熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立能楽堂・・・狂言の会「鴈礫」「千鳥」「賽の目」

2015年01月31日 | 能・狂言
   最近は、能楽堂で、狂言だけの「狂言の会」が上演されることが、多くなったようで、私など、上演時間が短いし、それに、分かりやすいので、楽しみにしている。
   今回は、夫々、30分以下くらいの3曲で、夕刻ながら、帰りも早くなってベターである。
   

   「鴈礫」は、
   狩りに来た大名(シテ/大藏彌太郎宗家)が雁を射ようとしたところへ、突如通りかかった男(茂山良暢)が石礫で雁を打殺し持ち去ろうとする。
   悔しがった大名が、自分が狙い殺したので自分のものだと主張して、男に矢を向けて脅す。   
   そこへ仲裁人(善竹忠一郎)が現れ、大名に、雁を射ることができたら、大名のものとしようといい、その雁を基のところへ置いて射させる。
   射抜こうとして矢を番えたのだが、矢が手元に落ちて失敗してしまったので、男が雁を持って立ち去る。

   これだけの話なのだが、狩り姿に威儀を正した厳つい恰好の大名が、本来なら、このあたりに住むものでござるなどと言って出て来るのだが、冒頭から、「いずれもご存じの者でござる」と大言壮語して登場し、全編、威張り散らすのだが、狩りは全くの初歩で、恰好は良いのだが、矢を反対に番えるなど、真面に弓矢が使えないダメ大名。
   狙い殺したと言う言い分も笑止千万だが、死んだ鴈を射るにも自信がないので、二人を睨みつけながら、少しずつ仕切り線を外して前ににじり寄る小心さや、鴈を持ち去ろうとする男に向かって、片羽がひなりとも置いて行け、羽箒にすると言って、後を追って揚幕へ走り込むと言う惨めさ。
   勿論、大名狂言の大名は、家来が一人か二人と言う小名なのだが、これが、庶民の面前で、醜態を晒して、笑いものになると言う可笑しさ面白さ。
   流石に、大蔵流の宗家で、彌太郎の芸は、徹頭徹尾、格調の高さと滲み出る笑いとアイロニー、実に上手い。

   次の「千鳥」は、3曲の中でも最もポピュラーな曲であろう。
   今回は、大蔵流である。
   急な来客で、主(若松隆)は太郎冠者(シテ山本則俊)を呼び、酒屋(東次郎)へいって酒を買って来いと命じるのだが、太郎冠者は、つけが残っているので嫌だと断わるのだが、主は、成功して帰れば口切りをさせるとと約束し、太郎冠者を無理矢理行かせる。
   酒屋に酒を無心するが、前回の支払いが終わらねば渡す事は出来ぬと突っぱねられる。
   思案した太郎冠者は、話好きの酒屋に面白い話を聞かせ、その隙を見て酒を持って帰ろうと思いついて、
   津島祭りで見た千鳥を取る話を仕方話として語ることとして、酒屋の主人に囃させ、謡い舞いながら隙を見て酒樽に手をかけるのだが、失敗し、今度は、山鉾引きを試みて、樽を橋掛かりに向かって引いて行くのだが、これも失敗。
   次に、流鏑馬の話をして、酒屋に「馬場のけ馬場のけ」と先払いをさせて、太郎冠者は木杖にまたがり後について、流鏑馬の騎手の態で舞台を回りながら、隙を見て、酒樽を持って一目散に逃げて行く。
   酒屋が気付いた時には、橋懸りに走り込んでいて、後の祭り。

   さて、1年半くらい前に、和泉流の舞台を観た筈だが、大分内容が違うようなのだけれど、全く記憶が定かではない。
   いずれにしろ、掛け買いの清算がついていないので、酒屋が樽を渡さないのだが、太郎冠者が四苦八苦しながら、仕方話で、酒屋の隙をついて、持ち逃げすると言うストーリーで、太郎冠者と酒屋の掛け合いが面白いのである。

   和泉流では、流鏑馬を2度行い、
   太郎冠者が、樽に手を掛けるのを酒屋が見とがめると、太郎冠者は、弓を構えて危ないと脅し、更に走り回って「当たりとなあ」と左手で的の扇を打って酒屋を倒して、樽を持って行く。と言うようで、いわば、持ち逃げである。
   その意味では、大蔵流の場合には、太郎冠者と酒屋は相口(互いに話が合う間柄)だから、主が、そこの所は上手く話して来いと好い加減な事を言っており、太郎冠者が代わり(代金)を取に帰ろうとするのに、酒屋が、どうせ暇だし、もう一つ面白い話をして良く出来たら代わりはいらないと引き留めての流鏑馬の話であるから、何となく、ほんわかとした可笑しみがあって、この方が、悪気がなくて狂言らしいように思っている。
   人間国宝東次郎は、益々元気で、芸の冴えは流石であり、弟の則俊の太郎冠者と呼吸ぴったりで、心地よいリズム感豊かな舞台を楽しませてくれた。
   

   「賽の目」は、あまり上演されないようだが、登場人物が、少人数の狂言だが、聟候補三人・舅・召使い・娘と6人も登場して劇的効果も高く、30分弱の上演時間ながら、非常に面白かった。
   和泉流の狂言で、芸達者な萬斎が、表情豊かでユーモアたっぷりの軽妙洒脱な芸で、非常に面白い舞台を見せてくれた。

   ある金持ち(石田幸雄)が、自慢の美人の一人娘に聟を探そうとして、算用に達した者(計算に強い人物)を聟にすると高札を立てる。
   これを知った候補者(深田博治、高野和憲)が次々と親もとを訪ねると、舅は、『五百具の賽の目の数はいくつか?』と問うので、悪戦苦闘するも、分からないので好い加減な答えをして、追い返される。
   最後に、計算の名人(萬斎)がやって来て、謡い舞いながら見事な回答をしたので、聟に決まり、吉日なので祝言を上げるべく、娘(竹山悠樹)が呼び出されて対面する。
   両人、580年万々年も連れ添いましょうと誓う。恥ずかしそうにしながら、聟が嫁の顏を観たくて、被きを取ると、これが、まれに見るおかめ。
   びっくり仰天、腰を抜かして逃げ惑う聟を、嫁が捕まえて背に負って、橋懸りに連れこんで幕。
   美人だ美人だと言いながら、深層の令嬢と言うことか、被きを取ると、オカメの面と言うのが面白い。

   計算に強いと言うことは、算術に長けた商才のある男と言うことであろうか。
   今では、バランスシートが読める会計財務に強い男を後継者に迎えると言うことかも知れないが、昔は、読み書きそろばんと言ったので、要するに、頭の良い才能のある男と言うことであろう。
   それにしても、候補者たちが言っているように、見目麗しいとか他の条件を無視して算用に達した者と言うだけの指定が面白い。

   この話は、男が嫁を得たくて祈願して、醜女に巡り合って逃げ惑うと女狂言の一つで、
   西宮の夷三郎のお告げで釣針を垂らして嫁を釣ると言う「釣針」や、清水の観音に祈願して、月の夜に五条の橋で笛を吹いて妻乞いする「吹取」と言った狂言と同じで、いずれも、嫁を得た嬉しさで、千年も万年もと誓いながら、被きを取ると目も当てられない醜女であったので逃げ惑うと言う、全く身勝手な男を揶揄したような話で、その泣き笑いが面白い。
   
   この「釣女」と「吹取」とも万作家の和泉流の舞台で見ており、醜女を掴むのは、「釣女」では、シテ太郎冠者の萬斎、「吹取」では、シテ男の万作で、夫々の素晴らしい至芸を楽しませて貰った。
   理屈抜き、ストレートの可笑しみ、悲しさ、迸り出るヒューマンなユーモアである。
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エコノミスト誌・・・Go ahead, Angela, make my day

2015年01月30日 | 政治・経済・社会

   エコノミスト誌が、アレクシス・チプラス首相の登場によるギリシャの新しい展開について、”Go ahead, Angela, make my day”とするタイトルの興味深い記事を掲載した。
   今回のギリシャ問題は、5年前のユーロ危機の再燃であって、即、ヨーロッパの問題であると同時に、盟主たるドイツにとっても大問題なのである。
   チプラスは、単一通貨ユーロに対するのみならず、ヨーロッパ大陸に厳しい道標を強いているアンゲラ・メルケルに対して途轍もない挑戦を挑んだと言うのである。
   ミロのヴィーナスが、メルケルに向けて拳銃を構えて、アンゲラ、やってみろと挑戦状を突きつけている図が、凄まじい。

   The Economistは、英国の世界最高峰の経済週刊誌なので、そのギリシャ問題をどう考えているのか、非常に興味深いので、これについて、考えてみたいと思う。
   要約を交えながら、私論を加えて行く。

   今回のチプラスの賭けは、ギリシャのユーロ体制への存続を望んではいるのだが、Grexit、すなわち、「ギリシャのユーロ圏離脱」問題が、俎上に乗る。
   5年前のユーロ危機の時には、メルケルは、北の債権国や南の債務国がともに、ギリシャのユーロ体制からの離脱は、ヨーロッパの銀行にも経済にも悪影響を及ぼすと神経質になっており、経済危機を引き起こした元凶だと批難されるのを恐れて、ギリシャをサポートしたが、今回は、政治的にも経済的にも事情が違って来ている。

   ヨーロッパ経済は、当時より強くなっており、ギリシャ債務の80%は、他国政府や公共機関が保有しており、オランダやフィンランドが、ドイツ同様に、二回も金融危機を救って貰った時に交わした約束を履行せよと、ギリシャに強硬に対している。
   また、ラテンヨーロッパ諸国の中道政府は、このギリシャの恐喝紛いの要求が成功すれば、自国の有権者たちが、スペインのポデモスのようなポピュリスト政党になびくことを恐れている。

   それでは、これに対する有効な対処方があるのであろうか。
   今回の問題は、経済的と言うよりは政治的な問題であり、両者の擦り合わせが難しい。
   エコノミスト誌は、3つの方法、良い方法と、壊滅的な方法と、その折衷の方法を提示して、検討を加えている。

   まず、良いと言う手法だが、チプラスの主張について、正しかったと言うのは、    
   ギリシャへ課したEUの緊縮財政は過剰であり、ギリシャは、6年間に渡って増税を実施し公共支出を削減してきたが、国家債務は、GDP比で109%から175%に増加し、返済不可能になった。
   ECBの金融緩和策は適切だが、メルケルの政策は、ヨーロッパの経済の喉首を締め上げてデフレを引き起こしている。と言うこと。
   ギリシャが、アフリカの破綻国家のように、債務免除を要求するのは、正しいと言うのである。

   チプロスの悪い点は、
   ギリシャの構造改革を拒否したことで、12,000人の公務員削減と民有化の拒否、最低賃金の大幅アップは、ギリシャの国際競争力を削ぐことになる、と言う。
   エコノミストの提案は、チプラスは、馬鹿げた社会主義を捨てて、構造改革を条件にして、債務の延期なり、あわよくば、額面バリューの切り下げなどによって債務削減を画策することで、更に、ギリシャ政治経済に巣食う経済的な寡占など優遇措置の排除や汚職などを撲滅することである。としていて、これは、北の国の見解に近く、
   とにかく、債務の削減を必死に願い出でて、構造改革を含めて、ギリシャをまともな政治経済社会の国にすべく努力せよと言うことである。

   これを、良い方法だと言うのだが、第一、チプラスの公約である公務員の削減などの構造改革後回しは、絶対に譲れない生命線であって、ある意味では、ギリシャ経済の浮揚なり再活性化のための有効需要増の要となり得る手段なので、他の需要増手段がなければ、ギリシャ経済の再生は有り得ない筈である。
   ギリシャの国民性なり、意識なりを変革して、構造改革を実施するなど一朝一夕には無理だが、とにかく、ギリシャが、5年間努力して、徒手空拳で、緊縮財政を続けて来て、クルーグマンが指摘しているように、かなりの結果を得たと言うのには、驚きを感じているものの、まず、相当なEUの譲歩、援助・サポートがなければ、この第一案は、実現不可能であろう。

   さて、次は、最悪の事態であるギリシャのユーロ圏離脱である。
   チプラスが、クレイジーな社会主義者であり、メルケルが、ECBの金融緩和を認めていない以上、Grexitの可能性が強くなる。
   楽観主義者は、2012年よりダメッジは少ないと言うのだが。
   まず、ユーロから離脱すれば、ギリシャでは、銀行が破産し、資本管理が強化され、国民の所得が下落し、現在25%の失業率がさらに悪化するなど経済はズタズタになり、更に、EUそのものからの離脱となるであろう。
   ヨーロッパへのドミノ倒し効果が波及して、ポルトガル、スペイン、イタリア等のユーロ離脱が俎上に乗ることにもなりかねない。

   さすれば、一番考えられるのは、第三の束の間の気休めの妥協案。
   チプラスの要求が認められなければ、ギリシャ国民の信用を失墜する。
   また、逆に、多少なりともギリシャの要求が認められるのなら、他国の反発を招くであろうし、救済案の如何なる変更も、フィンランドを含めて数か国では議会の承認を必要とする。
   もし、これらが承認されれば、ポルトガルやスペインの有権者が、政府の緊縮財政政策に反旗を翻し、もっと悪いことに、緊縮財政に反対し、ユーロからの離脱を策しているフランスやイタリアの極右・極左のポピュリストたちを、益々、勢いづけることとなる。

   それに、技術的な問題もある。
   ECBが、チプラス政府が、債権者との合意が出来なければ、ギリシャの銀行への緊急融資やボンド購入を拒否するであろうし、諸種の行き詰まりが、ギリシャの銀行の経営を悪化させる。
   満期期限の延長にしても、チプラスには有利だが、メルケルにすれば、オオゴトである。

   流石のエコノミストも、チプラス・ギリシャの今後は見通せないようで、成り行き傍観と言うところであろうか。
   尤も、このコラムの最後の、Hello to Berlinと言うと部分が、非常に興味深い。

   とどのつまりは、ギリシャは、ヨーロッパに、難しい選択を迫るであろう。
   幸い、ギリシャの要求が認められたとしても、ギリシャ国民は、幸福の幻影(fool’s paradise )を味わうだけに終わるかも知れない。と言うのである。
   ユーロ危機後5年経っても、南のユーロ圏の国は、ゼロ経済成長に沈み、猛烈な失業に陥り、緊縮財政にも拘わらず、債務が増加の一途で、デフレ不況に嵌まり込んでしまっている。
   政治が、そのような貧困な結果を招くのなら、ギリシャの国民の反乱が、起こったのは、当然予測可能であって理解できる。抜本的な解決をしなければ、ラテンヨーロッパ諸国の経済危機は、解決不可能かも知れない。と言うことであろう。

   メルケルが、はずみ車を誘発するような成長戦略を取り、ユーロ圏のデフレを終息させる努力をしなければ、1990年代の日本で起こったよりもっと酷い失われた10年を引き起こすであろう。
   このことが、ヨーロッパ全域において、ギリシャ以上の大規模なポピュリストの激しい反動を引き起こす。
   そのような環境下において、単独通貨ユーロが、存続し続けて行けるのかどうか、予測は難しい。
   最大の損害を被るのは、ドイツそのものではなかろうか。
   と結論付けているのだが、私も、そう思っている。

   私は、先日のクルーグマンのコラムで触れたように、このギリシャ問題は、如何なる理由や理窟があろうとも、ドイツが、EUの盟主として、自国問題として、解決すべきであって、それ以外の道はないと思っている。
   ベルリンの崩壊後、東西ドイツを統一した、あの偉業から考えれば、GDP3%のギリシャの救済など可能な筈で、スペイン、イタリア、ポルトガルを失えば、その損失は、図り知れないほど甚大である。
   20世紀の不幸な二度の世界大戦の悲劇を避けるために、ヨーロッパの英知が、政治的に築き上げたEUであり、今回の問題も経済危機ではあるが、政治的に解決することが大切だと思う。

   今、P・テミンとD・バインズの「リーダーなき経済 The Leaderless Economy」を読み始めている。
   再来する可能性の高い世界経済危機から世界を救う方策について、ケインズの国際貢献を再評価しながら、再生への道を提示しようと言う大著だが、EU問題を考えるためには、さしあたって、ピケティよりは、参考になるであろうと思っている。
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上野東照宮の冬ぼたん

2015年01月29日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   久しぶりに上野へ出て、東照宮の冬ぼたんを見に行った。
   この頃では、東京文化会館や博物館などへ行く以外は、上野への足は遠ざかってしまった。
   冬の上の公園は閑散としていて、外人観光客がちらほら、街頭芸人の熱演も、何となくもの悲しい。

   東照宮の冬ぼたんは、ほぼ満開で、多少くたびれた株もあるけれど、今、一番見頃だと思う。
   真冬の寒い時期に、凛として咲く花の華やかさ美しさは格別だが、それだけに、場違いのような感じがして、その健気さが悲しい。
   
   
   
   

   冬ぼたんは、晩春に、絢爛豪華に咲き乱れる春ぼたんと違って、雪除けのわら囲いを頂く所為もあるのであろうが、少し小ぶりのようで、それが中々風情があって良い。
   このわら囲いは、本来なら、北を背にしてかけられるのであろうが、このぼたん苑では、観客サービスであろう、すべて遊歩道に向いてオープンなのが面白い。
   
   
   
   

   ぼたん苑の背後に、築地塀越しに、東照宮の五重塔や唐門の屋根が見え隠れする。
   それに、苑内にも、あっちこっちに、趣向を凝らした飾りつけがしてあって、観光客の被写体になっていて面白い。
   
   
   
   
   
   

   丁度、今、ピンクの綺麗な紅梅が咲き始めていて、生垣のサザンカなどがバックになって、ぼたんを引き立てている。
   ロウバイやクリスマスローズ、ミツマタ、水仙、椿なども彩りを添えている。
   
   
   
   
   
   
   
   

   「奉納冬ぼたん俳句」と言うコーナーがあって、訪れて来た人たちの俳句が、短冊に書かれて、ボードに張り出されている。
   この苑内には、冬ぼたんの株の横に、俳句を書いた立札が立てられていて、詠みながらぼたんを見ていると、何となく雰囲気が出て来て面白い。
   私は、俳句が五七五であることだけしか知らないのだが、
   凛と咲く それでも悲し 寒牡丹
   
   

   ところで、何時も、出口にある茶店で、温かい甘酒を頂くのを楽しみにしていたのだが、隣の東照宮の唐門が修復完了した所為なのか、火気使用禁止とかで、大関のカップ甘酒。
   あのカップ酒と同じ姿のビンが出て来て、全くの興ざめ。
   これまでの紙コップでも、無粋も甚だしいのだが、ああ、京都の茶店が懐かしい。
   
     

   東照宮の唐門は、美しくなって金ぴか。
   日光の東照宮のような雰囲気になってしまった。
   境内のあっちこっちの絵馬掛は、鈴なりで、結構、外国語が多くて、あのアラビア語やタイ語、分からない外国文字の絵馬まで架けられている。
   何を願っているのか、分析してみると面白いだろうと思う。
   昔京都で見た、
   ”男はんを、忘れられません。どないしたらよろしおすやろ”と書いてあったのを思い出した。
   (この日使用したのは、ソニー サイバーショットRX100)
   
   
   
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ポール・クルーグマン・・・Ending Greece’s Nightmare

2015年01月27日 | 政治・経済・社会
   ポール・クルーグマンが、昨日のNYTのコラムで、「Ending Greece’s Nightmare」を書いて、ギリシャのチプラス新首相は勝利したとその登場を祝福した。
   Mr. Tsipras has won, and won big, European officials would be well advised to skip the lectures calling on him to act responsibly and to go along with their program. The fact is they have no credibility; the program they imposed on Greece never made sense. It had no chance of working.
   EUがギリシャに押し付けて来た経済再建策は、何の信憑性もなく、道理に叶ってはいなかったし、作動する筈さえなかった。
   EUは、チプラス首相に、最早、EUとの約束を履行せよとは、言うなと言うのである。  

    He will be the first European leader elected on an explicit promise to challenge the austerity policies that have prevailed since 2010. And there will, of course, be many people warning him to abandon that promise, to behave “responsibly.”
   実現不可能なギリシャ型の緊縮財政を旨とした経済復興プログラムに挑戦すると公約して選ばれた初めてのヨーロッパのリーダーだと持ち上げている。

   さて、まず、このコラムのクルーグマンの見解を整理してみると、ほぼ、次のようになる。

   ギリシャの政治的激震を理解するためには、IMF,ECB,EU委員会のトロイカがギリシャに課した Greece’s May 2010 “standby arrangement”(ギリシャ向け300億ユーロのスタンド・バイ取決)、すなわち、緊縮財政と改革を条件とした借款を注視しなければならない。
   トロイカは、冷静かつ現実的だと装っているが、最悪のドキュメントであり、絵空事(Fantasy)であって、ギリシャ人たちは、エリートの妄想に代価を払い続けてきた。

   この取り決めで、ギリシャは、経済成長も雇用増にも殆ど効果のない厳しい緊縮財政を強いられた。
   取り決めがなされた時には、ギリシャは、既に、不況下にあったにも拘らず、翌年には少し経済は悪化するが、2011年には回復する。と見込まれていたのだが、実際には、予測が外れて、失業率は、2009年には9.4%であったのが、2012年には15%となり、どんどん悪化して行った。

   実際に露見したのは、経済的かつ人的な悪夢(nightmare)であった。
   2011年から不況が加速度を増して高進して、完全な不況となり、やっと、2014年に底が見えたが、失業率は28%に、若年層の失業は60%に達しており、回復半ばとは言え、不況前の生活水準に達するかどうか、近未来の見通しは全く立たない。

   では、何が悪かったのか。
   ギリシャは、取り決めを守らず、支出削減をしなかったのではないかと言われることがあるが、決してそんなことはなく、必死に努力し、
   蛮刀を振るって公共サービスを切り詰め、公務員の供与をカットし、社会福祉支出を削減し、何度にも亘る緊縮財政と公共支出を、当初の予定を上回って削減を行って、2010年より実際にには、20%減少した。

   しかし、ギリシャの債務問題は、計画当初よりも悪化して行った。
   ギリシャ政府は、GDPシェアで前よりも高く税金を取り、2012年には、より好条件の債務削減を受けたにも拘らず、経済成長を実現できなかったが故に、GDPがどんどん下落して行き、債務増加率は減少して行ったものの、債務のGDP比率は、上昇を辿って行った。

   当初の予測が、甘すぎたのだが、これは、石頭の官僚が、ファンタジー経済学に溺れた所為で、EU委員会とECBは、支出削減による直接雇用破壊効果は、民間セクターの楽観主義の高まりによって凌駕されると信じ、多少懐疑的であったIMFも、緊縮財政のダメッジを過小評価していたのである。
   トロイカが、真に現実的であったれば、不可能を要求しなかった筈である。
   ギリシャ再建策開始2年後に、IMFが、緊縮財政を強いたギリシャ・タイプの再建策が、主要債務免除なりインフレーションなしに、成功した例が、これまで、歴史上にあったかと調べてみたら、一例もなかったのである。

   
   さて、クルーグマンは、今回のチプラスの登場によって、債務免除や緊縮財政政策が緩和されたとしても、ギリシャ経済が、しっかりとした回復に向かうかどうかは疑問だと言う。
   そして、ギリシャが、ユーロ圏を離脱する準備が整っておらず、そして、ギリシャ人の心構えが出来ていなければ、上手く行けるかどうかは、クリアではないとも言っている。
   それ程、ギリシャ経済の悪化は深刻であり、この救済もそうだが、ピケティが警鐘を鳴らした経済格差拡大の深刻さをも考えれば、現代資本主義の病み具合は、かなり、進んでいると言うことであろう。

   最後のコメントが面白い。
   モラルが改善させるまでは、懲罰しつづけようとするEUの官僚たちよりも、チプラスは、もっとリアリスティックである。
   他のヨーロッパは、チプラスを助けて、ギリシャの悪夢を終わらせよう。と言うのである。

   これまでにも、何度も書いたので蛇足は避けるが、政治的統合を後回しにして、全く、政治経済社会体制も違えば、歴史も文化も違う異質な国々を包含して、経済的統合を、進めたことに無理があり、今回のギリシャ問題も、経済的に、最後まで、ギリシャを救い切ろうと言う意識が、EUの参加国、特に、ドイツにないところに問題がある。
   確かに、経済崩壊前のギリシャの放漫経済の酷さは言語道断だが、元々、ドイツとギリシャの統合など不可能だった筈で、これが、同じ国家なら、当然、徹頭徹尾、ギリシャを救済せざるを得ない筈である。
   EU統合で、一番メリットを得ているのは、ドイツだと思うが、クルーグマンが言っているのも、要するに、ギリシャ問題は、ギリシャ独自の問題としてではなく、一つの世界として、問題を考えよと言うことである。
   瀕死状態の経済に、ドラスチックな公共支出や雇用の削減を強いて需要サイドを徹底的に切り詰めて、経済成長の芽を一切摘んだところには、経済成長なく、不況からの脱出策は有り得ないと言うことで、最早、モラルの問題ではなかったと言うことである。

   スペイン、イタリア、ポルトガルも、ギリシャと同じ問題を抱えており、今や、EUそのものも、デフレ不況と言う日本病に蔓延しつつあり、経済的危機に直面している。
   今年の台風の目は、ヨーロッパであろう。
   ロシアも、どうなるか、予断を許さない。

   世界は一つ、日本だけが安閑と出来る筈等など、全くない。
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国立能楽堂・・・大蔵流狂言「禰宜山伏」

2015年01月26日 | 能・狂言
   庶民代表の太郎冠者が主役で、威張り散らす横柄な大名やインチキな坊さんとか、上に立つ人物を徹底的に茶化して笑い飛ばすのが狂言であるから、特に、峻厳な霊山で霊験を得るために厳しい修業をする修験者である山伏は、笑いの格好のターゲットである。
   一般庶民にとっては、高徳な阿闍梨であるから、中々近寄りがたき存在なのだが、狂言に登場する山伏は、何故か、判で押したようにインチキくさいへたくそなお祈りをして、益々、事態を悪化させて、笑いの対象となるのである。

   少し前に観た「蟹山伏」もそうだが、大峰・葛城で峰入りして修業を済ませたばかりの駆け出しの山伏が、国へ帰る途中に、事にあたって、大言壮語した手前へ、必死になって祈るのだが、一向に祈りの効果が発揮できずに恥をかくと言った話は、典型的な例であろうか。
   この「蟹山伏」だが、強力を連れて羽黒山に帰る途中に、蟹の精に出くわして、強力が耳を挟まれたので、山伏が祈って離させようと呪文を唱えるのだが、全く効果なく、山伏自身も耳を挟まれてしまうと言う話である。
   祈りの文句が、いつも、ボロロンボロロンとか、ボロロンボロとか、ボロンボロと言った意味不明の呪文であるので、イカサマ模様が良く分かるのだが、その扮装が、兜巾・鈴懸・水衣・括り袴の厳めしい姿であるから、その落差の激しさが、更に、可笑しみを醸し出す。
   山伏ものの狂言は、それ程多くはないのだが、登場人物も多くて派手で、一番面白かったのは、茸(くさびら 和泉流 大蔵流では菌(くさびら ))であった。

   さて、今回の狂言「禰宜山伏」は、シテ/山伏 善竹十郎、アド/禰宜 大藏吉次郎、アド/茶屋 善竹忠重、アド/大黒 善竹大二郎。
   伊勢の禰宜と羽黒山の山伏とが茶屋であう。
   山伏が威張って禰宜に肩箱を担がせようとするので、茶屋が仲裁に入り、茶屋所有の大黒天を互いに祈り比べして、影向した方の勝ちにし、その意向に従うことにしようと提案する。
   大黒は、禰宜の祝詞には快く従い、山伏のボロンボロには、ソッポを向いて、山伏が自分の方を向かせようとして袖を引くと槌を振り上げる。
   焦った山伏が、相祈りを強要して、再び競い合うのだが、結果は同じで、自分に靡かせようとするので、怒った大黒が、槌を振り上げて山伏を追い駆け、橋掛りに駆け込むので、禰宜と茶屋がその後を追う。
   
   至って単純な話だが、山伏が、最初から威張り散らして居丈高に登場して、禰宜や茶屋を人を人とも思わない振舞い振りで、茶屋がサーブした茶が熱いと言って散々文句を言い、言われもないのに、禰宜に肩箱を持てと強要するなど傍若無人で、茶屋の禰宜びいきは勿論、大黒天も、大人しい禰宜を贔屓するのは当然だと言う雰囲気を作り出してしまっているので、見ている方も、何時、山伏を遣り込めるのか、期待して見ている。

   このあたりの芝居と言うか芸だが、剛直で豪快な善竹十郎の弁慶は、出色で、それに、人の好さそうな好々爺の大藏吉次郎の禰宜が、柔のホンワカとした雰囲気を出して対応しており、その対照の妙が、面白い。
   茶屋の善竹忠重が、また、実直で優しい対応をして、硬軟リズムをつけて受答えしていており、朴訥な雰囲気の大黒の善竹大二郎の演技と相まって、上質な笑劇を見ているようで面白かった。

   今月は、間狂言「貝尽」を見過ごしたが、復曲狂言「茄子」と大蔵流狂言「成上り」を見ており、月末には、狂言の会があって、「鴈礫」「千鳥」「賽の目」を鑑賞することになっている。
   これまで、随分、狂言を楽しんで来たが、能のように、威儀を正して鑑賞しなければならない初歩の私にとっては、気楽に、ブッツケ本番で楽しめるのが有難い。
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国立能楽堂・・・観世流能「橋弁慶」

2015年01月24日 | 能・狂言
   今日の普及公演の能は、「橋弁慶」。
   私が子供の頃に「京の五条の橋の上・・・」と歌っていたよく知っている、牛若丸と弁慶の出会いと主従の誓いを主題にした曲である。

   能のことは知らなかったのは当然なのだが、私の理解では、
   千本の刀を集めようと刀狩をしていた弁慶が、あと一本で千本と言う日に、五条橋の上で牛若丸に出会って、ひらりひらりと交わされて打ち負かされてしまい、敵わぬと思って家来になると言う話である。
   弁慶も牛若丸も、その出立やシチュエーションなどは殆ど子供の頃の理解と同じなのだが、
   この能は、全く話の中身が違っていて、千人切りをするのは、荒法師の弁慶ではなくて、牛若丸の方で、この日も、牛若丸が獲物の来るのを五条の橋の上で待っているところへ、弁慶が通りかかると言うストーリー展開なのである。

   大体、能の場合の義経は、子方が演じている場合が多く、この能のシテは、前後とも弁慶(武田志房)で、牛若丸(武田章志)は、子方が、堂々とシテと渡り合うばかりの立働きをしていて、中々の見ものである。
   ついでながら、トモ/弁慶の従者として志房の長男の武田友志が登場しており、牛若の章志が、友志の長男であるから、この日は、非常に稀有で目出度い三代能が演じられたのである。
   シテの志房は、直面で、精悍で重厚な表情が冴えていて感動的な武蔵坊弁慶を舞い、牛若丸の章志が、9歳ながら、12~3歳の堂々とした若武者ぶりを器用に演じていて、素晴らしい舞台であったので、映画やテレビ、本などで得た情報やイメージを総動員して、頭の中で、五条の橋の上での牛若と弁慶の遭遇を思い描きながら楽しませて貰った。
   
   この曲は、上演時間65分と言う非常に短い舞台で、それに、ワキ方が登場せず、殆ど、弁慶と牛若の舞台で、アイの洛中の男二人が、間狂言のように、牛若に切りつけられて這う這うの体で逃げて来て恐怖に戦くと言った芝居を舞台で演じており、ストーリーもシンプルで、詞章も分かり易い表現であったので、字幕に頼らなくても楽しむことが出来た。

   この日は、甲南大の田中貴子教授が、「京の五条の橋の上」と言うタイトルで、「橋弁慶」をめぐる説話など、京都や五条橋など詳しく解説されたので、興味深く聞いた。
   私自身、京都で大学生活を送り、その後も頻繁に京都を訪れており、この清水や五条(松原通り)あたりも良く知っているので、大体のイメージは湧いてくる。
   
   さて、ここで、牛若丸、すなわち、義経を、どう言う人物であったと考えるかと言うことである。
   まず、この能の如く牛若丸が千人切りの当事者とするならば、その目的が、父義朝の仇を討つために平家所縁の人たちを狙うと言うことは分かるのだが、何故、洛中の一般庶民まで手に掛けるのかと言うことである。

   義経に対しては、日本人の大半は、判官贔屓で、歌舞伎も文楽も、芝居も小説も、そして、物語の大半は、美化されていて、素晴らしい武将として理想的に、時には神格化さえして描かれている。
   果たして、そうであろうか。

   私は、平家びいきなので、判官贔屓ではない。
   大分以前に、吉右衛門の「義経千本桜」の「渡海屋」「大物浦」のレビューで、次のような文章を書いたことがある。
   ”一般的な評論に、義経役者(この時の義経は富十郎)に品格が要求されるとしているが、私見ながら、これは判官びいきの見解で、(この舞台はともかくとしても)、私自身は、義経が、壇ノ浦の戦いで、絶対にやってはならない敵方の船の漕ぎ手や船頭、婦女子など射てはならない人々を、情け容赦なく射抜くなど禁じ手を、勝つ為には平気で使うなど、平家との戦いにおいて、あっちこっちで条規を逸した戦略戦術を使っているので、許せないと思っているし、舞台上はともかくも、品格など必要ないと思っている。”
   別に、義経について、悪意も何もないが、普通の歴史上の武将と考えれば良いと思っているだけである。

   粟谷能の会の「橋弁慶」についてで、粟谷明生師が、義経像について、非常に興味深いレポートを書いていて参考になる。
   ”・・・、七歳の春には、母に暇を乞い、具足、刀、笛などを餞別に得て鞍馬に登山しています。しかし牛若は平家の稚児達と一騒動を起こし、別当の押さえや常磐の諫めで一応おさまるもののさまざまな事件を起こし、とかく暴れん坊の問題児だったようです。
十一歳ごろ牛若は沙那王と呼ばれ、僧正ヶ谷に通って大天狗に兵法を学んだといわれています。”として、
   能『鞍馬天狗』について触れて、幼い牛若に、源氏の残党と思われる天狗が、”平家の横暴や義朝の非業の死、源氏再興の願いなどを話し、源氏の無念を晴らすのだと教育したものと思われ、現に牛若は天狗に会ってからは学問そっちのけ、剣術ばかりに打ち込んで、ますます暴れん坊に磨きをかけていきます。”と言う。
   更に、”天狗の教育が利いてか、牛若は十五歳になると、父の孝養のために千人辻斬りの願を立てます。非業の死をとげた父の無念を晴らすためといわれています。千人斬りの相手は恨みある平家方の武士だけではなく一般町民にも及んだようです。それにしても千人とは大変な願だったと思われます。
   このように見ると、歴史的には能『橋弁慶』が描くように、牛若の千人斬りのほうが信憑性があるように思えてきました。”と解説していて、非常に興味深い。
   

   さて、私は、壇ノ浦での、戦争法違反(?)についてだけ触れたが、
   義経が頼朝の怒りを買った原因については、ウイキペディアでは、
   許可なく官位を受けたこと、平氏追討に頼朝から軍監として派遣されていた梶原景時の意見を無視して独断専行で事を進めたこと、壇ノ浦の合戦後に義経が範頼の管轄である九州へ越権行為をして仕事を奪い、配下の東国武士達に厳しく対処して頼朝を通さず勝手に成敗し武士達の恨みを買ったなど、自専の振る舞いが目立った事。主に西国武士を率いて平氏を滅亡させた義経の多大な戦功は、恩賞を求めて頼朝に従っている東国武士達の戦功の機会を奪う結果になり、鎌倉政権の基盤となる東国御家人達の不満を噴出させた。
   また義経の性急な壇ノ浦での攻撃で、安徳天皇や二位尼を自害に追い込み、朝廷との取引材料と成り得た宝剣を紛失した事は頼朝の戦後構想を破壊するものであった。”としている。
   頼朝だけが一方的に悪いのではなくて、義経にも、相当の非があって、不幸にも仲違いを引き起こしたと言うことであろう。

   生まれも育ちも違った頼朝と義経が、会って意思の疎通を図る機会も殆どなく、義経が、平家討伐と言う歴史的な大事業を成し遂げたのであるから、このような行き違いや独断専行があったとしても、不思議ではなく、その偉業(?)とも言うべき義経の働きについては、それなりの評価をすべきであって、いささかも色褪せる筈もない。
   義経にとっては、悲劇であったればこそ、歴史的な事実はともかく、判官贔屓が、日本人の琴線を振るわせるのであろうが、物語の世界では、格好の話題を提供していると言えよう。

   ところで、この能「橋弁慶」は単純だが、観世流にしかない小書「笛の巻」では、粟谷の会によると、
   ”通常の前場と様相がガラリと変わり、前シテが常磐御前、ワキが羽田秋長となり、ワキが牛若の千人斬りを常磐御前に伝えます。常磐御前は牛若を呼び、涙を流して悲しみ、弘法大師伝来の笛を渡して牛若を諭します。牛若は母の仰せに従い、明日にも寺へ登って学問に励むと約束して、今宵ばかりは名残の月を眺めて来ると出かけます。しかし実際には五条で月を見ると言いながらも、謡では「通る人をぞ待ちにける」と、最後の相手を待ち望んでもいる・・・”と言うことになって、今回の能の舞台に、すんなりと話が繋がる。

   いずれにしろ、我々が抱いている義経像に対して、一石を投じたような、能「橋弁慶」の興味深さは、中々のもので、色々なことを考えさせてくれた。
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わが庭の歳時記・・・鹿児島紅梅一輪咲く

2015年01月23日 | わが庭の歳時記
   昨日は、雨模様で寒かったのだが、今日は朝から好天で、一気に温かくなった。
   門の脇に植えてある鹿児島紅梅が、一輪だけ咲いていた。
   他の蕾も大きく膨らんでおり、もうすぐだと思っていたので、春の息吹を感じて嬉しくなった。
   小さな濃い紅梅だが、小梅を結すぶ中々風情のある梅で、何時も、楽しみにしている。
   もう一本の大木の豊後梅の蕾も、白い花弁が見え始めたので、もうすぐ満開になるであろう。
   昨年は、沢山実が成ったので、梅酒を作ったら、素晴らしく芳醇な出来で、楽しむことが出来た。
   
   
   

   まだ、開花までには、時間がかかるが、春の木、椿も蕾をつけていて、少し色づき始めた。
   タマグリッターやピンク賀茂本阿弥やナイトライダーやフルグラントピンクなどは、やっと、地植えが土地に馴染んだのか、今年は、花芽をつけなかった。
   蕾をつけてスタンドバイしているのは、越の吹雪とジョリーパール、ブラックマジック、エリナ、それに、鉢植えのエレガンスシャンパンやシュープリームなど。
   どのように咲いてくれるのか、楽しみにしている。
   
   
   
   

   晩冬ないし初春の花のクリスマス・ローズも、花芽を出し始めて、早いのは、綺麗な花弁を地面から起こし始めた。
   わが庭の花は、やや遅いと思うのだが、昨年、沢山通信販売で買って植えつけたので、今年は、色々な花を鑑賞できそうである。
   前の庭では、殆ど夏期には葉が枯れて無くなってしまっていたが、この庭では、一年中、緑の葉をつけていたので、下草としても重宝しそうである。
   
   

   今、門の外の花壇で咲いているのは、ハボタンや、雲間草、パンジー。
   これは、園芸店で買って来たのを、そのまま移植した。
   庭で、もうすぐ咲き出しそうなのは、沈丁花の花であろうか。
   ボケの蕾も色づいて来た。
   
   
   
   

   剪定をしたバラも、イングリッシュ・ローズは、かなり早いのだが、ベルサイユの薔薇も、芽が見え始めて来た。
   鉢植えのモミジ鴫立沢などの芽もスタンドバイしている。
   もう、春の足音が、そこまで近づいてきているのである。
   
   
   
   
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国立劇場・・・通し狂言「南総里見八犬伝」

2015年01月21日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   曲亭馬琴の読本『南総里見八犬伝』を台本にした歌舞伎だが、28年もの年月をかけて著した長編小説で、全106冊を終えたのは1842年だと言う長大なストーリーを、たったの4時間くらいの通し狂言にしているので、かなり無理がある。
   しかし、うまく纏まっていて、江戸文学の常套手段の「勧善懲悪」「因果応報」を旨とした怪奇趣向の話だが、派手な見せ場やスペクタクル展開の舞台が見せて魅せてくれて、新春早々のお芝居としては、まずまずの出来である。

   この物語だが、
   結城の戦いに敗れた里見義実が、安房へ落ち延び、安房国滝田の城主に治まるのだが、隣国の館山城主安西景連の攻撃にあう。
   愛犬八房に、敵将景連の首を取って来れば、娘の伏姫を与えると言ってしまったので、その功績で、伏姫は仕方なく、八房を連れて富山の洞窟に籠る。
   伏姫は、絶対に体を許さなかったが、八房の気を感じて懐妊してしまったので、身の純潔を証するため、、自害して果てるのだが、この時、役の行者から授かった護身の数珠から八つの玉が飛び散って、この八方へ飛んだ八つの仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の霊玉を持った八犬士が生まれ出でて、里見家を再興すると言う話である。

   実際の物語は、伏姫は、八房を寄せ付けず、洞窟に籠って仏道三昧で、許婚の金碗大輔が、鉄砲で八房を撃ち殺すのだが、この歌舞伎では、伏姫に挑みかかろうとした八房を、伏姫が、抵抗しながら刺し殺すと言う展開になっていて、八房の獣性を見せているのが面白い。

   一般的な知識しかなかったので、本を読もうと思ったのだが、岩波文庫でも、相当大部であるし、結局、安西篤子の南総里見八犬伝」を読んだ。
   この集英社のわたしの古典全集は、その方面の作家や学者など女流の第一人者が執筆しているので、信頼でき、これまで、他の古典でも、結構、お世話になっている。

   
   とにかく、八人も犬士が登場してくるし、他にも登場人物が多くて非常に複雑な物語なのだが、この歌舞伎の主要な役者たちが演じる八犬士の部分を、そこを主体に抽出してきたようなストーリー展開となっていると言えようか。
   尾上菊之助の信乃を筆頭に、菊五郎の道節、時蔵の毛野、松緑の現八、亀三郎の小文吾と言ったところである。
   物語性のあるのは、序幕の武蔵と二幕目の下総くらいで、他の幕は、上演時間も短くて、話の辻褄合わせと舞台を見せると言った感じになっていて、所謂、江戸歌舞伎の手法である。
   しかし、いずれにしろ、省略と説明なしの舞台展開が多いので、殆ど予備知識なしに見ている観客は、十分に筋が追えないのではないかと思うし、私など、船虫や庚申山の妖猫退治など他にも面白い話があって、どの部分を選ぶか、歌舞伎化には、かなり、苦労したのではないかと思っている。


   冒頭から主役は、菊之助の信乃で、日頃の女形の素晴らしさの魅力には、やや欠けるのだが、凛々しい若武者ぶりを見せていて、許嫁浜路(梅枝)との色模様や、芳流閣での犬飼現八(松緑)との大屋根上の派手な組討など、大車輪の活躍である。
   菊五郎の演じる犬山道節は、家伝の書のお蔭で火遁の術を使うと言う忍者まがいの芸当ができるので、この歌舞伎の呼び物である迫力抜群の爆発音と光を伴って紙吹雪が客席まで飛び散る、派手な舞台を揺るがすような大火焔の中から登場したり、敵陣へ乗り込むので、八犬士の頭領格となっている。
   歌舞伎の舞台だからであろう、特別に浮かび上がらせた座長役者の役どころだと思うのだが、この通し狂言の舞台の魅力を支えている。

   時蔵の犬坂毛野は、本来の女田楽師として登場して、父の仇である馬加大記舘に乗り込んで、華麗な舞を披露しながら、囚われの身の小文吾を助け、大記(團蔵)を討つ。
   この毛野は、美女と見紛うほどの田楽師で、小文吾に結婚を申し込んだので、小文吾も女性だと信じて承諾したと言う馬琴の設定が面白い。
   小文吾の亀三郎は、信乃と現八とを結び合わせると言う役どころだが、豪快な立ち回りと剛毅な演技が素晴らしい。

   現八の松緑も中々の好演だが、もう一つの役どころである悪役の綱乾左母二郎は、本来の性格俳優ぶりを遺憾なく発揮して、信乃の名刀村雨をすり替えたり、浜路をかどわかして連れ去り、嫁にならぬと抵抗するのを殺してしまうと言った役どころも、アクの強い演技ながら面白い。

   信乃をのけ者にしたい意地の悪い大塚蟇六の團蔵と女房亀笹の萬次郎夫婦の中々味のある芸達者ぶりや、足利成氏の彦三郎の威厳と重みのある演技など、脇役陣の活躍も素晴らしい。

   信乃を思い続けて死んで行く健気で薄幸の浜路を演じる娘役の梅枝は、実に感性豊かな演技をしていて感動的である。
   一寸出だが、冒頭の重要な役どころの伏姫を演じた尾上右近も、瑞々しくて毅然とした美しさが光っている。

   最後になったが、八犬士の宿敵である扇谷定正の左團次は、貫録と風格十分。
   肝心の討伐には至らず、またの機会に戦場でと言う歌舞伎の常套手段で八犬士と舞台に勢揃いして見得を切り、手拭い撒きをして幕と言う結末。
   どうも、スペクタクル舞台を観て楽しむ歌舞伎だったようで、何らかのストーリー展開を期待して見ていた私には、一寸異質な舞台であった。

   正月なので、何時ものように、綺麗な羽子板が飾れていた。
   書道家武田双雲さんの書や房州うちわなども展示されていて面白かった。
   
   
   
   
   
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我が庭の歳時記・・・遅まきながらカサブランカを植える

2015年01月20日 | わが庭の歳時記
   わが庭は、今、花っ気が殆どなく、彩がないので殺風景で一寸寂しい。
   咲いているのは、典型的な日本水仙の小さな花で、あのギリシャ神話のように、寒さに抗して凛とした姿が素晴らしい。
   この水仙の花を切って来て、小さな花瓶に挿しておくと、結構、花持ちが良くて、長く楽しませてくれるのである。
   
   

   もう一つ咲いているのは、白侘助だが、花弁が薄くて弱いので、すぐに、寒さにやられて傷がついたり黄ばんでしまうので、中々、鑑賞に耐えられず、それに、花が咲くと、すぐに花弁が落ちてしまうので、この椿だけは、生け花にして楽しむのは難しい。
   前の千葉のわが庭には、30種類以上の椿を庭植えしていたので、今では、既に、色々な侘助や紅妙蓮寺などが咲いていると思うのだが、鎌倉へ持ってきたのは、鉢植えで、5鉢くらい。
   庭植えにしたのが、やっと根が活着したのか、今年は、生育段階に入った感じで、蕾も殆どつかず、寂しいのだが、待つしかない。
   どの椿の木の実か記憶がないのだが、実生苗を持ってきて、庭に移植したのが、活着して落ち着き始めた。
   何年か先には咲き始めると思うのだが、雑種であろうから、どんな花が咲くのか楽しみである。
   

   庭植えにしたブルーベリーのまだ落葉せずに残っている紅葉が、夕日に映えて美しい。
   実が成って色付き始めたのが、アオキの実。
   夏みかんが、沢山、実を結んで、重そうにぶら下がっている。
   鎌倉山のカラスも、酸っぱいので、アタックしそうにない。
   
   
   

   千葉に居た時には、頻繁に、ガーデニング・センターや園芸店に行っていたのだが、鎌倉に来てからは、車を処分したこともあって、殆ど行かなくなった。
   昨秋に、春の花の球根を買いそびれたので、ネットショッピングしようと、インターネットを叩いたら、カサブランカなどのユリしか残っていなかった。
   店に行けば、自分の好みで選ぶのだが、別に花の種類に拘る訳でもないので、30球入っていると言う福袋を、年末にオーダーしておいたら、やっと、届いた。
   福袋と言っても、送料が高いので、決して安い買い物でもないが、間に合ったのだから良しとしよう。
   カサブランカは、コンカドールと言う黄色の花だが、大きな球根が5球入っていて、他に、白いココッサ、赤い花の縁が白い玉之浦椿のようなフラッシュポイントとキャンディークラブが5球と10球ずつである。
   3球ずつ9号鉢に5鉢、後は、半日影と言うことなので、木陰になる庭の空間に、適当に植えつけた。
   梅雨頃に咲くようだが、華やかになるであろう。
   
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ヘルシオお茶プレッソでお茶を一服

2015年01月18日 | 生活随想・趣味
   シャープから、「ヘルシオお茶プレッソ」と言う便利なものが出ていると言うので買ってみた。
   私の場合、普段は、コーヒーか紅茶しか呑まなくて、緑茶の方は、家族が煎れてくれた時だけにしか飲まないのだが、どうも、健康上は、緑茶が一番良いと言うことのようなので、興味を持ったのである。

   緑茶については、学生の頃に、宇治の茶問屋に下宿していて、そこの女主人に、何度か本式に茶の入れ方を教えて貰いながら頂いていたので、知ってはいても、中々、手間がかかって大変なのである。
   尤も、特別な時には、私が家族のために淹れることがあるのだが、それも、少なくなった。

   コーヒーは、メリタのドリップか、ネスカフェのバリスタ。
   紅茶も、昔は、フォートナム&メイソンからダージリンのファースト・フラッシュを買って、丁寧に入れていたが、今は、ダージリンのティ・パック。
   尤も、コーヒーは、ブラジルに居て、紅茶は、イギリスに居て、本格的なものは、経験しているので、多少の知識はある。
   しかし、毎日となると、大変で、手を抜くようになってしまった。

   さて、ヘルシオお茶プレッソだが、私の場合には、煎茶だが、多少上等な茶葉を買ってきて、挽く・沸かす・点てると言うことになる。
   抹茶を作る際に使われる「石臼」にならい、セラミック製の臼がゆっくりと回転して、茶葉をきめ細かな粉末状に挽き、それを瞬時に点てるのであるから、香りがそれなりに拡がり、味も全く遜色なく、結構、美味しい。

   臼の回転音が一寸気になったり、粉末が、外に漏れたり、それに、その粉末を、点てる容器に移さなければならないなど、多少の面倒はあるのだが、新鮮なお茶を、ほんの数分で飲めると言う便利さは、中々捨てがたく便利である。

   私にとって、もう一つの利便は、臼で挽いて作った粉末を、日頃、重宝しているパナソニックのパン焼き器ホームベーカリーで、強力粉に混ぜて、使っていると言うことである。
   一緒に入れて焼くスキムミルクや砂糖・塩やバターと一緒に加えれば良いので、至って簡単であり、緑茶のエキスを、パンと一緒に頂けると言う訳だから、一挙両得である。
   ほんのりと、ウグイス色に色づいたパンが出来上る。
   私の場合、水の代わりに牛乳を使い、レーズンやナッツを加えるので、かなり、ヘビーなパンが出来上がるのだが、これが、中々、行けるのである。

   今は、寒くて庭も殺風景だが、春になると、庭の花も咲き乱れるので、窓を開けたり、庭に出てテーブルでコーヒーを楽しむとか、このあたりの便利な器機を活用して、多少、生活にメリハリをつけようかと思っている。

   時には、メジロやシジュウカラなどの可愛い小鳥たちが、梅の木や花木に渡ってきたり、ウグイスが訪れたりして来るので、カメラをそばに置いて置けば、憩いながら、小動物たちの営みを楽しめると言うことにもなろう。
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バラの剪定、神田神保町、そして、国立能楽堂

2015年01月16日 | 今日の日記
   午前中は、雨上がりでもあったので、冬のバラの剪定と、つるバラの誘引を行った。
   1年前に移転した時に、旧宅の庭に残したり、人に上げたりして、殆ど手放したので、鎌倉に持ってきたのは、イングリッシュ・ローズを主体にして、たった9鉢。
   それなりに、庭の植栽が整った庭なので、庭植えは、シャルル・ド・ゴールの行燈仕立てだけで、今のところ、ばらを植える空間がなく、当分、10号鉢くらいの鉢植えで、通す以外にはない。

   ハイブリッド・ティーは、思い切り切り詰めて、フロリバンダは、やや、軽く適当に、イングリッシュ・ローズは、3分の1程度切り詰めて、形を整える程度にした。
   つるバラは、オベリスク仕立てなので、適当に間延びした枝などを間引いて、残りの伸びた枝を、ぐるぐる巻きにした。
   寒肥をやって、薬剤散布をすれば、一応、冬の世話は終わりである。

   午後、遅く神田神保町に出かけて、久しぶりに、古書店を回った。
   やはり、紙媒体の出版物の斜陽傾向が止まらないのであろうか。
   古書店の撤退と言うのか、消えて行ったり、経営者が変わったりと、最近は、移動が激しいような感じである。
   
   古書店で買ったのは、1996年出版の
   ノーマン・レブレヒト著「巨匠神話 誰がカラヤンを帝王にしたのか」
   定価3,400円が、1,080円。第4刷だから、結構売れた本のようである。
   原書は、1991年刊で、20年以上も前のものだが、ハンス・フォン・ビューローから、フルトヴェングラー、トスカニーニ、ワルターを経て、ラトル、ヴェルザー=メストまで、
   とにかく、私が買って聞いた最初のレコードが、トスカニーニやワルターあたりからで、多くは、欧米に居た頃の大指揮者の話なので、、私にとっては懐かしい限りであり、それらの人たちの興味深い話題のオンパレードであるから、古書だったが、殆ど使用感がなかったので、喜んで買った。

   三省堂で買ったのは、NHK出版新書の
   ジョン・W・ダワー&ガバン・マコーマック著「転換期のにっぽんへ」
   ダワーの大著「敗北を抱きしめて 」は、まだ、積読なのだが、以前から読もうと思っていたのを忘れていて、新書コーナーを回っていて、気が付いて買ったのである。
   まだ、「対米従属」を続けるのか?と帯に大書された知日派の大家の警告の書で、帰りの車内で読み始めたのだが、面白い。

   夕刻は、国立能楽堂で、定例公演。
   大蔵流狂言「成上り」、金剛流能「山姥」である。
   能は、世阿弥作と言われており、「山姥」の登場だが、俗に言われている山姥とは違って、正に、自然と一体になったような神性を帯びた山姥で、都で名を馳せた曲舞の名手・百魔山姥(ツレ/豊嶋晃嗣)が謡い、本物の山姥(後シテ/豊嶋三千春)が舞うシーンが素晴らしい。

   梅原猛さんが、「能を観る」と「世阿弥の恋」で、この山姥を解説しているが、この都一の名人である百魔山姥の舞いも、真の山姥の舞にくらべれば、取るに足らない。世阿弥が、人気絶頂の能役者である自分の芸も真の芸になっているのかどうか、自己批判の曲だと言えようと言っているのが興味深い。

   北参道からメトロに乗って、東横線で横浜へ。
   大船経由で、自宅についたのは、11時前。
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『オリエント急行殺人事件』・・・フジテレビ

2015年01月14日 | 映画
   アガサ・クリスティの『オリエント急行殺人事件 Murder on the Orient Express』を三谷幸喜がテレビドラマ化した「オリエント急行殺人事件」が、フジテレビで放映された。
   娘たちが好きなので、アガサ・クリスティの推理小説をドラマにしたポアロやミス・マーブルの番組を、せっせと録画をしているのだが、私自身は、それ程、見たことはない。
   しかし、魅力的な役者が登場する2夜にわたる意欲的な番組だったので、珍しく、録画したのを、全編見たのだが、非常に面白かった。

   昭和初期の日本、昭和モダンが花開いた時代の超豪華寝台付き特急列車「東洋」を舞台にして、実業家・藤堂(佐藤浩市)が殺されると言う殺人事件を、同列車に乗り合わせた私立探偵:勝呂武尊(野村萬斎)が裁くと言う話。
   勝呂は、犯人の動機は、5年前に起こった剛力家の悲劇に始まり、その「復讐」であると推理する。
   その事件とは、剛力大佐(石丸幹二)と、その夫人・曽根子(吉瀬美智子)の一人娘聖子が誘拐され身代金を支払ったにも拘らず殺害され、心痛で妻は死に夫は自殺し、メイドの小百合(黒木華)は、殺人の手引きを疑われて獄中で自殺すると言う不幸な事件である。

   勝呂は、鉄道省の役人・莫(高橋克実)と医師の須田(笹野高史)を助手代わりにし、車掌の三木(西田敏行)を使って、寝台車の乗客12人、
   被害者・藤堂の秘書・幕内(二宮和也)、執事・益田(小林隆)、おしゃべりなマダム・羽鳥夫人(富司純子)、教会で働く呉田(八木亜希子)、轟侯爵夫人(草笛光子)、外交官の安藤伯爵(玉木宏)、安藤伯爵夫人(杏)、能登陸軍大佐(沢村一樹)、万年筆の販売員・羽佐間(池松壮亮)、博多の輸入自動車のセールスマン・保土田(藤本隆宏)、家庭教師の馬場(松嶋菜々子)、轟侯爵夫人のメイド・昼出川(青木さやか)を一人ずつ尋問する。
   これらの12人と車掌の三木は、総て、剛力家と関係のある所縁の者達で、剛力夫人曽根子の実母鳥羽夫人(元大女優)の指揮下、家庭教師の馬場の計画、その恋人で剛力の親友能登大佐の補佐で、自殺したメイドの父・車掌の三木を含めて(曽根子の妹安藤夫人を除く)全員が犯人となって完全犯罪を目論み、犯行に及ぶ。

   ポアロ版のストーリーは、ポアロが、急用でロンドンへの帰途、イスタンブル発カレー行きのオリエント急行に乗り、列車が、ボスニア・ヘルツェゴビナのヴィンコヴツィとブロドの間で積雪による吹き溜まりに突っ込み立ち往生する中で、アメリカの富豪サミュエル・ラチェットの殺人事件に遭遇すると言うことになっていて、ラチェットが、刃物によって全身を12か所にわたってメッタ刺しにされて殺害されていたと言う設定なども、三谷版と殆ど同じで、舞台が、関が原付近で、大雪のために列車が身動きが取れなくなったと言うことになって完全に日本版になっている。

   詳細は、省略するが、能楽堂で観ることの多い和製ポアロの萬斎、父親に良く似て来て貫録十分の藤堂の佐藤、秘書・幕内の二宮、車掌の西田を筆頭に充実した男優陣に、松嶋や富司や杏や草笛など素晴らしい女優陣の名演が、芳醇なボルドーの香りと雅の綾織の如き彩を添えて愉しませてくれる素晴らしい5時間のドラマである。
   ここでは、ただ一点、最後のポアロと勝呂の対応が、違っており、それが、非常に意味深で興味深いので、その点に絞って、感想を記しておきたい。

   本事件の真犯人は、ラチェットであることは明白なのだが、当時のアメリカの世相を反映していてマフィアの圧力によって判決が歪められて無罪放免になるのに対して、三木版では、藤堂に対する状況証拠は揃っているのだが、直接証拠が立証できないので無罪放免にされる。

   最後の結論だが、ポアロは、法は法だと強硬に関係者に攻め寄るのだが、最後は感動的な幕切れで、列車を降りて、雪中の車外で出迎える地元の警察官達に、残されていた車掌の制服を示して犯人は車掌に変装して社内に潜り込んで殺人を犯して逃げたと説明して、去って行く。
   ポアロの捌きで、初めての真犯人見逃し(しかし、情けある大岡裁き)に遭遇したのであろう、苦渋に満ちた厳しいポアロの表情が印象的であった。
   三木版は、勝呂が、獏と須田の見解を聞いて、犯人は殺害後車窓より逃亡したと言う見解に同意して、保土田を車外に出して雪中を走り回らせて、足跡の証拠を消させ、東京に着くまでに、事件記録を書くことになる。

   このストーリーの重要なテーマは、平和であった市民生活が悪質な殺人事件によって、一気に奈落の底に突き落とされてしまったにも拘わらず、私利私欲のために残忍な殺人を犯して置きながら、明確に犯人だと分かっている極悪人が、法体制の不備によって、のうのうと生き続けて暴利を貪っている。
   これに対する、何の罪もない善意の人間が鉄槌を下そうと試みた殺人事件である。

   どうしても許せないと言う善意の人間の怒りを、どう解決するのか。
   あのソクラテスは、裁判にかけられ死刑判決を言い渡された時に、ギリシャを限りなく愛するが故に、「悪法もまた法なり」と言って毒杯をあおいで死んで行った。

   ポアロも、
   でたらめな12人の陪審員による私的制裁だ。
   ならず者のリンチと同じで、このようなことがまかり通れば、中世の暗黒時代に逆戻りだ。
   と、自分達には何の罪もない善意の人間が、義憤にかられて止むにやまれずやったのだから正しいのだと言う人たちに向かって、法を犯した殺人だと激しく叱責・詰問する。
   正義とは、一体何なのか、激しく厳しい告発である。

   ポアロ版の結末には、あのアル・カポネが全盛を誇っていた正に無法地帯とも言うべきマフィアの暗躍時代を考えれば、善意の小市民の安全や正義、あるいは、市民生活を守るためには、法体系なり法システムが不備である以上、カウンターベイリング・パワーとして、ある程度の理解は出来ると思う。

   その意味では、三谷版は、非常に面白い娯楽番組になっているような感じがする。
   
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ライブ・エンターテインメント産業がLの救世主か?

2015年01月13日 | 政治・経済・社会
   先日の冨山和彦氏の本の中で、ぴあ社の社外取締役をしていて、ライブ・エンターテインメント市場は、リーマンショックや東日本大震災を挟んだこの期間、基本的に一貫して緩やかに成長してきた成長産業だと論じていて、ポール・マッカ―トニーの2万円近い10万枚のチケットがほぼ即日完売し、コンサート会場には日本各地のLの生活圏から熱烈なファンが足を運ぶ。と書いている。

   日本は明らかに「モノ」の消費市場としては、成熟段階に入っているが、「コト」消費の時代の到来で、サービス産業にも、「成長」のフレーバーが加わって来る。
   一般に消費社会が成熟段階に来ると、人々の消費はより文化的なもの、より無形の体験的なものにシフトするが、日本もいよいよ本格的にその段階に入りつつある予感がある。
   歌舞伎のような古典芸能であれ、ポール・マッカートニー・・・であれ、ライブ・エンターテインメントサービスの経済的な本質は、Lの世界である。生である以上、その場所で、その瞬間でしか楽しめないのだから。 
   その成長を加速するドライバーの一つが、時間に余裕が出て来た団塊の世代を中心とした中高年層で、同じく「楽しむこと」を提供する旅行・観光産業も好調で、稼働率商売の旅館や交通機関の収益改善にはいい影響を与えつつある。
   と言うのである。

   さて、そうであろうか。

   インターネットを叩けば、その関係の調査や白書、講演講義なども掲載されている。
   読む余裕もないので端折らざるを得ないのだが、SankeiBizが、「拡大するライブエンタメ市場 いまやレコード産業の売上に匹敵」と言う記事で、「ライブエンターテインメント市場への関心が高まっている。産業としての広がりに目を付けた専門展示会も登場するなど、ビジネスとしても注目の分野になってきた。」と報じている。
   「アリーナやドーム球場を使った人気アーティストのライブが開かれ、連日超満員」だとか、
   「アニメ関連音楽を中心にしたライブや、声優らが集うイベント、アニメ作品を題材にしたミュージカル」だとかの記述が主体で、 
   結論として、  
   「家や通勤・通学の途中で音楽を聞くよりも、体験として音楽を楽しもうとする人が増えている現れで、ポール・マッカートニーやザ・ローリング・ストーンズといった、入場料は高額でも数万人規模の会場を満杯にするアーティストが続々ライブを行ったことも、売上増に大きく寄与したという。
   資金に余裕があって、時間の使い方も自由な年輩層が好むアーティストの大型ライブが重なったことも幸いした。ライブ会場でグッズやCDを何万円も買い込む客も多く、ライブエンターテインメントがパッケージも含めた音楽市場というものを、新たに形成しつつあるようだ。」と報じている。

   以前には、韓流ブーム関連ライブが、大変な盛況だと言われたことがあるし、この前の紅白を見ても、福山雅治やサザンオールスターズのコンサート会場のスケールに圧倒されるが、これらは、総て、私の関わりのあるライブ・エンターテインメントの世界からは、程遠い別世界の話である。

   私が良く行く日本古典芸能の舞台では、月単位の公演が続く歌舞伎や文楽と、一回限りの能や狂言、演芸などとでは、一纏めには議論できないが、まず、チケットが即日完売と言うような公演は非常に少なく、集客には、かなり、どこの劇場や公演団体も苦労しているのではないかと思う。
   私の記憶では、即刻チケットが完売で、取得が困難であったのは、昨年五月の東京国立劇場での国立文楽劇場開場30周年記念七世竹本住大夫引退公演であった。
   4月の大阪での同じ引退公演の方は、楽にチケットが取得できた。
   歌舞伎座新開場 杮葺落四月大歌舞伎の場合でも、チケットは、容易に取得できた。

   能と狂言の場合には、どんな公演でも、一回限りであり、国立能楽堂の場合、627席しかないのだが、国立能楽堂主催の公演は、月に4~5回実施されるが、チケットが即刻完売と言うケースは、余程特別な舞台でない限りそれ程ないように思う。
   聞くところによると、他の能楽堂では苦戦しているようで、満席に出来るのは、国立能楽堂くらいだと言うことである、
   

   私が言いたいのは、落語や漫才など、かなり、アプローチがし易くて比較的楽に楽しめる演芸やお笑いの舞台は別として、能や狂言などは勿論のこと、歌舞伎や文楽などに行って、楽しもうと思えば、それなりの経験や準備が必要であって、誰でもが、金や暇が出来たので、少しは、文化的な世界に触れようと思って、簡単に気が向いて行くであろうかということである。
   大阪市が、文楽補助金を廃止して、事業ごとの申請方式に変えたが、ことの発端で、橋下市長が、文楽を初めて見に出かけた時に、2度と行かないと言ったと報じられていたが、かなりの人の反応も、それに近いのではないかと言う気がしないでもない。

   能や狂言は、少し事情が違うが、歌舞伎や文楽は、江戸時代など当時は庶民の娯楽であったから難しいものでもないから、行って楽しめば良いのだとよく言われるが、今や、古典芸術化していて、初心者にとっては、イヤホーンガイドの助けなり、それなりの鑑賞回数をこなしていないと、中々、すんなりと楽しめない。
   何かの拍子に好きになってリピーターになると言うことがあるかも知れないが、暇と金の出来た団塊の世代が、すぐに、歌舞伎や文楽のファンになって、劇場に通い始めるなどとは、到底考えられないのである。
   ある上場企業役員経験者のOB団体で、歌舞伎文楽同好会が定期的に鑑賞会を開いており、会員の夫婦連れでの参加がかなりあるが、少なくとも、このように、何かの仕掛けがない限り、新規鑑賞者の動員は難しいであろうと思う。

   ジャンルは違うが、シェイクスピア戯曲も、シェイクスピアの台詞通りに原曲に忠実な公演舞台を楽しもうと思えば、これも、かなりの鑑賞経験や勉強が必要であろうし、オペラにしても、好きな人にとっては、たまらなく魅力的かも知れないが、興味のない人にとっては、殆ど苦痛だと言う。
   随分前に、ロンドンにいた時に、アンネ=ゾフィー・ムターがロンドン交響楽団で協奏曲を弾くコンサートや、ロイヤル・オペラの「蝶々夫人」に行けなくなって、何人かに、あげるから代わりにと頼んだがダメで、興味のない人には、むしろ、迷惑・・・そんなものである。

   私自身、趨勢としては、冨山説に、それ程異論はないが、それなりの舞台設定なり、創意工夫なり、企業努力がないと、簡単に、ライブ・エンターテインメントが、Lの救世主には成り得ないと思っている。
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冨山和彦著「なぜローカル経済から日本は甦るのか」

2015年01月12日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   今日の日本の経済社会の現実を、これ程、ビビッドに活写して、これからの課題を、鮮明に解き明かした本は、少ないと思う。
   「なぜローカル経済から日本は甦るのか」と言うタイトルには、増田 寛也氏が、「地方消滅 - 東京一極集中が招く人口急減」で提示したように、「このままでは896の自治体が消滅しかねない」と言ったドラスティックな地方崩壊とも言うべき雪崩現象が、制止し得ない歴史的趨勢であるとするならば、条件付きで、疑問符をつけざるを得ないとは思うのだが、注目すべき卓見と示唆に富んだ警世の書であると思う。

   まず、この本の前提は、日本経済のパラダイムシフトの中で、日本経済には、グローバル経済圏「Gの世界」と、ローカル経済圏「Lの世界」が共存するのだが、この両者は、全く違った経済法則に基づいて動いており、前者は、製造業やIT産業が中心の「規模の経済性」が働く世界で、この分野で活躍している日本企業は、かなり善戦しているが、日本に残すのは、本社・本部機能や研究開発など高度な機能に限定されており、国内雇用効果も少なく、トリクルダウン現象も、あまり期待できなくなって来ている。
   一方、日本経済の7割は、本質的に「コト」の価値を顧客に提供する分散的な経済構造を持つ非製造業中心の後者のローカル経済圏であり、グローバル経済とは殆ど関わりなく、生産性が非常に低く、ここに、日本経済の本質的な問題がある。
   この「GとL」を理解しなければ、日本経済の現実も深刻な格差の実相も見えて来ないと言うことである。


   製造業については、国際競争力如何が総てを制するのだが、
   中小メーカーについては、小さくても世界チャンピオンを目指すか、さもなくばチャンピオン級の大手メーカーの必要不可欠な協力パートナーになる以外には、生きて行く道はないと言う。

   さて、Lの世界であるが、
   今や、中小企業の9割以上が非製造業であり、大半の企業と大半の人がグローバル経済とは無縁で、全国のローカル経済圏で、それも、地域密着型の中小非製造業で生きている。
   このローカル経済圏では、どんどん、人口が減って収縮して行き、マーケットが小さくなっているのだが、同時に、深刻なのは、人口減と共に、労働力の供給が止まって、どんどん、減少している。特に、対面型のサービス産業は、完全にその地域場所に規定されるので、供給は硬直化し、著者のバス会社でも、深刻な運転手不足だと言う。

   労働生産性格差では、大企業と中小企業の差が大きいのは、製造業より非製造業の方で、その上に、製造業より非製造業の方の生産性が低いので、小規模の非製造業の生産性は、著しく低い。
   日本の非製造業の生産性が、先進国でも低い方だが、その原因は、生産性の低い中小企業の淘汰が驚くほど進んでおらず、地域内の過当競争が解消しないまま、ブラック企業化しながらも生き続けている。
   密度の経済性が働くローカル経済圏は、元々淘汰が起こりにくい上に、中小企業政策で延命を助け、更に、個人御連帯保証や信用保証など金融システムの問題が、企業の退出コストを上げていて、新陳代謝が進まないと言うのである。

   ところが、同時に、地方では、老齢化や若者の転出などで急速に労働者不足が深刻化しており、緩慢な需要減退にも拘らずそれさえ満たし得ず、更に需給関係が逼迫して経済環境を悪化させて行く一方である。
   解決策は、生産性の低い企業には、穏やかに退出して貰い、事業と雇用を生産性の高い企業に滑らかに集約して効率化を図り、格差の伸びしろを埋めて生産性を上げることである。

   しからば、どのようにして、Lの世界の非製造業の生産性を上げるのか、
   有能な経営者を育成して、ベストプラクティスを経営に反映させて、生産性を上げる。
   労働市場においては、最低賃金を上げて退出企業を増やして、生産性も賃金も高い企業への労働移動を促進する。
   ゾンビ企業を退出させるためには、地域金融機関が適切な「デットガバナンス」を効かせること、労働生産性を高める潜在力を持った企業であり経営者の資質が十分なのかどうかを確認して融資。
   金融庁の検査基準の見直し、
   倒産法を、アメリカ型にして、穏やかな退出と集約化を促進、等々例示し、
   退出によって自己破産する必要のない個人放保証など、フォローなども細部に亘って分析を進めている。

   
   グローバル経済圏での日本企業の勝ち抜き策とか、ローカル経済のあるべき姿として提言されている諸政策などについての著者の見解については、細部は別にして殆ど異存はないし、卓見だと思っている。

   私が、一点非常に興味を持った点は、
   団塊の世代の退職なども含めて、未曽有の人手不足を引き起こすので、正社員ブームを巻き起こそうとしている。
   今回のアベノミクスは、ハンドリングさえ間違えなければ格差問題は深刻化しないだろう。
   猛烈な人手不足が進んで行くので、賃金も上がり易いからだ。
   と言う著者の見解である。

   昔、高度成長の時期に、人手不足で、散髪や美容などのサービス産業の賃金や料金が異常に高騰したことがあったが、あのような現象が、また、再発すると言うことであろうか。
   あの時は、生産性のアップを全く伴わない非生産的な産業においてまで、賃金が上昇したのだが、もし、そのような状態が起こるのなら、前述の非生産的な企業を淘汰して効率の良い産業に経営資源を集中して経済成長を図ると言う図式が、頓挫してしまうのではないであろうか。

   著者は、ユニクロの非正規雇用を一挙に正社員化したのは、止むを得ない従業員の囲い込みであって、今日のように人材を囲い込んで維持しなければ生きて行けなくなった状態では、労働者を正社員として厚遇するしかない。
   したがって、非正規雇用の問題も、製造業の偽装下請の問題も、根本的な解決策が提示される前に、重要なイシューではなくなって行く。
   この構造的なパラダイムシフトは強烈に日本を襲い、この今こそ、経済と雇用と賃金再生の大チャンスだと言うのである。

   私自身は、このパラダイムシフトに対応できるのは、競争力のある大企業なり優良企業だけであって、益々、二重構造の溝を深くして行くと思っており、
   もし、そうではなく、ゾンビ企業や非生産的な企業が、その恩恵に預かるようなことになれば、逆戻りするのではないかと思う。

   いずれにしろ、日本経済社会の少子高齢化による人口減少が、需要の減退による経済成長の鈍化を惹起するのみならず、真っ先に、最も、非生産的なローカル経済の労働市場を直撃して、供給力の異常なる減少と人手不足を引き起こして、日本経済を窮地に追い込みつつあると言う著者の指摘は、実に新鮮強烈であり、足元から十分見つめてみることが如何に重要かを示唆していて興味深い。
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国立能楽堂・・・能・金春流「富士山」能・宝生流「野守」 狂言「茄子」

2015年01月10日 | 能・狂言
   能「富士山」は、金春流と金剛流だけの演目のようで、インターネットで調べたら、金剛永謹能の会が、2012年11月に国立能楽堂で演じたようだが、文化レジタルライブラリーのデータでは、国立能楽堂では、3回くらいで、2000年7月以降、上演されていない。
   勿論、「能を読む」にも、掲載されていないし、岩波講座の能鑑賞案内にも、特別な記述はないので、インターネットと国立能楽堂のパンフレットを読んで、予備知識を得る以外にはない。
   今回は、金春流で、金春安明宗家が、前シテ/海人・後シテ/富士の山神、金春憲和が、後ツレ/かぐや姫、福生和幸が、ワキ/昭明王の臣下を演じた。

 
   初夢とともに、と銘打った公演だが、あらすじは、
   唐土の昭明王の臣下・相けいが、不老不死の薬を求めて富士山を訪れて、田子の浦に住む三人の海人に会う。
   海人は、富士山所縁の「かぐや姫」の故事を語り、富士山を「蓬莱の仙境」と讃え、天地陰陽の権化であり、三国一の名山である富士山を賛美し、シテの海人が、その女体の化身である浅間大菩薩こそ自分だとほのめかして姿を消す。
   富士の山神・日の御子が、かぐや姫を従えて出現し、相けいに、不老不死の仙薬を与え、姫が天女ノ舞を舞い、御子も楽を舞って、神仏一体の奇瑞を示して天界に帰って行く。

  
   予定では、105分と言うことであったが、実際には、2時間の熱演。
   海女たちが、富士山の崇高さと美しさ、その故事来歴の有難さを滔々と語り続けて、動きがあるのは、中入り後で、後ツレ/かぐや姫と後シテ/富士の山神の舞が、素晴らしかった。
   後シテ/富士の山神の安明宗家の面は、茗荷悪尉とのことだったが、全く顔にぴったり合っていて、化粧をした直面のような感じで、朗々と響く謡と優雅な舞に、富士山守護の山神の風格を見せた素晴らしい舞台であった。
   アイ/末社の神(井上松次郎)が、舞を披露するのも興味深い。

   まだ、富士山には上ったことはないのだが、大晦日の深夜に頂上に上って、初日の出のご来光を仰ぎ見て新春を寿ぐ気持ちはよく分かる。
   鎌倉に移ったおかげで、時々、富士山を遠望する機会を得ている。

   霊峰富士が、信仰の対象として崇められるのは当然のことで、あの崇高な美しさを仰ぎ見れば、創造主の深淵さに畏敬を覚え、誰だって手を合わせざるを得ない。
   世界には、沢山の名峰があり、スイスで、マッタ―ホーンやモンブラン、ユングフラウなどの雄姿を見て感激し、飛行機の窓からの、アンデスのアコンカグアやアラスカのマッキンレーなど、色々な機会に素晴らしい山々を見て来たが、この能でも歌われていたように、夏にも雪を頂き四季折々に変幻自在の美しい姿を見せて魅せてくれ、これ程信仰心を起こさせる山は、他にはないのでゃないかと思う。

   能「野守」は、世阿弥生誕650年で、金剛流の舞台を観ている。
   大和申楽の「鬼の能」を嫌った世阿弥が、人間的な心性を具え哲学・思想を語る鬼を目指したオリジナリティの鬼を、野守の鬼神に具現したのが、この能のようだが、今回は、黒頭で演じられた。
   逃げた鷹を映す野中の池を、野守の鏡と言う発想も面白いが、本当の野守の鏡は、鬼神の持つ円鏡だとして、後シテ/鬼神が、威勢を示す舞働で、鏡に、天地四方のみならず全宇宙の有様から地獄の苦しみまで映し出して見せると言ったところが、世阿弥のアウフヘーベンであろうか。
   恐ろしくて厳ついと言う鬼ではなく、大地を踏み破って奈落の底に帰って行くと言う凄さを見せながら、威徳と崇高さを見せるのである。
   シテ/武田孝史、ワキ/宝生欣哉、

   復曲狂言「茄子」は、和泉流・野村又三郎家が、長らく途絶えていた演目を現代によみがえらせる「復曲」活動に、積極的に取り組んでいて、その成果の一つ。
   「棒縛」に良く似た狂言で、二人の新発意が、住持の留守番中に、ダメだと言われた茄子を盗み取って、焼き茄子にして、それを肴に酒を飲み、酒盛り最中に、住持が帰って来て叱られると言う話である。
   手を使ってもがないと言った新発意が、畑に足を踏み入れないと言った新発意を背負って、茄子を取ると言う発想が棒縛風だが、狂言「栗焼」などと同じように、茄子を焼いて食べる仕草にもおかし身が出ていて面白い。

   休憩を入れて、ほぼ、4時間。
   能が二曲なので、久しぶりに長い舞台であったが、新春にはふさわしく楽しい時間であった。
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