熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ベルギー象徴派展・・・世紀末の怪しく美しい芸術

2005年05月31日 | 展覧会・展示会
   今、BUNKAMURA ザ・ミュージアムで開催されている「ベルギー象徴派展」については、迂闊にも十分な準備なく出かけた。
   モローやムンクと同じ派の芸術だと聞いていたので、ある程度のイメージを抱いていたが、なるほどと思った。
   モローの「サロメ」やムンクの「叫び」を見ていたので、なんとも言えない微妙な色彩を帯びた、あの世紀末の退廃的で官能的な狂気じみた印象を持っていたが、正にその通りであった。

   入場早々、ゴヤの、壁面に殴り書きの様に叩き付けた暗い時代の絵の様に鬼気せまるフェリシアン・ロップスの「魔性の女」や「悪魔のような女たち」が出迎えてくれるが、これが、不思議にもどこか官能的な雰囲気を醸し出しているのである。

   ボードレールの影響を受けているようだが、彼が評価した所為もあって、ワーグナー人気が高く、その肖像画や、パルジファル、「さまよえるオランダ人」のゼンタ等の絵があった。
   ワーグナー人気は、フランス語圏の方が高かったようで、バイロイトが巡礼地であったと言う。ワーグナー、引きずり込まれたら逃げられない。
   ワーグナーを崇拝し、ノイ・シュバイン・シュタイン城を建てたルートウィッヒ2世が、城内に作ったワーグナーの楽劇の舞台を模した装飾過多の部屋べやを、何故だか思い出した。

   ポスターに使われているフェルナン・クノップフの「妖精の女王」の2枚の絵、裸体のアクレイジアと甲冑姿のブリトマートは実に官能的で優美である。それに、ブロンズ彫刻の「メデューサの首」の何と言う迫力。
   ジャン・デルヴィルの「死せるオルフェウス」と「栄華を司る天使」も色彩豊かで優雅な美しい絵であった。

   この展示会、決して美しい芸術作品を鑑賞すると言っただけの感じではなく、一種異様な雰囲気であるが、会場を歩きながら、ベルリオーズの「幻想交響曲」を聴いているような気がした。
   悪魔の咆哮の中で、急に、えも言えない美しいメロディーが突然現れて、また、瞬時にかき消されてしまう、あれである。

   何か、久しぶりに、神秘的な不思議な世界を見てしまった、そんな印象を残して部屋を出た。
   地上に出ると梅雨のような雨が降っていた。
   
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芍薬の花

2005年05月30日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   何年か前に苗を地植えしたのが大きくなって今年沢山花を付けている。
   イギリスの頃、庭に一本だけ芍薬が植わっていて、急に伸びたかと思うと、美しい花を咲かせた。
   それを思い出して、牡丹をやめて芍薬に義理を立てた。
   実に優雅な花である。
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北浜流一郎氏の株談義を聞く・・・本当にあたるのか

2005年05月30日 | 経営・ビジネス
   某通信社のセミナーで、北浜氏の株談義を聞いた。
   有名な株のプロであり評論家でもあるので、どんな話が聞けるのか、楽しみに出かけた。
   北浜氏については殆ど知識はなかったが、昨年、日経マネーで、スゴ録等の技術が凄いとしてソニー株を推薦していた。ソニーショックの後でもあり、その後のソニーの経営状態を知っていたので、何故なのか、正直なところ、その分析力と評価を信用していなかった。
   概略、極めて常識的な話であり、次のような内容だったので、記録に止めておきたい。
   
   日経平均は殆ど変化しないが、構成する個々の企業は、絶えず選手交代している。
   株は時代の動きによって変化するので、中国関連株が良いと言っても中国リスクの心配が出てくれば、変えるべきで、同じことをしていてはダメである。
   しかし、変わらないものは、次の指標を見抜くべきで、この数字が良ければ優良株である。
1.1株益、即ち、1株価値。EPSが高く、上昇傾向にあるのが良い。EPSは、株の命。
2.営業利益、即ち、儲け力。
3.無借金等キャッシュ・リッチ。今後金利がアップするので備えるべき。
   これ等の数字さえ押さえて置けば、優良株は見分けられる。EPSは、株の先見力でもある。
   今後の優良株は、
1.自動車関連ビジネス、自動車は成長産業である。
2.不動産流動化ビジネス
3.人材派遣・就職情報ビジネス

   株で重要なことは、損切りが出来るかどうかで、上手く出来れば一人前。
   ズルズル持つから損をするので、8%なら8%と決めて実行せよ。

   大体そんな話であったが、多少、成長業種に異論がある。どうしても、年の所為か、バフェットの様にオールド業種と言うか、これまでの常識で見える範囲に止まっている。
   EPSで企業の先が見えると言うが、指標は総て過去の数字、何かの変化が起これば、突然上がり下がりする。
   IT革命だって、中国ブームだって、皆、何十年前から分かっていたような顔をしているが、認識したのは、ごく最近である。
   
   ガルブレイスが、経済の予測さえ不可能なのに、よく、臆面もなく株の予測をするなあ、と言っているし、大前研一氏は、評論家は、ファンダメンタルがどうだからと言って為替予測を解説しているが、いまだかって、ファンダメンタルで外為が動いた例がない、と言っている。
   当たるも八卦、当たらぬも八卦。株は面白いが、難しい。
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赤い薔薇・リンカーン?

2005年05月29日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   20年ほど前、庭に植えた初めての薔薇がこの赤い花。
   日当たりを好む薔薇だが、玄関横の北西の隣地境界に植栽。
   しかし、金木犀をつき抜け、門被りの槙を避けて逞しく伸びて、毎年、豪華な真紅の大輪を咲かせる。
   本には、恰も薬を調合するかのように肥料など詳細な手入れの指南が書かれているが、全く無用。
   適度な肥料と薬剤散布で十分。こんなに綺麗な花が咲く、薔薇は逞しく強いのである。
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ヨーロッパ紀行 3   世界最高の植物園・ロイヤル・キュー・ガーデン

2005年05月29日 | 海外生活と旅
   先日、久しぶりに、緑に萌える新宿御苑の散策を楽しんだ。英国庭園のバラ園で沢山の薔薇が、今盛りに咲き乱れていており、華やかであった。

   私は、ロンドン郊外のキュー・ガーデン(正式には、Royal Botanic Gardens, Kew)を思い出した。ほんの歩いて数分の距離の所に3年間住んでいたので、この公園は、私の散策路でもあり、あの頃多忙であった所為もあり、休日が取れると、Canon Eos 10とNikon F801sに、100ミリのマクロや、80-200の望遠レンズを付けて、いそいそと出かけて行った。

   この公園は、現存するオランジェリィ宮の庭園として18世紀に開かれたもので、内部には、キュー・パレス等王宮に縁の建物も残って居るが、世界各地から多くの植物が集められて栽培、研究されるなど学問・芸術面での貢献も高い。
   中には、壮大な南国を思わせる温室や逆にアルプスの植物を栽培しているアルパイン・ハウス等多くの研究用の建物があり、また、庭園内には、山あり谷あり、田園あり、季節の移り変わりによって花々が妍を競う。
   
   新宿御苑の様な広々とした池あり林ありの庭園が展開し、白鳥等の水鳥、雉や山鳥等の野鳥が群れており、また、春には、日本からきた櫻が一面に咲き乱れる。
   公園に接してテームズ河がゆっくりカーブしながら流れていて、実に、爽やかで美しく、日本からの椿や紅葉等に出会うと嬉しくなってしまう。
   季節の薔薇もそうだが、アザレアの咲き乱れる春も美しいし、観光客で賑わう観光スポットは人が多いが、パンダの餌の竹が植えてあるバンブウガーデン等奥に入ると全く人影がなくなり、森の下草の中から高山植物の可憐な花が現れたり、駒鳥がすぐ側までやって来たり、ヤマドリの親子の行進に出くわしてビックリすることがある。
   
   この公園に、ロンドン万博の時に献呈された少し小型の御成門やパゴダなど変わった建物が建っているが、イギリス人好みのギリシャ風の小型のテンプル等もあり、風景主体の本来のイングリッシュ・ガーデンが展開されている。

   この公園には、シーズン・チケットを買って通っていた。一回券の5倍くらいの値段だったが、エコノミーと言うよりは、シーズンには観光客で溢れてごったがえすゲートを、パスを見せてスッと通る快感の方が大きかった。

   素晴らしい田園などイギリス生活の素晴らしさについては、少しづつ書いて見たいと思っている。
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大杯の種

2005年05月28日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   わが庭のもみじ・大杯に、沢山の赤いトンボの様な種が付いている。
   公園の紅葉も種を付けているが、少しすると地面に落ちる。
   しかし、取り蒔きしない限り、こんなに多くの種だが、不思議に殆ど芽は出ない。
   全く種を付けないもみじもあって面白い。
   唐招提寺と永観堂で貰って庭に蒔いたもみじが少し大きくなった、どんな紅葉になるであろうか。
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裏日本が表日本に・・・環日本海時代の到来

2005年05月28日 | 政治・経済・社会
   昨日、日経ホールで、「石川・金沢からのメッセージ」と言うシンポジュームが開催され、―石川・金沢の魅力と産学官連携を考える―をテーマに、興味深いセッションが展開された。
   谷本・石川県知事の「石川の強みを生かした新産業の創造」を皮切りに、後半では、山出・金沢市長や在金沢の大学関係者等で、「産学官連携の動向と大学」が議論された。

   興味深かったのは、特別講演の寺島実郎氏の「産学官連携と地方の活性化」~21世紀の世界と日本、環日本海への視点~で提起された諸問題であった。
   
   貿易立国日本の貿易構造に大きな変化が起こっており、最大の対外貿易国が、米国から中国へ、そして、大中華圏へ拡大している。
   戦後の50年、総てアメリカに向いて経済活動が行われてきたので太平洋側が日本の表玄関であったが、しかし、今や港湾の空洞化により横浜・神戸等の地位が低下してしまって、香港、シンガポール、上海、釜山等が世界のハブ港湾となり、これ等に集散された物流は、日本海を通って津軽海峡から米国に運ばれている。
   今後、中国、アジア、ロシア等との経済交流が深まれば、貿易構造上も日本海が内海化することとなり、日本の表と裏が逆転、環日本海構造経済を考えなければならなくなる。
   寺島氏は、中国とロシアの経済の活力を説き、アジアダイナミズム、ユーラシアダイナミズムを説きながら、金沢の今後の位置づけを語る。

   国際経済に限っても貿易の比率は僅かなので、即、日本の裏表逆転は有り得ないが、貿易・物流に関しては、グレイター・チャイナのアジア経済圏、ロシアとの経済交流・交易の更なる拡大を考えれば、日本海側の港湾施設の整備が必須だが、日本海側が表玄関になる可能性は極めて高い。

   太平洋側が日本の表になったのは、そんなに歴史の古いことではなく、江戸時代でも、大阪が「天下の台所」として元気な頃は、北廻船が活発に行き来し日本海側が日本の表玄関であり、加賀百万石の金沢が、江戸、大阪に次ぐ大都市であった。
   東京主体の歴史観で軽視されているが、日本海側の諸地域は、樺太、蝦夷、朝鮮、中国との交易で、民度の高い文化経済生活を謳歌していたのであろう。

   もう何十年も前になるが、アメリカの労働組合の影響を避けるため、多くの企業が大挙してノンユニオンの南部に移動し、サンベルト地域が経済拡大で活性化が進み、北部の工業地帯の疲弊を招いたことがある。時代は、ある日、突然逆転するのである。
   この頃、ホンダや日産やトヨタが南部に工場を建設し地歩を築いていたのである。

   道路公団を袋叩きにして溜飲を下げている人が多いが、山陰の道路や鉄道など交通状態は何十年前と少しも変わっていない。環日本海時代が来たらどうするのか。
   不必要な公共工事が多いことは事実だが、時代の動きに沿った適切な公共行政は必要であろう。
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ヨーロッパ紀行 2   ロンドン・タクシー・・・世界一正確な運転手集団

2005年05月27日 | 海外生活と旅
   ロンドンへは、2年ほど行っていないので、最近、ロンドンタクシーに、カーナビが着いているのかどうか知らないが、先日、NHKのポアロとマーブルでタクシー運転手の資格取得試験の模様を放映していた。
   私も運転手に聞いた話では、お客の要求する場所に最も早く最も経済的かつ正確に行かなければならない義務がある、と言うことであった。
   その為に、資格試験が難しく、試験を受ける前には、ロンドン中の道と言う道は総て単車で回って道を覚えたのだとも言っていた。試験官の顔が鬼に見えるとも。
ここで工事をしていて通行止め、ここで何時から何時まで通行禁止、それでは、ここからここへどう行くのか、等と質問されたら、道だけではなく交通標識、交通ルール等など一切を知っていないとダメである。

   実際に、ほんの数百メートルだが間違って行って引き返したことがあったが、運転手は自分が間違ったのだから、料金は要らないと固守されたことがある。
   道が分からないのでタクシーに乗っているのに、「お客さん、昨日、岡山から来たとこなんですけど、どの道行きましょうか?」と言われる日本とえらい違いである。

   過酷な試験だが、一つの救いは、住所表示の簡易さ、即ち、条里制の住居表示の採用である。
   大まかに言うと、欧米の場合は、まず、総ての道路に名前が付いていて、市役所に近いところから、道路沿いに住居番号が付けられ、一方は奇数、反対側は偶数、そして、次の交差点から、10番台乃至100番台の番号が一つずつ大きくなる。
   従って、通りの名前と、住居番号さえ分かっておれば、大体間違いないように行ける勘定である。
   尤も、理屈はそうだが、実際には、入り組んでいたり、大きな門の中にまた通りがあって名前が付いていたりで、集合住宅が密集している場合など中々難しく、ウィーンで、シュタット・オペラの著名指揮者のアパートを探すのに難渋した記憶がある。
   ロンドンの場合も、アッパーかアンダーかの確認をミスして上下を間違って困ったロンドンっ子もいた。
   それにローマ時代の入り組んだ路地がそのまま残っていて、これが道かと思う様な所も多いのがロンドン、兎に角、場所探しは何処も大変である。

   日本は、奈良や平安の時代に、条里制の住居表示方を導入しながら、なぜ、そこから離脱して、面で住所を表示する方法に変わったのか。
   この住所を、欧米のように線で理解するのと、日本の様に面で理解するのとでは、モノの考え方や発想に大きな違いが出てくる。
   日本の場合は、一番最初に家が建った所が一丁目一番地で、次に建った所が二丁目、従って、最近では住所表示の変更で大分ましになったが、未だに、1丁目の隣に13丁目があったりして分かりにくい。
   タクシーの運転手も、郵便配達の人も、クロネコヤマトの人も、今はIT時代なので助かっているかも知れないが、大変だったであろうと思う。
   今では、まことしやかに道路には百年前から当然であるかのように名前が付いているが、これは最近の話であり、今でも、路地に入ると道路名などない。
   従って、一番IT革命の恩恵を受けるのは日本で、一番カーナビが重宝されるのも日本である。

   余談だが、今は知らないが、サウジアラビアも、道路名も住所もなく、昔は、総て郵便は私書箱であった。
   タクシーに乗ったら余程上手く説明しないと目的地に行き着けない。
   出張で何回か行ったが、タクシーには乗らなかった。

   ロンドンでは、間違いなく気楽にタクシーが乗れる。地下鉄も、多少危険ではあるが便利である。
   交通は文明のバロメーター、ロンドンタクシーの律儀さは、イギリスの民度を示している。
   
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野いちご

2005年05月26日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   何処から紛れ込んだのか、庭の片隅に野いちごが実を結んでいる。
   何時もは雑草と一緒に抜いてしまうのだが、今年は放置しておいたら一面に広がって、小さな赤い実を付けて綺麗なグラウンドカバーになった。
   イギリスでは、マーゴに貰った苗を大切に育てていたら、ウエッジウッドの「ワイルド・ストローベリィ」そっくりの花と実がなったが、この野いちごは、花の蕾かと思ったら、そのまま実になっている。
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プラシド・ドミンゴ、されど、プラシド・ドミンゴ

2005年05月26日 | クラシック音楽・オペラ
   還暦を迎えるドミンゴを祝う為に、ヘレナ・マテオプーロスが、多忙を極めるドミンゴを世界各地に追っかけて素晴らしい本”PLASIDO DOMINGO My Operatic Roles プラシド・ドミンゴ オペラ62役を語る”を著した。
   既に5年前に出版されている本だが、ドミンゴが、オペラで演じた夫々の役柄を丁寧に語っており、ヘレナが他の大オペラ歌手等のインタービューを交えながら興味深い逸話や解説を加えている。
   ドミンゴが語る夫々の役柄の難しさやその芸術の奥深さ、相手役のヒロイン歌手に合わせて歌唱を変えたり、何百回も歌っていてどのように変わってきたか等など、興味深い話題が随所に現れ、如何にドミンゴが豊かな知性と教養に裏打ちされた大歌手であるのか、その片鱗が伺われて実に楽しい。

   残念ながら、私のドミンゴ鑑賞は限られており、ロンドンのロイヤル・オペラで、「トスカ」、「サムソンとデリラ」と「オテロ」、そして、ドミンゴが振った「パリアッチ」、メトロポリタン・オペラで、「ワルキューレ」の5オペラだけであるが、それでも、その類まれな美声と芸術の素晴らしさは分かっているつもりである。
   3大テノールのパバロッティやホセ・カレーラス、そして、アラーニアやホセ・クーラ等のオペラも結構見ているが、ワーグナーまで手を出す芸域の広さと芸の深さは他の追随を許さないであろう。
   マリオ・デル・モナコやジュゼッペ・ステファノも素晴らしかったが、やはり、イタリアの歌手であった。

   ニューヨークのメットの「ワルキューレ」のチケットが簡単に取れたのにはビックリしたが、当時は、ロンドンではロイヤル・オペラでドミンゴやパバロッティのチケットを取るのはフレンドか何か特別な関わりがなければ至難の業であった。
   それに、当時の交換レートで、最高席は6~7万円していたので、現在の日本での引越し公演と変わらないほど高かった。(今は、改装後、良くなってかつ安くなっている。)

   私が一番感激したドミンゴの舞台は、ショルティが振り、キリ・テ・カナワがデズデモーナを、ライフェルクスがイヤーゴを歌った「オテロ」、である。
   そのころ、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーのシェイクスピア戯曲の舞台鑑賞に入れあげていたので、ドミンゴのオテロに、オペラ歌手としてのみならず役者としての素晴らしい芸の深さに感嘆してしまった。
   
   ドミンゴが、オテロを30年前に初演する時、皆が反対したが、ビルギット・ニルソンだけが、ドン・ロドリゴを歌うドミンゴを聴いてオテロの第一人者になると予言したという。
   ニルソンのイゾルデを大阪フェスティバルで聴いているが、あのワーグナー歌いの大歌手ニルソンが認めたとは、そして、初演がカレーラスの恋人リッチャレッリのデズデモーナであった事、そして、その後、ウィーン国立歌劇場で101回のカーテンコールを受けたことなど逸話が明かされる。
   
   興味深いのは、ドミンゴのオテロはムーア人というよりはアフリカ人であることをオリビエから学んだこと、ヴェルディのオペラはシェイクスピア劇より進行が早いので激情を爆発させるタイミングは出来るだけ遅らせた方が良いこと、そして、愛の二重唱を終えて永遠に手の届かない最後を迎えるオテロの悲しみ、イヤーゴとの心理劇の葛藤等など実に含蓄の深い持論が展開されていて興味深い。
   このような興味深い話が、62のロールで語られていて、ドミンゴの芸術を通してオペラの奥深さが分かる、そんな還暦祝いの本素晴らしい本であった。
   
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ちょっとレトロなアール・デコ展・・・東京都美術館

2005年05月25日 | 展覧会・展示会
   緑が萌え始めて美しい上野の杜、イラン人の群れは消えたが、まだ、木陰に沢山のブルー・テントが犇いている。
   東京の文化村・上野は、駅も、美術館も、芸大も、そして、周りの佇まいも、一頃と比べて随分美しく明るくなったが、まだ、世界の一流文化国の文化村からは、少し距離がある。

   東京都美術館で、いま、1910年から1930年代にかけてフランスを中心に生まれアメリカで花開いたアール・デコ芸術を集めた展示会が開かれていている。
   展示品の相当部分が、ヴィクトリア&アルバート美術館より来ており、ロンドンに5年も居ながら、十分に見ていなかったのを残念に思った。

   流線型を多用したアール・ヌーヴォーを嫌って、直線的な構成と明快な色彩を特徴とする機能主義に還元されない最後の「装飾芸術」とかで、1925年パリで開かれた現代産業装飾芸術国際展からアール・デコの呼称が出たと言われている。
   家具・什器、宝飾、衣装、日用道具、絵画、ポスター等など多彩な装飾芸術品が展示されていて目まぐるしい。

   面白いのは、ポスターに使われているさも重大そうにポーズをとって電話を架けている女性の絵「電話Ⅱ」。エジソンによって発明され、当時実用化された電話が、正にモダンの象徴であったのであろう、何時の世も、革新的な技術に飛びつくのは、同じなのである。

   当時、ハワード・カーターが、ツタンカーメンの墳墓を発掘し、夥しい古代エジプトの装飾品を発見したが、これが天下を騒がせ芸術家を触発してカルティエ等に素晴らしい宝飾品を作らせ、これ等が展示されている。

   私が興味を持ったのは、場内のスクリーンに映し出されていた、ジョセフィン・ベーカーの派手で陽気なダンス・シーンで、ああ、あの頃かと思いながら、彼女の舞台に着想を得たポール・コランの「黒い喧騒」よりの12点の図版を見ていた。
   イサドラ・ダンカンが、もう少し長生きしていたらどうだったであろうか、そんなことを思った。

   このアール・デコの頂点、1930年代初期に建ったニューヨークの「エンパイアステート・ビルとクライスラー・ビルを思い出した。エンパイアステート・ビルの入り口からロビーホールなど、正にアール・デコ。
   昨年訪れた時には、爆撃倒壊したWTCの煽りを受けて超満員で、展望台に上るのに時間がかかった。

   アル・カポネが、シカゴの暗黒街を押さえ、ジャズのリズムがムンムンするムードの中で、アメリカのモダン文化が花開き、急激に世界の文化芸術の世界をリードする丁度その頃、起爆剤になったのがアール・デコ、そんな思いで展示会を見ていた。

   
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中国の反日運動・・・日本の安保反対と同じか?

2005年05月24日 | 政治・経済・社会
   4月の中国の若者達の激しい反日デモをTVで見ていて、若かりし頃、河原町通りでデモを打ち八坂神社裏の円山公園で結集して安保反対を叫んでいた、あの学生時代のことを思い出していた。
   
   時代は違っているが、政治的にも経済的にも、現在の中国の歴史的に置かれた位置を考えると、あの頃の日本と良く似ている。反米が反日に、日本が中国に置き換わっただけの様な気がする。同じような感想を立花隆氏も述べている。

   まず、余談から始めるが、昨年上海を訪れた。
空港には、ドイツから導入した最新式のリニアーモーターカーが待っていて超高速で上海郊外駅まで運んでくれる。しかし、そこから、メトロに乗り換えて繁華街に向かうのだが、上海の中心の駅で降りようとすると、降車客が降りる前に、待っていた客がわれ先に雪崩れ込んで入ってくる。
新宿駅の駅頭でさえも、また、欧米の観光地でも、やはり、目を避けたくなるような中国人の光景を見ることがある。
   (余談ながら、公平のために、上海のメトロで、やはり長幼の序を重んじる国、席を譲ってくれる若者が居たことを付記しておきたい。)
  
   私の言いたいのは、中国人の礼儀作法や民度の問題ではなく、抑圧され成長が停止して眠っていた経済社会が急に開放されて、一挙に最新最強の経済文化が雪崩れ込み、その大変革の中で生き抜こうとすれば、そして、歴史上の栄光の過去に目覚めれば、国民はどのような行動を取るのかと言うことである。
   伸び盛りの激しいエネルギーと言うか、これが、歴史の激動の中に置かれた中国の現状ではなかろうか。

   日本は、第二次世界大戦により、アメリカに焦土作戦を決行されて東京や大阪の街は灰燼に帰し、広島長崎に原爆を落とされて、名もなき多くの国民が死んでいった。歴史的に正当化しようとしているが、終戦の為とは言え、これほどの暴挙が許されて良いのであろうか。
   安保反対の頃は、若者達は、政治や経済や一切を含めて反米・反帝国主義に抗議して立ち上がった。発展途上にあるドサクサ状態であったが、今日よりは明日、明日よりは明後日、兎に角、経済社会は激動していて、先に夢と希望があった。
   しかし、豊かになって平和ボケした国民には、もはや反米感情等風化してしまってさらさらなく、今のフリーター志向の若者には、日当を支払うと言ってもデモになど行く者は居ないであろうし、国民の色々な抗議活動でも優雅なピクニックスタイルに変わってしまった。
   東アジアの情勢は風雲急を告げているのに、アメリカべったりであれば、国富と国民の安寧が補償されると信じて疑わない政府に、強いて反対する気配もない。

   ところで、大経済ブームを謳歌している上海だが、この大都会を開発したのは、中国人ではなく欧米列強で、繁華街は殆ど欧米の租界であった。観光客溢れる美しい街並み外灘も100数十年前にイギリスが開発した。
   現代中国の貢献は、対岸のビジネスセンター浦東だけ、これ等の開発技術や開発事業も殆ど外国の助けを借りている。
   近代、そして、現代中国は、強国に蹂躙されてきた悲しい歴史を持つ。今、必死になって過去の栄光を取り戻そうとしている。
   古代から現代まで、一国で、大国として文化文明を維持し、国家の存続を続けてきたのは中国だけ、この世界に他にはない。多くの国は栄えても衰退したり、跡形もなく消えてしまっている。

   日本は、革命を起こさずに明治維新に成功し近代化を成し遂げた。
   中国も、少数民族に対する人権問題や国民の経済格差等多くの難問を抱えながら、国民の世論や感情を上手く操作しつつ、一等国へと近代化を進めようとしている。分裂崩壊を予測する向きもあるが、10数年でここまで来た。歴史がどのような判定を下すのか、興味深いところである。
   しかし、結局は、国民の名実共の成長を待つ以外にないであろうと思う。
   
   
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ピラカンサの花

2005年05月23日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   晩秋に、柿色の小さな実をビッシリ付けるピラカンサ。
   最初は、小さな鉢植えを買って庭に移植するが、すぐに大きく枝を広げる。
   切ったり切り戻したりするが、夥しい実を啄ばんだ鳥が種を落とす。
   このピラカンサは、何代目であろうか、庭から、ピラカンサが消えたことがない。
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ヨーロッパ紀行 1   ミラノ・・・ダ・ヴィンチの最後の晩餐   

2005年05月23日 | 海外生活と旅
   一昨年、イタリアを訪れた時には、目的はいくらかあったが、ミラノ訪問の最大の楽しみは、修復なったレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を見ることとスカラ座のオペラであった。

   サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会付属の修道院の食堂に描かれたこの「最後の晩餐」には、前後3回お目にかかっている。
   一回目は、25年以上前で、光の全くない倉庫の奥のようなところに、微かに美術書で見た絵の輪郭を見て感激した。
   二回目は、ヨーロッパに居た頃で、修復中で、半分、覆いが掛けられていて、修復部分に電光が当てられていたような記憶がある。
   三回目は、昨年で、全く修復が終わっていて、淡い光の中で、パステル画の様な雰囲気であった。左右の小窓は閉められていて弱い間接照明だけで、薄ぼんやりと壁画が浮かび上がる。

   今回は、入場が厳格で、何度も電話で予約を試みたがテープの音声が答えるだけで拉致があかなっかたが、ホテルに頼んで許可を取った。
   幸いに、苔寺の予約と同じで、入場券を確保すると、限定された少人数の客に限定されるので、十分に楽しむことが出来て幸いである。

   ブラマンテの設計した中庭と人気のないグラツィエ教会で十分余裕を楽しみ、入り口に入ると、狭い空間に大戦の被害状況や修復工事の模様、関係資料など重要なパネルが展示されている。
   目的の食堂までには、関門式運河のように、空気を一定に保つ為か、いくらか小部屋を通過する。
   長い長径の奥の壁面に幅8メートルのあの懐かしい、殆ど諳んじている様な「最後の晩餐」が現れる。
   過去の修復による残滓を洗い落とした所為か、色が薄くなったような感じで、テンペラ画と言うよりはパステル画を見ているようである。

   私には、何時も、この最後の晩餐は、宗教画と言うよりは、完全に二次空間に展開された壮大なオペラであり戯曲だと思って見ている。
   シェイクスピアの舞台であったり、ヴェルディのオペラであったり、兎に角、静かな空間に、役者の独吟やオーケストラのサウンドが渦巻いてくる。

   漆喰の乾く前にドラマを凝縮して描写を終えなければならないので、ダ・ヴィンチは、フレスコ画を嫌って、何回も加筆修正の利くテンペラ画法を採用してこの壁画を描いた。
   これが悲劇となり、耐久性が劣る為、初期の段階から絵の毀損が激しかった。それにしても、馬小屋として使用された時期もあり、第二次世界大戦での壊滅寸前等の悲劇を経験し、それに、不幸な加筆や修復を受けながら、良く今日まで耐えたと思われる。
   正に、数奇な運命を辿った不幸な、しかし、幸せな壁画である。

   フランソワ1世が、剥ぎ取って持って返ろうとしたと言われている。
   結局、フランソワによって、ダ・ヴィンチはフランスに招かれて、アンボワーズ城の山手のクロ・リュッセの館で晩年を過ごした。
   この時に終生手元に置いて加筆を続けていたモナ・リザが今ルーブルにある。
   このクロ・リュッセの館、陽光に照らされ、吹く風もどこかイタリア風と言うか、ロワールの畔であるが、中々、良い所で、ワインも料理も美味しい。
   この館で、あの「最後の晩餐」を描いたダ・ヴィンチが寝起きした所かと思うと感激だが、ダ・ヴィンチが考案した複雑な飛行機や近代技術の模型を見ていると時代を超越してくるのが面白い。
   
   
   
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柚子の花

2005年05月22日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   晩秋に黄色い実をつける柚子の花が、可愛い卵形の真っ白な蕾を開き始めて今花盛り。
   庭植えした小さな苗木が可なり大きくなって、一昨年くらいから、柚子湯に丁度良い位の量の実を付ける様になった。
   小さいが凛とした品のある花だが、実が熟すまでには、暑い夏を過ごして晩秋までジックリと時を待つ。
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