熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

グローバル・ビジネス概論の試み(3)

2013年08月31日 | 経営・ビジネス
   ”世界はフラットか?コークの味は国ごとに違うべきか?”

   前回は、ITC革命とグローバリゼーションの拡大によって、これまで一般的に考えられていた、ロストウなどの段階的な経済発展論が、必ずしも通用しなくなったことを論じてきた。
   新興国経済が、成長段階過程をショートカットして、一気にグローバル経済に台頭し、インドのIT産業のように最高水準のサービス経済への高度化によって国家経済の成長を加速させ、企業にしても新興国のBOPビジネスが国際事業となり、リバース・イノベーション製品が国際商品となり、あるいは、個人のデザインした製品がインターネットで世界を駆け巡ると言った、本来、先進国経済から波及してきた筈の経済活動が逆流すると言う、下克上とも言うべき時代になって来たことを述べてきた。

   さて、世界はフラット化したとフリードマンが宣言するまでもなく、ICT革命とグローバリゼーションの恩恵を受けて、時空を超えて、あらゆるところで、グローバル・ベースでビジネスが展開されている。
   ところが、現実の世界は、特に、ビジネスの世界では、決してフラットではないと説く専門書が出ている。バンカジ・ゲマワットの「コークの味は国ごとに違うべきか REDEFINING GLOBAL STRATEGY」であり、デビッド・スミックの「世界はカーブしている THE WORLD IS CURVED」などだが、ゲマワット教授の「セミ・グローバリゼーション」論が、非常に現実的で興味深い。

   
   ハーバード・ビジネス・スクールのゲマワット教授は、海外直接投資のフローが世界の固定資本形成に占める割合を手始めに、色々な視点から国際化のデータを調査して、国際化・グローバル化の進展が10%前後ないしそれ以下に過ぎないことを検証して、グローバリゼーションはまだ道半ばであるとして、「セミ・グローバリゼーション」と捉えて議論を展開している。
   この書物の目的は、グローバル・ビジネスに対する企業戦略論であるから、この視点に立って、市場の規模やボーダーレスな世界の錯覚に惑わされずに、国境をうまく越えたいと思うのなら、経営者は、戦略の策定や評価に当たって、国ごとに根強く残る差異を真剣に受け取るべきだとして、国境を越えるための洞察力やツールを提供すべく、その戦略論を説いている。

   世界を理想化された単一の市場として見るのではなく、国ごとの差異に着目して、企業のグローバル戦略を説いているのだが、そのような観点から、グローバル企業、多国籍企業と言った国境を越えた企業の成功や失敗を見ると、見えなかった戦略の功罪が浮き彫りになってくるから面白い。
   たとえば、ウォルマートやカルフールが日本市場に馴染めず苦労したのも、日本の家電メーカーなどが、新興国や発展途上国への参入で苦心惨憺しているのも、文化文明、発展段階、国民性などの差異を戦略に上手く取り込めなかった結果と言うことであろうか。
   
   世界はフラット化したと言うグローバリゼーション津波論の台頭で、国際的な標準化と規模の拡大を重視しすぎた、国際統合が完成した市場を想定した行き過ぎた企業戦略論が、幅を利かせ始めていることに対して、国ごとの類似性と同時に、差異が如何に企業戦略の可否に大きな影響を与えているかを示しながら、
   セミ・グローバリゼーションの現実においては、少なくとも、短・中期的には、国ごとの類似点と差異の両方を考慮した戦略こそが、より効果的なクロスボーダー戦略だと説いている。

   フリードマンも、多くの異論に応えて、「厳密に言えば、世界はフラットではない。しかし、丸くもない。フラットと言う単純な概念を使ったのは、これまでになく平等な力を持った人々が、接続し、遊び、結びつき、協力し合うことが出来るようになった、と言いたかったからだ。」と述べているのだが、この単純なフラットと言う表現で、世界の政治経済社会、と言うよりも、文化文明の軌道軸の大転換とも言うべき現象を悟らせた貢献は、極めて大きいと思っている。
   現実には、ゲマワット教授の説くように、コークの味は、国ごとに違うべきだと言う「セミ・グローバリゼーション」の段階にあることは、事実であろう。

   問題は、そのコークの味を、どのようにして、国ごとに違わせるべきか、その手段、方法、そして、その戦略戦術が、資本主義の大変質によって、大きく変わってしまったと言うことである。
   大変革を遂げた市場経済に対応すべく、人類の未来を見据えて、企業は、どのようなグローバル・ビジネスを展開すべきか、考えてみることにしたい。
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中国の深刻な下水処理問題

2013年08月30日 | 地球温暖化・環境問題
   この表題は、日経ビジネスに掲載されている「新世紀週刊」の特約記事のタイトルである。
   この表題の下に、次のような要約が記されている。
   「下水処理とは、下水を処理した後の汚泥を処理することを指す。だが、中国では汚泥処理施設を持つ処理場は少なく、汚泥の多くは畑などに投棄される。重金属などを含む汚泥の環境への影響が懸念されるが、政府の取り組みは始まったばかりだ。」

   精華大の傳涛主任などがまとめた「中国の汚泥処理・処分に関する市場分析レポート(2012年版)」によると、中国では少なくとも80%以上の汚泥を無公害化する処理をしないまま直接、自然環境に排出していると言う。
   北京からなどの汚泥が処理されないまま、近隣に「堆肥」として運ばれ、耕地や林に投棄され、その汚泥の上に、トウモロコシや落花生、果物、野菜などが栽培されている。住民らは、その汚泥を、業者の購入した”特殊な肥料”だと思って、汚泥塗れの耕地で、トウモロコシとスイカを作っていたが、味が良くないので食べずに外に売っている。と言うのである。
   「新世界週刊」は、終われぬ不法投棄と、続報で報じている。

   
   私は、5年程前に、上海に行った時に、水や食品には気をつけようと、果物なら大丈夫だろうと、意識して、大型店で上等そうな果物を買って、水代わりに食べていたのだが、はずれであったと言うことかも知れなかった。
   僅か、1週間足らずの滞在だったが、大気汚染など公害の酷さは凄いもので、這う這うの体で帰って来たのだが、半世紀前の日本を思い出しながら、経済成長とは、こう言うものかと、感慨深かったのを思い出す。
   そこで、再会したブラジル時代からの知人の御嬢さんに会って旧交を温めたが、昨年、がんを患って帰国し、時すでに遅く若い命を散らしてしまった。


   中国の急速な経済成長とエコシステムとの関係については、以前から非常に興味を持っていたのだが、あの中国文明を育んだ黄河が断流現象を起こしていると知った時には、大変な恐怖を感じた。
   杉本元上海総領事の言を引用すると、
   この中国文明を支えてきた大動脈「黄河」が、断流現象を起こして、97年には、河口から華南省鄭州までの1千キロに及んで226日間断流して、その年、黄河に水が1日中海に流れ込んだのは僅か5日しかなかった。
   かっては、黄河の中上流には豊かな森林と草原が存在していたが、唐代以降森林破壊が続き、今では、上流に建設された3千百余りのダムで水を止め、水を乱用し、無駄に蒸発させて自然な還流システムが働かなくなってしまっている。
   1億5千万の人口を要する流域で水の取り合いが深刻となり、三門峡ダムなど8つの発電所の稼働率は3分の1だ。と言うのである。

   ところで、この黄河だが、ナショナルジオグラフィックが、5年前に中国特集で、黄河汚染で急増する「ガンの村」に言及している。
   当時の私のブログを引用すると、
   「黄河崩壊 水危機が生む”環境難民”」と言う記事で、「黄河はチベット高原に源をもち、中国北部の大地と人々を潤し続けてきた。だがいま、目覚ましい経済成長の陰で、母なる大河が深刻な危機に陥っている。」とのサブタイトルに記された冒頭ページは、何十年も前の日本のような黒い煤煙を吐き出す化学工場から汚水が、赤茶けて草木一本もない大地の小川に湯気をたてて排出され、黄河上流に流れて行く悲惨な光景を写し出している。
   黄河の下流域には、水質汚染で、ガンの発生率が異常に高く”ガンの村”が沢山あると言う。
   黄河流域を大きくΠ型に蛇行して流れる河流の過半は汚染されていて、特に、韓城あたりからの下流域と、西安を流れる渭河など多くの支流や合流地点の河は大半過度に汚染されていて、農業、工業用水にも不適だと言う。
   蛇足ながら、他の資料で、中国の河川の70%は、汚染されていて飲用に供せないと言う記事を見たことがある。

   昨今、大水害や大飢饉、異常な竜巻や台風など、これまでになかったような異常気象が、世界全体で頻発している。
   地球温暖化によるエコシステムの逆襲だと言うことは、大方の識者の見解だが、依然われ関せずと、地球環境の保護とエコシステム維持に最も無頓着な国が、アメリカと中国。
   悲しいかな、地球環境の悪化は、所謂、茹でガエル現象。徹底的な宇宙船地球号の逆襲に打ちのめされなければ悟り得ないのであろうが、しかし、中国では、もう、既にあっちこっちで、目覚めた国民の蜂起によって、外堀が埋められつつある。
   文明とは、どう言うことか、積読のジャレド・ダイアモンドの本を、ぼつぼつ、紐解こうと思っている。

(追記)口絵写真は、憧れであった西湖、しかし、長い間抱いていた面影は幻想に近かった。
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イタリア農業は高級化で生き残る

2013年08月28日 | 政治・経済・社会
   このタイトルも口絵写真も、ニューズウィークの電子版からの借用である。
   今、イタリア・ピエモンテ州のバローロ村とその周辺で生産されているDOCG規格の赤ワイン・バローロ (Barolo) は、イタリアの高級ワインだが、ピエモンテ州のワイン生産者達が、1970年代以降、品質競争で優位にあるフランス、アメリカに対抗して、近代的醸造技術の導入により高品質ワインの製造に乗り出して作り上げたブランドであり、そんなに昔の話ではない。
   高給なフランス・ワインと比べれば、比較的安いので、私など、ヨーロッパにいた時には、バルバレスコやキャンティ・クラシコとともに、賞味していたのだが、私が、言いたいのは、表題と同様に、イタリア農業は、品質改良や新製品を作り出すなど、生産品を、高級化して付加価値をつけて、国際競争に打って出ていると言うことであり、これが、正に、日本農業の目指すべき道だと言うことである。

   これは、流石に、スロー・フードの国で、ミラノファッションなどファッション関連産業で、世界に冠たる高給ブランドを生み出しているイタリア人気質、創造性と芸術性を遺憾なく発揮するイタリア人の匠の技・職人技の発露と相通じる特質が生み出したものであり、このグローバルベースでの差別化こそ、イタリア産業の宝であろう。

   この記事は、次のように述べている。
   昔から農業国として知られるイタリアは今や、ヨーロッパ随一の高級食材の生産地でもある。ワインやチーズ、野菜、海産物など各地域の特産品の品質を高める工夫を重ねることで差別化に成功し、国際的な価格競争に負けないブランド価値を維持している。産地や製法についての細かい規定を満たした製品だけに付与されるDOP(保護指定原産地呼称)など、EU(欧州連合)の「お墨付き」を得た製品も数多くある。
   品質向上の取り組みの中でも特に力を入れてきたのが、化学肥料などを使わない有機農業への転換だ。今ではイタリア国内の耕作地のうち約8%の110万ヘクタールで有機農業が行われており、有機農家の数は欧州最多の4万8000以上。恵まれた気候と肥沃な土壌を武器に、生き残りを懸けた農家の努力は日々続いている。

   TPP(環太平洋経済連携協定)への参加が決まった日本にとっても、農業の競争力強化は死活問題。その点、イタリアが進めてきた高級路線へのシフトは1つのヒントになるかもしれない。と言うのである。

   さて、日本の農業を如何に将来発展させて行くのか、TPP加入と絡んで、真剣に議論されている。
   門外漢なので、誤解があるかも知れないが、新鮮かつ安全な野菜や果物など大都市圏が求める産物を生産している近郊農業は、それなりに生きる道はあるだろうが、消費地から離れた遠隔地の農業では、現在のグローバル競争を考えた場合には、特別な差別化商品ではない限り、絶対価格競争で太刀打ちできないであろうと思っている。
   しからば、どうするのか。私は、品質改良して超高級な商品を生産するとか高度な加工を加えるなどして、商品の差別化によって、上位の無消費者市場を狙った農業に転換するのが必須だと思っている。

   
   アメリカでは、エブリディ・ロープライスのウォールマートに対抗して、今や、ホールフーズマーケットを筆頭にして、 トレーダー・ジョー やサンフラワーマーケット などオーガニック系スーパーマーケットが、快進撃を続けている。
   文化文明が、進めば進むほど、人々が、食の安心安全、テイストの高度化高級化を志向するのは当然であって、今後、公害等生活を脅かすような環境変化が加速して来るにつれて、益々、食品の高級市場が拡大して行くと考えられる。
   本来、農業は大衆相手の商品であったのだろうが、農業技術や食品生産において、ダントツの技術とノウハウを持つ日本農業であるから、クールジャパンの先陣を切っているジャパニーズ・フードとのコラボレーションを勧め、高品質高テイストの最高級品を生み出してグローバル市場に打って出る、そのくらいのドラスティックなビジネス・モデルの転換を図るべきであろうと思う。
   

   高度化したグローバル・ベースで展開する国際競争に打ち勝つためには、工業でも農業でも同じことで、日本の生きる道は、クリエイティブ志向のビジネス・モデルを果敢に展開して、より高付加価値の高度なものやサービスを創造してブルーオーシャンを開拓して行く以外にはないと思う。
   アメリカのように、ITなど高度なソフト産業に対する起業力がなくても、日本人は、工業でも農業でも、人間生活を、そして、その心を豊かにするものづくりには、歴史と伝統に培われた卓越した技術と感性を持っているのであるから、イタリア農業以上に高度化できるのではないかと思っている。

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国立演芸場・・・国立名人会

2013年08月26日 | 落語・講談等演芸
   先日、二日続けて、国立演芸場に通った。
   19日は、大衆芸能脚本受賞作品賞の会で、浪曲、講談、落語などの公演で、
   20日は、恒例の国立名人会であった。
   
   国立名人会は、トリは金馬で、前トリに、桂春團治が登場すると言うので期待していたが、完璧主義の春團治が病気休演とかで、桂福團治が、代演した。
   勿論、福團治も、関西演芸協会第10代会長で上方落語界の重鎮であり、昔懐かしい語り部よろしく、しみじみとした人情噺「藪入り」を語った。
   声帯ポリープで、一時期声が出なくなったことから、手話落語を始めた言うことで、医療関係の世話になったからかも知れないが、枕に、何でも、「薬出しときましょか」と言う医者の話や、足が痛いと医者に行ったら、胃カメラ飲みましょうと言われたと言った話をして、客を笑わせていた。

   この藪入りだが、昔、商家に10歳くらいで丁稚奉公に出された少年が、3年経って休暇を貰って親元に帰って来ると言う話で、番頭はんと丁稚ドンの頃の話であり、私たちよりももう少し前の時代がテーマになっている。
   貧しい長屋につつましく住んでいる両親が、真夜中から起きて、藪入りで帰って来る愛しい子供を待ち続けると言うところから話が始まるのだが、泣く泣く3年前に家を出た時に父に買って貰った饅頭の味が忘れられずに、帰る途中に、貯めたお金で、2つずつ一緒に食べようと、6つ饅頭を買うと言う話も泣かせるが、急いでびっしょり汗で濡れた着物を見て、朝ぶろに行かせる時に、ラムネを飲む銭を余分に持ってやらせと言う親心が、庶民の哀歓を誘うなど、しみじみとした良き時代の人情噺がしんみりとさせる。

   もう一つ面白かったのは、春團治の弟子桂春蝶の、座布団から飛び出さんばかりの非常に威勢の良いはち切れそうなパワーで、今様のカレントトピックス満載の「地獄巡り」。
   六道の辻には地獄の目抜き通り「冥途筋」があって賑わっているなどと言う話も面白いが、三途川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の話だが、この老婆を、メイド(冥途)・カフェの若いモダンお姐さんに代えて語るギャグ連発の会話の奇抜さなど、とにかく、地獄の観光浮世噺と言ったところで、若い知恵と力が漲っている。
   オチは忘れたが、ファンだと言う阪神の優勝話。
   寄席で、初めて、上方落語を聞いたのだが、関西弁での語り口の所為もあって、ぐっと胸に来る感じで、江戸落語とは違った感慨である。

   柳家喜多八は、「あくび指南」。
   この外題を聞くのは、二度目なのだが、習い事には、色々なものがあるもので、人間の好き嫌い、趣味趣向には限りがないのであろうが、とにかく、噺家の語り口の巧みさには舌を巻く。
   夏のあくびは初心者に良いと言われて、舟に乗っているつもりのあくびの指南を受けるのだが、とにかく、本来くだらない筈の生理現象を、芸事にまでして極めようと言う話であるから、師匠とのチグハグ極まりない落差の激しさが面白い。

   さて、金馬の「佃祭」は、今では、ウォーター・フロントとして賑わっていて陸続きになっている佃島が、小さな島であった頃の話で、住吉神社の夏の祭礼で賑わう佃島を舞台にした落語。
   神田・お玉ヶ池で小間物問屋を営む次郎兵衛は、この佃祭りを楽しむために、「暮れ六ツの終い船(渡し船の最終便)に乗って、今日中には必ず帰る」と言って出かけたのだが、これに乗れなかったために、終い船が沈没して全員死亡したにも拘らず、一命を取り留める。
   ところが、この船に乗っていたので死んだ筈だと早合点した次郎兵衛宅では葬儀の準備で大わらわなのだが、そこへ、主人が帰って来て仰天すると言う話。

   何故、終い船に乗れなかったのかは、奇跡と言うべきで、「3年前、奉公先の金を失くして途方に暮れた末に吾妻橋から身を投げようとしていたところ、見知らぬ旦那様から5両のお金を恵まれまして、おかげで命が助かりました。あの時の御親切なお方では?」と袖を引かれて下船させられて、お礼のもてなしを受けた後で、女の連れ合いの船頭に、事故のほとぼりが冷めた頃に、船で送り届けて貰ったと言う訳である。
   
   ウィキペディアによると、
   主な演者は五代目古今亭志ん生、三代目三遊亭金馬で、
   志ん生は長屋の騒動を強調して喜劇調に演じていたのに対し、金馬は笑いを控え目にして人情話を重点的に演じるという違いがあり、現在もこれら2通りの演出で行われている。と言うことで、先代の金馬の芸を継承しているのであろう、しみじみとした語り口の人情噺が、聴かせてくれる。

   芸の深みや厚さなど噺家としての芸の冴えには雲泥の差があるのであろうが、お笑い三人組の頃の小金馬の雰囲気そのままの話しぶりが印象的で、80半ばの筈だが、実に元気である。
   
   もう一つ、粋曲の悠玄亭玉八が幇間芸を披露したのだが、朝方に四畳半に落ちていた三日月型の櫛の話など、色っぽくて粋な都々逸の世界を垣間見せてくれた。
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八月納涼歌舞伎・・・「髪結新三」 「かさね」

2013年08月25日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   さて、今回の第二部は、「梅雨小袖昔八丈」いわゆる「髪結新三」と、「色彩間苅豆 かさね」。
   かさねは、清元連中の楽に乗せて舞う華やかながら鬼気迫る、福助と橋之助の成駒屋兄弟の舞踊劇で、楽しませてくれるが、やはり、面白いのは、ドラマ仕立ての芝居「髪結新三」。
   何回観ても、バカバカしい話だと思いながらも、無頼漢の新三が、老獪で食わせ物の家主の理詰めに説得されて行く対話の面白さに、ついつい、引かれて見てしまう。
   悪の権化のような新三が、仲裁に来た大親分の弥太五郎源七をも追い返し、手の付けようもなかった筈だったのが、大家に、騙し賺されてコロリと行くどんでん返しが、水戸黄門、今なら、半沢直樹に通じる痛快さを、観客に与えるから、面白いのであろう。
   河竹黙阿弥作の「世話物」で、粋でパンチの利いたタイトルロール『髪結新三』を、三津五郎が、実に、軽快かつ軽妙に演じていて、それに、彌十郎の大家の至芸が楽しませてくれる。

  新三は、店が傾きかけて婿養子をとると言うお熊(児太郎)と恋仲の白子屋の番頭忠七(扇雀)をそそのかして、店の娘のお熊を連れ去る。
   新三は、自殺をしようとした忠七の話を聞いて白子屋に頼まれて掛け合いにきた親分の弥太五郎源七(橋之助)を追い返すのだが、続いて説得にやって来た家主の長兵衛には歯が立たず、30両と引き換えにお熊を解放する。
   しかし、長兵衛は、新三をやり込めて、仲介料として15両と鰹を半分せしめる。
   新三と交渉中に泥棒が入って、大家は、大損。
   結局、新三は、顔を潰された恨みから復讐の機会を狙っていた源七に待ち伏せをされて討たれると言う話。
   忠七をそそのかす「白子屋見世先の場」から、源七に復讐される「深川閻魔堂橋の場」までの、江戸庶民の生きの良い粋な2時間を越える芝居だが、最後は、二人の果たし合いの見得で幕が下りる。

   芸の細かいのは、騙し賺されて半金に値切られた新三が、大家宅に泥棒が入って、ものを盗まれたと聞いて、大家の損失を、箪笥の引き出し一つ一つ計算して、トータルで大家の方が損をしたと溜飲を下げる話。
   もう、八さん熊さんの落語の世界である、この落差。


   さて、この舞台は、恐らく、勘三郎が生存しておれば、18代目の襲名披露で演じたキャスティング通りに、勘三郎の新三、三津五郎の家主で、絶品の芝居を堪能できたのであろうと思う。
   ”親父には手取り足取り教わったことなどなく、父の芸を身につける手段は模倣だけ、瞬きをするのも惜しんで観ていた”と言う勘三郎(当時勘九郎)が、初役髪結新三を演じると言うので、自分で呼吸も出来なくなっている死の床から、勘三郎は、自分で教えるんだと言って、自ら当たり役の髪結新三を教えた。ベッドに寝たまま、酸素吸入のビニールの仕切りの中で、台詞や動きを教えるために、動けば息が苦しくなるのに、それでも止めずに新三をやり続けた、と言うのである。

   その時の私の勘三郎の新三イメージは
   根っからのワルだがドジで人の良い、何とも憎めない小悪党新三を、勘三郎は、実に颯爽と小粋に演じている。粋でキザな格好良い見栄、冒頭の忠七の髪を結う髪結の芸の細かさと巧みさは秀逸。ぽんぽん飛び出す活きの良いキザな江戸弁の啖呵が身上、それが、理屈と脅しすかしに弱く上げ下げ自在な悪辣な大家の説得に崩れて行く弱さを実に巧みに演じている。
   その後、菊五郎の新三を観たのだが、その時は、
   菊五郎の場合には、芸の差であろうか、同じ、小悪党でも、しみじみとした人間味を感じさせる世話物的な雰囲気の方が濃厚で、根っからの悪党でもない人間の弱さ悲しさが見え隠れしていて、非常に後味の良い舞台であった。
   また、幸四郎の新三を見る機会があったのだが、
   幸四郎は、凄い芝居の主役ばかりの役者だが、このような悪賢いがどこか一寸底が漏れている小悪人や庶民の生活を描いた世話物などを実に人情味豊かに心憎いほど上手く演じている。
   3人三様、夫々、印象の全く違ったキャラクターを見た感じで、面白かったが、今回、新たに、三津五郎バージョンの新三を観たと言うことになる。
   中村屋の伝統のみならず、歌舞伎のエッセンスを総合して、髪結新三の新境地を開こうとの、三津五郎の意欲充満の舞台であった。

   ついでながら、勘三郎の時も菊五郎の時も演じていたこの三津五郎の大家像は、
   特筆すべきは、老獪で一枚上の小悪党大家を演じる三津五郎の芸の巧みさ、素晴らしい熱演で勘三郎も引き込まれて苦笑交じりの受け答えが、また、しんみりとさせる。最初、舞台姿が随分変わっていたので、三津五郎かどうか訝ったくらいで、森繁久弥を少し小型にしたような好々爺ぶりにびっくりして、三津五郎の新しい新境地の芝居を見たような気がした。
   今回の彌十郎の大家は、三津五郎の新三同様に、極めてストレートで癖のない正攻法の芝居であった所為もあって、二人の相性が良くて、芝居のテンポ、リズム感が、心地よくスムーズで、メリハリをつけながら流れるように終わった感じがして爽快であった。

   橋之助の弥太五郎源七は、男を潰されたにしては、鷹揚過ぎた感じだが、そこは格の差か、貫録十分であり、舞台を締めている重鎮役者。
   扇雀の忠七は、狐狸狐狸ばなしの伊之助と同様に、女形の立役であるけれど、時蔵や魁春などのように女形が男役を務めていますと言った感じの違和感は全くなくて、自然体で舞台に溶け込んでいるのが良い。柔イメージの男役で、その微妙な差が面白いのであって、これは、菊之助の時にも感じている。
   勘九郎は、新三の手下下剃勝奴役で、軽妙洒脱な面白い芝居を見せていたが、端役で役不足と言った感じで、気の毒であった。
   白子屋後家お常の萬次郎は、持ち役としているので、やはり、上手い。
   芸達者な脇役陣の活躍が、舞台を引き締めていて気持ちが良い。

   福助と橋之助の累伝説を歌舞伎化した舞踊劇「かさね」だが、楽しませて貰ったのだけれど、私には、荷が重いので感想は省略したい。
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早稲田、ブラックかどうか分かりませんが

2013年08月24日 | 政治・経済・社会
   先日の私のブログ「高学歴軽視の日本と、必死に高等教育を推進するオバマ」に対して、古くからブログをお読み頂いているmacさんから、次のようなコメントを頂きました。
   

   早稲田、ブラックなんですか…。 (mac)2013-08-23 20:00:09

   この派遣法のこと、知っています。派遣が自由な働き方として持て囃された、あの頃のことを思うと、胸が痛みます。スーパーウーマンな派遣社員を題材にしたドラマまでありました。
環境が変わると一転、経営が保守的になり、新卒と既得の正社員保護のような行動にミスリードするような法律ばかり。一体どっち向いて作られているんだか。って経営者の方なんでしょうか…。
ところで日本の新卒ってお客様みたいに大事に大事に育てられるじゃないですか?
それと対照的にも映るのが、アメリカのスペシャリスト制度。日本では部署異動も日常茶飯事ですけど、アメリカでは考えにくく思います。
大学、大学院の課程そのものに根本的な違いがあるような気がします。
学生のマインドも違うのかもしれません。
卒業論文などの修めるポジションにも差があるような気がするんです。いかがでしょうか?

   お答えになるかどうかは、分かりませんが、私なりに、考えていることを補足的にお話ししたいと思います。
   今回のブログの趣旨は、あくまで、日本は、高学歴者に対して、十分にそれなりの働きの場を提供したり活躍の機会を与えずに、軽視し過ぎており、クリエイティブ時代へと大きく舵を切って破竹の勢いで驀進しているICT革命後のグローバリゼーションの潮流に逆行しており、国家の非常な損失であり、益々、日本の文化・文明度を凋落させ、国家の甚大な損失であると言うことです。

   したがいまして、 有期契約労働者、派遣労働者、パートタイム労働者と言った非正規雇用を継続ないし固定化するような傾向のある派遣法などの労働法規については、元より反対であり、出来るだけ雇用機会の平等を旨とすべきだと思っておりますが、
   ここでは、この問題の本質には触れずに、大学の非常勤講師や非正規研究員などのポスドクを含めた高学歴者の非常に多くが、非正規雇用で生活もままならないと言ったフリーター状態にあって、将来への夢も希望も摘んで悲惨な状態に追い込んでしまっている現実を、問題にしているのです。
   早稲田がブラック大学だと思ってはおりませんが、先日引用した池田信夫氏の「日本の大学は非常勤講師を使い捨てる「ブラック大学」」と言う記事が正しければ、これまでも無期限に勤務してきた非常勤講師が多く、早大の場合は、教員の6割、4000人が非常勤であり、年収が300万円前後だとするならば、まず、何か他のアルバイトをせねば生活はできませんし、知識をリシャッフルすべく最新の学説や最新の科学情報を得るにも専門書さえ買えない筈で、結局、大学トータルを劣化させる以外の何ものでもない筈です。
   そして、iPS細胞の山中伸弥京都大教授が、京大研究所のスタッフの90%が、非正規職員であるために、有期雇用であって先の保障がなく、一番頭を痛めて奔走しているのは、スタッフの生活の安定とその保障だと言うに至っては、悲惨の極みであり、悲しくて涙も出ませんが、実は、この惨状が、日本のトップ大学の現状のようなのです。

   ところが、アメリカでは、学位が高くなればなるほど、雇用機会に恵まれて、どんどん待遇も良くなり、知識教養の涵養と希求には、天井知らずの恩恵が約束されていると言う、正に、知識情報・クリエイティブ社会なのであり、ほぼ、これが、欧米先進国でも新興国でも、グローバリゼーションの趨勢だと言えましょう。
   日本だけ特殊な、この大学や研究機関等での高学歴者の冷遇と言う傾向が継続するようであれば、もう、日本の三等国への凋落は、片道チケットだと言っても間違いありません。
   そう、思っております。

   これは、何故か、私自身は、日本社会自体が、スーパーエリートを生まない大卒程度のスペアパーツで良しとして、政治経済社会構造が、それ以上の秀でた知的エリートを認めようとしない社会だからだと思っています。
   極めて短期間に、日本に冠たる国際教養大学を創設した中嶋嶺雄学長が、以前に、学位の問題に触れて、所謂日本のエリートが、現在の国際社会で殆ど通用しないのは、学位を持っていないからだと言ったことがあります。
   特に、外交官試験にパスしたので、大学を中退して外交官になるのがエリートだとした風潮など愚の骨頂だと言うことであり、ノーベル賞学者で、学位のない人などは殆ど居ませんが、今や、先進国は勿論、新興国でも、政財界や官界などのトップクラスは、殆ど、博士号か、少なくとも、MBAやMAなど修士号くらいの学位は持っていると言うのです。
  学位のない上に、リベラル・アーツの素養に欠け、語学力などの不足でコミュニケーション力に欠けるとなれば、日本の外交官や官僚、企業のエリート達が、グローバル競争に伍して行けないのは当然で、このあたりを見て、ピーター・ドラッカーは、日本人が、一番、グローバル性に欠けていると指摘したのかも知れないと思っております。

   問題の深堀をする余裕がありませんので、これで、置きますが、本当のエリート教育を行えなかった日本人のメンタリティに欠陥があり、日本の支配構造が、この程度の位置にあるので、日本社会が、更なる高みへは向かえない、昇れないとと言うのが現状だと思っております。

   さて、macさんの新卒優遇とスペシャリストの育成の問題への指摘ですが、仰るとおりに、日本と欧米先進国、特に、アメリカとは大きな違いがあります。
   まず、アメリカでは、その道の専門家やスペシャリストは、学校、特に、プロフェショナル・スクールなどの専門的な教育機関が教育訓練して育てますが、日本では、学校はあくまで新入社員の社員としてのレベルアップ程度としか考えておらず、専門家やスペシャリスト、一人前の社員や技術者に育てるのは、入社後の教育訓練、すなわち、OJTや経験だと考えていて、会社そのものが、プロフェショナル・スクールの役割を担っています。
   ところが、現在は、先輩が新人を丁寧に手取り足取りで教育訓練する余裕がなくて、OJTが劣化しているので、目も当てられないほど、下位者のプロが育っておりません。
   今や、OJTや徒弟奉公で教育訓練する悠長なことを言っているような時代でもありませんし、会社がプロの育成機関であることを止めざるを得ないのなら、高専など、あるいは、それより高度の専門学校の育成充実を図る以外に道はないと思っています。

   日本では、会計専攻の経営学部卒の新卒者を、営業や流通などと言った関係のない部署に何事も経験だと言って配属しますが、アメリカでは、一切そのような無駄は有り得ず、会計を専攻したMBAは、当然、会計に絡んだ仕事に就き、教育訓練を受けて磨いた技術知識最優先で、第一に、その資格経験がなければ、その仕事には就けません。
   欧米では、本来、大学は教養課程であって、どの学部を出ていてもプロ扱いはされず、プロフェショナル教育は、ビジネス・スクール、ロー・スクール、エンジニアリング・スクールなどと言った大学院のプロフェシャナル教育が担っているのです。
   日本では、企業の社員の殆どが大学が最終コースであり、プロとしては極めて不十分であり、専門教育は、入社後企業が担わなければならないので、非常に、非能率でもあり、前述したように、企業がプロ教育出来なければ、プロフェッショナル教育を充実させ、欧米流にプロを学校で教育訓練する以外にないのではと思います。
   大学院大学も、学者や研究者、教授などと言った学問や研究をさらに追及する分野の充実も勿論大切ですが、それ以外の大学院生は、将来殆どプロとして働くのでしょうから、中途半端な教育をせずに、欧米流に、特別な分野のプロフェシャナル教育訓練に集中した方が良いのではないかと思っております。

   
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高学歴軽視の日本と、必死に高等教育を推進するオバマ

2013年08月21日 | 政治・経済・社会
   この口絵のグラフは、ホワイトハウスから送られて来たメールマガジンの、President Barack Obamaからの「A personal mission」の「This is why it's time to make college more affordable」に添付されていたものである。

   1980年初頭からの30年間に、典型的な家族所得は、16%しか増えていないのに、4年制の公立大学の学費は、257%の増加、約3倍になっており、そして、奨学金や学費融資を受けた学生の卒業時の負債額が、26000ドル(260万円)にもなっていて、とてもじゃないが、このままでは、アメリカの若者たちの大学への門戸は、益々狭くなって行く。
   アメリカ人の庶民にとって、大学教育を、もっともっと、手の届く状態にすべく大胆な改革を実施する必要があり、特に、ミドルクラスの安全安寧のためには、大学教育を手軽に受けられるような状態にすることこそ、正に、かなめ石だと言うのである。

   同じ資料に添付されていたもう一つのグラフが、次の図である。
   
   上段から下段に行くにつれて、学歴水準が落ちて行き、左右の鉛筆は、左手の赤が失業率、右手の黄色が週当たりの所得額である。
   これを見れば分かるように、MBAやロースクール、メディカルスクール等プロフェッショナル・スクールを出た大学院卒が一番有利だが、学歴が下がるにつれて、失業率が高くなり、給与も下がって行く。
   いずれにしろ、現在、アメリカ経済が苦境にある大きな原因の一つは、中産階級ミドルクラスの没落で、この層を厚くするためには、大学教育を受ける機会をもっともっと与えて、生活水準をアップすることが必須だと、オバマ大統領は、考えているのである。

   最近、アメリカの若年層の教育水準が異常に低落して、新興国当たりの生徒たちとの比較でさえも後れを取り始めていることで、教育行政の悪化が喫緊の問題となっているのだが、ここで重要なことは、アメリカでは、学歴が上がれば上がるほど、就業機会が増して、待遇が向上することで、教育改革を実施して国民の教育水準を上げることが、経済成長と国家隆盛に即寄与すると言うことである。

   さて、私が、今回、議論したいのは、このアメリカの事情とは全く違っていて、日本では、大学院を出た博士や修士など高学歴の人材が真面に活躍できずに、生活さえ困窮している人が、非常に多いと言う現実である。
   日本の現状の経済社会での受け入れ待遇が極めて悪くて、博士課程を修了したポスドクの多くが定職がなくて生活に困窮したり、大学に残っていても非常勤であるために、待遇が劣悪であるばかりではなく、最貧層に近い給与水準で働かざるを得ず、そして、何時職を失うかもしれないと言う状態にあることである。

   これまで、この高学歴者に対する日本の劣悪な扱いについて、如何に国家的な損失であるかを、何度も論じて来たが、今回、池田信夫氏の「日本の大学は非常勤講師を使い捨てる「ブラック大学」」と言う記事を引用しながら、再度、問題点の深刻さについて論述し、警鐘を鳴らしたいと思っている。

   冒頭の記述によると、
   早稲田大学が今春から非常勤講師に適用した就業規則について、早大の非常勤講師15人が6月、早大総長や理事らを労働基準法違反で東京労働局に刑事告訴した。原告によると、非常勤講師は今年度から契約更新の上限を5年とする、と大学から一方的に通告されたということで、「早大はわれわれを5年で使い捨てるブラック大学だ」と批判しており、大阪大学も今年度から非常勤講師の契約期間の上限を5年とする規定を設け、これに対しても労働組合が告訴する動きがあり、これは一部の大学の問題ではないと言うのだが、4月から改正された労働契約法では、非正規労働者が5年を超えて勤めると、本人が希望すれば期間の定めのない「正社員」に転換しなければならないため、多くの企業で契約社員などを5年で雇い止めする動きが広がっている。と言うので、そのための非常勤雇用の恒久化であろうか。
   今まで事実上無期限に勤務してきた非常勤講師が多く、早大の場合は教員の6割、4000人が非常勤だというから、雇い止めの影響は大きく、ある非常勤講師の場合は、1週間に10コマ掛け持ちしても年収は300万円程度で、ボーナスも昇給もないので、50過ぎても生活は苦しい。と言うのだから、悲惨と言うほかにない。

   大学での非常勤講師であるから、少なくとも、大卒であり何か特別の資格保有者であろうし、多くは、大学院を出て博士号や修士号を持っているだろう。
   また、研究やR&Dに携わる多くの理系技術系のポスドクなど多くの人々の雇用条件も劣悪で、
   iPS細胞の山中伸弥京都大教授でさえも、京大研究所のスタッフの90%が、非正規職員であるために、有期雇用であって先の保障がなく、山中教授が、一番頭を痛めて奔走しているのは、スタッフの生活の安定とその保障だと言うのであるから、日本の大学や研究機関などが、如何に、高学歴の日本人を、悲惨な状況に追い詰めているかが良く分かる。
   また、一般企業や各組織団体などにしても、学位保有の高学歴者を、有効に雇用や活用ができないケースが多いので、益々、門戸が閉ざされてしまう。
   先に示したアメリカの雇用状況では、博士ないし修士の失業は、2~3%で、最も恵まれていて給与水準も高いのと比べてみると雲泥の差である。

   日本は学歴偏重ではなく民主的だと言う人がいるが、これは間違いで、出る釘を叩きながら、使い勝手の良いスペアパーツばかりを育成して産業化を進めて来たので、昔は、中高卒が金の卵で、今日は、大卒で十分であって、各界のトップに立つリーダーでも、殆ど大卒程度で、欧米のリーダーと伍して行けるような学位保有者は、殆ど居ず、その上、日本人の学歴が低い所為もあってリベラル・アーツの素養教養が不足するので、グローバル世界での活躍、交渉力は極めて低くて、存在感が薄い。
   それよりも、前述したように、折角、修士や博士の学位を得た有為の人材に、十分な活躍の場を提供できずに、飼い殺しにしているような、お粗末極まりない教育行政を行っておれば、早晩、国家は滅びてしまうと言う危機意識さえないことが実に悲しい。

   今や、クリエイティブ時代に突入して、卓越した知的創造者によるクリエイティブな価値創造が国家の命運を決すると言われるほど、優秀な高学歴者の熾烈な争奪戦が、グローバルベースで展開されているのだが、この意味でも、正に、日本は、ガラパゴス。
   優秀な日本の高学歴者の多くが、昔のインド工科大学の卒業生のように、日本を見限って、外国へ雄飛するかも知れない。

   これまで、何度も、日本の教育問題について、持論を展開して来たのだが、案外、日本企業に国際人材が育たないのも、あるいは、国際人材を採用して活用できないと言った国際化グローバル化の問題も、その根底には、前述した高学歴者を活用できない日本人のメンタリティにあるような気がしてしかたがない。
         
   
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本の再販制度は必要なのか

2013年08月19日 | 生活随想・趣味
   本や雑誌は、再販売価格維持制度(再販制度)が認められていて、出版社側が消費者に対する最終的な販売価格を決めることができる。
   自由市場経済では、通常は、商品を仕入れた小売店が、自由な価格でその商品を消費者に販売することができて、メーカー側が価格を決めて、その価格を小売店に守らせるなどと言う行為は、公正な競争を阻害するとして独占禁止法で禁止されている筈なのだが、書籍・雑誌、それに、新聞や音楽ソフトなどは、価格決定権は、メーカー側にある。

   この書籍などの再販制度については、これまでも、何度も反対論が出て、問題となっているのだが、今回は、アマゾンドットコムが学生向けに提供している10%のポイント還元システムに対して、出版社の業界団体である日本出版社協議会が、これは実質的な「値引き」にあたるとして中止するよう呼びかけたことによって、再燃している。
   書籍は文化的な商品であり、安値販売が実施されると、大量に売れる物しか流通しなくなって、良質な書籍が出版されなくなる心配があり、また、地方の書店では品揃えが貧弱になったり、多様な製品が製造されなくなる、などの弊害が出てくると出版業界側は主張している。
   著作物の多様性を維持し、文化の保護を図るためと言うのが趣旨だろうが、日本では、この「再販制」と、返本できると言う「委託制」という2つの特殊な販売制度によって、書店が、需要の多くない専門書等でも店頭に並べることができ、世界でも類をみない小部数で多様な書籍が刊行されると言う利点もある。(尤も、このロングテール現象は、アマゾンの登場で有名無実となってしまっているのだが。)

   さて、この再販制度が良いかどうかは、私自身良く分からないのだが、専門書などのヘビーユーザーとしての読書家の立場から、私見を述べてみたい。
   結論は、ドイツ以外は、欧米先進国では、再販制度などが殆ど現存せず、自由競争の市場原理に従って書籍が販売されていて、特に、アメリカやイギリスの方が、日本より、本の質が悪くて、良質な本が販売されていないなどと言うことはないので、再販制度に拘る必要はないのではないかと言うことである。
   現実に、私が読んでいる専門書の過半は、米欧の学者の原書や翻訳版であって、日本の学者の本の方が少ない。

   アメリカやイギリスでは、発売直後の新本やDVD,CDなどが20%くらいのディスカウントで販売されるのは当たり前だし、ブッククラブから購入すれば、はるかに定価より安いし、良い本が、いくらでも安く買える道がある。アマゾンのアメリカ版のHPを見れば、すべての本が、定価よりも、随分、安いことが分かる。
   リスト・プライス、定価などには拘っているように思えないし、良い本は売れる、悪い本は売れない、本を買う愛書家の質の問題であって、要は、価値ある本を受容維持し続ける読者がいるかどうか、その国の民度、知性教養の問題であると思っている。

   先日もこのブログで書いたのだが、日本では、経済や経営学の専門書に限って言えば、書店自身が、売れる本ばかりを平積や棚のディスプレーに並べて、本当に値打ちのある本は殆ど片隅に追いやられていると言うのが現状で、アマゾンの方が、はるかに、有用で役に立つ書籍を、殆どコストゼロの媒体インターネットを通じて、紹介し続けている。
   出版文化の質を維持するのは、勿論、出版社に第一の責務があるのであろうが、書店や読者にも、大きな責任がある筈で、要するに、その質を高めることが先で、再販制度維持の問題ではあり得ないと思う。

   それよりも、IT革命によって、アマゾンなどのe-ブックショップが、一般書店市場を蚕食し、電子ブックが快進撃するなど、出版市場が様変わりになって来ているし、青空文庫のように、インターネットで無料で読める本が出ており、これが、英語になると途轍もない質量の無料書籍がインターネットで読めるなど、グーテンベルグ以来の革命が、出版の世界を旋風に巻き込んでおり、将来どうなるかなどは全く見越せないし、再販制度など小事に過ぎなくなる。
   それに、その気になったら、素人が、いくらでも安く自由に自費出版出来るようになっており、私など、幸いなことに、このブログを、毎日、500人以上の方に読んで頂いており、本など出さなくても、非常に有難いことだと感謝している。

   再販制度のお蔭かどうかは分からないが、私の買う経済や経営や歴史の専門書などは、高いものは別として、大体、2000円から3000円くらいなので、決して高いとは思っていないし、内容の豊かさ質の高さから言っても、非常に、コストパーフォーマンスが高いと思っている。
   もう、半世紀近く前になるのだが、学生時代に、1500円のシュンペーターが買えなかったのを覚えているので、経済学書などの値段は、殆ど変わっていないようなものである。
   それに、今では、アメリカ版の方が、それよりも、もっと安くなっている。

   再販制度に、その責めがあるのか、あるいは、委託制度に問題があるのかどうかは分からないのだが、新本の70%以上が出版社に返却されて廃却処分になっていると言うことだが、この途轍もない無駄に、日本の出版文化の問題があるような気がしており、ある程度期限が過ぎた本は、再販制度の枠を外して、ディスカウント販売に切り替えても良いのではないかと思っている。
   昔は、電車の中で本を読む若者が多かったが、今では、殆どが携帯を操作しており、文字媒体を見ているにしても、じっくりと、価値ある書物に対峙しているように思えないので、益々、本を媒体とした活字文化が廃れて行く。
   質の高い活字文化を死守するために、どうすれば良いのか、大所高所から考えるべき時だと思っている。
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セルジュ・ラトゥーシュ著「<脱成長>は、世界を変えられるか?」

2013年08月18日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   「脱成長」を主張して経済成長や文明・社会発展のあり方について問い続けている仏の経済哲学者セルジュ・ラトゥーシュ氏の、脱成長文化・文明論が、この本。
   古くは、マルサス、新しいと言っても半世紀前のローマ・クラブの「成長の限界」などを筆頭に、一本調子の経済成長・経済社会発展論に対して、疑問を呈する学説や世論が、頻繁に出ているのだが、著者のラトゥーシュは、かなり、硬派の徹底した脱成長論者で、脱成長を倫理学の一潮流として確立しようと試みていると言う。

   前著「経済成長なき社会発展は可能か?」の出版時に、訪日した時のインタビューを見ていると、次のような発言をしている。
   「私が成長に反対するのは、いくら経済が成長しても人々を幸せにしないからだ。成長のための成長が目的化され、無駄な消費が強いられている。そのような成長は、それが続く限り、汚染やストレスを増やすだけだ。」
   「(貧困問題の)より本質的な解決策は、グローバル経済から離脱して地域社会の自立を導くことだ。『脱成長』は、成長への信仰にとらわれている社会を根本的に変えていくための、一つのスローガンだ。」
   「政治家たちは、資本主義に成長を、緊縮財政で人々に節約を求めるが、本来それは逆であるべきだ。資本主義はもっと節約をすべきだし、人々はもっと豊かに生きられる。我々の目指すのは、つましい、しかし幸福な社会だ。」
   「「持続可能な成長」は語義矛盾だ。地球が有限である以上、無限に成長を持続させることは生態学的に不可能だからだ。」
   

   この本の趣旨も、勿論、この思想展開に終始しているのだが、経済学と言うよりは、ギリシャ哲学や倫理学等々、内容に馴染みが薄い上に、前回にも記したように、フランス語の翻訳の所為か、とにかく、読んでいて分かり難い。
   前述の著者の言い分には特に異論はないし、脱成長と言う考え方には、即反対と言う訳ではなく、たとえば、地球温暖化などの環境悪化の問題や資源の枯渇などを考えても、宇宙船地球号に限界がある以上、真剣に考えるべき課題だと思うのだが、一気に原始時代の礼賛や知的遊戯が先行したような語り口に持ち込むような理論展開には、違和感を禁じ得ない。

   ノスタルジーを伴う未来への歩みとして捉えている帰郷(ホームカミング)にしても、エントロピアやメタノイアと言ったギリシャ語で説いたり、
   産業文明の発達とともに忘却され、あるいは、抑圧されてきた三つの領域――生物圏、非西洋文化の思想、地中海ヨーロッパの思想――に視線を投げかけることで、産業文明の構造的矛盾を明るみに出そうと試みているのだが、ボリビアやエクアドルなどラテンアメリカ先住民の社会運動に関する省察なども含めて、これらを、失われた過去の遺産であると同時に、未来において実現されるべき脱成長社会の源泉として捉えるなど、私には、飛躍があり過ぎて、正直なところ、フォローに苦しむ。

   
   著者は、今、国家債務危機で経済恐慌状態にある南ヨーロッパへの地中海的ユートピアへの思い入れがあるので、
   未曽有の技術力の発展によって、経済的な効率性は、絶対的な水準まで祭り上げられて道具的合理性の応用によって、大西洋世界が地中海世界に優位に立つことによって勝利した。この異常な効率性は、諸処の限界にぶち当たっており、西洋文明のテクノエコノミック・メガマシンは、節度のない壁にぶつかって砕け、気候変動、生物多様性の消滅、自然資源の枯渇、海洋生物の死滅、人間の作った病気の不気味な増加など、今日、人類の生存そのものを脅かしている。技術、効率性、合理性、市場経済主義万能の西洋文明が、人類を窮地に追い詰めてしまった。
   と言うのである。

   したがって、市場経済の帝国主義と、際限なき経済成長の節度を越えた倫理との根源的な断絶が必要で、技術官僚の腐敗と功利主義の残骸によって骨抜きになった民主主義の理念と倫理に戻らなければならない。
   必要なのは、新たに再生された理性、すなわち、伝統に立脚しながらもそれを超克し、そして、これまで近代文明が立脚してきた道具的合理性の伝統からも解放された新しい理性の成熟と普及である。と説くのだが、ある程度、理解できるとしても、
   その目指すべきモデルが、伝統の良質な再生を求めるメタノイアはともかくとしても、何故、サパティスタなどのラテン・アメリカであり、アフリカであり、アメリカ大陸の先住民たちの目覚めなのか。
   今日の近代文明を全否定して、ありもしなかったユートピアへの妄想をかき立てているような気がするのだが、第一、豊かな科学技術と物質文明に裏打ちされたグローバル経済を頂き、ここまで築き上げられた巨大かつ進歩(?)を極めた宇宙船地球号をどうするのか。

   GDPによって評価される経済力比較に疑問が提起され、「国民総幸福量 Gross National Happiness, GNH」などの幸福指数で、人間生活の幸せ度を評価しようと言う運動が起こっており、ブータンの動きが高く評価されている。
   この真実の幸福度を測定できるような経済指標が生まれ出ることを願ってはいるけれど、フラット化した世界では、何時まで、ブータンの幸福度指数がブータン国民を満足させ続け得るかさえ疑問だと思っている。
   幸せだと言うブータンは、一人当たりのGDPは2121ドルであり、世界平均と比較すると大幅に低い水準で、国際連合の基準によると、後発開発途上国に分類されている最貧国の一つなのである。

   結局、西洋近代文明下で成長街道を突っ走らざるを得なくなってしまった今日のグローバル経済は、既に、チッピングポイントを越えてしまったと言うのであるから、行き着くところまで行ってしまって、強制的に、壊滅的な転換点を迎えざるを得ないのではないかと思っている。
   例えば、私が子供の頃の世界人口は30億人、今や、70億人を越えてしまって、もうすぐ、100億人だと言うのだが、何時まで、地球のエコシステムを維持できるか、気の遠くなるような話である。

   いずれにしろ、著者の指摘や問題提起は、豊かな物質文明に満足しきった人々を覚醒させる意味はあり、非常に、インパクトは大きくて、傾聴に値するとは思うのだが、例えば、ラテンアメリカの歴史や把握の仕方などに、誤解や独善と偏見が垣間見えるなど、問題なしとはしない。
   私見だが、いくら素晴らしい卓見であっても、やはり、現実をしっかりと踏まえた上で、少なくとも、ブリッジ可能な理論展開であるべきであって、唐突もなく、飛躍遊離し過ぎたストーリー展開では、説得力に欠けるような気がしている。
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ポール・クルーグマン著「さっさと不況を終わらせろ」

2013年08月17日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   クルーグマンの本は、かなり読んでおり、ニューヨーク・タイムズのコラムも読み続けているので、スティグリッツと同じように卓越したケインズ派の経済学者の見解でもあり、ほぼ分かっているつもりで、一寸、読みそびれていたのだが、特に新鮮さは感じなかったものの、結構面白かった。

   アメリカなど多くの国を蝕む経済停滞は、5年も6年も経つが、この不況から脱するための知識も道具も、我々は持ち合わせており、昔ながらの経済学の原理(それも近年の出来事で有効性が確認された一方の原理:ケインズ経済学の原理)を適用することで、恐らくは2年以内で、概ね完全雇用に戻れる。
   回復を阻害しているのは、知的な明晰さと政治的な意思の欠如だ。事態を変えられるあらゆる人―専門の経済学者から政治家、懸念する市民まで―は、その欠如を補うためにあらゆる努力をして、今こそ、この不況を終わらせよう。
   これが、クルーグマンのこの本のタイトル End This Depression Now!の趣旨である。

   2008年に、我々は気が付くとケインズの世界に暮らしていた。ケインズが一般理論で著したのと同じ特徴を持つ需要が十分にない世界であって、共和党政治が、税の累進性の緩和、ごまかしによる貧困者救済の削減、公共教育の衰退、更に、既成のない金融システムが必ず問題を起こすと言う危険信号にも拘わらず政治システムが規制緩和と無規制に拘り過ぎて、アメリカ資本主義を窮地に追い込んでしまった。  
   翌年、オバマ大統領が就任して、経済的苦境を脱するために、「大胆で素早い行動」を約束して素早く行動を起こして、幸い経済の転落は避け得たが、大胆ではなかった上に、アメリカ史上最大の雇用創出プログラムである「アメリカ回復再投資法」も、巨大な需給ギャップを埋めるためには、悲しい程不十分であって、依然、ケインズの世界が続いていて、アメリカの経済回復は実現していない。
   赤字公債を増発してでも、公共工事などをどんどん実施して、現在の数倍規模のケインズ的な財政出動で巨大な需給ギャップを埋めるべきであり、FRBもそれを大胆な金融緩和で積極的に支援バックアップして、ドラスティックな経済対策を打てば、一気にアメリカ経済は浮揚する。
   負債で負債を治せないと言うのは、真赤な嘘で、第二次世界大戦の軍事支出が、不十分な需要問題を十分すぎる程解決し、アメリカ経済を大恐慌から救ったのみならず、その後のアメリカ経済の黄金期のスタートとなったではないか。と言うのである。

   さて、日本にとっては、人ごとではない問題の国家債務だが、第8章の「でも財政赤字はどうなるの?」で、アメリカのような国が現状で財政赤字から被る害と言うのは、殆どは仮想的なものでしかない。と切って捨てる。 
   残高の増加とは裏腹に、アメリカの国債の満期利率はどんどん下落して借り入れコストは減少していると指摘して、
   はるかに債務のGDP比率の高い日本を引き合いに出して、債務比率はどんどんアップし、日本国際の格付けが引き下げられたにも拘わらず、依然、国債金利は低くビクともしていないと言って、
   その答えは、自国通貨で借りるか外貨建てで借りるかが凄まじい差を齎しており、イギリス、アメリカ、日本はみんな、ポンド、ドル、円で借りているので、国債危機の心配はないと言うのである。
   それに、国家の負債が、インフレと経済成長の合計よりも伸び率が低ければ、負債が増え続けても、悲劇ではないし、問題にはならない。 
   負債の元金は、何時までも返済しないですむ。単に、利息分だけを払い続けて、負債の増大が経済の拡大よりも小さいようにすればよい。と言うのである。

   この国家債務の問題については、「ユーロの黄昏」の章でも言及しており、アメリカや日本のように、自国通貨で借り入れている場合には、デフォルトの心配が起これば、FRBや日銀は、お札を刷って政府債を買って支えるので心配はないが、スペインにしろイタリアにしろEU諸国は、ECBが買い支えるとは限らないのでデフォルトする可能性があると言う。
   ところで、これまで、私自身、日本国債の外人保有率が増しており、意図的かどうかは別にして、例えば、某国が日本国債を狼狽売りして、国債が暴落したり長期金利が高騰したりした時に、日本経済が壊滅的な打撃を受けるのではないかと心配していたのだが、果たして、クルーグマンの言うような解決策が、有効に作動して問題がないのであろうか。

   もう一つ、インフレの問題だが、これも、第9章「インフレ:見せかけの恐怖」において、不況の経済学を引いて、インフレ急上昇は、経済が停滞している限り、どう考えても起こり得ないので心配はないと説く。
   これも、日本を引き合いに出して、2000年以降、大規模な財政赤字と急速なお金の供給増大を停滞経済の中で続けて来たけれど、インフレ高騰どころか、デフレのままだと言う。
   流動性の罠に陥った経済では、絶対にインフレは起こる筈がなく、お金の印刷がインフレにつながるのは、高い支出と高い需要と言う景気の過熱による好景気を通じてであり、その例外であるスタグフレーションも、現下の経済情勢では起こり得ないと言う。

   ところで、ケインズ経済学の復権については、よく分かるのだが、昨日の伊藤誠教授のブックレビューでも言及したように、需要サイドは、経済の一面であって、たとえ、クルーグマンの説くように、ケインズ的財政出動で経済不況を克服したとしても、自動的に経済が成長軌道に乗ると言う保証はないので、もう一方の供給サイドの経済も考慮に入れなければならないと思っている。
   クルーグマンは、公共投資の拡大や、環境改善への投資などには言及しているのだが、経済の成長戦略については、全く言及していない。
   私には、まだ、良く分からないのだが、ケインズ経済学とシュンペーターの経済成長理論との総合のような経済学が、生まれてこないかと密かに思っている。
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伊藤誠著「日本経済はなぜ衰退したのか」

2013年08月16日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   「再生への道を探る」とサブタイトルがついていて、帯には、「アベノミクスでは、雇用と生活の不安は解消できない」と書かれていて、時宜を得たテーマでもあり、読んでみることにした。
   私より少し年配の、所謂、旧マル経学者(?)の日本経済論なので、一寸、私には違和感があったのだが、経済思想も、古典派、ケインズ派、マネタリスト、新自由主義派、再び、ケインズ派、と目まぐるしく展開していて、時代とともに変わっているので、マルクス経済学や社会主義経済学では、現今の日本経済、そして、グローバル経済を、どのように見ているのかに関しても、興味を感じたのである。
   京大は、他の大学の経済学部よりも、はるかに、マル経学者が多くて、近経の講座だけでは単位が取れなかったので、曲りなりにも、マル経の片鱗には触れているので、久しぶりに、昔のマルクス節を聞いた感じで懐かしい。

   著者は、冒頭の「はじめに」で、ほぼ次のように述べており、これが、論旨であろう。
   2009年の米日民主党への政権交代にしても、今回の日本の政権交代にしても、民意には、新自由主義的緊縮政策に対し、ケインズ主義ないし社会民主主義を選択し、経済再生、雇用と生活の安定に向けて、市場原理にゆだねるのではなく、国家にしっかりした責任とかじ取りを期待していると読めるところがある。
   とはいえ、安倍新政権は、1980年代以降の新自由主義的政策方針が日本経済の衰退に及ぼしてきた功罪を総括し、理論的にはこれと対極的なケインズ主義的政策方針に基本的立場を移して、アベノミクスをうちだしているとは思えない。この、2,30年間の自民党政権と同様に、新自由主義を基調としながら、あくまで「緊急経済対策」としてケインズ主義をを便宜的・局部的に利用するにとどまるであろう。
   この両者が不整合なまま、新自由主義を基調としつつ、混乱した経済政策が続けられてきたことが、日本経済を衰退させ、多くの人々に生活条件の劣化と将来不安をもたらした重要な要因になっているにも拘わらず、アベノミクスもその失敗をくりかえし、ことに、参議院選後には、緊縮政策と増税に反転する可能性は大きい。
   三本目の矢にあたる「成長戦略の内容にも、再生可能エネルギー技術の開発投資、グリーン・リカバリー戦略の重要性も、そこに十分組み込まれる公算は少なく、危惧がぬぐえない。脱原発へのロードマップが、すでにゼロベースでの見直しに反転されているからである。

   著者は、新自由主義やマネタリストへの拒否反応が強い反面、ケインズ派の経済政策はプロ社会主義として、殆ど容認しており、日米の民主党政権への移行に対しては、新自由主義から決別しようと試みた社会民主主義的な経済政策への反転になるだろうと、大いに期待していたので、これらが中途で挫折したのを残念がっており、結局、アベノミクスと言えども、少しずつ馬脚を現して、極論すれば、「羊頭を掲げて狗肉を売る」新自由主義への先祖返りになるのではないかと考えており、冒頭の帯の表現になったのであろう。

   さて、日本経済の衰退論だが、
   サブプライム関連や金融恐慌の被害から比較的軽微であった日本が、実体経済におけるマイナスは、欧米と比べて大きく、主要先進国のなかで、この世界恐慌の打撃を最も顕著にこうむったのは何故か。
   その謎を解く直接的鍵は、この世界恐慌に至る2002年以降の日本経済の(実態なき)景気回復の特徴にあると言う。
   アメリカの消費ブームと高度成長を続ける周辺アジア諸国への日本の輸出の増大、そして、超低金利を利用する対外資金流出による円安が更に輸出促進効果を発揮して、日本の主要企業は、収益を大きく伸ばしたのだが、企業収益の伸びを全く賃金所得の増大に還元せず、むしろ、逆に賃金水準を抑制し、削減し続けたので、これが国内消費需要の停滞をもたらした。更に、他力本願で、輸出需要の増大に依拠していた日本経済の脆弱性を露呈し、輸出需要が急減するとともに、企業収益の反転・下落、雇用の収縮、就職難の深化、更に生活不安の増大などを介して国内消費需要の収縮を招き、2009年には先進国中最悪の経済成長の下落を見た。

   もう一つの著者の指摘は、1973年以降の変動相場制にによる円高が、日本の輸出産業に、コストダウンを迫る重圧をかけ続けたこと、そして、企業に求められた生き残りをかけた過酷な「合理化」努力が、IT化、円高による海外からの原料・資源や部品調達の低廉化、海外拠点の拡大などの反復などとともに、労働条件の切り下げを強いて来た結果、貿易黒字基調を支え続けることが出来たのだと言う。
   更に、これらの合理化努力に加えて、安価に動員可能な産業予備軍の大規模な再形成が、様々な側面から進展し、女性の労働市場への大量動員、すなわち、日本資本主義における労働の女性化が雇用調整の容易な非正規雇用を促進して、男性の雇用形態も、更に非正規雇用の増大を招き、労働条件を不安定化させ、多くの労働者に低賃金を強いる要因ともなっていると指摘する。

   経済危機と再編のなかで、日本経済社会は、競争的な市場原理主義の効率性を強調しつつ、IT化や合理化による生産性の向上の成果を多くの働く人には均霑せず、企業中心社会の秩序を強化し、富者に優しく貧者に厳しい税制を取るなど、社会規制や所得再分配政策から解き放たれた資本主義に、貧富の格差拡大を容認し助長して、生活保護受給者やワーキングプアをどんどん輩出し、生活保護水準以下の貧困所帯が、全体の22.3%も存在すると言う、主要諸国中アメリカに次ぐ第二位の貧困大国に貶めてしまった。
   自民党が推し進めてきた、労働力商品化にもとづく新自由主義的資本主義が、働く人々を搾取して窮乏化に追い込み、経済成長の根幹たる国民の消費需要の増大を削いできたのであるから、日本経済が衰退するのは当たり前だと言う訳である。
   しかし、企業にとっては、過剰債務、過剰設備、過剰人員状態を必死になって解消しなければ、IT化とグローバリゼーションの進展による激烈極まりない過酷な国際競争に抗しきれず、一たまりもなく駆逐されてしまうと言った危機意識が、日本中に蔓延していた事実も見逃し得ないであろうと思う。

   著者は、日本経済再生のために、21世紀型社会主義を提唱する。
   まず、歴史的な文脈の中で、広く新自由主義に対抗する代替的経済戦略として位置付けることが大切で、
   資本主義の仕組みのなかで、労働組合を主要な推進母体として、国家による社会保障や福祉政策による所得分配政策に期待を寄せ、経済生活の安定化と平等化を求めてきた20世紀型社会主義の基盤や特徴を大切に継承し、同時にに、新しい潮流に合致した態勢の構築が必須で、推進母体も、労働組合に止まらず、地域コミュニティに根差した各種の協同組合、NPO,NGOなどの相互扶助的連帯運動にも基盤を置くことも大切である。と言う。
   日本経済の再生のためにとして、
   グリーン・リカバリー戦略
   ベーシック・インカム構想
   地域通貨の理念と実践 を説いている。

  
   日本経済の衰退論の労働者窮乏説や日本経済再生論については、ある程度著者の説には納得が行くが、日本経済が何故衰退したのかについては、伊藤説は、一つの例ではあるが、これまで、このブログで展開してきたように、他にも多くの重要な要件があると思う。
   例えば、何故、日本企業の国際競争力が落ちたのか、あるいは、何故、日本の政治経済社会が、グローバリゼーションの潮流に乗れなかったのかと言ったテーマもその一例だが、もう少し、ギボンやトインビーばりとは行かないまでも、文化文明論的、あるいは、歴史的視点を動員するなど、幅と奥行きを深めて分析しないと、日本経済の衰退原因は見えてこないと思っている。
   この本で、随所に展開されているマルクス論も興味深いが、逆に、労働の商品化や需要サイドばかりではなく、経済を成長させる原動力は供給サイドの企業であるのだから、イノベーションの方面からミクロの企業論や産業論を展開すれば、衰退論がどうなるか、もっと本質的であり、面白いのではないかと思っている。
   いずれにしろ、労働分配率の低下などによる国民生活の窮乏化による有効需要の大幅ダウンを強調して、新自由主義を糾弾するだけでは、説得力に欠けるのではないであろうか。 
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国立演芸場・・・中席・歌丸の圓朝「真景累ヶ淵」

2013年08月15日 | 落語・講談等演芸
   お盆の最中、東京で私用があったので、出かけたのだが、午後が空いていたので、久しぶりに、国立演芸場に出かけて、落語を聞いた。
   トリの歌丸は、三遊亭圓朝の「真景累ヶ淵/湯灌場から聖天山まで」第六話を語った。
   明日から、「お熊の懺悔」最終話だが、11日から20日までの中席のチケットは、連日、満員御礼でソールドアウトなので、聞けない。
   先日、国立劇場に電話を架けて、チケットが残っていたのは、このお盆の15日だけだったので、幸いに、今日だけ聞けたと言う訳である。

   今日の「湯灌場から聖天山まで」の話は、概略次の通り。
   名主の惣右衛門の愛人のお賤が、邪魔なので、相変わらず関係が続いている新吉を誘って、惣右衛門を扼殺してしまう。
   湯灌を依頼された新吉だが、やり方を知らないので、困っていると、兄貴分の甚蔵が助けてくれたのだが、惣右衛門の死体の首に2本紫色の筋が残っているのに気付いて、追求された新吉が、お賤と二人で扼殺したことを白状する。
   これを知った甚蔵は、博打に負けてすっからかんになったので、これをネタにお賤に金の無心をする。
   困ったお賤に唆されて、新吉は、惣右衛門からお賤が貰った200両を聖天山に埋めたと偽り、甚蔵と2人で金を掘りに行くのだが、隙を見て甚蔵を崖から突き落とす。
   谷底に落ちて死んだ筈の手負いの甚蔵が、お賤の家に乗り込んで来て、新吉に襲いかかるのだが、すんでのところで、銃声が響いて甚蔵が倒れる。
   さあ、誰が殺したのか、と言って、歌丸の話は終わるのだが、  
   お賤が鉄砲で射殺してしまうと言うことのようである。

   落語の録音や録画が、結構、YouTubeに出ていて、同じ部分だが、林家正蔵(八代目)の語りで『真景塁ヶ淵』 聖天山突き落とし」が聞けるのだが、語り口や話術に大分違いがあって面白い。
   正藏の方は、やはり、噺家の語りと言った風で、多少砕けてリラックスした感じだが、歌丸の方は、非常に正統派的な丁寧な語り口で、楷書の話と言った感じで分かり易い。
   歌丸の落語は、何度か聞いているのだが、圓朝噺ばかりなので、オチのある面白い噺は聞いたことがない。
 
   面白かったのは、甚蔵が悪い奴だと言って、どんなに悪い奴かと言って円楽の名前を上げていた。
   落語では、枕に、結構、同僚や師匠の逸話や私生活などを茶化したり暴露したりして、客を笑わせるケースが多いのだが、聞いていて非常に面白い。

   この日、中入り後の最初に語った三遊亭遊雀が、枕に、歌丸と山口へ行って、お坊さんたち1500人を前にして落語を語った時の話をした。
   終演後に、空港へのタクシーに乗った歌丸の車に向かって、見送りのお坊さんたちが整列して合掌したので、それを見て悪乗りした運転手がブオーと警笛を鳴らした、歌丸の生前葬を見たのは自分だけだと語って、客を笑わせていた。

   この遊雀の話は、「堪忍袋」。
   ところが、インターネットに出て来る落語「堪忍袋」の話やYouTubeで噺家が語っている話のバージョンが違っていて、全く内容が違う。
   一般的な「堪忍袋」は、
   長屋に住む大工の熊五郎夫婦は「出てけッ、蹴殺すぞ」とけんかが絶えず修羅場の連続。出入りの旦那が、昔、唐土のある人が、腹が立つと家の大瓶にみんなぶちまけて蓋をすると、人前ではいつも笑い顔しか見せなくなったと話したので、瓶の代わりに、
おかみさんが袋を一つ縫って、それを堪忍袋とし、お互いに不満を袋にどなり込んで、ひもをしっかりしめておき、夫婦円満を図れたと言う話。

    しかし、遊雀の話は、同じく派手な夫婦喧嘩なのだが、「梅干しに飽きたから、沢庵にしてくれ」と言う喧嘩なのだが、当然至極ながらも、その喧嘩に至った両人の言い分が、非常にユニークで面白い。
   他愛無いことで火がつく庶民の喧嘩ながら、大の男が、小道具の手拭いを口に当てて身をもがきながら、馴れ初めにまで遡って罵倒し合う激しさバカバカしさが、ほろりと来る。
   この遊雀の「堪忍袋」は、googleで検索すれば、YouTubeで、有馬温泉での録画が出て来るので、殆ど同じなので、聞いて頂けばよく分かるのだが、非常に、メリハリの利いた愉快な語り口が秀逸で、関西人の客の筈だが、江戸落語を聞いて、テンポの良さと心地よいリズム感に笑い声を連発している。

   開演時間に遅れて行ったので、始めの方は聞けなかったが、桂小南治、雷門助六の落語も面白かった。
   私も、まだ、江戸落語は、初歩だと思っていたが、最近では、同じ、噺を聞くことが多くなってきた。
   関西の漫才の印象が強すぎるのか、漫談、漫才、音曲などもあったが、残念ながら、いまだに、すんなりと楽しめない。


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トマト・プランター栽培記録2013(15)トマトほぼ終わる

2013年08月13日 | トマト・プランター栽培記録2013
   連日の猛暑で、ほぼ、プランタートマトも、枯れたり徒長枝が伸びるだけで、実も貧弱に成って来た。
   昨年は、猛暑で花が咲けれど結実しない状態になったので、栽培を止めたのだが、今年も、実が成っても、種類によっては、初期のように真面な実が少なくなって来たので、それ以上の栽培を、止めることにした。
   年によって、トマトの栽培環境は変わっていて、以前には、10月の初旬まで、トマトを収穫できるような時期もあったが、最近のような猛暑が続くと無理である。

   結局、15本植えたイタリアン・トマトは、ローマとマリアンデ以外は、花が咲いて、歪な実がいくらかなったが、雑草に終わってしまった。
   来年には、サントリーなど、はっきり品質の安定した苗を買って植えようと思う。
   
    

   日本のトマトについては、サカタのアイコも、デルモンテのフルーツルビーEXもレッドオーレ等も、それなりの実が成って収穫できたので、ほぼ満足であり、タキイの桃太郎ゴールドも、尻腐れ病で苦労したので、収穫量は少なかったが、期待通りであった。
   タキイの虹トマトシリーズは、良いのもあり悪いのもあってまずまずだったが、来年からは、安定した定番のトマトだけを栽培したいと思っている。
   まだ、収穫できそうなトマト苗だけを残して、今年は、これで、トマトのプラント栽培を終えたいと思っている。
   
   
    
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宮崎駿映画「風立ちぬ」

2013年08月11日 | 映画
   ゼロ戦を開発した堀越二郎を主人公にした宮崎駿の映画で、イタリアのカプローニとの時空を超えた友愛と戦闘機の開発秘話、そして、堀辰雄の小説「風立ちぬ」「菜穂子」を下敷きにした結核に侵された薄幸の少女菜穂子との美しくも儚い愛を描いた、非常に爽やかな物語である。
   関東大震災で壊滅的な打撃を受け、不景気に喘ぐ暗い日本の世相を描きながら、少しずつ第二次世界大戦への足音が忍び寄る束の間の平安な日本の社会をバックにしながらも、軽井沢の高級ホテルやかなり恵まれた人々の生活や、飛行機に思い入れて限りなき夢を抱いた二人の航空機エンジニアの国境を越えた架空の楽しい夢への語らいなどが挿話として描かれているので、決して暗い映画ではない。

   飛行機については、イタリアの三翼機などユニークな航空機を開発したイタリアのジャンニ・カプローニ伯爵との飛行機への夢のある語らいと、二郎が技術研修に出かけたドイツの戦闘機製造会社のユンカース航空機製作との大きな技術の開き等興味深い話なども含めて、当時の三菱重工の戦闘機開発の内情などが語られていて、非常に興味深かった。

   飛んでいる飛行機が殆ど爆撃機のシーンをバックに、戦争のため敵の町を爆撃に行くが半分も戻ってこないそうだと言いながら、カプローニは、「私は飛行機を造る人間・設計家だ!いいかね日本の少年よ。飛行機は戦争の道具でも商売の手立てでもなく、それ自体が美しい夢なのだ。設計家は夢にカタチを与えるのだ!」と語るシーンがあり、この夢を見て二郎は設計家になる決心をする。
   心ならずも、会心の作ゼロ戦が若き有為の多くの日本の宝を特攻の道具と化してしまった堀越二郎の苦痛と慙愧、無類の兵器マニアでありながら強烈な反戦思想の宮崎駿の矛盾した心の錯綜が、ダブル・イメージで滲み出たシーンである。

   ドイツからも航空機製造技術が20年も遅れていた日本だったが、堀越二郎が設計したゼロ戦は、第二次世界大戦当初は、世界屈指の最高峰の戦闘機であった。
   Wikipediaでは、「Mitsubishi A6M Zero」は、When it was introduced early in World War II, the Zero was considered the most capable carrier-based fighter in the world, combining excellent maneuverability and very long range.In early combat operations, the Zero gained a legendary reputation as a dogfighter, achieving the outstanding kill ratio of 12 to 1,・・・と記されている。
   大戦後半には、交戦国の戦闘機も向上しており、日本の敗色濃厚になってからは、神風特攻隊用の戦闘機として1800機以上が敵船をめがけて突撃して、一機として帰って来なかった。

   この映画のラストシーンで、カプローニとの夢の対話で、ゼロ戦が空を舞う。
   カプローニは問う「君の10年はどうだったかね?」
「力は尽くしました…終わりはズタズタでしたが」「国を滅ぼしたんだからなぁ…」
   その時、草原の向こうから美しい飛行機の編隊が通り抜ける「あれかね…君のゼロは」 パイロットたちが次々に敬礼していく。白い機体が空を覆い尽くす。
カプローニ「美しい。いい仕事だ」二郎「一機も戻ってきませんでした…」

   
   この映画で最も美しい物語は、やはり、菜穂子との儚くも消えて行った束の間の愛情物語であろう。
   堀辰雄の「風立ちぬ」と「菜穂子」の着想やイメージ、物語が、この映画の各所に鏤められていて、美しいストーリーになっている。
   この映画では、二郎と菜穂子の最初の出会いは、列車の移動中に風に飛ばされた二郎の帽子を菜穂子がキャッチするのだが、その後、関東大震災が起こって、二郎が、傷ついた女中お絹を背負って、震災後の大混乱の人ごみをかき分けて、菜穂子を上野の実家へ送ると言うシーンである。
   堀辰雄の「風立ちぬ」の方は、この映画の再会シーンである高原で彼女がキャンバスを立てて風景画を描いているところから始まっていて、彼が結核治療のためにサナトリウムでの療養に付き合って小説を書きながら、貴重な時間を噛みしめながら生きると言う話である。
   中学生の頃、文通していた可愛い文学少女が、堀直子のペンネームで、小説を書いていたのを思い出した。

   この映画のテーマとも言うべき、ポール・ヴァレリーの詩の一節「風立ちぬ、いざ生きめやも」は、映画では、帽子を受け取った二郎が菜穂子にお礼を言うと、菜穂子がこの言葉を言うのだが、この小説では、冒頭の高原でのデートの最中に風が吹いたので、彼が口走るので、ニュアンスが大分違うのだが、宮崎駿の場合には、この言葉が、二人の人生に二重に膨らみを見せていて味わい深い。
   風が吹いて来た、雄々しく生き抜こうと言う、困難な時代や境遇であればこその、宮崎駿の雄叫びとエールであろうか。

   ところで、小説の彼女は節子であって、菜穂子ではないが、堀辰雄の小説「菜穂子」にも療養中の菜穂子が、サナトリウムを抜け出して夫に会いに行くと言う場面があって、この映画でも最も感動的な場面で使われているので、ここから、菜穂子と言うヒロインの名前を借用したのであろう。
   サナトリウムから一直線、名古屋駅のホームに入ってくる列車。行き交う人波をかき分け、ふたりはお互いの姿を探して見つけると、必死に抱き合う。二郎は「帰らないで…ここでふたりで暮らそう」。感動的な再会である。
   「菜穂子」には、幼馴染で建築設計家の都築明が登場し、サナトリウムで菜穂子との交歓もあるので、この映画で、宮崎駿は、「風立ちぬ」と「菜穂子」の両方から、想を得ている感じだが、はるかに、ロマンチックだ。

   私は、特に堀辰雄のファンでもないのだが、宮崎駿は、堀辰雄の話から、素晴らしい菜穂子像を紡ぎ出していて感動ものである。
   菜穂子の見舞いに、「ナオコ カッケツ」との電報を受け取って、東京へ駆けつけて、玄関からではなく庭から直接に駆け込んで菜穂子を抱きしめて接吻すると言うシーンも、同じ庭からの小説以上に非常に劇的だし、サナトリウムを抜け出す場面も、二郎と束の間の結婚生活を送りたいためにサナトリウムを飛び出して二郎の元に赴いて結婚して、二郎がゼロ戦の原型となる「九試」の制作が完成してテスト飛行の朝に、「今朝は気分が良いのでちょっと散歩してきます」と永遠の別れを告げて、一人サナトリウムへ帰って行くシーンは実に感動的である。
   女医として見舞いに来た義妹が、置手紙を見て号泣して後を追おうとすると、家主の黒川夫人が、止める。黒川夫人「美しいところだけ、好きな人に見てもらったのね…」

   たった二人の黒川夫妻の媒酌による結婚式も感動的だが、
   二郎は、今日は疲れただろうからゆっくりお休み、と気づかう。しかし、菜穂子は「…きて」と床に誘う 灯りが消える。と言う初夜
   二郎は、菜穂子にせがまれ、左手を病床の菜穂子とつないだままで図面を引く。菜穂子「仕事している次郎さんを見るのが一番好き…」

   実際の堀越二郎の奥方は、この菜穂子とは違っていたようだが、堀越二郎と全く同年代で時代の潮流に翻弄されながらも次代の息吹を敏感に感じながら生きていた堀辰雄のイメージした世界とダブらせて、当時のインテリの心の葛藤を描きながら、宮崎駿は、今の日本を考え直そうと示唆したのではなかろうか。

   色々書きたいことがあるが、切りがない。
   私は、イノベーションを学び続けているので、カプローニが次郎に示唆する「創造的人生の持ち時間は10年だ…君の10年を、力を尽くして生きなさい」と言う言葉に感銘を受けたのだが、今回は、これで筆を置く。

   とにかく、花嫁衣装でもなく質素だが、髪には一輪の花が飾られた菜穂子の花嫁姿を見て、二郎が「美しいよ」と応えるのだが、その姿の美しさ崇高さ初々しさは、涙がこぼれる程素晴らしく、最初から最後まで、磨きに磨かれ、推敲に推敲を重ねられた画面の美しさとストーリー展開の感動は秀逸もので、良い映画を魅せて貰ったと感謝している。

   最後に、数年前に、私がワシントンのスミソニアンで撮ったゼロ戦の写真を載せておきたい。
   
   
   

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「国の借金」、初の1000兆円突破

2013年08月10日 | 政治・経済・社会
    昨日のTV放送から、今日の新聞朝刊で、”国の借金、初の1000兆円突破”のニュースが踊っている。
   国家債務が、どこまでを含むのかは別として、GDPの二倍、1000兆円の数字は、既に、何年も前から喧伝されているので、特に驚きをもって国民には受け取られていないようだが、実に、恐ろしいことなのである。

   日経によると、
   ”国債や借入金、政府短期証券を合わせた「国の借金」の残高が2013年6月末時点で1008兆6281億円になったと発表した。1000兆円を突破したのは初めて。前年同月末に比べて32兆4428億円増えた。
   公的な債務残高には国と地方を合計するなど複数の指標があるが、これは国の債務を長期国債以外も含めて幅広くとらえたもの。
   政府は2015年度までに国と地方の基礎的財政収支(プライマリーバランス)の名目国内総生産(GDP)比でみた赤字を半減する目標を掲げている。だが消費増税を含め、仮に計画通りに財政健全化を進めても債務膨張には歯止めがかからない。国の借金もさらに膨らみそうだ。”と言う。

   政府の試算では、消費税率を14年4月に8%、15年10月に10%に上げ、消費者物価が2%前後で上昇すると仮定して、2%の名目経済成長率を実現しても、15年度の赤字は3,5%、20年度は3.2%で、財政再建目標は達成できないと言う。
   消費税を上げるかどうかが争点になっている状態で、その上に、2%の消費者物価上昇、2%の経済成長そのものさえ危ない経済状態を考えれば、まず、永遠にプライマリーバランスをゼロにするなど無理な話なのである。
   しからば、ほっておけば日本経済は奈落の底に一直線であるから、最後の切り札は、増税以外になく、これまで、政府が花見酒の経済に浮かれて飲みつくした借金を、国民全体から等しく拠出願って、埋め合わせる以外に道はない。
   それを知り過ぎているので、財務省が、IMFの口を借りて(?)消費税15%を唱えるのも無理からぬ話である。
   税制度が異なるので、一概には言えないが、EU諸国のように、ある程度社会福利厚生を厚くして、消費税に近いVATを20%以上と言うような高率税制を課すか、アメリカのように国民の社会福祉を切りに切って、消費税(地方税のため州により消費税率は異なるが3%~10%(+郡税など)で食料や医薬品には掛からない州が殆ど)を日本並程度に維持するかであろうが、経済が成熟しきって停滞気味の今に至っては、大改革を望めないのが悲しい。

   増税、それも、消費税の増税以外に道がないと言う大方の見方だが、今や、日本では、ジニ係数が悪化して貧富の格差が拡大して、貧困層がどんどん増えていると言う。
   ”年収300万円なら十分“勝ち組”に?給料の「無限デフレスパイラル」が始まった ”
   ”貧困層が倍増! 「年収120万円時代」がやってくる 非正社員率が4割を突破! 貧困率もトルコ、アイルランドに次ぐ第5位だ”
   と言った不気味なな記事が、経済誌に展開されている。

   以前に、100円ショップの警備報道で、ソーセージなどの食品を万引きして、警察へ連行されて行く老人の姿や、100円ショップや安い外食があるからどうにか食いつないで行けるのだと語る老女の姿などを、TVで放映されているのを見た。
   このような無年金であったり年金が減らされて行く貧しい老人たち、そして、森永卓郎氏の指摘する「小泉改革で年収120万円以下の親子フリーターが増加」と言った最貧層の人々が、
   政府が、日本の経済再生のためにと勝ち誇ったように唱え続ける2%のインフレ、そして、5%の消費税増税、合わせて7%も物価が上昇する中で、どう、生き抜けと言うのであろうか。

   国家財政が、間違いなしに、一直線に奈落の底へ突っ走っており、経済格差がどんどん拡大して貧困層の人たちの生活が危機的な状態にある日本。
   しかし、均質化されて文化水準や生活水準がかなり高くて波風の立たない日本は、如何にも平安無時であるが、「茹でガエル」のような気がして仕方がない。
   内閣府の「国民生活に関する世論調査」では、生活全体について「満足している」は昨年の前回調査に比べて3.7ポイント増の71%で、7割を超えるのは1995年以来で「不満」は4.4ポイント減の27.6%だった。と言っているが、たとえ、そうであっても、ことの重大さ深刻さを絶対に忘れるべきではない。

   私は、随分、世界中をあっちこっち歩いて来たが、日本ほど美しくて素晴らしい国はないと思っている。
   自分が生きている間は、日本経済の凋落と無様な姿を見たくないと同僚が言っていたが、私も、この美しい日本が、どんどん苦境に陥って、折角先人たちが営々と築きあげてくれた美しい文化や公序良俗、そして、美しい国土が、どんどん失われて行くのを絶対に見たくないと思っている。
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