熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

わが庭・・・白梅咲き始める

2020年01月31日 | わが庭の歳時記
   朝、庭に出ると、ツバキに戯れていたメジロが、急に、飛んだと思うと、白梅の小枝に飛び上がった。
   気づかなかったが、二日の異常な暖冬気象で、白梅が一気に開花したのである。
   昨年は、梅の実が豊作だったので、梅酒と梅ジュースを作った。
   今年も、びっしりと蕾がついているので、沢山実をつけることであろう。
   
   
   

   紅梅の方は、まだ、蕾が固い。
   そのかわり、鹿児島紅梅が、ほぼ、5分咲きで、半分くらいの蕾は開花していて、今、一番美しい。
   千葉の庭には、ほぼ5メートル幅のこうもり傘状の綺麗なピンクの八重咲きの枝垂れ梅が植わっていて、毎年、楽しんでいたのだが、グーグルアースで見ると、鬱蒼としていた庭木もろとも、跡形もなくなっていて、かわいそうなことをしたと後悔している。
   この鹿児島紅梅は、一輪ごとの花の形は同じだが、咲き方はアトランダムで、木は上に伸びる。
   門扉と塀の後ろから頭を出しているので、道行く人に楽しんでもらえるであろう。
   
   
   
   

   一気に咲き始めた椿は、ピンクの小輪フルグラントピンク。
   一面に広がった花弁の隙間から、黄色い蕊を覗かせていて面白い。
   結実はむつかしいのであろう、何本か植えていたが、実がなった記憶はない。
   
   

   遅ればせながら、庭木と鉢植えの花木などに、必要に応じて寒肥を施した。
   例年、あぶらかすや骨粉、鶏糞牛糞といった自然の有機肥料を使っていたのだが、今回は、天然原料100% でゆっくり穏やかに効果を発揮するというペレットタイプの「お礼肥&寒肥」を使った。
   普段は、園芸店へ出かけて肥料を買うのだけれど、今回は、アマゾンで買った。
   良く分からないが、働き始めるのは3月であろうから、施肥しないよりはする方が良いと思っている。

   家にいて、晴耕雨読の日々を送っているときには、読書やパソコンに疲れると、庭に出て庭を一回りしながら、微妙に装いを変えていく木々や花々に語り掛けるのだが、これから、陽気が良くなって、花々の変化が早くなり、小さな小鳥たちや蝶などの昆虫が動き始めると楽しみになる。
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ユヴァル・ノア・ハラリ 著「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」(2)

2020年01月30日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本の次章は、「Ⅱ 政治面の難題」で、コミュニティ、文明、ナショナリズム、宗教、移民について論じている。

   ハラリの論点は、今日の人類は、あらゆる国境を嘲笑うような、そして、グローバルな協力を通してしか解決しようのないような、三つの共通の難題、核の難題、生態系の難題、テクノロジー面の難題、に直面している。人類が、この困難な難題に対して、いかに対処するかということである。

   今や、人類は、「自国第一」と言って特定の国の権益を守るよりも、核戦争の防止を優先すべきで、国際協力の確固たるシステムなしに、独力で核による破壊から世界を、いや、自国自身さえ守れるはずがない。
   人類は、生態系の連続殺人犯として振舞ってきたが、今や、大量殺人者に変容し、このままでいけば、全生物のうち多くの割合を絶滅させ、人類の文明の基盤まで蝕みかねない。
   また、バイオテクノロジーとAIの組み合わせで、ホモ・サピエンスは、ヒト科の枠から完全に抜け出て、身体的特性や物理的特性や精神的特性が生み出されるかもしれないし、意識はどんな有機的構造から分離することさえあり、AIの発達によって、超知能をもつものの全く意識はない存在が支配する世界が誕生しかねない。

   「文明の衝突」する現実の世界において、これらの難題に対して、果たして、ナショナリズムや宗教は、どのように対峙して、問題を解決できるのかということである。
   ナショナリズムについてのハラリの結論は、極めてシンプルで、核戦争と気候変動と技術的破壊という三つ巴の脅威を前にして、人間が自国への忠誠心を他のすべてに優先させることを選んだら、壊滅的結果を生むだけであり、避けなければならないということであり、宗教の場合でも、移民の場合でも、グローバルベースで解決する以外にない。ということである。

   ハラリは、良い指針として、EUの憲法草案を挙げている。
   「ヨーロッパの諸民族は、各自の国家のアイデンティティと歴史の誇りを持ちながらも、かっての分断を超越し、これまで以上に緊密に団結して共通の運命を作り上げる決意である。」
   EUは、軍隊と経済的な防壁を提供することであって、独立したスコットランドやカタロニアを打ち立てるという考えは、ドイツの侵略をおそれることなく、地球温暖化やグローバル企業に対抗するヨーロッパの共同戦線をあてにできる方が良い筈で、ヨーロッパのナショナリストは気楽に、構えている。
   したがって、ブレグジットは、愚の骨頂(?)で、イギリス国民は、このEUという奇跡の仕組みを台無しにした。というのである。
   イギリスがEUを脱退した以上、スコットランドがイギリスから独立して、EUに存続して生きる道は十分にあり、その方がベターかもしれない。
   しかし、ハラリは、普遍的な自由主義の価値観を実現する約束のもとに築かれたEUだが、今や、統合と移民という難問の所為で、崩壊の瀬戸際にある。というのだが、どうであろうか。

   このブレグジットについては、経済的な側面について是非が議論されていたきらいがあるが、政治的なハラリの論点から言えば、この方が正論であろうし、面白いと思う。
   しかし、EUは、ヨーロッパの問題は解決したとしても、所詮、グローバルベースで考えれば、国際政治のブロック化であって、宇宙船地球号全体の問題解決にはならない。
   尤も、ハラリは、三つの難題を解決するための、唯一の現実的な解決策は、政治をグローバル化することだ、とは言っているが、どうするのかは何も論じていない。

   しかしながら、今や、人類は、単一の文明を形成しており、核戦争や生態系の崩壊や技術的破壊といった問題は、グローバルなレベルでしか解決できないにも関わらず、ナショナリズムと宗教が、依然として、人間の文明を、異なる敵対することの多い陣営に分割して、グローバルな問題と、局地的なアイデンティティとが衝突して、解決の目途さえ程遠い。
   トランプ時代の出現とポピュリズムの台頭とによって、ますます、その傾向が強くなり、進退窮まれりというところであろうか。

   高邁な哲学も、人類の未来への道標の片鱗さえもなく、いつまでも、低次元の桜を見る会に現を抜かして袋小路に陥った、太平天国にどっぷりとつかった能天気な日本の政治など、論外だということかも知れない。
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わが庭・・・ツバキにメジロ

2020年01月29日 | わが庭の歳時記
   寒くて陰鬱な寒い日が続いていたが、急に温かい良い天気になった。
   いつも、殆どつがいで飛んでくるメジロが、珍しく一羽で、庭の椿を逍遥し始めた。
   こんな時に限って、て元にカメラがなく、急いで、書斎に入ってカメラを持ってきたら、まだ、庭の片隅にいたのだが、
   カメラについているレンズは、花を撮っているので、90ミリのマクロレンズで、望遠レンズに変えたいが、また書斎に帰っていると逃げてしまう。
   
   ピンク加茂本阿弥に顔を突っ込んでいるが、カメラからは遠い。
   三河雲龍に飛び移り、ほんの数秒で、タマカメリーナに移動した。
   急に飛び上がったかと思うと、白梅の枝にとまり、気がつかなかったが、メジロの前に1輪だけ花が咲いている。
   
   
   
   
   
   しばらくすると、鮮やかに真っ赤な蕾を開いて上を向いている紅茜の花に飛んできた。
   数メートル先の植木鉢なので、これなら、90ミリのレンズでも撮れる。
   ほんの一分ほどの瞬間だったが、立て続けにシャッターを切った。
   小さな紅茜の花弁の端に止まって、蕊の奥に頭を突っ込んで蜜を吸っているのだから、メジロは非常に小さくて軽い小鳥なのであろう。
   以前に、ガラス窓に突っ込んで脳震盪を起こして気絶したツグミとメジロを手に握りしめて温めて回復させたことを思い出したが、確かに、メジロには、重さを感じなかった。
   
   
   
   
   
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わが庭・・・椿:フルグラントピンク、タマカメリーナ咲き始める

2020年01月28日 | わが庭の歳時記
   八重咲きで小輪の椿フルグラントピンクが咲き始めた。
   蕾が色づき始めて開花するのに、随分かかった感じだが、やっと、1輪咲き、沢山ついた蕾が、一気に膨らみ始めた。
   何本か植えていて、千葉から移植した唯一の1本だが、成長が遅く、まだ、2メートルに足らないが、小輪ゆえに、花付きは良い。
   
   
   
   

   もう一つ咲き始めたのは、タマカメリーナ、玉の浦の改良種の洋椿である。
   花としては、美しいと言う感じがしないので、あまり好きではないが、タマアメリカーナをべっちゃりした感じである。
   まだ、1メートル足らずの幼木なので、昨年は花が咲かなかった。
   庭植えにすると、木の生育に時間がかかって、かなり、大きくなるまで花付きが悪いのである。
   
   

   ピンク加茂本阿弥、紅茜、エレガンス・スプレンダー、小磯の実生苗、タマグリッターズは、咲き続けている。
   
   
   
   
   

   門扉の傍の鹿児島紅梅が、奇麗に咲き始めた。
   門扉の左右の庭木には、椿は、式部、エレガンス・シャンパン、カスケード・エレナ、そして、モミジの獅子頭を植えていて、その後ろから、鹿児島紅梅やクラブアップル、アメリカハナミズキなどの花が顔を出すように植えている。
   もうすぐすると、花が一斉に咲きだして奇麗になる。
   
   
   
      

   中国ミツマタと沈丁花の蕾が、スタンドバイしている。
   今日は、随分寒くて、箱根など大雪のようだが、鎌倉は、冷たい雨である。
   しかし、春の足音は、もう、そこまで近づいてきている。
   
   
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映画「男はつらいよ お帰り 寅さん」

2020年01月27日 | 映画
   映画「男はつらいよ お帰り 寅さん」を見に行った。
   私は、渥美清の映画「男はつらいよ」49作全部見ている寅さんファンである。
   寅さん映画を見始めたのは、最初からではなく、1980年代の半ばくらいからで、その当時、オランダに駐在していて、日本への出張の往復のJALの機内や、アムステルダムのホテルオークラでの映写会で見て、娘が数巻ビデオを借りてきて、家族で見てから、一気にファンになったのである。
   長い間、ヨーロッパなど外国にいたので、日本の映画館で見た記憶は殆どなく、何回もの日本への往復の度毎に、ビデオやレーザーディスクを買い込んだりダビングして持ち帰って鑑賞し、その後、ロンドンから日本に帰ってから残りを映画館で見ており、NHK BS番組も全篇録画して、何度か見て思い出を反芻している。
   インターナショナル・スクールの長女やオランダ人小学校に通う次女にとっては、寅さん映画の美しい日本風景やほのぼのとした日本での物語が、唯一の貴重な日本との接点であって、我々大人にとっても、涙が零れるほど懐かしい日本体験であった。
   
   さて、今回の第50作は、24年を経ての作品で、勿論、渥美清もいないし、多くの登場人物も逝ってしまい、主要登場人物も歳を取っており、その事後談と言う位置づけで、過去の思い出を反芻しながらの物語になっていて、主人公の小説家になった甥の諏訪満男(吉岡秀隆)が、
   ”困ったことがあったらな、風に向かって俺の名前を呼べ。おじさん、どっからでも飛んできてやるから―車寅次郎―、”と言う寅さんの言葉に導かれて生きている、そんな懐かしい伯父の寅さんが見え隠れする映画である。
   ラストシーンでは、寅さんが恋をしてシャボン玉のように消えていった全てのマドンナの映像が映し出されていて、年輪の貴重さを感じて、懐かしさ一入であった。

   映画の冒頭、満男が、砂浜を必死に駆けて、疾走してくるイズミ(後藤久美子)と手を握り合って感激するシーンを満男の夢として映しだされていて、この映画は、満男とイズミの再会物語がメインとなっている。
   新進小説家としてサイン会を開いていた満男の前に、子供のために本を買いに来ていた国連難民高等弁務官事務所の職員として来日していたイズミが、張り紙を見て現れると言う劇的な再会となり、いつものように、柴又を訪れて、母・さくら(倍賞千恵子)と父・博(前田吟)と楽しい時間を過ごし、1泊して、翌朝、満男の運転で三浦半島にある老人ホームへ父(橋爪功)を訪ねて再会し、母(夏木マリ)と帰って行く。翌日、オランダへ帰国するイズミを空港で見送り、妻が6年前に病没していたことを隠していたことを謝り、満男の思いやりに感激したイズミが満男の肩に顔をうずめ、お互いの愛を確かめ合って別れる。腑抜けのようになっていた満男は、伯父寅さんの言葉を思い出して、新作を書き始める。

   興味深いのは、再会を喜ぶ満男が、「会わせたい人がいる」と神保町の小さなジャズ喫茶にイズミを連れて行って、20年以上前に奄美大島で会った寅のかつての恋人・リリー(浅丘ルリ子)に会って、リリーから、寅との思いがけない結婚話があって、不器用な二人故に、消えてしまったと言う懐かしい逸話を、当時の映像を交えて蘇らせていることである。
   寅さんが、本当に、リリーに気があったのは、沖縄で、寅さんがリリーの後ろから手を伸ばして抱きしめようとしたことがあって、タイミングがズレてすっぽ抜けになったシーンが描かれていて、浅丘ルリ子は、リリー役を、11作『寅次郎忘れな草』、15作『寅次郎相合い傘』、25作『寅次郎ハイビスカスの花』、48作『寅次郎紅の花』で、四回演じていて、寅さんのお嫁さん候補としては、誰もが認める存在だったと思う。
   今回、こんな思いを込めて、山田監督は、このシーンを加えたのだと思う。

   一寸、面白かったのは、冒頭の寅さんのセリフとオープニング主題歌「男はつらいよ」を桑田佳祐がやっていることで、荒川の土手でのお馴染みのシーンも、寅さんの格好をした桑田佳祐が演じていることである。
   渥美清の柔らかくて温かいムードの聞きなれた声が、一寸固い芯のある剛直な声に変わり、先の紅白歌合戦のデジタル化された美空ひばりの映像と歌声のような感じがして、不思議なイメージを覚えた。
   山田監督が依頼して、桑田が喜んで出演したようで、日本を代表するトップ歌手のエポックメイキングな起用と言うことであろうが、正直なところ、映画のラストで、渥美清の主題歌が流れて、ほっとした

   現在のストーリーにしながら、過去の懐かしい映像をふんだんに鏤めて、名優渥美清を蘇らせて楽しい映画に仕立て上げているのは流石である。
   皆名優揃いだが、イズミ・ブルーナ(及川泉)役の後藤久美子が、良い味を出して好演していた。
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国立能楽堂・・・狂言の会「法師ヶ母」「彦市ばなし」ほか

2020年01月26日 | 能・狂言
   24日の国立能楽堂の狂言の会は、非常に充実していて面白かった。
   プログラムは、
   狂言 三本の柱 (さんぼんのはしら)  善竹 忠重(大蔵流)
   狂言 法師ヶ母 (ほうしがはは)  野村 万作(和泉流)
   新作狂言 彦市ばなし (ひこいちばなし)  茂山 千五郎

   「三本柱」は、慶事事で演じられる脇狂言。
   三人の冠者で三本の柱を二本ずつ持って、謡い舞う面白い狂言。
   シテ/果報者 善竹忠重、アド/冠者 善竹富太郎、忠亮、茂山忠三郎
   笛 栗林祐輔、小鼓 鳥山直也、大鼓 佃良太郎、太鼓 林雄一郎
   

   万作と萬斎が演じる法師ヶ母は、絶品の舞台。 
   一期一会、いつも、最高峰の舞台の鑑賞だと心して観ている。

   シテ/夫 野村万作 、アド/妻 野村萬斎、 地謡:中村修一、石田幸雄、高野和憲、内藤連
   酔っ払って帰宅した夫は、出迎えの態度が悪いと言って、酒の勢いで、妻を家から追い出す。妻は、暇の印の小袖を貰って、子を残して、泣く泣く家を出ていく。酔いが覚めて後悔した夫は、法師ヶ母(子の母=妻)を探して、笹を手にした狂乱の体でさまよい歩く。夫は実家に向かう途中の妻に偶然出会って、懸命に謝り、苦衷をかき口説いて許しを得て、一緒に家に帰ってゆく。
   前半は、普通の夫婦喧嘩のイメージだが、後半は、物狂能の雰囲気にかわって、掛素襖の右肩を脱ぎ笹をもって憔悴しきった体で千鳥足で登場したシテが、妻への恋しさと感謝の心情を切々と謡って涙に暮れて妻を求めて、カケリ(狂乱の舞)を舞う。
   能「丹後物狂」のシテの部分を一部用いて、パロディになっていると言うのだが、シテの万作の謡も舞も本格的な能舞台で、格調の高い狂言である。

   法師が母はただひとり・・・と涙に咽んで謡いながら親元に帰る妻の声を聴いて、夫が「聞かまほしの御声や」と近づくのだが、妻の第一声が面白い。みめの悪いのは生まれつき、一度離縁した以上何故帰られようかと断ると、夫が酔狂だったと謝って、みめは麗しいと応えて、「いとおしの人やの、こちらへわたしめ」と誘うと、妻は、「心得ました」と、連れ立って帰ってゆくハッピーエンド。
   30分の短い舞台だが、多くのストーリーがぎっしりと詰まった狂言である。
   
   彦市ばなしは、肥後の国に伝わる民話で、吉四六や一休と並ぶとんち話で知られているとかで、色々な彦一にまつわる「彦一ばなし」の中から、木下順二が、「天狗の隠れ蓑」と「河童釣り」とを繋ぎ合わせて脚色して作った新作狂言で、とにかく、愉快で面白い。

   天狗の隠れ蓑が欲しい彦市が、釣竿を遠眼鏡と称して天狗の子を騙して取り上げて散々悪さを重ねるが、妻にがらくたと間違われて燃やされてしまい、泣く泣く、試しに残った灰を体に付けてみたところ姿を消すことが出来、また悪さを続けるが、川に落ちて灰が全部流れてオジャン。
   彦市が魚釣りをしていると、通りがかった殿様が何をしているのか尋ねたので、河童を釣っていると口から出まかせを言うと、物好きな殿様は儂にも釣らせろと言う。困った彦一が、河童は鯨の肉しか食わぬと言ったので、殿様は沢山鯨肉を持ってきたが、彦市は餌にせずにくすねて、まだかと殿様が様子を尋ねると殿様が大声を挙げたので惜しいところで逃げられと答え、河童は非常に狡賢いと説明する。痺れを切らした殿様が、餌だけ取って姿を見せない、卑怯な河童じゃと叫ぶと、聞き捨てならぬと本物の河童が這い上がってきたので、彦市は、それを捕らえて、これぞ河童釣りと自慢げに答えたので、ご機嫌の殿様は彦市を誉めて沢山の褒美を与えた。

   ところが、木下狂言は、この後半部分を、変えてしまって、簑を取り返しに来た天狗と彦市の争いを、河童を捕まえていると勘違いしたお殿様は、彦市に声援を送って、彦市と天狗の子の後を追って、幕に消えて終わる。
   面白い創作は、殿様が、蔵から出てきた天狗の面をつけて出てきたので、彦市は、親天狗と間違えて平伏したり、これを騙して貰い受けたのだが、隠れ蓑を取り返しに来た子天狗に、面と鯨肉を盗まれて、持ち帰った面が祖父に似ており鯨肉が好物だと親天狗に喜ばれて許されたと言う話は、天狗の面で子天狗を脅し上げ、親天狗に鯨肉を差し出して許しを請おうと考えた彦市の悪知恵を超えてのどんでん返し。殿様を騙しての打ち首の心配は、どうするか後で考えようと言う瞬時に悪知恵が働く能天気ぶりが彦市らしい。

   悪知恵が体全体に満ち溢れるエネルギッシュで楽天的な食わせ物の彦市の千五郎、
   可愛くて剽軽な天狗の子の千之丞
   悠揚迫らぬ品の備わった大らかさと惚けた調子の殿様の逸平、
   この逸平については、NHKのドラマなどでよく見るのだが、品のよい茫洋とした大らかさと、どことなく世間離れした剽軽な公家の雰囲気を醸し出していて、歌舞伎の一条大蔵卿のイメージに一番近く、近松門左衛門の心中物のがしんたれで頼りない大坂男をやらせたら、どんなに面白い舞台になるかと思ってみている。

   新作狂言だが、私が観たのは、最初は、シェイクスピアの「ウインザーの陽気な女房たち」の「法螺侍」
   続いて、「鮎」と「楢山節考」
   すべて、万作・萬斎の舞台だが、ある程度思想性があって物語も豊かで芸術性も十分に加味して創作された舞台で、狂言と言うよりも、芝居を観ているような雰囲気で観ていて楽しい。
   特に、異業種と言った感じの芸域の違った芸術間の変換昇華などには、特に興味を持っているので、猶更、興趣をそそられている。
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スティグリッツ PROGRESSIVE CAPITALISM(プログレッシブ キャピタリズム): 利益はみんなのために(1)

2020年01月25日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   スティグリッツの新刊「スティグリッツ PROGRESSIVE CAPITALISM(プログレッシブ キャピタリズム): 利益はみんなのために」だが、先日、「トランプ経済についての真実」を書いた直後なので、まず、この本の「まえがき」に、トランポノミクスについて同じような、少し、経済学的な見解を述べているので、この点だけに限って、追加補記しておきたい。

   スティグリッツの基本的な考え方は、サプライサイド経済学に裏打ちされたレーガノミクスは、間違いであって、その再来であり強化版ともいうべきトランプ経済学、トランポノミクスが成功するはずがないと言うことである。
   40年前、それまでは、政府が財政・金融政策を通じて完全雇用を維持するケインズ経済学が主流であったが、規制緩和や減税によって経済を自由化すれば、経済が活性化され、商品やサービスの需要が増え、それにより個人の所得も増えると主張するサプライサイド経済学に取って代わられた。
   このレーガン時代のサプライサイド経済学はうまくいかなかったので、父ブッシュ大統領は、レーガンの経済学の摩訶不思議な主張を揶揄して「ブードゥー経済学」と呼んのだが、1981年の減税によって、莫大な財政赤字、成長の鈍化、格差拡大に時代が始まったにも拘らず、トランプは、2017年の税制改革により、確たる理論もなく、科学ではなく利己的な迷信に基づき、レーガン政権時代よりも大規模な減税政策を実施した。
   2018年の推計では、翌年1兆ドルと言う記録的な額の借金が必要となり、GDPに対する赤字の割合も記録的な数字となり、この赤字は、経済が完全雇用に近づいている状態では、完全に逆効果となり、FRBが金利を上げれば、投資や成長が阻害される。と言う事になる。

   サプライサイド経済学の理論的間違いが繰り返し証明されているのだが、トランプや21世紀の共和党は、もはや、理論を必要とせず、減税ができる立場になったから減税したに過ぎない。
   まだ、良識のあったレーガンなど以前の保守運動とは違って、トランプや最近の世界の同類ポピュリスト指導者は、真実、科学、知識、民主主義を軽視している。と言う。

   トランプ政権は、民主主義の価値を損ねるような、組織的な投票妨害や組織的な選挙区改正(ゲリマインダー)などを試みている点で際立っている。のだが、
   これらの点については、ジャレド・ダイアモンドやイアン・ブレマーのトランプ政権批判の記事でも指摘した。
   また、これまでの政権との最大の違いは、過去の指導者は、「われら合衆国国民は」で始まる憲法を支持し、国を統一しようとし、公益の原則に対する信念があった。
   ところが、トランプは、対立を利用し、さらなる分裂を煽り、文明を機能するために必要な礼節は放棄され、言葉でも行動でも見せかけの良識がまかり通っている。と言う。

   これまでの政権で、真実を覆い隠そうとしたことはあるが、現在のホワイトハウスの住人とその取り巻きには、真実など何の意味もない、と言う事は、嘘、フェイクニュースがまかり通ている。と言うことである。

   減税について、もう一つ。
   トランプの減税法案は、政治的に実にシニカルで、強者富者企業優先で、一般市民には、わずかな減税を行っているのに過ぎず、それも、今後数年の一時的なものである。
   共和党の戦略は、一般市民は短絡的で、小幅ながらも減税と言う言葉に目を奪われ、それも一時的であると言う事も、中間層の大半が増税であることも気づかないであろう、そして、アメリカの民主主義で本当に重要なのは金で、富裕層を優遇すれば、共和党に献金が雨あられと降り注ぎ、その金で政権を維持するのに必要な票を買い集められる。と言う思惑あってだと言うから驚く。
   ステイグリッツは、トランプには、アメリカを救うプランはない。最上層の人々たちが大多数の人々から略奪を続けるプランがあるだけだ。とも言う。
   アメリカは、建国当時の理想から、あまりにも遠く離れてしまった。のである。
   
   さて、年初放映のBS1スペシャル「欲望の資本主義2020~日本・不確実性への挑戦~」で、スティグリッツは、アダム・スミスは、間違っていた。と述べていた。
   見えざる手の導きなどに頼って、自由市場に任せておくと、今日のように、過剰な金融化、グローバル経済の暴走、市場支配力の増大、格差の拡大などによって資本主義経済はスキューして暗礁に乗り上げ、民主主義さえ危うくする。と言う事であろうか。

   サプライサイド経済学が間違った経済学であり、トランプの経済学が、その上塗りどころか強化版であって、間違っていて、成功するはずがない。と言うステイグリッツの見解は、それなりに理解はできた。
   しかし、サプライサイド経済学が、須らく間違った経済学であるかどうかには、多少疑問を持っている。
   勉強不足で、理論的根拠を持ち合わせていないので、何とも言えないが、レーガノミクスと同時に同じような自由市場万能主義政策を推進していたサッチャーが実施した経済政策で、イギリス病と揶揄されていたイギリス経済が、不死鳥のように蘇り、ロンドンのシティがビッグバンで沸き返ったのを経験していて良く知っているからである。
   私が、ヨーロッパに旅したり、実際に移り住み知っているのは、1973年末から20年間くらいであるが、福祉国家を標榜して社会主義的な傾向の強かったイギリスの政治経済社会がズタズタになった、サッチャー以前の惨状は目を覆うばかりで、ヒースロー空港では、必ず、スーツケースは開けられて盗難に合うし、シティではごみ収集がされずに灰燼が宙を舞い野鼠が金融街を走っていたのを見ており、サプライサイド経済学のサッチャーの政治経済政策の恩恵は、その前とは月と鼈であった。

   ケインズ経済学が優勢かと思えば、フリードマンが蘇り、新自由主義が力を得て・・・
   自由か政府管理か、経済学は、サイクルすると言うか、時代の変遷で揺り動いているような気がしており、絶対正しい経済学などはないのではなかろうか。
   当を得たタイミングで、当を得た経済学の政策を実施すれば成功するが、逆の場合には暗礁に乗りあげる、と言う事であろう。

   今や、自由主義市場原理が行き過ぎて資本主義経済が暗礁に乗り上げており、未解決のまま、その後遺症が存続継続して悪さをして、政治経済社会を窮地に追い込んでいる。
   その最中に、更に屋上屋を重ねて自由化を推進するサプライサイド経済政策を推し進めていけば、結果は火を見るより明らかである。
   その意味でのサプライサイド経済学の破綻であって、スティグリッツは、この本で、政府が指針を示し主導する政治経済について詳細を論じているが、本質的には、理想的な哲人政治の登場を待つ意外にないような気がしている。
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ユヴァル・ノア・ハラリ 著「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」(1)

2020年01月23日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   「サピエンス全史」で人類の「過去」を語り、「ホモ・デウス」で人類の「未来」を描いたユヴァル・ノア・ハラリの新しい本「21 Lessons」は、人類の「現在」、21世紀の人類のための21の思考を論じる。
   先の2著で、ハラリの基本的なビジョンは開陳されているので、特に、意表を突いた展開は少ないが、とにかく、多方面にわたって現在人類が直面する重要問題について論じていて、非常に興味深い。

   まず、今回は、冒頭の「Ⅰ テクノロジーの難題」について考えてみたい。
   ここでは、21のうち、幻滅、雇用、自由、平等を論じている。

   1990年代初期、共産主義体制が崩壊した時、過去の大きな政治問題や経済問題が解決した、民主主義と人権と自由市場と政府による福祉事業と言う一新された自由主義のパッケージこそが、唯一の選択肢として残ったとする「歴史の終わり」が歓迎された。
   このパッケージが、世界中に広まり、あらゆる障害を克服し、すべての国境を消し去り、人類を一つの自由でグローバルなコミュニティに変えることを運命づけられているように見えた。
   だが、歴史は終わらず、自由主義と言う不死鳥は、幻滅に終わり、いまや、ドナルド・トランプの危機を迎えている。と言うのである。
   自由主義は、我々が直面する最大の問題である生態系の崩壊と技術的破壊に対して、何ら明確な答えを持っていない。
   テクノロジー面の様々な革命が、今後十年間に勢いを増し、これまで経験したこともないような厳しい試練を人類に突き付けてくるであろうが、何よりも、ITとバイオテクノロジーの双子の革命に対する能力がどれだけあるかで真価が問われてくると言う。
   分かり易いのは、雇用で、テクノロジー革命は、間もなく、何十億もの人を雇用市場から排除して巨大な「無用階級」を新たに生み出し、既存のイデオロギーのどれ一つとして対処法を知らないような社会的・政治的大変動をもたらす可能性がある。

   情報テクノロジーとバイオテクノロジーの融合が、現在の価値観の核となる自由と平等を脅かすと言う。
   我々は、今、巨大な革命のさなかのある。生物学者たちが人体の謎、特に、脳と人間の感情の謎を解き明かしつつあり、コンピューター科学者たちが、前代未聞のデータ処理能力を開発しており、このバイオテクノロジー革命と情報テクノロジー革命とが融合した時には、我々の感情を自分たちよりもはるかにうまくモニターして理解できるビッグデータアルゴリズムが誕生する。
   その暁には、権限はおそらくコンピューターに移り、これまでアクセス不能であった我々の内なる領域を理解し操作する組織や政府機関に日々出くわし、人間や心をハッキングされて、自由意志と言う自分たちの幻想が崩れ去るであろう。と言うのでる。

   たとえば、一切の言動に加え血圧や脳活動をモニターするバイオメトリックブレスレットの直用を義務付けられたら、機械学習の途方もない力が働いて、その個人の一瞬一瞬の考えを余すところなく読み取ることが出きる。
  アルゴリズムが、益々進化してハッキングの能力が増すと、独裁政権は、ナチスドイツを凌ぐほどの、国民に対する絶対的な支配力を獲得し得るので、政権への抵抗は完全に不可能となり、民主主義国家においても、心をハッキングされて、自由意志を去勢される恐れがあり、このように、バイオテクノロジーとITが融合したら、民主主義が全く新しい形に自らが仕立て直すか、さもなければ、人間が、「デジタル独裁国家」で生きるようになってしまうか、どちらかである。と言う。

   平等については、生物工学とAIの普及の組み合わせの相乗効果によって、一握りの超人の階級と、膨大な数の無用のホモ・サピエンスからなる下層階級へと人類を二分しかねない。
   富める人が、多くの金を使って、能力を強化した体や脳を買って人間改造できるのなら、世界の超富裕層は、世界の富の大半のみならず、世界の美と創造性と健康の大半をも手に入れ、庶民との格差は、益々、増幅して行く。
   神のような力を一握りのエリートが独占するのを防ぐために、人間が、生物学的なカーストに分かれるのを防ぐためにどうするのか、難しい問題である。

   以上は、ハラリの説く状況の一面だが、雇用の喪失は殆ど既成の事実であり、
   バイオテクノロジーとITの融合進化が、人間の脳や心をハッキングしてコントロールする能力を備えれば、個人の自由もプライバシーも全てITに支配さててしまい、誰が、あるいは、機械がどのように大権を振るうのか、人類の死活問題となる。
   地球温暖化で、宇宙船地球号が危機的状態にあると騒がれているが、このITとバイオテクノロジーの融合進化こそが、人類にとって最大の危機ではないかと、ハラリは問うているのだろうか。

   現在、GAFAの途轍もない力が問題となっているのだが、公的機関がうまくコントロールして人類社会のために活用できれば良いのだが、もう、その域を超えている。
   それに、ITとバイオテクノロジーが癒合して自立運動を開始して動き出し、人間のコントロールの域を超えたら、どう制御するのか、
   AIとIOTの創造する途轍もない世界が、もう、そこまで近づいており、人間の能力を追い抜いてコントロールできなくなったら、どうするのか。
   我々老年は、その時には、もうこの世にいないと高をくくっているが、ハラリの予言提言は注目に値する。
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国立文楽劇場・・・「加賀見山旧錦絵」

2020年01月22日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   第2部は、「女忠臣蔵」と称される「加賀見山旧錦絵」で、「草履打の段」から「奥庭の段」まで、すなわち、全11段(実際は9段)の6段と7段目である。
   歌舞伎の「鏡山旧錦絵」は、この部分を脚色したのだが、草履打ちの前に、「別当所竹刀打ちの場」が挿入されていて、町人の娘で武芸の心得のない尾上に、竹刀の勝負を挑んで、代わりに立ち会った召使お初に負けると言うシーンが展開される。

   ストーリーは、
   局岩藤(玉男)が、弾上とお家横領を企んでいて、その陰謀に関わる密書を、忠臣の中老尾上(和生)に拾われてしまい、その腹いせに、尾上を侮辱して徹底的に苛め抜き、砂まみれの自分の草履を拭くように命じ、当惑する尾上をその草履で打ち据える。恥辱を受けた無念さに意気消沈した尾上は屋敷にかえってきたので、事情を聞き知っている召使お初(勘十郎)が、忠臣蔵の塩谷判官の話をして、それとなく短慮を起こさないよう示唆したが、母親への手紙を届けるように使いに出されたが、胸騒ぎがして手紙を読むと遺書、急いで取って返すが、時遅しで、尾上は自害。そばに落ちていた岩藤の謀反の手紙を見て、お家の一大事を知ったお初は、御殿の奥庭で、岩藤を待ち伏せて殺害して仇を討ち、忠節を誉めたてられて中老二代目尾上となる。

   6段で、この話の前に、岩藤が、家中の若侍桃井求馬に付文を届けており、求馬が、恋仲の腰元早枝がきて話をしている時、不義者見つけた、不義はお家のご法度と、うしろから岩藤が現れて、ふたりを連れてゆこうとしたので、求馬は、不義というのならこれは何かと先ほどの付け文を突きつけたので、さすがの岩藤も返答に窮し、大恥をかくと言う失態を演じており、
   岩藤は、自分が以前落とした密書を尾上に拾われ、その上今回の不首尾で、憤懣遣るかたなく、その不満の矛先を尾上に向けて、尾上が町人の出であるからどうせ武芸のひとつもできないのでお役が務まるかと散々に罵り、挙句の果てに自分の履いていた草履で尾上を何度も打つと言う挙に出たのである。
   この岩藤だが、あの憎々しい八汐の首で、歌舞伎では、立役の役者が演じるのは当然としても、人形にも拘らず、文楽でも、立役が遣うと言うのが興味深い。

   この文楽、岩藤の玉男、お初の勘十郎、尾上の和生と言う人形遣いのエース3人が三つ巴の緊張した重厚な演技を展開し、非常に質の高い舞台を作り出していた。
   浄瑠璃と三味線も、呂勢太夫は休演したが、靖太夫ほか清治、籐太夫・團七、千歳太夫・富助、織大夫・藤蔵、靖太夫・錦糸、それぞれ、凄い熱演であった。

   この後、「明烏六花曙」が上演されたが、前に舞台にかかったのは、1996年1月と言うことで、知らなかったのは当然だが、楽しませてもらった。
   
   
   一階の「資料展示室」では、文楽入門で、興味深い展示がされていた。
   
   
   
   

   記録録画のために、カメラが3台入っていた。
   
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国立文楽劇場・・・「曲輪ぶんしょう 吉田屋の段」

2020年01月21日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   第1部の「曲輪文章」は、歌舞伎と違って、上演されることが非常に少ない。
   最近では、2013年2月に国立小劇場、2018年8月に国立文楽劇場でである。
   私が観たのは、東京の小劇場の方で、伊左衛門が玉女で、夕霧は勘十郎で、浄瑠璃と三味線は嶋大夫と富助、龍爾であって、玉男・簑助の黄金コンビの舞台は、前世紀で終わっていた。
   今回の舞台は、伊左衛門が玉男で、夕霧は和生、吉田屋女房おきさを簑助が遣っていた。
   興味深かったのは、切場を、これまでの嶋太夫一人と違って、伊左衛門を咲太夫、夕霧を織大夫、喜左衛門を籐太夫、おきさを南都太夫が語っていて、華やかで彩を添えていたことである。

   この舞台で面白いと思うのは、歌舞伎と違って、文楽の方では、主役は、伊左衛門ではなく、夕霧であって、座敷を抜け出して来たにも拘わらず、拗ねて炬燵を抱えて逃げ回る玉夫の女々しい伊左衛門に縋り付いて、恨み辛みの限りをかき口説く、この大詰めの長丁場の太夫の語りが限りなく魅力的で、豪華な衣装を纏った夕霧の実に女らしい見事な艶姿を、和生が、感動的に巧みに見せて魅せた。
   夕霧の口説きに、近松門左衛門の原作の名残が残っていて、夕霧が、7歳にもなる子をなした仲なのにと訴えるのだが、歌舞伎では特にそうだが、子を成した実質夫婦だと言う雰囲気よりも、身請け寸前の旦那と傾城だと言ったムードになってしまっている。

   文楽で、夕霧が、すねて真面に対応してくれない伊左衛門に縋り付いて胸の内をかき口説くのに、伊左衛門は、置炬燵を持って逃げ回る不甲斐なさは、
   歌舞伎においては極まっており、奥の座敷で客を相手にしている夕霧の方が気になって、居たり立ったり、帰ろかと言い出したと思ったら、なよなよと品を作って襖を何枚も開けて近づいて覗き見し、夕霧が登場すると拗ねてふて寝する伊左衛門の締まりのないイチビリ、オチョッコチョイぶりが見せ場になっているのだが、このあたりの藤十郎と仁左衛門、そして、鴈治郎の芸は秀逸である。
   がしんたれで骨のない色に弱い男は、また負けたか8連隊の大阪の役者でしかやれない芸なのであろうか。
   
   この吉田屋の段は、近松門左衛門の「夕霧阿波の鳴門」の冒頭の九軒吉田屋の段と、ハッピーな結末だけを合わせて改作した浄瑠璃なのであって、途中の深刻な話を端折ってちゃらちゃらしたハッピーエンドの身請け話になっている。
   しかし、原作では、7歳になる男の子を、夕霧の客である阿波の侍・平岡左近の子供だと嘘をついて預けて・・・、どうしても子供に会いたい一心の夕霧は乳母になり、伊左衛門は親子を名乗ったので、二人とも左近に追い出されて乞食になって彷徨い、吉田屋に戻って瀕死の状態になっていた夕霧に再会して、最後に、左近の妻雪からの夕霧養生のための身請け金800両と、伊左衛門の母「妙順」の調達した金で、伊左衛門は目出度く許されて、花嫁、初孫と認められ、喜んだ夕霧が本復する。
   そんな話なので、近松は、結構、シリアスな浄瑠璃を書いたのである。
   この床本でも、伊左衛門への口説きでも、・・・コレ死にかかってゐる夕霧じゃ・・・と言っており、この文楽の方が、原作の雰囲気を継承している。

   ところが、二人の深刻な痴話喧嘩の最中、打ち解ける間もなく、喜左衛門たちがなだれ込んできて、伊左衛門の勘当が解け、夕霧の見受けが決まったと一気にハーピーエンド。
   人形の和生も玉男も、戸惑いながら、ラブラブに転換、とにかく、魅せる舞台に仕立てていて、それなりに面白いのだが、むしろ、ストーリー性が豊かな近松の原作を通しで観たいと思っている。
   
   玉男も和生も素晴らしい舞台を演じているが、主役ではなく脇役に回って簑助の遣ったおきさのにじみ出る様な女らしさ色香、そして、品格は、格別であった。
   それに、今回の浄瑠璃と三味線の名調子は、新趣向なのか、とにかく、素晴らしかったのである。
   
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J.E.スティグリッツ・・・トランプ経済についての真実

2020年01月19日 | 政治・経済・社会
   Project Syndicateに、Joseph E. Stiglitzが、The Truth About the Trump Economy(トランプ経済についての真実)を掲載している。
   トランプは、大統領選挙に意欲満々であり、それは、トランプは、アメリカの経済にとっては、良いからだと思われているのだが、真実は、
   トランプは、民主主義を維持し地球環境を保護すると言った基本的な職務において落第であり、経済においては及第点さえ取れず、惨憺たる状態であると、詳細に論じている。
  
   間違いがあるかもしれないが、大意は、次のようなものであろうか。

   財界のお歴々達は、大統領の富豪や企業への減税を歓迎し、経済を改革する意欲などを高く評価したが、実際は、企業の空気汚染の後押しをし、国民を麻薬漬けにし、子供に危険な食べ物を食べさせ、2008年の金融危機を煽るような財政的火遊びを促進しただけであった。
   財界のボスたちは、GDPが増加を続け、株価が上昇したと言うが、GDPやダウは、経済評価の良い指標とはなり得ず、普通の国民の生活水準や持続可能性などについて何が起こっているかを語っていない。
   国家の経済の健全性を見るためには、国民の経済状態や幸福であり繁栄しているかどうかであって、この面では、アメリカは、劣悪な健康保険制度もあって、先進国の中でも、最低水準であり、期待寿命は既に低く、トランプ時代になってダウンしている。
   アメリカの期待寿命のダウンは、国民の絶望死、アルコールや麻薬依存や薬剤過多、自殺などによるもので、1999年レベルの4倍だと言う。

   トランプは、トップ1%、特に、トップ0.1%にとっては、良い大統領であったが、誰にもよかったと言うわけではなく、トランプ減税は、第2、第3、第4ランクの庶民にとっては増税となっている。
   減税は、超富豪や企業にとっては異常なほど益したが、中流階級の可処分所得には殆ど変化がなく、GDP増のライオンシェアは、トップ富豪に行き、中位の週給は、トランプ政権後、2.6%増加したものの、長期にわたる賃金凍結を相殺するには程遠かった。フルタイム労働者の中位所得は、40年前より3%下落しており、人種差別による傾向は増幅して、黒人の状況は、更に、悪化している。

   状況を更に深刻化しているのは、トランプの厳格なコストベネフィット分析に基づいた経済政策によって、地球環境が持続不可能状態を進行させていることで、空気は呼吸困難を引き起こし、水は飲めなくなり、地球を温暖化に曝し、気候変動による損失は極に達して、どこの国よりも最悪で、2017年には、GDPの1.5%に達している。

   減税は、新規投資を促進すると謳われていたが、むしろ、最も収益を上げた企業が自社株買いに走り、殆ど完全雇用の国で平時でありながら、膨大な損失を記録した。この脆弱な投資環境の中で、アメリカは、世界中から、巨大な借金をして、5000億ドルに達し、たったの1年で、アメリカの国家純債務の10%に達している。

   トランプの貿易戦争においても、対中や対NAFTAに対しても悪化しており、トランプは、製造業のアメリカ回帰を策したが、その増加は、オバマ時代より少なく、
   GDPにおいても、最近の成長率は、2.1%で、トランプの公約した6%には程遠く、オバマ時代の平均2.4%にも及ばない。
   1兆ドルの国家債務と超低金利下においてのこの結果は、非常に悪く、アクシデントと言うよりは、悪運の問題であり、経済成長にとっては、トラスト、安定、信頼が必須であるにも拘らず、今や、トランプブランドは、不安定で、脆弱であり、詐欺である。

   トランプの経済政策の良し悪しは別にして、企業には有利だと思える強引な型破りの経済のかじ取りによって、アメリカ経済の好調と株価の上昇が、報じられてきたが、断片的に報道される裏の経済情報を繋ぐと、スティグリッツの辛口のトランプ経済論が浮かび上がる。
   パリ協定破棄やTPP脱退などを筆頭にして、トランプの自由貿易否定など自由経済のスキューや、温暖化による地球環境破壊を促進するなど、まさに、時代の潮流に逆行する政治姿勢には、違和感を感じており、このスティグリッツの見解には納得しているが、いくら正論でも、このような良識派リベラルの見解が、アメリカの本流としての世論にはならず、埋没して行くのが残念である。

   トランプの政権下において、自由主義経済が、ガタガタに翻弄された結果、これまでに見えなかったり隠れていて分からなかった欠陥なり問題が曝され洗い出されたたという利点もあったので、秋の選挙では、この修復と言う問題意識を持ったリベラル派の大統領の登場を期待している。
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柳家小三治著「落語家論」

2020年01月18日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   昨年末、小三治は、新しい本「どこからお話しましょうか」と言う自伝を出版した。
   しかし、その前に、20年ほど前に出版され、そのまた20年ほど前に書いた文章を纏めた本である、生きのいい壮年期頃の落語に関する思いを知りたくて、まず、この「落語家論」を読んでみた。
   これでも気兼ねしながら書いたと言うのだが、これまで書いても良いのかと思えるほど面白い本で、「民俗芸能」などに書いた「紅顔の咄家諸君!」への蘊蓄を傾けた「落語芸術論」だが、そのまま小三治の人生論であり、人生訓でもある。

   いつものように、付箋を付けたところだけ順に追ってゆくと、
   まず、座右の教訓だが、志ん生が、志ん朝に、「噺ってぇのァどうやったら面白くできるの?」と聞かれて、「ツマリソレハ、面白くやろうと思わないことだよ」と言ったと言う。お客に受けなかったり自分でも納得いかなかったりしたときは、きっとそれだった。
   師匠の小さんは、「人物になり切れ」とよく言ったらしいが、”まともにやって面白い”、それが芸と言うのだと結論付けている。

   落語は、原本や台本があって覚えるのではなく、稽古本もなく、師匠や先輩から教わるのだが、その通りやってはダメだと言う。
   よの中には、古典落語などと言うものはなく、「人物の設定」「大筋」「噺の底に流れる精神」、この二つや三つを伝承するだけで、題材だけは古典で、いつも、新作落語であって、完成などあり得ない。
   そう言われれば、上方落語が江戸落語になり、師匠と弟子の噺の微妙なところやサゲが違うのが分かる。
   伝統を重んじる能・狂言、歌舞伎なども、変化は穏やかだが、日本の古典芸能は、そのような推移を経て、伝統が維持されているのであろう。

   師匠の小さんは、放任主義と言うかほったらかしで、稽古を一つでもつけてもらったことはないし、「噺を教えてください」と言っても「芸は盗むものだ。オレが高座でやっているところを聞いて憶えろ。盗め。憶えたら聞いてやる。」と言うだけで、聞いてもらうと、「お前の話はおもしろくねえな。」
   口癖は、「その了簡になることだ。」
   ところが、師匠が、人形町末広で、「気の長短」を演じているとき、袖で観ていて、短七つぁんがイライラしてくると、師匠の足の指がピクピク動いたのを見て、それを発見したうれしさとあきれ返ったのとで、ボーッとした。
   放任主義。かまうよりほったらかす方が難しい。この肝の太さ、何とか盗んでやるぞ。と書いている。

   これとよく似た話で、「噺家修行」。
   辛い家事仕事で、なぜ、こんなことをしなければならないのか、噺家修行に何の関係があるのか、
   しかし、愚痴などコレポッチもなく、いつか咄家になれると思ったら、その中から楽しみを見つけ出して嬉しかったと言う。
   この修業が役に立っているので、「いまボクは、自分の弟子には、修業中は、できる限りのいやな思いをドッサリさせてやろうと思っている。」と言う。
  弟子を取ったばっかりに、自分の城を荒されて思うように出来ない内儀が、最大の被害者であるはず、
  入門した初日に、「オレよりカミさんに、はまるようにしろよ」と小声で言った師匠の言葉が分かりすぎるくらい良く分かると言う。

   「”熱い”咄家」の項で、この人の噺を聞けば、噺の世界に飛び込みたくなるだろうと胸を張って言える熱い咄家は、柳家小さんしかいないと切って捨て、落語界の沈滞を嘆いている。
   小三治の劣等感は、持ちネタが、少なかったこと。二ツ目になる時、円生の弟子は、100近くのネタを覚えていたが、自分は10いくつしかなく、その後も、この世に、噺を憶えることとネタを決める相談の電話がなかったら、噺家とはどんなに素晴らしい有頂天の商売だろうと思うとまで言っていて、今でも、ネタを憶えることは大嫌いだと書いている。

   面白いのは、「落語を地で行く」の和風スナックのママとのアバンチュール、
   21歳の前座の時、帰り道にあるスナックで、飲めない酒を舐めながら、看板までいて、ママと一緒に帰り、一寸寄ってゆく? じゃ、一寸だけ。と寄ったら、一寸だけにならなかった話。
   オトコとかち合って、悩んだこと、女を知ったばかりの頃だから頻繁に通っていて、四時五時の帰宅で、表門や扉を音もなく開ける至難の業を駆使して、外泊は絶対に許さない父の隣に敷いた布団に潜り込むまでの四苦八苦。
   一度は、音を立てて、「誰だ!」と怒鳴られたので、逃げたと言う落語「六尺棒」の世界。
   戸を開けるカタチは「千物箱」、眼の配りは「もぐら泥」、すっかり明るくなると「紙入れ」、色々な応用を頭の中で巡らせたと言うから、伊達や酔狂の火遊びではなかったんであろう。

   も一つは、沼津で出会って、「テレビでガチャガチャしたことをやってほしくないんです」と励ましてくれた若い芸者への慕情。
   ネタ下ろしをした「鰻の幇間」には、本来は登場はしないが、小三治の噺には梅の家の笑子姐さんが出てくる。
   沼津に行くと、来てくれると期待しながら、ずーと気になっていて、真打になったときに、披露記念品や手紙を送ったが返事はなく、沼津での独演会で、「鰻の幇間」を聞いた主催者の事務局長から10年前に亡くなったと言う話を聞く。

   今、日経朝刊の新聞小説は、伊集院静の「ミチクサ先生」。
   夏目金之助が、恋焦がれている芸者の娘に、身分が違うと断られて、思い余って、それなら、一高を退学すると
   まっ暗な部屋に籠って、深刻な恋煩いのシーン。
   一高生の漱石も子規も、この小説で、恋情に燃えてのたうつ摩訶不思議、
   甘く切なく遣る瀬無い、人生をバラ色にも暗黒にもする恋情の激しさ。

   小三治師匠の高座は、この5~6年しか、それも、国立演芸場でしか聞いていないが、もう、10回にはなるであろう、いつも、楽しませてもらっている。
   この本には、もっともっと、多くの興味深い話が満載されており、ある意味では、落語以上の面白さがあって、愉快である。
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国立文楽劇場・・・錣太夫襲名披露公演「傾城反魂香」

2020年01月17日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   久しぶりの大阪である。
   来月、錣太夫襲披露名 は、東京の2月公演でも、行われるのだが、大阪の雰囲気を味わいたくて、やってきた。
   
   国立文楽劇場開場三十五周年記念 初春文楽公演 第1部は、
   七福神宝の入舩(しちふくじんたからのいりふね)
   竹本津駒太夫改め六代目竹本錣太夫襲披露名狂言
   傾城反魂香(けいせいはんごんこう)土佐将監閑居の段
   曲輪ぶんしょう(くるわぶんしょう)吉田屋の段

   六代目竹本錣太夫襲名披露狂言は、傾城反魂香の土佐将監閑居の段で、錣太夫は、奥を、三味線 宗助、ツレ貫太郎で語る。
   口上は、呂太夫が、威儀を正して丁寧に行い、
   エピソードとして、稽古中に、師匠に、「おいど(お尻)をめくれ」と言われたのを、床本の末尾と言うのを何を勘違いしたのか、立って自分の着物のうしろを捲って、カンパチに、「あんたのおいどとちゃう、床本のおいどや」と言われたと言う話をして笑わせていた。

   土佐将監閑居の段、ポピュラーな舞台だが、次のような話、
   主君筋の勘当を受けて山科の国に蟄居している絵師・土佐将監T(玉也)が奥方(文昇)と住む屋敷の裏の藪に巨大な虎が出現して、この虎は狩野四郎次郎元信筆の虎に魂が入ったものだと喝破し、弟子の修理之助(玉勢)が、自分の筆力でかき消したので、その実力を認めた将監は、修理之助に土佐光澄の名と免許皆伝の書を与える。
一方、絵の腕は抜群ながら吃音の障害を持つ兄弟子の浮世又平(勘十郎)は、大津絵を描いて生計を立てているシガナイ貧乏絵師で、妻のおとく(清十郎)を伴って見舞いに訪れて、弟弟子が土佐の名を許されたと知って、師に必死になって免許皆伝を頼み込むが、絵で功績をあげよと拒絶される。妻のおとくが口の不自由な夫に代わって縷々申し立てても駄目であった。
そこへ、元信の弟子の雅楽之助(一輔)がやってきて、元信が襲われて姫を奪われた一大事を告げたので、将監は姫を助けるために、弁舌の立つ者を使者と偽って送り込もうとしたので、又平は、功をあげるべき絶好の機会と助太刀を願うが、断られ、修理之助が向かう。
悉く拒絶されて絶望した又平夫婦は、涙にくれ自害を決心して、この世の名残に絵姿を描き残そうと決死の覚悟で、手水鉢を墓碑になぞらえ自画像を描く。ところが、その一念が通じたのか、描いた絵が手水鉢を通して反対側に浮き上がる。将監は驚嘆して、又平に土佐光起の名を与え、使者となることを命じる。
将監は、仏像を真っ二つに切って病を治したと言う故事に倣って、手水鉢を二つに割ると、又平の口から、師への感謝の言葉が滑らかに流れて吃音が治り、喜んだ又平は、将監の前で舞い、謡い、おとくを供にして姫を救い出しに出立する。

   この最後の部分だが、この舞台は改作とかで、近松門左衛門の歌舞伎などの本作では、又平の吃音を将監は案じるのだが、又平は、将監の前で舞い、謡いだすと、節が付けば言葉が滑らかに出ることを見せて奇跡をしめしている。
   手水鉢を刀で真っ二つにするなど、「梶原平三誉石切」の舞台でもお馴染みだが、この芝居自身、元信が描いた虎がやぶの中に逃げ込み、修理之助の筆でかき消されるとか、手水鉢の石を通して絵が反対側に透視するなどと言った、奇想天外もいいところだが、いわば、夫婦愛を観る芝居だと見れば、それなりに納得する。

   大分、シチュエーションは違うが、この舞台を見ていて、いつも、幸田露伴の「五重塔」ののっそり十兵衛のことを思い出す。
   力があっても、世渡りが下手なために埋もれていく人は多く、艱難辛苦に辛苦を重ね、苦渋を嘗め尽くしながらでも、芽が出た人は幸せであり、芝居になるのであろう。
 
   日頃とは、一寸違った緊張した面持ちの錣太夫、この舞台では、吃音で表現の難しい又平のセリフや、立て板に水の、出しゃばりおとくの長セリフと言ったバリエーションの棲み分けが巧みで、流石に、緩急自在で上手い、
   それに、淡白ながら、肺腑をえぐるような無念さ悲しさを随所に滲ませる語り口も秀逸で、私など、歌舞伎の「土佐将監閑居の場」を見慣れているので、人形の感情移入の素晴らしさを味わって新鮮な驚きを感じた。

   人形は、又平の勘十郎、おとくの清十郎が双璧、とにかく、泣かせて笑わせ、感情表現が豊かであり、又平の喜びの舞など、人形だから出来る芸当であろう。
   愛嬌のある惚けた調子の又平の首が、土佐光起に出世した絵師には似つかわしくなくなったが、悲しみも喜びもない交ぜ、中々面白く、勘十郎が、縦横無尽に躍らせていた。
   
   
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わが庭・・・鹿児島紅梅一輪咲く

2020年01月16日 | わが庭の歳時記
   蕾が赤く色づいてふっくらと膨らんでいた鹿児島紅梅が、一輪だけ咲いた。
   沢山、蕾を付けているので、もう少しすれば、濃いピンクの花が咲いて、甘い芳香を放つ、まさに、春の到来の先駆けであろう。
   枝の先端にあって、一番最初に咲く花は、エネルギーが充満して、一気に咲くので、美しいと言うことであるが、この花は、一輪だけの側枝に咲いた花である。
   日本では、歴史上、最初に花と言えば、梅であって桜ではなかった。華やかさと豪華さで劣るので主役が変わってしまったのだが、私は、大人しくてしっとりとして清楚な雰囲気を保つ梅の方が好きである。
   
   

   椿では、越しの吹雪が咲き始めた。
   花は、極めて平凡だが、斑入りの葉が美しい。
   かなり、成長の遅い木で、千葉から移植したが、まだ、小さくて可愛い。
   

   もう一つ咲いた椿は、タマアメリカーナ。
   玉の浦の改良種で、アメリカ帰りで八重咲である。
   下の方の写真は、まだ咲き続けているタマグリッターズだが、これに比べると蕊が大人しい。
   尤も、タマグリッターズでも、枝と時期が異なれば、花の姿形が、大きく変化するので、勾配雑種には、思いもよらない驚きがあって面白い。
   
   

   わが庭には、今、日本水仙が咲き乱れていて、椿と一緒に、生け花を楽しんでいる。
   
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大阪・奈良へのショート・トリップ(1)

2020年01月15日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   正月は、大阪の国立文楽劇場の新春公演を鑑賞するために、関西に一泊旅行に出かけることにしている。
   早朝、鎌倉を出て、羽田から伊丹に飛んで、11時開演の第一部から観続けて、夜、8時に舞台がはねた後、ホテルに向かう。
   翌日は、夕刻の伊丹空港発の飛行機で羽田に帰り、京急とJR,バスを乗り継いて、鎌倉の自宅に帰る。
   かなり無理をしたショート・トリップだが、伊丹空港に向かうまでの一日を、京都か奈良の歴史散歩に充てて、古社寺などを散策することにしている。
   京都での学生時代から、古社寺巡りは、私の趣味なので、外国に赴任していた時も、帰国ごとに時間を割いて訪れており、欠かすことはなかった。


   今回は、奈良の友人に会うことにしたので、奈良で一日を過ごして帰ることにした。
   名古屋の友人を誘って、西ノ京を歩いて、夕刻に奈良に出て、3人で、所謂、同窓会をしようと言うのである。

   我が家から羽田に向かうためには、バスかモノレールで大船まで出なければならないので、羽田8時半発のJALに乗るのがやっとで、到着が遅れると間に合わなくなるのだが、今回も、飛行機の遅延で、ナンバへの空港バスに乗り遅れて、文楽の冒頭の「七福神宝の入船」が、始まっていた。

   飛行機は、できるだけ、右側の窓際の席を取って、外の景色を見ながら、大阪に向かう。
   この日は、晴れていて、横浜上空あたりから、南アルプスを越えるくらいまで快晴で、富士がよく見えた。
   その前に、鎌倉に接近した時には、江の島がよく見えたので、その北西の山側くらいに、我が家もあるのだろうが、勿論、分かるはずがない。
   
   
   

   その日は、一日中、国立文楽劇場で過ごした。
   昼食は、大通りを隔てたところに、大阪の台所「黒門市場」があるので、鮮魚店が多く、寿司が美味しいので、それを頂くことにしている。
   文楽は、今でも、大阪が本拠地だと言う感じで、この劇場は、同じ文楽公演でも、東京の国立小劇場とは、かなり雰囲気が違う。
   
   

   翌日の奈良へは、西ノ京を訪れて、薬師寺と唐招提寺で、午前中を過ごし、その後、本当は、斑鳩の里の法隆寺に行きたかったのだが、奈良経由で伊丹へ向かうので、時間的には無理なので、諦めて次にすることにした。
   昔よく歩いたので、浄瑠璃寺や室生寺、飛鳥、長谷寺・・・行きたいところはいくらでもある。
   
   

   奈良で、ゆっくりと喫茶店で休息をとり、新しく再建された興福寺の中金堂を訪れた。
   前回、工事中に中に入ったので、非常に興味深かった。
   

   その後、大通りを隔てた奈良県庁に入って、屋上に出て、展望所から奈良を眼下にした。
   それほど高くはないのだが、奈良盆地の底に有るようなものだから、四方が見渡せて、奈良の位置づけが良く分かって参考になる。
   東大寺の大仏殿、先ほど訪れた中金堂が、奇麗に見える。
   
   

   少し時間があったので、唐招提寺を訪れたこともあって、鑑真和上の所縁深い戒壇院へ向かった。
   小さなお堂だが、急な石段を上り詰めて、薄暗い堂内に入ると、素晴らしい四天王像にお会いできる。
   いつも、その緊張感が好きで、よく訪れるのである。
   
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