熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

野鳥の訪れを楽しむ喜び

2023年02月28日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   友から、野鳥の便りが届いた。
   綺麗な天気なので庭に出たら、メジロが、咲き乱れている白梅の梢をハシゴしている。
   先日、ジョウビタキも庭を訪れていた。
   まだ、寒いので、庭に長くいて小鳥の訪れを待つ余裕がないが、もう少しして、花の季節になると、小鳥たちや蝶などが集まって来て、わが庭も華やぐ。
   このブログも長いので、結構、野鳥の観察記や思い出などを書いてきているが、離れた地方の田舎からの鳥便りは嬉しい。

中村様
今朝は冷え込みがきついものの 真っ青な空が広がり 気持ちの良い朝でした。出不精の私と違って 家内は雨が降らない限り毎朝、愛用のスワロスキーを手にして 小1時間ほど家の周りを散歩するのが常ですが
今朝はイソヒヨドリ、アオジ、ビンズイ、ホウジロ、ハクセキレイ、キセキレイ、コガモ、ジョウビタキ、ツグミ、カワラヒワ、モズ、ノスリ、ヤマガラなどに会えたと機嫌よく帰ってきました。何時も姿を見せるカワセミは顔を出さなかったとのことです。見かける鳥の種類で 季節の移り変わりを感じるのですが そろそろ冬鳥のビタキ類やツグミなどは見納めとなるようです。バードウォッチングが趣味の家内は 季節の変わり目に 沖縄の宮古島や石川の舳倉島などに出かけていくことも屡々でしたが 最近はさすがに体がついていかず 専ら大阪城公園が定番となっています。 私も何度か同道したことがあるのですが 視力が弱いため一向に役に立たず 最近はお呼びがかからなくなっています
 郷里に戻ってほぼ20年。そもそも田舎ですから 野鳥も多かったのですが 7年前に我が家の山の一部に 新東名高速道路の料金所が出来たりして自然環境が大きく変わり オオルリやキビタキは全く姿を見せなくなりました 庭にかけた巣箱もこのところ住民は不在のままです。
 仕方がないので 日曜大工で餌台を作り 毎朝 餌を撒いて鳥寄せをしていますが お目当ての鳥は一向に姿を見せません 常連はヤマガラのほか主役は雀です。ありふれた鳥ですが 30羽近く集まって 懸命に餌を啄む姿を見ていると なかなか可愛らしくつい見入ってしまいます
 逆にどうしても好きになれないのはカラス。朝に夕に何拾羽が我が物顔に空を舞う姿はヒッチコックの[bird]を思い起こすほどの不気味さです。ダーウインの進化論では「生物は最も強いものが生き残るのではなく環境に最も適応したものが生き残る」とあるようですが 姿形よくして
性 善なるものは どこの世でも生き難いのでしょうかね。   中根

中根さん
バードウオッチングの様子、羨ましく読ませて頂きました。
鳥には疎いので良く分かりませんが、ビンズイ、ノスリはまだ見ていないと思いますが、千葉にいたときには、印旛沼に近かったので、たまには、田園地帯に出て、野鳥に遭遇しました。カワセミが結構いましたので写真を撮っていました。キジもよく見ました。
鎌倉に来てからは、あまり、田畑のあるところには行かなくなったので分かりませんが、わが庭に頻繁に訪れるのは、メジロとシジュウカラ、キジバト、それに、鵯、
鶯は良く囀っているのですが中々姿が見えず写真に失敗し続けており、良く似た声の害鳥であるガビチョウの方が目につきます。先日、コゲラを見たのですが、知らない間に他の鳥も来ているのかも知れません。
いずれにしろ、花の合間についでに鳥を観ていると言った感じですが、興味がないわけでもありません。
ロンドンに居たときには、キューガーデンのそばに住んでいて、良く訪れていたので、野鳥には随分接していましたが、ヨーロッパの方が、綺麗な鳥が身近にいたような記憶があります。
また、鳥の話を聞かせてください。
季節の変わり目、気温の乱高下が激しいので、ご自愛ください。     中村
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孫娘と雛人形を飾る

2023年02月26日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   3月3日の桃の節句には、雛祭りで、女の子の健やかな成長を祈る。
  「男雛」と「女雛」を中心としたひな人形に、桜や橘、桃の花など木々を飾りつけ、雛あられや菱餅などを供えて、白酒やちらし寿司などの飲食を楽しむ。

  ところで、我が家でも、子供が女の子で、孫娘もいるので、毎年、この季節には、雛人形を和室に飾って祝っている。
  今年は、雛飾りが遅れて、昨日重い腰を上げて雛人形を飾り付けた。
  雛飾りと言っても、結構細々とした仕事があって、歳を取ると大変なので、ギリギリまで延ばしてしまったのである。

  もう40年以上も前になるが、4年間のブラジル赴任を終えて帰ってきて、新春早々、浅草橋の秀月に出かけて、出来るだけ立派なものをと思って、七段飾りの大きな雛人形を買った。幼稚園を日本とアメリカとブラジルで過ごして小学生の中学年で帰ってきた長女に、出来るだけ早く日本の良さを味わわせたかったのである。
  今飾っているのは、この雛人形で、社宅のマンションには大きすぎた感じであったが、今の12畳の和室にはシックリと収まっている。8年間、ヨーロッパに赴任していたときには東京の倉庫に眠っていたが、その後、東京、千葉、鎌倉と移転したが、今でも買ったときのように綺麗で満足している。
  五月人形は、孫息子それぞれに買ってやっているが、雛人形は、長女、次女と引き継ぎ、今、次女の長女が引き継いでいて、女の子は一人だけだし、我々祖父母の仕事はこれで終りそうである。

  今思えば、ヨーロッパへ赴任したときに、引っ越し荷物として持ってくれば良かったと思っている。
  私自身一人で先にアムステラダムに来て、引っ越し荷物の発送を家内に頼んだので、大変だろうと思って止めたのだが、8年間と長期にわたり、それに、大仕事が続いて、オランダ人やイギリス人達と深い付き合いがあったので、日本文化の紹介など親睦にも有効であっただろうと思ったのである。

  一年ごとに、雛人形を飾りながら、走馬灯のように過ぎ去っていった懐かしい思い出を反芻してしんみりとしている。
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ジョージ・ソロスの危機意識

2023年02月24日 | 政治・経済・社会時事評論
   ジョージ・ソロスが、興味深い論文をプロジェクト・シンジケートに掲載した。「Global Warming, Hot Wars, Closed Societies 地球温暖化、熱い戦争、閉鎖的な社会」である。
   長い論文であり、多岐にわたっているが、現状のグローバル世界について、何時もの持論を展開しているので、ウクライナ戦争1年後の日に合わせて、結論だけ論じてみたい。

   2 つの統治システムが地球規模の支配をめぐって争っている一方で、容赦ない気候変動の進行により、人類の文明は崩壊の危機に瀕している。
    While two systems of governance are engaged in a fight for global domination, human civilization is in danger of collapse because of the inexorable advance of climate change.と言うのである。
   ソロスの言葉で言えば、2つの統治システムとは、開かれた社会と閉じられた社会であり両者が地球規模の支配をめぐって争っている。と言うことである。
   私は、現在のグローバル世界には、どちらにも属さない第3の勢力である強力な新興国や発展途上国のグループが存在して無視できないと論じてきたが、今回は、ウクライナ戦争の当事者である2つのシステムに限定して触れないことにする。

   ところで、ソロスは、地球温暖化につては、かなり悲観的な展望を述べているが、結論めいた論述は避けている。
   開かれた社会と閉じられた社会論であるが、開かれた社会とは、国家の役割は個人の自由を保護することであり、閉鎖社会とは、個人の役割は国家の利益に奉仕することだとして、世界の主要国や新興国の現状を地政学的な見地から語っていて興味深い。

   ロシアにつてはウクライナ戦争について語っていて、興味深いのは次の文章である。
   希望的観測ではあろうが、西側からの最新型戦車や、戦闘機や長距離ミサイルの供与を受けて、攻撃に転じるウクライナの勝利を見越しての見解であろう。
   ウクライナは今春後半に約束された兵器を受け取り、ロシアのウクライナ侵攻の運命を決定する反撃を開始する機会のわずかな燭光が見える。 旧ソビエト連邦の国々は、独立を主張したいので、ロシアがウクライナで敗北するのを待ちきれない。 これは、ウクライナの勝利がロシア帝国崩壊を結果することを意味する。 ロシアはもはやヨーロッパと世界に脅威を与えることはない。 それは良い方向への大きな変化となるであろう。 それは開かれた社会に大きな安心をもたらし、閉鎖的な社会にとてつもない問題を生み出すであろう。
   This gives Ukraine a narrow window of opportunity later this spring, when it receives the promised armaments, to mount a counterattack which would determine the fate of the Russian invasion of Ukraine. The countries of the former Soviet Union can hardly wait to see the Russians defeated in Ukraine because they want to assert their independence. This means that a Ukrainian victory would result in the dissolution of the Russian empire. Russia would no longer pose a threat to Europe and the world. That would be a big change for the better. It would bring huge relief to open societies and create tremendous problems for closed ones.
   
   開かれた社会は閉じられた社会よりも優れていると信じており、アサド政権のシリア、ベラルーシ、イラン、ミャンマーのような抑圧的な体制の下で生活しなければならない人々を悲しんでる、と言うのがソロス論文の結語だが、いずれにしろ、開かれた社会の勝利を疑わないのであろう。

   私は、この論文を読んでいて、最初に思ったのは、開かれた社会と閉じられた社会の争いが、ウクライナ戦争勃発で極めて典型的な形で露呈してしまったが、馬鹿な戦争にうつつを抜かしている間に、既に秒読み段階に入った地球温暖化による人類社会崩壊の危機が、もうそこまで近づいているのに気づかない人間の愚かさを揶揄しているように思えたことである。
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わが庭・・・椿の季節がやって来た

2023年02月23日 | わが庭の歳時記
   寒いのかと思ったら、陽が差して、風が止ると、わが庭は春の陽気。
   もう来週は3月であるから当然なのだが、私には、椿の蕾のほころびが、春の目安となる。
   朝起きて、まず、庭に出て、椿の蕾を見るのだが、膨らみはじめてほんのりと色付き始めると嬉しくなる。

   一番気になる椿の開花は、「至宝」で、今朝気づいたのだが、2~3輪蕾が開き始めている。
   赤紫の千重咲きで、乙女椿のように綺麗な螺旋を画いて咲く優雅な椿で、今、やっと3分咲きくらいであろうか。
   開花し初めの宝珠咲きと、螺旋咲きにかわる状態で、もう少しすれば綺麗に開花する。
   中輪の椿で、鉢植えだと、結構沢山の蕾を付けて咲き乱れるのだが、一弁乱れず完全に綺麗な螺旋の弧を描く花を咲かせることは難しい。
   どこか、一寸調子が狂ったリズムで、人間らしくて愛嬌であろう。
   
   
   

   トムタムも、1輪だけ咲き始めた。
   洋椿だが、これも、乙女椿に似た花形で、優雅に咲く。
   
   
   
   椿は、少しずつ咲き始めていて、先に咲いた椿は、ドンドン蕾を付けて咲き続けている。
   タマグリッターズ、菊冬至、久寿玉、
   
   
   

   庭で開花し始めているのは、沈丁花、ボケ、クリスマスローズ、
   バラも芽吹き始めた。
   春の訪れは早い。
   
   
   
   
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第63回式能を鑑賞してきた

2023年02月21日 | 能・狂言
   2月19日、国立能楽堂で、「第63回式能」が開催された。
   コロナ騒ぎで2回ほど行けなかったが、これまで、結構続けて行っているので、慣れてはいるが、やはり重量級の観劇である。
   今回のプログラムは次の通り、

   第一部 10:00開演(公演時間4時間20分)
能 金春流「翁」金春憲和
能 金春流「鶴亀」辻井八郎
狂言 和泉流「夷毘沙門」野村萬斎
能 宝生流「巴」金井雄資
狂言 大蔵流「寝音曲」山本

   第二部 15:20開演(公演時間3時間55分)
能 金剛流「雪 雪踏拍子」豊嶋彌左衛門
狂言 和泉流「水汲」野村万蔵
能 喜多流「葵上」長島茂
狂言 大蔵流「長光」善竹十郎
能 観世流「鵜飼 真如之月」観世喜正

   いつものように、第一部第二部通しで鑑賞しているので、朝10時から夜の7時過ぎまで能の公演は続いた。
   私の席は、脇正面の中程の真ん中よりやや目付柱よりで、幸い前の席の人が小柄な婦人であったので、殆ど視界を遮るものがなくて幸いであった。
   開演冒頭の「翁」では入出場がシャットアウトされるので、結局、その後連続して演じられた能「鶴亀」と狂言「戎毘沙門」が終るまで、席を立たずに12時半まで鑑賞を続けていたのだが、別に苦にもならなかった。

   今回公演の能は、「翁」に続く「鶴亀」は、玄宗皇帝の大宮殿での壮大なお祝いの節会が舞台で、鶴と亀が、皇帝の長寿を寿いで舞い、荘厳な舞楽が奏されると皇帝も舞うと言う、特別なストーリーがあるわけではなく、新年を迎えた目出度い宮殿での祝祭劇である。
   また、「雪」も、雪の精がシテで、何故、雪が迷いを感じて成仏を願うのか分からないのだが、全く世俗臭を感じさせない能で、説明では、無常、輪廻など人間本来の素朴な疑問に対して、この雪の精への共感と、加えて世俗臭を覆い尽くす雪への憧れがこの能を清浄無垢の美しい能に仕立てていると言える、と言う。雪の精が、純白の衣を翻して舞う、序の舞の清楚な美しさ、金剛家には秀吉拝領の秘蔵の面「雪ノ小面」があると言うが、今回は、これが使われたのであろうか。
   この2曲の能は、[式能」あっての演目であろうか、愉しませて貰った。
   「巴」は平家物語、「葵上」は源氏物語を題材にしたお馴染みの能で、何度か観ていて、私にとっては、能は良く分からなくても、物語への展開はいくらでも増幅できるので、それなりに愉しんでいる。

   さて、最後の「鵜飼」は、非常に意欲的な舞台で素晴しかった。
   銕仙会によると、
   生き物の命を取ることで生計を立てていた漁師/猟師が、死後その罪によって苦しむ有り様を見せるという能には、他に〈阿漕(あこぎ)〉〈善知鳥(うとう)〉があり、本作とあわせて「三卑賤」と称されています。いずれの作品も、殺生を生業とする中でそこに楽しみを見出してしまうという狂気や、死後罪の報いに苦しむ様子を描く、重いテーマの能となっています。鵜舟に焚かれた篝火がゆらめきながら水面に映り、老人の使う鵜はバサバサと音を立てて魚を追い回す。殺生の面白さに取り憑かれてしまった人間の、業(ごう)のかたち。だと言う。
   後場は、シテ(観世喜正)が、前シテ鵜飼の老翁から、後シテ地獄の鬼にかわる。
   全身を金銀の甲冑で固めた地獄の鬼(後シテ)が、僧たちの眼前に現れて、「鵜飼は地獄の底に沈めることに定まっていたが、僧侶を一晩泊めた功徳によって、浄らかな世界へと送られることになった」と告げる。罪人も女人も草木も、この世のあらゆる存在が、全てを包み込み救いとる法華経の功徳によって救われる。
いかなる罪人であっても、慈悲の心を起こして僧を供養することで、解脱の道が開かれる。これこそが、仏から私たちに差し伸べられた、救いの手なのだ。と高らかに宣言して終る。
   この舞台では、「真如之月」の小書がついているので、シテは、中入りせずに後見座前で物着して閻魔大王として登場したが、早装束の見事さ鮮やかさ。
   この能は、ワキが、安房の清澄の僧だと言っていて、法華経の功徳について語っているので、この清澄寺で立宗宣言した日蓮大聖人を意図しているようで興味深いと感じた。
   ところで、厳つい小癋見出立で舞台狭しと勇壮に舞う地獄の鬼が、何故、法華経の使いなのかと言うことだが、同じく 銕仙会では、
   この後場の鬼は、世阿弥の父・観阿弥が得意としていた「融の大臣の能」に登場する鬼の演技を取り入れたものであることが、世阿弥の芸談集『申楽談義』には記されていて、この鬼の演技は、世阿弥たちの出身母胎である大和猿楽が得意としていた芸で、こちらも、能が上流階級向けの優美な芸能として洗練されてゆく以前の、古い形をのこす演出となっていて、古態の能が宿す躍動感と、その中で描き出される残忍なまでの人間の内面性を、お楽しみ下さいと言うことのようである。

   さて、能の間に演じられた狂言、「夷毘沙門」、「寝音曲」、「水汲」、「長光」
   一度は観た舞台だが、毒にも薬にもならないストーリィで、くすりと意表を突きアイロニーでくすぐる、ほろりとさせる余韻が、堪らなく嬉しい。

   何時もの定例能舞台よりも、若人や外人客が少し多かったように思う。
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わが庭・・・椿仙人卜半咲く

2023年02月20日 | わが庭の歳時記
   昨日は4月の陽気で、今日も温かいので庭に出てみたら、蕾だった椿の仙人卜半が、花を開いている。
   ピンク色の一重の外縁の唐子咲きで、派手な椿であるが、一部、花弁化せずに蘂が残っていて、たまには、結実する。
   わが庭の卜半は、まだ、蕾が固い。
   
   
   
   

   沢山蕾を付けている小輪のフルグラントピンクも一輪花を開いた。
   
   

   クリスマスローズも、あっちこっちで開花し始めた。
   この花は、まだ、花茎が短くて下を向いて咲くので、地面に張り付いた感じで、写真を撮りにくい。
   小さな苗で買って、庭に適当に空地を見つけて植え付けたのだが、生命力の強い草花で、結構大株に育って幅を利かせている。
   
   

   蕗の薹が立ち始めた。
   牡丹の芽も動き始めてきた。
   もう、春である。
   
   
   
   
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式能の予習をしたいと思って

2023年02月18日 | 能・狂言
   明日、国立能楽堂で、能楽協会の第63回式能があるので、少し、予備知識を得ておこうと思った。
   コロナ以降、観劇に東京まで出かけることが殆どなくなって、月に何回か通っていた能楽堂へも行かなくなってしまっており、この式能も久しぶりである。
   式能は、最初に「翁」、続いて、神,男,女,狂,鬼 (脇能物,修羅物,鬘物,雑物,尾能物) の順に5番の能を、そして、その間に狂言を演じる方式で、観世・宝生・金春・金剛・喜多の五流による五番立ての催しなので、朝の10時開演で、終演は夜の7時を回るという長丁場である。

   最初の「翁」が始まれば、一切、客の見所への入場はシャットアウトされるので、鎌倉から出かけて行く老人にとっては、少し大変である。
   式能は、毎年行っていたし、「翁」を鑑賞する機会が結構あったのだが、一度、東横線の渋滞で遅れて、入場を閉め出されて、ロビーの貧しいモニター映像で辛抱させられたことがあったが、こうなれば、その日は、全部オジャンである。

   狂言は、予習しなくても、ぶっつけ本番でも、それなりに理解できて楽しめるのだが、能の方は、10年以上通っていて、詞章を勉強して行っても、まず、謡が十分に聞き取れないので、ストーリーの展開の理解さえ覚束なくなることがあり、どうしても、事前に予習しておく必要がある。
   今回の能は、鶴亀、巴、雪、葵上、鵜飼で、このうち、初めて観るのは、鶴亀と雪だが、葵上などは何回か観ており、源氏物語でよく知っているし、巴は木曾義仲の愛妾の女武者でありこれも史実で知っている。

   私が、まず、手がける予習方法は、角川の「能を読む」4冊と岩波講座「能・狂言」、
   角川の方に載っておれば、詞章を含めてかなり詳しく書いてあるので参考になり、なければ、岩波で補う。
   角川には、鶴亀、葵上、鵜飼の記載があり、岩波には巴の記載があったが、「雪」だけは、両方とも載っていなかった。
   その気になれば、他にも能狂言の解説本など結構あるので読むのだが・・・
  
   解説のない演目情報の収集だが、
   次の手は、インターネットを叩いて、かたっぱしから、関連情報に当たることである
   幸い、「雪」については、同じ金剛流の解説と舞台の上演動画があったので、これ幸いと活用させて貰った。
   どうも、金剛流だけの能のようで、舞台の殆どが、雪の精の優雅で美しい舞いで終始している感じで、三番目、通常の鬘物の雰囲気には程遠く異色の舞台のようである。

   いずれにしろ、国立能楽堂の主催公演ではないので、何時も役に立っている字幕ディスプレィもないし、詳細なプログラムもないので、分かっても分からなくても、ぶっつけ本番で鑑賞しなければならないようではある。

   いつまで経っても、能・狂言初歩の頼りないファン、
   それでも、本当の日本文化を知りたくて、古典芸能に興味を持って鑑賞行脚を続けており、
   能楽堂にも足を運んでいる。
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METライブビューイング「ラ・ボエーム 2014」

2023年02月16日 | クラシック音楽・オペラ
   METライブビューイングについては、映画館にもかなり通ったりしているが、テレビで録画したDVDも相当な枚数になっている。
   最初は、NHK BSで放映されていたのでこれらを、その後、WOWOWが毎月新作を含めて数本ずつ放映するので、ダブりも含めて、ドンドン録画することになる。
   METでのオペラ鑑賞は、フィラデルフィアでの留学時代に数回出かけていって、その後、出張や個人旅行の途次に精力的に通っていたので、来日公演も含めれば、20回は下らないと思う。

   今日観た「ラ・ボエーム」は、
   2014年バージョンの舞台で、キャストは次の通り。

   指揮:ステファーノ・ランザーニ 
   演出:フランコ・ゼフィレッリ
    出演:ヴィットーリオ・グリゴーロ(ロドルフォ)、クリスティーヌ・オポライス(ミミ)、スザンナ・フィリップス(ムゼッタ)、 マッシモ・カヴァレッティ(マルチェッロ)、パトリック・カルフィッツィ(ショナール)、オレン・グラドゥス(コルリーネ)、ドナルド・マックスウェル(ブノア)
    ※開幕前に、ピーター・ゲルブ支配人が舞台に登場して、当初、ミミ役を歌う予定だったアニータ・ハーティッグが風邪のため降板となったので、前日、「蝶々夫人」を演じたにもかわらず、翌朝ショートノーティスで、クリスティーヌ・オポライスが代役を引き受けてくれた、METでは前代未聞の快挙だと紹介した。

   このあたりのKristine Opolais (クリスティーネ・オポライス)については、Musician Clippyが、次のように報じている。
   2014年4月5日、アニタ・ハーティグの代理として、わずか5時間半前の予告で、メトロポリタン歌劇場のマチネ公演でプッチーニの『ラ・ボエーム』にミミとして出演した。過去にウィーン国立歌劇場などで何度かこの役を演じていたが、現在は別のオペラ、プッチーニの『蝶々夫人』のタイトルロールを演じており、前夜にそこで初めて歌っていた。メトロポリタン歌劇場の2014/15年シーズンの公演でミミ役を再演した。メトロポリタン歌劇場での『蝶々夫人』の歌唱は好評を博した。
   私は、迂闊にも、このオポライスをよく知らなかったが、非常に素晴しい歌手で、魅力的なミミであった。

   私が最初に観た「ラ・ボエーム」の舞台は、1960年代のイタリアオペラの来日公演で、当時、パバロッティの「リゴレット」を観たり、バイロイトオペラの「トリスタンとイゾルデ」を観たりしてオペラに興味を持ち、その後、欧米での生活が長かったので、クラシックコンサートやオペラに通いつめていた。
   しかし、それも、2000年くらいまでで、帰国してからは、ニューヨークやミラノ・ロンドンなどへの海外紀行や外国劇団などの来日公演やMETライブビューイングなどの映画などの機会しかなく、このブログも2005年3月から始めているので、観劇記もぐっと少ない。

   ところで、この舞台で最大の見所は、やはり、フランコ・ゼフィレッリ演出の超豪華な往時のパリを再現した舞台であろう。
   METでは、1981年から現在もこの舞台セッティングで通していて、私は、2回観ているが、最初に観たときには、ビックリした。
   冒頭と終幕のボヘミアン達の屋根裏部屋や第3幕の雪が舞う居酒屋のある広場のシーンの情緒豊かな芸の細かい演出も魅力的だが、第2幕のカフェ・モミュスを舞台にしたクリスマスを祝う群衆で賑わう通りの派手さ豪華さには目を見張る。
   勿論、ゼフィレッリはオペラのみならず映画も監督しており、最初にパリの映画館でドミンゴとストラータスの「トラヴィアータ/椿姫」を観たときには、オペラ映画であったので、その美しさに感激した。
   

   ところで、最初にイタリアオペラの「ラ・ボエーム」を観て、殆ど記憶が残っていないのだが、唯一覚えているのは、第2幕のカフェ・モミュスの舞台に登場して派手な舞台を展開するムゼッタの歌う素晴しい「ムゼッタのワルツ」で、他の歌手の名前は覚えていないが、この歌手アントニエッタ・グリエルミだけは覚えている。
   さて今回歌ったのは、ザンナ・フィリップスSusanna Phillips。
   アメリカ・オペラ界の次代を担うひとりとして期待されるリリック・ソプラノ。高い技術、みずみずしい声、チャーミングでコケットリーな容姿で、急速にスターへの階段を上っている。ムゼッタ役はMETにデビューした役でもある十八番。と言う。
   

   さて、豪華な美しい舞台にも増して素晴しいのは、全編途切れること無く続くプッチーニ節の甘味で陶酔するような美しいサウンドの魅力、
   愛とはこんなに切なくも美しいものなのか、ボヘミアン達の必死の生き様を浮き彫りにしながら悲劇へと突き進む、
   これこそ、間違いなく、オペラの醍醐味を堪能させてくれる究極のオペラであろう。
 
   さて、ヴィットーリオ・グリゴーロ(ロドルフォ)だが、第2のパバロッティと言われた凄いイタリアのテノールで、文句なしに上手くて、今回連投のミミのオポライスを労りつつ素晴しい舞台を見せてくれた。
   しかし、日本公演での不都合で、METからもロイヤルオペラからも排斥されて、その後は、鳴かず飛ばず。
   私が好きだった名ソプラノのキャスリーン・バトルもMETから追放されたし、METの大指揮者ジェイムス・レヴァインも晩節を汚してしまった。
   プーチン支持を憚らない著名なロシア出身のソプラノ歌手アンナ・ネトレプコもまだMETに復帰出来ない。

   さて、ロシア選手のオリンピック参加も良く似た問題だと思うが、芸を失うことの寂しさを感じている。
   
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わが庭・・・紅梅・紅千鳥咲き始める

2023年02月15日 | わが庭の歳時記
   わが庭に植わっている3本の梅のうち、最後に咲いたのが遅咲きの一重の紅梅紅千鳥。
   八重の鹿児島紅梅よりは、少し小さい花だが、濃い紅色が気に入って、庭植えしたのである。
   
   

   白梅の南高梅も満開近くになったので、散り始めている鹿児島紅梅とが揃って、わが庭に彩りを添えている。
   
   
   
   

   まだ、日中には、日差しだけは長くなったが、10度を超えない日が多いので、春の気配は少ないのだが、花木の芽が動き始めてきている。
   気づかなかったのだが、沈丁花の花が数輪開きはじめて、地面から、クリスマスローズの蕾が顔を出している。
   椿は、これからがシーズンで、蕾が膨らんで色付き始めている。
   地面を触ってみると、ほんのりと温かい。
   温暖化の影響か、少し南によっている所為か、千葉とは違って、この鎌倉では、庭に氷が張るのを見たこともないし、霜が降りるのを見るのも稀である。
   
    
   
   
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何となく億劫な年中行事e-tax

2023年02月13日 | 
   年中行事の一つと言うべきか、会社を離れると、いくら収入が少なくても、毎年3月には、自ら、確定申告をしなければならない。
   確定申告をしなければ、どうなるのか調べたことがないので分からないが、義務だと思ってやっている。
   e-taxについては、既に、先月19日に、税務署からお知らせメールが送られてきており、申告開始は16日からのようだが、その前でも受け付けると言うことなので、大体毎年2月中旬にメール送信している。
   しかし、一年空けての入力で、それも、毎年遣り方などが変っているので、パソコンにはそれ程強くない後期高齢者にとっては、上手く打てるかどうか、季節が近づくと心配で億劫になるのである。

   e-taxが始まって随分経つが、最初からやっているので、もう15年くらいは続けていると思う。
   当初は、まだ、パソコンを自由に使いこなせる年齢であったのでそれ程造作はなかったのだが、この数年は、途中で行き詰まって、国税局のヘルプデスクに電話してお世話になっている。幸い、今年は、詰まり詰まりながらも、助け無しで伝送できたので、ホッとした。
   年金収入と社会保険料の支出しかなく、今回は、医療費は限度額以下であり、後は保険料くらいしかないので、記入は至ってシンプルなのだが、パソコンを上手く操作して、まず、申告記入様式に到達するかどうか、そして、申告内容確認書を作成して税務署へネット送信出来るのかどうか、それまでが厄介なので億劫になるのである。後で考えれば、何でもない単純な操作なのだが、ITデバイドの悲しさで、途中でトラブルと前に進めないので苦しむことになる。
   最近はスマホが主流のようだが、私は、慣れているパソコンで、カードリーダー使用のマイナンバーカード方式でやっているのだが、前年の遣り方は忘れてしまっているし、それに、毎年やり方が変化しているので、年に一度の操作では、老年にはきつい。

   問題は、何億も所得のある高額納税者も無税の貧窮者も10羽一絡げで同じシステムを運用していることで、我々のように年金暮らしで納税ボーダーラインの人間には、もっとシンプルなシステムを利用できないかと言うことである。マイナンバーカードを徹底して、全ての財産や会計情報など個人情報をを紐付きにすれば、自動的に収税できるのだろうが、日本では無理であろう。

   このe-taxシステムが、経済構造を変えている。
   e-taxの本来の業務の殆どは、申告者が納税関係資料を持って税務署を訪れて、税務署員が主導してやっていた税務署の仕事であったように思う。それまでは、毎年3月初から15日までが税務申告期間で、納税者は税務署へ詰めかけて税務署員と対面で申告手続きを行っていた。これらの全てが、e-taxでは、納税者が代わって行う生産消費者の責任仕事になって、税務署の仕事は、チェック業務に変化してしまった。
   先日書いたラナ・フォルーハーの「シャドーワーク(影の仕事)」と同じことで、下級の税理士や会計士の仕事の肩代わりであり、一寸ニュアンスが違うが、このe-taxがプロに外注されても高度な知識テクニックが不要で、経済構造の変化ともなる。このような行政の業務移管の生産消費者化かが進むと、下級のホワイトカラーの仕事が駆逐されて行くことになるのである。
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国立小劇場:2月文楽「心中天網島」

2023年02月11日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   久しぶりの文楽鑑賞で、今回は「心中天網島」、近松門左衛門の大作である。
   天満の紙屋の主人治兵衛と曽根崎新地の紀伊国屋の抱え遊女の小春が、網島の大長寺で心中する物語だが、これに、貞女の鑑とも言うべき女房おさんが絡む大坂女の義理人情の哀れさ悲しさを歌い上げた心に響くストーリー展開が、悲劇の奥深さを醸し出していて感動的である。
   

今回の舞台の主な配役は、次の通り。
   人形
   紙屋治兵衛  玉男
   粉屋孫右衛門 玉也
   江戸屋太兵衛 玉助
   紀の国屋小春 清十郎
   舅五左衛門  玉輝
   女房おさん  和生

   義太夫・三味線
   北新地河庄の段  睦太夫 勝平、千歳太夫 富千歳太夫 富助、助、
   天満紙屋内の段  希太夫 友之助、藤太夫 團七、
   大和屋の段    織太夫 燕三、(咲太夫病気休演)
   道行名残の橋づくし 芳穂太夫ほか、錦糸ほか

   舞台の前半は、「北新地河庄の段」
   紙屋治兵衛と小春は深い仲だったが治兵衛には財力がなく、商売仲間の太兵衛に小春が身請けされることになり、切羽詰まった2人は心中を約束。真相を知るために武士に変装して河庄にやって来た治兵衛の兄粉屋孫右衛門が小春に尋ねると、本当は死にたくないと言う。この心変わりは、治兵衛の妻・おさんからの手紙を読んでのことだと分かる。これを中途半端に外で立ち聞きしていた治兵衛が、裏切られたと思って逆上して小春を踏んだり蹴ったり、孫右衛門に諭されて小春と別れて帰る。

   後半は、「天満紙屋内の段」から終幕まで
   仕事が手につかず寝てばかりいる治兵衛の所へ、小春の身請話を聞いた孫右衛門とおさんの母がやってきたので、自分ではないと起請文を書いて安心させる。小春を思って泣き続ける治兵衛から、小春が自害すると聞いたおさんは、自分の夫の命乞いの手紙が原因だと悟り、死なせては義理が立たないと、治兵衛に、太兵衛に先んじて身請けさせようと、商売用の銀四百匁と子供や自分のありったけの着物を質入れ用に与えて、小春の支度金を準備させようとする。運悪く、そこへおさんの父五左衛門が店にやって来て、真実を知り、無理やり嫌がるおさんを離縁させて連れ帰る。
   万策尽きて望みを失った治兵衛は虚ろな心のままに新地へ小春に会いに行き、事情を話して再び心中を決心した二人は、夜陰に紛れて店を抜け出して、冥土の旅へと大長寺へ向かう。

    この「心中天網島」や改作の「天網島時雨炬燵」の文楽の舞台や、「河庄」などの歌舞伎の舞台について、何度もレビューしているので、今回は、シェイクスピアの「オセロ」のハンカチではないが、この芝居で、義理人情の要という重要な役割を果たしている「手紙」について、書いてみたい。
    この手紙については、歌舞伎では、舞台の冒頭で、治兵衛の妻おさんが、丁稚に、心中を諦めて夫の命を助けてくれと言う内容の手紙を持たせて小春に手渡すところから始まるのだが、文楽では、次の「天満紙屋内の段」で、切羽詰って、おさんが、この手紙のことを治兵衛に打ち明けて分かる。
   治兵衛が、小春の心変わりを責めた時に、おさんが、言うまいと心に誓っていたのだが、「女は相身互ひごと、切られぬところを思ひ切り、夫の命を頼む」と書いて出したら、「身にも命にも換へぬ大事の殿なれど引かれぬ義理合ひ思ひ切る」との返事を貰ったことを語る。先の「北新地河庄の段」で、小春が、起請文の束からポロリと落として、孫右衛門が事情を察するという伏線が明らかになったのである。

   もう一つ、大長寺での心中の今際の際に、小春は、
   「死に場はいづくも同じこととは言ひながら、私が道々思ふにも二人が死顔並べて、小春と紙屋治兵衛の心中と沙汰あらば、おさん様より頼みにて殺してくれるな殺すまい、挨拶切ると取り交はせし、その文を反故にし大事の男を唆しての心中は、さすが一座流れの勤めの者、義理知らず偽り者と世の人千人万人よりも、おさん様一人の蔑み、恨み妬見もさぞと思ひやり、未来の迷ひはこれ一つ」と口説き泣く。
   二人はせめてものおさんへの義理立てとして、出家と尼の姿になってこの世から縁を切り、死に場所も別々に、治兵衛は、小春に止めを刺し、もだえ苦しむ姿を後にして、切り離した小春の帯を鳥居にかけて首を吊る。しっかりと抱き合って冥土へ旅立った「曽根崎心中」のお初と徳兵衛とは違うのである。
   この当時の大長寺は、今の大阪市長公館のあるところあたりだと言うから、JR大阪城北詰で下りて、造幣局の桜の通り抜けへの途中にそばを通っている。

   ここからは、前のブログ記事から引用するが、
   この心中天網島では、最も重要なキャラクターのおさんだが、
   商家の内儀として店の切り盛りから一切を健気に勤め上げ、夫に対しては献身的な愛を捧げ、夫の愛人である小春に対しても優しい思いやりを示すなど人間として見上げた人物でありながら、運命の悪戯か、結局は、小春への思いやりと義理立てで自分の生きる場を失おうとする。
   小春を身請けしたらお前はどうなるのだと治兵衛に聞かれて、何も後先を考えていなかった自分に気づいて、「アツアさうぢや、ハテ何とせう子供の乳母か、飯炊きか、隠居なりともしませう」とわっと突っ伏して号泣するのである。
   それに、治兵衛が、炬燵で泣いているのを見て、苦衷に泣く切ない胸の内をかき口説く、「一昨年の十月中の亥の子に炬燵明けた祝儀とて、マアこれここで枕並べてこの方、女房の懐には鬼が住むか蛇が住むか。二年といふもの巣守にしてやうやう母様伯父様のお蔭で、睦まじい女夫らしい寝物語もせうものと楽しむ間もなく、ほんに酷いつれない。さほど心残りならば泣かしゃんせ泣かしゃんせ」と、しっかり者のおさんながらも、切羽詰って慟哭しながら女の奥深い心根を吐露ぜざるを得ない悲しさ哀れさ。
   女形遣いの最高峰の人間国宝和生が、愛情深い貞女の鑑おさんを、実に感動的に演じる。先の口説きのシーンなど、立ち居振る舞いに色香さえ感じさせて秀逸。

    一方、小春も、この浄瑠璃では、「心中よし、いきかたよし、床よしの小春殿」と言うことで、遊女としても理想的な姿で描かれているのだが、おさんの、女として同等に扱ってくれ信頼してくれている心に真心から応えて、同じように治兵衛を愛する心情に共感する思いを必死に生き抜こうとして心中を諦める。
   そうだからこそ、冥途への旅立ちで、小春のただ一つの心の迷いは、おさんと交わした約束を破ること。
   もう一人の女形人形遣いのエースである清十郎の遣う小春も、舞台で、美しくそして悲しく息づいていて胸に迫る。

   近松は、おさんと小春の生きざまを通して、悲しくも儚い、しかし、実に大きくて深い女心の深淵を描こうとしたのではないかと思っている。
   このあたりは、ある意味では、シェイクスピアを越えた戯曲作家としての近松門左衛門の真骨頂だと言う気がしている。
   
   さて、あかんやっちゃなあ、がしんたれで、救いようもどないしょうもない大坂男治兵衛を遣っているのが玉男、
   襲名披露公演では、改作の「天網島時雨炬燵」の治兵衛を遣っていて、私は、大阪と東京で二回観ており、玉女時代の舞台も観ているので、今回は、何度目かの治兵衛だが、玉男には骨太の豪快な立役の印象が強いので、優男でなよなよとしたがしんたれ男の人形は非常に新鮮であった。
   先代も好きなキャラクターだったと言っているので、玉男の舞台にも思い入れがあるのであろう。
   小春を失うのが悲しくてメソメソ泣くのをおさんに咎められて、小春への未練ではなくて、金がなくて、小春を身請け出来なかったと太兵衛に言いふらされ、面目潰れて生き恥かき男の意地が立たないのが口惜しいと強がりをほざく治兵衛、
   頭が、源太で、颯爽たる若いイケメンなので、一寸イメージが違うのだが、そんな治兵衛を、さすがに玉男で、実に上手く遣って魅せてくれる。

   詳細は省くが、義太夫・三味線は、千歳太夫 富助、藤太夫 團七、織太夫 燕三、をはじめ、名調子で素晴しいことは言うまでもない。
   
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PS:ジョセフ・ナイ「日本の戦略的責務 Japan’s Strategic Imperative」

2023年02月09日 | 政治・経済・社会時事評論
   プロジェクト・シンジケートのジョセフ・ナイ教授の「日本の戦略的責務 Japan’s Strategic Imperative」が、興味深い。
   中国、ロシア、北朝鮮による脅威に直面して、日本の自衛は、これまで以上に同盟の強さに依存している。 自国の防衛費を大幅に増やし、米国とのより緊密な軍事協力を追求することにより、現在の政府は正しい方向に進んでいる。
   昨年 12 月、岸田首相は、1954 年の自衛隊創設以来、日本で最も野心的な軍事力の拡大を発表した。日本の防衛費は、 1976 年以来GDPの1%であったのが2倍の 2% に増加する。この新たな国家安全保障戦略は、日本が今後自国を守るために使用するすべての外交、経済、技術、および軍事手段を提示している。と言うのである。

   最も注目すべきは、日本が以前に予言していた種類の長距離ミサイルを取得し、米国と協力して中国沖の「第一列島線」周辺の沿岸防衛を強化することである。 先月ワシントンで、岸田首相のG7諸国への外交訪問の後、バイデン大統領は、より緊密な防衛協力を約束した。 これらの変化を引き起こした要因には、台湾に対する中国の自己主張の強まり、特にロシアのウクライナ侵攻があり、これは新世代の軍事侵略がどのようなものかを見せつけた。

   ナイ教授は、この日本の軍事強化戦略についての内外の懸念や反対について、強固な日米同盟の存在こそが、これを払拭する手段だという。。
   米国が課した憲法が日本軍の役割を自衛に限定したり、 冷戦中、日本の安全保障は米国との協力に依存していたことなどで、第二次世界大戦後、軍国主義は日本国内で深く信用されなくなった。
   しかし、冷戦が終結したからといっても、日本は危険な地域に在り続けていた。 核とミサイル技術に国運をかけた北朝鮮の予測不可能な独裁政権があり、はるかに大きく長期的な懸念は、尖閣諸島に対する支配権を争っている世界第 2 位の経済大国となった中国の台頭であり、 北では、核武装したロシアが、1945年以前に日本に属していた領土を主張し、支配している。そして経済面では、日本は南シナ海のような紛争地域を通過する輸入に大きく依存している。 東アジアはライバル同士の完全な和解や確立された強力な地域機関から恩恵を受けることがなかったため、これらは永続的なリスク源である。

   このような状況に直面して、日本には、安全保障を確保するための 4 つの選択肢があった。
   憲法の平和主義を修正し、核保有国として完全に再武装することは、費用がかかり、危険であり、国内の支持を欠く、
   同時に、中立を求めて国連憲章に頼っても十分な安全保障は得られない、
   中国と同盟を結ぶことは中国の政策への影響力を大きく受けすぎる
    最後に、遠く離れた超大国アメリカとの同盟関係を維持すること、この提携が、最も安全で費用対効果の高い選択肢であった。

   問題は、有事にアメリカが日本を防衛してくれるのかどうか。
   日本人は、米国が孤立主義に向かうことを懸念している。中国がより強力になったときに米国がいつか日本を見捨てるのではないか、
   アメリカの保証の信頼性について疑問を持ち続けている。
   これに対するナイ教授の答えは、
   最善の安全保証は米軍の駐留であり、日本は寛大な支援によって維持を支援している。 1月に岸田とバイデンが発表した新しい措置は、この保証を強化し、トランプまたはトランプのような人物がホワイトハウスに戻った場合に再保険を提供するように設計されている。重要なことは、これらの措置は、日本の近隣諸国に、日本が再び侵略の味を覚えたのではないかと恐れる理由を与えないということである。 実際、日米同盟を強化することは、日本がそうならないようにする最善の方法である。

   アーミテージ・ナイ報告書で、「アジア太平洋全体でダイナミックな変化が起こっているため、日本がこの地域の運命を導く手助けをする同じ機会を得ることはおそらくないであろう。リーダーシップを選択することによって、日本はティア 1 国家としての地位と、 同盟における対等なパートナーとして必要な役割を確保することができる。」述べている。

   この文脈において、岸田首相の最近の行動は、正しい方向への適切なステップと見なすことができる。 より対等なパートナーシップを発展させ、共同安全保障の提供において他者と協力することには、大きな可能性がある。 そうすることは、米国にとっても、日本にとっても、そして世界にとっても良いことである。 最近の出来事は、日米同盟の将来と東アジアの安定性について楽観的な基礎となっている。
   以上が、ナイ教授の論文の概要である。

   日本の位置づけは、確固とした日米同盟を核としたG7主体の西側の自由民主主義陣営に属しており、中ロなど独裁政治体制専制国家陣営に対する存在だが、現在のグローバル体制には、これ以外に、一体化していないが個々に独立した強力な第3極とも言うべき新興国および発展途上国の国家群が存在する。
   現在、世界は、Gゼロの無極時代だという説もあるが、現実には、3極化している。この第3極は、自国の利害優先で、民主主義陣営と独裁陣営のどちらにも属さず、是々非々主義で独自に行動している。
   アジアにも、この第3極のG20メンバー国が存在するなど、国力を増してかなり影響力があって、利害が錯綜すると、自陣営に取り込み難くなり、国際問題の解決や秩序維持が難しくなることがある。
   次の図は、日経記事「そして3極に割れた世界 協調嫌がる「中立パワー」台頭」から借用した「3極化する世界の勢力図」だが、米主導の秩序が壊れつつあることが良く分かる。
   

   中国やロシアが、経済援助や情報工作、プロパガンダなどあらゆる手段を駆使して、グローバル・サウスなどのアフリカやアジアなどの発展途上国への進出や勢力拡大に腐心している。
   ナイ教授の説く如く、日米同盟の強化で安泰だとして、中国ロシアなど独裁政治陣営に有効に対処できるとしても、第3極との政治経済あるいは外交関係如何によっては、難題が待ち受けているかも知れない、と言う問題提起だけはしておきたい。
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PS: ケネス・ロゴフ「グローバル経済への楽観は早すぎるToo Soon for Global Optimism

2023年02月08日 | 政治・経済・社会時事評論
   プロジェクト・シンジケートのケネス・ロゴフ教授の論文「Too Soon for Global Optimism」

   ダボスで開催された今年の世界経済フォーラムの会議に出席した CEO 達が、歓喜ムードに包まれていたが、これらのビジネスリーダーの楽観主義と、ウクライナでの戦争によって引き起こされた短期的および長期的な経済の不確実性とを調和させることは困難である。ウクライナ戦争による不確定要素が多くて、グローバル経済の状況を考えれば、楽観ムードに酔いしれるのは早すぎる。と言うのである。

   確かに、中国が厳格な新型コロナウイルスゼロ戦略を180度転換したように、楽観主義の根拠はある。 過去 3 年間ロックダウン状態で過ごし、現在では数兆ドル相当の貯蓄を蓄積した消費者の鬱積した需要が爆発する「リベンジ支出」の巨大な波が到来する可能性がある。 中国の買い物客が成長を後押しし、原油価格を1バレル100ドルに押し戻すことができると期待して、このシナリオに、世界的な回復への期待が集まっている。
   ヨーロッパ人は、ヨーロッパ大陸の経済が2023年に不況に陥らないか、または少なくとも悪いものではないという自信過剰な予測に興奮している。イタリアでさえ、成長予測を上方修正しており、今年は 0.6% の成長を見込んでいる。 気候変動が、EUの最優先政策課題であることを考えると、地球温暖化が、多くのアナリストが予測していたガス不足と価格高騰から欧州を救ったように見えるのは皮肉である。

   しかし、これらの国がどのような経済成長を遂げるかは、ウクライナ戦争次第である。 終盤が見えない場合、戦争は世界経済を深刻に不安定化させ、短期的および長期的な混乱を引き起こす可能性がある。
   たとえば、プーチンが疲労困憊し、戦場で核兵器を使用するほど自暴自棄になったとした場合、すべての賭けはオフになり、世界的な株式市場の暴落はほぼ確実になる。 しかし、中国がどう反応するかは分からないが、 習近平がプーチンの核兵器使用を非難するものの、同時にロシアの石油と商品の購入を続けた場合、西側諸国はロシアの戦争を可能にしている国々、インドと中国に二次的な制裁を課さざるを得なくなる。
   今日の地政学的緊張の高まりによる長期的な成長への影響を定量化することは困難だが、IMFは、脱グローバル化が世界の GDP を 7% 縮小させる可能性があると推定している。 ネットゼロへの移行は、すでに非常に困難な課題だが、細分化された世界経済で達成するのははるかに困難である。
   一方、防衛費は、今後 10 年間で世界の GDP の少なくとも 1% 増加すると予測されているが、おそらくさらに増加する。 バイデンは、ウクライナをめぐって第三次世界大戦を開始しないと繰り返し述べてきたが、地域の核戦争と核テロリズムのリスクの高まりを無視したとしても、第二次冷戦ははるかに可能性が高く、グローバリゼーションの退行は、その利点である国際的な安定を脅かす。
  
   当然のことながら、ウクライナは、侵略前の国境を回復し、NATO が将来の安全を保証し、再建援助として数千億ドルを受け取り、プーチンと彼の仲間を戦争犯罪で告発したいと望んでいる。 彼らがプーチンの核の脅威に屈することはないであろうが、 しかし、ドイツがウクライナに近代的な戦車を提供することに消極的であったことは、一般に西側の指導者たちが、NATO がロシアと直接戦争をするという見通しに不安を感じていることを示唆している。
   西側諸国の計画は、少なくとも今のところ、ウクライナがその領土の一部を取り戻すのに十分な装備を供給すること 、または少なくとも行き詰まりを打開することである。 経済制裁は西側の戦略の重要な部分だが、制裁だけで戦争を終わらせることはできない。 制裁が政権転覆をもたらした唯一の場所は、1980 年代から 1990 年代初頭にかけての南アフリカだけで、当時、世界は南アフリカのアパルトヘイトに対して大部分が団結していたが、ウクライナ戦争ではそうではない。

   ロシアの侵略は、全世界に影響を与えるインフレの急上昇を引き起こした。 しかし、この時点で、エスカレーションは、消費者と市場がパニックになるため、短期的にはデフレ効果をもたらす可能性がある。 世界経済のバルカン化が不確実性を悪化させる可能性が高いため、長期的な成長見通しへの展望はくらい。
   プーチン政権が内から崩れて、後継者が平和を求める可能性は確かにあり得る。 ロシアが、ウクライナの再植民地化計画に固執し、最終的に事実上の中国の経済植民地になる可能性もある。 他にも多くの可能性があるが、ヨーロッパの平和への早期復帰はまだその1つではない。世界のビジネスリーダーはウクライナのことを忘れているかもしれないが、無視することはできない。 

   以上が、ロゴス教授の論点だが、ウクライナ戦争の現実を甘く見てはならない、この膠着状態が長く続くと、グロ-バル秩序や経済の不安定化は否めず、楽観ムードは、ずっと先の話だと言うことであろう。
   ポストコロナ、ポストウクライナ戦争によるグローバル経済のリバウンドは期待出来るとしても、もっと先の話、
   グローバリゼーションの後退とバルカン化によって分裂していく国際経済の縮小化にも多くを期待出来ない、と言うことでもあろうか。

   興味を持ったのは、私が何度も言及しているように、ロゴス教授も、プーチン政権の内部崩壊や、ロシアが中国の経済的従属国に成り下がる可能性を記していることである。
   It is certainly possible that Putin’s regime will implode and that whoever succeeds him will seek peace. It is also possible that Russia will stick to its plan of re-colonizing Ukraine and that it will eventually become a de facto Chinese economic colony.

   私は、色々な意味で、ロシアは、間違いなく偉大な国だと思っている。
   しかし、ウクライナ戦争によって、更なる国家衰退を加速させて行き、グローバル世界に埋没して行くような気がしている。
   偉大なロシア帝国や栄光のソ連の再興を目指したはずのウクライナへの侵攻が、逆に没落を加速する暴挙であることを、賢いロシア人に分からない筈がない、
   悪夢と言うべき歴史の皮肉である。

   
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NHK BS1:ロシアの頭脳が流出する

2023年02月06日 | 政治・経済・社会
   昨夜、NHK BS1スペシャル ロシアの頭脳が流出する 〜世界のIT産業は変わるのか〜を見た。

   ウクライナ侵攻をつづけるロシアの国内から次々と脱出しているのがITの技術者たちだ。プーチン大統領が動員令を出したことでその動きに拍車がかかかり、いまやその数は30万人ともいわれている。出ていく先は様々だ。アメリカ、ドイツ、そして東ヨーロッパの国々、世界的にも優秀といわれるロシアのIT頭脳の流出はどんな意味をもつのか、脱出していくIT技術者、企業、研究者などさまざまな角度の取材をもとに考えていく。
   と言う番組で、ロシアの高度なIT技術者達の民族大移動を活写していて凄まじい。

   TVで、まず最初に、ウクライナ戦争の勃発直後から危険を避けるために、多くのロシア人が、陸路でフィンランド国境から脱出する様子が放映されてから、頻繁にロシア人の国境越えが伝えられてきた。
   徴兵忌避だとか、危険回避のためだとかと言った面からの報道が主体であったが、この番組は、ロシアの頭脳流出と言う側面から捉えて、ロシア国家の真奥の脅威を抉り出したのである。

   ロシアのトップIT企業で働いていた高度なITエンジニア夫妻のアルメニアへの脱出、そして、好条件の職を得て、ジェネレーティブITのモデルやアルゴリズム開発する夢を実現したいのだ、もうロシアには戻らないと、イギリスへ旅立つ、
   ロシア人ヘッドハンターが、ロシア最高峰の大学でPhDを取ったITエンジニアを、アメリカのユニコーン企業に紹介、
   ロシア人IT技術者を一網打尽に抱き込んでITパークを立ち上げて国家上げてIT立国を目指すウズベキスタン、ect.
   1時間弱の番組だが、興味深いロシア人IT技術者の脱出と世界のその争奪戦を語っていて面白い。

   さて、私が問題にしたいのは、ウクライナ戦争勃発によって、国家の存続と威信を窮地に追い込み、ロシアの疲弊没落で、ロシアの経済が壊滅状態になり、悪くすれば、世界の孤児となり中国の従属国に成り下がると、悲観的に見ているのだが、
   更に、ロシアの宝とも言うべき最高峰の頭脳を失うという慚愧極まりない悲劇を引き起こしていることである。国家存亡の危機に直面しながら、墓穴を掘る愚挙に、一層拍車をかけているとしか思えないのである。
   この番組では、ITエンジニアにしか焦点が当てられてはいなかったが、先に報じられていたスポーツ選手達の脱出を筆頭にして、文化芸術は勿論、多くの学者や知識人など高度な知的頭脳の流出が起こっていることは間違いないので、ロシア国家の損出は筆舌に尽くしがたい。

   このロシアの頭脳流出について、留学中に経験した1972~3年頃のユダヤ人の国外脱出ストップの騒動を思い出した。
   フィラデルフィアのアカデミー・オブ・ミュージックでの、ムラビンスキー指揮のレニングラード・フィル演奏会のことである。
   ソ連が、在住のユダヤ人の専門家や医師など高度な技術や識見を持った人々のイスラエルへの出国を認めず出国ビザを発給しなかったので、在米のユダヤ人たちが激しく抗議活動を展開していた。演奏会当日、会場入り口で、ユダヤ人たちが抗議活動を行っていたが、会場に入ってみると、客席の真ん中から真っ二つにして半分は、完全に空席で、誰も座っていないのを見て、その異様さにびっくりした。半分の座席が空席のまま、最後まで演奏されて終わったのだが、アメリカでは、興行主の多くがユダヤ人なので、このようなことが出来たのであろう。

   これと比べて理解に苦しむのは、当時のユダヤ人知識層の頭脳流出よりもはるかにロシア国家にとって致命的なはずのITエンジニアを筆頭とした頭脳流出を、プーチン政権は国境閉鎖してでも、何故、ストップしないのかと言うことである。
   世界全体、そして、グローバル経済にとっては、知識情報の拡散であり、更なる成長発展のためには良いことかも知れないが、ロシアにとっては、深刻な悲劇である。
   初期の目的から極端に悪化した戦況に対処するために、更なる予備役募集や国家総動員法発令しようとする妨げになると考えているのであろうか。

   プーチン政権が、いくら強烈な情報統制や恐怖政治を敷いても、ベルリンの壁崩壊当時に、東側のインテリや知識人が、あらゆる報道手段を駆使して西側の情報や知識を得ていたように、知的水準の高いロシア国民は、デジタル革命の恩恵を受けて、ウクライナ戦争の悪とロシアの未来に明日がないことを百も承知している。役に立つ生き方をしたい、夢を叶えたいと言う必死の思いで、望郷の念冷めやらず、それでも、故国を捨てざるを得ないのである。
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白洲 正子・藤森武著「花日記 」

2023年02月05日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   1998/3/1 出版の白洲 正子著「花日記 」
   花は、生けてはじめて花に成る。花がなくてはいられない著者が、庭の花を中心に好きな器に生けた花の写真集。竹炭に生けたすみれ、大壷に溢れる夏はぜの紅葉など、品格の高い生け花と深みのある随筆を収める。と言うこの本。
   正式に花道を極めたわけでもなく、流派に属したこともない、強いていえば、お茶と同様、無手勝流で、花は好きで、お客様も多いので、その折々におもてなしの気持ちもあって、いけているだけだ。と言うことなのだが、写真家の藤森武さんと編集者がそれを見て、本人の意思には関係なく、撮影を始めたのだと言う。

   この本のいけ花作品の全ては、1942年(昭和17年)10月、白洲次郎・正子夫妻が当時の東京府南多摩郡鶴川村に購入した農家を改装した自宅である「武相荘」で撮影されたもので、正子が集めた器などに、季節毎に咲く花木や草花などの植物をいけている。戦況の悪化で、翌年5月に正式に転居して、水田と畑があったので自給自足の農民生活を始めた。と言うことで、ここで、白州正子の驚異的な作品の数々が生まれたのである。
   武蔵と相模の国境にあって、無愛想との掛詞で「武相荘(ぶあいそう)」と名付けられたと言うのが面白い。
   武相荘は、ビデオと写真くらいでしか見ていないが、2000坪あるという山の中の田舎の住居であるから、四季折々に変化する、多種多様な花木や草花に囲まれていて、いけばなの材料にはことかかず、大部分は野草か庭に咲いた花だけしか使っていないのだが、そのバリエーションの凄さが感動的でさえある。
   藤森武の写真が素晴しいので、そのものも芸術になっている。

   さて、花は野にあっても、生きているのに違いはないが、人間が摘んで、器に入れて、部屋に飾った時、花は本当の命を得る。自然の花は、いってみればモデルか素材にすぎず、いけてはじめて、「花に成る」のである。と言う正子の言葉は、非常に印象的だが、もう一つ、器の重視であり、
   花器に重きを置くのは、ほんとうのいけばなの在り方であって、日本の花道の伝統だと思う。花瓶を買う時に、この器には何の花が似合うかということを、まず第一に考える。はかない花の命は、しっかりした器を得て、はじめてそこに静と動、不易と流行の、完全な調和が生まれる。極端なことをいえば、器あっての花なのだ。と言う主張である。

   花をいける時に、花器が大いにものを言う、私の場合は、花器が師匠であった。器を見たときに、花の形は決まっている。高価なものである必要はなく、時には庭の竹や石や灰皿で間に合わせることもあり、宝物に成っているのは、何十年も使い古して素晴しい味になっていた堅田の佃煮屋に貰った大笊である。
   何となくいけている間に、花器に従っていければ、自然に形になることを自得した。花は器や調度が教えてくれるものだと思っている。好きだから、さまざまな骨董の器と付き合ってきたが、皆そばに置いて日常使っているものばかりで、骨董とも花とも、絶えず愉しみながら付き合っていて、次第に、己と骨董と花とが、時に共鳴しあうから、その瞬間を逃さずにいけてきただけなのである。と言う。

   また、正子は、いけばなは一種の総合芸術だと言っている。
   花は花だけで孤立するものではなく、周囲の環境と生活の中にとけこんで、はじめて生きるという意味である。と言うのである。

   話は飛躍するが、能や古寺散歩は私自身の趣味でもあり、早い段階から結構、白州正子の本を蔵書に取り込んで読み続けてきた。
   「私はいけばなを習ったことはない。しいて先生があるとすれば、昔から好きで集めた器の類いと、西川一草亭の編纂による「瓶史」と呼ぶ冊子かも知れない。」と言っているのだが、これだけ美しいいけばなをいけて開陳できるのは、生涯かけて、幅広く、そして、深く高度な文化芸術に触れて、幾多の研鑽によって培われてきた美意識や美学の進化蓄積あってのことであろうと思っている。
   専門の花道の視点から見れば、また、違った見方もあろうかも知れないが、私にとっては、非常に感銘深いいけばなの世界を見た思いであった。
   
   
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