熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

NHK:京都南座・顔見世大歌舞伎・・・封印切

2009年12月30日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   先日、NHK教育TVで、京都南座の恒例の顔見世公演を放映していたので見たのだが、大和往来恋飛脚の「封印切」は、正に、絶品であった。
   近松門左衛門が、淡路町の飛脚問屋亀屋の養子忠兵衛が、新町槌屋の遊女梅川に唆されて、蔵屋敷に届ける公金300両の封印を切って着服して、その金で梅川を身請けして、二人で逃げたと言う事件を題材にして、浄瑠璃「冥土の飛脚」を書いたのだが、その歌舞伎版の核心部分であるのが、この「封印切」の段。

   実話とは違って、梅川を張り合っている金持ちでどら息子の丹波屋八右衛門に、悪口雑言を浴びせられてその挑発に乗って、忠兵衛が、とうとう、公金である250両の封印を切ってしまい、その金で梅川を身請けはするものの、死罪を覚悟で逃亡せざるを得なくなる話になっている。
   苦界から抜け出したい一心で、気が短いが純情一徹の忠兵衛を唆して封印切りに追い詰めたので、梅川は、したかな女と言うことで評判が悪いようだが、恋しくて恋しくて、ひと時も忘れられない若い二人に仕立て上げて、「冥土の飛脚」と粋なタイトルをつけて、シェイクスピアの向こうを張った近松門左衛門の心意気が素晴らしいと思っている。
   尤も、オリジナルの文楽の話とは、歌舞伎の場合には大分違っていて、八右衛門を、本物の悪役に仕立て上げてしまっているところは、多少、大坂の情の世界から離れてしまって、奥行きを浅くしているように感じている。

   忠兵衛を藤十郎、梅川を秀太郎、八右衛門を仁左衛門と言う関西歌舞伎の重鎮が勤め、井筒屋おえんの玉三郎に左團次と言う東京歌舞伎のベテランが加わっての東西名優の競演と言う触れ込みの豪華な舞台で、非常に面白い。
   藤十郎と秀太郎の醸し出す上方和事のしっぽりとした情感の滲み出た舞台は、正に様式美溢れる近松門左衛門の世界そのものであるばかりではなく、現在感覚にもマッチした出来栄えで、それに、本来二枚目俳優の仁左衛門が、軽妙で洒脱な(?)な何とも言えないやくざな助演男優賞ばりの素晴らしい舞台を見せていて、実に楽しませてくれた。

   藤十郎は、実に若々しく、格好を付けたがるダンディな優男と言うべきか、一寸軽薄で煽られただけで徐々に激昂して切れて行く大坂の男を、実に、リアルに、現代タッチで演じており、さすがは、人間国宝・文化勲章である。
   梅川への迸るような愛を胸に秘めながら、世間への恥や男の意地に翻弄されてわれを忘れて奈落へ落ちて行く悲しい男の意気地を叩きつけた演技が秀逸で、その人生に込めた万感の思いが、最後の花道での玉三郎のおえんとの「近いうちに」と交す有り得ない別れの挨拶で頂点に達する。
   それに、名優を糾合しての座頭・藤十郎の力量が遺憾なく発揮された舞台でもあった。

   本来ならおえんの筈の秀太郎が、恋に身を焼く乙女のような梅川を、思った以上に初々しく演じているのには、新鮮な驚きを感じた。
   私は、秀太郎の若い頃の女形の舞台を知らないので、残念だと思っているのだが、近松の女がどうだったのか、素晴らしかっただろうと思って見ていたが、槌屋治右衛門に逆らって忠兵衛に身請けされたいと訴える健気さや、忠兵衛の説得で、浮世に未練を感じながらも心中を決心するあたりの心の襞の表現などほろりとさせて感動的である。

   仁左衛門のこの性格俳優的な悪役は、以前に、いがみの権太で、上方歌舞伎風の本物の舞台を見て感激していたので、その延長とも言うべき、根性はどこか捻じれているが根っからの悪ではなく、愛嬌のある憎めない爽やかな雰囲気が実に良く、緩急自在の煽りと嫌味の連発で、忠兵衛の苦衷をあぶり出し、徐々に激昂へと追い込んで行く呼吸の確かさなど、流石である。
   インタビューで、八右衛門の台詞は、あってないようなもので、私のオリジナルですと言っていたが、これこそ、仁左衛門の名優の名優たる所以で、元関西人の私には、正に納得である。
   仁左衛門の現代劇的な演技に対して、伝統と様式美を堅持していた藤十郎の演技が、実にうまく融合していたのには感心して見ていた。
   
   これらの上方歌舞伎の伝統を受け継ぐ名優に、玉三郎と左團次が、五分に構えての熱演は流石である。
   このNHKの放映舞台を真っ先に見たシーンは、玉三郎のおえんが、忠兵衛をコテンパンに扱下ろす八右衛門に対して痺れを切らして、「いんでくれ」と啖呵を切るところで、一声を風靡した孝玉時代の名優二人の、時代を経て新境地を開いた舞台にたまらなく魅力を感じたのだが、上方歌舞伎の筈の近松の世界に、玉三郎がどっぷりと浸かった素晴らしい舞台に接して、引き込まれてしまった。
   忠兵衛と梅川を離れに導いてしっぽりと語らせる場を設けたり、落ち行く忠兵衛を門口に立って静かに見送る姿など、この舞台の随所に滲み出るような愛情豊かな感動的なシーンが出てくるのだが、この歌舞伎の素晴らしさは、この助演女優賞ものの玉三郎のおえんあってのものだと感じている。
   背の高い玉三郎の、藤十郎に合わせての膝を屈めての品のある演技が爽やかである。

   槌屋治右衛門の左團次だが、梅川の身請けを八右衛門に頼まれて、その説得に井筒屋へ来るところからの登場だが、その存在感だけで十二分の価値がある。
   非常に抑えた正攻法の演技だが、起伏の激しい舞台に安定感を齎して気持ちが良い。

   私としては、殆ど関心を抱かなかったのだが、南座のこの顔見世だけは見たかったと、後で、後悔している。
   残した録画DVDだけでも、収穫かも知れない。

(追記)口絵写真は、NHKTV画面から。
   今年の大晦日は、毎年出かけていたベートーヴェン交響曲全曲演奏会は止めて、久しぶりに家族と紅白を楽しむことにした。来年は、ロリン・マゼールが振るようなので、出かけることになろうと思っている。
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大企業を元気にして投資を誘発しない限り日本の経済復興は有り得ない

2009年12月28日 | 政治・経済・社会
   鳩山内閣の新年度予算に対しては、賛否両論あって、その経済に与える影響について、大方のエコノミストは、日経報道によると、効果ありとポジティブに捉えていたが、私は、非常に疑問だと思っている。
   特に、子供手当てなどの家計を重視した鳴り物入りの補助金政策が、内需拡大効果があるとする政府見解だが、既に、ケインズ政策が有効に利かなくなって、乗数効果も加速度原理も逆スパイラル局面に入り縮小均衡への道を走り始めた日本において、更に、消費から退場して貯蓄に回る支出を増加させても、額面どおりの国民所得拡大効果など、期待できる筈がない。
   これが、これまで繰り返してきた私の持論であり、少なくとも、成熟国家日本経済に関しては、従来のGDP国民所得分析手法は、全く無益だと思っている。

   日本経済が、何故これほどまでに悪化してしまったのか。
   根本的な問題は、須らく、経済成長が止まってしまって、本来、投資に向かうべき筈だった膨大な貯蓄の蓄積が、活用されずに市場経済から退場してしまっているからで、35~40兆円と言われている需給ギャップの存在も、その一端であり、消費支出の拡大では埋められない日本経済の構造的な需要すなわち投資需要不足なのである。
   この需給ギャップを少しでも財政出動で埋め合わせれば、経済浮揚ないし押し上げ効果があるとするのが一般的な見解だが、今のような経済情勢であれば、いくら財政投入しても、投資を誘発する需要創造がない限り、今回の予算のように、国債発行額が税収を上回るような赤字財政蓄積の連続で、益々、日本経済を窮地に追い込むだけである。

   何故なら、膨大な財政赤字を解消したのは、古今東西歴史上においては、戦争か、超インフレかしかなく、あるいは、可能性として、高度な経済成長以外には、考えられないのであるが、
   既に、日本は、高度成長から見放された衰退国家に成り下がってしまっており、潜在成長力が精々2~3%にしか過ぎない現状では、いくら頑張ってみても、プライマリーバランスの達成はおろか、財政赤字からの脱却など考えられないのである。

   日経に、最近、日本の米国国債増加率が拡大して中国に近づきつつあると報道されていたが、日本の貯蓄や投資資金が、日本や米国の国債ばかりに向かうようでは、先が思いやられる。
   

   共産党など、企業の内部留保が厚くなって来たにも拘わらず、労働者への分配率が低下して賃金給与がダウンしているのが問題だとしているが、確かに、国民の可処分所得が減って消費需要が伸びないのが経済不況の一因かも知れないが、問題は、何故、このようになってしまったのかと言うことである。
   日本企業が、国際競争力を徐々に喪失して行き、かってのような成長も利益の実現も不可能となってしまって、分配率を高めることも、賃金給与水準を上げることも出来なくなってしまったからなのである。
   国民の給与水準をアップするためには、大企業を責めつけて「角を矯めて牛を殺す」愚を犯すのではなく、優良かつ世界に通用する大企業を育成強化して元気にし、利益基調を促進する以外に道はない筈なのである。

   韓国勢が、日立・GE連合を退けて、アブダビ原発を3兆6000億円で受注したと報じられている。
   日立、東芝、三菱重工など日本企業が技術と実績においてダントツの原発の入札で、何故、後塵を拝している韓国が勝利を収めたのか。官民一体の受注体制の効果はあったとしても、1割も安い提示価格だったと言う。
   東芝と米国WHが、発電設備を担当する斗山重工に、たった200億円で虎の子の技術供与をすると言うのであるから、日本の国際競争力の強化ないし国際入札戦略には、何か、根本的な大きな問題を抱えている筈なのである。

   日本経済が、再び、デフレ傾向が濃厚になったと心配されているが、経済成長が止まって不況に喘いでいる現状では、物価など上がる訳がない。
   何故なら、デフレは、最早金融現象ではなくなって、経済構造の変革そのものを体現しているからである。
   すなわち、新興国や発展途上国製品の価格破壊、IT革命による猛烈なグローバル・ベースでの生産性向上、強烈なユニクロ効果等々が猛威を振るえば、経済が疲弊して購買力と有効需要が激減した日本で、デフレが復活してデフレスパイラルに陥るのは当然なのである。

   誤解を避けるために、ユニクロ効果について付言する。
   イノベーション手法を駆使したビジネス・モデルの変換によるドラスチックな経営革新が、価格破壊と製品価値の創造によって快進撃を続けているのであり、企業経営においても、国民経済への貢献においても、文句なしに正しい経営姿勢ではあるのだが、残念ながら、日本経済、特に、ユニクロ関連ビジネスに付随する経済・企業環境が、全く、その動きに付いて行けなくて、振り回されて産業全体に齟齬を来たし、ジーンズ1本が、1000円をはるかに切ると言う驚異的な商業環境が現出されてしまっているのであるから、産業全体、ましてや、裾野の服飾関連中小企業などが生きて行ける筈がない。
   この傾向が、安全管理がぎりぎりかさえも疑わしい外食産業の価格破壊など、日本経済のあらゆるところに、広がり蔓延し始めていることこそ、正に日本経済が抱える問題なのである。

   結論を急ぐが、政府に金がなくなり、益々袖を振れなくなるのは必定で、この窮地を脱出するためには、日本の経済の屋台骨を支えて来た大企業に活力を与えて成長拡大を目指させて、日本経済を成長軌道に乗せる以外に道はない。
   今のように、法人所得税が世界一高くて(?)、労働法制が益々厳しくなって行き、大企業を締め付けるような傾向が増幅して来るのでは、歴史の針を逆行しているとしか思えない。
   早い話、利益を上げ企業価値を向上させる為には、最も適切な立地を考慮して、企業を海外へ脱出させれば良く、早晩、外人株主から要求が出てもおかしくない筈である。

   課題先進国日本の目指すべき方向は、極めて明確であり、少子高齢化、安全・安心社会の実現、地球環境の保全などであるならば、この分野に対する産業育成のために積極的に企業活動を支援して、創造的破壊を誘発するような投資環境を整えて、積極的に、需要を創造すると同時にグローバル・スタンダードを打ち立てることである。
   世界全体が同意すればなどと前提を置くような鳩山案では駄目で、日本自身が前進すれば良い。

   例えば、日本の家屋全体に太陽光発電パネルを設置するような積極的な財政・税制優遇措置を講ずるなど、抜本的な経済施策を打つことが肝要である。
   これには、例えば、小宮山試案の自立国債構想を実現すれば、眠っている膨大な老人たちが保有する金融資産が動き出し、イノベーション投資に動員されることになり、一石二鳥である。
   とにかく、行き場を失った日本の貯蓄を積極的に投資に回す経済環境を打ち立てることが先決で、最も起爆力と機動力を持っている優秀な日本の大企業を元気にする(ゾンビや崩壊企業は淘汰すべきは勿論必須)以外に、日本の明日はないと言うのが、私の今年最後の思いである。   
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年賀状をプリントアウトした

2009年12月27日 | 生活随想・趣味
   今日、年賀状を書いた。
   書いたというより、プリントしたと言った方が正確であろう。
   数年前から、デジカメ写真処理ソフトについていたサンプルから適当なデザインを選択して、その年に撮った写真の一枚をプリントして差し替えて文章を加えると言ったシンプルな方法だが、この簡便法のおかげでかなり助かっている。
   昔は、印刷に出したり、写真店に頼んだりしていたのだが、ワープロが出始めてからは、自分でプリントアウトして、年賀状を作ることにしており、パソコンで、表の住所のプリントアウトが出来るようになってからは、もっと、楽になった。

   ところが、それが、年に一度の仕事なので、失敗続きで、今年も、気付かずに、平成22年 元旦を、21年にしてしまったり、裏表を間違って印刷して駄目にしたり、パソコンからのプリントなので、瞬く間に、プリントアウトされるので、ロスが多くて困っている。
   尤も、5円の手数料を払えば、新しいはがきと交換してくれるので助かっているが、駄目だなあと、時には嫌悪感を感じている。
   
   家族の動静も含めて克明に近況を伝える年賀状もあれば、その人の一年が手に取るように分かる親切な年賀状もあって、本当は、丁寧に近況などを書いて新年の挨拶を贈るのが本来なのであろうが、私の場合、ものぐさの上に、出す相手によって中身を変えるべしと言う気持ちが強いので、この頃は、どうしても気が進まず、適当に考えて同じ文章で通している。
   それに、ペンで、添え書きをすべきだと思っているのだが、考え始めると前に進まないので、結局、プリントアウトしたままで出して、失礼を続けている。

   先日、NHKBS1で、スペインでは、殆どの人は、携帯でクリスマスの挨拶を送り、紙のクリスマス・カードを送るのは、たったの2%だと報道していたが、日本でも、若い人の中には、年賀状を出さない人がいると聞く。
   イギリスにいた時、イギリス人の家庭を訪れると、部屋に端から端まで、糸を張って、送られてきたクリスマス・カードを日本の運動会の万国旗のようにぶら下げて飾っていたが、そのカードも多種多様で、日本の年賀状以上の入れ込みようである。
   IT革命、パソコン全盛で、もう、そんな公序良俗とも言うべきクリスマス風景が消えてしまうのかもしれないと思うと感慨を覚えざるを得ない。

   ブラジルとアメリカにいた頃には、出す相手も少なかったので、個人的に、カードを買ってきて、自分で書いていたが、オランダとイギリス在住時は、会社関係が多かったので、秘書が全部手配をしてくれて、私は、サインさえすれば良かった。
   海外にいた時には、日本の友人知人たちには、クリスマス・カードと言うわけにも行かないと思って送らず、年賀状も失礼して、特別な人に対してだけ、絵葉書で新年の挨拶を贈った。
   まじめに、年賀状を毎年送っているのは、日本に居た以前と、帰って来てからである。

   私は、別に虚礼廃止主義者ではないし、年賀状は不必要だとも思っていないので、親しい友人知人などに送っているが、亡くなったり、移転などで住所が分からなくなったりして、年々、少しずつ年賀状の枚数が減ってきている。
   年に一度だが、年賀状が届くだけでも、その人が元気で暮らしていることが分かって嬉しいし、その動静がよく分かれば、もっと嬉しい。
   年賀状は、本と同じで、パソコンの年賀状や携帯の年賀状とは違ったヒューマン・タッチの温かさがあって、スペインの一過性の携帯メール挨拶とは違う値打ちがあるように思う。
   絵手紙タッチで絵を描き、毛筆書きで年賀状を送ってくれる友など、天然記念物だと思っているのだが、毎年、年賀状の発売と同時に書き始めて、600枚丁寧に一人一人挨拶文を変えて出すと言っていた友人が、目が悪くなって、年賀状を出せなくなったと嘆いていたが、人夫々で興味深い。

   郵便局は、25日までに出せと言うが、まだ、宛名書きのチェックがあるので、明日の夕方出すことになろうか。
   いつも出すのが遅いので、元日に着いているのかどうか心もとない。
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冬のガーデニングで考えたエコシステムの戯言

2009年12月26日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   年の瀬も押し詰まってきた所為でもないが、暖かくて良い天気だったので、庭に出て、今年最後の庭仕事を始めた。
   堆積した枯葉の処理をしたり雑草を抜いて綺麗に掃除するだけなのだが、剪定や植え替え、球根植え付けなど定期的な大きな仕事以外はやらずに、殆ど、自然状態に放置してあるので、結構、手間隙がかかって大変なのである。

   雑草と言っても、枯れ草や枯れ枝の処理が主な仕事なのだが、私の場合には、自然からもらったものは自然に返す主義であるから、枯れ草も枯れ枝も、小さく刻んで、地面に掘った穴に埋め戻して、上に土をかけて放置して置く。
   本当は、枯葉などに手を加えて堆肥を作るべきなのであろうが、うまく、埋め戻せば、土に馴染んで、そのまま土に返るので、特に不都合は感じていない。

   枯葉や枯れ草を取り除くと、下から、小さな木の芽が沢山現れて来た。
   よく見ると、万両とアオキの小さな苗が大半で、しっかり根付いたものからモヤシのようひょろ長く伸びた芽までいろいろだが、びっしりと群生しているものまであり、鳥が落とした種が芽生えたのであろうが、あまりの多さにびっくりである。
   それぞれ、ポットに植え替えれば、時間が経てば立派な苗木に育つのであろうが、とりあえず、そのまま放置して、春を待って、しばらく様子を見てからにしようと思っている。

   この万両とアオキは、明らかに吾が庭の木から鳥が落とした種が芽吹いたのであろうが、他に、ヤツデ、カクレミノ、ナンテン、ヤブラン、つわぶき、もっこく、それに、私の知らない木の苗までもが芽を出していて、他の庭から小鳥が持ち込んだ種も発芽している。
   自然に種が落ちて発芽しているのが椿で、植え替えても処理に困るので、そのまま放置して様子を見ることにした。

   ところで、宮脇昭先生によると、日本の自然の森では、シイ、タブ、カシなどの照葉樹などの巨木の下に、亜高木のヤブツバキ、モチノキ、シロダイ、ヤマモモなどが生え、その下に、低木のアオキ、ヤツデ、ヒサカキなどが生えるようだが、一般家庭の庭では、精々、亜高木がやっとであろう。
   この日本の森では、自然のエコシステムが完結していて、一切手入れが必要ないのだということである。
   確かに、このような木の下での雑草の管理は比較的楽で、私のように、落ち葉をかき集めて鋤き込めば肥料が程々でも青々と木が茂り花が咲く。

   こまめに手入れをしないと駄目になるのは、草花を植えている花壇の方で、頻繁に除草をして、病虫害を避けるために薬品散布を行い、肥料を与えないと、満足に花が咲かなくなる。
   この肥料の窒素リン酸カリが問題で、禁断の果実であるNPK人工肥料が、バクテリアやミミズが生み出した腐植を破壊して、土壌だけではなく国家の健康さえも損ねていると言うのであるから、美しい花を咲かせることが、文明文化的な営みなのかどうか分からなくなる。
   私自身は、肥料には、油粕や鶏糞、牛糞などの有機肥料を使うことを心がけているが、薬剤散布には、どうしても人工的な化学薬品を使わざるを得ないのが残念である。
   家を建てた時には、コンクリート片などが混じっていた貧しい庭土だったが、長年の手入れで、今日など、掘り起こしていると、ミミズが飛び出し、寝ぼけた冬眠中の蛙がのっそり歩き出したり、セミであろうか、蛹が出て来たりしたので、私の庭土は、今では、立派にエコシステムの仲間入りを果たしているのである。

   さて、問題は、人間が園芸品種として育てている植物が、果たして、植物にとって幸せなことかどうかと言うことである。
   人間が、手間隙かけて大切に育てているので、大抵の場合、最早、自然の中で、自活して生きて行けるかどうか疑問であり、自然環境が変われば、瞬時に適応能力を消失する。

   この問題のもっと切実なのは、動物の家畜化で、野生から家畜になって人間の生活と切っても切れない関係になった家畜が、幸せかどうかと言うことである。
   犬の場合には、野生の狼が極めて少数で、それに比べて人間と共同体同盟を結んだ犬は、その何千何万倍もの生命を維持しているのであるから幸せであろうが、食用に供される牛や鶏、特に、狭い小屋で身動きも取れずに餌を食わされて殺されて行く動物などは、個体数は文句なく野性よりは多いが幸せであろうか。
   尤も、馬鹿な人間が地球温暖化で北極海の海氷を消滅させてしまうのでホッキョクグマの運命は風前の灯火だし、アフリカのサバンナの野生動物だって、弱肉強食を生き抜くのは並大抵ではないであろうし、人間も動物も、平安無事に生きて行くのは大変なことなのである。

   話が変な方向にそれてしまったのだが、私の言いたかったのは、人間が、文明か文化か知らないが、自分勝手に、自然界の摂理であった地球の生命体系であるエコシステムを、手前勝手に無茶苦茶にしてしまって、地球上の生命体そのものを危機に追い込んでしまったのではないか、と言うことである。
   覆われていた雑草や枯葉を取り去ると、元気な木の芽が顔を出して、太陽に向かって伸びようと、必死になって次のチャンスを待っている、そんな健気な姿を見て、真冬のほんの束の間の気持ちの良い陽だまりで考えた私の戯言である。

   口絵写真は、私の庭仕事などには全く無頓着で、紫式部の枯れた実を啄ばんでいるメジロである。
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料理は食について文化が累積した知恵の体現

2009年12月25日 | 学問・文化・芸術
   このタイトルは、マイケル・ポーランの「雑食動物のジレンマ」で紹介されたロジンの言葉だが、人間が火を使うようになって調理を覚え、動物の肉と植物を消化し易くして、初期の人類が摂取するエネルギーの量を格段に拡大し、190万年前の原人の脳を劇的に大きくしたと言われ、文化を生むようになった。
   このことは、雑食性である人間ゆえに起こり得たことで、草を食べる牛やユーカリを食べるコアラなどの単食動物は、ひたすらに何も考えずに、良い食べ物と悪い食べ物とを区別するだけで良かったのだが、何でも食べられる人間には、何を食べれば良いのか、想像も付かないようなストレスと不安が伴ってきた。
   人間は、大体の区別は最小は感覚が手伝ってくれるが、それを記録して保つためには文化に頼らなければならない。
   タブー、儀礼、マナー、料理の伝統などの複雑な構造によって、正しい食のルールを体系化する必要があり、このことが文化の創造に直結したのである。

   この料理と言う食のルールが、例えば、生の魚はわさびと一緒に食べるとか、すぐに腐る肉料理には抗菌性のある強いスパイスを使うなどと言った知恵が加わり、正に、料理とは、食についての文化が累積した知恵を体現したものとなったのである。
   従って、ある文化がほかの文化の食を取り入れた時には、それに関連した料理法と知恵を一緒に取りいれなければ、病気などの原因になる。
   この洗練された人間の味覚ゆえに、地域社会独特の食の嗜好や調理・処理法が、食卓に人を呼び集めるだけではなく、地域の集団として社会を纏める役目を果たすので、国の食文化は、極めて安定していると言うことである。

   ところが、今、世界中で日本食が異常なブームとなっているが、初期には、コスモポリタン性のある鉄板焼き、今日では、寿司などと言った洗練されてはいるだろうが比較的ヘルシーで料理度が低い日本食が主体のようで、このことが、グローバル市場での外国人のアクセスを容易にしているのであろうか。
   私は、長い海外生活で、日本からのお客さんなどの接客で経験しているが、逆に、日本人の大半は、素晴らしいフランス料理があるなどと言って薦めても現地の食には馴染めず、日本食に拘る傾向が強かった。
   尤も、新しい食べ物を料理する時には、よく使うスパイスやソースを使うなどしてよく知っている調理法によって、新しい食材も馴染みやすくなり、摂取の緊張を和らげられるので、海外旅行には、必ず、小さな携帯醤油瓶を持ち歩いている人がいたが、正解であろう。

   ポーランの指摘で面白いのは、アメリカには、しっかりとした食文化が存在したことがないので、この人間と食との関係を管理する食文化の力が弱いので、いろいろな苦しみをもたらしていると言うことである。
   移民たちがそれぞれの国の調理法をアメリカの食卓に持ち込んで来たけれど、どれもアメリカの食文化を纏めるほど強くはならなかったために、いかにも雑食動物の不安を招き、悪徳企業やエセ医者に付け入る隙を与えるなど、奇想天外かつ奇天烈な食品神話が生まれるなどして、アメリカ人の食生活に混乱を来たしてきたと言うのである。
   
   科学的研究や新しい政府指針、あるいは医学の学位を持ったたった一人の変人が、全米の食生活を一夜にして変えてしまうとか、天地をひっくり返すような栄養学的流行がアメリカ全土で猛威をふるうとか、とにかく、このような食についての不安を煽り立てて人々を翻弄する傾向が強いと言うことである。
   そして、正にこの状況が、食品業界には好都合で、マーケティングにこれ努めて、既に栄養を十分に取っている人に更に食品を売れないので、高度に加工した新商品を導入するなど市場シェア合戦に明け暮れて、不安定な食によって繁栄し、それを悪化させ続けているのだと言う。

   アメリカの通説では、ある特定の美味しい食べ物は毒だと決め付ける(今は炭水化物、昔は脂肪)。しかし、食事をどのように取るのか、あるいは、食に対してどう考えるのかが、実は食べ物そのものと同じくらい大切だと言うことが分かっていないと言う。
   アメリカ人は、何世代にも亘って殆ど変わらない食生活を続け、味や伝統と言う古めかしい基準に頼って食べ物を選ぶ文化があり、栄養学やマーケティングより習慣や喜びを重んじて食事する文化があり、この方が、はるかに、食生活が健全であり、文化度が高いことを認識すべきだと言うのである。
   ポーランは、ワインをがぶ飲みしチーズをむさぼる国民が、心臓病も肥満の率も自分たちより何故低いのか、フレンチ・パラドックスとして、フランスの食文化を語っていて面白い。

   この料理は、食文化の知恵の集積だと言う考え方は、随分以前だが、ヨーロッパ在住中に、ミシュランの赤本を片手に、片っ端から、星のあるレストランを回ったので、その凄さを肝に銘じている。
   アメリカのファスト・フードに対する、ヨーロッパの歴史と伝統を体現したスロー・フードの途轍もない食文化の値打ちをである。
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マイケル・ポーラン著「雑食動物のジレンマ」(2)・・・オーガニックと地産地消

2009年12月24日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   アメリカでは、工業的農業が強い力を持つようになってから、その代替的な方法は、有機あるいはオーガニックと呼ばれている。
   有機と言う言葉は、19世紀の英国で、産業革命がもたらした社会の崩壊と原子論と、愛と協力と言うつながりが依然として存在する有機的社会との対比で生まれた表現で、有機は産業の正反対の概念であり、従って、農業では、機械ではなく自然であることを意味する。 
   人間には、バイオフォリア(生物への愛着)と言う遺伝子が組み込まれていて、自身がともに進化してきた動植物や景観に惹かれる性向があるので、緑したたる牧場や農場で生産された農産物に対しては、限りなく愛着を感じているので、有機は心地よい響きを持つ。

   しかし、現実には、オーガニックは、スーパーオーガニック(オーガニックを超えたもの)と言う工業的オーガニック食品が主流を占めていて、殆ど自然とは無縁の、例えば、牧場で牧草を食むことなく育てられた乳牛や鶏の肉でも、条件さえ満たして生産さえされていれば、オーガニック食品として認定されてスーパーで売られている。
   ウォルマートの世界制覇にも果敢に挑戦し、エクセレント・カンパニーとして経営学書を賑わせて快進撃を続けているオーガニック商品スーパーのホールフーズだが、実は、田園の物語を売っているのだと言う。自らが属する有機食品業界の工業化と、業界の基盤となってきた田園的な理想との調和を取れなくなっている。
   有機食品を買うことによって、消費者は、ユートピア的過去に戻ることを演じているのだと言うのだが、経営政策上、ホールフーズが食品業界のお決まりの地域流通システムを利用するために、小規模農家の支援が現実的ではなくなって、カリフォルニアの二大オーガニック巨大企業から、有機農産物を調達せざるを得ず、その製品が須らく工業的オーガニックだと言うのである。

   有機牛乳だが、何千頭ものホルスタイン牛が一本の草を目にすることもなく、毎日ドライロットと呼ばれる柵に閉じ込められて、穀物(有機認定済み)を与えられて、一日三回搾乳機につながれる。この牛乳の殆どに、超高温殺菌処理(栄養分を損じる高熱処理)がされて、遠隔地まで搬送されて消費される。
   オーガニック肥育場で育つオーガニックビーフや高果糖コーンシロップも勿論あり、オーガニックTVディナーなどは、多くの工業的オーガニック食品原料に、政府の有機食品の規定で許可されている合成添加物を加えて製造されており、著者ポーランは、ホールフーズ(手を加えない食品)が聞いて呆れるとまで言う。
   オーガニック・チキンでも、有機認定済みの飼料を与えられている以外は、工業製品化した鶏と全く変わらない育てられ方をしていると言うのであるから、有機として認定されている肥料や農薬など使って生産された野菜や果物はすべて有機食品であり、有機飼料で育てられた食肉などもすべて有機食品だと言うことであり、生産方法などは、一切関係ないと言うことであろうか。

   工業的有機農場は、カリフォルニアのほかの工業的農場と何ら変わっているようには見えず、同州の最大規模の有機農場は、この工業的農業をしている慣行栽培の巨大農場が運営していると言うことである。
   尤も、工業的規模での有機農業において、化学除草剤なしで雑草を駆除することなど難題があるのだが、製造業者は、政府レベルでの有機農業の基準制定に圧力をかけて、純粋にエコロジー的な農法を法制化するよりも、単に許可・非許可物資のリストづくりとしている。
   合成化学物質に限らず、どんな種類のものでも購入したものは投入してはならず、自然から取り去った分だけ自然に変換する――自然をモデルにした持続可能なシステムを謳う、オーガニックの理想の実現は、あまりにも難しいのである。

   ところで、そのような自然のエコシステムを、そのまま活用して農牧を営んでいるバージニアにポリフェス農場と言うのがあって、ポーランは、そこで体験農夫として働き、その詳細を克明にレポートしている。
   工業的大規模農業より、小規模農業の方が、生産性が高いことが立証されているのだが、この農家は、牧草農家と称して、牧草生産性に着目して、適切な時期に適切な数の反芻動物を利用することによって、牧草地は本来考えられているよりははるかに多くの量の草、ひいては、肉と牛乳を生産すると考えて実践している。
   この牧草農家は、肉や卵、牛乳、羊毛のために家畜を育てるが、それらを食物連鎖だとみなしており、この食物連鎖の要は草であり、草はすべての食物連鎖の原動力となる太陽エネルギーと家畜を結び付けるので、太陽農家とも呼べると言うのである。
   現在の牧草農法の原則は、毎日の光合成にあり、環境的な美徳だけではなく、食料を生産するために無料の太陽エネルギーを捕らえて、人間用の高い価値のエネルギーに転換すると言う健全な経済にあるとする。地球温暖化対策のみならず、持続可能な地球の維持と人類の生存のためには、自然のエコシステムの活用以外には有り得ないということであろうか。

   さて、このポリフェス農場で生産されている食物だが、飛び切り美味で素晴らしいので、遠くからでも難路を厭わず消費者たちが直接買いに来るということだが、あくまで、大規模にはならないので、地産地消である。
   多少は高いのだが、顧客の大半は普通の庶民である。
   農場主は、「今の社会では、水質汚染、抗生物質の耐性や、植物感染や、穀物に石油に水の助成金やらの、環境と納税者が払っている代償が隠されているから、安い食品は安く感じられるが、実際は高い。ここのは、全部の経費が入っているから高く見えるが一番安い食べ物なのだ。」と言う。
   政府が、大規模工業的農業ばかりを優遇する農政を布いており、小規模農業への締め付けを外せば、1ドルや2ドルは、単価がすぐに下がるとも言う。
   
   オーガニックへの動きが食品改革運動の口火を切り、更に、このようなエコシステムに根ざした地産地消が、オーガニックを超えた新しい経済体と農業の形を提示しているのであろう。
   地産地消農業は、否応なしにバラエティにとんだ多品種の食物を生産しなければならないので、食体系の大半の問題を引き起こしている単一栽培からも開放されて、持続可能な地球環境の保持にも役立つ。

   問題は、今日の文明社会。
   人間の食体系が工業的な生産ラインに従って厳密に管理され、安定性や機械化、予測性、互換性、規模の経済、を要求し、補助金、食物汚染や肥満などの食糧管理、環境基準など法体系等で雁字搦めで、それに、軍産複合体的な癒着が暗躍するのであるから、分かっていても、緑したたる牧場や農場で生まれるエコ食品の賞味は夢の夢。
   デンマークでは、スーパーの肉に二つのバーコードがあり、その第二のバーコードには、その動物が育った農場の写真や、遺伝子的特性、飼料、薬剤、処理日等が記されているが、アメリカのスーパーでも同じように、大規模畜産経営体の様子や飼料や投薬情報まで見せて透明性を義務付ければ、そんな肉を誰も買わないであろうと言うポーランの指摘が面白い。
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本離れと付録つき雑誌の台頭

2009年12月23日 | 生活随想・趣味
   最近、書店に、若い女性向き雑誌に始まった付録つきの雑誌が多く出始めている。
   店頭で見るだけで、買ったことも実際に中身を確認した訳ではないのだが、TV番組などで見た感じでは、女性好みのブランドもののこものが付いているようで、見ていて、雑誌の値段よりも、これらの付録の方が高いのではないかと思えるほど、品質もまずまずのようで、かなり魅力的に見える。

   何故、このような商品が付録として定着しているのかと言うことだが、ブランド品を売り物としている生産者が、ブランド普及のための宣伝広告費として原価割れであっても付録商品を提供して協力しているとしか考えられない。
   すなわち、雑誌社とブランド生産者の販売促進コラボレーションとも言うべき新販売戦略である。
   しかし、注意すべきなのは、ブランド品販売企業の方で、中国やヴェトナムなどで生産してコストを下げて生産できても、品質のみならず生産地表示などで、場合によっては、非常にブランド・イメージを貶めて、企業の命とも言うべきブランドそのものを毀損してしまうことである。
   このことは、沢山の中国人が、日本にやって来て、Made in Japanの表示の付いた電化製品やアウトレット商品を嬉々として買い漁って行くのは、中国で売られているブランド品や生産表示など贋物が多くて全く信用していないからで、このことからブランド・イメージが如何に大切かが良く分かる。

   また、ブランド品そのものが、1000円足らずで手に入るなどと言うことは、匠の技とクラフトマンの磨きぬかれた歴史と伝統、それに、プロの職人が手間隙かけて手塩にかけて作り上げられたブランド品のブランド品たる所以の冒涜でもあり、正に矛盾である。
   一頃のルイ・ヴィトンのように、徹底的に品薄にして、ファンが目の色を変えて争奪戦に奔走すると言った販売戦略の方が、はるかに、有効かつ適切なブランド、レピュテーション戦略ではなかろうか。
   一度、安物イメージが付いてブランド・イメージを毀損してしまえば、その回復は至難の技である。

   さて、雑誌社の方だが、早晩、この付録戦略が齟齬を来たすのは、昔から特大付録などで子供たちを掴んで来た学習雑誌が、次から次へと廃刊休刊に追い込まれているのと同じ運命を辿る筈で、また、新企画の販売戦術を考えざるを得ず、要するに、水車の鼠と同じ自転車操業の繰り返しとなろう。
   IT革命、インターネット全盛時代の今日、雑誌そのものが、斜陽産業の最たるもので、ロハで何処ででも手に入るR25でさえ、スタンドに残り、週間廃止となるのであるから、利用価値のある雑誌以外は残らない雑誌戦国時代の厳しさは、出版業界を根底から揺すぶっている。

   私の場合には、電車の中吊り広告で殆どで中身が分かってしまうような感じで、読めば必ず失望すると分かっているので、雑誌を手にすることは少ないのだが、週刊では、日経ビジネスやニューズウイークを別にすれば殆ど数分で手離れし、月刊雑誌でも、読みたい記事は、ホンの数編で、インターネットで、その部分だけ単品購入可能なら、その方が有難いと思っている。

   ところで、この付録つき雑誌と良く似た現象で、DVD付きオペラ雑誌が何種類か出版されている。
   付録付き雑誌とは違ってかなり高いので、多少趣味があり関心のある読者しか手に取らないと思うのだが、違った演出や違ったオペラ、あるいは、映画版とのカップリングで2枚組みとして売られている場合、単体で買うよりは、かなり安いし、綺麗な写真グラフを掲載した解説付きのブックレットもそれなりに意欲的である。
   しかし、この雑誌版オペラは、従来のオペラのDVDに多少解説部分を豪華にしてシリーズ形式にして販売し、コレクターを満足させる趣向のようだが、初心者ならいざ知らず、それ程、顧客を掘り起こせるとは思えない。
   
   私は、たまたま、良く行く古書店で、口絵写真のDVDブックの新本を見つけて、アンノンクールのモーツアルトを見たくて買ったのだが、可もなく不可もなく、それなりに楽しめた。
   やはり、オペラは、気に入ったDVDを一本釣りするのが良く、買い集めたビデオ、DVDや、NHK BShiやBS2で録画した番組が沢山ある所為もあって、特別面白いものが出ない限り触手が動かない。

   何か興味のある品物が、雑誌と言う形を借りて販売されていて、書店に行くと、何か新しい出会いがあると言うビジネス・モデルは、非常に新鮮で面白いと思うので、このような付録付き雑誌は、形を変え品を変えて、入れ替わり立ち代り現れてくると思うが、それも、出版界を豊かにし、趣味の輪を広げて行くのなら、素晴らしいことである。
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十二月大歌舞伎・・・三津五郎の「引窓」

2009年12月21日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   師走の木挽町の賑わいには、一寸した慌しさと独特の情緒が漂っているが、顔見世の京都南座の賑わいは、いかばかりであろうか。
   一張羅の晴れ着を着飾った着倒れの京都美人が見られるのも楽しみの一つであろうが、この招き看板の上がった賑わいの南座越しに、カラフルな店の並ぶ四条大通りのはるか向こうに、一力のベンガラ色の壁面と八坂神社の赤い門を臨む風景は、やはり、京都そのもので、いつ見ても懐かしさを感じるのだが、この風景も、もう、随分見ていない。

   さて、歌舞伎座の夜の部だが、私の好みに合った舞台は、竹田出雲他作の「双蝶々曲輪日記」の「引窓」で、何時観ても、義理人情に泣く人々の悲しくも美しい心の襞の裏表を感じて、何とも言えない感慨を覚える。
   通し狂言のこの「引窓」は、相撲と色町を絡めながらの色恋沙汰での殺人が、義理の兄弟の切っても切れない柵の悲しさをあぶり出し、その狂言回しを、実母であり義理の母である二人の母親が演じて、肉親の情愛をしみじみ感じさせてくれる佳作であると思っているのだが、4人の役者が揃うと異彩を放つ。

   贔屓筋のために殺人を犯した大関・濡髪長五郎(橋之助)が、里子に出されて分かれて棲んでいる実母お幸(右之助)に暇乞いに来るのだが、その日、このお幸が後妻に入った南方家の義理の息子・南与兵衛のちの南方十次兵衛(三津五郎)が、父親の跡を継いで代官となり意気揚々として帰ってくる。
   しかし、十次兵衛の初仕事が、この濡髪捕縛であることを知ったお幸と妻のお早(扇雀)が動転して、必死になって思いとどまらせようとするので、遂に、十次兵衛は、濡髪が家に来ていて、義理の兄弟であることを悟る。
   ここからが、この舞台の核心で、親子兄弟夫婦の間の肺腑を抉るような義理人情の疼きや葛藤が渦巻き観客の感動を呼ぶ。
   結局、捕縛を覚悟した濡髪が、別れを惜しみながら花道から逃亡へ走り去るところで幕となるのだが、二転三転するお幸・濡髪親子の心の軌跡が、哀れさを増す。

   初手柄を立てて面目を施したい濡髪捕縛に、何やかやと抵抗する義母・妻の態度に不審を抱きながら、濡髪の人相書きを、爪に火を灯す思いで溜め込んだ小銭を差し出して、売ってくれと拝む義母を見て、真実を悟る十次兵衛の心情が、実に哀れで、胸を締め付ける。
   親子として何不自由なく暮らしていた筈の十次兵衛の心の中に、実子でない義理の息子としての悲しさが、隙間風のように流れ込む一瞬である。
   「なぜあなたはものをお隠しなさいます。私はあなたの子ではありませんか。」と言って腰の大小を抜いて前に差し出し、「丸腰なれば今までの南与兵衛。お望みならればあげましょう。」と人相書きを渡す。濡髪を逃がす決心をしたのである。

   お幸にしてみれば、分け隔てしているつもりはないのだが、幼い時に手放して何の世話も出来なかった薄幸の吾が子への罪の意識が鬱積していて、理屈抜きで愛しく可愛い。
   子供可愛さに心の闇に迷い込むのだが、濡髪に、「子故に逃がしたとなれば亡夫に義理が立たない筈」と諭されて、引窓の紐を引っ張って濡髪を縛り上げて、「濡髪の長五郎を生け捕ったり。十次兵衛はいやらぬか。生け捕って手柄に召され。」と叫ぶ。
   最後には、十次兵衛の温情に甘えて、一日でも二日でも、とにかく生き延びてくれと濡髪を放つのだが、この芝居では、私は、このお幸が、十次兵衛と並んで主役だと思っている。
   このお幸を演じる重厚な役者の演技に、いつも感心しているのだが、今回の右之助も、実に感動的な立ち居振る舞いで非常に上手いと思って観ていた。

   勿論、この「引窓」の立役者は、十次兵衛を演じた三津五郎である。
   決定版とも言うべき吉右衛門の重厚で骨太の十次兵衛像とは、一寸異質だが、品格と言い、優しさ温かさを滲ませた人情味豊かな味わいと言い、三津五郎でなければ出せないような人間美豊かな十次兵衛像が、息づいていて非常に感激した。

   濡髪の橋之助は、癖のない非常にストレートで穏やかな演技に徹しており、私は、「大坂・堀江の角力場」とは違って、このような前に突出しない演技の方が良かったと思っている。
   扇雀のお早だが、ちょこまかした軽妙なタッチが実に良い。元遊女の色町の風情と色気、それに、まだ板についていない堅気の若女房としての初々しさなど、達者に演じていて面白かった。

   さて、野田版「鼠小僧」だが、勘三郎などの器用な俳優たちが、舞台狭しと、ギャグ、パロディ、アイロニーなどコミック・タッチのシーン連発の舞台を、精力的にこなしていて、それなりに面白いのだが、私には、良く分からない世界の芝居で、殆ど馴染めなかった。  
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生活の場から地球温暖化問題の解決を

2009年12月20日 | 地球温暖化・環境問題
   コペンハーゲンでのCOP15においても、期待されたような地球温暖化に対する抜本的な方針決定に達することは出来ずに、政治合意を了承するに止まった。
   先進国は来年1月末を期限に、20年までの温暖化ガス排出削減の中期目標を提示し、新興・途上国は経済発展の段階に応じて削減行動計画を作成することになったのだが、私は、世界全体を巻き込んだポスト京都の枠組みつくりなどは、永遠の夢だと感じている。
   グローバル・ベースでの有効な地球温暖化対策の合意などは、世界連邦が実現した時には可能であろうが、この問題については、煮え蛙状態となって、帰らざる川に差し掛かって、初めてその深刻さに人類が気づくのではないかと思っている。

   ところで、地球温暖化に対する日本の取り組みだが、企業サイドからの温暖化ガス削減対策ばかりが、クローズアップされているような感じがしている。
   一般的に言われているように、日本のものづくりの現場における省エネおよび地球温暖化ガス削減技術とその能力は、グローバル水準からすれば、はるかに高水準にあって、これ以上更に削減効率をアップするためには、例えば、セメントなどは限界に達しており、膨大な努力とコストを要し、このことが、鳩山30%削減案の高コスト問題の危惧に繋がっているように思う。

   この口絵写真の円グラフは、小宮山宏前東大総長の講演からの借用だが、日本のエネルギー消費量の分野別構成図だが、化学・鉄鋼などのものづくりが30.6%、家庭・オフイス・旅客・貨物などの日々の暮らしが39.1%、発電などのエネルギー変換が30.3%で、ほぼ3等分されていて、地球温暖化対策の問題点は、むしろ、ものづくりよりも、日々の暮らしの方にあるような気がするのである。
   以前にこのブログでも触れたが、小宮山ハウスは、ヒートポンプや太陽発電・断熱などの省エネ住宅に建て替えて、車をプリウスに乗り換え、エコ家電に切り替えるなどして、エネルギー消費量を80%削減した実績を持ち、個人の日々の暮らしを変えることによって、非常に効果的な地球温暖化対策が推進できることを証明している。
   家庭部門のエネルギー消費量の割合では、冷暖房用が28%、給湯用が30%で過半を占め、オフィスでは冷暖房用が50%以上を占めていると言う。
   この分野での省エネを進め、自動車関連の省エネを推進すれば、日々の暮らしでのエネルギー消費量は非常に削減できて、地球温暖化ガス削減に絶大な効果を成す筈である。

   小宮山先生は、30%削減案に対して、その削減可能割合を、チーム小宮山案として提示しているが、住宅/オフィスで6%、輸送で6%の合計で日々の暮らしの分野で12%としており、他に、発電・送電で5%、森林で4%、CDMで5%などとしていて、ものづくりは、たったの3%がぎりぎりだと言うのである。
   ここことからも、日々の暮らし分野での、温室効果ガス削減効果が如何に有効かと言うことが分かる。
   
   結論から行くと、オール日本で、小宮山エコハウス構想を、大々的に発展推進することを国是とすることである。
   問題は、今、実施されており、かつ計画段階にある省エネ商品に対する補助金やエコポイント制度を、もっと充実させて、国民が積極的に、その分野への投資や消費への支出を拡大できるようにインセンティブを与えることである。
   エコハウスを目指すにも、現在まだ、太陽電池など再生エネルギー関連技術の未成熟のために、コストが高いので、逡巡している国民が多いので、もっともっと積極的に国民の背中を押して、清水の舞台から飛び降りる決心が出来るような補助など、サポートをすることである。
   下手な公共投資より、民間企業のイノベーションの誘発に資するばかりではなく、このカモネギ公共支出の方が、はるかに需要創出効果が高いはずである。
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遅ればせながらチューリップを植える

2009年12月19日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   気持ちの良い天気で、ガーデニング日和だったので、近くの園芸店へ出かけて、秋植え球根を買って来て、植えつけた。
   買った球根の大半は、チューリップだったが、これも、オランダの思い出が影響しているのかも知れないが、しかし、春咲きの球根植物で、一番劣化の激しいのは、チューリップだからと言うこともある。
   他の球根は、花後そのままに放置していても、翌年、大体咲くのだが、チューリップだけは、小さな球根が残るだけで、殆ど咲かないのである。

   人様は、秋植え球根は、10月頃から植え付けるのであろうが、大体どんなことでも、土壇場まで動かない私のようなナマクラ人間は、ぎりぎりになってからでないと、アクションが取れないので、毎年、球根植えは、年末ぎりぎりになってしまう。
   これまでの経験から、急がなくても、そんなに遅れずに、春になったら花は咲いてくれるのである。
   
   遅くて幸いするのは、売れ残りの球根が、処分価格で提供されることで、私など、結構高価格だが、新種や珍種のチューリップや、ユリやヒヤシンスなどの巨大な球根と言った普通では手を伸ばし難いものを意識して買って植えるので、二重に楽しめると言う段取りである。
   オランダに生活していた時には、毎年のように、チューリップ公園として有名なキューケンホフや、その周りのリセのチューリップ畑を訪れては、写真を撮って楽しんでいたのだが、あまりにも多種多様なチューリップがあるのを見て驚嘆しきりで、子供の頃に描いた赤白黄色のチューリップのイメージから卒業してからは、新種のチューリップに興味を持つようになった。
   もう、15年以上もオランダには行っていないので、随分、多くの新しいチューリップが生まれ出ているであろうが、バラのように、青いチューリップが生まれているのであろうか。

   チューリップは、トルコの砂漠地帯が原産地のようだが、原種は、ミニ・シクラメンのように小さくて、花も2~3センチの大きさで貧弱だが可愛いいところが良い。
   このチューリップが、オランダに渡って品種改良されて、大きさも形も色も様変わりとなり、一時期、新種に熱狂した人々が投機に走って、オランダ中をバブルの嵐に巻き込んだと言うのだから、花の国オランダ人にとっては、たかがチューリップでは済まないのである。

   オランダでのチューリップ風景を楽しむためには、やはり、花が咲き誇っているリセのチューリップ畑に出かけて、畑の真ん中に立って、360度花に囲まれて極彩色のチューリップに埋没することである。
   ところが、この畑は、球根畑であるから、花が咲きそろうと数日で花だけちょん切られて、一挙に緑の畑に戻ってしまうので、ほんの数日のタイミングをずらすと、極彩色の虹のように美しい帯状のモンドリアンの絵の世界は楽しめない。
   先に記したチューリップは翌年咲かないと言うのは、我々の庭では、花びらが落ちるまでチューリップを植えっぱなしにして楽しんでいるので、球根が肥大しないと言うことである。

   ところで、私の今日の作業だが、庭を掘り起こすと、昨年からほったらかしにしている春咲き球根を痛める心配があるので、今回は、主に、プランター植えにして、春の草花の開花状態を見てから、庭に移植することにした。
   幸いと言うべきか、トマトを植えていたプランターが、そのまま残っているので、ここがナマクラのナマクラたる所以なのだが、少し、土を綺麗にして、肥料を混ぜ込んで、これらのプランターに植えることにした。
   球根草花は、元々、球根に花を咲かせる栄養とエネルギーを蓄えているのだから、水さえあれば花が咲く筈なので、一石二鳥だと考えたのである。
   チューリップも、ヒヤシンスも、スイセンも、既に、青い小さな芽を出しているのもあり、庭に植えてある球根と同じような状態なので、4月には、花が咲くであろうと高をくくっている。

   昨夜は寒くて、霜柱が立っていたので、みずやりは、明日の朝早くの方が良さそうなので止めたが、早咲きする為に、秋に冷蔵庫に入れて開花を促進すると言うから、気にしなくても良いのかも知れない。
   
   ついでに、鉢植えにしていたユリの球根を植え替えることにした。
   やはり、最後まで、茎がしっかりして青い葉がついていた苗は、大きく肥大した球根を付けていたが、開花後早々に葉が枯れた苗には、球根が消えてなくなっていた。
   庭植えのユリは、掘り起こさずに、地面に出ている茎だけ切り落として、そのまま放置して置くことにした。
   何処からユリが出て、何処からクロッカスが咲くのか、スイセンは何処に咲くのであろうか。まじめなガーデニング愛好家には顰蹙を買うような私の庭管理なのだが、それでも、春になるとそれなりに春の風情を現出してくれるのだから、捨てたものではないと、勝手に思っている。

(追記)写真は、佐倉市の風車のあるチューリップ公園。
   
   
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東尋坊での孤独な自殺防止活動・・・ニューヨーク・タイムズ

2009年12月18日 | 政治・経済・社会
   ニューヨーク・タイムズの電子版を開けたら、トップに躍り出たのが、東尋坊の断崖の上に立つ孤独な初老の日本人の姿。
   タイトルは、「At Japanese Cliffs, a Campaign to Combat Suicide」。元警察官のシゲ・ユキオさん(65歳)が、多くの日本人が、東尋坊の断崖絶壁から真っ青な海に飛び込んで自殺するのに見て見ぬ振りをする当局の態度に怒りを覚えて、ボランティアとして、自殺しようとする人々に語りかけて、自殺を思いとどまらせる孤独な活動を行っていると言う記事である。
   マーチン・ファクナー氏の記事なので、米国人の目から見た日本の世相などを活写していて、非常に興味深く読んだ。

   鳩山首相も、所信表明演説で、自殺者の増加について言及したが、2003年には、自殺者が、34,427人、1日あたり95人と言う高率に達し、特に、今回の大不況によって、更に増加を続けている。
   自殺に対して、アメリカのように深刻な社会の病根と言う理解ではなく、日本では、封建時代の侍の切腹に似て、ロマンテックと言うか名誉ある死として比較的深刻に考えることなく、個人の問題だと世間も冷たいのだが、この冷淡さが、社会の英雄である筈のシゲさんの、この人道的なボランティア活動に対して、むしろ、でしゃばりだと非難されているのだと紹介している。
   地元の反発は強く、特に、地元の観光協会などは、商売の邪魔だと憤慨していると言う。
   シゲさんは、「日本では、出る釘は叩かれると言う諺がある。地元当局の態度に腹を立ててパトロールを始めた。政府が、この仕事を肩代わりしてくれるまで続けるつもりである。何もしなければ、大切な命が失われ続けるのに耐えられないのだ。」と言う。

   シゲさんと協力者たち77人が、これまでに、222人の命を救ったと言う。
   1日に、2~3回パトロールするのだが、観光客は、旗を持ったガイドに先導されて、この名所東尋坊を団体で訪れるが、自殺者は、殆どが男性のようだが、一人で来て断崖の上で座っているので、すぐ分かる。
   そんな孤独な自殺願望者を見つけると、近づいて行って静かに語りかけるのだが、すぐに涙を流して、自分の話を聞いてくれる人がいることを知って自殺をあきらめる。
   拓銀や山一が崩壊した1998年以降、失職などによる生活苦が、自殺の大半のようで、ゆうに、アメリカの3倍で、日本は名だたる自殺大国だと言うのだが、失職など生活苦などを語ることがタブー視される日本では、親族や友人にも、この苦しさを語れないのだと言うのである。
   アメリカでは、自殺撲滅には、草の根運動をするが、日本では、政府のタイクケアを待つのだと、防衛医大の高橋教授が説明している。

   さて、この口絵写真(ニューヨーク・タイムズから借用)の公衆電話だが、地元市当局が、断崖絶壁の外灯の下に設えた二つの電話の一つで、絶望した人たちが最後にすがるべき電話番号(局番なし113、012-444-112)が書いてあり、沢山の10円玉コインが置いてあると言う。
   棚に落書きがしてあり、その一つが、「よーく考えてみさっしゃい!」
   市当局と地元警察は、140人が助かったと言うのだが、その年に、シゲさんたちが助けた54人は除外していると言う。

   身に詰まされるのは、42年のキャリアを持つ警官の話で、悲惨な自殺者の死体の姿のみならず、自殺に来た老夫婦に、金を与えて隣町までの切符を渡して分かれ、夫婦から手紙を受け取ったが、隣県で自殺する前に書いた手紙だったと言う話である。

   日本経済の先行きは、まだ見えず、切ることばかりに熱心で、経済政策の遅れや迷走振りが目だつ鳩山政権だが、政権交代とその手腕に期待した国民の多くが、この年の瀬を越せないかもしれないと言う。
   ミシュランのJAPAN版に、東尋坊が、どのように書かれているか知らないが、アメリカ人観光客が、増えるか増えないか、複雑な気持ちである。

(追記)翌日、コペンハーゲンのCOP15関連の記事を見ていたら、注目人気記事一覧のトップに、この東尋坊の記事がランクされていた。
   因みに、COP15参加国の動向一覧掲載欄には、JAPANのJの記載さえなく、日本で世界の注目を集めていると喧伝されている鳩山案など、完全に無視されているのである。
   これが、世界の実情だと言うことを理解しておかないと、益々、日本は孤立して行く。
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商業雑感~今に生きるおばさんたちの行商

2009年12月16日 | 経営・ビジネス
   京成電鉄の臼井駅を8時14分に発つ上野行き普通列車の最後尾は、行商専用列車となっている。
   駅には、荷揚げ台となる特性の大きなベンチなどもあって、8時前から、おばさんたちが、大きな籠や段ボール箱に青果野菜を詰めた荷物を持って集まり、ホームに積み上げている。
   60代の後半からそれ以上と思える老婦人たちの集団で、思い思いに重たい大きな荷物を、やや屈み腰で持ち上げて車両に乗り込むのだが、慣れている所為とは言え、大変な仕事である。
   この臼井駅は、長島茂雄監督の実家から数百メートルの所に位置するので、若い頃の監督も、おばさん専用の特別指定席のある行商列車を見ていただろうと思う。

   何処まで行くのか聞いてみたら、一人の老婦人が、千住大橋だと答えてくれた。
   それ以上聞くことに気が引けたので、これからは私の推測話であるが、京成線の青砥から日暮里くらいにかけての、まだ古い東京の雰囲気の残る下町に、昔からお馴染みの得意先の住宅があって、野菜の行商に回っているのだと思う。
   老婦人たちは、専業の行商の人もいるかも知れないが、佐倉在住の農家の人たちが、自分たちで栽培したり、他の農家などで作った野菜などを集めて、行商に出ているような気がしている。
   最近、野菜の値段が高くなったと言っても、高島屋に並んでいるメロンやマンゴーではないので、いくら沢山荷物を持っても、数万円、いや、恐らく、万を超えるとは思えないので、専業ならペイする筈がないのである。

   IT革命の時代となって、世の中も、商業のビジネス・モデルも様変わりとなり、コンビニが宅配する時代であるし、スーパーや安売り店との競争などで勝ち目があるとは思えないのに、何故、行商が成り立っているのか不思議に思えてならない。
   生産者がはっきり分かるトレイサビリティの確保された新鮮で旬の野菜が、労せずして、自宅にいながら調達できると言うことは、消費者にとっては、大変なメリットであり、更に、いつも通ってくるおばさんが、顧客のニーズを察知し適当に見繕って野菜を持って来てくれる、痒いところに手が届くサービスをしてくれるのなら申し分はないであろう。
   このおばさんたちの行商には、昔ながらのヒューマンタッチの、商売本来の最も大切なスピリットが息づいているのである。

   一寸、これとは違った大企業の商売で疑問に思った点を記してみたい。
   (1)近くのイトーヨーカドーが閉店したので、使わなくなったIYカードをキャンセルしようと思って電話を架けたら、最初から最後まで音声電話で、それに従って電話のボタンをプッシュするだけで終わってしまった。
   手続きが完了したのかどうか、ハサミでカードを切って廃却しろと聞こえたので、終わったのであろう。
   ヒューマン・タッチのサービスあってこそのスーパーが、ITを業務合理化に使って客との縁切りをする無味乾燥の味気なさ。ビューカードを二つ持っていたので、一つキャンセルした時には、電話の向こうで、女性担当者が、丁寧に応対して処理してくれた。
   (2)もう一つ、IT関連だが、お歳暮で商品を送ろうと思ったら、代行であろうか、松坂屋のネット・ページに接続されたので注文を入れた。
   ネットだから早い筈だが、1週間経っても音沙汰ないので、ネットページで発送状況を調べたら、まだ未発送の表示。電話したら、2日前に送って昨日ついているはずだと言う。
   ネット表示と違うと指摘したら表示遅れだと言う。
   この体たらく。ネットを何の為に使っているのか、黒猫ヤマトを見習えと言いたいし、ロジスティックと言うか配送の遅さ拙さも際立っている。
   (3)これもスーパーの話。不足したのでやむを得ず、ジャスコで、グリーティング・カードを探したのだが、殆どが、クリスマス・カードで、Merry Christmasと書いたのばかりで、Seasons GreetingsかHoliday Greetingsのカードを見つけるのに苦労をした。
   八百万の神を崇め、年始には、宗旨などお構いなしに神社仏閣を梯子する日本人であるから、宗教に無神経であるのは仕方がないが、欧米人は、全てキリスト教徒で、メリークリスマスと書いたカードを送るべしと言う錯覚。普通、相手の宗教を聞くのも失礼だしその機会も少なく、ユダヤ教など異教徒が結構多いのである。
   私は、欧米人に対しても、総てSeasons Greetingsカードで通している。それに、彼らからも、メリークリスマスと表示したカードなど受け取った記憶もない。
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ビル・ブライソン著「シェイクスピアについて僕らが知りえたすべてのこと」

2009年12月15日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   シェイクスピアの顔を描いたと言われている肖像画が、たった三つしかないのだが、それらも本物かどうかも怪しいと言う書き出しで、世界中の人々が良く知っている筈のシェイクスピアについては、実際のところ、十分な記録が残っていないので、殆ど分かっていない、分かっているのは、これだけしかないと言うことで、知りえた事実を繋ぎ合わせて、シェイクスピア像を描きあげているのが、この本「Shakespeare: The World as Stage」である。
   ブライソンの博学多識は勿論この本の豊かさについては疑いもなく、その上に、シェイクスピアの権威小田島雄志先生のご子息恒志・則子御夫妻の非常に懇切丁寧な翻訳なので、非常に分かり易いし、面白くない筈がなく、知らず知らずの内にシェイクスピアの通になったような気になるから不思議である。
   小田島雄志訳のテキストを小脇に抱えて、実際のシェイクスピアの戯曲鑑賞三昧に耽ることが出来れば申し分がないと思っている。

   さて、私が常々興味を持っているのは、当時の戯曲作家の多くが、オックスブリッジで学んだインテリであったにも拘わらず、シェイクスピアは、地元ストラトフォード・アポン・エイヴォンのグラマー・スクール(古典文法学校)しか出ていないのに、何故、どうして、古今東西並ぶ者のない大戯曲作家に成り得たのか。どこで、そのような知識教養を得たのかと言う、シェイクスピア成功の秘密である。

   ところで、シェイクスピアが学んだキングズ・ニュー・スクールだが、読み書きさえ出来れば男の子ならどんなに成績が悪くても入学できたようだが、珍しいほどレベルが高く、校長の給料はイートン校の校長より高く、当時着任した3人の教員は、すべてオックスフォード卒だったと言う。
   ベン・ジョンソンが、「ラテン語を少しとギリシャ語はもっと少し」と悪口を言っているが、朝から晩までラテン語の読み書き暗誦と言った厳しい教育を受けていたので、シェイクスピアのラテン語力は大変なもので、大抵の修辞的技法、例えば比喩、前句反復、結句反復、誇張法、代喩、隔語反復、そのほか同じような手の込んだ言葉の妙技は、すっかり身に付けていたようで、当時のグラマー・スクールの生徒は、今日の古典の学位を持っている大学出より上だとも言われている。
   しかし、シェイクスピアの学んだのは精々そこまでで、数学や歴史や地理など、幅広い他分野の知識や情報を得たのはここではないとブライソンは言う。

   ロンドンに出かけたシェイクスピアが、セント・ポールの敷地内に天国を見つけた。
   寺院の広場や墓地は、印刷屋や書籍商の屋台で埋め尽くされていて、すでに印刷技術が発展普及していたので、贅沢品だが、多少収入に余裕があれば誰でも本が買える時代になり、普通の人でも教養や高度な知識を自由に手に入れることが出来た。
   エリザベス朝時代に出版された本のタイトルは7千以上にものぼり、目新しい趣向で聴衆を楽しませようと当代の劇作家たちが芝居に取り入れたり、焼きなおしたり、いかなる形でも利用できる芝居の素材がたっぷりここには揃っていた訳で、天分と読み書きの才に恵まれたシェイクスピアが、この雑踏に足を踏み入れてスポンジのように戯曲のネタを吸収したのであろう。

   もう一つのシェイクスピアのショートカット術は、盗作である。
   エリザベス時代の劇作家にとって、他の作家の戯曲の筋や登場人物などはみんなの共有財産であって、シェイクスピアは、物語の筋でも会話でも名前でも題名でも、自分の目的に合うものは何でも平気で盗み取る名人であり、自作オリジナルだと考えられている作品は、「夏の夜の夢」「恋の骨折り損」「テンペスト」くらいで、他の作品には夫々別の先行作品があって、シェイクスピアが名作に仕上げたと言うことであろうか。

   しかし、それにしても、シェイクスピアの作品には、専門家顔負けと言った感じの沢山の学者や弁護士などのプロ、それに、国王や大臣など為政者等々数え切れない程雑多で多くの人物が登場し、天文学者や植物学者と紛うばかりの博識で含蓄のある素晴らしい台詞を散りばめるなど、常人ではなし得ないような天才のデパートとも言うべき才能を随所に発揮している。
   イタリアをテーマにした作品が多く、イタリア語には堪能だったようで、薬学、法律、軍事、自然史などには強い関心を持っていたようだが、しかし、その他の点では、シェイクスピアの知識教養はかなりいい加減で、場所錯誤、時代錯誤が結構多いようで、このあたりは、私でもシェイクスピアの誤りを指摘できるほどだが、ブライソンは、もっと本を読んで完璧な知識を持っていたら、ただのひけらかし屋になっていて、シェイクスピアらしくならなかったであろうと言っている。

   面白いのは、シェイクスピアが天才だとうたわれた所以は、知識に溢れているからではなく、野心や策謀や愛や苦しみなど、学校では習わなかったことを盛り込んでいるからで、彼には素材を融合させて、あれやこれや異質な断片的力をつなぎあわせる力はあったが、その戯曲には確固たる出典に基づく知的応用力は感じられず、ジョンソンの作品のように一語一句から学識が沸々と湧き上がるような魅力はなかったと言う指摘である。
   このあたりが、オックスブリッジ卒の同僚劇作家との差であろうか。

   しかし、シェイクスピアは、2035語の新語を作り出し、次から次へと新しい単語や意味を生み出し、もっと特筆すべき才能は、新しいフレーズを生み出したことであると言う。
   とにかく、洪水のように新しい表現が溢れ出て来て、それがシェイクスピアの戯曲を豊かにしており、オックスフォード引用語辞典の中の10分の1はシェイクスピアが作ったものだと言う。
   英語が生誕地で最高の地位に上り詰め、今や、最高の国際語になったのだから、シェイクスピアの英語に対する貢献は計り知れないと言うことである。

   まだ、私の疑問は解けずに残っているが、大分、シェイクスピアの秘密に近づいたような気がしている。
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国立劇場十二月文楽公演・・・盛綱陣屋と八百屋お七

2009年12月14日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の国立劇場の文楽は、大坂冬の陣を舞台にして、敵味方に分かれた真田昌幸と真田幸村兄弟の悲劇を主題にした「近江源氏先陣館」と八百屋お七の「伊達娘恋緋鹿子」であったが、この年末真冬の東京の公演には、恒例で国宝級の大夫たち三業の出演はなく、次代を背負うスター選手以下のスタッフで演じられている。
   前者では、やはり、「盛綱陣屋の段」がメインで、桐竹勘十郎が盛綱、その母微妙を和生、和田兵衛秀盛を玉女が遣い、浄瑠璃と三味線は、前が千歳大夫と清ニ郎、後が文字久大夫と錦糸で、非常に迫力のある気合の入った舞台を展開しており、楽しませてくれた。

   昔の武士の世界では、天下の体制がどちらに転んでも、子孫が生き長らえられるように、子供たちを敵味方両方に割り振って仕官させる場合が多く、この場合も、大坂方と家康側に別れて戦った兄弟の悲劇がテーマで、幼い子供が犠牲となる。
   あの菅原伝授手習鑑の松王と梅王・桜王の物語も、敵味方に分かれた兄弟の悲劇が描かれているが、義理人情と血を分けた兄弟の思いが錯綜して、物語や芝居には格好のテーマである。
   この文楽では、敵を欺くために、子供に言い聞かせて、囮として生け捕りにされ、自分の偽首が届いたら切腹せよと言い含めて送り込まれた子供の物語が重要なサブテーマなのだが、その切腹話を狂言回しで展開する祖母微妙の心の疼きやその起伏など、盛綱より、こちらの方が主題だと思えるほど良く出来た物語だと思って見ていた。

   勘十郎の威厳と風格を備えた盛綱、玉女の豪快な荒武者和田、孫に切腹を迫らなければならない苦渋の祖母微妙を遣った和夫など実に感動的で、それに、はつらつとしてパンチの利いた浄瑠璃と三味線の冴えなど、今、芸に一番油の乗ったベテランの芸術家たちの躍動感溢れる舞台であった。

   これは、経営戦略論でも有効で、スライウォツキーの「ダブル・ベッディング論」の二股戦略などその典型であろう。
   例えば、ソニーの場合には、一世を風靡したウォークマンを、アップルがiPodを開発した時に、その方面にも経営資源を振り向けて、平行状態で技術開発戦略を打つなどダブル・ベッディングして置くべきだったのに、それをミスったためにアップルに負けてしまったと言った類である。
   同じことは、はるかに技術水準の高かった筈のプレイステーションが、任天堂のWiiにコテンパンにやられているにも、このダブル・ベッディング戦略の失敗である。
   昔、中央アジアの小国などでは、絶えず強国の蹂躙や戦争で滅ぼされる危機的状態にあったのだが、たとえ男どもが皆殺しにあっても、女さえ残っておれば、血が繋がると考えていたと言うのを、何かの本で読んだのだが、無性に複雑な気持ちになったことを覚えている。

   新鮮な感慨を覚えたは、後半の「伊達娘恋緋鹿子」の方だが、お七を遣った清十郎が実に上手い。
   私が知った最初の八百屋お七は、自分たちの家が焼けて近くの寺に避難していたお七が、寺小姓に恋をして、会いたいばっかりに、家が焼ければ寺に行って会えると思って自家に火をつけたと言う実話に近い話であった。
   もう何十年も前になるが、英国からのお客さんの接待で、京都の柊屋に宿泊した時に、省略版のミニ日本古典芸能ショーの切符をもらって出かけたのだが、その時の人形浄瑠璃の場が、このお七が火の見櫓の梯子を上るシーンで、初めて見た文楽の世界であったので、赤い衣装が鮮明に脳裏に残っている。
   
   この江戸に起きた絶世の美女お七を真っ先に取り上げて「好色五人女」を書いたのが井原西鶴で、ここでは、まだ、お七の自家放火の話が残っているのだが、今回の「伊達娘恋緋鹿子」では、歌舞伎の舞台同様に、お七が放火するのではなく、暮六つで閉まる木戸を開けて貰うために、火の見櫓に駆け上がって禁止されている鐘を打って火あぶりの刑に処せられるのである。
   天国の剣を、恋しい吉三郎に届けなければ切腹せざるを得なくなるので、それを届けたい一心で、火刑覚悟で、火の見櫓に登って鐘を叩き、閉まってしまった木戸を開けさせて、吉三郎へ向かって突進すると言う話になっているのである。
   いくら絶世の美女と天下を騒がせても、所詮は16歳の幼い乙女。お上は15歳なら許すと温情を示したが、16歳だと言い張って火炙りになったと言うのが如何にも哀れだが、後の話では、その幼い一途の思いが、一寸知恵の回った女になってしまって、物語としては面白いが、感慨を欠く。

   歌舞伎の場合には、火の見櫓の梯子は、下手側の側面にあるのだが、文楽では、正面に梯子があって、人形遣いが背後に回って人形を遣うので、あたかも人形が梯子に張り付いて登って行く姿が、実にリアルで美しく演じられており、非常に感激する。
   このシーンでは、人形遣いの姿が全く見えないので、人形が自力で生きているように梯子を上って行く感じで、やはり、生身の役者が演じる歌舞伎とは違った文楽の良さである。
   このシーンも勿論だが、最初の物思いに沈んだお七から徐々に変身して行く恋する乙女の表情を、実にいききと遣い続ける清十郎の芸の冴えは特筆すべきで、今、一番脂の乗り切った女形人形遣いであると思う。
   歌舞伎の場合には、この火の見櫓の場は、お七が人形振りで、ぎこちなくギクシャクした格好で演じられるのだが、実際には、人形の動きは、実に真に迫って生き生きしているのである。
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時事雑感・・・鳩山政治の危うさ(2)財政政策

2009年12月11日 | 政治・経済・社会
   先に論じた安保問題については、会談を打診したら、日米合意実現に向かっての進展なければ、日米トップ会談は時間の無駄だとオバマ政権に一蹴された鳩山首相。
   一方、この危機的な時期に、何の目的があってか知らないが、鳴り物入りで、議員140人を含めた600人の大軍団を引き連れて北京入りして権力を誇示した小沢幹事長。
   国際社会で名誉ある地位を占めたいと言う日本の外交の稚拙さここに極まれりと言った感じがして仕方がないのだが、新しい年の波乱含みの政治経済の暗雲が漂い始めたと言うべきであろうか。

   さて、鳩山政権にとって、内政面で、極めて深刻な問題は、経済問題。
   国民新党の亀井代表の圧力で暗礁に乗り上げていた補正予算は、一応7兆2千億円で決着がついたが、来年度の本予算編成をどうするのか、はるかに困難な問題を、早急に解決しなければならない。
   問題は、かって50兆円以上あった税収が、経済不況の影響をもろに受けて、36.1兆円と大幅ダウンした上に、国債発行を44兆円に抑えようとするのであるから、概算要求95兆円には、はるかに足らない。
   これに追い討ちをかけて、未曾有の経済不況から脱却するためには、思い切って、大規模な財政出動が必要だと、連立にぶら下がってトラの威を借りた亀井代表が吼え捲くっている。

   このような日本の経済情勢に対する最善の処方箋とは、いったい何なのかと言うことだが、大切な点は、今、日本経済が、どのような状態にあるのかと言う正しい認識が必須だと言うことである。
   Japan as No.1と賞賛されて破竹の勢いで成長街道を驀進してきた日本経済は、最早、夢の夢の彼方に去ってしまい、成熟したものの、バブル崩壊後の20年近い不況の中で、成長からは見放されて、殆ど老衰に近い状態に疲弊してしまって、恐ろしいまでに活力を失ってしまっていると言う現状認識である。

   まず、今、鳩山政権が直面している予算編成に対する財政拡大政策が、有効かどうかと言う問題だが、最早、活力を失った成熟した経済においては、従来のケインズ政策が、殆ど働かなくなっていると言うことを理解しなければならない。
   現在、需給ギャップが、35兆ないし40兆円あると言われているのだが、このギャップは、構造的な需給ギャップであって、従来の財政出動によるケインズ政策では、焼け石に水で、景気浮揚効果は殆どなく、財政規律の悪化のみならず、日本の経済を根底から崩し去る危険があると考えるべきである。

   現在、国債発行額が600兆円に達し、政府の借金は816兆円だと言われているが、財政赤字が問題になり始めてからも増加の一途を辿って、減るどころか、その増勢を益々強めており、唯一の解消策である経済成長とインフレからも見放されて、最近では、識者の間でも、国債の大暴落まで囁かれ始めている。
   国債保有は日本国内だけと言うことなら、正に、花見酒の経済で、このままでは、平成(?)徳政令を布く以外になくなるかも知れない。
   経済活力を喪失して疲弊し、国際競争力が落ち続けている日本経済では、このまま手を拱いているだけでは、誰がどう考えても、国債の減少などは実現不可能だからである。

   さて、何故、亀井代表がごり押ししている従来型の財政出動が、額面どおりに有効ではないかと言うことだが、欲しいものがないと言われるほど需要が落ち込んでしまった上に、将来不安で年金まで貯金に回さざるを得ない現状では、実需に結び付かない財政支出は、相当部分が市場から退場してしまって国民経済から脱落してしまう。
   現在、日本には住宅が6000万戸あるが、実際に住んでいるのは5000万戸であり、また、自動車が7000万台あって国民の2人に1台行き渡っていると言う飽和状態の現状に輪をかけて、人口が減少傾向にあり、高齢化がどんどん進んで行く現状では、需要創造などは考えられる筈もなく、どうして、単純な財政出動で、需要拡大効果を発揮して経済が始動し浮揚するなどと言えるのであろうか。
   乗数効果や加速度原理は、むしろ、マイナス方向に働いて、益々、経済を縮小均衡に導いて行くだけである。

   経済成長の要因は、極めて単純明快で、国民所得論で説く如く、貯蓄より投資支出を多くすること以外に方法はないと言うことである。
   現在の日本のように、市場から退場した国民の貯蓄と言うか金融資産が1500兆円もあって、その殆どが実需拡大には縁のない老人が持っていて、多くが国債に回っていると言う。
   ガルブレイスが逝く直前に、この膨大な金融資産を活性化すれば、日本経済は浮揚すると提言していたのだが、この経済活動から脱落して、経済成長を促進する投資に回って行かない貯蓄を如何に起動させるかが、日本経済の将来を占う試金石だと言うことであろう。

   従来型のケインズ政策が有効なのは、国民の欲しい欲しい現象が充満している新興国や発展途上国、そして、少なくとも活力と成長余力の残っているアメリカ程度で、成熟した老衰経済では、一時的なカンフル注射に過ぎなくて、赤字国債など借金で賄うならば、経済力を疲弊させるだけである。
   何よりも、日本のバブル後の経済状況が、その事実を如実に物語っている。
   リチャード・クーが、バランスシート不況論を展開して、日本の膨大な財政出動がバブル崩壊後の日本経済を支えたと絶賛しているが、これは、極端な落ち込みを支えただけで、その結果、日本経済の活力を殺ぎ膨大な財政赤字塗れにして窮地に追い込んでしまったことについては全く頬被りを決め込んでいる。

   それでは、財政支出に効果がないかと言うと、そんなことはない。
   有効な例は、エコカー補助金や省エネ家電などへのエコポイント制度で、政府の補助支出がそのまま実需に直結して、さらに国民の同時支出を伴って需要を追加創出すると言うカモネギ効果を発揮しており非常に効果的で、同時に、地球温暖化対策にも役立ち、その分野でのイノベーションを加速すると言う一石数鳥の働きをしている。
   今回、さらに、省エネ住宅へのエコポイント制度の実施など補助支出を考えているようだが、このように、財政支出が、需要を創造すると同時にそのまま実需にも直結して、更に、日本経済の持つ課題を解決して行くような政策の実施は大いに期待できる分野であろう。
   
   榊原英資教授など、大きな政府を標榜する民主党なのだから、恐れずに国債を増発して景気対策を行うべきだと言っている。
   財政規律の問題に言及せずの発言であるから無責任の謗りは免れないと思うが、問題は、何に使うかで、日本の科学技術の向上によるイノベーションを誘発する創造的かつ建設的な投資や、環境や資源確保など日本の抱える課題解決型の支出と言った前向きの財政支出でなければならない。

   小沢幹事長主導かつ亀井代表型の従来型の財政支出、公共投資の増加ないしその継続路線が踏襲されるのなら、明日の日本の姿は、はっきりと見えていると言うべきであろう。
   更に付言すれば、民主党には、確固たる明確な経済成長戦略がないことが、致命的である。
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