熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ジェフ・ダイヤー著「米中 世紀の競争 ―アメリカは中国の挑戦に打ち勝てるか」(2)

2015年07月30日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   国際舞台において、中国が、世界の独裁政権、反欧米政権のチアリーダーを演じている姿を随所で観る機会があった。
   ベネズエラのウゴ・チャベスへの財政的援助、シリア内戦への現政権への国際的圧力を減じようとする動き、ジンバブエのムガベ政権サポート、極め付きは、スーダンにおけるダルフールのジェノサイト(虐殺)の無視etc.等であろうか。

   ダイヤーは、この問題を、「20世紀がファシズムとリベラルな民主主義、資本主義と共産主義との激しい思想的な戦いの世紀だったとすれば、21世紀に主要な境界線の一つになるのは、国家主権の問題だとして、中米関係を論じている。
   スーダンは、その衝突が本格化する前の前座で、北京は自らの新たな影響力を行使して、国際政治の基調を定め、欧米の倫理観やおせっかいを阻止しようとしている。と言うのである。
 
   国連の推し進める人権と少数集団の保護であるが、世界最悪の人道上の問題の多くは、相対的に少なくなった国家間の戦争ではなく、国の内部でおこる虐待――ウガンダやカンボジア――によって引き起こされていて、中国も、国連で満場一致で可決された「保護する責任」に同意している。
   しかし、中国は、当初からこのプロジェクト全般に深い懸念を抱いていた。
   民主主義が急速に拡大していた時期、一党独裁の中国共産党を外の世界から守るために、国家主権擁護は党の生存本能であり、主権国家は、他国の国内事情に干渉すべきではないする古いウエストファリア的見解を強固に支持せざるを得なかったからである。

   そして、中国には、厳密な非介入の方針こそ、国際体制の強固な土台となる、と言う中国なりの論拠があって、欧米が人権と透明な統治に対して評価するのに対して、中国は安定に重きを置く、強固な政府と他国から尊重される主権があってこそ、初めて、成長を促し貧困を減じるのに必要な一貫した政策を取れるようになる。と言う考え方がある。
   西側が、虐待にもっともらしい主張をして人道的な介入をしても、時には植民地的な干渉の口実となって事態を悪化させるだけで、不安定をもたらすお節介に過ぎない場合があり、非介入は、この悪弊を避ける防波堤だと言うのである。
   
   中国は、発展途上国世界にくすぶり続ける反植民地主義の怒りを、アメリカの救世主的傾向に対して向けるのに長けており、
   この中国による国家主権の保護は、国連という場では、過去に植民地であった途上国から多くの支持を受けており、ブラジルやインドと言った大きな民主主義国の共感まで得ていて、途上国の多くは、民主国家も独裁国家も含めて、アメリカによる他国への人道的干渉に限度が設けられることを望んでいる。
   第二次世界大戦後に、アメリカが確立した国際秩序に異を唱える国は、中国だけではなく、インド、南ア、ブラジル以外にも、トルコ、韓国、インドネシアと言った新世代の準強国なども、国際政治における浮動票と言うべき存在となっている。
   干渉と国家主権をめぐる論争において、もし、このような国の政府が中国やロシアの側につくことが多くなれば、アメリカが国際的なアジェンダを定め続ける上で大きな脅威となる。とダイヤーは言う。

   興味深いのは、アメリカの人道介入におけるダブルスタンダードについて述べているところで、中国のムガベ支持が、アメリカの長年にわたるムバラク支持とどう違うのか、イランからの石油輸入とサウジアラビアからの石油輸入とどう違うのか、・・・と言った指摘で、我々日本人は、どうしても、アメリカなど西側の情報メディアによって影響された知識情報によって物事を判断しているので、かなりバイアスがかかっているのではないかと言う気がしないでもない。
   
   しかし、シリア内戦に関しては、自国民に戦争を仕掛けるアサド政権への制裁を先頭に立って阻止したのはロシアだが、中国もその過程でことある毎に追随してきた。
   スーダンやシリアをめぐる熾烈な論争において、中露が国連で拒否権を行使して独裁者を外部の圧力から守っていると言う「専制の枢軸」論が台頭し始め、国連が推し進めて軌道に乗りかけた人権や少数集団の保護と言う崇高な人権主義が暗礁に乗り上げるとするならば、西側先進諸国が、民主主義、自由主義、人道主義etc.国際社会の核となる価値観を今後も創り出して行けるのか、悲観論が広がるのも当然かも知れない。
   
   ダイヤーは、アメリカにとって、ロシアが近いパートナーになることはないにしても、ロシアを遠ざけないことが大切で、中露を新たな「専制の枢軸」扱いすることで、この両国の距離が近づくと言う結果を招かないようすべきだと述べていて示唆に富む。
   また、最近の動きとして、例えば、アラブ連盟が、中ロの反発を無視して、リビアに対してアメリカ追随政策を進めたり、南米のメルコスール諸国がハイチに平和維持部隊を送るなど、途上国全体で、何が何でも、国家主権を守るべきだと言う主張への支持が着実に薄れて来ていて、政治的曲がり角を越えつつあるとも指摘していて興味深い。

   もっと面白いのは、中国のスーダン政策の激変である。
   ダルフール危機の時には、人権問題を完全に無視して独裁政権を支持し続けていたのに、自国の石油への投資と利権を守るために、中国は、非干渉の公約を破棄して、アメリカと同じ側に立って、スーダンの分離独立をサポートして、民主主義国南スーダン誕生の助産婦役を演じたのである。
   このような中国の投資が本来の政治的原則と真っ向から衝突して、中国の利害が齎す衝突と矛盾に対処するため、
   そして、更に、最近では、中国人労働者が、雲霞の如くアフリカなど世界中に進出しているのだが、これら無防備な国民を守るために、不本意にも、遠く離れた国に政治的影響力を及ぼすと言う不慣れな役割を担うはめに陥っていると言う。

   欧米の植民地主義に泣いたアフリカなどの途上国や、資源輸出で潤った新興国などが、救世主のように歓迎して迎えた中国に対して、徐々に拒否反応を示し始めて来たと言う。
   中国のオーバープレゼンスが、摩擦を起こし始めたと言うことだが、無鉄砲な国益優先政策を推し進めて行く限り、トラブルを惹起するのは当然かも知れない。
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国立演芸場・・・国立名人会:小三治の「お化け長屋」

2015年07月26日 | 落語・講談等演芸
   今月の国立名人会は、人間国宝の小三治がトリを務めたので、チケットは発売早々完売の人気舞台であった。
   来月の桂米團治がトリを取る「上方落語会」も人気が高く、既に、チケットはソールドアウトなのだが、やはり、歌舞伎や文楽などのパーフォーマンス・アーツとは、違って、700席少しの客席を埋めるのは、かなり難しいようである。

   今回の舞台は、客席を見て演題を選ぶと言う上席や中席とは違って、事前に、夫々の噺家の演題が決まっていて、それに、高座に上がる噺家も充実していて意欲的であるので、楽しめるのが良い。
   紙切りの林家正楽は別として、前座の柳家小はぜの「道潅」から、
   柳亭左龍の「壷算」、入舟亭扇辰の「藁人形」、柳家小まんの「三人兄妹」、柳家はん治の「百川」、そして、柳家小三治の「お化け屋敷」ともども、良く高座に上がる古典落語なので、何回か聞いているのだが、夫々、噺家のアドリブや個性が出ていて面白い。
   

   最近、YouTubeのお蔭で、「落語 お化け長屋」で検索すれば、これを語る噺家の公演が聞けたり見ることが出来る。
   歌丸、円楽、志ん朝、談志etc.
   志ん朝は、声だけで、談志の噺には、アクが強くて異質だが、歌丸や円楽の噺は、今回の小三治の噺と殆ど同じなのだが、夫々の個性を反映して語り口に、夫々の違いが出ていて、面白い。

   この噺は、
   長屋に空き家があると、家主が店子に強く出れなくて店賃が上げられないので、大家が遠くに住んでいることを良いことにして、店子の古株の古狸の杢兵衛が一計を案じて、店を借りにやってくる客に、怪談噺をして脅かして追い払う。
   空き店に、以前に美人の後家さんが一人住んでいて、泥棒に入られるのだが、泥棒が去り際に、後家さんの寝乱れ姿を見てムラムラとして胸に手を入れたところ騒がれたので殺してしまう。新しい店子が入居すると、この後家さんの幽霊が出て来て・・・
店賃はタダだと聞いて喜んだ客も、更なる怪談話を聞いて濡ゾーキンで頬を撫ぜられると、がま口を忘れて飛んで逃げて行った。店子たちは、その金で寿司を食べようと喜ぶ。
   ところが、ある日威勢のいい職人風の男がやって来て、杢兵衛が語る怪談話を悉く茶化して、前に逃げて帰って行った客が置き忘れて行ったがま口まで持ち逃げして帰って行く。

   実際の「お化け長屋」は、この後、この男が引っ越してくるのだが、幽霊長屋に引っ越したと聞いて、日頃大きな顔をしている男の勇気を試してやろうと、職人仲間五人が、お化けに化けて脅すなどと言う話が続くようであるが、最近は、前述のがま口を持ち去られると言うオチで終わると言うことである。
   円楽のオチは、出もしない幽霊の話をして店賃はタダだと言ってしまったので、自分たちで店賃を出そう、こっちでお足を出してやる。と変わっていて面白い。

   この日の小三治は、この劇場に入る前に歩いて来たのだが、外の温度を計ったら41度だった、早く帰らない方が良いと言ったり、度忘れして話に窮すると、41度の所為だと言って、笑わせていた。
   先輩噺家たちの高座での怪談話などをまくらに一くさり語って、名調子の「お化け長屋」を熱演した。
   今回は、予定時間を15分以上もオーバーするサービスぶり。

   「壷算」だが、二荷入りの水がめを買いに来た客が、間違った風を装って一荷入りを値切って買った上に、それを返品して、支払った3円とかめの返品3円で足して6円だと言って、3円で二荷入りの水がめを持って帰ろうと言う話である。
   一荷入りの水がめの返品と同時に3円を客に返却して御破算にしてやりなおせば済む話を、そうせずに3円を収めたままで、客に捲し立てられるので、店主は混乱すると言う話で、そのやり取りの頓珍漢が面白い。
   「藁人形」は、神田龍閑町の糠屋の娘おくまは身を持ち崩して今や若松屋の女郎、このおくまに、西念という老人の願人坊主が、騙されて20両を巻き上げられたので、怨み辛みに藁人形を作るのだが、呪いの藁人形が鍋の中で、油でぐつぐつ煮え立っているのを見た甥が、
「藁人形なら釘を打たなきゃ」「だめだ。おくまは糠屋の娘だ」
   「三人兄妹」は、船場の商家に、3人兄弟がいるのだが、3人が3人とも揃っての不出来の放蕩息子。兄二人は、のらりくらりと言い訳をして自己弁護につとめるのだが、末子だけは、臆面もなく家を抜け出して女郎買に行って来たと言って親に悪びれずに言うので、
「あいつだけが本当のこと言った」と跡取りに決めると言う話。
   どれも、実にたわいない話なのだが、落語は、話の中身やオチに拘るのではなく、噺家の語り口、その語りの面白さを楽しむのが筋であろうか。
   シェイクスピアの悲劇は勿論、喜劇でも、落語にはならないと言うことである。

   さて、「百川」だが、江戸屈指の料亭とかで、ペリー来航時に、賄一切を取り仕切って千両を請求したと言う。
   その百川に実際にあった噺だと言うのだが、どう考えても、解せないのが、何故、この話が、天下の「百川」と銘打った落語になるのか。もう少し、気の利いた話がある筈だと思うのだが、そこは落語だからであろうか。
   新入りの奉公人田舎者の百兵衛を主人公にして、東京の祭りの「四神剣」にまつわる方言理解の行き違いや、
また、常磐津語り・歌女文字を呼びにやったのに、「平林」同様に、間違って、医者の鴨池玄林を呼んで来たのを、
「お前のように抜けてるやつは見たことがねえ」「どっだけ抜けてやすか?」「頭から終えまで全部だ」「か・め・も・じ……か・も・じ……」「たんとではねえ、たった1字だ」と言う話。
   いずれにしろ、とにかく、面白かった。

   この「百川」は3年前に、中席で、トリの三遊亭歌司で聞いている。

   私は、まだ、末広亭や鈴本など他の演芸場に行ったことはないのだが、時々行くこの国立演芸場では、楽しませて貰っており、古典芸能の話術の奥深さを少しずつ教えられている。
   
   
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国立劇場七月歌舞伎・・・「義経千本桜」

2015年07月25日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今回の国立劇場の親子で楽しむとか社会人のためのと銘打った「歌舞伎鑑賞教室」の「義経千本桜」は、本来なら普及版のプログラムで簡易バージョンなのだが、今回は、恐らく特別な舞台なのであろう。
   「渡海屋の場」と「大物の浦の場」を、通しで、2時間弱で一気に演じ切る吉右衛門の監修で、娘婿の音羽屋の御曹司菊之助が、初役で銀平&知盛を演じると言うのであるから、話題性は抜群である。

   女形として華麗で水も滴る好い女を演じ続けている菊之助が、立役でも最も豪快な知盛を演じて、大碇を背負って断崖から海に真っ逆さまに入水すると言う大技を見せると言うのであるから、話題にならない筈がない。
   それに、相手役の女房&典侍の局を、めきめき実力をつけて上り調子のの梅枝が演じており、弁慶の團蔵が病休で、市川菊一郎に代わったので、役者の総てが若手と言う、実にエネルギッシュな溌剌とした舞台で、非常に、興味深い舞台を見せてくれた。

   ところで、「義経千本桜」は、「仮名手本忠臣蔵」や「菅原伝授手習鑑」と同じ手法で、夫々の主題を取り込みながら豊かな発想を駆使して浄瑠璃に仕立てた芝居になっているように、義経の逸話を鏤めたストーリー展開に更に創作性に独特の工夫を加えて、非常に面白い作品に仕立て上げている。
   しかし、長い浄瑠璃の一部分ではあるのだが、今回演じられた「渡海屋の場」と「大物の浦の場」は、紛れもなく、能「船弁慶」からの本歌取り作品である。
   私には、あの能「安宅」が、歌舞伎「勧進帳」に、狂言「花子」が歌舞伎「身替座禅」に素晴らしい作品として生まれ変わったように、そのアウフヘーベンぶりに興味があった。

   能は、世阿弥の伝承によって、出来るだけ平家物語に忠実にと言うことになっているのだが、
   平家物語では、都落ちした義経一行が、この能の舞台となる大物の浦に至るシーンを、次のように、ほんの数行で描写しているだけである。
   「・・・その日、摂津の国大物の浦にぞ吹き寄せらる。 それより船に乗り、押し出だす。平家の怨霊強かりけん、にわかに西風はげしく吹きて、・・・」
   この部分を脚色して、嵐を知盛の亡霊に仕立てて「船弁慶」を作曲しているのだが、夢幻能など、あの世の世界を甦らせる能の手法としては、当然の成り行きであろうか。

   ところが、歌舞伎では、その能「船弁慶」の後半を、実は、知盛は、安徳帝の入水を見届けてから、最早これまで、「見るべきものは見はてつ」と言って豪快に飛び込み壇ノ浦の藻屑と消えたと言うストーリーを、生き残って、安徳帝を擁して逃げ延びて、この大物の浦に移り住んで、捲土重来再起を期していたと言うことに変えて、義経との対決の場を設定したのである。
   壇ノ浦の最後では、鎧を二領着けて家長と手を取り組んで入水したのだが、一説には、囚われの身となる辱めを受けぬために碇を巻き付けて入水したと言われており、この逸話を踏襲して、文楽や歌舞伎の舞台の大詰めでの最もポピュラーな見せ場、太い縄を体に巻き付けて大碇を背負って海に身を投げる豪快な「碇知盛」が成立したのであろう。
   渡海屋銀平実は平知盛 と言う設定で、知盛に壇ノ浦の入水の再現を実現させたその着想が非常に面白いのだが、○○実は××と言う人物設定で、もどりが歌舞伎の芝居効果を高めている常套手段であるから、能のように亡霊ではなくて、生きてカクカク変身してこのような人物であったと再登場させるのも、不思議ではないと言うことであろう。
   尤も、この歌舞伎でも、
   能「船弁慶」の詞章の、後シテ「そもそもこれは。桓武天皇九代の後胤。平の知盛。幽霊なり。あら珍しやいかに義経。・・・
   と言う部分を踏襲してか、知盛を、幽霊の白装束を模した武装姿で登場させ、最後の碇知盛でも、義経に、襲ったのは知盛の亡霊であったと人に伝えてくれと言っているところなど、大変興味深いところである。

   歌舞伎なので、史実らしいストーリーとはあっちこっち違っていて、例えば、歌舞伎では静と伏見稲荷で別れることになっているのだが、実際には、静は吉野まで連れて行って、その後京への道で捕われている。
   また、頼朝に追われて義経が九州に向かって都落ちした時には300騎だけで、大物の浦に向かったと言うことであるから、確かに、船出して途中暴風のために難破し摂津に押し戻されたと言うことながら、知盛と海戦を行う能力などは全くなく、まして、威儀正しく盛装して安徳帝を助けて、守護して行くなどと言ったストーリー展開など無理な話である。
   いずれにしろ、平家の名将知盛への追悼、そして、義経への判官贔屓をテーマにして、観客サービスに徹した歌舞伎作家の力量なのであろうが、安徳帝が実は姫宮でその偽っての帝位が天照大神の罰を受けて平家の滅亡を招いたと言う奇想天外な発想も面白いが、手負い獅子状態の知盛が、安徳帝の安堵を確かめて「昨日の敵は今日の味方」と言ったような調子の安直な結末なども、やはり、芝居だからであろうか。

   それに、この歌舞伎では、冒頭、知盛の家来である相模五郎(坂東亀三郎)と入江丹蔵(市川右近)が、追っ手を装って寸劇を演じて逗留中の義経一行を安心させるシーンや、この歌舞伎では省略されていたが、弁慶が、寝ている子供お安(安徳帝)を跨ごうとしたら足がしびれてタダ者でないことが分かるなど、知盛も義経も、相手の素性をすでに知っていての舞台展開で、海戦の結末も暗示されているのである。
   上手く出来た芝居は、注意して見ておれば、ストーリー展開が手に取るように良く分かるようだが、機転が利かず空気の読めない私などは、解説を読んでも何回観ても分からないので、苦労している。

   さて、実際の歌舞伎の舞台だが、何回観ても記憶が曖昧なのだが、この歌舞伎では、知盛が豪快に仰け反って入水した後で、退場する義経がすっぽんで安徳帝を家来から受け取って、自ら抱えて花道に消えて行き、最後に、弁慶が一人で、勧進帳のように花道を去って行った。
   典侍の局が、安徳帝を頂いて入水しようとするシーンの様子や舞台装置など、それに、義経の登場も幕で舞台展開を図るなど、従来、歌舞伎座で見慣れている演出とは、少し、変化していたように思う。

   この舞台で、最大の収穫は、菊之助が、知盛と言う典型的な立役を、それも、剛直な碇知盛を演じて、華麗な女形からのイメージチェンジとも言うべき新境地に挑戦して、見事に素晴らしい成果を上げたと言うことであろう。
   台詞回しも本格的な立役で、実父菊五郎の艶と色香、颯爽として端正な人情味豊かな芸風に加えて、豪快で風格豊かな格調高い岳父吉右衛門の薫陶を受けての新境地の舞台で、これからの成長が如何ばかりかと思うと末恐ろしい、そんな期待を抱かせてくれる。

   実父時蔵の芸風を受けての梅枝の銀平女房と典侍の局も、実に良い。
   女房としてのしっとりとした演技から急転直下、風格と威厳、それに、運命の悲哀を身に背負っての哀惜極まりない自害への伏線など、菊之助をサポートしての爽やかな舞台が感動的であった。
   弟の萬太郎が、歌舞伎のみかたの解説で、達者な語り部を上手くこなしていたが、本舞台での、義経も、中々、堂に入った演技をしていた。

   相模五郎の亀三郎の性格俳優ぶりのコミカルな演技や魚尽くしの台詞回しなども秀逸で、何時も、綺麗な女形で存在感を増している市川右近が、今回は、入江丹蔵と言う若侍姿で、素晴らしい面構えで颯爽とした演技を見せてくれて面白かった。

   最近、歌舞伎界の大御所が、どんどん、逝ってしまって大きな穴が空いていたが、幸いなことに、若い有能な役者たちの成長と努力で、新鮮味豊かで魅力的な舞台が、立て続けに表れて来ているようで、嬉しい限りである。

   
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国立劇場歌舞伎から国立能楽堂へ

2015年07月23日 | 今日の日記
   梅雨明け合間の雨模様、蒸し暑くて過ごし難い。
   昼前、少し早く鎌倉を出て、澁谷に向かい、国立劇場の歌舞伎まで、少し時間があったので、何時ものように、時間つぶしに、神保町に向かった。
   書店離れと言われながらも、三省堂は、一階だけだが、結構客が入っている。
   古書店は、入れ替わりがあって、私の買っている経済学や経営学、文化文明歴史関連本の新古書を比較的揃えて売っている店が、一軒もなくなってしまった。

   2階に読書スペースのある喫茶コーナーを設けて、本を買った客に飲み物を提供する古書店が出来て、小休憩に重宝している。
   特に専門はなさそうで、雑多な本を売っているのだが、気付いていなかったような古い本の新本があったりして、結構面白い。

   国立劇場は、歌舞伎鑑賞教室の「義経千本桜」。
   今回は、「渡海屋の場」と「大物浦の場」を、渡海屋銀平実は新中納言知盛を演じるのが菊之助、銀平女房実は典侍の局を梅枝が演じると言う人気狂言であるので、殆ど、発売直後に完売すると言う盛況である。
   この義経千本桜は、吉右衛門の監修で、硬軟取り混ぜて殆どどのような役柄でも水準以上に器用にこなす菊之助が、岳父の吉右衛門の十八番の知盛を直々の指導で演じると言うのであるから、日頃、断トツに美しくて華麗な女形の菊之助の魅力にゾッコンの観客にとっては、願っても叶ってもない素晴らしいチャンスなのである。
   ところが、この歌舞伎のチケットは、親子で楽しむ歌舞伎教室で、更に安く先行販売されているので、ソールドアウトと言っても、観客の大半は、小学生くらいの子供を伴った親子連れ。
   当然、客席の雰囲気は、違ってくる。
   歌舞伎の舞台は、菊之助や梅枝の名演で、大変な熱気。
   尤も、小学生が多い観客席にしては、流石に日本人で、捨てたものではない。
   この舞台の印象記は、後日に。

   何時もの通り、観劇を梯子しているので、歌舞伎が撥ねたのは、5時10分で、次の国立歌劇場の開演時間は、6時きっかり。
   急がなくてはならない。
   メトロは、永田町から渋谷乗り換えで、北参道へ、ギリギリである。

   国立能楽堂のプログラムは、企画公演で、
   仕舞・宝生流「藤」 高橋章ほか
   仕舞・観世流「藤」 木月孚行ほか
   狂言・大蔵流「鬼ケ宿」 茂山あきら、茂山茂
   能・観世流「梅」彩色之伝 シテ観世清和宗家、ワキ福王茂十郎、アイ茂山七五三

   「梅」は、賀茂真淵などの新作能だと言う。
   花と言えば桜、と言うばかりが古説ではないと、梅を愛で、後シテ梅の精が優雅に舞い、序ノ舞が、素晴らしく美しい。
   清和宗家がシテを舞う素晴らしい舞台であったが、直前までチケットが残っていたのは、曲が珍しかった所為であろうか。
   京都の重鎮狂言師茂山七五三が、実に真面目で真剣な舞台を務めていたのが印象的であった。

   同じく京都の茂山家の狂言「鬼ケ宿」は、井伊直弼が死の前年に作曲した曲で、茂山家を後援していたと言うから、茂山千五郎家にとっては大変な狂言なのである。
   安政の大獄については多少行き過ぎがあったかもしれないが、私は開国派であるし、直弼にこれ程のエスプリ心があったとは、驚きでもあった。
   かなり込み入った重厚な狂言で、あきらの飄々とした狂言舞が結構見せてくれたし、茂のパンチの利いた女も面白かった。


   8時40分に舞台が終わって、帰宅したのは、2時間後、そんなものである。
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ジェフ・ダイヤー著「米中 世紀の競争 ―アメリカは中国の挑戦に打ち勝てるか」(1)

2015年07月22日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ケンブリッジとジョンズ・ホプキンズで学び、米中伯で特派員を務め、前北京支局長のFT記者の著書「THE CONTEST OF THE CENTURY」で、サブタイトルが、「中国との競争の新時代 アメリカはどのようにして勝利を収めるのか」と言う本であるから、非常に興味深く、日本が、アメリカや中国に対して、どのように向き合えば良いのか、考えさせられて面白い。

   今夕の日経には、「政府、中国ガス田開発の証拠写真を公表 計16基の構造物」と言う記事で、中国が日中間の合意に反し、東シナ海の「日中中間線」付近で一方的に新たなガス田開発を進めていると報じていた。
   また、中国の南沙諸島での一方的な浅瀬開発に危機感を募らせたアメリカが、南沙諸島の偵察を強化しており、これに対して中国が猛抗議して、「アメリカとの一戦は避けられない」と報じるなど、危機的な状況が起こっている。
   いずれにしろ、極最近まで、殆ど手さえ付けなかった東シナ海や南シナ海の無人諸島に、根拠のない(?)領有権を主張して、アグレッシブに実効支配に及ぼうとする中国の台頭が、国際舞台で物議を醸している。
   鄭和時代の領域を領土と主張し始めたら、東南アジアは元論、インド洋にまで及ぶ大変な中華帝国が現出する。

   この本で、ダイヤーは、米中の鬩ぎ合いについて、多くの側面から切り込んで、興味深い持論を展開しているのだが、今回は、太平洋におけるアメリカの位置づけについて、興味深いレポートを行っているので、まず、その点について考えてみたいと思う。

   例えば、オーストラリアの場合、中国との貿易が盛んになり、中国からの投資も増大して、中国経済との結びつきのお蔭で経済発展を遂げている筈なのだが、中国の軍事力増強がこの地域の経済の安定性を損なう可能性があると見て、アメリカとの軍事同盟を強化して、アメリカのプレゼンスこそが、そのような成り行きを避ける最良の手段であり、強力になった中国の最悪の本能を阻む防波堤だと考えている。
   一方、ベトナムは、中国と緊密で全く同じような体制を維持しながらも、実際には、中国の支配からの独立に明け暮れた歴史の再現を恐れており、そのために、アメリカの支援を求めるようになったのは、アメリカがこの地域でプレゼンスを増すことは、情勢の安定化に有功だと考えているからである。
   勿論、ベトナムは、アメリカを同盟国だとも、この地域を支配して貰いたい国だとも、中国を封じ込めるパートナーとも思っておらず、アメリカを純粋にパワーバランスの一要素と見ているだけだと言う。

   したがって、アメリカの最終目標は、この地域にゆるやかなで非公式な協力関係のネットワークが作られるように手を貸すこと、すなわち、「後方からの指導」、アジアで働くではなくてアジアと共に働く、ことだろう。
   しっかりと組織された同盟関係と言うより、必要に応じて準備する見えない連携のようなものになり、この関係は、共通の利害に基づいているため、いずれかの国が現状を覆すことは困難になる。
   特に有利なのは、重荷を中国の方に負わせられると言うことで、中国が近隣諸国を脅かさなければ力の均衡努力は穏健になり、逆に、不安を煽るなら、それに対抗する連繋はより強固形を取るであろうと言うのである。

   最近の中国は、尖閣諸島であれ、南沙諸島であれ、アジア各地で、積極的な役割を担おうと強引に動きすぎており、アジア諸国は一致協力してそれを阻もうとする兆候が表れている。
   アジアの各国政府は、これまでに中国とどういった歴史的な軋轢と重荷を抱えながら、現在の状況に至っているかを理解せずに、中国がアグレッシブな拡張政策を推し進めれば推し進める程、パワーバランスを取る方向に振り子が動く。
   アジア各国がアメリカの軍事的支援を求めるのは、中国を孤立させるためではなく、経済的利益などを得るべく中国と関わる上での安心を得たいからである。

   対中国政策よりも、アメリカが台頭するアジアの望むものをなるべく実現しようと言う姿勢を取れば、現状を変えようとする中国の試みを受け流すことはずっと容易になる。
   アメリカがアジアで促進したいと望むものは総て――自由貿易、高校の自由、投資の法的保護、太平洋をはさんだ経済統合、人権の尊重――アジアの殆どの政府が望むものであり、例え中国が何を望もうとも、これらの原則を覆す訳には行かない。ので、アメリカの国力が弱ろうとも有効な戦略だと言うことであろう。

   以上は非常に穏健なダイヤーの理論展開だが、この本では、色々なアメリカの戦略が語られており、たとえば、中国は、石油の輸入国であり、その大半が中東から来ているので、マラッカ海峡など5つの航路を海上封鎖すれば、一気に経済を壊滅状態に追い込めるだとか、結構興味深い。

   しかし、新たな冷戦の宣言に繋がるかも知れないような戦略が紹介されている。
   「エア・シー・バトル(空海戦闘)」と言う戦略で、ウォーゲーム・シュミレーションで、「中国のミサイルがこの地域にある米軍基地の多くをたちまち壊滅させ、さらに西太平洋に派遣されたアメリカの空母を数隻沈める」と言う結果が出てのだが、そうした想定への直接的対応だと言う。
   アメリカが今直面している新たな脅威――アメリカの戦艦の動きを制限できる長射程の精密照準ミサイル、新型潜水艦、サイバー戦争のスキル――に対するものであるから、当然、対中国戦略である。
   米中の戦闘を始めた場合、アメリカは中国のミサイルと高性能レーダーに対して「目つぶし攻撃」を行うべき、すなわち、アメリカの攻撃を阻止しようとする中国側のミサイル基地や地上用レーダーなどの監視装置を破壊するなど無力化するために、中国本土を広く爆撃すると言うことであるから、戦闘の速やかな激化を招き、外交交渉の余地など圧殺する危険極まりない戦争となる。
   尤も、馬鹿げているほど高くつく戦略なので、米中でこのような派手な軍拡競争が起きれば、アメリカの財政基盤が中国より強いかどうかであろう。
   ダイヤーは、このようなアメリカの戦略プランは、友好国や同盟国に安心感を与えるどころか、その関係を揺るがしかねない。としている。

   それよりも、米中戦えば、局地戦で止まる筈もなく、米中とも原爆保有国であるから、必ず、原爆に手を付ける筈であり、即、地球船宇宙号の壊滅に繋がる。
   両国とも、失うものがあるだけで、戦争で得るものは何もないのであるから、地球を廃墟に追い込むような愚行をすることはないであろう。
   しかし、一触即発の危機的な小競り合いや紛争は起こり得るであろうから、それを、如何に阻止し避けるかと言うことになろう。
   チキンレースなり、ゲームの理論なり、仮想空間での理論展開なら良いのだが、米中の競争が、覇権争いや戦争ではなく、平和な文化文明競争であって欲しいと思う。
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トマト・プランター栽培記録2015(12)・・・梅雨明けで落ち着いたトマト

2015年07月21日 | トマト・プランター栽培記録2015
   トマトの葉に白い斑点が浮く葉かび病が、広がり始めていたが、薬剤散布を終えて、梅雨明けを待っていたら、落ち着いて来たので、ほっとしている。
   フルーティミニの「トマト斑点細菌病」は、先の方へは、それ程悪化しなかったので、殆ど裸になった木に残っていた実は、少しずつ大きくなって、成熟している。
   尻腐れ病は、中玉トマトのティオクックやリッチゴールドの、4~5個なった花房の一つくらいに、時々、一個くらいは、尻が黒ずむことがあるが、以前に、アイコなどの花房の大半がやられた時のような異常な被害はない。
   木の下の葉が、少し黄ばむトマトもあるが、病虫害の問題は、この程度で、ここまで、大きな問題は起こっていないので、まずまずの出来である。

   ミニトマトは一斉に収穫期に入っているので、一日にかなりのトマトを楽しめる。
   完熟すれば、どのトマトも、それ並に、かなり甘くなるのだが、今回の栽培品種では、サントリーの「純あま」が、一番甘くて美味しい。
   生育で、一番安定しているのは、レッドとイエローのアイコで、上の方まで、良く実がなって、収穫もかなり上出来である。
   今回、殆どのミニトマトを2本仕立てで育ててみたが、全く不都合らしきことは起こらず、収穫量も、結果として、1本仕立てより増えているので、来年も試みてみようと思っている。
   
   
   

   大玉トマトと中玉トマトは、今回は、夫々、それなりに結実して、楽しませてくれた。
   テイオクックが、沢山の実を付けて、毎日のように収穫を続けている。
   このトマトは、しっかりした実の料理用トマトだが、トマトの辛さを感じさせないほんのりと甘さの乗った淡白な味のトマトで、冷えたトマトを、そのまま食しても結構おいしい。
   
   

   これから、本格的な暑さに向かうので、トマトにとっては、梅雨よりは良いのであろう。
   毎朝の水遣りと、適当な施肥、薬剤散布を続けて行けばよさそうで、もう、半分くらいは収穫してしまったのであろうから、あとは、成り行きに任そうと思っている。
   随分昔に、トマトの故郷であるアンデスの麓やチチカカ湖畔を歩いたことがあるのだが、確かに乾燥地帯で、太陽に恵まれたところであった。
   しかし、日本のような湿度の高い猛暑には耐えられないので、8月のどこまで、トマト栽培を続けて行けるか、気象勝負である。
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納涼能・・・能「橋弁慶」「紅葉狩」、狂言「悪坊」etc.

2015年07月18日 | 能・狂言
   能楽協会東京支部の主催する恒例の納涼能が、国立能楽堂で開催された。
   初心者でも分かりやすい曲を選定していると言うことだけでもなかろうが、終演後の拍手などの雰囲気では、定例の国立能楽堂主催の公演の観客とは、少し違った感じであった。
   最初の能「橋弁慶」が終わった直後に、狂言が始まって、狂言師が花道に登場しても席を立つ人が結構多いと言うのも、日頃と違っている。

   さて、能「橋弁慶」は、宝生流で、宝生和英宗家が、シテ武蔵坊弁慶を舞い、ワキは登場せず、水上達が、子方源義経、水上優が、ツレ弁慶の従者を、そして、間狂言を、山本泰太郎と凜太郎が、アイ都の男を務める。
   お馴染みの五条の橋の上で、牛若丸の義経と弁慶が遭遇して決闘して、負けた弁慶が義経の家来になると言う話である。
   違っているのは、義経記での、京で千本の太刀を奪おうと悲願を立てた弁慶が最後に義経に負けると言う通説が、この曲では、五条の橋の上で待って人を切り殺しているのは、鞍馬寺に入りながら学問もせず武術に明け暮れていて乱暴狼藉を働いていた義経だと言う話になっていることである。
   弁慶は1000本目、義経は、母・常磐御前に戒められて明日寺に戻ろうと決心した夜で、夫々、最後だと言うところが面白い。
   和英宗家の格調高い弁慶、凛として凛々しい子方水上達の義経、水上優のツレ弁慶の従者ともに、端正な舞台で、緊張感のある素晴らしい能を楽しませて貰った。
   普通のナレーターのような間狂言ではなく、義経に殺されかけて逃げて来たアイ方が寸劇を演じるのも面白い。

   もう一つ良く似た能に、「船弁慶」があるのだが、この方は、義経が、弁慶たちと西国へ逃れて摂津の国大物の浦へ到着し、ここで、義経の愛妾・静と分かれて、船出する。船が海上に出るや否や、突然暴風に見舞われ、波の上に壇ノ浦で滅亡した平家一門の亡霊が姿を現して、総大将の平知盛の怨霊が襲いかかるのだが、弁慶が、数珠をもみ、必死に五大尊明王に祈祷し、その祈りの力によって怨霊は調伏され沖に消える。
   先月、この船弁慶が、この能楽堂で1週間に亘って、宝生流によって上演されたのだが、こちらの方が、歌舞伎や文楽の「義経千本桜」の方に、脚色されて発展的に展開されていて興味深い。

    能「紅葉狩」は、金春安明宗家が、前シテ/上臈・後シテ/鬼女を舞い、3人のツレ(井上貴覚、中村昌弘、本田芳樹)が侍女・鬼女として、森常好が、ワキ/平惟茂として登場する金春流である。
   そして、紅葉ノ舞、群鬼ノ伝と言う小書のついた舞台であるために、前場では、美しい装束に身を固めた美女の華やかな相舞が展開されて魅了し、後場においては、この女性たちが全員鬼女となって一人ずつ惟茂に戦いを挑み舞うと言う華麗な見せ場のあるダイナミックな能舞台を展開して素晴らしい。
   
   ストーリーは、ほぼ、次の通り。
   紅葉が美しい山中で、高貴な風情の女が、侍女を連れて、山の紅葉を愛でて宴を催している。その酒席に、鹿狩りの途中の平維茂一行が通りかかり、女たちに誘われるままに、宴に加わる。高貴な風情の女は、大変な美女で、酒を勧められて、気を許した維茂は酔いつぶれて眠ってしまうと、それを見届けた女たちは姿を消す。
   そこへ、八幡大菩薩の眷属・武内の神が維茂の夢に現れて、維茂を篭絡した女は、戸隠山の鬼神だと告げ、八幡大菩薩からの神剣を維茂に残して去る。
   夢から覚めた維茂の目の前には、鬼女たちが姿を現して、襲いかかってきたので、維茂は勇敢に立ち向かい、激しい戦いの末に、神剣で鬼女を退治する。

   前場の侍女たちの舞は、上臈の舞に代わり、維茂が眠り込んだ瞬間、静かな舞が、急ノ舞に急調して、シテは華麗な舞を見せて素晴らしい。侍女たちは、橋懸りを幕に消え、シテは、大小前に置かれた1畳台の上の山の作り物の中に、中入りする。
   この作り物の中で、シテは、上臈から鬼女に変身するのだが、非常に上品な白頭の仮髪と白般若の面に、白い法被の、全身格調の高い白装束姿で現われて、その威容は観客の目を釘付けにする。
   山の作り物の中に端坐してやや下向きにじっと座っている白般若の面の、金泥で施された白目と歯が、幽かに光を帯びていて、怒りと悲しみを綯い交ぜにしたような表情が、胸に響く。

   ツレの鬼女は、総て赤の出で立ちで、一人ずつ惟茂に戦いを挑んで討たれて退場して行き、最後に、シテの鬼女が、実に優雅に惟茂を攻め立てて戦い、組み合って最後には討たれて、正中に端坐して倒れるのだが、切り詰めて様式化に徹した舞姿は、実に端正で美しい。
   この曲のアイ/末社の神(善竹大二郎)は、昇髭の面をかけて登場して惟茂に宝剣を託すのだが、面白い役柄である。

   ところで、この能は、殆どそっくりそのまま、歌舞伎化されて、「竹本」・「長唄」・「常磐津」の3つの「音曲」によって、伴奏される舞踊劇となっていて、文楽でも、形を変えて演じられている。
   以前に、玉三郎の鬼女を観たような記憶があるのだが、最近では、扇雀の舞台である。
   面を付けて舞う能と違って、歌舞伎では、生身の俳優が、1人で、前半は、典型的なお姫様の姿「赤姫」を演じ、後半は、恐ろしい隈取をして派手な衣装を身に着けて激しい動きで、維茂に挑んで戦う鬼女の姿に変身すると言う、前後で踊り分けなければならないので、力量を求められる大変な舞台である。
   能の「紅葉狩」も、銕之丞師によると、時代を反映して、シテ中心主義ではなく、ワキも活躍して、登場人物すべてが活躍する豪華絢爛たる舞台を作っていると言うのだが、歌舞伎になると、それよりもはるかに鳴り物入りに色彩を加え、舞台を飾り立てて、派手派手な舞踊劇にしている。
   そうしないと、能狂言には勝てず、庶民の心を掴み得なかったのであろうか。
   
   狂言は、和泉流の「悪坊」。
   大酒のみで乱暴者の悪坊(三宅右近)が、僧(三宅右矩)を脅し挙げて連れて茶屋(河路雅義)に入ったのだが、寝ている間に、怒った僧に、長刀や長刀、上っ張りを取り上げられて、目を覚ました時に、僧衣が置かれ居たのを見て、悪行の報いかと反省して出家を決意するも身の不運を嘆くと言う話である。
   三宅右近が、上手い。

   さて、この納涼祭は、能楽協会の主催なので、当然、五流すべてが出演する。
   能は、宝生と金春であったので、他の三流は、仕舞で、
   金剛流は、廣田幸稔の「養老」
   観世流は、梅若玄祥の「野宮」
   喜多流は、香川靖嗣の「昭君」
   実際の能舞台では、良く聴き取れなかった詞章が、仕舞では良く聴き取れて、また、舞の細かいところなどが良く分かって、少し、興味が出てきた。
   何時も感じるのだが、能役者の舞すがたと端正な顔立ち、そして、真剣な謡の表情に感動して観ている。
   
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益々窮地に追い込まれるギリシャ

2015年07月16日 | 政治・経済・社会
   ギリシャ議会は16日未明、EUから金融支援の条件として要求されていた財政改革法案を賛成多数で可決した。
   まだ、道程半ばだが、ギリシャの財政破綻はひとまず回避されそうだと言う安緒感が広がって、株式市場などが落ち着きを取り戻した。

   しかし、現実には、皮一枚残して首の繋がったギリシャ経済は、益々、窮地に立ち、悪化の一途を辿りそうである。
   今回のEUがギリシャに課した提言は、先に国民の60%以上の反対でNOを突きつけた国民投票でのギリシャ再建策よりもはるかに過酷で、IMFが、ギリシャに債務減免の措置を施さない限り経済再建は不可能であると警告を発していたにも拘らず、それを無視してギリシャに押し付けられたのであり、この劇薬を、当座凌ぎの手段としてギリシャは飲まざるを得なかったからである。

   Project Syndicateの新しい論文”Saving Greece, Saving Europe”で、バリー・アイケングリーン教授は、その点につき、次のように述べている。
   Economically, the new program is perverse, because it will plunge Greece deeper into depression. It envisages raising additional taxes, cutting pensions further, and implementing automatic spending cuts if fiscal targets are missed. But it provides no basis for recovery or growth. The Greek economy is already in free-fall, and structural reforms alone will not reverse the downward spiral.
   更に、プライマリー・バランスを2018年にGDP比3.5%プラスを要求しており、これは、ギリシャ経済をさらに悪化させる要因で、不況を深刻化させて、更なる緊縮政策を誘発する。とし、
   国有財産500億ユーロをEUの監視下に置く案など、構造改革の何の助けにもならないと述べるなど、ドイツのユーロゾーンからのギリシャ排除の悪に託して、苦言を呈している。
   恐らく、今回のEUのギリシャへの処置については、スティグリッツも、クルーグマンも、もっと厳しい糾弾をするであろう。

   今回のEUのギリシャとの交渉で、フランスはギリシャに好意的であったようだが、高飛車に出て、恫喝紛いにギリシャに迫ったのはドイツだと言うことで、ワシントンポストで、Matt O'Brienが、”Germany doesn’t want to save Greece. It seems to want to humiliate Greece. ドイツはギリシャを助けようと思っていないし、ギリシャに恥をかかせたいと思っているようである”と言うタイトルの記事を書いている。
   ニューズウィークが、”冷酷ドイツが自己批判「戦後70年の努力が台無しだ German Media Reacts Angrily to Greek Bailout Deal.“と言う記事で、ドイツのメディアさえ、ドイツの態度に苦言を呈したと報道している。

   ステイグリッツが、ユーロが解体する可能性が生まれるとしたら、ギリシャよりドイツがユーロから離脱すべきだ、と述べているのだが、今や、
   エマニュエル・トッドが、”「ドイツ帝国」が世界を破壊させる”と述べているドイツそのものを、改めて、勉強し直した方が良いのかも知れないと思い始めている。

   今回のギリシャ危機については、後先を考えずに花見酒の経済に酔いしれて、身代を傾けてしまったギリシャ人のラテン気質など短慮極まりない無為無策を責めるべきかも知れないのだが、今や、人類は宇宙船地球号の皆仲間であり、まして、ギリシャは、EUの、そして、ユーロゾーンの仲間なのであるから、当然、エコシステム維持のためにも、助けるべきであり、そうでないと国際秩序は保てないのみならず、連鎖的に経済を直撃してグローバル・システムにダメッジを与える。
   EUを、そして、ユーロゾーンを踏み台にして国力を高め富を築いた一人勝ちのドイツが、どうして、ギリシャを叩き潰して良いであろうか。
   まして、ピケティやサックスが指摘していたように、第二世界大戦後の膨大な債務をアメリカに免除されたお蔭で戦後復興を遂げたドイツなら、尚更であろう。

   日経は、”IMF、ギリシャ債務の大幅な減免必要”と次のように報じた。
   国際通貨基金(IMF)は14日、財政危機に直面するギリシャの政府債務に関する最新の報告書を発表した。直近2週間の経済混乱が財政に一段と悪い影響を与えたと指摘。財政を持続可能にするため、30年間の返済猶予や元本削減など、欧州連合(EU)の想定を超える大きな債務減免が必要と強調した。
   IMFはギリシャが必要な金融支援額を850億ユーロ(約11兆5000億円)と算定した。同国が6月末から実施する銀行休業など資本規制の影響を加味したうえで、IMFが従来想定した600億ユーロよりも積み増した。

   EUは、ギリシャが求めていた債務減免は認めず、一定期間の返済延長や猶予で対応する模様で、IMFは、EUとの協議が難航して銀行が休業し、ギリシャの経済、金融状況が劇的に悪化しており、「現状で考慮され、提案されているより一層大規模な債務減免が必要になる」とした上で、債務自体を削減しないならば、欧州各国は三十年間の返済猶予や返済期間の劇的な延長を行うか、ギリシャに直接融資をする手だてが必要だと言っている。

   ワシントンコンセンサスの権化でもあったIMFが、稀有にも発した最低限度のギリシャへの救済信号さえ無視するドイツとは一体どんな国なのか、第4帝国への始動なのか、考えざるを得ない。
   今回のギリシャ問題への暫定的解決は、ギリシャの経済危機と窮状の解消に対しては、何の根本的な解決策でもないし、前進にもなっていない。
   これまでにこのブログで書いて危惧してきた状態よりも、遥かに窮地に追い込まれたギリシャの経済は、このままでは、ますます悪化して行き、救いようのない結末が待っているような気がして、恐ろしささえ感じている。


(追記)同じ日のProject Syndicateで、アデア・ターナー前英国金融サービス機構(FSA)長官が、IMFのラガルド専務理事の 示唆した“with adults in the room.” をもじって、「Greece for Grownups」を書いて、今回のEUのギリシャへの債務減免の拒否が、ギリシャ経済をさらに悪化させて、結果的に、更に減免額を増加することになると、激しくEUリーダーの対応を非難しており、財務規律を確立すべく、システム改革が必須だと論じている。
   One thing is certain: eurozone governments will end up writing off a large proportion of their loans to Greece. Their refusal to recognize that reality has increased the losses they will suffer.
   ・・・large debt write-offs are inevitable, and punishing Greece further will not put the eurozone on the path to financial discipline. For that, systemic reform is essential.

   EUに残留しても、公共サービスの10%も多く税を取り続けるなどと言った状態が続けば、GMの破産前に、富裕層が大挙して脱出して荒廃したデトロイトのように、ギリシャから若者や有能な人が脱出して、未来は・・・
   Greece is facing a massive migration crisis and a dangerously nationalistic Russian leadership looking for opportunities to cause trouble. The eurozone must find a way to ensure future debt discipline, without provoking an even deeper crisis in Greece.
      
   ケインズ経済学が分からなくても、観光以外の目ぼしい産業の殆どないギリシャに対して、金利支払いさえままならない膨大な借金を背負わせたまま、更に過酷な実現不可能な緊縮財政を強いて、需要を圧搾して経済成長の芽を摘めば、どうなるかは、火を見るより明らかな筈なのだが。(2015.07.18)
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トマト・プランター栽培記録2015(11)・・・タキイ・虹色トマト色付く

2015年07月15日 | トマト・プランター栽培記録2015
   5月初旬にプランター植えしたタキイの虹色ミニトマト7種が色づき始めた。
   苗木は、同じように育っていて、殆ど差が分からなかったのだが、色付き始めると、実成りなど、夫々の違いが分かってきて面白い。
   下記の写真は、イエローピコ、トロカデロ、ブリュネル、エトランゼ、小桃、ピグマリオン、イライザの順である。
   ブリュネルはこげ茶色、エトランゼはまだ色付いていない(と言っても、成熟しても緑色らしい)。
   小桃は、タキイの定番のミニトマトである。
   
   
   
   
   
   
   

   マイクロトマトは、第1花房から、色付き始めて、孫が喜んで収穫している。
   大豆より一回り大きな小粒のトマトだが、味は、普通のミニトマトと変わらない。
   小さいだけである。
   摘心や剪定をせず、自然に任せて放置しておいたので、長い枝は、1メートル半くらいまで伸びていて、庭木にもたれかけてさせている。
   下の方の葉が、少しずつ黄ばみ始めている。
   
   

   大玉トマトは、何時も失敗するのだが、今年のこいあじは、順調に育っていて、一房4個を守っていて、夫々、問題なく、色付き収穫を始めている。第2花房が消えてしまった2本目は、第1花房の実を6個残したのだが、問題なく育っている。
   今年は、1本に20個以上の収穫が出来そうである。
   
   

   中玉トマトのティオクックは、最初に結実した実に亀裂状の筋が入ってしまったが、今や、鈴なりで、味は淡白ながら、サラダで楽しんでいる。
   黄色い中玉のリッチゴールドは、実成りは良くないが、トラブルから回復して、少しずつ実らせている。
   
   

   病虫害は、傷んだ葉を総て切落として裸にして、久しぶりの太陽にあたった所為か、伝播は甚だしくなさそうなので、薬剤散布に止めて様子を見ることにする。
   アイコは、レッドもイエローも、病虫害には強いようで、殆ど問題はなく、一番安定している定番のミニトマトと言うところであろうか。
   皮が固いのと、甘味にやや欠けるところが難ではある。

   数年前には、猛暑で、花が咲かず、咲いても結実しなくなったので、8月中旬で、トマト栽培を止めざるを得なかったが、今年の暑さはどうであろうか。
   とにかく、今は、早く梅雨が明けてくれることことである。
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七月大歌舞伎・・・通し狂言「牡丹燈籠」

2015年07月14日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   圓朝の怪談噺「牡丹燈籠」の歌舞伎バージョンである。
   脚本の大西信行は、寄席・新宿末廣亭にも通い詰めた、大岡越前、水戸黄門などの作品のある時代劇脚本家だと言うことで、実に面白い作品になっている。
   元々、文学座の舞台脚本として書かれた作品を、玉三郎の演出で歌舞伎の舞台で演じられているので、新歌舞伎と言う位置づけであろうか。
   玉三郎の相手役を、前回は仁左衛門が演じていたが、今回は中車に代わっていて、むしろ、この方が適役かも知れないと思うほどの名演であった。

   私は、最近、歌舞伎や文楽の作品を、オリジナルの能や狂言、或いは、このような落語や芝居などから、どのように本歌取りして脚色されて、舞台にかけられているのかに、興味を持って観ているので、この怪談牡丹燈籠も、非常に面白かった。

   私だけかも知れないが、この牡丹燈籠と言えば、どうしても、恋焦がれて死んでしまったお露が、幽霊となって、カランコロンと牡丹燈籠を持って、乳母のお米に導かれて新三郎を尋ねて来るシーンやお札はがし、新三郎が髑髏を抱きながら食い殺されてしまうと言った怪談噺のところばかりの印象なのだが、圓朝を読めば、この話は、いわば、肴のつまで、もっとドロドロとした人間の愛憎物語であることが分かって興味深いのである。
   昨年聞いた歌丸の「お札はがし」は、さすがに、味わい深くて楽しませて貰った。

   このお札はがしや、新三郎がお露の髑髏を抱く奇々怪々のラブシーンなど前半の牡丹燈籠の怪談も、下男の伴蔵の仕組んだ悪行を隠すための作り話で、圓朝の冴え切った語り口が、実にリアルで面白い。
   このところは、幽霊に貰った100両を元手にして関口屋を開いて大店の旦那となった伴蔵が、酌婦のお国にゾッコン入れ込むので、頭に来た女房のお峰が、かっての悪事をがなり立てるので、切羽詰って土手に誘って殺してしまう。その後で、藪医者の山本志丈に迫られて、真実を白状すると言う形で明かされている。
   この歌舞伎では、お国に絡む痴話げんかは、仲直りして一緒に寝ようと言うハッピーエンドで終わるのだが、尋ねて来たお六に幽霊が乗り移って新三郎殺しの一件を語り始めるので、錯乱した伴蔵が、お峰を幽霊と誤って刺し殺すと言う結末に替えて、幕を引いている。
   余談だが、伴蔵に肩に手を添えられ口説かれて、その気になって、えも言えないような嬉しそうな顔をして行燈の火を消しに立つ玉三郎お峰の表情・・・、とにかく、悪がき親父に連れ添って苦労する市井の生身の女房を実に鮮やかに熱演する人間国宝の芸の冴えには脱帽である。

   このさわり部分の原文を引用してみると、
   ・・・といわれて伴藏最早隠し遂せる事にもいかず、
伴「実は幽霊に頼まれたと云うのも、萩原様のあゝ云う怪しい姿で死んだというのも、いろ/\訳があって皆わっちが拵らえた事、というのは私が萩原様の肋を蹴て殺して置いて、こっそりと新幡随院の墓場へ忍び、新塚を掘起し、骸骨を取出し、持帰って萩原の床の中へ並べて置き、怪しい死にざまに見せかけて白翁堂の老爺をば一ぺい欺込み、又海音如来の御守もまんまと首尾好よく盗み出し、根津の清水の花壇の中へ埋めて置き、それから己が色々と法螺を吹いて近所の者を怖がらせ、皆あちこちへ引越したをしおにして、己も亦おみねを連れ、百両の金を掴んで此の土地へ引込んで今の身の上、ところが己が他の女に掛り合った所から、嚊かゝアが悋気を起し、以前の悪事をがア/\と呶鳴り立てられ仕方なく、旨く賺して土手下へ連出して、己が手に掛け殺して置いて、追剥に殺されたと空涙で人を騙かし、弔いをも済して仕舞った訳なんだ」

   もう一つは、この圓朝の牡丹燈籠の核となっているのは、お露の父親である旗下飯島平左衞門にまつわるストーリーであること。
   妻亡き後妾のお国が、隣家の旗本の息子・宮邊源次郎と密通して、邪魔になった平左衛門を亡き者にして飯島家の金品を盗んで逃走し、国元へ帰って料理屋の酌婦になり、ここで、関口屋になった伴蔵と巡り合う。
   一方、若い頃平左衛門が誤って殺害した黒川孝藏の息子・孝助が、父の仇と知らず、飯島家の奉公人になり健気に仕えるので平左衛門は、実子のように可愛がって慈しむので、平左衛門が殺害された後、お国と源次郎を仇として追跡し、幼き頃別れた母おりえに、二人の隠れ場所に導かれて、仇を討つ。江戸の人相見の白翁堂勇齋宅で、母子が再会するのだが、お国が、母親の再婚相手の連れ子であったと言う偶然が重なり、母は実子の孝助と継子のお国両人に義理を立てて自害する。
   言うならば、圓朝の噺では、お峰伴蔵物語はサブストーリーなので、お峰よりお国の方が主役であり、この物語は、孝助の敵討話と言うのが、適当かも知れないのである。

   このお国は、生まれながらの性悪女として描かれていて、平左衛門殺害計画を知られて邪魔になった孝助を何度も殺そうと試みたりするのだが、しかし、悪女ながら、実に美人で魅力的な女のようで、そのあたりを、この歌舞伎の舞台では、春猿が、艶やかで色香たっぷりに演じていて、中車の伴蔵を誑し込んで、魅力全開である。

   大西信行の脚本を読んでいないので、はっきりとそうなのかは分からないのだが、この歌舞伎では、主人公が、お札はがしで幽霊に貰った100両で大店を構えた伴蔵とお峰になっていて、面白い芝居になっている。
   海老蔵が、馬子久蔵になって登場して、玉三郎のお峰に小遣いを貰って酒を振舞われて、上手く乗せられて、伴蔵のお国との密会話を、調子に乗ってみんなバラしてしまうと言うストーリーは、圓朝の噺にもそのまま登場していて、一服の清涼剤である。
   このあたりのコミカルタッチの語り口など、流石にリラックスした海老蔵の本領発揮で、それを上手く引き出して、絶妙のコント模様に仕立て上げる玉三郎の力量に恐れ入る。
   前の舞台で、熊谷直実を、目をむき出して熱演した海老蔵の変わり身、その落差の激しさが、芝居の醍醐味であろうか。
   えらいことを喋ってしまったと恐れおののく海老蔵の強張った表情、怒りに燃え上って形相の吊り上った玉三郎の表情の凄さ、これを見に行くだけでも、歌舞伎座に行く甲斐がある。

   この舞台で出色の出来は、玉三郎と中車のお峰伴蔵夫婦。小者のしたたかさ、悲しさ、運命に翻弄されて泳ぐ生身の男女の息遣いまでが聞こえてくる、しみじみとした芝居が印象的である。
   艶やかな女形の舞台姿が目に焼き付いている玉三郎だが、このような軽妙なタッチの世話ものの、現代的な新劇風の芝居も、実に、味わい深くて魅せてくれる。
   中車の伴蔵は、歌舞伎と言うよりも、正に、等身大の演技で、地で演じていて十分なのであろう、のびのびと演じていて、芝居を楽しんでいるような感じがした。

   猿之助の圓朝は、新鮮だが、一寸出のためか、好演ながらも印象が薄い。
   お米の吉弥が、実に、上手くてムード抜群。
   市蔵の藪医者山本志丈の惚けた演技が面白い。
   若い恋人たち、お露の玉朗、新三郎の九團次も、それなりに存在感を示していた。

   圓朝の噺をそのまま、歌舞伎の舞台にすれば、どうなるかだが、
   お峰伴蔵をメインにして換骨奪胎と言うか、面白い芝居に仕立てた大西信行の脚本を、玉三郎が見せる舞台にしたと言うことである。
   牡丹燈籠が、舞台や客席上をひらひら舞うのだが、普通の芝居になっていて、怪談仕立てと言う雰囲気は消えてしまってはいるが、元々、圓朝の噺も、怪談を仕組んだ世話物と言う位置づけであろうから、それで良いのかも知れない。
   
   
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爆買い:中国ビジネスにヒント

2015年07月13日 | 経営・ビジネス
   銀座などに出かけると、正に、中国人旅行者による爆買いの凄まじさをあっちこっちで見かける。
   1980年代の、欧米を闊歩していた日本人旅行者が、高級ブランド店や百貨店などに殺到して、ブランド物や高級品を買いあさっていた姿を、まざまざと、思い出させるような光景だが、時代は繰り返すのであろう。

   ところで、東京の百貨店は勿論、コンビニまで、外人観光客の利便性を考えて、店舗に免税カウンターを急ごしらえで設置して、対応し始めたと言う。
   昔、ヨーロッパに居た頃、観光や観劇などそっちのけで、買い物だけを楽しみに来たと言って、パリとロンドンにやって来ていた新婚夫妻に会ってびっくりしたことがあるのだが、聞いてみると、中国人旅行者の中にも、買い物と日本食だけを目的に来日したと言う人たちも居るようで、舶来品を現地で買うと言う旅行の魅力は大変なようである。

   さて、今回話題にしたいのは、先にブックレビューしたスティーブン・ローチの「アメリカと中国もたれ合う大国」で、ローチが論じていた、今後中国が、輸出主導型から消費者主導型の発展戦略に、経済運営を大きく切り替えようとしており、消費革命とも言うべき大きなビジネスチャンスが、アメリカの輸出産業に生まれる、と指摘していることについてである。
   正に、萌芽期にある中国の消費市場は、需要源として大きな潜在力を秘めており、アメリカの輸出産業を再興させる完璧な呼び水になる。消費文化自体が中国にとって究極の輸入品となり、世界に冠たる大消費国アメリカから、製品・サービス・システム・経営の専門知識を獲得して大いに活用すれば、更に、経済社会の高度化に貢献して一石二鳥だと言うのである。

   典型的な消費者社会であるアメリカを考えてみれば、住居、家具・器具、自動車、電子製品、近代消費者社会のその他の飾り物等々、それも、アメリカンブランドの高級品や奢侈品に対するモノやサービスが、未開拓の開かれた中国の消費者嗜好を開拓できることは間違いない。

   更に、中国のサービスのGDP比は43%で、異常に低く、サービス産業化は必須であり、また、雇用の面からも、例え経済成長が鈍化しても、旧モデルの資本集約型・労働節約的な製造業から、新しい資本節約型・労働集約型のサービス業主導型にシフトすることによってカバーできるので、中国経済のサービス化への移行トレンドは間違いない。
   サービス貿易と言えば、通信・金融・運輸・卸売小売り・専門サービス等々、
   アメリカのサービス企業は、断トツで、中国の萌芽的なサービス産業に欠如しているプロセス設計、規模、専門知識・経営ノウハウなどに優位性を持っているので、大いにビジネスチャンスはある。
   アメリカの消費財産業やサービス産業にとっては、この中国経済の消費主体産業化への大転換は、千載一遇の大チャンスで、これを見逃す手はないと言うのである。

   さて、以上は、ローチによるアメリカ産業に対する所見だが、このことは、そっくりそのまま、日本の産業・企業に当てはまることで、同じアジア人の嗜好から言っても、日本の方がはるかに有利で、ビジネスチャンスは、多いと考えられる。
   私が注目するのは、中国人の日本における爆買い傾向で、正に、上方志向の本物への消費者革命が始まったと言うことは間違いない。
   今現在は、近くて円安傾向が幸いして、旅行費用も安いので、中国人が大挙して日本に押しかけて来ているが、これを逆手にとって、中国へのビジネスチャンスを拡大できないかと言うことである。

   日本人が、欧米に、爆買いに殺到していた時には、日本の百貨店が、ロンドンやパリに大挙して進出したが、日本のバブル崩壊で下火になると退却してしまった。近視眼も甚だしく、日本人客だけを相手に商売していただけであったからである。
   今回の場合、中国企業の進出がなく、中国人は日本の百貨店など日本人店舗に殺到して爆買いをしているので、この傾向はなかったが、これは、中国の小売など商業やサービス産業の貧困ゆえであって、事情が違っている。
   
   さて、中国の消費者市場やサービス産業市場において、今後商機が拡大の一途を辿るとすれば、どのような戦略が有効なのか。
   ローチは、輸出市場拡大のチャンスだと言うのだが、尋常な輸出や進出戦略では、通用するようには思えない。
   
   日本人観光客が、欧米に買い物に殺到していた時には、進出した百貨店は、品揃えに注意して世話するだけで良かったが、
   今回の中国の消費者革命に対処するためには、ただ、店舗をオープンして日本製品を並べて販促するだけではなく、トータルパッケージで、消費生活を提案するなど、コトを売り込み、メインテナンス・サービスも含めて、顧客の開発と維持管理に注力するなど、息の長い生きたビジネス展開をするなど工夫することが、大切ではなかろうかと思っている。
   私は、やはり、中国には、カントリーリスクがあると思うので、中国での出店は、パイロット・ファームやショップ程度に収めて、提案型のビジネス展開、すなわち、生活の質を提案販売サービスする知的価値創造型のビジネスが良いのではなかろうか。同時に、徹底的にICTを駆使して時代の潮流に乗ったビジネスモデルを構築することである、と思っているのだがどうであろうか。

   ローチの言うように、中国経済が、生産主体経済から消費主体経済へ、急速に変革しなければならないことは事実であり、豊かになった中国人が、更に豊かな消費生活を志向して行くことは確実であろう。
   しからば、どのような戦略戦術で、中国市場を攻略すれば良いのか。
   一説によると、ブランド志向はそれ程でもないが、身内などの口コミを重視するなど、中国人独特の消費財へのアプローチがあるようなのだが、十分リサーチするなど勉強して、
   中国人の爆買いトレンドを商機にして、如何に中国人の消費革命を起爆剤にするか、日本企業の経営姿勢が試されていると言うことかも知れないと思っている。
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梅雨の合間の晴れた日の観劇(能・狂言&歌舞伎)

2015年07月12日 | 今日の日記
   一昨日から、急に天気が良くなって、太陽が出てきた。
   鎌倉からなので、同じ、観劇に東京へ出かけて行くためにも、晴天で気持ちの良い日の方が良く、何となく楽しさが増すようで面白い。
   何も、鎌倉と言っても、普通のビジネスマンなら、通勤なのだが、偶に出かけて行く人間にとっては、多少、意識が変わってくる。

   この日は、国立能楽場で、普及公演に行くことになっていて、偶然に、歌舞伎座の夜の部でチケットが取れたので、梯子することになった。
   歌舞伎座へは、3日にダブルブッキングで、次女に代わって行って貰っていたので、諦めていたのだが、圓朝の牡丹燈籠の歌舞伎バージョンを観たくて、歌舞伎座のインターネットを叩いていたら、3階A席が、たった、1枚だけ、11日夜の部が残っていた。
   1階や2階の上等な席は、かなり残っているのだが、復活観劇であるので、安いチケットで辛抱することにした。
   多少遠くて上からの観劇なのだが、新しくなってからは、花道のすっぽんは良く見えるし、ニコンの双眼鏡のお世話になれば、全く、不都合はない。
   4列目のほぼ中央で、前の席の人たちが女性で背が低かったので、観劇には、何の支障もなかった。

   さて、この牡丹燈籠の歌舞伎の舞台は、8年前に、この歌舞伎座で、玉三郎と仁左衛門で観ているのだが、殆ど記憶がなくて、昨年、歌丸で聴いた牡丹燈籠の「お札はがし」の方の印象が強く、それに、圓朝の「牡丹燈籠」の噺を、全編読んで見て、印象が全く違って来たので、俄然、今回の「牡丹燈籠」を見たくなったのである。
   この観劇記は、後日に書きたい。
   

   面白いのは、歌舞伎座の対面にある岩手県のアンテナショップの「いわて銀河プラザ」で、政府が設置した「地域住民生活等緊急支援のための交付金」を活用する地方創生キャンペーンとして岩手県の物産を3割引きで売っていた。
   時間がなかったので、良く考えずに、急いでワインのお伴にと思って肉製品を何種類か買って帰ったのだが、結構、楽しむことが出来た。


   国立能楽堂は、普及公演なので、冒頭に解説があって、今回は、松岡心平教授の「働いている江戸期の能楽」。
   今月は、「江戸時代と能」と言う月間特集なので、これに関連して選ばれたテーマだが、私にとっては、少しずつ能楽についての知識が増すと言った話であった。
   興味深かったのは、「能はリベラルアーツだ」と言う教授の見解で、能には、源氏物語や平家物語や伊勢物語や、和歌集・詩歌など多くの芸術を内包していると言うことであろう。
   江戸時代に、源氏物語を教養の書として権力者たちが学んだと言う話を知ったのだが、知性教養を養って高い知見を求めて学び、精神を高みに高揚して行く、と言うことはいずれの時代においても大切なのであろう。
   欧米でのりベラル・アーツの概念は、もっと広範囲の基礎的な学問、科学や芸術などをカバーするので、能がリベラルアーツと言うのには、多少違和感があるのだが、日本人が国際舞台で活躍する場合に最も欠けていると言われており、日本の古典芸術に秀でると言うのも、良いことかも知れない。

   私の場合、能・狂言の鑑賞を始めて、やっと、4年弱。
   少しずつ、楽しめるようになったと言うところだが、むしろ、文学や歴史の勉強や、土地勘と言った外堀から、近づいて行っているような気がしている。

   この日の狂言は、三宅右近ほかの和泉流「簸屑」。
   能は、シテ井上裕久、ワキ工藤和哉ほかの観世流「大瓶猩々」。
   酒好きの猩々たち5人が、舞台上で、優雅に群舞すると言う変わった趣向の能で、江戸時代の綱吉の頃に作曲されたと言う。
   観世流にしかない曲とかで、殆ど上演機会がないと言う。
   猩々たちは、頭髪も衣装も赤づくめなのだが、殆ど同じ舞姿ながら、赤く彩色された5人の猩々の面の表情が、夫々に相当異なっていて、そのキャラクターの差が興味深かった。
   正味2時間であるから、この能楽堂主催の舞台は、私には格好で、多岐に亘ってプログラムが上手く組まれて上演されているので、かなり、能・狂言へのアクセスを助けて貰ったと思っている。
   
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日経ビジネス:インダストリー4.0

2015年07月11日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   産業革命は、これまでに、3回起こっている。
   一回目は、蒸気機関、二回目は、電気エネルギー、三回目は、コンピューターによる自動化で、今現在、第四回目のIOT産業革命の時代に突入したと言うのである。
   製造業において、IOT(Internet of Things)の重要性に注目して推進されている、ドイツ官民挙げての「インダストリー4.0」、米国中心の「インダストリアル・インターネット・コンソーシアム」が、脚光を浴びている産業革命である。

   ドイツでは、産業器機をつないで、モノ作りのプロセスを自動化したり、サプライチェーンを構成する企業同士の連携を深めたりするのが狙いで、政府主導で、どうすれば企業間で安全にデータをやり取りできるか、業務プロセスをどうすれば良いかなど、利害関係者を巻き込んで推進している。
   更に、IOTとIOS(Internet of Service)を組み合わせて、生産現場とオフイスをつなぎ、バーチャルとリアルの情報を一気通貫で扱うビジネスモデルの革新をも志向する。
   この活動はドイツ全土で取り組む必要があり、多くのサプライヤーの要望を即座に調達・生産に反映して行くためには、共通の「言語」で話す必要があるので、インフラの構築中だと言うことであろう。

   10日の日経の経済教室で、西岡靖之教授は、Thingsは、モノではなくコトで、IOTは、コトのインターネットであって、製造業も、モノを売るだけではなく、コト、すなわち、モノを作る仕組み、生産システムを売ることになって、ソフトや運用管理のノウハウなどをセットで販売するので、一回限りの製品の販売ではなく、継続して事業を行えサービスとしての収益が得られると述べている。
   この本で、GEなどの米独の企業が、IOTを戦略的に活用してドラスチックに業域を拡大している姿を紹介していて興味深い。

   この本の表紙には、
   IOTでモノ作りが激変
   ”トヨタが下請け”に!? あなたの仕事が機械に奪われる
   ニッポンの現場が危ない! etc. 派手なキャッチフレーズが書かれていて、日本の製造業が危ういかのような雰囲気である。

   9日の日経の経済教室で、坂村健教授が、
   IOTは、コンピューターが組み込まれたモノ同士がネットワーク連繋して社会や生活を支援する、と言う考え方で、IOTの応用分野で最も注目されている未来像であるが、ユビキタスと同じ内容の日本が得意な組み込み器機の流れの先にある未来であり、日本が有利な分野なのである。それなのに、地道に研究開発と実用を続けてきた日本が、まるで目新しいモノが来たようにIOTに驚いている。と述べている。
   トロンで一世を風靡して、この分野で先鞭をつけて来た教授にとっては、IOTは、単なるユビキタスの後継と言う位置づけにしか過ぎないのであろう。

   また、
   IOT化で、部品製造から組み立て販売まですべての現場が連結されて透明化される。その結果、意思決定が最適化され、効率的かつ柔軟な多品質少量生産が可能になると言う。これは、トヨタ自動車が「カンバン・システム」で実現したこととと大差ない。
   インダストリアル・インターネット・コンソ―シャムの、産業機械に多くのセンサーを組み込み、ネットワーク化してデータを集め、故障診断から予防修理つなげようとするコンセプトは、コマツの重機の世界ネットワークや、IHIの発電用ガスタービンの予防保全に実現されているもので、目新しくはない。と言っている。

   本書で、ボッシュのヴェルナー・シュトルト重役が、インダストリー4.0とトヨタ生産方式の違いを述べている。
   第一に、トヨタ方式はマスプロダクションを前提に作られたが、ドイツ方式は「一個ずつの生産システムである。
   第二に、ドイツ方式は、今まではコスト的に成立しなかった個々の顧客が求める一つ一つ違ったテーラーメイドの生産が出来る「マスカスタマーゼーション(個別大量生産)」であり、トヨタ生産方式より広い概念である。

   更に、「トヨタが”下請け”になる日”と言う章で、「・・・日本は大きく出遅れている。外とつながることを拒否したままでは、トヨタ自動車すら”下請け”になりかねない。」として、
   インダストリー4.0は、完全オープンシステムによって他社などとネットワークで連繋していることが必須なのだが、トヨタは、「生産ノウハウが車外に流出しかねない」と磨き上げてきた生産ノウハウなどの情報流出リスクを警戒して、他社とインターネットをつながせないのだと言う。
   これは、トヨタだけではなく、日本の製造業においては、社外はもとより、自社工場内でも、産業機械やロボットの規格が乱立しているなどで十分にICTシステムを活用していない。

   この点、坂村教授も、先行しながら後れを取り始めているのは、
   トヨタのカンバン・システムもIOTだが、系列に閉じたIOTだ。逆にインダストリー4.0は、標準化したカンバンにより、ドイツ、更に、世界中の製造業すべてがつながれていると言う系列に閉じないカンバン・システムを目指しているのだ。と述べている。
   
   坂村教授の説をもう少し敷衍すれば、
   インターネットが典型であるオープンシステムでは、特定の管理主体はなく、その全体ついてギャランティーは不可能で、ここの関係者によるベストエフォートによって成り立っていて、これが社会のイノベーションに大きな力を発揮する。
   このオープンな情報システム構築に不得手なギャランティー志向であることが、日本のIOTにとって大きな足かせとなっている。
   意識レベルからこの問題を解決しなければ、技術的に十分可能であっても、オープンなシステムは構築できない。
   「閉じたIOT」が、「オープンなIOT]になれるかを決めるのは社会的問題なのである。と結論付けている。

   かって、オープン・ビジネス・システムや、オープン・イノベーションが脚光を浴び始めた頃に、日本の製造業は、ブラックボックス戦略に固守して、新しい潮流に乗れずに、グローバリズムと叫ばれながらも、自前主義から脱却できなかった。
   この視点から、度々、ソニーやシャープの経営姿勢を批判して来たし、5年前に、伊丹敬之教授が、「イノベーションを興す」で、”オープンイノベーションは、「話がうま過ぎる懸念がある・・・”などと言ってオープンビジネスの重要性を否定していたのに反論したりして、オープン・ビジネス・モデルが、最早、グローバルビジネスの大潮流であって、如何に、重要な企業戦略であるかを論じ続けてきた。

   丁度、同じような日本企業の閉鎖的なビジネス・システムなり経営戦略が、正に、IOT産業革命が胎動を始めて、グローバルビジネスにおいて、米独はじめ世界の企業が鎬を削り始めた段階に至っても、依然、変わっていないようで、何故なのか、世界を驚愕させた筈の日本経営の不思議を考えざるを得ない。

   ところで、この本は、IOTの最大のツールとも言うべき3Dプリンターが引き起こしている生産革命についても詳述していて、今日の経営の最先端の話題が垣間見えて面白い。
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京都、観光都市ランキングで世界1位に

2015年07月10日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   アメリカの旅行雑誌「トラベル+レジャー」が、「世界の人気観光都市ランキング」を発表し、京都が一位にランクインした.
   読者の投票によると言うことなので、アメリカ人旅行者の選択だが、アジア人やヨーロッパ人を含めれば、どう言う結果になるか面白いところだが、近年の外国人旅行者の急増を考えれば、案外、京都がトップに踊り出るかも知れない。
   10位までの結果は、次図の通りである
   

   アジアでは、カンボジアのアンコールワット群があるシェムリアップが4位になっている。
   米州は、チャールストンが2位、メキシコシティが9位、ニューオーリンズが10位、
   他は、ヨーロッパで、フィレンツェ3位、ローマ5位、イスタンブール6位、セビリア7位、バルセロナ8位、となっている。
   オーストラリア、アフリカ、中近東、それに、アジアでは、中国やインドやインドネシアなどの観光スポットが入っていないのが面白い。


   フィラデルフィアに居た時に、チャールストンは、サウス・カロライナの美しい港町だと聞いていたが、断トツの人気スポットだと分かると、行けなかったのが残念である。
   この10位までの都市の中で、訪れていないのは、このチャールストンとカンボジアのシェムリアップ。
   アジアは、出張で良く出かけたが、このアンコールワットもバリなどもそうだが、観光地へは全く縁がなかった。
   アジアの10位以内には、中国では、上海、西安、北京が入っており、他は、東京、香港、ハノイ、シンガポールが選ばれているのだが、アメリカ人旅行者にとっては、まだ、アジアは遠くて、馴染みが薄いのであろう。

   ヨーロッパの都市は、8年間も、アムステルダムとロンドンに駐在していたので、仕事でも旅行でも、夫々、これらの都市には何回か行く機会はあったので、かなり、良く知っている。
   アメリカの選択でもそうであろうが、ローマは別として、あらゆる観光資源が揃った大都市や首都などよりは、異文化異文明が遭遇する文化の香りの高いエキゾチックな観光都市が選ばれているのが、興味深い。
   民度の高い人々が、歴史と文化を大切にして、生きる喜びを積み重ねて築き上げた珠玉のような街並みや生活空間が、旅人を魅了して離さない。
   ヨーロッパで他にランクインした都市は、ブダペスト、プラハ、シエナ、パリ、エジンバラであったが、パリは当然として、やはり、他の都市も、この系統であろう。
   イギリスの場合、ロンドンではなく、エジンバラ、それに、かなり行く機会の少ないシエナなどの選択は、大変興味深い。

   私の一番好きなのは、長く住んだロンドンであるが、ウィーン、アテネ、ザルツブルグやベルリンやミュンヘンなどのドイツの都市、ジュネーブは勿論、スペインのグラナダやサラマンカ、イタリアのベローナやベネチア、フランスのコルマールやストラスブールなど、思い出深いところが多くて、一つ選べと言われれば困ることになる。
   都市と言うよりも、例えば、ローテンブルグなどのロマンチック街道、ハーメルンなどのメルヘン街道、或いは、スポットで、モンサンミシェル、ノイシュバンシュタイン城 、ポンペイと言った思い出の深いところもあって、旅の嗜好は中々表現し難いのである。

   これらは、総て、ヨーロッパだが、サンパウロにも長くいたので、リオやブエノスアイレスは勿論、マチュピチュやイグアスの滝など、今思うと涙がこぼれる程懐かしいところが、あっちこっちにある。
   長い人生、寅さんではないが、随分、歩いて来たなあと感無量である。

   さて、第1位になった京都だが、私にとっても、故郷にも劣らない程思い出深い都市なので、やはり、世界一の人気観光都市だと言われると嬉しい。
   住んだのは郊外の宇治に1年だけだったが、学生生活で4年、仕事で4年、通い続けて、その後、国内にいた時は勿論、海外に出てからも、帰国した時には、必ず訪れて、頻繁に、古社寺を散策していたので、これまでに、あっちこっち移動しながら住んだ何処よりも、良く知っているかも知れないと思っている。

   私の京都は、何と言っても、京大の学生として過ごした4年間で、知的好奇心と文化の香りへの憧れを触発して生きる喜びを与えてくれたことで、この幸せなスタートがあったからこそ、フィラデルフィアで学び、鞄一つを持って、地球のあっちこっちを自由に歩きながら仕事をすることが出来、壮大な人類の遺産や多くの文化文明の香りに接して感動しながら生きて来られたのだと思っている。

   この4年間は、湯川秀樹博士など多くの先哲の教えに学びながら、勉強はほどほどにして、京都や奈良などを歩き回って、とにかく、日本の素晴らしさを実感しながら、学ぶ喜びをかみしめて生きていたような気がする。
   言うならば、京都は、私の青春の原点であり、私にとっては故郷でも旅先でもない不思議な存在だが、私の命の源ではなかったかと思っている。
   
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トマト・プランター栽培記録2015(10)・・・サントリーのミニトマト病変:トマト斑点細菌病

2015年07月09日 | トマト・プランター栽培記録2015
   サントリーのフルーティミニの葉が、急に、黒い斑点で真っ黒になってしまった。
   少し前から予兆はあったので、薬剤散布で様子を見ていたのだが、どんどん、上の葉まで病変したので、殆どの葉を切り落とした。

    タキイのHPを見ると、「トマト斑点細菌病」のようである。
    病原は、細菌 ザントモナス ペシカトリアで、第一次伝染源は種子と土壌である。と言うことだが、土は、新鮮な野菜用培養土を使っており、隣のトマト苗など、他の多くのプランター苗には、何の変化もないので、サントリーの種子か、タキイの育種に問題があったのであろうか。
    露地栽培では、やや高温で降雨の多い時期に多発する。と言うことなので、梅雨の影響もあろうが、問題は、「トマトでは、カッパーシン水和剤、カスミンボルドーが利用できる、ミニトマトでは防除薬剤がない。」ので、手の施しようがない。
   
   
   フルーティミニに接近して植えてある隣のサントリーの純あまの方には、何の変化も病状もない。
   

   また、フルーティミニの方だが、収穫を始めて間もないので、完熟前の実が、まだ沢山残っていて、周りの葉を落としたので、露出している。
   とりあえず、まだ、病変の少ない上の方の葉だけ残して、そのままにしているが、酷くなるようなら、廃却しようと思っている。
   
   
   
   別なサントリートマトのハニーイエローの葉も、黄変して、真っ黒になり始めた。
   ハニーイエローの横に植えてあるシュガーミニも、少し、黒変が見えて来た。
   しかし、これらは、斑点細菌病ではなさそうで、疫病か、葉かび病か、或いは、梅雨の影響によるのかも知れない。
   いずれにしろ、毎日雨で、土の乾く暇もなく、薬剤使用もままならないので、傷んだ葉を、どんどん切り落として、木がダメになれば、廃却する以外にないと思っている。
   嫌な病気が広がりそうで、早く、梅雨があけて欲しいと思っている。
   
   

   中玉トマトのリッチゴールドも出来が悪く病変しており、サントリー育種のトマトに異変を起こしているので、高いだけで、このように不安定なのであれば、来年は考えようと思う。
   夫々、2本ずつ植えており、その2本ともが同じ病状なので、種子に問題があるのかも知れない。

   さて、大玉トマトと中玉トマトの第1号が、やっと、収穫できた。
   出来はそれ程良くはないが、以降は、楽しめそうである。
   大きい順から、こいあじ、ティオクック、リッチゴールド。
   
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