熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

わが庭・・・秋色深まる

2021年09月29日 | わが庭の歳時記
   暑い暑いと思っていたのが、いつの間にか、急に涼しくなってきた。
   関西の秋はゆっくりと訪れるのだが、関東の秋は急にやって来て、その秋も短く一気に冬になるような気がしている。
   子供の頃の9月下旬の暑い運動会の記憶が鮮明だし、学生時代を通じて、京都や奈良の秋を満喫しながら歴史散歩に明け暮れていたので、一層そう思うのかも知れない。

   さて、わが庭だが、何時も熟する前に、リスにやられる柿の実が、今年は不思議にも残っていて、木で完熟するような気配である。
   キウイの実も、いつものように食い荒らされて地面一面に散らばるようなこともなく、今年は、何故か、庭木を駆け回るリスの姿も見かけない。
   鎌倉山には、今秋は、十分にエサがあるのであろう。
   
   
   

   色付いた柿の葉を観賞したくて植えた錦繍は、何故か、今年は、殆ど葉を散らして裸になってしまっている。
   その代わり、その横に受粉柿として植えた正月の木に葉が残っていて、色づき始めている。
   昔、斑鳩の里を歩いていて、美しく紅葉した柿の木を見て、その風情のある美しい秋色豊かな柿の葉に憧れて、錦繍を植えているのだが、もう少し大きくなれば楽しめるであろうと期待をしている。
   
   
   
   
   

   秋色を演出するのは、開き始めたバラ。
   そして、サルビア。
   膨らみ始めた椿の蕾にテントウムシ。
   台風が近づいてきているが、その台風が通過すれば、 
   台風一過、澄み切った秋晴れとなろう。
   
   
   
   
   
   
   
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木版画:喜多川歌麿 風流七小町 花のいろは

2021年09月28日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
    手摺浮世絵木版画の「喜多川歌麿 風流七小町 花のいろは」を手にした

    花の色は うつりにけりな いたづらに わが身 世にふる ながめせしまに  
                              小野小町
       「古今和歌集」(巻二)春下・113、(百人一首・9番)

    醍醐寺のすぐ近く、京都市山科区小野にある随心院が、小野小町ゆかりの寺として知られていて、随分以前に訪れたことがある。
    小野小町と百夜通いの深草少将の恋物語を思うのに格好の位置関係で興味深かったし、小町の晩年の姿とされる卒塔婆小町像や小野小町がこの井戸の水を使い化粧をしていたと云う化粧井戸などは微かに覚えている。

   大学1回生の時に、宇治に下宿をしていて、東一条の本校から自転車で帰る途中、中書島あたりで道を間違えて、綺麗な五重塔を眼前にしたのが醍醐寺への出逢いで、その後、何度も訪れていて、山科から、この随心院や醍醐寺、日野の法界寺の阿弥陀仏などを鑑賞しながら、宇治に向かって、鄙びた田舎道を歩くのが好きであった。もう、半世紀以上も前の話であるから、京都や奈良のイナカには、日本の懐かしいフルサトの風景が残っていた。
   歌には興味がそれ程なかったし、能に通い始めたのはずっと後のことだし、絶世の美女というほかは小町のことをよく知らなかったので、あまり、小町についての感慨はないのだが、今となっては、一寸、残念な気がしている。
   能でも、「七小町」のうち、片山幽雪の『関寺小町』、梅若実の『卒都婆小町』、『草紙洗小町』『通小町』なども鑑賞しており、遅ればせながら、小野小町にアプローチしている。

    さて、この版画だが、歌麿の美人画を検索していて、何の気なしに、細面の雰囲気のある意味深な美人が気に入って叩き出したら、私でも知っている「花のいろは」という歌が読めたので、歌麿が小町の歌をどう感じたのか、歌の世界の雰囲気を知りたくて買ったのである。
    金沢文庫の岩崎書店の説明では、
    これは心の中は春のような美しさを保ちながら、外見は少しずつ老いて秋色が濃くなってきているのを暗示しているようです。たばこをふかしながら書物を読む気怠い日々の中、美人にも一日一日と容姿が衰えて行く様子がうかがえます。顔が少し痩せ気味で情感が希薄になったとされる歌麿の最晩年の美人画で、文永2年頃の作品です。着物の柄で女性の心理を表しています。と言う。

   私の版画と金沢文庫の版画とは、美人の髪の筋の現れかたや着物の色など多少違いはあるのだが、どうせ、両方とも19世紀初頭のオリジナルではなく、現在の復刻版であるので、版によって差が出るのであろう、退色や経年劣化などのない分、ベターなのかも知れないと思っている。

   今、東山魁夷の作品をもとにした偽物の版画を制作したとして大阪の元画商と奈良の版画工房の経営者が逮捕された事件で、関係先から押収された版画のうち、平山郁夫や片岡球子など別の2人の画家の作品も、警視庁による鑑定の結果、偽物とみられることが分かったとして、「著名版画の複製にかかる著作権法違反事件」として世を騒がせている。逮捕容疑は、共謀して遺族の許諾なく、有名画家の版画作品を複製したとしている。と言うことで、無許可での複製が問題であって、オーソライズされて居れば、問題ないと言うことであろうか。
   ダ・ヴィンチの「モナリザ」でさえ無数に存在すると言われているほど、世の中には、模写、贋作などコピー作品が無数にあり、オリジナルであっても真作かどうかさえ鑑定が困難を極めると云うから、この事件でも、素人目には、偽物の見分けなど不可能であったはずである。

   もう一つ、私が素晴しいと思うのは、徳島県鳴門市にある陶板名画美術館である「大塚国際美術館」で、世界中の名画という名画は殆ど収容されていて、バチカンのシスティーナ礼拝堂天井画と正面壁画の完全再現を筆頭にして、とにかく、目を見張るような名画のオンパレードで、最高の美術空間を再現している。
   こうなれば、もう、本物ではないコピーの名画の世界が、如何に素晴しいか、感嘆する以外にはない。
   私は、システィナ礼拝堂にも何度か行ったし、ロンドンのナショナルギャラリーやパリのルーブル美術館、ニューヨークのメトロポリタン美術館など世界の美術館、博物館に随分足を運んで名画を鑑賞し続けてきた。観ているその瞬間においては感動し感激しても、離れると瞬時に記憶の世界に後退してしまう。大塚国際美術館に行けば行ったで、本物でなくても、本物を観た時の感慨が蘇ってきて感激する。これを、紛いの代替鑑賞だとは思えないのである。
    
   絵画の世界も、虚実皮膜だと思っている。
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ダグラス・マレー 著「西洋の自死: 移民・アイデンティティ・イスラム」(1)

2021年09月26日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本、ダグラス・マレー 著「西洋の自死: 移民・アイデンティティ・イスラム The Strange Death of Europe: Immigration, Identity, Islam」
   冒頭から、「欧州は自死を遂げつつある。少なくとも欧州の指導者達は、自死することを決意した。」と意表を突くような説を説く。
   雪崩を打って流れ込むイスラム移民が故に、ヨーロッパ文化が崩壊するというのである。
   正気である。
   「私たちの知る欧州という文明が自死の過程にある。英国であれ西欧のどの国であれ、その運命から逃れることは不可能だ。結果として、現在欧州に住む人々の大半がまだ生きている間に欧州は欧州でなくなり、欧州人はホームと呼ぶべき世界で唯一の場所を失っているだろう。」と言う。
   出生率の低下、大規模な移民の流入、増幅する社会への不信感、自己嫌悪感など、これらの要因が相互にが増幅して、今日の欧州大陸を覆う閉塞感が、ヨーロッパ人を、自身の文化文明社会について議論し、悪化して行く社会変化に対抗する力を弱体化させ、欧州は自壊への道を進んでいる。この本は、地政学的や政治的な現状分析だけではなく、自己不信に陥ったムードのヨーロッパ大陸への冷徹な観察者の告発である。一般的な展望から、膨大な説得力のある調査や証拠に裏打ちされて、まさに、慚愧に堪えない多文化主義の失敗を説いて、ヨーロッパ文化の死を予言している。

   さて、私の脳裏を横切ったのは、先日ブックレビューした”マウロ・ギレン 著「2030:世界の大変化を「水平思考」で展望する」(2)移民”との落差の激しさ、
   ギレンのレビューでは、移民が如何にアメリカの文化社会に貢献して貴重な人財であったかを紹介したが、このマレーの本は、イスラムの大量移民が、ヨーロッパの社会を自死に追い込んで行く。と言う、全く逆の移民の忌避論である。
   アメリカとヨーロッパでは、諸般の事情が異なっているので、比較は難しいが、ロットの大きさの差が最も大きな要因になると思うが、例えば、300万人の移民が、人口5~6000万人の独仏英に流入すれば、既存文化をひっくり返す危機となろうが、人口2億以上のアメリカでは、精々ジャズくらいの影響なのであろう。

   ここでは、米欧の比較は避けて、ヨーロッパの自死について考えてみる。

   人間の権利を神や暴君の決定権から切り離す初めての普遍的な大系である「最後のユートピア」の成就という欧州の大望を前にして、このままでは、21世紀の欧州人は、現在を秩序立て、未来に歩むことを可能にする統一した思想を何も持てなくなる。
   過去についての統一的な物語や現在と未来についての統一的な見解が失われるのは、何時の時代でも深刻な問題だが、しかし、現下のヨーロッパのように、容易ならざる社会的変革と動乱の最中に、また、欧州が自己を見失った瞬間に、それが起こって、世界が欧州に流入してくれば、致命的となる。強力で独断的な文化なら、異文化から数百万人が流入してきても対処できるであろうが、死にかけている文化には対応するすべがなく、自死しかなくなる。

   さて、ヨーロッパでも、移民の流入によって賃金の低下や失業を余儀なくされたり、移民の多い貧しい地域に居住せざるを得ず、治安の悪化やアイデンティティの危機に晒されたりする中低所得者がいるが、政治や言論の場においては、このような移民の受け入れによって苦しむ国民の声は一切代弁されずに、放置されたままである。
   しかしもっと深刻な問題は、西洋的な価値観が侵害されたことである。宗教的・文化的多様性に対する寛容という西洋的リベラリズムの価値観を掲げて、移民の受け入れを正当化してきたにも拘わらず、イスラム過激派の自爆テロの頻発がヨーロッパを恐怖に陥れ、非イラスラム教徒や女性やLGBTに対する差別意識を改めず、移民による強姦、女子割礼、女子の人身売買といった 蛮行の頻発。
   ところが、人種主義者の烙印を押されるのを恐れて、欧州の政府機関もメディアも、移民による犯罪の事実を極力隠蔽して、犯罪の被害者さえ加害者の移民を告発しない。このように人種差別者の汚名が着せられたり、あるいは、告発した被害者の方が良心の呵責を覚えたりといった倒錯した現象の頻発などは、もはや、「全体主義的」と形容せざるを得ない。寛容を旨とするリベラリズムがねじれて、非リベラルな文化にも寛容になり、ついには、人権、法の支配、言論の自由と言ったリベラルの中核価値観を侵害するに至っている。
   マレーは、これを「リベラリズムの自死」「リベラリズムによる全体主義」と称して、徹底的に移民の流入を批判し、
   欧州が育み大切にしてきた「人権、法の支配、言論の自由」を核とする啓蒙主義以降の西洋近代の公序良俗を体現したシティズンシップ民主主義が潰えていく、西洋文化が消えて行くとして「西洋の自死」と呼ぶ。

   巷では、移民の受け入れを当然視し、歓迎しさえする言説で溢れ、正当化されている。即ち、移民は経済成長に必要だ、高齢化社会には移民必須、移民は文化を多様化し豊かにする、グローバル化の時代では、移民は止められない等々。
   マレーは、この浅はかな主張の結果、欧州各地で文化的な風景が失われ、いくつかの都市や町が、中東やアフリカのようになり、治安は明らかに悪化し、テロが頻発するようになった。と云う。

   余談だが、私は、アメリカにいて、フィラデルフィアの郊外で、全くアフリカ系アメリカ人しか住んでいない集落や、イギリスでは、ロンドンの郊外で、パキスタン人や、インド人だけしか住んでいないような街に行ったことがあるのだが、まさに、全く異国に行ったような感じがして、これが、アメリカか、イギリスか、と信じられないような思いをしたことがある。
   既に、米国やブラジルのように、何百年も続く異人種が混合した人種のるつぼのような国でも、混合同化せずに、並行状態で混交している状態を考えてみれば、文化の多様性なり、多文化主義について、十分に検討しなければならないと思う。

   解説の中野剛志が、この本は、他人ごとではない、日本の「自死」の予言でもあると書いているが、ヴェトナム人が子豚を窃盗して解体したとの記事が世を騒がせたが、こんなことが日本各地で頻発したら、と考えてみるのも必要かも知れない。

   さて、この本は、500ページを超す大著で、タブーに挑戦したとも覚えるほど強烈な問題提起の本で、文明論としても貴重な資料なので、今回は、紹介だけにとどめておきたい。
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OPEN TO THINK~最新研究が証明した 自分の小さな枠から抜け出す思考法

2021年09月24日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   このダン・ポンテフラクトの本「OPEN TO THINK~最新研究が証明した 自分の小さな枠から抜け出す思考法 単行本」の原題は、Open to Think: Slow Down, Think Creatively and Make Better Decisions
   OPEN TO THINK~ゆっくりと、クリエイティブ思考で、より良い決断を、と言ったところであろうか。
   クリエイティブ(創造的)思考とクリティカル(批判的)思考とアプライド(実践的)思考を駆使してオープン思考に徹して、より良いディシジョンを目指すべき思考モデルを説いた非常に面白い本である。
 
   この本では、新しい思考について、多くの興味深いケースが描かれているのだが、まず、興味を感じたのは、「眼前の現実を見誤ったディズニーのアニメ部門」についてのピクサーのジョン・ラセターの話である。
   まず思い出したのは、日経出版のリチャード・S・テドロー著「なぜリーダーは「失敗」を認められないのか」という本である。
   余談ながら、この本のタイトルの酷い誤訳から始めねばならないのだが、
   この本の原題は、Denial: Why Business Leaders Fail to Look Facts in the Face---and What to Do About It で、”否認:何故ビジネス・リーダーは、眼前の現実を見誤るのか、そして、それに対処する方法”、と言うことである。
   すなわち、「失敗」を認められないのではなくて、「眼前の現実・事実」を認知し誤ると言うこと、現実のみならず時代の潮流なり未来への展望が読めないと言うことなのであって、意味には雲泥の差がある。翻訳本のタイトルは、原題とは勿論、著者の意図とも中身とも全く違っていて、あのヘンリー・フォードでさえ、「眼前に展開していた経営環境の変化を直視せずに否認して経営を誤った」と言う論旨であって、失敗を認められないと言った次元のストーリーではないのである。
   
   さて、ディズニーのプリンシパル・アドバイザーであったラセターが、ディズニーの未来について、何十年も前から変らない手書き一本での原画制作は、そろそろコンピュータで代替すべきではないかと考えて、コンピュータ・アニメ映画の最先端の発明について情報収拾して、上司に熱心に説明した。
   しかし、経営陣は、ラセターの先見性あるビジョンを取り上げることなく、また、折角のアイデアを育み実現するための時間も与えずに、ラセターを解雇してしまった。デイズニーの経営者達は、硬直思考に嵌まり込んでいて、現実の世界やテクノロジーがどのように展開して行くのか、そして自分たちの将来を正しく見通すことが出来ずに、未来への行動を起こすチャンスを棒に振ったのである。
   ラセターは、新設のピクサー・アニメーションで、キャトルマンやスティーブ・ジョブなどと肩を並べて、「ファインディング・ニモ」や「カーズ」や「トイ・ストーリー」などを監督・制作して名声を博し、ディズニーのピクサー買収とと同時に、チーフ・クリエイティブ・オフィサーとして古巣に戻った。

   ここで、著者のポンテフラクトは、ディズニーの経営陣が、前述の正しい決断のために必要な「創造的思考」「批判的思考」「実践的思考」の対極にあるネガティブな「優柔不断思考」「無関心思考」「硬直思考」に陥って居たのであろうと言う。
   ああでもない、こうでもないと、正しい意思決定に落ち着くまで時間を要して行動を起こせなかった「優柔不断思考」、
   警鐘にも拘わらず、完全に無視して何もしなかった「無関心思考」、
   あまりにも多忙すぎて、政策変更を考えるための十分な時間が取れなかった「硬直思考」
   しかし、私は、デイズニーの経営者が、ICT革命、デジタル革命の潮流の早さと破壊的パワーの凄さを見通せなかった、すなわち、眼前に展開されている現実・事実・真実を見誤った、見通せなかったのだ思っている。

   デジタル革命の凄さを見誤った最たる企業は、コダックであろうか。
   同じフィルムメーカーでありながら、時代の潮流に上手く乗ってイノベーターとしてエクセレント・カンパニーに変身した富士フイルムとの差が興味深い。
   フォードの敗因は、T型車に固守したことで、豊かになって行く顧客の嗜好の多様性に気づかなかったことであり、ディズニーやコダックの場合には、テクノロジーの激変であって、眼前の事実・現実の認識には違いがあるものの、今日のように時代の潮流が激しく激変すると、正しい判断など至難の業で、柔軟なオープン思考が、益々必要だと言うことであろうか。
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映画「スターリンの葬送狂騒曲」

2021年09月22日 | 映画
   WOWOW で録画していた2017年の映画「スターリンの葬送狂騒曲 The Death of Stalin」を観た。
   ヒトラーと共に、20世紀最も残虐な暴君で、歴史の歯車を大逆転させた許しがいた人物だが、この作品は、コメディタッチの映画で、そんなスターリン(エイドリアン・マクラフリン)像は微塵も見せず、心なしか、好好爺然としか思えないような描写に終止しているところが、この映画の皮肉というかアイロニーの表出であろうか。興味深い。
   尤も、この映画は、スターリン死後の権力闘争が主体であるから、スターリンの登場は、前半少しだけではある。
   幹部達の権力闘争は、ラヴレンチー・ベリヤ (サイモン・ラッセル・ビール)とニキータ・フルシチョフ ( スティーヴ・ブシェミ)とを軸として、周知の歴史上の挿話を適度に描きこんでおり面白い。
   

   冒頭、コンサートが催されていて、モーツアルトのピアノ協奏曲第23番が演奏されているのをラジオで聴いたスターリンが、録音が欲しいと電話してきたのだが、生放送なので録音をしておらず、採録のために再演奏のドタバタが始まる。家族を粛正されて恨み骨髄のピアニストのマリヤ・ユーディナ(オルガ・キュリレンコ )は再演を断固として拒否するのを拝み倒して録音に成功するが、彼女は、無理に、スターリンに届ける録音盤にメモを忍び込ませる。届いた録音盤を執務室で聞いていたスターリンは、床に落ちたメモを拾って内容を目にする、「ヨシフ・スターリン 国を裏切り 民を破滅させた その死を祈り 神の許しを願う 暴君よ」、笑い飛ばしたが、その直後に意識を失い、昏倒する。
   面白いのは、医者を呼ぶにも掟に従って議論紛々、そして、スターリンが暗殺を心配して粛清したので有能な医師が一人もいなくなっており、3流の医者や経験不足の若手や引退したヘボ医者までかき集めて編成した医師団が、スターリンを診察して、「脳出血により右半身麻痺の状態で、回復の見込みはない」と診断する。
   幹部たちは、表向きは悲嘆にくれるが内心は驚喜して、好機到来とばかり、スターリンの娘スヴェトラーナを味方に付けようと奔走し、無能だが権勢を笠に着る道楽息子のワシーリーの介入を阻止しながら、次の権力を手にしようと、お互いに虚々実々の権謀術数を駆使して暗躍を始める。この闘争も、ソ連のことであるから、もっと、陰に籠もった陰湿で熾烈なものかと思ったら、人間くさいありきたりの策謀なので少しイメージ違い。
   やはり、NKVDを手足としてスターリンの情け容赦のない大粛正を実行し続けてきた今や権力第2位のベリヤが、ピアニストが姪の先生だと云うことで失脚の恐怖を感じているフルシチョフを中心とした者達に権力闘争で追い落とされるのは、必然であったかも知れない。失脚と処刑シーンが凄まじい。

   私の記憶にあるのは、このベリヤを演じているサイモン・ラッセル・ビールで、たしか、リア王であったと思うが、ロンドンのRSCの舞台で、ずんぐりむっくりの精悍な出で立ちの骨太の演技で、圧倒的な迫力であった。この映画でも、悪辣な性格俳優ぶりは異彩を放っていて、穏やかな策士然としたフルシチョフのスティーヴ・ブシェミと好対照で面白い。
   イギリス映画なので、ロシア人が、この映画をどう見るのか、興味のあるところではある。
   どうしても、スターリン死後の権力闘争と云うことになると、暗い殺戮紛いの暗闘のイメージで感じてしまうのだが、考えてみれば、
   ソ連崩壊前後以降のロシアのトップも
   ミハイル・ゴルバチョフから、ボリス・エリツィン、ウラジーミル・プーチンへと、良く分からない間に、変っていたような気がしている。
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今夜は中秋の名月だったが

2021年09月21日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   今日は、中秋の名月。
   しかし、夕刻から雲が多くなって、視界が遮られることが多くて、時たま顔をのぞかせて、しばらく楽しめたが、満月を愛でる雰囲気ではなかった。
   それを見越して、昨夜、美しく煌々と照り輝く14夜の月を眺めて、しばし、涼風を浴びて虫の声を聞きながら時を過ごした。
   その時に撮ったのが、この口絵写真。
   一眼レフに200ミリのズームをつけて、5.6Fで、シャッター速度5000、いくら努力しても、解像度はこの程度である。
   それでも、画像底部に写っている白い小さな輪のような点からスイカのように微かに放射状に弧が描かれているのが分かり、まずまずである。
     

   私は、美しい名月を仰ぎながら、色々な所で見た月を思い出した。
   一番強烈に印象に残っているのは、もう、何十年も前のことになるが、イスタンブールの月の光である。
   
   トルコ料理の会食を終えてホテルに帰って、ほろ酔い機嫌で、ドアを開けると、窓一杯に月光が差し込んでいて、対岸のアジア側のイスタンブールの灯が輝く、実に感動的な情景が展開している。
   照明をつけずに窓辺に近づくと、眼下のボスポラス海峡の海面が、月光を浴びてキラキラ光っている。
   川の様に横たわっているボスポラス海峡の対岸の街は、ウスクダラ。その街の上空高くに綺麗な満月が輝いている。
   ヨーロッパとアジアを跨いで、美しい月が光り輝いている壮大な時間・空間である。
   私は、窓辺に一眼レフを置いて写真を撮った。
   
   このイスタンブールは、元々、キリスト教の東ローマ帝国の首都コンスタンチノープル。ところが、15世紀に、この都市に魅せられたトルコのメフメット二世が、72隻の軍船を山越えさせて金角湾に一気に引き落として攻撃して、コンスタンチノープルを陥落させて、イスラム教国家オスマン・トルコ帝国の首都とした。
   東西の文化文明の十字路、まさに、怒濤のように激しく歴史の荒波に翻弄され続けてきた古都に佇んで、静かに仰ぎ見る、アジアとヨーロッパを股に掛けて光り輝く満月の美しさは圧倒的であり、感慨一入であった。

   ついでながら、月光と云うよりも、全天、降るが如く瞬く星空の美しさも、また、格別である。
   私が子供の頃、良く、夏の夜には、ホタル狩りに小川や池の畔を駆け回っていたのだが、宝塚の田舎では、殆ど灯の光がないので、星空がくまなく見える。天ノ川などは当然大空に厳然と横たわっていて、大小の星影が鮮やかに輝いていて、星図通りに星を追跡できた。ところが、その天ノ川も、光害で殆ど見えなくなり、その後、ゆっくりと星空を仰いだことがなくなって、天ノ川などついぞ見たことがなくなってしまっている。
   ところが、これも何十年も前の思い出だが、パラグアイのエンカルナシオンの近くのチロル村に瀟洒なアルプスの民家風のホテルがあって、旅情を味わいながら夜風を楽しみに庭に出て空を仰いだ時、星空の美しさ、荘厳さに感動してしまった。何一つ光がなく太古の昔に帰えれば、こんなにも澄み切った夜空の星空が、かくも美しかったのか。
  程遠くないところに、豪壮なイグアスの滝がある。水しぶきに映えた星の輝きは、いかばかりか。思いを馳せた。
  見慣れた北斗七星の代わりに、南天に、南十字星が輝いていた。

  余談だが、ここパラグアイのホタルは、漢字の「螢」のように、頭が光る。正確には、目が光っているのだが、ところ変ればシナカワルで、南半球に住むと結構変った経験をして面白いのである。
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わが庭・・・キウイジャムを作る

2021年09月19日 | わが庭の歳時記
   2週間ほど前に、追熟処理をしていたキウイのプラスチック・バッグを開くと、丁度、柔らかくなって熟成していた。
   今回は、キウイジャムを作ることにした。
   インターネットを叩けば、いくらでもレシぺが出てくるので、一番簡便な方法を選んで、それを真似ることにしている。

   果実ジャムの作り方は、大体よく似ている。何らかの事前下ごしらえをして、小さく刻んだ果実に、砂糖や薬味を加えて、ぐつぐつ弱火で煮込む。
   キウイの場合は、極めてシンプルで、私は、砂糖(30%ほど)とレモン果汁を加えただけである。
   キウイは、少し、果実が固い時には、真ん中から二つに輪切りにして、スプーンを、皮に沿って差し込んで、一回転すれば綺麗に皮がむける。
   果実が柔らかければ、二つに切った実を絞り出す要領で押し出せばよい。
   これだと、結構、果実は原型で残るが、元々、実が柔らかいので、煮込んだ時にしゃもじで混ぜながらつぶせば良い。

   キウイに、砂糖とレモン果汁を加えてよく混ぜ合わせて、コンロにかけて中火でしばらく煮込み沸騰したら、弱火にしてくつくつ煮る。
   灰汁を取りながら、時々、まぜて拡販する。30分くらいであろうか、焦げ付かない程度に、ねっとりしてくると出来上がりである。
   熱いまま、ジャムの空き瓶に入れて終わりである。
   少し癖のある梅ジャムとは違って、元々、甘みのある果実なので、非常にマイルドで甘くて口当たりの良いジャムができる。

   さて、キウイの木には、まだ、嫌というほど、キウイの実が鈴なりになっている。
   追熟しないと食べるのには不都合だが、2週間経って完熟しても、すぐに傷んでしまうので、一度に沢山食べられないので、仕方なくジャムにしたのだが、2瓶も出きれば十分である。

   わが庭では、雑草紛いだが、虎の尾とヤブランが咲いている。
   比較的、日陰でも環境の悪いところでも、毎年、忘れずに咲いてくれる。
   しかし、今年は、なぜか、わが庭には、ヒガンバナが咲かなかった。
   
   
   
   

   やっと、椿の蕾がしっかりしてきた。
   この季節には、葉を食い尽くすチャドクガに注意しなければならない。
   今年は、挿し木や実生苗で育ててきた株に蕾がつき始めているので、来春には、どんな花が咲くのか楽しみである。
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NHK:サンクトペテルブルク 音楽の都300年の物語

2021年09月18日 | 学問・文化・芸術
   NHK BSPのプレミアムカフェで、2003年に放映された
   「サンクトペテルブルク 音楽の都300年の物語」の再放送の録画を見た。
   ピヨトル大帝から、エカテリーナ2世、革命から、レーニン、世界大戦による大空襲、苦難と栄光に満ちた「サンクトペテルブルク 音楽の都300年の物語」を、ギルギエフが、オペラやクラシック音楽に載せて情熱的に語る。
   オペラやコンサートの画像が、前世紀末の古い映像なので、ギルギエフも若く溌剌として居れば、MET売り出し前のネトレプコの美貌に魅せられる。
   
   
   さて、まず、私自身のザンクトペテルブルクの思い出だが、ロシアへは、2014年末に一度しか行ったことがなく、その紀行文は、このブログの「晩秋のロシア紀行」で詳しく書いている。
   本当は、1993年に、ロンドンからの帰任前に、休暇を取って、ロシアを歩きたかったのだが、丁度、ベルリンの壁が崩壊して、それに続いて、ソ連邦も崩壊して、その直後、政治経済社会が壊滅状態になって、ロシアの治安が最悪となり、外国人が旅をするなど考えられないような状態であったので諦めたことがあった。
   帰国後、ロンドンなどヨーロッパやアメリカ、中国へは行ったが、ロシアに行きたくて、やっと、2014年にJALパックに加わって行くことが出来た。

   私の場合、世界中をあっちこっちを歩いてきたが、長期旅行でも業務旅行でも、すべて、自分自身で手配していたので、このロシア旅行と最後の中国旅行は、団体旅行に便乗したので、自由が利かず苦痛であった。
   しかし、どうしても、ザンクトペテルブルクでは、マリインスキー劇場、そして、モスクワでは、ボリショイ劇場に行って、オペラかバレエを鑑賞したいと思った。
   まず、マリインスキー劇場のHPを開いて、1日だけ可能な日のプログラムを見ると、本劇場では、バレエの「ジゼル」、新劇場では、オペラ「鼻」が上演されていて良い席のチケットが残っていた。当然、クラシックな本劇場で観劇の雰囲気を味わいたいと思っていたのだが、予備にと思って、ダブルブッキングした。
   私は、ニューヨークのMETでも、ヨーロッパのロイヤルオペラは勿論、スカラ座やウィーン国立歌劇場、それに、チェコのプラハ国立劇場でも、どこでも、総て、直接、劇場のBOXオフィスに当たってチケットを手配してきたので、ロシアでは、ロシア語が出てきたり遣り方が違っていたが、全く、不安はなかった。

   欧米で10年、夜の観劇には慣れているのだが、やはり、ツアーとは別行動を取ったので、ツアーコンダクターの方が、気を使ってお世話くださり感謝と同時に、申し訳ない気持ちでもあった。
   本当なら、ザンクトペテルベルクに到着した日、ギルギエフ指揮で、オペラ「戦争と平和」を上演しており、ホテル着で車を飛ばせば開演1時間くらいは遅れても、最後の幕くらいは観劇できそうだったので、行きたかったが、こう言うときには自由旅行ではないのでダメである。
  
   当然、サンクトペテルブルクの音楽劇場と云えば、マリインスキー劇場で、ロシアの音楽やオペラのシーンなど、この劇場でのギルギエフ指揮の映像が随所に登場してくる。
   現在では、ギルギエフもネトレプコも、私など、METライブビューイングや、ヨーロッパでの舞台姿を観ることが多いのだが、この前世紀最後の頃は、やはり、世界的と云うよりは、ロシアの最高峰の音楽家であって、舞台も、その方が主体だったのであろう。
   ギルギエフのサンクトペテルブルクへの限りない誇りと熱い思いに感動しながら観ていた。
   
   

   たった3日間のサンクトペテルブルクでの滞在であったが、都市景観や街の雰囲気など、殆どヨーロッパの古都と違った感じはなく、革命などソ連時代の開発遅れで、逆に昔の面影を色濃く残していて、タイムスリップしたような懐かしさを感じて、不思議な感慨にふけったのを覚えている。
   ヨーロッパの先進国へキャッチアップしようと必死であったドイツ人のエカテリーナの思い入れがあったからでもあろうか。
   エルミタージュは圧巻であった。

   よく知らなかったのだが、19世紀後半のロシア音楽の黄金時代の5人組やチャイコフスキーの活躍の舞台が、サンクトペテルブルクであったこと、
   ショスタコーヴィチがスターリンに嫌われたこと、第7番「レニングラード」が、ナチ・ドイツの爆撃の最中に作曲されたこと、
   音楽史を紐解きながら、素晴しいロシアの音楽風景を交えた1時間半の「音楽の都サンクトペテルブルク300年」の物語で、非常に興味深かった。

   
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マウロ・ギレン 著「2030:世界の大変化を「水平思考」で展望する」(3)電子書籍

2021年09月17日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   私は、子供の頃から本を読むのが好きで、読書家を任じている。
   しかし、今でも紙媒体の本を読んでいて、電子書籍には、全く興味がない。
   ニュースでも音楽でも映画でも、殆どのものはデジタル化しているのだが、電子書籍は足踏み状態で、いつまで経っても、紙の本の地位を奪えないでいる。
   グーテンベルクの偉大な発明を駆逐できないのは、何故であろうか、と言うのがこの項のテーマである。

   色々、その理由が書かれているが、面白いと思ったのは、
   本を読むときの方が、電子書籍リーダーやタブレットで読むときよりも、本の内容を理解しやすいと言う見解である。
   電子書籍では、今どこを読んでいるのか分からないが、紙の本では、どの辺りを読んでいるのかが分かり、この暗黙の感覚が、想像以上に重要である。
   ある文章によって、既に読んだ記憶が蘇る時、人は紙の本のページをあっちこっちめくって、その箇所を楽しみながら探そうとする、紙の本を読み進めていく過程で読者が感じるセレンディピティやコントロール感を、電子書籍では妨げられている。と言う。
   いずれにしても、本の良さは、いくらでも好きなだけ、ページを繰って、反復読解出来ることだと思っている。
  
   これと関係あるかないかは別にして、私の本の読み方は、気づきや発見など気に入った箇所には、付箋を貼り、時には、線引きし、頻繁に索引を引いたり、付箋や線引きの箇所を反復しながら読んでいく。
   電子書籍では、小説など、この必要のない書籍は読み飛ばすだけでも良いのだが、専門書や一寸襟を正して読む本には、これが出来ない。
   それに、私の場合には、本を何冊も並行読みしたり、しきりに、多くの本を参照しながら読み進めていくので、電子書籍リーダーやタブレットの数しか開けない電子書籍では用を足せないのである。
   足の踏み場もないほど本に囲まれて読書三昧に明け暮れている私には、電子書籍には馴染めそうにはない。 

   ただ、アマゾンの書籍ページで、「試し読み」表示のある本では、Kindle版のまえがきや要約や第1章などが読めて、本の概要がつかめるので、これは、重宝して利用させて貰っている。

   ところで、先進国では、電子書籍は不振だが、開発途上国など貧しい国にとっては、天の恵みだと言う。
   図書館も書店もないところへ、どうして、本を届けるのか、
   アフリカが、モバイル決済の最前線に立っていることを考えれば、電子書籍リーダーやタブレットやPCさえ配布できれば、アフリカが、世界有数の電子書籍ユーザーになっても不思議はないと言うことである。
   もう、何十年も前のことだが、森と湖に囲まれたフィンランドに行って、何故、ノキアが世界を制覇したのか、有線を縦横無尽に引けない国土の為せる技を感じたのである。
   尤も、そのためには、アフリカでは、膨大な準備やそのための資金が必要だが、これこそ、地球温暖化対策と同様のグローバルベースの協力が必要となる。
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老後のトカイナカの生活

2021年09月15日 | 生活随想・趣味
   NHKより面白いので、時々、大下容子のニュースを見ているのだが、つけっぱなしにしていたら、次の徹子の部屋で、南こうせつが出てきた。
   私は、歌謡曲には全く興味はないのだが、「神田川」が好きで、ついつい見ていると、70歳を超えてから、大分県の杵築市の田舎に住み着いて、仕事があれば東京にやってくるのだと、幸せな田園生活を語り始めた。奥方が畑担当で、主人は庭園全般の担当だという。

   徹底した断捨離をして、田舎での小さな生活を始めたと言うから、我々のように、都会に直近の郊外で、田舎生活もチョッピリ味わえると言ったトカイナカと言った中途半端な生活とは違う。私など、そんな勇気もなければ、まず、体が云うことを利きそうにない。友人の多くが、庭の世話が大変なので一戸建てを諦めて、マンションに移り住んでいる。先を見越して、独居老人になったり、家族関係が上手く行かない友人知人は、老人ホームに入っている。

   私の学友や会社の同期など、同年代の知人友人は、引退時期に住居のあったところや家族が住んでいたところなどで生活を続けている場合が多いのだが、それでも、結構、生まれ故郷というかフルサトへ帰って、田舎での生活をしている人が居て、私には興味深い。
   私の故郷と言えば、生まれて成人して30真際まで過ごした阪神間だが、もう親族も誰も居なくなったし、半世紀以上も離れて生活していると、帰巣本能も潰えてしまう。京都を終の棲家にしようかと思ったことはあるが、これは、学生時代からの心の故郷への思いからである。
   元関西人で、関西なまりが全く抜けないこてこての関西人だと思っているので、関西への望郷の思いは強いのだが、同じ関西だと言っても、全く事情の分からない新しい住居に住んで、一からの新生活をする気にもなれない。

   若いときに、とにかく、将来は分からないが、家だけは抑えておこうと考えて、土地勘も何もないのに、まず、千葉に土地だけ買った。
   結局、この土地に、家を建てたがすぐにヨーロッパに転勤になり、8年後に帰ってきて、それでも、15年くらいは住んだ。
   長嶋茂雄の旧家の近くの印旛沼のほとりのトカイナカであったので、通勤は大変であったが、田園生活は楽しめたので、まずまずであった。
   東京の中心へは1時間半くらいの距離で都会の生活へのアクセスは不自由がなく、田舎の雰囲気の中で日常生活が出来るトカイナカということで、見方によっては、まずまずの、生活環境である。
   引退後も、観劇やセミナーなどで東京へ通いながら、ガーデニングに勤しみながらの晴耕雨読の生活であった。


   ところが、孫の世話など諸般の事情を考えて、鎌倉に、かなり広い適当な物件を見つけたので、3世帯同居することになった。
   この鎌倉も、東京へのアクセスは便利で、鎌倉山の麓の田園地帯にあるので、千葉の時とはそれ程変らないトカイナカである。
   それに、私に必要なガーデニングを楽しめる庭もあるし、自分の書斎も確保できた。

   7月来、楽天モバイルの無線基地局建設計画で、孫達への電磁波被害を懸念して娘達は宿替えを考え始めていたが、廃止となったので、その心配もなくなり、この調子では、私の終の棲家になりそうである。

   さて、南こうせつは、田舎へ移転するという生活を大変革したので、写真なども殆ど捨てて断捨離を決行したというのだが、私の場合、千葉から鎌倉に移転するときに、相当、思い切って、大切なものも捨てたつもりだが、やはり、終戦直後のもののない時代に育った悲しさか、ものへの執着が激しいのか、相当持ち込んで来て、ながい間整理がつかなくて部屋に積んでおいて、結局、庭の空き地に大きな倉庫を作って、入れ込んでしまった。
   本が多いのだが、他にも、例えば、主に海外で撮った写真の束も大きな箱に3箱もあり、海外での観劇のパンフレットや芸術関係の資料など5~6箱はあるし、足の踏み場もなくなっている。この写真やパンフレットを整理しながら、かっての文化芸術行脚や異郷の旅路を反芻すれば、どれほど楽しいか、分かっておりながらも、手がつけられない。カメラも、Leicaもあれば ナチのスパイカメラMinoxも、また、文革時代の毛沢東の切手も・・・いずれにしても、私が歩んだ80年の軌跡にすぎない。

   しかし、既に、平均寿命を超えてしまった。悠長なことは云っておれないが、結局、このまま逝ってしまって、断捨離は家族に任せる以外にないと思っている。

   さて、コロナで、しばらく、東京に行けなくなって、観劇やコンサートにも、そして、セミナーや同窓会にも縁切れで、トカイナカの都会とのアクセスが切れてしまって、中途半端なイナカだけが残っている。
   ツクツクホーシが鳴き始めて、すこし、秋らしい涼風が吹き始めたので、ぼつぼつ、ガーデニングを楽しめそうになってきた。
   関東の秋は短くて、一気に冬が近づく。

   インターネットに繋がって居れば、殆ど世間との疎外感はないので都会を意識することはないのだが、東京に居れば観劇も自由だし移動もかなり許されて文明生活に触れられるので残念だが、あの鉄とコンクリートのジャングルに閉じ込めれれると思うだけでも苦痛だし、まあ、当分は、イナカをどれだけ楽しめるか、辛抱しなければならないと思っている。 
   バラも咲き始めたし、沢山のトンボが飛び交い、もうすぐ、赤とんぼにかわると、釣瓶落としのように冬が近づいてくる。
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健康寿命を延ばすと言うこと

2021年09月14日 | 健康
   宮田裕章の「データ立国論」を読んでいたら、気になる記述が出てきた。
   東大の高齢社会研究機構の秋山弘子教授の研究で、30年前の日本の高齢者が、60歳を過ぎてからどのように人生を辿るか追跡調査した結果報告である。
   まず、一目瞭然なので、下図を見て説明すると、
   
   約2割の人が、70歳を迎える前の段階から寝たきりになり、その状態を10年ぐらい過ごしていると言うこと、大半の人が、70歳を超え始めたところから徐々に歩けなくなると言うこと、」そして、80を過ぎても元気に働ける人は、1割程度しかいない、と言うことである。
   秋山特任教授は、男女ともに70歳を過ぎて緩やかに自立度が低下しはじめる“点”に着目しました。この“点”を少しでも先送りし、就労を含めて高齢者が自立できる期間を長くする社会づくりを目指すべきだと考えています。そのうえで、心身が弱っても、独りになっても、高いQOL(生活の質)を維持しながら、住み慣れたところで暮らし続けられる生活環境を整備すること。これが人生100年時代の新しいライフデザインの土台です。
   と言うことである。

   下図は、人生は長い!(老後の自立生活時間の長さ:推計)
   長い人生老後生活(※男性20年、女性25年)の9割は自立生活時間!
   
   この殆どの人が急降下する自立期間を、いかに健全に暮らして、健康寿命を延ばせるかと言うことであろうか。
   今日、NHKで、日本人で、100歳以上の高齢者は、86、510人に達したと報じていた。
   宝塚の田舎に住んでいたが、私の子供の頃には、近くに、100歳を超えた老人など居なかった。
   しかし、長生きするのなら、健康寿命の100歳でありたい。

   さて、自分自身のことになるのだが、私は今年81歳になり来年82歳になる。日本人の平均寿命は、男性が81.41歳だと言うから、丁度、平均まで生きたことになる。
   別に、どうと言うこともなく、晴耕雨読ながら、普通の日常生活を送っている。
   特に、ジムに通うなど運動はしていないが、朝夕、孫娘を幼稚園に送り迎えをしているので、アップダウンの激しい1㎞強の通園路を2往復しているので、4㎞6000歩以上は歩いている。
   特に、体力が衰えたなあと感じるのは、この歩行で、孫娘に走られると、ついて行けなくなる。
   それに、目的もなく、強歩で、10、000歩歩くのも、少し、苦痛になってきた。
   秋山教授の資料によると、
   
   このグラフは、当然、歩ける健全な老人の平均値であろうから、参考にと思って、幼稚園の送り迎えの数値で計算すると、1.16㍍/秒である。
   これは休憩もあり信号もあり道草もあり孫娘とのイレギュラーな数値なので、真面に一人で歩くと、4.5㎞/時間くらいであるから、1.2は大分超えるであろうから、まず、及第であろう。
  
   今のところ、前立腺がんは、全摘したにも拘わらず再発して放射線治療で完治したので、一応安心で、
   持病は高血圧だけだが、先日、大先生に、心臓の機能と血液検査については正常で問題ないと太鼓判を押して頂いた。
   頭のCTを撮ったのは、少し前だが、これも異常なかったし、私自身、このブログも書き続けているし、専門書なども問題なく読み続けているので、認知症などのボケは、まだ、心配しなくても良いのではないかと、勝手に判断している。
   最近、人間ドックや定期検診は受けていないのだが、適当に病院に通っていて、調子の悪いところは先生に相談して、良く分からないが、CTやMRIなど結構検査を受けていて、どこか異常があれば、何らかの形で分かるのではないかと素人判断している。

   いずれにしろ、私自身、前述の健康老人の10%に入っているのであろう喜びを噛みしめている。
   富と世俗的な意味での成功には程遠かったが、世界を歩いて人類の築き挙げてきた偉大な文化芸術を鑑賞するなど、見るべきものは見つと言う心境に至るまで、人生を生き抜けたことに感謝している。
   しかし、愚かにも、そんなことを忘れてしまって、今、この今がまたスタートとなって、その先の安寧と幸せを願っている自分に気がついて複雑な気持ちになっている。
   往生際が悪いと言うか、兼好法師の気持ちが少し分かったような気がしている。
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楽天モバイル基地局撃破:黒塗りの行政文書の公開

2021年09月12日 | 政治・経済・社会
   先日、ツユクサの呟きで楽天モバイルの中継基地局撃破について報告したが、基地局建設を取りやめた確定的な証拠書類を取得したくて、鎌倉市に、行政文書公開請求書を提出した。
   ところが、この公開文書が黒塗りで、殆ど役に立たなかったのである。

   楽天からは、基地局建設を取りやめたと電話連絡があり、その後、近隣住民の皆様宛の書類「楽天モバイル無線基地局設置工事中止のお知らせ」が町内会長に手交された。問い合わせ先を明記しただけで、会社の正式文書としての体裁を整えていない。(それまでの文書も、総てそのような稚拙なお知らせ文書に終止しており、会社対応というのではなく、末端組織が動くだけで、抵抗がなければ、あったとしても、意に介さずに無視して、一方的に利便性だけを言いつのって、反論を叩き潰すために高飛車な態度を継続し続けてきていた(そう思えた)。電磁波障害を心配した住民の反対運動が激しくなって、結局、廃止せざるを得なくなったのである。)
   従って、確定的な公の文書は、鎌倉市条例で規定されていて、楽天が鎌倉市に提出した第4号様式 「携帯電話等中継基地局設置等計画廃止届出書」しかないので、このコピーを取ろうと試みたのである。

   市のHPから、「行政文書公開請求書」をプリントアウトして、地域共生課の担当係長の指示に従って、その通りに基地局の住所など必要事項を記入してFAXしたら、行政資料コーナーの係が、地域共生課の指示だと言って、行政文書の内容の記入箇所で、基地局の住所を消去して、そのかわりに、文書が提出された日にちと基地局の高さの明記に変えるよう連絡してきた(この書き換え指示が異常なのだが、この変節が、後述の住所黒塗りの伏線となったのであろう)ので、それに従って書き換えて再提出した。
   この文書提出の日付については、本件担当係長と会話を交わしており、楽天から電話連絡があった前日なので、文書は確認していないが、暗黙の了解であった。

   市の規則では、行政文書公開請求書を提出してから15日以内となっており、たった1枚の書類だが、部長決裁を取るとかで、結局、2週間後の14日目に、交付する旨の電話連絡があった。
   コロナの心配があるので郵送して欲しいと依頼したら、翌日送られてきたのは、「情報公開請求に伴う複写代及び郵送代のご案内について」の文書と郵便局の払込取扱票だけで、本書は影も形もない。
   たった、コピー代と郵送料合わせて94円の収入を確認しないと、当該行政文書のコーピーは郵送できないと言うことである。
  この通知書送付や払込手数料、それに、手間暇を考えれば、この収入金額の何倍もコストが掛っているはずだが、(尤も、何百ページもある膨大なコピー送付では当然だとしても、)これが、性善説に立てないお役所仕事であろうと思うと、変なところで、行政改革の必要を感じた。

   土日を挟んで3週間掛って、結局、市役所に出かけて、取得した。

   ところが、貰った文書には、テレビで頻繁に目にしている黒塗り部分があって、こんな些細な文書にさえ、黒塗りをして情報公開を忌避しなければならない情報があるとは、脅威であった。
   黒塗り部分は、3箇所、
   提出者代表者の印章
   提出者代理人氏名、印章、電話
   設置場所等の項目の冒頭の住所が、鎌倉市を残して、以下黒塗り、

   私が問題にするのは、最後の設置場所の住所を非公開にしていることで、これでは、無線基地局工事中止の物件を特定できないので、この行政公開文書を取得した意味がない。
   「行政文書一部非公開決定通知書」が添付されていて、
   その非公開の説明として、「鎌倉市情報公開条例第6条第5号該当・・・携帯電話等中継基地局の設置場所」として、地域共生課の見解が示されている。
   その理由は、「携帯電話等中継基地の設置場所については、公にされた場合、法人の営業政策が明らかとなり事業経営に多大な影響を及ぼす恐れがあるためです。また、・・・公にされた場合、基地局への破壊行動など、犯罪の要因となる恐れがあるためです。」と言うことである。

   参考に、平成13年9月28日条例第4号の
   「鎌倉市情報公開条例」の当該部分を引用すると
   第6条 実施機関は、公開請求があったときは、公開請求に係る行政文書に次の各号に掲げる情報(以下「非公開情報」という。)のいずれかが記録されている場合を除き、公開請求者に対し、当該行政文書を公開しなければならない。
   (5) 公開することにより、犯罪の予防、鎮圧又は捜査、公訴の維持、刑の執行その他の公共の安全と秩序の維持に支障を及ぼすおそれがあると実施機関が認めることにつき相当な理由がある情報

   どう考えれば、(5)に該当して、「法人の営業政策が明らかとなり事業経営に多大な影響を及ぼす恐れがある」と判断して非公開にすべき情報なのか、
   当初から、楽天は、設置場所を麗々しく明記した「基地局設置のお知らせ」に、カラフルな航空写真を使って近隣の人家を写し込んだ「アンテナ基地設置予定位置」地図の写真と、近隣の風景に溶け込んだ「設置場所イメージ図」の風景写真まで添付した派手なパンフレットをばらまいていた。自治会の月例回覧板を見て、すべての町内会員が、基地局建設とそれによる電磁波障害等については周知していて、楽天の営業政策が、秘密どころか、白日の下に晒されていた。
   楽天モバイルの悪辣な仕事ぶりを見ていたら、逆に、この常軌を逸した「営業政策が明らかとなり事業経営に多大な影響を及ぼす恐れ」があるとしか思えない。
   「基地局への破壊行動など、犯罪の要因となる恐れがある」と言うのなら、問題のある建設物だと言うことを認めていると言うことではないのか。

   念のために、帰りに、地域共生課に立ち寄って、黒塗りの住所が我々の意図している住所であるのか、口頭でも良いので確認して欲しいと求めたが、一切企業秘密だと言われて、その確認さえ出来ずに、帰ってきた。
   
   楽天モバイルの携帯基地局設置場所の公開が、何故、「鎌倉市情報公開条例第6条第5号該当」の非公開情報に該当するのか、全く解せないが、もう、良識の域を超えた論外の議論なので、これ以上論じるつもりはない。
   楽天モバイルは焦っているのであろう、調べてみたら、鎌倉市でも今年10件以上も基地局設置申請を出している。(これは、某市会議員から得た数週間前に発行された同じ市の公開文書だったが、黒塗りなどなく住所が明記されていたので、ダブルスタンダードも甚だしい。)

   今回の楽天モバイルの携帯基地局設置反対運動で目覚めた町内会の有志達が、この件だけに終らずに、「電磁波被害を撲滅する会」運動に発展させようと意気込んでいる。65歳定年で現役を離れても、まだまだ、知力抜群のアクティブ年齢は、20年以上も続く昨今、知的水準が高くて民度の高い鎌倉のシニアは、温和しく引退に安住しているはずがない。
   腹が立ったと言って、楽天の不買運動を展開しようと息巻く元気者までいる。

   デジタル庁を立ち上げて、DXを推進して、一気に情報公開を加速するというのだが、役所は、黒塗り作業が忙しくて、期待出来ないであろうと思うと悲しい。

(追記)
この楽天モバイル基地局の設置位置が、被害を受けるのは我が町内会だが、立地が隣の町内なので、その町内会長にコンタクトしようと思って、町内会担当の市民防災部地域のつながり課を訪れて、趣旨を説明して、町内会長の電話なり住所を教えてくれるよう頼んだ。個人情報により、本人の了解を取るので待ってくれと言われた。1週間ほど経ってからもう少し待てとの電話があり、その後は全くナシの礫。この課は、何のつながり課なのであろうか。後で聞こえてきたのは、この町内会長は常任で、市などこの方面の役職だと言うこと。
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高血圧の悪化を心配して大慌て

2021年09月11日 | 健康
   先日、朝、寝起き頭に、息苦しくなった。
   10回以上深呼吸を繰り返すと、どうにか正常に戻った。
   気になって、放置していた血圧計を引っ張りだして、測ったら、165-115、
   ビックリして、何度か計り直したが、150-105以下には下がらない。
   もう、40年以上も、高血圧で、血圧降下剤 を飲み続けているのだが、最近は、130-85くらいで落ち着いているはずであった。

   正確に言うと、渡欧前に、三井記念病院で、高血圧だと診断されたのだが、当座の薬だけを持って、アムステルダムに赴任した。
   外国だし、その上多忙で、気楽に病院に行くなど余裕がなかったので、そのまま、薬の処方をせずに走り回っていて、途中で、急に目が充血して体調がおかしくなって病院に飛び込んだ。この時も、上が165以上になった記憶があり、高血圧を注意されたのだが、この時薬を貰っただけで病院には行かず、良く覚えていないが、その後、イギリスに移り住み、都合、EUで8年間、何もせずに無防備で、走り回っていた。
   帰国して会社の診療医に診て貰ったら、当然、高血圧の診断が下り、その後、ずっと、程度は上がったり下がったりだが、薬を飲み続けている。

   ところで、30年近くお世話になっている行きつけの病院は、東京なので、コロナの影響で、この1年半くらいは行っておらず、薬は、先生に電話で処方して貰っていて、直接診断は受けていない。

   いずれにしろ、巷では、血圧は130-85以下でないと高血圧の危険があって危ない、特に、老人は気をつけよと喧しい。
   しばらく、様子を見ようと、素人判断ながら、薬を2倍にして飲んだところ、血圧を測ったら、上がったり下がったり、とにかく、高い数字は変らない。

   3日目の朝、東京へは行けないので、最近少しずつ他の科で診療を移している鎌倉の病院へ、朝駆け込んで、診断を受けた。
   勿論、紹介状もないし、係員に事情を説明しても中々埓があかず、しかし、親切にも、先生が事情を確認しようと診断してくれることになった。
   血圧は高いが、この程度の血圧では、心配ないが、脳梗塞の可能性があるかも知れないので、本格的に全部検査しようと言うことになった。
   この病院は、殆どの分野で最先端の検査システムを完備している高度な総合病院なので、病気の心配はともかく、私にとっては、願っても叶ってもない幸運であった。

   腎臓の障害を避けるために点滴をつけて貰って、CT,心電図、エコー、レントゲン、他に何だったか忘れたが、あっちこっち検査室を回って、検査を受けた。

   全部検査が終って、先生の診断を受けた。
   先生は、予想に反して、全く問題なく正常であったと、ニコニコとして話された。
   丁度、日本男性の寿命である81.4歳に差し掛かっていたので、どんな判定を下されても仕方がないと思っていたので、信じられなかった。
   心臓の弁が規則正しく順調に動いている画像や綺麗な冠動脈などのCT画像、エコーや心電図などのコピーを見せながら、血液検査の数値も、腎臓にやや数値にLやHがあるが、全く問題がないと言う診断を頂いた。

   処方する薬は、変更するが、3ヶ月後に、又来るように、問題があれば、いつでも来てくれれば良いとの指示を頂いた。
   紹介状はと聞いたら、当然、要らないという返事。
   100日分の薬の処方箋を貰って病院を離れた。
   帰って、病院のHPを開いたら、お世話になった先生は、トップの偉い先生であることが分かって、嬉しくなった。
   
   今日、血圧を測ったら、多少、異動はあるが、正常値に近づきつつあるので、安心している。
   
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マウロ・ギレン 著「2030:世界の大変化を「水平思考」で展望する」(2)移民

2021年09月10日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   第1章の後半は、「移民」。
   移民と言えば、どうしても、昨今、ヨーロッパに雪崩れ込む中東やアフリカからの難民や、トランプが擁壁を作って阻止したメキシコや中南米からの移民などが念頭に浮かぶが、出生率の高い国から低い国へ、或は、内戦や政情不安、飢饉、経済恐慌、自然災害などの危機が発生した後など、移住者が増える。
   国境をまたぐ移住は、封じ込めの必要な「洪水」と見做されて、壁を建設せよと叫ぶリーダーが出現し、外国人排斥のポピュリスト的な右翼政党が台頭し、反移民のプラカードを掲げた市民が街路に繰り出すなど混乱を来す。

   移住者は、ブルーカラーを押しのけ、安定した製造業や農業の仕事を横取り、福利厚生サービスに只乗りすると国民から排斥されているが、そうであろうか、実際は逆で、移民によって享受するホスト国の恩恵の方が大きい。と言うのが、著者の論点である。
   実際に、移民の大半は殆どスキルがないか、非常に高いスキルを持つかのどちらかで、母国でよい職に就ける見込みがないので移住する、、スキルレベルが中程度の者には、母国で働き口に困らないので移住しない。
   ところが、先進国で生じている失業の大半は製造業部門で、中程度のスキルを持つ労働者で起こっており、これらのタスクは比較的簡単に自動化できるので、失業に伴う不安と怒りは移民ではなく技術の進歩・合理化に向かうべきである。
   アメリカでの高校中退の移民に多い職業は、メイド・家政婦、料理人、農業従業者で、米国生まれの中退者に多い職業は、レジ係、トラックなど運転手、清掃作業員・用務員で、両者は殆ど競合していない。
   移民が移住先の住民の経済状況を悪化させているのなら、移民と雇用を奪い合っているのなら、その国の住民の賃金が下がるはずだが、その徴候はなく、不利な条件にあるのは、移住時期の早かった移民だと言うから興味深い。
   また、移民が行政の福祉事業から不均衡に利益を得ている、移民が労働者として貢献する以上に、社会事業の受給者として得をしていると言う非難に対してだが、移民の方がはるかに就業者率が高く、あらゆる行政レベルにおいて、政府の受給金以上に税金を払っていて、より大きなプラスの純財政的貢献をしている、不法移民は、税金を払うだけで、社会福祉の恩恵など受け得ないのである。

   さて、高度な知識や技術、スキルを持った移民の恩恵には、計り知れないものがあり、アメリカが、世界一の一等国になり得たのは、これらの高度な知的頭脳の流入あってこそだと言えようか。
   グーグル、インテル、イーベイ、フェイスブック、リンクトイン、テスラ、アメリカを一変させた企業だが、これらの企業の創業者や共同起業者は移民である。アメリカのテック系ベンチャーの23%は移民が創業し、アメリカの「ユニコン企業」87社のうち44社が移民による創業である。移民はホスト国の人間より革新的で起業する傾向が強くて、経済にとって移民は恩恵だという。
   科学分野のノーベル賞受賞者、全米で85人だが、そのうち33人、すなわち、40%近くが外国生まれである。知識集約型経済が成長し続ける世界において、アメリカが、世界一革新的であると言う地位を維持し続けるためには、移民の活躍が必須だと言うことである。
   トランプが、アメリカ経済にとって虎の子の科学者やビザの発給を制限したが、こんな馬鹿なことをしていると、豊富な人材を活用するために企業が研究開発拠点を海外に移すので、アメリカは仕事が立ちゆかなくなると、WSのブレッタ・グレノンが説いている。
   アメリカが移民を規制すると、恩恵を受けるのは、中国、インド、カナダで、アメリカの企業がこれらの国に研究開発拠点を移転してしまうと言う。
   尤も、アメリカ人の雇用を奪うという心配は皆無ではないであろうが、閉鎖政策が、アメリカの科学技術の発展進歩、ひいては、経済社会の成長発展に大きく齟齬を来すことを考えれば、自由で解放されたアメリカの国是を押し通すことが如何に大切かは自明である。

   先進国の多くの国は、少子高齢化によって人口が減少傾向にあり経済的にも下降傾向を辿っているのだが、アメリカが、これと大きく違っているのは、主に地政学的にも当然だが、メキシコを筆頭とした中南米からの難民の流入が継続していて、この人口の若返りで、減少することなく増え続けて行き、経済成長を維持し、国力を増進し続けられるであろうと言うことである。
   そして、アメリカが、世界最高峰の大学や研究機関、最先端の科学技術を駆使した革新的な企業を擁して、イノベーションを追求する土壌を育む限り、知的リーダーとして覇権以上の輝きを増すであろう。
   しかし、トランプのようなアザ花を咲かせれば、一瞬にして夢が吹き飛んでしまう。
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マウロ・ギレン 著「2030:世界の大変化を「水平思考」で展望する」(1)出生率

2021年09月08日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   2030を展望した未来予測と言うべきであろうか。
   「第1章 出生率の動向を追う」では、出生率と移民について論じているのだが、この段階から面白い議論を展開しているので、今回は、このトピックスについて考えてみた。

   私が子供の頃には、世界人口は30億人と学んだのだが、今では75億人。
   1968年に「人口爆弾」という本が出て、地球上に人が溢れて、その過程で人類を、そして、莫大な数の動植物を滅ぼしてしまうのではないかと、世界中の政府も国民も、この不可避と思える事態を真剣に恐れてきた。
   しかし、今や、欧州や米国、東アジアで出生率が低下する一方、アフリカや中東、南アジアでは出生率の低下が緩慢に進み、
   著者は、2030年になる頃には、人類は”赤ん坊不足”に直面する。と言うのである。
   下図は、世界人口に占める地域別人口比率である。
   

   それでは、世界中で出生率低下の理由は何なのであろうか。
   まず、今日の女性は、経済社会が豊かになって、家庭の外の好機をより多く享受している。その好機を摑むために、より高い教育を受け、出産時期の引き延ばしに繋がる。経済のみならず広く社会において女性の役割が変化したことが、世界的な出生率低下の背後にある最も重要な要因である。
   更なる要因は、セックスに対する興味の低下で、
   マルサスが見落としていたのは、現代の技術が如何に性欲を減退させるかで、技術と性欲の関係は驚くほど単純で、娯楽の種類が増えれば増えるほど、セックスの回数は減退する。現代社会は、ラジオやテレビからビデオゲーム、ソーシャルメディアまで様々な娯楽の選択肢を提供している。面白いのは、シンガポールの急速な経済成長の勢いを維持するためには若い人口が必要だと、政府が、子供の居ない夫婦を選んで信書を出し、バリ島の休暇に無料で招待して、”その気になる”ことを期待したが、子供は生まれなかった。と言うこと。
   また、お金も、子供を持つか持たないかを決める重要な要素である。
   収入が上がれば、人は、数を増やすのではなく、質の高さを求めるようになる。「子供の数と質の相互関係は、収入の上昇とともに子供の実効価格が上がる最も重要な理由だ」とベッカーが説く如く、より少ない子供により多くの愛情を注ぎ、持てる資源を投入する。

   さて、この章のサブタイトルは、「人口不足、アフリカのベビーブーム、来る産業革命」
   2030以降、人口が増加するのは、アフリカだけで、これからは、アフリカの人口を養うという大きな好機が訪れると説く。
   アフリカが、膨大な人口爆発を支えきれるのかという疑問については、下図を見れば分かるように、ソ連と南アメリカとオセアニアを除けばすっぽりと世界の国々が収まるほど、アフリカは巨大なのである。ここで言う産業革命というのは、第5次とか第6次だとか言った新しい産業革命ではなく、農業革命や経済構造の向上による成長発展と言うことで、先進国へのキャッチアップである。これらについては、これまで、このブログで、BOPビジネスやリバース・イノベーションなどで論じてきたので、省略する。
   私自身は、政治的な要因が帰趨を決すると思っているので、著者のように一本調子の展開は疑問だと思っている。
   

   この章で、もっと面白いのは、中国の一人っ子政策が、回り回って、アメリカ人の住宅ローンと消費者ローンの金利を下げて消費を煽り、アメリカの消費者に棚ぼた式の利益をもたらしたと言う指摘である。
   元はと言えば、中国人は男の子を好むので、一人っ子政策が、男女差の不均衡を生み出し、若い層で、男の数が女の数を約20%も上回っていて、結婚市場の熾烈な競争に勝とうと、息子が結婚できる可能性が高まるようにと、息子を持つ家計が貯蓄に励んだので、実質貯蓄が60%増大した。この男女比の不均衡が原因となった中国の貯蓄がアメリカに貸し出されて、消費経済を煽ってアメリカの好況を招き、結果的には、サブプライムローンから金融大恐慌を招いてしまったと言うことであろうか。
   また、この男女比の不均衡が、デジタル経済に影響を与えた。出会い系サイトが活況を呈して、欧米の一夜限りの相手探しではなく、中国では婚活サイトに集中して、デジタル関連消費を煽ったと言うから面白い。

   ついでに、ロシアの男女比不均衡についても触れている。
   この方は、逆で、大抵過度の飲酒で、多くの男性が早死にして、男性が少ないのである。
   ロシアについては、人口学者のエマニュエル・トッドが、過去に、ロシアの人口減に注目してロシアの没落を予測し、その後の人口増で、見解を改めていた。しかし、プーチンは、人口減による国力低下に神経質になっており、ウクライナなどからの移民政策を積極的に推進している。
   人口は、国力の最重要な決定要素なのである。
   
   移民ついては、次回に回したい。
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