熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

中国の経済成長は持続しない・・・アセモグル&ロビンソン

2014年02月27日 | 政治・経済・社会
   昨日のブログの「国家はなぜ衰退するのか」のブックレビューで、
   収奪的な政治・経済制度と経済成長が両立しないと言う訳ではなく、どんなエリートでも搾取するものを増やすためにできるだけ成長を促進したがるので、最低限度の政治的中央集権化が達成されておれば、ある程度は成長が可能だが、問題は、そのような収奪的制度下の成長は、持続しないとして、中国は、収奪的な政治制度を取っているので、必ず、成長が挫折するとの、アセモグルとロビンソンの見解を紹介した。
   私自身も、このブログで、中国が、早晩、経済成長の結果アメリカに追いつき凌駕して、世界第一の経済大国になると言う世論で当然視されている見解には同調できず、必ず、途中で失速すると主張してきたが、今回は、アセモグルたちの見解に固守して、中国の経済成長は持続しないと言う問題を考えてみたいと思う。

   まず、毛沢東時代の沈滞から、中国の再生が実現したのは、毛沢東の死と四人組の権力闘争での敗北が決定的な岐路となり、旧弊を打破して、一連の極度に収奪的な制度からの脱却と包括的制度を目指す大きな動きがあったからで、農業と工業における市場インセンティブと、その後の外国からの投資と技術投入によって、中国は急速な経済成長の軌道に乗った。
   大躍進と文化大革命が引き起こした荒廃と人的被害が、変化への十分なニーズを生み、そのおかげで小平と盟友たちが政治闘争で勝利を得たのだが、収奪的政治制度下ではあったが、非常に急激な30年間の持続的経済成長を実現した。

   持続的経済成長に必須だと考えている包括的な制度と漸進的制度化改革への地ならしとなる政治改革は、社会への極めて広範かつ多様な集団への権限移譲に成功するかどうかであると言う。
   しからば、包括的政治制度の基礎である多元的に必要なことは、政治権力が社会に広く行き渡ることであり、既存の大勢に挑む社会運動がすぐに無政府状態に陥らないようにするとか、幅広い連合が形成維持されるとか、権限移譲のプロセスが必要である。
   また、権限移譲のプロセスにおいて変化を齎し維持する役割を果たす主体として、メディアの存在とその健在が重要な要因だと言う。

   こう考えれば、現在の中国の収奪的構造は、中国当局のメディア支配に決定的に依存しており、恐ろしいまでに精緻であり、一党独裁を維持するためには、党による軍部の支配、党による幹部の支配、党によるニュースの支配の三原則が、徹頭徹尾維持されており、ほころびの余地さえない。
   尤も、自由なメディアと新たな通信技術が力を発揮できるのは、情報の提供、より包括的な構造に向けての人々の要求と行動の調整と言った周辺部分だけであって、メディアの貢献が有意義な改革に結びつくのは、社会の幅広い階層が政治を変えるために行動を起こして協調し、党派的理由や収奪的構造の支配の為ではなく、収奪的構造を包括的構造へ変えて行く時ではある。
   このような大々的な国民運動が、共産党一党独裁と言う既存の収奪的政治制度を、破壊するだけのパワーを持ち得るのかどうか、大いに疑問であり、これまでの歴史上、すべての収奪的政治制度下での経済成長が、挫折したように、中国の経済成長は、持続しないと言うのが、アセモグルとロビンソンの結論なのである。

   中国の高度成長と言う経験は、あくまで、収奪的政治制度下の成長例であって、近年、中国では、イノベーションとテクノロジーに重点が置かれているものの、成長の基礎は創造的破壊ではなく既存のテクノロジーの利用と投資である。
   また、重要な点は、中国では所有権が全面的に保証されていないことであり、労働者の移動が厳しく制限されていることである。
   共産党が絶対的な権力を持って、国家の官僚機構、軍隊、メディア、経済のかなりの部分を全面的に支配し、中国国民には政治的自由が殆どないし、選挙もなければ政治的プロセスへの参加も皆無に等しい。
   こんなに極端な収奪的政治制度下の中国が、包括的制度への移行がなければ、いくら、包括的経済の拡大を装っても、このままでは、成長は本質的に限られて持続できないと言うのである。

   中国の成長は、遅れの取り戻しであり、外国の技術の輸入、低価格の工業製品の輸出に基づいた成長プロセスは暫く続くだろうが、中国の成長は終わりに近づいており、共産党と経済エリートが当分権力を強固に把握し続けるにしても、創造的破壊を伴う成長と真の改革は訪れず、中国の成長はゆっくりと萎んで行く。
   経済が停滞すれば、上昇志向の芽を摘まれた国民の不満が爆発し、人権を徹底的に無視し、環境破壊の極に達した国土の荒廃を前にして、これだけ上から下まで腐敗し切った政治社会が、果たして生き長らえて行けるのか、と言うことでもある。

   アセモグルとロビンソンの理論は、極めて単純明快で、中国が、収奪的政治制度を維持する限り、経済成長の根幹となるイノベーションへのインセンティブが働かず、創造的破壊の進行を圧殺するので、経済成長は持続しない。と言うことである。
   この独裁体制は、単なる通過段階に過ぎないとするシーモア・マーティン・リプセットの近代化理論や、為政者や政策立案者が無知であるから教育すれば良いとする無知論をも論破して、持論を展開している。
   二人の理論展開には、それ程、違和感はないのだが、私自身は、もう少し別な側面から、共産党一党独裁が崩れて、中国の政治経済社会が、暗礁に乗り上げるのではないかと思っている。

   ところで、私は、イアン・ブレマーが、「自由市場の終焉(The End of the Free market)」の中で、国家資本主義の台頭と言う理論を展開しており、この面から中国の経済動向を考えてみるのも、非常に面白いと考えている。
   蓄積した膨大な国家資本、国営企業、政府系ファンド(SWF)を活用して、国益と支配層の利益増進のために、政治経済面の影響力拡大を狙ってグローバル市場を支配しようと試みていると言う考え方である。
   中国のみならず、ロシア、サウジアラビアやアラブ首長国連邦などのアラブ君主国等もそのような動きを加速しており、資源ナショナリズムの台頭など、場合によっては、自由競争市場である筈のグローバル経済市場を、大きくスキューする可能性が出て来る。
   そして、問題は、この国家資本が、前述したような為政者・支配者の権力の維持や利権確保のために、活用されることであり、国家経済の停滞のみならず、グローバル経済にさえ悪影響を及ぼしかねないと言うことである。
   この二つの理論の総合については、もう少し考えてみたいと思っている。
   

   
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ダロン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソン著「国家はなぜ衰退するのか」

2014年02月26日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   国家が成長し、あるいは、衰退するためには、色々な要因が考えられるが、著者たちは、包括的な政治・経済制度が繁栄とのつながりがあると考えている。
   所有権を強化し、平等な機会を創出し、新たなテクノロジーとスキルへの投資を促す包括的経済制度は、収奪的制度よりも経済成長に繋がり易い。収奪的制度は多数の持つ資源を少数者が搾り取る構造で、所有権を保護しないし、経済活動へのインセンティブも与えない。
   包括的経済制度は、包括的政治制度に支えられ、かつ、これを支える。
   包括的政治制度とは、政治権力を幅広く多元的に配分し、ある程度の政治的中央集権化を達成でき、その結果、法と秩序、確実な所有権の基礎、包括的市場経済が確立されるような制度である。
   一方、収奪的政治制度は、権力を少数の手に集中させるために、その少数がみずからの利益のために収奪的経済制度を維持発展させることに意欲を燃やし、手に入れた資源を利用して自分の政治権力をより強固にする。収奪的経済制度は、収奪的政治制度と結びついて相乗効果を発揮して、益々、国家を窮地に追い込んで悲惨な状態を顕現する。
   これが、著者たちの基本的な見解であり、冒頭、アメリカとメキシコの国境を跨いで併存するレガノス市の景観が、アメリカ側とメキシコ側とでは如何に違うかを写真で示していて興味深い。

   尤も、収奪的な政治・経済制度と経済成長が両立しないと言う訳ではなく、どんなエリートでも搾取するものを増やすためにできるだけ成長を促進したがるので、最低限度の政治的中央集権化が達成されておれば、ある程度は成長が可能だが、問題は、そのような収奪的制度下の成長は、持続しないと言う。
   まず第一に、持続的経済成長を維持するためには、イノベーションが必要であり、イノベーションは創造的破壊を伴うので、経済界に新旧交代を引き起こし、政界や経済界で確立されている力関係を破壊するので、エスタブリッシュメントが抵抗し、芽生えたどんな成長要因も短命に終わる。
   第二に、収奪的制度を支配する層が、社会の大部分を犠牲にして莫大な利益を得られるのなら政治権力は垂涎の的となり多くの集団や個人が闘って社会が政治的に不安定になる。
   からだと言うのである。
   これは、ソ連のケースを考えれば納得がいく。
   そして、興味深いことに、著者たちは、中国は収奪的政治制度下にあるので、成長は持続的成長を齎さず、いずれ活力を失うと示唆している。

   さて、有史以来、収奪的制度がごく普通だったはずだが、どうして、旧弊を打破して、イギリスを筆頭に、包括的制度へ移行できた社会があるのはどうしてであろうか。
   歴史的偶然と言うべきか、大幅な経済改革の必要条件である大幅な制度改革が実現するのは、既存の制度と決定的な岐路が相互に作用した時だと言う。
   決定的な岐路とは、一部あるいは多くの社会で既存の政治・経済の均衡が崩されるような大きな出来事のことで、14世紀にヨーロッパの大半で人口のおよそ半分を死に至らしめたペスト、西洋の多数の人々に莫大な利益の機会を生んだ大西洋貿易航路の開通、世界中で経済構造の急激かつ破壊的な変化の可能性を齎した産業革命などである。

   当然、歴史には必然は有り得ないので、夫々の国の興亡は、小さな相違と偶然の積み重ねであって、制度的浮動を通じて決定的な岐路に重要な役割を果たすのは、歴史的プロセスである。
   西洋の歴史的転換は、封建制度が独自の筋道を辿って奴隷制度に取って代わり、やがて君主の権力を弱めるに至ったこと、西暦1000年代に入ってから数世紀間にヨーロッパで商業上の自治を保つ独立した都市が発展したこと、ヨーロッパの君主が海外貿易を脅威と受け取らず、妨げようとしなかったこと、封建秩序を揺るがしたペストの到来・・・etc. 後退や前進を繰り返しながら、イギリスの名誉革命を経ながら、包括的政治制度と包括的経済循環の相乗効果による好循環を繰り返して、成長発展を持続してきたのである。

   
   ところで、前述したのはこの本の主要点の要約だが、決してこれらの論点に固守せずに、色々な側面から世界史的な視点で国家の発展興亡について論じていて、私としては、個々の国家の歴史的展開や経済発展論としての世界史の総括と言う面からアプローチしたので、非常に、興味深く読ませて貰った。
   総括的政治制度と総括的経済制度の好循環を繰り返して民主主義的な成長発展を遂げてきたイギリスやアメリカの軌跡やその違いだけをとっても、経済成長のみならず、文化文明論としても面白く、
   そして、同じ新大陸の植民地国家でありながら、何故、アメリカが成長発展して、スペインやポルトガルに植民地として搾取され続けたラテン・アメリカが、独立後も悪循環に陥って経済的後背地に甘んじているのかと言った問題についても、包括的政治経済理論で分析しており、このように一本筋の通った理論展開で歴史を見ると、結構興味深いことが分かる。
   上下700ページくらいの翻訳本だが、久しぶりに、面白い経済発展論を読んだと思っている。
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国立劇場二月文楽・・・「近頃河原の達引」

2014年02月24日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   「そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さん・・・」のセリフでポピュラーな文楽「近頃河原の達引」。
   今回は、「四条河原の段」と「堀川猿廻しの段」だけだが、このセリフは、後半の段で、寛治の三味線にのって津駒大夫が、紋壽の遣うおしゅんに語らせ、苦しい胸の内を、勘壽の伝兵衛にかき口説く。

   浄瑠璃好きの大店の旦那が、お稽古をしているのを耳にタコが出来る程聞いたニキビだらけの丁稚が、御用の途中に口遊む・・・そんな情景を彷彿とさせるような台詞である。
   先日、能には縁のなかった庶民が、謡だけを楽しむ「謡講」、すなわち、広い畳敷きの座敷を障子や御簾で仕切って聴衆から見えないようにして演者が謡った様式の上演形態が流行ったと言うことで、国立能楽堂で上演されたのだが、古典芸能は、色々な形で、庶民の間で生き続けているのである。

   今回の舞台の概要は、次の通り。
   祇園の遊女おしゅん(紋壽)を巡って争っていた井筒屋伝兵衛(勘壽)が、おしゅんの身請け話で煮え湯を飲まされていた横淵官左衛門(玉志)が、大事な茶壺を割ってしまったので、怒り心頭に達して殺してしまう。
   一方、おしゅんは、お尋ね者となった伝兵衛との関わりを心配されて京の堀川の実家に帰されて、目を患う母(文昇)と兄・猿廻しの与次郎(玉女)と暮らしている。
   母兄は、思いつめた伝兵衛が、家に来て刃傷沙汰にならないか、心中しないかと心配して、おしゅんに退き状を書かせる。
   そこへ、伝兵衛が訪ねて来て、退き状を見せられ裏切られたと口惜しさに泣くのだが、それは、退き状ではなくて、今度の不幸は自分故に起きたことで、女の道を立て通すために、伝兵衛と運命を共にすると言うおしゅんの書置きだった。
   二人の心情を察した母兄は、おしゅんに女の道を立てさせるために、出来るだけ逃げ延びて欲しいと伝兵衛に頼み、与次郎が、番の猿を廻して、門出の祝いとするのである。

   ところで、前述のおしゅんのセリフだが、書置きを読んで、義理を立て抜くおしゅんの貞節を知った伝兵衛が、罪を犯したのは自分で死は免れぬ身だが、共に死んでは母兄二人の嘆き、咎のないおしゅんは命長らえて後世を弔ってくれと言ったのに対して、「そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さん・・・」とおしゅんは、必死になって命の叫びを吐露したのである。
   「・・・そも逢い掛かる始めより末の末まで云い交わし、・・・一緒に死なして下さんせ」と隠せし剃刀取り直す・・・
   心中を覚悟したおしゅんの心情を察した母が、鳥類畜類でも、子の可愛さに変わりはないもの・・・親御様の嘆き必定であろうから、いづくいかなる国の果て、山の奥にも身を忍び、逃れてくれと拝み頼む。
   金の切れ目が縁の切れ目の筈の色里とは全くかけ離れたおしゅんの貞節、心中すると分かっていながら逃避行を許さざるを得ない母と兄の断腸の悲痛を、あまねく語って澱みのない津駒大夫の語りと寛治の三味線が、人形を泣かせ慟哭させて胸を締め付ける。

   浄瑠璃本を読んでいないので分からないのだが、「歌舞伎見物のお供」によると、この心中の顛末は、
    二人は、聖護院の森を目指して落ちていくのだが、悪人の横淵官左衛門の同僚の侍が、横淵の悪事を暴いたので、伝兵衛はおとがめナシとなり、心中直前に与次郎が助けに来て、おしゅんも身請けされると言うことである。

   この段で興味深いのは、少し頭が弱いが実直そのもので母思い妹思いの兄の与次郎で、一寸、チャリ気味の演技を、玉女が器用に遣っていて面白い。
   幕切れ近くの、祝言の代わりに与次郎が演じる猿回しの、男女の猿の、愉快な、しかし、実にもの悲しい姿が秀逸で、番の猿を両手に持って、実際の小猿がじゃれて愛の交感を演じているような黒衣の遣い手の手腕も大したものである。
   運命を噛みしめながら泣いている伝兵衛とおしゅんは、俯いたままで、軽快な三味線にのっておどる猿回しを見ていないのが、哀歓を誘って切ない。

   私は、紋壽の「文楽・女方ひとすじ―おつるから政岡まで 」(11年前にアマゾンにブックレビューを書いている)を読んでから、紋壽のファンで、今回も、最初から最後まで、紋壽の遣うおしゅんを注視していた。
   冒頭から影のある悲劇のヒロインを、愛おしみながらしっとりと遣っていて、感動的であった。

   ところで、この段の前半は、住大夫の浄瑠璃と錦糸の三味線であった。
   冒頭は、母親が近所の娘に三味線を教えるシーンで、男女の心中を歌った地歌「鳥辺山」で、二人の行く末を暗示するのだが、帰ってきた猿廻しの与次郎が、目の患いに苦労をかけると泣く母に無理に商売繁盛を装って安心させ、追われる身となった伝兵衛と別れるよう説得されて退き状を書くおしゅん、貧しいながらもお互いを思いやりながら必死になって生きている三人の姿を語る部分は、嵐の前の静けさと言うか、しみじみと人生を語っていて感慨深い。
   ・・・しばしこの世を仮蒲団、薄き親子の契りやと、枕に伝ふ露涙、夢の浮世と諦めて、更け往く
   住大夫の語る浄瑠璃は、ずっしりと胸に響いて感動を呼ぶ。

   さて、この演目の前に、「七福神宝の入船」と言う目出度いプログラムがあって、宝船に乗った七福神が、酒盛りの余興に、夫々が得意とする芸を披露すると言う愉快な舞台を見せてくれた。
   同類の歌舞伎の舞台よりも、コンパクトで大げさでないところが良い。
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国立劇場二月文楽・・・「本朝廿四孝」ほか

2014年02月23日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   13日の豪雪のために、チケットをふいにした舞台だったが、どうしても観たくて、再びチケットを求めて劇場に出かけた。
   やはり、素晴らしい舞台で、僅か2時間と少しの時間だったが、楽しませて貰った。

   この口絵写真の、赤姫姿の八重垣姫(簑助)が、壁に掛けられた亡くなった勝頼(玉女)の絵姿に向かって、十種香を焚いて回向をしているシーンは、余りにも有名だが、芝居の冒頭としては、実に良く出来ていると思っている。

   今回の「十種香の段」と「奥庭狐火の段」のストーリーは、次の通り。
   足利将軍が、長尾謙信と武田晴信の争いを謀反の兆しと恐れて、子供の八重垣姫と勝頼を縁組させるのだが、将軍が暗殺されたために、勝頼は殺される。
   この亡くなった筈の勝頼を絵姿だけで恋い焦がれる八重垣姫の姿が、件の冒頭シーンなのだが、実は、死んだ勝頼は替え玉で、勝頼が花作りの蓑作(玉女)として謙信の家来となって現れ、その姿があまりにも勝頼に似ているので、激しい恋心に捉われてアタックする。
   八重垣姫の腰元となって潜入している武田方の濡衣(文雀)は、一部始終を知っており、素振りの怪しさに気付いた八重垣姫が、蓑作との仲立ちを頼むと、濡衣が諏訪法性の兜と引き換えに仲立ちに応じたので、蓑作の正体に気付いて、二人は出会えたことを喜び、激しく恋に落ちる。
   それを一部始終承知の謙信(勘壽)が現れて、塩尻の景勝への使いを勝頼に命じて出立させ、後から刺客を送り出す。
   勝頼を殺害するつもりだと悟った八重垣姫は泣いて謙信に縋るが、謙信は拒絶して、濡衣をも捕縛する。
   勝頼を助けたい一心の八重垣姫は、奥庭の祭壇に祀られた諏訪法性の兜を手に取り、押し頂いて祈り続ける。
   兜には、諏訪明神の使いの白狐が宿り、八重垣姫(勘十郎)は、その白狐の霊力で諏訪湖を渡り勝頼のもとへ危機を知らせに駆けつけて行く。

   恋愛結婚が普通の現代の若者には、会ったことも見たこともない、絵姿の美しさだけに惚れて恋い焦がれると言う発想が、中々、理解されないであろうが、その恋に身を焦がす八重垣姫が唯一登場すると言うこの二つの段だけが、非常にポピュラーで、文楽でも歌舞伎でも、頻繁に演じられている。
   この二つの段は、長尾家と武田家の諏訪法性の兜を巡っての争いがストーリーの本筋だが、テーマは、八重垣姫の勝頼への激しい恋心である。
   狂おしい程の激しい八重垣姫の恋、狂恋が、父親を裏切ってでも愛しい勝頼の命を救いたいと言う必死の思いが、諏訪法性の兜を触媒にして、神の使いの白狐の霊が乗り移ると言う奇跡を生む。
   その象徴が、冒頭の簑助が遣う八重垣姫の正に初々しくて何の穢れもない後振りの崇高な姿である。

  
   前回は、両段とも八重垣姫を簑助が演じたが、今回は、奥庭狐火の段の、狐が乗り移った八重垣姫の激しい舞台は、前回、左を遣っていた勘十郎に任せた。
   赤姫姿の八重垣姫が、瞬時に、狐の霊力が乗り移って白い衣装に変わる早変わりは、あっという間の瞬間であったが、沢山の白狐が宙を舞うなど、この段は、正に、人形であればこその演技が随所に鏤められていて、激しく躍動する三味線にのって、勘十郎の至芸が、文楽の醍醐味を味わわせてくれて素晴らしい。

   勿論、前段の「十種香の段」の簑助の八重垣姫、それに、人間国宝文雀が遣う濡衣、そして、玉女の勝頼、勘壽の謙信も、正に、人を得て、素晴らしい舞台を見せている。
   嶋大夫の浄瑠璃と富助の三味線の情緒連綿とした熱演があってこその舞台であることは、当然なのだが、これだけ、演者が揃うと、芝居の凄さ感動は、極に達する。

   濡衣の「・・・あれが誠の勝頼様。ちゃつとお逢ひなさいませ」と、突きやられてはさすがにも始めの怨み百分の一
   「聞こえませぬ」が精一杯
   後は互ひに抱き付き、つい濡初めに
   濡衣も、心ときつくおりからに
   父謙信の声として「蓑作はいづれにゐる、・・・」
   
   床本は、これだけの表現だが、勝頼と知って縋り付く八重垣姫を勝頼が抱きしめる濡れ場は、ほんの一瞬、すぐに、イラついた謙信が登場する。  
   しっかと抱き合い、合わせた顔を、勝頼が扇を広げて隠し、側にいる濡衣は、見ちゃおれないと言わんばかりに顔を背ける・・・
   このあたりの大夫の語りも意味深だが、とにかく、人形の濡れ場とは思えないようなリアルさで、感動的である。

   最初から最後まで、簑助のこの段での八重垣姫のパーフォーマンスは、高貴なお姫様の魅力全開である。
   それに、控えめだが毅然とした濡衣の文雀が、また、堪らなく上手い。
   去年、文楽劇場から日本橋駅へとぼとぼと歩いていた文雀師を見ているので、この濡衣の初々しさ、色香や品の良さが、何処から出て来るのか、感動している。

   とにかく、素晴らしい舞台である。
   前半に上演された「御所桜堀川夜討」の「弁慶上使の段」も、実に、充実した凄い舞台だったが、これでも、空席が目立って残念であった。
   文楽協会の必死の努力にも拘らず、入場者が既定数に達しなかったので、大阪市の補助金が削減されると報道されていた。
   高度な文化芸術は、ひ弱な花であって、大切に育てないと枯れてしまう.
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わが庭の歳時記・・・雪解け後のクリスマスローズ

2014年02月22日 | わが庭の歳時記
   まだ、庭の片隅には、雪が残っている。
   少し間を開けて降り続いた雪だが、久しぶりの大雪で、こんもりと野山が真っ白になると綺麗だが、雪かきが大変であった。
   かなり成熟した住宅街なので、住民の老齢化の所為もあろうか、雪かきを端折る家が一軒でもあると、その前が通れなくなり、それに、坂道なので、通行に難渋する。
   殆ど雪のない地方で、偶に大雪が降ると、交通機関がマヒして、その上に、住宅街まで、生活の足を引っ張る。
   

  
   やっと、雪が消えた花壇から、クリスマスローズの花が、顔を出した。
   私の庭では、まだ、開花株は少ないのだが、それでも、何時も下向き加減の花が、少しでも顔を持ち上げてくれると嬉しくなる。
   千葉から持ち込んだクリスマスローズの株数が少なかったので、少しさびしいので、タキイにネット・オーダーしたが、花が咲くのは、早くても来年以降になるであろう。
   私がクリスマスローズに関心を持ち始めたのは、北鎌倉の古寺に咲いていた風情のある姿に興味を覚えてからだが、庭に植えて置けば、それ程手入れを気にしなくても、株が大きくなって花を咲かせるし、春の草花より早く咲くので重宝なのである。
   まだ、花にもよるが、他の草花よりは、かなり高いけれど、色形が豊かになってきており、それなりに楽しめるようになった。
   
   
   
   

   椿は、賀茂本阿弥ピンクは、雪に落ちた後から、残っていた蕾が咲き始めたが、タマグリターズは、蕾が固く、中々、ほころばない。
   代わりに、雪に埋もれていたフルグラントピンクが、すっくと立ち上がったと思ったら、蕾が開き始めた。
   
   
   

   白梅は、かなり大きな大木なので、雪にも負けずに次から次へと花を咲かせている。
   元から植わっていた木なので、種類は分からないのだが、それ程、みつには咲いていないので、華やかさはない。
   雪の合間に、メジロが飛んで来て、花びらをつついていた。
   
   
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特別展 世紀の日本画・・・東京都美術館

2014年02月21日 | 展覧会・展示会
   今、東京都美術館で、「日本美術院再興100年 特別展世紀の日本画」が開催されていて、前期の展示が終了する直前に、出かけた。
   これまでに、何らかの機会を得て見ている絵画もかなりあるのだが、これだけ、まとめて一挙にこの100年間くらいの日本の代表的な絵画が一堂に会すると壮観である。

   昨夜の日経の夕刊を見ていると、この口絵写真(足立美術館のHPより借用)の小林古径の「楊貴妃」について、この絵のモデルになったと観世流能楽師関根祥六師が語っている記事が出ていた。
   古径は、宝生流の野口兼資の能舞台で着想を得たと言うことだが、当時の観世元正宗家にモデルの依頼があり、内弟子に入ったばかりの祥六が、大磯のアトリエに遣わされて、7月の暑い最中に、面・装束をつけて葛桶に数時間座り続けたと言う。

   足立美術館の説明では、
   本作は、宝生流の野口兼資が演じた能を基に描かれています。
玉すだれの幽かな動き、極度に抑制された役者のしぐさなど、能表現の持つ静謐な緊張感が巧みにとらえられています。と記されている。
   10年ほど前に、この美術館を訪れているので、展示されていれば見ている筈なのだが、記憶はない。
   この絵を見た時に、顔だけが白粉を塗ったように真っ白なので不思議に思ったのだが、能舞台に置かれた作り物の中に座っているような雰囲気なので、能の楊貴妃ではないかと思ったのだが、当たっていた。

   シテ/楊貴妃を梅若玄祥、ワキ/方士を宝生閑の素晴らしい楊貴妃の能舞台を観た筈なのだが、記憶は殆どないので、玄祥師などの舞台写真を見ると、非常に豪華な中国風の冠をつけているのだが、宮殿の作り物の前面に、玉すだれが下がっているのは同じである。
   この絵を眺めながら、京都の泉涌寺の楊貴妃観音堂に安置されている聖観音像(重文)を思い出した。
   像容の美しさから、玄宗皇帝が亡き楊貴妃の冥福を祈って造顕された像との伝承を生み、楊貴妃観音と呼ばれて来た観音像で、実に美しくて、京都にいた時には、良く訪れた。   

   この「楊貴妃」の隣に展示されているのが、安田靫彦の「飛鳥の春の額田王」。
   テキストなどに良く出て来る絵で、万葉歌人の額田王を描いた歴史肖像画で、美人画のようなこぼれるような艶やかさと美しさを醸し出した女性像で、実にモダンで魅力的である。
   「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」くらいは私でも知っているが、案外波乱に満ちた生涯を送っており、美人だったかどうかも未知のようだけれど、この絵を観ていると、甘檮岡に立って飛鳥の都の賑わいの展望を楽しんでいる、古の高貴な麗人を彷彿とさせて清々しい。
   

   そして、重要文化財である下村観山の「弱法師」も、俊徳丸が面をかけているので、「楊貴妃」と同じように、やはり、題名の通り、能「弱法師」のワンシーンを描いた6曲1双の襖絵である。
   私は、歌舞伎や文楽の「攝州合邦辻」での俊徳丸は良く知っているのだが、能の「弱法師」は、まだ、見たことがないので良くは分からない。
   この絵のシーンは、盲目の乞食となって脆弱故に弱法師と呼ばれている俊徳丸が、施行を受けており、丁度彼岸の中日で、梅の香が匂うなかで、仏の慈悲を称え、日本で初めて建立された天王寺の縁起を語るところのようだが、この絵の右端に立つ俊徳丸が、梅の古木の枝越しに、左端に大きく描かれた真赤な夕日(この絵には欠けている)に向かって日想観を拝んでいる。
   目は見えないが、梅の香に交じって潮の匂いを嗅ぎ、はるか大阪湾に浮かぶ淡路島、須磨明石、紀ノ國の情景までも蘇って心の中に極楽浄土を感得した、その瞬間である。
   近く、能「弱法師」を鑑賞することになっているのだが、この観山の壮大なスケールと威容を誇る梅の古木が、俊徳丸の闇を象徴し、その向こうに輝く日輪を仰いで、思わず合掌する、そんな俊徳丸の姿が、能舞台でイメージできればと思っている。
   

   彫刻では、何時も、国立劇場のロビーで観ている2メートルもある「鏡獅子」、すなわち、六代目尾上菊五郎をモデルに二十年の歳月をかけて作られた平櫛田中の作品の小型が展示されていて、親しみを感じた。
   もう、1躯、平櫛田中の「酔吟行」、一寸、ロダンのバルザック像に似た、やや仰け反り気味のスマートな李白の、孤高の雰囲気を醸し出した素晴らしい立像が展示されていた。
   

   この特別展だが、入場すると、まず、最初に、狩野芳崖の「不動明王」の凄い迫力に圧倒されるのだが、とにかく、次から次への代表作のオンパレードで、日本絵画の素晴らしさに感動する。
   一つ一つ書き続ければ、キリがないのだが、後期には、総入れ替え展示されると言うことで、私が一番感激した芳崖の重要文化財「悲母観音」が登場するので、また、いそいそと出かけて行こうと思っている。
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世界らん展 日本大賞2014

2014年02月20日 | 展覧会・展示会
   昨年行かなかったので、久しぶりと言う感じの世界らん展。
   これまでは、結構、当日チケット売り場でも列をなしていた筈だが、開場4日目の午後2時頃にゲートに向かったのだが、ガラガラ。
   何年も通っていると、会場運営のマンネリと言うか、新鮮味も欠けて来るのだが、何となく、人気が落ちて来たようで、会場内もそれ程の混雑はなかった。
   特に気になったのは、会場の半分くらいが、オーキッド・マーケットのような販売宣伝コーナーになっていて、展示即売会場と言った感じになっていたことである。
   私の関心事は、個々のらんの花を撮ることだが、会場の大型ディスプレイは、大体、次のような雰囲気である。
   假屋崎省吾の蘭の世界が、華やかに会場を飾っていたが、私には、良く分からなかった。
   
   
   
   
   

   オーキッド・マーケットは、沢山の蘭園などが小さなブースで趣向を凝らして商品を展示販売していたが、写真関連企業や香水を扱う化粧品などはともかく、ワインやだんごを売る茶店などのあるのはどういう訳か、とにかく、多くの店が出ているのだが、結構、お客さんで混んでいる。
   
   
   
   大型の箱庭のような雰囲気のディスプレイ部門の展示には、結構、雰囲気のある作品があって面白かった。
   
   
   
   
   私自身の目的は、綺麗ならんを鑑賞すると言うこともあるが、らんのスナップ写真を撮ることであるから、らんの花があれば良いのである。
   色々な種類のらんを、部門ごとに優秀作品を纏めて展示してある個別審査会場のらんの花を、一鉢ずつ見て歩き、気に入った花にレンズを向ける。
   この日は、一眼レフに、18-200ミリのズーム・レンズをつけて、これ一台で通した。
   これでも、結構重くて、大変なのである。
   東京ドームであるから、休憩出来るのは、観覧席か外に出る以外にないので、疲れると、会場のセミナー・コーナーに座って聞き流していた。
   個別審査会場のディスプレイなどは、次の通り。
   
   
   
   
   さて、今年の日本大賞は、”エピデンドラム アタカゾイカム ‘マウント イイズナ’
Epi. atacazoicum ‘Mt. Iizuna’”
   私のように、らんに対する知識のない者にとっては、らんとは思えないのだが、中々、雰囲気があって美しい。
   もう一つ、この会場で興味深かったのは、青い胡蝶蘭である。
   紫系統のらんが、赤みが後退して青色が勝ってきた感じだが、薔薇と同じで、青い花は、何か、特別な雰囲気があって良い。
   
   

   さて、良い写真は、一枚も撮れなかったが、いくらかの花のスナップ・ショットは、次の通りで、夕刻の文楽鑑賞のために、長居出来ずに、早く会場を出た。
   
      
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
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バーンズ&ノーブルの革新

2014年02月18日 | イノベーションと経営
   以前に、アメリカの最高かつ最大の書店バーンズ&ノーブルが、ネット・ブック・ショップとして開業したアマゾンの追撃に対抗できなかったことにふれ、既存の成功会社として権威を誇っていた企業と言えども、如何に簡単に駆逐されてしまうか、そして、破壊者による破壊的イノベーションの威力がどれほど凄まじいかについて書いた。
   その後のバーンズ&ノーブルの、謂わば、帆船効果とも言うべき既存事業の再ポジショニングや電子書籍事業への転身などについて、HBRに「相反する2つの変革を同時に進める法」と言う興味深い論文で、紹介されているので、考えてみたいと思う。

   クリステンセンが、「イノベーターのジレンマ」で、イノベーターとして成功して一挙に時代の寵児となって繁栄を謳歌していた企業が、その成功故に、破壊的イノベーションを起こして追撃してきた企業に駆逐されてしまうと言う熾烈な現実を指摘して以降、この既存の企業が、その地位を如何にして維持するかが、経営学上のホット・トピックスとなって、クリステンセンはじめ、多くの経営学者などが持論を展開してきたのだが、依然、決定論は出るすべもないようである。

   このHBRの論文も、その一環の研究で、エイドリアン・J・スライウォツキーが、ダブル・ベッティングとして提唱していた議論の焼き直しと言った感じで、既存のコア事業の再ポジショニングと破壊的な新規事業の開発と言う2つの事業を同時並行で進めるべきと言う理論である。
   成功するためには、コア事業での優位性や財務基盤を維持するなど、ケイパビリティ(組織的能力)の交換によって、経営資源の共有を図って、相乗効果を引き出し、2つの事業を阻害なく成功させることだとして、ゼロックスやバーンズ&ノーブル、デザレットを例に引いて論じている。

   しかし、後述するが、必ずしも、バーンズ&ノーブルが起死回生したとは思えないし、このような二股戦略を完遂するなどと言うのは、余程、有能な経営者がいて、強力かつ卓越したリーダーシップを発揮できる能力を有するなど恵まれた経営環境になければ、至難の業である。
   むしろ、かってのソニーやスティーブ・ジョブズ時代のアップルのように、次々と、破壊的イノベーションを連発して、企業を成長軌道に乗せて行く方が、優しいかも知れない。
   それ程、破壊的イノベーションによって、市場を制覇した成功企業ほど、持続的な発展成長維持は、難しいのである。

 今回は、破壊的イノベーターの成長維持戦略については言及せず、バーンズ&ノーブルの新戦略の展開についてのみ、議論して見たい。

   まず、既存事業の再ポジショニングについてだが、B・ダルトンとして展開していた798店舗すべてと旗艦店を含めて業績不振のメガストアを閉鎖した。
   同時に、教科書部門を積極的に拡大し、大学内書店の委託運営を手掛けるアメリカ有数の企業を買収し、また、利益率の高いギフト用の商品や書籍、児童書、教科書に特化した。
   このコア事業の荒療治とも言うべき再ポジショニングによって、700店近くのチェーン店が黒字を出しているので、今後数年は持ちこたえられそうだと言う。

   大学の教科書なら、完全に売れるし、大学の書店なら、アマゾンで買うよりは、実際に書店で本を確認して買う学者や学生の方が多いであろう。
   また、ギフトの買い物や子供と一緒にゆっくりしたりしながら充実した時間を過ごせる買い物の場を、チェーン店に設営するなど、実際に商品を並べるスペース、ブランド構築、出版社ネットワーク、顧客情報等、持てる経営リソースを活用して、アマゾンとの差別化を図った。

   もう一方の破壊的事業と言うべき電子書籍事業についてだが、eコマース事業の重役であったウイリアム・リンチを引き抜いて、電子書籍の専用端末ヌック(NOOK GlowLight)を立ち上げた。
   カラー画面のヌックで、アマゾンの機先を制して、僅か2年で電子書籍市場の27%を獲得して、出版業界を驚かせたと言う。
   しかし、同社の売上高の大部分は、依然として小売部門が上げていて、ヌック事業は、多大な開発コストが回収できずに赤字である。

   さて、現実だが、
   この記事がHBRに掲載されたのは12年12月で、その後、13年11月27日のロイター電子版に、「米バーンズ&ノーブルは減収、電子書籍部門の不振続く」と言う記事が掲載されて、”電子書籍端末「ヌック」および電子書籍をはじめ、全部門で売上高が減少し、オンライン小売のアマゾン・ドット・コムに苦戦を強いられている状況が浮き彫りとなった。”と報じている。
   総売上高は17億3000万ドルと、前年同期の18億8000万ドルから減少したのだが、純利益はコスト削減が奏功し1320万ドルと、前年同期の50万1000ドルから増加した。
   しかし、電子書籍端末「ヌック」および電子書籍の売上高は32.2%減の1億0870万ドルとなり、大幅に下方後退したと言う。

   Barnes & Nobleのホームページを開くと、New! NOOK GlowLight の写真と$119を$107に値引きする表示がされているが、やはり、トップに出るのは、Biggest Booksで、紙媒体の本の販売広告。
   興味深いのは、New for Kids and Teensと言う大項目があって、子供本に力を入れているのが分かる。
   
   さて、この論文の最後に、
   バーンズ&ノーブルの将来は、ダイナミックな電子書籍市場にある。
   バーンズ&ノーブルは、書籍販売に会社ではなくテクノロジーの会社だと言う。

   私が、フィラデルフィアで勉強していた頃は、バーンズ&ノーブルと言えば、大変な書店で、知の香りのする素晴らしい場を提供していて、ニューヨークに出かけた時には、METとともに憧れの場所であった。
   しかし、大分前に、ボストンに行った時に、市内の大きなバーンズ&ノーブルの店舗に出かけたのだが、何の魅力もない店になっていたので、大変失望したのを覚えている。

   日本の大型書店も、イノベーションを追求して魅力的な店舗づくりと、革新的で魅力ある文化的な香りのするビジネスモデルを構築できなければ、アマゾンに、どんどん、追い込まれて行くに違いない。
   最近、神田神保町の三省堂書店が、1Fを中心に大幅な模様替えをしたのだが、コスト削減を目的としたしか思えないような改造で、書店としての魅力は、何も加わっていない。
   東京駅近辺の大型書店も、書棚などのディスプレィが変わるくらいで、この数年、いや、10年以上も何の進歩も変化もないように思う。

   最近では、何か、私の知らない本でも出版されていないか、見るくらいしか、大型書店に行く目的がなくなってしまった。
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国立能楽堂・・・「式能」

2014年02月16日 | 能・狂言
  首都圏を襲った大雪の翌々日、まだ、沢山の雪の残る国立能楽堂で、能楽協会主催の「式能」が催された。
   朝の10時から、夕刻の7時15分まで、翁を皮切りに、五流派の能楽5曲と狂言4曲、たっぷりと能・狂言のオンパレードであり、勿論、満員御礼で、充実した演目に大変な熱気であった。
   私もこれで3度目であるから、この能楽堂に通って2年半が経ったと言うことで、少しは、能狂言に違和感を感じなくなってきたのが幸いである。

   今年の翁は、金春流で、金春安明宗家の翁で、野村萬斎が三番叟を舞って、素晴らしい舞台を見せて、観客を魅了した。
   引き続いて、すぐ、能「岩舟」が演じられたのだが、この曲は、岩波講座にも、能を読むにも掲載されておらず、あまり上演されないようだが、唐や高麗との交易で栄えた摂津の住吉の浦への宝船の来訪の話のようである。
   能の謡がまだ十分に聞き取れていない私にとっては、あまり、良くは分からずに聴いていた。
   続いて、和泉流の狂言「三本柱」が、シテ万作で演じられたのだが、休憩なしで延々2時間半の連続公演であるから、人間国宝野村万作が登場しても、席を立つ人が多くて、日頃のしわぶき一つさえ憚られる静寂そのものの能楽堂の雰囲気とは様変わり。
   尤も、先月の金春流の素謡「翁」でも、そうだったが、「翁」が上演されると、一切、見所への途中入場は禁止で、この演目だけは、クラシック音楽やオペラ公演並みに厳しいのである。
   
   この後、休憩が入って、金剛流の能「清経」シテ種田道一と大蔵流の狂言「神鳴」シテ山本則俊、アド山本東次郎が上演されて、第一部は終了。

   第二部は、
   喜多流の能「羽衣」シテ香川靖嗣、和泉流狂言「文荷」シテ野村萬、
   観世流の能「放下僧」シテ関根知孝、
   大蔵流狂言「長光」シテ大藏彌太郎、宝生流能「黒塚」シテ金井雄資

   羽衣は、何回か鑑賞する機会があって、大分、自分なりに楽しめるようになっているので、興味深く見ることが出来た。
   数か月前に同じ喜多流で、シテ友枝昭世の羽衣を観たが、はっきりとした綺麗な謡や、実に優雅で素晴らしい舞姿を観て感激した。
   富士山が世界文化遺産に登録された時に、日本側が、三保の松原との抱き合わせに拘ったのだが、日本人の文化感や美意識の素晴らしさが、分かろうと言うものである。

   「放下僧」は、初めてだったが、シテもツレも直面で登場し、謡も会話調が主体の曲で舞台そのものも芝居がかっていたので、かなり、良く理解できた。
   仕舞の時にもそうだが、直面で見るシテの舞は、何時も面によって隠されている能楽師の厳しい緊張の極に達した素顔が見えて、その精悍さと芸の崇高さに感激する。
   また、「黒塚」は、先の猿之助襲名披露公演で、猿之助が歌舞伎バージョンで素晴らしい舞台を見せて魅せてくれたので、ストーリーなり背景が良く分かっていたので、楽しむことが出来た。
   その違いや感想などについては、別に、書いて見たいと思っている。

   狂言は、囃子が伴ったり衣装に趣向をこらしたり、人間国宝3人の大車輪の活躍もあって、いつも以上に馬力が入った素晴らしい舞台が展開されて、非常に楽しませて貰った。
   とにかく、能と狂言どっぷりの一日だったが、有意義な一日を過ごせたと思っている。
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国立劇場二月文楽・・・「染模様妹背門松」

2014年02月15日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の第二部は、菅原専助の「染模様妹背門松」。
   大坂の豪商油屋の娘お染が,宝永7年(1710)に、丁稚の久松と道ならぬ恋のはてに心中した実際におきた事件が題材となったお染久松の浄瑠璃で、近松半二の「新版歌祭文」と双璧の文楽である。

   油屋の娘お染(清十郎)が、主家筋の山家屋清兵衛(玉志)への嫁入が決まっているのだが、丁稚の久松(勘彌)と相思相愛で、久松の子を身籠っていて、切羽詰っている。
   お染の母おかつ(簑二郎)や久松の父百姓久作(和生)の説得で、久松は在所へ帰り、お染は嫁ぐことを了承したのだが、心中を恐れて閉じ込められた蔵の中で久松が、座敷でお染が、夫々命を絶つ。
   大恩あるお主の家に疵を付けた身は死ぬしかないと久松、久松を死なせて嫁入して生き恥を晒すよりは、一緒に死んで未来で契りを交わした方が良いとお染、世に出ることのないお腹の子を不憫に思いながら、二人はあの世へ旅立つのである。

   両方の浄瑠璃とも、お染久松の道ならぬ悲恋を軸としたストーリーと最後のシーンの自殺は同じなのだが、その間に、入り組んだ複雑な人間模様の数々が芝居になっていて面白い。
   この「染模様妹背門松」は、お染に横恋慕している番頭善六(勘十郎)が、嫌がるお染に執拗にアタックしたり、お染の兄多三郎(清五郎)の恋人おいと(紋臣)を張り合っている大阪屋源右衛門(幸助)と語らって、多三郎を追い出そうと画策したりするのだが、悉く失敗するなど、随所にチャリバが絡んで面白く、勘十郎が、器用な人形遣いで、観客を笑わせ魅了する。

   まず、面白いのは、冒頭の「油店の段」で、多三郎が、おいとを身請けするために、源右衛門から借りた定家の色紙(偽物、また、証文に、期日までに返せなければ、おいとを源右衛門に渡すと書いてある)を油屋に質入れして、善六から300両を借りて身請けし、その内、100両を源右衛門に貸すのだが、その証文は、イカ墨で書いてあるので、文字が消えてしまう。
   これは、善六と源右衛門の罠だったが、来客として来ていたお染の許嫁清兵衛が、本物の定家の色紙を見せて、イカ墨のカラクリを暴いて、二人をやり込める。
   もっと面白いのは、善六が、久松がお染に書いた恋文を清兵衛に読ませて二人の道ならぬ恋を暴こうとしたのだが、清兵衛が、善六がお染に出した恋文に差し替えて読んだので、善六は大慌て、二人は這う這うの体で逃げ出す。
   勘十郎の善六が、咲大夫と燕三の名調子にのって、至芸を見せて面白い。

   もう一つの見せ場は、「質店の段」で、死を覚悟した久松と腹帯を母に知られたお染が窮地に立って居る所へ、久松の父久作が在所からやって来て、久松のために買ってきた皮足袋で久松を打擲して帰ろうと説得し、お染の母のおかつ(簑二郎)も現れて、久松にお染と別れてくれと頼む。
   夫々の親が、子を思って必死になって意見をして説得する、その思いを、清助の三味線にのって切々と訴えかける千歳大夫の浄瑠璃語りが、聴衆の胸を打つ。
   親が子を思う愛しさは痛い程分かるのだが、ただ一点しか見ていない若い二人には、何も見えず何も聞こえず、必死に運命に耐えている姿が、人形ながら慟哭していて、益々、死への決心を強めて行く。
   そんな姿を清十郎のお染と勘彌の久松が、押さえに抑えて耐えながら、決心とは裏腹に、親の意見に同意する健気で優しい姿を好演していて切ない。

   最後の「蔵前の段」で、お染が、久松が閉じ込められている蔵の前に忍んで行き、蔵の窓から顔を出した久松が、丁度、シェイクスピアのロメオとジュリエットばりに、悲しくも切ない胸の内を吐露して心中への決心を確かめ合う。
   ロメオとジュリエットの場合には、激しくも芽生えた恋の絶頂感が渦巻いていたのだが、お染久松には、もう残されたこの世での逢瀬はない。

   私には、若い二人にとって、心中してでも、あの世で添い遂げると言う決心をして短い人生を閉じるのが良いのか、親の説得を飲んで次の人生に賭けるのが良いのか、分からない。
   生きていれば、幸も不幸も色々な人生に遭遇できるのだが、後で振り返れば一睡の夢。
   同じ生きるのなら、一本筋の通った生き方をしたいと思うのだが、もう、この歳になると、何となく惰性で生きて来たような気がして、反省しきりである。
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破壊的イノベーター:キヴァ・システム

2014年02月14日 | イノベーションと経営
   先日、アマゾンのロジスティックを大きく変えたキヴァ・システムについて書いたが、ハーバード・ビジネス・レヴューの「破壊的イノベーション」号に、ミック・マウンツCEO自らが、「KIVA the Disrupter」を書いた記事が掲載されているので、破壊的イノベーションの実際について、このケースで考えてみたいと思う。

   物流センターでは、作業員が、倉庫内の棚まで商品を取りに行ってパッキングすると言うのが常態であったが、逆転の発想で、ロボットの一団を利用して商品を棚ごと作業員の所まで持ってこさせるとと言うのがキヴァ・システムである。
   口絵写真は、このHBRの記事写真を複写利用させて頂いているのだが、上からぶら下がっているロボットが、右手の作業台まで棚を運んで来て、包装掛りがパッキングする。

   マウンツが、このシステムの着想を得たのは、宅配サービス付きのオンライン食料品店の商業化を目指していたベンチャー企業ウェブバンで、運営見直しを担当した時に、労働力の70~80%が、ピッキングとパッキングの作業に割り当てられていて、勤務時間の60~70%が商品棚の間を歩き回ると言う高率の悪さに気付いた時であると言う。
   押してダメなら引いて見ろ、と言う訳であろうが、実際には、これと同じシステムで、何十年も前に、オランダにあった某日系企業の倉庫で、倉庫の棚からロボットが商品を取り出して来て、階下の荷台に運び込んで来る装置を見たことがあり、発想としては、決して斬新なことではない。
   しかし、重要な点は、この破壊的な発想を、イノベーションとして実用化したと言うことであって、この死の谷やダーウィンの海を突破する事業化への努力と実行である.
   今でこそ、このキヴァ・システムが、eコマース分野の大手小売業の指示を集めているにしても、当初は、ベンチャー・キャピタリストさえ一顧だにしなかったと言うことで、事業化には、かなりの年月を要した。

   まず、破壊的イノベーションの常として、顧客に対して、キヴァ・システムを、導入するのに、既存のシステムの放棄・破壊を実施して、400~600万ドルのコストを要することを説得するために、不確実性と投資のリスクの軽減策を提示しなければならない。
   クリステンセンのイノベーターのジレンマと相通ずる破壊的イノベーションの破壊的たる所以である。
   それを突破するために、キヴァは、価格設定の方法が核だと考えて、当初から、請求書を提出するのは、事前に確定金額を、契約時、設置時、承認時の3回に集約して、最終承認の前なら、いつでも、返品および全額返済に応じることを保証すると言う居に出て退路を断ったのである。

   また、キヴァの最大の特色は、従来型の伝統を維持する機械製造業界の世界に誕生した新興ハイテク企業であり、起業家精神にあふれたマウンツが、ハードウェアのエキスパートとソフトウェア設計のプロを糾合して立ち上げた会社であるから、ハードウェア設計技術とソフトウェア開発技術、そして、その両者の統合能力がすべて自社内にあって、ソリューションを丸ごと提供できる企業であったことである。
   したがって、どんな環境のセンターであっても、臨機応変に迅速にシステムを配備できることであって、それも、必ず有効に機能し、また、事業環境の変化に応じて、ワークフローやアルゴリズムを改善進化させており、この自動システムが、何処に移転をしても、稼働するように対処できたと言うのである。

   そのほか、システムの設置・保守サービスを収入源と見做さないと決断して、企業のサービス目標を、最低限のコストは回収するが、卓越した顧客経験を提供することに徹して、企業の収益と成長を牽引するのは、利益率の高いシステムの販売だとしたと言うから、ミッション・ステイトメントも卓越していたのである。

   もう一つ面白い指摘は、破壊的イノベーターたらんとする企業にとって最後のカギは、最初に獲得する少数の顧客が握っているとして、ステイプルズ社との良好な関係が、更に、業務の進行に役だったと述べていることである。

   破壊的イノベーターとしてのキヴァに対する競合他社の嫌がらせや挑戦に抗するために、企業文化を定義し、コア・バリューを、
   優れた「キヴァ人」の特徴は何か―競争力がある、独創性、友好的、顧客重視、迅速、結果を出す、良識がある、臨機応変―と言う点と、既存業界に破壊的イノベーションをもたらすためにキヴァがどうふるまうべきかを掲げたと言う。

   この論文には、かなり控えめなイノベーションへの道程しか書かれていないが、マウンツが言うように、すべての始まりは一つの優れたアイデアであったが、最も重要なのは、キヴァが、破壊的イノベーターとして成功するまでの、新しいビジネス・アプローチの大胆な実践の軌跡である。

   倉庫から商品を発送するのに、商品を集めて回るのを、逆にロボットに商品を手元まで運ばせると言う発想そのものが、正に、破壊的disruptiveなのだが、イノベーションとして実現したのは、ICT革命あってたればこそということでもあり、プロダクト・イノベーションのみならず、プロセス・イノベーションにおいても、ハードとソフトのベストマッチが、破壊的イノベーションを生み出す重要な要素であることを示していて興味深い。
   アウトソーシングを多用したスティーブ・ジョブズとは違って、殆ど日本型のワンセット主義で立ち上げた破壊的イノベーションのケースだと思うが、初期のベンチャー段階の起業においては、ソニーやホンダやキヤノンのような方式が有効かも知れないと示唆していて面白い。
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国立劇場の梅

2014年02月13日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   2月の文楽の時には、国立劇場の梅の花の開花を楽しみにしている。
   それ程、大きくも古木でもないすっきりとした花だが、それなりの銘木で、風情があって美しい。
   湯島天神の古木と比べれば、その違いが分かって面白い。

   国立劇場は、1996年に、菅原伝授手習鑑を記念して、大宰府天満宮から寄贈を受けて植樹したと言う紅白の梅・小田紅と貴山白、その右側に、甲州最小、左側に、紅千鳥が植えられている。
   現在の開花状況は、次のような状態である。
   
   
   
   


   全体の雰囲気は、次の写真のような感じなのだが、派手なところがないのが好ましい。
   
   
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国立能楽堂・・・観世流能「藤戸」

2014年02月11日 | 能・狂言
    今回の能「藤戸」は、能を発見するⅣ――供養の場に残る老母―と銘打つ特別公演で、出来るだけ、オリジナルに近い形に戻しての演出で、前シテ/漁師の母(山本順之)が、後場にも退場せずに舞台に残り、後シテ/漁師の霊(浅見真州)として、何時もと違って、別のシテが登場する。
   また、老母とともに、その漁師の子(孫)が子方(馬野訓聰)で登場して、老母とともに後場まで居残る。
   天野文雄教授の説明では、今度の上演詞章では、一部を下掛りの詞章に拠り、後ジテ登場の囃子も下掛りの太鼓が入る「出端」とし、アイの文句も演技も通常の「送り込み」ではない形に改めた。と言うことのようである。
   前に、一度だけ、藤戸の舞台を観たが、殆ど記憶はなく、私には、難しいことは分からない。

   銕仙会の藤戸の解説によると、
   ”口封じのために氷の如き刃で貫かれ、千尋の底に沈められた男の亡霊から聞こえてくる、無力で悲痛な民の声。”
   佐々木盛綱が、漁師の導きで、馬で渡れる誰も知らない浅瀬を渡り戦功を立てて、頼朝より児島を賜って赴任する。民に訴訟はないかと振れると、そこへ、老婆が現れて、盛綱が、秘密の漏洩を恐れて口封じのために、わが子を刺殺して死骸を浮州の岩の窪み深くに隠したと難詰して同じように殺せと迫る。盛綱は、隠し遂せず、事の次第を語り、漁師の弔いと妻子の世話を約束する。
   後場では、盛綱が管弦講を営むうちに、浪間から、後ジテ/漁師の霊が現れて、盛綱が自分の導きによって武勇を上げて恩賞を賜ったにも拘らず、自分は冷たい刃を浴びせられて海に捨てられたと事件を再現して尽きせぬ怨み辛みを吐露して激しく迫る。しかし、一同の弔いを受けて成仏得脱して消えて行く。

   この曲は、世阿弥の子元雅作だと言うのが一般論のようだが、最初から殆ど最後まで、美しい舞もなければ優雅なシーンも皆無であり、実に暗い舞台である。
   この能の前に、天野教授の司会で、馬場あき子さんとワキ方福王茂十郎師との鼎談があり、馬場さんが、戦後、人気曲として上演されていたと、思い出を交えながら、藤戸について語っていた。
   太平記の舞台では、下級武士が主体だったが、源平の頃は、上級武士を扱うことが多く、盛綱が、法事としては最高位の管弦講を催すと言うのは、敬意の現われであって、庶民の漁師母子の怨みよりも、祈りの方にも意を用いて、この能が書かれたのではなかろうかと、優しい解釈をされていた。
   また、今回のように、漁師の母孫が加わり、多くの人々が弔うことになり、「祈り」と言う色彩が一層濃くなると、天野教授は言う。
   戦後、人気があったと言う発言に、一寸、気になったのだが、恐らく、息子たちや家族が、戦争で戦死したり亡くなった多くの人々が観ていたと思うのだが、この漁師の母と言う立場なら、どのような思いで鑑賞していたのであろうか。
   案外、恨みか祈りかの答えは、このあたりにあるように思っている。

   今回の観世流の舞台は、観世銕之丞師が後見にたち、シテ/漁師の母の山本順之師も後ジテ/漁師の霊の浅見真州師も、銕仙会所属であり、バージョンは違っても、参考になると思って、銕仙会の解説や銕之丞師の本を読んでみた。
   先に記したように、”無力で悲痛な民の声”と言う表現でも分かるように、恨みに比重が置かれている。
   銕仙会の解説の最後に、次のように記されていて、興味深い。
   みどころ
   本作では、戦争の悲惨さと、権力者に対して非力な民の悲しみが描かれています。(中略)口封じのために民を殺害することは、当時の常套的な戦いの手段であり、仕方の無かったことであるとは言いながらも、その悲惨さ、運命に対してどうすることもできない民の悲しみを描いたところに、本作の特徴があるといえましょう。
   本作では、終曲部で男が成仏の身を得るところを除いては、救いのない、暗い舞台が展開されてゆきます。前場で領主・盛綱に詰め寄る老母の悲痛さ、後場で氷のような刃で刺し通される男の亡霊の苦しみ…、本作はこうした、救われない者の悲劇で貫かれています。だからこそその中で、人々は救いを求めてゆくのであり、そういった絶望的境涯からの「祈り」が、本作のテーマとなっていると言えましょう。
   「絶望的な境涯からの「祈り」が、本作のテーマ」と述べているように、これ以上どうしようもないギリギリの境涯からの祈りであって、馬場さんの説く様な、優しさはない。

   もう一つ興味深いのは、銕之丞師が、「能のちから」で、
   ”壁のシミのような、人間のぬぐいきれない記憶”と言う表現で述べているくだりである。
   これは、おやじが良く行っていた言葉で、ただの怨みとか、ただの悲しみではなくて、それがブーメランのように自分に帰ってきてしまう。人間的であるが故に人間的な苦しみに陥っている、弔って成仏できるような種類の思いではなく、ずっと中途半端なやるせない思いが人間の中にヘドロのように澱んで行くようなドラマ。それを表現することが、この『藤戸』には必要ではないかと思います。と述べている。
   人間が抱いている、はっきりした言葉にならない想いというものを舞台の上で具現化できて、お客様にも、銕之丞の『藤戸』はなぜかすごく嫌なんだけれどもすごく身につまされる、と感じていただける能にしたい。とも言う。

   銕之丞師の説明で、もっと注目すべきは、前シテの漁師の母を、三里塚闘争の農家のお母さんのようなイメージにダブらせていた人もいただろうとして、
   前シテは、明らかに権力を持つ人間に自分の息子を殺された母親であり、褒美・お金にひかれてしたたかに生きようと盛綱側に味方して息子を殺されたと言う慙愧の心があるのではないか、そうなら、息子を殺されたと訴えるおばあさんも、じつは人生に対しては確信犯の側面を持っている。
   (12月の吉右衛門の「弥作の鎌腹」の百姓の弥作もそうだが、平々凡々と暮らしていた庶民が、何かの拍子に予期せぬ悲劇に見舞われることが良くあるのだが、この場合にも、本来、どちら側にも加担しない筈の貧しくても平安だった庶民が、一方に加担したばかりに、悲劇に見舞われる、そんな人間の弱さ悲しさを言うのであろうか。)
   ぼくは、そんな『藤戸』について、そんなことを、親父とか伯父の栄夫とか、いろいろな人が議論をしていたのを聞きながらそこに居た感じがします。と言っていることである。

   だから、後ジテの殺された息子も、恨みがましく盛綱に詰め寄るが、相手を取り殺そうというよりも、自虐的と言うか自嘲的と言うか、中途半端で殺されちまっておかしいよね、と言った自傷的で、ニヒルな後ろめたさと言ったものがあると言うのである。
   私自身は、後ジテを、成田空港開設反対政治運動の三里塚闘争の殺された闘士と言う考え方などは出来ないが、もし、諦観があるとすれば、悔しいが、人生と言ったものはそう言ったものかも知れない、年貢の納め時かも知れない、と言う諦めだろうと思う。

   いずれにしろ、どのように、この能「藤戸」を解釈するかは、個人個人の問題であろう。
   しかし、殺せと詰め寄る前シテの迫力、恨み骨髄に徹して挑みかかろうとする後ジテの権幕、そして、それに必死になって対抗しようとするワキ盛綱(福王茂十郎)の毅然たる身構えなど、緊張する場面もあり、楽しませて貰った。
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貿易赤字拡大響き 経常黒字最少

2014年02月10日 | 政治・経済・社会
   今日の経済ニュースは、財務省10日発表の2013年の国際収支速報によると、経常収支は3兆3061億円の黒字になったものの、前年に比べ31.5%減り、比較可能な1985年以降で最少になったと言うことである。
   原子力発電所の停止による原油などの燃料輸入の大幅増加や、円安による貿易赤字が最大になった為だと言うのだが、円安になったにも拘わらず、輸出が伸びなかったのも、大きな要因だと言う。
   既に、これまで、日本企業、特に、製造業が生産拠点を海外に移して空洞化が進んでおり、輸出が伸び悩んでいるのみならず輸入が増加していることにもよるのだが、このままだと、数年後に、経常赤字に転落し、財政赤字と重なって、かってのアメリカのように「双子の赤字」に陥る心配があると懸念されている。
   円安、円安と騒いでいたのだが、円安政策が良いのか悪いのか、双子の赤字になれば、ほっておいても、日本経済が危機に瀕して、円安になる。

   日本企業の海外進出によって、海外子会社から受け取る配当金が増えたたために、所得収支は経常収支を構成する4つの収支のうち、唯一の黒字で、黒字額は16兆5318億円と15.8%増で過去最大になった。
   輸出大国だと標榜していた日本が、円高や競争力悪化を回避するために多くの製造業が海外に進出して空洞化し、更に、熾烈なグローバル競争に晒されて、日本の製造業が、国際競争力を大きく落としたことも加わって、日本経済そのものが、輸入大国に変質してしまったと言うことであろうか。
   経済構造そのものが、正に、アメリカ型の成熟段階に達したと言うことでもあろうが、この経常収支を黒字化するためには、サービス収支に多くを期待できない現状を考えれば、日本製造業がイノベーションを追求して、生産性のアップのみならず、ブルーオーシャンを目指して、国際競争力を涵養する以外に道はないと思っている。

   さて、世界経済だが、昨年8月に、モルガン・スタンレーが、新興国の危機を指摘して、特に脆弱な5国を名指しして、'Fragile Five' と命名して、この言葉F5が、以前のBRIC'sばりに脚光を浴びている。
   インド、インドネシア、トルコ、ブラジル、南ア連邦で、BRICSの3国が含まれていて、あのBRICSやNEXT 11と言った夢を与えた新興国ブームは、一体何だったのか、遠い話になってしまった。

   原因は、経常収支の赤字だが、これまでは、直接投資と証券投資によって資金が海外から入ってきて、赤字返済に充てることができたが、FRBの政策が引き締めに向かうことで資金が引き上げられてアメリカに逆流して証券投資等が減少し、更に、今後のファイナンス懸念が通貨売りを誘発して、一気に、経済を悪化させている。
   その上、中国の経済成長の減速や景気悪化によるハードランディング懸念や、輸出減少による資源・原材料価格の低落などが、もろに、これらの新興国経済を直撃して、不安を増幅している。

   エコノミスト誌が、”The global economy The worldwide wobble”と報じていて、かなり、新興国経済も強くなっていて、そこが抜けることはなさそうだが、
   The global recovery will be far from healthy: too reliant on America, still at risk from China, and still dependent on the prop of easy monetary policy. In other words, still awfully wobbly.と言っている。
   グローバル経済の動向は、アメリカ経済の行くえ、チャイナ・リスク、量的金融緩和 如何によると言うことであろうが、不安定状態は、継続しそうである。

   国によって事情に差はあるが、いずれにしろ、根本的には、新興国が、構造改革を実施し、効率的で持続性のある経済体制を構築すると同時に、輸出から消費主導の経済構造に転換するなど、抜本的な経済力の強化政策を果敢に実施して国力を充実する以外に方策はなかろう。
   デカップリングと騒がれたが、結局は、新興国の経済力の発露も、アメリカ経済のバブル現象があったればこそだったと言えないこともなさそうである。
   尤も、インド中銀のラグラム・ラジャン総裁のように、リーマン・ショックをBRIC'sの好況で乗り切りながら、アメリカの景気が良くなったからと言って、自分たちの利害だけで勝手に量的金融緩和を規制するなど、けしからんと言う強い非難もあり、一つになったグローバル経済の難しさであろうか。

   さて、日本経済だが、アベノミクスの効果かどうかは別として、景気動向が上向き加減になって、明るさが見えてきた感じだが幻想か、ソロスが、ダボスで安倍総理に会ってから、日本を見限って日本売りを始めたと報じられたからでもなさそうだが、最近、株が大きく値を下げ始めている。
   先の経常収支の悪化による双子の赤字懸念や、国家債務がGDPの2倍に達するなど、日本の重要な経済指標が、どんどん、悪化して後戻り出来なくなって行くように思えて仕方がない。
   どこかで、踏みとどまって逆転劇を演じないと、PLAYが、OVERしてしまう。
   
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アマゾンがウォルマートを脅かす

2014年02月09日 | 経営・ビジネス
   日経ビジネスに、エコノミストの特約記事「ウォルマート、大型店からシフト」が載っていた。
   ウォルマートは、世界最大のスーパーマーケットチェーンだが、最近、業績が低迷気味で、進行国での事業の縮小が相次ぎ、米国主要小売業の既存店売上高の伸び率で、唯一実績を割る結果となるなど、経営戦略の見直しを迫られていると言う。

   ウォルマートの米国事業の中核となるのは、3275店あるSCで、買い物客は、そこへ行けば、何処よりも安い値段で何でも買えると言うことで人気を博している。
   ところが、最近では、このウォルマートの牙城を、アマゾン・ドット・コムや「1ドルショップ」が、脅かし始めていると言うのである。
   アマゾンは、ウォルマートが扱うような商品をより簡単に買えるようになり、特に、電子機器やオムツ、洗剤などと言った消費財などは、そうだと言うのだが、宅配の魅力もあるのであろう。
   それに、日本での100均ショップが繁盛しているのを見れば、格差拡大で貧困層が益々増加しているアメリカで、1ドルショップが、ウォルマートを食うのも分かろう。

   先日、「ネットショッピングだけが流通革命か」で流通革命について書いたので、今回のブログでは、アマゾンのビジネスについて、もう一度、考えてみたいと思っている。
   尤も、ウォルマートも、オンライン事業を行っており、「市場エコシステム」と言う独自の自社事業の推進中だが、現実には、アマゾンの8分の1くらいの規模で、配送コストが、その2倍だと言うから足元にも及ばないのだが、リアル・ショップも、必死になって、ネットショッピングを導入し始めているのが、興味深い。
   しかし、逸早くアマゾンに対抗して、米国最大の書店バーンズ&ノーブルが、ネットショップを併設して、一敗地に塗れているのを見ても、リアル・ショップが、ネットショップで成功することは難しいようで、先行したアマゾンのノウハウや経営革新主導のマネジメントが、如何に、進んでいるか驚異的でさえある。

   まず、その配送コストの問題だが、2003年にミック・マウンツが創設したキヴァ・システムズを、2012年にアマゾンが7億7500万ドルで買収した新技術、ロボット技術がアマゾンの競争力を背後からサポートしていることである。(東洋経済:瀧口 範子 「アマゾンの超速配送を支える“逆転の発想”」)
   キヴァ・システムズは、本来、作業員が、倉庫内を歩き回って方々の棚から商品を集めてパッキングするのだが、これを逆転させて、作業員の元へ商品がやって来るシステムで、それを運んでくるのがロボットだと言うことである。
   ロボットは、低い箱のようなかたちをしていて、商品の入った棚をそのまま持ち上げて、棚ごと作業員の元へ持って来るので、作業員はその棚から商品を抜き取り、目の前に準備された箱に詰めるだけである。複数の商品が注文されていれば、複数のロボットが複数の棚を順々に持って来るので、それを順々に詰めるだけで、用事が済んだ棚は、ロボットがまた元へ戻す。
   キヴァ・システムズのロボットがうまく作動するには、優れたソフトウエアが必要だが、ロボットが読める信号を配したシールが床にグリッド状に張られておりコンピューター制御されているので、倉庫の中では、何十台、何百台というロボットが走行しながらも、決して互いにぶつかることはなく、このロボット・システムで、2~4倍の処理が可能になったと言うのであるから、正に、ロジスティック・イノベーションである。

   また、テレビでも放映されていたが、興味深いのは、配送センターから自宅まで無人の輸送機(Dron)で商品を届ける「アマゾン・プライム・エア」システムで、無人飛行機が、顧客の玄関先に、段ボール箱を置けば配送完了と言う訳である。
   その他、アマゾンは、デジタル化、クラウド化など、ICT革命をフルに活用した近代的なロジスティック・システムを開発して、配送料を無料にして、最短時間最短距離で顧客に商品を届けようと最善の努力をしており、この面でのダイナミックなイノベーション志向の経営は、多くの流通革命推進の核となっている。
   しかし、そんなアマゾンでも、最近は、配送コストの増勢に悩んでいると言うのであるから、とかく、経営はままならないと言うことであろう。

   私は、ネットショッピングの場合には、まず、価格コムのデータを参考にするが、アマゾンの商品の価格が、それ程、遜色がなければ、アマゾンで買うことにしている。
   尤も、アマゾンに出店している販売者から直送される商品については、これは、楽天やヤフーの場合と殆ど変らないので、送料も必要だし、信頼関係もあるので、すんなりとは利用していない。
   しかし、品揃えなども、楽天やヤフーにも遜色はないし、何でも、アマゾンから直送されてくるシステムでは、アマゾンさえ信用しておれば、しっかりとした商品が、間違いなく安い価格で、実に早く、手元まで配送されてくるのであるから、まず、安心である。

   アマゾンは、アマゾンプライムを通じて、普段の買い物の配送を便利にするだけではなく、デジタルの「オマケ」を付けていると、松村 太郎 氏が、「アマゾン、まだまだ進化する巨人の将来 次々飛び出す奇想天外なアイディア」で紹介している。
   アマゾンプライムのユーザーには、テレビ番組や映画のストリーミングを無料で見ることができ、しかも、4K映像の配信や、アマゾンのオリジナルドラマを4Kで制作するなど、オマケから新たな魅力へと成長させようとしている。また、アマゾンプライムには、Kindle Owners' Lending Libraryという書籍レンタルサービスがあり、キンドルから本を借りて読むことができ、こちらも無料で利用する事ができるのだと言う。

   また、ネットショッピングで、高度なノウハウや仕組みを急速に構築したアマゾンが、クレジットカードリーダー付きキンドルタブレットを店に置き、アマゾンのシステムを活用してカード決済ができる仕組みを提供することによって、多くの小売店を巻き込んで事業を展開するなど、更に、流通革命のイノベーションに果敢に挑戦し続けている。
   アマゾンは、インターネットを活用して快進撃を続けていると言うだけではなく、ロジスティック・システムの最適化を武器にしながら、流通システムを根本的に合理化近代化しようと、流通イノベーションに果敢に挑戦しているのであるから、追われる身のウォルマートが、脅威と感じて身構えるのも、当然かもしれないと思う。

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