熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

急に春めいてきて花が咲き始めたわが庭

2011年02月28日 | わが庭の歳時記
   やはり、もう春で、暖かくて陽気の良い日が一日でもあると、庭の草木は、一挙に元気付く。
   気付かなかったが、あっちこっちで椿が咲き始めた。
   紅妙蓮寺や小公子は、綺麗な花をつけていたのだが、曙やさつま紅、天ヶ下、うらく、荒獅子と言った椿も花を開き始めた。
   曙など、ほんのりとした上品なピンクの大きな花弁が何とも言えない程優雅なのだが、傷み易いのが玉に傷で、寒風に当たるところの花は、先端が褐色に変色していて可哀そうである。

   咲き始めた椿に誘われて、メジロが敏捷に庭を飛び回っている。
   メジロとジョウビタキは相性が良いのか、接近しても、お互いに気にしていない。
   同じくらいの小鳥なのだが、シジュウカラも同じである。
   先日、ツグミが一羽芝庭の上に舞い降りて、すぐに木陰に走り込んで行った。先日、ガラス窓に当たって怪我をした鳥が、帰って来たのだと思うと嬉しい。
   群れて来るのはムクドリで、何を食べているのか、枯れた高麗芝の上を歩きながら、地面をつついている。

   黄色いクロッカスが、あっちこっちで咲き始め、今度は、白いクロッカスが、一斉に咲き始めた。
   同じ花が同じ時期に咲くようで、紫や紫の筋入りのクロッカスは、まだ、顔を出していない。
   水仙が、花の蕾を現した。
   チューリップや、ヒヤシンスや、ムスカリの芽が、一気に伸び始めた。

   昨春、小さな苗を買って植木鉢で育てて昨秋に庭植えをしたクリスマス・ローズが、5株も花を咲かせている。
   この花は、花茎も、何となく地を這う感じで、ぴんと上にしっかりと伸ばさないので、花がどうしても下向きに咲く傾向が強くて鑑賞には不便なのだが、花の少ない晩冬に咲くので、非常に有難い。
   この花も、色々あって、結構、種類によっては高い花なのだが、今のところは、始めたばかりなので、まず、種類よりも、イギリスの庭のようにたくさん植えて庭に落ち着かせることが先だと思っている。

   ヒイラギ南天の黄色い花や、ピンクのスズランのような花が房状に並ぶ馬酔木の花も、色づき始めて美しい。
   ピンクの枝垂れ梅が、一輪だけ開いた。
   濃いピンクに色づいた梅の蕾が、しだれて放物線状に垂れ下がった枝にびっしりと付いていて、もうすぐ、一斉に咲き始める。
   メジロが群れて来て、枝を渡る。

   今年は、後楽園の国際蘭展には、とうとう行けなかった。
   江尻光一先生が、日本大賞を受賞されたので、見たかったが、あの雑踏を思うと一寸憂鬱になり、来年に回すことにした。
   ロンドンにいた時には、キューガーデンの傍に住んで、シーズンメンバー・チケットを持っていたので、気が向いたら、すぐにカメラを持って出かけて行ったのだが、近くにあのような素晴らしい植物園があると、花の美しさを鑑賞するのも楽しいが、季節の移り変わりの微妙な変化を実感できるのが嬉しい。
   
   
   
   
   

   
   
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台頭するブラジル(仮題 BRAZIL ON THE RISE)(2)~ブームと破裂の歴史(その1)

2011年02月27日 | BRIC’sの大国:ブラジル
   アジアへ向かっていたポルトガルの探検者たちが、1500年4月22日に、辿り着いたのは南米大陸の北東岸。真っ赤にピカピカに顔を染めたインディオを見て、その顔料が「ブラジルの木 Brazilwood」から抽出されているのを知って、利に敏いポルトガル人は、ベルベットのような高級織物の染料に恰好だと目を付けた、これが、ブラジルの国名の起こりだと言う。
   その時、同行のジェスイットの牧師が「この地球上に天国があるならば、正に、ブラジルこそ、その天国だ。」と言ったと言うほど、ブラジルは、神の恵みに溢れており、木材、貴鉱石、宝石から、砂糖、コーヒー、大豆は勿論、現在では、膨大な石油やガスまで発見され、正に、開発されない程豊かな天然資源に恵まれた国である。
   「昼間に人間が壊しても、夜に神様がすべて元通りに直ししてくださる」と言うブラジルの諺がある程だから、ブラジル人は、楽天主義で、時には無防備なほど無思慮である。
   しかし、それを良いことにして、ブラジルの権力を握ったエリートたちは、貧しくて弱い労働者や奴隷を踏み台にして、自分たちの富を築き続けて来た。

   こんな書き出しで始まるラリー・ローターのブラジル論だが、奥方はブラジル人で、14年間もニューズウイークの特派員としてリオに住み、後にニューヨーク・タイムズのビューロー・チーフとして健筆をふるう文化担当記者であるから、政治経済に特化した従来のブラジル論よりも、もっとブラジルの歴史・文化・文明など深層に入り込んでの遠大なレポートなので、最初から最後まで、非常に興味深い。

   まず、面白いには、植民地開拓に対するポルトガル人のアプローチを、競争相手のスペインのそれと対比して説明していることである。
   スペインのコンキスタドールたちは、メキシコのマヤ、ペルーのインカ、中央アメリカのアズテックと言った帝国を皇帝を倒すことによって征服して、金銀財宝を奪って本国に送ったのだが、ポルトガル人は、ブラジルには、そのように中央集権化し組織化された原住民が居らず、抵抗も弱かったので征服がままならず、また、金銀と言った財宝よりも、むしろ、インディオとの交易に興味を持っていたと言う。      
   また、本国が小さかった所為もあり、王族も、ブラジルの木栽培から多少手を広げた程度で、土地所有権を保持しながら、ブラジルの領土を、資本家と協力して開発を希望する投資家や貴族に、独占的使用権を与えて開発させると言う、いわば、一つの巨大な企業形態を形成して開発を進めたのである。
   
   ところが、この動きが急激に発展して、世襲制のCAPITANIAS、すなわち、あらゆる管轄権を持った一人の統治権者が独占支配する管轄区(植民区)のようなシステムが出来上がり、その所有権者が、開発希望者に、管轄区を分割支配(その封土は、ポルトガルより大きい場合がある)する形態が取られて開発が進んで行った。
   この大土地所有制度と寡占的土地所有形態が、形態が変わっただけで、現在も実質的に継続したまま現存しており、社会的不平等と格差の問題や、資源の乱開発と言うブラジルの深刻な病根の元凶となっていると言う。
   
   問題は、この大土地植民区を如何に開発すべきかだが、スペイン支配のラテン・アメリカには、沢山のインディオが居たので労働力に不足はなかったが、ブラジルの場合には、ポルトガルとの交易で文明の機器などを手に入れたインディオは取引に興味を失って奥地に入ってしまったので、広大な土地を開発するために、アメリカのように、アフリカから、黒人奴隷を輸入なければならなかったのである。
   ラテン系は、混血にはあまり拘らないので、スペイン系ラテン・アメリカには、白人とインディオの混血メスティソが、そして、ブラジルには、白人と黒人の混血ムラート(あのカーニバルで魅力的な女性はムラータ)が多いのは、この移民政策の所為である。
   ブラジルにおいては、CAPITANIASにおいて、膨大な黒人やインディオ達が、奴隷労働(slave labor)として、非人間的な過酷な労働を強いられて搾取に搾取を重ねられて、ブラジルの開発が進められて来たのである。
   ローターは、このブラジルの奴隷制度は、アメリカが四半世紀前に終えているのに、1888年まで継続し、そして、21世紀の今も、人種差別、貧困、社会的差別、社会的排除などのマイナス遺産として残っており、ブラジルにとっては最悪の呪いだと言っている。
   
   もう一つローターが指摘しているポルトガル人の植民の特色は、金を儲けてすぐに帰国しよう感覚(The get-rich-quick menntality)が、破壊的な習慣と歪んだ経済開発を引き起こしたと言う。
   元々、自分の所有地ではないから、出来るだけ多く金を儲けて出来るだけ早く本国へ帰ろうというメンタリティであるから、土地や自然を大切に保護して使用しようと言ったインセンティブが働かなかったので、乱開発が常態であった。
   大西洋岸の熱帯雨林は破壊されて、国名に由来のブラジルの木も取り尽くされて、今では、植物園にしかない。
   このような近視眼的な行為が、今日のブラジルを苦しめているアマゾンの破壊的乱開発の元凶であると言うのである。

   このようなブラジルのブームと破裂の繰り返しパターン(boom-and-bust pattern)は、歴史上延々と続く。
   黒人がどのようにしてブラジル社会に同化して行くのかと言った問題をアメリカとの対比で考えたり、CAPITANIASシステムが地方のボス政治の蔓延を来たし如何にブラジルの政治をスキューして来たかなどのブラジルの陰については、後ほど検討することとして、今回は、このくらいにして、次に譲りたいと思う。
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事実だと思っていることの大半は思い込み~蟹瀬誠一教授

2011年02月26日 | 政治・経済・社会
   某金融関連機関のセミナーで、蟹瀬誠一教授の「グローバル経済と日本の行方」と言うタイトルの講演を聞いた。
   世界経済については、今後、どんどん成長し続けて行き、インフレが進行すると述べていた。
   極めて単純な推論で、24時間生活しながら消費している人口が今後も増え続けるであろうから、消費単位の増加によって、世界経済は拡大して行く。その消費の爆発的な増加により、あらゆるものが足らなくなり、インフレが進行すると言うのである。
   当然、日本は少子高齢化で人口が減って行くので消費が減少して行き、更に、労働人口も減少して行くので、先は暗いと言うことである。

   日本の将来については、貿易の黒字国でありながら、貿易収支の赤字相手国は、カナダとイタリアとフランスであることからヒントが得られる。
   資源国のカナダは別として、イタリアとフランスから入超なのは、ブランド製品を購入しているからで、日本には、素晴らしい文化と伝統工芸品など誇るべきものが沢山あるので、逆に、JAPAN BRANDを開発して、大いに売り出せばよいと言うのである。
   小泉前総理と会った話をして、民主党への政権交代は良かったが、たったの1年でこれほどひどくなるとは思わなかったと言っていたと言う。
   小泉さんが言っていたのかどうかは定かではないが、ついでに、菅総理については、必死に総理の座にしがみついているが、能力のない社長がやっていたら会社が潰れるのと同じで、今こそ、信頼できるリーダーを頂かないと先が見えなくなると語っていた。

   いろいろ語っていたが、私が興味を持ったのは、「事実だと思っていることの大半は思い込みだ」と強調していたことである。
   蟹瀬教授の例示したのは、まず、リーマンショックを100年に一度の危機と言っているのは、真っ赤な嘘で、トイレットペーパーや洗剤が市場から消えたオイルショックや第二次世界大戦や1929年の大恐慌など、いくらでもあるではないかと言う。
   お肌つるつると言うコラーゲンの効用も嘘で、地球温暖化説も怪しいものだと畳み掛ける。
   この事実だと思い込ませる元凶は、断片的で一部誇張するなどのTV放送の影響だと言う。
   この指摘は、当たり前で、歴史さえ事実が何か分かる筈がないし、自分の目で直接見て確かめても真実が何か分からないことが多く、要するに、自分が思い込んでいることが、自分にとっては事実なのである。

   ガルブレイスは、経済学で真実だと説かれている説など、殆ど欺瞞であると「悪意なき欺瞞」で書いており、例えば、株主主権など存在しない虚構であり、私利私欲の飽くなき追求を旨とする企業システムの支配者は、企業経営者であると喝破。彼らの報酬の高いのは自分達で報酬を勝手に決める企業経営者の悪意の賜物であり、限りなく盗みに近いと言っているなど、とにかく、経済学も経営学も、永遠に論争が続いていて、更に、どんどん、新しい仮説なり理論が展開されており、思い込みどころか、何が信実かさえも定かではなかろう。
   アカロフやシラーと言った高名な経済学者さえ「アニマルスピリット」で、経済学の通説に挑戦しており、「ブラックスワン」のナシーブ・ニコラス・タレブなど、経済学者の経済予測など、根本から信用していない。

   これに関連して面白かったのは、自分自身の直観を100%信用すると言う指摘である。
   カンボジアの戦場で、道が分からなくなった時、自分で直観した道を選んで助かったと言う話や、直観で買った東芝株への投資を通じて生活費を補ったと言った経験談を話していた。
   このブログでも、マルコム・グラッドウェルの「第1感」と言う書評で、blink、一瞬のきらめき、ちらつきと言うか、まばたきするする瞬間が、人間の思考や行動を決定すると言う重要な事実を、「輪切り」と言う概念で捉えて、人生の悲喜劇を巻き起こす「第1感」について、色々な方面から実例を引きながら、直観の科学的な論証について紹介したことがあり、また、このブログで、実際の経営でも、経営がアートである以上、直観による意思決定が極めて重要な働きをしていると言ったケースについて論じたことがある。
   私自身も、一目惚れ、すなわち、直覚の愛を信じているので、動物的直観の大切さは分かっている心算だが、しかし、直観力を磨くためには、ただの思いつきではダメなので、日頃から良く勉強して切磋琢磨して、自分自身を高めておかなければいけないと思っている。


   
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日本人は何故現実を直視しないのであろうか

2011年02月25日 | 生活随想・趣味
   10日ほど前に、東大法学部のCOEの「ビジネス法制化企画に何が足りないか」と言うシンポジウムを聴講した。
   各分野の専門家が、現在日本のビジネス法制について、いろいろな角度から分析を加えていて非常に興味深く勉強させて貰った。

   パネルの終了間際に、法制の不備などの問題を前提に、これらを修復しなければならないのだが、真剣に対応するためには、どこか大企業が本拠を海外に移転しないであろうかと、野村の高田明氏が呟いた。
   それは、有り得ると東大の柳川範之准教授が同調した。
   要するに、日本のビジネス法制が如何に国際的に不利であり不備であるかと言うことは、有名な大会社が日本の国籍を放棄するような事態になれば、初めて思い知るであろうと言うことであろうか。
   私などは、ある臨界点に達すれば、愛国心を凌駕して、雪崩を打って日本企業が海外逃亡を図るであろうと思っている。そうしなければ、これほど、市場が閉塞状態に陥って成長が止まり、経営環境が悪いところに居残ることは、資本主義の原理にも、市場の法則にも反するからである。

   私が、ここで問題にしたいのは、日本の社会も経済も政治も、非常に深刻な問題を抱えていて、先行き大変な状態に直面しているにも拘わらず、危機意識が希薄で、本当に、大パニックに遭遇しなければ、そんなことは起こらない先の話だとして、全く意に介さないことである。

   まず、この日本企業が本社なり本部を海外に移すと言うことだが、私自身、このブログで、既に、会社の経営者が、株主の利益を高めるためには、税金が安くて経営上優遇措置のある国なり地域に本社を移さないとするなら、それは、忠実義務なり善管注意義務なりの違反ではないのかと、極論を提起したことがある。
   デイヴィッド・クレイグが、著書「コンサルタントの危ない流儀」で、アクセンチュアについて、辛口の批判を展開しており、世界最大級で最も儲けているコンサルタントでありながら、米国企業の平均が収益の36.9%なのに7%しか税金を払っておらず、また、パートナーが2500人以上、従業員が10万人以上もいるのに、本部は従業員がたった3人のバーミュダにあると言う。
   正に、コンサルタントの鑑の様な「良い仕事」振りなのだが、これで、本拠を海外に移すと言うことの意味の説明は十分であろう。

   日本にも、既に、株主の過半数が、外国人株主に所有されている大企業が存在しており、その会社が、日本の会社かどうかも分からないのが現実なのだが、日本の超有名な製造業の多くは、既に、外国人株主の所有株が50%に近づいており、TOBやM&Aをしなくても、過半数を突破して、外資企業となるのは時間の問題かも知れないのである。
   グローバル時代であるから、その会社が、日本の会社かどうかはどうでも良いのかも知れなしが、それにしても、メディアも日本国民も、相も変わらず、日本の会社と言うことに拘り過ぎるのが不思議である。

   さて、もう一つ、何度もこのブログで展開している日本の深刻な債務問題である。
   いつか破裂して大変ことになるとブログに書いていると言ったら、元政府高官の友人が、そんなことを言うなと怒ったのだが、要するに、異常な国家債務の問題も年金の破綻も周知の事実であって、騒ぎ立てるなと言うことであろう。
   時期は分からないが、国債の暴落については、伊藤元重東大教授も講演でその可能性に言及していたし、新聞にも書いていたので、私如きが言う言わないの問題ではない。
 
   ジャック・アタリの見解については、先の「国家債務危機」のブックレビューで触れたが、「東洋経済」のインタビューで、
   ”日本は無策のままならば、5年以内に財政破たんする。”と言っている。
   ”破綻に陥るまでに期間は向こう5年以内。だが、5年以内に起きるのが不可避の事象であると予測できた場合、実際には2年以内に起きる。それが歴史の教えるところです。”とも言う。
   
   先日、ドイツのTVだったと思うが、ギリシャでは、地下鉄の値上げに反対して、料金不払い運動が蔓延しており、高速道路も、殆どの車がバーを押し上げて料金を踏み倒して通過して行くと言うバンダリズム、無政府状態を放映していた。
   政府の政策が悪くて国民生活を犠牲にしているのではなく、そうしなければ、ギリシャと言う国家が崩壊するのだと言う瀬戸際政策であり、こんなことをして抵抗しても自縄自縛で事態を悪化させるだけであり、要は、自分たちがバブルに踊って食いつぶした分を、一挙に切り詰めて、生活水準を大幅に切り下げる以外に、ギリシャが生きて行く道がないのだと言うことが分からないと言う悲しさであろうか。
  ソクラテスもプラトンもアリストテレスも、泣いていると思うのだが、これも悲しい現実である。

   先のビジネス法制の問題だが、西村あさひの武井一宏氏が、日本でクラスアクションの導入を検討されているようだが、企業の命運が一挙に吹き飛ぶ心配があると警告していた。
   コトバンクによると、クラスアクションとは、”アメリカでの民事訴訟の一種で集団訴訟に関する手続き。日本にはない訴訟形態。個々の利益帰属主体が個々に訴訟手続きをしなくても、その代表者による訴訟を提起し、消費者の権利を一括して行使する権限が認められている。”
   一人の代表者の訴訟が勝てば、他の権利者も一斉に救済されると言うことで、西部劇と保安官の世界のアメリカには馴染むかも知れないが、日本では、訴訟に負ければ、企業は立ち行かなくなる筈である。

   ところで、焼け石に水程度の効果しかない5%の法人所得税減税案が袋叩きにあっているのだが、グローバル経済の潮流が分かっていない日本人の悲しさ。
   GDPが、需要サイドで表示されているので無視されているのだが、三面等価の原則の他のサイド、生産及び分配サイドから見れば、明らかに、GDPを支えているのは、民間企業だと言うことが分かる筈で、その唯一(?)の富の源泉である民間企業の活力と競争力を削ぐような経済政策やビジネス法制の存在が如何に危険か分からなければ、討ち死にする以外に道はない。
   左派系政党が主張する分配の平等化政策も、間違ってはいないが、成長が止まったギリシャのようになれば、国民等しく平等にどんどん貧しくなる縮小均衡に向かうだけであって、少しでも国民生活を良くしようと思えば、経済成長しかない。
   悲しいかな、ただでさえ、少子高齢化など足枷手枷を嵌められた課題先進国の日本の生きる道は、国民挙って、経済社会環境を整備して、少しでも経済成長を図ることだと言うことである。

   アタリが、「無策のままならば」と言っているのが、せめてもの救いである。道がないこともないと言うことであろう。
   しかし、任期1年も持たない総理大臣を4代にも亘って維持し続けて貴重な時間を無駄にして、今また、政治は混乱と迷走の極に達しており、政治家たちは、予算など重要案件はそっちのけで、政局・政争ばかりに明け暮れて、お先真っ暗である。
   日本のために、日本国民のためにと、必死になって、この難局を乗り切って行こうと使命感に燃えて頑張っている政治家が、誰一人としていないような気がして寂しい限りである。
   結局、平和ボケで、太平天国を決め込んでおり発憤さえできない、パニックが襲って来て1億玉砕しなければ、難局と真剣に対峙できない日本国民自身のメンタリティに問題があるのであろうか。
   
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国立劇場:二月文楽~菅原伝授手習鑑

2011年02月23日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の文楽は、3部構成で、私が観たのは、第二部の「菅原伝授手習鑑」と第三部の「義経千本桜」であった。
   第一部も出かけるつもりであったが、文雀が休演で、その後、紋寿も休演となったので、行かずに終わってしまった。
   この三大名作のうちの二つの演目は、その一部を切り取っただけだが、非常に充実した舞台で、正に、感激の連続であった。

   まず、「菅原伝授手習鑑」であるが、今回は、三兄弟の末弟桜丸と父親白太夫との別れを主題とした「佐太村」と言う世話物の舞台で、桜丸が飴売りで登場する「道行詞甘替」から「吉田神社社頭車曳」、そして、白太夫の70歳の賀の祝いに3兄弟たちとその妻女たちが訪れて来て繰り広げる「茶筅酒」「喧嘩」の段を経て「桜丸切腹の段」までの公演である。
   何と言っても、後半の茶筅酒の段からは圧巻で、千歳大夫と團七、文字久大夫と清志郎、住大夫と錦糸の浄瑠璃語りと三味線に、簔助の桜丸、勘十郎の白太夫、清十郎の女房八重の人形が演じるのであるから、素晴らしくない筈がない。

   賀の祝いに、夫々の女房達は、時間を違えずに白太夫を訪ねて来て甲斐甲斐しく祝いの膳を整えるのだが、松王丸と梅王丸は遅れて来て、吉田社頭での争いに端を発した遺恨で喧嘩を初めて、誤って、父が大切に育てていた桜の木を折る。
   梅王丸が菅丞相の共として筑紫に行くことを、松王丸は敵方の主への忠義を尽くすために勘当を、父に願うのだが、白太夫は怒って、夫々夫婦たちを追い出してしまう。
   一人残った女房八重が夫を待ち続けていると、納戸から桜丸が現れる。
   そして、白太夫が、脇差を乗せた三方を持って出て来て、桜丸の前に置く。

   タダならぬ異変を感じた八重に、桜丸は、自分が、苅屋姫と斎世親王の恋を取り持ったばかりに、主人菅丞相が諌言にあって大宰府に流されたので、その申し訳に切腹するのだとかき口説く。それを受けて嘆き悲しむ八重が、実に健気で哀れである。
   朝早くやって来て父に切腹の覚悟を伝えていた。白太夫は納戸に忍ばせて、助けるべきかどうか神の加護に任せることにしたのだが、祝いにもらった3本の扇を氏神の前で開けば松と梅、家に帰ってみると桜の木が折れていたので、断腸の思いで桜丸の切腹を覚悟したのである。
   
   喧嘩の段を、必死になって前座を務めた文字久大夫が、師匠の住大夫に、「桜丸切腹の段」を繋ぐ。
   「名作中の名作です。お客さんが泣いてくれはらなんだら、よっぽど演者が悪い。」と住大夫は言う。
    それ程素晴らしい舞台で、1時間に及ぶ長丁場を、緩急自在、導入部から全く暗い舞台なのだが、住大夫と錦糸の名調子に、現在最高峰を行く女形の簔助、勘十郎、清十郎が、正に生身の人間が、運命の悲痛に必死に耐えながら慟哭し呻吟する姿を、人形に託して演じ続ける。
   介錯すると言って念仏を唱えながら鉦撞木を打ち鳴らしながら右往左往する白太夫と、必死に縋り付いて切腹を思いとどまらせようとする八重の、残される二人の心情を思うと耐えられないのだが、住大夫の名調子が、ぐいぐいと心に食い込み、正に、断腸の悲痛である。

   桜丸は、三人の兄弟とも同じなのだが、元々、それ程高い身分ではなく本当の下っ端役人の舎人なのだが、彼だけは、歌舞伎でも、どちらかと言えば、女方役者が演じている。
   松王丸の場合にも言えるのだが、何故、下々の人間が、それ程までに責任を感じて義理と人情に苦しんで、男の一念を通すべきなのか、現代人なら疑問に思うのであろうが、そこが、封建時代のなせる業、芝居の世界と言うものであろう。
   簔助の桜丸は、優男風だが、従容としたクールな感じの桜丸で、身分相応の振る舞いを知って運命を噛みしめながら死出の旅路に赴く、演技を抑えに抑えた立ち振る舞いが、実に静かで爽やかで良い。
   桜丸と八重は、加茂の社で、苅屋姫と斎世親王の恋を取り持ち、車の中でのラブシーンに触発されて、夫婦ながらあられもない気分をもよおす、そんなシーンもあったのだと思うと、人間の運命は分からないものである。

   この菅原伝授手習鑑は、正に、天神さん、菅原道真の物語であるのだが、今回の「桜丸切腹」以外にも、武部源蔵を主人公とした「筆法伝授」や、松王丸が自分の息子小太郎を身替りに差し出して菅秀才の命を助ける「寺子屋」、伯母覚寿の家で菅丞相と苅屋姫の別れを描いた「道明寺」など、随分、内容のある中身の濃い舞台が並んでいて、非常に素晴らしい物語で、日本の舞台文学と言うか戯曲の素晴らしさは、世界でも卓越しているように思う。
   この素晴らしい浄瑠璃を、大夫が、三味線の伴奏にのって、ナレーションも、そして、すべての登場人物をも演じ切り、更に、全く、違った、三人の人形遣いが、あたかも生身の役者のように、或いは、時にはそれ以上に演じるのであるから、文楽の凄さには、いつも感嘆している。
   



   
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ツグミの瀕死の重症とパンダ論争

2011年02月22日 | 生活随想・趣味
   先日、午後、ツグミが一羽、庭に面した居間のガラス戸に激突した。
   大きな激しい音がしたので外に出てみると、板の縁台の上に落ちて、口から真っ赤な血を流して、嘴を弱くパクパクしている。
   口の中は血が詰まっているのか、苦しそうだが、動くのは嘴だけで、横たわったまま全く動かない。

   以前にも、スズメが激突して、この時は、即死だったので、すぐに、庭の椿の根元に埋葬したのだが、天気の良い日に、カーテンを開けておくと、明るい庭に面したオープンな広いガラス空間なので、ガラスに写った景色を、外の延長だと勘違いするのかも知れない。
   私も、昔、どこの国か忘れてしまったが、よそ見をしていて、ホテルの玄関で、ガラス戸にぶつかりかけたことがあるので、偉そうなことは言えない。

   私は、ツグミを両手で包み上げて、庭で使っている新しい手袋を何枚か敷いて、小さなポリバケツに寝床を作って寝かせた。
   外に置いておくと猫に狙われるので、玄関の中に入れて様子を見ることにした。

   夕方、何の気なしに、様子を見ようと思って近づくと、バケツのヘリに止まってじっとしているのである。
   もう、ダメかと思っていたので、びっくりしたと同時に嬉しかった。
   外に放ってやろうと思い、まだ、飛べないだろうと思って近づいたところ、一気に飛び上がって、吹き抜けの玄関ホールの電燈の弛んだ線の上に止まった。
   このままでは、可哀そうなので、棒を伸ばして移動させようとしたら、また、飛び上がって逃げ出し、壁にぶつかりながら足場を探すのだが平板な壁で、滑りながら二階の廊下に下りて止まった。
   捕まえようと近づいたが、また、飛び上がって、今度は、玄関のタイルの上に下りて止まった。
   私は、玄関ドアを開いて、静かに、ツグミを促して玄関の外まで歩かせて、庭の植え込みまで誘導した。
   折角、傷がどうにか少しは落ち着いたところに、怖がらせて、二回も飛び上がらせて疲労させたのが辛くて、気になったが、しばらく、そのまま、疲れを癒してやろうと思った。

   もう、外は暗くなって、猫も来ないだろうし、たとえ来ても、今の様子だと、間違いなしに逃げられるだろうと思った。
   それに、口の血は消えていたし、外観は普通の状態なので、時間さえ経てば、自分の体で回復するだろうと言う気がしていた。
   私がびっくりしたのは、ツグミを外に誘導した時に、玄関脇の庭の植え込みから、大きな羽音を立てて一羽のかなり大きな鳥が飛び立ったのである。
   もう、ツグミが激突して何時間も経つのだが、仲間の鳥が心配して、激突した近くの木の陰で友を待っていたのであろうか。

   私は、その後、何回か、ドアを開けて、ツグミの様子を見に行ったのだが、動かずにじっと、同じ場所で同じ姿勢で止まっていた。
   1時前に様子を見て、非常用の外灯があるので、門燈をいつも消しているのだが、鳥目で見えないと言っても、明るい方が良いだろうと思って、そのまま点けたままで眠りについた。
   元気になって飛び立ってくれて居れば良いのにと思って、朝起きてすぐに見に行ったら、ツグミは消えていた。
   後には、何の異常な状態も残っていなかったので、ほっとした。
   シベリアへ元気に帰ってくれれば良いのにと願っている。
   
   何年か前に、ヤマモモの木の茂みに、キジバトが巣を作っていたことがあった。
   ところが、ある日、台風の強風で、巣が吹き飛ばされて地面に落ちてしまったのである。
   何日か経った後に、庭仕事をしていた時に、そこから巣メートル離れたところに、鳥のミイラのように干からびた死骸を見つけた。
   傍から、キジバトが急に飛び立ったのでびっくりしたのだが、いつも、傍に来ていて、私が近づくと飛び立つので不思議に思っていたのだが、親鳥が、亡くなった小鳩の死骸を、いつまでも心配していたのである。
   私は、すぐそばの、私の気に入っている天賜椿の根元に埋葬したのだが、その後、親鳥は諦めたのか来なくなった。

   私は、幸いにも、田舎に住んでいるので、偶々、庭があり、我流で色々な花木を育てたりしながらガーデニングを通じて小鳥や昆虫などともに生を楽しんでいる。
   小動物たちの生活にいつも触発され、そして、毎年、忘れずに芽を出して花を咲かせて実を結ぶ植物たちの日々の営みの息吹を身近に感じて、有難いことに、いつも、新しい発見をし、感動しながら生活をしている。
   傷ついたツグミも、いつも、私の庭に来て虫を探している鳥だと思うのだが、帰って来て欲しいと思うし、何処でどうしているのか、仲間の所へ帰ったのだろうかといろいろ考えると、元気な姿を見たい。
   朝から、メジロの一群が、紅妙蓮寺椿の蜜を漁っていた。シジュウカラが、紫式部の枯枝を渡っていた。
   ムクドリが一団となって庭の枯れた芝生の上で何か啄んでいたと思ったら、何に驚いたのか急に飛び立った。
   いつも、平和なのだが、偶に、ツグミの激突のような異変が起こるのだが、リビアも平穏に終わってほしい。

   ところで、昨夜、中国からパンダが上野に到着した。
   一種お祭り騒ぎの歓迎ぶりだが、石原東京都知事の、以前に、次のようなパンダ観が報じられていた。
   ”中国からパンダ2頭をレンタルするには、年間1億円かかるとされるが、石原知事は「ずいぶん法外な値段」と指摘。「都民の意識調査をしたら『金払うならパンダいらない』という人が97%いた。動物園が払うとなると都の税金だ。それまでして見たいかね、パンダ」。都財政が厳しいこともあり、有料レンタルそのものに否定的見解を示した。”
   前原外務大臣も、一寸高いけれどと言っていたようだが、果たしてそうであろうか。

   石原知事のように、その金が中国では何に使われるのか分かったものではないと言うのならそれまでだが、一応、パンダ保護プロジェクトの基金になるようで、趣旨は、地球環境保護、生物の多様性の維持、絶滅危惧種パンダの保護の為と言う大切な人類の使命が託されている基金である。
   あのような素晴らしい創造物であるパンダが、生存して我々人類と地球上での生を共有していると言うだけでも、奇跡と言うか、素晴らしく幸せなことだと思えないのであろうか。人類の傍若無人な振る舞いと思慮の無さ故に、共に共棲すべき地球のエコシステムを無茶苦茶にしてしまった人類の罪を恥ずかしいと思はないのであろうか。
   私は、ロンドンとワシントンで、パンダを見たことがあるが、大切に育てられていた。
   パンダ保護基金が高いとか無駄だと言うようなことを公然と上に立つ人間が言うような悲しい国になってしまったと思うと、目標を失ったように漂流し続ける日本の姿が、益々、さびしくしょぼくれて見えてくる。

(口絵写真) これは、大分以前に写したツグミ。
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台頭するブラジル(仮題 BRAZIL ON THE RISE)(1)~未来の国と言われ続けて

2011年02月20日 | BRIC’sの大国:ブラジル
   このラリー・ローターの新著「BRAZIL ON THE RISE」だが、勃興と言うよりも台頭と言う方が適当だと思うので、タイトルを「台頭するブラジル」で通す。この本の章を追いながら、未熟を承知で、私自身の理解の範囲で、私のブラジル観を展開してみたいと思っている。
   私のブラジル経験は、先のブラジルブーム時期の4年間のサンパウロ在住と、永住ビザを持っていたので、その後、更改のための渡航でプラス10年くらいの接触だが、傍目八目で、世界中を駆け回っていた生活を通しながらブラジルを傍観し続けていたので、かなり、客観的に、BRIC's大国ブラジルを語れると思っている。

   私自身は、米国製MBAであり、英蘭をベースとしたヨーロッパ生活が長かったので、経済や経営学については、アングロサクソン系の影響が強いのだが、ヨーロッパで、フランスやスペインなどラテン系の国での仕事を通して、ラテン系との文化文明、そして、ビジネスの違いを痛い程経験してきた。
   尤も、その前に、ポルトガル人によって建国されたラテン気質の色濃いブラジルで、強烈なカルチュアショックの洗礼を受けていたので、ラテン・ヨーロッパでもそれ程困らなかったのだが、ブラジルの偉大さも、そして、その光も陰も、背後にあるラテン系の歴史と文化文明、そのバックグラウンドを理解しなければ、本当の姿は分からないのではないかと思っている。
   アメリカ人であるローターから見れば、法律と契約の法治国家であるアメリカと、何よりも人間関係を重視するアミーゴ社会のブラジルとの、謂わば、「文明の衝突」は強烈で、その意味ではかなり辛口のブラジル評論を展開していて興味深い。
   その点では、紳士協定とか阿吽の呼吸などと言う文化がある日本は、その両方の文化的背景を背負っており、かなり分かりよいのだが、それにしても、ブラジルは、典型的なラテン大国であり、BRIC’s各国夫々が、強烈な個性を持っているように、ブラジルとは、と一言で言えない奥深さと魅力がある。

   ローターは、序文で、ブラジルの第一印象を、コーヒーと砂糖などの農業主体の軍事国家で、壁にはお尋ね者のテロリストの張り紙があり、メディアの検閲に官憲が関わるなど非常に治安の悪い国だが、コパカバーナやイパネマの海岸沿いの高級ショップにはニューヨーク並みのハイセンスの商品があふれているにも拘らず、傍の凄いビキニ姿の美人の歩く歩道に乞食が屯していると言ったチグハグナ風景に驚いたと書いている。
   歴史上は、かなり、最近まで軍人が大統領を務めた軍事国家であり、民政に代わっても、他のラテンアメリカ国家と同じように、政治が不安定で、民主国家として政情が安定し、経済成長に拍車がかかり始めたのは、この20年の間くらいのことで前世紀末のことである。
   
   とにかく、ブラジルは、全く幸運に恵まれた国で、豊かな国土と膨大な鉱物や水資源、そして、多くの天然資源が無尽蔵に存在する。
   しかし、その資源を活用し始めたのは、ごく最近に入ってからで、長い間、未来の国(THE COUNTRY OF THE FUTURE)と呼ばれ続けて来た。
   将来の世界の発展のためには、最も重要な役割を果たす国家の一つとして疑いもなく運命づけられてきた国だと言われ続けて来たのである。
   しかし、この決まり文句は、ブラジル人が挑戦するには到達不可能なほど高い目標であり、結果としてブラジル人の劣等コンプレックスを感じさせるだけで、いつまでも未完のままであったとローターは言う。

   ところが、最近のエコノミック・ブームで、BRIC’sの雄として一躍脚光を浴びた。
   今や、農業大国であるとともに、工業大国であり、膨大な鉱物資源や食糧のみならず、航空機や自動車の輸出国であり、南半球の、銀行、富、貿易、産業の最大の拠点となっている。
   2014年のサッカーのワールドカップ大会、2016年のリオ・オリンピック開催を目指して、燃えに燃えているブラジルが、やっと、永遠に未完であった「未来の国」と言う陳腐な決まり文句から解放されそうである。
   
   さて、ブラジル雑学をスタートするにあたって、最も重要な論点の一つは、ブラジルが、アミーゴ社会であると言うことで、この特質を、同じ人種の坩堝であるアメリカ社会と対比させながら論じておきたい。
   アミーゴをウィキペディアで引くと、本来はスペイン語で「友達」の意味の男性形名詞(amigo)。英語でも使われる。と書いてある。
   これでは、分かりにくので、華僑やユダヤ社会などの仲間意識とその信頼結束関係に近い概念で、自分の親しい友人(AMIGO)との関係は、契約よりも優先すると言った人間関係で、もっと広範で深い意味合いの概念なのである。
   アメリカ社会は、全く背景の違った異民族異人種の集合体であるから、関係を処理するためには、法律や契約が総てで、主に裁判で決着を付けようとするのだが、同じ、人種の坩堝であるブラジル、と言うよりも、ラテン社会では、法律は朝令暮改であったり順守されないことが多く、契約も無視されたり軽視される傾向が強いので頼りにならず、ビジネスや紛争の処理などを上手く運ぶためには、相手とのアミーゴ関係が優先して決着を見るケースが多いと言うことである。
   極論すれば、アメリカでは、1億円の貸し借りは、契約書で処理するが、ラテンの世界では、契約など全くなしで貸し借りが成立することもあり、もし、約束を破れば、村八分となり、重要な財産であるアミーゴも信用の一切をも失うことになる。
   したがって、ブラジルでビジネスを行う場合、いくら素晴らしいバランスシートを示して日本で有名な大企業だと言っても駄目で、地道なアミーゴ関係の構築こそが王道なのだと言えば言い過ぎであろうか。

   経済社会を結ぶ掟が、法律・契約か、アミーゴ関係か、と言うことは重要な差で、日本の場合には、英米流に、法律・契約関係の比重が増してきてはいるが、紳士協定だとか、貴方と私の仲だからとか、アミーゴ関係的な面も残っていて、謂わば、レオポン社会だと言えよう。
   私の経験からは、現実は、大分変っているかも知れないが、ローターの本を読む限り、ブラジルのこのアミーゴ文化は、それ程変わっていないようである。
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映画:「ウォール・ストリート」~ゲッコー蘇る

2011年02月19日 | 映画
   2008年の金融危機に合わせたような形で、お馴染みのマイケル・ダグラス演じるゴードン・ゲッコーを23年ぶりに蘇らせて、ウォール・ストリートを舞台にした興味深い金融経済モノの映画「ウォール・ストリート」が上映されたので、マイカル・シネマに出かけた。
   確かに、先の金融危機のトピックスなどを随所に取り入れながら、かっての天才的金融マンであったゲッコーなら、どのような形でウォール・ストリートに返り咲くのかと言う興味津々の、面白い映画になっている。
   物語は、若き金融マン・ジェイコブ・ムーア(シャイア・ラブーフ)が、恋人のウィニー(キャリー・マリガン)の実父である刑期を終えて出所して来たゴードン・ゲッコーと組んで、不況による経営悪化と同業投資会社の社長ブレトン・ジェームズ(ジョシュ・ブローリン)の陰謀によって、師と仰ぐ親のような存在の社長が自殺に追い込まれたので、スカウトされたのを幸いに敵の懐に潜り込んで復讐を遂げようと言うメイン・テーマに、血も涙も情け容赦のないゲッコーと、家庭と自分の人生を窮地に追い込んだ父を徹頭徹尾憎みぬく娘ウィニーとの心の葛藤や、仲が破局に追い込まれそうになる若い二人の愛情物語を通して家族の絆とは何なのかをサブテーマにしたシリアスな映画である。

   アカデミー賞を2回もとったと言うオリバー・ストーン監督が、今や、老練の域に達していぶし銀のように渋く重厚なマイケル・ダグラスと若くて有能な二人の俳優を主人公にして描きあげた作品で、今回の撮影には、ウォール・ストリートの会社や人々も随分積極的に協力してくれたと言う。
   私など、昔、ニューヨーク証券取引所の舞台を観光客用のブースから覗き込んで感激したくらいだし、ロンドンのシティで、銀行の巨大なディーリング・フロワー付きの金融センターの開発に携わったので、多少、金融の舞台を垣間見ているのだが、今回の映画で展開されているウォール街での実際の金融取引の舞台や、米国政府などの生々しい金融政策討議の様子などを見て、映画ながらも、臨場感たっぷりで、非常に興味深かった。

   今回の映画には、投資会社の崩壊に、ベア・スターンズやリーマン・ブラザーズの破局、そして、財務長官ポールソンと古巣のゴールドマン・ザックスとの関係などを匂わせるようなトピックスを暗示したシーンがあって興味深かったが、ゲッコーが、逮捕前にスイスに隠し預金をしてウィニー名義で預託していた1億ドルを、若い二人に引き出させて持ち逃げして、ロンドンで新しく投資会社を立ち上げて成功すると言う終幕のどんでん返しが、非常に面白かった。
   この映画でのゲッコーは、娘ウィニーとの父娘関係修復の仲立ちを条件に、復讐劇を目論むジェイコブズに有効で役に立つ情報と知恵を授けると言う役柄なのだが、カリスマ天才金融マンのゲッコーが、そんな半端な役割で返り咲くなどと観客の誰も期待していないので、この最後の辣腕ぶりで、やっと、溜飲を下げたと言うことであろう。

   ゲッコーとの最後の取引にロンドンに乗り込んだジェイコブズが、強欲は善だとするゲッコーに悲しい奴だと言って、ウィニーの母体に芽生えた鼓動を打つ胎児のDVDを置いて去るシーンなど実に感動的である。
   今や、巨富を築いてカリスマ投資家として返り咲き初老に達したゲッコーにとっては、何よりも、大切なのは親子、そして生まれ来る孫との絆。心のすれ違いで、お互いに I MISS YOUと言いながらも、ウィニーのアパート玄関前で悲しく別れようとしているところに、ゲッコーが現れて「二人は似合いのカップルだ。」と言いながら、最後に言った言葉が「父親にしてくれ」。慈善団体に1億ドルを振り込んだと言う。

   さて、23年前の「ウォール街」は、確か、ジャンクボンドの帝王マイケル・ミルケンがモデルであったような気がするのだが、あの映画は、インサイダー取引がテーマだった。
   今回のアメリカの資本主義の根幹を揺るがせた金融危機は、正に強欲がリバイヤサンとして本性を現して暴走に暴走を重ねた悲劇だったのであろうが、一寸、ウォール・ストリートをタイトルとするのには、スケールが小さすぎたのではないかと言う気がしている。

   シャイア・ラブーフとキャリー・マリガンの若い二人が、実に上手い。
   上手く表現できないが、涙が零れるほど感動的である。

   この口絵写真(映画情報から借用)の金融界が集まった豪華な慈善パーティが開かれている場所は、たしか、メトロポリタン美術館の大広間であるような気がする。
   ロンドンで、民間会社の大規模なレセプションやパーティが、大英博物館やナショナル・フォート美術館で行われたのに出席したことがあるのだが、あのパルテノンのエルギン・マーブルの前で、シャンパンを頂くのも中々オツナものなのである。
   
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リチャード・フロリダ著「グレート・リセット」

2011年02月17日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   過去150年の間には、1870年代と1930年代に、歴史上大変な危機的な状況が起こった。経済が落ち込み、大不況が襲ったのである。
   だが、この2回とも、暗黒の時代を経ながら、それ以前にもまして健全で豊かな時代が蘇った。
   過去の危機時代が、やがて新たな創意工夫や発明を生む時代を導き出し、新しいテクノロジーやビジネスモデルが定着し、同時に、新たな経済や社会モデルが誕生し、全く新しい暮らし方や働き方が実現する。
   この経済・社会秩序の幅広く根本的かつ革命的な再編変革を、リチャード・フロリダは、「グレート・リセット THE GREAT RESET」と称する。

   一たび経済的大恐慌なり大不況に堕ちると、経済社会の古くさいシステムや習慣などが機能しなくなって捨て去られ、創造性や企業家精神、イノベーションやインベンションの種が花開いて、経済や社会を立て直して蘇らせる好機が起こる。
   勿論、大不況から回復して再び経済が成長軌道に転じるまでには、苦難の時期がかなり長く続くが、新しく生まれ変わった経済社会は、大きくパラダイム変換を遂げている。
   これは、シュンペーターが説いた「創造的破壊」現象の経済社会的展開の典型的なケースであるが、リチャード・フロリダの卓越性は、大恐慌後の経済社会の再編とその後の大変革の方を重視して、その新しく蘇った新展開をプラス思考で捉え深く掘り下げながら論じていることである。
   尤も、フロリダ論は、所謂、産業革命論とも錯綜するのであるが、必ずしも、大恐慌なり大不況だけが、イノベーションを誘発して創造的破壊を起こすのではなく、それ以前の農業革命や第1次産業革命などは、自律的な変革であって、大不況だけがグレート・リセットを生むとは必ずしも言えない。

   現在我々は、ICT革命の渦中にあり、金融危機に端を発した世界的な大不況から立ち直りつつある第3のグレイト・リセットの初期段階にあるとして、これから新しく生まれ出でる経済社会が、どのような展開をするのか、過去の2回のグレート・リセットと対比させ、新しい世界像を経済社会の再編のみならず人々の生き方や生活の変化などにも言及しながら、未来像を描いていて非常に興味深い。
   リチャード・フロリダの将来像は、知的文化的水準の高いクリエイティブ時代の到来を念頭に置いているので、オバマ大統領が、公共の利益を回復すると言う名目で古いシステムに何兆ドルもの税金を投じるのは、近視眼的な浪費以外の何ものでもなく、このグレート・リセットと言う好機を無為にする政策で、ましてや、つじつま合わせのために文教芸術予算をぶった切るのは許せないと息巻いているのが面白い。
   私も、民主党政権が、識見教養とビジョンに疑問のある仕分グループに、科学技術や文化芸術関連予算を情け容赦なく切り捨てさせたのを批判して来たが、結局、根本的な問題は、政治経済社会のもっと長期的な将来像、時代の潮流の先を行くあるべき未来の高邁な世界像を描けずに対処するところにあるのだろうと思っている。

   リチャード・フロリダは、元々、都市経済論を専門とする社会学者であり、都市の発展盛衰の研究の中から、創造的破壊のダイナミズムを通じてその成長発展論を展開して来たのであるから、この著書でも、大工業都市の死と生、サンベルトの斜陽などを論じながら、巨大な政治都市のブームから、メガ地域(例えば、ボストンからニューヨーク、フィラデルフィア、ボルチモア、ワシントン間を繋ぐボス・ウォッシュ)の生成発展など、新しい時代の潮流を語りながら、進行中の第3グレイト・リセット論を説いて、経済発展論を進めているのは、流石であり非常に興味深い。
   さしずめ、日本の場合にも、トウサカ(東京から名古屋を経て大阪間)のメガ地域を語るべきであろうが、やはり、メガ地域の核となるのは、世界に冠たる新幹線網で、フロリダは、弾丸より早い列車と言う章で、アメリカのメガ地域同士をつなぐ全米規模の高速鉄道ネットワークを建設することが必須だとしながらも、アメリカがいまだに、高速鉄道では、発展途上国であるのを痛く嘆いている。
   実際に、ボストンからニューヨーク間にアセラ特急と言う素晴らしく快適な列車が走っており、私も乗ってみたが、如何せん、時速が100数十キロでは、話にもならない。
   日本はおろか、フランスのTGV、スペインのAVE、上海のリニアを筆頭とする中国の新幹線網などと比べれば足元にも及ばないのだが、アメリカの経済的覇権の再生は、高速鉄道網の建設如何によるメガ地域の活性化にかかっていると言うことであろうが、フロリダ州での高速鉄道計画が拒否されたと言うのであるから、お先真っ暗であろうか。
   
   農業経済から工業経済へと移行した地殻大変動が、今回は工業経済からアイデアに基づいたクリエイティブな経済へ移行するとするリチャード・フロリダの説く「グレート・リセット」論が、果たして、人類にとって幸福なことかどうかと言うことについてはまた別の機会に論じるとして、
   エネルギー効率の悪さを解消し、環境破壊の要素をなくし、時間のロスを最小限に止めるインフラの整備など、明日を目指してインテリジェントな投資に心掛けて、人類の幸せのためにイノベーションを誘発して創造的破壊を起こそうとする論旨には、非常に啓発されるものがあり、また、そのためには、人々のクリエイティビティを最大限に伸ばす教育システムの構築が必須だとする提案など傾聴に値する論点が非常に多い。
   
(追記)口絵写真は、赤西王母 椿。
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国際人的交流の拒絶が日本の閉塞の原因?

2011年02月16日 | 政治・経済・社会
   これも昨日と同様に、リチャード・フロリダのコメントだが、世界都市構想の中で、その中心となる金融センターの要件として、有能な人を惹きつける力が大切で、開発に重要な役割を果たすのは、特に、自分たちの能力とエネルギーを改革のために注ぎ込もうとやってきた外来の有能な人たちだと言う。
   専門家たちが、アジアや中東における金融センターに対して、ニューヨークやロンドンほどの食指を動かさない例として、東京をあげて次のように記している。
   ”東京は素晴らしい都市で、インフラは目を見張る程整っており、信じられないようなショッピングができ、信頼できるガイドブックによれば世界最高のレストランもある。更に日本は革新的で、先進経済国でもある。だが、民主的な市場志向国グループ30ヵ国で構成するOECDの中で、どのメンバー国よりも移民の受け入れが少ないことを日本自体も認めている。外国人労働者は、合法・非合法合わせても全労働者数のわずか1%に過ぎず、OECD加盟国では最低である。”

   更に、ジェーン・ジェイコブズの「都市の原理」から、「どのようなものであれ、都市の生み出す多様性とは、都会では色々な人たちが互いに肩を寄せ合い、様々な嗜好、スキル、必要とするもの、供給できるものがあり、ユニークな考えを持つ人たちもいると言う事実に基づいている。」を引用している。
   ジャック・アタリも「21世紀の歴史」の中で、文明の発展進化の歴史を、「中心都市」と言う概念で展開しており、フロリダと同じように、クリエイティブクラスの知識人たちの移動集積と切磋琢磨、すなわち、異文化異文明の衝突が、都市発展の機動力となっていると論じている。

   フランス・ヨハンソンが、「メディチ・インパクト」で、
   メディチが、あらゆる分野の芸術家や学者・文化人を保護した為に、ダヴィンチやミケランジェロは勿論、画家や彫刻家、詩人、哲学者、建築家、実業家など多種多様な人々が沢山フィレンツェに集まり切磋琢磨しあった。このような文明の十字路の形成ゆえに、正に、フィレンツェが異文化や異分野の学問や思想の坩堝となり、新しいコンセプトやアイデアに基づく新しい文化を創造しルネサンスへの道を開いた。これを「メディチ効果」と称して、アイデア、コンセプト、そして、文化の交差点での飛躍的・画期的な進歩・発展を論じて、「メディチ・エフェクトが世界を変える「発明・創造性・イノベーション」は、ここから生まれる!」と説いている。

   ギリシャの黄金時代においても、創造性に満ちた革新的な文化運動を巻き起こしたこのメディチ効果と同じ様な現象がインパクトとなった筈で、人類社会の文化文明のみならず、国家や企業の発展、そして、イノベーションを引き起こす原因となっている。
   一挙に話が飛躍してしまうが、
   日本が、思い切って国を大きく開いて、多種多様な外国人が、日本社会に参入して来れば、異なる文化や領域、学問、科学技術等が一ヶ所に収斂する交差点が日本に生まれて、そのメディチ効果によって創造性が爆発的に開花するならば、それは、ビジネス、科学、文化、医療、料理、IT等々のみならず、日本社会全体のあらゆる部門に渡って革命的な変化を起こして活性化の原動力になるだろうと考えられないであろうか。

   ハイコンセプトの時代、クリエイティブの時代で、世界中は、正に、目の色を変えて知的水準の高い有能なクリエイティブな頭脳の争奪戦に鎬を削っているのだが、日本は、時代の潮流に逆行するかのように、優秀な頭脳の外国からの流入を、人的鎖国メンタリティが強いために、殆ど拒絶しているとしか思えないような状態である。
   イノベーション大国アメリカの理工系博士号を持つ科学者の38%が外国生まれであり、シリコンバレーの企業家やエンジニアの相当数が外国人であると言う事実からも、国家の発展にとって、海外からの卓越した頭脳の参入が如何に貢献しているかが分かる。
   そして、グローバリゼーションに抗するかのように、日本の若者の海外留学生の大幅減少や海外勤務拒否症候群が蔓延するなどで、日本人自身の海外へのアプローチがシュリンク気味となって来ていると言うのであるから、海外移民の積極的受け入れなどどころではなくなっているとしか思えない。
   しかし、いずれにしろ、外国からの人材の積極的な受け入れを拒否することによって、日本自身がメディチ効果を享受できないとしたなら、自ら、日本経済社会の活性化の芽を摘んでしまっていると言うことになるのではないであろうか。
   
   尤も、国を外国人にオープンしただけでは、一朝一夕に、メディチ・エフェクトが生じて、東京が、国際金融センターとして脚光を浴びる訳ではない。
   高度かつ巨大なネットワークと知的凝縮効果の爆発が必要で、金融関係のプロは勿論のこと、弁護士、会計士、その他彼らを支援する人々が密集して、臨界状態を形成することだが、ロンドンのシティを見ればわかるが、それ故に、本国が過去の遺物であるポンドにしがみついていながらも、ウインブルドン現象よろしく、世界の金融センターとして君臨し続けて居れるのである。
   血の滲むような努力が必要であろうが、日本の生きる道は、ただ一つ。クリエイティブ時代においては、ものづくりであろうと、金融サービス産業であろうと、農業であろうと、何であろうと、世界最高の高度な知的能力を凝縮した最先端の世界を目指す以外には有り得ない、また、出来ると思っている。

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アメリカ経済の牽引車はいつも住宅

2011年02月15日 | 政治・経済・社会
   今回の金融崩壊による大不況は、リーマンブラザーズ危機で象徴されているのだが、最初のきっかけは、サブライムローンなどの行き過ぎによる住宅不動産産業の崩壊による。
   リチャード・フロリダの「グレイト・リセット」を読んでいて、気付いたのは、アメリカ経済の最大の牽引車は、いつも、住宅産業だったと言うことである。

   リチャード・フロリダは、1920年代の工業生産の一大ブームは、フォード、GM,GEなど大企業が、新たな経済成長に力を貸したが、アメリカが、資本を蓄積して投資に向かって進撃するようになった最大の要因は、企業群でも、鉄道でも、産業ビルでもなく、住宅だったと言う。
   個人住宅は、新たな地域開発と言う形で発展していったのだが、いずれにしろ、当時の最大の資本蓄積をしたのは、住宅分野であった。
   工場もビルも道路なども、それに付随いして活況を呈し、これらを総合した建設産業が、資本の流れを導く最大の投資先だったと言うのである。
   この当時、都市化の進展と同時に、何十年にもわたって政府が奨励したので、持ち家の比率が上昇したと言った要因も寄与したのかも知れない。

   しかし、1920年代のバブルはあまりにも大きかったので、それが音を立ててはじけて大恐慌に突入し、回復するまでに20年あまりもかかった。
   経済史家フィールドによれば、個人住宅以外の建設への投資が大恐慌以前の水準に戻るまでに22年かかり、個人住宅への実質的な投資が大恐慌前のピークまで回復するには24年を要したと言う。
   したがって、これを考えれば、巷で言われているように、現在の大不況下で崩壊した住宅産業が急速に回復する筈がなく、まだまだ、回復までには長期間を要するであろうと言うのである。

   住宅産業は、非常に裾野が広い総合産業であって、経済的波及効果が非常に大きくて、活性化することによって、経済成長を促す重要な牽引車になり得る。
   更に、アメリカの場合には、今回の住宅価格の崩落までは、住宅価格が上昇を続けていたので、資産価値の向上によるキャピタルゲインや借入可能金額の上昇など、アメリカ人は、自分自身の改築改良への付加価値向上と同時に、住宅投資に夢を描くことが出来たのである。
   欧米では、住宅価格の推移や住宅産業の動向に極めて敏感だが、日本の場合には、円高で輸出産業がどうだとか、株が上がった下がったと言うことには非常に敏感だが、住宅の動向については、かなり、注目度が低くくて関心が薄いのは、経済活動としての住宅産業の重要性にたいする認識不足ではないかと思っている。

   アメリカのビジネスマンの場合、大体、自分たちの持ち家は、郊外に所有していて、最寄の駅まで車で乗り付けて、郊外電車で都心へ通勤しているケースが多い。
   また、イギリスでは、私の知人などは、カントリーサイドに邸宅を構えて、週日はロンドンのアパートに滞在してロンドンで働き、週末に自宅に電車などで帰ると言ったケースや、一寸、離れた郊外に邸宅を構えて、電車でロンドンへ通勤すると言うケースが普通で、夫々、かなりしっかりした自分たち自身の持ち家を持っていた
   イギリス人の場合には、広い庭付きの家を構えて、ガーデニングを楽しむと言うのは、生活をエンジョイするための重要な要件でもあるのである。

   回りくどい表現をしているのだが、私の言いたいのは、日本人の場合には、最近は改善されたとしても、昔、欧米人に揶揄されたように、ラビット・ハウスに住んでいると言わないまでも、欧米基準から言っても、かなり住宅の質が悪く住宅事情が貧弱なので、もっともっと、国是として、持ち家制度の拡充と共に、住宅のグレイドアップを促進かつ企図した経済政策を積極的に打ち出すべきではないかと言うことである。
   これまでも、かなり、住宅制度については、政府として促進政策を打ってきたのであろうが、そんな程度の中途半端ではダメで、エコ住宅への補助金政策でも、普通の国民が、食指を動かして、建て替えなどに積極的に踏み出せるような政策を打たなければ、効果がない。
   言うならば、エコカー減税や補助金でプリウスが売れたり、薄型TVが売れたように、もっともっと抜本的なもので、やらなければ損だと思えるような住宅への減税&補助金制度を実施することである。
   日本の住宅を、質そのものを根本的にグレードアップするような政策が実現できれば、その経済的波及効果は、車や家電の比ではない筈で、停滞した経済を動かせる筈である。
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完全に文明から孤立したブラジルのインディオ

2011年02月13日 | BRIC’sの大国:ブラジル
   先日、パソコンを叩いていたら、この口絵写真が載っていて、「ペルーで進む違法伐採によって居住区を失ったペルーの先住民がブラジルの先住民に接触し、先住民の生存が危ぶまれている」と言う記事が目についた。
   同じことは、ブラジル政府の国立先住民保護財団(FUNAI)が、2年前に、居住地上空から撮影したこれと殆ど同じ写真を数枚公表していて、正に、草で屋根を葺いただけの小屋が数棟写っていて、原始時代の人類の生活を見るようで、感に打たれた。
   完全に孤立した先住民が暮らしていることを立証し、ペルーからの違法伐採により彼らが深刻な危機にあるということに注意を呼び掛けるためにこの資料を公開することを決めた」と述べていたのである。
   英国の先住民支援団体サバイバル・インターナショナル(Survival International)は、このように、地球上には外界との接触を持たない部族が100以上暮らしているのだが、国際社会は目を覚まし、国際法にのっとって彼らの居住区を保護しなければならない。さもなければ彼らは絶滅してしまうだろう。と述べている。

   ブラジルには、このように、完全に人間生活から隔離された原始のままに居住しているインディオ以外に、ポルトガル人がブラジルを征服して以来、文明の中に取り込まれてブラジル人として生活している原住民インディオが、主に、アマゾン地帯に住んでいる。
   インディオの人口だが、征服当時は、600万人いたと言うのだが、1970年には、その数が20万人にまで激減してしまった。
   2000年には、その3倍の60万人までに回復したと言うことだが、原住民の殆どは、遊牧民で、夫々100人足らずの集団で生活しているのだが、広大な居留地が必要となり、その争奪のために激しい競争が起こっていると言う。

   これら原住民の土地取得要求が、アマゾン開発者を怒らせている。
   1%以下の人口の原住民に、ブラジルの国土の10%の居留地があると言うのだから、利害関係のない一般ブラジル人も、開発者に好意的なのだが、現実には、保護されるべき筈のインディオの居留地や生活は、無法状態も甚だしく、侵され続けている。
   ヴェネズエラとギアナとの国境でアマゾンの最北端に、Raposa-Serra do Solと言う新しい居留地が制定されたのだが、農業会社やダイヤモンド・金採掘者や林業、密輸業者などが、不法侵入して来たり、前土地所有者が、別荘を建てたりしており、ことを収拾すべく駐留した筈の軍隊が、原住民を弾圧していると言うのであるから、原住民の保護などは絵に描いた餅なのである。

   法律では、これらの居留地は、インディオの所有地なのだが、実際には、武装した白人の侵入者たちが、トラックや自動車で交通を遮断して外界との交渉を断ったり、インディオの酋長やシャーマンを脅し上げていても、政府は見て見ぬふりで、居留地は存在していても、紙の上だけの話だと言うのである。
   尤も、このような地域のボスや開発推進者たちの悪行は、インディオに対するよりも、WAGE SLAVERY すなわち、賃金奴隷の存在などを筆頭として貧しくて弱いブラジル人たちに対する過酷な労働搾取の実態やアマゾンの環境破壊問題などの凄まじさの方がもっと深刻で、BRIC’sとして脚光を浴びるブラジルの栄光とは逆の、ブラジルの影の部分でもある。

   さて、以上の記述は、ニューズウィーク記者として14年リオに在住し、その後、ニューヨークタイムズのチーフ記者として卓越したブラジルのエキスパートであるRARRY ROHTERの「BRAZIL ON THE RISE」から得た情報を参考にしている。
   この新しい本の翻訳文の出版は、まだまだ先の話だと思うので、現在のブラジルを活写していて、何十年も前の私のブラジル生活を髣髴とさせて非常に興味深く、残念ながら、今の日本には、ブラジル関連の良書が殆ど皆無なので、追って、章を追いながら、私の感想を交えながらレポートしたいと思っている。
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市川右近・安寿ミラの「シラノ・ド・ベルジュラック」

2011年02月12日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   有名なエドモンド・ロスタンの「シラノ・ド・ベルジュラック」に最初に接したのは、もう、随分前のTVの映画で、バルコニーの下から、シラノが、クリスチャンの代わりになって、ロクサーヌに愛の告白を行っているシーンであった。
   パリに行った時に、コメディー・フランセーズの舞台を見る機会があったのだが、ホテルのマスターに、フランス語が分からないと面白くないと言われて諦めたことがあり、その後、ヨーロッパのあっちこっちで、劇場行脚を続けたので、今でも残念に思っている。
   確かに、右近も言っていたように、シラノの台詞の膨大さとその台詞の値打ちは格別で、あのシラノの献身的で一途の愛の独白を噛みしめて観なければ、この戯曲の魅力は半減するほどである。
   シェイクスピア戯曲の台詞も、随分、膨大だが、どちらかと言えば、頓智機知知識が勝って理屈っぽいので、雰囲気が違っており、このロスタンのシラノは、正に、愛の豊かさ、その奥深さを、流れるような修辞を鏤めて歌い上げた愛の讃歌であるから、この感動を味わえなければ意味がないのである。

   今回の舞台の脚本は、もう、半世紀上も前の岩波の辰野隆・鈴木信太郎訳のようだったが、私は、最近翻訳された渡辺守章訳の光文社版を読んで劇場に出かけた。
   それに、全く知らなくて観るのも何なので、前に、NHKで録画したニューヨークのブロードウェイのリチャード・ロジャース劇場での舞台を見た。
   シラノをケビン・クライン、ロクサーヌをジェニファー・ガーナーが演じた、かなり、クラシックな舞台設定の重厚な芝居である。

   さて、この物語だが    
   人並み外れて大きな鼻を持ったシラノ(右近)が、教養豊かな絶世の美女で従妹のロクサーヌ(安寿ミラ)に恋焦がれるだが、自分の醜さ故に諦めて悶々としている。そこへ、ロクサーヌに呼び出されて、いそいそと出かけるのだが、自分の属するガスコン青年隊に入ってきた新人のクリスチャン(小林十市)に恋をして仲立ちを頼まれる。
   クリスチャンもロクサーヌを愛しており相思相愛だが、クリスチャンは、愛を語るには武骨で文才に乏しく相手にされないので、暗闇のバルコニー下から、シラノがクリスチャンに代わって愛の告白の代理として苦しい胸の内を滔々と語り続けて、この独白に陶酔したロクサーヌが、クリスチャンに口づけを許す。
   ロクサーヌに思いを寄せる恋敵の上官・ド・ギッシュ伯爵(石橋正次)を出し抜いて、ロクサーヌはクリスチャンと結婚式を挙げるのだが、それを知ったド・ギッシュは、即刻その場で、シラノとクリスチャンをアラスの戦場へ送る。
   ロクサーヌが、日に二回、クリスチャンに内緒でシラノが書いて送り続けた恋文に感激して、危険を冒して戦場を訪れる。ロクサーヌが、最初は美貌に魅かれた恋がこれらの手紙を読んで感動して本当の愛に目覚め、どんなに醜くなっても心から愛すると告白したので、クリスチャンは、ロクサーヌが愛しているのは、自分ではなく、シラノの心だと知って、絶望して戦場に飛び込んで戦死してしまう。
   シラノは、修道院に入ったロクサーヌを毎土曜日に訪れて世間話を伝え続けているのだが、15年後のある土曜日に、政敵の陰謀で重傷を負って瀕死の状態で訪れたシラノに、ロクサーヌは、戦場死でクリスチャンが握りしめていた最後の手紙を読ませる。真っ暗になって字が読めなくなってしまっているのに、シラノが滔々と読み続けるのに気付いて、バルコニー下から燃えるような愛を告白したのも、膨大な燃える激しい愛の手紙を書き続けたのもシラノ、すべてを知ったロクサーヌは、茫然自失。否定し続けるシラノに、限りなき愛を告白。シラノは、ロクサーヌの接吻を受けて息を引き取る。

   このシラノは、17世紀前半の自由思想家で詩人であり実在の人物だが、この芝居では、詩人であり理学者であり音楽家であり、100人の敵を相手にする剣客であり、文武両道の達人なのだが、顔の醜さ故に切ない恋心を押し潰して生きている。
   ところが、幸か不幸か、クリスチャンの美貌に恋をしたロクサーヌに、愛する思いの丈を上手く語れないクリスチャンの体を借りて黒衣になって、自分の切ない恋心を語り続けるチャンスが与えられる。
   代理だと言うことを忘れて、自分自身の思いの丈を吐露して混乱することもあるのだが、ロクサーヌに戦場からクリスチャンに手紙を書かせるようにと頼まれて二つ返事で約束して、クリスチャンに隠し続けて、危ない敵陣を潜り抜けて毎日2回も手紙を出しに行ったのも、ロクサーヌを愛するが故の恋心の成せる業である。
   戦場で、ロクサーヌに宛てて書いた自分の遺書、それも、涙が染みついた手紙をクリスチャンに遺書として差し出すよう渡すのだが、この遺書が、ラストシーンですべてを語る。
   
   私は、猿之助が元気な頃の右近の舞台は、それ程覚えていないが、その後、能楽堂でも「マクベス」や、「ヤマトタケル」「當世流小栗判官」「獨道中五十三驛」などを見ていて、非常に芸域の広い素晴らしい役者だと思って注目しているのだが、今回、緩急自在で、非常にメリハリの利いた面白い舞台を見せて楽しませてくれた。
   演出の栗田芳宏が、三枚目の味を見せてくれたので舞台が豊かに展開したと言ったようなことを語っていたが、この芝居は、非常にシリアスで、ある意味では深刻な舞台なのだが、ブロードウェイの舞台でも観客の笑いが絶えなかったように、まじめな台詞でも、傍目八目で観客から見ると結構コミカルタッチであったり、流石にフランスの戯曲だけあって、エスプリとウイットに富んだ味のある面白い戯曲なのである。
   右近の芝居としての舞台運びの勘の良さは流石だが、しかし、あのバルコニー下での愛の告白も、ラストの遺書を読む一連の感動的な心情の独白も、その情感豊かなセリフ回しは抜群であり、実に感動的である。

   余談ながら、劇場ロビーで、場違いなところで近所の知人夫妻に会ったと思ったら、お嬢さんが右近丈と結婚しているとかで、終演後に、可愛い10か月の右近二世を乳母車に乗せた明子夫人に会った。元々評判だったが、素晴らしく魅力的で、一寸、エキゾチックな雰囲気のある美人である。
   このあっこちゃんだが、可愛い頃しか会ってなくて、その後、マニッシュでTVを見ただけだが、非常に心の優しい良い子で、迷子になった子猫が可哀そうだと言って近所の家を一軒一軒すべて回って飼い主を捜していたのが印象に残っている。
   右近二世は、非常に目の大きくてしっかりした顔つきの可愛い男の子で、10か月だと言うのに、バイバイと手を振って声を出していたし、非常に表情が豊かなので、素晴らしい歌舞伎役者になるであろうと、勝手ながら、初舞台を楽しみにしている。

   最後になったが、安寿ミラの美しさとその魅力は格別で、じっと、双眼鏡で見続けていたが、実にチャーミングである。
   あのブロードウェイの舞台のガーナ―は、かなり、パンチの利いたオーバーアクションの舞台を披露していたが、安寿ミラは、実に自然体で流れるように、大きな舞台を優雅に飛翔し切った感じで好感が持てた。
   舞台設定は、壁面中央に窓を開け、舞台正面に4段の階段がある両側に手すりのついた台状の小さな舞台が設えられていて、左右に椅子を並べただけのシンプルな設定だが、左手のヴァイオリン(氏川美恵子)と右手のアコーディオン(太田智美)が実に効果的なサウンドを奏でて素晴らしかった。
   クリスチャンを演じた小林十市は、元ダンサーだったようで、死から起き上がって、ラヴェルのボレロが奏されるとジョルジョ・ドンよろしくボレロを踊って退場するところなど、芸の細かさも面白かった。
   もう一つ余談だが、この劇で、ロクサーヌが馬車の中からにっこりとほほ笑んだだけで、粋人の敵兵が、造作もなく敵陣の通行を許してくれたと語っているが、私のパリの事務所の美人秘書は、同じように、ほほ笑むだけで、いつも車の交通違反を許してもらっていたと言っていたので、フランスやスペインは、今も昔も、美人には弱いのである。
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日本の若者は世代障害の犠牲(NYT:In Japan, Young Face Generational Roadblocks)

2011年02月10日 | 政治・経済・社会
   このタイトルは、先月末、S&Pが日本の国債の格付けを下げた直後に、ニューヨーク・タイムズに掲載された記事で、日本の大學生の異常な就職難を皮切りにして、年寄り重視社会構造が若者の就業機会を妨げるなど、現在の日本の経済社会が、如何に若者たちの生活と将来を窮地に追い込んでいるかについてレポートしている。
   記事そのものは、日本人なら誰でも知っている現状の若者たちの窮状が述べられているだけで、それ程目ぼしいインパクトはないのだが、日米の若者たちが多くのコメントを寄せており、正に、身につまされて、慙愧の思いに堪えない。
   フランスなら、学生たちが立ち上がって強力なデモを打つのだが、日本の若者たちは、諦めてしまって人生を棒に振るのを覚悟で、沈潜してしまっている。

   冒頭、 MARTIN FACKLERは、年寄りが年寄り世代の利益ばかりを重視した階層社会にしがみついて、成熟した日本経済を活性化するために必須の時に、若者たちが起業したり新しいモノを生み出すの妨害してきた。ソニーやトヨタやホンダを生んだ国が、若いアンテルプルナーを育てるのを怠り、20代にグーグルやアップルのような革命的な会社を生み出す芽を摘んでしまった。と指摘する。
   アメリカ人とすれば、経済社会の活性化のためには、経済成長が必須で、その牽引者となるのは、20代の有能なアンテルプルナー兼イノベーターであると考えるのは当然で、何故、シリコンバレーのようなイノベーションを生み出す環境を作り出せないのか、大いに疑問に思うのは当然であろう。
   
   この記事でも、ホリエモンのことを話題にしているのだが、私は、若者たちが、ホリエモンにインスパイヤーされて起業に夢を抱いていたころには、ベンチャー起業の息吹を感じて、経済成長の可能性と、日本産業の再生の可能性を感じていた。
   しかし、それと同時に、日本の社会が、新しい時代にキャッチアップ出来ずに、ホリエモンや村上ファンドを叩き潰した時点で、夢は終わってしまったと思った。
   昔、「悪い奴ほどよく眠る」と言う映画があったが、法律を犯すと言うことは悪いことではあるが、ホリエモンや村上以上に、会社法を筆頭に、もっともっと悪質な違法行為を犯しながら、不問に付されているケースが無数にあることを考えれば、日本ほど出る杭は叩かれる国はなく、こんなに社会が閉塞状態になってしまったら、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブなどは、まかり間違っても、生まれないであろうと思う。

   私は、これまでに、失われた10年、いや、20年が、如何に、日本の若者を、職や修業機会から放逐して成長の芽を摘んでしまうなど、日本の次代を背負う人的資源を浪費してダメにしてしまったかを論じてきたが、若者たちに、チャレンジ&レスポンス、アーノルド・トインビーが大著「歴史の研究」で説いた挑戦と応戦のチャンスを与えないと、如何に、国家の命運にとって致命的なダメッジを与えるかを、日本人総てが肝に銘じなければならないと思っている。
   20年以上も膨大なフリーターを生み出して人的資源を浪費し、最近では、就職できないので仕方なく留年する学生が多くて、そのパラサイト・シングルを親が養わねばならないので、親も職から離れられずに、消費もままにならず、経済が益々縮小して行くと言う話を聞くと悲しくなる。

   愚痴はこれまでにして、私が疑問に思っている点が、一つある。
   それは、学生の就職難と言うことだが、確かに大企業は、皆がここばかりを狙うので就職率は悪いが、本当に新卒者を採用したい中小企業の求人数は、はるかに求職者数を上回っていて、満足に求人を満たせないと言う異常なミスマッチ現象である。
   何のことはない、一度も二度も潰れかかったメガバンクや先行き希望の薄い老舗の大企業に、いまだに、大学生が殺到して、その挙句に、就職浪人となると言う不条理である。
   今時、新人を採用したいと言う中小企業は、前途に可能性と希望があるから、有能な若者を求めるのであって、年寄りが羽振りを利かす頭でっかちで成長が止まった、所謂、親たちが就職すれば喜ぶような有名企業よりは、はるかに将来性があって有利だと思うのだが、それが分からない保守的でコチコチ頭の親子だから、先は暗いと言う以外にないと思う。
   中小企業の求人を満たしてから、新卒者の就職難を云々して欲しいと思っている。
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ムハマド・ユヌス著「ソーシャル・ビジネス革命」

2011年02月09日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ノーベル賞受賞者の著者ムハマド・ユネスは、貧しいバングラディシュの婦人たちに、少額の事業資金を無担保で貸し出し事業化したグラミン銀行の創立者として有名であるが、この新しい企業経営思想は、正に現代の資本主義への挑戦であったが、更に、これを発展させたソーシャル・ビジネスと言う概念が、グローバル経済に大きなインパクトを与え始めている。

   2008年に始まった世界的な金融危機で、従来型の担保に頼った巨大銀行が崩壊するなど壊滅的な打撃を受けたが、グラミン銀行に始まった担保に頼らない世界のマイクロクレジット・プログラムは益々勢いを強めている。
   現代の資本主義は、人間は自己の利益のみを追求して経済活動を行うものであるから、企業は、利益の最大化と言う経済目標を一途に追い求める存在だと考えられているが、この大前提は、人間の本質を誤解している。人間が多次元的な存在であると言うのはごく基本的な事実であり、人間の幸福は金儲けだけではないはずで、様々な要素が絡まっており、社会的利益を最大化するためには、政治、経済、感情、精神、環境など、人生のほかの側面が果たす役割を無視できない筈だと言う。

   人間は、利己的な存在であると同時に利他的な存在でもある。
   したがって、ビジネスにも二種類あって、一つは個人的利益を追求するものであり、もう一つは総てが他者の利益のために行うものである。
   前者は、他者を犠牲にしてでも個人的利益を追求する在来型の資本主義下でのビジネスであり、後者は、他者の利益のために専念し、他者の役に立つと言う喜び以外、企業の所有者には何の利益もないと言う、人間の利他心のみに立脚したもので、ユヌスは、これを、「ソーシャル・ビジネス」と定義付ける。

   ソーシャル・ビジネスの目的は、商品やサービスの製造・販売・提供など、ビジネス手法を用いて社会問題を解決することである。
   社会問題の解決に専念する「損失なし・配当なし」の会社なのであるから、企業を所有する投資家は、上がった利益をすべてビジネスの拡大や改善に再投資する。
   一定期間後に投資の元本だけは回収できるが、手元に元本以上が戻ることはなく、例外は、貧しい人々が所有する営利会社で、貧しい人々が銀行の所有者となり、預金者と顧客の両方の役割を果たすグラミン銀行のようなものだけだと言う。

   しからば、そんな利他的で一銭も得にならないビジネスに誰が出資するのかと言うことだが、資金源は沢山あって、慈善事業に回されている資金や無数の寄付者の慈善心によって支えられている財団や非営利組織は勿論、人間の棲みよい世界を作ろうとする人々や組織が喜んでポケットマネーを差し出してくれる。
   世界を変えるソーシャル・ビジネスを築くためになら、喜んで、資金だけではなく、創造力、人脈、技術、人生体験など多くのリソースを提供してくれていると言う。

   更に興味深いのは、グラミン銀行の初期のソーシャル・ビジネスの多くには、合弁の相手があるのだが、本来は営利企業である筈のダノン、ベオリア・ウォーター、BASF,インテル、アディダスなどの大企業がパートナーであり、現に、成功裏に合弁事業を推進しており、ユニクロとも話を進めている。
   貧しい人々の支援に専念する組織と、利潤の最大化を追求する営利企業とがパートナーシップを組んでビジネスを行うと言うのは、全く新しい企業概念だが、企業のCSRであろうと宣伝であろうと目的は一切問わず、趣旨に賛同して事業を推進してくれれば、大いにムハムド・ユヌスを利用して頂けば結構だと言う。
   実際、営利企業もソーシャル・ビジネスの事業主体も、その目的や成功の定義などが違うだけで、ドラッカーの理論を踏襲すれば同じマネジメントを行っているのであるから、経営手法や経営戦略など経営学の展開は同じであり、むしろ、新参者のソーシャル・ビジネスの方が、営利企業が持っている高度な技術や経営ノウハウなどの経営資産から得られるメリットの方が高い筈で、また、認知度等レピュテーション・アップで、宣伝効果抜群なのである。

   また、営利企業側のメリットであるが、このユヌスの意図するソーシャル・ビジネスの戦場と言うか土壌は、正に、今注目され始めている膨大な最貧層人口を持つ次のグローバル市場であるので、その市場へのアクセスと足場を築けると言うチャンスともなり得る。
   更に、プラハラードの「ネクスト・マーケット」で展開すされているBOP(The Bottom of the Pyramid 最貧層)市場におけるイノベーション、すなわち、ビジュー・ゴビンダルジャンの説く「逆イノベーション」を、最も早く有効に吸い上げて活用できると言う巨大な利点があると考えられる。
   この逆イノベーションが、最も華やかに生まれていて、グローバル経済に大きなインパクトを与えているのは、インドを筆頭とした新興国だが、クリステンセンのローエンドの破壊的イノベーションの新展開でもあり、この逆イノベーションから生まれた財やサービスが、BOP市場から、更に、台頭しつつある新興国の新中間層ボリュームゾーン、先進国の底辺層などの膨大な市場へて展開されて行くであろうから、将来性は極めて大きい。

   ユヌスのソーシャル・ビジネスは、現代資本主義を大きく変革する概念であるとともに、BOP市場からのグローバル経済の大きな変革メッセージでもあり、重要な経営革新への示唆を示していると言うことである。 
   多くの示唆に富む提言が他にも随所にあるので、機会を見て再述するが、これまでとは違って、経済社会的に途上国で貧しいと思われている国から新しい経済社会や経営に関する理論が生まれ出でると言うことは、正に、フラット化したグローバリゼーションの成せる業だと考えられよう。
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