉄も地下鉄もPASMOと称する電子カード一枚で出札が出来るようになった。
   私の場合は、ビックカメラのSUICAを使っているのだが、確かに便利ではあるが、計算が合っているのかどうか信用が出来ない所が問題である。
   何故かと言うと、これまでにパスネットを使用して電車に乗っていたが、出札や精算の機械でミスを何度か経験しているからである。
   特に、東京都心では、私鉄やメトロ、それに都営地下鉄が入り組んでいて、何通りかルートがある場合には問題が起こるし、それに、機械そのものの故障が結構多い。

   先日のケースは、パスネットで新御茶ノ水から乗って、押上経由で京成電鉄本線の某駅で下車したのであるが、パスネットの金額が不足していたので、精算機で精算したら、押上からの料金より100円多く払う様に機械の指示が出て精算した。
   しか、これまで少額なので気にせず出ていたが、この駅では何度も同じ様な間違った経験をしているので、この時は、少しクレイムしようと思って駅員に掛け合った。
   まず、頭にきたのは、機械が間違う筈がないと言う態度の応対であった事と、駅員が、自分達の路線は分かっているが、メトロのルートや駅名について殆ど無知なので、何処で乗り換えてどのルートを取ったのかさえ理解出来なかったのである。
   要は、新御茶ノ水から地下鉄にのって改札を出ずに押上で下車すれば、どのルートを取っても押上で出札を通っているのでメトロ分は精算されており、また新たに押上で京成の改札を入って京成の某駅で下車しているのであるから、そこまでの京成の運賃を精算すれば良いのである。
   ところが全く頓珍漢で、ルートを調べなければならないと言って、メトロの路線地図を引っ張り出して見るのだが、乗り入れている都営浅草線は分かるが、その先の京浜急行やメトロの路線については殆ど知識がなくて分からない。

   あんまりバカらしくなったので、中に入って話したが、まだルートルートと言っている。機械が誤作動していただけなのである。
   どうせ時間の浪費をしているので、ついでにと思って、数日前に精算間違いだと思っていたことを正すことにした。
   これもパスネットの残高が不足していて、二枚パスネットを入れたのだが、機械に弾き飛ばされて駅員のいる窓口で精算した。
   しかし、この時も、何時も利用している路線なので運賃くらいは良く知っているのだが、駅員の見た京成の計算表の料金と違っていた。
   その時の表を出させて見るとやはり違ったままであった。
   畳半畳程の方眼紙に書き込まれたダイアグラムのような表を見せて、これで計算しているから間違いないと言う。
   この時は、押上から某駅の京成運賃と永田町から押上までのメトロの運賃を足せば良いだけなのだが、問題はメトロ運賃が間違っていた。
   永田町から押上まで半蔵門線一本で230円なのだが、この京成電鉄の計算では、メトロと都営浅草線との乗り継ぎ計算になっていて290円(190+170-70)なのである。メトロ一本で行けるのに誰が乗換えなどするのか、馬鹿馬鹿しいにも程があるが、昔は、浅草経由でこの290円であった。
   半蔵門が押上まで開通したのはもう何年も前の話なのに、この体たらくで、厚顔にも、機械で駄目な時は窓口で精算してくれると良いと臆面もなく言う。

   翌日、ヤフーの『路線』で運賃計算した表をコピーして持って行ってやったら、本社とコンタクトして調べています、何故間違ったのか機械の業者を呼んで調べさせますと言っていた。本社も本社だがこんな駅員が多い。
   いくら、お払いしましょうかと言ったので、また伝票を直すなどバカらしいことをする必要があり間違うだろうから、そんなことは良いから、とにかく、まともな仕事をしてくれと言って事務室を出た。

   余談だが、別の日、地下鉄の中目黒で、東急東横線に乗り換えようとして、横を通った都営地下鉄の車両の車掌と運転手に東急の電車の乗り継ぎを聞いたら手帳を出して調べ始めたが、全く知らなくてラチが明かなかった。
   言いたいことは、昨今の交通機関、特に私鉄のサービスの悪さと質の低下である。多数の会社の電車が直接乗り入れているのであるから、他社の駅名やルートぐらい覚えたらと思うのであるのだが。悪すぎたJRが良くなって来ているので目立つのである。
   カスタマーサティスファクションの気持ちなど更々ない。
   先日のブログで、年がら年中ウグイスの鳴き声を駅頭に流し続けている京成八幡駅のバカさ加減と京成上野駅の公衆便所の劣悪さを書いたが、気にする方がおかしいのであろうか。
   
   
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イノベーションを推進するMOT(1)

2007年03月20日 | イノベーションと経営
   経済産業省が、二日間にわたって、「イノベーションを推進する人材育成・研究の進展に向けて」をテーマに技術経営シンポジウムを開催した。
   MOT(Manegement of Technology)を目的に、産学連携による新たな人材育成に向けて経済産業省が立ち上げたプロジェクトで、最近、日本の大学に相次いで設立されているMOTディグリープログラムを後押ししており、産業立国ジャパン再生に向かってのすごい意気込みが感じられた。
   広い会場は、企業や役所、大学関係者が詰めかけて熱心に耳を傾けていた。
   都合で第一日目しか聞けず、二日目のイノベーションの第一人者MITのリチャード・レスター教授の講演をミスったのが残念であったが、二日目は人材育成が主であった所為もあり、初日だけでも日本の技術経営に関する周辺事情はかなり把握できたと思っている。

   経産省の説によると、技術経営MOTとは、「技術に立脚する事業を行う企業・組織が、持続的発展のために、技術が持つ可能性を見極めて事業に結びつけ、経済的価値を創出していくマネジメント」と言うことで、イノベーションを支える人材の育成に国運をかけようということである。

   ついでながら、わが母校ウォートン・スクールのEMTM(Executive Master's Technology Manegement)プログラムでは、Technology + Business >> A Powerful Compaund と言うことで、学生は、ペンシルバニア大学工学大学院とビジネス・スクールであるウォートンのユニークで強力な連携から恩恵を受け、教授陣や産業界のエキスパートたちから、科学と技術が超スピードで変化している今日においてどのようにしてイノベーションをマネッジすれば良いのか、先駆的なリサーチと現実への洞察を授けられるとして、大学の創立者ベンジャミン・フランクリンの高邁な科学と哲学の伝統の継承を唱えている。
   技術とビジネスの世界で、両者のインターフェイスでベストミックスの事業を推進して行けるようなビジネスリーダーを育成すと言うことであろう。

   ところで、カリフォルニア大学のバークレィ校のMOTプログラムでは、MOTは、市場にハイテク製品を提供することに関する一連のアクティビティであると定義するとして、決してローテクではないと強調している。
   伝統的な手法とは全く違った技術経営であって、MOTは、新商品の開発と商業化に関するオペレーションや組織問題に集中するとしていて、ニュアンスがぐっと変わってくる。
   いずれにしても、両校のMOTプログラムは、1980年半ばの創設で、日本とはキャリアが違うが、会場にあった各大学のMOTプログラムのパンフレットを見ていて、ここ数年で雨後の筍のように創設された各大学の日本型ビジネス・スクールの貧弱さを思い出して、趣旨は良いのだがこのままでは先が思いやられる感じがしている。

   講演者や報告者達が口々に言っていたのは、ビジネススクール・トラウマと言った表現で、あたかもビジネススクールが間違っていて、MOT教育を推進すれば日本の経済と経営が一挙に良くなるような発言をしていたが、認識不足と言うべきであろう。
   ヘンリー・ミンツバーグ教授が、「MBAが会社を滅ぼす 実際の原題はMANEGERS NOT MBAs」を書いてMBAプログラムを語ったが、彼が批判したのは実際の実業や経営の経験のない学生に教えているビジネススクールの教育システムであって、マネジメントスクールのマネジメント教育の必要性は十二分に認めており、ビジネススクールの改革の必要性を説いているのである。
   
   また、今回のMOT教育については、アメリカの場合でも、名だたるビジネススクールに併設されているケースが多く、ビジネススクールにエンジニアリングスクール、インフォメーションスクール(IT関連)等の専門大学院を糾合した学際的な教育プログラムとなっており、根幹はマネジメント教育なのである。
   学際教育は欧米では普通で、必要に応じて学際に対応出来ない日本の教育の大きな欠陥がここにあると言えよう。
   
   私は、日本の場合は、将来のビジネスリーダーを目指して若年の企業スタッフにMOT教育の機会を与えることは良いことだと思うが、むしろ、経営者なり上級管理職に、ダブルメイジャーないしΠ型教育を施す方が大切だと思っている。
   理工系の出身者にはMBA教育を、文科系の出身者には技術ないしMOT教育を付加することである。
   アメリカの場合、各分野で活躍しているトップで専攻が理工系や医学、法学など異分野であってもMBAの学位を持っている人が結構多いし、ヨーロッパでは、ポリテクを筆頭に理工系の高等教育機関ではマネジメント学を教えているし、ダブルメイジャー的な逸材が多い。
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日本の食をデザインで改革する?

2007年03月19日 | 政治・経済・社会
   食のデザインとは一体何なのか、興味を感じて聴講したのが、日経産業新聞フォーラム2007の「日本の食をデザインで改革する」である。
   落合惠子さんの特別講演「生きることと食べること・・・いま団欒の意味」では、子供の本の「クレヨンハウス」の他に、オーガニック食品に入れ込んで「八百屋のオバサン」をやっていると言う話を、実母の介護を通じて開発した「やわらか食」の苦心を交えながら語り、生きることと食べることは同じことだと食の重要性について含蓄のある話をした。

   基調講演では、食に関するデザインのプロ中川聰氏が「ユニバーサルデザインで描く『食』デザインの未来~使い手の洞察が生み出すデザインイノベーション」と言う演題で、老人や五感の不自由な人達の性格を観察しながら、違和感を感じる力が素晴らしい食器や食べる為の道具や器具を産むのだと言いながら、食を巡るユニーバーサルデザインについて語った。

   次のパネル討論「食のデザインについて企業が果たすべき役割と課題」に入って、初めて、このフォーラムで言っているユニバーサルデザインとは一体何であるのか分かった。
   中川氏は一般的な視点でユニバーサルデザインを語っていたが、パネルでは、日本介護食品協議会が指定している「ユニバーサルデザインフードUDF」、すなわち、「加齢とともに噛む力や飲み込む力が弱まった高齢者や、歯の治療などで食事が不自由になった一般の人々にも食べやすいような介護食品」のことを言っているのである。
   赤堀博美さんなどは、不二家と共同で開発した介護食料理などを紹介していたし、日本介護食品協議会の藤崎享氏は詳細に食品区分など詳しくUDFについて語っていた。
   内閣府の深井宏氏は、食育について一般的な国の食行政について説明していた。

   面白かったのは、坂井信之助教授が、行動科学的な視点から食を語ったことで、人間はエモーショナルな面から食を捉えているという話であった。
   フランスで、白ワインの後に、その同じ白ワインにアントシアニンで色付けした赤いワインを出したら、セミプロの人でも殆ど同じワインだと言うことが分からず、プロのソムリエでも30%は見分けがつかなかったと言う。
   ブドウの絵を見せてりんごや桃のジュースを飲ませても一寸おかしいと思う程度で、まして、TVのコマーシャルでビールを見せて他の会社のビールを飲ませてもアジや美味さ加減など完全に影響されてしまう。商品会社が、美味しい食品を作ろうとするのは無駄であるかもしれない、それほどCMイメージに影響されているのである。
   食べ物の見た目が、味に与える影響は絶大で、だから、あれだけ食品会社がテレビのコマーシャルに大金を叩いてこれでもかこれでもかと、消費者を攻め込むのである。

   年を取ると味が分かりにくくなると言う。
   まず、嗅覚の機能が低下すると味を感じなくなり、次に味覚の機能が低下して味がおかしく感じるようになる。
   義歯や咬合機能の低下などに伴うテクスチュアー感受能力の低下や満腹感ー空腹感を感じにくくなるなど生理機能の低下などで益々味が分からなくなる。 
   しかし、商品添加物などにより一部回復は可能だと言うのが面白い。

   孤食や個食の寂しさについて語りながら、「好きなものを自由に、楽しく食べることが食のQOLを上げるのだ」と坂井先生は話を締め括った。
   しかし、好きなものを自由にと言っても、結局、色々なメディアを通じて煽られコマーシャリズムの商業主義に翻弄されながら、食生活を送っているような気がして仕方がない。
   
   
   
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松下ウェイ(2)・・・松下幸之助経営の呪縛

2007年03月17日 | イノベーションと経営
   松下の再生を果たした中村改革は、見方によっては、松下幸之助が軌道を敷いた幸之助経営学と経営路線を否定し根本的に変えてしまったと思われるかも知れない。
   しかし、中村革命は、幸之助路線の継承であり、幸之助経営学の実践であると言う。
   幸之助は膨大な量の経営哲学に関する文献を残して逝ったが、ビジネス上の処方箋だけが信奉されて、幸之助の信条に言及することなく経営哲学を正しく解釈されてこなかったと言うのである。
   現実には、継承云々の前に、20世紀末には、創業者・松下幸之助が築いたシステムは破綻しており、松下そのものが経営危機に直面して幸之助経営の継承は不可能となっていた。

   中村会長は、松下危機を回避し再生するに際して、幸之助の「正しい経営理念を持つと同時に、それに基づく具体的な方針・方策はその時に相応しい日に新たなものでなくてはならない」と言う言葉に勇気付けられた。
   現実に経営を取り巻いている経済社会を真正面から見据えて、幸之助が生涯を通じて追求した哲学・行動を読み解き、幸之助なら決断から逃げなかった筈で、実際、ほぼ似たような決断を下したであろうと言う決断を下して改革を進めたという。

   幸之助は何度も組織再編を行ったが、経営原則の第一は、利用可能なあらゆる手段を駆使して会社の総ての要素を顧客に近づける構造を構築すること、これが最も大きな市場シェアと利益をもたらすのだと言うもので、顧客直結型の流通改革であった。
   デジタル革命への対応、IT活用についても、幸之助なら顧客との距離を縮める為には万難を排して、インターネットを使い、高いサービスレベルを備えた巨大な販売網を作り上げるであろう。
   幸之助の改革の多くは運転資本の危機が生じた時であり、幸之助の最優先課題は、現金化のスピードアップであり在庫の圧縮及び回転率のアップであった筈である。ならば、最新の情報システムを駆使して在庫を最小限に抑えてキャッシュフローを最適化して、レスポンスタイムを短縮するのは当然のことであろう。

   更に、企業の価値創出力を活性化する為には、幸之助の真の意図を理解して、時代遅れになっていた幸之助の敷いた事業部制を廃止し、独立の多数の企業を完全子会社化してドメインカンパニー制に切り替えざるを得なかった。
   中村改革の幸之助経営哲学の継承は、その精神と信条に立ち返ることであって、現在のグローバル化されたデジタル・IT革命により急速に変革を遂げている経済社会へのその応用であり、蘇生なのである。

   フランシス・マキナニーも『松下ウェイ』の中で、幸之助経営学の根幹にあるのは、競合他社より顧客との距離を最短に保つことだと何度も強調しており、インターネット等によって情報コストが限りなく低下した今日においては、組織のフラット化を推進して、社内及び社外のコミュニケーション経路を短縮する以外に勝つ続ける道はないとしている。

   1990年代前半までは、松下も、良い商品を安く、殆どの地域の市場に、出来るだけ多種多様な製品を可能な限り大量に注ぎ込むだけで、特に、ブランドやイメージ、顧客経験、市場へのインパクトなど調整する必要もなかった。
   企業固有の優位など殆どなく、多かれ少なかれ競合製品と良く似たコモディティ化した商品で、低価格を武器に競争する以外の選択枝しかなく、利益がドンドン圧迫されて行って、結局デフレ不況の波をもろに受けると経営危機の瀬戸際まで追い込まれざるを得なくなったのである。

   要は、かっての経済社会環境では松下幸之助が築き上げたシステムと会社体制で十分に機能していたのであるが、松下が古い残滓を背負ったまま事業を行っていた間に、世界は急速にIT革命の進行に伴うデジタル化とグローバル化の進行によって様変わりを遂げてしまって、完全に時代の波に乗れずに取り残されてしまった。
   これが中村会長の危機意識を刺激した。歴代の経営者たちは、不世出のイノベーターであり経営者であった松下幸之助の卓越した経営哲学と信条をアップツーデイトにリッシャフル出来ずに惰眠を貪り続けてきたということであろうか。
   
   日本には、昔から初代や創業者達が「家訓」などを残しており、子孫末代まで、重要な精神的ないし企業経営の規範として守られているケースが多いが、特に、松下幸之助の場合は突出しており、その日本経営学に残した足跡は群を抜いている。
   しかし、その哲学はいくら優れていても、会社の経営である以上、その時代の経営を取り巻く政治経済社会環境などに色濃く影響されており、その残滓を引き摺っているので、時代の流れや変化に耐え得るものとそうでないものが混在している。
   今度の中村改革に対する中村会長の幸之助経営哲学に対する真摯な対応と幸之助の残した松下のDNAの再生復活については、流石であり、トヨタやキヤノンの場合と同じ様に、エポックメイキングな日本経営の復活の一つのモデルケースだと思っている。
   ダイナスティの継承については、いくら創業者の経営が革新的で卓越していても陳腐化と時代の流れとのギャップは必然的に起こることであり、何をどういう形で後世に繋いでいくのか、それが極めて難しい問題なのである。
   「ダイナスティ」の著者D.S.ランデス氏ならどう言うであろうか聞いてみたい所でもある。
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AARP(全米退職者協会)ビル・ノベリCEOが語る

2007年03月16日 | 政治・経済・社会
   日経のシニア・ライフ・シンポジウムの竹中平蔵教授の後に、AARPのビル・ノベリ最高経営責任者が、大林尚日経論説委員との対談で、全米退職者協会の活動やベビーブーマーたちの動向などについて語った。
   50歳以上3600万人の会員を擁する世界最大のシニアNPOなのだが、会員にとって最もベネフィットとなっているのは、ノベリ氏も言っていたしホームページを開いても最初にクリックすべき位置にあるのが「Menber Discountd and Services」であるから、多くの商品やサービスに対する会員への割引販売や特典であるのが面白い。

   機関紙には、老人の生活を豊かにするための記事や公告が満載されているようだが、何処となく生活共同組合的なニュアンスがある。
   しかし、3600万人と言う国民の2割に近いメンバーを擁する団体であるから、シニア市場には抜群の影響力を持っており、政治的にも極めて強力な圧力団体であることには間違いない。
   話は全く違うが、エレクトリック・コンシューマー商品のメーカーの競争相手は同業の精密電気機器メーカーではなく、ヤマダ電機だと言われているが、正にこの世界と同じ現象である。

   1958年に退職した女性教員が、退職後に十分な年金もなく医療保険もない状態で多くの退職者が困っていることを実感して、高齢者の生活安定の為の戦いの場として創設された団体で、その後全米に組織を拡大して、老人差別撤廃や高齢者の生活の質の向上の為に活動を続けている。
   また、政府の高齢者政策に多大な影響を与え国連での国際高齢者会議での中心的な活躍をするなど発言権を増す一方、高齢者に対しても、自律と社会への貢献を呼びかけるなど多才な活動を行っている。

   アメリカの場合は、GMやフォードの経営を大きく圧迫している要因は企業年金や従業員健康保険関連の支出だと言われているが、逆に言えば、企業で働いている人々には手厚い厚生福利の恩恵が与えられているが、失業したり退職したりすると、生活が大変だと言うことなのであろう。

   日本では、国民健康保険制度が完備していて、所得や年齢、或いは、場所に関係なく国民は等しく上質な医療サービスを受けることが出来る。
   しかし、アメリカでは、公的な健康保険制度は、高齢者保険であるメディケアと低所得者保険のメディエイドの2種類しかなく、その他は一切民間の健康保険で、企業の健康保険制度から排除された低所得者は、殆ど健康保険に加入していないので、一度病気に罹ると死と直面せざるを得なくなる。
   クリントン政権時代国民健康保険制度を導入しようと言う動きがあったが、叩き潰されて日の目を見ていない。
   AARPが、老人健康保険や年金等についても活発に行動を起こしているようであるが、目的が老人退職者の地位向上、保護と言ったことなので、格差拡大による弱者保護と言う方向とは一寸違うのかも知れない。

   ところで、このシンポジウムは、日経とAARPとの共催だったが、後半のパネル「2007年問題とリタイアメント新創造」は、どうも生活臭が強そうだったので端折って帰ってしまった。
   AARPのノベリ氏は、何人かの役員を伴って来日していたが、日本にも「日本退職者協会」創立の動きがあるのであろうか。
   とにかく、職縁社会も薄れつつあり、団体や協会には比較的無頓着な日本人であるから、アメリカのような運動になるとは思えないが、団塊世代のリタイアメントが引き金になって、老人、退職者、などと言ったジャンル分けでかたまるのは、企業のセグメンテーション戦略ならイザ知らず、あまり好ましいようには思えない。

   大量生産・大量消費の工業社会の旗手として画一教育に訓練されて近代日本の成長発展をを支え続けてきた団塊の世代だが、竹中先生の説によると一番塊として見られるのを嫌がる世代だとか。
   個性豊かな八方破れの新生活文化を創造するような新しいライフスタイルを生み出して、イノベーションの起爆剤となるかも知れないのである。
   チャップリンが言ったと言う「夢と勇気とSOME MONEY」、新しい予感を感じて大きな世代が動き出したのである。
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英国の企業買収委員会の自主規制・・・早大COEセミナー

2007年03月15日 | 政治・経済・社会
   早大法学部で、上村達男教授が拠点リーダーの企業法制と法創造総合研究所が、英国テークオーバーパネル(企業買収委員会)の副総裁ノエル・P・ヒントン氏を招いて2日間に渡って「成熟市民社会英国の企業買収ルールを徹底的に学ぶ」セミナーを開いた。
   サイマルの同時通訳の入った本格的なセミナーで、殆どの聴衆は専門家や学者達で、場違いな感じがしたが、日興コーディアルの買収劇や迫ってきた三角合併の関連でも重要なカレント・トピックスでもあり、英国のビジネスに携わっていた関係もあって、非常に興味を感じて聴講したが、分からないながらも色々と啓発されることが多かった。

   この買収委員会は、1986年に設立された完全な独立機関で、主目的は、企業買収と合併に関するCity Codeを制定しその管理運営を行うことで、企業買収ビッドに対して株主を擁護するために、このCodeに従って買収を監視監督し従わせることである。
   委員会は、政府とは関係ない機関だが、ECの企業買収に関するDirectiveに基づく監視機関としても機能している。
   委員会のメンバーは、民間の金融や産業界の代表から選出されているが、これとは別に常設の執行事務局があり、ビッドの前段階から終結まで、Codeに従って事前のコンサルテーションを行ったり、解釈や運用をアドバイスしたり、実際のビッドの状況を監視監督している。
   総裁は、モルガンスタンレイのワーラム氏だが、今回No2のヒントン氏が来日して、長い経験から詳細に渡って解説し、日本の法学者達の質問に答えていた。

   ヒントン氏の説明では、委員会は、コンサルテーションが非常に上手く機能しており、対応の柔軟性やスピード、そして、何時如何なる場合でもアベイラブルであることが特色であり、ビッドについてはどちらが勝つかには一切関係なくCodeに従ってフェアであることを貫き通していると言う。
   
   この委員会は、法令規制機関ではなく完全に自主規制の任意団体なので、当局に相談することなく自由に規則の変更が出来る。
   そして、この規制には強制力がないし、従いたいものだけが従がえばよいのだが、英国の企業が文句なく従ってきたし重要な機関として存続してきたのは、株主を平等に、非常にフェアに扱ってきたからであろう。
   日本では、買収を嫌う経営者がアメリカ法の例に倣って「ポイズン・ピル」の導入に血眼になっているが、委員会が、安易に新株を発行して稀釈化するのを防いできた為に、イギリスでは、ポイズン・ピルを導入している会社は皆無だと言う。
   とにかく、日本では極めて不真面目なTOB仕掛け人が出てきて株価を吊り上げて、ごっそり株式売却利益だけを持ち逃げするケースがあるが、イギリスの場合は、TOBを仕掛ける企業は徹頭徹尾真面目でなければならないのだと言う。

   日本のように、何でも法律で決めて、絶えず法律を改定している国では、イギリスのように民間の団体の自主規制で経済社会が成り立っているケースなど理解し難いが、上村教授の説では、これが成熟した市民社会の成熟たる由縁だと言うことである。
   慣習法の国イギリスでは、法律などおいそれと変わらないし、憲法などまだ13世紀のマグナ・カルタを引き摺っている。
   長い苦難の年月をかけて試行錯誤の末に築き上げられたイギリスの民主主義には筋金が入っており、総選挙でも戸別訪問が許されているが殆ど違法行為がなく選挙資金は極めて少ない、そんな成熟した社会でもある。

   会場から、自主規制で上手く行く理由など問題点の質問が出たが、植村教授は、国によってルールのあり方が違うのであって、自主規制であっても現実に規範として機能しておれば、それが立派な法律であって、時には法律よりも上の場合があると説いていた。
   GENTLEMAN、BEST PRACTICE、REPUTATION,と言った規範が機能しておれば、それを犯すとその世の中で生きて行けないと言ったケースなど、法以上の規範となっている、と言うことであろう。
   昔、韓国の友人から、両班(ヤンバン)と言う、徹頭徹尾立派な振る舞いを期待されている特権階級があるのだと聞いたが、これなども極めて重要な社会規範であるし、ヨーロッパ貴族のノブレス・オブリージェなども同じ道徳規範である。

   先日、このブログで、法律以外の法として機能しているソフト・ローについての東大法学部のセミナーについて触れたが、この面からも日本の法化社会のあり方を掘り下げて考えてみるのも大切なことであろう。
   日本には、紳士協定などと言う一種のソフト・ローがあって機能していたが、最近では、企業経営者の企業倫理なりモラルが低下して企業不祥事が跡を絶たない。
   酷くなれば成る程、アメリカのように徹底的に法で締め上げる以外にないのかもしれないが、やはり、自主規制なり、モラルや社会的な規範で動く社会の方が望ましいことには間違いない。
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団塊世代を激励・・・竹中平蔵慶大教授

2007年03月14日 | 政治・経済・社会
   最早失言はない!
   と言って登壇した普通の人になった竹中平蔵元大臣が、日経のシニア・ライフ・シンポジウムで、「団塊2007年の幕開けと日本経済の影響」と言う講演を行った。
   小泉内閣での竹中経済の総括を行い、新しいライフ・スタイルが起こると経済が大きく飛躍すると言う経済循環論を展開し、団塊の世代の退職で大きく経済が飛躍すると言う予感を語った。

   シュンペーター流の創造破壊的な景気循環論の上昇局面の説明が面白かったので、触れて見たい。
   新しいライフ・スタイルが起こると、同時にイノベーションを伴って、経済が飛躍的に大変動を起こすと言うのである。
   創造的破壊のスターターが何であるかと言うことが話のポイントだが、新しいライフ・スタイルがイノベーションを刺激して創造的破壊を起こして経済の上昇局面を始動すると言う見解が興味深いのである。

   1920年代の日本経済は、その典型だと言う。
   1923年に関東大震災が起こって、都心の密集地での生活は危険であると言う風潮が高まり、人々の郊外への移動が始まった。
   即ち、郊外生活型のライフスタイルが起こって、郊外電車が始動し始め、郊外に高級住宅地が建設された。
   この波に乗ったのが小林一三の阪急電車であり、東京では東急であった。
   郊外から梅田に人が集積するのを見て、小林は、世界初のターミナル百貨店を建設した。
   この時、同時に、東京の地下鉄網や国鉄山手線が敷設されて都心の交通網も整備された。
   また、産業界では、電気で走る電車を見て電気の時代を予感した幸之助が松下を設立し、東芝や日立も産声を上げて、その頃開始したNHKの放送に合わせて、ラジオを売りまくった。
  
   コンドラチェフの50年サイクルの経済の大飛躍の歴史についても語った。
   1860年のパックス・ブリタニカ。旅行が流行しその頃ルイヴィトンが生まれた。そう言うと、イギリスのトマス・クックが動き始めたのもこの頃である。
   1910年、世界第一次世界大戦、アメリカのGNPがヨーロッパを凌駕した。タイタニック号が建造されたのもこの頃である。
   1960年、ジャンボジエット機就航、世界旅行の大衆化。
   愈々、黄金の2010年である。

   団塊の世代の退職に伴う2007年問題の幕開けだが、前年度と比べて退職金だけでも2~3兆円増加し、銀行がその囲い込みに奔走していると言う。
   2007年以降の団塊世代の動向が、新しいライフスタイルを生み出し、経済に大変動を起こす可能性がある。
   アンケートによると、団塊の世代のもっともやりたいことの筆頭は「旅行」であり、旅行業をはじめ交流を生み出す産業が有望視されると言う。
   日経の「マネー」に掲載されているハートフォード生命保険の調査で、定年後に最初にやりたいことの調査でも、男性の第一位は「国内・海外旅行・・・世界遺産めぐりetc.」で、女性の第一位は「海外のロングステイ、海外長期旅行」となっている。
   余談だが、海外旅行、それも、凝った特別な目的を持った趣味旅行は、体力と知力のある若いうちに限るので、団塊の世代の方も急がれた方が良い。欧米にいて、旅の楽しみなどなんのその、ぐったりして動けなくなった老人観光客を沢山見ている。
   小泉内閣の将来の定住人口減を補う為に交流人口を増やす文化観光戦略が有効だということであろうか。

   竹中教授は教養についても語った。
   これまでは、ビジネスに勝つための知、人と戦うための武器としての知を追求して来たが、これからは、人と人とを結びつける知の追及、新しい形の教養を求めることが大切であると言うのである。
   2030年を展望したBIG PICTUREでも、可処分時間の12%増加が見込まれていて、人々の「自分に投資して人生を楽しむ」傾向が強くなると、高等教育に目が向いて行く。
   現在日本人の大学院進学率は0.2%だが、アメリカ並みの0.8%と4倍になると見ている。
   竹中教授は、重要かつ将来有望な産業として、前日の観光と教育に加えて健康の大切さを強調していた。
   問題は、政府の締め付けと規制が強すぎることだと言う。
   
   
   
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