熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

六月大歌舞伎・・・「一本刀土俵入」ほか

2017年06月30日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月は、歌舞伎は、歌舞伎座へ「夜の部」を、国立劇場へ鑑賞教室の「毛抜」を観に出かけた。
   昼の部では、吉右衛門の「弁慶上使」を是非観たいと思っていたのだが、夜の部も大作揃いで、非常に楽しませてもらった。
   「一本刀土俵入」は、随分前に、先代雀右衛門のお蔦と、今回同様、幸四郎の駒形茂兵衛で観ており、もう一度、幸四郎を観たくて期待して出かけたのだが、今回は、猿之助が、大分違ったモダンな感じのメリハリの利いたお蔦を演じていて、楽しませてもらった。
   
   この芝居は、相撲取りの茂兵衛が、食い詰めて江戸へ向かう途中、水戸街道の取手宿の旅籠安孫子屋で、酌婦のお蔦に、手持ちの金子や簪を与えられて立派な横綱になるよう励まされたことを恩に着て、残念ながら渡世人となって故郷へ帰る途中で、お蔦を探し出し、お蔦母子とイカサマばくちに追われる身の夫・船印彫師辰三郎(松緑)を、顔役の波一里儀十(歌六)一家を蹴散らして、助けて逃がす。と言う任侠ものだが、胸のすくようなストーリーである。
   気風のよいお蔦と恩義に熱い茂兵衛の魂の交歓と言った話だが、しみじみとした味があって、私など、好きな話である。
   横綱の土俵入りではなくて、一本刀の土俵入りを見せる茂兵衛の心境如何にと言ったところだが、インテリ然とした幸四郎が、冒頭、朴訥な真心一途の好漢茂兵衛を演じて、後半では、一本刀でありながら、一本筋の通った真心を見せる颯爽とした、本来の持ち味の凄みのある渡世人を演じて、流石である。

   私は、幸四郎が何故人間国宝にならないのか、不満に思い続けているファンの一人だが、ロンドンで「王様と私」を観ており、「ラ・マンチャの男」や蜷川の「オセロ」などの舞台も観て、その度毎に感激しており、歌舞伎の世界では、自他ともに認める第一人者でありながら、これ程、歌舞伎の枠をはみ出してでも、人の及ばない傑出した芸を見せて魅せる役者が存在するであろうか。

   この幸四郎は、「鎌倉三代記」で、佐々木高綱を演じて、コミカルタッチの雰囲気もさわやかで、重厚かつ貫禄十二分の舞台を見せてくれていた。
   この「鎌倉三代記」は、何といっても三姫の一つである時姫を演じた雀右衛門の舞台で、益々脂の乗った絶好調の芸を見せてくれたのだが、この雀右衛門は、次の「御所五郎蔵」でも、仁左衛門の五郎蔵を相手にして、傾城皐月を演じて、互角に渡り合っている。

   この「御所五郎蔵」だが、立派な侍であった須崎角弥が、腰元の皐月との不義で追放となって侠客の五郎蔵となった、いわば、江戸のヤクザが、侍の星影土右衛門(左團次)と、皐月を巡って争い、五郎蔵のための金策に土右衛門に靡いたふりを装った皐月の心根を知らずに、裏切られたと早合点して殺そうとして、身代わりになって皐月の花魁衣装を身に着けた道中の傾城逢州(米吉)を、誤って殺してしまうと言う何とも冴えないストーリーである。
   この江戸の風情むんむんとした舞台で、江戸のヤクザを、関西オリジンの仁左衛門が演じると言う興味深い芝居だが、怒り心頭に達した仁左衛門の形相の凄さが、目に焼き付いている。
   雀右衛門の傾城は、しっとりとした味があって格上の貫禄だが、米吉の傾城の美しさと健気さ、最近貫禄がついてきて、進境の著しさが印象的であったが、実父歌六の薫陶宜しきを得れば、末恐ろしい存在となろう。
   心境の著しさと言えば、「鎌倉三代記」で、時姫の雀右衛門と好演した三浦乃助義村を演じ、「一本刀土俵入」で堀下根吉を演じた松也にも言えよう。

   末筆になってしまったが、猿之助の芸の冴えと存在感は、流石で、「一本刀土俵入」の冒頭の、安孫子屋の二階の窓から、顔を覗かせた瞬間から、観客を引き付ける。
   座頭役者の風格と本来の芸の上手さが相まって、魅せてくれた。
   それに、今回の舞台では、猿弥、笑三郎など澤瀉屋の面々が、脇役ながらもよい味を出していた。
   
   
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フラワーセンター大船植物園・・・ばら、花菖蒲、ユリ、そして、閉園間近(2)

2017年06月28日 | 鎌倉・湘南日記
   土曜日の記事のつづきなのだが、ばらのレポートで終わったので、ほかの花について。
   シーズンとしては、花菖蒲の最盛期だが、なぜか、今年は、殆ど干上がってしまっていて、菖蒲園の半分くらいには、花が咲いておらず、咲いているところも、貧弱である。
   千葉に住んでいた時には、佐原の水生植物園や水郷地帯の潮来の河川などで綺麗に咲き乱れている風景を見ていたので、やはり、水の豊かな田園地帯の花菖蒲が良いのかも知れない。
   咲いていた花を、紹介すると次の通り。
   
   
   
   
   
   
   
   

   蝶々が飛び交っているのだが、止まってくれないので、写真にはならない。
   綺麗な青いシオカラトンボが、白い花の蕾に止まっていたので、ワンショット。
   
   

   アジサイが、ところどころ、散発的に植えられていて、ひっそりと咲いている。
   
   
   

   派手に咲いているのが、ゆり。
   私が好んで植えているカサブランカ系統はなさそうであったが、微妙な色彩が美しい。
   
   
   
   
   

   風に靡いて雰囲気があったのは、ねむの木の花。
   広場にしつらえたボックス型水槽に植えられた蓮が、一輪だけ咲いていた。
   
   
   

   室内展示場で、食虫植物がディスプレィされていた。
   私には殆ど縁のない植物を見ると、愛好家とは凄いものだなあといつも思う。
   興味深かったし、小さな可憐な花が咲いていて、植物の奥深さを垣間見た思いであった。
   
   
   
   
   
   
   
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第118回日産自動車定時株主総会

2017年06月27日 | 経営・ビジネス
   日産の株主総会も、実に大人しく事務的になってきた感じで、これが潮流だとしても、株式会社にとって最も重要なコーポレート・マネジメントなりガバナンスの機関として、これで良いのかどうか、疑問に感じた。

   今年は、都合がつかず、株主総会に出かけたのは、この日産自動車の株主総会だけ。
   朝10時の開会では、会場が東京では多少苦痛であり、鎌倉からだと、精々、パシフィコ横浜の総会くらいが、適当なのである。

   さて、私が気になった点は、2点。
   カルロス・ゴーンの報酬と日産がルノーの子会社かどうかと言う点である。

   まず、ゴーンの報酬についてだが、これは、毎回、問題になっており、目新しいトピックスでもないのだが、問題にしたいのは、相変わらず、毎年懲りずにオウム返しに繰り返しているゴーンの役員報酬決定手法である。
   日進月歩の業界の熾烈なグローバル競争に打ち勝つためには、有能な人材を糾合することが必須であり、そのために、専門コンサルタント会社のウイリス・タワーズワトソン社の徹底的な報酬解析調査を参考にして、日産に匹敵する利益を上げている多様性豊かなグローバル展開企業に見劣りしない報酬額を設定しなければならない。と言う。
   自身の16年度の報酬は、10.98億円(990万ドル)だが、同上調査のCEO平均報酬額は1770万ドル、最高額は2950万ドル、中央値は1600万ドルであったと言及し、暗に、これよりはるかに低いと言わんばかりの意味深な発言をしており、10年ほど前に設定した役員報酬額の上限29.9億円に対しても支払い実施額は19.5億円で、35%低いと、これも、控えめにしていると言った調子で、トーンダウンさせている。

   問題は、日産に匹敵する同業他社やグローバル展開の多国籍企業との役員報酬額を参考にして、業績と貢献度を勘案して、役員報酬を決めることが正しい手法なのかと言うことである。
   経営学上のイロハから言えば、業界などの報酬水準は、一つの参考指標にはなったとしても、本来は、会社の経営の根幹に触れるトレンドや経営戦略、サステイナビリティへの対応など多くの経営指標を考量して決定すべき筈であろう。

   それよりももっと重要なことは、カルロス・ゴーンが、あのピーター・ドラッカーでさえ、逝く寸前に甚く慨嘆していた役員報酬のgreedyとも言うべき異常な高さが、問題であり、そのもの自体が、所得格差の拡大を行きつくところまで行きつかせて、現代資本主義を窮地に追い詰めていると言う現実をどう考えているのかと言う問題である。
   他が高いのであるから、匹敵する有能な人材を確保するためには、引き下げるわけには行かないと言うゴーンの声が聞こえて来そうであるが、本質的な問題を直視して対決できないであろう、このあたりが、ゴーンの経営者としての資質の限界であろうと思う。

   更に、昨年、フランス2のスタッフが、ゴーンは、ルノーからも日産からも高報酬を取っているのが問題だと言っていたが、アライアンスと言う美名のもとに、両社から、フルタイム相当のCEO報酬を受け取っている。
   マネジメントをどう見るかと言う問題だが、日本の経営感覚から言えば、社外役員の報酬などは両取りの可能性はあっても、このような資本関係にある会社の役員報酬については、何らかの形で、一部減額するとか、戻入するとか、配慮してしかるべきだと思うのだがどうであろうか。

   もう一つは、従業員株主の質問で、日産は、ルノーの完全子会社の状態にある、マクロンが大統領になって、更に、この状態が進みそうだがどう思うかと言う問題である。
   この質問に対して、ゴーンは、かなり、神経質になって対応し、日産の18年の歴史を見て、どういった事実を根拠にして、そのように言うのか、一つでも根拠はない。日産がルノーの子会社であったら、全従業員がほかの会社のために働いたとしたなら、このような好業績と発展はなく、99年に230万台であったのが今や590万から600万台への躍進はなかった筈。
   この18年間、ルノーも日産も、パートナーのアイデンティティを尊重すると言う方針を貫いており、これこそが、アライアンスを成功させた要因である。と答えていた。

   その前に、ルノーは、日産の株式を、43.4%保有しており、資本関係から言っても、ルノーの子会社と言ってもおかしいとは思えないし、また、外人株主の保有率が、68.20%に達しているので、最早、所有関係から考えても、日産は、日本の会社ではなくなっている。と言う事実を認識しておかなくてはならない。
   生産、販売、従業員、その他、関係するステイクホールダーの殆どは、マルチナショナル・・・ゴーンが説くごとく、典型的なグローバルに展開する多国籍企業であり、最早、日本の日産では、なくなってしまっている。
   そのあたりの感覚のずれを、自らの従業員に、指摘されたゴーンの苦渋は察して余りある。

   いずれにしろ、このことについては、私など、日産がルノーの子会社だとは、それほど思っていなかったので、日産社員の指摘なので、現実に、やはり、そう言う風土なり経営傾向があったのかと、一寸驚きであった。
   フランス政府が、雇用の拡大など、ルノーを通じて日産を利用しようと言う意図なり風潮があったことは、以前に、フランス政府は、国内産業や雇用保護を目的として、2014年に通称「フロランジュ法」を制定して、これを適用する狙いで、筆頭株主であるルノー株を買い増したり、マーチなどの日産車のフランス工場での生産増加要請などで現実味を帯びたことがあった。
   しかし、実情はよく分からないが、フランス政府の意図を排除して、ルノーを通じての日産の経営への介入は、実質的には起こっておらず、ゴーンの指摘するように、お互いに経営に介入せずにアライアンスが成功している。
   これらは、レバノン、ブラジル、フランスと言った多彩な異文化異文明のバックグラウンドを持ち、アメリカで経営の試練を受け日本で日産を窮地から救い出して一気に成長企業へ育て上げた、恐らく、世界屈指のマルチカルチュアー、マルチタレントの卓越した経営者カルロス・ゴーンあっての、離れ業のなせる偉業だと思っている。
   いずれにしろ、日産が、現在、厳然と優良企業として輝いていることは事実であり、この今日ある日産をここまで、起死回生を図れたのは、フランスやルノーの力と言うのではなく、あくまで、私は、カルロス・ゴーンの偉業あってのことだと思っている。
   
(注記)メモから書いているので、ゴーンの発言など正確ではないかも知れないが、ご容赦頂きたい。
   
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フラワーセンター大船植物園・・・ばら、花菖蒲、ユリ、そして、閉園間近(1)

2017年06月26日 | 鎌倉・湘南日記
   久しぶりに、フラワーセンター大船植物園を訪れた。
   改修工事のために、7月3日から来年3月末まで、閉園だと言う。

   もう、6月下旬だと言うのに、まだ、ばらが綺麗に咲いている。
   NHKテレビで、閉園のニュースが流れていたが、少し、空模様がはっきりしないのか、土曜日だと言うのに、入園者は、何時もの平日のように、少なくて静かであった。

   園内は、ばら苑と菖蒲園くらいが、花の最盛期で、草花主体の花壇は、相変わらずカラフルだが、ユリ、ムクゲ、ブッドレア、アガパンサス、ペチュニア、ベゴニア、サルビア、マリーゴールド、ラベンダーなどが、彩を競っていて、華やかである。

   閉園のためのありがとうフェススタの一環か、オープンスペースで、横浜のハーバーライツ・オーケストラのミニコンサートが行われていて、客を集めていた。
   ラテン音楽主体の楽団とかで、軽快なリズムで、休日ムード満点である。
   私など、4年間のブラジル生活の経験者であるから、ラテン音楽のリズムはお馴染みで、自然とスイングする。
   ベサメムーチョ、コーヒールンバ・・・
   懐かしい曲を楽しませてもらったが、ドリフターズの「いい湯だな」を始めたので、場を離れた。
   入園口では、しずくちゃんが愛嬌を振りまいているが、子供客が少ない。
   
   
   
   
   
   

   さて、肝心のばらだが、大分、最盛期を過ぎて、ぼつぼつ、終わりに近づいていると思うのだが、まだ、結構、華やかに咲いている。
   
   

   真っ先に綺麗だなあと思ったのは、赤いニコロ・パガニーニ。
   ベルサイユの薔薇シリーズで咲いていたのは、フェルゼン伯爵だけであった。
   アプリコット・キャンディも、そうだが、
   コーヒーカラーを、一寸、淡くしたようなジュリアも、ムードがあって美しい。
   
   
   
   
   
   

   新しいばらのカインダーブルー、
   ブラックティー、
   マリア・カラスが咲き乱れていた。これまで、殆ど、注意を払わなかったのだが、今日は、その優雅さに見とれてしまった。
   フィラデルフィアで、ジュゼッペ・ステファノとのフェアウエル・コンサートで、本当のマリア・カラスを聴いたのを思い出した。
   深紅のパパ・メイアンも、輝いている。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   黄色いばらは、かなり少ない。
   かぐや姫は、殆ど終わりだったが、一輪だけ蕾が残っていた。
   オランダ作出の一寸変わった一重のバビロンが、何株か植わっていた。
   もう一つ、私が、いつも注意して見るのは、イングリッシュローズのパット・オースティン。
   しかし、こんなに高く伸びあがったイングリッシュローズは、珍しいと思う。
   
   
   
   
   
   

   ばらだけで、終わってしまったが、稿を改めたい。
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国立能楽堂の金春流能「黒塚」、そして、都響のプロムナード・コンサート

2017年06月25日 | 能・狂言
   週末にかけて、二つの公演を聴く機会を得た。
   全くジャンルは違うのだが、最初は、23日の国立能楽堂の生徒の団体鑑賞を意図した「能楽鑑賞教室」で、一週間にわたって行われた金春流の能「黒塚」と大蔵流の狂言「蜘盗人」。
   私の場合は、金春安明宗家が舞う舞台を鑑賞したくて、最終日の「外国人のための能楽鑑賞教室」を選んだ。
   プログラムは、
   解説 リチャード・エマート
   狂言 附子 山本 則俊(大蔵流)
   能  黒塚 金春 安明(金春流)
   当然、エマートの解説は英語で、ほぼ、分かっていることの解説なので、特に抵抗はなく、能楽堂の字幕も英語があって、この方の解説の方が説明が詳しいので、時には、重宝している。
   やはり、この日は、若い外人が多く、その殆どは、欧米人のようであった。

   この黒塚の舞台は、ストーリーとしては、歌舞伎の舞台とはそれ程変わっていない。   ただ、歌舞伎の舞台では、客である山伏(祐慶)たちのために、薪を取りに山に出た里の女が、成仏への予感を感じて、月明かりの荒野で舞う幻想的なシーンが、印象的で、猿之助襲名披露公演で観た当代猿之助の素晴らしい舞台が、いまだに脳裏から離れず、ロシアンバレエから想を得たと言う初代猿之助の芸術性の豊かさと、能舞台のアウフヘーベンを感じて、感激している。
   その意味では、能の方は、シンプルで、醜態を覗き見られた前シテ里の女が、後シテの鬼女に変身して祐慶たちに対して調伏されて消えて行くと言う救いのない姿で終わっている。

   ただし、この「黒塚」では、私自身は、勝手な解釈をして楽しんでいる。
   この鬼女は、前場で、自分の恵まれない苦しい身の上を嘆きつつ、糸を繰りながら糸尽くしの歌を謡い、夜が更けると、「留守中、決して寝所を覗かないでほしい」と頼んで、山伏たちのために薪を取りに出る。
   そんな優しい女らしい心遣いをする鬼女であるから、「紅葉狩」などほかの鬼女と違っていて、私には、心なしか、安明宗家の鬼女は、流れるようにどこか優しくて、優雅でさえあって、私には、殺伐とした安達ケ原の鬼女と言うよりは、先の猿之助歌舞伎の解釈と相通じる思いで、この鬼女には、縁に触れて苦界から抜け出して真人間として生きたいと言う願いを感じて、感慨深く見ていた。

   さて、今日、午後には、久しぶりに、初台の東京オペラシティ コンサートホールに出かけて、都響のプロムナードコンサートNo.373を聴いた。
   本来は、サントリーホールでのコンサートなのだが、休館中で、会場が変わったのである。
   プログラムは、
   指揮/大野和士
   ホルン/シュテファン・ドール
   曲目
   ━日本・デンマーク外交関係樹立150周年━
   ゲーゼ:交響曲第4番 変ロ長調 op.20【ニルス・ゲーゼ生誕200年】
   R.シュトラウス:ホルン協奏曲第1番 変ホ長調 op.11
   ムソルグスキー(ラヴェル編曲):組曲《展覧会の絵》

   デンマークの作曲家ゲーゼについては、全く知らなかったし、初めて聴いた曲だったが、この作曲家の交響曲第一番は、メンデルスゾーンがライプチッヒで初演して成功をお収めたと言うことであるから、非常に親しみ易い曲で、楽しく聞いた。
   次のホルン協奏曲も初めてだと思うが、冒頭の勇壮な感じのホルンから魅力的で、とにかく、ベルリンフィルの首席ホルン奏者だと言うドールの演奏は流石で、私など、弱音の柔らかくて福与かな天国からのようなサウンドの素晴らしさに、感激しきりであった。
   このドールは、熱狂的な観客の拍手に応えて、アンコールで、メシアンの「恒星の呼び声 峡谷から星たちへ より」を演奏したのだが、これ程、強弱緩急自在に取り交ぜて、多彩なサウンドを、ホルンが奏でることが出来るのかと、驚いてしまった。

   ムソルグスキーの「展覧会の絵」は、主に、欧米でだが、何回聞いたであろうか。
   結構、あっちこっちの博物館や美術館を芸術行脚で通い続けてきたので、この曲のイメージとは全く違うが、その都度、どこからか、この曲のプロムナードが、聞こえて来るような気がしたのである。
   大野和士のタクトが、都響から途轍もない素晴らしいサウンドを引き出し、観客を至福の頂点に導く。

   さて、残念だったのは、この日、ダブルブッキングをしていて、この都響のコンサートに行くか、国立演芸場の国立名人会に行くか、一寸、迷った。
   両方とも同じ時間帯で、両方ともチケットを持って家を出たのだが、藤沢から小田急に乗ったので、結局、初台に向かった。
   人間国宝一龍齋貞水の講談「真景累ヶ淵より 宗悦殺し」をミスってしまった。
   都響のプロムナードコンサートは、年5回なので間が空きすぎて忘れていたので、仕方がない。
   先月、私用で、文楽「加賀見山旧錦絵」も行けなくて、チケットをふいにしてしまったが、最近、歳の所為でもなかろうが、こんなことが多くなっている。
   尤も、ヨーロッパにいた時には、とにかく、チケットを押さえておかないとチャンスを逸するので、オペラやオーケストラのシーズンメンバー・チケットを取得するなど、これと思った公演には、事前にチケットを手配しておいたが、出張や仕事で、随分、チケットを無駄にしてきたが、それよりは、ましであり、日本も中々チケット取得が難しくなってきており、これも、時代の流れなのであろうと思っている。
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わが庭・・・コンカドールが咲いている

2017年06月24日 | わが庭の歳時記
   ユリが咲き出した。
   イエローのカサブランカ、コンカドールが一番最初に咲き始めたのである。
   オリエンタル・ハイブリッドの派手な、カサブランカ系統の花を栽培し始めて、鉢植えだと結構管理が大変なので、適当に、花の終わった後の球根を庭の空間に埋め込んでおいたのが、咲いたと言うことである。
   1970年代にオランダで作出されと言うのだが、3年間住んでいて、オランダ人の花に対する思い入れが、如何に凄いかを知っているので、このカサブランカもヤマユリが親だし、多くの日本オリジンの花が、オランダで見違えるような花に品種改良されたのを思うと、感無量である。
   
   
   
   
   

   やはり、アジサイのハイシーズンなので、毎日、少しずつ姿を変えていて興味深い。
   わが庭では、真っ白であったアジサイが、ピンクが乗り始めて、少しずつ、赤く染まり始めた。
   興味深いのは、ヤマアジサイの芯の部分の小花の微妙な変化で、花によっては、日々刻々と形や色彩が変化して行き、面白い。
   
   
   
   
   
   
   

   バラだが、遅ればせながら、コルデス・ジュビリーが咲き始めた。
   アガパンサスが、華やかに、線香花火のように花をのばしている。
   ビョウヤナギが、赤い実を結んである。
   トマトが色づき始めて、もうすぐ、収穫期に入る。
   わが庭は、一日一日、姿を変えている。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
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岡野弘彦著「恋の王朝絵巻 伊勢物語」

2017年06月22日 | 書評(ブックレビュー)・読書
    伊勢物語だが、源氏物語や平家物語などと比べれは、何となく親しみがわかず、「むかし、おとこありけり。」と言った文章で始まり、多少の差はあっても殆ど短編で完結しており、125段もある物語で、それほど、興味を感じなかったので読む機会を逸していた。
   しかし、この主役のおとこが、在原業平と言う東西きっての色男で和歌の名手と言うことで、能では、杜若、隅田川、井筒、雲林院、小塩など、有名曲となって蘇っており、注意を払わざるを得なくなった。
   何冊か「伊勢物語」の解説本を持っていて、能鑑賞の度毎に、読んでは予習しているのだが、もう一つ、ぴんと来ない。

   ところが、この日本芸術院会員であり歌人でもある著者の”理想の「いろごのみ」を知る多感な貴人、在原業平の歌で紡がれる恋の絵巻「伊勢物語」。奔放に生きる「むかしおとこ」に託された、日本の恋の伝承を見る。「昔の人は、こんあふうに心のはげしい風雅な恋をしたことなんだなー」”と言うだけあって、面白い。
   全段ではないが、相当数の興味深い物語をピックアップして、原文と対訳を併記して、その後で、関連する話題や和歌を引きながら、興味深い逸話を開陳するなど、ストーリーに膨らみがでて興味深い。
   この「伊勢物語」は、主題が「いろごのみ」で、その理想形を書いたと言われているので、「源氏物語」など後代の物語文学や、和歌に大きな影響を与えたと言うことであり、それなりに詳しく解説されると、確かに、豊かな恋の物語が髣髴として面白い。

   「伊勢物語」は、業平の和歌を中心にしながら、古今の歌をその上に共鳴させ、業平の上に重層して浮かび上がってくる数限りない神話・物語の男女の面影を、ほのかによみがえらせながら、多くの人の参加を得てなったものだ。と言うことで、紫式部も、大いに恋の物語に触発されて、業平の上を行く高貴でいろごのみの貴公子光源氏を主人公とした雅で爛熟した「源氏物語」を著わしたのであろう。

   業平と二条の后の恋の物語を主題とした能は、雲林院と小塩だが、纏まった段ではなく、例えば、4,5、6、65等の段に跨っており、激しくも悲しい恋のイメージが作り上げられていて、興味深い。
   墨田川は、東下りの九段(3)から想を得ている感じである。
   それに比べて、杜若は、九段(1)、井筒は、二十三段(1)を夫々底本にしているので、分かり易い。
   いずれにしろ、伊勢物語からのバリエーションが興味深い。

   さて、業平の和歌は、下記が『古今和歌集』に勅撰されていて、和歌音痴の私でも知っているのだが、これらが、格段の物語にすっぽりと収載されていてストーリーに溶け込んでいて、非常に興味深かった。
   ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは
   世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
   忘れては 夢かとぞ思ふ 思ひきや 雪踏みわけて 君を見むとは
   から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ
   名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと
   月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして    
   
   ところで、在原業平は、「容姿うるわしく、性格は奔放、あまり漢学の才はなく、和歌が上手であった」と記録されているようだが、この「伊勢物語」は、岡野先生によると、
   業平ならぬ業平を主人公にして、心が純粋で、外来の教養よりも伝統的な和歌に激しい情熱を凝縮させてうたい、権威にもおもねらず、ひたすらな思いを常に燃え立たせて恋焦がれる、平安時代の人々にとって理想的な男の姿を描いているのだと言う。

   いずれにしろ、業平は実在の人物。  
   さすれば、紫式部の描いたフィクションの光源氏は、平安時代の人々にとっては、どうであったのであろうか。
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軍靴の足音が聞こえてきませんか

2017年06月21日 | 政治・経済・社会
   上から下まで、欺瞞に満ちた民主主義を忘却した政治の貧困さ。
   憲法学者の大半が違憲だと言って警告したにもかかわらず、コンニャクのように押し曲げて違憲法案(?)を通し、融通無碍に憲法を操る政治であれば、何でもできる筈なのに、憲法改正だと勢い付く政治の危うさ。
   平和日本として、世界中から認められているのなら、このままで良いのではないかと思う今日この頃、何となく、幼い頃に聞いた軍靴の足音が、かすかに、耳元に聞こえてくるような気がする。

   何故か分からないが、この2~3日、私が11年前にこのブログで書いた「
人類は何故戦争から開放されないのか・・・アインシュタインとフロイトの往復書簡」が、検索されてヒットしている。
   何かの予感のような気がするので、今日は、これをそのまま再録して、私の平和への願いを伝えたいと思っている。

   人類は何故戦争から開放されないのか・・・アインシュタインとフロイトの往復書簡
2006年04月22日 | 政治・経済・社会

   神保町の某書店で、面白い本を見つけた。見つけたと言うのは、当らない、何故なら以前に一度この本に出会っていて何故だか買いそびれて忘れていたのだが、偶然再会したからである。
   それは、アインシュタインとフロイトと言う超偉大な人類の頭脳が、国際連盟の依頼で、ヒットラー台頭の少し前1932年に戦争について往復書簡を交わしたが、その手紙の翻訳と養老先生の解説がついている「ヒトはなぜ戦争をするのか?」と言う本である。

   国際連盟からの提案で、アインシュタインが、「誰でも好きな方を選び、今の文明でもっとも大切な問いと思える事柄について意見を交換できることになって、またとない機会に恵まれて嬉しい限りだ」と言って、フロイトに書簡を送り、「人間を戦争と言うくびきから解き放つことはできるのか?」と問い掛けた。
   ポッダム近郊カプートに住んでいたアインシュタインには、ヒットラーの軍靴の足音が聞こえていたのであろう、「なぜ少数の人たちが夥しい数の国民を動かし、自分達の欲望の道具にすることが出来るのか?」「国民の多くが学校やマスコミの手で煽り立てられ、自分の身を犠牲にしていく―このようなことがどうして起こり得るのであろうか?」と問うている。

   ナショナリズムは自分には縁がないと言って、アインシュタインは、
「戦争の問題を解決する外的な枠組みを整えるのは易しいように思える、すべての国家が一致協力して、一つの機関を作り上げれば良い。
この機関に国家間の問題についての立法と司法の権限を与え、国際的な紛争が生じたときには、この機関に解決を委ねるのです。」
「「国際的な平和を実現しようとすれば、各国が主権の一部を完全に放棄し、自らの活動に一定の枠をはめなければならない。」と言っている。

   この見解に対してフロイトは、アインシュタインの説と同じ結論だとして「戦争を確実に防ごうと思えば、皆が一致協力して強大な中央集権的な権力を作り上げ、何か利害の対立が起きた時にはこの機関に裁定を委ねるのです。それしか道がないのです。」と言う。
   しかし、その為には2つの条件、即ち、そのような機関が現実に創設されること、そして、自らの裁定を押し通すに必要な力を持つことだが、国際連盟も含めて第2の条件を満たすことは不可能であると言って現実性を疑問視している。

   世界政府の実現が理想だとする二人の見解も、未だに国連さえ上手く機能し得ておらず、一国覇権主義を強引に推進するブッシュ政権のネオコン政策によって、二度の過酷な大戦の試練を経て築き上げてきた国際的な平和協調主義が危機に瀕してしまっている。

   またアインシュタインは次のようにも言っている。
「人間には本能的な欲求が潜んでいる。憎悪に駆られて、相手を絶滅させようとする欲求が!」
「教養のないヒトより知識人ほど、大衆操作による暗示にかかり致命的な行動に走り易い。生の現実を自分の目と耳で捉えずに、紙の上の文字、それを頼りに複雑に練り上げられた現実を安直に捉えようとするからだ。」
   理知的で限りなく聡明なドイツ国民が、ナチスの安っぽいアジに煽られてひとたまりもなく崩壊し奈落に転落して言った予兆を、アインシュタインは克明に告発している。
   「貴方の最新の知見に照らして、世界の平和と言う問題に改めて集中的に取り組んで頂ければこれほど有難いことはない」、縋り付く様な思いでフロイトに問題を投げかけているのである。

   フロイトはやはり精神分析の創始者で偉大な人文学者であり、多少理屈っぽく4倍ほどの長い返信を書いている。
   人と人との利害の対立は、基本的に暴力によって解決されていると言う話から始めて、本能的な要求が戦争に駆り立てるのだとアインシュタインに全面的に同意する。
   精神分析の衝動の理論を引用して、「愛エロス」と破壊衝動が結びついた衝動が幾つも合わさって人間の行動が引き起こされるとして、理想的なのは、当然、人間が自分の衝動をあますことなく理性のコントロール下に置く状態だと言っている。

   文化の発展が、人間の心のあり方を、「知性を強めること」と「攻撃本能を内に向けること」に変えてしまって、戦争はこれに対して対極。戦争への拒絶は、単なる知性的感情的レベルの拒否ではなく、平和主義者の体と心の奥底から沸きあがってくる強い希求だと言うのである。

   「このような文化の発展による心の在り方の変化と、将来の戦争がもたらす途轍もない惨禍への不安――この二つが近い将来の戦争をなくす方向に人間を動かしてゆくと期待できるのではないでしょうか。
   文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩み出すことが出来る!」

   これがフロイトの結論と言えば結論だが、現在でも、悲しいかな戦争の抑止力は原子爆弾のみ。しかし、1人の気の狂った人間によるボタン操作一つで世界中を戦争の惨禍に巻きこんで、この宇宙船地球号を破壊してしまう。
   私は、このようなことが例へ起こらなかったとしても、人類の文化文明、そして、経済社会の発展(?)によって地球環境、そして、そのエコロジーを破壊してしまって、人類の歴史は終わってしまうと思っている。
   遅いか早いか時間だけの問題である。

   地中海をアジアに向けてアリタリアで飛んでいた時、眼下に、真ん中が吹っ飛んでしまって側の痕跡だけが微かに残るサントリーニ島の島影を見て、文明が進みすぎて崩壊したアトランティスのことを思い出した、丁度同じ心境である。
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国立劇場・歌舞伎「毛抜」から宝生能楽堂・能楽祭「船弁慶」

2017年06月20日 | 今日の日記
   今日は、11時開演の「毛抜」の鑑賞に出かけた。
   夏期間の国立劇場の歌舞伎は、歌舞伎鑑賞教室主体で、6月は、「歌舞伎十八番の内 毛抜」で、7月は、「鬼一法眼三略巻 一條大蔵譚」で、社会人のための公演もあるが、主に、高校生など学生のための公演で、前半に、若手歌舞伎役者による解説 歌舞伎のみかたがあるが、その後は、纏まった一幕形態の名舞台が上演される。
   演者は、今回の毛抜は、中村錦之助、次回の一條大蔵譚は、尾上菊之助が主役を演じるなど、全く、本公演と同じ手抜きなしの舞台が上演されるので、見ごたえ十分である。
   学生主体で、予約の大半が埋まるので、我々一般ファンは、3階の2等席しか取れないことが多い。

   この「毛抜」は、磁石を小道具にしたお家乗っ取り芝居で、江戸時代の庶民の関心事が磁石にあったと言うことが分かって、何となく不思議な気がするのだが、面白い。
   錦之助や孝太郎など芸達者なベテランが、若手の良さを存分に引き出して、素晴らしい舞台を展開して楽しませてくれる。

   前半の解説は、舞台装置や歌舞伎のシステムなどの紹介は同じだが、毎回、工夫を凝らして、少しずつその内容やプログラムを変えながら、興味深い話題を取り上げて進めていて、勉強にもなるし面白い。
   今回は、毛抜きの主役・粂寺弾正を演じた錦之助の長男中村隼人が、タレント並みの歯切れのよい解説を行って、好評であった。
   中村隼人オフィシャルブログのタイトルをバックにディスプレイして、歌舞伎の良さ楽しさをSNSで発信してほしいと言って、許可を取ったので、スマホで撮って良いと言って舞台から客席に降りて花道に上がったり、ポーズを取っていた。
   3階からのデジカメ写真を引き伸ばしたのでピンボケだが、その一部を紹介したい。
   
   
   

   その後、何時ものように、神保町に出て、書店をはしご。
   岡野弘彦の「恋の王朝絵巻 伊勢物語」を買った。
   能舞台で、在原業平をシテにした曲があったり、結構、伊勢物語から主題を取った曲があって、勉強も必要であるし、恋と言う一字に惹かれて、読んでみようと思ったのである。
   帰りの横須賀線で読んだのだが、いつも読む無色無臭の経済学や経営学書よりは、リラックスできて、はるかに面白い。

   2時半からは、宝生能楽堂で、能楽協会主催の恒例の「能楽祭」。
   能楽祭のプログラムは、次の通り。
    舞囃子 宝生流「八島」 シテ金井雄資
    独吟 金剛流「放下僧」 種田道一
    仕舞 喜多流「井筒」 香川靖嗣
    一調 金春流「百万」 本田光洋
    狂言 大蔵流「文山立」 シテ大藏彌太郎
    能 観世流「船辨慶 重キ前後之替」 シテ観世喜正

   船弁慶は、何度か観ているのだが、義経の大物浦からの船出を主題にした曲で、前半は、静御前との別れ、後半は、怨霊として現れた知盛との対決である。
   シテの観世喜正は、前場では、優雅で美しい静御前を、後場では、勇壮な平知盛の怨霊を舞って、非常に印象的な素晴らしい舞台を見せてくれた。
   
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エマニュエル・トッド:人口学から見た2030年の世界

2017年06月19日 | 政治・経済・社会
   先にレビューしたトッドの「問題は英国ではない、EUなのだ」の1章である「人口学から見た2030年の世界」と言う記事が、非常に示唆に富んでいて面白い。
   「安定する米・露と不安定化する欧・中」と言うのである。

   アメリカについては、オバマ時代を想定しての理論展開で、今のトランプ時代のアメリカを見れば、アメリカ社会が、トッドが言うように安定期に入っているとは、到底思えないので、ここでは、議論を端折ることとする。

   ロシアだが、かっては、人口減が進行して危機説が展開されていたが、現在の出生率は1.8で、人口を再生産し、社会を維持して行くのに必要な水準に極めて近いパフォーマンスを示していて、乳幼児死亡率や平均余命も大幅に改善されている。
   ロシアは、集団主義的な伝統があり、世界的な現在の危機を前にしても、他の先進国が過剰な個人主義の所為で集団として一体となって対処できていないのに対して、このロシア特有の集団主義が強みを発揮している。
   ソ連崩壊後の危機を乗り越え、再び均衡を取り戻したロシア国民は、自分たちの社会の未来に不安を抱いておらず、軍事領域を含めて、自分たちのネーションを信頼している。
   しかし、人口が1億4000万人で日本と同様の規模であり、(経済力も弱く)、ロシアは、中級の安定的な保守的なパワーとして再台頭しているのであって、西側のロシア脅威論は幻想である。と言うのである。

   この最後のコメントは、、我々は、どうしても、米ソが対峙していた冷戦時代のソ連を想定するので、ロシアのパワーを過大評価しがちなので、非常に興味深い。
   前に、北方4島での共同開発をチャンスに、東部ロシアを、日本経済圏に取り込むべきだと、このブログで書いたことがあるのだが、トッドも、ロシアとの関係構築は、地政学的に理に適っていると言っており、中国への対応との関係を考慮しても正論だと思う。
   尤も、北方4島を日本に変換すれば、米軍基地を置くとロシアが牽制しているので、日米関係の在り方も変えざるを得ないかも知れないが。

   ヨーロッパについては、不安定なドイツが支配する地域となり下がり、最早、「ヨーロッパ」など存在しないと言って、EUの崩壊さえ示唆するトッドであるから、論じるまでもないであろう。

   中国については、次の章「中国の未来を「予言」する 幻想の大国を恐れるな」でもかなり、厳しい中国論を展開しており、中国超大国論は神話に過ぎない。と言うのである。
   まず、高等教育の進学率が5%未満で、他国と比べて極端に低い水準であり、他の先進国より半世紀ないしは一世紀遅れている。
   中国の出生率は急速に低下しており、女子100人に対して男117人で、男女差が異常であり、また、特に急速な少子高齢化は深刻で、10億人の人口ピラミッドの逆三角形は移民導入によっても解決しない。
   経済もアブノーマルで、GDPに占める「総固定資本形成」が、40~50%と異様に突出していて、(消費の占める比重が非常に低い。)
   中国の経済政策は、中国自らによって選択されたものではなく、むしろ、西洋の資本主義、多国籍企業の道具に成り下がっている。結局のところ、この領域においても、中国は自ら決定し、自ら実行する国家として機能し得ていない。と言うのである。

   この中国論については、多少異存があり、中国経済は勿論のこと、人口においても、国力においても、超巨大なマスとしての中国パワーの底力を、全く無視していて、そのまま、納得はできない。
   まず、冒頭の高等教育だが、10数億と言う巨大な人口での突出したトップエリートの質にしても量にしても、トッドの国フランスをはるかに凌駕している筈であり、中国のこれからの学問芸術、科学テクノロジーの発展を考えれば、そら恐ろしいほどのパワーが発揮されるであろう。
   中国の経済構造や経済システムには、トッドの指摘するように欧米日あってのこれまでの経済成長だとは思うが、とにかく、遅れていても、先進国と後進国が同居した中国のトータルパワーは無視するわけにはいかない。
   ここでは、これ以上踏み込まないが、中国の政治経済社会のトレンドは、進歩か退歩か、あるいは、良いことか悪いことかはわからないが、新しい時代を画する新時代のシステムの構築に向かっている可能性さえ感じており、西洋的な価値基準で判断すべきではないとさえ思っている。
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アマルティア・セン著「経済学の再生」

2017年06月18日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本は、1986年にカリフォルニア大バークレーで行われたアマルティア・セン教授の講演録であるので、随分古くて、ある意味では、日進月歩の経済学においては、大分ずれがあろうとは思った。
   しかし、「道徳哲学への回帰」と言うサブタイトルが気に入って、セドラチェクからガルブレイス、ロバート・ライシュに触発されて、本当の経済学とは、一体何なのか、少しでも近づきたくて、倫理重視の政治経済学を説くセン教授の、むしろ、古い著作に興味を持って読み始めた。

   セン教授の本は、まだ、積読で、何となく、取っつき難い感じがして、触手が動かない。
   一度、講演を聞いたことがあり、このブログで書いている。

   ウィキペディアに、「センは経済学の中でも高度な数学と論理学を使う厚生経済学や社会選択理論における牽引者である。センは経済学の中でも高度な数学と論理学を使う厚生経済学や社会選択理論における牽引者である。”とあるが、その片鱗を見せているのがこの本であるが、これが、センの考えるあるべき経済学の姿なのであろう。
   アリストテレスやアダム・スミスは兎も角として、パレート最適の厚生経済学や功利主義との関係など、多少、哲学や宗教的な理論に踏み込むと、不勉強が災いして、理解し辛くなり、結構難しい。
   それに、巻末記載の膨大な参考文献を見るだけでも相当なもので、私など、全く接点さえない。

   経済学は、倫理学と工学的な起源を持つが、センは、その経済学と倫理学の間に、重大な乖離が生じており、そのために、現代経済理論の欠陥となっている。人間の行動は、倫理的思考に影響され、この影響を与えることが倫理学の中心面であり、厚生経済学的思考が実証主義経済学にも関連するものでありながら、厚生経済学の貧困故に、影響を与えられない。
   厚生経済学は、倫理学にもっと注意を払うことで実質的に豊かなものになり、倫理学の研究も、経済学とのより緊密な交流から利益を得られる。実証主義経済学も、行動を決定するにあたって、豊かな厚生経済学的考察を取り入れることで助けとなる。
   と、セン教授は、この本で説いている。

   さて、厚生経済学だが、ウィキペディアを引用すると、
   ”ケネス・アロー(1972年ノーベル賞受賞)やアマルティア・セン(1998年ノーベル賞受賞)らは、厚生経済学を「現実的あるいは仮想的な経済システムや経済政策を批判的に検討し、人々の福祉の観点からその性能を改善するために、代替的な経済システムや経済政策の設計および実装を企てる経済学の一分野」と定義している。
   リベラル派の経済主張を、概念的に捉えて、厚生経済学と勝手に認識して理解している程度なので、私には、パレート最適に依拠した厚生経済学としての知識は希薄である。
   センによると、「パレート最適とは、他人の効用を減らさずに誰の効用をも増やせない社会状態をいう」と言っており、パレート最適を唯一の判断基準とし、自己利益最大化行動を経済的選択の唯一の基礎とする厚生経済学は、殆ど大したことを言えなくなったと言う。
   センは、この本の第二章「経済的判断と道徳哲学」で、このパレート最適の厚生経済学について詳細に分析をしている。

   私自身、最近の厚生経済学が、どうなのかは全く知らないので、何も言えない。
   しかし、先の「厚生経済学は、人々の福祉の観点からその性能を改善するために、代替的な経済システムや経済政策の設計および実装を企てる経済学の一分野」と言うのなら、先日、レビューしたリベラル派のロバート・ライシュや、クルーグマンやステイグリッツのような資本主義論や経済政策論の方が、概念としてはるかに分かり易いし、役に立つと思っている。
   数学的な裏付けのある緻密な理論武装をした経済理論でないと認められないと言った現代経済学が、現実から如何に乖離しているかは、ガルブレイスが、『悪意なき欺瞞――誰も語らなかった経済の真相』で言及していたことだが、それが故に、センが言うように、倫理学の中心課題であり「いかに生きるべきか」と言うソクラテス流の不朽の問いを無視して、経済学があって良い筈がないと言うことでもある。
    アリストテレスの「政治学」においては、経済学の研究は、倫理学や政治哲学の研究から切り離そうとする考え方は微塵もなかったと言う。

   セドラチェクもアダム・スミス理解の欠陥に触れていたが、センも、動機と市場に対するスミスの複雑な見解が誤って解釈され、また、感情と行動に関する倫理的分析が看過されたことは、現代経済学の発展とともに生じた倫理学と経済学の乖離と呼応しており、現代経済学において、スミス流の幅広い人間観を狭めてしまったことこそ、現在の経済理論の大きな欠陥の一つに他ならない。と言っている。
   
   
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トインビーの「歴史の研究」を読もうと思う

2017年06月17日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   最近、少し、歴史関係の本に関心を持って、ブルーデルの「地中海」を読もうと思ったのだが、何しろ大著で、16世紀のイスラムとキリストに挟まれた地中海の壮大な歴史なので、まず、イントロとして、「地中海を読む」を読み始めた。
   著者名で、ウォーラーステインの名が真っ先に大書されていたので、ウォーラーステインの本かと思ったら、普及版「地中海」完結記念の記事寄せ集めの本で、榊原英資のプロローグとL・ファーブルのエピローグのサンドウィッチ本で、ほかの著者がまずまずであったので、多少は役に立ったが、それが分かっておれば、まず読まなかった。
   
   それよりも、「地中海」の前に、あれだけ、若い頃に熱中したアーノルド・トインビーの「歴史の研究」こそ読むべきだと気づいて、倉庫の中に入って、蔵書をかき分けて、「歴史の研究」を探した。

   最初に「歴史の研究」を読んだのは、『トインビー著作集』(全7巻+別巻、社会思想社, 1967-68年)1-3 歴史の研究、4 一歴史家の宗教観、5 試練に立つ文明、6 現代論集、7 歴史紀行 を買っていたので、その最初の3分冊であった。
   原著はあまりにも大著なので、この本は、サマヴェル(D. C. Somervell)による短縮版ではあったが、凄いインパクトを感じた。
   その後、何冊かトインビーの本を読んだが、殆ど忘れてしまっており、印象に残っているのは、4大文明が自然環境の厳しい土地で生まれ出でたと言う「挑戦と応戦 Challenge and response」の理論など僅かだが、その後、シュンペーターやドラッカーのイノベーション論や文化文明論の勉強やその理解に助けとなった。

   原書は、素晴らしい一冊本で、翻訳本の「図説 歴史の研究」は、大判の3冊本で、口絵写真の通りである。
   

   この本は、Jane Caplanのサポートを得て、1972年に出版されたのだが、丁度、フィラデルフィアのウォートン・スクールでMBAの勉強を始めた時で、ニューヨークタイムズの下記の記事(1972.12.6)で知って、早速、ペンシルバニア大学のブックショップで買ったのである。
   読む余裕がなくて、読まずに日本に持って帰り、日本の翻訳本も、出版が1976‐7年なので、この時も、ブラジルのサンパウロに駐在していて、日本から送って貰ったと思う。
   とにかく、あの頃は、駆け出し~中堅サラリーマンとして多忙を極めていたので、結局、本格的に読むのは、実質、これからが初めてである。
   

   このNYTの記事のタイトルのように、トインビーは、今回の新著で、人間が現在と過去を研究する時に未来に向かって盲目であることは不可能であり、未来を覗き見したと述べている。

   何のことはないのであろうが、久しぶりに、懐かしい本に出合うと、無性に懐かしく愛おしくなる。
   一番鮮烈なのは、やはり、中学の頃の初恋の思い出だが、完全に封印してしまったので、余計に身に染みており、そんな思いで、これらの本を愛おしみながら、トインビー先生に、襟を正して臨もうと思っている。
   
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英国のUE離脱でフランスが活性化するのか

2017年06月16日 | 政治・経済・社会
   昨日の日経朝刊で、FTのギデオン・ラックマンの、「逆風下の英国離脱 仏に好機」と言うタイトルの記事が掲載されていた。
   英国ではメイ首相は、指導力を大きく失ってEUからの離脱交渉に臨まなければならないが、フランスでは、マクロン大統領の新党「共和国前進」が圧倒的過半数を獲得し、この力を失ったメイ首相と力を得たマクロン大統領の対応如何が、英仏の運命を決することとなり、フランスにとっては、政治面でも、経済面でも、チャンスである。
   英国が離脱すれば、欧州統合を推進してきた仏独が、再び、統合深化に向けて牽引車としての役割を果たせる可能性が高まり、フランスは、シティの退潮による金融で、そして、英国からの製造業の移転等で、雇用増を図るまたとない機会を得る。と言うのである。
   これは、一般論であり、誰でも考え得る見解であって、目新しくはない。

   果たして、そんな単純なものであろうかと言うのが、先日来、このブログで展開しているエマニュエル・トッドの見解を通しての、私の感想である。


   先のトッドの著書からの引用だが、
   英国が抜けた後のEUは、ベルリンの支配下となり、米国もドイツをコントロールする力を決定的に失う。イギリスのEU離脱は、西側システムと言う概念の終焉を意味し、今でも、ドイツ的ヨーロッパ(ドイツ語のEUROPAオイロッパ)だが、益々ドイツによるヨーロッパ大陸の経済的掌握と言う暴力が強化され、「ヨーロッパ」は最早存在しなくなる。
   ドイツの移民政策も強引で、これはユーロ圏諸国の経済を破壊するドイツの緊縮政策の論理的帰結で、背景には、スペイン、イタリア、ポルトガル、ギリシャから、そして遠からずフランスからも、失業に追い込まれた若い熟練労働者を回収してドイツ経済のために活用しようと言う、ドイツのあまりにも強引な思惑がある。と言う。

   「中国が帝国か」と聞かれて、「ノー、帝国とは、経済的にも政治的にも、ヨーロッパ大陸のコントロール権を握る、ドイツの様な存在だ。」と言っている。
   21世紀型のドイツ帝国主義が、政治的にも経済的にも、ヨーロッパを支配し、グローバルに対峙する。と言うのであろう。

   トッドは、”「ドイツ帝国」が世界を破壊させる”で、
   ドイツの動向はともかくとして、フランスの凋落とその不甲斐なさに言及せざるを得なくなったのか、最早、フランスは、ドイツを制御するレベルではなくなって自主的隷属国に成り下がってしまった、ドイツが持つ組織力と経済的規律の途轍もない質の高さと、それにも劣らない途轍もない政治的非合理性のポテンシャルが潜んでいることを理解しなければならない。と説いている。
   先に紹介したように、
   イギリスとフランスの関係を語っており、フランスにとって、ドイツとの関係よりも、現実を動かすパワーと文化のロジックに適っている英仏の良好な関係構築こそが、国益となる。フランスにとって、イギリスは、ヨーロッパ諸国の内、全面的に信頼できる唯一の国であって、それ故に、軍事安全保障においても効果的に協力し合える唯一の国であり、これは、技術的上のことではなく、極めて強固な信頼関係を極めた事象である。
   フランスの為政者はこのことを、理解しなかったと慨嘆している。
   
   トッドの見解とは少し違うが、ケインズ派ではなくても、ドイツの緊縮、均衡財政一辺倒の経済政策を貫いて、EUをぐいぐい締め上げて、一強街道を走り続けるドイツの姿勢には疑問を感じているであろう。そして、イギリスが抜けてしまったEUは、民主主義からも遠ざかって行く。
   そうなってくると、フランスの生きる道、EUでの政治的経済的位置づけが変わって来ざるを得ない。
   したがって、ラックマンの言うように、「独と手を組み統合深化へ」などと言う安易な気持ちになれないのである。

   因みに、ドイツ、イギリス、フランスの経済規模だが、次の通りで、アメリカ、中国、日本に続いて、夫々、4位、5位、6位の経済大国である。
   ドイツ 2016年GDP:3兆4666億ドル ・人口:約8068万人・一人当たりGDP:4万1902ドル
   イギリス 2016年GDP:2兆6291億ドル ・人口:約6471万人・一人当たりGDP:4万0096ドル
   フランス 2016年GDP:2兆4632億ドル ・人口:約6439万人・一人当たりGDP:3万8128ドル

  これだけでは、フランスが、ドイツの経済的な従属国かどうかは分かり辛いが、このままの独仏の経済状況や経済活力や格差が続くならば、トッドの心配も杞憂ではなかろう。
   いわば、カウンターベイリング・パワーとして働いていた英国が抜けてしまったEUにおいては、フランスの役割が、統合深化へウエイトが増して行くとは思えない。
   ドイツに対して、相対的に弱体化して行くフランスが、ドイツに対等に渉り合える筈がなく、イタリアやスペイン、ポルトガルなどと言った同類のラテン・ヨーロッパさえ糾合して、EUのかじ取りに、パワーを発揮するとも思えないのである。
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わが庭・・・ばらもアジサイも最盛期

2017年06月14日 | わが庭の歳時記
   梅雨に入ったのか入らないのか、はっきりしない天気が続いている。
   しかし、わが庭は、少しずつ、変化をしている。

   まだ、ばらの季節だが、今年は、少し早めに花を切っているので、二番花が咲き続けている。
   一歳になった孫娘の庭歩きの障害になってはダメだと娘に言われているので、ばらの鉢は、日当たりの悪い奥にやられて可哀そうだが、今年は仕方がない。
   何年も前に、初孫が生まれた時に、たまに来るその孫のために、庭植えのばらを全部廃却した時よりは、ましだと思っている。
   
   
   
   
   

   アジサイも、今盛りで、どんどん花が咲き続けている。
   庭植えの大きく育った株は、3株しかなく、ほかのアジサイは、昨年切り花をもらって挿し木した苗木なのだが、6鉢くらいは花が咲いており、まだ、外の鉢のアジサイにも、蕾らしきものが現れているので、どんな花が咲くか、楽しみにしている。
   花が終わったら、わが庭は満杯なので、垣根越しの小川との境界岸に移植しようと思っている。
   白いアジサイに、ほんのりとピンクが乗って、赤い花に変わるのだが、結構、アジサイは、咲き始めから枯れるまで、花の色が変化して行くのが面白い。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   花木では、相変わらず、ビョウヤナギが華麗に咲いている。
   美容柳とも書くようだが、葉が、細長いので柳に見立てられたと言う。
   南天もびっしり花が咲いている。
   しかし、この花は雨に打たれると結実しないので、綺麗な実付きの南天は、わが庭では、なかなか難しい。
   梅は、今年は、かなり実がなっているので、孫が、梅ジュースを作るのを楽しみにしている。
   幼稚園でも、作ると言ったので、レシペを印刷して教えたら、分かったようであった。
   
   
   
   
   
   
   

   スタンドバイしている草花は、アガパンサスとユリ。
   植えっぱなしの株なので、どんな花が咲くのか、よく分からないのが良いのかも知れない。
   
   
   
   

   プランター植えのトマトの実が、大分成熟し始めて、初めて、アイコの実が、少し、色づき始めた。
   キュウリの花も勢いよく咲いていて、20センチ近くの実をつけ始めた。
   瓢箪の花も咲いている。
   白い花で、先日、話題にした夕顔の一種である。
   
   
   
   

   何年も、鉢植えで放っておいたアマリリスを、昨年、庭に移植して置いたら、二輪ラッパのように開花した。
   背丈が、50センチ弱なので、花木や草花に隠れて、可哀そうだと思っているが、活着して開花したので、ほっとしており、周りを整理して、そのまま、球根を残しておこうと思っている。
   オランダのチューリップ公園キューケンホフでは、チューリップやヒヤシンス、スイセン、ムスカリなどの花が終わると、一斉に、派手なアマリリスの花で、温室など園内は埋め尽くされる。
   私には、懐かしい花なのである。
   
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アメリカは「ホモ・エコノミクス」・・・エマニュエル・トッド

2017年06月12日 | 政治・経済・社会
   トッドの「問題は英国ではない、EUなのだ」を読んでいて、一寸、気になった点があった。
   「今日、アメリカの学問は、完全に経済学中心となり、単純な「ホモ・エコノミクス」のモデルを世界中に適用しようとしています。」と言う指摘である。
   さらに、「左派・右派を問わず、フリードマンにしろ、スティグリッツにしろ、クルーグマンにしろ、経済学モデルですべてを説明しようとする。実に貧しいものの見方です。世界中に多様性を認めない、攻撃的で単純な普遍主義です。」と言っている。

   ケインズの時代は、経済学の中心はイギリスにあり、アメリカの学問は、今日のように経済学偏重ではなく、世界の多様性に目を向けていました。」と言っているので、人類の多様な文化文明を排除圧殺して、独善的なアメリカの価値観、特に、経済主導のアメリカのシステムを世界中に押し付けて、アメリカナイズしようとしている。と言っているのであろうか。
   経済学が、アメリカの政治経済社会の中心であるかどうかと言うことには疑問もあるが、アメリカの最も深刻な問題が、ウォールストリートや富者に富が集中した”We are the 99%”の極端な格差社会だとするならば、そうかも知れないと思っている。

   もう一歩踏み込んだ発言は、
   「もし、ルーズベルト時代のアメリカが、民主主義を押し付けようとして、結局イラク国家を破壊したのと同じイデオロギーを採用していたら、日本はどうなっていたでしょうか。日本が日本として存在できたかどうかわかりません。」と、意味深なことを言っていることである。
   全く、文化伝統なり歴史的背景や宗教や価値観など、異質な文化文明のイスラム国家であるイラクに、木に竹を接ぐように、アメリカ流の民主主義を押し付けて、再生を図ろうとして、実質的に、イラク情勢を悪化させて無茶苦茶にしてしまったのであるから、トッドの指摘には異存はない。
   後述するように、文化文明の担い手である個人にとって国家の重要性を強調するトッドにとっては、まして、中東は、国家が弱い地域で、国家建設が困難であり、アラブ世界の本質的特徴だとすれば、「国家なき空白帯」が生まれて、イスラム国の擡頭は当然だと言うことであろう。

   「1930年から1970年にかけて、アメリカは外の世界に開かれていたのですが、今日のアメリカはそうした器量を欠き、知的に貧しくなっています。」
   日本が、終戦で経験したアメリカの占領政策が、あの、オープンで開かれたアメリカン・デモクラシーの影響下で実施されたと言う現実を、トッドが認めており、当時のアメリカは、政治においても、学問においても、賞賛に値すると言っている。

   トッドは、「国家こそ、個人の自由の必要条件であり、個人の成立には国家が必要である。国家によって個人が解放され、国家は、家族、親族、部族と言った関係から、個人を開放する。」ことを、アングロサクソンは忘れている。として、
    自分たちの文化にしか可能でないモデル、すなわち、絶対核家族社会に適したモデルを世界中に広めようとして、アングロサクソンの米英は、ネオリベラリズムとグローバリズムを推進して、ヨーロッパ大陸とアジアの国家主義的なシステムを破壊してきたのだが、今や、それが、米英社会自体を破壊しようとしている。と言う。

   しかし、いずれにしろ、そのアメリカが、どんどん、弱体化して、トランプ政権になってから、さらに、内向きとなり、世界の檜舞台から退場の一途を辿り始めている。
   果たして、ネオリベラリズムに代わる新しい潮流が生まれるのであろうか。
   このネオリベラリズムもグローバリズムも限界に達してしまったのだが、かっては、アングロサクソンの先進性が、国家にあったから、新しい価値あるシステムを生み出してきたと、トッドは、アメリカに期待をしている。

   それはそれとして、Brexitも驚きなら、トランプ大統領の登場も驚きだが、それよりも、トッドの国フランスでの、これまで鎬を削って争っていたエスタブリッシュメントの筈の2大政党が退潮して、彗星のように現れたマクロンが大統領に選出され、そのホカホカのマクロン新党・共和国前進が、一気に、下院の7割を占めると言う信じられないような大変化を、どう考えるべきか。
   轟音を轟かせ地響きを立てて鳴動する、この宇宙船地球号の、直近の政治経済社会の激変と、想像を絶する時流の流れの速さは、トッド人口経済学をもってしても、予測不可能になってしまったような気がしている。
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