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熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

マーク・コヤマ 他「「経済成長」の起源: 豊かな国、停滞する国、貧しい国」

2025年05月13日 | 書評(ブックレビュー)・読書
  この本のタイトルは、
  How the World Became Rich: The Historical Origins of Economic Growth
  どのようにして世界は豊かになったのか 経済成長の歴史的起源

  まず、第1部で、成長要因を、地理、制度、文化、人口統計、植民地主義に分けて、経済成長発展の歴史を詳細に分析して、経済成長がなぜ、いつ、どこで起こったのかを論じた主要な経済成長理論を紹介。
   これに基づき、近代の豊かさへの端緒を開いた北西ヨーロッパを皮切りにして、なぜ産業革命が18世紀のイギリスで始まったのか、そして、その後の工業化を分析して、ヨーロッパ諸国やアメリカなどが成功して成長発展を遂げて近代経済に至った道への軌跡を追う。
   最後に、後発国の章を設けて、中国やインドなどの国家経済を取り上げて、キャッチアップ型成長の前提条件が整っていたかどうかによって、19世紀以降20世紀後半から21世紀にかけて、成長発展の命運を分けた浮沈の歴史を詳述しており、また、日本やアジアのリトルドラゴンの成功物語を展開するなど、非常に興味深い。
   サハラ以南のアフリカ、中南米やアジアの貧国国などは、何故、キャッチアップできずに貧しいのか、暗黒の裏面史にもメスを入れるなど成長発展論を深堀して、人類の未来を問う。
   非常に幅の広い視点からの世界経済発展論なので、総復習のための教材としても示唆に富んでいて面白い。

   さて、それでは、「なぜ産業革命が18世紀のイギリスで始まったのか」
   これに対する著者の見解は、ほぼ、次の通りである。
   まず、産業革命前夜、イギリスに備わっていた前提条件について記し、それは、権力がある程度限られた代議制による統治、大規模な国内経済、大西洋経済圏へのアクセツ、そして高度な技術を持つ大勢の機械労働者が存在していたことであった。こうした条件のすべてを備えていたのはイギリスだけであり、こうした前提条件の多くは、ほかの条件と互いに作用しあって、一つの条件はほかの条件が揃って初めて意味を持つ。と言う。
   そして、更なる工業化への前提条件として、イギリスの高い賃金と比較的安価なエネルギー価格をあげ、続いて、イギリスに伝播していた「産業的啓蒙主義」精神の効用を説く。特に、啓蒙主義の精神には、ヨーロッパ各地の最新の科学原理が取り込まれており、イギリスだけが、科学上の成果を技術的な熟練で補うことができた。この結びつきによって、産業革命において数々の技術革新が生まれて、イギリスの工業化は単なる一時的なものに留まることなく、それどころか、以来、技術革新のペースが一貫して上昇を続けた。と説く。
   特定の単独の要因ではなく、幾多の産業革命を始動する前提条件が揃っていて、これらの前提条件がお互いに作用しあって好循環を生みだしてイギリスで産業革命が起こったという総合説である。
   先日論述した、成り上がり者社会に群生したイノベーション論を展開したアセモグルの見解と比べると面白い。
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クリステンセン他:イノベーションの経済学 「繁栄のパラドクス」に学ぶ巨大市場の創り方

2025年05月01日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   2019年に逝ったクリステンセンの最後の著書『イノベーションの経済学 「繁栄のパラドクス」に学ぶ巨大市場の創り方』
   原題は、『The Prosperity Paradox: How Innovation Can Lift Nations Out of Poverty 繁栄のパラドックス:イノベーションはいかにして国家を貧困から救い出すのか』
   従来の経営学の著作ではなく、経済発展論を論じた経済学書である。
   成長発展を目的に実施された公的なトップダウンプッシュ型の繁栄計画が、ことごとく失敗しているのに対して、イノベーターの推進する大勢の無消費者を消費者に変える『市場創造型イノベーション』が成功を収めているという「繁栄のパラドクス」論が啓発的で非常に面白い。

   世界の貧困は、支援を必要とする地域を特定し、そこに資源を投入し、時間の経過とともに変化が見られることを期待する計画で、教育から医療、インフラ整備から汚職の撲滅に至るまで、多くの解決策を実施して、最終的には貧困国の経済軌道を変えることができると信じて開発計画を推進してきた。
   しかし、この期待は効果的な戦略ではなく、殆ど失敗であった。数十億ドル相当の援助を受けた少なくとも20カ国が、現在ではより貧しくなっている。のである。

   クリステンセンは、本書で、自身の得意とする厳密で理論に基づいた分析を応用し、より良い方法を提案した。適切なイノベーションは企業を育成するだけでなく、国家をも育成する。として、
   この『繁栄のパラドックス』は、まず、トップダウン型の取り組みになりがちな一般的な経済発展モデルの限界を明らかにする。そして、これとは逆に、意欲的な新規イノベーターによる起業家精神と『市場創造型イノベーション』に基づく経済成長のための新たな枠組みこそが、後進的経済を発展に導くことを提示している。
   クリステンセンは、共著者のオジョモ、ディロンとともに、経済成長をドライブした『市場創造型イノベーション』として、フォード、イーストマン・コダック、シンガーミシンといったアメリカ自身の経済発展における成功事例を挙げ、日本、韓国、ナイジェリア、ルワンダ、インド、アルゼンチン、メキシコといった他の地域でも同様のモデルがどのように機能してきたかを詳細に説明しており、非常に興味深くて面白い。

   クリステンセンは、この書では、イノベーションを、持続的、効率的、市場創造型の3つに分類している。持続的イノベーションは、これまでの概念と同じで、効率化イノベーションは、プロセスの変革など、より少ない資源でより多くのことを行える効率化を目指すもので、両方とも、ターゲットとする顧客は変わらない。
   一方、『市場創造型イノベーション』は、新しい市場を創造する、すなわち、それまでプロダクトが存在しなかった、あるいは、高すぎて買えなかったとか何等かの理由で入手できずにいた人たちを対象にした新規市場の創造である。
   この『市場創造型イノベーション』が、強大な力を持つのは、不便や苦痛の低減に役立つ解決策を大勢の人に届けれれるからで、無消費をターゲットとする市場は、投資家やイノベーター、社会にとって莫大な利益を生む可能性を持つ。新市場が成功すると、3つの成果物、すなわち、「利益」「雇用」、そして、最も強い影響力を持つ「文化的変容」を生み、これらが合わさって将来の経済社会の成長の堅固な土台がとなる。フォードのT型車やケニアのMペサを見れば分かる。

   さて、この『市場創造型イノベーション』論だが、先にブックレビューした「W・チャン・キム &レネ・モボルニュ「破壊なき市場創造の時代 これからのイノベーションを実現する」)」の『非ディスラプティブな創造』と相似た概念で興味深い。
   両説とも、無消費、無市場を創造するイノベーション戦略を展開する最先端の経営学書で、非常に示唆に富む。
   本書でもそうだが、発展途上状態から国家を貧困から救い出す方法を展開しているように、クリステンセンのイノベーション論は、ローエンドやボトムアップから捉えているのが面白い。 
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W・チャン・キム &レネ・モボルニュ「破壊なき市場創造の時代 これからのイノベーションを実現する」)

2025年04月17日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本の後半の第2部は、「非ディスラプティブな創造をどう実現するか」である。
   まず、創造を実現するためには、心の中の台本を投げ捨てる、手段と目的を混同しない、少数ではなく大勢の力を解き放つ、と言った強力なリーダーシップが必須だと説く。
   そして、その新市場の創造には、3つの基本条件、
   非ディスラプティブな事業機会を特定する
   機会を解き放つ方法を見つけ出す
   機会を実現する
   を挙げて、詳細に論じている。

   私自身、実業には関わっていないので、この「非ディスラプティブな創造をどう実現するか」には、殆ど関心はない。
   この本で面白いのは、ブルー・オーシャンや非ディスラプティブなイノベーションのケースを多岐にわたって紹介して興味深く説明していることで、科学技術や新規企画などの胎動からイノベーションが誕生して経済社会を変えて行く様子を語るナラティブの巧みさである。

   まず、最初に技術が先行した発明ありきで面白いのは、失敗作がバリューイノベーションで大化けした非ディスラプティブなケースである。
   ポスト・イットは、くっ付く筈のノリが、すぐに剝がれて後を残さないのが功を奏して、3Mが大儲けし、
   バイアグラは、高血圧の治療薬として開発されたが効き目なく、副作用として性的興奮を引き起こし勃起するのでED治療薬となった。

   逆に、最初に目標があって、非ディスラプティブな創造となったのは、ケネディのアポロ計画で、アポロ11号が、人類を月面に着陸させた。
   一寸ニュアンスが異なるが、中国の「中国製造2025」 などもこれに似た性格であろうし、盛田時代のソニーもこれに近い破壊的イノベーションであった。

   著者は、最終章で、「よりよい世界をともに築く」で、非ディスラプティブな創造が、遠からず実現しそうな分野を例証している。
   高齢化長寿、エネルギー、発展途上国の都市化、環境問題、宇宙問題、等々、人類社会の直面する「経済善」と「社会善」の両立を目指す分野である。
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ダロン・アセモグル・サイモン・ジョンソン「技術革新と不平等の1000年史 上」(2)

2025年04月14日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   上巻で興味深いのは、「生産性バンドワゴン」についての論述である。

   技術進歩と生産性の向上に伴って、実質所得も上がったに違いないというのが常識的な考え方なので、「生産性の向上が賃金と労働者の生活水準を押し上げる流れを、生産性バンドワゴン」と称して、その推移を論じている。
   残念ながら、中世の経済には、この生産性バンドワゴンは出現しなかったという。少数のエリートは別として、人々の生活水準が持続的に向上することはなく、むしろ場合によっては悪化した。大半の人にとっては、中世の農業テクノロジーの進歩は、一層労働強化に拍車をかける手段と化し、貧しい暮らしを更に貧しくする結果しか生まなかった。と言うのである。

   余剰を吸い取って享受していた少数のエリートとは、王の家来や貴族や高位聖職者など5%ほどで、また、食料余剰の一部は、人口増加の著しい新興の都心部を支えるのに使われた。  
   しかし、余剰の殆どを食い尽くしていたのは都心部ではなく、一大支配者層たるキリスト教会で、大聖堂や修道院など次から次へと教会を建設した。               

   産業革命の場合も同様で、例えば、炭鉱では、信じられないほど不衛生で危険な環境下で、真っ暗な坑道で、長時間半裸で働く子供がいるなどは珍しいことではなく、綿業をはじめとする工場の労働環境も同様に過酷であった。 
   苦しんでいるのは子供だけではなく、労働者の実質所得が上がらないのに、さらに長時間劣悪な環境で働かせられ、工業化は、一部の人間を大金持ちにしたが、殆どの労働者は、工業化前よりも寿命を縮め、健康を損ない、過酷な人生を送ることになった。
   「生産性バンドワゴン」は、働かなかったのである。

   さて、それでは、どのようにして、傾向を逆転したのか。
   テクノロジーの変化によって労働者階級に新たな機会が生み出され、賃金を低く抑えることが、最早、不可能になったのである。それが実現したのは、工場主や富裕なエリートへの対抗勢力が、職場で、続いて政治領域で広がり始めた後のことである。この変化により、公衆衛生やインフラが改善に向かい、労働者は労働条件の向上や賃上げを求めて交渉できるようになり、テクノロジーの変化の方向が変わった。国民の大多数にとっては遥かによい結果がもたらされたのである。
   これらの進展は、自動的に生じたものではなく、鬩ぎ合いながら進んだ政治・経済改革の賜物である。

   生産性バンドワゴンが機能するためには、二つの前提条件が必要になる。労働者の限界生産性の向上と、労働者の十分な交渉力である。どちらの要因も、イギリスの産業革命の最初の100年間はほぼ欠けていたが、1840年代以降は順調に発展し始めた。
   対抗勢力の健在が、政治経済社会の健全性と安寧に如何に重要か、
   ガルブレイスが半世紀上も前に、カウンターベイリング・パワーとして論述している。
   トランプ体制に堅実かつ有効なカウンターベイリング・パワーの発露を期待したい。

   さて、人類の歴史は、結局、「生産性バンドワゴン」のon offの繰り返しの連続で階段状に進化発展を遂げて来たように思う。ここ数百年における驚異的な文化文明、経済社会の成長発展には目を見張る思いだが、その今日の社会でも、まだ、「生産性バンドワゴン」の亡霊と言うか残滓を引き摺っている。
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W・チャン・キム &レネ・モボルニュ「破壊なき市場創造の時代 これからのイノベーションを実現する」

2025年04月12日 | 書評(ブックレビュー)・読書
    ブルー・オーシャンのW・チャン・キム とレネ・モボルニュ の新しい本である。
   既存の業界を破壊せず、外側にまったく新しい市場を創造する「非ディスラプティブな創造」の追求、すなわち、「ディスラプションなき市場創造」こそが、これからのイノベーションと成長の目標だと説く新境地の展開で非常に興味深い。

   disruptionとは、破壊とか崩壊と言う意味で、経済学では、イノベーションによって新規市場が生まれて既存市場とそこで活動する既存プレーヤーに取って代わる場合を言う。著者は、disruptionを、ローエンドやボトムアップから起こると説いたクリステンセンと違って、新製品や新サービスがハイエンドとローエンドの両方において旧来のものに取って代わる形態の現象を表すとして、一般化して論じている。

   今回、新しく論じているのは、このdisruptionを伴わない「非ディスラプティブな創造」、すなわち、企業の破綻、雇用の喪失、市場の荒廃と言ったディスラプションを引き起こさずに、新たな産業を創出する、何もなかったところに新たな市場を創造する市場創造型イノベーションについてである。
   非ディスラプティブな創造とは、「既存の産業の外側における、あるいはそれを超越した、全く新しい市場の創造」と普遍的に定義できるとしている。
   例証しいているのは、生理用パッド、マイクロファイナンス、セサミストリート、ポスト・イット、バイアグラ
   全く、かって存在しなかった無市場、無消費の業態である。

   それでは、これまで論じていたブルーオーシャンの創造とはどう違うのか、
   ブルー・オーシャン戦略は、新市場開発イノベーションだが、既存業界の境界を越えて新市場を創設して、ディスラプティブな成長と非ディスラプティブな成長を混在させる成長で、非ディスラプティブとディスラプティブの中間に位置する混在形態である。と言う。
   例えば、ウーバーvsタクシー、アマゾンvsリアル書店を考えれば分かるが、ウーバーとアマゾンはブルー・オーシャンだが、旧来勢力をディスラプティブしてはいるが、必ずしも完全に、タクシーやリアル書店に取って代わっているわけではない。QBハウスも既存理髪店との競合であるし、スターバックスも既存の喫茶店と共存している。
 
   イノベーションの父と呼ばれるシュンペーターが「創造的破壊」論を展開した。「創造的破壊が起こるのは、新規市場を創造するイノベーションが既存市場を破壊しそれに取って代わる場合だ」と言うものであった。
   シュンペーターにとって経済成長の真の原動力とは、新しい種類のテクノロジー、商品サービスを生み出す市場創造型のイノベーションであった。創造的破壊は、創造と破壊は切っても切れない関係にあって、創造的破壊は絶え間なく古いものを破壊して新しいものを創造するするという概念であった。   
   しかし、著者は、シュンペーターやクリステンセンを超えて、既存産業や既存企業を破壊しない、ダメージを与えない、完全に新規な経済活動を生み出す「非ディスラプティブな創造」を論じているのである。
   一頃、バイブルのように脚光を浴びて一生懸命に学んでいたマイケル・ポーターの経営戦略や競争戦略論が、今昔の感であるのが面白い。

   極めて貴重な提言の数々、
   論点などは後述したい。
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ダロン・アセモグル・サイモン・ジョンソン「技術革新と不平等の1000年史 上」 (1)

2025年04月09日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   2024年のノーベル賞経済学賞受賞者のこの本 Power and Progress: Our Thousand-Year Struggle Over Technology and Prosperity 「権力と進歩 テクノロジーと繁栄との1000年闘争史」
   前著の「国家はなぜ衰退するのか——権力・繁栄・貧困の起源 」「
自由の命運 : 国家、社会、そして狭い回廊」同様に面白い。

   農法改良、産業革命、人工知能の進化 など、テクノロジーの発展、イノヴェーションによって、生産性が向上し、人類社会は繁栄してきたが、その果実は農民や労働者や一般庶民には行き渡らず、格差が拡大の一途を辿った。何故こんなことが起こるのか、このパラドックスを、千年の人類史を分析して、未来の指針を展開する。
   後半の下巻はすでにレビューしたので、今回は上巻で気付いたことを考えてみる。

   まず、何故、産業革命がイギリスで起こったのかと言うことに対する著者の見解に注目した。
   この答えには、学問的にも色々な見解があって、このブログでも論じてきた。
   著者は、それら諸説は、五つの題目に分類できるとして、地理、文化(宗教と生来の企業家精神を含む)、天然資源、経済的要因、および、政府政策だとして、個々に詳細に分析して論破している。
   ダニエル・デフォーが説く「プロジェクトの時代」の核心だと言うジョージ・スティーヴンソンのような起業家で発明家と言う新しい階層の出現と台頭こそが、イギリスの産業革命の何よりの原動力であった。不可欠であったのは、比較的地味な出自を持つ新種の人々の起業家精神と革新性で、彼らは実際的な技能と野心があり、それが新しいテクノロジーを生み出せる素地になった。と言うのである。

   さらに重要なのは、産業革命を生んだ環境土壌である。イギリスだけほかの国と違って行き着いたのは、長きにわたって進行していた社会的な変化であり、その過程から、いわば成り上がり者の国が出来上がったからである。
   中流階級のイギリス人は、健全な投資であれ一攫千金を狙った投資を通じてであれ、富を蓄積して、上昇する機会を狙っており、また、工業工程のあっちこっちの側面でイノヴェーションを起こして富と名声を得て成り上がる労働者が出るなど下剋上の変容を、社会的階層性が緩むなど一連の大きな制度的や社会的な変化が受容して、貴族に納得させた。と言う。

   銑鉄生産のダービー、蒸気機関のニューコメン、水力紡織機のアークライト、陶器のウェッジウッドなどを例証して、彼らは、ラテン語も読めなければ、学術研究の参照に多大な時間をかけることもない、序列社会の下層の家に生まれた小規模製造業者や職人や商人たちだったが、いずれも途轍もない野心家で、テクノロジーを信じていて、進歩の原動力としても、自らの社会的上昇の手段としても期待をかけていた。と言うのである。

   テクノロジー優位の非常にユニークな見解で興味深い。
   脚注で触れているように、一般的な見解ではなさそうであるが、やはり、除外した前述の五つの産業革命要因も、それなりに関連しているので無視するわけにもいかないと思う。
   いずれにしろ、複合的な要因が重なり合って産業革命が起こったことは間違いないので、両方を考慮しながら考えると面白い。

   参考のために、一般論として、ウィキペディアを借用すると、
   イギリスで世界最初の産業革命が始まった要因として、原料供給地および市場として植民地が大きく存在した事、清教徒革命・名誉革命による社会・経済的な環境整備、蓄積された資本ないし資金調達が容易な環境、フランスにもこれらの条件は備わっていたものの、両者の違いは植民地の有無である。 
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プラトン:男女は完全に平等である

2025年03月09日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   プラトンの「国家上」の第5巻で、「子供と妻女の共有」や教育について論じていて、その中で、もうすでに、古代ギリシャ時代に、
   プラトンは、男女は平等であると宣言しているのである。

   自然本来の素質が同じであるから、男性と女性の場合にも、もしある技術なり仕事にどちらか一方が特に向いていると分かれば、そういう仕事をそれぞれに割り当てるべきである。
   したがって、国家を守護するという任務に必要な自然的素質そのものは、ただ、一方は比較的弱いというだけで、女のそれも男のそれも同じであるから、国を守護する任に適した女を作り上げるために、男と同じように教育すべきで、音楽・文芸と体育、戦争のことなど、守護者としての哲学教育を与えなければならない。と言う。
   女の守護者も、男の守護者同様に、あらゆる仕事を共通に引き受けなければならないのは当然であって、軍隊の指揮官にもなれるということであろう。

   面白いのは、当時、ギリシャでは、男性は裸で体育を行っていたので、プラトン説が採用された場合、おかしく見えるのは、女たちが裸になって、相撲場で男たちと一緒になって体を鍛錬している情景だろうね?それも若い女性だけではなく、・・・とスパルタまで引きあいに出して、一くさり裸談義を展開していることである。

   さて、驚嘆すべきは、このプラトンの男女平等論。
   今から2500年前に宣言した驚天動地の卓見である。

   世界中で、ジェンダー問題が、話題になって、後ろ向きの末梢的な議論ばかりが展開されている。トランプアメリカの何倍も先を行くプラトンの凄さが胸を打つ。

   悲しいかな、日本で婦人選挙権が認められたのは1945年、実際に投票したのは1946年。
   現在では、ベルリン・フィルでもウィーン・フィルでも、女性奏者が結構いるが、カラヤンが、女性クラリネット奏者ザビーネ・マイヤーの入団問題で悶着を起こしたのは半世紀前。
   世界中では、いまだに女性蔑視の風潮が強くて、男女平等など、まだまだ程遠い夢の世界。
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プラトン:音楽・文芸による教育

2025年03月06日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   プラトンの「国家」の第2巻で、哲人政治家のための高等教育につて論及してる。
   哲学を学ぶ人間は、算術と平面幾何学に始まり、立体幾何学、天文学と音楽で完成する5つの数学的諸科学を学ばねばならないと説いている。

   私が興味を持ったのは、最後の音楽の項目で、音楽・文芸の教育について面白いことを論じているのである。
   国家(藤沢令夫訳)の一部を引用すると、
   ” ・・・美しい作品からの影響が彼らの視覚や聴覚にやってきて働きかけ、こうして彼らを早く子供のころから、知らず知らずのうちに、美しい言葉に相似した人間、美しい言葉を愛好しそれと調和するような人間へと、導いてゆくために、・・・そういうことがあるからこそ、音楽・文芸による教育は、決定的に重要なのではないか。”
   ”リズムと調べというものは、何にもまして魂の内奥へ深くしみこんで行き、何にもまして力づよく魂をつかむものなので、人が正しく育てられた場合には、気品ある優美さをもたらしてその人を気品ある人間に形づくり、…美しいものこそ賞め讃え、それを喜びそれを美しいものから糧を得て育まれ、みずから美しくすぐれた人となるであろう。”
   尤も、正しく美しい真っ当な音楽・文芸であることが前提である。

   面白いのは、それからの叙述で、
   もしもある人が、その魂の内にもろもろの美しい品性をもつとともに、その容姿にも、それらと相応じ調和するような、同一の類型にあずかった美しさを合わせそなえているとしたら、見る目を持った人にとっては、およそこれほど美しく見えるものはないので、最も恋心をそそる。
   とすれば、真に音楽・文芸に通じた人は、できるだけそのような調和をそなえた人たちをこそ、恋することだろう。と恋愛論を述べているのである。

   さらに面白いのは、性愛の快楽以上に激しい(気違いじみた)快楽はない、と言いながら、正しい恋とは、端正で美しいものを対象としつつ、節制を保ち、音楽・文芸の教養に適ったあり方でそれを恋するのが本来だとしている。
   激しいのはダメだということではあろうが、どんな恋が良いのか良く分からないが、
   とにかく、プラトンは面白い。

   ところで、私が注目したのは、そんなこととは違って、ニュアンスはかなり違うのだが、プラトンが、リベラル・アーツ重視の姿勢をとっていることである。
   リベラル・アーツ教育の重要性については、このブログに何度も書いてきたので蛇足は避ける。
   しかし、先日、日経だと思うが、高専が非常に人気絶頂で脚光を浴びているという記事を掲載していたが、高校短大連結システム5年で、時代の要求する技術者を養成することなので、真っ先に、人間として一番大切なはずのリベラル・アーツ軽視教育ではないかと心配した。
   AIやロボテックなど科学技術優先の時代になればなるほど、カウンターベイリング・パワーとしてのリベラル・アーツで育まれる高邁な理想や哲学や思想、人間性や愛情などアーツの精神が重要になってくる筈なのである。
   
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速読法を学ばずに読書人生70年

2025年02月24日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   小学生の低学年から、本屋に一人で出かけて好きな本を買って読んでいたほどの読書愛好家であるから、もう70年以上の年季が入っている。
   従って、読破した本は数千冊に及んでいて、いわば、読書が趣味というよりも、人生そのものであったような気がしている。

   さて、それで少し後悔しているのは、いわゆる、速読法をマスターせずに、普通に読んでいたので、実際の読書量が、少なかったのではないかと言うことである。
   音読という訳ではないので、飛ばし読みしたり、斜め読みしたり、適当に読んでいたので、何の問題もなかったので意識はしなかったし、十二分に読書に勤しんできたので、慰めはしている。

   私の場合、本の種類やシチュエーションによっても違ってくるのだが、これまで長い人生において、やはり、意識して多く読んできたのは、専攻の経済学や経営学と言った専門書であったので、結構難しいことへの挑戦もあって、じっくりと対峙しなければならなかった。早く読めればよいということではなく、読みながら、考え推敲する時間が必要だったのである。
   そして、趣味の歴史書や美術書など文化芸術関係の本の場合には、あらゆる背景やシチュエーションを脳裏に展開しながら、空想の世界であったので、読書にも間が必要であった。

   良く分からないが、著者が書く速度もそんななものであろうし、丁度、音読程度の速度で、考え空想しながら読んでゆくのが、一番馴染むような気がして、特に意識せずに、それを続けてきた。
   私には、無意識ながら、頭が本の内容に即応するような速さで、適当にアジャストしながら、読んでいたということであろうと思っている。

   もう、読書人生も、それ程残っていないので、このまま、速読法を気にせずに、じっくりと、積読の本の山を切り崩すことにしようと、
   プラトンの「国家」のページを開いている。
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斎藤 幸平 (著)ゼロからの『資本論』(2)

2025年02月17日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   さて、斎藤准教授の人新世の資本論で説く究極の「脱成長コミュニズム」について考えてみたい。
   「脱成長コミュニズム 」 とは、無限の経済成長ではなく、大地=地球を「コモン」として持続可能に管理する「合理的」な経済システムであり、この共同体は、経済成長をしない循環型の定常型経済である。ここでは、生産手段を自律的・水平的に共同管理する「(市民)営化」経済であり、平等な人間と自然の物質代謝を行うので、経済成長をしない共同体社会の安定性が持続可能な脱成長型経済の「コミュニズム」なのである。

   この「脱成長コミュニズム」の柱となるのは、次の諸点。
   まず、「価値」ではなく「使用価値」に重きを置いた経済に転換して、大量生産・大量消費から脱却すること 。
   次に、労働時間の短縮、必要のないものを作ったり、意味のない仕事をやめる。
   第3に、画一的な労働をもたらす分業を廃止して、労働の創造性を回復させる。
   第4に、生産のプロセスの民主化を進めて、経済を減速させる。ワーカーズ・コープによる「社会連帯経済」を促進する。
   第5に、使用価値経済に転換し、労働集約型のエッセンシャル・ワークを重視する。

   「脱成長コミュニズム」は、資本主義の人工的希少性に対する対抗策で、「コモン」の復権により成長を不要とするが、「反緊縮」の豊潤な経済「ラディカルな潤沢さ」の復活を目指す。
   マルクスは、「自由の国」、すなわち、生存のために絶対的に必要ではなくても人間らしい活動を行うために求められる領域、例えば、芸術、文化、友情や愛情、そしてスポーツなどを拡大することを求めていた。
   無限の経済成長を断念し、万人の持続可能性に重きを置くという自己抑制こそが、「自由の国」を拡張し、「脱成長コミュニズム」と言う未来を作り出す。と説く。

   具体的な「脱成長コミュニズム」像が示されていないので、私なりの解釈だが、 
   自然や人材を浪費収奪して環境を破壊するなど人類社会を窮地に追い込む利益追求第一の資本主義の成長発展を止めて、経済成長を断念して、
   人間社会の安寧と幸せを増大させてゆくために、成長はしないが、経済の深化、質の向上を目指して、脱成長の「ラディカルで潤沢な」経済を追求すると言う事であろうか。
   GDP増大と言った従来の経済成長は求めないが、循環型の定常型経済であるから、経済の質を向上させて更に価値ある経済を構築すべきであるから、イノベーションは当然必要であり、反緊縮ではなく、新次元の「人新世の発展」が希求される。

   この「脱成長コミュニズム」論については、特に異論はなく出来れば理想的かもしれないが、例えば、「国家規模は勿論地球規模で、生産手段を自律的・水平的に共同管理する「(市民)営化」する」など一つをとっても実現は殆ど不可能であり、現実性に乏しいと思う。
   それに、ここでは、議論は避けるが、従来の資本主義からの脱却、成長志向の経済学の否定など不可能であり、軌道修正によって、経済社会の改革を目指すべきであろう。
   脱経済成長も悪くはないなあと思ったのは、日本の失われた30年。GDPは500兆円台を超えられずに、成長には見放された経済ではあったが、この間、国民生活の質や水準は随分上がった。

   さて、環境破壊対策などに対して、「グリーン・ニューディール」が議論されている。
   再生可能エネルギーや電気自動車など普及させるための大型財政出動や公共投資を行う新たな緑のケインズ主義、「気候ケインズ主義」だが、経済成長と環境負荷の「デカップリング」が難しく、それに、資本主義であるから脱成長にはならない。と准教授は否定する。
   人類の未来について多くの楽観論が出ているが、その多くは、最近では、ICTに依拠した「認知資本主義」に至るまで、科学技術の進歩、イノベーションに期待している。マルサスの亡霊も潰えたし、とにかく、科学技術の発展によって、これまで人類はすべての難局を乗り切って来たという自信と神頼みである。
   さて、永遠に人類社会が続いてゆくのか、それとも、茹でガエル状態で墓穴を掘るのか、
   終末時計、1秒進み 地球滅亡まで「残り89秒」 
   「最も危険な瞬間」が、そこまで近づいてきている。

   いずれにしろ、示唆に富んだ問題意識を喚起させてくれる本である。
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斎藤 幸平 (著)ゼロからの『資本論』(1)

2025年02月09日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   『人新世の「資本論」』を読んで、興味を持ち、毛嫌いしてそっぽを向いていたマルクスの「資本論」を、斎藤准教授の新解説で勉強してみようと手にした。
   新・マルクス=エンゲルス全集(MEGA)の編集経験を踏まえて、“資本主義後”のユートピアの構想者としてマルクスを描き出す。最新の解説書にして究極の『資本論』入門書!と言う本である。

   ケインズは、資本主義が発展してゆけば、やがて労働時間は短くなる。21世紀最大の課題は、労働時間や労働環境ではなく、増えすぎた余暇をどうやりすごすかだ、と予言した。
   たしかに、資本主義の発展に伴い技術革新が進み、世界の総GDPは急カーブで上昇し、世界は様変わりして、今や、ロボット開発やAI研究が進みChatGPT (チャットGPT) の時代になったが、
   しかし、現実は労働時間が減るどころか、過労死さえ常態化しており、世界の労働環境は悪化を辿っている。
   資本は価値の増殖運動であり、イノベーションを展開して生産性をアップして剰余価値を追求するのが資本主義である。また、このイノベーションは、労働者に対する「支配」の強化によって効率的に働かせるための「働かせ方改革」として作用しているので、ケインズの予想が当たる筈がない。と言う。

   生産性が上がれば上がるほど、労働者はラクになるどころか、資本に「包摂」されて自律性を失い資本の奴隷となる、とマルクスは指摘しているという。
   ここで、斎藤准教授は、「新陳代謝」論を展開。
   本来、人間の労働は、「構想」と「実行」、すなわち、作品を構想する精神的労働と作品を制作する肉体的労働が統一されたものであったが、資本家は、資本主義の下で生産が高まると、両者を分離して構想力を削ぎ労働者は「実行」のみを担うこととし、同時にギルドを解体するなどして、労働者の主体性を奪って単純労働しか出来ないようにした。
   20世紀初頭の「科学的管理法」のテイラー主義などその最たるもので、分業化された流れ作業を細分化して、各工程の動作や手順、所要時間を分析して標準作業時間を確定して、作業の無駄を徹底的に省いたというから、労働者は単なるスペアパーツに成り下がったと言えよう。
   よく考えてみれば、現代の労働者や高級知的職種・専門職と言えども、利益増殖至上主義の資本主義の現代版テイラーシステムの歯車に組み込まれて、それが生き甲斐だと思って必死になって働いている働きバチに過ぎないのではなかろうか。

   さて、今回は労働の問題について論じただけだが、利潤追求、富の増殖を求めて驀進する資本主義が素晴らしいものだと、殆ど疑いもなく信じていたが、これほど、労働者を非人間化して人格を奪い、かつ、内外共に経済格差を深刻化させ、地球温暖化や経済の外部性を軽視して宇宙船地球号を窮地に追い込んでいる。

   この本を読んでいて、マルクス経済学はともかく、私が学び続けてきた経済学や経営学、特に、経済成長発展論や経営戦略論、イノベーション論など資本主義促進ドライバーは、人間をどんどん窮地に追い込むための学問ではなかったのであろうか、
   とフッと不安が過ったのは事実である。
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納富 信留 (著):プラトンが語る正義と国家 不朽の名著・『ポリテイア(国家)』読解

2025年02月07日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   東大のテンミニッツTV講義録の納富 信留教授の「プラトンが語る正義と国家 不朽の名著・『ポリテイア(国家)』読解」
   プラトンの大部の「国家」を読まずに、手っ取り早く、解説書を読むことにした。 

   政治劣化、宗教紛争、多様化しすぎた価値観・・・混迷の時代に読むべき「史上最大の問題作」自分が変わる驚愕の書。ハーバード、MITなど全米トップ10大学の「必読書第1位」と言うのが、このプラトンの『ポリテイア(国家)』。
   この本の主題は、「正義とは何か?」
   「正義はそれ自体として行うに値する、素晴らしいことである。それは結果が伴っても伴わなくても素晴らしいことだ。」「私たちは、正義がそれ自体として魂それ自体にとっても、もっとも善いものであると言う事を見出した。魂は正しい物事を為すべきだ、そう分かったのだ。」とソクラテスは説いた。
   この本の本当のテーマは、「魂(プシューケー)」で、ポリスにおける正義・不正をみることで、類比的に、人の魂を」考察していると納富教授は言う。

   ところで、私自身が、このプラトンの「国家」で知っていたことは、ただ一つ、「哲人政治」である。
   哲学者が訓練を積んで国を支配する。あるいは政治家が真正に哲学をする。「その2つのどちらかが成り立たない限り、人間にとって不幸は終わらない。」と言う理論である。
   実際に哲人政治をするためには、初等教育から高等教育に至る哲学者教育を全部経た人たちで、最後に残った信頼できる人に政治を任せなくてはいけないと言うのである。

   ところで、この哲人政治論が、20世紀には全体主義のシンボルとなって、ナチズムや軍国主義の人たちが「自分たちは哲学者だ」と語って政権を握り、プラトンの趣旨をまったく損ねるような政治を行った悲しい歴史がある。
   哲人政治の「理想的なポリス」が、人間の「欲望」限定的には「金銭欲」、そして、「分断(スタシス)」「内乱」によって、「優秀者支配制」から「僭主制」へと堕落崩壊してゆく過程を5段階に分けて分析している。
   最後の「民主制」と「僭主制」については、現代に通じる貴重な示唆を与えてくれているので、プラトンの「国家」を読んでから考えてみたい。

   さて、今日、石破首相とトランプ大統領の首脳会談が行われる。
   哲人政治を考えると、非常に興味深い。 
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トマ・ピケティ , マイケル・サンデル「平等について、いま話したいこと」

2025年01月28日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   当代一の経済学者トマ・ピケティ と政治哲学者マイケル・サンデルが相まみえて、真の「平等」をめぐり徹底的に議論する!対話篇「平等について、いま話したいこと」

   まず、私が意識したのは、先日ブックレビューした斎藤幸平の「人新世の資本論」で、ピケティが、「飼い馴らされた資本主義」ではなく、「参加型社会主義」を意図した社会主義者に「転向」したと書いてあったので、主義信条がどのように変わったのか、新しい価値観に興味を持ったことである。
   この対談でも、ピケティは、わたしが標榜しているのは民主社会主義、連邦制の国際社会主義です。と発言しており、世界連邦にまで言及している。世界連邦については、もう70年以上も前中学生の頃に入れ込んで勉強した政治機構なので懐かしい限りだが、稿を改めたい。

   所得と富の不平等を説いたピケティが、冒頭で、世界中で多くの不平等が存在するものの、長期的に見れば常に平等へ向かう動きがあったことを強調している。社会運動や政治的要求、基本的財である教育、保健医療、選挙権などの機会を得る権利、民主的な参加への権利の平等や自治への意欲などが原動力になっている。と言う。
   不平等が問題である理由は、一つ目はすべての人による基本的な財の利用機会、二つ目は政治的平等、三つめは尊厳。二人の意見が一致して、これらの問題について議論を進めており、
   不平等の大きな制約要件となっているのは、第一は、学歴格差の問題で、高等教育に平等主義を実現しようとする意欲的な目標が事実上放棄されていること、第二は、世界の南北問題で、繁栄の大部分は国際分業によるものだが、残酷な北による実質的な南の資源の搾取(天然資源と人的資源の搾取)で、その代償として地球の持続性が脅かされている。言う。

   能力主義が機能していないとして、サンデルは、ハーバードなどアイビーリーグ大学の入学者を決めるのに、「くじ引き」を提言している。一定の入学適正基準を設けて、点数や成績がその基準を上回った出願者を入学定員の10倍に絞って、その10%を合格者とする方法である。
   これに、マーコヴィッツの「親の所得が国の下位の3分の2の学生が半数以上になる」など階級構成を変えて利用機会をもっと公平にするなど考えている。
   この考え方を政治にも適用して、二院制の立法府や議会を改革し、一方の議会は選挙制度で構成し、もう一方の議院は、古代ギリシャの発想にさかのぼって、くじ引きで選ばれた市民で構成される議会にするという。

   いずれにしろ、学歴偏重主義が、最後まで容認されている偏見で、トランプやルペン現象は、労働者や大卒でない人たちの多くが、エリートに見下されている、自分たちの仕事の価値をないがしろにされているという感覚の現れ、
   全体的な問題について、仕事の尊厳を肯定し、経済や共通善に――仕事や子育てやコミュニティでの活動を通じて――貢献している人々の生活をもっとよくすることに重点を置くべきだと説く。

   南北問題の最たる温暖化対策については、南の環境保全技術に必要な投資額が著しく不足しているので、階級闘争的に、最富裕層の億万長者や多国籍企業にグローバル税を課し、その税率の一定割合を特定名目分に定めて、人口や気候変動の影響に応じた割合で南側諸国に直接分配する必要がある。必要なのは、発展する権利、自治の権利、自決の権利について、基本的視点に立ち返ることだと、ピケティは、国際社会主義論を展開している。

   この対談で、最後の論点”尊厳”が最も重要で、この側面が政治的にも倫理的にも最も影響が大きく、経済と政治における不平等を減らすためには、より平等な承認、敬意、尊厳,尊重を実現する条件を整えることだと、結んでいる。

   私など、経済格差の拡大、経済的不平等が、一番の関心事であったので、多岐にわたった不平等の存在と深刻さに教えられた。
   私事ながら、私もアイビーリーグ大学の卒業生なので、受験当時を思い出したが、TOEFLとATGSBのテストを受けて、履歴書や推薦書、それに、結構多くの論文を添付して入学願書をウォートン・スクールに送った。どのような判定で入学が許可されたのか分からないが、点数だけではなく、卒業大学だとか職歴なり、それに上り調子の日本企業の経営についての論文なり、総合評価だという。

   ところで、この本、小冊子だが、結構示唆に満ちていて、左派リベラルのサンデルの見解などが垣間見えて面白かった。
   気付いたのは、斎藤准教授の「人新世の資本論」の世界と非常に近い理論展開であったことである。 
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斎藤 幸平 (著)人新世の「資本論」

2025年01月25日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   人類の経済活動が地球を破壊する「人新世」=環境危機の時代。気候変動を放置すれば、この社会は野蛮状態に陥るだろう。それを阻止するには資本主義の際限なき利潤追求を止めなければならないとする「脱成長」の資本論。マルクス経済学の再生を説くのがこの本。
   経済学を学びながら、無知の偏狭さでマルクス経済学に一顧だにせずに半世紀以上も経って、やっと、経済学の奥深さに感じ入った思いで、この本を読んだ。
   先日、NHKのBSスペシャルの
   人新世の地球に生きる 〜経済思想家・斎藤幸平 脱成長への葛藤〜を見て、まず、読まなければ議論はできないと思ったのである。
  
   まず、本書で、著者が最初にマルクスを引用したのは次の点。
   大量消費・大量消費型の豊かな帝国的生活様式を享受するグローバル・ノースは、そのために、グローバル・サウスの地域や社会集団から収奪し、さらには我々の豊かな代償を押し付ける行動が常態化している。のだが、
   19世紀半ばに、マルクスは、この転嫁による外部性の創出とその問題点を分析して環境危機を予言していた。資本主義は自らの矛盾を別なところへ転嫁し、不可視化するが、その転嫁によって、さらに矛盾が深まってゆく泥沼化の惨状が必然的に起き、資本による転嫁の試みは破綻する。このことが、資本にとって克服不可能な限界になる。

   次への展開は、進歩史観の脱却から「脱成長コミュニズム 」へ。
   マルクスの進歩史観には、「生産力至上主義」と「ヨーロッパ中心主義」と言う2つの特徴を持つ「資本主義がもたらす近代化が、最終的には人類の解放をもたらす」と言う楽観的な考えであった。
   しかし、「資本論」では、無制限な資本の利潤追求を実現するための生産力や技術の発展が、「掠奪する技術における進歩」に過ぎないと批判している。
   「価値」追求一辺倒の資本主義では、民主主義も地球環境も守れないので、生産力の上昇の一面的な賛美をやめて、社会主義における持続可能な経済発展の道を求めて「エコ社会主義」ビジョンを立てた。
   無限の経済成長ではなく、大地=地球を「コモン」として持続可能に管理する「合理的」な経済システムであり、この共同体は、経済成長をしない循環型の定常型経済である。ここでは、経済成長をしない共同体社会の安定性が、持続可能で、平等な人間と自然の物質代謝をしていた、というマルクスの認識が重要になる。マルクスが最晩年に目指したコミュニズムとは、平等で持続可能な脱成長型経済の「脱成長コミュニズム」なのである。

   「コモン」は、人々が生産手段を自律的・水平的に共同管理する「市民」営化であるから、労働者たちが共同出資して、生産手段を共同所有し、共同管理する「ワーカーズ・コープ(労働者協同組合)」である。
   資本主義の終わりのない利潤競争と過剰消費が気候変動の元凶だと糾弾して気候非常事態宣言を発して、国家が押し付ける新自由主義的な政策に反旗を翻す革新的な地方自治体「フィアレス・シティ」の先陣を切るバルセロナの、脱成長社会を目指す「経済モデルの変革」は最先端のモデルケース。
   非常事態宣言が、社会的生産の現場にいる各分野の専門家、労働者と市民の共同執筆であり、この運動を推進しているのが地域密着型の市民プラットフォーム政党で、この運動とのつながりを捨てない新市長は、草の根の声を市政に持ち込み、市庁舎は市民に開放され、市議会は、市民の声を纏め上げるプラットフォームとして機能するようになった。と言う。

   「脱成長コミュニズム」も、「市民」営化だとしても、組織である以上、ドラッカーの説くごとく、マネジメントが必要である。マネジメントが絡むと、利害得失が跋扈して、組織を歪め、本来の理想目的から逸脱する。
   問題点はあろうが、「脱成長」への資本主義への変革は必要だと思っているので、理想論に近いとは思うのだが、斎藤説には殆ど異存はない。
   しかし、マルクス経済学には、まだ、疑問を感じてはいる。

   著者は博学多識、詳細にわたって「脱成長コミュニズム」論を展開しており、極めて貴重な啓蒙書であるとともに、あらゆる文献を駆使してマルクス経済学の神髄に迫ろうとする真摯な貢献に脱帽する。
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日経:鈴木保奈美さんとリアル書店

2025年01月19日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   日経の日曜版に、
   ”〈直言〉「読書は独り」だけじゃない 俳優・鈴木保奈美”が掲載されている。

   鈴木さんは幼いころから読書に親しみ、物語を通じて日常から離れた世界に触れてきた。現在は俳優として活動しつつ、読書をテーマとしたBS番組「あの本、読みました?」の司会も務める。 
    漫画、ゲーム、動画配信。私たちの身の回りにはコンテンツがあふれ、家に居ながら情報と娯楽を得ることが可能な時代だ。それでも俳優の鈴木保奈美さんは、書店へ出向き、本を買い、時間を費やし読むことが好きだという。その醍醐味を深掘りすると、体験を共有できるメディアとしての読書が浮かび上がる。 と言う興味深い記事である。

   「リアルな書店、奇跡の空間」という箇所で、私は単純に書店が好きで、・・・書店でリアルなものを見たいのは、洋服を試着せずに買うのと同じ。本も、装丁やサイズ感を含めて、実物を見てから買って読みたい。小説を買いに行っても、旅行ガイド、料理本、新書と、時間があればぶらぶらと、ウインドーショッピングのように眺めるのが好き。自分が欲しいと思っていた本以外のものを見つけることがある。と言う。
   リアルな書店は自由で平和な社会の縮図、私は書店に来るお客さんの様子を眺めるのも好き。色々な人が来て、どんな職業の人もみんな平等で、みんなが尊重され、お互いを尊重し、知らず知らずルールを守っている。生身の人がいて、知らない人たちが平和に、一緒に居られる空間が書店だと思います。と言うのである。
   まぎれもなく、徹頭徹尾、リアル店舗派の読書家である。

   試着しないとと言う感覚は、私にはないが、ネットなどで買うと、広告やレビューなどと全く違うことがあるので、一部試読して確認したいという気持ちはある。
   それに、書店で沈没することがあっても、やはり、専門書や自分の関心のあるジャンルの書棚からあまり離れることなく、精々、新書や新刊のベストセラーコーナーくらいで、動かないことが多い。
   私は、専門書が多いので、どうしても大型書店に行かざるを得ないのだが、リアル書店の良いところは、関係本を一望のもとに一覧できるので、新しい知識への渉猟の楽しみを実地体験できることで、保奈美さんではないが、新しい知へ遭遇して嬉しくなることがある。

   最近、遠出がし辛くなって、東京や横浜などの大型書店に行けなくなって、本の購入はネットショッピング一辺倒になってしまった。
   しかし、読みたい本のターゲットは決まっているし、読書量も減っているので、Amazonの「サンプルを読む」から、はじめに、とか、序章くらいの一部は読めるので、ほぼ、これで助かっている。
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