熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

初春の上海・江南紀行(10)上海:豫園および豫園商城

2017年01月31日 | 初春の上海・江南紀行
   前に上海に来た時には、真っ先に、豫園を訪れた。
   何よりも、中国の古い庭園を見たかったからである。
   豫園は、明代に造られた江南を代表する古式庭園である。
   ウイキペディアによると四川布政使の役人であった潘允端が、刑部尚書だった父の潘恩のために贈った庭園で、1559年(嘉靖38年)から1577年(万暦5年)の18年の歳月を費やし造営された。完成した時には父は没していたといわれる。清代初頭、潘氏が衰えると荒廃するが、1760年(乾隆25年)、上海の有力者たちにより再建され、豫園は南に隣接する上海城隍廟の廟園となり「西園」と改称された。当時は現在の2倍の広さがあった。1853年(咸豊3年)園内の点春楼に小刀会の司令部が置かれた。1956年、西園の約半分を庭園として改修整備し現在の豫園となる。残りの部分が豫園商城となる。1961年に一般開放され、1982年は国務院により全国重点文物保護単位となる。と言うことである。
   
   この日は、我々のツアーは、巨大なショッピングセンターである豫園商城散策が目的で、豫園地区を訪れたのだが、私自身は、当初から、豫園商城には興味がなかったので、グループを離れて、すぐに、豫園に入園した。
   中国の面白い所は、パスポートを見せれば、シニアは入園料半額。
   入場してすぐの三穂堂の背後に、池を隔てて素晴らしい築山の大伽山を背負った大庭園が、その威容を現して客を魅了する。
   庭園を右にして、北側へ回り込み、回廊を抜けると池畔に万花楼が現れる。
   先に観た蘇州の耦園とは比べ物にはならないくらいのスケールと威容で、明および清朝の威光を垣間見る思いであった。
   
   
   
   
   
   
   

   点春堂景区に入ると、反りあがった屋根が美しい快楼があって、瓦で龍の体を表現した龍壁などが興味深く、玉華堂景区にある奇石として有名な玉玲瓏が面白い。
   この庭園でも感じたのだが、中国独特の庭石が、あまりにも、シンプルで自然に近い日本庭園の庭石との違いに、文化文明の差を感じて興味深かった。
   楊貴妃と小野小町との差であろうか。
   
   
   
   
   
   

   この豫園内に、ショップがあって、立派な美術品や工芸品や印章などディスプレィされていたが、流石に、素晴らしい商品である。
   以前に台湾を旅行した時に、翡翠の花活けを買って帰り、床の間に置いてあるのだが、偏見なのか、素晴らしいのだが、ここの美術品同様に、趣味嗜好がしっくりこないのが、もどかしいく感じている。
   
   
   
   

   さて、素通りしただけだが、豫園商城の賑わいは、大変なものである。
   食べ物を筆頭に、中国の代表的な店が、立派な店舗を構えているとのことだが、むしろ、銀座と言うよりは浅草の雰囲気である。
   広大な街区に、巨大な建物が四周を囲んで、10くらいの門が入り口となった巨大なショッピング兼アミューズセンターである。
   丁度、春節を控えているので、中国独特の派手な飾り付けが始まっていて、カラフルと言うか極彩色の世界が、圧倒するほど迫力がある。
   
   
   
   
  
   
   
   
   

   ところどころで、職人が、作業姿をディスプレィしている。
   何故か、分からないが、中国語が分からないので、英語表記するが、「Roast Duck Pan-Fried Dumpling の店だけが、何十メートルもの行列ができて、大人気であった。
   念のため、スターバックスで、カフェラテを注文したが、中々、出て来ず困った。
   28元、550円くらいだが、安いのか高いのか。
   いずれにしろ、中国の消費文化が、殆ど、日本並みになってきているのを感じた。
   
   
   
   
   
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国立能楽堂・・・観世流復曲能「綾鼓」

2017年01月30日 | 能・狂言
   昨年、横浜能楽堂で、復曲上演された観世流の能「綾鼓」が、国立能楽堂で、再演された。
   シテの浅見真州師ほか、アイ狂言師以外は能楽師も、囃子方も地謡方も、初演と全く同じ陣容での再演であった。

   この曲は、次のような、凄まじいストーリーである。
   越前の国木の丸の皇居に名池「桂の池」があって、御游の時に、庭掃きの老人(シテ/浅見真州)が、女御(ツレ/武田宗典)の姿を垣間見て恋に落ちる。女御は、不憫に思って、池の畔の桂の木に、綾で鼓を張った鼓を掛けて、この鼓の音が宮中まで聞こえれば姿を見せようと言う。
   廷臣(ワキ/福王茂十郎)から指示を受けて、庭掃きは、必死になって鼓を打ち続けるが、綾の鼓なので、鳴る筈もなく、わが身と女御を恨んで、入水して命を絶つ。
   死者の執念を恐れた廷臣の勧めで、池に近づいた女御は、波の打つ音に、「あら面白やの鼓の声や」と狂乱状態となる。
   そこへ、鬼の姿になって表れた老人の亡霊が、悪鬼となって、恨み辛みの限りを尽くして「鳴るものか、鼓を打て」と女御を責め苛み、地獄の責め苦に追い込んで、池の中に消えて行く。

   この能は、庭師が、女御に恋をして叶わぬ条件を強いられて憤死する、叶わぬ恋の物語である、何度か鑑賞している世阿弥の「恋重荷」と、非常に似た曲で、何とも言えない気持ちで鑑賞した。
   世阿弥が、能楽論「三道」に、「恋重荷、昔の綾の太鼓也」書いていることから、古作「綾の太鼓」をもとに、世阿弥が改作して「綾鼓」が作出され、「恋重荷」が完成したと言うことらしく、老人の恋をテーマにした曲は、この2曲しかないと言うから、似ているのも当然なのであろう。

   「恋重荷」の方は、老人に、綺麗な布に包まれた「重荷」を持ち上げて庭を何回も回れと言う実現不可能な難題を課して死に追いやる。
   もう一つの違いは、老人の亡霊が、同じように悪鬼となって現れて、女御を地獄の責め苦に苛むのだが、最後は、恨みを果たした後に、女御の涙に感動して、供養してくれるなら、守護神としていつまでも女御を守ると約束して消えて行く。
   これに反して、前作の「綾鼓」は、老人の亡霊は、最後まで、恨み辛みを心に残して女御を許さずにに、地獄に落ちて行く。
   この結末の落差の激しさは、どこから来るのであろうか。
   私の気になったのは、この一点であった。

   「文学金魚」によると、救いのない終わりに、世阿弥は納得できず、より縁起の良いような設定にしたかったのであろうと想像できる。叶わない恋だとしても、愛する女性を守る決心は世阿弥の思う男心であろう。
   一方、「綾鼓」については、怒りと恨みで暴れまわる鬼とそれに憑かれる高貴な女性の姿を見て、そのドラマを見て単純に面白いと思う室町初期の観客の好みが目に浮かぶ。と言う。
   そして、世阿弥時代の観世座では、一時期、この「綾鼓」と「恋重荷」が、同時に上演されていたと言うのである。

   果たして、そのような、同じような叶わぬ老人の恋の曲でありながら、一方は、成仏せずに地獄に落ちたままの阿鼻叫喚の地獄絵さながらの結末で終わり、一方は、成仏してハッピーエンドで終わる曲を、世阿弥がそう簡単に書き換えたとも思えないし、どちらが好きか、お客さんで観て楽しんでくださいと言うことになるとも思えない。
   どうしても、あまりにも大きすぎるこの落差をどう説明すればよいのか。
   気になっている。
   
   世阿弥の夢幻能は、神、鬼、亡霊など現実世界を超えた存在がシテとなって登場して、歴史や文学にゆかりのある土地を訪れた旅人(ワキ)の前に主人公(シテ)が化身の姿で現れて、本来の姿で登場して思い出や苦しみを語り、僧の祈りによって成仏して、舞を舞って終わると言うハッピーエンドが、殆どであろうから、「恋重荷」のストーリー展開は良く分かる。

   ところで、この「綾鼓」は、宝生流と金剛流では現行曲で、喜多流の「綾鼓」は、土岐善麿作の別曲なのだが、観世流では、江戸時代からは廃曲になっていたので、今回、復曲されたのである。
   舞の型や謡いが師匠から弟子へと伝承されていないので、シテの浅見真州師が、謡の節付けや所作の構成を担当して観世流としての復曲を果たしたと言うことである。
   今回の詞章と「能を読む」記載の宝生流の詞章と比べても殆ど変わらないのだが、そこは、演能については、流派の違いは大きいのであろう。
   私には、舞の素晴らしさについては、良く分からないが、後場の、ツレ/女御への、後シテ/老人の怨霊の凄さ凄まじさの迫力は、圧倒的であった。

   平安末期頃から、六道絵、地獄絵が描かれて、鎌倉時代の作品が多く残っているのだが、室町時代も、その尾を引いており、この綾鼓の舞台のような宗教色の強い世界が庶民生活に息づいていたのであろう。
   世阿弥一世紀後に、応仁の乱で、京の都が、廃墟のようになってしまう。
   逆な意味で、世阿弥の夢幻能の成仏への希求志向が、分かるような気がしている。
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わが庭・・・白梅が咲き始めて来た

2017年01月29日 | わが庭の歳時記
   一昨年、選定し過ぎて、殆ど花を付けなかった白梅が、咲き始めた。
   今年は、この調子だと梅酒が作れそうである。
   梅酒を作るには、特別な手法があるのかどうか分からないが、サントリーの果実の酒用ブランデーと角砂糖と綺麗にへたを取って洗った梅を、インターネットのレシペに従って混合してガラス容器に密封して、9~10月ごろまで寝かせておくだけである。
   これで、結構、良質な梅酒が出来上がる。
   鹿児島紅梅は、まだ、綺麗に咲き続けている。
   
   
   
   

   今、わが庭で咲き乱れているのは、日本水仙で、結構あっちこっちに群生していて、切り取っては、ボヘミアンガラスの花器に生けて楽しんでいる。
   かなり、花もちが良いので、重宝している。
   
   
   
   

   ボケも咲きだした。
   わが庭には、この赤オレンジ色の一株しかなかったのだが、なぜか、小さな同種の小苗が、あっちこっちに根付き始めている。
   ボケの実は、大変硬くて、簡単に割れて、実が分散するはずがないので、不思議に思っているのだが、以前に、根ふせでもしたのかも知れない。
   
   
   

   椿は、まだ、殆どの木は、蕾が固く、咲いているのは、タマアメリカーナだけである。
   鉢植えのハイフレグランスは、小さな蕾が、1か月以上も前に色づき始めたのだが、中々、開花しない。
   まだ、1メートル20センチくらいの小苗なので、体力にかけるのかも知れない。
   
   

   沈丁花の花が色づき始めて、開花寸前になっている。
   良いにおいをふりまいて、春の到来を告げてくれる。
   中国ミツマタも、少し膨らみ始めた。
   クリスマスローズの花房が、伸び始めてきたので、もうすぐ咲き始めるであろう。
   バラの花快挙の蕾が一輪残っていたのが、寒風に耐えている。
   これから、一層寒さが厳しくなると言うのに、わが庭は、少しずつ、春の気配を醸し出し始めている。
   
   
   
   
   
   
   
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初春の上海・江南紀行(9)上海:魯迅公園と魯迅記念館

2017年01月28日 | 初春の上海・江南紀行
   前日、夜に上海について、この日、一日一杯の上海観光である。
   これまでの二回の上海旅では、思うように上海の街を回って観光し、船に乗って、揚子江のクルーズにも出かけてもいるので、むしろ、どのように変わったのか、その変化を感じたかった。

   今回は、パックツアーなので、選択の余地はないのだが、最初に出かけた魯迅公園と魯迅記念館、それに、多倫路文化名人街は、初めてであった。
   魯迅公園は、前世紀初に開設されたようで、魯迅が良く通ったとかで、魯迅公園と命名されたかなり広大な公園だが、南口から公園に入って、直接魯迅記念館に入ったので、全貌は分からない。

   まず、公園に入ると、天気も良かった所為もあり、土曜日なので、公園は大変な人出で、集まった人々が、輪になってフォークダンスや社交ダンスに興じたり、太極拳や思い思いの体操などをやっていて、さながら、みんなが団体行動を楽しむために集まってきたと言う雰囲気で、日本の公園風景とは、全く違う。
   魯迅像の周りをゆっくりと体操しながら回っている婦人集団もあれば、欧米の文人たちの銅像なぞなんのその、踊りに夢中である。
   
   
   
   
   

   因みに、魯迅記念館への途中に、ディケンズやシェイクスピアなど欧米の作家などの等身大のブロンズ像が置かれており、魯迅記念館の前には、魯迅のブロンズ立像が立っている。
   なぜ、魯迅公園の銅像が、中国人の杜甫や李白ではなくて、バルザックやトルストイなのか分からないのだが、先日の無錫の書店での欧米作家の大量の翻訳本のディスプレィをみても、中国知識人の欧米文学への傾倒は、確かなのであろう。
   日本では和魂洋才と言うが、ここでは漢魂洋才と言うことであろうか。アメリカでは、中国人の留学生が一番多いと言うが、真善美の追求、富国強兵のためには、進んでいるものは、何でも、ダボハゼのように吸収しようと言うことであろう。
   ペンは剣よりも強し.The pen is mightier than the swordと言うことである。
   
   

   魯迅記念館は、1951年開設だと言うから、共産革命直後で、新生中国のスタートと同時であるから、その後、主義信条、政治や文化とは、殆ど関わりなく維持されてきたのであるから、それに、習近平も訪れており、魯迅に対する中国人の尊崇の気持ちが良く分かる。
   館内には、膨大な魯迅ゆかりの文物や書籍、資料などが展示されていて、殆ど、中国語なので分からないのだが、魯迅を囲んで若い文人たちが熱心に対話する実物大の臨場感あふれるディスプレィなど、感動的でさえある。
   デスマスクも、展示されている。
   
   
   
   
   
   
   

   日本関連では、魯迅と親交があり、当時の日中の文人たちに、書店を通じて知的貢献した内山書店の外観と内部・内山完造の像などがセット展示されている。
   内山完造は、逮捕令を避けるための魯迅の上海の住居の世話をするなどサポートしたようで、魯迅は内山を「老朋友」と呼んでいて、魯迅の死を事実妻の許とともに看取ったと言う。
   もう一枚、日本兵らしき人物の気になる絵。
   
   
   

   多倫路文化名人街は、魯迅公園から歩いてすぐの綺麗に整理された西洋風の街路で、魯迅や文人たちが住んでいたか、ゆかりの街区なのであろう、その一番奥に、内山書店があった。
   魯迅記念館に、朝貨文庫と言う部屋があって、文人たちの書斎が再現されて、夫々、個室がディスプレィされていたが、非常に興味深かった。
   この日は、中国文化の日頃見えなかった一端を垣間見た思いで、勉強になった。
   
   
   
   
   
   
   

   
   
   

  
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牡丹は楊貴妃が愛でて中国の名花になった

2017年01月27日 | 生活随想・趣味
   宇野直人の「李白」を読んでいて、李白の「清平調の詞」の説明のところで、”・・・この時代、牡丹の花が中国に入って来て、定着したんです。”と言う文章に出会った。
   とにかく、中国画や掛け軸などを見れば、花と言えば、牡丹、牡丹なので、秦やそれ以前から、中国人が最も愛でる中国の花は、牡丹だと思っていたので、この文章は意外であった。

   因みに、ウィキペディアには、
   ”原産地は中国西北部。元は薬用として利用されていたが、盛唐期以降、牡丹の花が「花の王」として他のどの花よりも愛好されるようになった。たとえば、『松窓雑録』によれば、玄宗の頃に初めて牡丹が愛でられるようになったものの、当時は「木芍薬」と呼ばれていたと記載される 。”と記されている。
   中国が原産地であることは、間違いないようだが、広い中国のことで、長い間、牡丹は、原産地だけの花で、今日のように、牡丹があれほど、中国で、愛される花になったのは、極めて、最近のことだと言うことである。

   宇野先生の説明では、
   ”それを玄宗皇帝がたいへん好み、宮中に植わっていた牡丹を4本を、沈香亭というあずまやの前に移植し、その花がたくさん咲くと、玄宗は楊貴妃と一緒に、花を愛でるお花見の会を開いた。”
   牡丹と言う新しい花を観賞しているので、こういう時に、古びた歌詞の歌を聞きたくないと言って、李白が呼ばれて、新作の歌詞を作って、宮廷歌手の李亀年が、オーケストラをバックに、歌ったのだと言う。
   その後、白楽天など中国文学では詩歌などで格好のテーマとなり、日本では、清少納言の枕草子が最初のようだが、その後、牡丹灯籠等々、花の王様となった。

   クレオパトラとバラの話は有名だが、玄宗皇帝と言うよりは、絶世の美女であった楊貴妃が、牡丹をこよなく愛したと言った方が、詩的でもあるので、そうしておこう。
   ところで、偉大な詩人李白は、この楊貴妃に疎まれて、折角得た役人の地位を3年弱で離れると言う悲運を味わうこととなる。
   
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立川談志著「立川談志 狂気ありて」

2017年01月26日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   正月に、WOWOWで、立川談志の落語を特集して放映していたので、ちらちら、見ながら、12回分録画した。
   まだ、見ていないが、楽しみにしている。
   主に、国立演芸場に通い始めて、本格的に落語を楽しむようになったのは、5年ほど前からなので、残念ながら、談志の高座を聞いたことがない。
  NHKなどの談志関連ドキュメンタリを見たり、弟子の志の輔や志らく、談四楼、談春などの落語を聞くだけでも、大変な落語家であることが分かるのだが、特に、談春の「あかめだか」を読んで、そして、テレビドラマを見て、非常に、興味を感じた。
   談志の本は、結構出ているのだが、最後の書下ろしと言うことなので、この本を選んだ。

   本を書く理由は、当然くる人生の終焉に対する己が身の「整理」である。立川談志の人生は、全て言い訳」と言っていい。立川談志の思い出と言う名の未練を書き残しておく。と、まえがきに書いている。
   資料を見ずに、パソコンを使うのでもなく、記憶だけを頼りにして、気の向くまま、思いつくままに、筆を進めたと言うのだが、その記憶力の良さと豊かさに舌を巻く。
   私には、談春の「あかめだか」の方が面白かったが、とにかく、アイロニーと諧謔に満ちた、斜めに生きた談志の人生への愛おしみと思い入れが、迫ってきて、楽しい。

   まず面白いのは、
   私は収集家だから種々な品がある。エジプトで買った「クレオパトラ」とサインしてあるクレオパトラの「張り型」を島田紳助が司会するテレビ番組、鑑定する番組から頼まれたとき、これを出すとと言ったら断られた。
   他にも、千利休の使ったコーヒーセット、カポネが持っていた花札、弘法が選んだ筆、雷が締めていた皮の褌、あるぞォ、・・・と言うくだり。
   嘘か本当か分からないが、よく、振り込め詐欺にひっからなかったものと思う。

   練馬の家を買うときに、大平正芳蔵相に、金を借りに行き、3000万円借りたが、利子がついているので、今まで、誰にも金を借りたことがないし、江戸っ子が借りに来ているのに、利子が付く金ならどこからでも借りられると文句を言ったら、「悪かった、いやネ、利子を付けないと君のプライドにさわると思ったんだ。」
   お見事、参った。・・・私の知る総理では、麻生太郎が一番ギャグが分かった。と言う。

   談志の貴重な人生訓は、”下っているときはドカンといく”という「博打理論」。
   自分が下っているとき、つまり落ち目のときにゃ、”ドカンと張らないと勝てない”と決めている。
   妻が株で擦ったときも、フロリダの豪華船で娘が負けたときも、大きくドカンと張って取り戻したし、選挙のときも、不利な自分を見て”ドカンと張れ”で金を使ったし、妻が子宮がんのとき、最高の部屋に入れて六か月いたが、奇跡的に良くなった。と言う。

   落語協会を出た時のことを、「小さん・談志の喧嘩」ではない、と、二人は親子のような間柄で、師匠の”名前だけでも協会に残しておけよ”に、他の弟子どもが反対し、協会を出るようになった。小さん師匠も承知の上で飛び出し、寄席以外に活路をを見だす覚悟だった。師匠は第三の協会を作るのに賛成。倅の三語楼を連れていきますよ、頼む・・・と言う経緯もあったと、語っていて興味深い。

   この本には、談志が、結構あっちこっちへ海外旅行をした思い出が、書かれていて興味深い。
   個人的な旅行も多いようだが、代議士の時の海外視察旅行もあろうし、エジプトやナイロビなど変わったところで落語をやっているのは日航名人会のようだし、バチカンでヨハネ・パウロ二世に面会した写真も掲載されているし、ユーゴスラヴィアで、紋付袴姿でタクシーに乗って事故にあって三回転したとか、トレビの泉で、酔って〇〇したとか、・・・
   アフリカにも結構行っていたようだし、とにかく、遭遇したカルチャーショックの数々が面白い。
   
   山ほどあるソビエトジョークと言った調子で、あっちこっちで、小話やジョーク話を披露していて、これが、実に面白い。
   短いのでは、
   酔っ払いが公園を歩いていた。若者が”腕立て伏せ”をやっている。酔公がこれを見て、
   「オーィ、女ァ何処に行っちゃったんだ・・・?」

   この本は、談志の自伝であって、生きざまを語っているので、談志の落語哲学とか芸術論は、殆どない。
   しかし、本人も「波乱万丈の人生」と言っているように、想像を絶した破天荒で爽快な人生を、「エゴの塊のような気狂いが老いた」と言う老境に達して綴った備忘録と言った自伝であって、実に示唆に富んでいて面白い。
   不世出とも言うべき芸人のどろどろしながらも爽やかな語り口がほろっとさせる。
   録画した談志落語集を、じっくりと鑑賞させて貰おうと思っている。
   
   
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国立劇場…一月歌舞伎:しらぬい譚

2017年01月25日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の国立劇場は、通し狂言「しらぬい譚」。

   国立劇場のHPによると、
   『白縫譚』は、江戸時代初期に起きた筑前国黒田家のお家騒動を、主要な題材にしたもので、実在の黒田家をモデルにした菊地家が、菊地家に滅ぼされた豊後国大友家の残党によってお家存亡の危機に陥り、その事態に、菊地家の執権・鳥山豊後之助が対峙していくという物語。  
   蜘蛛の妖術を利用して菊地家への復讐を図る大友家の遺児・若菜姫(菊之助)と、その巧みな謀略からお家を守ろうと苦心する鳥山豊後之助(菊五郎)、豊後之助の倅・鳥山秋作(松緑)、秋作の乳母秋篠(時蔵)を始め菊地家の忠臣たちとの対決がテーマで、その活躍を物語の主軸に据え、緊迫したドラマが展開される。
   菊地家の重宝「花形の鏡」をめぐる豊後之助・秋作父子と若菜姫との対決、自らを犠牲にして鳥山家に尽くす秋篠の忠義、豊後之助の繰り出す意外な智略、変幻自在の若菜姫の変身や“筋交い”の宙乗り、足利将軍家を守る秋作の大立廻りや屋体崩しで見せる化猫退治など、見どころ満載の歌舞伎。

   通し狂言を旨とする国立劇場が、昭和52年(1977)に河竹默阿弥が劇化した『志らぬひ譚』を通し狂言として76年ぶりに復活上演したのだが、今回は、尾上菊五郎監修のもと、原作の面白い趣向や設定を換骨奪胎して活かし、先行の劇化作品や講談などを参照しながら、新たに台本を作成した。と言う意欲的な舞台である。

   今回の舞台で面白いのは、菊之助の何役かの男女取り混ぜての変身と、すっぽん後ろの舞台から、三階席上手側へと、客席上方を斜交いに宙乗りで華麗に演じる舞い姿で、2回演じて、楽しませてくれる。
   菊之助の素晴らしさは勿論だが、座頭役者菊五郎の貫禄と風格の備わった素晴らしい役者魂!の発露あっての国立劇場劇場の初春歌舞伎でもあった。

   お家騒動とお家の重宝の奪い合いと言った歌舞伎の常套手段のストーリー展開だが、通し狂言であるから、初めて見ても、筋書きが良く分かって面白い。

   時蔵の乳母秋篠が、命をなげうち忠義を尽くすと言う筋書きなどは、摂州合邦辻の庵室の玉手御前の完全焼き直しであって、なさぬ恋に悶えて殺されて、その生き血を飲ませて、思い人の病気を治すと言うことになる。
   乳母秋篠が、育ての主人秋作に恋い焦がれて、秋作の許嫁照葉(梅枝)を突き飛ばしてしなだりかかて思いのたけをかき口説くと言う凄まじさ。  
   玉手御前の場合には、合邦が刺すのだが、このしらぬい譚では、息子に殺されるなど、多少違いはあるのだが、あまりにも有名なストーリーの二番煎じなので、やや、興ざめである。
   それは、ともかく、時蔵は実に上手く秋篠を演じていてさすがである。
   

   化猫退治のシーンでは、猫役役者たちの群舞で、歌川芳藤の異り絵「五拾三次之内猫之怪」を思わせる人形絵模様を舞台に展開していて、興味深かった。
   秋作の大立廻りなど、歌舞伎の別な見せ場の一つなのであろうが、京劇の影響であろう、派手なアクロバティックな技師たちの動きに対して、鷹揚な主役歌舞伎俳優の型を重視した動きとの、ちぐはぐなアンバランスが、面白い。
   何時観ても、松緑は、松緑と分かり過ぎるほど素人ぽい演技なのだが、あのキャラクターの役者は他に居ない程貴重な存在で、存在感抜群であり、今回も、素晴らしい忠臣ぶりを披露してくれた。

   50周年公演のお祝いとさらなる部隊の盛り上げに一役買おうと、ピコ太郎本人が国立劇場に来場して、「しらぬい譚」の四幕目第一場「錦天満宮鳥居前の場」に、「謎の参詣人」本人役で登場した。
   知らなかったので、舞台下手から登場して、例の派手な衣装と振りで、軽快にPPAP
ペンパイナッポーアッポーペン模様を演じて、舞台背後に消えたのには驚いた。
   この件は、国立劇場のメールで紹介された次の23日の写真は、ピコ太郎に扮して出演の片岡亀蔵が出たようだが、私の見た18日は、ピコ太郎本人だけの登場だろうと思ったのだが。
   

   ストーリーとしては、特別面白い芝居ではないのだが、正月気分を味わうのには、格好の舞台であろう。
   国立劇場の前庭の蝋梅、梅、ボケが咲き始めて、春の気配を醸し出している。
   
   
   
   
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初春の上海・江南紀行(8)七宝古鎮

2017年01月24日 | 初春の上海・江南紀行
   七宝古鎮は上海の南西15キロ、明清時代の街並みが残っていると言う典型的な江南水郷の面影を残した古鎮だ言う。
   上海近郊の古鎮としては、それほど、有名ではないようだが、地下鉄が通じていて、上海の郊外であり、簡単に行けるところが良いようである。

   今回、訪れたのは、「七宝老街」。
   「七宝老街」は、真ん中に延びる運河「蒲匯塘」を挟んで「非」の字型に路地が広がる小さな水郷で、観光の中心となるのは、運河にかかった橋から東西に延びる「北大街」と「南大街」である。
   細い路地と言った感じで、左右に、小さな店が犇めいており、露店の延長と言った感じだが、北大街が、土産物店、南大街が、食べ物食品店と、完全に峻別されているのが面白い。

   まず、北大街の雰囲気は、次の通りで、食品以外は何でもあると言った商店街である。
   外れに、鐘楼のある広場があって、大通りに面している。
   広場では、何組か中国将棋をさすグループがいたり、会話を楽しむなど、老人たちが憩っている。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   南大街の方は、食べ物屋の一寸した大型屋台のオンパレードと言った感じで、店内で調理された出来立ての食べ物が売られているので、客が多く集まっていて、買ってそのまま、食べ歩きしている。
   シンガポールならともかく、手を出す気にはなれないのだが、同行の日本人ツアー客は、ホテルで食べるのだ言って買っていた。
   とにかく、中国人の旺盛な食欲に脱帽である。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   早く着きすぎたので、時間があまり、私は、橋のたもとにあったライオンコーヒーと言うコーヒーショップに入って、運河を眺めながら、小休止した。
   一寸した絵になる風景である。
   小鳥が、川面を渡ってきた。
   カフェラテが、31元、600円ほどだが、これなら、国際価格なので、問題なかろうと思ったのだが、店員が綺麗に模様を描いてくれた。
   
   
   
   
   

   さて、この七宝古鎮は、江南の水郷の街。
   その風景の一端を紹介する。
   
   
   
   
   
   

   しかし、美しいばかりではないところが、中国である。
   
   
   
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初春の上海・江南紀行(7)蘇州:盤門

2017年01月23日 | 初春の上海・江南紀行
  盤門は、紀元前514年、蘇州城を守るために造られた8ヵ所の水門の「盤門景区」にある一つで、約2500年前の史跡であり、現在残っているものは1300年代に再建されたものである。
  呉門橋、瑞光塔など名所があり、まわりは、広々とした公園として整備されていて、散策には良い。

   この古い三国志の世界を彷彿とさせる盤門の周りには、城壁が巡らせてあり、まさに、映画のセットを思わせる雰囲気であり面白い。
   外堀と言った感じのかなり大きな外城河が、城内を取り囲んでいるのだが、日本の城の外堀とスケールが違うが、そこは、白髪三千丈の国だからであろうか。
   遠くに、高層ビル群も遠望でき、綺麗な形をした呉服橋が見えるのだが、時間がなくてそこには行けなかった。
   
   
   
   
   

   盤門を潜って一直線に進むと、右手に、伍子胥祠がある。
   門を入ると、中には、かなり、整備された庭がある。
   三国志を読んでいないので、良く分からないのだが、伍子胥は、典型的な悪役のようながら、この呉の国蘇州では、建国の父のようにあがめられているとかであるから、このような金ぴかの像が祭られているのであろう。
   
   
   
   
   
   

   伍子胥祠を左側に回り込んで、裏に出ると、広い空間が広がって、綺麗な庭園が展開されている。
   ところどころに、建物が配置されていて、回廊などが庭を繋ぐなど、耦園のような雰囲気もあるのだが、とにかく、敷地が広大なので、池あり小川ありで、スケールの違いが、開放感を醸し出していて気持ちが良い。
   
   
   
   
   
   

   大きな池に出ると、池面の高台に、巨大な三層の麗景楼が建っていて、その威容が他を圧していて、素晴らしい。
   さらに、その奥に進むと、瑞光搭に達するのだが、時間がなくて、行けなかった。
   裳階と言うには大きすぎる1層の建屋の上に、6階の六重塔が聳えている。
   日本の塔は、三重塔か五重塔が主体で四角形だが、中国は、六重塔か、それ以上の高い塔が多くて、六角形なのが面白い。
   塔は、ストゥーパ、すなわち、仏塔、仏舎利塔なのだが、お釈迦様の好みは、どんな形であろうかと考えると面白い。

   この日、もう一つ残念であったのは、上り口が分からなくて、城壁の上を歩くことができなかったことである。
   尤も、ヨーロッパの古城でも、実際に、城壁に上って歩いても、特にどうと言う感慨はなかったのだが、登れないとなると気になるものである。

   ところで、この蘇州には、虎丘に巨大な斜塔がある。
   ピサの斜塔には上ったが、鉄骨でも鉄筋でもないので、危険でもあろう、この斜塔には上れないようだが、今回の旅では、予定しながら時間の都合で、残念ながら、この虎丘行きは割愛された。
   
   
   
    
   

  
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国立劇場:淡路人形座・・・「賤ヶ岳七本槍」

2017年01月22日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   国立劇場開場50周年記念公演で、「民俗芸能」のタイトルで、神楽、壬生狂言、淡路人形芝居の3演目が演じられたが、私は、淡路人形座の「賤ヶ岳七本槍」だけを鑑賞した。
   上演方式など多少違いはあるのだが、私としては、いつもこの国立小劇場や大阪の国立文楽劇場で演じられる文楽協会の舞台と同じような感覚で楽しんだ。
   このように洗練された高度な文楽が、淡路人形座で演じられていると言うのは、驚異でさえある。
   以前に、淡路か徳島だったが、忘れてしまったが、「傾城阿波の鳴門」のおつるの舞台を観たのを覚えているのだが、これも、感銘深かった。

   この淡路の人形芝居は、野外の広々とした客席の隅々まで観て楽しめるように、大きな人形を遣い、振りや動作など動きを大きくして、表現も誇張されていると言うのだが、確かに、人形のかしらも大きめで、表情がリアルであるのが面白いと思った。

   淡路人形座のHPによると、「賤ヶ岳七本槍」のあらすじは、次の通り。
   ”柴田・真柴の戦いが続く中、鏡山の頂きにある清光尼(深雪)の庵室を政左衛門が訪ねる。両者の戦いを高みから見物すると言って遠眼鏡を据えさせる政左衛門であったが、意外にも深雪に強く還俗を求める。そこに久吉が三法師をつれて訪れ、蘭の方の首を早く渡すよう迫る。承諾した政左衛門はしばしの猶予を請い久吉を奥で待たせる。
一方、遠眼鏡でいくさの様子を見ていた腰元たちから勝久が見えると聞いた深雪は、恋情忍びがたく還俗を決意する。そこに政左衛門が現れ蘭の方は恩ある先代政左衛門の忘れ形見ゆえ殺すわけにはいかないと 述べ、身代わりになるよう説得するが、勝久に会いたい一心の深雪は拒否する。しかしやがて戦場から「勝久を討ち取った」という声が聞こえてきたので、失意とともに深雪は身代わりを受け入れ、政左衛門は深雪の首を討つ。政左衛門は、偽三法師を連れた久吉が小田家を乗っ取ろうとしているのではないかと疑うが、久吉は三法師に扮した実子の捨千代を討つ。肉親を殺し忠義を貫く久吉に政左衛門も心を許し、本物の三法師を託す。久吉は三法師を抱き馬に乗って堂々と安土に帰還する。”

  今回上演されたのは、前述のあらすじの大半である「清光尼庵室の段」が、舞台の殆どを占めており、その後、約45分くらいの「真柴久吉帰国行列の段」と「七勇士勢揃の段」が続いている。
   政左衛門が、娘の深雪を、蘭の方の身代わりに、殺そうとする修羅場が見せ場で、結局断腸の思いで殺すのだが、実子を三法師の身代わりに立てて欺き続けて殺さらずを得なかった真柴には、すべて先刻承知と言うどんでん返しが面白い。
   プログラムを買わなかったので、詳細は分からないのだが、大夫は、竹本友庄以外は、竹本姓の女性陣で、三味線もすべて鶴澤姓の女性陣が弾いていて、非常に新鮮で清々しい浄瑠璃を聴いた思いで、楽しませてもらった。
   人形遣いは、最初から最後まで、黒衣で、出遣いはなく、主遣いの表情は分からなかった。
   尤も、人形も、凄いテクニックと迫力で、いずれにしろ、私も元兵庫県人でもあるので、淡路で、これだけの素晴らしい古典民俗芸能が維持されていると言うのは、驚きでもあり喜びでもあった。
   

   賤ヶ岳七本槍とは、天正十一年(1583)、羽柴秀吉と柴田勝家が織田勢力を二分し 天下を賭けた戦いに於いて、功名をあげた秀吉方7人で、福島正則・加藤清正・加藤嘉明・平野長泰・脇坂安治 ・糟屋武則・片桐且元 を指す。
   関ケ原の戦いにおいて、既に、豊臣方を離れている人物がいて興味深い。
   
   
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初春の上海・江南紀行(6)蘇州:耦園

2017年01月20日 | 初春の上海・江南紀行
   10年程前に、蘇州に来た時には、個人のツアーを頼んだので、拙政園や寒山、虎丘などと言った蘇州観光のトップ歴史的遺産などを訪れた。
   しかし、今回は、パックツアーに参加したので、幸か不幸か、違った蘇州の観光地を訪れることとなり、興味深い体験をした。
   先日の山塘街など、見たいと思っていた運河沿いの旧市内の雰囲気を味わえたし、歴史的遺産としては、清時代末期の耦園や呉の時代に起源を持つ蘇州城の面影を残す盤門など、前とは違った蘇州を見ることができたのである。

   まず、耦園だが、上海ナビによると、
   ”蘇州の倉街エリアの古典園林。世界遺産の蘇州園林のなかの一つで、1876年に造られた。持ち主は清代の蔵書家・沈秉成。最愛の妻とともに過ごす私邸として造られたため、数ある蘇州の庭園のなかでももっともロマンチックなデザインといわれる。建築物や、屋内に飾られた書画など専門家の評価も高い。”
   中国一の庭園で豪華な拙政園と比べれば、規模も小さいし、質素な感じがするためか、 観光客が少なくて、十分に観賞することができた。
   次の写真は、庭園へのアプローチである。
   
   
   
   
   
   
   
   日本には、京都などの古寺の名園や江戸を中心に存在する豪華で素晴らしい大名庭園などが有名だが、中国では、皇帝の庭園は別格として、やはり、科挙の国で、この耦園のように高級な役人が作り上げた私有の名園が、蘇州などには多いようである。
  玄宗皇帝や楊貴妃の時代だが 李白や杜甫の漢詩を読んでいると、、必死に仕官を求めながら不運や挫折した苦い思いを創造の世界に託しているのだが、役人たちの教養や知的水準の高さは抜群で、真善美の追求、ことに、美的世界での奥深さが、このような庭園の創作にも影響しているのであろう。
   やはり、庭園の核となっているのは、太湖石など、異形の石で、日本の名園の庭石と、大きく色形が変わっているのが面白い。
   また、庭木にしても、日本の木は、綺麗に形が整えられて剪定が行き届いているのだが、中国の場合には、どちらかと言えば、自然な樹形を愛でて植栽をしている感じである。
   池や橋、庭園内の建物など、大分雰囲気が違っていて、日本の名園の風景に慣れた私には、美しいと思っても、何となく違和感を感じている。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   建物だが、この庭の持ち主は、大変な学者であり蔵書家であったと言うことで、大きな書庫があり、書画骨董もそれなりに立派なものだったと言う。
   それに、夫婦の憩いの時間を大切にした庭だと言うのだが、サロン的な要素もあったのか、接客用と思える立派な建物もある。
   李白や杜甫の詩には、このような地方の名士などの館や、楼での酒宴や憩いをテーマにしたものが多く残っているのだが、このような士大夫の交わりや交流が盛んであったのであろうと思われる。
   そんな雰囲気を醸し出す庭園で、中国の教養人の趣味や嗜好の高さを垣間見た思いで興味深かった。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
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初春の上海・江南紀行(5)蘇州:山塘街と白居易の運河

2017年01月19日 | 初春の上海・江南紀行
   白居易が、9世紀、長官時代に、蘇州城の閶門と虎丘を結ぶ運河の開削に伴って、建設したと言われている唐時代からの古い商店街が、山塘街である。
   賑やかな商店街が、運河と並行して運河沿いに広がっていて、町並み保存でリノベイトされた木造、白壁、黒い瓦の古い民家がずらりとひしめきあっていて、八百屋、果物屋、お惣菜屋など、庶民生活に直結した店も多くて、典型的なアクティブな中国人の町である。
  欧米人観光客にも人気とかで、結構外人観光客も多くて、結構賑わっているのだが、豊かになった中国人の観光客が非常に増えているのに、中国経済の活力を感じた。

   蘇州有情によると、”唐以降、山塘街は物資の集積する街となり、清の乾隆年間に描かれた「姑蘇繁華図巻」には「中華第一街」と称された繁栄の様が見てとれる。多くの文人墨客にも愛され、曹雪斤は「紅楼夢」の中で山塘街を「俗世間で一、二を競う風流にして富貴な土地」と紹介。乾隆皇帝は、1792年太后の70歳の祝いに北京の皇家庭園「颐和園」の北に山塘街を模して、蘇州街を建造している。”と言う。
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   街路に沿って、商店が並んでいて、高級店も一般店舗も、そして、商売の種類も、雑多に入り組んでいて、個々に勝手に商売をしていると言った感じで面白い。
   しかし、かなり、立派な店構えの商店が多く、趣味には合いにくいが、興味深い品物が並んでいる。
   10年ほど前に、上海などを訪れた時に比べると、商品の質なり、商店のつくりなども、随分よくなってきているのが良く分かる
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   蘇州で、やはり、旅情を誘うのは、運河の種類が違うので、比較は難しいのだが、水の都ヴェニスにも似た運河沿いのエキゾチックな風景である。
   尤も、ヴェニスの場合には、運河沿いに正面玄関があるのだが、蘇州の場合には、街路側が玄関で、船着き場のある民家は殆どなく、料亭くらいであろうか。
   表の商店街の街並みとは違った、シックな雰囲気が何とも言えない感慨を呼び起こして、橋の上から眺めていても飽きない。
   日本でもそうだと思うが、都会などで、小さな川に面した住宅が如何に好まれるか、ロンドンに、ほんの僅かな面積しかないのだが、この蘇州のように川面の住宅地帯がリトル・ヴェニスと呼ばれて高級住宅地になっている。

   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   夜、蘇州運河ナイトクルーズに参加して、白居易が開削した運河の中から、夜の蘇州の風景を楽しんだ。
   ぼんやりと輝く雪洞の光を見ていると、”蘇州夜曲”のメロディが聞こえてくるような気がして、不思議である。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
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初春の上海・江南紀行(4)無錫:南禅寺

2017年01月18日 | 初春の上海・江南紀行
   無錫市の市街にある南禅寺を訪れた。
   上海ナビによると、”無錫市街地の南に位置する古刹。創建は547年で、現在の建物は1980年に修復されたもの。境内には大雄宝殿、観音殿、地蔵殿、43.3mの塔などがある。この塔は、運河の水害を鎮めるために建てられたもの”と言うことである。
   6世紀創建の古刹と言うことだが、建物が新しく、仏像なども金ぴかなので、まったく歴史を感じさせない。
   それに、境内もそれほど広くない。
   訪れている地元の人は少なくて、閑散としていた。
   もうすぐ、中国の正月なので、境内でも飾り付けを始めていた。
   
   
   
   
   
   

   本殿に安置されている仏像は、釈迦三尊像であろうか。
   雰囲気は日本の仏像と大分違うのだが、逆に、寺院そのものが、日本の寺院と殆ど違いがないようにも思えて、親しみを感じた。
   3人の信者が、仏前に跪いて熱心に礼拝していた。
   また、道内に、僧侶が2人いて、信者たちの話を聞いたり世話をしていた。
   
   
   
   
   
   
   

   ところで、この寺院は、交通の激しい大通りの交差点に面していて、寺院の前から、門前町が広がっている。
   この街区の中央に地下鉄駅があるので、非常に便利な所為か、街全体が、全く新興の商店街兼娯楽センターのような雰囲気で、店舗の殆どは、土産物店や食事処や娯楽場で、訪れている人の大半は観光客である。
   客の呼び込みもたたき売りもあり、マクドナルドもあれば、ケンタッキーチキンの店もあり、ドラえもんの人形を売るおもちゃ屋もあったりして、若者でにぎわっている。
   日本の門前町とは全く違った不思議な街の雰囲気が興味深い。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
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初春の上海江南紀行(3)無錫:恵山古鎮

2017年01月17日 | 初春の上海・江南紀行
   無錫は、太湖に面した揚子江下流域の工業都市だが、歴史は古く、有史以前6〜7000年前からの居住や農耕の跡や、長江文明に属する良渚文化の墳墓など遺跡群なども存在し、
   紀元前11世紀末、古公父(即周太王)の長男太伯(後勾呉)が梅里(現在の錫山区梅村鎮)に定住し、周武王は、次男仲雍の五代孫周章を呉君に封じて、呉国を建国したと言うから、三国志の世界:呉国発祥の地でもある。
   無錫市の総人口は約611万人。言語は江南地方で使われている呉語:無錫語だと言うことで、日本の製造業の進出も1000社以上だと言うから、驚いている。
   
   中国文明の発祥地は、黄河流域で、アーノルド・トインビーの歴史の研究での理論のように、人類文明の発祥は、「挑戦と応戦」で、自然環境の厳しいところから起こるのだが、ある程度文明が進展して人間社会が安定成熟してくると、自然環境に恵まれた揚子江流域、中原に移るのであろう。
   今回、殆ど、半日しか無錫にはいなかったが、太湖の畔と、郊外の古い町並みの恵山古鎮と、中心街に近い南禅寺界隈を歩いただけだが、巨大な近代都市に脱皮中である。

   無錫は、元来は錫を多く産出する「有錫」という名の鉱工業都市だったが、前漢までに掘り尽くしてしまい、以来「無錫」になったといわれるのだが、
   近年の言語学者らの研究により、無錫の市名の無という字の由来は越語の発語詞によったものであると言う説が出ていると言うから面白い。
   しかし、歴史的な地名の名前が、前漢では無錫県、新では有錫県、後漢以降では無錫県となっているので、錫説が正しいのかも知れない。
   錫は、銅と混ぜて青銅となり、中国にとっては貴重な金属で、素晴らしい芸術作品を生み出していて、紫禁城内の博物館や、台北の故宮博物館などで、途轍もなく素晴らしい作品を鑑賞できる。

   恵山古鎮を訪れた。
   古鎮とは、古い中国の街並みと言う意味のようだが、この古鎮も、奥に、恵山寺や錫恵公園などがあって、それに至る街路が古い街並みになっていて、明代に建てられたお寺や古民家、庭園、宋代に架けられた橋など、数100年から1000年の歴史を持った古い建物が残っていて昔の中国の雰囲気が味わえる。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   この古鎮には、数百メートル錫恵公園入口まで街路が通っていて、その手前で左折れして運河沿いに道が伸びている。
   中国の古い民家がそうなのかは分からないが、平屋と連続しながら、二階建ての古建築が並んでいて、一階が、店舗になっていて、色々な商売を商っていて、面白い。
   やはり、観光地で、土産物屋や食べ物屋が多いのだが、古いお寺や邸宅、そして、結構立派な店などが雑居していて、生活空間の雰囲気を感じさせてくれて良い。
   
   
   
   
   
   
   
   
   この古鎮で、私が興味を持ったのは、恵山書局と言う書店である。
   この店だけは、表に赤いポストが立っていて、狭い間口ながら、奥には、綺麗に整理された書棚が並んでいて、外国の翻訳書など学術書や専門書が並んでいる。
   雑誌や一般書籍などは殆どないようで、かなり、程度の高い格調のある書店のようで、学生や学者風の客が、熱心に本を品定めしている。
   魯迅やサルトル、ボブ・ディラン、とにかく、欧米の学者たちの翻訳書が多いようで、「南京大虐殺」の本もディスプレィされているのが気になった。
   
   
   
   
   
   
   

   入り口を入った奥が、喫茶室になっていて、バックに、欧米人の学者の写真を張ったカウンターがあり、中々、内装などもシックで雰囲気が良く、中国離れした風情が興味深い。
   ゆっくりと寛ぎたかったが、団体旅行の悲しさ、古鎮を素通りするのがやっとであった。
   
   
   
   
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初春の上海・江南紀行(2)太湖と淡水真珠

2017年01月16日 | 初春の上海・江南紀行
   最初に訪れたのは、無錫に入って、無錫市街の西の太湖に突き出た半島にある黿頭渚公園である。
   ここからの太湖を臨む山水風景が有名らしいが、市街地に隣接しており、広い森林公園と言う感じだが、今では、一部観覧車もあって、かなり、俗化している。
    
   
   
   
   
   

   琵琶湖の3.4倍の規模だと言うので、結構広いが、河川は揚子江に流れ込んでいると言う。
   この日は、曇天で、遠くの湖岸は霞んでいて、長い大橋越しに、無錫市街のマンション群や劇場が遠望できた。
   この湖周辺の丘陵は石灰岩を産出し、「太湖石」とよばれる穴の多い複雑な形の奇石が有名で、確か、鶴岡八幡宮の庭にもあったと思うのだが、蘇州はじめ中国各地の名園に置かれて、風景を荘厳している。
   しかし、この無錫の公園からは、期待していた中国の古い風景は、どこにも存在していなかったが、美人の中国人ガイドさんが、湖畔で、大ヒットしたと言う尾形大作の「無錫旅情」を情感豊かに歌ってくれた。

   前の旅では、西湖に行きたくて、杭州を訪れたのだが、この時は、湖岸の公園も中国風であったし、湖岸の高台にある西冷印社からは、古い中国の風景が遠望できて、漢詩の世界を感じて興味深かった。
   ここで買った中国画の掛け軸は、今も愛用している。
   
   

   この後、国営会社の淡水真珠店に行った。
   太湖の淡水真珠は、清時代慈禧太后が、この真珠で美容して、太湖真珠を愛用したと言うことで、この真珠店では、沢山の真珠の宝飾品とともに、真珠クリームなども売られている。
   
   

   ガイドと親しいと言うことで、店長が出てきて解説員を務めて、真珠の母貝であるカラス貝を切り開いて、養殖中の真珠を取り出して見せた。
   日本の真珠は、アコヤ貝に核を入れて養殖するので、一つの貝からは数個の真珠しか取り出せないが、この太湖の淡水真珠には、一挙に、30個以上の真珠が取り出されるので、ミキモトなどと比べれば、はるかに格安だと言う。
   カラス貝を開くと、小さなトウモロコシ状の小さな真珠の球が飛び散った。
   まず、店長が説明したのは、真珠クリームで、日本なら、1万円なら3個しか買えないが、ここでは、8個で1万円。
   ガイドに聞いていたので、時に、1万円で10個まで出すと言うので、9個と言った後で、「所長!」と声をかけて持ち上げたら、10個になり、皆、買っていた。
   やはり、中国の化粧品と言うことで、妻は財布を開かなかった。
   
   
   
   

   さて、広い販売フロアーは賑わっていたが、折角なので、BIPルームと言う隅の小部屋に入った。
   ミキモトのような豪華さもなければ華やかさもないのだが、他よりは、高価な真珠をディスプレィしていることは確かである。
   
   
   

   一番上等なのは、チョコレート色の真珠で、次は、ゴールド色だと言う。
   一粒のネックレスだが、チョコレート色は、値札が、45万円。ゴールドは、店長が電卓で、12万8千円を示した。
   鶏頭を掲げて狗肉を売ると言う故事のある中国だが、日本に留学して駐在していたと言う日本語流暢な店長であり、唯一の国営を冠した会社であるから、嘘はないだろう、相手に不足はないと思って、久しぶりに、ビジネス感覚を呼び起こして、タフネゴーシエーションに取り掛かった。

   昔、アラビアのマーケットで、絨毯を買うのに、激しく渡り合って、それなら止めると言って帰りかけたら、店のオヤジが追っかけてきて、「旦那、旦那、待ってくれ! アンタは特別だから負ける」と言って来たのでまずまずと思って買った、あの手法である。
   何を買ったか、どこまで値切ったかは、伏せるとして、とにかく、ミキモトでは何倍もすると言うことだし、少し値は張ったが、安物を買うよりは良いと思った。
   これでも、中国では値切って買わないとだめだと言うことを知らなかったので、最初の旅行で景徳鎮は言い値で買ってしまい、掛け軸もそれほど値切れなかったのである。

   余談だが、アラブの商法も中国の商法も、商売は、極論すれば、あることないこと捲し立ててでも相手を説得する、商人と客の知恵の出しあい鬩ぎあいであって、知恵を出して値切れない客は、馬鹿にされる。そんな文化なのである。
   とにかく、欧米は勿論、アジア、中近東、南アメリカ等々、世界各地でビジネスを続けてきた私でも、国によってビジネス手法は千差万別なので、苦労の連続、それ程、インターナショナルビジネスは、難しいのである。
   
   
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