熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

銀行本来の仕事とは・・・ジャンニーニのバンク・オブ・アメリカ

2008年12月30日 | 中小企業と経営
   今世界中を吹き荒れている金融危機で、アメリカの投資銀行は実質的に消滅し、AIGやシティバンクなど名だたる金融機関が殆ど国有化の状態に陥るなど、金融機関を取り巻く環境は様変わりとなった。
   こんな状況の時に、初期の銀行はどのような状態で産声を上げたのか、興味深い思いで、T・G・バックホルツの「伝説の経営者たち」の、バンク・オブ・アメリカ(BOA)の創立者アマデオ・ピーター・ジャンニーニ(通称AP)の項を読んだ。

   19世紀から20世紀にかけての銀行業は、モルガンやロスチャイルドなど財閥系が主体で、金持ちだけを相手にし、預金など基本的に金庫に眠ったままのような閉鎖された状態であったが、A・Pは、小規模事業主や勤め人、更に主婦さえも信頼してカネを貸せる相手であることを理解して、銀行の窓口係の格子戸を取り払って貸し出しを行って、近代銀行業を生み出す端緒を開いた。
   最初は、バンク・オブ・イタリアであったようだが、金持ち相手のモルガン方式ではなく、庶民にカネを貸すことを慈善ではなく立派なビジネスに仕立て上げ、銀行業の利益の仕組みと経済そのもを革命的に変えてしまった。
   1世紀も前に、正に、ピープルズ・バンクを志向して、アメリカ経済を過去から解き放ったのである。
   
   形を変えた形で、極貧層への銀行業で成功を収めて話題になっているグラミン銀行の先駆けとも言うべきビジネスモデルであるが、プラハラードが「ネクスト・マーケット」で説いている、50億人の貧困層を「顧客」に変えるボトム・オブ・ピラミッドの次世代ビジネス戦略へのパラダイム・シフトの発想でもある。
   時代の潮流が大きく動き出す時には、人々は、その流れに沿って変革を志向するのは当然であるが、
   少しづつ変わりつつある潮目を見極めて革新的なビジネス・モデルを生み出すことは非常に難しいのだが、ここにチャンスを見出したAPの発想は、やはり、ニューヨークではなく、辺境のサンフランシスコに居たからであろうか。
   日本の多くのビジネスが、グローバリゼーションの潮流に乗れずに、ビハインドを託っているのは、良かれ悪しかれ豊かで最先端を行く恵まれた日本と言うマーケットにどっぷり埋没しているからであろうと思う。

   APの興味深い発想は、「低い金利は、貧しい借り手を引き寄せ、高い信用リスクを呼び寄せる」と言う当時の銀行家の概念への挑戦で、誰でも、掘り出し物が好きであり、低い貸し出し金利を探す人は、知性と勤勉さを実証しており、より良い条件に反応するので「信用力」が高いと考えたのである。
   「より安い金利を得るために戦う人こそ、我々がカネを貸したい人だ」と宣伝して、広告を打つのだから、モルガンと言えども、白日に晒された高金利を下げざるを得なかったのが面白い。

   サンフランシスコ大地震の時、壊滅状態であった街の中を、暴徒を避ける為に、果物や野菜の箱を積み上げた荷車に、現金を隠して運び出し、翌日、波止場に二つの樽の上に厚板を渡してカウンターを作って青空銀行を立ち上げて、困っている人たちに少しづつ融資したと言うのだから、見上げたものである。
   更に興味深いのは、何でも担保に出来ると考えたことで、住宅など格好の担保だと考えていた。
   当時、銀行は本店だけだったのを、支店開設を試みたり、支店拡張のためには企業買収に主眼を置くなど、今では、極普通のビジネス手法をどんどん編み出して果敢に挑戦を試みたイノベーターとしての企業家精神には脱帽である。

   APの真の天才は、アメリカの庶民の可能性を見出したことだとバックホルツは言っているが、引退するまで、この気持ちは変わらなかったと言う。
   現在の銀行は、AP時代とは様変わりだが、モルガンなど当時のエスタブリッシュメントが落日で、バンク・オフ・アメリカなど新興群が健在なのが面白い。

   この項での教訓は、発想の転換。押して駄目なら引いてみよ、である。
   ブレーキは何の為にあるのか、と言うシュンペーターの問いかけに何人の中小企業の経営者が正しい答えを出せるかが問われている。
   ブレーキは、止まるためにあると考えるだけでは、ビジネスは一歩たりと前進しない。
   より早く走るためにこそ、ブレーキはあるのである。
    
   
   
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ディズニー:スタートはミッキーではなくウサギのオズワルド

2008年12月27日 | 中小企業と経営
   ディズニーの最も有名なキャラクターは、ネズミのミッキー・マウスだが、しかし、ウォルト・ディズニーが映画事業を起こして最初に人気を博した主役は、ミッキーではなく、ウサギのオズワルドだった。
   ウォルトが、ウサギのオズワルドの一連のアニメで有名になり、映画配給会社ユニバーサル・スタジオのチャルズ・ミンツに制作費の値上げ交渉した時に、拒絶されたのみならず、会社のアニメーター達を引き抜かれ、契約上の不備もあって、オズワルドの権利も取り上げられて、門前払いを食ったのである。
   この屈辱的な不幸と怒りがあったればこそ、その後のウォルト・ディズニーの成功があったのだと、バックホルツが「伝説の経営者たち」の中で述べている。

   ミンツがナイフをウォルトの咽喉もとに突きつけてオズワルドを盗んだことから、ウォルトは、2つの重要な教訓を学んだと言う。
   一つは、自社の独立を保つこと、もう一つは、自分が独自に生み出したものに対する権利を絶対に手放さないことである。
   この教訓は、以前に紹介した盛田昭夫が、ニューヨークで、咽喉から手が出るようなトランジスターラジオの大口注文を受けたのだが、相手先ブランドが条件であったので、涙を呑んで受注を蹴ってSONYブランドを死守したと言う逸話と同じ精神で、創業期や中小企業段階での非常に貴重な戦略であることを忘れてはならないと思う。

   しかし、このキャラクター盗難事件での最大の収穫は、ミッキー・マウスの誕生であった。
   オズワルドを取られたウォルトには、新しいキャラクターが必要であった。
   色々な動物を片っ端から思い描いたが、事務所を走り回っていたネズミを脚色して、頭、耳、ふっくらした身体を描き、色を加えて出来上がったのがミッキー・マウスだが、その姿は、ウサギのオズワルドそっくりであった。
   オズワルドの耳を丸くして、お腹にチョコレートファッジを10ポンド詰めれば、ミッキー・マウスの出来上がりだと言うのである。

   ところで、ウォルトの偉いところは、ミッキー・マウスを、オズワルドを超えたワンランク上のキャラクターに仕上げようと必死の努力をしたことである。
   ウォルトは、観客が面白いと思ってくれるように、そのニーズに応えたキャラクターを描くために、観客の反応や評価分析をすべく、ミッキーの冒険譚の試写用プリントをロサンゼルス郊外のグレンデル劇場で上映して貰って、後部座席に座って観察し克明にノートを取ったのである。
   現在では、マーケットリサーチとしては当たり前の手法だが、このミッキー・マウスを普遍的なシンボルとして育てようとしたウォルトの試みは、精神分析の大家カール・ユングが「元型と集合的無意識」を著す数年前のことだと言うから、コトラーもびっくり!であろう。

   もう一つ特筆すべきは、ウォルトの新技術に対する飽くなき挑戦、イノベーター精神である。
   間もなく封切しようとしていたサイレント・アニメ映画「蒸気船ウィリー」を、苦心惨憺して、音楽と台詞を加えたトーキー映画に仕立て上げて世に問うたのであるから、一声を風靡し、大変な人気を博して、ミッキー旋風が全米を席捲したのである。
   まさに、ミッキー誕生、ミッキー元年の快挙だが、尤も、この成功においても、配給業者からの独立を守ったものの、放映業者シネフォンのパット・パワーズに、同僚アブ・アイワークスを引く抜かれて事業を乗っ取られようとするなど不幸に見舞われたが、どうにか、ミッキーの権利は死守した。

   短編が次々に成功を収めているにも拘わらず、周りの反対を押し切って、長編アニメ映画の製作に、またまた挑戦したのである。
   大物映画制作者たちの尊敬を集めたいと言うウォルトの野心と、当時、映画館が長編2本立てに移行しつつあり、これに対処するための経営者としての抜け目のなさがそうさせたと言うのだが、何度もトレース・彩色部門のスタッフに修正を指示して、一こま一こま細心の注意を払って製作されたのが「白雪姫」である。
   現在なら、CGなどコンピューター技術を駆使して難なく出来る手法も、当時では、白雪姫の頬に口紅を塗って、それを辛抱強くぼかして描いたと言うから、その努力は並大抵のものではなかったのだが、この妥協を許さぬ作品製作へのウォルトの執念が、その後のディズニー映画の成功を支える鍵でもあった。

   更に、あの1929年大恐慌前に、「蒸気船ウィリー」の製作資金を集めるために、ミッキーの顔を鉛筆に使用させるライセンス契約を結んだと言うから、ディズニーのキャラクターの商品化の今日の隆盛があるのは当然のことだが、TVとのコラボレーションなど、ウォルトのビジネス・イノベーションへの試みは、止まる所を知らなかった。
   何と言っても、最大のヒットは、テーマパークであるディズニーランドへの挑戦と成功であろう。世界中のテーマパークや公園などエンターテインメント施設が、どんどん閉鎖の憂き目にあっているにも拘わらず、益々、総合エンターテインメント・センターとして輝きを増し続けている。
   
   イノベーションと言えば、新技術や新製品の開発ばかりに目が行くが、ウォルト・ディズニーが挑戦して勝ち取ったのは、時代の潮流をしっかりとキャッチして、新技術の活用を駆使して創意工夫を重ねながら生み出したビジネス・イノベーションである。
   この手法は、創業時や中小企業段階の企業が、最も試み易く、また、活路を切り開く為の最も有効なビジネス戦略だと考えられないであろうか。
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年越しの庭仕事

2008年12月26日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   秋の紅葉を楽しませてくれていた落葉樹も殆ど葉を落として、庭が少し明るくなった。
   手入れが行き届いていないので、大分荒れていた庭を少し整理するために庭仕事を始めた。
   植木などの剪定の時期でもないのだけれど、急いで忘れていた秋植え球根の植え付けをしなければならないが、まず、雑草の除去を終えなければならない。

   一本一本雑草を丁寧に抜き取るのが本来であろうが、大体の所は、スコップを2~3センチ地面に沈めて前に押しながら土と一緒に草を浮かせたり、スコップの先で地面をかいて草を抜くと言った横着なことをしているのだが、雑草と言うものは特別なものを除いてそれほど根が深くないので、結構、これで上手く行く。
   問題は、地面に芽を出し始めた草花の芽の先を一緒に切ってしまうことだが、まだほんの出始めなので、芽には大きな害はないであろうと勝手に思っている。
   (尤も、これは、新しく植えた花壇ではなく、残っていた以前の球根などが発芽した場合のこと)

   この除草方法のもう一つの問題は、同じく発芽したばかりの木の小さな幼苗も抜いてしまうと言うことである。
   尤も、この芽吹いた苗は、私が植えたものではなく、小鳥たちが落とした種が発芽したものなのだが、これまでに、そのまま、放置しておいて育てたたもので、今では、庭の住人然としている木もある。

   今回、枯葉などを熊手でかき集めていたら、隠れていた幼苗が沢山現れてきた。
   多いのは、万両、かくれみの、ムラサキシキブ、アオキで、それに、ヤブランや龍の鬚なども芽を出している。
   私の庭には、かくれみのの木はないので、小鳥たちがどこかで食べた種を落としたのであろう。
   ヤブランは、元々、植えたこともないのだが、今では、結構、庭に広がっている。
   今年は、何故か、発芽が多いような感じがするのだが、摘み取るのも忍びないので、殆ど消えてしまうであろうけれど、そのまま放置しておいて、大きくなったら移植しようと思う。

   ところで、抜いた雑草や剪定した枝などの処分だが、かっては、すべて袋に詰めて廃却していたが、最近は、大枝などは処分するが、それ以外のものは、しばらく、庭の片隅に仮置きすることことはあるが、庭の木の間の空間に何箇所か適当な長さの穴を掘って埋め込み、上に10センチほど土をかぶせて放置している。
   忘れた頃には、土に馴染んでしまって、腐葉土を埋め込んだようになっていて、土壌改良になっているような気がしている。

   これは、植物生態学者の宮脇昭先生の、すべて貴重な資源であるから切った枝などは捨てずに傍に置いておけと言う教えを守っているのだが、焼いてCO2を排出するよりははるかに好ましいと思っている。
   宮脇先生は、日本列島の土地本来の森、即ち、どんぐりの鎮守の森を日本中に再生しようと「ほんものの森」つくり運動を推進している。
   日本の森の主木であるタブ、シイ、カシなどの常緑広葉樹が高木層を形成し、その下に、ヤブツバキ、モチノキ、シロダイ、カクレミノなどの亜高木層、葉の厚ぼったいアオキやヤツデ、ヒサカキなどの低木層、常緑のベニシダ、イタチシダ、ヤブコウジなどの草本層と続く立体的な緑の森が形成されるのだが、一度、創り上げれば、自然のエコシステムが働いて、一切手入れ不要の素晴らしい森が生まれるのだと言う。

   この照葉樹の日本本来の森は、主木が深根性、直根性であるため、台風や地震にも倒れず、葉は常緑で水分を含み延焼を防ぐなど、防災、防音、防塵、暴風、大気浄化、斜面保全、水分保持、水質浄化等々様々な災害防止・環境保全機能を果たすのだと宮脇先生は強調する。
   CO2を吸収して、地球温暖化を緩和するためにも、最善の方法でもあるのであろう。

   私も、宝塚で過ごした子供の頃、よく、近くの鎮守の森で遊んだが、シイやどんぐりの実を拾ったり、藪椿の蜜を吸ったり、ヤツデ鉄砲を作ったりしていた記憶があるが、確かに、誰も、森の中を手入れしなくても、木々は四季折々の花や実をつけて移り変わっていた。

   最近の大地震で、日本古来の森では部分的にしか生えていなかった針葉樹を、建設材として植林した山が大きく崩れた姿を見せているが、日本本来のほんものの森なら、このような無残な崩落はないであろうし、第一、定期的に、下草を刈ったり枝打ち、ツル切り、間伐など管理の必要のないのが良い。

   宮脇先生の話は、大分前に、NHKのTV講座で時々聞いていて知っていたのだが、今、NHKで、宮脇先生の「地球環境へのまなざし」と言うラジオ講座が放送されている。
   テキストを買ったが、日曜日なので、ついつい忘れて聞けなくて、結局、テキストだけ読んだのだが、あらためて、宮脇先生の素晴らしいほんものの森つくり哲学に感動を覚えている。

   久しぶりの庭仕事が、大きな話になってしまったが、
   緑の植物が唯一の生産者であり、我々人類は、謂わば、森の寄生虫にしか過ぎないのだが、この40億年続いてきた生物社会のエコロジカルな共生の上に立って、地球上の命のドラマの頂点にいる自分の存在は一体何を意味するのか。
   一つでも、輪が切れておれば、自分の存在はなかった筈。
   命を育むほんもののエコシステム、ほんものの森を再生して人間本来の地球に戻そう、と青年のような情熱を持った80歳の宮脇先生は語り続けるのである。   
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トヨタもGMと同じ道を歩むのであろうか?

2008年12月24日 | 経営・ビジネス
   トヨタが、2009年3月期の業績予想を、前期の最高益から急転直下、戦後初めて、今期営業利益が1500億円の赤字になると発表すると、大変なニュースとなり、日本経済に大きな衝撃を与えた。翌日、ニューヨーク株価に飛び火して、米国政府の救済劇で持ち直した自動車株を再び下落させてしまった。
   政府の緊急融資を受けて、越年が可能となったGMが、大リストラの一環として、1919年創業時に設立した最古のウイスコンシンの工場を閉鎖したとTVで放映していたが、20世紀の資本主義経済の発展の牽引役であったアメリカの自動車産業の終焉(?)と言うべきか、経済社会の大きなパラダイム・シフトを如実に示しているようで感慨深い。

   今回の一連の自動車産業の大激変を見ていて感じたことは、自動車そのものが、ただのコモディティに成り下がってしまったと言うことと、GMが、かってのトヨタなど後発のローエンド・イノベーターに追い詰められて徐々に体力を消耗し、存亡の窮地に立っているのだが、今絶頂期にある筈のトヨタも、同じように新興国のローエンド・イノベーションによる競争に晒されて、早晩、同じ運命に晒されるのではないかと言うことである。

   トヨタは、地球温暖化など人類が直面する深刻な問題解決の糸口として、新世代の新しい車ハイブリッド車を市場に投入して先鞭をつけて、イノベーターとして大きく躍進した。
   自動車産業の環境志向を促進すると同時に、遅れを取ったビッグスリーの凋落を早めたと言えよう。
   しかし、その革新的経営のトヨタも、今や自動車産業の頂点に上り詰めて、実質的には、現在文明の豊かな社会を満足させる為には、行き着く所まで言ってしまったような気がする。
   環境対応や安心安全志向や快適性の追求などと言った自動車の技術革新は、進んで行くであろうが、走る車としての自動車は、今や、トヨタを筆頭に、先進国の自動車メーカーは、クリステンセンの説く持続的イノベーションの罠に嵌まり込んでしまったように思えて仕方がないのである。

   ビジネス・ウィークが、中国の比亜迪汽車(BYDオート)が、世界初の量産型プラグインハイブリッド車「F3DM」の販売開始を発表したこと、そして、あのバフェット氏のバークシャー・ハザウェイ傘下のミッドランド・エナジー・ホールディングスが、同社の株式9.9%を取得したことを報道した。
   トヨタのカムリと良く似た車のようだが、実際に運転してみると大違いで、停止状態から時速60マイルまでの加速時間が10.5秒の驚異的な加速性能であり、エンジン音がしないということである。
   これは、慶応大学の清水教授が開発したエリーカで証明済みの電気自動車の特性だが、このF3DMでも、最高速度160キロで、1回の充電で100キロ近く走ると言う。

   まだまだ、普及までにはインフラの整備とか、多くの問題の解決が必要なようだが、私の注目したいのは、車体が200万円と言う低価格で、通常の家庭用電源から充電出来ると言うことだから、夜間電気で充電すれば、清水説だと、1キロの燃料代は1円で済むと言う革命的なエコ・エコカーであると言うことである。

   インドのタタが、1台30万円足らずの自動車を開発したが、今現在、このグローバリゼーション市場で、本当に自動車需要が旺盛なのは、新興国であり、それに追随するのはアフリカなどの発展途上国だが、正に、BYDやタタが開発するようなローエンド・イノベーションによる車である筈なのである。
   プラハラードが、「ネクスト・マーケット」で紹介していたインドのジャイプル・フットが開発した義足は、米国で一般的に使われている8000ドルもする義足よりも、どんな泥んこ道でも歩けて地面にも座れるはるかに便利な義足だが、たった30ドルであり、インドの貧しい患者には、無償で提供しアフターサービスを行っていると言うのである。
   今、グローバル市場が求めているのは、このようなローエンド・イノベーションによる革新的な安価で便利な製品であり、真っ直ぐなキューリでなければならず、海老の長さが同じでなければならないような日本の消費者を満足させるような工業製品ではないのである。
   
   恐らく、米国政府の何らかの救済策で形を変えて生き残ったとしても、アメリカのビッグスリーの存続は有り得ないと思われるので、トヨタの牙城は崩れないと考えられるが、あまりにも強大化して組織疲労を起こし始めたトヨタが、今のままで自動車産業に君臨し続けて行けるのかどうか。
   
   ここで、思い出されるのは、インテルのアンディ・グローブのローエンド・イノベーション戦略で、「今日ローエンドでビジネスを失えば、明日にはハイエンドを失う」と言う至言で、クリステンセンのイノベーション哲学を守って、最底辺の市場にも努力を傾注して製品を開発し続けて、ローエンドからの参入を封殺したことである。
   ところで、自動車だが、前述したように先進国では、既に、自動車はコモディティ化してしまって、更なる需要の増加は望み薄で、丁度、家電産業のような過剰満足の状態に陥っており、収益が上げ辛い状態になっている。
   特に、今回のような大不況に直面して、消費者が過剰満足を認識し需要に一気にブレーキを踏んだ局面に入ってしまったら、これまでのように世界同時好況で上げ潮であったトレンドの回復は望み得ない。

   蛇足だが、前述のBYDだが、実は世界最大の携帯電話用電池メーカーであって、F3DM車は、ガソリンエンジン主体のプリウスとは違って電気自動車主体であり、エンジンも小さく電池の性能は、プリウスのニッケル水素電池よりは上だと言う。
   トヨタの競争相手は、早大内田教授の言う異業種格闘時代に突入した今、ビッグスリーやベンツなど同業者ではなくなくなってしまっており、オープン・イノベーションが如何に大切かと言うことを物語っている。

   北浜氏などは、トヨタの株式保有で老後の資金をと言った本を書いていたが、本当にそうなのか、考えてみる時期に来ているのかも知れない。
   しかし、トヨタは、自動車の将来を見越して、果敢に未来志向の多角経営を心がけている途轍もない優良企業であることは、忘れてはならないと思っている。
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十二月大歌舞伎・・・幸四郎の「籠釣瓶花街酔醒」

2008年12月22日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   上州の絹商人佐野次郎左衛門(幸四郎)が下男の治六(段四郎)と、騙されて迷い込んだ吉原で、兵庫屋八ッ橋(福助)の花魁道中に出くわし、八ッ橋にぞっこん惚れ込んで、人生を狂わせてしまう話が、この「籠釣瓶花街酔醒」。
   カネはたんまりあるが、田舎者の豪商次郎左衛門と治六が、少しづつ花のお江戸の花町の水に馴染んで行く様子から、騙されて修羅場に追い込まれて行く物語を、畳み掛けるようなテンポで小気味良く展開した舞台で、楽しませてくれる。
   何より、田舎者主従の幸四郎と段四郎のコンビが秀逸で、立女形のスターダムへの道を歩み続ける堂々たる福助の八ッ橋と、その紐でニヒルでやくざな風来坊の繁山栄之丞の染五郎が素晴らしい味を見せて舞台を支えている。

   いずれにしろ、シェイクスピアからミュージカルまで、縦横無尽にパーフォーマンス・アートで活躍を続け、ウエストエンドやブロードウエーなど世界の桧舞台で通用する唯一の日本の大スター幸四郎の芸が、天国から地獄へのバリエーション豊かな舞台に異彩を放っているのが、何よりの魅力であろう。

   ところで、この籠釣瓶だが、辞書によると、籠の釣瓶では水が流れて溜まらないので、水もたまらぬと言うなぞときからよく切れる刀と言う意味で、この歌舞伎の舞台終幕で、次郎左衛門が、八ッ橋を一刀の下に切り捨てた名刀「籠釣瓶」でもある。
   この後、次郎左衛門は、入ってきた女中や、栄之丞や八ッ橋を食い物にして金を強請っていた釣鐘権八(市蔵)をも切り殺すと言うことになっているのだが、吉原で起こった実話で、100人切りにまで話が膨らんだと言う。

   私が前に観た八ッ橋は、玉三郎で、次郎左衛門は、勘三郎であったような気がするが定かではないのだが、you tubeでは、玉三郎と幸四郎の吉原でのこの出会いの場面が収録されていて参考になって面白い。
   ウロウロしていた次郎左衛門が、花魁八ッ橋にぶつかって、その美しさに放心状態となり、口を開けてじっと目を離さずに見とれていると、花道の七三で、八ッ橋が、意味有り気に後を振り返って、次郎左衛門に、にっこりと妖艶な笑みを投げかける決定的なシーンがあり、あばた顔の田舎者が吾を忘れて人生の奈落へ突き進む伏線となる。
   花道を、高下駄を左右に大きくスイングしながら優雅に歩き去る八ッ橋を、着ていた羽織を落として呆然と見送る幸四郎の次郎左衛門が、本来の実直まじめイメージが突出して素晴らしい。
   それに、定番の玉三郎とは、一寸、正攻法の感じの演技でニュアンスが違うのだが、福助の勝ち誇ったような意味深な妖艶な眼差しも、中々、堂に入って魅力的である。

   高級遊女へのアプローチは、引手茶屋の紹介で、初回、裏を返す、でその後馴染みになると言うことだが、そのあたりの経緯は省略して、兵庫屋二階八ッ橋部屋縁切りの場では、次郎左衛門が、久しぶりにしっぽりと八ッ橋と濡れて、身請け話にけりを付け様と、同業を誘って兵庫屋へ意気揚々と乗り込んだのだが、権八の入れ知恵で、分かれるか次郎左衛門と切れるかと間夫の栄之丞に迫られた八ッ橋は、満座の前で、「わたしや、つくづくイヤになりんした」と、次郎左衛門を袖にする。
   次郎左衛門への縁切りのための台詞だが、今を時めく吉原一の花魁でも、もう、こんな遊女人生がつくづくイヤになったと意味を込めての悲しい真情の吐露で、福助の台詞と表情にも、どっちつかずの苦しい心の鬩ぎ合いが見え隠れして上手い。
   文楽や上方歌舞伎では、傾城が一途に思い続ける相手は、唯一人で、バカボンかガシンタレの優男だが、江戸歌舞伎の世界では、必ず色男の間夫が居る二股膏薬の花魁のケースが多いようだが、気の所為であろうか。

   八ッ橋のただならぬ応対に、気分が悪かろうかと気遣っていた次郎左衛門が、ことの次第を悟ってはく台詞「おいらん、そりゃあ、あんまり、そでなかろうぜ・・・」。胡弓の調べに乗って、あんなにも愛して馴染み枕を交わし続けてきた八ッ橋に愛想を尽かされて、その悲しさと無念さを、切々と訴える次郎左衛門の表情が、語るにつれて、少しづつ穏やかさを増す。
   身請けの成就が適う嬉しさで喜び勇んで訪れた晴の舞台が、急転直下、満座の中で恥をかかされ屈辱の世界に変わってしまった悲しさ口惜しさ。殺意が少しづつ芽生えてきた瞬間である。

   最後の「立花屋二階の場」では、数ヶ月が経ち、久しぶりに落ち着いた表情で吉原を訪れた幸四郎の次郎左衛門は、一寸、風格のある武士のような雰囲気で、八ッ橋を切り付ける刀さばきも颯爽とし過ぎていて気になるのだが、福助の後振りで仰け反って頭が畳に着くまでエビゾリになって倒れる姿など、実に優雅で、殺伐とした舞台だが、絵になるシーンが雰囲気を和らげていて、短い幕切れに華を添えている。

   身請けされれば、食い扶持を失う廓への八ッ橋の紹介者で親判の釣鐘権八の悪巧みと、その口車に乗って恥も外聞もなく八ッ橋に迫る栄之丞の二人の存在は、見ているだけでもむかむかするのだが、それだけ、市蔵と染五郎の演技が上手いと言うことであろうか。
   特に、実も何もないニヒルで無頼漢の紐男の染五郎の芸が光っている。
   八ッ橋を演じてもおかしくない魁春が、地味だが、立花屋女房おきつをしんみりと演じていて、存在感を示しており、八ッ橋の同僚の九重を演じる東蔵も、中々味のある表情を見せていて、脇役陣の活躍も素晴らしい。

      
   
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ケント・E・カルダー著「日米同盟の静かな危機」

2008年12月20日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   先日の「米新政権と日米同盟の課題」シンポジウムにおいては、アメリカの親日エキスパートたちの見解では、大方、日米の関係は深刻な問題はなく、かなりうまく行っていると言う感じであった。
   しかし、ハムレ氏が、日米関係を「老夫婦」に喩えて、長い付き合いで信頼関係はあるが、エキサイティングではなく、レストランで食事していても、殆どお互いに会話をしないパートナーのようなものだと言った。
   これに、キャンベル氏が、子供たちがレストランで走り回って、なだめすかすのに困っている家族のようでもあると付け加えた。

   かなり適切な喩えだと思われるのだが、これらの見解とはややニュアンスが違って、ジョンズ・ホプキンス大学のカルダー教授は、中国や韓国がワシントンで存在感を増し、日本とアメリカが北太平洋で唯一の関係でなくなった今日、日米同盟が直面する危機は、軍事、政治の両面で深まる一方だと説く。
   同盟を維持して行くためには、政治、経済、文化の諸相の基盤が常に必要であり、日米両国に同盟が課す戦略的、政治的な要請が大きく変容して来ているにも拘わらず、日本国内でも太平洋同盟の関係全体でも、行政面と政治面での基盤の変化に対応できず、日米は、両国の関係を広げる重大な課題にしっかりと応えようとしていないと言うのである。

   この静かに迫り来る危機は、軍事的側面と言うよりむしろ政治と人的ネットワークこそが、太平洋同盟の鍵を握っており、この日米の適切かつ親密なコミュニケーションによる戦略構築の欠如が、問題だとカルダー教授は指摘する。
   ミサイル防衛、シーレーン防衛から朝鮮半島と台湾海峡の安定まで、日米の戦略的利益は共通しているにも拘わらず、日米両国が、この歴史的な変容の時代に、インド洋の海上自衛隊の協力から、在日米軍の駐留経費、普天間基地の移転など、緊急の課題で協力して行く政治的意思を持ち合わせているのかどうかは残念ながら不透明だと慨嘆しているのである。

   先日の日経の「経済教室」で、カルダー教授が、「山積する世界の課題と日本の貢献 国政の混乱大きな不利益」と言う論文を書いているが、この論文のタイトルと中見出しを繋ぐだけで、十分に教授の日本に対する期待と苛立ちが明白となる。
   すなわち、「・米政権交代、日米関係の最重要期に重なる ・目立たない日本のプレゼンス、国益を損ねる ・ドイツ参考に政界改革、国会運営を円滑に」、そして、「積極的関与、今こそ  対米関係、今後20ヵ月カギ」。
   昨日のブログで、ハムレ氏が、オバマ新政権は、既に、中国との戦略的経済対話を行うために、バイデン次期副大統領を指名して準備をしていると言ったと書いたが、国民の支持率20%を割って末期症状の首相が政権にしがみ付いている日本のような国は、悲しいかな、相手にもされていない。

   さて、本稿では、日米のコミュニケーションの欠如、と言うよりも、米国における日本のプレゼンス存在価値が如何に低下して危険状態にあるのかを、人的な交流と経済交流に限って、カルダー教授の見解を基に考えてみたい。

   まず、人的な問題だが、人口動態の変容で、米国における中国人や韓国人などの他のアジア人の人口が急激に伸びて日本人の比率と影響力が非常にダウンしたこと
   これらの在米アジア人たちが本国の安全保障や経済的利益を深めていること。
   日本がワシントンを重視せず、アメリカも無関心だったので、首都ワシントンの日米関係の基盤が静かにではあるが危険なほど消えつつある。ブルッキングス研究所など他の研究機関から常任の日本専門家が消えて行き、日本経済研究所などの組織が閉鎖され、アメリカ各地の研究機関と同様にワシントンの大学で日本関連の講座や日本および日本語を学ぶ学生の割合が激減して行くなど、急速に日本離れが進行している。
   一方、日本からのアメリカへの留学生が急速に減少しており、逆に、中国や韓国など他のアジア人留学生が桁違いに増えて来ている。

   ハイレベルの日米交渉では、文化的や経済的な関係を生み出し沖縄返還に結実した政策ネットワークなど関係機関の消滅、世代交代によるライシャワーやマンスフィールドなど大物知日派の死去。
   日米両国の議員交流、下田会議や三極委員会などのNGOの活動など、トップレベルの交流の質量ともに激減。
   日米議員交流プログラムでは副大統領や首相レベルの参加者で賑わっていたが、現在では、アメリカから訪日する議員は殆ど居なくなっている。
   また、学問研究の趨勢が地域研究から、人脈や情報源など日本に密着した知識を育むことに重きを置かない抽象的な比較研究に向かったので、一級の社会科学者が、日本の国内情勢を継続的に詳しく研究することに真剣に取り組むことがキャリアにプラスにならない等で、日本学の学者・研究者が少なくなっている。
   
   ところで、経済的な交流では、最も深刻なのは、日本が外資を排除に近い形で拒絶していることで(実際にはそうだと思っていないが現実)、外国直接投資はGDPの2.2%、日本への外国直接投資純フローはGDPの0.1%で、ヨーロッパ各国は勿論中国と比較しても桁が一つ違っており、在日アメリカ企業の日本サポートなど望み薄で、日本のワシントンでの政治経済基盤を害している。
   即ち、対日直接投資の少ないねじれた政治経済が日米関係に与える影響、日本の対米投資の停滞などは正に由々しき問題で、お互いの直接投資が停滞している現状では、アメリカは、国内政治の中で、日本と日米同盟の重要性を支持してくれる層を失ってしまうと言うのである。

   もう一つ、アメリカ人にとって解せないのは、BSE問題と米国牛肉輸入禁止問題を、日米が主要な経済問題と考えて2年も解決に費やしたことで、その間、米中は、はるかにレベルの高い重要な問題に活発に取り組んで解決したのだと言う。
   ジャパン・パッシング、日本「バイパス」現象が起こるのは当然だと言う訳だが、
   カルダー教授のこれまで述べた指摘は、まずまず、正しいと思っているので、今回はコメントは止め、ここでペンを置く。
   (蛇足だが、日米安保など害だと言う人の見解とは一線を画していて、私自身は、日米の健全な同盟関係の維持は、日本の国益にとって非常に重要だと思っている。)
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エネルギー・シーレーンの安全確保は日本の生命線(?)

2008年12月19日 | 政治・経済・社会
   先日、帝国ホテルで開かれた「米新政権と日米同盟の課題」と銘打ったシンポジウムで、アメリカから来日した知日派の政府高官や学者たちが、非常に時宜を得た興味深い論陣を張った。
   当日の日経夕刊には、「米中で副大統領級対話を 元国防副長官」と言う記事が出て、J.J.ハムレCSIS所長が、「米国では、米中戦略対話を副大統領級でやるべきだとの議論がある」と発言したことを報道している。

   これは、マイケル・グリーン氏が、アジアで最も重要な同盟関係である日米が、戦略を共有すべく会議を持ち確固たる地域戦略を打ち立てるべきだと発言したことに対して、ハムレ所長が、現在、バイデン次期副大統領が、対中戦略構築の最高責任者として中国に当たることになっていると発言したのだが、その後で、対日においてこそハイレベルの戦略的対話が必要だと付け加えた。
   ジャパン・パッシングで、オバマ政権が中国一辺倒になるのではないかと言う日本人の懸念を意識してか、ジョセフ・ナイ教授などは、中国が問題の多いトラブルメーカーだから、アメリカの中国との接触が多いのであって、基本的に重要なのは、日米同盟関係であり、心配すべきではないと言った発言をしていた。
   しかし、日高報道などによると、クリントン次期国務長官の強力な中国コネクションの存在を示唆しており、トップが中国へのアクセスに注力すると、否応なしに日本の影が薄くなろう。

   このシンポジウムに関するブログは、改めて書く積もりだが、今回は、米国関係者が高く評価している自衛隊の海外派遣などの日本の平和的国際貢献について、更なる期待が述べられていたので、この問題について触れてみたい。
   前の6ヵ国協議の米国代表であったジェームス・ケリー氏、マイケル・グリーン氏やジョセフ・ナイ教授などが、ソマリア沖などでの公海上での海賊対策に、日本の積極的な貢献を期待したいと発言があり、ケリー氏は公共財であることを強調し、ナイ教授は国連も認め国際法上も正当な行為であるから日本の現状でも十分に対応できる筈だと説いた。

   この海賊対策については、現実には、シーレーン確保のために唯一米軍が対応しているが、痺れを切らしたEUが動き始め、ドイツなどを筆頭に、世界の関係国が、PC3や艦艇を派遣し、海賊対策に行動を開始し始めている。
   結論から言えば、私自身は、マラッカ海峡からペルシャ湾にかけてのシーレーンの安全確保は、中東からの原油輸入のタンカーが行き来する日本にとって最も重要な生命線とも言うべき航路であるから、積極的に国際チームに参画して貢献すべきであると思っている。
   現実にも、日本のタンカーなどがあちいこっちで海賊に襲われて被害を受けており、おそらく、この海域での安全確保によって、最も恩恵を受けるのは、日本であることは疑いもない事実であり、国際社会で名誉ある地位を築きたい日本には、絶対避けて通れない責務であり、これまでのようにただ乗りは、最早許されないのである。

   ケント・E・カルダー教授は、近著「日米同盟の静かなる危機」で、ペルシャ湾のシーレーン確保をめぐる重要性について書き、このシーレーン防衛は、日米関係におけるアメリカの重要な「同盟の自己資本」だと述べている。
   このシーレーン確保は、同時に、オセアニア、中国、韓国も利しており、太平洋同盟の政治的、軍事的な支柱であるのだが、しかし、アメリカにとっての重要性は派生的なものであって、防衛コストに対してアメリカの利益は極めて少なく負担が大きいので、二国間同盟を補完する多国間の枠組みも選択肢として考えざるを得ないとしている。
   尤も、海賊行為のみならず、テロリズム、武器拡散、麻薬取引のほかにも水面下の活動に対処するための法の支配を促進するための多国間アプローチともなるので、日本の自衛隊が、そのままの形で貢献活動が出来るのかは問題のあるところでもある。

   ところで、問題の海上自衛隊のインド洋での給油活動であるが、民主党は、国連のお墨付きがないから違憲だと主張しているが、私は、この点、と言うよりも、まず、国連が、元々第二次世界大戦の戦勝国による機関であり、常任理事国5カ国が勝手な国益を押し通す非常に片務的な機関であるのにも拘わらず、これを金科玉条のように唱える考え方には同調出来ない。世界政府の機関ではないのである。
   私自身は、折角の国際的な平和貢献であり、目的は違うとしても、日本のエネルギー・シーレーンの安全確保の一環としても役立っているので、続けるべきだと思っている。
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国立劇場文楽公演・・・源平布引滝

2008年12月17日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   十二月の東京での文楽は、昔玉男さんが、気候が厳しいので出かけないと語っていたが、恒例なのか、人間国宝の長老たちが抜けた飛車角落しの公演で、演目も1部だけである。
   しかし、今を時めく次代を担うエースを中心に若くて溌剌とした三業のベテランが揃っての公演なので、スピードと迫力があって素晴らしい。

   今回は、「源平布引滝」の木曽義賢(勘十郎)の最後の「義賢館の段」から、木曽義仲誕生と太郎吉(簔紫郎)が家来になる「九郎助内の段」までの舞台で、平家の武将斎藤実盛(玉女)が、かっての源氏での恩義を感じて義仲誕生などを助ける錯綜した舞台が見所であろうか。
   
   この話は、平家物語と源平盛衰記が下敷きになっているようだが、話を大分脚色している。
   文楽とは違って、義賢を討ったのは清盛方ではなく甥の悪源太であり、妻の葵御前(清十郎)は義仲を身ごもったまま逃亡することになっているが2歳になった義仲を連れて逃げることになっており、この後の方の義仲の誕生に纏わる話が、この文楽の重要なテーマとなっているので、その変化が面白い。
   この義賢館の段では、勘十郎が、中々重厚で迫力のある義賢を遣っていて素晴らしい。

   さて、実盛だが、この舞台では、竹生島遊覧の段で登場し、清盛の命令で源氏の係累探索の途中、琵琶湖洋上で平宗盛の船に行きかって乗り移り、ここへ、波にもまれて辿り着いた小まん(和生)が持っていた源氏継承の白旗(義賢が討たれる直前に託す)を平家に取られまいと腕を切って湖上に落とす。
   次の「九郎助内の段」では、詮議に来た同僚の妹尾十郎(玉輝)に難癖をつけてカモフラージュして義賢の奥方葵御前の出産を助けるなど、平家と源氏の立場を巧みに使い分けて、源氏に忠義を示す。

   また、ここでも、どんでん返しで、悪役であった妹尾十郎が、実は、小まんの父で太郎吉の祖父だと分かって、誕生した義仲の家来となる為の手柄として、太郎助に平家方の自分を討たせる。
   ところで、母を殺された太郎吉は、仇の実盛を討とうとするのが、子供に討たれては情をかけたと思われて太郎吉の手柄にならないので成人してから戦場で見えようと、実盛は馬に乗って退場して幕となる。
   これまで、玉男師匠が演じていた実盛を、後継者の玉女が、実に情感豊かに格調高く遣っていて重厚な舞台を見せてくれた。
   清十郎の葵御前の何とも言えない優雅で品のある身のこなし、和生の小まんのバリエーションに富んだ機敏でリズミカルな動き、玉輝の妹尾十郎の堅実さ、簔紫郎の太郎吉のかわいさ健気さ、中々、人形たちの舞台展開が素晴らしかった。
   
   ところで、平家物語と源平盛衰記の記述を総合すると面白い話が浮かび上がる。
   義中が討たれ、葵御前が2歳の義仲を連れて逃げた時に、実盛がその逃亡の手助けをしており、先の文楽の舞台で子供であった太郎吉(手塚太郎光盛と命名)が、その後、篠原の合戦で、平家方の実盛を討って、義仲の面前に首を差し出す。
   差し出された首の髪などは黒々しており、義仲は、見知っている実盛は白髪の老人の筈だと言うので、洗ってみると白髪で、戦場に向かう為に、鬚や鬢を染めていたのである。

   平家物語では、樋口の次郎が60を超えた武将実盛の天晴れな心の丈を語っているのだが、能「実盛」にもなり、松尾芭蕉が、陸奥北陸の旅の途中実盛を弔い、「あらむざんやな兜の下のきりぎりす」と詠んで残したのも故あろうと言うものである。

   ここで、興味深いのは、義仲と実盛の接点は、葵御前の逃亡時のみで、2歳の義仲が実盛を見分けられる筈がないと言うことへの物語への疑問と、実盛を見知っていたとするなら文楽の舞台で子供だった手塚太郎光盛の方だが、平家物語では全く実盛だとは分かっていないと言う矛盾。
   別に、物語の脚色であるから、何の不思議もないのだが、そのあたりの変化が作者の物語づくりの綾が分かって興味深い。
   文楽や歌舞伎では、大体、底本や原典があるのだが、時には、奇想天外な脚色やどんでん返しなどがあって面白い。
   今、時期なので、盛んに演じられたり放映されている忠臣蔵の世界のバリエーションなど、見方が違えばこれだけ違うのかと思うほど変化があって鑑賞の楽しみが増える。
   
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現下の世界経済不況をどう考えるか

2008年12月16日 | 政治・経済・社会
   アメリカのサブ・プライム問題に端を発し、対岸の火事だと思っていた世界不況の波が、比較的軽微だと看做されていた日本経済を直撃して、解雇による雇用不安等で急速に表面化し大変な経済社会問題となって、政治まで迷走している。
   日本のお家芸とも言うべき製造業が、自動車や家電を皮切りに、世界的な技術を誇って市場を占拠していたハイテク製造業までリストラの波に翻弄されており、輸出に至っては、アメリカやヨーロッパのみならず、快進撃を謳歌していた中国やインドなどの新興国でさえ経済の失速は避け得ず、その深刻さは、時間が経つにつれて加速度的に悪化し続けている。
   
   大恐慌の様相を呈してきたこの経済不況も、必ず回復して好況となるので、今、優良会社の株を買って置けば大儲けできると、かっての竹中大臣のような口ぶりで説得されて、それを信じて買った筈の企業の株が、未だに底が見えず、どんどん下落を続けており、目も当てられないような状態になっている団塊世代の退職者が結構いると聞く。
   振り込め詐欺の被害者も多いが、証券会社や銀行に勧められて、退職金を注ぎ込んで苦しんでいる人が多いと言うのだが、GMなどのビッグスリーさえ破産が取り沙汰されている昨今では、そんな株も紙くずになる可能性さえある。現に、隆盛を極めていた自社株に投入して、倒産のために、401kで積み立てた老後の資金をパーにしたアメリカ人も多い。
   
   ところで、セミナーや討論会などで、今回の世界的経済不況について専門家や学者の意見を聞く機会が多いのだが、大半は、希望的観測が過ぎるのか、比較的楽観論が多くて、これまで、峠を越したと何度も聞いたのだが、益々、経済は悪化の一途を辿っている。
   そうでなければ、未だにマルクスの亡霊を背負っている学者がいて、性懲りもなく資本主義の終焉を説き続けている。アメリカ資本主義の没落と資本主義そのものの没落とは別物なのである。
   いずれにしろ、雇用問題で苦渋をなめている若者たちに、小林多喜二の「蟹工船」人気が広まり、マルクスの「資本論」を読むものが多くなっていると言うのは面白い現象である。

   私自身は、この大不況も、景気循環の一環で、コンドラチェフ循環(50年周期)の不況局面だと思っている。
   巨大なイノベーションであったIT革命が2001年に一時頓挫し、今回、更に、IT,デジタル化にバックアップされたファイナンシャル・エンジニアリングで頂点に達した金融が崩壊し、知識情報産業社会における牽引車たるITと金融革命と言う大きな産業革命的な長期波動が、グローバルベースで下降局面に入ったと言うことである。

   今日の日経の「私の履歴書」で、小宮隆太郎氏が、ソローを引用して、経済成長は、人口または労働力の増加、実物資本すなわち生産財の蓄積、技術の進歩、と言う三つの要因によるとして、日本の経済成長力を確信して、池田勇人総理の所得倍増論に賛成したと書いている。
   今では、こんな議論をする経済学者がいるのかどうかは知らないが、キチン(40ヶ月)、ジュグラー(10年)やクズネッツ(20年)などの短中期の景気循環では、これらの3要素が互いに呼応するのだが、コンドラチェフ循環では、最後の技術の進歩であるイノベーションが最も重要な役割を果たす。
   この説に従えば、次の巨大な、かっての蒸気機関や電気や内燃機関やITなどと言った様な革命的なイノベーションが起こるまでは、大きくて長期的な経済の好況局面は現れないと言うことである。
   したがって、私自身は、今回の世界的大不況の闇は非常に暗いと思っている。
   
   さて、日本における今回の大不況をどう考えるかと言うことだが、同じ日経の「日本経済に3っつの危機」と言う記事で、日産のカルロス・ゴーン社長の「日本経済はきわめて危うい」と言う見解を紹介している。
   先日のブログで書いたゴーン社長の話と呼応するのだが、信用収縮などへの対策を打たずに、このまま事態を放置しておくと、日本経済のけん引役だった自動車産業などの製造業が大きな打撃を被ると言うのである。
   急激な信用収縮で長期の投資資金のみならず足元の運転資金さえ枯渇、深刻な需要減退、急激な円高、と言う3っつの要因が作用して、場合によっては、日本経済に壊滅的な打撃を与えると憂慮している。

   非常事態であるから、政府の役割の増大は理に適っていると、これらの深刻な問題に対して政府の積極的な働きかけを求めているのだが、バブル崩壊前の日本ならいざ知らず、体力が疲弊し国民に袋叩きに合っている日本政府に何が出きるのか。
   
   長くなったので、私自身の日本経済に対する2~3のコメントだけ記すことにする。
   円高の問題だが、日本経済には潜在的に強い経済成長力が存在していた故に、円高政策を取るべきであったのに、日本は、失われた10年の間、徹頭徹為替介入して円安基調を貫いたのが最大の失策であり、この為に、企業の競争力の強化とイノベーション力の発露を完全に封殺してしまった。(劇薬を仰ぐべきであって、そうしておれば、今、1ドル80円でも十分に対応できていた筈。このブログで何度も主張した見解)
   一頃、ミスター円と言われた円安政策の責任者であり推進者であった榊原英資教授が、今になって「強い円は日本の国益」などと言う本を堂々と出して売れる日本は、良い国なのか悪い国なのか。
   尤も、罪と罰を別にすれば、この本の見解には、それほど異存はない。

   もう一点述べたいのは、小泉内閣の時に、小泉・竹中チームが取った市場原理主義に近い経済政策が、現在の深刻な非正規雇用者の問題を深刻化させた元凶だと言うこと。
   長いバブル崩壊後の不況で、まともな就職先を見つけられずに社会に放り出された有能な若年を放置したままで、弱肉強食の市場原理主義経済政策を推し進めて、企業に合理化再建を強要し、更に、立ち上がれなかった弱い労働者を非正規雇用社員に追い込むなど、雇用の二重構造の溝を深刻化させたたこと。同じことが地方経済の弱体化をも招き、健全な中小企業構造を崩壊してしまったこと。
   一時、日本経済が回復して長期好況(?)を継続できたのは、何百万人と言うワーキング・プアを踏み台にした経済の二重構造あったればこそで、
   それが、経済が壊滅的な不況局面に入ると支えきれなくなったと言うのが現在である。政府は、この問題の解決には、万難を排して取り組むべきである。

   公共投資など需要創出策についても書きたいと思ったが、稿を改める。
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大仏次郎~歴史を紀行する

2008年12月14日 | 海外生活と旅
   神保町の古書店で、大仏次郎のエッセイセレクション3巻を手に入れた。
   普段のように殺伐とした読書をしていると、あまり手にしない本だが、短編で非常に幅広いトピックスが充満していて面白かったので読み始めた。
   最初の巻が歴史紀行で、「幻の伽藍」と言うタイトルから始まる海外の旅紀行が数編あり、時代認識が、私よりやや古い程度で、かなり近い所為もあり親近感を感じて面白かった。

   「幻の伽藍」は、シャルトル大聖堂を訪れた時の紀行で、麦畑と青空だけで、ほかに何もない地平に、かげろう光の中に幻覚のように現れたシャルトル聖母寺の伽藍の印象を綴っている。
   信仰篤い巡礼の人々が、地平にこの出現を見つけた時の感動がどれほどのものだったか、素朴に涙の出るほど心揺さぶられる思いで、思わず地にひざまづき頭を垂れたであろうと、平安朝の弥陀来迎図を引き合いに出す。

   私の場合には、同僚の運転する車で何となく着いたので、シャルトル大聖堂の大きさくらいの印象は残っているが、他には何も覚えていない。
   しかし、同じような印象は、フランスのモン・サン・ミシェルへの2回目の旅で感じたことがある。
   ヨーロッパ在住最後の時に、ロアールの古城を巡ってノルマンディへ向かった車での旅で、ラテン系のフランスでは、一寸危険かなあと思ったが、家族を伴った旅でもあったし、普通の交通機関では手に負えなかったので、ド・ゴール空港で、装甲車のようなボルボを借りて走った。

   城壁都市サン・マロで過ごした翌日、海岸よりの田舎道を通って、シェルブールの友を訪ねる途中に、モン・サン・ミシェルを訪れようと走ったのである。
   どのような植物が植わっていたのか、全く記憶にないし、膨大な写真の整理もままならないので、思い出せないが、一面全く障害物のないフラットな田園地帯が延々と広がっている前方の地平に、小さく尖塔のある置物のようなモン・サン・ミシェルのシルエットが現れたのである。

   私が、モン・サン・ミシェルを知ったのは、映画「エル・シド」の、チャールトン・ヘストンが、軍隊を率いて駆けるラスト・シーンの素晴らしい背景であった。
   これを見たくて訪れた最初のモン・サン・ミシェルへの旅は、レンヌからタクシーで走ったので内陸からであり、対岸に着くまで塔の姿は見えなかった。
   しかし、今回西海岸の田園地帯を走ってのアプローチは、かなりスピードを上げて車の少ない田舎道をとばしても、少しづつしか近づいてくれない。
   初めて、少しづつ姿を現すモン・サン・ミシェルの姿を見る家族は感激していたので、巡礼者たちの感動も、大仏次郎が書いているシャルトル詣でと同じなのであろうと思う。

   今でこそ、内陸から孤島であったモン・サン・ミシェルまで車道が通じていて、すぐ傍まで難なく行けるが、昔は多くの巡礼者たちが満ち潮に足を取られて死んで行った。
   潮の流れを島の絶壁から見ていても、満ち干の激しさは良く分かるのだが、昔は、潮が引いて陸地が繋がった時に渡るので、かなりの距離を歩くのは、命を懸けた巡礼だったのかも知れない。
   
   もう一つ、大仏次郎の紀行文の中の一節の「紳士道」に、面白い記述があり、山高帽を被り蝙蝠傘を持った典型的な英国紳士について語っており、この蝙蝠傘が、雨の為ではなく、ステッキ代わりの身だしなみ的な紳士道具だと述べている。
   私の居た英国病最盛期の1980年代頃には、蝙蝠傘を持った紳士など多くは見かけなかったが、実際にイギリスに住んでみて、雨が多くて暗い天候の土地でありながら、ここでは殆ど傘は要らないのだと分かった。
   雨そのものがやさしくて、土砂降りの長雨が殆どないので、バーバリーやアクアスキュータムのレインコートに帽子で十分なのである。

   ロンドン・スクール・オブ・エコノミックスの森嶋通夫教授を訪れてキャンパスを案内して貰っていた時に、雨が降り出したので、先輩とは言え大先生なので、傘を差しかけたら、「そんなこと、しいな」と言われた。
   ロンドンでは、雨に打たれるくらいは日常茶飯事で、傘など余程のことがない限り使わないのだと言うことであった。

   ロンドンの紳士だが、スーツやコートやネクタイ、マフラー、靴等々、持ち物やスタイル等身だしなみについては、その人々の生活と直結していて、日ごろ作業着で通している人が、子供の参観日に背広に着替えてネクタイを締めて行くと言った日本的な傾向はない。
   日本は、昔から職業や身分などによって言葉遣いが異なりバリエーションが豊かだが、イギリスの場合には、言葉の差は少ないが、服装や生活スタイルに大きく差がついているのが面白い。
   
   サビルロー街1番地のギーブス&フォークスを筆頭に並ぶ老舗の紳士服店、靴や帽子、アクセサリーなどはダンヒルなどのあるジャーミン街を歩けば、紳士ものは揃うであろうが、紳士そのものに成りきるのがのが難しいのがイギリスである。
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松本幸四郎・松たか子著「父と娘の往復書簡」

2008年12月12日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   暁星時代に徹底的に悪がき(?)に苛め抜かれて、たった二人の親友しか持てなかった寂しく苦渋に満ちた青少年時代、そして、苦しい歌舞伎の修行の世界。「幼少の砌から優等生であった僕は、同世代の友達で埋めることができなかった大きな穴を、こともあろうに女の子で埋めようとしたんだね。」と、
   これまでの芸術論や芸談とは全く違ったタッチで、娘松たか子への「父と娘の往復書簡」で、しみじみと人生と芸を、大歌舞伎役者松本幸四郎が吐露している。

   私自身が、一番最初に観た松本幸四郎の舞台は、1991年ロンドンのサドラーズウエールズ劇場での「王様と私」であり、蜷川のシェイクスピア「オセロー」やドン・キホーテの「ラマンチャの男」の舞台で感激したのであるから、必ずしも、歌舞伎役者としての幸四郎を見ている訳ではないが、高麗屋の女房・紀子さんのことどもや染五郎・紀保・たか子との芸談など最近の舞台の話題などを交えながら、人間幸四郎を語っていて非常に興味深く読ませて貰った。
   大人として、一人前の女優として着実に成長を続けている次女の松たか子が、非常に誠実に、父として偉大な芸の先輩として幸四郎に真摯に対応しているのが清々しくて良い。

   松たか子の舞台で観たのは、最近では、蜷川の「ひばり」や幸四郎との「ラマンチャの男」で、この本でも触れられていて参考になった。大分前に観た蜷川の「ハムレット」のオフェリアも非常に新鮮な印象を持ったが、やはり、その他の松たか子の舞台には、世代の差や好みもあって、歌も芝居も含めて馴染めそうにはなさそうである。

   人気役者としての宿命か、マスコミに、2度も死亡通知を出されたり、誤報・ゴシップ記事の洗礼を受けるなど色々あったようだが、
   幸四郎の人間形成において、非常に重要だと思ったことは、先に書いた小中高の一貫教育の暁星で、延々10年間も同じ生徒たちに苛め抜かれた「いじめられっ子」であったこと、そして、唯一の救いが芸の世界であって、学校―稽古―舞台―予習―就寝と言う何のゆとりも楽しみもない生活の中に、いじめられている嫌な思いを封じ込めることができたと語り、子供時代の楽しい思い出など皆無に等しいと言っていることである。
   15歳の時に、TVドラマに出て、人生に拗ねていた歌舞伎しか知らない暗い少年染五郎が、禁断の園の少し年上のきれいなお姉さんを見てお友達になりたいと別の自分に目覚めて、27歳で紀子さんと結婚するまで、カサノバ時代が続いたと言うのが面白い。そのころまで、僕は本当にどうしようもない奴だった、情けない限りだと、娘に慨嘆しているのだが、「キャンティ」と言う歴史あるレストランで、様々な文化人の方達と遊んでいたことやバンドを組んでいた話などを聞きたいと娘に言われて、ヨーロッパ風のデカダンスな雰囲気ですぐ足が遠退いたと、ちらりと語っている。

   この往復書簡で重要な位置を占めているのが、父白鸚の芸と偉大さについて松たか子に伝えようとして詳しく語っていることである。
   幸四郎にとっての白鸚は、芸でも精神でも、自分のすべてを見せることで学ばせる存在だったと言う。親子と言う間柄、素直でないと言うか、実に複雑なもので、先輩・後輩、大人と子供と言う客観的な面と、親子ゆえの愛や信頼に満ちた深い気持ちとが共存していて、お互いにその気持ちを言葉にすること無くきてしまったようなところがあると言うのである。
   白鸚の内蔵助に憧れるのは、言葉ではなく演じることで、内蔵助としての肝をきちんと伝えて確実に育ててくれたからだと語っている。
   歌舞伎の世界では白鸚が憧れだったが、新劇の世界では芥川比呂志に憧れて、すっかり芥川になりきって演じていたと言う時期があったらしい。

   幸四郎の芸域をぐっと広げて、歌舞伎もシェイクスピアもミュージカルも器用に演じ分ける大役者に育てたのは、やはり、白鸚が、息子兄弟や高麗屋一門を引き連れて東宝に移って新境地を開いたことがあったればこそであろう。
   菊田一夫との東宝歌舞伎、それに、東宝がプロデュースする新しい演劇こそ、白鸚の見果てぬ夢だったと言うし、ここで、幸四郎も「王様と私」の舞台を踏んでいる。

   白鸚が、勧進帳の指導に渡米した時、ニューヨークのオフ・ブロードウェイで、偶然見た「ラマンチャの男」に感激して、すぐ東京に電話して、幸四郎にやらせたいと言って、これが切っ掛けで日本での上演が決まった。
   更に、白鸚が、弁慶を教えた俳優のドン・ポムズ氏がNHKの仕事で来日し、幸四郎に英語の台詞の特訓を行ったと言うのである。
   この話の後で、幸四郎は、「人には試練と思われる程の選択を迫られる時があるが、大切なのは、前向きに考え、目的を達成するために努力し続けることで、そうすれば、自ずと道は拓ける。B型獅子座の奔放な塊みたいな僕だが、そんな僕でも、悩んだり苦しんだりしながら、己の信じる道を進んできたのだよ。」と語っている。
   
   幸四郎には、男のように素っ気ない娘たか子に、問われるままに、父として役者の先輩として、万感の思いを込めて書き綴ったのが、この往復書簡だが、一応公開を前提にしての書簡なので、色々な思いが封印されてはいるが、幸四郎と松たか子の芸論や人間性が迸っていて非常に新鮮である。
   初孫の齋の手を引いて披露公演に登場したでれでれの幸四郎の姿を思い出すが、染五郎や紀保のことなど、それに、舞台の話など、プライベートに近い高麗屋の姿が垣間見えて非常に興味深い本であった。
   
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有馬元文相日本の教育の現状を憂う

2008年12月11日 | 政治・経済・社会
   国際学力テストの結果が発表されて、日本の小中学生の理数学力が横ばいだが、相変わらずシンガポールや台湾などの後塵を拝しており、パッとしないと報道された。
   その報道の前日、文部大臣であった有馬朗人元東大総長が、赤軍派学生に占拠され破壊の危機に瀕していた安田講堂に、その後始めて立って感無量だと言いながら、
   小中学生の学力は決して落ちていない、マスコミや教師たちが騒ぎ過ぎで、子供たちを萎縮させている、水準は高いのであるから褒めるべきである、と語った。

   有馬総長の話は、「躍進する中国科学技術力」と言う日中科学技術シンポジウムの基調講演でのことであるが、中国の科学技術の飛躍的な躍進を語りながら、日本の科学技術力とその教育体制等についても、その問題点についていくつかの警告を発した。
   その内の一つが、若者たちの教育への危機意識で、人類にとって21世紀は希望のある社会になると思うかと聞かれて、中国の中学生の91%は大いなる希望を持っていると答えているのに対して、日本の中学生で、そう思っているのは29%にしか過ぎず、何とかなるだろう、どうなるか分からないと思っている者が大半だと慨嘆する。
   明日の日本を背負って立つ若者が、明日に夢も希望も持っていない悲しい現実をどのようにして打開して行くのか、厳しい岐路に立った日本の試練であろう。

   有馬総長は、中国の高校生が、米ロを凌駕して各種科学オリンピックで圧倒的な強さを誇っていることを示し、日本がやっと本腰を入れて取り組み始めたと語りながら、まだ、日本の教育界に、競争心は良くないと言う風潮が依然濃厚だと顔を曇らせた。
   日教組批判で最近首が飛んだ大臣がいたが、私自身も、この民主主義教育の精神を履き違えた日本の教育の現場での悪平等志向は、全く由々しき問題だと思っている。

   有馬総長は、日本の現在の教育の最大の問題は、エリート教育の軽視であると語った。特に、科学技術関連では、目も当てられない惨状だと言う。
   高等教育に対する公財政支出のGDP比率は、アメリカやヨーロッパ諸国は1%だが、日本は0.5%と言う低水準で、一生懸命に努力して育てて来た筈の博士号取得者の数が最近低落傾向だと嘆く。
   ポスドクの有為な人材に、まともな職場さえ与え得ない日本の不甲斐ない現状を考えれば、慙愧に耐えないが、当然であろう。
   
   このエリート教育の軽視やリベラル・アーツ教育の無さなどリーダーシップ教育における日本の教育の問題については、これまでに何度も、このブログで論じて来たので止めるが、一つだけ、現状を踏まえて如何に影響が大きいかを示したい。
   これは政治の世界で言うと、エリート教育を軽視して、出る釘を育成せずに、同じような平等なスペアパーツばかり育てる教育体制を敷いて来たので、後継者として血筋や閨閥ばかりが強く前面に出て、二世三世議員ばかりが蔓延ると言う現象が強くなってしまったと言うことである。
   その結果が、どうなったか、如何に惨憺たる悲劇を惹起したかは、最近の三代にわたる日本の総理大臣を見れば、自明の理であろう。

   歌舞伎など芸術や工芸等々才能や天性の能力が問われる世界でのDNAの重要性は、それなりに評価されるにしても、時々刻々と変化する政治経済社会現象である世界でのリーダーシップは、プラトンの哲人政治に言及するまでもなく、真の教育と訓練を受けたエリートの活躍の場であるべき筈なのである。

   クリエイティブな価値創造の時代に突入した今日、例えば、一芸に秀でた超エリートを育成する教育も必要であろう。
   あの鎖国していた徳川時代には、日本的で素晴らしい芸術文化が花開き、日本の精神文化を高みに持ち上げたが、如何せん、金魚鉢の中の世界であったので、科学技術の遅れは致命的で、黒船に凌駕されてしまった。
   今回、ノーベル賞で、日本パワーが炸裂したが、半分以上は、海外発の知であることを考えれば、日本の教育のあらゆるバリアーを取り払って、完全に世界へ向かってオープンにして、グローバルに通用するエリートを育成することが大切であろう。
   エリートと言う言葉とイメージが良くないが、要するに、能力ある人に、それだけに働きをしてもらうことだと考えれば良いのである。
   
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秋深き東大での午後のひと時

2008年12月09日 | 生活随想・趣味
   最近、東大の安田講堂で開催されるフォーラムによく出かける。
   シンボルがイチョウであるので当然であろうが、今、正門から安田講堂にかけてのイチョウ並木が黄金色に輝いて非常に美しい。
   午前と午後のフォーラムの合間に、1時間半休憩があったので、東大のキャンパスを少し歩いてみた。
   我が母校京大のキャンパスとどうしても比べてみるのだが、京都の場合には、街全体が昔の条里制で区画されたている所為か、方形の街区に区切られていて非常に狭いので、正門から講堂を併設した本部建物までの距離がなく、まず、広場さえないので、東大のスペースの豊かさは非常に羨ましい。
   京大のことは、もう、何十年も前に卒業式に出たままで、本部建物のその後の改築後の姿を知らないので分からないが、東大の安田講堂は、半円形の2階席のある非常にシックな建物で、中々、雰囲気があって素晴らしい。

   この安田講堂の前庭広場と講堂の地下に、大きな食堂がある。
   地下1階の中央踊り場部分にディスプレイと食券売り場があり、その下の地下2階の中央に厨房と配膳カウンター、その周りに沢山のテーブルが並んでいる。
   学生たちでごった返しており、工場の食堂のような感じで、決して、美しいとか清潔だとかと言う雰囲気ではないが、沢山の品揃いで選択肢があり、市価より安くリーゾナブルな価格だから満足すべきであろう。
   余談だが、ヨーロッパでは、街の中心にあるラートハウス(市庁舎)の地下には、必ず、ビールかワイン主体の大きな居酒屋風の食堂があり、何時も、市民客で賑わっていたのだが、いくつかのラートハウス・レストランでグラスを傾けながら、非常に素晴らしいシステムだと思っていた。

   東大キャンパスで素晴らしいのは、夏目漱石でも御馴染みの三四郎池で、安田講堂から赤門よりのすぐ傍にあって、一歩入り込めば、鬱蒼とした森の中の雰囲気となり、切り立った斜面の下に水草にびっしりと覆われた池が見え隠れして、丁度、数本あるもみじや落葉広葉樹の紅葉が、木漏れ陽に輝いていて美しい。
   殆ど人はいないが、池畔に座って恋を語っているのであろうか、カップルの学生がじっと動かずに水面を見詰めていたのが印象的であった。(尤も、遠目で眺めていただけ)
   無粋なのは、鳥の鳴き声で、近くに上野の森や不忍池があり多くの鳥がいるはずなのに、からすの鳴き声だけが耳障りで興ざめであった。
   水面では、鴨のカップルが戯れているのに。

   もう一つ私が目指したのは、東大生協のブックショップである。
   第一印象は、東大関係の書籍のコーナーがある程度で、殆ど、一般の書店と変わらない感じで、特別な本が並んでいる訳ではない。
   一番目立つメインの平積みカウンターには、「ソロスは警告する」、「ランド」、新しく出た「クルーグマンの視座」などに混じって、田原総一郎の「再生日本」や姜尚中教授の対談集、ムハマド・ユヌスの「貧困のない世界を創る」等々バリエーションに富んだ雑多な本が並んでいる。
   経済経営関係の平積みカウンターには、ノーベル賞のクルーグマン、新大統領のオバマ関連本が数冊ずつ並んでいたが、「ブラック・ショールズ微分方程式」とガルブレイスの「大暴落1929」に挟まれて、白川日銀総裁の「現代の金融政策」が置かれていたのが面白い。

   何故か、一般書店で人気の高い勝間和代の本が2冊うず高く積まれていたのが目立ったが、売れているのか売れていないのか分からない。
   余談だが、同じ人気の高い茂木健一郎の本は殆どなかったように思う。
   結局、私は、これまでに何度も講演を聴いている小宮山宏東大総長の「講演 知識の構造化」サイン本を、纏めて論点を復習しようと思って買って書店を出た。

   ところで、安田講堂の建物の裏手地階の隅に、生協のショップがある。
   コンビニを2~3倍の広さにしたような店で、飲料や軽食、弁当などは、全くコンビニと同じディスプレーだが、違うのは、文房具やシャツなどの東大グッズのコーナーがあることで、東大饅頭などの菓子類まで並んでいる。
   入り口には、売り物の自転車が数台並べられており、それに並んで、卒業式用の袴(HAKAMA)のレンタル広告が張ってあり、ご丁寧にも、真っ赤な振袖に袴をつけた着物がディスプレイされていた。
   私が学生の頃には、京大でも、ウォートン・スクールでも、女子学生の数は極めて少なかったが、今では、東大のキャンパスでも、シックで綺麗な女子学生が、キャンパスを歩いているし、偶に講義を一緒に聴く教室でも見かけるので、当然のこととは言え今昔の感である。

   ところで、何時も、キャンパスには、高校生の集団が沢山来ているのだが、修学旅行であろうか。或いは、東大を目指しての見学であろうか。
   それに、結構観光客が多いのにびっくりする。
   欧米では、大学のキャンパスが観光コースに当然入っているので、この東大の傾向も好ましいことである。
   
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十二月大歌舞伎・・・幸四郎の「佐倉義民伝」

2008年12月08日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の歌舞伎座は、京都南座の顔見世で人気を奪われた感じの筈だが、どうしてどうして、高麗屋父子が、非常に内容の豊かな素晴らしい舞台を展開しており、更に、富十郎の「石切梶原」や三津五郎の「京鹿子娘道成寺」など意欲的な舞台が加わっているのだから、楽しくない筈がない。
   私には、河竹黙阿弥の「高時」と「佐倉義民伝」が始めて観る演目であったが、千葉の住人として近くに住んでいる誼もあって、幸四郎の演じる佐倉惣五郎(歌舞伎では木内宗吾)の舞台には、特に期待して客席に着いた。

   歴博の記録では、惣五郎の歴史は定かでないようであり、歌舞伎の舞台での義民としてのイメージが定着しているような感じだが、福沢諭吉なども、自由民権主義者の先駆者として取り上げ、昭和恐慌や戦後改革の時期にも、新しい解釈を伴いながら思い起こされたと言うのである。
   しかし、徳川時代に一般的であった農民一揆とは一線を画しており、民衆を率いて一揆を起こし暴力行為に出たと言う記録は一切残っておらず、藩や幕府、最後には、4代将軍家綱に農民たちの窮状を直訴に及んだと言う孤軍奮闘の決死作戦を実行したのであるから、非常に特異な存在であった。
   結局、租税は軽減されたようだが、夫婦磔刑、子供4人も死罪となった。

   この残酷な仕打ちによって怨霊伝説が生まれ、藩主堀田正信も不幸に見舞われ改易となったのだが、1世紀を経て山形から入封した正信の弟の家系の堀田正亮が、惣五郎を顕彰するために宗吾道閑居士と謚号し、現在の宗吾霊堂に至っていると言う。
   歌舞伎座2階のロビーに設置された厨子の中に、ご本尊宗吾様が安置された祭壇が置かれており、客が交々賽銭を投げて手を合わせている。
   私は、宗吾霊堂には言ったことがないが、この近くで、高橋尚子が走っていたと聞く。

   ところで、実際の歌舞伎の方だが、最初にヒットした「東山桜荘子」では、宗吾と叔父光然の祟りの場が主体だったようだが、その後、今のように、甚平衛渡しと子別れと言う宗吾の苦悩と甚平衛の義心が物語の中心になったと言うことである。
   今回は、印旛沼渡し小屋の場から、木内宗吾の内と裏手の場、そして、最後に、宗吾が将軍に直訴する東叡山直訴の場が続く。
   非常にヒューマニズムに富んだと言うか、農民一揆と言う陰惨な物語を主体にしながらも、善意の登場人物ばかりで、しんみりと観衆の心に響く人情話になっている。
   
   幕府の老中を勤める佐倉藩としては幕政に非常に忠実に奉仕すべく、領民に異常と言うべき過酷な年貢を課したのが発端だが、農民たちの塗炭の苦しみは、TVなどで人気の水戸黄門物語の比ではなかったのであろう。
   強訴、越訴を強行する宗吾を、佐倉藩は目の敵にして鉄壁の監視網を敷いて追っかけるのだが、江戸屋敷での直訴に失敗し家族に会いたい一心で国へ帰ってきた宗吾が、印旛の渡しで船頭の甚平衛(段四郎)に舟を頼む。
   佐倉藩の暴政を慨嘆し国の乱れと宗吾詮議の厳しさを語る二人の行き場のないしみじみとした会話、そして、将軍への直訴の覚悟を聞いて、役人の命に背いて決死の覚悟で舟を出す甚平衛の一徹な義侠心が胸を打つ。段四郎は、正に適役。
   
   雪が深々と降りしきる木内宗吾宅の場は、農家の主婦に、寒かろうと夫の袴や嫁入り衣装まで与えて気遣う妻おさん(福助)の健気な思いやりから舞台が開き、傍で長男は素読、二人の子供は無心に遊んでいる。
   そこへ、監視から逃れた宗吾が雪を踏みしめ帰ってくる。喜ぶ家族。
   数ヶ月で大きく変わった家族の生活の変化を知らずに、もう少し子供に、そして、おさんにも良い着物をと言う宗吾に、おさんは顔を伏せて、総て貰ってもらったと告げると、良いことをしたと頷く宗吾のあまりにも善意に満ちた仏のような姿。無精ひげを生やした幸四郎の実直そうな風貌が風格を増す。
   良く考えてみれば、佐倉郷の百姓だったが、宗吾様は、今や神様に列せられた人であり、菅原伝授手習鑑の菅丞相と同じなのであると気付くべきであった。

   福助のおさんだが、子供たちへの思いやりや夫への心配りなど楚々として控え目ながら、決死の覚悟で江戸へ向かう宗吾に離縁状を渡されてかき口説く哀切極まりない表情を見せるなど実に良い味を出していて、幸四郎との呼吸が合って素晴らしい。
   尤も、夜の部の最後の「籠釣瓶花街酔醒」では妖艶な八橋で、相方佐野次郎左衛門の幸四郎を窮地に追い込み殺される役を演じているのだが、この舞台も素晴らしく、今や、歌舞伎座を背負って立つ女形の看板役者の一人の貫禄である。
   この舞台での子役の三人が実に上手く、感動的な演技を見せてくれる。

   この舞台で唯一の悪者が、宗吾を訴人すると強請りに来る幻の長吉の三津五郎だが、チンピラながらドスの利いた悪人振りが面白い。

   最後の寛永寺での将軍徳川家綱(染五郎)への直訴の場だが、老中松平伊豆守の彌十郎が良い役柄で、家綱の面前で大きな声で訴状全文を読み上げ、受け取れないと言いながら封書だけ投げて中身を袂に仕舞うところなど観客を感動させる。
   実に風格のあるお殿様ぶりの染五郎の勇士は感動的だが、直訴の成功して、後手に縛られながらにっこり微笑む幸四郎宗吾の表情も実に美しい。
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錦秋の鎌倉を歩く(6)~八幡宮のぼたん庭園の回遊

2008年12月07日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   秋晴れの八幡宮の境内は、非常にオープンで明るく、大らかで豪快な雰囲気が良い。
   真黄色に染まった大銀杏と並んで、朱塗りも鮮やかな本宮の建物が輝いていて、お馴染みの絵葉書の世界が展開されている。

   三の鳥居を回りこむと、右手の源氏池には、沢山の鴨とかもめが池面に群れていて、水鳥の天国である。
   政子が造ったと言うこの源氏と平家の双子池だが、左側の小さな平家池は、ひっそりと静まり返っていて、その対照が面白いが、何故か、平家池の方が風情があるような気がしている。

   源氏池の手前を左に回りこむと、池畔に沿って東鳥居に向かって、長い回遊式のぼたん庭園が続いている。
   細い回遊路の左右にぼたん畑が展開されているのだが、今は、新年からの冬ぼたんに備えて、黒い幹と枝だけになったぼたんの木が黒い地面に行儀良く並んでいる。
   不思議なもので、早咲きのぼたんであろうか、既に、鮮やかな赤い花を咲かせたぼたんが数本混じっている。
   これから、寒さが厳しくなるにつれて、少しづつ葉が出て蕾をつけて咲き始めるのであろうか。
   冬牡丹の鮮やかさは格別だが、私は、まだ、雪を頂いたこもを被って妍を競っているぼたんの姿を直に見たことがない。

   ところで、このぼたん庭園は、左右に多くの木が植えられていて、巨大な天然記念物のケヤキなど年輪を経た古木もあり、細長くて幅がないわりには、林間庭園の雰囲気を醸し出していて、小鳥たちの憩いの場となっている。
   それに、ぼたん畑に置かれた大小の岩や石に風情があって、垂れ下がったもみじの枝の鮮やかな紅葉を彩っているハーモニーが中々良く、これが、また、ぼたん時期には、ぐんと、存在感を増す。

   この庭には、中国では古来から奇石として珍重されてきた蘇州産の太湖石を据えた「湖石の庭」(口絵写真)が造られており、左右の色付いた紅葉を背負って、ぼたんとは違った趣を現出しているのが面白い。
   蘇州や上海で見た中国の古庭園の、このような自然の織り成した天然の妙とも言うべき造形の不思議さには驚かざるを得ないが、今一つ、その哲学的な良さが分からないのを、もどかしく思っている。  

   ところで、この庭園には、非常に多くの色々な花木など植木が植えられているので、秋の風情は紅葉だけではないのだが、もみじでも、かなり種類が違っていて、場所にもよるが、夫々色付き方やその鮮やかさにバリエーションがあって面白い。
   私の場合には、紅葉全体の美しさと言うよりは、極端に言うともみじの葉っぱ一枚一枚の美しさ、或いは、数枚の葉っぱの醸し出す色のハーモニーに興味を持って見ているので、勢い、陽の当たった紅葉の下から逆光に輝く綺麗なもみじを追っかけることになる。

   今、鎌倉の長谷寺では、日が暮れると照明を当てて夜の紅葉を鑑賞できるようだが、夜桜は別にして、私には、あまり興味がないので出かけなかった。
   
   ところで、この庭は、源氏池に面した回遊式庭園だが、池を見渡せる場所は、限られていて、2~3箇所しかないのだが、ここからのオープンで大らかな展望が実に良く、床机に座ってしばらく瞑想に耽るのも中々乙なものである。
   季節外れ(?)のこのぼたん庭園には、訪れる人も少なく、喧騒を極める八幡宮の境内の中では、別天地である。
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