熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

株主資本主義の軋み

2007年03月01日 | 政治・経済・社会
   杜撰な食品生産管理をしていた不二家が、生産を再開したといって鳴り物入りで開店祝いでもするかのように放映するTV局もTV局だが、企業不祥事がこれほど日常茶飯事になってマスコミの話題をさらってしまうと正常な人間もおかしくなってくる。
   日興コーディアルの粉飾決算と株式上場停止問題、みすず監査法人と言うよりも中央青山監査法人の崩壊、大手ゼネコンの談合と関係者の逮捕、電力会社の原発事故に絡む不祥事等々、同じ様なことが何度も繰り返されていて一向に止みそうにない。
   株主資本主義の軋みの視点から会社を考えてみたい。

   まず企業不祥事だが、エンロンやワールドコムなどを筆頭に、欧米の場合は、経営者が自分の私腹を肥やすための犯罪が大半だが、日本の場合の不祥事は、その良し悪しは別にして、妖しげで得体の知れないファンドやニュービジネスの経営者は別にして、前述の場合の不祥事も含めて大概の企業の場合には会社の為にと言う枕詞が付いているケースが多い。
   もっとも、この会社の為にと言う視点が、経営環境を取り巻く経済社会や人々の価値観が大転換しているにも拘わらず、時代の流れから大きくずれていてそれに対応出来ていないところに問題がある。
   法化社会になって、企業倫理とコンプライアンスが喧しく騒がれ、企業の社会的責任が大きく問われるようになり、企業活動そのものに美しさ(?)を求められる世の中になったのである。
   これらの不祥事を排除するためには、国民なり消費者なり株主なり社会を浄化すべくピープルパワーがしっかり育つことであろう。
   住民訴訟や株主代表訴訟などのカウンターベイリングパワーが再び勢いを盛返して来るかも知れない。

   ところで、ゼネコンの談合問題については次の展開を見て論じるとして、今回問題にしたいのは、証券会社の粉飾決算である。
   粉飾決算の不祥事の場合は、何時も関係当局のアプローチにいらいらするのだが、粉飾を行う必要があるのは誰かと考えれば、当然経営者であるから罪の所在は最初から極めて明確である。
   問題は、この場合、資本主義の資本主義たる由縁である株式そのものを商っている証券会社が粉飾を行ったことである。
   証取法が改定されてからアメリカ型の厳しい法体系が日本にも整備されたが、フェアな株式取引の根底にはフェアで正確な財務会計情報の開示、即ち、財務報告の信頼性の確保が必須であるが、この重要な使命を守護し守り立てて行くべき筈の証券会社が自らこれを公然と破ったのである。
   この証券会社の粉飾決算をあろうことかカネボウ事件等で分解状態であったみすず監査法人が監査証明を発行して更に財務報告の信頼性に泥を塗り罪の上塗りをした。
   日本の株式会社制度の将来が何処まで信頼に値する状態まで進展するのか心もとない限りである。
  
   ところで、今回論じたかったのは、ハーバード・ビジネス・レビューに掲載されたロンドン・ビジネス・スクールのチャールズ・ハンディの「株主資本主義の軋み What's a Business For ?」と言う英米人にしては珍しい社会への貢献等を重視した資本主義論についてである。
      
   株式市場を柱としたアングロ・アメリカ型の資本主義では、株主価値をどれだけ創出したのか、株価をどれだけ伸ばしたのかが成功の指標となる。株価を押し上げる為に、既存事業を地道に伸ばすよりは短期間にB/Sの見栄えを良くしたり量的な拡大を求めてM&Aに走るなど、株高を実現するために自社の将来を質に入れる経営者も多い。
   資本市場を王とあがめ、企業は社会を進歩させる原動力であり国家政策もこれを優先すべきだと言う信念を貫き、繁栄を謳歌したこのアメリカの利益信仰に、サッチャーなどが心酔し、一時期ヨーロッパにも影響を与えた。

   元々、ヨーロッパ、特に大陸では、無償医療と質に高い教育、障害者向け住宅、更に高齢者、疾病者、失業者などへの生活保障と言った福利厚生が当然と看做されており、株主資本主義が入り込む余地がないように思われていたが、経済社会の長期停滞で活力が不足し、規制により経済が硬直化し企業経営に精彩を欠き始めるとアメリカ流のマネジメントに影響を受け始めた。
   しかし、企業家精神は取り戻したものの、その陰で市民社会が活気を失い、医療や教育、運輸などの公共サービスの質が悪化し、投資が減少すると供に、企業トップの不祥事が続き、無謀な買収路線を突っ走って倒産する会社が出てくるなど弊害が生じて、アメリカ型資本主義に疑問が出て来た。

   企業の目的は利益だけなのか。企業は誰のものなのか。
   企業の理論上の所有者は株主だが、現実にはその株主の大多数は「投資家」「投機家」で、会社に誇りや責任を持った所有者ではなく「一山当てればそれでよし」とする株主に代わってしまっている。
   しからば、このような株主の要望に応えて利益を追求することのみが企業本来の目的なのであろうか。

   企業は財産の一種で財産法や所有権の対象となるというのは2世紀前の話で、今日では、知的資産、ブランド、特許、社員のスキルや経験や知識などソフトや知価の重要性が高まっており、これらを資金提供者の資産と位置づけて自由な売却を認めるのは現実的ではないし正義とは言えない。
   社員は法律上も会計上も企業所有者に属すると看做され資産ではなく費用であり、資産は増やそうとされるが、費用である人は削減されようとする。
   ハンディは、企業の所有権を問題にしながら、企業の根本は有能な社員にあるとして、価値を生む社員が削減対象の費用であって何故資産として処遇されないのかとして、企業の価値論の根幹を問題にすると共に、企業会計の根本的な不備を突いているのである。
   この人的資源の生み出した価値の資産化については、C.J・フォンブランが、レピュテーション価値の資産化を唱えている理論に相通ずるものがあり、将来の企業会計の課題となると考えられる。知価社会になれば当然の帰結でもあろう。
   
   企業の存在目的が単に利益を上げるだけであってはならず、利益を上げ、それを糧にしてより良い、あるいはより豊かな何かを行うことであって、企業の存在価値は、この『何か』にかかっている。
   優れた企業は、目的ある共同体であり、共同体は所有の対象として馴染まない。
   富を生み出し、分配する機能を持った団体、即ち、労働者、管理者、技術者、執行役員達が法律上、正等に認められておらず、逆に、富を生産することも分配することも出来ない株主、債権者、取締役らが構成する団体のみを法律で認めている。
   実態のある団体にしかるべき法を用意し、形式的な団体から無意味な特権を取り上げようではないか、とまでハンディは言うのである。

   ハンディは、環境問題などサステイナビリティについても語っていて、企業の社会的責任を含めた優れた共同体としての企業のあり方について問題を提起していて興味深いが、この問題は別の機会に論じたい。
   
コメント
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