熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立劇場:初春歌舞伎・・・四天王御江戸鏑

2011年01月30日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   この通し狂言「四天王御江戸鏑」は、1815年、江戸・中村座の顔見世狂言として、当時の人気役者を揃えた大一座のために、鶴屋南北と並ぶ人気作者・福森久助が執筆したもので、三代目尾上菊五郎の襲名を兼ねた舞台で初演されたと言う。
   当時の錦絵や福森久助の作品などを参考にして、現代風にアレンジして、今回、ほぼ200年ぶりに上演されたと言うのだが、とにかく、あっちこっち、どこかで見たような舞台が随所にあり、時代物あり、世話物あり、濡れ場もあれば大立ち回りもあると言ったサービス精神旺盛なアラカルトメニューを寄せ集めたような不思議な歌舞伎になっている。

   見ていて、歌舞伎役者や江戸風物の浮世絵を、モダンテクニックで動画化した感じである。
   舞台展開を、現代のハイテク装置を上手く活用して、不自然さの全くない尾上菊之助の土蜘蛛の宙乗りを成功させたり巨大な土蜘蛛を動かせたり、また、お土砂を降り掛けると柱まで曲がってツイストするし、AKB48を真似て踊る少女ダンサーの三宅坂48の派手な踊りなどは光も音も紅白歌合戦並みで、戦場カメラマンの登場に至ってはご愛嬌だが、とにかく、遊び心満点である。
   後半の、土蜘蛛の精と平井保昌との戦いの場のシーンなどは、舞台のセットや真っ赤に燃えた照明などのスペクタクルは、ワーグナーのワルキューレの舞台を見ているような感じであった。
   土蜘蛛の精の菊之助の撒く糸の適格さやその美しさは、格別である。
   その分と言うよりも、能の題材を辿りながらも、奇想天外な話の寄せ集めや、千両役者の見せ場を作るための舞台展開に終始しているのか、話の筋などあってないような感じで、シェイクスピアを見るようなつもりで舞台を見ていると、肩透かしを食う。
   
   話の骨格は、父平将門の意思を継いだ相馬太郎良門(菊五郎)が、葛城山の土蜘蛛パワー、すなわち、母親の茨木婆(時蔵)とその子土蜘蛛の精(菊五郎)の力を借りて、源家へ復讐と謀反を企てて、一条院(菊五郎)、源頼光(時蔵)、渡辺綱(菊五郎)ほか四天王、平井保昌(松緑)などと、内侍所の御鏡と繋馬の旗を巡って、虚々実々の駆け引きを展開しながら闘うと言う筋書きである。
   酒呑童子とその弟子茨木童子が源頼光に滅ぼされる(実際には滅ぼされていないと言う説もある)と言う話の焼き直しであり、土蜘蛛は、音羽屋のお家芸・新古演劇十種の一つである。
   ところで、この音羽屋の十種は、成田屋の荒事などとは違って、身替り座禅以外は怪談狂言ばかりだと言うのだが、江戸の歌舞伎ファンは、案外、現実には有り得ないような奇想天外でスケールの大きな芝居が好きで、豪快だとか美しいとか奇異だとか、役者たちの傑出した立ち居振る舞いやパーフォーマンスに熱狂したのであろうか。その美の瞬間を凝縮した見得や錦絵が人気が出るのも当然であろう。
   その点、上方の芝居は、近松門左衛門の浄瑠璃から多くを得ているので、どちらかと言えば、物語があって、どこか、シェイクスピアに近いような気がする。

   敵味方に分かれての争いと失われた家宝の奪い合い、そして、仇討しか、日本の芝居にはテーマがないのかと思うほど、歌舞伎はワンパターンなのだが、この芝居では、何故か、世話物の舞台が挿入されていて、渡辺綱が鳶頭中組の綱五郎となって、土蜘蛛の精が化けた女郎花咲と恋に堕ちてしっぽりとした濡れ場を演じる。
   何回か見慣れると、菊五郎と菊之助親子の男女の微妙なシーンも気にならなくなってくるのが面白い。
   母親の茨木婆を演じる時蔵も、えげつないやり手婆ぶりを発揮していて面白い。時蔵は、今回、源頼光で男役をやっているが、他の女形役者が男役を演じても何となく女の雰囲気を残しているのだが、全くそれを感じさせず溌剌とした男ぶりで、見ていて気持ちが良い。
   この芝居で、唯一女らしい女を演じるのは、弁の内侍の梅枝だけだが、綱の菊五郎にアタックするところなど、中々、ムードがあってよく、その仲立ちを、実父・時蔵の茨木婆に頼むあたりの会話も面白い。
   都を騒がせる盗賊袴垂保輔と頼光の忠臣平井安昌を演じる松緑は、両方ともはまり役で、伴森右衛門の團蔵と共に、個性豊かな演技で持ち味を十分に出していて面白い。

   国立劇場では、眠っていた古典歌舞伎を、現代に蘇らせるべく、意欲的に試みていて非常に興味深い。
   古典をそのままでと言っても、当時の舞台が分からないので、その再演などは無理なのだが、シェイクスピア戯曲と同じで、シェイクスピアを聴きに行くとか、或いは、文楽鑑賞に、浄瑠璃を聴きに行くと言った当時の舞台観とは全く違っていて、技術の飛躍的進歩で、光も音も芝居を作り出す総合的な環境が様変わりしているので、如何に、蘇らせるのかは非常に難しいと思う。
   今回の舞台を見ていて、華やかで面白く、アラカルトの多くの見せ場があって、それなりに楽しませて貰ったが、何となく、芝居としての物語性とか、感動とは行かないにしても、後味の良さと言った芝居の醍醐味から離れていたような感じがしたのは、あまりにも、懲りすぎてサービス精神が旺盛であったからであろうか。
   
   
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ジャック・アタリ著「国家債務危機」

2011年01月29日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   貧乏人が金持ちを養う、途上国が先進国をファイナンスする。
   西側主要国の主権(ソブリン)債務は、西側諸国が年間に生み出す富をまもなく上回り、西側諸国全体が破綻するというシナリオは、決して夢物語ではなくなった。
   このような逆転現象から説き起こして、国家債務を、有史以来からその歴史を詳細に分析しながら、正に、現在、文明国家が直面している最大の財政危機について、問題点とその挑戦について、大胆な提言をしているのが、この本である。

   公的債務は、政府支出と同じペースで税収を増加させられないことから起こるのだが、国家の脆弱性や社会的コンセンサスの欠如を露わにする典型的なケースで、何よりも、国家と国民生活が、最悪の事態に直面していることを社会全体が理解することが大切である。
   公的債務の危機に対する本当の解決策は、結局のところ、経済成長だが、まず、徹底的に無駄を排除して、大幅な増税や社会保障費の負担増を実施し、ある程度のインフレを放置することも視野に入れて、大きな痛みを伴いながら、少なくとも景気が急回復するのを待つ以外にはないと、ジャック・アタリは言う。

   先日、アタリは、NHKのインタビューに対して、日本の国家債務の縮小の為には、第一に経済成長、次に、人口政策で、増税と財政支出の削減だと答えていた。
   私自身は、これまで、このブログで何度も論じて来たように、解決策は、アタリの説く如く、是が非でも、イノベーションを誘発して、厚生経済的な視点を考慮しつつ地球環境や国民生活を悪化させないような抜本的ドラスティックな経済成長を図ることだと思っており、インフレを伴わなければ、これ以外に解決方法はないと思っている。成長より質の高い格差のない厚生経済だと言う議論もあるが、成長が止まれば、分配の問題となり、物理的にも、豊かな人々の生活水準を切り下げる必要が生じ、イノベーションと投資意欲を削ぐので、経済環境を益々圧搾して、等しく国民生活の質を更にダウンさせることとなり、何の解決にもならないのである。
   勿論、増税や歳出削減で辻褄を合わせることは必要かも知れないが、抜本的な解決にはならないし、人口政策と言っても、出生率を高めて人口増を図るためには時間がかかるであろうし、即効薬は、移民、特に、外国人労働の導入しかない。
   いずれにしろ、これらの問題は、経済学の理論ではなく、政治的な議論にかかっており、政治経済学への回帰である。

   議論を戻して、国家債務の解決策だが、アタリは、8つ存在すると言う。
   増税、歳出削減、経済成長、低金利、インフレ、戦争、外資導入、デフォルトである。
   最も頻繁に利用されるのは、インフレで、現実の経済活動が裏付ける以上の通貨を発行することによって公的債務を賄うと、公的債務は物価の上昇を促すと言うのだが、現実の日本では、そんなことが可能であろうか。
   日本の戦時国債は、終戦と同時に紙くずとなってしまったし、また、国債の増発で破産寸前であったヨーロッパ諸国も、やはり、戦後のデフレと、戦後の経済成長で深刻な国家財政の破綻から逃れてきたのだが、それ以外は、殆どデフォルトしている。
   日本の場合は、戦争とデフォルト以外で考えられるのは、デフレからの脱却が前提だが金利とインフレは連動するであろうし、外資導入は破綻寸前であろうから、結局、残された道は、増税と歳出削減と経済成長で、成長が望み薄である以上、何十パーセントと言う大幅でドラスティックな増税と歳出削減以外に道がなく、それも、即座に対応することが必須である。
   あるいは、一時は新円切り替えで割り引いて交換するなど考えられていたようだが、伝家の宝刀・徳政令(?)の実施であろうか。

   ところで、日本の国家債務は対GDP比200%をオーバーしており世界最悪であり、後に続くイタリアやギリシャの比ではない。
   アタリが、何度か日本の国家債務危機について触れている。
   日本の国債の95%を、日本人が保有していることについて、
   ”国家債務の財源が、国内の貯蓄で賄われている比率が高ければ高い程、資金調達は安定する。債務コストを大幅に変化させる為替の問題が発生しないからである。
   日本が大きな懸念もなく公的債務の資金調達が出来るのは、日本人が貯め込んだ資産、日本人世帯の高い貯蓄率、そして日本のゼロ金利のお蔭である。”
   この議論には、賛否両論があるのだが、私は、多少は有利かも知れないが、何かの拍子に危機的な状態が発生したりネガティブ情報が流れてパニック状態に陥れば、同じ運命を辿ると思っている。
   ちょっと気になるのは、
   ”国家予算に占める債務の償還比率によって、危機の勃発の予想は出来る。この比率が50%に達すると、挽回することは極めて困難になり、一般的に、公的債務がこのレベルに近づくと、政府と市場はパニックになる・・・”と言っていることである。
   今や、日本の国家予算は、過去2年の税収は、総支出の半分も賄えていない。今月末に国会提出予定の来年度予算案は、一般会計総額が92兆4116億円で、税収はわずか40兆9270億円だ。これでは持続は不可能だとしか言えない。

   もう一つのアタリの日本の国家債務についての指摘は、BISの予測の租公的債務の対GDP比が、2014年245%、2020年300%まで増加するとなると、いくら現在のゼロ金利が継続したとしても、自国の貯蓄によって債務をファイナンスできなくなり、資金と需要を奪われた日本企業は、イノベーションのための投資を怠り、経済成長に寄与できなくなる。15年後に、日本の公的債務の対GDP比を60%にするためには、少なくとも歳出を20%削減するか、或いは20%の増税が必要だと言う。
   いずれにしろ、日本の国家債務危機は、相撲で言えば、徳俵に足がかかってしまった状態であることは間違いなさそうである。

   余談ながら、日本国債の格付けダウンについては、S&Pの格付けそのものが、アタリが言う如く、フランス国債の危うさは、ある意味では日本以上であり、世界金融危機を引き起こした元凶でもっと悪いアメリカや金融危機で経済が暗礁に乗り上げているイギリスなどが、AAAであったり、次の財政破綻候補国であるスペインが、日本より上のAAだと言うのであるから、何を評価しているのか信用以前の問題だが、日本も良くないことは良くないので、アタリの予測が当たってどこかの国が破綻すれば、その波及効果で日本の危機が一挙に増大することも考えて置く必要はあると思う。
   早い話、実質的には、不可抗力ではないが、エジプトの革命騒ぎは、予想外の早期の地政学的リスクであり、グローバルベースでの経済的打撃は極めて大きい。

   菅総理は、この本を買って読んだようで、先日ジャック・アタリとも会って指南(?)を受けたと言う。
   今頃、菅総理は、ダボスで、「開国、開国」と鸚鵡返しに日本政府の経済政策論をぶっている頃だ思うが、少しでも、世界の潮流を実感して帰って来て欲しいと思う。
   国民が、サッカーの日本オーストラリア戦に熱狂する姿を、国づくりにも投入出来るように、と願っている。

   
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インフレーションと中東の反政府運動

2011年01月27日 | 政治・経済・社会
   IHSグローバルインサイトのエコノミスト・ナリマン・ベールヴィッシュによると、ダボスの3大懸案事項は、中国の不動産バブル、ユーロ圏の債務危機、米国の失業率だと言うことらしい。
   最も深刻なのは、中国のバブルの問題だと言う。確かに、大前研一氏のコラムに、年収200万円の中国人が、1億円の住宅を買っていると書いてあったと思うのだが、どう言う根拠でファイナンスが可能なのか、サブプライム・ローンの比ではない。
   
   一方、WSJ紙によると、ダボス会議では、インフレも議題になると言う。
   食品、エネルギーその他商品相場の上昇を受けた世界の貧困層の可処分所得減少は、北アフリカで抗議活動を引き起こし、世界の政策担当者に難しい問題を投げかけているからである。
   失業問題などに抗議する青年の焼身自殺をきっかけに、ベンアリ前大統領の強権支配を覆す市民デモが起きたチュニジアに続こうと、中東や北アフリカで市民による反政府デモが相次いでおり、今日は、エジプトでの激しい暴動がNHK海外メディアのTVで放映されていた。
   圧政に対する国民の民主化運動とインフレによる貧困層市民生活への圧迫が結合して、平穏を保っていたイスラム圏の国々を、革命の嵐の中に巻き込んでおり、中東、ひいては、貧しいアフリカやアジア、中南米へも飛び火する可能性もある大変な勢いである。
   政権へのネガティブ情報が、ICT革命によるインターネットによって、FacebookやTwitter、或いは、Youtubeを通じて世界中を瞬時に駆け巡り、膨大な群衆を巻き込んだデモと抗議集会を勃発させて革命騒ぎを起こしているのだが、ベルリンの壁の崩壊が、ラジオや無線、テレビなどがビークルとなって引き起こされたことを考えてみると、正に、今昔の感である。
   某隣国へは、亡命者たちが作成したDVDが持ち込まれて流布していると言うのだが、情報をストップするなど至難の業であろう。

   この今回のインフレーションは、地球環境の激変による気候悪化による農産物の不作などが引き金となって、更に、アメリカなどの先進国の金融緩和によって膨張した資金や投機資金が加わって、食料を筆頭にコモディティ商品やエネルギー価格を、再び暴騰させて引き起こされているのだが、中東や北アフリカ市民よりももっと深刻な打撃を受けるのは、アフリカやアジアなどの最貧国の国民達であろう。
   アメリカも、EUも、日本も、経済は火の車であるから真っ当に援助さえ出来ないので、正に、中国の出番であり、悪名高きワシントン・コンセンサスに代わって、チャイナ・コンセンサスが、新世界で、グローバル・スタンダードとなるのかも知れない。

   そして、更に深刻なのは、イギリスなどでは、インフレでありながら、GDP成長率がマイナスになると言う異常な状態で、スタグフレーションへの突入が大いに懸念されていることである。
   スタグフレーションが、他のヨーロッパやアメリカなどを巻き込むと、世界経済を更なる苦境に立たせることになる。
   デフレに苦しんでいる日本などは、インフレ歓迎であろうが、まだまだ安い財やサービスが、中国やアジアの新興国などから入って来てユニクロ現象が継続するであろうし、日本の工業製品はまだまだどんどん安くなるのであるから、インフレなど望み薄で、スタグネーションだけが残って、経済復興の夢が遠のくばかりである。

   とうとう、S&Pが、日本の国債の格付けをAA⁻に引き下げてしまった。
   地獄への一里塚を、また、一つ越えてしまったのである。
   ダボスで議題になると言うインフレーションが、日本では、デフレの解決の目途さえ付かないと言うこの現実をどう見るのか、末梢的でお粗末限りない争点ばかりにうつつを抜かして、政争ばかりに明け暮れて、窮地に立っている日本国を救うために、予算一つさえ協力して通せない政治家の体たらくは情けない限りである。
   小沢問題で身動きの取れない民主党が無能だと言うのなら、55年体制以降政治の実権を握って日本国をここまで堕落させた責任政党である自民党が、何故、悔悛して、現政府をサポートして、窮地に立つ日本と国民生活を良くしようと思わないのであろうか。
   私は、インターネットでオバマ大統領の年頭教書スピーチをテキストを追いながら聞いていたが、あの格調の高さと、決然と前方を直視して自信に満ちた使命感に燃えて滔々と未来を語る姿と、殆ど原稿から目を離さない(いや、読まなければ演説できない)日本の政治家とのあまりにも大きな落差は、どこから来るのであろうか、と考えざるを得なかった。

   

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好き好き開国論・・・堺屋太一

2011年01月26日 | 政治・経済・社会
   堺屋太一氏が、上海万博の日本産業館記念シンポジウム「ポスト万博」のクロージングレマークスで、短いスピーチを行い、「好き好き開国論」を説いた。
   外国人嫌いの日本人が、成長が止まってしまったにも拘らず、まだ、知価社会に脱皮できなくて逡巡しているのだが、未来に向かって明るく雄々しく驀進中の中国の活力を説きながら、日本人も、自信を持って、新しい技術や美意識を追及して活路を開くために、総ての外国を恐れず外国人を好きになって、好き好き開国を目指すべきであると言うのである。
   
   幕末時代の日本人は、外国人は恐ろしいと考えていたので、外国人を鼻の大きな天狗や悪魔のように描いた絵しか残っていないのだが、あの当時のような「嫌々開国」ではなく、日本国をオープンにして外国人を迎え入れることである。
   外国人が沢山入れば、治安が悪くなるとか、外資が入れば、経済が危険に晒されるとかと言う批判があるが、そんな極端なことは起こり得ず、むしろ、日本が豊かになる。

   日本人は、今尚、物財を豊かに生み出すべく規格大量生産を誇った近代工業社会から脱しきれずに、例えば、農業政策など、いまだに、エネルギー量をターゲットにしている。
   量や価格ではアジアに負け、高度知価製品位には欧米に負け、アジアも欧米も両方とも怖いと言うのが今の日本の実情だが、知価社会となった今、アジアの中でも最も最先端を行く日本は、規模や量で争う他のアジア諸国と同じようなことをしていてはダメで、今こそ、新しい技術と美意識を磨きぬいて、綺麗、可愛い、気持ち良い、と3拍子揃った付加価値の高い値打ちのある財やサービスに特化して、活路を切り開くべきであると言うのである。
   そのためには、外国人を受け入れて、彼らの新しいアイデアや知的刺激や英知にインスパイアーされて、日本人の発想なり経済社会に活を入れて活性化すべきだと言うのである。

   飛鳥天平時代には、シルクロードが奈良まで達していて、碧眼のペルシャ人など多くの外人が日本を訪れて居たようだし、織豊時代にもポルトガル人が来訪するなど国際化の兆しが見えていたのだが、やはり、徳川300年の鎖国時代が災いしたのか、或いは、単一人種単一民族の日本の特殊性がそうさせるのか分からないが、おかしな舶来趣味はあるけれど、日本人は、相対的に、外人嫌い、外資嫌いで、外国に対する拒否反応が強くて、今や、若者までもが、外国留学や海外赴任を嫌がる傾向にあると言う。
   
   私自身は、極めて日本人意識が強くて、国粋的ではないが日本に対する誇りと自慢意識は人後に落ちないと思っており、ズットそんな生き方を貫いてきたが、海外生活が結構長かったので、外国人と交わって、その中で生活することには、全く違和感も苦痛意識さえもない。
   特に、人種や民族の坩堝と言われるくらい雑多な人々の混合したアメリカやブラジルに住んだり、オランダとイギリスに長かったので、今でも、鞄一つ持って、世界のどこを歩いていても(と言っても45か国くらいしか知らないが)、苦痛なく暮らして行けると思っている。
   したがって、次元が違う話であり、同じ次元では語れないかも知れないが、堺屋さんが言うように、好き好き開国をして、外国人や外資に門戸を開放して受け入れても、然るべきルールなり、システムさえしっかりしておれば、殆ど、心配する必要はないと思う。

   面白いのは、「国家債務危機」の中で、ジャック・アタリが、「人口が減少している国が、移民労働力を受け入れることは、公的債務の返済にとってはプラスになる。なぜならば、移民を受け入れる国は、彼らが成長するまでの費用や教育費など初期コストを負担せずに、債務返済だけを追わせることが出来るからである。」と言っていることである。
   日本の場合には、現在失業者が多くて、現実味が薄くなっているが、今後、少子高齢化で労働人口が、どんどん減って行くし、現実にも、介護医療など労働不足であるなど、摩擦失業状態でもあり、労働移民の積極的導入を大いに考えるべきである。
   特に、教育訓練コストの高い高度な学術芸術に秀でた優秀な人材を、アメリカのように、グローバルベースで導入できればベターである。
   私は、学歴の高い優秀なフィリピンやインドネシアから来日して、日本語の試験がパスしないので資格が取れないと言って看護師を帰国させると言う馬鹿なことをしているが、国際語の英語の試験を受けさせてパスすれば十分だと思っている。(日本人医師や看護師こそ、国際標準の英語で試験をすべきである。)

   ところで、イギリスは、失業者が慢性的に多いので、在住権の資格取得は難しいが、ウインブルドン現象と揶揄されるほど、外資導入には寛容で、金融のシティなど、英国資本の金融機関などは消えてしまって極めて少なく、殆ど外資の支配下になり、他の製造業やサービス業でも、似たり寄ったりである。
   ユニオンジャックの旗の元に世界を支配したはずのイギリスの多くの企業が、外資の軍門に下るなど、誇り高いイギリス人が甘受できる筈がないと思いきや、サッチャーが情け容赦なく叩き売っても、自国に事業主体があり、イギリス人を雇用して税金を払っていさえすれば、外国企業であろうと何であろうと、彼らは、一切気にしないのである。
   私には、それ程、寛容にはなれないので、外資支配には多少抵抗があるのだが、今の状態ではダメで、もっともっと積極的に外資導入を図るべきだと思っている。
   堺屋さんの提言、クリエイティブ時代に対応した付加価値の高い産業構造への飛躍的脱皮は勿論、好き好き開国には大いに賛成であり、今日、オバマ大統領が、世界的な競争を目指してスプートニク・モーメントを呼びかけ所得税減税を発表するなど積極的姿勢を示し始めたので、日本も、これ以上世界の潮流に逆らって惰眠を貪っている訳には行かないであろうと思う。
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中国は鉄道網の拡充で南下作戦を推進

2011年01月25日 | 政治・経済・社会
   The Economistが、中国が、雲南から、高速鉄道網を整備して、東南アジアへの勢力拡大作戦を加速していると報じている。
   1990年代から、関係国は、雲南からシンガポールへの切れ目のない鉄道路線の建設を夢見ていたようだが、現在は、雲南から、インドシナ半島の東岸を経て、ヴェトナムのホーチミンまでは繋がっているものの、ホーチミンからカンボジアのプノンペンまでと、カンボジア国内の一部は不通だが、タイ国内からマレイシア全土は開通している。

   実際には、雲南からラオスを経てタイへ貫通する路線がショートカットでベターなのだが、ラオスからタイへかけては急峻な山岳地帯で、無数のトンネルや橋梁が必要となり建設が非常に困難だと言う。
   それに、ヴェトナム戦争で使われた不発弾がラオスにはまだ多く残っているのだとも言う。
   しかし、雲南からミャンマー国境までのルートは殆どまだアクセスが不十分だとしても、既に中国経済圏に入っているミャンマーへの鉄道路線が開通しヤンゴンまで繋がると、中国は、インド洋への突破口が開ける。
   
   中国がASEANと自由貿易協定を締結して、1年経ち、既に、南東アジア諸国との貿易は拡大基調にあるが、その殆どは、トラックやローリーなどによる車両や海路での交易であり、鉄路に変われば、一気にコストが安くなり交流関係が拡大する。
   タイやインドシナ3国やミャンマーなどは、強大な中国市場へのアクセスを享受できるのだが、中国は、これら諸国の保有する膨大な天然資源が確保できると言うメリットがある。

   アジア開発銀行は、大メコン・サブリージョンのタイとカンボジア開発を支援しているが、この海岸ルートが貫徹すれば、中国は、ヴェトナム、カンボジア、タイ、マレーシア経済圏を貫通してシンガポールまで、容易にアクセスできることとなる。
   この鉄道のグレイドアップや未開通部分の建設など完全整備には膨大な資金が必要だが、その経済開発効果の大きさは計り知れない。

   タイは、中国との合弁で、中国のテクノノロジーを活用して鉄道の開発を図ろうとして、貧しい政情不安定の北東部への鉄道網の充実、観光業の促進のために時速200キロ以上の高速旅客鉄道などの開発を目論んでいるようだが、政情不安などで、この合弁契約が国会の承認を取れるかどうか危ぶまれていると言う。
   しかし、現実には、タイなどは、先進国との貿易よりも、ASEAN間との貿易が急拡大していて、貨物運搬用の鉄道整備の方が急がれていると言う。
   タイの場合には、貿易の25%がASEAN間で、11%が中国とだと言うことだが、他の交通手段より、鉄道の方が公害を引き起こさず、能率的でルートが短くなると言う利点があるので、鉄道網の充実を急ぎたいのである。
   
   実際に、中国と、これら南東アジアとの鉄道建設への協力関係がどれほど積極的かつ協力的に進められているのかは不明だが、中国が鉄路の拡充を通して、これら南東アジア諸国を自国経済圏に引き込んで、かつ、天然資源などのアクセスを確保しようとしていることは明白である。
   中国の決断と行動の速さは、驚異的で、中国共産党首脳が、唯一の権力であり法律であるから、何でも速戦即決実行できる体制にあり、このことが、中国の経済発展の馬力と速さの原動力である。
   私自身、少し前に、上海から杭州に車で走ったことがあるが、巨大なハイウエイ網が縦横に走っていて、これらが、ほんのわずかな期間で完成するのだと聞いてびっくりしたことがある。
   したがって、中国の現在の財力と技術さえあれば、後は決断だけで、一気に、南東アジアへの鉄道網を完備して、南東アジアのメインランド、すなわち、ASEAN経済圏の内陸部を抑えてしまうことことが可能であろう。

   先日、中国の政治経済社会の不安定性と問題おおき現実を書いて、その先行きを疑問視したが、いずれにしろ、躓くまでは、途轍もないエネルギーと速さで、世界戦略を推し進めて、中国は、突っ走り続けるのであろう。
   ならず者国家や非民主主義的な危険国家へも積極的にアプローチして「チャイナ・コンセンサス」を標榜して、地政学的にどんどん国益のために先手先手を打ちつづけて驀進する中国に対して、スケールの小さな対アジア経済政策を続けているようでは、日本は、益々差を空けられてしまう。
   
(追記)口絵は、The EconomistのHPより借用
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日経・日本経済研究センター・・・新春景気討論会(2)~中国経済の行方

2011年01月23日 | 政治・経済・社会
   中国経済の動向については、この討論会のパネラーたちは、世界経済の牽引車が先進国から新興国に移ったとか、中国やインドなどの経済成長が、今後の緩やかな経済成長を誘導するなどと比較的楽観的であった。
   私は、今年がどうだと言うことではないが、新興国、特に中国の将来展望については、そう簡単に、一本調子の経済成長を期待しても良いのかと多少疑問に思っている。

   まず、中国の通貨元安政策が、このままではいつまでも機能せず、中国経済を益々歪にして行き、その弊害が、中国経済のみならず、中国の国民生活を圧迫して、政治的な軋轢を引き起こすのではないかと言うことである。
   現実にも、金利よりインフレ率の方が高いマイナス金利で、更に、バブル傾向を助長しており、国民生活を狂乱(?)状態に追い込みつつある。
   これについては、私自身が論じるよりも、ポール・R・クルーグマンのニューヨーク・タイムズのコラム”China Goes to Nixon”から私なりの要約を引用する方がベターなので、これを借用させて頂くと、次のようになる。

   ”中国の元安政策は、世界中の雇用を奪って失業を蔓延させるのみならず、中国自身にもインフレを引き起こすと言う意味で誰をも利さないルーズ・ルーズゲームである。
   中国は、強い元の切り上げを拒否して賃金や価格を低く抑えようとしているが、市場は、逆に、賃上げと価格上昇圧力をかけるので、人為的な競争優位が損なわれる。結局、元の過小評価分は、数年でインフレで消えてしまう。
   中国は、この政策を続ければ、輸出業者を保護することになるかも知れないが、むしろ、インフレが、失業を加速することとなる。
   中国は、金融引き締めで、国民を締め上げている。銀行金利が2.75%であるのに、公表インフレ率はこれより高いのだから、実際のインフレ率は、もっと高い筈である。
   たとえ賃上げをしても、インフレによって、この搾取状態は更に悪化して行くであろうし、中国国民がインフレに怒りを爆発すれば、首脳部は、その火消しに躍起とならざるを得ない。
   いずれにしろ、輸出維持のために、元切り上げを拒否し続けても、通貨問題の根本的な解決にはならず、問題のインフレに対処するためには、金利を引き上げて、金融引き締めを行わなければならない。
   これは、世界経済にとっては破壊的で、益々経済が悪化して行く。世界中が金融引き締めに走らざるを得なくなるが、これは、中国としても継続不可能であり、続ければ、海外からのホットマネーの流入で、更に、インフレを加速する。
   経済の冷え込みを回避するためには、中国は、価格をコントロールしてインフレを人為的に抑えなければならなくなるが、これはほとんど不可能である。ニクソン時代にアメリカが試みて失敗した。Now China is going to Nixon.
   結局、解決策は、極めてシンプル。中国が、元切り上げを実施すれば済むことである。”

   もう一つ、特記すべきは、中国の内部から過熱経済への警告が出たことで、欧米の学者やジャーナリストの中国批判が現実味を帯びてきたことである。
   中央銀行である中国人民銀行・通貨政策委員会の余永定元委員が、”中国過去30年の経済モデルは、計画経済が残した条件のもとで始まったものの、今はもうその潜在力を使い果たした。このため、中国の発展もある段階にまでくれば、経済構造を調整しなければならない。さもないと、強力な改革もできず創造力も持てないので、中国経済は成長の勢いをそがれてしまう。”と語りながら、現在中国が、その将来に向かって、如何に多くの危機的な障害を抱えているかに明らかにし、根本的な政治改革の必要性を説いている。
   中国の投資率が50%を超えているが、これは投資効率が良くないためで、その原因は、投資決定に地方が影響力を持ち、過度な豪華建設を無理に推進して、あたかも、穴を掘って自らそれを埋めてGDPを膨らませている如くであり、不動産投資が成長全体の4分の1近くも占めているからだと言う。
   深刻な国土の環境汚染と情け容赦のない開発による資源の使い果たし、世界の工場となったものの創造力や改革の欠如がアキレス腱となっていること、深刻な格差の拡大とそれを増長する政策、既得利権集団の存在と政治の腐敗、官業の癒着、権力者の悪の同盟、等々余永定氏の指摘は、「中国は世界に復讐する」のピーター・ナヴァロや「中国はこれほど戦争を好む」のスティーブン・モッシャーなどの中国辛口派の批判よりも、もっと熾烈を極めていると思えるほどである。

   また、中国の一党独裁が民主主義とは完全に相いれないのだが、中国が法治国家であるのかどうかと言う問題で、東大長谷部恭男教授が、中国には法律があるが、一党独裁の共産党を支配する法律はなく、共産党最高指導部そのものが法を制定支配していると言っていた。
   実質的には、法治国家とは言えないし、共産党最高指導部の最重要課題は、自己保身と言うことであろうから、当然、民主主義の意識などはないと言うことである。
   私の勝手な解釈だが、共産党そのものが法律であるから、自分たちで決定すれば何でもできると言うことであろうか。

   忘れてはならないのは、いくらDGPが世界第2位だと言っても、経済の発展段階では発展途上国であり、政治的にも一党独裁であり、経済社会が非民主的で、先進国と比べれば資本主義制度も民主主義制度も極めて未熟で前近代的な中国であるから、当然、グローバリゼーションの潮流の中では、文化文明が急速に世界水準に平準化せざるを得なくなることである。
   その過程で目まぐるしい勢いで、政治経済社会制度や法制度などが、変化、改革革新されて行くので、進出企業にとっては、全く、これまでに経験しなかったような経済社会構造や経営環境が激変するので、それに対処すべき全く新しいカントリー・リスクが発生し、その対応に失敗すると命取りになると言うことである。

   私自身、これまで、随分、良くも悪くも、中国の政治や経済を論じ続けて来たので、これ以上の論述は避けるが、中国の経済成長が凄まじければ凄まじい程、コンストレインにぶち当たる確率が高くなり、不均衡故に、経済成長が暗礁に乗り上げる。
   中国は、丁度、リービッヒの樽の法則と同じで、あまりにも短い板が多すぎるので、いつ、水漏れするか分からない不安が有り過ぎる。
   未成熟で発展途上の成長著しい高圧経済であり、何よりも、グローバリゼーションを糧にして成長を続けているので、キャタストリフィックな展開には至らないであろうが、いずれにしろ、グローバリゼーション下のICT時代である以上民意の高揚などにもよるであろうが、必ず、近い将来に、どこかでコンストレインに足をすくわれて、何らかの形で頓挫する、一本調子の成長神話が崩れるであろうと思っている。

   蛇足ながら、「ブラック・スワン」のナシブ・ニコラス・タレブが、仕事を二つに分けて、専門家が何か役割を果たせる仕事と、果たせるとの証拠が見られない仕事があり、後者の専門家が専門家でないケースとして、経済学者、金融予想屋、ファイナンスの教授、政治学者、リスクの専門家等々経済金融に関わる専門家を列挙している。
   複雑怪奇な経済予測など、モデルに乗らないものを無視し、自分の知っていることばかりに焦点を当て、自分は、モデルの内側からしかものを見ないので、不測の事態を惹起する計画や予測に織り込まれなかった予期せぬ要素、すなわち、使っているモデルの外側にある要素を無視するので、当たる筈がないと言うのである。
   先日論じたハリー・デントに従えば、経済を予測するのなら、国民所得統計や為替や株価ばかりに凝り固まらず、少なくとも、人口サイクルやテクノロジーサイクル、そして、地政学サイクルやコモディティサイクルくらいは考慮すべきであると言うことであろうか。


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日経・日本経済研究センター・・・新春景気討論会(1)~アメリカ経済の行方

2011年01月22日 | 政治・経済・社会
   恒例の日経ホールで開かれた新春景気討論会を聴講した。
   この討論会での概略は、日経新聞の紙面や電子版で、動画も含めて報道されているので端折るが、アメリカ経済と中国経済についての討論について、多少異論があるので、考えてみたい。
   大方の見方としては、日米欧など先進国は、過重な国家債務の重圧や成熟化によって成長が鈍化し、世界経済の主役は、先進国から成長著しい新興国に移り、これら新興国の旺盛な成長によって、経済は、年度後半に入って緩やかな回復に向かうであろうと言うことであったように記憶している。
   日本経済については、成長率は、2010年度が3%強、2011年度が1.5%前後、為替と株の予測については、ほぼ現状を中心に小幅のアップダウンと言うところであったような気がしているが、要するに、経済ではなく景気討論会なので、どうしても、直近の目先に囚われて、中長期の構造的な視点が欠けるのは仕方がないのであろう。

   アメリカの景気については、岩田一政理事長は、FRBのQE2による金融緩和策を高く評価してデフレから脱却しつつあると言う見解であり、野村の木内登英部長は、為替や株価から予測をしていたが、一方、日銀の門間一夫部長は、住宅部門のバランス不況からは未脱却であり、緊急危機に端を発した不況で失われた雇用の回復が未達で、失業が長期化するであろうと述べていた。
   私は、これまでに、このブルログで、アメリカの景気回復には、もっともっと大規模な公共投資など政府の財政出動が必要だとするスティグリッツやクルーグマンの説を取り上げて来たが、この考え方の方が、特に、新産業やイノベーションを誘発して経済を成長軌道に乗せるためには必要だと思っているので、既に、金利をゼロ近辺に引き下げても機能しないFRBの金融政策の効果については疑問を持っている。

   経済浮揚策としての巨大な財政出動には、アメリカには根強い拒否反応があり、オバマ政権の経済政策が国家債務を益々増加させると危惧されているが、インフラへの公共投資を積極的に拡大してアメリカ経済を再生させよと説くスティグリッツと全く同じことを、フランス人のジャック・アタリが、新著「国家債務危機」で説いている。
   ”公的債務の危機に対する本当の解決策は、結局のところ、経済成長である。経済成長の前提となるのは、競争力のある投資であり、そのためには公的なインフラが欠かせない。したがって、過剰な債務解消の前提となるのは、健全な債務の増加である。”
   (誤解なきよう付言するが、日本は、国家債務はもう臨界点を突破した成熟国家となってしまっているので、この説は殆ど当て嵌まらない。リチャード・クー流の財政出動による需給ギャップの穴埋めなどは、これ以上絶対にやってはいけない。)

   ABCニュースの報道では、オバマ胡錦濤会談の半分は、米国の雇用問題が議論されたと言われているくらいであるから、アメリカ経済にとっては、高止まりして一向に改善しない失業問題、すなわち、雇用問題の解決前進が、最も喫緊の関心事であって、中国政府への元切り上げ圧力も、この延長線上の施策なのである。結局は、もっとも有効なのは経済成長しかないと言うことである。
   アメリカの中国への経済的圧力の究極の目的は、中国市場の解放であって、かって日本市場をターゲットにして意図した様に、価格競争力など眼中にない知財や高度なサービス産業や超ハイテク産業などの進出による中国産業経済のコントロールであろうと思っている。

   三井物産の飯島彰己社長は、従来型の産業からではなく、スマートホンなど更なるITハイテクなど新地域や新産業などでの構造転換型の経済回復を予測していたが、アメリカにとって、正に必要なのは、この方面への強力な経済社会の産業構造変化の推進加速であって、イノベーション誘発による新産業革命であろう。
   昨日、オバマ米大統領が、雇用創出と競争力強化を目指す諮問会議を新設し、議長に米ゼネラル・エレクトリック(GE)のジェフ・イメルト会長兼最高経営責任者(CEO、54)を起用し、ボルカー元米連邦準備理事会議長(83)が議長を務めていた経済再生諮問会議を刷新するもので、ボルカー氏は退任することになったのも、正にこの路線の充実の為であろう。産業界との関係を改善し、規制強化路線から経済活性化へ政策の軸足を移すということでもあり、技術革新や自由貿易促進などを通じて米企業の競争力を強化し、雇用を増やす方策を助言する役割を担うことになると言うことである。

   また、The Economist誌が、China in the mind of America  Why some politicians yearn for another“Sputnik moment”, and why it wouldn’t help と言う記事のなかで、オバマ大統領などが、中国の破竹の勢いの経済成長をロシアのかってのスプートニク危機に見立てて、月ロケット打ち上げを目指して、科学技術の振興教育を強化しNASAを設立して全米が燃えに燃えたあの時代の「スプートニク・モーメント」を再現したいと目論んでいることを記しているが、アメリカの再生は、金融政策や為替や株管理だけではなく、根本的には、新産業の創設を核にした実体経済の再活性化以外には、望み得ないのである。
   テクノロジーで絶対に中国の遅れを取りたくないと息巻いている共和党のニート・ギングリッチなどは、解決策として、民主党とは相いれない、税の削減、小さな政府と自由市場、公共投資反対を唱えており、力がついた共和党の抵抗は強い。
   したがって、先のスティグリッツやクルーグマンの叡智の実現は非常に困難で、アメリカ経済が再浮上するかどうかは危ぶまれ、景気循環の回復局面を待たねばならないとなると、かなり前途多難である。
   しかし、いずれにしろ、私自身は、アメリカ経済の先行きは、アメリカ政府のこの方面への財政出動や積極的な新産業政策如何にかかっていると思っている。
   
   
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ミシェル・オバマ、ウォルマートの健康食品キャンペーンに賛同~ワシントン・ポスト

2011年01月21日 | 政治・経済・社会
   ワシントン・ポストからのメール・ニュースで、”With praise from Michelle Obama, Wal-Mart announces healthy food campaign”がトップで入ってきた。
   ファースト・レイディが、南東ワシントン・コミュニティセンターで行われた、安売りで名声を博したメガスーパーのウォルマートの、もっと健康な食品を販売しサプライヤーにも協力を要請するとする「健康食品キャンペーン」に賛同して、ウォルマートの役員と共に発表セレモニーに参加したというのである。
   大統領夫人が、特定企業のキャンペーンに賛同するなどと言うのは異例のことだが、「ウォルマートのこの努力は、国中のマーケットプレイスを変革する国民の巨大な勝利だ」と述べている。  
 
   食品会社が、Great Valueと銘打って売っている米、スープ、缶入り豆、サラダドレッシング、ポテトチップスのようなスナックなどの多くの加工食品に加えられている、ナトリウム、トランス脂肪酸、添加砂糖などを削減して健康食品とすることは勿論、新鮮な果物や野菜などを、もっと低価格で提供すると言う健康食品キャンペーンを5か年計画で実施すと言うことである。
   更に、ウォルマートは、全生産の16%をウォルマートに供給していると言う巨大食品メーカーKraftなどを筆頭に、商品のメーカーやサプライヤーに圧力をかけてこのキャンペーンに協力させることを約束している。 

   前に、マイケル・ポーランの「雑食動物のジレンマ」のブックレビューで、アメリカの食品が如何に悲惨な状態にあるかを論じたが、特に、アメリカで売られている加工食品の汚染や悪質振りは特筆すべきで、貧困層や子供たちの健康を蝕んでおり、深刻な社会問題を惹起しているのである。 
   世界最大の小売店で、しかも、中国からサテライト2基を使って毎年数兆円の商品を調達しているウォルマートであるから、このキャンペーンの意義と影響力は、途轍もなく大きく、ファースト・レイディが言うように、食品市場を変えてしまうのみならず、グローバルベースでのビジネスのコンセプトさえ変革しかねないと考えられる。

   とにかく、エブリディ・ロープライスを旗印に、安く売るためには何でもすると言うイメージで、労働環境や従業員の待遇は最低だと揶揄されていたウォルマートだったが、最近では、省エネや地球環境の保護などの緊急の社会問題へも意を用い始めたと言う。
   この健康食品キャンペーンも、その社会的責任への企業努力の一環であろうか。

   いずれにしろ、このキャンペーンと言っても、とどのつまりは、巨大なスケールの調達力をフルに活用して、規模の経済を実現するのであり、更なるコスト削減努力は、従来のように熾烈かつ強烈なサプライヤー競争を強いて弾き出すのであろうから、ウォルマートとしては、痛くも痒くもないであろう。
   ウォルマートにとっては、ミシェル・オバマをキャンペーンに誘い込んで実現した大きなPR宣伝効果と、社会的責任企業としてのイメージアップで得たレピュテーションの価値は、非常に大きい。
   問題は、このように巨大な安売りスーパーが、社会的責任と社会正義に目覚め始めて巨大なスケールで動き出すと、これまで、健康食品を売りとしてニッチ市場を目指して業績を伸ばしていた専門スーパーや小売店などが、どのように対抗するのか、その再編が面白い。

   もう一つ話題となるのは、趣旨は、社会的正義のために良いとしても、今回のように極めて影響力の強いファースト・レイディと言った政府高官ないし関係者なり政府など公的機関が、特定の企業の動向にどこまで、協賛なりサポートが出来るのかと言うことである。
   既に、リーマンショック後の金融機関やビッグスリーの救済などで、アメリカも社会主義国家(?)になってしまったのであるから、是々非々主義で良かろうと言う考え方も出来るであろうし、或いは、既に国家規模のプロジェクトなど巨大なグローバル・ビジネスなどでは政府主導の売り込みやプロジェクト参画が常識となっているので、目的次第で、政府など公的機関の関わりは問題ないと言う考え方もあるであろう。
   私は、このケースは、人類社会における喫緊の課題でもあり、社会的正義のためにも必須の消費者運動でもあるから、非常に良いことだと思っている。
   昔から、イギリスやオランダなどのヨーロッパ政府が、結構、私企業のビジネスのサポートに積極的であるのを見ているので、日本政府も逡巡せずに、もっと、ビジネス・オリエンテッドになっても良いと思う。
   
(追記)写真は、NYTホームページより借用。
 
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沼野正子著「今宵も歌舞伎へまいります」

2011年01月20日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   積読だった絵本作家の沼野正子さんの「今宵も歌舞伎へまいります」を読み始めたのだが、女性ファンの視線からの歌舞伎・文楽三昧の軽妙な語り口が非常に面白く、楽しませて貰った。
   冒頭の歌舞伎の演目は数々あれどでは、三大名作から伊賀上野道中双六や東海道四谷怪談などの通し狂言を、歌舞伎と文楽とを綯い交ぜに観劇記を交えながら、筋を追って解説をしていると言った感じなのだが、私の見方などとは大分違っていて、新鮮な発見があって面白い。
   男が女に扮し、さらに特定の女の役になると言う不思議のもとを、つきとめたいと言うことで、女形の舞台を感じたままを追って行くと言う書き出しなのだが、結構、玉男の人形の素晴らしさに惚れ込んだりして、中村吉右衛門など立役の世界も語っている。

   この本で面白いのは、絵本作家なので、歌舞伎の物語などに対する印象記のエッセンスと言うかその思いを、珍版・お猫歌舞伎と言うタイトルで、コミカルな絵にして描いていることである。
   たとえば、義経千本桜で、いがみの権太が、内侍と若君の身代わりとして、自分の息子善太と妻小せんを縛り上げて差し出すのだが、挿画では、そのシーンの下に、おさとが、静に、二人の助命嘆願書を差し出すと、まかせて、と受け取るシーンを描き、猫が、ネ・ネ こうしてあげたいワと語ると言う具合である。
   仮名手本忠臣蔵では、殿が殿中で刃傷に及んでいた最中に濡れ場に熱中して忠義を尽くせなかった勘平を、おかるが、わたしの実家へ行けばなんとかなるワと袖を引く道中姿を描き、その下に 一力の茶屋の場であろうか、由良さまにだまされたいワー と おかるが顔を赤らめるシーンなどを描き、猫が、おかるってカルすぎません?そりや お軽ですから と会話を交わす。
   
   妹背山婦女庭訓で、雀右衛門のお三輪の稚く、一途な恋の乙女振り! 愛らしさについて、当時20歳そこそこであった求女の辰之助(松緑)、橘姫の菊之助と比べて3倍以上なのだが、歳の差など感じなかったと感嘆している。
   私などは、どうしても演じている歌舞伎役者の年齢や地の姿が濃厚に頭にインプットされてしまっていて、素直に見られないのだが、時々、このように新鮮なショックを受けて感激することがある。
   その点、文楽の場合には、人形遣いの年齢や姿形ではなく、人形そのものの演技ドラマを見ているので、邪念やイル―ジョンが入り込まないので良いのかも知れない。

   道中おだまき・御殿の場のお三輪だが、「14,5歳の女の子が恋におちて、一度でも相手の男にうけいれられたら、後はもう人生すべて、恋する男のことばかりになってしまう。」と沼野さんは言う。
   そうだ、歌舞伎の舞台では、立派な女形が演じるのばかり見ているので、まだ、幼さの抜けきらない一途に男を思い詰める田舎娘であることを忘れてしまっていたので、考え過ぎておかしな解釈をしていたのだと言うことに気が付いた。
   高貴の奥方北の方などと言われても嬉しくも何ともない、一途に恋しい求女に一目会いたいと希いながら果てたのである。
   
   沼野さんの通し狂言の筋書き解説の中で、二つだけ、何故、解説で、そこだけ端折ったのか気になったところがあった。
   一つ目は、忠臣蔵の一力茶屋の場の大詰めで、由良之助が、おかるに、死んだ夫勘平の代わりに刀を持たせて九太夫を突き刺すシーン。
   もう一つは、伊賀越道中双六の沼津のこれも大詰めで、金包みの中に残された書付を見て、十兵衛が、平作の子供であり、お米の兄であることを二人が知ると言うこと。
   どうでも良いことかも知れないが、これらの物語の核心部分の一つであると思ったからである。

   第二部の贔屓の道はどこまでも や 第三部の死ぬも生きるも女でござる も、私には、非常に新鮮で面白かった。
   とにかく、私など、理屈から歌舞伎や文楽の世界を見ようとする悪弊があるので、このようなユーモア溢れた経験豊かで詩心が漂う含蓄のある観劇録を読んでいると、大変参考になる。
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ヘンリー・フォードのT型車イノベーションの明暗

2011年01月18日 | 経営・ビジネス
   今回も、スチュアート・クレイナーの「マネジメントの世紀」のフォードの章「モダン・タイムス」の記事について考えたい。
   驚くなかれ、今から100年近く前、フォードのハイランド・パーク工場では、1910年の創業から1927年までに1500万台のT型車が生産されたと言う。
   既に、アメリカの資本主義が、相当高い水準まで進んでいたと言うことだが、この大量生産の根幹は、流れ作業の組み立てラインにある。
   
   この組み立てラインは、それ以前の1870年代に、中西部の食品加工業で用いられており、フォードもシカゴの食肉包装工場に視察に行ったと言う。
   しかし、フォードが組み立てラインを実際に思いついたのは、1906年に開業したシアーズ・ローバックのシカゴのメールオーダー工場が切っ掛けで、一旦注文が入ると配送時間などタイム・スケジュールを決めて、ずらりと並んだベルトと荷分けスロープに商品を流して納品と出荷を繋ぐと言う流れ作業のラインである。

   もう一つ流れ作業の組み立てライン・システムを可能にしたのは、交換可能な部品の生産の概念で、このイノベーションは、綿繰り機の発明者イーライ・ホイットニーに帰するとクレイナーは言う。
   これも、既に、18世紀に時計の生産やフランスの鉄砲鍛冶で実施されていたのだが、いずれにしろ、この流れ作業や部品交換の概念によって編み出された流れ作業組み立てライン・システムは、労働者の思考の必要性や動きを最小限に抑えて、彼らが、最も効率的に一つの行為を行うために厳格に業務を分割した究極のシステムであり、これまで主流であったクラフトマンシップを放逐し、技能を持たない労働者を使うことを可能にしたのである。
   フォードは、仕事から技能を取り去ったとの非難にたいして、計画や経営、手法の構築に、むしろ、技能を取り入れて、技能を持たない人にも出来るようにしたのだと抗弁している。

   T型車を生み出したフォードの精神は、それまで、車は限られた人々のものだったが、車は世界を変えると言う強い信念を持っていたので、人々が手の届くような価格に下げて大衆化を目指すことであったから、素晴らしくシンプルであって、ウインド・シールド・ワイパーや燃料メーター、スピード・メーター、バッテリー、バックミラーもなかった。(実際には、付属品を付けられると言うことなので、何千もアクセサリーのあるシアーズのカタログを見て揃えれば、自分でT型フォードをカスタマイズできた。)

   フォードの売り文句は、「フォードを買って、差額は他のものに使おう。」だったので、フォードは、継続的に容赦ない生産コスト削減に没頭し、取りつかれたように、熱心に、T型車の価格を削減した。
   低コストの追及の中で、フォードは最先端の生産技術を開発し続けたのである。
   
   コスト低減の要求が進むにつれて、フォードは次第に重点を生産体制のコントロールに置き始めて、原材料や部品の納品や供給業者への要求強化や締め付けを行った。
   後にGMのカリスマ社長となるアルフレッド・スローンが、下請けのローラー・ベアリング会社の役員をしていたことがあり、失敗して生産ラインを遅らせるような致命的なミスを犯せばどんなことになるのか、その恐怖を記録に残していると言うから面白い。

   更に、フォードのコスト削減戦略が進むと、自給自足がフォードの新しいお題目となり、買収に買収を重ねて、川上から川下まで、究極の垂直統合企業になって行ったと言う。
   このようなフォードの革新的な経営戦略の遂行とイノベイティブな経営によって、フォードが破竹の勢いで驀進して行ったのだが、この栄華は、1920年代がピークで、その後、少しずつ業績が陰り始めて来た。

   フォード帝国の問題点は、フォードの経営スタイルや思考への貢献にあった。
   まず、1914年に導入した日給5ドル制度だが、これは単なる優れた広告であり、高い転職率と言うビジネス問題の解決法であり、フォードが、「私の考案した賢いコスト削減措置」と呼んでいたように、フォードの経営戦略には慈悲と言う概念はなかったし、この5ドル制も好不況で変動し、大恐慌時には、4ドルとなり他企業より低かった。
   もっと酷かったのは、労働者は働くために、また、指示されたことをやるためにいるので、より厳格な規律がないと極度の混乱に陥るとして、厳格な規律の維持のために、「社会学部門」を創設して徹底的に従業員を監視したのである。
   フォードのやり方で働くのが嫌いな人間は去れと言うのは勿論だが、労組の組織化を支持、飲酒やギャンブル、経済的な問題を抱える、喫煙者、ユダヤ人、住込みの外国人労働者等々、問題ありとされた従業員は、どんどん解雇されるなど恐怖政治さながらであったらしい。
   
   クレイナーは、「フォードは恐怖と不信の上に企業を作り上げた。同社が大きな成功を収めたからと言って、この点を見逃してはならない。」と言う。
   フォードの人材管理は酷いもので、その成功は限定的なものとなり、初期の革新は、やがて停滞した。当初は、改善のための継続的な追及を特徴としていたが、フォードは基本のT型車の技術を変更することを拒み、手遅れとなり、新しいA型車を1927年に出したが、既に他社にシェアを奪われていた。
   フォードの根本的な失敗は、彼が成功で無限の支配力を得たと信じてしまい、その成功に慢心に陥ったことだと言うのである。

   余程、フォードの傲慢な経営哲学が嫌いなのか、非常に興味深いのは、ヘンリー・フォードに啓発された一人として松下幸之助に言及して、松下とフォードの決定的な違いは、松下は強いモラルと倫理の要素をビジネスに対して持っていたことで、会社は単なる生産のための道具ではなく、社会や個人の便益の媒体だと考えていたことだと言っている。
   利益だけでは不十分で、貧困を克服して窮乏から社会全体を救い、社会生活の改善と向上を図り、世界文化の発展に寄与しなければならないと言った幸之助経営哲学を披露しているのも、やはり、イギリスのジャーナリストであるからであろうか。
   しかし、文明社会を、そして、資本主義を、ここまで発展させた偉大な貢献と功績は、やはり、不世出の偉大なイノベーターでありアンテルプルナー・ヘンリー・フォードあったればこそであることは、厳粛な歴史上の事実であろうと思う。

   今回は、フォード経営の紹介だけに終わってしまったが、久しぶりに、アルフレッド・スローンの「GMとともに」を読んで、当時の自動車産業を勉強しなおそうかと思っている。
   最初のクライアントがスローンであったから、駆け出し時代のドラッカーが見えてくるかも知れない。   

 (追記)写真は、FORD社のHPから借用
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フレデリック・テイラーの科学的管理法の悲劇

2011年01月17日 | 経営・ビジネス
   20世紀のマネジメントの歴史を語るスチュアート・クレイナーの「マネジメントの世紀」の冒頭は、ストップウォッチ・サイエンスと言うタイトルで、「科学的管理法」のフレデリック・テイラー、次の章は、モダン・タイムスで、T型車大量生産ラインのヘンリー・フォードの経営を扱っていて興味深い。
   大学でもビジネス・スクールでも学んだトピックスだが、概念らしきことを素通りしただけで分かったような気がしていたのだが、短い章であるものの、改めて多少詳しく語られると、気付かなかったことどもが見えて来て面白い。

   最初に感じた印象は、謂わば、マネジメントの科学的な萌芽と言うか、マネジメントの体系的ないし学問的な幕開けと言う感じと言うよりは、アメリカの経営なり経営学は、当初から、合理的機械的で、人間性軽視の極めて無味乾燥なものであったのだと言うことである。
   モダン・タイムスと言うタイトルを冠してクレイナーが語っているフォードの大量生産オートメーション・システムは、既に、チャップリン映画の人間性無視の経営を髣髴とさせていると言うことで、生産性の向上なりイノベーションは、太古より、人間にとって、幸か不幸かは紙一重だと言うことである。

   まず、テイラーだが、当時の労働者は、仕事が早く進む代わりにゆっくりと進むこと、すなわち、実際に受け取る賃金に対して、より少なく仕事をすることが自らの利益になると固く信じて疑わなかったと言う。
   更に、労働者にとっての利点は、彼らの上司が、どのくらいの時間で一つの仕事が出来るのかを知らないことで、労働者の仕事の性質を調べようと考えた経営者は誰一人としていなかったと言うことである。
   労働者たちが、「働くふり」に時間を取られて、故意に作業を遅らせるなど生産的に早く仕事をすると言う動機を全く持ち合わせていないのに、頭に来たテイラーが、ストップウォッチを持って、仕事を正確に測って、仕事を完成させる効率的な唯一の方法を確立したのである。

   これが、テーラーの科学的管理法の原点なのだが、このことは、労働者には何が期待されているのかを、そして、経営者にはどのくらいの量を生産できるのかを、正確に分からせることとなったのである。
   テイラーのストップウォッチが、工場の生産性を一挙に伸ばし、時間の意識をマネジメントに持たせ、仕事場に精密さと規律を持ち込んだのであるから革命的な変革で、世界中に大きな影響を与えたのだが、ロシアのレーニンもテイラー・ファンだったと言うから面白い。
   より多くの生産と、より多くの市場を追及するのが20世紀の経営的な探究課題だが、テイラーは、正に、その手段を提供し、「多いことは良いことだ」とするヘンリー・フォードの経営哲学の大前提にもなったのである。

   ここで、面白いのは、テイラーの世界におけるマネージャーは、測定すれば仕事はおしまいと言うことであったが、ミンツバーグの言を引用して、監督や測定や観察に専念する全く新しい種類のマネージャー、すなわち、ビジネスの効率性と意思決定に対する最大の障害となる中間管理職を生み出したと指摘しているのが興味深い。
   ICT革命で経営や重要情報へのアクセスへの平等化が進展して中抜きが常態となってしまった今日の経営では、中間管理職無用論は一般論であるとしても、テイラーに遡るとは面白い。

   もう一つのクレイナーの指摘は、テイラーの理論は、マネジメントは人間味のある科学ではなくて禁欲的なもので、倫理より効率性を優先して従業員の個性を否定し、科学的管理法は、信頼の欠如、個々人の価値や機知や知性への尊敬の念の欠如の上に築かれていると言うことであり、その理論の実践には議論が付きまとったと言うことである。
   信条として科学的管理法を宣言したUSスチールは、新しい生産ラインや生産ラインを加速させる出来高システムを導入すると同時に、大部分の労働者の手取り所得を減らすなど、効率性を重視する非人間的な労働環境を強いたので、3500人の未組織労働者が反乱を起こしたと言う。
   
   ところが、非常に興味深いのは、当時19世紀を通じてビジネス上のモラルや倫理的な要素が強くて、大企業の経営にも強い慈善の原則が横たわっていたようで、テイラーの当初の主張は、効率性の向上がすべての改善につながり、経営の主要な目的は、雇用者の最大の繁栄を確保し、おのおのの従業員の最大の繁栄と一致させることであると社会主義的な視点と同じであったと言うのである。
   生産性の向上は社会も向上させると一時は信じていたようだが、科学的管理法が、コストを下げて低価格を可能にして、より多くの売り上げと大きな利益を可能にすると、競争が熾烈化して、一挙に無邪気で楽観的な思想も跡形もなく吹き飛んでしまったのである。

   クレイナーは、20世紀後半に脚光を浴びたリエンジニアリングについても、この科学的管理法と同じで、仕事生活や企業の業績を上げるよりも、むしろ人員削減に結び付いたと言っている。
   冒頭に述べたように、イノベーションも生産性向上も、良かれとして実施される多くの良きことが、正に、両刃の剣であって、それを扱う人間の倫理や思想次第で、毒にも薬にもなると言うことであろうか。
   
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寿 初春大歌舞伎~新橋演舞場:夜の部

2011年01月15日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   夜の部の注目舞台は、やはり、富十郎の急逝によって翁に大きな穴が空いた「寿式三番叟」であろう。
   梅玉が代役で素晴らしい舞台が展開されたのだが、附千歳を演じた富十郎の長男鷹之資の若々しくて凛々しい舞姿が、健気なだけに痛々しいのである。
   天王子屋、天王子屋、と言う威勢の良い掛け声が、大向こうから掛けられるのだが、親子そろっての晴れ舞台であれば、どれだけ素晴らしかったかと思うとさびしい。

   2005年の11月の吉例顔見世大歌舞伎で、当時大であった鷹之資が、親子共演の「鞍馬山誉鷹」で襲名披露を行ったが、上手に雀右衛門、梅玉、吉右衛門、下手に、富十郎、仁左衛門が並び、真ん中に座って「中村鷹之資で御座います、宜しくお願いします」としっかり口上を述べていた。
   その少し前に、丁度、聖路加病院の日野原先生と富十郎の対談を読んでいたので、富十郎が90歳になった時に丁度鷹之助が20歳になり、初代富十郎の生誕300年祭なので、その時まで長生きして、大に富十郎を継がせたいと言っていたのを思い出した。
   大丈夫、とにかく、70歳で長男をもうけた精力絶倫とも言うべき富十郎なのだから。いや、まだ、その後、聖路加で長女愛子ちゃんが生まれたし、と思っていたので、ほんの数か月前まで、あんなに元気で溌剌とした舞台姿を見せていたことでもあり、今でも、私には、富十郎の逝去が信じられない。
   ご冥福を心からお祈り致したい。
   芝翫、猿之助、吉右衛門等の話や本によると、歌舞伎の世界では、後ろ盾を失った名門歌舞伎役者の残された子供たちは、如何に筆舌に尽くし難い苦難の道を歩まなければならないかと言うことなので、鷹之資に幸あれと祈りたい。

   さて、今回の舞台で、面白かったのは、鶴屋南北の「浮世柄比翼稲妻」の「浅草鳥越山三浪宅の場」である。
   この長い狂言の「鈴ヶ森」と今回の「吉原仲之町の場」は、これまで見たことはあるのだが、この「あざ娘」と呼ばれる舞台は初めてで、天国と地獄を綯い交ぜにしたような浮世離れしたシーンの数々が面白いのである。
   この歌舞伎は、山東京伝の「昔話稲妻表紙」を基にして、南北が、白井権八、三浦屋小紫、幡隨院長兵衛の世界をミックスしたような芝居に仕立てたようだが、通しで演じられることがないようなので、複雑な全編の筋書きなど分からないし、夫々の舞台は、話の筋などあってないようなものであるから、その場その場で楽しめば良いと言うことであろうか。

   この舞台は、佐々木家の家臣名古屋山三(三津五郎)は、浪々の身で貧乏長屋に、献身的だが顔に大きなあざのある下女お国(福助)と住んでいるのだが、そこへ、元腰元で深い仲だった花魁葛城太夫(福助)が、花魁道中よろしく一行を引き連れて、仇・不破伴左衛門(橋之助)の情報を持って訪ねて来ると言うのであるから、有り得ないような話の展開になる。花魁が嫁に入ると飯の炊き方も分からないと言うので、貧乏長屋の家主杢郎兵衛(市蔵)が、軽業の鳴り物で飯炊き指南を行うと言った道化踊りが披露される。
   この長屋だが、雨が降ると逃げ場がないほど雨漏りするので、山三が座っているところは、頭上に大きな盥をぶら下げると言う状態で、飯炊きの薪がなくなると、床板を外して燃やすと言う徹底した貧乏長屋なのだが、ここに、着飾った本格的な花魁一行が入り込むのだから、舞台は奇想天外、これを、芸達者な役者たちが、大真面目に演じているのだから、正に芝居である。

   傑作なのは、三津五郎演じる山三で、とにかく、浮世離れした鷹揚な人物で、このような極貧生活をしていても、悠揚迫らず部屋の中央に端座して高貴の身分のままの立ち振る舞い。花魁葛城に会いに行くので一張羅の小袖をと言われても既に質入れ中、お国は、なけなしの家財や衣服、汚い間仕切り屏風まで持って質屋に出かけるのだが、そんな苦境は知る由もない。
   冒頭金貸しや家主たちが借金取立てに騒ぎまわるので、お国が謝り倒すのを見て、いつか返すのだからもっと威張れと命じる鷹揚さ(?)。
   唯一の救いは、質屋から帰ってきた山三が、お国に髪の手入れを頼んだ時に、その腕に「旦那様命」と彫ってあるのを見て、お国の手を引っ張って別室に入るシーン。お国は、寺で拾った役者絵にそっくりの男前の山三に恋焦がれていたのだから、天にも昇る気持ちである。
   福助の何とも言えない程上気した嬉しさと幸せと官能を綯い交ぜにしたような絶頂の顔の表情は秀逸で、観衆からどよめきが起こる程。とにかく、山三へのときめく切ない恋心の表現が真に迫っていて感動的である。

   ところが、このお国の父親・浮世又平(彌十郎)が、仇・不破の手下で、やり手お爪(右之助)に唆されて山三殺しをお国に吹き掛ける。許せぬお国は、父を殺し、お爪の盛った毒酒を誤って飲んで瀕死の状態になりながら、花魁に会いに出かける山三に這いずりながら編み笠を渡し、山三の飲み残した水を末期の水として飲んで、山三の「内へ残すは宿の妻」と言う言葉を聞いてこと切れる。
   一途に、誠心誠意誠実に生きた、あざ娘のお国の姿が、実に、印象的な、中々面白い芝居であった。
   この場の主役は、山三と、このお国と葛城、そして、浮世又平だが、家主や花魁一行の幇間や遊女なども結構出番があって、バリエーションに富んだ芝居でもあった。

   福助は、このお国と葛城、「鞘当」の茶屋女房お梅の三役を器用に熟しており、「実盛物語」の葵御前や、昼の部の「三笠山御殿」のお三輪など、大車輪の活躍で、立女形への力量を存分に発揮していて爽快であった。
   もう一人印象的だったのは、市蔵の活躍で、性格俳優的な芸の豊かさが光っていて、夫々に味があって面白かった。
   蛇足だが、「実盛物語」の團十郎の斎藤実盛の素晴らしさは、言うまでもない。
     

      


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ハリー・S・デント・ジュニア著「大恐慌」

2011年01月14日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   先の本「バブル再来」で、エコーブーマー(ベビーブーマーの子供世代)の台頭でブーム到来を予言したハリー・デントが、この新しい本「大恐慌 THE GREAT DEPRESSION AHEAD 2008年刊」で、2010年以降に、大暴落が再びやって来ると予言している。
   リーマン・ショック以降の世界的な経済不況の影響は残っているものの、多少、アメリカの経済指標が上向き、日本の財界筋の景況感もやや良くなりつつあるので、経済状態の先行き見通しは少し明るくなってきているので、また、外れるのかと言う予感がし始めており、経済悪化が継続したとしても、デントの言う大恐慌と言う程にはならない感じである。

   デントの経済トレンド予測の特徴は、人口トレンドを最も重視して、その傾向を見て支出の波を描いて、その需要曲線の推移から経済成長や循環を予測するのである。
   デントのもう一つの重要指標は、テクノロジー・サイクル、すなわち、イノベーションの波の予測で、これも、人口トレンドに基づいてはいるが、もう少し長期の産業革命的なニュー・エコノミー・サイクルなどの文化文明要因をも加味していて、デントのトレンド予測には、超長期の文明循環論的な成長予測手法も取り入れられている。
   しかし、人口トレンドとテクノロジートレンドだけでは、グローバル化した国際経済の影響を捉えられなくなったので、この本では、やはり、時代の流れか、地政学サイクルとコモディティサイクルを考慮して、トレンド予測手法を重層化している。
   日本のバブル崩壊とアメリカのITバブルは予測できたのだが、一般的な経済予測手法と大きく違っていて、多少その予測手法が荒いので、米国アマゾンのレビューを見ていても、賛否両論相半ばして賛と否に大きく分裂していて、参考としては面白いが、と言うところであろうか。

   この本で興味深いのは、「人口統計学で予測する各国の将来」と言う章で、世界各国の将来予測を行っていることである。
   先日、「中国は豊かになる前に老いる」と言う稿で、デントの予測手法などついて書いたので詳細は省くが、
   要するに、世界経済の成長を数世紀にわたって牽引してきた欧州と北米は、既に1990年からその状況にある日本の後を追って、2010年までに高齢化に突入し、経済成長も鈍化基調に入る。
   一方、人口の多い新興国では、急成長が続き、世界経済は、再びブームを迎える。
   特に注目されるのは、東アジア、東南アジア、南アジアで、これらの地域には、現在、世界人口の半分を少し上回る数の人々が住んでおり、その大半は向こう50年あまりで経済成長を遂げて行く新興国だ。と言うのである。
   カースト制度、官僚制や社会主義の行き過ぎ、外資嫌いなどの阻害要因を克服し、政府の改革、インフラ整備、民業の育成などに成功すれば、人口の多いインドは、将来最も有望な国で、世界の名主になると、インドを持ち上げている。

   この本で、デントは、先進国が、避けがたい人口トレンドの減速と社会の高齢化に対応する最善の方法は、インフラを長期的に再生・拡張させる技術、例えば代替エネルギーのような新技術に投資し、政府が民間の投資とイノベーションを促すことであり、更に、先進国が協力して、地球温暖化や地球規模の汚染、テロの勃発などグローバルな危機やグローバル化への反発を避けるために、限定的な活動しかできない国連にかわる新しい国際組織を作り、グローバルベースでの経済成長を図ることだと言う。
   富裕な先進国は、新興国や発展途上国への大規模なインフラ整備や経済発展を手助けして、環境汚染や地球温暖化の抑制を加速するとともに、雇用の創出するなどを行うことによって、テロの抑止や公正な貿易の推進、環境汚染の緩和と言った問題でこれらの国々の協力を得るべきだと言うのである。
   このあたりの議論は、デントの一種の文明史観なのであろうが、かなり、常識的で、大胆な経済トレンド予測とは違っていて興味深い。
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大型書店のビジネス・ブック推薦書コーナー

2011年01月13日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   私は、神保町に良く出かけるので、三省堂本店には必ず立ち寄ることにして3階の経済経営法律関係の本を見に行くのだが、東京駅の近くに行くと、丸善と八重洲ブックセンターにも足を延ばして、どのような本が新しく出ているのか、やはり、ビジネス関係や経済の本のコーナーを訪れる。
   書店によってディスプレイが違っていて、それなりに工夫が凝らされていて興味深いのだが、私自身は、古い本には興味がないので、新刊書を探して買うことが多い。
   竹中平蔵教授に「経済古典は役に立つ」と言う新しい本があり、まだ、手に取っていないので分からないが、恐らく、アダムスミスやマルクス、ケインズなどの古典の話であろうから、こんな話になると別だが、経営学などの本になると、相当、名声の高い古典でも、私には、それ程役に立つとは思えない。
   例えば、組織論にしても、リーダーシップ論にしても、時代の流れによって大きく変わっているし、特に、フィリップ・コトラーのマーケティング論の展開一つをとっても、想像を絶するほど激しく変わってしまっている。
   しかし、マネジメントの歴史的変遷については興味があるので、10年前の本だが、スチュアート・クレイナーの「マネジメントの世紀 1901-2000」を引っ張り出して読み始めている。

   さて、先日、八重洲ブックセンターに出かけたら、二階のビジネス書コーナーで、ブックフェアと銘打って、「ドラッカーと明治の三賢人」と「トレンド オブ ビジネス」と言うスペースが設けられていた。
   前者には、「倒幕後の明治混乱期をリードし、経営の神様ドラッカーに多大な影響を与えた3人の日本人。彼らの生き方・考え方に学ぶ事が、今の日本には必要だと思います。」と説明書きがあり、棚の上部にはドラッカーの本、下段と平積みには、渋沢栄一、岩崎弥太郎、福沢諭吉関連の本がずらりと並べられている。
   渋沢や福沢には著作があるのだが、岩崎にはないので伝記や小説だが、いずれにしろ、3人の偉人に関連する本が、取り混ぜて展示されている。
   私自身、結構、ドラッカーの本は読んだつもりだが、これらの3人が、ドラッカーに多大な影響を与えたなどと言う記述を見たような記憶は全くない。39編もの膨大な著作だから、どこかに引用があったのであろうか。
   このコーナーのディスプレイの場合、ドラッカーのどの著作を選択して展示するのか、かなり、難しいと思うのだが、とにかく、フェアが12月1日から1月8日までだから、年末年始に読んで貰うと言う意図なのであろう。
   多少、襟を正して、心して取り組まないとダメで、お屠蘇気分では御し得ないと思う。

   後者は、ビジネスパーソン御用達と言う名目で、2010年1月~11月までに2階売り場で集計した実績を基にして、売り場担当者が選んでディスプレイしたと言うことのようである。このフェア期間は、12月18日より1月31日。
   「もしドラ」を筆頭にドラッカー、サンデル、スティーブ・ジョブ、ティナ・シーリグ、大前研一、池上彰などの著作、それに、フリー、ビジョナリー・カンパニー3等々、所謂、ビジネス関連のベストセラーに、IFRSなどの実務関連書籍などが並んでいる。
   パンフレットには、売り場担当者のコメントが書かれているのだが、果たして、実際に読んだのであろうか。
   意識してかどうかは分からないが、いつものベストセラー発表とは違って、一応、くだけた感じのビジネス関連書は除いて、まじめな本を選択しているようである。
   尤も、このベストセラー情報を基にして選んだ本だが、他の本より、かなり、先を行くと言うか新しいトレンドを描いた本が多いけれど、トレンド オブ ビジネスと言えるのかどうかは疑問ではある。

   余談だが、このフェアで紹介されている本では、ドラッカーの著作以外で、私が読んだり手を付けた本は、マイケル・サンデルの”これからの「正義」の話をしよう」と「フリー」くらいである。
   私がおかしいのか、トレンドからずれているのかは分からないが、本格的な経営学の勉強をしようと思えば、これでは殆ど参考程度で、もう少し、高度な専門書を読まなければならない筈である。

   専門的な話になるので、今回は避けるが、このフェアのタイトルの「トレンド オブ ビジネス」の意味をどう捉えるかと言うことにもよるが、このフェアで並べられている本は、殆ど、単なるベストセラーと言う読者の好みの選択であって、決して、ビジネスのトレンドを示しているものではないと言うことだけは確かである。
   日本の産業や企業の国際競争力が落ちたとか、日本企業の経営戦略がグローバリゼーションなど新しい潮流に乗れないとか、或いは、失われた20年のデフレ不況から脱却出来ないとか、いろいろ多くの困難な問題に直面しているにも拘わらず、一向にブレイクスルー出来ないのは、書物から得られる世界観や思想哲学などを含めて広い意味でのビジネス関連本でインスパイア―されることが少ないからではないかと言う気がしているのである。
   
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国家の衰退は「ねじれ」に始まる~バリー・アイケングリーン加州大教授

2011年01月11日 | 政治・経済・社会
   この文章のタイトルは、日経ビジネス最新号のアイケングリーン教授の寄稿論文のタイトルそのままだが、悲しいかな、現在の日本の政治状態をそっくりそのまま表現した論文なので、興味を感じた。
   現在のアメリカが、低成長を余儀なくされて、かっての「英国病」に陥る寸前だと言うのだが、そもそも、その英国の衰退の原因は、新産業に移行し損ねたことでも、製造業を軽んじたことでもなく、与野党がいがみ合い、一貫した経済政策がとれなかったことだったと言うのである。
   (余談だが、この論文の原文のタイトルは、「Is America catching the " British Disease ? "」で、ニュアンスが大分違うが、訳者の意訳。)

   アイケングリーン教授が、英国衰退の端緒は、19世紀後半、自国の経済を一段高いレベルに引き上げられなかったことにあると指摘する。
   何故、英国が革新的技術に対して積極的でなかったのか。
   よく言われているのは、優秀な人材は実業界ではなく政界に進出したとか、オックスブリッジなどでは、哲学や歴史などを教えて科学やエンジニアリングと言った実学を軽視した教育に問題があると言ったことだが、これらに一理あるとしても、しかし、現在のアメリカには、当て嵌まらないと言う。

   アイケングリーン教授の結論は、国際競争力を涵養すべき経済政策の失敗が、英国衰退の根本原因だったと言う。
   1929年の大恐慌時の需要崩壊に際して、高関税障壁を設けて、外国からの競争を遮断して、国内企業を甘やかせてスポイルして弱体化させてしまった。
   また、1930年代の金融危機に対しても一貫した政策を取れなかった。
   更に、第二次世界大戦後には、労働党と保守党との間で頻繁に政権交代がなされたことによって生じた、ストップ・ゴー政策の揺り戻しのために、将来への不確実性が高まり、慢性的な金融不安を引き起こすことになった。
   長い間、各政党とも、緊急を要する経済問題でも協力せずにいがみ合い、政争に明け暮れた。国は内向きになり、政治は混乱し、財政は悪化の一途を辿って、どんどん泥沼の深みに嵌り込んで行ったのである。

   このあたりのイギリスの疲弊と凋落ぶりは、1980年代の初め頃、サッチャー首相が改革を断行する前のイギリスが如何に酷い状態にあったかを、私自身、身近に経験して知っているので、アイケングリーン教授の指摘は良く分かる。
   ロンドン市内は、収集されずに灰燼が巻き上がり、ヒースロー空港では、必ずスーツケースが壊されて盗難にあっていたし、労働組合のサボタージュやストが頻繁、家の水漏れ修理に何か月もかかっていた。

   アイケングリーン教授は、「英国の衰退原因は、経済ではなく政治の失敗であった。そして、その歴史が、今また、アメリカに降りかかろうとしている。」と結んでいる。
   しかし、この英国病に侵されて瀕死の状態にあるのは、アメリカではなく、日本ではなかろうか。

   石黒千賀子さんの解説では、「ねじれ」と言う表現であらわされているのだが、私自身は、政治主導だと厚顔にものたまった政治家の質そのものの劣化以外の何ものでもないと思っている。
   民主主義国家である筈の文明国が、20年以上も経済不況に喘ぎながらも未だにお先真っ暗にも拘わらず、カネまみれの政治一つ解決できずに迷走を続けるこのあまりにも悲しい体たらく!
   これ以上の多言は、蛇足なので止める。
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