熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

米小売りのPB商品、品質が向上~無印良品化現象

2012年01月31日 | 経営・ビジネス
   このタイトルの前半は、WSJ日本電子版の記事のタイトルであるが、私は、これは、いみじくも、大型小売店の無印良品化現象の現れだと思っている。
   ”米国では、倹約のために値段の高い有名ブランドから安いブランドに移行するなど、有名ブランド以外の商品の販売が拡大している。しかし、値段以外の理由でも消費者のPB商品志向が高まりつつあり、食品や消費財メーカーにとって問題となりかねない状況だ。 一部の場合には消費者は値段のより高いPB商品を購入しており、そうした商品の多くはグルメ商品や特製品と位置付けられている。”と言うのである。

   最近、PB商品の値上がり率が非常に高くなってきているにも拘わらず、PB商品の売れ行きが良い理由の調査で、「以前に比べると、(商品を選ぶ上での決め手として)値段という理由はずっと減った。」有名ブランドではなくPB商品を選ぶ要因として価格を挙げなかった。それよりも、その商品に対する志向や良好な経験が選択の理由だった。
   コストが上昇するなかで、小売り各社は見栄えのいいPB商品の導入により市場シェアの拡大と利益率の押し上げを狙っている。また、質の向上に加え、小売り各店はそれぞれのPB商品の一層革新的なパッケージや外見も採用している。有名ブランドとPB商品の価格差が縮小していることをみても、こうした努力が実を結んでいることは明らかだ。 と言うことである。

   さて、それでは、無印良品だが、デイビッド・A・アーカーの「カテゴリー・イノベーション」から引用すれば、ほぼ、次のとおりである。
   「MUJI」は、ノーブランドの良質な商品として、シンプル、自然、洗練と言った価値観を大切にし、最高ではなく「十分」であろうとする機能的な商品を提供することをビジョンとしている。
   この商品は、必要十分なものをきっちりと提供することが分かっていることから得られる満足感を意味している。
   機能と関係ないうわべだけの特徴や属性は除かれる。無印良品では、機能性やデザイン性の本質をつきとめ、シンプルさを追求することで、明らかに個性が際立った世界観が築かれている。
   消費者が通常憧れるような自己表現価値を排除することをはっきりと狙っている。ステイタスシンボルとしてのブランドと言う概念はない。

   ところで、プライベート・ブランドは、デジタル大辞泉によると、”スーパー・デパートなどがみずから企画生産して販売する独自のブランド商品。一般にメーカー製品(ナショナルブランド)より割安になる。商業者商標。自家商標。自主企画商品。PB。”と言うことになり、必ずしも、無印良品と同じとは言えないのだが、少なくとも、ナショナル・ブランドとは違って、高級品ではないが、販売者が、十分だと考えられる商品を開発して、比較的手ごろな値段で販売している信頼のおける商品であるところは、良く似たコンセプト、ビジョンである。
   私の近くには、イオンがあるので、品物にもよるのだが、ここで、イオンのPB商品である「トップバリュ」商品を、無印良品と同じような感覚で買っている。
   例えば、コーヒーやジャムは、メーカーに拘るが、はちみつはPBで済ますし、乾電池やパソコン用紙などもPBだし、日用雑貨などの商品は、トップバリュ製品で十分であり、それに、イオンが企画し販売している商品であるから、無茶なおかしな商品はないであろうし、PBである分割安であろうと、会社そのものを信じて買っており、コスト・パーフォーマンスが高いと思っている。
   先のWSJの記事のアメリカのスーパーなどのように、更に、PB商品が、グレイドアップすると言うのなら、願ってもないことである。

   これも、アーカーが論じているのだが、「妥協効果」と言う心理的現象があって、消費者は一般に妥協を好み、最高価格の高級品と最低価格の商品との間のものを選ぶ。
   したがって、一般的に、消費者は極端な選択肢を避ける傾向があるので、あるブランドが、一番上、或いは一番下にならないような選択肢が加えられると、そのブランドの魅力は高まる。と言うことで、丁度、スーパーのPBは、この位置にあり、どこの商品を買っても殆ど差のないような日常雑貨や消耗品、コモディティ商品などは、割安でお買い得と言うことなら、PB商品を買う消費者が増えるのは当然であろう。
   それに、アメリカのように質が向上し、無印良品のようなコンセプトとビジョンで、今まで以上にハイグレイドのPBが生まれるのなら、同等のNB商品よりは割安であろうから、PBの快進撃が起こっても不思議はない。
   いずれにしろ、小売業では、消費者に一番身近に直結している企業が最も強い影響力とパワーを持っているのだから、NBのメーカーも、進行しつつある商業革命に、おちおちとしておれない筈である。
  
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観世銕之丞著「ようこそ 能の世界へ」

2012年01月30日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   狂言に続いて、能のことを少し勉強しようと思って、アマゾンを叩いていたら、この本が目についたので、早速、読み始めたのだが、非常に、奥の深いしみじみと能の世界と芸術について真摯に語った滋味深い本である。
   この本の出版されたのは、2000年7月で、その年に、著者である人間国宝観世銕之丞さんは亡くなったので、白鳥の歌である。

   能は、はじめはふつうのお芝居のようにみて、そして楽しんでくださいと言う書き出しで始まり、冒頭で、能はミュージカルのようなものだと仰るのだが、私は、ブロードウェイやウエストエンドなどでも、結構、ミュージカルは見てきてはいるのだが、最初から、分かったようで分からない話である。
   ところが、戸惑いながら読み進んで行く内に、引きずり込まれてしまって、読み終わったら、能とは、そんなに素晴らしいものなのか、これからは、心して鑑賞しようと思うようになったのだから不思議である。

   尤も、その少し前に読んでいた「狂言三人三様」の「茂山千作の巻」で、茂山千之丞さんが、今の能の伝統は江戸時代の式楽の伝統で、いっぺん観阿弥、世阿弥の中世に帰らないと、将来は暗いと言っており、銕之丞さんが、狂言は最低3人いたらできて、自分と気の合った、注文を出せる人とやれるけれど、能は、そうはいかず、口を利きたくないという奴と一緒に一つの舞台を作らないといけない、狂言はいいなあ、と何時も言っていたと紹介していたのを思い出したのだけれど。

   興味深い話が、沢山語られているのだが、まず、能役者が面をつける時には、面の外側に顎の部分が出ていないとダメで、面の外側に生身の人間の皮膚の部分がでていないと、面が死んでしまうと言う話である。
   面をつけると中は真っ暗で何も見えず孤独状態におかれるのだが、その暗闇の宇宙から、役者が訴えたいこと、表現したいことを、面の裏側からぶっつけるわけで、面が表で、演じる能役者が裏、そのせめぎあいのなかで能を演じて行くのだと言う。
   木で作った面をかけること自体が絶対に嘘だが、役者が面をつけて舞台に立つと、その面に色々な表情が出てくる。その役者の生きて来た時間、理念や感覚、そういうことが、面とぶつかることによって表に出てくるのだが、どこかに役者の生身の部分が露出していないと闘えない。
   役者の実体と、役として扮した人物との距離を埋めて行く。役として扮した人物だと錯覚を起させるための技術と言うか演技が役者に必要だが、それとともに、自分の美学を露出すると言うことも、等間隔くらいのところで持っていないとだめだと言うのである。

   余談だが、これに関連する話だが、山崎有一郎・葛西聖司の「能・狂言なんでも質問箱」で、葛西の、面からはみ出した部分が気になる、能面が小さいのは昔の人が小柄だったのか、今の方の体格に合わせた面ではいけないのかと言った頓珍漢な質問に対して、山崎が、大きな面に良い面はない、やっぱり演者はほっそりと痩せるしかしようがない、といい加減な回答をしている。その後で、多少マシな会話にはなっているが、能に関する識者と言われる人たちがこの程度だとすると、何とも覚束ないが、銕之丞さんの話は、二桁も三桁も桁が違うと言うことである。
   銕之丞さんの本には、面だけにしても、「能面のことをお話しましょう」「女面のなかにあるさまざまなマジック」の章もあり、他にも色々な能の曲をひきながら、奥深い能面の珠玉のような話が鏤められていて、感動的である。

   さて、最後の方の「私が演じてきた舞台」の章で、西本願寺の国宝・北能舞台で演じた「羽衣」など、野外劇場での思い出を語っている。
   野外の舞台で演じていて「いいなあ」と思うのは、風が吹けば袖がひらりとする、そういう自然と融合していく感じががとてもよい。春は春なりに、秋は秋なりに、自然が私たちにゆり戻してくれる何かがあって、・・・演じていても、なにかとても力強いというか、いろんな力を自然に借りることができるという気がすると言って、岡山の後楽園の野外の能舞台での「野宮」の、遅い午後から薄暮までの感動的な舞台を語っている。

   私など、鑑賞者の立場だけれど、一回だけ、赤坂の氷川神社で薪能を見た経験がある。
   しかし、海外では、夏には野外コンサートやオペラが頻繁に開かれるので、かなりの経験はあり、やはり、劇場とは違った開放感があり、雰囲気が良いと非常に楽しめる。
   フィラデルフィアのロビンフッドデルでのフィラデルフィア管を皮切りに、ロンドンでは、ロンドン塔でのオペラ、ケンウッド・パークでのロイヤル・オペラ(ドミンゴ)、ハンプトンコート宮でのホセ・カレーラス、ヴェローナの野外劇場のオペラ等々のような正式なものから、旅の途中での古城や宮殿などでの野外コンサートなど色々あったが、鑑賞する方も特別なハイテンションで楽しんでいるのだから、演じる方の音楽家たちも、特別な感慨があるのだろうと思う。
   同じシェイクスピア戯曲でも、青天井のロンドンのグローブ座で観るのと、ストラトフォード・アポン・エイボンのRSC大劇場で観るのとでは全く印象も感慨も違う。太陽は照りつけるは、雨は横殴りで吹き降るはの野外劇場で、冒頭の漆黒の闇の場のハムレットを聴くなどと言うのは、感激を越えてしまっていて悲壮でさえある。
   
(追記)口絵写真は、同書の写真「羽衣」を部分転写して借用。
   
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何故オランダがかって世界帝国になったのか

2012年01月29日 | 政治・経済・社会
   ヨーロッパの小国オランダは、その絶頂期は、1625年から1675年までの短い期間だったが、世界の海上覇権、商業覇権を揺るぎないものとした正に世界帝国であった。
   勿論、オランダは、小国であったので、大陸ヨーロッパを征服しようとしたことは一度もなかったし、スペイン、フランス、イギリスなどの大国を海戦で勝利して跳ね返す程度ではあったが、重要なことは、中世期のベネチアのように、領土ではなく通商権益の拡張と確保に貧欲だったと言うことである。
   当時、全世界の貿易船の総数が2万あったのに対して、オランダ船は1万5千以上あり、海軍力もイギリスとフランスの海軍力の合計に匹敵していたと言うから、完全に制海権は握っていたのである。

   それでは、どうして、オランダが短期間に世界一の最強国に躍り出たのか、その秘密は何であったのであろうか。
   それまでは、どの世界帝国も、文化文明的にも最先端を行っていて、近隣諸国を征服して、その地位を確立していたのだが、オランダは、これとは全く違った手法、寛容戦略によって、世界覇権を実現したのだと、エイミー・チェアは、「最強国の条件 DAY OF EPPIRE」で、その詳細を論じている。
   この本は、歴史上の最強国を論じて、その世界支配への道程に置いて、寛容さが決定的に重要であったと説いているのだが、オランダの場合には、その典型的な例であり、私自身、3年間在住して、オランダを多少なりとも知っているので、ブックレビューは後日に譲るとして、このオランダのケースについて論じて、日本の今後のブレイクスルーには、この世界へ向かっての寛容戦略の実施以外にないことを考えてみたいと思っている。

   まず、念頭に置くべきは、当時のスペインの凄まじい異端審問と異教徒追放で、1492年に、フェルナンド王とイサベラ女王は、国内のユダヤ教徒に対して、改宗するか4か月以内に国外退去するかの選択を迫り、1502年にイスラム教徒へも改宗か国外退去化を迫ったので、20万人と言うユダヤ教徒を筆頭に多くの豊かな市民や有能な人材がスペインを離れたことである。
   1492年のコロンブスのアメリカ遠征も、ユダヤ人金融業者のサポートあっての偉業であったにも拘わらずである。16世紀以降、南北両アメリカ大陸で領土を拡大したが、艦隊派遣や戦争で膨大な資金を要して借財したので、新大陸で得た金銀は殆ど抵当に取り上げられてしまっていて、1557年にスペイン王室が破産して、再びユダヤ金融に頼らざるを得なくなった。
   しかし、この金融で得た莫大な資金を、ユダヤ人たちは、スペインやポルトガルが支配していたブラジルの砂糖、アジアの香辛料、アフリカの奴隷貿易に再投資して巨富を築いていたのだが、スペインは、1590年に、再び、休眠中だった異端審問所を再開し、弾圧と拷問、死刑の大波を展開し、カトリック教の防衛を至上命令として独仏蘭でも新教徒を相手とする大戦争を仕掛けるなどして異教徒弾圧を行って、凋落への道を突っ走って行ったのである。
   スペイン衰退の真犯人は、技術的な後進性、封建的な伝統の根強さ、巨額の対外債務、人口減少、国家機構の弱体、産業部門や企業家層の欠落、慢性的な財政危機などと言われているが、しかし、それもこれも、1480年代にはじまったスペイン王室の狂信的な宗教浄化政策のなせる業だったのである。

   17世紀のヨーロッパでは、宗教戦争、異教徒の迫害、そして狂信の嵐が吹き荒れていたのだが、1579年に建国したオランダには、元々、国の教会もなければ、ユトレヒト同盟で、信仰は自由であり、その信ずる宗教によって捜査や弾圧の対象にもなければ、改革派教会への改宗の強制も、非改宗者への罰金もないと規定されており、この例外とも言うべき宗教的寛容政策のお蔭で、ヨーロッパ中から、多くの有能な起業家精神あふれるユダヤ人など被差別民が、大挙して流入して来た。
   フランスからユグノー、ドイツからルター派、南欧や東欧からはユダヤ教徒、イギリスからはクエカーやピュリタンなどがやって来たが、特に、豊かなイベリア半島からのユダヤ人は、世界で最も裕福で、優雅で博識、洗練された商人や金融業者であったので、膨大な資金を新国家に注ぎ込み、一挙に、オランダを経済大国にのし上げた。
   世界最初のバブル経済事件として有名なチューリップ・バブルは、このオランダで1637年に起こったのだが、証券取引所も設立されるなど、当時のオランダの経済が如何に先進的であったかを垣間見るのに格好のケースであろう。
   アムステルダムが、ダイヤモンドの取引および研磨の中心となり金融や貿易の核となり、オランダは、砂糖精製から武器製造、化学工業、繊維工業など、ありとあらゆる産業においてヨーロッパ一の地位に上り詰めたのである。

   元々、オランダのビジネス・モデルは、オランダの船を世界の隅々まで派遣して、東インドの胡椒や香辛料、ブラジルとサントメ島の砂糖、トルコのモヘア生地、カステリアの羊毛、インドの綿とダイヤの原石と言った高価な商品を持ち帰り、豪華な製品に仕上げて転売・再輸出すると言う貿易立国であったから、ヨーロッパの贅沢品市場を完全に抑えてしまったのである。
   これらの多くの利権や政治経済の中心は、その後、そっくりとイギリスに移ってはしまうが、宗教的寛容政策と自由な市民社会が、一時期とは言え、車でならどこからでも1時間以内に国境を越えてしまうほんの人口数百万人の小国オランダが、いわば、経済的なメディチ・エフェクトを現出して、文化文明の華を大きく開花させたと言う厳粛なる歴史的事実は重い。
   
   結局、このオランダの場合も、或いは、メディチ・エフェクトを現出してルネサンスの華を開花させたフィレンツェも、或いは、今様の産業ユートピアとも言うべきシリコンバレーも、有能でかつ最もイノベイティブな活力漲った起業家や芸術家や技術者を引き付け糾合するためには、門戸を開放するのみならず、魅力的な、そこに行けば、あらゆる可能性に挑戦出来て、チャレンジ&レスポンスで、どんなことへでも活路を開けると言う夢がなければならないと言うことであろう。
   本日、インドネシア人とフィリピン人の外国人介護福祉士候補者95人が、介護福祉士の国家試験を初めて受験したと報道されていたが、折角、本国でも極めて有能な看護師や介護福祉士が、日本に来て3年間も研修と実務を行っていながらも、漢字の問題(?)で、追い返すと言うような日本の現状では、お先真っ暗であろうと思っている。
   学位や資格の相互乗り入れなど、いくらでも方法があると思うのだが、有能な素晴らしい外国人を沢山糾合できるような日本に変えない限り、日本の発展はないと言っても過言ではなかろう。

   オランダの話から、飛躍してしまったのだが、国粋主義と言うか、言い換えれば、対外コンプレックスの強い、外国嫌いで内向き志向の日本の国民性を、今こそ変えるべき時期に来ていると思っている。
   ヨーロッパに行けば分かるが、どこへ行っても、殆ど、元からの、あるいは、長く住んでいる本国人など極少ないのが普通で、日本人ばかりいる日本の方が異常なのかも知れないと思うことがある。
   大国アメリカやブラジルなど、原住民など、0.0…%であり、皆、他所からの流れものなのである。
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国立能楽堂~万作と萬斎の「隠狸」

2012年01月28日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の国立能楽堂の鑑賞は、20日の定例公演で、狂言「隠狸」と能「巴」であった。
   私の場合、能狂言の鑑賞は日が浅いので、何とも言えないが、歌舞伎や文楽の会場とは雰囲気が違っていて、お客さんの層や質も大分違うようである。
   それに、舞台と客席の間に敷き詰めた白砂もそうだが、厳粛な雰囲気が良い。
   同じ日本の古典芸能とも言うべきパーフォーマンス・アートで、色々な意味で先輩格でもある能狂言に触れずして、歌舞伎や文楽の鑑賞も中途半端であろうと思って、昨秋から能楽堂に出かけ、また、能狂言関係や世阿弥の本なども精力的に読み始めているのだが、やはり、色々な発見や気付きなどがあって面白い。

   観世銕之丞によると、能が生まれたのは室町と言う戦乱の多い殺伐とした時代で、死者の世界から現世を見ると言う演劇のスタイルだが、歌舞伎が栄えたのは、元禄や文化文政の庶民文化の爛熟期で、庶民の芝居へのエネルギーが充満していた時期であり、その違いは、室町時代の水墨画と江戸時代の浮世絵との対比でみると良く分かると言うことである。
   狂言の歴史はもっと古いようだし、実際には、猿楽田楽から考えるべきなのであろうが、やはり、能が観阿弥・世阿弥を頂点だと考えれば、その後、京都を焼き尽くした応仁の乱があり、豊かな安土桃山の黄金期を経て、太平の江戸時代の中で研ぎ澄まされて来たのであろうから、歌舞伎や文楽との違いは大きい。

   さて、狂言「隠狸」であるが、シテ/太郎冠者が野村万作、アド/主が野村萬斎で、非常に密度の高い素晴らしい舞台を見せてくれた。
   話は極めて単純。
   太郎冠者が、狸釣りの名手だと知った主が、客に狸汁を振る舞うので狸を釣ってくれと命令するのだが、太郎冠者は釣ったことも釣り方も知らぬ存ぜぬで押し通すので、それでは市で買って来いと言うことになる。
   実は、1匹釣ってあったので、売ろうとして市に出かけるのだが、委細承知の主が先回りしていて、狸売りの太郎冠者と鉢合わせ。
   慌てた太郎冠者は、その狸を後に隠して言い逃れようとするので、主は、太郎冠者に酒を振る舞って兎の舞などを舞わせると、酔いの回ってきた太郎冠者が、最初は舞いながらも必死に隠していた狸のことを忘れてしまって、主に隠狸を見つけられて取り上げられてしまう。 

   殺生禁断の戒めが強かった中世のことだったので獣を捕ることが忌み嫌われていたとかで、この曲は、大蔵流にはなく和泉流だけのようである。
   大体、封建時代で絶対服従の雇人が、副業とも言うべき狸釣りをしているなどは、いわば、職務規律違反であり許される筈がないとか、持っている狸をそのまま市で買って来たと言って主に渡せば良いじゃないかとか、なぜ、市のど真ん中で、酒を飲んで舞を舞うのかとか、或いは、酒を飲まなくても狸を腰の後ろにいつまでも隠せる筈がないとか、と言った下司の勘繰りや屁理屈は、狂言には、絶対無用であって、とにかく、話の筋をありのままに楽しむことのようである。
   同じ芝居であっても、リアリズムなどと言った次元ではなくて、芸の確かさ面白さ、そこはかとなく湧き出してくる何とも名状し難い可笑しさ面白さを楽しむのが狂言であろうか。

   上手く説明が出来ないのが残念だが、とにかく、白を切り通そうとしてあの手この手で防戦する万作の至芸が秀逸で、隠狸と主の視線を気にしながら舞を楽しみ、少しずつ酔いが回って来てわれを忘れて行く仕種の微妙な変化など、見ていて非常に面白い。
   それに、総てお見通しであるから、終始笑みをたたえながら(?)、太郎冠者にボロを出させようと、追い込んで行く主の萬斎との掛け合いの絶妙な駆け引きなど、厳しい筈の封建社会のバックグラウンドを忘れさせて、現代的なアイロニーやウイットの香りさえ感じさせて、流石である。
   問題の小道具の狸。こげ茶色のどちらかと言えばスマートな可愛いぬいぐるみで、太郎冠者の右腰にぶら下げられているのだが、太郎冠者が位置を上手く変えて動けば、丁度、主には見えなくなっているのが面白い。
   こう言う主従の知恵の出し合いのような人間的な絡みなどは、あのボーマルシェのフィガロの結婚などの世界と同じように、その時代の厳しい現実を、どこかで茶化しながら庶民のくぐもった諧謔的な笑いを表現する恰好の試みだったのかも知れない。

   ところで、その後の能「巴」だが、夢幻能と言うことであろうか、粟津の浜の社で、旅の僧の前に、現れた祈りを捧げて涙ぐむ女人が、この世に亡き人だと明かして消えて行き、中入り後、鎧に身を固めた女武者・巴の霊として現れて、最後まで義仲に付き添ってその自害を見届けて木曽に落ち延びるまでを語り、自らの執心を弔ってくれと僧に頼む。
   前場の動きのない舞台とは違って、後場の巴御前(辰巳満次郎)は勇壮で、実に美しく感動的であった。

   私は、平家物語の「兼平」の義仲都落ちや義仲最後で語られている巴の勇猛果敢で大変な荒武者ぶりを知っていたので、そのイメージで見ていた。
   平家物語では、一の谷の合戦より少し前だが、ここに、巴御前の描写がいくらかある。
   義仲が討たれた粟津で、最後の5騎7騎までに残ったのだが、義仲に「自分は討ち死にする覚悟だが、お前は女であるから一緒に死ぬのは、最後に女を連れて討ち死にしたと言われて拙い。どこへなりと落ち延びて、義仲の死後の供養をしてくれ」と言われるのだが、巴はなおも踏み止まって、「最後のいくさしてみせ奉らん」と言って、大力と評判の敵将・恩田八郎師重が現れると、馬を押し並べて引き落とし、首をねじ切って捨てさり、その後、巴は鎧・甲を脱ぎ捨てて、最後に泣く泣く暇乞いして東国へ落ち延びて行く。
   もう一つの描写は、「年齢22~3で、色白で髪長く、大変な美人である。大力で強弓精兵、険路をものともしない屈強の荒馬乗りである。戦となれば、鉄製の鎧を身に着け、大太刀・強弓を持ち一方の大将として戦い、その高名手柄は抜群であった。」と言うのである。
   諸行無常、琵琶法師も、涙を押し殺して、義仲の最後を語ったのであろうと思う。
   
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ジテンドラ・シンほか著「インド・ウェイ 飛躍の経営」

2012年01月26日 | 書評(ブックレビュー)・読書
    この本の冒頭の第1章は、2008年11月に起こったムンバイのテロ事件の時に、インドの傑出したビジネスリーダー・アニル・アンバニが、ウォートン・スクールでの式典でスピーチすべく渡米の直前だったが、シン首相に、インドにこの非常時に「国家安定の守り神」として留まって欲しいと依頼された逸話で始まっている。
   米国では、金融危機を契機に、高額報酬や社用ジエット、破格の待遇であるゴールデン・パラシュート取得など強欲で倫理欠如などで、経営者が社会的信頼を失墜させていた時期に、インドでは、大企業のリーダーは、国家的達成や不屈の精神の象徴として、尊敬を集めていると言う。
   多くのインド企業は、国家の成長こそが、自分たち自身の収益拡大には必要不可欠で、国土の開発と国力の発展のために、ビジネスのみならず、国家的リーダーシップも発揮していると言うのである。
   この考え方は、米国の経営者は、自らを多数の制度的株主のエージェントだと見做しているが、インドでは、株主よりも広義のステイクホールダーを重視し、更に、株主価値よりも社会的価値の重きを置くと言う姿勢にも表れている。

   この本は、わが母校でもあるウォートン・スクールの4人の経営学教授が、インド財界の著名なトップは勿論、インドの時価総額ベースで上場企業トップ150にアプローチして、100人以上のエグゼクティブへの十分なインタビューで得た情報を基にして、インド企業の経営および経営者の実体を集大成し体系化したもので、著者たちは、米国主体の経営学と対比させながら、時には、それを越えたインドの新しいマネジメント手法「インド・ウェイ」が「アメリカン・ウェイ」を照らす光となると言ったプロパガンダさえ展開している。
   私など、ダニエル・ラクの「インド特急便!」や、エドワード・ルースの「インド 厄介な経済大国」などを読んでいて、如何に、インドが、遅れた(?)、極めて深刻な多くの問題を抱えた発展途上国であるかを、垣間見ているので、この口絵写真に登場しているジテンドラ・シン教授(右)やハビール・シン教授の説いていたこの本の主題を、そのまま、信じるつもりにはなれないのだが、一つのインド経営の姿として、それも、新しい新興国のビジネスモデルの方向として理解しようと思ったのだが、そう考えると非常に示唆に富んだ経営戦略などが浮かび上がってくる。
   
   著者たちは、インド特有の経営手法を「インド・ウェイ THE INDIA WAY」と称しているのだが、その手法の根幹をなすのは、高遠な使命、従業員へのホリスティック・エンゲージメント、即興性と適応力(ジュガードの精神)、創造的な価値提案の4つの原則で、これらについて、克明に分析評価している。
   しかし、これらの精神が一挙に爆発して、インド人企業家を企業の活性化と経済成長に邁進させたのは、須らく、1991年のインド経済の自由化への転換であって、丁度、ベルリンの壁が崩壊し、世界経済のグローバル化に呼応して、インド企業が一斉に激烈な競争とビジネスチャンス到来に遭遇し、インド人本来のパワフルな起業家精神に火がついたのである。
   成功した企業は、少ないインプットで高い柔軟性を駆使するインド的競争様式を、より国際的な競争様式、すなわち、テクノロジーと人財資本をレベルアップするとともに賃金を世界標準に近づけ、製品とサービスを向上させると言った様式の調和に成功したのだと言う。
   
   インド企業には、人財資本が総てだと言う考えが強く、インド企業の強さは、単位生産コストが安いからではなく、1単位当たりのイノベーションを生み出すコストが安く、イノベーションを起す能力の高さにあると言う。
   特に、ローエンドのコストでハイエンドの製品やサービスを生み出すと言うインド特有のイノベーション志向は、プラハラードの説くBOPマーケットを席巻しつつあるイノベーションや、GEが先行して火を点けたインド発のリバース・イノベーションの頻発に如実に示されていて、クリステンセンの破壊的イノベーションが、今後、益々、新興国で生まれるであろうと言う兆候の現れで、非常に興味深い。

   インドは、1000年近くのあいだ、度重なる侵略や政治的従属、経済的搾取に見舞われ、近代に至っても東インド会社や大英帝国の支配下にあり、独立後も、ネルーの閉鎖的社会主義政治で門戸を閉ざして、殆ど、国際場裏での活躍の場から締め出されていたのだが、1991年以降の自由化と国際経済のグローバリゼーションの潮流に乗って、一気に、国際舞台に登場し、インド企業の多くが、全く、ゼロの白紙状態から、起業してグローバル経済に躍り出たことを考えれば、著者たちの説く「インド・ウェイ」は、インド独特の文化文明と欧米主導の現代文化文明とのハイブリッドだと言えるであろうか。
   しかし、それも、理論や戦略があって生まれた「インド・ウェイ」ではなくて、試行錯誤、失敗に失敗を重ねて我武者羅に生き抜いてきたインド企業が生み出したビジネス手法であろう。

   ネルーの名誉のために言えば、人財しか資源のなかったインドにIIT(インド工科大学)を設立し、世界中に俊英をばら撒き、特に、シリコンバレー・リンクでインドを一気にIT大国に押し上げたこの重大事が、現在のインド経済およびインドビジネスの起爆剤の一つであることには疑問の余地がない。

   著者たちは、どんな国のマネージャーもインドの事例から、大義、文化、合議の力、そして、次のことを有効に学ぶ事が出来ると言っているが、これが事実なら、「インド・ウェイ」を生み出したインドおよびインド人は凄いと言うことである。
   ①創造的な価値提案と迅速な意思決定。
   ②従業員を負債ではなく資産とする価値観。
   ③四半期ではなく、より長期的に物事を構築することの有効性。
   ④株主価値よりも企業忠誠心のベネフィット。
   ⑤私的な目的よりも国家的使命の優位性。
   
   このあたりの特質は、本来の日本経営に良く似ているのだが、やはり、仏教など同根とする東洋の思想的背景があればこそかも知れないが、その差の検証も重要となろう。
   
   
   
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わが庭の歳時記~雪の朝

2012年01月24日 | わが庭の歳時記
   昨夜、雪がちらついていたので、朝は、うっすらと雪景色である。
   咲き始めた覆輪侘助の花の上に舞い降りた雪が、みぞれ状になって、解け始めていた。
   道路の雪は解けていたが、わが庭の木々は、雪帽子を被っていたし、一面に広がる田畑は、真っ白い平原。
   少し寒くて、手が痛くなったが、久しぶりに、爽やかな青空が広がっている。

   この二日間、雨が降ったので、当分、庭の花木や植木鉢の植物にも水やりが必要がないので、ほっとしている。
   冬の間は、夜に凍結するので、温かい朝方に、水をやるのが良いのだが、植物の種類などによって、注意をしなければならないので、結構厄介であり、天然の雨が、一番良いのである。

   霜で浮き上がったチューリップの球根が、飛び出している。
   植え替えようと掘り上げたら、真っ白な細いひげ状の根が、びっしりと伸びている。
   スノードロップやクロッカスなどの芽が顔を出し始めたのだが、もう、春の花の球根は動き始めているのである。
   雪を掻き分けて地面に触れると、何となく温かい。

   急に、10匹ほどの小鳥が、枝垂れ梅の木に飛び込んできた。
   メジロ程の大きさで、同じように、敏捷に、枝を渡って、飛び去って行った。
   後で調べたら、小鳥ながら尾が長いエナガであった。
   
   枇杷の花が、少しずつ実を結び始めている。
   まだ、植えて5年くらいなのだが、大きくなり過ぎて、隣の曙椿よりも高くなった。
   剪定すべきだと思うのだが、今年、びっしりと花が付いたので、実が成れば、小鳥たちが飛んでくるので、このままにしておこうと思う。
   この冬は、まだ、里山には小鳥の餌があるのか、庭の万両には、実がびっしりと付いたままである。
   それにしても、小鳥たちが落として行った種で、あっちこっちに、万両やアオキ、南天、ヤツデなどが芽を出しており、それに、種が落ちて発芽した椿などを加えると、期せずして生えて来た小さな花木の苗が、沢山出て来ているのだが、自然植生に任せて、当分、これも手をつけずにおこうと思っている。
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初春大歌舞伎・・・吉右衛門と鷹之資の「連獅子」ほか

2012年01月23日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今回、私が楽しみにしていた舞台は、中村富十郎一周忌追善狂言の「連獅子」であった。
   後ろ盾を失った歌舞伎役者の子供の境遇は、天から地への激変で、それ程、厳しく熾烈なものであることは、猿之助の本や、芝翫のドキュメントなどで語られていたので、富十郎の子息鷹之資の将来を心配していたのだが、同じく先代を早くに亡くして苦労した吉右衛門だからであろう、しっかりと父親代わりの後見役であろうか、一緒に、連獅子を踊っていて、正に、感激であった。
   聖路加病院の日野原先生と富十郎の対談を読んだのだが、その中で、富十郎が90歳になった時に丁度鷹之資が20歳になり、初代富十郎の生誕300年祭なので、その時まで長生きして、富十郎を継がせたいと言っているのを思い出したのだが、当時は、70歳で長男をもうけた精力絶倫とも言うべき富十郎であるから大丈夫だと思ったのだが、人生は無常である。

   2005年顔見世興行の時に、鷹之資の披露口上があったのだが、その時の演目で、幸四郎と染五郎が連獅子を舞ったのだが、これも、何かの縁であろうか。
   この連獅子は、獅子が、自分の子獅子を、千尋の谷底へ突き落として、自力で登ってきた強い子獅子だけを育てると言う伝説を舞踊に仕立てたもので、特に、親子の役者が演じれば、正に、感動ものなのだが、鷹之資は、亡き父を思い、吉右衛門は、富十郎に成り代わったつもりで、二人とも万感の思いを胸に秘めて舞い続けたのであろうと思う。
   やはり、歳には勝てないのであろうか、激しく優雅な毛振りの後、吉右衛門は呼吸をやや乱して奮闘ぶりを見せていたが、鷹之資の方は、けろりと爽やかな顔をしていた。
   富十郎の芸の継承の一端か、多少、稚拙さはあっても実に優雅で流れるような鷹之資の舞姿は、流石であり、先の元禄忠臣蔵での細川内記での颯爽とした姿など、大器の片りんを見せていて頼もしい。
   
   マーロン・ブランドが、71歳で、アンソニー・クイーンが81歳で子供を儲けたと、こと細かく富十郎が語り「男性が70台で子供をもうけることは、もちろん生理的に可能ですよ、その機会が少ないだけで。」と日野原先生が応えていたが、いずれにしろ、普通では考えられないような稀有のケースであるから、栴檀は双葉より芳しと言うし、天下の名優富十郎の忘れ形見の鷹之資であるから、歌舞伎界としても、大切に育てて欲しいと思っている。
   
   ところで、新橋演舞場の歌舞伎の「夜の部」の最初は、「矢の根」で、三津五郎が、中々颯爽とした豪快な曽我五郎を演じていて見ものであった。
   五郎が家で大きな矢の根を、父の敵、工藤祐経を討つために研いでいて、そのうち寝込んでしまうと、夢の中に兄の十郎(田之助)が現れて「工藤の館に捕まっているから助けに来てくれ」と言い残して消える。五郎は驚いて跳ね起き、通りがかった馬子から奪った馬に乗って、十郎を救いに駆け出す。 と言う単純な芝居で、いわば、隈取をして典型的な荒事スタイルで、三津五郎が見得を切り続けると言う舞台である。

   さて、最後の演目は、「め組の喧嘩」で、実際に、1805年3月に起きた町火消し「め組」の鳶職と江戸相撲の力士たちの乱闘事件を題材にして、派手な町火消し達と力士達の喧嘩を見せる芝居。
   男と男の命をかけた真剣勝負を粋にそしてユーモラスに描いた世話物の人気作だと言うのだが、私にしてみれば、どう気風が良くて粋で恰好良いのか分からないのだが、劇場では、ヤンヤの喝采である。

   話そのものが、極めて稚拙と言うか、つまらないことから喧嘩が始まって、大の大人たちが命を懸けて争うと言うことなのだが、火事と喧嘩は江戸の華と言うくらいのもので、太平天国で惰眠を貪っていた江戸庶民にしてみれば、事件や揉め事自体が、恰好のカレント・トピックスであり、娯楽であったのであろう。
   歌舞伎ファンには、そんなことを言うのなら見るなと怒られそうだが、いなせな鳶の者の生活が描写された世話物の傑作だと言うけれど、話の中身が詰まらないと思って見ていると、いくら、意欲的な舞台であっても、すんなりと、芝居の良さが入って来ない。

   主人公のめ組の頭・辰五郎(菊五郎)だが、品川の料亭で、力士の四ッ車大八(左團次)とめ組の若い者がささいなことから口論喧嘩となり仲裁に入るが、同席の武士に「力士と鳶風情では身分が違う。」と言われて腹を立てて、その後、芝居小屋でも四ツ車たちと喧嘩が再燃し、遺恨に思って、品川郊外の八つ山下で四ッ車を襲撃する。
   女房のお仲(時蔵)に意気地がないから離縁すると家出されそうになり、居合せた兄弟分の亀右衛門(團蔵)にも非難されたので、辛抱していた辰五郎だが、ついに以前から用意していた離縁状を逆に突き付けて、町火消しの意地から命がけの喧嘩を決意していたと心中を語り、喜んだお仲たちに見送られて颯爽と神明社に向かう。
   結局、神明社内で辰五郎ひきいる町火消しと九竜山・四ッ車ら力士との派手な大喧嘩が展開されるのだが、町奉行と寺社奉行の法被を重ね着した喜三郎(梅玉)の仲裁で、矛を収めて幕となる。
   
   実際のめ組の喧嘩事件とは、多少違った芝居での展開ではある。それに、辰五郎が、お仲にけしかけられる前に、喜三郎に会っていて、喧嘩を止められていたので、最初は逡巡していたのだが、しかし、どう考えても、喧嘩の種は、力士との争いを引き金にした町人火消しへの武士の差別発言で、それを遺恨に持って自分から進んで仕掛けて行った喧嘩であり、町火消しの頭としての風格も面目もあったものではない。
   確かに、菊五郎演じる辰五郎は、粋で貫録のある恰好の良い鳶頭であり、菊之助演じる柴井町藤松も中々いなせで颯爽として魅せてくれ、妻の方から喧嘩をけしかける等論外としても時蔵のお仲の気風の良さも爽やかで良いのだが、話に拘ると、どこか、私には白々しくなってしまう。
   これとは別に、力士を演じた四ツ車大八の左團次と九竜山浪右衛門の又五郎は、中々、面白い良い味を出していた。

   興味深いのは、火消しは江戸町奉行、相撲側は寺社奉行と、それぞれを管轄する役所が違うので、止めに入った喜三郎が二枚の法被を着ていたのだが、その後の実際のお裁きは、事件の発端が火消し側にあり、非常時以外での使用を禁じられていた火の見櫓の早鐘を私闘のために使用したなどで、町火消しに厳しかったようだが、力士側に音羽山と言う冷静沈着なスポークスマン的力士がいて、中に入って力士をなだめたり訴訟の仲立ちをしたと言う話が残っていて、今も昔も、有能な管理者が組織には必須だと言うことを物語っていて面白い。
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国立劇場初春歌舞伎~「三人吉三巴白波」「奴凧廓春風」

2012年01月22日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   初春の国立劇場の歌舞伎は、河竹黙阿弥の作品で、三人吉三は全編通しの狂言であり、奴凧の方は82年ぶりの復活上演と言うのであるから、非常に熱の入った密度の高い舞台で、楽しませてくれた。
   三人吉三は、大体、序幕の「大川端庚申塚の場」だけ演じられることが多く、三人の白波・悪党が勢ぞろいする舞台に人気があるのだが、乙女姿のお嬢吉三(福助)が、夜鷹・おとせ(高麗蔵)から百両を奪って川に突き落とし、その後で、謡うように語る「厄払い」の台詞が有名である。
   これまで、色々な役者の三人吉三を見て来たが、本来の、役者を揃えて見せる舞台を演出する従来のものよりは、幸四郎の和尚吉三、染五郎のお坊吉三、それに、この福助のお嬢吉三は、物語的にも、非常にバランスの取れた適役だと思っている。

   お嬢吉三がポーズを取って身構えると、待ってましたとばかりに、観客は、河竹黙阿弥の流麗な美文調の台詞を拝聴して感激する。
   ”月も朧に 白魚の 篝も霞む 春の空 冷てえ風に ほろ酔いの 心持ちよく うかうかと 浮かれ烏の ただ一羽 ねぐらへ帰る 川端で 竿の雫か 濡れ手で粟 思いがけなく 手に入る百両 ・・・”
   正月14日の節分の夜のこと、舞台後方に14夜の月がかかっている。

   百両を持った客・手代十三郎(友右衛門 実はおとせの実兄)が、夜鷹と遊んで百両を落として、それを返しに夜鷹が歩き回ると言う冒頭の話からおかしいのだが、この芝居は、単なる盗賊たちの白波ものには終わらず、義理人情や人間の業・宿命など、この百両の他に、将軍からの預かりもの・庚申丸と言う刀が絡んだどろどろした入り組んだ人間模様が描かれていて、今回のように、通し狂言で見ないと理解し難いし、たとえ、全部見ても複雑で良く分からないと言うのが正直なところであろうか。

   私が面白いと思ったのは、三人の白波たちの義兄弟の契りの関係や、二人の双子の兄妹の愛に対する当時の道徳観なのだが、このあたりの因果は、後半の第3幕の巣鴨在吉祥院本堂と墓場の場で、語られている。
   まず、おとせと十三郎は、和尚吉三の実の弟妹なのだが、双子は縁起が悪いと言うので弟は貰い子として捨てられたが、その後、百両を落として身投げしたのを偶然にも、土左衛門伝吉(錦吾 実父)に助けられ、同居している間におとせと恋に堕ちる。
   ところが、この兄妹が夫婦になると言うのは近親相姦で、当時の道徳から言えば「畜生道」の罪悪で、許されるべき罪ではなく、それを知った伝吉と和尚吉三は苦悶する。
   思い余った和尚吉三は、追われている義理ある義兄弟二人を捕まえて差し出すよう役人と約束したので、身替りに死んでくれと拝み倒すふたりを、吉祥院うらの墓場で手にかける。

   この場合、和尚吉三は、二人の弟妹には、二人が実の双子兄弟であり近親相姦の畜生道にあるとはあまりにも悲惨故口に出せずに、おとせの金を取ったのはお嬢で、伝吉を殺したのはお坊であり、二人はお前たちの仇であり、必ず仇を取ってやるが、二人を助けなければならないと言う義兄弟への義理を通さねばならないので、死んでくれと説得するのだが、
   義兄弟のお坊とお嬢からは、何故、無惨にも弟妹を殺したのかと詰問されて、畜生道に落ちた弟妹を手にかけたのは、兄貴の慈悲だと説明する。
   この前に、和尚吉三の述懐を隠れて聞いていたお坊とお嬢が、おとせから百両を取ったのはお嬢で、実父伝吉を殺したのはお坊だと言うことが和尚に分かってしまったのを知って、和尚に義理が立たないとして二人で切腹を試みようとするのだが、そのことも含めて、当時の義理の重さとアウトローの掟と言うものに触れて、一寸、江戸時代を感じていた。
   そんな悪党たちでも、死を前にすると、自分のこれまでの人生や親への思いを吐露するところなど、黙阿弥は、七五調の流麗な台詞で語らせていてしんみりとさせる。

   ところで、最後の「本郷火の見櫓の場」では、偽首がばれて追い詰められたお坊とお嬢が、捕り手を相手に立ち回り、そこへ、和尚が合流して、結局、そこへ、実直な八百屋の久兵衛(寿猿)が通りかかったので、庚申丸と百両を託して後事を頼む。
   久兵衛は、お坊の実家安森家出入りの八百屋であり、庚申丸を届けてお家再興を願い、百両は金貸しに返すと言う寸法。物語は、もうこれまでと、三人は、三つ巴になって刺し違えて果てるということらしいが、舞台は、雪の降りしきる火の見櫓の前での捕り物の見得で終わる。
   この最後の幕切れだが、やはり、女形の福助の流れるような綺麗な立ちい振る舞いが優雅で美しいのが、印象的であった。
   
   ところで、この芝居は、あっちこっちで、八百屋お七の物語が見え隠れしていて、実際に和尚たちが住んでいるのも吉三郎の居た吉祥院であり、お七を名乗っていたお嬢が、最後に火の見櫓に上って鐘を打つ。
   刀を盗まれてお家断絶と言うのも、定番のお芝居ネタ。
   河竹黙阿弥の芝居は、上手く偶然を絡ませて入り組んだ人間関係を器用に錯綜させながら、人間の義理人情、喜怒哀楽、悲しさ虚しさなどを、底辺のぎりぎりの生活に蠢く人々の生き様を展開しながら、舞台を作り上げている。
   時代の変化で、話の筋にも違和感が拭えないのだが、それを、歌舞伎の伝統と様式美、それに、巧みな人物表現や風俗、情景描写などで、魅せる舞台にしていて、楽しませて貰った。

   「奴凧廓春風」は、染五郎が、福助の大磯の虎を相手に曽我十郎の華麗な舞台、空に舞い上がる奴凧でくるくる回転しながら演じる中空での奴さん、暴れまわる大きな猪を相手に大立ち回りで退治する富士の仁太郎の3役を熟すと言う奮闘ぶりで、正月らしい華やかな舞台で、観客を魅了する。
   幸四郎に連れられて奴凧を持って国立劇場初登場の金太郎が、可愛くて凛々しい姿を見せて、お客さんは大喜び。
   高麗屋三代が揃った舞台で、ロビーにも、福助が加わった大きな額が掲げられていて、華を添えている。
   
   今回は、特に、役者の演技には触れなかったが、夫々、適役で、幸四郎を座頭にして、染五郎と福助が脇を固めて、非常に密度と質の高い舞台を展開していて、新年のスタートに相応しい舞台であったことを付記しておきたい。
   ロビーには、大きな三人吉三凧と奴凧がぶら下がっていて、壁面には、歌舞伎役者をあしらった沢山の羽子板が展示されていて、新春気分を盛り上げていた。
   国立劇場の良いところは、やはり、ロビーの広さだが、段々、建物の姿を現してきた新歌舞伎座も、ロビーが豊かであればと思っている。
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東京都写真美術館~「写真の飛躍」「ストリート・ライフ」

2012年01月21日 | 展覧会・展示会
   西野壮平の「Diorama Map」が展示されていると言うので、東京都写真美術館へ「写真の飛躍」展を見に出かけた。
   5人の日本の新進写真家による作品展であったが、夫々、非常にユニークな手法と表現による斬新な写真ばかりであり、私のような古い人間にとっては、現代音楽やモダン・アートを見る時に感じるのと良く似た違和感と戸惑いが先に立って、楽しむと言うところまでには、時間が掛かりそうに感じた。
   私自身が、興味を持ったのは北野謙の「our face」と言う一連の肖像画を沢山重ねてモノクロに焼き付けて、真ん中に一人だけ浮かび上がらせたほぼ等身大の写真で、暗いモノトーンの作品だが、何か語りかけているようで、印象に残った。
   私は、写真でも絵画でも、或いは、芝居でも踊りでも、美しくなければならないと言う主義なので、いくらリアリズムだと言っても、何か分からないような嫌悪感を感じさせるような奇をてらった作品を見るのは好きではないので、それだけ、芸術に対する感受性が、ワンテンポ遅いのかも知れない。

   ところで、西野壮平の写真だが、今回は、随分巨大な作品で、大きいのは2メートル四方もあり、以前見た時よりも、作品の密度が一気に巨大化濃密化していて、訴えかける迫力も増している。
   東京と広島の日本の都市以外は、ニューヨーク、香港、ロンドン、イスタンブール、リオ・デ・ジャネイロ、パリ、ベルリンと言った外国の大都市で、夫々、何度か訪れているので、興味深く丁寧に見た。
   今回は、人物写真を多く取り込んでいて、実際の都市の息吹を感じさせていて興味深かった。

   「決して正確な地図ではなく、あくまで旅の視点で見た私自身の”記憶”そのものである」と西野が言っているように、実際にその場所に住んでいて感じていた私自身のロンドンやリオとは、かなり、印象が違っていて、別な都市と言う感じさえしたので、見る人によって姿や印象が変わるのであろう。
   例えば、隣で見ていた中年の婦人グループが、東京の作品を見ながら、ここが雷門、あそこが国会議事堂と言った調子で自分の知っているところを指さしながら語り合っていたのだが、要するに、見る人は、自分の関心のある場所が、真っ先に興味の対象となって、そこから、この作品の鑑賞が始まると言うことである。
   私自身、ニューヨークを見て、真っ先に探したのは、METのあるリンカーン・センターで、次は、メトロポリタン・ミュージアムであったが、良く分からなかったし、ロンドンのコベント・ガーデンなども探せなかった。
   結局、地図ではないと言うけれど、鑑賞者は、どうしても、作品の全体図ではなくて、個々の場所に拘って作品を見てしまって、自分の印象にある都市のイメージで見てしまえば、西野の意図する作品へのイメージの拡大や、想像の広がりなどまで行かずに止まってしまうのではないかと言う気がする。

   それに、私自身、ロンドン上空をヘリで飛んだ時、色々な建物を、或いは、リオを飛行機で飛んだ時、コルコバードやコパカバーナなどを撮ったことがあるが、それ等は遇で、西野の場合には、大半、高い構築物の上からの撮影であろうし、これらの写真をコラージュしてバードアイ・イメージを現出しているのだから、凄いと言えば凄いが、自ずから限界がある。例えば、アムステルダムなど高い建物などないから、このようなジオラマは作画し難い。
   とにかく、非常に細かい詳細な写真によるモザイク作品なので、全体像の鑑賞と言うのではなく、どうしても鑑賞者を細部に拘らせてしまうきらいがあり、作品の美しさや芸術性と言うよりも、情報と表現の面白さに関心が行ってしまうので、それを突破してどのようにブレイクスルーするのかと言うことであろうか。

   確かに、都市の景観を可能な限り、あらゆる視点から、特に、高みに上って膨大な写真を撮って、根気良く創造力とイマジネーションを駆使して巨大かつ緻密な作品に仕上げると言うことは、大変なことであり、その斬新な作品作りの手法とアイデアは見上げたものであり、ここまで、作品を創り上げて磨き上げてきた手腕には脱帽である。
   今のところ、地図を念頭に置いて作画しているので、殆どの写真は、南から北に向かって写したものであり、それらをコラージュして空からの鳥瞰図的な作品に仕上げているので、鑑賞者も、その都市をイメージし易い。
   さて、そのスタートの段階が終わったとすれば、これからだが、激動して止まぬ実際に生きて蠢いている現存する実在の都市と言うイメージが、あまりにも強烈であり、それを一瞬で切り取った作品で、どこまで、その都市の息吹なり鼓動を表現できるのか。その強烈なイメージから脱却して、どこまで、その都市の持つ実像を芸術の域にまで活写できるのか、西田の感性と芸術性、そして創造力が問われて来ると言うことであろう。

   ところで、ついでに展示されている「ストリート・ライフ」だが、ヨーロッパを見つめた欧米の7人の写真家たちのクラシックな映像が、非常に興味をそそって、見ていて、懐かしさえ感じた。
   私が知っていたのは、ウジェーヌ・アジェとブラッサイだけだったが、どちらかと言えば、モノクロのピントがしっかりと合った硬い形の変色した写真のリアルな造形は、美しさと言うよりも感動的である。

   ブラッサイは、塔や公共建物や構築物、街角などを寫した夜景が並んでいたが、淡くくすんだ光が印象的で、昔、凍てつくように寒い極寒のヨーロッパの街角を、襟を立てて歩きながら、ホテルに帰った時の、懐かしい思い出を蘇らせてくれたが、最後の方に、「ベイ・ブイエールの人混み、モンパルナス」と言う作品で、キャバレーらしき所で、上半身裸の踊り子(?)を紳士たちが囲んでいる写真を見て、ロートレックの絵画の雰囲気を感じたり、色々なヨーロッパのことどもを感じていた。
   同じ街角の風景だが、開発前のグラスゴーを寫したトーマス・アナンの写真には、殆どどの写真にも、どこかに、人の姿が写っていて、面白いと思った。
   アジェの作品は、街角のコーナーの店や、室内、門扉の金具、公園の石の彫像など色々なモチーフが展示されていた。
   ハインリッヒ・ツィレの作品は、荷車を引く女労働者の写真が主体で、それも、殆ど女たちの後姿ばかりなのに興味を感じた。
   ジョン・トムソンの写真は、19世紀後半の写真で、絵葉書より小さいのだが、当時の職人や働く人と言った庶民の肖像画が殆どで、当時の面影を見た映画と重ね合わせながら鑑賞させて貰って面白かった。
   同じように、アウグスト・ザンダーの作品には、色々な働く人や、企業家や役人や専門職と言った階級の違いや、それらの家族の写真などの記念写真のような肖像写真が多かったが、半世紀後くらいの姿なので、その違いに興味を感じた。
   ビル・ブラントの作品は、鉄鋼の街ハリファックスのくすんだ街の景観が印象的で、モノクロで画面が暗い所為もあって、水桶を持った少女を寫した「イースト・エンド」の写真も良いと思ったが、何となく、印象が暗かった。
   
   久しぶりに、美術館に行って、じっくりと写真を鑑賞することが出来て、有意義な午後を過ごすことが出来た。
   
   

   
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渡辺淳一著「天上紅蓮」

2012年01月19日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本の帯に、「史上、これほど愛された女性がいた(だ)ろうか」と言うキャッチフレーズ、更に、「豪華絢爛な王朝絵巻」、そして裏に「時の最高権力者・白河法皇とその寵愛を一身に受けた璋子。渡辺文学の集大成、ここに誕生!」と書いてある。
   いずれにしろ、愛の交歓をこれでもか、これでもかと描き切った小説であろうと思って読み始めたのだが、思ったよりその方の描写は淡泊で、珍しくも、色々な文献を参考にして、著者なりに推敲を重ねた伝記作家としての色彩の濃い歴史物の文学作品である。
   私など、どちらかと言えば、濃厚な男女の人間模様の方に関心があって、渡辺文学を読んでいるのだが、いまだに、どの辺りが芸術なのか文学なのかは、良く分からないのが気になっている。

   さて、この本は、法皇62歳、璋子14歳という途轍もない年齢差を超越した男女の愛の物語で、法皇は、選りにも選って、自分の秘めたる愛人であるその璋子を、自分の孫である時の鳥羽天皇の中宮として送り出し、璋子に条件として、第一子は自分の子供を産めと厳命して、実際に法皇の実子である崇徳天皇を産んだと言う凄い物語が展開される。
    最愛の璋子を幸せにする最高の方法は、中宮となり、いずれ帝となる御子を生むこと。それが、平安朝を生きる女性にとっては最高の栄誉であるならば、璋子にもそうさせたい。しかし、愛しくて愛しくてひと時も手元から離したくない璋子への限りなき思いをどうするのか。

   法皇と璋子との馴初めだが、璋子が、愛人である祇園女御の養女になっていたので謂わば義父である法皇と、三人で同じ床にいて、女御が居ない時に、床の中で戯れるうちに、思わず結ばれたと言うことのようだが、とにかく、放蕩の限りを尽くした筈の法皇が、年甲斐もなく璋子にのめり込んで、10代半ばから29歳まで15年間、まさしく、璋子の愛人であり恋人であり、父であり師であり、後見人であり、言うならば、すべてであったと言うことであるから凄い。
   法皇に心底愛され、夜、殆ど一人で過ごすことなど殆どなかった躰が疼きおさまることがなく、そこまで女体を燃えさせ、成熟させておきながら、29歳の女体を残してこの世を去り、そのまま放り出すとは、あまりに無情ではないか、と渡辺淳一は書いているのだが、どうであろうか。
   ピグマリオンが、自ら理想の女性・ガラテアを彫刻して、この彫像に恋焦がれて、次第に衰弱していく姿を見かねたアプロディーテが彫像に生命を与えたので、それを妻に迎えたと言うピグマリオン伝説が、有名だが、あのマイフェア・レィディと同じで、白紙の女性を磨き上げれば磨き上げるほど、その女性に恋焦がれると言うのが、男と言うものであろうか。
   確か、渡辺淳一にも、そんな小説が他にあったような気がする。
   
   渡辺文学の面白さが出ているのは、法皇が夜、蛍の入った竹籠を、薄絹一枚を着て眠っている璋子の秘所にかざし、蛍の光に照らされたその美しさに魅了されると言う幻想的(?)なシーン。
   そして、相変わらずエロチックで面白いのは、月のさわりを口実に、勇んで迫る天皇を拒絶し続ける璋子の手練手管で、この「夜の床」の章は、如何に、月のものの周期を加減しながら、法皇と天皇の間を、璋子が泳ぐか、天皇の乳母光子(実は璋子の母)と法皇の内侍が間に入って、法皇の意を実現すべく暗躍するのが面白い。

   ところで、この法皇と璋子の恋だが、見方によれば、極めて不埒なアンモラル極まりない話だけれど、著者は、「男はどんなに遊んでいても、どこかで純愛に入れ込む生き物なんです。法皇の場合は、それがたまたま60を過ぎてから訪れた、というだけのことで。また、ここでもう一点、大切なのは、二人が自然に結ばれた、ということ。支配する、支配される、つまり「おれの女になれ」といったような上下関係や命令形とは関係なく、自然に結ばれていく愛こそが純愛といっていい。」と言っている。

   あの「シラノ・ド・ベルジュラック」などは、本当に純愛だと思うのだが、どうしても、今の日本では、純粋な純愛であっても、アンモラルと称される、例えば、不倫の恋や禁断の恋など成さぬ恋には、どうしても、後ろめたさや抑制が伴う。
   人を思う気持ちには、本来、何の束縛もない筈なのだが、兎角、この世は難しい。
   著者は、戦国時代や江戸時代は、身分制度が固定しているうえに男尊女卑で、常に男性優位で女性はただ従うだけ、という社会状況で面白くなく、「恋して、愛して、恨んで、嫉妬して――といった感情を盛り込む恋愛小説というジャンルは、基本的には男女対等でなければ、本当の意味で書き込めない。その点では、平安時代の方が、男女が対等だったと思うのです。女の人もけっこう浮気していたようですし、たとえば『源氏物語』で紫の上は、光源氏をずっと拒み続けていましたよね。」と言っているように、要するに、不倫の恋が生まれない世界は、小説にもならないし、純愛も生まれないと言うことであろうか。

   この小説で、老年に達した法皇、若くて元気な天皇、そして、二人を相手に遍歴する璋子の3人の恋模様を万華鏡のように絡ませながら、著者は、セックス描写を通して、「女性が何を求めているのか、性的に満ち足りている状態はどこからくるのか……。老年男性には「まだまだこれから」と思ってほしいし、若者たちには「挿入だけがセックスのすべてじゃない」ことを知ってほしいですね。」と言っているのだが、セックスは兎も角、異性を純粋に愛すると言う思いは、歳には全く関係がなく、人間としての本質であると言うことは事実だと思う。

   さて、この白河法皇だが、この小説では、崇徳天皇が法皇の実子であり、今、NHKの「平清盛」でも、清盛が白河法皇の実子であるかのように放映されているが、これは、あくまで、仮説であって、実際かどうかは分からないと言うことである。いずれにしろ、大河ドラマの壇れいの璋子が、渡辺文学のイメージを、増幅するのか壊すのか、これからが面白い。
   尤も、白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話は有名で、超実力者であってことは事実のようである。
   
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上野東照宮の冬ぼたん

2012年01月17日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   風が治まって日差しが出て来たので、久しぶりに、上野の杜に出かけて、見ごろだと言うので、東照宮の冬ぼたんを見に出かけた。
   午後少し遅かったので、陽が傾いて、日差しを浴びたぼたんが少なくて、シャッターチャンスをミスった感じであったが、最盛期を過ぎた花は少なく、まだ、蕾の花も多くて、タイミングとしては良かった。

   綺麗なぼたんに混じって、赤と黄色の千両、赤い万両、南天などの実や、黄色い蝋梅、水仙、それに、ミツマタと言った花が咲き始めていて、彩りを添えていて風情があって良い。
   残念ながら、梅は、まだ、蕾が硬くて、大分、先になりそうである。

   冬ぼたんも、春ぼたんも、花としては変わっているようには思えないのだが、上野のぼたんは、すべて、雪よけのワラ囲いを被っているので、中々、雰囲気があって良いのだが、雪の少ない東京では雪景色になるのはあまり期待できないのが残念である。
   昨年は、雪が消えた頃に行ったので写真は撮れなかったが、しかし、今年は、異常に寒いので、菰に雪を被ったぼたんを鑑賞できるかも知れない。

   ぼたん苑の鑑賞回路の一番最後の出口の傍が、広場になっていて茶店風の店があって、私は、いつも、ここの庭にある真っ赤な毛氈を敷いた床几に座って、甘酒を頂くことにしている。
   寒い日には、熱い甘酸っぱい甘酒の味は格別で、目の前には、口絵写真のようにぼたんが広がっている。
   塀の向こうには、東照宮の国宝の門が見えるのだが、今年も、まだ工事中である。
   反対側には、五重塔が遠望でき、ぼたんを前景に写真を撮れば、絵葉書的な絵になる。

   苑内には、琴の音色が流れていてムードを醸し出しているのだが、東京にしては非常に静かで、隣の料亭風の提灯や建物が見えなければ、寺社の境内と言う感じである。
   思ったより人が少なくて、一つ一つ違った佇まいのカラフルなぼたんを鑑賞しながら、小1時間ゆっくりと散策するのも悪くはないが、少し、寒いのが難かも知れない。
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わが庭の歳時記・・・寒さに痛めつけられる椿

2012年01月16日 | わが庭の歳時記
   わが庭は、真冬になると一挙に寂しくなる。
   花と言えば、鉢植えのパンジーくらいで、色のついているのは、万両と千両の実だけ。
   バラの木には、硬い蕾のままに開かなくなった花が付いていたものもあったのだが、剪定して、皆、根元近くまで切り詰めたので、春を待つ以外になくなった。
   水仙は、葉が伸びて来たのだが、植えっぱなしの球根なので、あまり咲くことは期待できない。
   クリスマス・ローズの根元から、花芽が顔を出して、少しずつ伸び始めて来た。

   椿は、ちらほら咲き始めて来たのだが、中々、開かない上に、あまりの寒さで、薄い花弁が霜焼けであろうか、褐色に変色してしまって、中には、咲く前に落下してしまう。
   この口絵写真は、曙椿なのだが、木の奥の方の剪定忘れのふところ枝についた、寒風を避け得たような花しか、傷んでいない花は見つけにくい。
   曙は、やや、大輪の淡いピンク色の非常に優雅な花なのだが、早く咲いた花は、花弁が薄くてか弱いので、花弁の先などから、さび色に変色してしまって可哀そうである。

   相模侘助や一子侘助などの侘助椿は、殆ど、満開に咲いているのだが、この方は、花弁の痛みは少ないけれど、一輪挿しや花瓶に挿すには、風情に欠けるので、庭木そのままで鑑賞している。
   玄関脇の紅妙蓮寺は、次から次へと咲き続けているのだが、この方も、寒風をもろに受けているので、椿の葉さえ霜焼けで、すこし、褐色気味に変っており、花も可哀そうである。
   天ヶ下や小公子も早い花は、咲き始めている。
   自然の摂理か、厳寒に咲く椿は、直接表面に出ないで、厚い椿の葉に隠れてと言うか、葉に保護されているように覆われて咲く花が多いような気がするのは、思い過ごしではないようである。
   痛みの少ない大輪の椿の、まだ蕾のままの枝を切り花にして、花瓶に挿して楽しんでいるのだが、その時、邪魔になるので、花弁を覆っている葉を二枚切り落としている。

   西王母も咲き続けているが、先日、鉢に植えてある赤西王母が、花が開き始めたので、玄関口に移したところ、蜜を吸いに飛んできたメジロに花弁を落とされてしまった。
   こんな寒い時にでも、花が咲くので、当然受粉すれば結実するのであろうが、昆虫や蝶が居なくなった厳寒の時期には、メジロなどの小鳥が、受粉を助けているのであろう。

   庭の牡丹や芍薬の芽が、綺麗な濃いピンク色に染まり始めた。
   チューリップより少し遅れて咲くので、まだ、花芽が成長するのは先の話だが、私の庭では、春の草花球根の芽だしよりは早く春を告げてくれるので、これに合わせて春庭の準備をしているようなものである。
   芍薬は、上部が総て枯れて秋には地下茎だけ残るので、あまり植え場所の心配はないのだが、牡丹の木は、どんどん大きくなって行くので、大分、わが庭を占領するようになってきている。
   植え替えも考えて、黄色い牡丹を1株、芍薬を4株、今年は、鉢植えにした。
   牡丹も芍薬も、豪華で素晴らしい花だとは思うのだが、花の寿命が短いのが難である。
   花の寿命と言えば、菊が長くて重宝するのだが、関西育ちの私には、何となく、菊は彼岸や抹香絡みのイメージが強くて、見るのは好きだが、何となく植えるのは気が進まず敬遠している。

   梅の蕾が、大分しっかりして来た。
   椿の木も、蕾を沢山付けて春の準備を始めている。
   私の庭も、あの福島原発事故で、放射能の心配はあるのかも知れないが、花木には影響なかろうと思う。
   近所の友人が、除染するのだと言って、自宅の瓦屋根を全部葺き替えてしまったのだが、私の場合には、オランダでチェルノブイリ原発事故を経験し、狂牛病華やかなりし時に、イギリスに居て、沢山のビーフを食べていたので、今更、と言う気がしている。
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映画「源氏物語 千年の謎」

2012年01月14日 | 映画
   久しぶりに、ワーナーマイカルで映画「源氏物語 千年の謎」を見た。
   元々、平家物語と源氏物語は、私の学生時代からの愛読書で、京都を中心に、これらの物語の故地を巡って歩きながら、物語の色々なシーンを反芻し続けていたので、関係映画も結構見ている。
   前回の天海祐希が光源氏を演じた映画も面白かった。

   今回の映画は、源氏物語の殆ど冒頭の部分が中心で、光源氏(生田斗真)を巡る女性たちも、藤壺(真木よう子)、葵上(多部未華子)、六条御息所(田中麗奈)、夕顔(芦名星)に限られていて、当然、登場すべき紫上などは、出て来ないので、サブタイトルが「千年の謎」と言うように、何故、紫式部が源氏物語を書いたのかと言う謎解きに焦点を当てたと言うことであろうか。
   
   何故、紫式部が「源氏物語」を書いたかと言うことだが、冒頭、石山寺と思しき境内で、道長(東山紀之)が紫式部(中谷美紀)を追いつめて情を通じるシーンから始まる。そこで、道長が、自分の娘彰子(蓮佛美沙子)を一条天皇(東儀秀樹)の中宮として入内させているので、懐妊して自分の血を王家に残すために、一条天皇を彰子に惹きつけて置けるような面白い物語を書けと命じる。
   勿論、それに従って式部は源氏物語を書き始める。
   ところで、この映画の重要な点なのだが、式部が密かに道長を恋い慕っていると言う伏線があって、その道長への募る恋の思いと満たされない現実とが錯綜して、源氏物語が、少しずつ妖気を帯びて複雑な展開を始める。
   したがって、この映画は、実際には、現実と物語の中に入り込んで、両方を行き来するのは、陰陽師安倍清明(窪塚洋介)だけなのだが、(尤も、最後に、式部と源氏の対話が挿入されてはいるが)、現実の世界と物語の世界とが錯綜して同時進行して行くので、妖しい恋の平安絵巻が展開されていて面白い。

   この映画で、意外だったのは、前回の天海源氏の映画でも、渡辺謙の道長が、吉永小百合の紫式部にモーションをかけるのだがきっぱりと拒絶されていたし、二人の関係はぼかされているケースが普通なのだが、今回は、明確に二人は関係を結んでいて、最後のシーンでは、式部が娘の住む田舎へ旅立ち分かれて行くとしているものの、これから源氏物語が最盛期に入るので、何となく、二人の愛人関係が続くと言う暗示を与えている。
   もう一つの意外な点は、源氏が、義母でありながら亡き母桐壺更衣(真木よう子)に生き写しの藤壺に、激しく恋をして後の天皇を身籠らせるのだが、これは、あくまで、源氏の一方的なアプローチ故なのだが、今回は、激しく迫るが最後には諦めて去るのは源氏の方で、去ろうとする源氏に、愛しい人を地獄に送る訳には行かないと言って、藤壺の方から身を任せると言う意外な展開になっている。
   
   この源氏物語の冒頭の部分では、やはり、一番印象的なのは、源氏の藤壺に対する為さぬ恋だと思うのだが、若い源氏は、一途に藤壺を我が物にすべく後先を考えずに突き進むが、藤壺の方は、たった一回の過ちを悔いに悔いて最後には出家して源氏の前から消えてしまうのだが、寿美花代の演じた藤壺の素晴らしさが、今でも脳裏に残っていて懐かしい。
   この映画では、誘惑して罪を犯すのは藤壺の方であるから、不義の子とも知らずに光源氏に良く似た美しい子だと喜ぶ天皇を前にしても、真木藤壺は動揺する気配さえ見せないのだが、原作通りに出家して剃髪するシーンだけはフォローしているものの、後先のストーリー性が欠けるので、白々しいし、出家を止めようとして必死に駆け込む源氏の門前払いにも、全く悲劇性はなく、蛇足に終わってしまっている。

   さて、この物語で、情の熱さが災いして嫉妬に狂う年増の六条御息所が、源氏の愛人夕顔を呪い殺し、源氏の子を出産した葵上まで生霊となって殺してしまうので、災いを断つために、斎宮となった娘と共に伊勢へ下ると言う形で退場するのだが、式部が田舎へ旅立つと言うラスト・シーンは、これと呼応した形式を取っている。
   あまりにも、源氏物語が激しすぎるので、按じた安倍清明が、道長に、式部に源氏物語を止めさせるよう進言するのだが、式部の業を知りたいと拒絶する。
   式部の道長への思いの高ぶりが、御息所の鬼気迫る生霊としての表現の激しさを増幅するので、清明は、物語の中に入り込んで、御息所を調伏すべく対決するのだが、式部と御息所を重ねながら、恋の激しさを描こうとしている(?)のが面白い。

   ところが、その道長が、式部に、彰子に皇子が生まれたので当初の目的が成就したのに、何故、源氏物語を書き続けるのかと聞くのだが、分かっているくせにといなされる。
   道長は、あくまで、式部は語り部であって、最初は口から出まかせで式部を強引にものにしたが、気がないことを式部は知っているので、満たされぬ心の思いがつのって行き、益々、源氏物語の表現が凄まじく激しさを増して行く。(一度、道長が、狐の面をつけて式部に迫るが、式部は軽くあしらうシーンはあるのだが)

   ところで、六条御息所だが、大臣の娘で元は東宮妃であり、美しくて上品な知性教養の高さは申し分のない素晴らしい女性で、恐らく、恋の手ほどきや愛の交歓の素晴らしさなど男への道の殆どは彼女から教えられた筈なのだが、何しろ、子供の源氏にしてみれば、矜持と気位の高い何でも上の姉様愛人の御息所が、だんだん、鬱陶しくなってきて、若くて美しくて新鮮な女性に興味を持ち始める。
   この映画では、この御息所の生霊と呪いの激しさを、特殊撮影やCG手法をふんだんに取り入れて、効果的にストーリーを展開していて、それに、陰陽師を絡ませて、あの世の世界や異界の現象を効果音を巧みに使って表現していて、そのスペクタクル・シーンも非常に見ごたえがある。
   御息所を演じる田中麗奈だが、私は、ゲゲゲの喜太郎の猫娘しか知らないが、妖艶かつ鬼気迫る生霊を実に巧みに演じており、また、高貴ながらも妖しく崩れた女の魅力を醸し出していて魅力的である。

   面白いのは、葵上の扱いだが、東宮妃に予定されていた年上女房で、気位が高くて打ち解けなかった筈だが、この映画では、子供っぽく見える多部未華子の印象か、非常に可愛く、それに、子供夕霧が生まれる前後に非常に源氏との夫婦仲が円満になっていたのが、新鮮であった。
   恐らく、源氏物語の中でも、夕顔が、最も人気の高い女性の一人だと思うのだが、源氏が近づく以前に、既に、葵上の兄である頭の中将(尾上松也)と愛人関係にあり、一女玉鬘を生んでおり、この淑やかで従順な薄命の女性の娘の数奇な話も面白い。芦名星が、中々、雰囲気のある夕顔を演じていて素晴らしい。

   さて、桐壺と藤壺を演じた真木よう子だが、私には、龍馬伝でのお龍の印象が強烈であったので、それに、これまで演じた女優が、大半、もう少し、成熟した女性の魅力を匂わせた人々だったので、若くて、どちらかと言うとモダンで淡泊な真木の演技には、多少の違和感と、逆に、新鮮さを感じたのだが、良く考えてみれば、これは私の思い込みであって、実際には、二人とも、もっと若くて初々しかった筈なのである。
   先に書いた藤壺の人物描写には、疑問があるけれど、新しい桐壺更衣と藤壺女御像を楽しませて貰った。

   生田斗真の優雅で溌剌とした光源氏、東山紀之の風格と貫録のある道長は、文句なく適役で好演していた。
   安倍清明の窪塚洋介と甲本雅裕の藤原行成の個性的な演技、榎木孝明の桐壺帝と東儀秀樹の一条天皇の風格、尾上松也の頭の中将の爽やかさ。生田と尾上の舞「青海波」は素晴らしかった。

   さて、最後になってしまったが、最も素晴らしいと思ったのは、紫式部を演じた中谷美紀で、あの色々な思いや心の襞を微妙な顔の表情に凝縮した演技が、私には非常に魅力的で、大変な学識と教養をそなえながら、激しくも、時には、狂おしい恋の思いを綴り続ける才女紫式部を髣髴とさせる女の魅力満開であった。
   NHKの「白洲次郎」の白洲正子役の素晴らしさを思い出しながら、映画を見ていた。

(追記)写真は、映画・comから借用
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澤上篤人著「運用立国で日本は大繁栄する」

2012年01月13日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   澤上篤人氏の講演は、何度か聞いているのだが、俗に言うグラフや数字ばかりに拘る株や外為などのテクニカル分析とは縁の遠い、極めて単純明快なアナログ的株式投資指南なので、面白いし納得が行くことが多い。
   安いところで買って、高くなったら売って行く。優良企業株を選定して「バイ&ホールド」で長期保有。経済の現場に資金を投入することで、不況時や市場暴落時にこそ長期資金を提供して、企業活動をバックアップ。
   この本も、要するに、1490兆円もある個人金融資産の内1000兆円は預貯金や生命保険に眠っているので、これを活性化するために、長期投資を主体とした「国民ファンド」を立ち上げて、日本経済の大繁栄を目指せと言うものである。
   ガルブレイスも、亡くなる寸前に、この眠っている1400兆円の個人金融資産を活用すれば日本の経済を復興再生できると提言していたのだが、不甲斐なくも、国も金融業界もその才覚がなく、日本経済は鳴かず飛ばずのまま、今日に至っている。

   さて、澤上説だが、預貯金に眠る個人マネーだけでも775兆円だが、現在では、そのリターンが3年定期で0.55%だと年間4.3兆円にしかならないが、これを年5%で回ると38.7兆円となり、その半分を消費に回すだけでも、GDPを3.8%の押し上げ効果がある。12年とか14年で2倍になれば良いと考えれば、10年くらいの時間軸で本格的な長期運用に取り組めば、年にならして5%や6%の運用成績は不可能ではない、と言うのである。

   「日本は金融立国を目指すべし」と言う説には真っ向から反対する。
   東京を金融センターにするためには、ともあれ諸制度を撤廃し、自由放任に近いビジネス環境を整えて、参加者がそれぞれ優勝劣敗・適者生存の自助意識に任せてしまう必要があり、税制度も、累進課税のフラット化と所得税率の大幅低減するなどしなければならないのだが、そのための長期視野に立った国家戦略さえなく、大蔵省による手厚い保護行政で箱庭的に育成されて来たオーバーバンキングの日本の金融界にとっては、黒船来襲に対抗できる能力などさらさらなく、無理だと言う。
   実際にやれば、日本の金融機関の大半は、世界の金融ビジネスで百戦錬磨の連中の下請け的存在になるのがやっとだとも言う。

   アングロ・サクソン流の金融ビジネスが如何に凄まじいかの一例として面白いのは、
   フランク パートノイが、「大破局(フィアスコ)―デリバティブという「怪物」にカモられる日本」と言う本で、モルガン・スタンレーにヘッドハントされ、デリバティブ商品の開発と海外へのセールスに携わり、少数の専門家にしか仕組みがわからない複雑な怪物金融商品を開発して騙して売りまくり、日本でデリバティブによる巨額の損失が続々出たにも拘わらず、更に、大損をして必死になった客をさらに食い物にして暴利を貪って来た モルガンの悪辣極まりないビジネス手法を暴露していたが、これが、狩猟民族アングロ・サクソンの典型的な金融手法の一例。
   破産寸前に至っても起死回生して今尚トップ金融機関であるシティの日本法人が、性懲りもなく、何度も、金融庁の警告を受け続けているのを見ても、そのビジネス感覚の差が良く分かる。

   ところで、前述したように、日本には、1000兆円と言う個人の預貯金と生命保険で金融資産が眠っており、これは、世界の政府系ファンドの3倍と言う途方もない額だと言う。
   「貯蓄から投資へ」と言うのなら、やみくもに外貨投資や海外運用に走るのは危険で、これらの眠れる資金を解凍して、世界中の国々の経済発展やインフラ整備などに向けて、長期スタンスの資本提供を大々的に展開するべきで、それも、国内資金のグローバル活用にとどまらず、世界中から日本へ資金調達に集まってくる流れを太くして行く方法を考える。
   日本を「世界最大の運用市場」に育て上げれば、国内のみならず、世界中から投資運用資金が集まり、外国企業の資金ニーズは、東京株式市場への上場で引き受けられる。
   日本の資本市場を経由して世界に供給する長期資金はすべて円ベースで行うこととして、円の国際化も進むので、これこそ、世界最大の債権国日本の堂々たる「運用立国」「世界の運用センター」構想だと言うのである。

   もう一つ運用立国として、日本経済を活性化する方法は、日本株市場を活性化する戦略だと言う。
   日本は世界に冠たる産業群を擁しており、世界経済の発展拡大に貢献して行くことで、日本企業のグローバル展開は前途洋洋である。代替エネルギーや工業原料、工業中間財、或いは、工業インフラや環境関連の分野で日本が供給基地となる可能性が高い。条件はすべてそろっていると言うのである。

   具体的に提案する「国民ファンド」構想だが、非常にフェアだし、実現すれば面白い。
   国とか郵便局とか信用力の高いところが「国民ファンド」を設定する。
   国民ファンドは、公募投信で、ファンド資産は信託銀行が信託財産として受託管理。
   国民ファンドの運用は、完全オープン・ベースで正々堂々の競争運用。ファンド・スタート時は、各社均等額だが、その後は累積運用実績に応じて追加割り当て(ファンド・オブ・ファンズ)。
   運用コンペは、日本株式市場に上場の現物株投資に限定。完全オープン運用コンペが、個人マネーに恰好の株式投資モデルを提供。
   身近な銀行や郵便局窓口で直販(証券代行手数料収入)。販売手数料ゼロで、信託報酬は1%かそれ以下(現行の投信ビジネスは、平均2%強の販売手数料と1.5%の信託報酬を徴取しているので、駆逐されよう)。

   私は、現物株を僅かだがネットでやっている程度なので、投信については良く分からないが、澤上氏も紹介しているが、ジョン・ボーグルが、「米国はどこで道を誤ったか」で、米国経済が、オーナー(株主や投資家)からマネージャー(企業経営陣やウォール街の人物や運用会社)が利益を貪る構造に変質してしまったとして、金融仲介機関が、どれほど投資家から多くの利益を「ピンはね」「巻き上げ」ているかを数字で示している。
   この利益中抜き構造は、日本の場合にも当て嵌まると言うことだが、直販グループがコストを徹底的に下げた、このような澤上提案の本格派の長期保有投信が、日本にも少しずつ生まれて来ていると言うから興味深い。

   最近は殆ど行かなくなったが、証券会社や色々な投資業務関連組織が、株式や金融関連の説明会やセミナーを開くと、結構沢山の聴衆が集まって熱心に聞いているのだが、実際のところ、この眠っている1000兆円の個人の金融資産が、どこへ行くべきか分からずに迷っていて、下手に足掻いてあっちこっちで、けがをしていると言うのが正直なところかも知れない。
   振り込め詐欺やおれおれ詐欺にだまされるのも、あるいは、有り得ないような投資話に乗って虎の子を巻き上げられる人が多いのも、行き先を失ったこの1000兆円の片割れかも知れないと思っているのだがどうであろうか。
   澤上提言の「国民ファンド」が立ち上がったとしても、それだけで、生きた実体経済である成熟段階に入ってしまった日本経済が大ブレイクするとは思えないが、一つの前向きの戦略ではある。
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文楽への補助金カット~文化芸術不毛の橋下市政

2012年01月11日 | 生活随想・趣味
   吉右衛門が対談で、文楽への補助金が切られると語っていたので、インターネットで調べたら、読売新聞の「橋下流に文化団体、戦々恐々…交響楽団消える?」に行き当たった。
   「知事時代、「文化は行政が育てるものではない」と公言してきた橋下徹・前大阪府知事が19日に大阪市長に就任するのを前に、市内の音楽や芸能関連の団体が戦々恐々としている。
   橋下知事当時、府が出していた補助金を全額カットされた大阪フィルハーモニー交響楽団(大フィル)や、「観賞したが、2度は見ない」と酷評された文楽団体などは、市から多額の補助金を受けているためだ。」との書き出しで始まる記事だが、「橋下氏は知事時代、「行政や財界はインテリぶってオーケストラ(が大事)とか言いますが、大阪はお笑いの方が根付いている」と発言。大フィルへの年約6300万円の府補助金を2009年度から全額カットした。」と言うことらしい。
   産経によると、「橋下徹・次期大阪市長が、大阪フィルハーモニー交響楽団(大フィル)や文楽協会などの文化団体に対する市の補助金について、全額カットも含めた大幅見直しを指示したことが7日、分かった。」と言うことである。

   文楽について書いてある部分は、次の通り。
   「大阪市から年5200万円の補助金を受ける財団法人・文楽協会も憂鬱(ゆううつ)だ。
   橋下氏は09年8月、「文楽を見たが、2度目は行かない。時代に応じてテイストを変えないと、(観客は)ついてこない」と発言。07年度に3600万円あった府補助金は11年度、2000万円に減った。同協会の三田進一次長は「採算が難しく、行政が手を引くと土台が崩れる」と戸惑う。」

   私は、昨年4月24日のこのブログで、「民主党「仕分け」が伝統芸を潰す」を書いて、日本芸術文化振興会への予算削減について苦言を呈したのだが、その芸術振興補助金の一部が文楽にも行っていて、それが削減されると、文楽にとっては痛手であることを記した。
   その一部を転記すると、
   「文楽は、松竹から見放されて一時は崩壊の危機に瀕して、大阪市や国やNHKのサポートで命脈をつないで、今日の芸術性の高さと高度な質を維持しているのだが、日本芸術文化振興会のサポートがなければ、維持不能であったであろう。
   文楽協会の決算数字を見ると、事業活動収入6.9億円のうち1.57億円の補助金等収入があるが、この一部が、この振興会から出ているのであろうが、微々たるもので、しかし、それがなければ、文楽協会はやって行けない。
   日本の文楽の芸術性の高さと洗練さてた技術の卓越さは、世界的にも愁眉の的で、その舞台芸術への影響力の高さは、ライオンキングをはじめ、世界中の芝居やオペラを見れば良く分かるし、歌舞伎でも同様であり、正に、日本文化の粋とも言うべき誇りなのである。」

   文楽は、1955年に文化財保護法に基づく重要無形文化財に指定され、更に、ユネスコ無形文化遺産保護条約に基づく世界無形文化遺産に登録されており、日本が世界に誇る最も代表的な古典藝術の粋である。
   そして、文楽は、淡路仮屋の初世植村文楽軒が「西の浜の高津新地の席」という小屋を大坂高津橋南詰で建てて、興行したのが始まりとされており、正に、大阪で生まれて大阪で育ち、大阪弁を主体とする、大阪の魂とも言うべき、恐らく、大阪が胸を張って世界に誇り得る最高の宝であり文化遺産であることには疑いの余地がない。

   私は、ロンドンで開催されたジャパンフェスティバルで、大阪市と大阪財界の肝いりで派遣された文楽公演で、玉男と簔助の「曽根崎心中」を見たのだが、同行したイギリス人夫妻が、涙を浮かべて感激していた。
   イギリスなので、カーテンコールに登場した玉男の徳兵衛の頬を、簔助のお初が、甲斐甲斐しく拭ってやっている仕種を見て、その優雅さ淑やかさが、また、イギリス人夫妻を感激させて、その後会う度に、思い出を語り続けていた。
   この夫妻だが、ロンドンの著名なエンジニアリング会社の社長夫妻で、私達を毎年、グラインドボーンのオペラへ招待してくれ、私たちもロイヤル・オペラに招待するなど、クラシック音楽やシャイクスピア劇を含めて、正に、芸術鑑賞の友であった。

   それは兎も角、ロンドンのロイヤル・オペラ劇場だが、サッチャー政権が大鉈を振るってグレイター・ロンドン(東京都庁に当たる)をぶっ潰してしまったのだが、この劇場の改修工事費をねん出するためには、ない袖を振れなかったので、公営賭博の益金などを当てて、立派にやりとおして、素晴らしい劇場に衣替えさせた。
   このロイヤル・オペラ劇場もそうだが、あのウィーン国立歌劇場も、ミラノスカラ座も、とにかく、世界の名だたるオペラハウスは、国家や地方自治体の手厚い保護育成や民間の献金などのお蔭で、高度な芸術水準を必死になって守り続けている。
   高度な芸術は、豊かな財政援助とその価値が分かる為政者や国民あってこそ栄えるのであって、人類を限りなくアウフヘーベンし、人々に生きる喜びと限りなき希望を与えてくれるのである。
   あのルネサンスを爛熟させたメディチ家の偉大な貢献と、フィレンツェの途轍もない文化文明の輝きを見れば、そのことが良く分かる。

   橋下市長は、「文楽を見たが、2度目は行かない。」と言っているが、何をどこで見たのか知らないが、単に、文楽を鑑賞する能力がなくて、その価値が分からないだけであって、「時代に応じてテイストを変えないと、(観客は)ついてこない」などと言うのは古典藝術・世界文化遺産への冒涜であり、「文化は行政が育てるものではない」と言うに至っては、教養と識見、さらに、人間性さえ疑わざるを得ない。
   高度な芸術は、一度、衰退を始めると殆ど回復は不可能であり、鳴きもしなければ声も出せない花や木と同じで、水やりを忘れた人に育てられると、悲しいかな、枯れてしまう。
   人々の叡智と審美眼を営々と積み重ねて築き上げてきた世界遺産を守るのも殺すのも、同じ人間。
   大阪の宝を守るのか殺すのか、大阪人の良識と英知が試されている。
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