熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

白石加代子の「源氏物語」

2006年04月30日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   前回の「須磨、明石と末摘花」に続いて、今回は、「藤壺、夕顔、六条御息所」の白石加代子の明治座の舞台である。
   いつも、コンサートやオペラ、観劇で劇場に行くとお客さんが気になるのだが、今回は、圧倒的に40歳代以上の婦人方が大半で、先日の蜷川「タイタス・アンドロニカス」の様に若い男女が多数を占める舞台と雰囲気が大分違う。
   何しろ、天下随一の粋人・色男の話であるから、白石加代子の名調子で語られる微妙な色恋の話にも、敏感に意味深な含み笑いで応える聴衆の反応も流石である。

   瀬戸内寂聴の新約「源氏物語」を底本にしているが、これを上手く組み合わせ、時には、流麗な原文を取り入れて、そして、当時の風習や故事来歴を交えながら、
ある時には琵琶法師のように語り、ある時には吟遊詩人のように詠いながら、名優白石加代子が語るのであるから、楽しくない筈がない。

   黒衣の後見・梶原美樹嬢が、花月風鳥、風俗・風景、文様等々を描いた30面以上の色取り取りの扇を立てたり並べたりして、舞台設定を行いながらさり気なく白石加代子を助け、バックには、琵琶や笛、琴の音が優雅に流れていて雰囲気を盛り上げる。
   扇の色や形、色彩豊かな絵が象徴的に舞台道具になっていて、中々、優雅である。
   
   白石加代子は、見台の上に置くこともあるが、楽譜を持つように台本を持ち舞台を縦横に歩みながら、ひとり芝居を演じている、夕顔の死の時には、舞台に倒れて一幕目の幕が下りる。

   源氏物語に接したのは、高校の図書館で和綴じの何とも言えない優雅な本を見たのが最初で、古語なのでよく分からなかったのでそのまま忘れてしまった。
   大学生の頃に、谷崎潤一郎の新書版と同じ様な大きさの赤紫の箱入りの綺麗な8巻本が出たので買って読み始めた。
   全部は読めなくて、飛ばし読みをしたのだが、幸い京都での学生生活であったので、同時に、平家物語など古典を読みながら京や奈良など近郊の縁の故地を歩いた。
   物語そのものが好きだと言うのではなくて、日本の歴史や芸術などに興味があり、その一環として源氏物語を受け止めていたと言うのが正直な所である。

   今回の源氏物語の部分は、夕顔以外は何れも年上の女性との物語が主体で、光源氏の思いのままにならない若い頃の、謂わば、ティーンエイジャーの恋物語である。
   正妻は葵の上だが、姉さん女房で気位が高いと言うよりはしっかりした理知的な女性なので、軟派の光源氏には敷居が高くて中々しっくり馴染めない。
   しかし、10年生活を共にしたので長男夕霧をもうける。

   光源氏は、亡き母に生き写しだと言う7歳年上の美貌の中宮藤壺に恋焦がれて、宿下がりの合間に思いを遂げて、後の天皇冷泉院を儲ける。父である桐壺院はそれを知らずに子供の行く末を光源氏に託して崩御する。
   藤壺中宮は、光源氏との関係を嫌って出家するが、光源氏は諦めきれず、良く似た姪の紫の上を北山で見つけて理想の妻(正妻ではない)として慈しむ。

   源氏物語で人気が高く特異な存在は夕顔である。
   葵の上の兄であり友である頭の中将の通っていた女性だが、夕顔の宿で逢瀬を楽しんだあと更に水入らずの愛を確かめる為に某院に連れ出すが、そこで儚くなる。
光源氏にとっては、お互いに一切素性を表すことなく、心置きなく素直に逢瀬を楽しめたのは、この夕顔だけかも知れない。

   六条の御息所は、亡くなった皇太子・前坊の未亡人で、教養豊かで品格があって素晴しい女性だが、情が深くて恋に溺れすぎるのが玉に瑕、少し光源氏には気が重くて遠ざかりがちになる。しかし、男女の愛の深さを教えてくれたのはこの御息所かも知れない。
   ところが、光源氏の行列を見学しようと出かけた時に、場所取り争いで葵の上の牛車と揉み合い散々の屈辱を味わう。ただでさえ正妻の葵に嫉妬しているのだから、これが怨念になって、葵の上、そして、密会中の夕顔を、生霊として枕辺に表れて呪い殺す。
   光源氏に、娘(斎宮・後に実子冷泉院の妃・秋好中宮)には手を付けるなと釘を刺して逝く。

   いくら色好みの光源氏でも、出家した女性と二世とは関係を結ばなかったと瀬戸内寂聴さんは言っていた。

   とにかく、この辺りの光源氏の色模様を華麗に煌びやかに、そして、何処か哀調を帯びてしみじみと語る名調子の白石加代子の語りは秀逸である。
   しかし、これだけの話だけでも極めて内容豊かな物語であるのに、これは源氏物語の極一部である。1千年以上も前に創作した紫式部の文学の才とその力量には感嘆せざるを得ない。

   この日の舞台は、御所を中心として五条や六条あたりと東山、それに、精々、北山どまりの洛中洛北だが、京都の中にも、源氏物語の頃の雰囲気を感じられる所は少なくなってしまった。
   

   
   
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散りたくも 散れずにむせぶ ぼたん花

2006年04月29日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   久しぶりに爽やかな良い天気になったので、上野東照宮のぼたん苑に出かけた。 
   冬ぼたんの頃と違って賑わっている。

   上野公園の桜は、八重の僅かに残っている桜花を除いて完全に青葉に変わって大通りは緑陰に早変わり、季節の移り変わりは早い。

   ぼたん苑のぼたんも、もう、盛りを過ぎていて、ゴールデンウイークには、遅過ぎて綺麗なぼたんを十分に楽しめそうにないかも知れない。
   冬と違って、春のぼたんは実に優雅で、それに、花弁が華麗で大きいので、その分、萎み始めると老醜を曝すことになって哀れである。
   八重桜もぼたん同様にそのきらいがあるが、盛りを過ぎても、自分で、ソメイヨシノのように潔く散れないので、いつまでも哀れな姿を晒すことになるが、やはり、椿のように早すぎるのも困るけれど、花は美しければ美しいほど、程ほどに舞台から静かに消えて行くのが好ましい。

   ぼたんは、中国北西部の原産なのだが、日本に入ってから1千年以上になると言う。
   日本で花と言えば、最初は椿、次は梅、そして、桜になったようだが、しかし、ぼたんは別な意味で、最高の花であることには間違いない。
   とにかく、この上野の東照宮のぼたん苑も、初夏のぼたんは、本当に絢爛豪華で艶やかである。

   私の記憶では、イギリスのロイヤル・キューガーデンでは、芍薬の花は、育種農場で栽培されていて写真を撮っていたので覚えているが、ぼたんを見た記憶がない。
   西洋は薔薇で、ぼたんは東洋の花と言うことであろうか。

   明治座に行ったが、壁に飾ってある日本画家の大家の絵は、ぼたんが3点もあったが、お祝いや目出度い場所には、ぼたんが似合うのであろう。ぼたんは、中国の障壁画や掛け軸、建物の彫刻など美術装飾にも、沢山使われているが、歌舞伎の舞台でもバックにぼたんが描かれていると華やかになり、極彩色の世界に更に華を添える。 

   薄くて柔らかい大きな美しい花弁が、何の障害もなく複雑に広がって素晴しい造型を見せてくれているのを見ると、自然の営みの不思議をしみじみと思う。それに、おしべやめしべの色や形がまた複雑で美しく、花の中の花を形作っていて魅力的である。 
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蜷川幸雄の「タイタス・アンドロニカス」

2006年04月28日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   彩の国さいたま芸術劇場でシェイクスピアの「タイタス・アンドロニカス」が、蜷川幸雄の演出、翻訳松岡和子で公演されている。
   シェイクスピアの初期の作品だが、ローマの将軍と捕虜(後にローマ王妃)でゴート族の女王タモーラとの凄惨な殺戮合戦を描いた凄まじい戯曲である。
   血で血を洗う壮絶な復讐劇で、タイタスの子供25人の内生き残ったのはただ1人。兎に角、長い間上演されなかったのは当然であるが、何故、こんな戯曲をシェイクスピアは書いたのであろうか。

   私の隣に座っていたチャーミングなレイディは、一幕が終わるとすぐに席を離れて戻って来なかった。
   私も、もう15年以上も前になるが、ロンドンのバービカン劇場でロイヤル・シェイクスピア・カンパニーのギリシャ悲劇「オイディプス」を観ていて、その凄惨な舞台に耐えられなくなって第一部が終わると、隣のホールのロンドン交響楽団のコンサートに移って、第二部と第三部を観なかったことがある。
   もっとも、私の場合には、ダブルブッキングしていて、アンネ・ゾフィー・フォン・ムッターのヴァイオリンを聴きたくてと言うエキスキュースはあるのだが。

   この劇、シェイクスピア時代は舞台に掛けられていた様だが、18世紀と19世紀には、その凄惨さとシェイクスピア作品ではないと言う疑惑等の為に殆ど演じられることはなかった。
   20世紀に入って、1923年に、オールド・ヴィック劇場でシェイクスピア全戯曲上演の為に、最後に残っていたトロイラスとクレシダと共に上演されたが非難轟々だったらしい。

   やっと認められたのは、1955年に、ストラトフォード・アポン・エイヴォンの今のロイヤル・シェイクスピア劇場で、若きピーター・ブルックが演出し、ローレンス・オリヴィエのタイタス、ビビアン・リーのラヴィニア、アントニー・クエイルのエアロンの「タイタス・アンドロニカス」の舞台である。
   これが、ピーター・ブルックの演出家としての登竜門であったとも言う。
   タモーラの悪辣な王子2人に手篭めにされて舌と両手を切り落とされたラヴィニアの傷を表す為に、口と両手首から血染めのリボンをたらしたと書かれているので、今回の蜷川演出と同じなのであろうか。
   隣のお嬢さんが帰ってしまったのも、この恰好で森を彷徨うラヴィニア(真中瞳)を観た後だった。

   ところで、省略なしに全編シェイクスピア・オリジナルでの公演は、1987年に、ストラトフォードのスワン劇場でのデボラ・ワーナー演出のRSCの舞台だと言う。
   BBCの全シェイクスピア劇の舞台とアンソニー・ホプキンス主演の映画等がビデオに残っているいるようであるが、私の手元にあるDANIEL ROSENTHALの「SHAKESPEARE ON SCREEN」には、何の記述もない。

   この蜷川幸雄の舞台は、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(RSC)のシェイクスピア・フェステイバル(The Complete Works)に招待されて、6月にロイヤル・シェイクスピア劇場で演じられる。
   RSCのホームページには、口から赤いリボンを垂らす真中瞳のラヴィニアを抱きしめて号泣する吉田鋼太郎のタイタスの写真が掲載されていて、シェイクスピアでも最も血生臭い劇を、東洋と西洋の伝統を、視覚的に目を見張るような表現力と審美眼で融合させた伝説的な演出家蜷川幸雄の絶賛を博した作品だとして紹介されている。この素晴しい作品は、舞台では一滴の血も流れないが、我々の心から流れる血は測り知れないことを証明する、とまで述べられている。

   私は、イギリスのシェイクスピアの舞台も蜷川の舞台も可なり観て来たが、最近の蜷川の世界は、日本のと言うか東洋のと言うか、蜷川の心象風景を色濃く反映しながらも、RSCやロイヤル・シアターやグローブ座等のイギリスの伝統的なシェイクスピアの舞台と全く異質感を感じさせない、ある意味では互角に組んでそれを越えた凄い舞台を作り出しているように感じている。

   劇場の玄関を入ると、長いローブ風のダウンジャケットのような真っ白なコートや兵士の上着、旗竿、死体の入った棺、面や兜、色々な舞台衣装や道具が並べられていて、舞台には、早くから役者達が出ていてウロウロしたり談笑したり、その間をスタッフが行き来していて、時折、役者達が奇声を発している。
   舞台後方から大きな「牝狼像」が運び出されて来た。カピトリーノ丘の美術館にあるブロンズ像で、足の間で、ローマの建国者である赤ん坊のロムルスとレムス(これは16世紀の補作)が乳を飲んでいるものだが、そっくりそのまま白い石膏彫刻に設えられていて、これが、殆ど最初から最後まで舞台に存在する唯一の舞台セットである。

   舞台は、八型に左右に白い壁面があり、正面は壁になったり開いたりで、この3面が出入り口を兼ねていて、3本の客席の通路が、歌舞伎の花道の役割を果たしていて、時には、客席がローマ市民になって拍手をする。

   「そろそろ、行こうか。さあ、始めよう。」蜷川幸雄の掛け声で幕が開く。

   この舞台は、やはり、日本最高のシェイクスピア役者の1人である吉田鋼太郎あっての舞台で、非常に安定した重厚な演技が光っている。
   もともと、善悪ハッキリしているタモーラやエアロンと違って、このタイタスの意志なり本心が何処にあるのか分からないと言うか、特に皇帝サターナイナスに対しては筋の通らない言動や行動が可なりあるのだが、そこを上手く捌きながら、ローマの勇将としての苦悩を上手く演じている。
   特に後半の娘ラヴィニアへの親としての愛情表現や復讐の鬼と化してからのタイタスの演技には鬼気迫るものがあり凄い。
   タモーラの麻実れいは、女王としての品格と威厳を保ちながら、皇帝を欺いて情夫のムーア人に溺れる何処か隠微なメスの性格を併せ持ち、なおかつ、子供への溺愛と長男を虐殺された恨みに復讐に燃える残忍な王妃を実に器用に演じていて魅力的である。

   徹底した悪役、女王タモーラの愛人であるエアロンを演じている小栗旬だが、若さの所為か、ワルとしての凄味と迫力にやや欠けるが、ニヒルで人生を斜交いに見ている何処か得体の知れない悪人を一生懸命に演じていて将来が楽しみである。
   先の蜷川の「間違いの喜劇」で主役のアンティフォラス兄・弟を演じて好評だったが、今回は、全く性格の違う役作りを無難にこなしていた。
   若いのだから、野村萬斎のようにイギリスへ行ってRSCでの修行などどうであろうか。

   タイタスに推挙されて皇帝になりながらタイタスを痛めつけるサターナイアナスを鶴見辰吾は、恰好良く演じていて、アクのない演技が清清しい。

   この舞台で一番注目を集めて聴衆を悲歎に突き落とすラヴィニアの真中瞳だが、どうしてもニュースステーションでスポーツ報道でとちっていた頃の姿を思い出すのだが、中々素晴しい舞台女優に育っていて正直な所ビックリしてしまった。
   特に、陵辱後の、台詞なしで身体だけで演じる悲惨な演技や意を決してからの表情など実に上手い。

   もう1人、重要な役者はタイタスの弟で護民官マーカスを演じた壌晴彦、陵辱されたラヴィニアを追いかけて呼びかける47行に及ぶ詠うような長台詞が白眉。
   とにかく、全編悲惨と凄惨を絵に描いたようなこの舞台でタイタスの苦悩を少しでも癒すのはこのマーカス、重要な役どころだがベテランの味で、舞台を引き締めていた。

   最後に、黒人の情夫エアロンが王妃タモーラに生ませた黒い赤ちゃんを抱いて舞台に残ったタイタスの孫(少年)が、中空を仰いで、ああーと長い絶叫を5回繰り返して幕が下りる。
   
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スローライフの勧め・・・まず、スローフードから

2006年04月27日 | 生活随想・趣味
   岩波新書が1000点を突破したとかで、少し装丁や中身など取っ付き易くなった感じがする。
   その一冊、筑紫哲也が「スローライフ――緩急自在のすすめ」と言う本を出したので読んでみた。
   スローフードからスローな旅、子供の遊び空間、映画、自由の森大学、スローウエアと着物、森と木の生活等々広範囲の分野に亘ってスローライフに対する薀蓄を傾けて、現在の文明社会と人間の幸せとは何かに鋭いメスを入れていて面白い。
   日本橋のターリーズ・コーヒー店で、若者に混じって読んでいたが、ここはファストかスローかどちらであろうか。

   スローフード運動がイタリアで起こり、アメリカ発のマクドナルド等のファストフードに対抗した食文化運動が世界的な広がりを見せているが、この運動の文化文明生活全体を糾合したような運動がスローライフの趣旨である。

   マクドナルドだが、フランスでは農民達の焼き討ちにあい、イタリアでは抵抗があって一号店が中々開店できなかった等食文化の豊かな国では進出に中々苦戦した。
   しかし、一昨年イタリアに出かけた時に、あんなに抵抗があったにも拘らず、あっちこっちでマクドナルドの店が健在であるのを見て、イタリアでも食のアメリカナイゼーションが止められなかったのかと感慨深かった。

   あの有名なイタリアの古都で聖フランチェスコの聖地であるアッシジの駅前にもひっそりとしたマクドナルドの店があった。
   若いタクシーの運転手が、店の横を走った時に、「何故あんなものが良いのか分からない。私は嫌いなのだが甥がおまけが欲しくてマクドナルドに連れて行けと言うので困っている」と言っていた。
 
   一番ビックリしたのは、ミラノの最高の目抜き通りであるドォーモのヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガレリアのまんまん中に大きなマクドナルドの店があったことである。
   ロメオとジュリエットで有名なヴェローナの私が宿泊していたホテルの横にもあったし、ボローニアの駅のプラットフォームにもあった。オペラを楽しみに観光客が沢山来る。

   もっとも他の国と比べて店の数は至って少ないし、あるのは観光客が多い所ばかり。あれだけ、アメリカ人の観光客が多ければ、そして、世界のイタリアである以上、マクドナルドがなければやって行けない事も事実であろう。
   良かれ悪しかれ、アメリカのファストフード文化、そして、そのソフトパワーは世界に伝播して地元の文化も生活も巻き込んでしまう。

   良く考えてみれば、江戸前の寿司は手の込んだ関西の寿司と違ってファストフードだし、蕎麦もそうかも知れない。新興の江戸文化が上方の伝統文化を駆逐して行ったとは言えないであろうか。
   世界に冠たるフランス料理も、言うならばイタリアからアルプスを越えて農産物の豊かなフランスで華が開いた。
   メディチ家のお姫様がフランス王にお輿入れした時にフォークを持って行かなかったら、ずっと後まで手掴みで食べていたかも知れないし、外交官がロシアで保温して提供される暖かい料理を経験しなければ冷えた料理を続けていたであろうし、日本料理に接しなければヌーベルクイジーンも生まれなかったかも知れない。
   そして、このフランス料理も歴史はほんの数百年、スープにパンくずを入れれ木の実を拾って食べていたのはそんなに古い話ではない。

   海外で仕事をしていた時には、円の威力にモノを言わせて世界の美味しいものを食べ歩き、ヨーロッパでは多くのミシュランの三ツ星を筆頭に歩き回った。
   食べるのは好きだが、特に食に執着する訳ではなく、何処で何を食べて何が美味しかったかさえ憶えていないほどだから、食については語る資格はないが、食は文化であり、素晴しい食事は、その背後にある限りなく貴重な人間の叡智と文化と歴史が昇華された形で体現されていることは分かる気がする。

   バブルの頃、赤坂の料亭へイギリス人の客を迎えて食事をした時、その夫妻がマツタケを半分に切った吸い物を幾らするのかと聞いたら1万円だと答えが帰って来た。
   当時の換算で50ポンドなので、彼らは、「ロンドンでは、最高のフランス料理を十分食べられる。」と言って複雑な顔をしていた。
   バブルが異常だったのか、或いは、丹波の特別なマツタケを厳選したこと、赤坂の超一流の料亭の暖簾代なのか。
   私の言いたい論点は、
世界の一流レストランの幾ら高い料理でも、日本の高級レストランや料亭ほど決して高くないと言うこともだが、
今糾弾されているファストフードの問題点は、安かろう悪かろうのコストを切り詰めた、そして、人間の身体には好ましくないケースがある場合が多いからであって、日本のスシが象徴するように、幾らでも豊かな食文化を体現して素晴しいファストフード文化を生み出せると言うことである。

   養老先生が言っていたが、今の人間よりは、縄文や弥生時代の人々の方が多くの種類の食べ物を食べていたらしい。
   レストランは料理だけではなく店のインテリアや雰囲気、そのサービス、色々なものが総合されて人々を持て成してくれる。
   ヨーロッパのミシュランの星レストランも田舎にあることが結構多いのだが、日本の高級料亭や旅館のようなセッティングはないが、その雰囲気が素晴しくて至福の時間を過ごすことが出来ることがある。
   日本の地方に行けば、同じ様な全国チエーンのファストフード店の店があって味気なく、中々、安くて地方料理を楽しめるころあいのレストランが見つからない。
   峠の茶屋のような雰囲気で良い、おばあちゃんやおふくろの味、地方の香りがする料理を頂けるスローフードの店があれば有難いと思うことがある。

   

   
   
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手塚雄二―花月草星展・・・映像のような印象的な日本画

2006年04月26日 | 展覧会・展示会
   日本橋高島屋で、「手塚雄二―花月草星展」が開催されている。
   絵を保護する為に照明が落とされているので会場は暗い。そのために、暗い画面から、強調された水や波や花月風鳥だけが鮮やかに浮彫りにされて目に飛び込む。

   会場に入って、まず、目に付く印象的な絵は、「星と月と」で、ブッシュ様の荒野で低いアングルから夜空を見上げるので、星は左に月は右に地面を這うように輝いていて、楠木様の茂った木が被さるように上空半ば以上を覆っている。
   「海音」も豪快な逆巻く波を描いた絵で、壁一面に広がるシネマスコープの大作。ドラクロアの海の絵とは違って、鋭角的な激しい波で、右手の波は激しく盛り上がって白い飛沫をあげており、右手の波は遠くの方でめり込み雲間の夕日を浴びて輝いている。激しい海音が耳を劈くような、そんな激しい絵である。

   面白かったのは、襖8面分の大作「雷神雷雲」と同じ大きさの「風雲風神」で、雷神が右、風神が左で16面繋ぐと凄い風神雷神図になる。殆ど顔だけの凄まじい形相をした雷神は激しい稲妻を発し、風神は大小四角の金銀の風を噴出し画面真ん中でぶつかり合う。
   俵屋宗達の屏風図を筆頭に絵画や彫刻などで風神雷神が結構あるが、幾ら厳つく作られていても何となく親しみを感じてしまうが、手塚雄二の絵は、不気味なほど激しい。

   女性を描いた絵が3点あった。
   大学卒業創作が「夢模様」。菩提樹の木の前に頭を左に横向きのインド象が居て、その背に正面を向いて赤毛の女が横すわりしていて右手に白い大きな布の端を握り締めて下に垂らしている。その白い布が正面下に置かれた寝椅子を覆っていて、その上に右手を頭にして青いドレスの女がオランピアスタイルで横たわり右手にかかげた鏡を覗き込んでいる。
   寝椅子の上には、赤い柱時計が2体、秤と杖が置かれていて、女の横たわる寝椅子の反対側の足元の白布の下から誰かの下向きの足が2本のぞいている。
   何が夢模様なのか、不思議な絵である。
   他の2点は、白川女の様に少女の頭上にのせた盆の上に、シロフォン、ピアノ、風船、剣玉、お面、秤等々を描いた絵の「少女季」。そして、迷路の庭をバックにイスに女が座って前のテーブルには、ロバ、豚、亀、鶏、羊、カンガルーが入った紙袋が並べてある「迷宮」。これも寓意的で象徴的な不思議な絵である。

   大半は風景画であったが、雰囲気が東山魁夷の絵と良く似ていて、幾分か光の部分が印象的に強調されている絵だと言えば言えなくもないかもしれない。
   私の第一印象は、光と影のバランスが絶妙で、雰囲気がモノクロに似た風景写真を見ている様な感じがした。空気の匂いや音が聞こえてくるような、そんな感じもする。
   コローの絵のように決して明るい感じの風景画ではなく、何処かくすんだ、しかし、胸に沁みて強烈な印象を残す絵である。

   昨年の院展出品作でポスターにも使われている「華」であるが、暗くくすんだ花束の真ん中の白い百合の花一輪だけが輝いているだけで、美しさも華やかさもない絵だが、この白い百合がいつまでも気になる、そんな不思議な絵である。

   赤いヤブツバキを画材にした掛け軸が展示されていたが、やはり、印象が暗い。
   実際には、白日の下では、絵の印象は大分違うのかもしれないが、会場の照明が適切であったのかどうか分からないが、絵葉書や図録の方が色彩や細部が良く分かる、そんな展示会であった。
   
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大杯の芽吹き

2006年04月25日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   わが庭には、一本だけ、大杯が植えてある。
   秋には真っ赤に染まる比較的大きな葉のカエデで、庭を明るく華やかにしてくれる。
   しかし、このモミジは、春の芽吹きの頃も、黄緑の柔らかな葉を開き、先から小花をつけた赤い突起を伸ばすのが、なかなか風情があって面白い。
   この小花が実を結んで、初夏には、二股に分かれたトンボのような種をつける。
   昨年の種を庭に蒔いたら、小さな双葉を出したかと思うと、その間からモミジ形をした小葉を出して可愛い苗となっている。

   随分前に、京都のモミジで有名な永観堂のヤマモミジの種を頂戴して庭に蒔いたら芽が出たので鉢に移して育てて、ほど良く大きくなってから庭に下した。
   そのモミジも大分大きくなって、昨年も紅葉したが、京都のモミジのように美しく色付かなかった。

   午前中に日が良く当り西日の当らないところが良いと言うことであるが、どうもそれだけではなく、やはり、気温や湿度の問題などもあるのであろう。
   しかし、近くの大きな公園のモミジは美しく紅葉して中々見事に色付くし、新宿御苑のモミジも美しい。
   やはり、ある程度鬱蒼とした林や森の水際などでないと美しく紅葉しないのかも知れない。
   千葉や東京で民家や街路のモミジで綺麗な紅葉を見たことがないので、やはり、自然環境も大切なのであろう。

   秋の紅葉だが、関西では櫻や柿の葉の紅葉が実に美しくて、奈良の田舎の古道を歩いていると、柿の葉の赤いまだら模様の色付きが実に美しくてじっと眺めていたことがあった。
   それに、アメリカンハナミズキの紅葉も美しい。
   しかし、何故か、この近所の櫻も柿もハナミズキも美しく紅葉してくれない。
   花木にとっては、環境も大切、自然との相性が悪いと華やげないのかも知れない。
   

   
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良好だと思われている日米関係だが本当か

2006年04月24日 | 政治・経済・社会
   昨日のサンデープロジェクトで、田原総一郎氏が、日米関係は現在一番良好だがと言ったら、ウルトラ・ダラーの著者手嶋龍一氏は、言下に、非常に悪い状態だと言った。
   私自身は、日本政府が熱心に国連安全保障理事国入りを模索していた時に、アメリカの一見消極的な反対にあって実現出来なかったが、あの時点で、派手な小泉・ブッシュ仲良しパーフォーマンスが実際にはそうでなく、日米の外交関係には隙間風が吹いていることを感じた。

   手嶋氏もこの点を明確に述べていた。別な所で手嶋氏は、イラク戦争に反対したドイツを抱き込んだ国連改革案などアメリカが認める訳がないと言って日本外交の稚拙さを指摘しているが、根回しがお家芸の日本である、日米同盟関係が良好に機能しておれば起こりえないことである。
   この蹉跌によって、東アジアの代表は中国であること、日米の太平洋同盟が機能していないこと、中国の対日封じ込め外交が戦果を挙げた事を天下に知らしめて日本のイメージを著しく傷つけたと言う。

   もう一つ手嶋氏が指摘したのは、ゼーリック米国務副長官が日本の外交官や政治家と会おうとしない、「日本政府を相手とせず」と言う対日強硬策を貫いていると言うことである。
   通商代表部の時期には日本との接点は可なりあり、知日派と考えられた事もあった。
   しかし、湾岸戦争の体験から、日本と言う国は自らの意思を決めることの出来ないクラゲのような国であり、貴重な時間を割くに値しない、と言っていると言う。
   やっと来日した時には、折角再開された米国からの輸入牛肉に危険部位が混入しているのが発覚して、謝罪する破目になったのだが、この恨みもあろうか。
   就任後、駐米日本大使と一度しか会っていないとも言うが、何処かの国のトップからも、靖国参拝を止めないと会わないと言われている、失礼極まりない話だと思うが、そんな日本に成り下がってしまったのであろうか。

   今、日米関係で問題になっているのは、BSE問題と一連の米軍再編に伴う基地移転問題であろう。
   大義名分もない自衛隊のイラク派遣(サンプロで宮澤元首相も派遣する必要がなかったと発言)に執心し、小泉・竹中チームで国益を犠牲(?)にしてまでもアメリカ追随型の自由化経済政策をとれば、アメリカの覚え目出度いのは当然で、文句がないから相手にされない、と言うことであるなら悲しい。
   
   メディアの報道と実際との落差がありすぎるような気がして心配だが、ヨーロッパは縁遠いし、アジアでも孤立して、日米関係も悪化して行けば、日本外交は、悲しいかな、世界から孤立してしまう。
   経済力が抜群で、世界から一目置かれていた時には、多少失敗しても世界は日本の方を向いてくれていた。
   まだ、日本パッシングより、日本バッシングの方がましな様な気がするが、寂しい話である。
   憲法改正が問題になっている。第九条を云々する前に、国際社会におけるあるべき日本の理念とその姿をしっかり確立して、確乎たる自主独立外交に徹しない限り、日本の明日はないと思わなければならない。

(追記)本ブログは、早朝に書いたのだが、本日、午後1時より日経ホールにて、日経・CSIS共催シンポジューム「激動する北東アジアと日米」が開催されて聴講した。
J.ナイ、J.ケリー、K.キャンベル、M.グリーン、A.カンター、R.ブッシュ等錚々たる論者の高度な白熱した論議が展開された。
聴講条件で、ブログに書くことを禁止されているので、内容に触れられないのが残念だが、本ブログの内容も多少かわらざるを得ない。
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NPOと言う組織・・・経済社会活性化の切り札か

2006年04月23日 | 経営・ビジネス
   「NPO(Non-profit Organaization)」非営利民間組織が今脚光を浴びている。使命を達成する為に組織される利益を上げることが目的ではない民間の企業のような組織と言うのが当たり障りのない解釈であろうか。
   企業と言ったのは、利益を主目的とはしないが、組織として自活してゆく為には自分自身で経済的自立を果たさねばならないので無償ではなく、自己利益ではないそれなりの収益を追求する組織であるからである。
   
   跡田直澄慶大教授が「利益が上がる!NPOの経済学」と言う本を出した。
   NPOの初歩から説き起こした概説本で、理念らしきものが先行していて、「日本が本当に豊かで成熟した社会を迎えることが出来るかどうかは、ひとえに日本のNPO業界が活性化するか否かにかかっている」とまで仰る。
   公益に帰する使命感(ミッション)がNPOの原点であり、NPO業界が持つ限りない潜在力が、日本の将来を建設的なものにする可能性を秘めていると言うのである。

   まず、手始めとして、NPOは、ボランティアで無償だと言うのは誤解で、ミッション遂行のためには、給料など少し下げる程度でも良く、事業として儲けるのは当然だと説き始める。
   目的どおりに公益の為に活発に活動しているNPOもあれば、現に、営利企業の営業窓口のような組織でありながら、非営利民間団体のレッテルがある為に公的機関のサポートを得ているようなNPOもあるなど色々である。

   跡田教授の論点は、公益性と「民間企業と比較して、NPOは利益が目的ではない為にコストが低いので、同一マーケットでの競争では、NPOの方が価格競争では有利となる。」と言う視点に依拠している。
   この競争に打ち勝つ為に民間の私企業は更に努力するので、競争が激化して消費者にとって有利となり、民間マーケットの活性化につながり国内需要が喚起される。
   一方、NPOの活躍により公益事業が民に移行するので、政府予算がスリム化して膨大な累積赤字が縮小する。
   企業間競争に打ち勝つNPOが数多く出現すれば、プロジェクト・ファイナンスやSRIが活発化し、NPO業界に膨大な資金が流れ込み、金融業界や産業界、即ち経済界全体のモラル向上に繋がり、日本に健全なマーケットが育つ。
   跡田教授は、こんな議論を展開しているが、理想形として聞く分には望ましいし、願ってもない経済社会の発展方向だと思われる。
   しかし、非営利組織と言っても所詮は営利団体であり、そのマネジメントが如何に難しいか、上手く行くかどうかは未知数である。

   NPO活動については、「3分の1ルール」、即ち、「自前の稼ぎ(営業収入)」、「補助金・助成金」、「寄付」と言う3要素が、組織の維持と拡充の為に必須であり、後の2項目からの資金が潤沢であればあるほど運営が楽になり、コスト競争力が増す。
   しかし、その運営なり経営が上手く行くかどうかは、目的がいくら至高であっても、多くの諸条件をクリアせねばならず、そのマネジメント如何にかかっていると言っても間違いではない。

   国家財政の困窮によって、政府は「民間で出来ることは民間で」と歌い上げて民活を勧めているが、公共ニーズの肩代わりをNPOに託すのであれば、税制優遇制度を導入するなどもっと積極的にNPO活動をバックアップする施策を打つべきである。
   個人の篤志家などの寄付には免税措置はないし、NPOの営業利益に税金をかけるようなことをしているようでは何時まで経ってもNPOなどまともに育たないし、まして、跡田教授の理想など実現する筈がない。
   
   もう何十年も前になるが、某メーカーとジョイント・ヴェンチャーでゴルフ場を経営していた時、そのメーカーは、60歳以上の社員を臨時社員にして、年金支給額を減額されない程度に給料を支払い、賞与を調整しながら給与を払って使っていた。言うならば、取り分は同じなので政府に年金支給と言う形で給与を一部肩代わりさせて従業員を働かせていたと言うことである。
   何故こんなことを言うかと言うと、2007年は、団塊の世代が一挙に年金生活に入って労働市場から退出する年の元年であり、ボランティアでも何でも働き甲斐を求めて労働市場に出たい豊かな人々が沢山生まれて、正に、NPO人材予備軍が輩出し、NPOにとって又とないチャンスなのである。

   もっとも、条件が揃ってもNPOが上手く行くか行かないかは、多くの難しい別の要件を満足させなければならない、とにかく、NPOは大変なのだが、展開次第では、社会を大きく変える起爆剤であることには間違いない。
   
(追記)椿は、式部。

   
   
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人類は何故戦争から開放されないのか・・・アインシュタインとフロイトの往復書簡

2006年04月22日 | 政治・経済・社会
   神保町の某書店で、面白い本を見つけた。見つけたと言うのは、当らない、何故なら以前に一度この本に出会っていて何故だか買いそびれて忘れていたのだが、偶然再会したからである。
   それは、アインシュタインとフロイトと言う超偉大な人類の頭脳が、国際連盟の依頼で、ヒットラー台頭の少し前1932年に戦争について往復書簡を交わしたが、その手紙の翻訳と養老先生の解説がついている「ヒトはなぜ戦争をするのか?」と言う本である。

   国際連盟からの提案で、アインシュタインが、「誰でも好きな方を選び、今の文明でもっとも大切な問いと思える事柄について意見を交換できることになって、またとない機会に恵まれて嬉しい限りだ」と言って、フロイトに書簡を送り、「人間を戦争と言うくびきから解き放つことはできるのか?」と問い掛けた。
   ポッダム近郊カプートに住んでいたアインシュタインには、ヒットラーの軍靴の足音が聞こえていたのであろう、「なぜ少数の人たちが夥しい数の国民を動かし、自分達の欲望の道具にすることが出来るのか?」「国民の多くが学校やマスコミの手で煽り立てられ、自分の身を犠牲にしていく―このようなことがどうして起こり得るのであろうか?」と問うている。

   ナショナリズムは自分には縁がないと言って、アインシュタインは、
「戦争の問題を解決する外的な枠組みを整えるのは易しいように思える、すべての国家が一致協力して、一つの機関を作り上げれば良い。
この機関に国家間の問題についての立法と司法の権限を与え、国際的な紛争が生じたときには、この機関に解決を委ねるのです。」
「「国際的な平和を実現しようとすれば、各国が主権の一部を完全に放棄し、自らの活動に一定の枠をはめなければならない。」と言っている。

   この見解に対してフロイトは、アインシュタインの説と同じ結論だとして「戦争を確実に防ごうと思えば、皆が一致協力して強大な中央集権的な権力を作り上げ、何か利害の対立が起きた時にはこの機関に裁定を委ねるのです。それしか道がないのです。」と言う。
   しかし、その為には2つの条件、即ち、そのような機関が現実に創設されること、そして、自らの裁定を押し通すに必要な力を持つことだが、国際連盟も含めて第2の条件を満たすことは不可能であると言って現実性を疑問視している。

   世界政府の実現が理想だとする二人の見解も、未だに国連さえ上手く機能し得ておらず、一国覇権主義を強引に推進するブッシュ政権のネオコン政策によって、二度の過酷な大戦の試練を経て築き上げてきた国際的な平和協調主義が危機に瀕してしまっている。

   またアインシュタインは次のようにも言っている。
「人間には本能的な欲求が潜んでいる。憎悪に駆られて、相手を絶滅させようとする欲求が!」
「教養のないヒトより知識人ほど、大衆操作による暗示にかかり致命的な行動に走り易い。生の現実を自分の目と耳で捉えずに、紙の上の文字、それを頼りに複雑に練り上げられた現実を安直に捉えようとするからだ。」
   理知的で限りなく聡明なドイツ国民が、ナチスの安っぽいアジに煽られてひとたまりもなく崩壊し奈落に転落して言った予兆を、アインシュタインは克明に告発している。
   「貴方の最新の知見に照らして、世界の平和と言う問題に改めて集中的に取り組んで頂ければこれほど有難いことはない」、縋り付く様な思いでフロイトに問題を投げかけているのである。

   フロイトはやはり精神分析の創始者で偉大な人文学者であり、多少理屈っぽく4倍ほどの長い返信を書いている。
   人と人との利害の対立は、基本的に暴力によって解決されていると言う話から始めて、本能的な要求が戦争に駆り立てるのだとアインシュタインに全面的に同意する。
   精神分析の衝動の理論を引用して、「愛エロス」と破壊衝動が結びついた衝動が幾つも合わさって人間の行動が引き起こされるとして、理想的なのは、当然、人間が自分の衝動をあますことなく理性のコントロール下に置く状態だと言っている。

   文化の発展が、人間の心のあり方を、「知性を強めること」と「攻撃本能を内に向けること」に変えてしまって、戦争はこれに対して対極。戦争への拒絶は、単なる知性的感情的レベルの拒否ではなく、平和主義者の体と心の奥底から沸きあがってくる強い希求だと言うのである。

   「このような文化の発展による心の在り方の変化と、将来の戦争がもたらす途轍もない惨禍への不安――この二つが近い将来の戦争をなくす方向に人間を動かしてゆくと期待できるのではないでしょうか。
   文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩み出すことが出来る!」

   これがフロイトの結論と言えば結論だが、現在でも、悲しいかな戦争の抑止力は原子爆弾のみ。しかし、1人の気の狂った人間によるボタン操作一つで世界中を戦争の惨禍に巻きこんで、この宇宙船地球号を破壊してしまう。
   私は、このようなことが例へ起こらなかったとしても、人類の文化文明、そして、経済社会の発展(?)によって地球環境、そして、そのエコロジーを破壊してしまって、人類の歴史は終わってしまうと思っている。
   遅いか早いか時間だけの問題である。

   地中海をアジアに向けてアリタリアで飛んでいた時、眼下に、真ん中が吹っ飛んでしまって側の痕跡だけが微かに残るサントリーニ島の島影を見て、文明が進みすぎて崩壊したアトランティスのことを思い出した、丁度同じ心境である。
   
(追記)椿は、ト伴。
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映像の歌舞伎・・・玉三郎の鷺娘と日高川入相花王

2006年04月21日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今、東銀座の東劇で「シネマ歌舞伎 坂東玉三郎―鷺娘」と「日高川入相花王」を上映している。あわせて1時間と少しの上映時間だが、歌舞伎の舞台とは違った別な臨場感があってそれなりに楽しめる。
   養老先生の話をもじれば、ある一つの特定のカメラマンの視点から見た玉三郎の舞台であるのだが、ある意味では、一番良い場所から観ているとも言えるので、表情など細部が良く見えて、新しい発見をしたような感じがする。

   ナマと映像の違いは、舞台よりも、相撲やプロ野球の観戦をしている時に良く分かる。とにかく、双眼鏡で見るとしても実際の戦いの舞台が遠いので、テレビなどとは臨場感が全く違うのである。
   実際の選手や役者が、目の前でプレイをしたり演じているのは事実なのだが、そのプレイヤー達のきめ細かい表情は、映像の世界に止めを刺す。
   それに、音響効果も、5.1chの映画の方が深みと幅が加わって良い。

   まず、日高川の清姫の舞台であるが、昨年10月での歌舞伎座での録画だと思うが、実際の舞台を観ているので、感激新たであった。
   玉三郎は、初心な娘から蛇身への変貌を全身に情念を漲らせて実に繊細にきめ細かく演じていて、人形と人との境の微妙な身体の動きが中庸を得ていて実に美しい。
   菊之助の人形遣いだが、どう鑑賞すれば良いのか戸惑ったが、右手ばかりが強調されて肝心のカシラを遣う左手の動きが気になった。
   船頭の薪車は、上手いが人形になりすぎていて演技過剰。
   いずれにしろ、綺麗な舞台で映像に映える素晴しいフィルムであった。

   鷺娘への出会いは、偶然が重なっている。最初にその素晴しさを発見したのは、NHKで放映されたニューヨーク・メトロポリタン歌劇場のセンティニアル記念公演での玉三郎の舞台であった。
   次は、もう15年以上も前に、ロンドンでジャパン・フェスティバルが行われて、勘九郎父子と玉三郎がやって来て歌舞伎公演をした時である。
   演目は、鳴神と鏡獅子、それに玉三郎の鷺娘で、この時、偶然に、渡欧する前に感激してヴィデオを観ていた玉三郎そのものの鷺娘を鑑賞できたのである。
   あれが本当の男優か、と何度も友人のイギリス人が聞いていたが、その美しさと舞台の素晴しさに圧倒されてしまったが、何故か、この舞台だけはイギリス人から招待を受けた。
   帰って来てからは、残念ながら鷺娘を見ていないので、この映画が久しぶりの舞台なので、感激をあらたにした。
   最後の真っ白な鷺の衣装をつけて、雪吹雪の中で鷺神が乗り移ったように夢幻の境地で舞い続ける玉三郎の鷺はまさに芸の極致、静かにフェイズアウトして行くカメラワークに余韻を残す。

   舞台とは違うが、私は、オペラや芝居の舞台などを映画で見るのは好きである。
   最初に感激したのは、パリのオペラ座の近くの映画館で見たドミンゴとストラタス主演のオペラ「椿姫」で、あの映画は、オペラの舞台ではなく実際のロケによる映像であったが素晴しかった。
   その後、ニューヨークでベータ版のビデオを見つけて買って帰り楽しんでいたが、ソニーのベータと共に消えてしまって今はない。

   ロンドンに居た時(1992年7月11日)、BBCが「トスカ」を、オペラの設定と全く同じ時間通りに、ローマの実際のその現場で、ライブ・ロケ放映すると言う企画を行ったことがある。今でも、その舞台がビデオ化されて発売されていると思うが、実際にその放送時間を待ってBBC放送(当日の午後から翌朝5時頃まで断続的だったであろうか)を見るのは、ワクワクするほど感激であった。
   タイトルロールはキャサリン・マルフィターノ、カヴァラドッシはドミンゴ、スカラピアはライモンディ、指揮はズビン・メータ。圧倒的な迫力で、正に劇的なオペラ公演であった。

   オペラの映画が架かれば見に行くことにしているし、近松関係の演目で文楽や歌舞伎の雰囲気をかぶせた映画も結構あって見ているつもりである。
   実際の舞台では気付かない新しい発見などがあって面白いし、それに、舞台と映画との演出の違いとか役者の取り組み方の差などが分かって興味深い。

   

   
   
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Wharton 125・・・世界最古のビジネス・スクール

2006年04月20日 | 政治・経済・社会
   京大がビジネス・スクールを創設したが、2ヶ月ほど前に、東京で、大学と我々OBとの間で、説明懇談会が持たれた。
   京大と言うネームバリューで、それなりの学校となりそれなりの評価を受けるかもしれないが、果たして中途半端で小規模なビジネス・スクールを新設しても意味があるのかどうか難しい所であると思った。
   カリキュラムを見ても特に特色があるわけでもなく、ボーダーレスかつグローバルなビジネスの時代でありながら、文科省の認可基準を満たすためには、グローバルのグもないような無味乾燥な教科や授業を持たなければならないのか、疑問なしとはしなかった。
   ロンドン・ビジネス・スクールを創設した時には、ウォートンとハーバードが指導援助したと言われている。
   母校ウォートンを見ても、世界最先端のビジネス・スクールは、謂わば、総合的な産官学共同のビジネス教育コンプレックスで、知的水準においても物理的な教育システムにしても途轍もない所まで進んでいる。
   昨年の卒業式には、グリーンスパンが来て卒業生達に餞の講演をしているのである。

   ところで、昨夜、大手町で、ウォートン・スクール・ジャパンの年次同窓会があったので参加した。
   大体、同窓会の類はあまり出ないことにしているが、ウォートン関係だけは比較的熱心に出ている。
   今年は、ウォートン・スクール創立125周年、1881年にペンシルヴァニア大学内に設立され経営学を専門としたビジネス・スクールとしては世界最古で、ハーバードよりは遥かに古い。(因みに、ペンシルヴァニア大学は、アメリカ最高の偉人と言われているベンジャミン・フランクリンが1740年に創立したアメリカ最古の総合大学(University)である。もっとも、古ければ良いと言うものでもない。)

   ウォートンだが、最近までは、世界のビジネス・スクール・ランキングでハーバードとトップを争っていたが、学生のプライバシーに関わるとしてハーバードと共に調査機関に情報の提供を拒否したので、その後2校ともランキングから外されているのも面白い。
   エコノミスト誌のランキングでは、スペインのナバレ大学がトップ評価だったが何をか況やである。
   余談だが、ハーバード・ビジネス・スクールのキャンパスだけを比べて見ても、日本の普通の私大1校のキャンパスより遥かに広大で、規模から言っても学問の水準から言っても、並みの学校が太刀打ちできるような代物では決してない。

   今年、ウォートン・スクールに入学する新入生が招かれていたが、男性が16名女性が9名とかで、総合商社からの派遣以外は、外資系会社の会社からや外人学生が多数を占めていた。
   1972年、もう、34年前になるが、私もこの会合に招待されて、当時富士ゼロックス社長だった小林陽太郎会長に紹介された。スマートな紳士であった。
   
   その後、経団連が、小林陽太郎会長を団長に北欧経済ミッションを派遣した時に、ロンドンから参加したので、10日間ほど、エストニアのタリンを含む北欧5国を一緒に回った関係でよく存じ上げており、この会合でお会いすると、その時々の話を伺っている。
   最初は、私もとうとう70になりましたとか、相談役になりましたと言った調子で話されるのだが、今回は、日本の経済の話やフィルム産業やエレクトロニクス産業の経営や将来、そして、イノベーション戦略などについて興味深い話を相当突っ込んだ話をされた。
   非常に誠実に歯に絹を着せずに話されるので、実に爽やかである。
相当長い時間二人で喋りこんでしまったのであろう、ウエイター長がトマトジュースを小林会長にさりげなく渡し、口をつけて少し経ってから先があるのでと言って帰って行かれた。
   ジュースが秘書の中座時間の連絡とは実に心憎い演出であると思った。

   北欧ミッションの時も、結構キツイ日程であったが、食事後は、小林会長のホテルの部屋は解放されていて、毎夜のように団員が遅くまで集まって言いたい放題を言わせて貰っていた。
   経済や経営、そして、文化やスポーツなど難しい話から日常的な話まで、小林夜間スクールは盛況であった。
   バックには、小林会長が持ち歩いておられるCDのブラームスの交響曲が流れていた。
   日程途中、小林夫人が合流された時には、小林クラブが併設されると言った感じであったが、私は、これほど誠実で開放的で真摯な、そして、学殖豊かで文武両道秀でた見上げるべき経営トップを、外人を含めても見たことがない。
   ウォートン・スクールは、このような経済人を輩出するビジネス・スクールなのである、と言うことであろうか。

   昨夜のコメントで最も印象的であったのは、日本の経営者にとっても日本の教育にとっても、リベラル・アーツの重要さをもっともっと認識すべきであると言うこと。
   ピーター・ドラッカーと対談されていた小林会長の姿を思い出して聞いていた。
   
(追記)椿は、四海波。

   
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早稲田大学・六世中村歌右衛門展&土門拳の撮った早大生

2006年04月19日 | 展覧会・展示会
   早稲田のリーガロイヤルホテルであったセミナーに参加した後、久しぶりに早稲田大学キャンパスを訪れた。
   新入生も加わった所為か、学内も急に賑やかに華やかになった感じで、若さがムンムンしていた。

   ホテルの裏庭が大隈庭園に接しているので、直接園に入り込んだが、綺麗に整備された中々素晴しい日本庭園でありながら広い芝生の空間があって、学生たちが寛いでいて楽しそうであった。
   庭園には、古い日本家屋が残っていて、その側には可なり高低のある入り組んだ池があり、昔の屋敷風の雰囲気が残っていて良い。

   構内の坪内博士記念演劇博物館では、歌舞伎座の追悼五年祭に呼応してか、「六世中村歌右衛門展~当り役を中心に~」が開かれていた。
   部屋は一階にある元々の中村歌右衛門の展示室だが、中村家よりの寄贈品の中から、当り役を中心に衣装、舞台写真、公演資料、台本等珍しい品々が展示されていて、ビデオで名舞台を放映していた。
   衣装は、「籠釣瓶花街酔醒」の八ッ橋のが2点展示されていた。
   舞台写真は、モノクロの古い写真ほど艶やかで美しい。歌右衛門の絵姿が中々良かった。
   私には、古い歌舞伎のポスターが、当時の名優の名前や世相を教えてくれていて面白かった。
   今、歌舞伎座でも、この博物館から出展示されているものがあって、グレタ・ガルボから来たLOVE LOVE LOVEの電報や手鏡は、ここで見た。

   その後、会津八一記念博物館で開かれている「土門拳の撮った早大生」を見に行った。
   土門拳が日本工房に入って撮影した「早稲田大学経済学部経済学科アルバム」の1936年と1937年から、当時の早稲田大学の学生の珍しい学生生活風景写真がパネルにされて展示されていて、非常に興味深かった。

   「カメラの覚書」では、早大生が4人オープンカーに乗って街中を走っている姿、テニス、玉突き、弓道、棒術をする学生の勇姿など非常にダイナミックに写した大型パネルが展示されていた。
   また、別なコーナーには、教授の授業風景、下宿やアパートでの学生会食、コーヒー店銀座「ラスキン」での憩い、上野の仲見世、上野松屋屋上での汽車ぽっぽ、薩摩琵琶や謡曲の稽古姿、飲み屋新宿「碇萬年」での女将と学生等々、それに、早稲田の丸善の店頭写真で「今日の新刊」と書かれた看板が面白い。
   苦学生もいたのであろうが、やはりあの頃の大学生は、学生貴族で趣味もスポーツも最先端を行っていたのであろう、恵まれた学生生活である。

   古風な記念アルバムと対比させて最近の卒業アルバムが展示されていたが、モダンと言うかチャイルディッシュと言うかその落差が大きすぎる。
   実際にも年を取っていたのかも知れないが、写真の学生と比べれば、今キャンパスで青春を謳歌している早大生が、実に子供っぽく見えて時代の変遷を感じてしまう。

   これ等の写真意外に、土門拳の写真アルバムや雑誌など懐かしい写真や資料が展示されていて興味深かった。
   早稲田の学生を撮った頃のライカⅢやエルマー5cmレンズ、それに、日本工房に入った土門拳に名取洋之助が与えたキャビネ版の組立暗箱が出展されていた。
この暗箱だが、カメラとフィルムから撤退してしまったコニカ(小西六)の製品である。
   動きのある学生達の写真はライカで撮ったのであるが、学生達の集合写真は、この暗箱で撮ったようで、大掛かりな設営をしたにも関わらず失敗が多くて暗幕を被ったまま土門拳は中々顔を上げられなかったと言う。
   私が小さい頃には、まだ、このような写真機が残ってっていて、幼稚園や小学校での記念撮影はこれで、派手にマグネシュームをフラッシュ代わりに焚いていた、今昔の感である。
      
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イノベーションと経営(11)・・・イノベーションよりリノベーション

2006年04月18日 | イノベーションと経営
   事業の発展を目指すのであれば、イノベーションなど止めてリノベーションをやれ、と言う勇ましい議論を展開しているのが、元コカ・コーラのマーケティング最高責任者であったセルジオ・ジンマンである。
   ペプシの追い上げを避ける為に出したイノベーション製品ニューコークが失敗して、たった77日間で元のクラシックコークを再登場させた苦い経験から学んだ教訓に基づく持論を展開しているのである。

   「そんな事業なら、やめてしまえ! RENOVATE BEFORE YOU INOVATE」と言う著書。原題どおり、「イノベートする前にリノベートせよ」と言うべきだが、多くの実際の企業を例示して説明しているので、面白いし説得力もある。

   イノベーションは、既存の資産とコア・コンピタンシー(中核となる事業能力)を既存の事業とは異なることを行う為に活用し、新製品や新サービスを創造することであるが、消費者に買うように説得しなければならない。
   一方、リノベーションは、既存の資産と事業能力を利用して何か別のことをするのではなく、それらを利用してより優れたことをすること、企業の基本的な部分には手を付けないでグレードアップすることである。
   リノベーション(本業の見直し・改善etc)は、まず売れるものは何かを考えて顧客が本当に望む製品やサービスを提供し、企業のコア・アッセンスと顧客との間で確立された関係を利用するので成功の確率が高い、と言う。

   事業の成功のためには、企業のコア・コンピテンシー、コア・エッセンス、資産やインフラストラクチュアの3要素がバランス良く機能することが必要だと言うが、ジンマンは、リノベーションのためには、コア・エッセンスが最も重要だと強調している。
   コア・エッセンスとは、何か。非常に抽象的なので分かり難いが、顧客や消費者が共通して持っている企業やブランドに抱いているイメージや期待、彼らの心に投影している姿、ブランドが顧客達に約束しているものetc.
   このコア・エッセンスに沿った事業戦略を打ち出して、消費者に確実に実現を約束できるように、必要かつ適当なコア・コンピタンシーと資産を確保するのである。

   ジンマンが例示しているのはiPodである。
   このiPodは、クリエイティブなハイテクによる楽しさがアップルのコア・エッセンスなので、この理論的延長線上の製品で、音楽ファイルをダウンロードして保存して聞いて楽しむと言う風潮を利用して、それを簡単にしただけで、コア・コンピタンシー(音楽ソフトを保存する方法等)は買収して資産を整備したのだと言うのである。
   後段で、リノベーションの手法について競争的枠組みを説いている所で、ロシアでコカコーラを売り出した時に、競争相手は市バス(何故なら貧しくて市バスに乗るかコークを飲むかの選択)だったと述懐していたが、ソニーのウオークマンの天敵は同業者ではなかったことを示していて面白い。

   ジンマンは、イノベーションが如何に企業にとってコストと時間を要して大変かを、多くの企業のイノベーションの試みを例示して、その失敗と蹉跌について説明していて謎解きのようで興味深い。
   基本的なポイントは、リノベーションは、まず最初に何が売れるのかを考えて、企業のコア・エッセンス、即ち、顧客が当該企業に期待する、その企業のイメージどおりの製品を開発して提供するのであるから、リスクは少ないと言うことであろうか。
   しかし、イノベーションの場合は、海のものとも山のものとも分からない新製品や新サービスを創造して顧客に提供するのであるから、場合によっては、企業の経営資源を新プロジェクトにシフトし、膨大なコストと時間を要し、販売促進を行わねばならないのであるから、確かに、リスクが高い。
   このあたりは、クリステンセンの「イノベーションのジレンマ」で、何故、リーディング企業が破壊的イノベーションに対応できずに新規参入企業に出し抜かれて没落してゆくのか、論述されているので自明である。

   良く考えてれば、現在、その業界のトップ企業のコア・ビジネスを良く見てみれば、その企業がイノベーションしたのではなく、別のイノベーターが開発した製品やサービスである場合が多い。
   これも言ってみれば、イノベーションではなくてリノベーションで、今では目を見張るような革新的な会社に変身してしまったが、昔のマネシタデンキの手法がもっとも有効と言うことであろうか。

   このジンマンの本は、日本語の本のタイトルが挑戦的なので誤解を招きそうだが、実務家の書いた実に有益な経営学書である。

(追記)椿は、花仙山。
   

   

   
   
   
   
   
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山吹が咲き始めた我が庭

2006年04月17日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   公園のソメイヨシノが葉桜に変わり、街路樹の八重桜が咲き始めた。
   もう本格的な春で、もう少しすると、あさがをの種を蒔かなければならない。
   山吹の花が開き始めると庭が急に輝く。やはり、山吹色は黄金色、日の光を浴びると光り輝いて美しい。

   庭の源平桃も散り始めたが、椿は入れ替わり立ち代り咲き続けていて、鉢植の椿はまだ蕾の固いままのものもあり、名札のとれたのは、どんな花が咲くのか楽しみにしている。
   庭の椿は、殆ど鉢植から庭に下したので、枝を切るのが忍びなくて自然に任せて育ててきたので樹形が乱れているが、大きくなってくると、それにも風情が出てきて良くなっている。

   大きなヒヨドリが飛んできて、椿の花にクチバシを突っ込んで蜜を吸っている。一花一花丹念に回っていて、蜜があるのであろうか殆ど蘂の見えない崑崙黒にさえクチバシを入れているのが不思議なのだが、どうも、同じ様に蘂が見えない椿でも結実することがあるのは小鳥達のお蔭のようである。
   朝起きて、庭の椿の植木鉢がひっくり返っていることがあるが、ヒヨドリが蜜を吸ったときに倒れたのであろう。
   根元が白くグラジュエーションする優雅なピンク色の天賜は、蜜が垂れて花弁が光るほど豊かなのでヒヨドリが集まるが、その代り花がすぐに変色して落花して命が短い。

   アメリカンハナミズキや、久留米つつじ等も色付き始めた。庭の花木は、この1ヶ月ほどの間に、目まぐるしく動き始めて、日々庭の色彩が少しづつ変わっていて楽しませてくれる。
   牡丹や芍薬の蕾も大きく膨れ始めていて、来月には、優雅な大きな花を咲かせてくれるであろう。
   モミジの春の芽吹きは美しい。秋の紅葉とは違って、華やかさはないが、さ緑、黄緑、赤茶色等、新緑に色のバリエーションを与えていて、それに、小さな花や葉が少しづつ開き始めるのが、中々面白い。

   2本残っている薔薇は、枝を伸ばし始めたが、今年は遅くて、まだ、蕾が分からない。どんな花を咲かせてくれるのであろうか。

   1月に植えたチューリップが色とりどりに咲いていて、原種チューリップも蕾をつけ始めた。
   花木の根元に、沢山のスミレが咲いている。野生の濃い青紫の花と少し淡い色の花が主体だが、園芸店で買った三色スミレも忘れずに小さな株に花を咲かせている。
   まだ、蝶々はちらほら時々飛んでくるくらいだし、虫の訪れも殆どないが、八重桜が散る頃には、庭も急に賑やかになることであろう。
   もう少し暑くなると、雑草が猛然と生えてきて格闘せねばならない。雑草や害虫の少ないイギリスが羨ましくなる。

   遠くの林も、殆ど緑一色になってきた。鶯の鳴き声が聞こえている。
      
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四月大歌舞伎・・・中村福助の「狐と笛吹き」「伊勢音頭恋寝刃」

2006年04月16日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   四月の歌舞伎座の舞台で興味深かったのは、福助の舞台で、昼の部の「狐と笛吹き」のともねと、夜の部の「伊勢音頭恋寝刃」の仲居万野の二役で、全く対照的な役を、実に器用に演じていて、芸に一段と磨きがかかった様な気がして楽しんで観ていた。
   ともねは、命を助けられた母狐が、娘狐を亡妻に良く似た女に化けさせて笛吹きの許に送るが、相思相愛になるが契ると死なねばならない運命を背負った悲恋のヒロイン。仲居万野は、廓・油屋の意地の悪い仲居で実直な侍・福岡貢(片岡仁左衛門)を満座の中で恥をかかせて殺される役、とにかく、いつも健気でいい女を演じている福助がこの舞台では豹変する、その凄さが面白い。

   「狐と笛吹き」は、もう半世紀以上も前に、北条秀司が中村歌右衛門に当て書きしたと言われる歌舞伎の為の書き下ろし。
   「狐女房」については、この話の元である今昔物語にも他にあり、狐と人間との異類婚姻譚は、歌舞伎や浄瑠璃でも「葛の葉」「信太妻」などあるし、日本昔話の子供の話にも、狐の妻が農繁期に夫を助けて田植えし稲穂が良く実ると言った説話などあり、化かす狐が農業神となって親しまれてもいる。
   しかし、この「狐と笛吹き」は、笛吹き春方(中村梅玉)と相思相愛になった狐の妻が、人間と契りを結ぶと死なねばならないと言う運命を背負った悲恋物で、夫の笛吹きに迫られて「死ぬのは恐ろしくはないけれど、貴方と違った世界に行くのが悲しい」と言うくだりは実に切ない。

   宮中での笛師への選任にもれ、悲嘆にくれて苦衷に耐えかねて、一緒に死ぬ覚悟をした笛吹き春方が最後にともねを求める。死を覚悟したともねの福助の表情が実に優しく神々しく輝いていた。
   翌朝、春方は、林の中を駆け回ってともねを探すが、故郷の琵琶湖畔を描いた大切にしていた扇を残して、大きなともねの衣装から狐に戻ったともねが顔だけ覗かせて横たわっている。  
   春方は、ともね狐を抱きしめて、都に別れを告げて狐の故郷に向かって死出の旅にたつ。 
   
   最初は、春方を慰める為に身代わりになったともね狐が、二人のしっぽりした生活の中で、少しづつ春方への恋心がつのり、自分が亡妻まろやの代わりに愛されていることに苦痛になり、二人の絆の思い出の琴を焼き、ともねとして愛して欲しいと迫る。
   しかし、何時春方が掟を破って契りを迫るのか不安で仕方がない、悩み悩んで人知れず故郷へ帰る決心をするともね。
   そこへ、選にもれて絶望して酒に酔いつぶれた春方が帰ってきて、ともねが居るから生きて行けるのだとかき口説く。
   このあたりの心の変化と狂おしいばかりのともねの心情を、福助は実に繊細で細やかに、そして情感豊かに演じていて胸を打つ。

   特に、この歌舞伎の舞台が、平安王朝のゆったりとした雅と枯れた渋さを綯い混ぜにした幻想的な雰囲気を上手く醸しだしていながら、北条秀司の現代的な台詞回しがいかにもリアルでドキッとするような新鮮さを感じさせてくれて感動的である。

   春方を演じる梅玉だが、王朝風の貴公子が板についていて、正に適役である。昔の説話は、男も女も恋一筋、邪念も邪心もなく愛し続ける、梅玉も、これほど妻に恋焦がれる夫が世の中に居るのかと思わせるほど丁寧に演じていて深い余韻を残す。
   特筆すべきは、愛し合う二人の心の交流が、実に素直に真っ直ぐに表現されていて、言葉の端々、そして、ほんの僅かな立ち居振る舞いにも心憎いまでの心配りがなされていて、心地よい感動を覚えさせてくれる。

   春方の住まいは東山の真葛ガ原で、円山公園の東南・長楽寺の辺りの山の中、今でも夜になると暗くて寂しいが、悲しい悲恋の話でありながらが、鑑賞後何処か清清しい印象を与えてくれる舞台だったのは、やはり福助と梅玉の芸が素晴しかったからであろうと思っている。
   私の好みに合った舞台であったので、余計にそう思うのかもしれない。

   歌右衛門と寿海の舞台が素晴しかったと言われているが、それは私には分からない。しかし、王朝風のたおやかで優雅な、そして、どこか幻想的で、あまりにも悲しくて切ない男と女の物語を、一寸、モダンで現代的なリアル感を醸しだしたこの福助と梅玉の舞台も決定版ではなかったであろうか。

   ところで、「伊勢音頭恋寝刃」であるが、実際に伊勢古市の遊郭・油屋で医者が仲居のおまんらを殺害した事件を劇化した際物(キワモノ)芝居で、ニュース性が命の大衆迎合形、しかし、近松門左衛門の心中ものもキワモノだから人気があったのであろう。

   この万野だが、意地の悪い中年仲居を、福助は、黒い着物を着て、歯を黒く染めて顔を横に引きつらせて一寸長谷川町子の意地悪ばあさんに似たスタイルで登場、声音も完全にばあさん風にかえて話しはじめると、客席から、苦笑気味の笑いがもれる。
   この万野だが、いい男の福岡貢(片岡仁左衛門)が恋仲の油屋お紺(時蔵)に会わせて欲しいと頼むが嫌がらせをして会わせないし、追い出そうとするが、替わり妓を呼ぶと言うと手のひらを返したように愛想良くなる。
   また、貢を思うブスの油屋お鹿(東蔵)をたぶらかして偽レターで金を出させて着服し貢に罪を着せる。
   要するに、貢の主人の家宝を奪う悪者に加担するのがこの万野なんだが、この意地の悪さで貢と渡り合う丁々発止の遣り取りが実に面白い。
   福助の新境地を見たような気がするが、元々品の良すぎる福助が、遊郭の名うての悪女のやり手婆には、距離があり過ぎて無理があり、少しも憎憎しくないのだが、それだけに滑稽で面白い。

   記録を見ると、この万野を、歌右衛門や芝翫の他に、玉三郎、菊五郎、勘三郎等が演じているが、夫々に面白いであろうと興味が湧いてくる。

   この「伊勢音頭恋寝刃」だが、やわで粋な仁左衛門の貢、お鹿の東蔵、お紺の時蔵、料理人喜助の梅玉、油屋お岸の勘太郎、 芦燕、團蔵、など芸達者が面白い舞台を作り出していたことを付記しておきたい。  
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