熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

G.ハメル他著「経営の未来」・・・経営管理イノベーション

2008年03月31日 | イノベーションと経営
   現在、一寸した書店の経営関連コーナーで平積みされている本が、ゲイリー・ハメルの「経営の未来 THE FUTURE OF MANAGEMENT」で、現在の正当派経営学理論に真っ向から挑戦を挑み、現在の経営管理を創造的破壊して、時代に即応した新しい経営管理モデルを構築せよと激しく檄を飛ばしている。
   フリードマンの「フラット化する世界」やR・フロリダの「クリエイティブ・クラスの世紀」やD・ピンクの「ハイ・コンセプト」などに親しんでいる人には、全く当たり前で、すんなり入る経営戦略論なのだが、日本人にはあまり馴染めそうにない理論が展開されているので、その意味では非常に迫力があって面白い。

   経営管理の革新的な青年期は100年前に終わっていて、近代経営管理の重要なルーツや技法は、19世紀の南北戦争頃に生まれた人々によって発明された。
   それに、現実的にも、近代的な正当派経営学は、20世紀初期のテイラーの「科学的管理法」やマックス・ウェーバーの官僚型組織を基盤とする効率中心の経営管理パラダイムから、殆ど進化していない。
   ところが、IT革命の画期的な進展等によって大きく企業を取り巻く経済社会環境が激変しており、経営管理の仕組みは、背負うことが出来ないほど重荷を背負わされて苦痛に喘いでいる。
   変化のペースの速さ、つかの間で消える優位、既存の技術を駆逐する画期的技術、従来の秩序を破壊する競争相手、細分化された市場、絶大な力を持つ顧客、反逆する株主、・・・これら21世紀の挑戦が、世界中の組織の構造上の限界を揺さぶっており、時代について行けない経営管理モデルの限界をあらわにしている。
   殆ど進化が停止した燃焼式エンジンのように時代遅れとなったこの経営管理を、今や、革新すべき時であるとして、マネジメントをイノベイトせよと説いているのである。

   世界の「最も賞賛されている企業」でさえ、必要なだけの適応力がなく、内部の創造力をフルに活用しておらず、期待されるほど楽しい職場ではないのが現実で、今日のベスト・プラクティスは十分ではなく、企業の業績の究極を制約する経営管理モデルをイノベーションすることによって、長期的な競争優位を構築することが大切である。
   目指すべき企業像は、自発的に自らを作りかえられる組織、変革のドラマに痛々しいリストラの衝撃を伴わない組織、イノベーションの電流があらゆる活動に流れ、反逆者が常に保守主義者に勝利する企業、社員の情熱と創造力に本当に値し、社員から夫々の最高の力を自然に引き出せる企業、等々で、これは夢ではなく必須の課題だと言うのである。

   ハメルが、経営管理イノベーターとして3社を例証しており、その3社は、
   有機食品や自然食品を専門とする高級食品会社で社員の活力と参加意識が最も高い「ホールフーズ」、
   テフロンで起業し、アウトドアウエアに革命を起こした通気性のある防水ラミネート生地・ゴアテックスで名を成した会社で、社員にたゆみない常識破りのイノベーションを追求させている地球上で最も風変わりで革新的な企業と言われている「W.L.ゴア」、
   社員に無秩序に近い無制限のイノベーション努力を求め何よりも適応力を重視する経営管理システムを構築している「グーグル」である。

   これらの超優良会社は、言うならば、何の中央コントロール司令塔もないのに立派に機能して働き続けている人体と同じで、(そうでしょう、貴方のからだの何が諸器官の働きを指示しているのか、各々からだの部分部分が自由に自律的に機能して貴方の生命を維持しているのではありませんか)、社員達が、まともな命令指示形態もなく、フラットな組織で自由気ままに働いてイノベーションを追求していながらも、企業が有機的に機能して最高の経営実績を上げている。
   ここには、現在最高のビジネス・スクールで教えている最高の経営学でも説明できない、素晴らしいベスト・プラクティスが展開されているのである。

   ハメルは、随所で、アウトサイダーの強みを強調しているが、固定観念や世界を支配し続けているドグマティックな正当派理論が如何に有害で抵抗勢力となって社会の発展を阻害する要因となっているかと言うことを、胃潰瘍の原因を例にあげて説明している。
   オーストラリアの二人の専門外の医師、バリー・マーシャルとロビン・ウォーレンが、胃潰瘍の原因は下等なバクテリアであると新しい学説を打ち出した時、医学界は、胃潰瘍の原因は香辛料の強い食べ物やストレスやアルコールだと信じて、高慢にも「頭がおかしい」などと言って悉く猛反発し、専門誌も論文の発表を拒否し続けた。
   結局認められるまでに20年掛かって、2005年にノーベル賞を貰ったと言う。

   マーシャルは、古い技術の思い入れのある人は、技術を変えることには関心がない。新しい技術を生み出すには、何時も周辺部にいる人間、現状によって何も得をしない人間だ。と言っている。
   ところで、ハメルの理論を展開すると、経営のボトルネックはトップであって、真っ先に駆逐されるのは、経営者であり管理者なので、既得利権を必死に守ろうとする経営者が、経営管理パラダイムの革新に賛成する筈がない、しかし、革新しないと企業は潮流について行けなくなって滅びると、マネジメントのジレンマを説いている。
   一人のトップが、或いは、少人数の役員達の決定が、全社員の総意・叡智には絶対に勝てないとも言うのである。
   ボトムアップ主義経営が最高と説くハメルだが、民主主義も、ギリシャの直接民主主主義の方が良かったというのであろうか。

   この本だが、他にIBMやベストバイなどの経営革新イノベーションの実例を説きながら、新しい経営管理の方向性を示し、経営の未来を如何に思い描き、築いて行くべきなのかと言った重要な提言を、非常に興味深く展開しているので読んでいて面白い。
   
(追記)口絵写真の椿は、花富貴。
   
   
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映画ドラえもん「のび太と緑の巨人伝」

2008年03月30日 | 生活随想・趣味
   孫を連れて近くのワーナー・マイカルに出かけて、ドラえもん映画「のび太と緑の巨人伝」を見た。
   のび太が森で拾ってきた苗木を、ママに庭に植えてはダメだと言われたので、ドラえもんが、「植物自動化液」をかけると可愛い緑の男の子に変身し、キー坊と名付けられて、みんなに可愛がられて家族のように暮らしていた。
   ところが、ある日、のび太達が裏山に行くと、巨大な渦が現われて引きこまれ、植物が支配する「緑の星」に連れて行かれる。
   そこでは、人間が緑の自然を破壊し続けているので、緑の星の王女リーラが、王家に伝わる「緑の巨人」を再生していかづちを起こして緑のいかりを地球人に知らしめて、地球上の総ての緑の植物を奪い取って地球を絶滅させようとの計画を進めている。
   緑の巨人に巻き込まれたキー坊を、のび太達は、必死になって助けて地球人の意地を見せて緑の星のリーラたちの理解を得る。

   そんな内容の映画だったと思うのだが、さすがに映画で、テレビでやっているような子供の番組とは違って、中々、中身があって難しい。
   この場合には、正に今、人類にとって最大の課題である「環境問題」がテーマで、最後に、言葉を得たキー坊が、たどたどしい口調で、緑の星の住人達の大観衆を前に、地球人にもう少し時間を与えて下さいと訴える。
   緑の保存の為に、環境破壊を食い止めて地球を守ると言う意味合いなのであろうが、緑の森林が切り裂かれて宅地造成しているシーンを大写しにして、人類の環境破壊が、「帰らざる河」にさしかかってしまったことを示して興味深い。

   元気で飛び回っている可愛いキー坊が、水を与えられないと枯れたようになって弱るなど実際の植物をイメージしていて、子供たちへは、植物への思いやりの気持ちを与えるべく気配りがなされているが、緑の環境を守ることが何故必要なのかと言うメッセージは、のび太達を追っかける緑の星の戦士の戦闘姿や、緑の巨人の天変地異を巻き起こす凄まじい迫力に目を奪われてしまって、希薄になってしまう感じがする。
   「僕等の希望が未来を動かす」と言うのが、この映画の伝えたかったメッセージのようだが、何がのび太達の希望なのか、そして、その希望が子供たちの心に同化して響いているのかどうか、この頃、子供向けのアニメ映画が、CG等のデジタル技術や高度な音響機器をフル活用して、随分、高度な装いをする様になり複雑化して来ているので、理解するのが難しくなっているし、その判断が非常に難しい。

   しかし、アニメと言ってしまえば確かにアニメだが、緑を破壊して植物を虐めている、これは絶対に許せない、と言う気持ちは十分に子供たちには伝わっている筈である。
   それに、「緑の星」をあっちこっち旅して回り、生命の営みを見守っている長老のジィが、要所要所で登場して、のび太達に、諭したり話したりする会話に味があって面白い。
   やはり、子供たちの心に残るのは、子供の木が変身したキー坊の愛らしさと、さらわれたキー坊を諦めずに決死の覚悟で助けようとするのび太達の思いやりと愛情であろうと思し、温かくて豊かな人々たちとの触れ合いの中で、危険をものともせず助け合いながら正義に向かって邁進する子供たちの理想像は、何時までも新鮮であろう。

   子供向けのアニメと言う媒体を使って実は、大人たちに向かって語りかけている映画かも知れない。
   子供たちが、この映画のどこかに感激して記憶に残り、それが、大きくなる過程で、どこかの人生で感激を呼び覚まし教訓と言わないまでも、何かの拍子に指針にでもなれば、と言うことであろう。

   環境問題や緑の大切さについて、孫にどのように話せば良いのか分からなかったので、これまでのように、庭や鉢に木や花を植えたり栽培させて、実際に植物達の呼吸を感じさせて、自然との共生やエコシステムについて、その都度、話し続けて行こうと思っている。
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竹中工務店、法隆寺境内に建設残材を不法投棄

2008年03月29日 | 地球温暖化・環境問題
   ヤフーのニュースに、「世界遺産・法隆寺所有地に不法投棄、竹中工務店を指導」と言う産経新聞の記事が出ていた。
   グーグルで検索すると、毎日新聞の記事も出ていたので概説すると、
   「法隆寺の境内の土塀立替工事と子院・宗源寺の増築工事を受注した竹中工務店が、昨年8月から、工事中に出た残材等を、境内北側の雑木林内に不法投棄した。
   コンクリート片などが、長さ20メートル、幅10メートル、高さ7メートルにわたって山積みされていて、これと並んで建築廃材なども長さ30メートル、幅20メートル、高さ7メートルにわたって投棄されている。
   いずれも表面は、植物の剪定くずで覆われている。」
   この記事には、汚い廃材や残材が散在した吐き気を催すような写真が4枚添付されていた。

   これに対して、竹中工務店は、産経と毎日のニュアンスに差はあるが、
   「寺の工事の場合、瓦など再利用できるものは現場に残すことがあるが、基本的には廃棄するもので、これだけ長期間置いておいたことは処理の判断に誤りがあったと言わざるを得ない。奈良県の指導に従い、速やかに処理計画書を提出した後、撤去作業に入りたい。」と話したと言う。
   法隆寺の古谷正覚執事長も、このような事態になって遺憾だと言っているから知らなかったのであろうが、恐らく現場の一存で処理したのであろうが、あまりにも不見識極まりない暴挙といい、植物剪定くずで覆い隠しておいて処理の判断に誤りがあったと言う寝とぼけた本社の回答といい、程度の低さに呆れざるを得ない。
   竹中工務店といえば、江戸初期1610年に、神社仏閣の造営を業として尾張名古屋で産声を上げた創業400年の日本屈指のエクセレント・コンストラクション・カンパニーである。

   竹中工務店のホーム・ページを開いたら、トップの新着情報で、
   2008年3月28日 コンプライアンス及びつくり込みの強化に向けた体制の構築
   と言う記事が出ている。
   当然、法隆寺事件が引き金を引いたのであろうが、
   ~監理室機能の拡充をはじめとする、機構改革(4月1日付)を実施~と言うことで、本社監理室に「コンプライアンス部」を新設して、従来の業務監査機能に加えて、全社コンプライアンス対応の主管部門として、全社一元的な情報集約、全社的なコンプライアンス意識の向上のための各施策を推進し、更に、「業務監査部」は、関連法規、社内ルールの遵守の監査を行うとしている。
   コンプライアンスとトップには書いているが、従来の監査業務への付けたしであり、この機構改革の主眼は、むしろ、品質つくり込みの方の品質管理にあるような感じがする。

   不思議で解せないのは、竹中工務店の組織図を見ても、法化社会であり、あれほど、談合や政官との癒着や手抜き偽装工事事件など遵法・遵法と法務問題で世間を騒がせ、たたけば埃の出る業界でありながら、法務問題を担当する部署が見当たらず、今に至って、コンプライアンス担当部門を設けようとする遵法精神軽視の時代錯誤振りである。
   談合事件では、表立って竹中工務店の名前が表面には出なかったが、体質は似たり寄ったりであることは衆知の事実であるし、まして、世界遺産としても日本屈指の文化遺産である法隆寺の敷地(遺産指定の場所ではないらしいが)に建設廃材や残材を不法投棄して植物剪定くずで覆い隠しておきながら、仮置きで処理の判断に間違いがあったと言うようなお粗末な建設会社は、まず、あり得ない筈で、
   氷山の一角と言う次元の問題ではなく、全社的に、コンプライアンスと言う意識が完全に欠如しているのではなかろうか。

   コンプライアンスは、今回の内部統制制度と表裏一体の関係にあり、今ごろ、コンプライアンス部を新設して、コンプライアンスの全社一元的な情報集約や意識向上のための各(?)施策を推進しなければならないとすれば、根本的にコーポレート・ガバナンスが問われるべきであろう。
   尤も、社外取締役が一人も居ず、社外監査役にしても関係する公認会計士や顧問弁護士などで固めている会社法違反気味の会社もあるようだが、株主総会前でもあり、本当にコンプライアンスを厳守する意思があるのかどうか、不祥事の多いゼネコンのコーポレート・ガバナンスの真贋を追求するのも面白いかも知れない。
   
   竹中工務店は、非上場の会社で、社員など会社関係者で株式を所有していると聞くが、非上場故に、世間や外部の監視の目が届かず、コーポレート・ガバナンスなりコンプライアンスなり、公開性や説明責任に透明性を欠き、社会の公器としての監理監督に曝されないことによる弊害がないと言えるであろうか。
   最近、ハゲタカファンドなどからのM&Aを回避する為に、全株買い取って非上場にする会社が出てきているが、果たして、社会正義と言う極めて厳しいカウンターベイリング・パワーを欠く非上場の企業にとって、そのことが幸せなことなのかどうか。
   資本主義の会社制度は、株式市場の公開性を原則として成立しており、不特定多数の投資家や株主に広く開かれていることが前提で、まして、大企業として公共性を持つ企業については、アメリカ型の株主至上主義ではなく日本的ないし欧州的な総てのステイクホールダーを大切だと考えるシステムにおいては、特に、そうあるべきであって、特に非上場の超大企業については上場企業並みに十分コントロールできるようにすべきで、会社法もこのあたりを十分に考慮すべきであると思う。
   
   
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中国産業のコストアップが米国市場を直撃

2008年03月28日 | 政治・経済・社会
   中国での生産コストの上昇がアメリカ市場に異変を来たしている、そんな、記事を、ワシントン・ポストで読んだ。
   ”Rising Costs in China Seep Into U.S. Market ー Importers Pay More or Cancel Orders”と言う記事で、日本の場合と似通っているが、米国はドル安の影響をもろに受けていて、日本にはそれほど円・元交換レートの影響がない点、多少ニュアンスが違っている。

   ドル安、中国国内のインフレ、労働賃金の上昇、新労働法の制定、輸出補助金の停止、原材料費の高騰、品質安全強化、悪天候等々が重なって、中国製品のアメリカへの輸入価格が、どんどん上がってしまって、アメリカは大変だと言うのである。
   この煽りを受けて中国からの輸入品の価格が、アメリカでは、徐々に上がっていて、2007年度の指数は2.4%のアップであったが、専門家は、消費者物価が5~10%上がるであろうと見ている。

   中国に進出したアメリカの製造業も、中国から生産コストの安いカンボジアなどの他のアジア諸国に生産基地を移し始めた。
   また、中国の低価格で商品を調達して小売市場を押さえていたウォルマートなどのメガストアも、利点を享受出来なくなってきた。
   中国の生産者とアメリカの輸入業者の間で、激しい価格競争が行われているが、中国側かアメリカ側か両当事者がコストアップを吸収できなければ、当然、アメリカの消費者が、そのつけを払わざるを得ない。
   これまでは、原油価格の高騰が物価を押し上げてきたが、今や、中国などの新興国からの輸入品がその原因となり始めた。

   ウォルマート、ターゲット、Toys R Us等に商品を卸している中国の玩具会社が、最近、輸出価格を50%引き上げた。顧客のほぼ半数は、その価格を受け入れたが、残りの半数は契約を解除したので、売上が半減したが、大きくするつもりもないのでどうにかそのまま事業は継続している。
   メイ社主によると、ドル安が12%、政府輸出補助金の減が2%、労賃アップが20%、原材料費のコスト増が10%で、価格を上げざるを得ず、それでも、同業の半分は倒産してしまったと言う。

   このような中国製品の輸出価格の高騰は、多くの商品で起こっており、少なくとも、ドル安の12%分は、価格アップで回収しないと利益が出なくなる。
   更に、輸出業者にとって問題なのは、輸入業者が商品を受け取ってからでないと支払わないので、輸出完了までの2~3ヶ月の間に、どんどんドルが安くなって利益を減らすことである。元高とドル安のダブルパンチである。

   結局、日本の場合もそうだが、中国での生産コスト安を売り物にして利益を弾き出していたユニクロ効果が、中国でのコスト上昇で、徐々に消えつつあると言うことで、ビジネス・モデルを変えざるを得なくなって来たと言うことである。
   よく考えてみれば、このようなユニクロ効果が有効に機能したのは、ほんの10年程度であり、今後、グローバル経済をターゲットに業務を展開する場合には、相当長期的なしっかりした展望とビジョンを持って経営戦略を打たない限り成功は難しいと言うことであろう。
   例えば、コスト増の中国から他のアジア諸国へ生産工場を移しても、短期的には良いかも知れないが、近い将来同じような問題に遭遇することになる筈である。

   ところで、面白いのは、この記事を、ウソか本当か分からないが、中国社会科学アカデミーのMei Xinyu国際貿易調査員の
   「中国製品のコスト増は、理論的には、消費者価格には大きなインパクトはない。
   本当の問題は、アメリカの輸入業者や卸売業者の巨大なマークアップである。
   商品の販売価格は、中国での生産コストの何十倍、いや、何百倍もしているので、中国製品の輸出価格が二倍になったからと言って、大勢に影響がない。
   中国のコスト増は、生産者や消費者ではなく、アメリカの輸入業者や卸売業者が吸収すべきで、世界貿易の利得の配分と言う意味からもこれがフェアである。」
   と言うコメントで、何の注釈も加えずに締め括っていることである。
   確かに、日本の場合でも、輸入品の原価が非常に安いにも拘らず、販売価格が異常に高くなっているケースが多いのにビックリすることがある。
   
(追記)悪質なピンク・サイトからのコメントが頻繁に入って困っていますので、勝手ながら、コメントとトラックバックは、保留にさせて頂き、これらを排除してから掲載させて頂いております。
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「チベットは自由ではない」泣き叫ぶラマ僧

2008年03月27日 | 政治・経済・社会
   27日、チベット自治区ラサで、騒乱後初めて外国記者団に解放されたラサ市のジョカン寺で、14日の暴動を説明中の中国人引率者を無視して、外出を禁止されていた30人ほどの僧侶が逮捕覚悟で飛び出してきて、「自由が欲しい。」と直訴した。
   「チベットには自由がない。ラサの騒乱には、ダライ・ラマは、無関係だ。」と叫んだ若い僧は、こう叫ぶと泣き出した。
   「ウソだ、みんなウソだ。」一人の僧侶が記者らに近づき叫んだ。「何がウソなんだ。」と聞くと「みんなだ。政府の言っていることだ。」と声を震わせて訴える。
   最初はチベット語でしゃべりだしたが、北京語に変えたので記者たちにも理解できたが、中国人の引率者が強引に記者団をそこから立ち退かせ僧侶達を排除しようとしたが、15分続いた。
   千載一遇のチャンスと待機していた僧侶達が、厳罰と逮捕を決死の覚悟で記者団に中国の弾圧政治の真実を直訴したのである。
   若い子供のような僧侶たちの悲しくも必死の形相が電波で世界中に放映され、中国政府が完全に仕組んだつもりのガイデッド・ツアーが、最初から頓挫してしまった瞬間である。

   取材を許されて記者団に加わったAP通信、ウォール・ストリート・ジャーナル、USAトゥディ、ファイナンシャル・タイムズ、共同通信の電子版を見ると、こんな書き出しで、生々しく、中国の二枚舌外交とチベット弾圧の凄まじさを報じている。
   少し落ち着いたラサを、限られた外国メディアに見せて、国際世論の批判をかわそうとした中国政府の思惑が裏目に出て、中国政府が北京オリンピックを前に、如何に非道な弾圧を行ったかを浮き彫りにして、広く世界中に知らしめたのである。

   ダライ・ラマは、外国記者団のラサ入りが第一歩であり、完全に自由に取材が出来て真実が明らかになることを願うと語った。
   痺れを切らしたブッシュ大統領が、26日に胡錦濤主席に電話して、ダライ・ラマとの対話を促したが、何時ものような条件を鸚鵡返しにつけて突っぱねられたと言う。
   民主主義と人権尊重が価値基準となった今日の世界において、今現在、文化文明的にどのようなステージにあるのか、時代認識の錯誤、そして、その落差があまりも大きい。

   古いチベット人区の方は、今でも焼け焦げた臭いが漂い、真っ黒に焼け爛れて枠だけ残った建物の残骸などが、凄惨な暴動の後を生々しく残しており、残った店舗はシャッターが下ろされ殆ど人通りがなく、沢山の治安警察が厳しく出入りをチェックしているのだが、
   中国人区のニュー・タウンの方は、平生と殆ど変わらずに賑わっており、街路にはクルマが行き来し、殆どの店舗はオープンしていると、そのコントラストの激しさを、外人記者たちは、夫々のメディアで報じている。

   外国メディアが来る為に、戒厳令的なセキュリティ体制は解除されたが、チベット人に対する厳しいチェック体制が敷かれていることや、今回の外人記者たちに対しても検問やチェックが何処へ行っても四六時中行われていて、案内人なしに外出しようと思ったら、絶えず見張りがついて監視されていると、AP電に詳しい。
   そして、中国政府からは、中国側の被害が如何に大きいかと言うことを14日の暴動の中国版官製ビデオで、中国の警察機関や中国銀行や警察の車両などへの攻撃場面ばかり見せられて、中国の武装警官は、盾と警棒しか使っていないと強調し続けてるばかりで、記者から質問がなされると、核心をはぐらかして先送りして答えない。
   中国政府と外国人記者たちの間で、完全に期待が崩壊してしまったとAP電は報じている。
   保守的で穏健な筈のウォール・ストリート・ジャーナルさえ、”brief,tightly managed trip"と報じている程だから、余程酷い中国政府の報道管制下での外国メデェアへのラサ公開なのだと言うことが分かるが、頭隠して尻隠さずで、衣の下の鎧は、スケスケに世界中に報道されている。

   しかし、経済的には、アメリカもEUも日本も、悲しいかな総て中国頼みで、裸の王様であっても、裸だと中国に対してハッキリと言えない悲しさ。
   世界はグローバリゼーションの時代と声高に叫ばれて久しいが、これは経済的な局面だけで、政治の世界では、まだまだ、平和と人権を謳歌する民主主義的な世界は程遠いと言うことである。
   これこそ21世紀のグローバリゼーションの正にディレンマだが、再び、政治経済学の復権が望まれるところであろう。
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南極大陸ウイルキンス氷床の崩壊

2008年03月26日 | 地球温暖化・環境問題
   南極大陸でも最大級の一つである北アイルランドもの大きさのあるウイルキンス氷床だが、地球温暖化の影響を受けないであろうと考えられていたが、どんどん上がる気温の上昇によってひびが入って、考えられないような速度で崩壊が進んでいることが分かった。
   こう報道するのは、インディペンデント紙の「Cracking up:the ice shelf as Northern Ireland」と言う記事である。

   ケンブリッジの英国南極調査団とコロラドの米国国立雪氷データ・センターが、2月に観察したクラックが、あまりにも早く崩壊し続けているのに恐怖を感じており、氷床が糸に繋がれたような状態で、近い将来どうなるか予測がつくと、1990年、氷床が壊れるには30年は掛かる予言したヴォーガン博士がビックリしていると言うのである。
   表層は陸地にくっ付いているが、既に、海上に浮いているので、氷解しても直接海面が上昇する心配はないが、氷解が急速に進むと、陸地上の氷盤や氷河が海に流れ込むので、このために海表面が上昇する。
   
   衛星写真で、マン島級の大きさの氷山が氷床から崩れ落ちたのが観察され、実際に、ツイン・オッター調査機で現地を見た科学者は、家のような塊の氷が岩のように崩れ落ちて爆発のような凄まじさだと報告している。
   スコンボス博士は、「ウイルキンス氷床は、少なくとも何百年も存在し続けてきた筈だが、既に周りの海氷が総て消えてしまって、現在では、激しい波に直接曝されており、地球温暖化の影響が加わって、激しい解氷期に入ってしまった。」とコメントしており、科学者達は異口同音に、このような激しい状況をこれまでに観察したことがないと言っている。

   このウイルキンス氷床は、丁度、南米大陸の最南端マゼラン海峡の南側に突き出した南極大陸の半島の根元にあるのだが、どんどん後退して来ており、既に、氷床の6つは崩壊して消滅してしまっている。
   このウイルキンス氷床は、大陸の突端よりは南にあり、多少温度が低いので、南極大陸の氷床の氷解が更に南下するのかどうなるかの重要な試金石である。
   今のところ、南極点に近い巨大なロス氷床とロンヌ氷床には、まだ、氷解の兆候はないが、安閑としておれないと言うことであろう。
   何れにしろ、北極海の氷床は、近い将来完全に消滅してしまって、北極熊が消えてしまうのは時間の問題だと言うことになってしまっているが、悲しいかな、ペンギンの住む南極も、このままでは、同じ運命を辿ることになりそうである。

   この記事は、電子版で検索出来たのだから、重要な記事だったのであろうが、やはり、日本よりはるかに地球温暖化に神経質になっているイギリスの新聞だから取り上げたのかも知れない。
   いまだに、日本でも地球温暖化などあり得ない、むしろ、冷却に向かっているのだと嘯くエセ学者がいるが、いくら希望的観測や暴論を吐いても、科学的な厳粛な事実は覆すわけには行かず、どんどん、人類の喉元を締め上げて来ていることは必定である。
   環境や地球温暖化問題を悪用して儲けているけしからん輩がいて許せない、と言う論調があるが、これが資本主義であり、何時の世にも悪い奴は存在するものであり、一人一人が賢くなる以外に救いようがない。

   ところで、今日、芝居見物に行って行けなかった「地球温暖化防止シンポジウム」の記事が日経に出ていた。
   ブレア首相と日本のパネリストの間にはかなり温度差があるが、興味深いのは、塩谷喜雄論説委員の「シンポジウムを聞いて」と言うコメントである。
   ブレア首相の発言を、「科学の示唆に応えて、危機回避するのは政治の決断だ」とトップダウンの重要性を語ったと捉え、
  日本の態度を、「対応が遅れた上に、国別の総量削減目標の設定に、積み上げ方式なる不可思議な方法を日本は提案している。(業種ごとに目標基準を積み上げる日本的セクターアプローチが、インドなど途上国から激しく反発を受けているとして)洞爺湖サミットを待たずとも、積み上げ方式のお蔵入りは決定的と言える。」と揶揄している。
   日本政府の対応が、如何に、世界の潮流から大きく取り残され、経済界に煽られた方針に固守し過ぎて、確固たるポリシーが欠如しているばかりではなく、指導力と決断力、もっと言えば、使命感とリーダーシップに欠けているかを糾弾しているのである。

   石原知事が、「温暖化問題は哲学といえる。人類の活動の舞台そのものがなくなるかもしれず、一人ひとりが自分の人生の問題として考えなければならない。」と発言していたが、正に至言で、人類の棲みかである宇宙船地球号が生きるか死ぬかの瀬戸際であり、これは理屈抜きの哲学であり宗教なのである。
   今でも、南極の氷床が轟音をたてて崩れ落ちているのかと思うと居た堪れない気持ちになる。
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チベット騒乱事件への私論

2008年03月25日 | 政治・経済・社会
   ダライ・ラマが49年前に、インドへ亡命して大騒乱が勃発したその3月10日に、ラサで平穏に行われた僧侶たちの平和へのデモ行進を契機に、チベット自治区のラサのみならず、中国本土の四川省、甘粛省等に飛び火して、あっちこっちでチベット人と中国関係者との間で暴動や騒乱が起きて、チベット人の犠牲者が100人を軽く突破していると言う。

   ダライ・ラマと温家宝首相との舌戦が放映させていたが、世界中の聴衆の殆どは、平和と人権を無視した中国政府の意図的なチベット弾圧であって、被害者はチベットであることを先刻承知で何の疑いも持っていない筈である。
   朝鮮戦争のドサクサに紛れて中国はチベットに軍隊を送り込んで制圧して、1951年に自治領として支配下に置いてしまった。
   「チベットの平和解決に関する協定」を結んだが、送り込んだ中国軍の支配下で、多くのチベット人が険峻な山岳地帯の道路建設などで過酷な労働に酷使されたと言う。
   更に、ラマ教の僧院が破壊されると同時に僧侶が迫害され、チベット固有の文化、風俗、慣習、生活などチベット人の拠り所が悉く破壊の脅威にさらされるなど、強圧的な漢化政策が強行されたと言うのである。
   堪りかねたチベットが、「チベット協定」の破棄と中国軍の撤退を要求して武装蜂起し大騒乱となり、中国に拉致される危険を避けるため、ダライ・ラマは、1959年3月10日にチベットからヒマラヤ越えをしてインドに亡命した。

   ウイルソン大統領による民族自決が提唱されて、多くの独立国が誕生したのはもう100年近く前の第一次世界大戦頃だが、その後、一枚岩を誇ったソ連やユーゴスラビアが崩壊して、アフリカにも多くの独立国が誕生するなどして、固有の民族による国家が続々誕生している。
   しかし、時代に逆行して、多くの民族を糾合して大帝国主義を標榜しているのは共産中国だけで、本来、独立国家として何の不思議もない筈の台湾やチベットを完全に掌握して統一を図ろうとして一歩も譲らない。
   
   私は、2007年5月20日のこのブログで、「中国の民主化は幻想?・・・ジェームス・マン」を書いて、中国の民主化を「危険な幻想」だと言うマンのThe China Fantasyを引用して、北京オリンピックで、厖大な人数の国際的報道陣の前で、鉄壁の監視を突破して、もし反体制派など不満分子が暴発したらどうなるのかと書いて、
   時代遅れの一党独裁体制を敷いて民主化を押さえ込んでいる中国の、危うい国威発揚の桧舞台の場である筈のオリンピックが、危険に曝されていることを危惧した。

   1980年モスクワでのオリンピックは、前年12月にソ連がアフガンに侵攻した為、アメリカのカーター大統領がボイコットを提唱し、日本など多くの国が追随して参加しなかったが、場合によっては、今回でも、フランスなどEUで検討すると言ってボイコットの可能性を示唆しており、予断を許さない。
   私が心配したのは、もっと卑近な例で、今日もアテネで行われた北京オリンピックの採火式で、中国の劉淇組織委員長が演説中に抗議の旗を持ったプロテスターが乱入して、この映像が全世界に放映されてしまったが、このような事件が、弾圧されている中国人を中心に、あっちこっちで頻発することであった。

   今回の中国の報道管制を見ても、何も中国にやましいことがなければ全く無意味だが、如何に中国のチベット問題に対する対応が、国際ルールを無視した非道で無慈悲なものかと言うことを良く示している。
   天安門事件の時は、中国の対応が拙かった為に、重装備のタンクの前に一人で堂々と歩み寄る学生を映すなど実況映像がつぶさに世界中に放映された。今回は、これに懲りて、一切報道をシャットアウトしたつもりだったが、外国メディアや観光客がラサに居たために生々しい情報が流れて、世界中を震撼させた。
   IT革命により知識情報が自由に行き交う世界であるから、今回の外国メディアの現地取材許可によって、徹底とは行かぬまでも真実が暴露されて、更に、北京オリンピックの開催に齟齬を来たすこととなろう。
   日本の報道機関は、共同通信のみ認められたと言うが、それで十分で、世界中へはAP電を筆頭に、経済が陽なら、共産中国の陰である政治の実態が、そして、その真実が白日の下に曝されて、駆け巡るであろう。

   温家宝首相は、中国の経済政策によってチベット人の生活が良くなったのに何故文句があるのかと言う口ぶりだが、チベット鉄道を引くのも道路を建設するのも、総て自分たちの為であって、漢民族を人海戦術でどんどんチベットに送り込んで、チベットの希釈化を目論み、チベット文化や社会を徹底的に破壊しようとしているのだと米紙が報じていた。

   経済が良くなれば、総てが許されるのか。ロシアや中国など新興国の破竹の勢いの経済成長で、人権を無視・軽視した政治が、堂々と共産主義的な国家で行われているが、一時的な過渡的現象なのであろうか。  
   悲しいかな、不買運動を起こせば、忽ち、自分たちの生活が干上がってしまう。
   それであればこそ、チベット人の苦しみと騒乱が、地球人全体の緊急問題なのだと言う認識が必要なのである。 
     
(追記)中国には3度しか行っていないが、学生時代から、中国の文化や学問・芸術に憧れて勉強をし続けてきたので、中国の素晴らしさは十分知っているつもりであり、現在の中国の躍進振りを心から喜んでいるが、現在の中国の、国民の選挙さえ許さない一党独裁政治には、疑問を感じている。
   まして、長い歴史と伝統に培われたチベット社会と文化を破壊しようとする暴挙は絶対許せないと思っている。
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ドル暴落が引き起こした世界的な影響

2008年03月24日 | 政治・経済・社会
   ドルの価値下落が、世界経済の現況を大きく変えてしまった。
   この100年間、並ぶものなき強いドルのお陰で、世界中を闊歩して繁栄を謳歌してきたアメリカ人が、資産の暴落のみならず、経済不況と言う泥沼の瀬戸際にまで追い詰められているのであるから、大変である。
   特に、対ユーロのドル下落幅は大きく、この7年間で40%減価したと言う。

   先日、このブログで書いたワシントン・ポストの次の「Dollar's Fall Is Felt Arouund The Globe」と言う記事だが、別の視点から、ドル暴落にグローバル経済への影響を展望していて面白い。

  
   ドル下落のマイナス面について、ワシントン・ポストは、色々な側面からレポートしている。
   ケニアの珈琲生産業者が、ドル建てで輸出しているので、現地通貨シリングが9%も上昇して労賃や原材料費が上がって大損害だという話。
   ラッパーのJay-Zが、最近のビデオで、マンハッタンの豪華なきらめきをバックにしたシーンで、100ドル札の代わりに500ユーロ札を映し出してドルを馬鹿にしたこと。
   クエートが、通貨のドル・ペッグを止めてしまい、他の産油国も追随しそうなこと。
   パリのユーロ・ディズニーに勤めるアメリカ人管理職の給与はドル建てなので、子供と夫婦3人で食べるピザが75ドルもするので音を上げていて、衣料や電気製品等みんなカリフォルニアで買って送ってきている話。

   しかし、この程度ならマシな方で、私が居た頃のロンドンでは、1ポンドが、240円くらいから弱い時には130円くらいにまで上下して、それに、ヨーロッパ大陸の業務も担当していたので、ギルダーやフランやマルクとの交換レートも心配しなくてはならず、とにかく、どうにか問題なく過ごせたが、それこそ、外国生活での交換レートの変更への対応は大変なのである。

    尤も、ドル下落は悪いことばかりではなく、アメリカ製品の競争力が強まって、キャタピラーの建設機械からボーイングのジャンボまで、輸出産業には追い風となっており、中国に行きそびれた国内製造業にもブルーライトが点灯し始めた。
   そして、ヨーロッパ企業は高いユーロに耐えかねて、例えば、エアバスなど、徐々に、組立工場など生産をアメリカにシフトさせている。コストの大半はユーロ払いなので、10セント、ユーロ高になると、10億ドルの損害だと言う。
   ロールス・ロイスも、リバプールからオハイオのマウント・ヴァーノンへ、事業の相当部分を移そうとしている。

   しかし、世界中の原材料価格は、大体、ドル建てで取引されているので、ユーロ高のお陰で、逆に、ヨーロッパ企業は有利になっている筈である。
   
   ところで、このドルの暴落によって深刻な影響を受けているのが、石油価格の暴騰でドル塗れのブーム経済の火中にあるペルシャ湾岸諸国、特に、ドバイである。
   減価したドルがどんどん流れ込んできた為に、インフレーションが激しく、巨大な建設ブームで入ってきた南アジアの労働者達の生活を直撃して、賃金が上がらないのに食料などの生活費が高騰し、貯金を使い果たして困窮し始めている。そのために、ストライキ等の労働争議が頻発し、世界最高の150階建てのBurj Dubaiビルの工事が頓挫していると言う。
   更に深刻なのは、ドルで稼いだ虎の子の金を本国に送金すれば、目も当てられないほど減価するし、実際に、インド人労働者は、国に帰ってルピアに換金したら14%も少なかったと嘆いている。

   面白いのは、イランのアフマニネジャード大統領が、「アメリカは、我々の石油を取り上げて、全く値打ちのない紙切れを我々に与えている。」と、先月リアドでのオペック総会の後で息巻いて、益々アメリカ嫌いになったとかならなかったとか、報道しているが、
   しこたま財務省証券やドル債権を溜め込んだ日本政府や日本の投資家は、ドル暴落で目減りした資産を前にしてどう思っているのであろうか。
   中国も大変なドル債権を溜め込んでいるが、転んでもタダで起きない国民だから、このドルで、アメリカの資産を買い込んでアメリカへの支配力と影響力を強化するなど有効に活用するであろうから、米国政府も安閑としておれないであろう。
   最近では、中国商人が、輸出代金を、ドルでなくユーロで支払ってくれと言っていると報じているが、さもありなんである。
   
   同じく、ドル紙幣で退蔵したり、秘密口座などに保持されている厖大な金額のアングラ・マネーの大半はドル建ての筈で、これらの損失は勿論闇に葬られてしまうにしても、
   ドル札を刷って好きなだけ世界中のものを買い漁ったアメリカ人が、いわば、ドルの暴落によって、減価したその分借金を踏み倒したと言うか、一種の徳政令を発したようなものだが、果たして、このことが、アメリカ人にとっては良いことだったのか悪いことだったのか。
   ドルが、最強の基軸通貨、ハード・カレンシーであったばっかりに、世界中にドル暴落の悲喜劇を引き起こしている。

   ドルが、再び、1ドル79円を突破して更に暴落して、ユーロと平行的な基軸通貨に後退した場合には、その方が、サブプライム問題でアメリカがリセッションになったよりも、世界経済に与える影響はもっと大きいような気がしている。
   グローバル経済のランド・スライド的なパラダイム・シフトである。
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三月大歌舞伎・・・藤十郎と團十郎・東西の名優の饗宴

2008年03月23日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の歌舞伎の話題は、やはり、西の人間国宝坂田藤十郎と東の市川團十郎の共演する舞台であろう。
   昼の部の「一谷嫩軍記」の「陣門・組打」で、團十郎の熊谷次郎直実、藤十郎の小次郎直家と敦盛の二役であり、夜の部の「京鹿子娘道成寺」で、藤十郎の白拍子花子、團十郎の大左馬五郎照剛の押戻しでの出演である。
   
   「陣門・組打」の方は、平成7年12月に京都南座の舞台で、このキャストで共演しているが、両人の登場は非常に珍しく、それに、頂点に上り詰めた天下の名優の登場であるから、その意味では非常に貴重な舞台である。
   熊谷が敦盛を討つと言うクライマックスの舞台だが、それと同時に、この組打が直実の仕掛けた替え玉作戦で、実際には、敦盛の身代わりに自分の息子小次郎の首を取るという極めて錯綜した舞台でもあり、直実役者の力量が問われる非常に難しい場でもある。
   敦盛(実際は息子小次郎)を組み伏せてから、「敦盛一人討ったからと言って源氏の勝利は揺るがないので命を救おう」と実際の敦盛としての対話となるのだが、逡巡しているのを平山武者所季重(市蔵)に見咎められて、結局、意を決して断腸の思いで首を討つ。
   このあたりの直実役者の苦渋の演技なのだが、幸四郎や吉右衛門のようなどこか精神性を帯びた心理描写の上手い役者と比べて、團十郎の場合には、朴訥と言うか無骨と言うか巧まないストレートな剛直な表現で、中々感動的であった。

   一方、敦盛の藤十郎だが、悲しいかな喜寿である実際の藤十郎を知っているので、10代の水も滴る若武者だと思って観ろと言われてもこれは無理で、どうしても先入観が先に立って観てしまい、確かに、品といい格調といい、素晴らしい演技ではあったが、筋の流れを追うのではなくて、天下の名優坂田藤十郎の至芸を鑑賞させてもらったと言うのが正直な所である。
   この舞台は、敦盛を登場させて京都の雅やかな文化の香りを感じさせて、実際の平家物語の平安貴族の生活を鏤めた軍記ものの流れを継承している。
   敦盛の笛の音を小次郎に感じさせて感激させる冒頭の台詞など、正にそれだが、敦盛の軍馬や甲冑・刀・衣装などにも工夫が凝らされていて豪華だし、それに、張子の馬体を身体に付けた子役の敦盛と直実を、海中で一騎打ちさせる遠見の舞台など美しくて面白い。
   このような華麗さの中に無常感を色濃く漂わせる雰囲気を持った舞台での藤十郎の醸しだす雰囲気は貴重で、やはり、若い役者では表現できない芸の品格と言うものであろうか。

   白拍子花子は、これまで、菊五郎、勘三郎、玉三郎を観ているが、藤十郎は初めてだし、團十郎は勿論、押戻しを観るのも初めてだが、この舞台は、TVのニュースでも放映されていたが、中々素晴らしく絵になる舞台であった。
   喜寿の藤十郎の何と瑞々しく美しく、そして、情念に燃えた鬼気迫る激しい花子の気迫、これは、もう舞踊と言う域を超越したシャーマンに近い世界である。
   それに、團十郎の押戻しの豪快で大きな演技は、江戸の錦絵の世界の再現で、これぞ、正に歌舞伎、と言う舞台である。

   もう40年ほど前になるが、一人で、汽車にゆられて日高の道成寺まで行ったことがある。
   京都や奈良の目ぼしい古社寺は殆ど見てしまったので、他を見ようと思って出かけたのだが、安珍清姫の寺だと言うことを知っていたくらいだから、殆ど何も覚えていない。
   和歌山は南国だから、女性も気が荒くて情熱的なのかと思ったが、かりそめに訪れた熊野詣の若僧に、一方的に恋を仕掛けて願いが叶わないから焼殺すと言う何とも凄まじい話が伝説に残っていて、これを近世になってから、能や浄瑠璃や歌舞伎の世界で表舞台に引き出したと言うのだから面白い。
   日本の古事記や日本書紀、今昔物語など、色々と残っている、或いは、語り継がれてきている日本の昔からの物語や伝承には、どこか、大らかでおどろおどろしい、愉快で悲しい、何とも言えない人間的な魅力があって興味深い。

   何れにしろ、藤十郎と團十郎の共演は、いわば、現在の歌舞伎の一つの頂点を示すもので、風格や芸の年輪と伝統の凄さでは、扇雀や海老蔵には、まだまだ及びもつかない境地であると思う。
   しかし、藤十郎が去ってしまったら、関西歌舞伎の伝統は、誰が継承するのか。ここでも、江戸一極集中が進んでいる。
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弱いドルがアメリカ企業をバーゲン価格に・・・ワシントン・ポスト

2008年03月22日 | 政治・経済・社会
   ワシントン・ポストが、弱くなったドルの影響について、アメリカにどのようなインパクトを与えているのかを記事にしていて面白い。
   「Week Dollar Fuels China's Buying Spree Of U.S.Firms 弱いドルが中国の米国企業バカ買に油を注いでいる」と言ったタイトルで、弱いドルと米国経済の弱体化が、アメリカを、外国企業の投資先としてのバーゲン市場となっていると報じている。

   2007年に、外資による米国企業買収総額が4070億ドルに達し、前年比93%増で、投資国は、カナダ、英国、ドイツ、中東、アジアで、特に中国が急上昇していると言う。
   顕著に増加しているのは、ウォール・ストリート企業への資金の流れで、サウジのアルワリード皇子の再度のシティグループの救済、トロント・ドミニオン銀行のコマース・バンコープの85億ドルの株取得、シンガポールTemasekのメリルリンチへの44-50億ドルや中国政府ファンドのモルガン・スタンレーへの50億ドルの資金提供、中国私企業Citicのベアスターンズへの10億ドルの投資などの大口以外に、中小の買収や出資は数限りないと言うのである。

   興味深いのは、ドルの弱体化によって、アメリカの中小企業が危機に陥っているので、これらの救済の為に、在中のアメリカ各州事務所が、積極的に中国企業にアプローチして、出資や買収を画策していることで、ペンシルヴァニア州では、食品会社や材木会社など6社の中国企業による買収が成立したとしている。
   日本ブームの時に、米国の各州事務所が日本企業に米国への投資を積極的に勧誘していたが、今回は、現存企業の買収であり資金投入であるから、正に、拡大策ではなく窮余の救済策である。
   
   ところで、これまでの外国政府投資は、小規模の比率で長期的な投資が目的であり、企業の経営をコントロールしたり影響力を与えるようなことはなく、企業にとっても国家にとっても良かったが、
   最近、アメリカでは、外国からの投資が、米国経済を強化し雇用を創出すると言って喜んではおられなくなったと言う危機意識が政治家などから出てきている。
   政府ファンドが増加すれば、国家安全資産や戦略的重要企業の買収などの外交的な野心が芽生えてくる心配があり、また、実際に、これらのファンド自体が、不透明で全く得体が知れない場合が多いのである。
   心配は、やはり中国政府の投資で、その現れは、中国国立オフショア石油の加州のユノカルの買収を不許可にしたことであろう。

   ところが、ハイアールなどの中国の企業が、最近、失業率が高くて外国労働者比率の高いサウス・カロライナ州に大挙して進出して、何千人規模の雇用を生み出している。
   驚くなかれ、中国の大都市よりも、ここの方が、土地代や電気代などは、はるかに安く、かつ、消費者に直結していて魅力的なのである。
   もっとも、外国での事業に不慣れな中国企業ゆえに、結構ローカルと摩擦や問題を起こしているようだが、アウトソーシングとオフショアリングで海外に雇用が逃げてしまっていたアメリカに、逆に、開発途上国の企業が来て雇用を生み出して地域振興を図ると言うのは非常に面白い現象である。
   アメリカ企業が経営不振になって倒産寸前となったのに、中国企業が来て経営が成り立つというのはどう言う理屈なのか分からないが、案外、先進国となったアメリカには、ロー・エンドの製造技術なり経営ノウハウが退化してしまったのかも知れない。
   給与水準等は、アメリカでは随分高い筈だが、要素価格均等化定理が働いてダウンしているのだろうが、逆に、再生と言うよりも格差の拡大などの問題を引き起こす心配はないのであろうか。

   ところで、ドルの下落で、日本円は対ドルでは円高だが、ユーロに対しては決して円は高くなく、従って、EUにとっては日本企業はバーゲン価格であり、容易に買収出来る筈だが、それが起こらないと言うことは、日本市場なり日本企業に魅力がないと言うことを意味しているのであろう。
   ヨーロッパの企業は資本の論理で動くが、いわば石油など天然資源バブルで濡れ手に粟といった産油国やロシア、それに、破竹の勢いの中国・インドなどの新興国のM&A戦略・戦術は、理屈抜きであるから、ドル安など関係なく、日本がもう少し経済的に動き出せば、時価総額の低い日本企業は格好のターゲットになるのかも知れない。
   かっての経済覇権大国アメリカが、経済的に疲弊すると、世界中の金がバーゲン市場に殺到するように、アメリカ企業を買い漁る、そんな恐怖感をアメリカ人が少しづつ感じ始めたというのも、時代の流れである。
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死に追い詰められたシルバーバックのマウンテン・ゴリラ

2008年03月21日 | 地球温暖化・環境問題
   英国の高級紙「インディペンデント」の電子版を読んでいて、ショッキングな写真(口絵)を見つけた。
   殺害された巨大なリーダー・ゴリラが、タンカに縛り付けられて住民達に運ばれて行く怪獣映画の一シーンのような写真である。
   手の腕だけでも、大人一人分の大きさがあろうかと思える巨大なマウンテン・ゴリラがアフリカにいて、それらが、人間の金儲けの為に何頭も殺されているのである。何とも悲しくて慙愧に耐えない。
   何故、絶滅寸前のゴリラが殺されるのか。ゴリラの生息地である森林を伐採して木炭を製造する為に、守護神であるべき筈のコンゴのヴィルンガ公立公園のディレクターHonore Mashagiroが、部下に命令して殺させたと言うのである。

   コンゴ、ウガンダ、ルワンダ3国の国境にあるヴィルンガの死火山の火口の傾斜地に、ユネスコが管理し捕獲を禁止されている700匹のマウンテン・ゴリラの内半数が生息しているが、この地で、国立公園の管理役人が率先してゴリラを殺害していることが発覚し、当事者が逮捕されたと言うのだから、コンゴ政府も見過ごすわけにも行かず、世界のワイルドライフや環境保護団体が顔を曇らせている。

   原住民の密猟者なら貴重な肉を目的とするのだが、そのまま殺害されて放置されており、第一に、一般人が殆ど近づけないところであり、正に公園の管理人たちの仕業であり、Mashagiroは、違法な炭焼オファーでも容疑を受けている。
   違法な木炭業者が、ゴリラの生息地である木材を切り倒して工業用燃料として年間30億円($30M)を儲けているようだが、昨年、コンゴ政府が、この取締りを強化したので、環境保護団体は、これが更に事態を悪化させたと考えている。
   Mashagiroは、ゴリラ殺害があった直後に、コンゴ自然保護協会の上級官吏官から、このヴィルンガのディレクターに任命され、カフズ・ビーガ国立公園のゴリラ頭数担当官の任についており、有名な環境保護者が、彼は稀に見る逸材の一人でで逮捕にはショックを受けていると言っているのだから、いい加減なものである。

   この問題は、環境問題のみならず、色々な貴重な問題点を提起している。
   絶滅品種の生物保護と言う問題にしても、これらの殆どの原因は、先進国の自分たち勝手なエゴによる成長志向の経済社会発展に起因している。
   貴重な動植物の最後の楽園は、後進国の原野や森林・山林など未開発の地域に追いやられてしまっているが、グローバル経済に巻き込まれた貧しい住民にとっては、否応なく、生きて行くためには、この経済法則に従って自分たちの身近な自然を犠牲にする以外に方策はない。
   僅か30億円の資金を稼ぐ為に、貴重な自然が破壊され、絶滅寸前の自分たちの仲間である霊長類のゴリラが殺害されるのなどは、恐らく、原住民の価値感と先進国の保護団体の考え方には雲泥の差がある筈である。
   この50年の間に、成長成長で、貴重な自然環境のみならず、取り返しのつかない貴重な遺産・財産を数限りなく失ってきた日本の歴史を振り返ってみれば、そのことが良く分かる。

   地球温暖化等にかんする環境問題は、バイオエタノールへの転換で食料価格を高騰させる等で貧しい後進国の生活を益々窮地に立たせており、石油や原材料など天然資源の価格高騰が、持たざる国を直撃し、更に、ドル安による世界経済秩序の大転換などの大変動が、後進国経済の存続自体を脅かし続けている。
   恐らく、マウンテン・ゴリラを追い詰めてヴィルンガで生産された木炭は、グローバル市場へと言うのではなく、アフリカの小さな工場でのエネルギー資源として使われるのであろう。
   環境問題にしても、世界経済社会の発展の問題にしても、グローバル・システムに否応なく取り込まれて翻弄され続けている、このようなアフリカなどの後進国での深刻な問題を無視・軽視してはならないと思っている。

   
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新日本フィル定期公演・・・シベリウスとマーラー

2008年03月20日 | クラシック音楽・オペラ
   今回の定期公演は、アルミンクの指揮でシベリウス「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調」とマーラー「交響曲第4番 ト短調」。
   御馴染みの曲だが、プレトークで、アルミンクは、第4番はマーラーの交響曲のうちでは非常に分かり易い曲だが、演奏は難しいのだと日本語で語っていた。

   とにかく、私にとっては、両曲とも比較的よく聞いている曲で、シベリウスについては、「フィンランディア」がフィンランドの第2の国歌だと言われるくらい愛され、上空を飛ぶロシア軍機を鉄砲で狙い撃ちしていたと言う逸話まである程の作曲家であるから、激しくて愛国心の強い硬骨漢だと言うイメージが強く、どこか北欧の暗くて陰鬱な響きを感じさせるこのパンチの利いた協奏曲は若い頃によく聞いていた。
   志鳥栄八郎氏の論評では、オイストラッフのレコードが一番良いと言うことだが、国民性と言うよりは、風土的な感性が強く現れた曲なのであろうか。
   今回のこの曲のソリストは、リトアニア生まれでオーストリアに移住したジュリアン・ラクリンだが、やはり、北欧オリジンで感性が近いのか、どこか哀調を帯びたメリハリの利いた少し重い感じのサウンドに感じ入った。

   マーラー人気は、私の記憶では、マーラーから直伝で教えを受けたブルーノ・ワルターが、レナード・バーンスタインに伝授し、そのバーンスタインが、ニューヨーク・フィルを振って一連のマーラーのレコードを出版してからのような気がしている。
   今回の第4番が一番短くて1時間足らずだが、とにかく、ブルックナーと同じで、長大な交響曲ばかりで、あの頃でもコンサートで演奏プログラムに載ることが殆どなかったように思う。
   オットー・ワーグナーやグスタフ・クリム等の活動に代表されるウィーン分離派芸術が一世を風靡していた頃で、マーラーの音楽にも、世紀末的な一寸退廃的なムードが濃厚で、このコワク的な音楽だが、一度引きこまれると逃げ出せないような魅力がある。

   私の今手元にある交響曲第4番のCDは、ベルナルド・ハイティンク指揮のベルリン・フィルの演奏で、私の好きなソプラノのシルビア・マックネールが第4楽章のソロを歌っている。
   私は、何度かロンドンでオペラやコンサートで彼女の歌声に接しているが、美しくて澄み切った声質と言い清楚な佇まいと言い、打って付けの歌手だと思っている。
   「子供の不思議な角笛」の歌詞である「天上の生活」を使っていて、ソプラノが、静かにWir genieszen die himmlischen Freuden と歌い出すと、純粋無垢でけがれのない子供の心を持った「大いなる喜びへの賛歌」の天国のように美しい歌声が展開される。
   モーツアルトとは一寸異質だが、この歌声を聴くと、フォーレのレクイエムのあの美しいサウンドを聴く時と同じ様な幸せな気持ちになる。

   今回のソプラノ独唱は、ロンドン生まれながら、マドリッドで声楽の大学教育を受け、ベルリンの大学院でユリア・ヴァラディ等から学び、21世紀に入ってキャリアを歩み出した、まだ新進気鋭のソプラノ歌手シルヴィア・シュワルツだが、既に、ミラノスカラ座やベルリン州立劇場でツェルリーナを歌うなど大器振りを見せているである。
   この日珍しく双眼鏡を持って行って居たので、つぶさに彼女が歌う表情などを見ていたが、中々の美人で、特に緊張する様子もなく非常に誠実に丁寧に歌っていた。   
   素晴らしい歌声を聴くことが出来て満足であった。
   上気したアルミンクの顔の表情が、会心のマーラー第4番であったことを示していた。
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春めく「くらしの植物苑」・・・佐倉城址・歴博

2008年03月19日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   午後遅く時間が取れたので、久しぶりに、歴博の第3展示室がリニューアル・オープンしたので見に行こうと思って佐倉城址に出かけた。
   結局、この日は、先に併設の「くらしの植物苑」に行き、春の息吹を楽しんだ後、向かいの公園の梅があまりも見事に咲いていたので鑑賞しながら歩いて佐倉城址に入り、本丸あたりで沈没してしまったので、時間がなくなり歴博すなわち国立歴史民族博物館には入れなかった。

   くらしの植物苑は、昔から日本人の生活に有用だった植物を栽培して研究している植物園なので、毎年行われている恒例の「伝統の桜草」「伝統の朝顔」「伝統の古典菊」「冬の華・サザンカ」と言った程度の特別展示で彩りは添えているが、特に、美しくて見ごたえのあるような所は全くない、平凡で小さな植物園である。
   しかし、私が子供の頃には結構日常生活と密着していた身近な植物が植えられていて、夫々に季節になると花が咲き実を結ぶので、それを見ていると懐かしい感じがして心が癒されるような気になるので、自然豊かな佐倉城址の林間を歩いてよく訪れている。

   小さな門をくぐると、真っ先に見えるのが、この口絵写真の濃いピンクの八重咲きの唐梅の華麗な姿で、その側の畑の黄色い菜の花との対象が実に見事である。
   今咲いている花は、梅のほかにやぶ椿やサザンカで、それに、サンシュユ、マンサク、ミツマタ、沈丁花。ボケの花が、ほころび始めている。

   椿で興味を持ったのは、ヤクシマツバキで、やぶ椿の変種のようだが、小磯椿を大きくした感じの筒型の花で、しっかりしたやや濃い赤色の花弁が優雅である。
   リンゴのような大きな実をつけるのでリンゴ椿と呼ばれているようだが、私の栽培していた中国リンゴ椿よりは実が小さかったような気がする。
   佐倉城址公園の鬱蒼と茂る林の中には、やぶ椿の巨木が何本もあり、地面の落ち椿を見て椿だと分かるのだが、はるか上を見上げないと花には気付かない。

   くらしの植物苑の温室に、春サザンカの鉢植えが沢山展示されて綺麗な花が咲いていた。
   私は、椿専門で、あまりサザンカに興味はないのだが、特別な品種は除いて、咲いた花の形等は殆ど椿と違わないのを知って驚いている。
   
   
   ところで、くらしの植物苑の前に、道を隔てて大きなグラウンド状の公園があり、その外周に沢山の梅と桜の木が植えられていて、丁度、綺麗な大きな花の塊を衝立状に並べたように美しい。
   近付くと、梅は、白とピンクと赤の一重や八重が入り混じった感じで、色々な種類植えられているが、桜は、殆ど総てがオオカンザクラのようで、今を盛りと咲き誇っている。
   梅の木は、相当大きくなっているが、十分空間があるところに植えられているので、大らかに育った所為か、いじけた古木のような感じがなく縦横に枝を張っている。
   ところが、こんな梅でも、大きな幹の中央やくびれた枝の付け根辺りから小さな枝が出て、殆ど幹に張り付いたように花が咲いているのがあって、中々風雅で面白いと思った。

   城址公園の中には、梅園以外には殆ど梅の木はなく、花木は殆ど桜の木のようである。
   今咲いている桜は、オオカンザクラだけで、カワズザクラは、もう殆ど散って葉の方が優勢になっている。
   この城址公園の桜は関東では珍しく染井吉野が少なくて、八重桜や他の色々な種類の桜の木があって、咲く時期が少しずれ込む。
   歴博の周囲の桜は、殆ど染井吉野で、それこそ、豪華華麗に咲き乱れるので見に来る人が多くてごった返すが、その奥の本丸辺りの八重桜などは1~2週間遅れて咲くので見る人は少ない。
   染井吉野は、少し、ピンクがかってきているが、他の桜の蕾はまだ黒くて固い。

   池は、枯れ草が綺麗に掃除されたので、珍しく底が見えて、蓮の芽吹きが見え、その横を冬眠から覚めた大きな蛙がゆっくりと這っている。
   菖蒲園も芽吹き始めたようである。
   来週あたりから染井吉野が咲き始めるのであろうか、静かに眠っていた佐倉城址公園の春ももうそこまで来ている。
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枝垂れ梅も椿も急に咲き始めた

2008年03月18日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   急に暖かい日が続いた所為か、庭の花が一斉に咲き始めた。
   私の庭の枝垂れ梅は、何時も、一番遅く咲くので待ち遠しかったが、今、満開である。
   八重のほんのりとしたピンクが優雅で美しく、一寸癖のある香りがするのだが、小さな苗木を買って来て最初に植えた木だから、かれこれ、25年も私の庭で咲き続けている。
   桜やさくらんぼ、源平梅などの花木を植えたが、大きくなり過ぎて枯れたり虫が付いたりして切ってしまったが、梅は、成長の遅い木なので、今、やっと、2.5メートルくらいの大きさになって丁度良い加減である。
   二本同時に植えたのだが、一本は、周りの木が大きくなって木が込み合った所に植えた所為もあって、枝が少しづつ枯れて貧弱になってしまった。梅は日当たりでないとダメなので、植え替えるべきだったが時期を失してしまったのが残念で、後悔している。

   梅といえば、当然、水戸の偕楽園で、私も二度ばかりシーズンに出かけて、素晴らしい梅を鑑賞して来たが、とにかく、人が多くて風情を楽しむなどと言った感じではないので、その後は行っていない。
   他には、京都の北野天満宮や湯島天神ぐらいしか行っていないのであまり知らないのだが、近くでは成田山新勝寺には時々出かけたり、公園の梅を観賞したりすることがある。
   私は、学生の頃やそれ以降、京都や奈良の古社寺を歩いていたので、そんなところにひっそりと咲いている梅の花が好きで、風雅な梅の香りに包まれながら何も考えずに静かに時間を過ごすのが楽しみでもあった。
   
   梅は、菅原道真であまりにも有名で、鎌倉時代に飛び梅の伝説まで生まれたくらいだが、相当昔に中国から伝来して、本来、花と言えば桜ではなく梅であったし、平安時代に愛でて歌に読まれるのも梅の方が多かったようである。
   外国では、欧米でもそうだが、梅の木や花を見た記憶がないし、キューガーデンでも見たようには思えない。
   薔薇が好きで、ワビスケ椿や東洋蘭等には興味を示さない西洋人には、梅の魅力は分からないのかも知れない。
   やはり、この木は、中国や日本のような東洋的な風情を濃厚に持った花木のような気がする。
   桜の花などは、ストレートに人々を魅了するが、梅は、どちらかといえば控え目で、風雪に耐えた古木の風格など見ていると、何処となく精神性を帯びたような気がしてしまう。
   
   梅と同時に、椿が、同じ様な華やかなピンクの花をつけて咲き乱れている。
   一子ワビスケに加わって、ワビスケの太郎冠者と匂い椿の港の曙で、いずれも花が比較的小さいが、一緒に咲くと一挙に庭全体が明るくなる。
   先に咲いていた大輪の曙椿やポンポンダリヤのような花形の乙女椿とは一寸違った雰囲気だが、白と赤の中にあって、ピンク系統の椿が一番優しい感じがする。
   一挙に咲き誇っているのが、白と赤がぶちになった天ヶ下で、赤い花弁の淵を白く象っている玉之浦と一重の赤花で凛とした小磯が咲き始めた。
   他の椿の蕾の花弁の先が少し色づき始めたので、もうすぐ、咲き揃うであろう。

   草花では、クロッカスが最盛期で、ムスカリも、スノードロップも、ハナニラも咲き始めた。
   これらは皆、植えっぱなしの草花だが、少しづつ株が増えている感じである。すみれは、まだ、小葉が出始めたところである。
   牡丹が葉と蕾を出し始め、芍薬が、ピンク色の芽を出し始めたが、昨年数株増やして植えたので、今年は賑やかに咲きそうな予感がする。
   急に、私の庭も動き出した。春になると雑草が急に伸びて困るが、花の咲く喜びには変え難い。
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情報価値の供創による国際競争力強化に向けて・・・情報大航海プロジェクト

2008年03月17日 | 政治・経済・社会
   日経が、経済産業省が推進している「情報大航海プロジェクト・コンソーシャム」の後援で、「情報価値の供創による国際競争力強化に向けて」と言うタイトルでシンポジウムを開いた。
   情報大航海プロジェクトは、現在のパソコンによるホームページの中だけのテキスト中心の情報検索ではない、個人の生活、ビジネスなどのあらゆる局面で、必要な時に必要な情報を解析できる情報基盤(プラットフォーム)を実現することによって、将来の情報経済社会におけるイノベーション創出環境を確立し、日本産業の国際協力の向上を目指す目的で立ち上げられたもので、既に、産官学がチームを編成して、サービス及び基礎の基盤技術の開発を行っている。
   
   ITを通じてイノベーション創出環境を作り出して日本産業の国際競争力を強化しようと言う国策プロジェクトで、色々な側面から技術の開発を行おうとしているが、最も力を入れているのは、グーグルの向こうを張った和製検索・分析エンジンの創設のような気がする。
   その所為かどうかは知らないが、中国で70%のシェアを占める世界第3位の検索エンジンであるBaidu.comのロビン・リー総裁&CEOを講師に呼んで「IT新潮流とビジネスの創出」と言うタイトルで講演を依頼していた。

   前半は、経産省の吉崎正弘審議官や本プロジェクト推進の中核である喜連川優東大教授などの講演やプロジェクト推進者達のプロジェクト報告などがあったが、私にとって面白かったのは、後半の「日本のIT産業の国際競争力強化への道」と言うタイトルのパネルディスカッションで、特に、住信基礎研究所伊藤洋一主席研究院やファーストサーチ&トランスファーの徳末哲一社長などの見解であった。
   冒頭、経産省八尋俊英情報処理新興課長が日本のIT行政の課題等についての説明に使った表・各国の一人当たりGDP(日本20位)に言及して、何故日本がこれ程までに落ちぶれたのか、伊藤氏が、日本のITの問題点を指摘した。

   日本のITには、ウリモノがない。
   ITや金融主体に高度成長をしている国は、アメリカを除いて総て小国で、日本のマーケットが中途半端に大きい所に問題があると指摘した。
   これは、他の小国では、必然的に海外志向、すなわち、グローバル展開を図らなければ成長発展が有り得ないのに比べて、日本にはそこそこ生きて行ける豊かな国内市場があると言う意味であろう。
   しかし、実際には、寡占的な過当競争で、例えば、携帯電話など、世界が一歩づつ前進しているのに、2歩前進しているのが日本で、井戸の中の競争で無意味だと言う。

   これと関連して、日本企業は仲間を作ることが下手で、技術さえ良ければ売れると言う認識では、デファクト・スタンダード世界標準を取れない。
   ビデオのβとVHS、ブルーレイとHD DVDなどの戦いがその典型で、仲間作りに失敗した陣営が駆逐されている。
   また、グローバル展開についても、地方の格差拡大を見れば良く分かり、アジアとの連携を深めている九州が伸び、北海道が落ちるのは必然だと言う。
   京都オリジンの優良企業が活性化しているのも、売上の大半が海外と言うグローバル展開で、東京を相手にする必要が全くないと言うところに秘密があると言うことでもあろう。
   
   IT展開の遅れについては、役員がパソコンを使えなくてシステムが有効に機能しないので、IT投資はコストとして消えて行くケースが多い。
   それに、分散型が全く分からなくてIBMのメインフレームの認識しかない経営感覚で経営しているトップが多く、IT関連業務を若い者にまかせっきりだが、根本的にフレームワーク転換をしない限り救いがないと言う。

   もの造り日本にとって唯一の救いは、最近のハードはソフト組み込み比率が高くなってきたので、日本企業もソフトの開発を無視できなくなった事だと言うのだが、悲しい話である。

   伊藤氏の指摘は、世界の経済社会環境が、知識情報化産業社会に移行し、特に、1990年代から21世紀にかけて、IT革命とグローバリゼーションによって大きくパラダイム・シフトしたにも拘らず、日本企業は勿論、日本の国自体も、その潮流にキャッチアップ出来ずに取り残されてしまったと言うことだが、本当に、日本国民にこの認識があるのかどうか。
   そこそこ豊かで安定した生活が出来ていて不自由がなければ、目くじらを立ててパラダイム・シフトなどと難しいことを言って苦労して変えることもなかろうと言う意識。
   口では大変だと騒ぐが、体制維持派が大半で、殆ど改革の意思がないと言うのが現状でなければ、世界経済のみならず世界中が危機的状態にあるにも拘らず、今のような福田内閣の統治能力の欠如と民主党のカウンターベイリング・パワーが働かないと言った政局を傍観して手を拱いている筈がない思う。
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