熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

台頭するブラジル(仮題 BRAZIL ON THE RISE)(16) 燃えるエネルギー その1

2011年09月30日 | BRIC’sの大国:ブラジル
   「神は、ブラジル人だ。」自分たちの国土を顧みて、恵み豊かな膨大な自然資源に感激して、ブラジル人が、好んで、口にするのは、この言葉だと言う。神がブラジル人でなければ、こんなに、大盤振る舞いをしてくれる筈がないと言うことであろうか。
   この無尽蔵のエネルギー資源にバックアップされて、ルーラ前大統領は、21世紀には、「ブラジルは、世界第5のワールド・パワー」だと豪語した。米国、EU,中国、インドで、日本など、更々、眼中にはない。
   いずれにしろ、石油に泣いたブラジルが、2006年には、エネルギー自給自足経済を達成したのである。
   

   今や、ブラジルは、巨大な海底油田の開発後は、エネルギー資源の輸出国に変貌しているが、それも、これも、すべて、きっかけは、1970年代の石油危機に始まる。
   私は、1970年代の後半、ブラジルに居たので、ブラジルの奇跡を謳歌して爆発的なブラジル・ブームを展開していた経済が、石油危機のために一挙にダウンした惨めな姿を知っているので、正に、今昔の感である。

   石油価格の高騰に大打撃を受けたブラジルは、幸いにも、広大な国土に栽培していたサトウキビを転用してエタノールを開発し、アマゾン川など世界最大の水資源を誇る3大巨大河川を活用して、水力発電に注力して、エネルギー不足に対処した。
   最も安くていくらでも増産できる再生エネルギーであるエタノールは、恰好のガソリン代替で、1990年代初めに、ブラジルを訪れた時には、アルコール車のタクシーが走っていて乗ってみたが、変った感じはなかった。
   石油、エタノール、水力発電のみならず、太陽光、風力など再生エネルギーを生み出すための余力は、世界屈指の豊かさで、ブラジルのエネルギー資源は、すべては、開発次第ということである。

   1953年に創設された国営石油会社ペトロブラスは、イラクやリビアに石油資源を求めたが、1980年代に、リオ沖のCampos Basinに巨大な油田を発見して以降は、国内油田の掘削生産に力を入れ、独自開発で得た海底油田開発技術を磨き上げ、TUPIでの深海油田開発に活用するなど、5~7000メートルと言う深海の膨大な埋蔵量を誇るプレサル油田への期待が高まっている。
   今後のブラジルのエネルギー開発については、経済的な歪みを引き起こさず、環境を破壊せずに、如何にして、この豊かな資源開発を管理運営して行くかであろうが、特に、2010年メキシコ湾原油流出事故(Deepwater Horizon oil spill)のような壊滅的な事故を起こさないためにも、プレサル開発の帰趨が注目されている。
   ローターは、一部の政治家が、水力やエタノール開発に走った時期に、環境や社会インフラなどを軽視した様に、かっての中東やヴェネズエラやインドネシアに似た、このタナボタ式のエネルギー資源景気に浮かれている傾向を危惧して、この膨大なエネルギー資源の開発には、ブラジルには欠けている厳格な規律と長期的ビジョンが、必須だと強調している。

   ところで、ブラジルは、石油やガス開発で、発見や開発が遅れたために、ラテンアメリカの資源大国メキシコやヴェネズエラから、大きく遅れを取っている。
   これまで、20年間、メキシコやヴェネズエラは、膨大な資源を開発して巨額の外貨を稼いで来たのだが、これが、ブラジルのエネルギー世界大国への成長と発展を妨げるのではないかと考えられてきた。
   しかし、これらの国々の資源の枯渇が始まっており、今後のエネルギー資源価格の高騰を考えれば、プレサル深海油田の開発が進めば、この10年くらいの間に、世界でもトップ5の石油産出国となるブラジルにとっては、むしろ、後発としての残り福を享受できるのではないかと言うことである。
   既に、ヴェネズエラの背中が見えており、凌駕するのは時間の問題だと言う。

   ガスについては、国産では不足なので、ボリビアの合弁現地法人から、大変な長距離のパイプラインで輸入しているのだが、2006年、エボ・モラレスボリビア大統領がボリビア国内の石油の国有化を発表し、ボリビア陸軍に油田の接収を命じてから、ボリビアとトラブルが発生して、不安定要因が出て来たので、ペトロブラスも拡大投資を控えている。
   そのために、ブラジルは、TUPIなどのサブ・サル鉱床の開発など、国内開発に力を入れていると言う。
   
   エタノール開発や環境問題などについては、次の回に譲ることとする。
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バイエルン国立歌劇場・・・「ローエングリン」

2011年09月28日 | クラシック音楽・オペラ
   私としては、久しぶりのオペラだが、やはり、バイエルン歌劇場のワーグナーを聞きたかった。 
   ミュンヘンは、ワーグナーに傾倒して「ノイシュヴァンシュタイン城」のなかに、楽劇の舞台をそのまま創ってしまったルートウィッヒⅡ世の地でもあり、それに、バイエルン国立歌劇場のホーム・ページには、「19世紀中葉の大革命高揚時に、ワーグナーは、「ローエングリン」を書いて、初めて、オーケストラを、ミステリアル・ファクターとしてと同時に、全ドラマのアクションをドライブするエンジンとして出現させた。」と書いてあったが、正に、バイエルンの限りなく高揚した重厚でダイナミックな、そして、悠揚迫らぬ壮大なオーケストラ・サウンドは、圧倒的であった。

   私が最初に聞いたワーグナーは、大阪フェスティバル・ホールでのバイロイトの「トリスタンとイゾルデ」だが、その後、すぐに、大阪万博に来たドイツ・ベルリン歌劇場の「ローエングリン」を聞いて、ピラール・ローレンガ―の清楚で美しいエルザに感激してしまった。
   その後、ロンドンにいた時には、ハイティンクが、殆どワーグナー作品をロイヤル・オペラで振って聞いているので、一度だけ、「ローエングリン」を聞く機会があった。
    ドミンゴが、ワーグナーでもこのオペラは、リエンチと共に最もイタリア的なオペラで、ヴェルディのメロディになっている所もあると言うくらい美しいパートが多く、今回のオペラでも感動的な熱唱を楽しむことが出来た。

   このオペラは、概略、次の通り。
   ブラバント公国の王位継承問題で、後継の王子が失踪したので、空位状態で混乱しているのだが、弟殺しの疑いのある姉のエルザを差し置いて、テルラムント伯とその妻オルトルートが、東方遠征軍を募りに来たドイツ王ハインリッヒに後継者にして欲しいと頼む。
   王は、裁判を開いてエルザを召し出すが、自分が夢で見た騎士に決闘で自分の潔白を証明してもらいたいと願う。
   祈り適って、白鳥の曳く小舟に乗った騎士が現れ、テルラムントと決闘して倒すが、改心するのならと命を助ける。
   騎士は、結婚するためには、エルザが、自分の名と素性を問わないことを誓わせる。
   追放された筈のテルラムントとオルトルートは、あらゆる機会を使って、騎士の素性を問い詰め、エルザに不安を煽ってて名前を聞き出すよう画策するのだが、オルトルートが、教会に向かうエルザを遮って、騎士の素性の知れぬことを非難する。
   結婚を祝う人々の祝福を受けて初夜の寝室に入り、喜びに浸る二人だが、エルザの心に、少しずつ不安が過ぎり始めて、とうとう、禁断の問いを発する。
   出陣の勢揃いをした人々と王の前で、騎士は、聖杯王パルジファルの息子ローエングリンであることを告げて、自分の名と素性を明かした以上、グラールの聖杯を守るモンサルバート城へ帰らざるを得ないのだと言って、去って行く。

   王子ゴットフリートが、オルトルートの魔法にかけられて、騎士を先導する白鳥に変えられていると言う設定で、当時の白鳥伝説を取り込み、キリスト教の一連の聖杯伝説をミックスした、如何にもワーグナー好みのドイツ的なオペラで、重厚な雰囲気の舞台が普通だと思うのだが、
   今回のローエングリンは、本来のメルヘン・オペラを、一気に、市民的で個人的な生き方を象徴した現代版に変えて演出したと言うことで、役者たちの衣装も、完全に現在の普段着であったり普通の服装である。
   ワーグナーは、一時、市民革命思想に傾倒して、ドレスデンで、革命運動に参加して新しい社会の実現を目指したことがあり、この市民感覚が、このローエングリンに表現されているので、これを舞台に取り入れようと言うことのようである。

   したがって、舞台の背景では、土台の石組みから家の建設が始まって、舞台が進むにつれて工事が進んで行き、エルザ達のスイートホームの建設と破壊への過程が展開されている。
   冒頭の序曲の間には、舞台の中央に置かれた図面台で、エルザが家の図面を引いて完成させ、第1幕のブラバントの場では、エルザが、ブロック運びで舞台を出入りしている。
   この口絵写真は、バイエルン歌劇場のホームページから借用したのだが、第3幕の「婚礼の合唱」時の二人のスイートホームの場面だが、これが、完成した家で、その後、エルザが騎士に名前を聞いてしまったので、騎士は、絶望して、ダブルベッドの真ん中に揺り篭を置いて、両側に石油を撒いて火を点ける。

   自分自身の幸福や国の将来や、その「建設」は、宗教や哲学やいつの時代でも変わらずに取り組んできた文化的歴史的な課題であり、このオペラでは、エルザが、将来を計画し、家を設計し、自分もその建設に加わり、全身全霊を捧げる。
   第1幕のユートピア的な美しい音楽は、聖杯を指し示すものではなく、ブラバントの生活を指し示すものであり、騎士ローエングリンは、親密な愛と幸福の場所である新居の建設を手助けするために来たのだと言う設定である。

   こうなると、タイトルロールのローエングリンの神聖さと、良く分からないのにイメージしていた崇高さ気高さが宙に浮いてしまって、むしろ、エルザの方に目が行ってしまう。
   誤った条件を与える男、自分が誰だか明かさずにブラバントの守護者の地位を継承できると信じるような男、エルザに疑問を抱かずに信頼することだけを要求しながら、自分では何も明かさないような男、このような不埒な男が破局を迎えるのは当然だと言うのである。

   そう言うことなら、エルザが、「愛しているからこそ、貴方を、貴方の名前で呼びたい、誰にも言わないから、私にだけ名前を教えて、死んでも良いから」、と言う気持ちが、いじらしい程良く分かる。
   聖杯など何のその、エルザの恋を全うするつまに過ぎなかったとするなら、ワーグナーも中々の役者である。
   したがって、ラストシーンは、エルザが、白鳥から蘇ったゴットフリートの腕に抱かれて息絶えると言うのが従来の演出だが、今回は、死の予感さえなく、舞台の照明が消えて終わる。

   親友のフォン・ビューローから、リストの娘であるコジマを寝取ったワーグナーであるから、それ程、純粋な恋愛感情を持っているとは思はないが、リチャード・ジョーンズの「家庭」を主題に据えた新演出も、中途半端なメルヘン調のローエングリンよりは、モダンで面白いと思った。

   ところで、イケメン・テノールのヨナス・カウフマンが、来日不能で、ローエングリンは、南アフリカ出身のヨハン・ボータに変ったので、騒がれているが、どうしてどうして、巨漢ボータの素晴らしく澄み切ったピュアーで甘美な美声は圧倒的で、これ程、パンチの利いた朗々と響き渡る素晴らしいテノールを聞いたのは久方ぶりで、最後の幕で歌う、名前と素性を明かす「はるか彼方にモンサルヴァートルと呼ぶ聖杯の城があり、・・・」と、椅子に端座して切々と歌う「名乗りの歌」の感動的な歌唱など特筆ものである。
   パバロッティの倍もありそうな体躯とイケメンとは言いにくい風貌が、多少、ラブシーンには不向きだが、エルザに愛を切々と訴えられた時の、これ程嬉しいことはないと相好を崩して喜ぶ童顔の表情は何とも言えない程輝いていた。
   METのプロフィールを開けると、カニオでデビュー、アイーダでラダメスを歌っており、ウィーン、ロイヤル・オペラ、スカラ座、ザルツブルグ等総なめで、ワーグナーは勿論、テナーの多くのタイトルロールのみならず、名門オーケストラとの共演など、今を時めくトップ・ヘルデン・テナーの一人だと言う。

   エルザは、アメリカのソプラノ・エミリー・マギーである。
   カレンダーを見ると、今年初めに、シカゴ・リリックで、そして、今月初めに、ブカレストで、同じエルザを歌っていて、今回は3度目である。
   面白いのは、ベルリン・フィルで、年初に、サロメを歌っており、来年、ウィーン国立歌劇場で、サロメをやるようだが、(7つのヴェールの踊り)をどうするのか、カリタ・マティラもマリア・ユーイングも生まれたままの姿になったが、詰まらないことだが、気になるのは、それだけ、マギーのエルザが、素晴らしく魅力的であったと言うことである。
   思い出のローレンガ―とは違うが、中々、雰囲気のある魅力的な歌唱で、ボータとのローエングリンでの共演は、2009年にロイヤル・オペラが最初で、今年のシカゴ・リリックでも一緒だったと言うから、気が合っているのであろう。
   
   オルトルートを歌ったのは、ワルトラウト・マイヤーだが、私は、彼女を聴くために出かけたようなものだから、感想などは蛇足だから止めるが、とにかく、前のイゾルデに続いて、満足の限りであった。
   氷の様に冷たく悔悛の情の欠片もない、悪に徹したどうしようもない悪女なので、長らく演じるのを躊躇ったが、今は強烈な知の側面を劇的に演じる役割を愛していると言っているのだが、この舞台では、ローエングリンと共に、魔法を遣える人間なので、歌っていないシーンでも、あっちこっち移動しながら性格俳優よろしく表情豊かに演技をして舞台に溶け込んでいたのには、感心して見ていた。

   音楽監督・指揮者のケント・ナガノは、もう、20年ほども前になるが、ロンドンにいた時、ロンドン響などの客演指揮で、何度か、コンサートで聴いており、立派になった姿を見て感激であった。
   小澤征爾が、オペラのメッカ・ウィーンで活躍したのも感激だが、日本人の血を引いたナガノが、最もドイツ的なミュンヘンの地で活躍するのも、やはり、感激である。

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BBCプロムス・イスラエル・フィル妨害される

2011年09月26日 | クラシック音楽・オペラ
   今日の日経朝刊の「文化往来」コラムで、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開かれたプロムスのイスラエル・フィルの9月1日のコンサートで、パレスチナ占領政策に反対する団体が演奏を妨害したと報道していた。
   「パレスチナ」と書いた布を掲げて叫び声を上げ、ベートーヴェンの「歓喜の歌」を替え歌で歌ったり、ギル・シャハムの奏するバイオリン協奏曲でシュプレヒコールを行うなど、4グループに分かれての30人ほどの計画的犯行だと言う。
   このコンサートは、BBCのTVで放映されることがあるのだが、1927年からラジオ中継は欠かされたことはないのだが、今回は中断されたらしい。
   しかし、指揮者のズービン・メータが、アンコールに、プロコフィエフの「ロミオとジュリエット」から「ティボルトの死」を演奏して、対立が生む無残な死を暗示し、政治的な対立への音楽の回答を示したと言う。

   プロムスの舞台のロイヤル・アルバート・ホールは、立派な巨大な円形サーカス場のような多目的ホールで、真ん中の平土間の周りに、オペラハウスの様に円形状に客席が積み重なっていて、収容人数はかなり多い。
   私は、ここで、テニスの国際イベントや、日本からの若貴時代の大相撲を見たことがあるし、このプロムスなど、コンサートには良く出かけた。
   ウィーン・フィルやベルリン・フィルなどもここで何度か聴いた。
   決して音響効果が良いとかと言った理想的なホールには程遠いが、祝祭気分を味わえるなど雰囲気のある劇場である。

   私は、この記事を見て、性格は大分違うが、留学時代に経験したフィラデルフィアのアカデミー・オブ・ミュージックでの、ムラビンスキー指揮のレニングラード・フィル演奏会のことを思い出した。
   あの当時は、ソ連が、在住のユダヤ人の専門家や医師など高度な技術や識見を持った人々のイスラエルへの出国を認めずビザを発給しなかったので、在米のユダヤ人たちが激しく抗議活動を展開していた。
   演奏会当日、会場入り口で、ユダヤ人たちが抗議活動を行っていたが、会場の座席の真ん中から半分は、完全に空席で、誰も座っていないのを見て、その異様さにびっくりした。
   日本の様に、空席があれば、席を移動すると言った人が居ないので、右だったか左だったか忘れたが、半分の座席が空席のまま、最後まで演奏されて終わったのだが、アメリカでは、興行主の多くがユダヤ人なので、このようなことが出来るのであろう。
   あのカラヤンだって、ナチだったと言うことで、戦後長い間、アメリカから締め出されていた。

   長い間、ヒットラーが、ドイツ主義のワーグナーを愛好していたと言うこともあって、ユダヤ人指揮者などが、ワーグナーの作品を演奏しなかった時期があったようだが、私など、ロンドンのロイヤル・オペラで、ワーグナーの楽劇やオペラを、ベルナルド・ハイティンクの指揮で殆ど聞いたし、先日も、ユダヤ人とパレスチナ人混成のユース・オーケストラの演奏をTVで見た。
   しかし、今回は、パレスチナのアッバース議長による国連加盟申請の演説が世界の耳目を集めると言う時期とも重なったので、テンションの高まりとプロパガンダの所為もあったのであろう。
   とにかく、文化芸術の場で、露骨な妨害行為を行うと言う蛮行は、むしろ、逆効果となると思うのだが、結構、あっちこっちで起こっているらしい。
   戦争に明け暮れていたギリシャ人でさえ、一時的に戦いを止めて、オリンピックを開いてスポーツ競技を楽しんだのであるから、少なくとも、芸術やスポーツだけでも、聖域として残しておいて欲しいと思っている。
   
(追記)この口絵写真は、インターネットから借用したのだが、プロムスの演奏前の1情景である。平土間は立見席で、ファンに、全演奏会ないし半分の演奏会の切符が安く提供される。
周りのサークル席も、普通のコンサート・チケットよりは、かなり安い。
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ブラジル・レアル等新興国通貨一転為替安

2011年09月25日 | 政治・経済・社会
   昨日のWST電子版に、「新興国が自国通貨安防止の介入競争に―金融市場混乱のドル高受け」と言う記事が出て、本日の日経朝刊でも、「新興国が一転「自国通貨買い」 通貨安、経済への波及警戒 」と言う記事が載っていたのだが、ブラジルなど新興国の為替が急転直下下落したので、その防衛のために、自国通貨買いに走ったと言うのである。
   
   この現象は、「世界同時株安など金融市場の混乱で、資金がここに来て米ドルに集中逃避、各通貨がドルに対して急落するのを受けた動きだ。」とWSJは言う。
   日経は、「 各国通貨の下落は、世界景気の不透明感が強まる中で、機関投資家が株式などのリスク資産から、ドルや円など安全とされる資産に資金を移動させている動きの影響。21日に米連邦公開市場委員会(FOMC)が経済の先行きに「深刻な下振れリスクがある」と指摘したのも、売りに拍車をかけた。
   急激な通貨安はインフレや外貨借り入れをする企業の負担増につながることから、各国は通貨防衛を迫られた形だ。」と報じている。
   この新興国通貨が、世界経済の減速懸念で、売り対象になったのは、既に、今月の初めくらいから起こって来た現象だが、世界全体が、今回の経済危機には、無傷では済まされないと言う深刻な状態に陥っていると言うことを意味している。

   要するに、欧米日など先進国経済が暗礁に乗り上げていて、新興国が、世界経済の牽引車だとか、ディカップリングだと言われてもいても、結局は、張り子の虎であって、有事には、信頼性がなくなり、一気に、逃げ足の速い世界中を浮遊している膨大な資金は、ドルなどのハードカレンシーに、シフトしてしまうと言うことである。
   この現象は、リーマンショック以前に、ベルリンの壁崩壊後、東欧諸国の経済発展を見越して、破竹の勢いで雪崩れ込んでいた資金が、世界的金融危機時に、一気に引き上げられて、東欧諸国経済を窮地に陥れたケースと、殆ど同じであろう。
   問題は、経済大国予備軍として高く評価されているブラジルなどの新興国が、現下のグローバル経済においては、まだまだ、力不足であって、欧米日に変り得る経済には、なり得ないと言うことである。

   アメリカ経済の凋落だとか、ドル体制の黄昏だとか言われて久しいが、決して、そんな生易しいものではなく、世界の経済は、アメリカのドル依存体制であって、ドルの代替通貨は、有り得ないと言うことである。
   あの大英帝国の凋落が、随分以前から始まっていたのだが、結局、イギリス・ポンドがアメリカ・ドルに、覇権を譲り渡したのは、何十年も後になってからだと言うことからも、おいそれと、ドル体制が崩壊するなどと考えない方が良いと言うことであろう。
   
   ブラジルが、アメリカなどの先進国の金融緩和と超低金利で、余剰資金が新興国にラッシュして、ブラジルレアルの実効レートが2006年比で40%上昇(インフレ調整後)する異常なレアル高を引き起こして、国内製造業に大打撃を与え、異常な物価高となり、国際金融戦争だと騒いでいたのは、極最近のこと。
   しかし、レアルは、世界最高の政策金利12.5%を12%に下げたのは、ほんの、先月末のことで、その後下げ足を速め、更に投げ売りが重なり、22日の取引時間中には8月末比で下げ率が一時18%超となる1ドル=1.95レアル前後をつけたと言うのだから凄まじい。

   ところで、このような危機的な状況下でも、スイス・ポンドの防衛策の実施もあって、日本円は、いまだに、1ドル76円台で、その異常高が収束する気配はない。
   一説には、日本円は、最弱の通貨であって、過大評価も甚だしいと言う理論もあるようだが、しかし、この高値水準は、避難通貨としての価値だけでもなさそうである。

   円高になると、日本企業の収益悪化がメディアで騒がれるが、海外貿易や海外との取引の大きな会社で、為替の変動に対する、特に、円高に対する然るべき対策を取っていない企業があるとするならば、余程、経営が拙いか、危ない会社である。
   しかし、円高だけが原因ではなかろうけれど、需要の見込める新興国や発展途上国へ、どんどん大企業が、海外へシフトして行けば、海外へ脱出など出来ない下請けの中小企業などに対する影響は甚大であろう。
   それに、雇用に対して、益々深刻度が増して行く。

   今回の異常高で呻吟していた新興国の為替が、逆転して暴落した例でも分かるように、為替の変動は、その国のファンダメンタルなどの反映で動くのではなく、あくまで、国際経済の動向や投機筋の思惑など色々な要因が重なるなど、予測困難な要因が原因となっているようである。
   それに、政府は然るべき処置をとるなどとよく言うが、日本だけの為替介入など、殆ど役に立たない。
   日本の国家債務の状態は、ジャック・アタリが、4~5年でダメになると言っているが、私は、為替に関しては、これまでのインフレ率を勘案したり、マクドナルド・ビックマック指数など購買力平価などの面から考えて、現在の円の水準は、それ程異常だと思ってはいない。むしろ、これまで、輸出経済重視のために円安政策を取って、為替の自由な変動を避けて、円安を維持し続けたことに問題があり、政府も企業もそれに慣れきってしまったのである。

   話がそれてしまったが、BRIC'sなどの新興国については、ヨーロッパの金融危機を救済すると言う話があったが、自分たちの経済に火がついていてそれどころではないと言う状態であったし、今回の為替の変動で右往左往しているように、あまり、期待しない方が良いと言うことである。

        


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九月文楽:国立劇場・・・ひらかな盛衰記

2011年09月23日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   平家追討に立ち上がって京へ上った木曽義仲が、乱暴狼藉を働き京都を恐怖に陥れたので、朝敵とされて、頼朝が追討の宣旨を受けて粟津の戦いで命を落とすのだが、今回の舞台は、木曽へ落ち延びる途中の義仲の遺児駒若君が、大津の宿で、残党狩りの鎌倉勢の踏み込みの混乱で、丁度、投宿していた船頭一家の子供と取り違えられたと言うのが話の発端。
   いくら、ドサクサとはいっても、若殿と巡礼衣装の庶民のこせがれとを取り違えるとは思えないのだが、そこは、芝居の話で、若殿と間違えられた槌松は、番場忠太に討たれる。

   舞台が移って、がらりと雰囲気が変わるのが、次の「笹引の段」で、追手に殺された筈の若君の亡骸に笈鶴があるのに気付き、殺されたのは若君でなかったと知った山吹御前は、緊張の糸が切れて儚くなってしまう。
   腰元のお筆(和生)が、気を取り直して、傍の笹を切ると笹船にして、山吹御前の亡骸を乗せて引いて行くのだが、哀調を帯びた呂勢大夫の語りと清治の三味線が身に沁みて悲しい。
   このシーンを描いた素晴らしい絵が、ロビーの壁にかかっている。
   この段の公演は珍しいようだが、オペラの間奏曲のような雰囲気があって実に良い。

   しかし、このひらがな盛衰記では、文楽でも歌舞伎でも、良く演じられるのは、次の「松右衛門内より逆櫓の段」である。
   大津の宿の騒動で間違えて連れ帰った若君を、船頭権四郎(玉也)と女房およし(勘彌)が、槌松として大切に育てているのだが、ある日、腰元お筆が、笈摺に書いてあった所書きを頼りに訪ねて来て、若君を返せと言う。
   自分たちの孫・子供に会いたいばっかりに、必死になって大切に大切に育てて来た子供を理不尽にも返せと言うのであるから、権四郎は、怒り心頭に達して若君を首にして戻すと言う。
   ところが、芝居であるから、そこは良くしたもので、奥の障子があいて、その家の主人船頭松右衛門(玉女)が、若君を小脇に抱えて現れる。
   実は、松右衛門は、義仲の重臣樋口次郎兼光で、主君の仇を討つために、逆櫓の技術で梶原に近づき、義経の船頭となって義経を討とうと考えたのだと明かす。
   わが子となった槌松が、主君のために身代わりになったとその忠義を褒めると、みんなが納得してめでたしめでたしと言うのが、時代離れした封建時代の話である。

   豪快で風格のある玉女の松右衛門が、この段の主役だが、前半の、お筆と権四郎・およしの肺腑を抉るような掛け合いが、実に誠実そのもので、人形が生身の人間以上に、人生の理不尽さと身の不運に悲嘆にくれ慟哭する。
   和生のお筆は、悲劇のヒロインだが、実に優雅で凛としていて、沈んだ控え目な演技が実に哀調を帯びて心に響く。玉也の老いの一徹の、筋金の入った船頭の生き様が清々しい。

   後半は、歌舞伎で見ることの多い「逆櫓」で、既に、鎌倉方に身元の割れている松右衛門が、逆櫓の稽古に出たところ、捉えるようにと命令を受けていた3人の船頭たちに襲われる。
   浜に、鎌倉勢の畠山庄司重忠(玉輝)が、権四郎を伴い現れたので、松右衛門は、権四郎が訴人したと怒るが、若君を槌松だと正当化するために、権四郎を、訴人したのだと言う。
   委細承知で、武士の情けで、若君の命を保障したと知って、おとなしく、松右衛門が縄に掛かって、幕となる。
   逆櫓を操るリズミカルな剛毅なシーン、巨大な老松にかけ上るシーン、あの派手で気風の良い船頭の井出達の良く似合う文七の頭の松右衛門の豪快さと格好良さは、流石に、玉女の独壇場である。
   それに、咲大夫の語りと燕三の三味線が、緩急自在で、ぐいぐい、人形を遣わせて、クライマックスへ引き込んで行く。

   最後の「紅葉狩」は、優雅で美しい更科姫と、凄まじい形相と井出達の鬼女を遣う清十郎が実に良い。
   この紅葉狩は、歌舞伎でも良く演じられる舞台だが、生身の役者とは、一寸違った人離れした演技の出来る文楽の方に、後半の鬼女の方にフィクションめいた雰囲気が醸し出されて面白いと思った。
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ガーデニングも楽しみ程度なら良いのだが

2011年09月21日 | 生活随想・趣味
   ガーデニングと言うほどではないが、時々、園芸店に行っては、草花の鉢植えを買って来たり、花木の苗木を買って来たりして、庭に植え替えたりして楽しんでいる。
   まだ、アゲハチョウなども飛んでくるし、青っぽかったトンボが少し黒ずんだ感じに変って飛んできているが、もう少しすると、鮮やかな赤とんぼに代わるのであろう。
   薔薇の葉を食い荒らす蝶や蛾の幼虫には困っているが、昆虫の訪れは見ていて楽しい。

   まだ、朝顔が、勢いよく庭木を駆けあがって咲き続けているが、ズボラを決め込んで、秋の草花を植えなかったので、私の庭には、シュウメイギクしか、秋の花は咲いていない。
   下草のヤブランなどは、花をつけてはいるが、私の趣味ではない。
   コスモスを何種類か種蒔きして、芽を出して、少し大きくなったのだが、いつの間にか消えてしまった。
   これまで、何度も、コスモスには挑戦したのだが、何故か、まともに咲いたことは一度もない。

   ちらほら、花をつけているのは、バラの花。
   庭植えのハイブリッド・ティは、プランターのトマトの木の裏になってしまっていたので、日当たりが悪くてきわめて貧弱。
   本来なら、8月に夏の剪定をしているので、今頃、咲く筈はないのだが、剪定をミスった上に、手入れに手を抜いてしまったので、少し小さくなった花が、ちらほら咲いている。
   精々、これから肥培して、冬の剪定で、元に戻そうと思っている。

   鉢植えのイングリッシュ・ローズやフレンチ・ローズ、それに、ミニバラは、適当に、移動しながら育てていたので、まずまずである。
   四季咲き、返り咲きであるし、秋には、花数が少なくなるらしいので、特別な摘心はせずに、二番花、三番花、と連続して咲かせ続けて来たので、暑い夏の間は、多少小休止があったものの、今も株によっては咲き続けている。
   いずれにしろ、来年は、だらだらと咲かせずに、しっかりと夏の剪定を行って、秋バラを楽しもうと思っている。
   
   イングリッシュ・ローズは、日本の暑い夏には、弱いのであろうか。
   今まで、元気がなかったようだったが、涼しくなり始めて、急に元気が出て来た感じである。
   今回は、薬剤散布の不手際もあって、バラの命とも言うべき葉の多くを、黒星病で落としてしまったので、勢いよく新芽が伸び始めて来ると嬉しい。
   デビッド・オースチンのガイドに従って、花の出た枝の数センチだけを残して切り取ると言う夏の剪定を行ったのだが、春に枝が伸び過ぎて、一寸、株が間延びした感じになってしまったので、今秋はこのまま、秋花を楽しむとして、冬には、少し、強剪定をして、株をコンパクトにしようと思っている。

   尤も、イングリッシュ・ローズの場合には、おなじ花でも、つる仕立てにすれば、つるバラになるので、ファルスタッフなどは、既に、つるバラとして、庭の垣根に収まっている。
   グラハム・トーマスやガートルード・ジーキルなどは、枝も伸び始めているので、つるバラに変えられる。
   しかし、鉢植えでは恰好がつかないので、庭植えとなると、今、植わっている庭木をいくらか処分しなければならない。
   どうするか、迷うところだが、晩秋までに結論を出そうと思っている。

   ガーデニングも、楽しみ程度なら良いのだが、調子に乗って手を広げ過ぎると大変で、時々、後悔するのだが、綺麗な花を見ていると、また、性懲りもなく、花木を増やしている。
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タイラー・コーエン著「創造的破壊」

2011年09月20日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   シュンペーター経済学の大テーマ「創造的破壊 CREATIVE DESTRUCTION」を、題名にしたこの本は、交易等異文化の遭遇・衝突が生み出す文化的な創造的破壊、そこから生まれ出る文化のイノベーションとその展開発展を紡ぎ出した壮大な文化文明論を経済学的な視点から展開していて面白い。
   「創造的破壊」は、極めて芸術的な営みで、様々なジャンル、様式、メディアにおいて、大量のイノベーションを引き起こし、革新的かつ高い創造を行って来ており、異文化間交易によって選択肢の幅が広がったと言うのは実証済み。
   異文化間の交易は、夫々の社会を改編し崩壊させるが、結局はイノベーションを生み出し、人間の想像力を持続させて、文化文明の多様性を育み、豊かに進化させて行くと言うのである。
   尤も、コーエンは、手放しで創造的破壊を認めている訳ではなく、異文化の遭遇・侵略が、貴重な文化を破壊し、打撃を与えるなどの負の側面をも十分に考慮分析している。

   今日のグローバル市場では、技術と富と言う二つの際立った特色があり、供給側からすれば、芸術家たちは、技術の進歩のお蔭で創造的想像力を商品化出来るようになり、需要側からすれば、富のお蔭で、購買力が生まれ、ニッチな創作に対する資金投入が可能になり、これらが、多文化的な交易関係の原動力となって、文化のイノベーションを生み出してきた。
   大規模な創造が生まれるためには、家族や宗教、慣行と言った社会制度と連携したネットワークが必須だが、芸術を多く生むような時代が到来すると、都合の良い状況がいくつも複雑に組み合わされ、社会組織内の相補的な要素が徐々に融和し、やがて適切な環境が整って、高度な芸術的ネットワークが起動する。
   非常に創造的な時代には、社会のエートスや材料技術、市場の条件が全て積み重なって、生産力のある創造的な芸術家たちのネットワークが創られ、支え合って、価値ある高度な芸術が爆発的に創造されるのは、ルネサンスを見れば、一目瞭然であろう。
   コーエンは、ルネサンスを育んだフィレンツェの、市民生活、宗教、強さ、楽観主義、人文主義と言った芸術の素晴らしさを重視エートスが創造の中心地を生み出したとするなど、エートスの文化醸成に果たす役割の重要性について強調している。

   コーエンは、一章を割いて、「なぜハリウッドが世界を牛耳るのか、それはいけないことか」とアメリカ文化とそれを育むハリウッドを語りながら、ポーターのクラスター論を展開している。
   ここで、フランス映画の凋落を語りながら、対フランス文化論を説いているのだが、商業主義的かつ個人主義的な色彩の文化を生み出したアメリカ人の、フランス文化に対するコンプレックスの一面が滲み出ているようで非常に面白い。

   「エートスと文化喪失の悲劇」と言う章で、
   「人口が多くて経済規模の大きい文化であれば、異文化接触によって窮地に陥るリスクは低い。そのような文化は、過度の影響を被ることなく、外来の思想を吸収することが出来るだろう。自らのアイデンティティを失うことなく外部からの影響を数多く吸収し、それによって発展を遂げて来たのが、日本、アメリカ、ドイツである。
   大きな社会は、通常、外部からの衝撃に対する弾性を有しており、ダメージを受けた場合でも、壊滅せずに再編成する可能性が高い。大きな社会は内部が多様なので、外からの影響を受けた時でも、部分的にダメージを受けることがあるにせよ、柔軟かつ創造的な対応が可能なのである。」と述べているが、アメリカとドイツに対しては異論があるが、日本については、正しい指摘だと思う。

   このブログで、日本文学の権威キーン先生の講演を引用して、日本にも、欧米から猿真似日本と侮辱され続けた屈辱的な時代があったことを紹介したのだが、
   コーエンは、「日本人は単なる模倣にとどまらず外部からの影響を吸収してきたが、これは全く持って創造的な行為で、このような国はまだどこにも存在せず、日本人は、世界でも類まれなる文化の創造者であり、経済の創造者である。こうした文化的綜合こそが、グローバル化した現代世界で脈々と息づく創造的な行為である。」と日本版序文で言っているのだが、多少面映ゆいとしても、私は、その通りだと思っている。
   第二次世界大戦後の日本の再起には目を見張るものがあるのだが、それよりも、強調すべきは明治維新の素晴らしい近代化と大国への脱皮だが、やはり、高潔な日本人魂あったればこそだが、教育制度の普及高度化による民度の高さと、豊かで質の高い日本の伝統文化と技術のなせる業であろうと思う。
   
   コーエンは、W・ホイットマンの言「偉大な鑑賞者なくして、偉大な詩人は生まれない」を引用して、「必要なのは、質の分かる買い手であり、ハイレベルな鑑賞者は、演者にインスピレーションを与え、資金面で援助し、文化の質を監視し、他に負けない品質水準を守らせる。彼らの好みによって、生産物の質を高める知恵が生まれる」と、文化の鑑賞者の質の高さが如何に重要であるかを、随所で繰り返している。
   多少語弊があるが、「無知な客は品質を低下させる。「土産工芸品」を買うのは、通りすがりの無知な買い手である。」とまで言う。
   
   一方では、知識情報産業化のお蔭で、インターネットなどの近代技術の助けを借りて、かってない程多くの文化財に通暁した専門家が存在し、どんなマイナーな分野でも熱心に大変な熱意を持って研究する支持者がいて、上質な好みはちゃんと生き残って開花していると言う。

   グローバリゼーションによって、世界中の沢山の文化文明が遭遇衝突して、「社会間の多様性」はある程度破壊されて消えて行き、少なくなって行くが、逆に、「社会内部の多様性」が創造される。この創造的破壊の過程で生まれた文化イノベーションが、人類社会を豊かにして行く。
   この文化の創造的破壊論が、コーエンのこの本の趣旨だが、経済社会の発展論を展開した元祖イノベーション論のシュンペーターの話を別な側面から聞いたようで面白かった。
   異文化の遭遇による挑戦と応戦、それが文化文明の発展を促進し、辺境から伝播して行くと壮大な人類の歴史を説いたトインビーを思い出した。
   しかし、シュンペーターの創造的破壊によって進化してきた現代の政治経済社会が、人類にとって、本当に幸せなものなのかどうかは疑問であるように、コーエンの文化の創造的破壊で生まれ出でた今日の文化が、本当に価値ある文化なのかどうかは、考えなければならない問題でもある。
   
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ブラジルのハイテクMNEは政府支援あったればこそ

2011年09月19日 | BRIC’sの大国:ブラジル
   日経ビジネスが、「強敵!BRIC's企業」と言う特集記事を組んでいたが、ブラジル企業で、小型民間航空機で、カナダのボンバルディと覇を競っているエンブラエルが取り上げられている。
   また、深海油田プレ・サルで湧くペトロブラスも、深海油田開発関連では右に出る企業がないほど卓越した技術を持つブラジルのみならず、世界有数のMNE(多国籍企業)で、いずれも、高度な独自技術とその開発で有名だが、同じBRIC'sのMNEでも、中国、インド、ロシアなど、夫々が歴史的な背景を引きずっていて、国によって、大きな特色の差があるのが面白い。

   この口絵写真は、ブルッキングズ研究所の「BRAZIL AS AN ECONOMIC SUPERPOWER?」だが、経済のブラジル経済の現状をかなり詳しくレポートしていて非常に興味深い。
   その中の第3章「Extending Brazilian Multinational' Global Reach」で、ブラジルの大企業が、政府の支援をテコにして、政府の後押しで技術を開発し、如何にして国際市場に打って出て来たかが活写されている(特に、エドムンド・アマンの論文)。

   「国産の多国籍企業が、今日のブラジル経済興隆の立役者であることは疑いない。ブラジル企業の海外投資が、市場と資源確保のために加速されて来たが、ブラジル企業に、特別なテクノロジー能力の開発発展と言う利点があったからである。今や、積極的な海外投資によって、培った技術ノウハウを国際市場で活用する段階に入った。
   しからば、ブラジル企業に、このようなハイテク能力を付与した要因は何か。それは、紛れもなく、ブラジル政府のなせる業である。」と言うのである。
   
   元々、ブラジルの大企業は、殆ど、国有か公営の企業であったし、それに、長い間の輸入代替産業育成政策で外資の侵入を締めだして保護して来ており、更に、公営の研究所やR&Dなどの技術開発機構や大学の研究機関からの積極的なサポートを受け、政府機関の資金的支援など、ブラジル政府のバックアップ援助が続いていた。この傾向は、1990年代の民営化後も変っておらず、キメ細かく続けられていると言う。
   レアル高で、国内企業が窮地に立っているので、最近、輸入車に大幅増税を発表したが、元々、遵法欠如で法制度が有効に機能しないブラジルであるから、いざとなれば、国内保護のために、政府は、何でもする、いわば、社会主義国家体制に似たところがある。

   興味深いのは、最近、ブラジル政府に財政的余力がなくなって、これまでの様には民間企業へのサポートがままならず、MNEなど大企業が、方向転換を迫られていると言うのである。
   唯一の明るい兆しは、マクロ経済の安定と株式市場の発展で、民間ルートを通してR&Dや国際化への資金調達が可能になったことで、今まで、政府援助を望めなかった中堅企業が、従来の伝統的な公的支援なしで、技術集約的なMNEへ飛躍できる道が開けたと言うのだが、いかにもブラジルらしくて面白い。

   ところで、エンブラエルだが、航空省の航空技術開発研究所CTAから、1969年に航空機の輸出を目的に創立された国有企業で、航空省や空軍とは密接な関係にあり、技術者の多くは、隣の優秀な工科大学航空技術大學卒業生だと言うから、正に、産軍共同体的連携である。
   経営が悪化した時点で1996年に民営化されたが、50人乗りの小型ジェット機ERJ-145が、アメリカでバカ売れして起死回生し、最大の輸出企業に返り咲いた。
   いずれにしろ、政府べたべただったエンブラエルが、以前に、三菱重工の小型ジェット旅客機「MRJ」(三菱リージョナルジェット)に対する日本政府の支援について、「WTO協定違反の可能性」を指摘していたと言う記事を見た記憶があるが、良く言うなあと言えないこともない。

   このエンブラエルが、MNEなのは、中国への進出とポルトガルの軍用機製造会社の買収。
   中国では、ERJ-145の組み立て工場の建設だが、目的は、勿論、中国の膨大な市場で、更に、中国のテクノロジーやノウハウの獲得も目論んでいると言う。

   ペトロブラスも、エンブラエルと良く似た過程を経た大石油企業で、1953年創立で、当初は、国内オンリーの国有会社であったが、1970年代の石油危機で海外志向を始めた。
   しかし、1980年代に、国内に石油が発見されてから国内回帰して、更に、最近では、リオ沖の広大な深海油田プレ・サルの発見で、ブラジルが、世界第8位の産油国にランクアップして、ペトロブラスの技術開発が一挙に加速して、今では、深海油田開発関連技術では最高峰だと言う。
   この技術にモノを言わせて海外進出に打って出たのだが、世界銀行がグローバル・エコノミック・プロスペクト2008で、
   「ペトロブラスは、この先進技術を活用して、アンゴラ、アルゼンチン、ボリヴィア、コロンビア、ナイジェリア、トリニダード・トバゴ、米国で、油田開発生産を行っており、赤道ギアナ、リビア、セネガル、トルコでオフショア油田開発などを実施している。」と言うのだから、新興国企業の域を超えている。
   
   ところで、このエンブラエルやペトロブラスを見ていると、ブラジルのMNEは大したものだと言う感じがするが、ブラジル国産の大企業は、ヴァーレを筆頭に、殆ど鉱業や食糧などのローテク企業で、自動車やエレクトロニクスなど国際級の工業の殆どは、主に1990年代以降自由化民営化で進出してきた外資系企業で、これが主要輸出ドライバーである。
   輸出の相当部分は、これら工業製品であり、ブラジルは、鉱物などの資源大国であり、農業大国であるのみならず、工業大国でもある特異な新興国だと言われているが、本当にバランスの取れた産業国家であるかどうかは、中身を十分考慮しなければ判断できない問題である。
   自然資源や食糧価格高騰で潤っているブラジルだが、何時までも、「オランダ病」の不安を拭い切れないのは、資源高のアブク銭を、付加価値の高い産業構造への変換に投入できないブラジルの現状を変えられないからだとも言われている。
   
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ギリシャの経済的困窮は対岸の火事か

2011年09月17日 | 政治・経済・社会
   今日のNHKのワールドWaveでドイツZDFが、「財務相会議、米長官の要望は拒否」に続いて、「ギリシャ高い失業率、貧困者増加」と言うタイトルで、今回の一連の厳しい財政削減の結果、ギリシャの国民の困窮状態が、如何に酷いかを放映していた。
   失業が既に16.3%、24歳以下の失業率は38.5%で、国民の3分の1は、貧困すれすれか貧困層に堕ち込み、バランスのとれた食事をとれず健康悪化の恐れがあるばかりか、光熱費さえ払えなくなり厳寒の冬を越せないのだと言う。

   ZDFは、この口絵写真の様に、ごみ箱から残飯や利用できるモノを漁っている人々や政府・教会・ボランティア団体が無料で提供する炊き出しに集まる人々の映像を執拗に追いかけていたのだが、これらの人々は、必ずしも、貧困者ばかりではなく、これまで、中流階級で何の不自由もしなかった人たちまでをも巻き込んでいると言う。
   40歳から55歳くらいまでの人が多く、失業して、ローンが返済できなくなって自己破産した人たちだと言う。
   ホームレスは、昨年の2万人から、今や、2万5千人。
   もう、ギリシャは、今回の財政危機で、国民生活を行き着くところまで陥れて、経済社会の基盤まで、崩してしまった。
   
   ポーランドで開催の財務相会合で、10月中旬に、ギリシャへ、80億ユーロの融資をすると言う決定がなされて、一段落したとみられているが、これには、ギリシャが、EUの突き付ける厳しい財政赤字の削減などの約束を守ると言う過酷な条件が付いている。
   益々窮乏化して行き、経済成長のあても手段ももぎ取られてしまったギリシャには、極論すれば、パルテノンをアメリカか中国か、どこかに売っぱらうくらいの英断がない限り解決手段はなく、10月が越せたとしても、3か月毎に地獄の責め苦が待っており、破綻は時間の問題だと言う。
   火の粉を被りたくない欧米は、時間稼ぎの意識しかなく、既に、ギリシャ破綻を前提にして手を打ち始めている。
   ガイトナー財務長官など、余程、アメリカ経済が深刻なのか、再選が危機的状態なのでオバマ大統領に促されたのか、ポーランドまで出て来て、債務危機の回避と同時に財政出動を訴えたが、EU側は、新しい景気対策などは論外で歳出削減路線で行くとけんもほろろ。

   安定した優等生のデンマークで、10年ぶりに政権が交代し、社会民主党の女性党首ヘレ・トーニング・シュミット氏(44)が同国初の女性首相に就任する。
   経済状態が悪化して、失業の増大など国民の不満の反映だと言う。
   また、スペインでは、最近、憲法に国家債務の上限を規定することになったようだが、更に、高額所得者への増税を復活させるのだと言う。
   ギリシャやスペインと同様に、財政危機に直面しているイタリアでも、政府の引き締め政策に反対して、派手な国民のデモが頻発し始めている。
   ノールウェイで発生したイスラム排斥テロのような問題が、ヨーロッパのあっちこっちで起こっており、文明の衝突と言うべきか、多文化主義が試練に立っている。
   中東・北アフリカのみならず、ヨーロッパも、燃えている(?)のである。

   とにかく、サブプライム問題とリーマンブラザーズ危機以降、グローバル経済社会のエコシステムが半身不随状態となって、世界中が平静を失って右往左往して、経済機能がマヒ状態である。
   第4次産業革命とも言うべき大イノベーションが勃発して経済が上げ潮に乗れれば良いのだが、先のICTおよび金融革命を頂点にして、今や、コンドラティエフ循環の下降局面に入ってしまっている。
   人口動態的予測においても、大ブレークするのは、新興国ではインドくらいで、後は、アフリカなど発展途上の貧困国で、大きな経済成長の期待は持てない。

   問題は、わが日本国の将来。
   ギリシャの経済的困窮は対岸の火事か、と言うことである。
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何故、日本の本は索引を省略するのか

2011年09月16日 | 生活随想・趣味
   日本の著者の場合には、専門書でさえ通例だが、殆ど、索引がない。
   外国の専門書などでは、索引のない本など皆無の筈だが、何故か、翻訳本には、索引が省略されている場合が多い。
   例えば、手元に、ジャック・アタリの「金融危機後の世界」と「21世紀の歴史」があるが、索引はないし、また、ジョセフ・E・スティグリッツの「フリーフォール」と「世界を不幸にするアメリカの戦争経済」にも、全く、索引のページはない。
   恐らく、本人が知ったら、黙ってはいないだろうと思う。

   私の場合には、経済学書や経営学書が多いのだが、何かの拍子に思い出して復習したり、引用したりする場合があるのだが、索引のない本だと、ページを全部繰って探し出さなければならない。
   尤も、大切だと思って読む本は、鉛筆で傍線を引いたり、付箋を貼ったりしているので、かなり探し易いが、それでも、検索は大変である。
   先日など、翻訳本には索引がなかったので、アメリカのアマゾンで原書の索引ページを開いて探し、大体のページを予測して検索した。

   私は、アメリカのビジネス・スクールで、2年間学んだので、沢山のテキストや専門書と格闘したが、あの時は、索引ページの完備した原書の有難さを身に沁みたのだが、日本から持ち込んだ日本語の専門書には、殆ど索引などはなかった。
   テキストや専門書など学術書は、引用されてこそ値打ちがあるのだし、学術書としての意味がある筈なのに、日本人の学者は、自分の著書に、索引がないのが、如何に、学術書としての資格要件を欠き、恥ずべきことであるか、また、読者をないがしろにしているのだと言うことが分からないのであろうかと思う。

   昔、「クリープのないコーヒーなんて・・・」と言うTVコマーシャルがあったが、「索引のない学術書・専門書なんて、全く、ナンセンス」と言うべきだろうと思う。
   グーグルがいみじくも証明しているように、情報・知識は、検索が命である。
   デジタル革命あってこその検索であり、検索あればこそ、ICT革命が生きているのである。

   何故、検索を削除するのか。
   出版社のコスト優先が総てであろうと思う。
   ページ数を削減できるのと、検索ページを作成する手間暇が省ける。
   しかし、そのコスト削減効果が、専門書や学術書の価値を台無しにしてしまっている。

   このような慣例を出版社が維持し続ける限り、或いは、このような本を反省もせずに、「読むべき本」などと大書してディスプレイしている書店がある限り、益々、日本の出版・書店業界の明日が暗くなるのは、当然であろうと思う。

   
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野村萬斎の「釣針」・・・市川狂言の夕べ

2011年09月15日 | 能・狂言
   野村萬斎が、「釣針」の太郎冠者を演じると言うので、東京からの帰り道、市川での「市川狂言の夕べ」に出かけた。
   同じ伝統芸術でも、歌舞伎や文楽には行くが、能楽堂へは、殆ど出かけることはないのだが、あの独特な雰囲気には、何となく憧れもある。

   今回の「釣針」は、私の生まれ故郷西宮のえびす神社だと言うから、興味津々でもあった。
   子供の頃、すぐそばに住んでいたので、えびす神社は、私たちの遊び場でもあり、えびっさん、えびっさんと言って毎日のように遊んでいたので、微かに、思い出として残っている。
   右手に釣り竿を持ち、左脇に鯛を抱える姿がえびすのトレード・マークだが、日本の神で古来から漁業の神として親しまれているが、この西宮神社は総本社とかで、ここへ、独り身の主人(高野和憲)が、妻を得ようと太郎冠者を連れて参詣したのだから、当然、えびすさまは、釣竿を貸すから、妻を釣れとお告げをする。
   この口絵写真のように、太郎冠者が、釣針を揚幕の外に投げ出すと、女人が、架かってついて出てくる。

   面白いのは、主人が自分の妻を釣るのが恥ずかしいと言って、太郎冠者に御名代を命じるのだが、どんな女が良いかと注文を聞く、大見目(十人並み)が良いか見目良いのが良いか、歳はいくつくらいが良いかなどとかけ合うところだが、結局、太郎冠者は、「釣ろうよ、釣ろうよ、見目のよい、17~8歳の奥様を釣ろうよ・・・」と、大張り切り。
   主人の妻を釣った後に、不自由だろうと腰元と女中を求めて針を投げれば、4人の女人がついて出てくるのだが、太郎冠者も独身であるから、当然自分も妻が欲しいと言うと、主人は、すぐに釣れと命じる。

   釣られた女人たちは、被り物を被ったままで、主人の妻だけがちらりと太郎冠者に顔を見せるだけで、全く顔を見せずに主人と一緒に先に退場するのだが、見目良き女人たちと言う想定であろう。
   問題は、太郎冠者の釣った自分の妻だが、諧謔とウイットの喜劇である狂言であるから、当然、ハッピーで終わる訳がない。
   妻を得た喜びで、千年も万年もと誓うのだが、中々、顔を見せない。
   被り物をはねて全体が現れると、乙の面をつけた醜女で、その意外さにびっくり。
   萬斎太郎冠者は、顔を背けて大口を開いて恐怖と驚愕の入り混じったびっくり・ムンク版の表情で、大手を左右に大きく張り出してフリーズ。
   ここの驚きの表情は、大蔵流の茂山家では、腰を抜かすのだと言う。
   太郎冠者は、当然、逃げ惑うのだが、乙(岡 聡史)が後を追う。抱きつかれてびっくり仰天、逃げて追っかけて揚幕に消えて行く。
   狂言師としての萬斎の舞台より、異業種の舞台での萬斎を見ることの方が多いのだが、やはり、流石に萬斎で、この大勢ものの釣針を気に入った曲だと言うので、今日の決定版だと思って楽しませて貰った。

   ところで、昔は、ろくすっぽ、見も知らずに、親や親族たちが決めた相手と結婚したと言うし、この場合も、いわば神意であるから、運命なのであろうが、やはり、一目惚れであっても、自分がこれだと感じた異性が一番良いのだろうと思う。
   先日、某大学の調査で、男は、一目惚れと言うか、直覚で女性を選ぶことが多く、道を通る女性の10人に一人の確率で魅力的な女性を選ぶようであるが、女性の場合には、100人でも無理で、1000人に一人くらいの確率でしか満足できる男性を選べないのだと言う。
   と言うことは、女性の場合には、仕方なく、妥協して結婚をしているのであろうか。

   男女の仲は、本当に複雑だが、大概の場合、色々な障害や運命の悪戯、或いは、気が弱くて踏み出せなかったとか、いろいろな要因があって、思うように行かない方が多いのではないかと思っている。
   ドラマやオペラなどで、恋物語が、あれほど激しく強烈に演じられているのは、その1000分の1が実った結果の物語だからなのであろうかと思っている。

   もう一つの演目は、「腰祈」。
   修行を終えてた新米の山伏が、帰途、祖父を訪ねるのだが、年老いて腰の曲がった祖父が気の毒で、修行の成果を発揮するのはここぞとばかりに、腰を伸ばそうと懸命に祈るのだが、そこは、修行未熟の悲しさで、伸ばし過ぎたり立ち上がれなくなったり散々で、怒った祖父に「やるまいぞやるまいぞ」と追っかけられて幕。
   あのディズニーの「ファンタジア」の魔法使いの弟子の雰囲気である。
   山伏が登場するのは、狂言では数少ないようだが、高徳な阿闍梨として登場する能と違って、大概はエセモノで、偉そうに祈祷するのだが、このように下手くそで失敗するのだと言う。

   バカで人の良い太郎冠者を主役に、このような山伏のほかに、理不尽で威張り散らす主人や、居丈高な大名や、いい加減な坊さんや、「わわしい」女たちが登場する狂言は、どこか、寅さん映画の世界のような気がしている。
   余談だが、グローバル文化経済学を論じている「創造的破壊」のなかで、タイラー・コーエンが、映画の世界では、誰でも分かるアクション映画を作れば儲かるが、コメディ映画は、海外での販売は難しいと言っている。
   会話のニュアンスや特定の文化圏でしか通じないネタがあるためで、巧妙な言葉遊びは翻訳が困難だし、洗練されたコメディよりも、アクション映画やドタバタが珍重されるグローバリゼーションは、良いのか悪いのかと言うことでもある。
   そうならば、伝統的固有文化である典型的な狂言こそ、日本の誇るべき文化遺産であるから、グローバリゼーションの安易な荒波に駆逐されないように、大切に死守しなければならないと言うことであろうか。
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わが庭の歳時記・・・中秋の名月、秋の気配

2011年09月13日 | わが庭の歳時記
   昨夜は、素晴らしい晴天で、澄み切った夜空に、中秋の名月が、煌々と輝き、美しかった。
   こんなに綺麗な明るい夜は久しぶりで、咲き始めたイングリッシュ・ローズの花色が、鮮やかに分かる程で、夜半、しばらく庭に出て佇んでいたのだが、昔から、風流人たちが名月を愛でて、詩歌管弦で楽しむのも分かる気がした。
   澄んだ秋の虫の音も心地よい。
   ススキも庭に生えていたのだが、いつの間にか消えてなくなっていて、少しさびしい。

   アブラゼミ一色だったのだが、月が替わってから、急にツクツクホウシが鳴きだした。
   羽の透き通った小さい蝉なのだが、鳴き声は、しり上がりの珍しい鳴き声で、ツクツクホーシ、ツクツクホーシと鳴く。
   子供の頃にいた宝塚には、ニイニイゼミやクマゼミなど色々な種類の蝉が居た記憶があるのだが、千葉に来てからは、何故か、アブラゼミとツクツクホウシだけである。
   余談だが、海外で蝉の音を聞いたことはないのだが、気が付かなかったか、無関心であった所為だろうと思う。

   朝顔は、昨年植えたものを色々種蒔きしたのだが、芽を出して大きく育って開花しているのは、すべて、赤色の同じ種類の花ばかりで、ツゲや椿など庭木の天辺に這い上がって、豪華に咲き乱れている。
   8月に入ってから、急に枝を伸ばした感じで、今、一番生命力が旺盛な時期かも知れない。
   花に栄養が行くべく、結実した種をこまめに採るべきなのであろうが、高く舞い上がっているので、そのままにして、精々肥料を多めに与えようと思って放置している。
   青い西洋朝顔も種蒔きしたが、少し遅れた所為か、今年は、成長が遅い。

   ムラサキシキブが色づき始めた。
   キャビアのような種の塊が、根元から濃い紫色に変わって行くのだが、枝先の方は、まだ、淡い緑色のままで、その間はグラデュエーションの波を打っている。
   門扉横のムラサキシキブがあまりにも大きくなったので、太い幹のところでトリミングしたのだが、切り過ぎたのか、今年は芽が出なくなった。
   しかし、ムラサキシキブは、成長が早いので、芽が出るとすぐに大きくなって、四方八方に放射状の優雅な枝を広げて実を付ける。
   今年は、庭のあっちこっちに、鳥が種を落として自生したムラサキシキブが綺麗に色づき始めたので、こちらの方を楽しもうと思っている。
   萩の花は、前に、トマトのプランターを置いて密集させたので、陽が当たらず芽だ伸びなかったので、今年は諦めざるを得ない。

   四季咲きのバラが咲き始めた。
   ミミ・エデンなどは、初夏に植えてから咲きっぱなしだが、フロリパンダは、ハイブリッド・ティよりも、こじんまりしていて育てやすくて良い。
   イングリッシュ・ローズは、晩春に買った苗木は、春の花を抑えたので、蕾を沢山付けて咲き始めて来た。
   今度は、赤やピンク系統の花ではなく白がかった系統で、ピュアホワイトのカップ咲きが、グラミス・キャッスル、淡いピンクのカップ咲きから、反りかえってロゼット咲きが、シャリファ・アズマ。
   やや小ぶりの優雅な花で、大株に育つと華やかだろうと思う。
   
   プランター植えのトマトの木が、我が物顔に場所を取っていたので、ぼつぼつ、始末をして空間を空けて、バラの鉢を正面に出して、じっくりと、楽しもうと思っている。
   秋バラは、かなり命が長く、それに、春の華やかさとは違うが、色彩が深くなるので、その鮮やかさに感激することがる。

   いよいよ、庭を訪れるトンボの色が、大分、黒ずんできたので、もうすぐ、赤とんぼが飛んでくる。
   本格的な秋の到来である。
   まだ、今日も、真夏のように暑かったが、彼岸を過ぎると、一気に涼しくなる。
   最初に、関西から関東に移って来て驚いたのは、関東の秋は非常に短く冬が駆け足で近づいてくると感じたことである。

   秋色が濃くなってくると、若かった所為もあり、紅葉が美しくなると、そわそわし始めて、奈良や京都の古社寺散歩に出かけたのだが、千葉に移り住んでからは、億劫になってしまったのか、新宿御苑などの東京の名園を訪れたり、近くの公園や緑地に車で出かけるくらいになってしまった。
   最近、娘が住んでいるので鎌倉に良く行くようになったのだが、如何せん、京や奈良と比べたら、スケールが違う。
   同じ混んでいても、抜け道の差であろうと思っている。

   余談だが、アメリカでもヨーロッパでも、私の印象に残っている秋は、公園や森一帯が真っ黄色に黄金色に輝くことで、日本の様に、モミジや木が真っ赤に燃えるように鮮やかな赤い秋を見たことは一度もなかった。
   偶に見た秋の赤色は、古い建物に絡みついた蔦の葉だったような記憶があり、無性に、真っ赤に萌える日本の秋が懐かしかったのを覚えている。
   さあ、もう、秋の足音はそこまで近づいて来ている。
   今年は、どこの秋を楽しもうかと考えている。
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アジア勢のアメリカ買収 Will Asia “buy up” America?

2011年09月12日 | 政治・経済・社会
   この表題は、TIME電子版の記事のタイトルだが、丁度、バブル崩壊前に、日本企業が米国の不動産や企業を片っ端から買い漁ったので、アメリカ人が戦々恐々とした丁度あの時期が、再び巡ってきたと言う。
   経済的にダメッジを受けて苦境に立つアメリカに、外貨、それも、大半を米ドルで保有する中国や日本のアジア勢が、再び Asian invasionを仕掛けて来たと言うのである。

   ところが、一寸、ニャンスが違うのは、And if this does happen, Americans should welcome it. Greater Asian investment in the U.S. could offer a big boost to the struggling American economy. 日本叩きに走った20年前とは様変わりで、このアジア勢の巨大な米国への投資は、アメリカ経済を浮揚させるのでウエルカムだと言うのである。
   あの当時は、並ぶものなき世界最強のアメリカが、破竹の勢いで追い上げて来た日本を本当に脅威と感じて、プライドが許さずに徹底的に対抗、そんな意気込みと力があった。
   しかし、今回は、膨大な財政出動して巨大な財政赤字を積み上げたにも拘わらず、期待したオバマの世界的金融危機からの脱却策が殆ど空振りに終わり、経済政策への国論が真っ二つに割れて進むに進めず、格付け会社から国債の格付けをダウンされた上に失業率は悪化したまま、ドル安は止まらず、経済の先行きは全く不透明。
   自助努力では、再起不可能と言うことであろうか。

   China and Japan combined own more than $2 trillion of U.S. government debt.
   日中合わせて2兆ドルの財務省証券を保有しているのだが、ドル安で目減りするのみか、極めて低金利故実入り少なく、更に、格付けダウンの心配がある。
   しかし、損をする以外に他の通貨への切り替えも難しく、結局、保有を続ける外ないとするなら、残った道は、このドルを使って、米国の不動産か企業買収しかないと言うことであろうか。
   住宅に投資すれば、今悪化している住宅価格も早晩回復するであろうし、M&Aで、市場を押さえたり、技術ノウハウやブランドを握るのも良いのではないかと言うのである。

   日本にとっては、逆境の超円高が、米国投資とM&Aの絶好のチャンスで、政府は1年間の期限付きで1000億ドル(約7.6兆円)の資金枠を設定し、日本企業の海外投資を支援すると発表した。

   Inflows of capital from Asia would also help keep interest rates in the U.S. low, giving more time for the American economy to repair itself and the American government to fix its finances. And it could generate jobs. Rising Chinese direct investment in the U.S. has created more than 10,000 jobs. Let's face it, America needs the cash, whoever might offer it up. Beggars can't be choosers.
   香港駐在のTIMEの特派員Michael Schumanの記事なので、アメリカ人総体の意見なのか、そして、米国政府が、無条件に近い外資歓迎姿勢なのかどうかは分からないが、アメリカも変われば変わるものである。

   ところで、先日、TVニュースで、中国の不動産富豪が、破産寸前であったアイスランドの広大な土地を買収して一大レジャーランドを開発すると放映していた。
   アイスランドの首相は、国家発展のために大いに歓迎であるとコメントしていたが、中国パワーの資源確保と開発を目指した世界に向かっての買収攻勢は、止まるところを知らない。

   日本人は、すぐに、中国は貧富の差が激しく、一人あたりのGDPは、日本の10分の1で、貧しい発展途上国に過ぎないと言うのだが、この見解は非常に危険で真実の中国パワーを見誤る。
   これは、経済が発展途上にある発展途上国なり新興国は、いわば、二重国家であって、限りなく豊かな層と、非常に貧しい層がまじりあうことなく混在していて、この豊かな層には、途轍もなく富と経済力を持った経済人なり経済集団があると言うことである。
   今回、世界トップの富豪に中国人実業家が躍り出て、多くの中国人がランクインしたと報じられたが、このようなパワーを持った経済人にとっては、ソロスが、英国を敵に回して英国ポンドを叩き潰したように、外国の国土の一部や、グローバル企業の一つや二つ買収するのは至って簡単なのである。
   それに、忘れてならないのは、国家経済の総体、中国なら中国の、ブラジルならブラジルの、トータルの国力、経済力の大きさボリュームが、如何に強力なパワーを持つかということである。
   間違いなしに、昔の日本がしたように、中国やインドなど、成長発展著しい新興国のパワーが、欧米日など先進国の目ぼしい企業や資産を抑えにかかることは間違いない。
   どんどん、増殖して積み上がって来るドルやユーロ、円などを、減価させずに保有する道は、買収以外にないからである。

   後半は余談になったが、経済覇権国家のアメリカの凋落が見え隠れした記事だったので、取り上げてみることにした。
   
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九月文楽:国立劇場・・・伽羅先代萩

2011年09月11日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今年は、国立劇場創立45周年で、当分、意欲的な舞台が展開されると言う。
   昼の部の冒頭は、そのお祝いを込めて豪華な舞台だったが、いつもの調子で、11時開演と思って出かけたので、既に、10時半に幕が開いており、簔助の翁の退場の直前で、住大夫の語りも僅かに聞いただけで、残念なことをした。
   昔、ニューヨークのメトロポリタン・オペラで、遅れて入場できずに、「ばらの騎士」のパバロッティのイタリア人歌手を、地下室ロビーの貧弱な白黒モニターで聞かざるを得なかった時のことを思い出した。

   しかし、その後の「伽羅先代萩」が凄い。
   御殿の場だけだが、紋寿が政岡、簔助が八汐、文雀が栄御前を遣い、嶋大夫と團七、津駒大夫と寛治が語り奏するのであるから、正に、決定版とも言うべき舞台である。
   6年前のこの劇場で、簔助の政岡、住大夫の語りの素晴らしい舞台を見て感動したのだが、今回、あらためて、歌舞伎とは違った文楽の面白さに接して、感激を新たにした。
   歌舞伎では、これでもかこれでもかと言うほど、名優の素晴らしい舞台を見ているのだが、何故か、この悲劇を、生身の役者ではない人形が、浄瑠璃語りと言う、いわば間接的な手法を通じて訴えかけてくる、その虚実の入り混じった虚構の世界が、何倍にも増幅して迫ってくる凄さである。

   私は、紋寿の「女形ひとすじ」を読んでから、ずっと、紋寿のファンで注目して見ているのだが、今回の紋寿の政岡の何という気品と優雅さ。
   若君・鶴喜代君(玉翔)の暗殺を恐れて、自分で茶道具を使って飯炊きをして給仕しなければならない政岡の胸を締め付けるのは、必死になって空腹に耐える若君と実子千松の健気な姿と悲運。
   茶道具の脇に両手を添えて頭を垂れて必死に堪えながら慟哭に泣く政岡の気品とその優雅さなどは絶品で、右手を腰に当てて左手一本で人形を遣う颯爽とした紋寿の姿は、正に、千両役者の風格である。
   それに、この舞台の命とも言うべき、政岡の赤い着物が、眩しいくらい目に染みて美しい。

   勿論、政岡の心情吐露は、絶命したわが子をかき抱いて、
   「三千世界に子を持った親の心は皆一つ、子の可愛さに毒なもの喰ふなと云うて叱るのに、毒と見たら試して死んでくれと云うやうな、胴慾非道な母親が又と一人とあるものか。」と、忠義一途に堪えに堪えて来たわが子への愛しさ済まなさが一挙に迸って、気が狂ったように慟哭するところで頂点に達する。
   実子千松が嬲り殺されるのを目前にしながらも、表情を変えずに涙さえ流さぬ政岡を見て、薬師の娘小巻に取り換えっ子だと吹きこまれていたので、死んだのは鶴喜代君に間違いないと、菓子を持ってきた栄御前に信じさせた。忠義が何ものにも優先する臣下の義務だとしても、人間政岡の激しく渦巻く心情の起伏と懊悩は、この芝居のメインテーマ。紋寿の遣う政岡は、生身の人間以上に、激しく観客に迫る。
   
   簔助の八汐は、非常に動きをセーブした演技で、歌舞伎役者のようなこわもてのエゲツナサはなくて、かなり淡泊な遣い方なのだが、それが、不思議にも、もだえ苦しむ千松(玉勢)の悲哀をいや増す。
   菓子を蹴散らす千松を即座に抑え込んで脇差を突きつけるところなどは、毒菓子であることを匂わせる歌舞伎と違うのだが、このあたりも直截明確な文楽ならの演出であろうか、
   これ程、モーションを切り詰めて感情表現を抑制して、非情の限りを人形に語らせる簔助の芸の冴えに感激して観ていた。
   八汐の大きな丁々発止の挑戦がなければ、政岡が生きてこないことは当然で、簔助を尊敬する紋寿にとっては、最高の舞台であったのだろうと思う。

   もう一つ感激であったのは、文雀の栄御前であるが、威厳と風格は勿論のことだが、悪の女ボスと言ったニュアンスと、一寸単細胞的な雰囲気が高貴さと綯い交ぜに滲み出ていて面白かった。
   いずれにしろ、人間国宝ふたりを相手にして、主役政岡を遣った紋寿の晴れ舞台であろうが、簔助と文雀が共演する舞台を見るのは初めてだし、女形のトップ3人の共演を見るのも初めてだったが、とにかく、人形が、生身の役者以上に語り演じる舞台の凄さを見たような気がしている。

   飯炊きの場で、政岡と鶴喜代君と千松と言う、全く性格と役割の違った、それも、ハイクラスのレイディと若君と言う高貴な子供とわが子と言う途轍もないキャラクターの差をものともせず、単調になりがちな長丁場を、感動的に語り切った嶋大夫の語りと團七の三味線の素晴らしさは格別である。
   非常に良質な「伽羅先代萩」の舞台を見て、次の歌舞伎の舞台を見るのが楽しみになってきた。

   最後の「近頃河原の達引」だが、勘十郎の猿廻し与次郎が実に良かった。
   貧しい京都の裏長屋を舞台にした世話物で、妹と母思いのしがない猿回しをしみじみと演じる勘十郎は、やはり、大阪人、あの与次郎は、典型的な人情の厚い掛け値なしの真剣勝負で生きている大阪人で、あのニュアンスと、ほろり、しんみりとさせる心の底から滲み出る人間味と温かさは格別なのである。
   門出を祝う猿回しは泣かせるが、演じる題材は、「曽根崎心中」だと言う。
   

   
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オランダ病と為替高に苦しむ資源大国

2011年09月09日 | 政治・経済・社会
   日経ビジネス最新号に、FT記事『「中国依存症」豪経済の死角』が載っていて、オーストラリアは、中国の資源需要を追い風に、鉄鉱石や石炭などの天然資源の輸出が好調で、それが、豪ドルの高騰を招き、製造業や観光業などの空洞化を招いていると言う。
   先進国経済のオーストラリアとしては、「脱資源」経済を目指して、競争力のある高付加価値の工業やサービス産業へ移行すべく構造転換を図るべきだが、むしろ、逆に、オランダ病が心配されている。
   深刻な政府債務と高い失業率に苦しんでいる他の先進国と比べると、オーストラリアは、30年連続のプラス成長で、失業率も5%前後で、それに、政府予算は2年以内に黒字転換し、政府債務はGDPの6%に過ぎない。

   ところで、表題の「中国依存症」だが、今や、中国は、総輸出の26%を占める最大の貿易相手国になってしまっているから、中国経済が減速すれば、もろに大打撃を受けることは必定で、それに、中国共産党政権がもっと安価な天然資源の供給源を確保すれば、あっさりとオーストラリアを切り捨てかねない危うさを孕んでいる。
   自国の天然資源は無限に存在すると言う発想に胡坐をかいている時ではなく、早晩枯渇するのであって、この好況をもっと上手に管理して、オーストラリア経済を高度化しなければならないと言う。

   資源関連産業は豪経済の10%にしか過ぎないのだが、設備投資は、70%を占めていて、その大半は、資源開発関連であって、濡れ手に泡の利益を地域社会に還元しないことに避難を受けていると言う。
   資源相場の好況のもたらした「まぐれ」の成功が、豪経済の健全化に回さていないので、オーストラリアは、国際競争力や生産性、イノベーションの国際ランキングは、大抵、下位に位置している。

   問題は、この中国特需に沸く好況が、インフレを促進し、豪ドルの為替相場をどんどん押し上げて、工業や観光業など他産業に大きなダメッジを与えていることである。
   それに、準備銀行が、2年間に7回も利上げを行い、オーストラリアの政策金利は、現在、先進国で最高の4.75%である。
   
   私は、この記事を読んでいて、このケースは、殆どぴったりとブラジルの現状に当て嵌まると、その符合に驚いている。
   ブラジルも、中国が第一の貿易相手国に躍り出て、鉄鉱石や小麦など天然資源や食料を買い漁っていて、その中国特需に恵まれて、欧米日の金融緩和の緩和もあるが、通貨レアルが異常高になって、インフレが進行して、政策金利の高騰(12%)を招いていて、他産業に大きな打撃を与えている。

   1960年代に、北海で天然ガスが発見されて以降、オランダは、エネルギー価格高騰の余波を受けて天然ガスを大量に輸出した結果、自国通貨ギルダーの高騰で、他産業の国際競争力を削いで衰退を招いたと言うのが、「オランダ病」だが、それ以降、絶えず、資源大国では、このDutch Diseaseが問題となっている。
   ブラジルの場合には、外資企業主導とは言え、そして、先端技術では後れを取っているとは言っても、まだ、工業力があるので、今のところ、オランダ病の兆候はないと言われている。
   しかし、オーストラリアの場合には、今回の場合にも、鉄鉱石や石炭など天然資源の高騰とその輸出依存状態が突出している。

   ブラジルは、深刻な所得格差や貧困問題の解消など新興国としての経済社会の歪を治しながら、マクロ経済の舵取りを上手く図りながら潜在的経済力を引き上げなければならないと言う大命題を抱えているのだが、そのためにも、濡れ手に泡に近い資源価格の高騰と中国特需による収益を、如何にして、国家の将来の経済社会の発展に活用するかと言う難問題をクリアしなければならない。
   これは、正に、オーストラリアの直面している問題と同じで、この資源ブームを利用して、R&D、高度教育に資金を投入して、イノベイティブで創造的な高付加価値を生み出す高度な産業構造に転換すべく、将来を見越した国家戦略の構築が急務であると言うことであろう。

   しかし、同じ異常な為替高に悩んでいる日本の現状から見れば、あまりにも羨ましい限りである。
   
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