熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

マイケル・ウェイド 他著「対デジタル・ディスラプター戦略 既存企業の戦い方 」

2020年07月31日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ITとは無縁だと思われていたタクシー業界がウーバー(Uber)に、そして、ホテル業界がエアビーアンドビー(Airbnb)にと言った途轍もなきデジタル・ディスラプターに、壊滅的な打撃を受ける今日、
   この本は、ディスラプション(創造的破壊)を、デジタル革命の爆発的な威力を主体にして論じており、これまでのクレイトン・クリステンセンの「イノベーターのジレンマ」や、W・チャン・キムの「ブルー・オーシャン」とは違った切り口から、まさに、ICT,デジタル革命の本質からイノベーションを説いていて非常に面白い。
   デジタル・ディバイド年代の私には、一寸、荷の重いトピックスが多いのだが、デジタル時代の企業のイノベーション戦略が如何にあるべきか、デジタル革命の威力に教えられることが多い。

   この本の原題は、Digital Vortex: How Today's Market Leaders Can Beat Disruptive Competitors at Their Own Game
   デジタル・ボルテックス(業界が、「デジタルの渦の目」めがけて突き進む、避けようのない大きな動き)
   今日のマーケットリーダーが、如何にすれば、自分たちの事業で、創造的破壊競争者を駆逐できるか
   と言うことである。
   クリステンセンの世界で言えば、創造的破壊で成功して市場を支配しているトップ企業たる既存イノベーターが、イノベーターのジレンマを排除して、如何にして、新規の創造的破壊者を駆逐するかと言うことであろうか。

   まず、最初に気づいたのは、デジタル革命にすんなりと乗り切れない日本企業に取っては、どのようなアプローチなり戦略が有効なのであろうかという問題意識であった。
   最近は、随分影が薄くなったが、かっての製造大国であった日本には、優良な製造業が多い。
   最も参考となるのは、エジソンが1889年に創業した巨大コングロマリット、ゼネラル・エレクトリックGEの戦略ではないかと思ったのである。

   GEは、工業機械や発電、金融サービス、耐久消費財など幅広い事業を手がける、長寿を誇る米国屈指の超巨大企業だが、金融危機後、2000年時点で60ドルだったGEの株価は、その後6ドル以下に低下し、膨大な収益を上げていた商業不動産担保業界の巨人GEキャピタルを守るために連邦預金保険公社の助けを求めざるを得なくなった。ポートフォリオでも大打撃を受けて、家電事業でも激しい競争に晒されて窮地に立ち、GEキャピタルの資産を売却を進めて、家電部門はハイアールに売却し、GE全体の売り上げの17%を失った。
   その起死回生を計るために、GEは、大きな可能性を秘めたバリューベイカンシー獲得に向けて思い切った賭に出た。それが、ジェットエンジンや風力タービン、工場ロボットなどの工業機械をインターネットに接続して、そこから得られたデータを収集・解析するソフトウェア「GEプレディックス(GE Predix)」、すなわち、「デジタル工業マーケット」である。GEは、このソフトウェアで、既に、50億ドルの売り上げを上げており、こうしたクラウドベースのIoTプラットフォームの強みを生かして、2020年までに、世界トップ10ソフトウェア企業の仲間入りをすることを目指している。
   また、プレディックスで、あらゆる種類のアプリケーションを提供し、自社製品の価値を高めることで収益の流れを創ろうとしている。例えば、プレディックスの導入で、前もって故障を見越してメインテナンスのスケジュールを組むとか、状況に応じて、風力タービンのポジションをリアルタイムで最適化するとかで、「GEトリップオプティマイザー」のようなアプリケーションも開発している。自社製品のアドオンだけではなく、「ソフトウェアプラットフォーム」として工業機械製造業者にもプレディックスを売り込んでいる。
   
   GEは、かって、ジャック・ウェルチが、ドラッカーの指導に従って、業界で1位か2位でない事業からは撤退し、絶対やるべき新規事業には資金を振り向けて事業化するという戦略を取って、ドラスチックに企業改革に大なたを振るったことがあるのだが、
   今回も、新事業にそぐわない部門を変革するか売却することにして、NBCユニバーサル・ニュースやエンターテインメント事業、家電事業、それに、虎の子のGEキャピタルなども売却して、戦略を劇的に方向転換して、自らが、「デジタル工業」と呼ぶマーケットに鞍替えした。のである。

   GEは、これらの新戦略によって、グーグルやアマゾンと言ったテクノロジーの巨人や、SAPやIBMと言った企業向けソフトウェア開発企業と肩を並べられるようになったが、IoTを成長の源としてバリューベイカンシーを掌握できるかどうかはまだ分からない。と言う。

   製品が直面する様々な物理状況をシュミレートするコンピューター支援設計(CAD)の更に上を行く、センサーと解析を用いて、「物理的なもの」と「デジタルの分身」を1対1対応でマッピングする「デジタルツイン」、
   このシステムを使って、予備保守サービスを提供するなど、ドラスチックに事業のデジタル指向を目指して、大変身を遂げつつあるGE,
   日本企業としては、成長戦略として、このGEに倣ったデジタル化戦略を取るのが、一番似つかわしいように思えるのである。

   栄枯盛衰、浮沈の激しいアメリカの資本主義下で、100年以上も、激しい時流の流れに抗しながら、変身に変身を遂げて、トップ企業としての命脈を保ち続ける唯一の名門企業としてのGE、
   いまだに、エジソンの築き上げた電気会社としての軌跡を維持しながらの伝統の堅持は、日本企業の誇りに通じるものがあるような気がしている。
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日本の風神とヨーロッパのアイオロス

2020年07月30日 | 展覧会・展示会
   原田マハの「風神雷神」を読んだ後、東西の絵画の関係で、何かの記事がないかと思って、平山郁夫と高階秀爾の「世界の中の日本絵画」を開いてみた。
   現れたのは、口絵写真のページである。
   しかし、風神を描いた東西の繪が併記されているだけで、他の繪と同様に、同じようなテーマを主題にした繪の説明程度の叙述である。
   日本の繪は、宗達の「風神雷神図」だが、ヨーロッパの繪は、15世紀後半のリベラーレ・ダ・ヴェローナのシエナのミサ聖歌集の「風神アイオロス」である。
   Oの字の中にアイオロスを描いた絵で、隆々とした筋肉を緊張させながら勢いよく海上の船の上を走っている風神は、頬を膨らませて風を吹き出している。
   アイオロスは、ホメーロスの叙事詩『オデュッセイア』出てくるのだが、さまざまな風を袋につめ,時季にかなった風を送る神で、西風を吹いてオデュッセウスを帰国させようとしたという。
   
   

   私が、一番印象に残っている風神の繪は、サンドロ・ボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」に描かれている絵である。
   この「ヴィーナスの誕生」の絵を見たのは、1973年クリスマス休暇の時に、フィレンツェのウフィツィ美術館に行ったときで、横に並んでいた「プリマヴェーラ 春」と共に、その美しさ凄さに圧倒された。
   左上の中空から頬を膨らませて、ヴィーナスの乗った貝の舟を吹いている姿が、妙に印象に残っているのだが、
   水中から誕生して、貝殻のうえに立つ女神ヴィーナスに風を送っているこの風神は、アイオロスかと思っていたら、霊的情熱の象徴であるゼピュロス(西風)で、岸へと吹き寄せているのだという。
   この絵では、風を吹くと言うよりは、花を吹き散らして、ヴィーナスの誕生を荘厳しているような感じであるのが面白い。
   
   

   私にとっては、どっちでもよいことで、いずれにしろ、西欧の風神は、ギリシャ神話の世界の神で、非常に人間くさいキャラクターで、親しみが湧く。
   日本の風神は、千手観音の眷属で、怨霊神として図像化されてきたという。
   ところが、宗達の風神は、忿怒尊としてしての恐ろしさは薄れ、諧謔味をおびた姿で描かれていて、顔の表情は怒っているのか笑っているのか判別しがたく、たるんだ腹に臍も滑稽。
   しかし、緊密な構図、のびのびとした描線、金地に施した墨と銀泥によるたらしこみの効果などこの作品の構成要素の総てが動かしがたい完成度を示している。と言う。
   
   
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原田マハの「風神雷神 上下」

2020年07月28日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この小説は、俵屋宗達の襖絵「風神雷神」を主題にした面白い物語だが、とにかく、奇想天外な発想が魅力で、最後まで、推理小説のような展開で楽しませてくれる。
   しかし、ベースになったのは、俵屋宗達でも織田信長の話でもなく、「天正遣欧少年使節」のローマ教皇訪問であって、その使節団に俵屋宗達が同行して、信長の命令によって狩野永徳の助手として描いた「洛中洛外図」を教皇に献呈すべく同行するという非常にユニークな発想のストーリー展開である。

   まず、天正遣欧少年使節だが、ウィキペディアを引用すると、
   1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友義鎮(宗麟)・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案。1590年(天正18年)に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれる。

   小説では、信長が、ヴァリニャーノの提案した天正遣欧少年使節団に、天性の画才を認めた少年の宗達を、印刷術を学ばさせるために、同行を命ずるということになるのだが、殆ど、天正遣欧少年使節団の旅のルートを辿りながらの旅行記ではあるのだが、主人公の一人が宗達であるから、ラテンヨーロッパの絵画行脚の様相を呈する。
   宗達が感動するのは、ピサの宮殿でのブロンズィーノの肖像画、フィレンツェのヴェッキオ宮殿サン・ベルナルド礼拝堂の未完の祭壇画のレオナルド・ダ・ヴィンチの聖母子像、ヴァチカン宮殿システィナ礼拝堂のミケランジェロの最後の審判と天地創造、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂のレオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐、
   リスボンからマドリッド、イタリア各地を歩いて西洋画に飽きた宗達だが、感動のあまり、ダ・ヴィンチとミケランジェロに会わせてくれと同行のパドレに懇願するのだが、随分前に亡くなったと言われる憔悴する。

   さて、この小説で興味深いのは、宗達と、同じく少年だったミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオとの出会いだが、宗達たちが、ミラノを離れる直前、使節団の公式行事から離れて、拝み倒して訪れたダ・ヴィンチの「最後の晩餐」画の前であった。弟子たちの争いで親方に蟄居を申し渡されていたカラヴァッジオが、ダ・ヴィンチを模写に通っていたところに偶然あったのである。
   ここで、カラヴァッジオにお前の絵を見せてくれと言われて、肌身離さずお守りのように持っていた父が餞に描いた風神雷神図の扇を与えると、感動したカラヴァッジオが、翌日、風神雷神のヨーロッパ版ユピテルとアイオロスの精巧な繪を描いて届けてくれた。一念発憤、長い年月絶筆していた宗達は、個室に籠もって初めて油絵に挑戦して絵を描いた。その足で、カラヴァッジオの親方ペテルツァーノの工房に出かけて、カラヴァッジオの描いた絵を示して、その卓越した画才を説いて認めさせて、自分が一心不乱に描いた「風神雷神」をカラヴァッジオに与えるべく頼んで去る。
   カラヴァッジオとの遭遇は、このたった1日の少年たちの出会いだが、原田マハは、最後の数ページで、この小説のテーマである「風神雷神、ユピテルとアイオロス」、東西芸術の融合を活写している。
   尤も、作者は、波瀾万丈の物語であるので、随所で、自然現象の風神雷神を描いており、、マドリッドでフェリペ2世に、汗まみれの汚れたこの風神雷神の扇を献上すると言ってお手討ち寸前まで行くという話などを挿入していて、この小説の小道具として上手く使っている。

   さて、私にとって興味深かったのは、この「風神雷神」を読みながら、自分自身で、宗達と一緒の思いで、ヨーロッパを旅しているような気がしていたことである。
   「天正遣欧少年使節」団の行程で、マカオ、マラッカ、ゴア、セント・ヘレナまでのルートは、行っていないので知らないが、リスボン、マドリード、ピサ、フィレンツェなどは、何度か訪れていてかなりの知識はあるし、それに、ヴァチカン宮殿は見学できるところは殆ど歩いたし、システィナ礼拝堂へは修復中も出かけてミケランジェロの壁画は何時間も見続けていた。
   それに、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を最初に見たのは、1973年のクリスマス休暇で、この時には、薄暗い廃墟のような部屋に、自然光だけでうっすらと浮かび上がる絵を見て感動した。
   その後、修復中に一度訪れて、幸いなことに、完全に修復なって公開された直後にも訪れる機会を得た。あの当時は、個人では、電話予約であったので、ロンドンから何回も何十回も電話をかけても繋がらず、ダメ元で、ミラノのホテルに依頼したら予約を取ってくれていた。時間制で、1度に20人くらい、気密室のような廊下を通って、やっと、薄暗い部屋に入ると微かに電光を浴びて浮き上がった「最後の晩餐」が見えた。
   

   さて、この教会は、第二次世界大戦中に連合軍の空爆を受けて崩壊し、幸い中の幸いと言うべきか、かろうじてこの「最後の晩餐」の壁面だけが崩壊を免れた。その当時の悲惨な光景は、次の写真(ナショナルジオグラフィックの「ダ・ヴィンチ全記録」から借用)右側の防水布の向こうで、1978年から1999年にかけて、壁画作成の5倍の時間を費やして修復された。
   この小説では、絵画のキリスト像の足下にあった扉から暗い食堂に入って、奥に突き進んで後ろを振り返って、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を見て仰天するという描写になっているのだが、私が最初に見たときには、この扉が取り壊されて、今のように扉が塗り込められて消えていたのである。
   
   
   
   
   私にとっては、ずっと興味を持ち続けて学んできた世界史と世界地理、そして、絵画や文化を主題にして、それも、イタリアを主体にした小説なので、何倍にも楽しませて貰った。
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徒然なるままの読書三昧に思う

2020年07月26日 | 生活随想・趣味
   新型コロナウイルス騒ぎで、外出もままならず、晴耕雨読の日々なのだが、あいにく梅雨で、晴耕もできないとなると、勢い、雨読で、時間を過ごすことになる。
   8月なら大丈夫だと思って、能狂言鑑賞のチケットを買っているのだが、後期高齢者の我が身、幼い孫たちと同居しており、うつすと大変なので、家族に外出禁止を申し渡されており、今回も、パーである。
   残念ながら、最近では、観劇やコンサートのチケット予約も殆どいれておらず、今年は年末までダメだろうと諦めている。
   当然、カメラを持っての鎌倉や湘南散策などは、やりたくてもできない、謂わば、籠の鳥の毎日である。

   さて、読書だが、今手元にあって読み始めたのは、原田マハの「風神雷神」。
   まだ、上巻の途中で、俵屋宗達が、帆船に翻弄されながら、教皇に会いにリスボン経由でローマに向かうところ。
   とにかく、宗達が、信長の命令で、狩野永徳の助手になって「洛中洛外図」を描いて、その繪を教皇に献上するためにローマに向かうなどと言う話も奇想天外なら、信長が宗達に、徹底的に取材してローマの「洛中洛外図」を描いて帰ってこいと命令するという信じられないような発想も面白い。
   天正遣欧使節の少年たちと一緒にローマに渡った宗達が、カラヴァッジョに会うというのだが、どのような絵画芸術の遭遇になるのか、
   織豊時代の日本と、大航海時代を経たルネサンス期のヨーロッパという歴史上の大勃興期を舞台にして、東西の絵画芸術の遭遇というテーマがどのように炸裂するのか、後半を楽しみにしている。
   義経が、奥州から逃亡してモンゴルに渡って、ジンギスカンになったというストーリー展開などにも匹敵する小説家の発想で、豊かな知識に裏打ちされた芸術と歴史に蘊蓄を傾けた語り口が、魅力的である。

   最近読んだ小説は、ユン・チアンの「西太后秘録 近代中国の創始者 上下」
   ダン・ブラウン著「インフェルノ 上下」
   「西太后」の方は、西太后治世時代の中国近代史と言った感じの本で、
   「インフェルノ」は、ダンテの「神曲 地獄篇」の隠された暗号を廻るフィレンツェを舞台に展開される小説、
   いずれにしろ、前述の「風神雷神」よりは、多少肩の凝る本で、すらすらと楽しめる本ではない。

   大分前になるが、歌舞伎役者が主人公の吉田修一著「国宝 (上) 青春篇 (下) 花道篇」は、読んで、これはブックレビューした。
   
   今回、原田マハの「風神雷神」を読んでいて、感じたのは、こんなに面白くてすらすら読めて楽しめるのに、膨大な読書量を自負しながら、なぜ、小説を無視軽視して読まずに、多少とは言え苦しみながら、時には、組んずほぐれつ悪戦苦闘しながら、専門書など面白くもない本を読み続けてきたのかと言うか、高みを目指して本に挑戦してきたのかと言う思いである。
   はっきりしているのは、私にとっての読書は、小説を読んで面白いなあと言った思いは殆どなく、少しでも、真実を知りたい、美しいものを見たい感じたい、未知の世界に遭遇したい、知性教養を磨きたい、大げさに言えば、真善美を実感体得して、少しでも、向上したい、
   読書は、そのための大切な修行であり手段だという意識であって、その思いが、馬車馬のように自分を駆り立てていたような気がしている。
   楽しむと言うよりは喜びの方が大きくて、趣味と言うよりは人生そのものであったような気がしている。
   尤も、強迫観念のような意識が自分にあったと言った感じは全くなく、あれも読みたいこれも読みたいと、次から次へと欲求が湧き出てきて、本屋を駆け回って膨大な本を買ってきたということである。

   手元でスタンドバイしている本は、
   スティグリッツの経済学書、イノベーションやデジタル・ディスラプター、経済成長とモラル・・・
   それに、John Bolton の「The Room Where It Happened: A White House Memoir」
   トインビーやブローデル の歴史関係書etc.
   経済学や経営学、歴史学、世界文明論、どうしてもそうなるのだが、
   歌舞伎や文楽、能狂言、クラシック・オペラ、美術関係の本が、時々伴奏をする。

   やっぱり、次の小説を探して、アマゾンをクリックする気にはなれない。
   幸か不幸か、運命だと思っている。
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GO TO キャンペーン便乗ではないのだが

2020年07月25日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   GO TOキャンペーンに便乗するわけではないのだが、偶々、8月初旬に、孫息子が20歳の誕生日を迎えるので、箱根の老舗旅館で1泊してお祝いをしようと言うことになった。
   最近は、トラベルの予約は総てインターネットでやっているので、孫の検索した楽天トラベルで予約を入れた。
   私もビジネスマン時代に「旅窓」から使っているので、異存はなかった。
   しかし、予約条件で気になったのは、キャンセル料の扱いで、
   キャンセル料は以下の通り頂戴いたします。
      7日前から     :宿泊料金の100%
      14日前から    :宿泊料金の30% 
   と言う表示であった。
   家族で出かけるので、コストも相当高くて、それに、何が起こるか分からない、こんな混沌とした不安定な時期に、幼児を伴っての家族旅行であるから、高級ホテルとはいえ2週間前からキャンセル料を取るなど全く解せないし、私がこれまで利用していた通常のキャンセル条件とは大いに違う。

   孫が自分で選んだ旅程で予約を入れたので、気にはなったが、医療のダブルチェックの要領で、念のために、よく利用しているJTBのHPを叩いて、同じホテルに同じ条件で検索を入れてみた。
   キャンセル料については、
   宿泊施設が定める取消料
     1名様~15名様  6日前0% 5日前30% 3日前30% 2日前30% 前日50% 当日 100% 不泊100%
   宿泊施設が定める取消料となっているので、楽天が客を縛り付けようとして意図的にキャンセル条件をきつくしたのだと勘ぐらざるを得ないのだが、このJTBの条件なら理解できる。
   それに、宿泊料も10%ほど安くなっていて、部屋も広くなっている。
   又、価格表示も、JTBは、(消費税込/サービス料込)で支払い価格表示だが、楽天は、入力画面は税抜価格表示で、確認画面で付加されて価格がアップするので困惑した。

   楽天のキャンセル期間が迫っているので、即刻、このJTBるるぶに予約を入れて、楽天トラベルの予約をキャンセルした。
   GO TOキャンペーンで、旅費が浮くのは良いのだが、旅の手配や予約の仕方によって、大きく条件が違ってくると言うことも、念頭に置いておくべきだというケースで、勉強になった。
   ネット予約では、比較サイトもあって、ほかにも調べようがあるのだが、今回は、これでおいておこうと思う。
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塩崎 淳一郎 著「評伝 一龍齋貞水 講談人生六十余年」

2020年07月24日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本は、人間国宝講談師一龍齋貞水の講談人生六十余年を綴った本である。
   岩波書店からは、最近、「無辺光 片山幽雪聞書 」「どこからお話ししましょうか 柳家小三治自伝 」と言った人間国宝の素晴らしい本が出版されていて、この貞水の本も、そのジャンルの最新版である。
   流石に、片山幽雪の本は、私には荷が重くてブックレビューなどできるはずがないのだが、国立能楽堂で鑑賞する機会を得た、八十三歳の人間国宝片山幽雪師の最晩年の「関寺小町」について書かれていたので印象に残っている。

   貞水師の著書については、「一龍斎貞水の歴史講談」で何冊か本が出ているようだが、読んだのは、
   一龍斎 貞水著「心を揺さぶる語り方―人間国宝に話術を学ぶ 」、ブックレビューを書いている。

   さて、私が講談に関心を持って聴き始めたのは、まだ、4~5年くらいだが、貞水師の高座で、次の話を聴いている。
   「鉢の木」、「細川の茶碗屋敷」、「四谷怪談」、「赤穂義士伝より 二度目の清書」、立体怪談「累」、「鏡ヶ池操松影より江島屋怪談」
   一度、ダブルブッキングしてしまって、「真景累ヶ淵より 宗悦殺し」をミスってしまったのを、今でも、後悔している。

   貞水師のトレードマークとも言うべきは、演出効果満点の立体怪談、
   ここ2年で鑑賞した「累」と「江島屋屋敷」は、そのものズバリで、
   薄暗い舞台には、お化けの出そうな墓場の幽霊屋敷を模したようなセットが設営され、中央に置かれた講釈台に貞水が座っていて、講談のストーリー展開や情景に合わせて、照明が変化し効果音が加わって、オドロオドロシイ実際の現場を見ているような臨場感と怖さと感じさせる立体的な舞台芸術。語りながら百面相に変化する貞水の顔を、演台に仕掛けられた照明を微妙に変化させて、スポットライトを当てて色彩を変化させて下から煽るので、登場人物とダブらせながら凄みを演じる。影絵のように映った幽霊が、障子を破って突き抜ける・・・
   インターネットから、写真を借用すると、
   

   この、立体怪談だが、客を引きつけ怖がらせると言う基本は同じである、キャバレー・ショーが発端であったと言うから面白い。当時、キャバレーの司会のアルバイトをしていて、場内を暗くして怪談を読み、落語家の前座にお化けの格好をさせて、自作のおどろおどろしい音をレコーダーで流し、コックピットさながらの釈台に隠してある操作して様々な光を放つ。なまじ電気がいじれるものだから、秋葉原の電気街に通い、その年の趣向を考え抜き、照明にスイッチや配線、効果音に凝るので益々複雑になる装置を、深夜作業で作り上げ、企業秘密なので、立体怪談で用いた釈台は、終る度に壊す。
   ホステスが「怖い」と言って客に抱きつけば効果満点、本牧亭では、アベック客を半額にサービスした。と言う。

   高校を中退して、19歳で昇龍齋貞丈に弟子入りした。講談には、二つ目がないので、11年間前座修行をしたのだが、唯一残っていた講談の定席本牧亭に通い詰めて、師匠の貞丈や、老講談師と言われるベテラン講談師伯麟や燕雄たちから、沢山の話を聞いて仕込み、稽古をつけて貰った。前座時代から、若いのに、他の誰もやらないネタを発掘して高座にかけると客をうならせたのも、これらの薫陶努力があったからである。
   貞水の初高座、前座修行、真打ち昇進披露、独演会の開催など講談師人生を育んでくれたこの本牧亭も、バブル景気全盛期、一等地の土地の相続税懸念で閉場となってしまった。その本牧亭で使われていた釈台が貞水宅にあって、講談定席の寄席ができれば返そうと夢見ている。何百人という講談師が、文字通り汗水垂らして講談を読み、張り扇で叩いた釈台なのである。

   興味深いのは、講談の世界にも、内紛があって、分裂したという話である。
   文楽では、1948年、松竹との待遇改善に意見が対立し、会社派の「文楽因会」と組合側の「文楽三和会」に分裂した話は有名だが、講談の分裂は、女性講談師天の夕づるが、見せる講談とかで、布団を敷いた高座に、長襦袢姿で上がって、”ポルノ講談”を読んだのが発端で、「売れれば良い、マスコミに話題になれば良い」という神田山陽と、怒った本牧亭や「売れたら真打ちだと言う考えに反対した講談師」との対立だと言うから、面白い。

   もう一つ面白いと思ったのは、海外公演の話で、歌舞伎や文楽や能狂言の舞台では、動きがあるパーフォーマンスアーツなので、多少は、理解の助けになるとは思うのだが、講談は、落語と同じで、日本語の話術だけで、外人に評価されるのかどうか。
   日本語で講談を読み、その内容を字幕で表示する方法をとったとかだが、ツアーでは、観客の心をつかみ、カーテン・コールで幾度も舞台に呼び戻されたという。
   一度目は、ラフカディオ・ハーンの「破られた約束」、二度目は、現地の事情にあった修羅場の話だったが、貞水の藝が国境を越えて、外国人にも理解され、自らの芸にも自信を得たという。

   この本では、貞水師の藝の遍歴・軌跡につて、もっと詳しく深みのある藝論などが展開されていて興味深い。
   歌舞伎や文楽、能や狂言などについては、結構本を読んだり見聞きすることが多いので、かなり分かっているのだが、講談につては、初めて垣間見る話だったので、参考になった。
   第2部に、「講談のジャンルと貞水演目一覧」
   第3部に、「忘れぬ先人たち――貞水に聞く」
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野村万作著「狂言を生きる 」

2020年07月22日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   人間国宝和泉流狂言師野村万作の素晴らしい本である。
   能楽堂に、能や狂言を観たく聴きたくて通っては居るのだが、この本を読んでいて、改めて古典芸能としての狂言の凄さを教えられた感じで、あまりにも、いい加減に狂言を鑑賞していたようで、もう少し襟を正して舞台に接しなければならないと反省しきりとなって、万作師の狂言にかける命、芸道への切磋琢磨の精進を実感した、と言うのが正直な読後感である。

   さて、まず、万作師の舞台だが、
   私が観てこのブログに書いているのが次の作品だが、間狂言や他の舞台もあり、それぞれ、複数回の舞台もあり、かなりの舞台を観て、楽しませて貰っていることになる。
   三番叟、隠狸、法師が母、末広がり、樋の酒、舟渡聟、蝸牛、文荷、二人袴、苞山伏、二人大名、柑子、骨皮、見物左衛門、三本柱、世阿弥の語り手、樽聟、鬼瓦
   それに、新作では、法螺侍と楢山節考。

   法螺侍は、シェイクスピアの「ウィンザーの陽気な女房たち」の狂言バージョンで、ロンドンのジャパンフェスティバルで観て、いたく感激して狂言ファンとなって、主に、国立能楽堂に通い詰める切っ掛けとなったのである。
   この本にも書かれているのだが、法螺侍の万作師が、洗濯籠に入れられてテムズ川に捨てられに行く場面で、天秤棒を担いで太郎冠者たちが謡いながら足を上げ、リズムを取りながら進んでいくのに、籠がないのに、あたかも籠の中でリズムを取って転げ回るのだが、その至芸と言うべき巧みさ、招待したイギリス人夫妻が感嘆・舌を巻いていたのを鮮明に覚えている。
   私など、シェイクスピアのファンで、RSCの「ウィンザーの陽気な女房たち」の舞台や、そのオペラ版のヴェルディの「ファルスタッフ」を観てよく知ってる戯曲なので、凄い経験であった。
   「楢山節考」は、最近の観劇だが、坂本スミ子の凄い映画とは違った、非常に詩情豊かな美しい舞台に感動した。
   こうなれば、狂言という世界とは違った、パフォーマンス・アーツの極致である。

   この本で、まず、「猿に始まり狐で終わる」で、靭猿、那須与市語、三番叟から、秘曲の釣狐、花子について藝話を語り、特に、釣狐については非常に詳しく袴狂言への昇華まで語っており、
   万作狂言名作選では、末広がりから13曲、新しい試みでは、楢山節考から5曲、舞台の詳細や経験談など含蓄のある解説を加えていて舞台鑑賞への魅力が増す。
   私は、野村萬の「花子」を観て非常に感動したのだが、まだ、「釣狐」を観ていない。
   しかし、この大曲「釣狐」の狸版とも言われる「射狸」は、山本東次郎で観ている。

   さて、興味があったのは、万作師の伝統についての考え方である。
   冒頭、「狂言の家」で、師であり実父であった野村万蔵の藝を、「江戸前狂言の開祖」と称されて、父から自分たちが継いできた「江戸前」の芸風を祐基にも受け継いでいって欲しい」と言っている。
   世阿弥の名言にもある「家、家にあらず、継ぐを以て家となす」の意を私は、家を継ぐとは名前を継ぐのではなく、芸風を継ぐことだと考えています。と言う。
   また、従来の狂言から離れて多方面に活躍の場を広げている萬斎師の活躍に賛意を表して、能楽堂以外での演能には演出という概念が必要であろうし、大きな流れから言って、祖父、父、自分、倅とで、それぞれ、狂言が違っていて良いのであって、これは時代の流れである。江戸期の家元にしろ、世阿弥にしろ、「今の時代に合った狂言」「場を心得た狂言」と言っていて、そういう精神が流れているからこそ、狂言が今日まで生きてきたのではないか。と言うのである。
   
   万作師の他の狂言師との違いは、若い頃の、武智鉄二や京都の茂山家との共演、観世3兄弟との交流など異分野や異流との接触が多く、更に海外での公演などを通じて狂言の隆盛を助長したことで、能楽協会を押し切って、「夕鶴」公演に出たり、「彦市ばなし」や「月に取り憑かれたピエロ」などをやり、何か新しいものを創って見たいと思って、楢山節考などを創作したことであろうと思う。
   私には、古典芸能の世界は分からないが、能や狂言の世界から歌舞伎が隔離されてきたことや、文楽と歌舞伎との義太夫の交流がなかったこと、それに、この本でも茂山家の記録などでも、狂言の世界では、新しいことを試みようとしたり、他の芸能との交流をしたりすると横やりが入ったり忌避されたと言うことで、純粋培養のようなシステムはどうかと思うのだが、古典芸能の長い間の伝統であったらしい。
   演出者がいないという事かも知れないし、伝統重視の芸能の良さも当然あるのだが、オペラやシェイクスピアなどの欧米の芝居の、世につれ人につれての変化バリエーションは想像を超えており、毀誉褒貶など意に介せず、伝統とは何かと考えさせられる世界とは雲泥の差であることを思うと興味深い。

   私自身は、あのルネサンスが、文化文明の十字路であったメディチ家のフィレンツェに、当時の最先端の文化文明、知識やテクノロジーや芸術が結集してぶつかり合って爆発したが故に、限りなき新しい価値を生み出して生まれたものだと思っているので、異文化異分子との交流忌避や禁止など、成長発展への最大の冒涜だと思っているだけである。
   経済成長も国家の発展も、シュンペーターの説く創造的破壊であって、茂木健一郎も言っているように、創造性を生むのは「経験×意欲」であって、無から生まれでるのではなく、個人の経験知識の豊かさのみならず、異質な芸術や学問、あるいは多岐多様な異文化の遭遇が多様性を育み、創造性を爆発させるメディチ・イフェクトだと言うことである。
   これは、私自身の暴言だとしても、万作師は、他流派の先達の藝に啓発され、異分野の芸能との交流によって藝の肥やしを得たなど、その効用を随所で述べている。

   もう一つ興味深い指摘は、能と狂言との関係で、「太郎冠者を生きる」など前作では、狂言が低く見られていることを慨嘆していたのだが、
   狂言の演者は、「美しさ」「面白さ」「おかしさ」の順で藝を考えて、そのような思いで観客が見てくれるのが理想で、その美しさの先には、能に繋がって行く要素があり、狂言を追求して行くと能に連なっていくところがある。能と狂言が現代において融合する、能的質と狂言的質とが現代という場において結びついた舞台というのが私の夢なのです。と言っていることである。
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わが庭・・・カノコユリ咲き始める

2020年07月21日 | わが庭の歳時記
   カサブランカが咲き終わったら、カノコユリが咲き始めた。
   わが庭には、このピンクの他にオレンジ色のカノコユリが植わっているのだが、まず、咲き始めたのは、このピンク地の花。
   このユリは、オリエンタル・ハイブリッドのユリのように、大きな蕾が着くのではなく、ひょろりと伸びた枝から小さな蕾が着いて、咲く前に大きくなって花を開く温和しいユリだが、派手な鹿の子模様がポイントの綺麗な花である。
   わが庭では、特に花壇があって植えているのではなく、庭木の間から、すっくと枝を伸ばして咲き出すので、植えっぱなしであり、毎年、あっちこっちで、忘れずに咲いてくれる。
   おそらく、野のユリの花も、そのように、木漏れ日の木陰で、ひっそりと咲いているのだろうと思っている。
   
   
   
   
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映画「東京オリンピック」を観て海外望郷

2020年07月20日 | 海外生活と旅
   NHK BSPの放映映画「東京オリンピック」を観て、無性に懐かしくなって、あの頃の思い出が走馬灯のように頭を駆け巡り、しばらく感慨にふけっていた。
   丁度、大学を出て会社に入って、新生活のスタートを切った年でもあったが、当時は、大阪勤務であったので、オリンピックは、テレビでの鑑賞であった。

   この映画は、記録映画と言うよりは非常に芸術性の高い作品であったので、当時のオリンピック担当大臣の河野一郎がイチャモンを付けたので、高峰秀子が抗議して、大臣と市川崑監督との中に入ったという話は、高峰の「わたしの渡世日記」や「高峰秀子かく語りき」にも詳しいのだが、カンヌ国際映画祭では国際批評家賞、英国アカデミー賞ドキュメンタリー賞を受賞するなどしており、とにかく、当時の最先端の映画技術を駆使して、高度な芸術作品を創作したのであるから、半世紀経た今でも色あせることなく感動的である。

   こみ上げてきた感動は、この凄い東京オリンピックの映像と言うこともあるが、このオリンピックが、私自身の海外への憧れの原点となっていたということで、冒頭の画面で、次から次へと登場してくる外国人団体の映像を見て、その後、期せずして世界中を飛び回って歩んできた奇蹟とも思えるような自分の人生を思い出しての感慨である。
   芭蕉の心境にはほど遠いのだが、住めば都、海外を歩き続けてきたあっちこっちにある海外への望郷である。

   さて、もう一つの次の世界への遭遇は、1970年の大阪万博であった。
   当時、万博近くの高槻に住んでいたので、主に、観客の少なくなる夜の部をめがけて何回か訪れて、かなり、熱心に観て、月の石のあったアメリカ館やソ連館など外国館を殆ど回った。
   ソ連館にあった木製の精巧な教会の模型を観て感激して是非観たいと思ったのを覚えているが、何十年も後で、ソ連ではないが北欧の田舎で観たときには感激であった。
   スイス館の前の広場で、1歳になった長女が、一歩二歩初めて歩いたのも、懐かしい思い出である。

   ところが、大阪万博が終わると、会社の本社が、大阪から東京に移って、同時に東京に転勤し、しばらくしてから、人事部長に呼び出されて、海外留学の命令を受けた。
   正直なところ、レイジーな性格なので、留学制度はあったのだが、無理をして海外で勉強しようなどという気持ちはなかったので、全く意識外だったのだが、「山に登れ」と言われれば、挑戦するのは当然、
   どうしたら、海外の大学院に入学できるのか、全く、分からずに困って、まず、赤坂のフルブライト委員会に出かけて、資料を繰って、大体の事情を把握した。
   とにかく、TOEFLとATGSBの試験を受けて、大学院を決めて応募することだと言うことが分かったのだが、受験勉強と京大の教養部の英語くらいの実力程度で、多少、英語の読み書きくらいはできるとしても、映画館に行って観たアメリカの映画も殆ど分からないし、会話などには全く自信がない、その上に、準備には後半年もない。

   今でも、信じられないのだが、幸運というか、運命の粋な計らいと言うか、とにかく、世界屈指のビジネス・スクールであるウォートン・スクールに入学を許されて、翌年1972年の夏に、はじめて、海を渡ってフィラデルフィアへ向かった。
   寝ぼけ眼で、眼下のカリフォルニアの大地を見下ろしたときには、結界を超えて新しい世界に足を踏み出したことを感じて身震いした。
   東京オリンピックで、異国を強烈に感じて憧れた外国が、8年後に、自分の世界になった瞬間であった。
   敗戦後の食うや食わずの幼少年時代の困窮生活を送り、やっと、神武景気で貧しさから脱して上向きかけた日本で社会人として生活を始めた自分には、考えられないような新世界への旅立ちであった。

   この留学の間に、2週間ヨーロッパ旅行をしたことは先日書いたが、翌年の休暇にメキシコや、イエローストーンやグランドキャニオンを歩いたのだが、当時は、車さえあれば貧乏な学生旅行なら、いくらでもできた。
   それに、ニューヨークまでは、割引の鈍行アムトラックで、朝、フィラデルフィアを出て、夜のメトロポリタン歌劇場でオペラを観て、深夜便でフィラデルフィアに向かい、午前2時頃、真っ暗な夜道を、危険を覚悟で歩いて学生寮に帰ることもあった。

   1974年初夏に帰国して、荷物を解かないうちに、ブラジルへの赴任命令が出て、秋に、アマゾンの上空を飛んでサンパウロに向かった。
   中南米で、ビジネス・スクールで勉強した国際ビジネスの手法を反復しながら苦労して仕事をし、ヨーロッパ経由で日本に帰ったのは1979年、
   帰ってきてすぐに、ホテル建設案件で北京へ出張して、文革後の貧しい中国を実地検分するという願ってもない経験をした。
   どうしようもないほど貧しくて、混乱状態の全く覇気のない病大国中国を見知っていることが、その後の中国理解に非常に役立っている。
   とにかく、ホテルの予約可能客室数だけしか、入国ビザが下りず、政府との交渉も相手任せで、何時、会えるか分からず、何日も滞在した。
   あの北京の紫禁城など、たしか天安門から入ったと思うのだが、中には役人など一人も居らず、自由に何処へでも、そして、西太后のあの玉座へも近づけたし、観光客は、中国人が僅かにいるだけで、広大な紫禁城なので、殆ど無人状態であり閑散としていた。
   一部、国宝級の展示物が個室に展示されていたが、壮大な多くの建物には、一切の装飾がなくて、がらんとしていたが、清朝の頃のそのままであった。
   中国の5000年の壮大な歴史を感じて身震いしたのだが、その当時は、現在の中国の姿など、思いもよらなかったのである。

   その後、東京で海外事業の管理部門の仕事を6年間して、海外に出張することが多くて、年に100日くらいは、東南アジアや中東、アメリカに出ていて、1985年から1993年までヨーロッパに滞在していたので、国名も変っているので確かなことは言えないのだが、1泊以上した国は、40カ国を大分越えていると思っている。
   チャールズ皇太子やダイアナ妃とも握手してお話しするなど、信じられないような世界を幾度も経験したが、それも、思い切って世界へ飛出した御陰であろう。
   ウォートン・スクールのMBAがパスポートになって、臆することなく、切った張ったの国際ビジネスを、欧米で展開することができた。
   楽しいことよりも、苦しいことと言うか、思い出したくないことの方が多いような気がするし、随分危険なことにも遭遇したのだが、今回の「東京オリンピック」の映画を観て、海外での思い出がこみ上げてきて、しばらく、たまらなくなって呆然としていた。

   手元には、海外の資料が殆どないのだが、倉庫には、撮り溜めた海外での写真やネガが、大きな化粧箱2箱あって、オペラやコンサートのパンフレットや資料など4箱あるなど、結構色々なものが残っており、どうせ、私が死ねば、そのまま、廃却されるので、一応寝た子を起こすつもりで整理しようと思っている。
   このブログは、わが海外人生を記録に残そうと思って始めたのだが、まだ、殆ど目的を果たしていないので、書き残したい思い出も蘇るかも知れないと思っている。
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フランス ルーブル美術館が再開

2020年07月18日 | 海外生活と旅
   NHKが、「フランス ルーブル美術館が再開 新型コロナで約4か月休館」と報じた。
   ウイルス対策のため、見学はマスクの着用や事前の予約が必要で感染を警戒しながらの再開と言うことだが、アメリカや中国などからは入国できないことから、美術館ではフランス語の案内を無料で実施するなど、フランス人向けのサービスにも力をいれており、初日の予約は7400人ほどで、去年の同じ時期の2割程度。
   マルティネス館長は、「人が少ないルーブルを訪れる、いいチャンスです。夕方にはモナリザの部屋で、一人きりになることもあるかもしれません」と話したという。
   
   

   私が、初めてルーブル美術館を訪れて、この「モナリザ」を鑑賞したのは、1973年のクリスマス休暇の時。
   フィラデルフィアのウォートン・スクールで勉強していたのだが、ペンシルバニア大学に留学していたフランス人留学生が里帰り便として、パリ往復のパンナム機をチャーターして、余り席を、格安で売り出したので、千載一遇のチャンスだと思って、ナケナシの貯金をはたいて、家内とナーサリースクールの長女との3席分を確保して、2週間ヨーロッパ旅行したのである。
   ユーレイルパスを利用して、パリから、イタリア、オーストリア、ドイツ、オランダを回ってフィラデルフィアへ帰ってきたのだが、スーツケース一つの、ギリギリ旅で、贅沢はできなかったが、その後の8年間のヨーロッパでの仕事と生活への格好の助走にはなった。

   海外旅行は、出張でも個人旅行であっても、すべて、自分で旅程を組み、航空券やホテルや観劇チケットなど一切の手配を自分でやる習慣をつけたので、トーマスクックの時刻表や、ミシュランのグリーンとレッドのガイドブックと地図と言った資料や、各国の案内所などが頼りであり、旅先での臨機応変でのぶっつけ本番が殆どの手作り旅であったが、別に、不都合なことは起こらなかったと思っている。
   今のようにインターネットを叩けば何でも調べられるようになると、事前スタディに手を抜くことになるのだが、私自身、意識して世界史や世界地理など世界情勢については勉強し続けていたので、おそらく、日本の並の旅行社やガイドよりも有能ではなかったかと自己満足している。

   さて、ルーブルの「モナリザ」だが、1973年に行ったときには、ルーブルにも客が少なくて、このモナリザの前に立って、いくらでも自由に写真が撮れた。
   今のように、厳重なガラスケースに治まっていて近づけないような状態ではなく、他の絵画と同じように、額縁が壁面に掛かっていて、少しその前に、2メートルくらい離れて立っている2本のスタンドに布ロープが張られているだけで、故意に近づけば、モナリザの額縁に触れられるような展示状態であったと記憶している。
   夕方でなくても、モナリザの部屋で一人になるチャンスはいくらでもあったのである。

   何度も、ルーブルを訪れて、このモナリザを観ているが、少し厳重な囲いの中に入って、その後、今のような展示状態になったような気がしている。
   このモナリザは、1911年8月21日に、イタリア人愛国者ヴィンチェンツォ・ペルージャによって盗まれて2年間フィレンツェのアパートにあった。
   通常の開館時間にモナリザの部屋に入って、掃除用具入れに身を隠して閉館を待ち、4本の鉄釘で額を外して、トレンチコートの下に隠して中庭を横切り、まんまと美術館を抜け出たというのである。
   金に困って画商に売ろうとして発覚して、短期間だけイタリアを巡回して何千人もの観客を魅了してルーブルに帰った。

   1516年に、レオナルド・ダヴィンチは、フランス王フランソワ1世の招きに応じてフランスに渡り、フランソワ1世の居城アンボワーズ城近くのクルーの館に移り住んだ。
   この時に、レオナルドは、この「モナ・リザ」をフランスへ持ち込んで加筆し続けたといわれており、レオナルドが、1519年に死去した時に、フランソワ1世が自分の城に飾るために買い上げたのである。

   ヨーロッパやアメリカの美術館を、僅かにしか残っていないレオナルド・ダヴィンチの作品を1作品でも多く観ようと見て回り、最近、やっと、エルミタージュで2作品を観て感激した。
   しかし、シェイクスピアの場合も同じだが、どうしても、間違いなしにダヴィンチが生活して居たその場所に行きたいと思い続けていて、やっと、ダヴィンチの終焉の地である前述のロワール河畔に建つアンボワーズ城のクルーの館を訪れることができたのは、モナリザを初めて見てから20年後の1993年の夏。
   このときは、夏期休暇の旅で、ロワール河畔の古城などを廻って、北に移動して、サンマロ、モンサンミシェル、シェルブール、ルアーブル、ルーアンを経て、ロンドンに帰った。
   フランスでは、危険なのだが、短期間に有効に旅をするには、どうしても車が頼りで、ボルボの一番大きな装甲車のようなレンタルカーを借りて、地図が読めない妻をナビゲーターにして、下手な運転で通したのだが、若気の至りも良いところで、信号のなかったパリの凱旋門のサークルを間違いなく脱出して、無事にシャルルドゴールに帰れたと思うと、今でも、冷や汗が出る。
   車では、イギリス、オランダ、ドイツ、デンマーク、オーストリアは、自分の車やレンタカーで走ったが、ラテンの国イタリア、スペインでは、絶対に車を運転しなかったのだが、フランスは、まずまず、と言うことで時々は車を使っていたので、大丈夫だと思った所為もある。

   久しぶりに、ナショナル・ジオグラフィックの「ダ・ヴィンチ全記録」のページを繰り始めている。
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ブエノスアイレスのカミニート

2020年07月16日 | 海外生活と旅
   骨董店で、アルゼンチンの飾り皿を見つけた。
   ガラクタの中にあった民芸品だが、ブエノスアイレス港に隣接するラ・ボカにあるカミニートという小径をバックにして、男女がタンゴのステップを踏んでいる素朴な絵皿である。
   もう40年以上も前のことになるが、サンパウロに駐在していた頃に、アルゼンチンに行く機会が何度かあって、よくこの小径を訪れた。
   夕日が港を真っ赤に染める夕刻、この小径の、極彩色に塗り込めれれた民家の壁に灯がともり始める頃に訪れると、無性に旅情を誘われて懐かしさを感じる、そんな思い出がある。
   このラ・ボカには、イタリア移民が多いようで、「カミニート」は、鮮やかな極彩色のペンキで塗られたカラフルな家に囲まれた歩行者用の通りで、タンゴアーティストがパフォーマンスを行なったり、絵画や写真などタンゴに関連した記念品が販売されていて、楽しい。
   とにかく、ブエノスアイレスの最高の観光スポットの一つで、土産物店や食品店も犇めいていて、ウキウキするような雰囲気が漂っている。
   
   

   このボカの港に渡ってきたイタリア移民たちが、苦しい生活に必死に堪えながら、故郷を偲んで歌い踊って生まれたのがアルゼンチンタンゴだと思えば、詩情があって面白いのだが、
   アルゼンチンタンゴ・ダンス協会によると、
   タンゴは、1880年頃、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスと、ウルグアイの首都モンテビデオに挟まれて流れるラプラタ河が、大西洋にそそぐ河口地帯の両岸で生まれた。
当時、ブエノスアイレスの此の地帯は、新天地を求めて来た移民者がひしめき、雑然とした港町(ボカ地区)であった。さまざまの人種が共存しているフラストレーションのはけ口として、男同士が酒場で荒々しく踊ったのが、タンゴの始まりである。次第に、娼婦を相手に踊るようになり、男女で踊るタンゴの原型が出来ていくが、当時の新聞は、酔漢達やならず者が踊る下品な踊り、と非難した。しかし、タンゴはそうした批判にもかかわらず、ブエノスアイレスやモンテビデオの下層階級を中心に、日増しに人気を得て行った。
   もともとタンゴは四分音符と八分音符で構成されるリズム・パターンの一つであった。これにヴァルスやミロンガ、カンドンベ、フォックストロットなどのパターンも取り込み、ピアノ・バンドネオン・ヴァイオリン・コントラバスの編成で楽団が組織されるようになって、タンゴはパターンからジャンルへ進化したと考えられている。

   庶民の民族芸能という位置づけで高く評価されていなかったようだが、先年、世界遺産に登録されて面目を一新した。
   来日したアルゼンチンタンゴ楽団の演奏会には、よく行って、ピアソラなどの名曲を聴いていたのだが、ブエノスアイレスで聴くタンゴは、また、格別で、アルフレッド・ハウゼのコンチネンタルタンゴとは一寸違った味があって、感動も一入であった。

   ところで、当然、本場のブエノスアイレスでは、タンゲリアに行かないわけがない。
   1975年から1979年の頃である。
   真っ先に行ったのは、エル・ビエホ・アルマセン(El Viejo Almacén)
   1778年に建てられた古い倉庫が1840年に増築され、1900年にレストランのエル・ボルガ(El Volga)となったのだが、廃業になったもののを改修して、タンゲリアになったもの。
   印象に残っているのは、薄暗い小部屋に所狭しとカリブの海賊に出てくるような漁具が壁面にデイスプレイされている異様な雰囲気で、バンドネオンの咽び泣くような音色に乗って、男女のダンサーが激しくステップを踏む・・・凄い迫力と噎せ返るようなムード満点の世界であった。
   今、このエル・ビエホ・アルマセンのHPを開くと、パリのリドやムーランルージュのような素晴らしいレストランシアターと言ったタンゲリアになっているのに驚いている。
   暗い舞台に向けて、当時のNikon F2をテーブルに固定して、F1.2のレンズを開放にして、何枚か写真を撮り、増感現像して、何故か、幸いにも1枚だけ残ったショットが、次の写真
   

   ニューオルリンズを訪れた時に、古民家をそのまま使った小さなプリザベーション・ホールで、老嬢スイート・エンマ楽団のジャズ演奏を聴いたのを思い出した。
   貧しい小さな部屋で、客席は、ほんの数人座れるだけの床机があるだけで、土間に座ったり後ろに立ったり犇めき合っていて、
   小編成の楽師達は殆ど黒人の老人達で、エンマのピアノに合わせて懐かしいデキシーランド・ジャズを奏でていて、「聖者の行進」のリクエストは1ドル、
   実に感動的な演奏で、こんな所でジャズが生まれて育っていったのかと、感に堪えなかった。 
   フラメンコ、ファド、、サンバ・ボサノバ、マリアッチ等々、ヨーロッパや中南米で聴いた音楽や、ラパスのナイトクラブで聴いたエル・コンドル・パッサもそうだが、その地方の民族音楽などを、異国で聴くと、旅情も加わって、胸に染みて、感動が増幅されて、強烈に印象に残る。

   もう一つ、ブエノスアイレスで行ったのは、当時は、最高級で立派なレストランシアターであったミケランジェロ、
   ここは、もう少し、舞台も綺麗で土属性はなくて洗練されていたが、ウィキペディアによると、
   アルゼンチンの老舗のタンゲリアの『ミケランジェロ』(Michelangelo)と『カサ・ブランカ』(Casa Blanca)が、2004年以前に閉店している。と言うことらしい。

   勿論、ブエノスアイレスでは、世界屈指のオペラハウス・テアトロコロン、
   ここで観たのはシュトラウスの「アラベラ」
   
   ディズニーがバンビのイメージに使ったという森林の美しい南米のスイス・バリローチェ、広大なパンパ、
   素晴らしい思い出しか残っていないのだが、
   経済的には、いまだに、むちゃくちゃな国だが、味のある印象深いところである。
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世界遺産アヤソフィアが「モスク化」

2020年07月15日 | 政治・経済・社会
   テレビでも新聞でも、色々なメディアで報じられており、世界中の話題になっているのだが、ナショナル・ジオグラフィックが、
   ”トルコの世界遺産アヤソフィアが「モスク化」、心配の声 キリスト教の聖堂からモスクとなり、博物館となっていた有名建造物”と報じている。

   写真は、ウィキペディアからの借用だが、
   アヤソフィアは、もとは6世紀に東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルにおけるキリスト教の大聖堂として建設され、1453年にオスマン帝国がこの街を征服したことをきっかけにモスクとなった。20世紀初頭までは、そのままイスラム教徒の礼拝施設として使われていたが、1934年にトルコ政府がこれを「世俗化(宗教組織から切り離すこと)」し、博物館とした。そうして1985年には、イスタンブール歴史地区の一部として、ユネスコの世界遺産に加えられた。
   最高行政裁判所が、メフメト2世の時代に作られた不動産証書において、アヤソフィアはモスクとして登録されており、これ以外の目的で使用されることは違法であるとの結論を下し、この決定を受け、エルドアン大統領は、建物の管轄をすみやかにトルコ文化省から宗務庁へと移管し、「モスク化」した。と言うことのようである。
   1000年間は、キリスト教正教会の大聖堂、500年間は、モスク、そして、最近の80年間は、博物館としてイスタンブール最高の文化遺産であったということで、数奇な運命を辿っている。

   イスタンブールには、同じような凄い「世界で最も美しいモスク」と言われている17世紀建造のブルー・モスク、スルタンアフメト・モスクがあるのだが、観光客は、やはり、アヤソフィアで、私など、ローマ帝国の歴史で学んだ印象が強いので、「アヤソフィア」と言うよりも「ハギアソフィア」と言う印象の方が強い。
   モスクとして使われていた数百年の間に、生物の描写を禁ずるイスラム教の規則に反するキリスト教時代の内部装飾の多く、キリスト像などのすばらしいビザンチン様式の絵画とモザイク画が、漆喰で塗りつぶされたり、覆い隠されたりしていたのだが、建物が世俗的な博物館となり、修復作業が行われてから、今日のように往時の壁画などが現れて、現在、見る人々を魅了している。
   

   これとは逆のケース、モスクがキリスト教会となった文化遺産が、スペインのコルドバにあるメスキータで、
   785年、イスラム教のモスクとしてアブド・アッラフマーン1世時代に建設され、その後、カトリック教徒が権力をにぎった1236年からは、内部に礼拝堂を設けたりカテドラルが新設されて、メスキータはイスラム教とキリスト教、2つの宗教が同居する建築となり、最終的には、16世紀、スペイン王カルロス1世の治世に、モスク中央部にゴシック様式とルネサンス様式折衷の教会堂が建設され、現在に至っている。
   下の写真の柱廊の奥に、忽然とキリスト教会の内陣が現れるという感じで、不思議に、私には違和感がなかったのである。
   
   あの美の極致とも言うべきグラナダのアルハンブラ宮殿にも、多少、カルロス5世の手が入って一部教会化しているのだが、キリスト教徒としても、レコンキスタの過程でイスラム的な文化を払拭しながらも、この圧倒的な宮殿の文化的価値を認めざるを得なかったのであろう。
   その後のスペイン王朝の徹底的なユダヤ教などの異教排除を思えば、信じられないような結果だが、多くのイスラムの文化遺産が残っているのは、まさに、奇蹟というか歴史上の幸運と言うべきであろう。
   私は、東西文化の交渉史に興味があったので、グラナダでもコルドバでも、イスラムと西欧の融合に感激して、長い間、現地を離れられなかったのだが、文明の十字路たる故地での人類の営みには、人為を超えた素晴らしい遺産が生まれたと思っている。
   ヨーロッパでも、このスペインとポルトガルだけが、当時、文化文明で最先端を走っていたイスラムとの鬩ぎ合いの接点であり、それに、新しく征服した未開の新大陸と旧アジアの国々との遭遇によるカルチュアショックに翻弄された経験を持っているので、文化や文明に深さや奥行があっても当然なのであろう。

   私は、1985年から1993年の間に、3回ほど、イスタンブールに行っており、その都度、アヤソフィアを訪れているので、この素晴らしい大聖堂をよく覚えている。
   モスク化によって、正式な宗教の場になれば、最高の観光スポットであった世界遺産としての位置づけはどうなるのか。
   踊り場から綺麗に仰ぎ見られるキリスト像のモザイク画が、再び、漆喰で塗り込められるとは思えないが、1000年の残照を輝かせていた東ローマ帝国の歴史も、人類にとっては、計り知れないほど貴重な文化文明の遺産であることを、トルコ政府にも分かって貰いたいと思う。
   偶像崇拝を排するイスラム教徒は、敦煌の壁画や仏像遺跡もそうだが、多くの宗教文化遺産を棄却しており、最近では、タリバンのバーミヤン石仏の破壊やISISの世界遺産パルミラ破壊だが、教条主義の前に、人類の残した文化遺産の大切さ十分認識して、価値観の基準とすることを願いたい。
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グレタ・ガルボの映画「ニノチカ」

2020年07月14日 | 映画
   NHK BSPで放映された映画で、グレタ・ガルボの名前が出いていたので、録画して見たのだが、面白かった。
   1939年の映画であるから私よりも古いのだが、共産主義に凝り固まったソ連の女性を主人公にして、パリで資本主義に遭遇して恋をして変って行くと言うストーリーが、第二次世界大戦の直前にアメリカで製作されていて、それが、決して色あせていないのにびっくりしたのである。
   資本主義の象徴のような退廃貴族然としたグレーダー伯爵(メルヴィン・ダグラス)が、ニノチカ(グレタ・ガルボ)に恋をして、マルクスの資本論を読み始めてその影響か、執事に階級格差に文句がないのかと詰め寄るあたりなどはご愛敬だが、
   パリパリの共産党員ニノチカは、マルクスレーニン主義に染まり抜いて、労働者革命による共産主義の理念を無表情で暗誦するように繰り返し、ショーウィンドーの最新ファッションの帽子を見てこんな文明は滅びると資本主義社会を退廃の局地だと言わんばかりに軽蔑の眼差しで見つめ、冗談にもくすりともせず、生の喜びを知らない非人間的な氷のような人物として登場するのだが、
   このニノチカが、少しずつグレーダーに惹かれて、誘われるといつの間にかこの帽子を買っていそいそと正装して現れるところなど、主義に関係なく人間の弱さ温かさが滲み出て面白い。
   自由と平和と豊かな資本主義との対比で、現実味に乏しい抑圧的で教条主義の共産主義社会をニノチカで代表させたのであろうが、何をしているのか職業不詳で人民のために何の役に立っているのかとニノチカに揶揄されるグルダーもどっちつかずのヨーロッパ資本主義の象徴で、どっちもどっちという感じで面白い。
   自分という人間の人格や幸福を押し殺した、硬直したソヴィエト社会の教条主義的な台詞をポンポン連発して、くすりともせずに無表情で押し通すニノチカ、
   清楚で端正な美しい、それに、可愛ささえ滲ませる雰囲気のあるグレタ・ガルボであるから、変わり身の鮮やかさも凄いが、非常に見せて魅せてくれる。
   綺麗なイブニングドレスに着飾ったグレタ・ガルボは、流石に美しく、実に魅力的である。

   ソ連から、三人の役人が、かってのスワナ大公妃 (アイナ・クレア) から押収した宝石を国庫のために売り払うよう命令され、パリにやって来るのだが、埓があかないので、厳格な共産党員ニノチカが、仕事を監視するためにパリへと派遣される。ひょんな拍子から、ニノチカは、スワナの愛人であるグレだー伯爵に会って恋に落ちると言う寸法。
   ニノチカが、グレーダーに晩餐会に誘われてシコタマ飲んで酩酊し寝込んだ隙に、宝石を大公妃の腹心(ホテルマン)に、盗まれるという失態を犯す。自分の愛人グレダーがニノチカに執心していることに嫉妬した大公妃は、今すぐパリから姿を消すなら、宝石を諦めて売却して金を渡すと交換条件を出してニノチカを脅迫して、ソ連へ追い返す。
   グレーダーが、ニノチカに会いたくて、いくら申請してもソ連へのビザは下りず、ラブレターは、いくら出しても差し戻しか着いても黒塗り。
   今度は、三役人が、コンスタンティノープルへと毛皮の売却に赴くのだが、また仕事が遅延してニノチカが同地に派遣される。コンスタンティノープルに来たニノチカは、三役人がロシア料理店を開店したことを知り呆れるが、そこにグレーダーが姿を現し、ニノチカに会うために仕組んだことが分かる。
   国外逃亡、ハッピーエンドである。

   特に、思想的にどうと言った映画ではないが、チャプリンの映画を見ているような感じがして面白かった。
   共産主義と民主主義のさや当てといった感じのギャグとアイロニーの満ちた期せずしてのチグハグぶりが興味深く、まだ、大戦前の平穏な時期でありながら、ソ連の政治経済社会体制が、随所で活写されており、今でも、そのまま、納得しながら楽しめるというか、時代感覚の確かさに感じ入っている。
   
   かって、若かりし頃、映画館に通い詰めたことがあるので、グレタ・ガルボの映画は、何度かは見ていると思うのだが、全く記憶がなく、グレタ・ガルボで強烈に印象に残っているのは、
   昔、ニューヨークのMETで上演された歌右衛門の舞台に感動して通い詰めて、「LOVE LOVE LOVE」という熱烈なメッセージを送ったと言う逸話が残っていることで、この電報を、早稲田の坪内博士記念演劇博物館で見たことである。
   とにかく、グレタ・ガルボの魅力抜群の映画である。
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わが庭・・・ツユクサ咲き続ける

2020年07月13日 | わが庭の歳時記
   アジサイと共に、梅雨時の典型的な山野草であるツユクサが、下草として庭に咲き始めた。
   この花は、わが庭では、雑草扱いなのだが、場所によっては、自然に育てて、鮮やかなコバルトブルーの小花を楽しんでいる。
   間延びした感じで、四方八方に、4~50センチほどの枝を伸ばして広がって先端に花を咲かせるのだが、支えがなければ、地面を這い、木立の間だと伸び上がって花を咲かせる。
   花の命は短くて・・・の典型的な花で、早朝には綺麗な鮮やかな花を咲かせるのだが、午後には萎んでしまって哀れな姿になる。
   しかし、「花おりおり」によると、花弁の中は、ドロドロに溶けて成分は吸収されて次の花に回されるリサイクルの花なのだという。
   万葉時代の古名は、つきくさ、
   万葉集には9首あるようだが、やはり、儚さを思う恋の歌であろうか。
   同じ青でも、ラピスラズリとは桁違いだが、やはり、この美しい青は、青色で紙や布をつき染めたという。
   
   
   
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わが庭・・・ムラサキシキブ花が咲き始める

2020年07月12日 | わが庭の歳時記
   梅雨の合間を縫って、時折陽が差すことがある。
   気づかなかったが、ムラサキシキブの小花が色づいて花を開き始めた。
   千葉から移転するときに、黒椿ナイトライダーの鉢植えにくっついてきた小苗を、そのまま、庭植えしたら成長して、毎年忘れずに花を咲かせてくれるのである。
   千葉の庭には、何株も咲き乱れていて、シロシキブも植わっていたのだが、鎌倉に持ち込めた花木などは、僅かで、今でも、残念だったと思っている。
   このブログでも、当時のわが庭の記事を随分書いてきたので、時々、開いては思い出を反芻している。
   子供の頃育った宝塚や伊丹の田園地帯では見たことがなく、学生になってから、京都の古社寺散歩を初めて、確か詩仙堂だったと思うのだが、池の汀から放射線状にすっくと伸びて、紫色の鈍く光る数珠状のムラサキシキブを見て感激したのが最初の出会いで、一戸建てに移ってから庭に植え始めたのである。
   しかし、やはりこのムラサキシキブは、しっとりとした京都の古寺の情緒のある心字池のそばにひっそりと咲くのが似つかわしく、乾燥気味のわが庭には、一寸可哀想な気がしている。
   
   

   クラブアップルが、光っていて綺麗だが、柿と、去年一つも実を付けなかった夏みかんが実を付けて少しずつ大きくなってきている。
   普通のアジサイは、色あせて殆ど終わりだが、種類が違うののか、殆ど蕾さえ見せなかったアジサイが、小さな蕾を現したかと思ったら、小さな花を咲かせ始めた。
   花持ちが良く、花房がころかげんにコンパクトなので、一輪挿しに挿して楽しませて貰っている。
   
   
   
   
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