熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ブレジンスキーの「孤独な帝国アメリカ」(その2)・・・ブッシュ政権の予防戦争の危険

2005年10月31日 | 政治・経済・社会
   6月にこのブログで、シュレジンガーが、ブッシュを「予防戦争を外交に組み込んだ帝王的大統領」として非難していることについて書いたが、ブレジンスキーも同じことを、この「孤独な帝国アメリカ」で論じている。

   シュレジンガーは、米国歴代大統領によって継承され冷戦で勝利を納めてきた戦略…多国籍機構を通して遂行された封じ込めと抑止政策の組み合わせ…多国間協調主義を、ブッシュは悉くブッシュドクトリンで放棄した。
   戦争は最後の手段ではなく、大統領の選択によって、潜在的な敵が攻撃する前に、必要とあれば一方的に攻撃する、即ち、国民的な合意なしに、予防戦争によって平和を目指すと言うアメリカ外交の決定的政策転換をした帝王的大統領だと言っているのである。

   ブレジンスキーの論趣は、
   ブッシュが2002年6月1日ウエストポインットで行った「米国の自由と生命を守る為に必用なら先制攻撃をおこなう」と演説したが、敵を具体的に特定せず、標的を恣意的に選べる余地を最大限に残した。
   テロを定義する基準を明確にせず、いかなる条件下で核拡散を悪と認めて予防的軍事行動が正当化されるのかも明らかにせず、要するに、アメリカは脅威について国際社会と定義を共有することなく、自分勝手に敵を認識して先制攻撃をする権利を我が物にしてしまったのである。
   「相互的確証破壊」のドクトリンを「一方的確証破壊」に置き換えてしまったのである。 
   先制と予防の区別は極めて重要で、「先制」に見せかけた一方的な「予防」攻撃が蔓延する心配がある。
   
   この国際協調を欠くアメリカの単独主義とドクトリンの方向転換は、結局アメリカに跳ね返ってきて、これまでの歴史的な米国の役割や政治的に覚醒した自由の灯台であった地位も認められなくなり、秩序と正義、安全保障と民主主義、国力と社会進歩に対するバランスの取れた配慮を欠いた国と看做され、権威を失墜することになる。
   覇権を傘に着て、世界の共通価値観を無視して、自分勝手な論理で戦争を仕掛けて国際社会を牛耳る、そんなアメリカを誰も信用しなくなる、そして、反米感情の高まりがアメリカを孤立させ、益々国際的な対米テロを惹起して、世界を恐怖のドン底に落とし込む、と言うことであろうか。

   米国と世界が直面する基本的な脅威は、益々暴力的になってきた政治的混乱であり、世界的な無政府状態を招きかねない現実世界である。
   世界の紛争の根本にある原因を断ち切る為の粘り強い世界戦略のみが、危機を回避させてくれ、人類史上かってないほどの、世界の大同団結と協調が求められている時期はない。
   アメリカガ平和を追求する為には、20世紀に全体主義を打ち負かした以上の世界的な規模での支持が必要である。

   アメリカの平和は、国際協調と国際的な支持があってこそで、単独主義は極めて危険であり、まして、世界的な合意を得ることなく、自分勝手な予防を隠れ蓑にした先制攻撃などもってのほか、とシュレジンガーもブレジンスキーもアメリカ政治に警鐘を鳴らしている。
   少しづつ、アメリカの良心と良識が動き始めて来た、そんな気がしている。

   先のイラク戦争の時、フランスやドイツが、イラク攻撃に対して執拗にて反対して米国に抵抗した。
   私は、先の2度の言語を絶する恐ろしい戦争を経験したヨーロッパ人の平和を希求する思いを痛いほど身に沁みた経験をしている。
   ホンの数時間車で走っただけで、違った言葉を喋り、宗教や民族や全く違った背景を持つ人々がモザイクのように入り組んで生活しており、本来なら、独仏は勿論、ヨーロッパの統合などあり得ない筈であった。
   しかし、このグローバリズムの世界で自由で平和に生きるためには、万難を排してでも、EUを創らざるを得なかったのである。
   私は、EUの健全な発展が、覇権国家アメリカへのカウンターヴェイリング・パワーになることを願っている。

   さあ、それでは日本はどうするのか、我々の課題である。
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グローバルスタンダードへの戦い・・・坂村健教授の示唆

2005年10月30日 | 政治・経済・社会
   先にWPCでの坂村健東大教授の基調講演に触れて、教授のuIDに対するグローバルスタンダードへの壮大な戦いについて紹介した。
   日本人は、米国で決めた国際基準が、総てグローバルスタンダードと考える傾向があって、坂村教授は、トロンや現在勧めているuIDに対しても、米国での認知如何によって評価されるなど、日本人の自主性とグローバルスタンダードへの理解のなさに辟易し、国家戦略としての重要性に鑑み「グローバルスタンダードと国家戦略」を書いた。

   親しい高級官僚に、中央省庁でもアメリカではこうだと言うと通りが良いのだと聞いたが、昔から、学術でも芸術でも、何でも、欧米で評価されると、喜んで受け入れる傾向があるようだ。
 しかし、私自身、欧米で学び、いくらか生活をした経験から、日本が欧米にあらゆる分野で決して引けを取っていないのを良く知っているので、日本人の自信と自主性の不足に何時も疑問を感じている。

   ところで、グローバルスタンダードだが、
国際市場で、経済取引を円滑に行う為には、相互理解、互換性の確保、消費者利益の確保を図ることが必要で、新技術や商品を国際的に展開する場合、その技術や製品が国際的に理解され受け入れられなければ齟齬を来たす。
   そのモノやサービス等の品質や性能、安全性、寸法、試験方法などに関して国際的な共通認識が必要であり、その国際的取り決めが、国際基準、グローバルスタンダードである。

   普通、この国際基準を決定するのは、大きく分けて二つある。
   一つは、ディジュール・スタンダード、即ち、国際的な機関が取り仕切り、国際会議の投票などで決定される公的基準。
   もう一つは、ディファクト・スタンダードで、実質上一番マーケット・シェアが高いとか市場を支配している事実上の国際基準、である。

   日本人は、これまで国際基準に従えば良いと言う考え方だったが、欧米では、グローバルスタンダード確保の為に熾烈な競争を行っている。
   日本人は、国際的プレゼンスや交渉能力に弱いので、国際基準を取るのなら、後者、即ち、商品を売って市場で圧倒的なシェアを占めて「事実上の標準」になることであろうか。

   坂村教授は、グローバルスタンダード確保の為の、日本の国家戦略について、「生き残りへの処方は教育と戦略」「研究開発と国家戦略」「新時代のグローバルスタンダード」等の項に渡って、技術立国、知財保護等の単発的な議論ではなくて、総合的な国家戦略について持論を展開している。

   私が興味を持ったのは、そのような本質論の前座の国際基準を取り巻く環境の変化であった。
   
   EUや中国では、独自の基準を設定して、自分達の域内市場ではこの基準に従わせようとしており、これを守らなければ市場から排除しようとしていること。
   iモードやハイビジョンなどは、国際基準に棹差して開発された成功例。
   今やコストダウン至上命令の米軍は、以前の軍事規格至上主義路線を変更して、COTS,即ち、特注品からではなく安い民生品から良品を選んで調達する。
等々、グローバルスタンダードも未来永劫ではなく、いくらでも変わり得ると言うことである。

   一方では、WTOの場合は、「WTO加盟国は、政府調達に関して国際規格が存在する時は、国際規格に基づいた調達をする義務がある」と規定されており、高裁摩擦を避けるためには、国際基準の資格を確保したりグローバルスタンダードを抑えることが必須となる。

   何れにしろ、坂村健教授のuIDだが、国際基準を目指して着々と躍進中であり、素晴しいことである。
   ところで、久しぶりのグローバルスタンダードとなるハイビジョンの録画システム、ブルーレイだ、HDDVDだと言って揉めている時期であろうか、ソニーのウオークマンのように、異業種のアップルのiPodに持って行かれた様にならないように祈るのみである。
   貿易立国を目指す技術大国日本の目指す道は、やはり、国家挙げてのグローバルスタンダードの追求であることには間違いなかろうと思われる。
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西王母の優しい花が秋を感じさせてくれる

2005年10月29日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   今年は少し遅い感じだが、ピンクの大人しい感じのツバキ西王母が庭に咲いている。
   中輪の筒咲で花は完全には開かずに落ちてしまうが、秋の早い時期から咲き始める椿なので、季節を越えて、その暖かい雰囲気が好きである。
   他のツバキの蕾も大分膨らみ始めて、もうすぐ、私の庭も賑やかになる。

   今私の庭に咲いている花は、このツバキと薔薇と西洋アサガオだけ。
   季節外れの感じがするが、青色が消えて白くなったアサガオが、ツバキやサルスベリの木の上3メートル以上の高さに這い上がって、毎日沢山の花を付けている。
   霜が降りると枯れてしまうが、それまでは、必死になって咲き続ける。
   日本のアサガオは、もうとっくに、種になって落ちてしまっているのに。

   色が付いて鳥を呼ぶのが、ムラサキシキブとピラカンサで、どちらも萌芽力が強くてドンドン庭に広がってゆく。
   まだ木についているイチジクの実(これは花)だが、色付き始めると弾けて開いてしまう。
   寂しく雨に打たれて、近頃では、蟻も鳥も蜂も寄り付かなくなってしまった。

   モミジの大杯が、先の方から色付き始めた。もう少しすると真っ赤に色付くが、そうなるともう秋が深い。
   庭を訪れるトンボも真っ赤になってきた。
   喧しく泣いていた蝉の声もとっくに消えて、秋の虫の音も大人しくなってしまった。
   今年最後になりそうな月下美人の蕾が膨らみ始めた。

   野辺を歩くと真っ白になったススキの穂が秋風に揺れている。
   野山の雑木の葉が少しづつ黄みを帯びてきた。
   ビバルディの四季の秋が急に耳元に広がる、そんな秋深い雨上がりの京都を、久しぶりに歩きたくなった。
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神田神保町、読書フアンに沸く・・・神田古本まつり

2005年10月28日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   今日から11月3日文化の日まで、神田神保町の古書店街で、古本市が開かれている。
   新聞記事では、人々の読書離れ、文字離れが報告されているが、なんのその、朝早くから人々が露天の俄か書店に張り付いて、中々、本に近づけないほどの盛況である。

   神田神保町交差点から岩波書店の周りは露店、駿河台下三省堂の中は一部は建物の中だが外は露店、それに、古書店の外の歩道に出されたワゴンセールも靖国通りに面して並んでいてこれも露店、今日のように天気の良い時は、正に気持ちが良くて、本探しにはウッテツケだが、雨でも降れば目も当てられない。
   東京の10月は、梅雨時の6月よりも雨が多いと言う。

   土曜日と日曜日には、一歩奥に入ったすずらん通りに、道路の両側に沢山のワゴンセールの俄か書店が店を出す。
   名だたる出版社や書店、小さいが貴重な専門書を出す出版社、宗教団体、新聞社、等など色々な団体が店を出す。
   経済や経営、歴史、美術、音楽、等の専門書に近い本を、何時もこのワゴンセールで買うのを楽しみにしているが、今回は、私用で行けないので残念ながら諦めざるを得ない。
   中々手に入らない珍しい本や、サイン本が手に入る。
   それに、休日には、パレードや催し物もあり、それに、各店が寄付した本のオークションがある。

   一般的に言って、ドンドン新しい本を店頭に補充するわけではないので、みんなの欲しい本は、早くなくなるので、行くなら早い時期の方が良い。
   後から補充するのは、売れ残りが多くなるからである。
   最近は、昔のように大文豪の本が売れなくなったのか安くなっているように思う。芥川の初版本だってほんの数千円、何万円もする全集など少なくなっている。
   それに、最近では、古書店の店頭のワゴンの中にわんさと積まれて、一時代前の文豪の本が叩き売られている。

   古本を買う場合は、専門の店で買うと、品揃えは豊富だが、少し高いので、関係のない古書店で買うと意外に安い。
   例えば、芸術専門の店で、経営や経済の本を買うのである。
   古書店の場合、各店によって得意な分野があり、その方面を専門に扱っているのだが、それだけではやって行けないのか、ほかに色々な分野の本を扱っているのが普通なのである。

   私の場合、この神保町の古書店では、所謂古本は買わない。
   中には、絶版になっている本とか、中々探せない専門書など本当の古本を買うこともあるが、私の買うのは、新本である。
   ブックオフの新古書と違って、新本なのか古本なのかは、日頃の勘で分る。
   結構意識して新しい出版物には注意を払っていて、大きな書店やアマゾンで買っているが、どうしようかと迷った本や時々忘れてしまっていて意識から消えてしまっていた本を、古書店で見つけることがあり、そんな時は矢張り嬉しい。

   この古本まつりでは、購入額が5000円を越すと、無料配送券を呉れるので、多くなれば、隣で店を出しているクロネコヤマトに持って行けばよい。
   一箇所で5000円なのかと聞いたら、合計で良いと言う。しかし、領収書もないし、買う時値札を外されるので金額など分らなくなる。3000円でも良いのだといい加減なことを言うが、これを知っているヒトはベテランか常連客位かも知れない。
   尤も、優しくて気の利いた店員さんは、沢山買ったヒトには無料配送券を渡して郵送を勧めている。

   毎年、この無料配送券を貰って大きな箱を自宅に送っていたが、今年は、食指が動かなかったのと、早く切り上げて、もう一度、ビッグサイトのMPC EXPO 2005に行く心算だったので、買った本は次の5冊だけであった。

   堺屋太一著「エキスペリエンツ7」
   プラハラード他著「価値共創の未来へ」
   シュワルツ著「なぜ選ぶたびに後悔するのか」
   チャーマル・ジョンソン著「アメリカ帝国の悲劇」
   アンナ・ポルトフスカヤ著「プーチニズム」

   〆て税込み定価は11340円が、4500円だったから、60%引きと言うことである。
   本探しを楽しんで、こんなに安いのだから、秋の娯楽としては、立派なものだと思っている。
   
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WPCフォーラム2005・・・坂村教授uIDでグローバル・スタンダードを目指す

2005年10月27日 | 政治・経済・社会
   WPCの基調講演は、東大坂村健教授の「実用化に進み始めたユビキタス・コンピューティング」で始まった。
   昨年までは、まだ、トロンの話をしていたが、今回は、オーストリアのタスマニア州政府の協力で、医療関係などuIDの実証実験が始まったと言う話から、uIDコードの世界標準への動きについて、ユビキタス・コンピューティングについて熱っぽく話していた。

   余程日本社会のアメリカ偏向の傾向に苦労しているのか、毎回、「米国が、米国が、と言うのはやめましょう」と説く。
今回も、巷で世界標準であると思われているウオールマートが推進しているEPCのバーコードシステムと対比しながら、坂村教授達がe-engineフォーラムで進めているuIDが如何に汎用性のあるユビキタス・コンピューティングの将来像であるかを語ったのである。

   EPCのバーコードシステムは、13桁の数字の中に、国、会社、品種、チェックデジットを示す数字が入っていて、貼り付けられたそのものを正確に示す「意味コード」である。
キャパシティが小さいので多くの情報を収容できない。
   一方、uIDシステムは、RFIDなどのチップには、個別のものの識別番号が付いているだけだが、同時にチップにアンテナが付いていて、ネットワークで他のコンピューターに接続しているので詳しいバック情報でサポートされているのだと言う。
   バーコードの方は、印刷すれば済むが、RFIDのチップなどの場合は、チップにアンテナを付けて、必用によっては電源までつけなければならないのでコストがかさむのが難点だと言う。
   しかし、サイズは、128ビットで、10進法の38桁、地球上の森羅万象に番号を打っても大丈夫だと言う。

   ユビキタス・コンピューティングの目的は、人間の生活空間の「状況」、即ち、ヒト、モノ、場所のコンテクストを、人間の意識の負担を懸けずに細かく認識し最適制御することである。
   そのために、モノや場所を認識する為に、唯一無二のユニークな個別番号を付けたRFID,アクティブチップ等を貼り付ける。
そして、このuIDコードを、コード・リーダーで読み取ってその番号を得て、電話帳役のサーバーを引き、個々のサービス・サーバーに繋いで情報を取る。
   従って、uIDコードは、ネットワークに繋がって始めて意味が分るのであるが、その為にあらゆる所で活用が可能となり、正に、汎用技術であり、パブリック・インフラなのである。

   uIDシステムを実用化するために、あらゆる所で実証実験が行われている。
   自律移動支援プロジェクト~道路にチップを埋め込んで目の不自由なヒトを誘導する、或いは、道路わきに埋め込んで置いて観光案内を放送する。
   食品トレーサビリティプロジェクト~野菜や肉類などその生育情報を含めて消費者の手に届くまでの情報をチップに収容等など。
   薬品トレーサビリティプロジェクト~薬品情報のみならず、例えば、飲み合わせの危険察知情報等もトレース。
   成果物流、倉庫内位置管理、農薬ナビ、ETC
   坂村教授は、コンビニで買った弁当の玉子に問題あり、食べないように、と言った連絡が携帯に架かって来る様にしたいのだと言う。

   便利だけれども、ヒューマニズムと言わないまでも、プライバシーの尊重と人間の尊厳を守る為に、ヒトには絶対にuIDコードはつけないとも言う。

   中国にも、韓国にも、そしてアジアの各地から、ヨーロッパ、アメリカにも、uIDの同調者が広がっており、t-engineフォーラムが拡大し続けていると言う。
   狭量な日本国内でも、たたきにたたかれたトロンの坂村教授のグローバルスタンダードを目指す壮大な挑戦である。
   
   グローバルスタンダードについては、坂村教授の卓見と素晴しい解説が、新著「グローバルスタンダードと国家戦略」に書かれているが、これについては稿を改めたい。
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WPC EXPO 2005・・・PCとデジタルの進歩

2005年10月26日 | 経営・ビジネス
   今日からお台場の国際展示場で、WPC EXPO &フォーラムが開催されている。
   PCとデジタルの総合展示会とフォーラムで、毎年、各社が新製品を提示して競争するのであるが、今年は、例年より寂しい感じで、ソニーなども出展していなかったし、それに、フォーラムも、東大の坂村建教授の「実用化に進み始めたユビキタス・コンピューティング」以外は、意外と役者が揃っておらず、手を抜いた感じである。
   それに業界においても、目だった新製品が出ておらず、先月、幕張で開かれたCEATEC JAPANに持っていかれた感じであった。
   いずれにしても、昨年は、CEATECもWPCも共に楽しい展示をしていたので、拍子抜けでもあった。

   PC/ネットゾーンは、PC,周辺機器、パーツ等のハードから、ソフトウエアやネットワークサービス、デジタル・メディアゾーンは、映像や音楽、コミュニケーション等のデジタルエンターテインメント、家庭やオフイスでのデジタル・サービスなど幅広い展示である。

   もう一度疑問を呈するが、何故、ソニーは展示を止めたのか。本来なら、このWPCの主役であるべき筈なのである。
   それ程、コストを切り詰めないとやっていけないのか、あるいは、競争会社と張り合う価値のないWPCなのか。
   新しく出したウオークマンが大切なら何故売り込まないのか、サイバーショットDSC-R1を出したのにキヤノンと覇を競っているデジカメを何故宣伝しないのか、PCバイオはどうしたのか。
   今回、楽しみにWPCにやって来た多くのソニーフアンを失望させたツケは極めて大きい筈である。

   ところで、私は、まず、キヤノンのブースに出かけた。
   モデルが出て写真のデモをしていたブースは、前回は、デジカメ一眼レフEOS20Dの売り込みであったが、今回は、新しいプリンター複合機ピクサスMP950のデモンストレーション主体であった。キヤノンブースは、コンシューマーやオフイス用とも製品が多いのでフアンを集めていた。
   一方、競争会社のエプソンは、同じくプリンター複合機カラリオ950、オフィリア、そして、ホームシアター用のDREAMIO3点を集中展示していたが、カラリオは、要するに、露出不足や色彩補正機能を機械にビルトインした美しいエプソンカラー一点に焦点を絞り、その良さを強調していた。それに、専用インクと専用写真用紙を使用しないと効果が出ないと言うのである。小泉流の売り込み手法である。
   エプソンは、製品が少ない分、売り込みの絞り方が上手である。

   一方、キヤノンの方だが、いくら色々な技術と製品の質が上でも、宣伝が総合的・総花的で、パンチ力が弱くて損をしている感じがした。
   例えば、キヤノンのピクサスでは、露出補正はどうするのかと聞いたら、同じ様に出来るのだが、ワンタッチではなく係員が試行錯誤してやっと出来た状態で、素人受けがしない。
   ユーザー・オリエンテッドでないのである。
   もう一つ、ユーザーオリエンテッドでない点は、キヤノンの一眼レフの手ブレ防止機能が、カメラ本体にではなく、レンズに付いている事。
   コニカ・ミノルタの様にカメラ本体についていれば、どんなレンズを使っても手ブレ防止機能は働くが、キヤノンの場合は、一つ一つ高いレンズを買わねばならない。
   いくらキヤノンシステムの方が良い写真を撮れる技術であったも、ユーザーにとっては、嬉しくはない。


   写真で面白かったのは、ナショナル・ジオグラフィックのブースで、アフリカの素晴しい写真のパネルが圧倒的な迫力となんとも言えない詩情を漂わせていた。
   残念ながら、去年、可愛いモデルが出ていてアマチュア・カメラマンの人気を集めていたニコンブースは今回は消えていた。
   とにかく、このWPC,コンパニオン・クラブのオンパレードか、綺麗な若い女性が至る所でコンパニオンをしているので、その写真を撮るためだけに来ている若いアマチュア・カメラマンも多い。

   余談ながら、日経が、スペッシャル・トークショウのブースで、日経の専門誌のベテラン記者が、デジタル関連の面白い話をしていて、ここだけは、デジタル・デバイドのシニア客が一杯で人気を集めていた。
   コジマのディスカウント店も、電気製品の叩き売りで繁盛していた。

   坂村教授の話と提言は、極めて貴重なので、項を改めたい。

   
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ブレジンスキーの「孤独な帝国アメリカ」(その1)・・・世界の終わりのシナリオ

2005年10月25日 | 政治・経済・社会
   アメリカ屈指の戦略思想家であるズビグニュー・ブレジンスキーが、もう80歳に近いと思うが健筆を振るって素晴しい本を書いた。
   昔、著者の「ひよわな花・日本――日本大国論批判」を読んだとき、日本をアメリカの属国だ書いていたので、腹がたった記憶がある。実質的には、そうだったかも知れないが、正面切って言われると愛国心がある以上腹が立つのは当たり前である。

   ところで、今回の「The Choice Global Domination or Grobal Leadership 孤独な帝国 アメリカ」は、アメリカの選択を論じながら、今日世界が立っている現実がいかに脆く危険なものであるのかを克明に描きながら、人類の文化文明の危機、岐路を論じている。

   アメリカが直面する課題は、「何のための覇権か」と言うこと。即ち、アメリカは共通利益に基づく新しい世界の仕組みを作り上げようと努力するのか、或いは、その卓越した力を自国の安全を守る為だけに使うのかを問われていると言う。
   言い換えれば、米国の長期戦略の選択肢は、自国の覇権を、自律した国際システムに徐々に注意深く移譲するか、覇権を手放した後に生じるだろう世界的な無政府状態には関わらないようにするかの二者択一になる、と言うのである。

   今や並ぶべきものなき超大国になったアメリカ、世界の安全保障に対するアメリカの主導権とその力の果たす役割は必須不可欠で、それに変わる選択肢はない。

   建前上は国民国家が依然として主役を演じているが、「国際政治」は、益々、境界がなくなり、雑然とした、時には暴力的に広がってゆくグローバリゼーションの流れで、米国社会と他の世界が混ざり合うことによって、アメリカの安全保障は世界の繁栄と益々密接に関わって来ている。
   政治指導者の役割は、安全保障に関するアメリカの国民の基本的な総意を、世界から支持される形で長期的に取り組むことである。
勇ましい主戦論やパニックを煽ることではなく、伝統的な理想主義と現実についての冷徹な実用主義とを融合させて、世界の平和を図り、国内の安全を追求することだと言う。

   さて、この覇権超大国のアメリカが、その力とグローバリゼーションの組み合わせが世界の憎悪を招き寄せて敵意を集中させて、僅かな貧しい狂信的なテロリストによる9.11事件で、その帝国の屋台骨をへし折られた。

   グローバリゼーションとテクノロジーの発展は、平等に社会の脆弱性をもたらす。
IT革命によって、驚異的に距離が短縮されて、国家主権の保護の傘に風穴をあけ、致命的な破壊力を持つ近代兵器を拡散させてしまった。
テクノロジーの平等化の進展が、地下のテロ組織や貧しい国家でも、かっては先進国のみが保有可能であった、破壊的な超近代兵器などの戦争手段を保持できるようになった。

   核兵器、化学兵器、細菌兵器などの複雑な兵器システムを使おうとする国が貧しければ貧しいほど、また、テロ・グループが孤立しておれば孤立しているほど、大量破壊手段の抑制や識別は困難になり、危険が増大する。
   
   最先端の破壊的な武器を使ったテロが、破壊的な行動に出るのは時間の問題で避け得ない現実、聖書とは別の「この世の終わり」が現実味を帯びてきた。
   神の審判ではなく、人為的な地球規模での大変動の連鎖反応によって、地球が滅んで行く。そうでなくても、人類は、科学によって、今後も益々、自己破壊能力を高め続けて行くであろう、と言うのである。

   イラク戦争で驚異的な破壊力と戦果を世界に示したアメリカのミサイル防衛システムは、確かに仮想敵国に対して威力を発揮し、アメリカの産群複合体には好都合な国家戦略であろう。
   しかし、住民が密集する都市へのテロや細菌テロ、或いは、電力ネットワークや情報通信システムや航空機関係などへのサイバー攻撃にはどう対処するのか、
アメリカの安全防衛体制のジレンマについてブレジンスキーの筆は益々冴えてくる。   
   
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ツワブキが咲き始めた・・・公共の場に花を一杯に

2005年10月24日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   園芸店で二鉢買って庭植えしていたツワブキが、株分けを続けている間に、大分庭に広がった。
   斑入りの黄色がかった葉のコントラストが美しく、下草だけれど、こぼれ日にあたるとそこだけ光り輝く。
   葉がふきに似ていて、つやつや光っているので、ツヤブキ、それがナマってツワブキになったという。

   京都の社寺の庭では、今、ムラサキシキブと一緒にツワブキが美しく咲いていると思うが、豊かに起伏する苔むした庭園の水際に良く似合い、なかなか、風情がある。
   私にとって、印象に残っているのは、山口県の津和野でのツワブキである。
   群生と言わないまでも、街の一寸したところ、あっちこっちに黄色い花を咲かせていた。
   森鴎外のお墓にも咲いていた。
   綺麗な小京都津和野は、風格のある町で、街そのものが文化財で、散策していて楽しく、それに、街が小さいので気楽に山の上のほうまで歩いて行ける。

   旅をしていて楽しみの一つは、可憐な路傍の草花や野山の花木等風景を彩る花々の美しさに感動することである。
   ヨーロッパを車で走っていて感激したのは、一面のヒマワリ畑の目も眩むような激しい衝撃である。
   スペインでも、フランスでも、イタリアでも、ところによるが農村地帯では、一面にゴールドの世界が広がる。
   それに、大分少なくなったが菜の花畑も、正にゴールドの世界で、グラインドボーンに行く途中、あまりにも素晴しかったので、そこで長い間小休止して遅れてしまった。

   黄色で思い出すのは、花ではないが欧米での紅葉である。
   日本のモミジ等の様に錦ではなく、赤く紅葉する木々も少ないので色は単純で黄色一色だが、森や林が真っ黄色に染まるのである。
   黄金色に落ち葉の敷き詰められた小道を、真っ黄色の木々に染まったトンネルを歩いたが、感動的な瞬間で、本当に「時よ止まってくれ」と言いたくなるほどであった。
   アメリカのニューイングランドを車で走った時、オランダの田舎の林を歩いた時、イギリスの湖水地方を車で走った時、森や林は輝いていた。

   余談だが、日本には常緑樹が多い為か冬でも緑が残っているが、ヨーロッパの街路樹や田舎道の木は落葉樹が多いので、秋から冬にかけての風景の変わり方が実に色彩的で、晩秋には、田舎の風景が赤紫がかった美しいワインカラーに染まる。
   任期を終えて夏のブラジルからの帰り、初冬のレマン湖を車で走った時、やや霞のかかった空気に浮かび上がるなんとも優雅な秋色の田舎風景を見て感激しながら走ったのを覚えている。
   何故かと言うと、この時、運転の初歩だったので、ハンドブレーキを十分外さなかったために煙を出して、回復の為に分らないフランス語で四苦八苦したからである。
   四季の変化の乏しいブラジルだが、名誉のために言うと、田舎道で出会う真っ黄色に覆われたイッペーの大木や、紫色の優雅な花に包まれたジャカランダの大木の風格とその美しさは、また、格別なのである。

   もう一つ思い出すのは、ヨーロッパでは、路傍や公園の芝生では、植えっぱなしの春の花の球根が自然に咲き乱れることである。
   日本の様に梅雨がないので、地中の球根が腐らずに翌年もそのまま咲くためであり、真っ先に、クロッカスを筆頭にこれ等の花が春の到来を教えてくれる。

   それに、ヨーロッパの道路際には、色とりどりのポピーの花が咲き乱れていて、これが実に綺麗である。
   ギリシャの古代神殿などの遺跡の跡に咲き乱れるポピーも印象的だが、この道端のポピーも旅情を慰めてくれる。

   この頃、道路公団も粋になって、高速道路に沿って美しい花を植え始めて、ドライブが随分楽しくなった。最近では、欧米より、その努力は上かもしれない。
   それに、日本の地方公共団体も、道路沿いに並木道をつくり、コスモスなどの草花は勿論、桜や皐月等の花木を植えて街並みを美しくしようとしている。
   太陽に焼け付くサウジアラビアの街路樹は、夾竹桃一色だが、あんなに水の貴重なところでも必死になって街路樹を守っている。
   公共の場に、花を一杯にする運動を起こしたいと思う。

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加賀見山旧錦絵・・・玉三郎、菊五郎に挑戦

2005年10月23日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   歌舞伎座の「芸術祭十月大歌舞伎」の昼の部は、芝雀、亀治郎、翫雀の「廓三番叟」と、玉三郎、菊五郎、菊之助、左團次等の「加賀見山旧錦絵」であった。
   廓三番叟は、3人3様の踊りで華やかな舞台であったが、やはり、楽しみは、加賀見山旧錦絵であり、前回、この歌舞伎座で、玉三郎の尾上を観ているが、岩藤が仁左衛門から菊五郎に、お初が勘三郎から菊之助に代わっているので、どんな舞台展開になるのか楽しみに出かけた。

   加賀騒動に、松平周防守邸で起こった事件、即ち、局・沢野が中老みちに履き違えられた草履を投げつけ、侮辱に耐えかねてみちは自害し、下女さつが沢野を打って主人の無念を晴らしたと言う事件を絡ませて描いた浄瑠璃を歌舞伎にしたものである。
   この歌舞伎では、
お家乗っ取りを策す局岩藤と兄の剣沢弾正が、忠臣の中老尾上を貶める為に、尾上が主君から預かる蘭麝待を盗み出して代わりに自分の草履を箱に入れ、岩藤がそれを見つけて詰り倒して尾上を草履で打ち付ける。
   満座の中で恥辱を受けた尾上は、自害して、それを知った忠臣の召使お初が、岩藤を打つ。
   岩藤たちの悪巧みが露見し、それらの功労によりお初は2代目尾上に抜擢される。

   お家騒動と忠臣のあだ討ち、日本人好みの筋書きなので、当初から人気が高かったようであるが、海外では、どうであろうかと考えてみた。
   少なくとも、この主題は、昔の日本人の精神的バックボーンである忠君愛国が色濃く出ているが、欧米では、忠信的な傾向はあっても、主君や主人の為に命を捨てて敵を討つと言った傾向は希薄なような気がする。
   まず、自分の僅かな記憶だが、シェイクスピア戯曲の中でも、リア王のケント伯の忠臣ぶりは印象的だが、紗翁の悲劇の中には、あだ討ちのケースはないように思う。
   欧米人を見ていると、極めて強い愛国心や同胞愛を持ちながら、理屈に合わなければ祖国を捨てることもあるが、その点、日本人の方が、会社も含めて自分の属する国や組織に対する忠誠心は極めて強いと思う。
   アテネが好きだから、その国の法が悪法であっても自分は喜んで従う、と言って、毒杯を仰いで従容と死んでいったソクラテスは、異例であったのであろうか。

   欧米では、客が入らなければ、「カルメン」をやれば良いと言われるが、日本でも、同じ様に「忠臣蔵」の人気は高い。
   この加賀見山旧錦絵は、女忠臣蔵と言われるほどの歌舞伎。やはり、勧善懲悪、悪者が忠臣のあだ討ちによって最後は滅ぼされる、それに、途中で、日本人好みの好人物が非業の最期を遂げて、判官びいきを満足させてくれるのであるから、こんなにサービス精神旺盛な出し物はないと言うことであろうか。
   お宿下がりの奥女中たちには、自分達の住む世界のゴシップ探訪、町人や庶民にとっては、自分達の代表・町人出身の尾上が果敢に武士出身の岩藤や権威に戦いを挑んでいるのだから応援したい、そんなこんなで面白いのは当然であろう。

   ところで、実際の舞台であるが、私は、やはり玉三郎の動きをジッと双眼鏡で見ていた。
   殆ど自分を押さえに抑えた慎重な立ち居振る舞いであり、岩藤に草履で打ち据えられてからは、さらに、放心状態、しかし、主人を心配しながら親元への手紙を届ける為にお初が家を出て一人になると、堰を切ったように、お初の優しさ健気さに感涙して無念さをかき口説く。
   お初が、胸騒ぎを抑えるために行こうか行こうまいか、神棚に拝みながら、尾上の身の上を案じて出て行くのを、襖の陰からジッと覗き見ている尾上は、正に、1人の女に戻った尾上、万感の思いがこの玉三郎の演技に凝縮されている。
   尾上が自害したのは、岩藤への当て付けと自尊心を傷つけられ屈辱に耐えられなくなったことが原因であろうか。
そうかも知れない、一寸違う、辛抱に辛抱を重ねた宮仕えに心底疲れてしまった尾上には、もう、命はどうでも良かった筈である。
それに、澄み切った命の尾上には、邪悪極まりない岩藤のような人間と関わらねばならかった自分の運命こそが恥であり屈辱だったはずで、もうそんな岩藤など意識にはなかった。
死を決心して迷いはなかったが、お初の人間としての優しさ暖かさが身に沁みて、やっと人間を取り戻した最後の命の輝き、今、尾上は最後の白鳥の歌を歌っているのだと思って玉三郎をジッと観ていた。
   死に急ぐ尾上を残して回り舞台が回ってゆく。

   この玉三郎に対して岩藤を演じた菊五郎だが、日頃から、女形も何の苦もなく演じており、立ち役専門のこの岩藤も実に風格のある、それに、声を男声にしてどすの利いた迫力を出して好演していた。
   岩藤を演じたことのある団十郎や仁左衛門や吉右衛門等は、どう上手く演じても男であるが、菊五郎は、女形を演じれば女になる。
   同じ様な岩藤を観られるのは勘三郎だけであろうか。
   この大きな役者に、玉三郎は真っ向から挑戦を挑んだのがこの舞台だと思っている。
   
   菊之助のお初は、実にはつらつとして初々しい。
母親藤純子の面影と錯綜した立ち居振る舞いが、舞台を華やかにしており、それに、父親菊五郎の岩藤を非難するあたり、親子の葛藤を垣間見るのか客席から笑いの声。
この舞台、本当は主役は、このお初ではないかと思うくらい菊之助は輝いていた。
   辛抱に辛抱、悲痛な思いの演技が続いている玉三郎と好対照、しかし、その舞台にメリハリをつけて健気に演じていた、そんな気がして観ていた。
   
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感動的なブラームスの「ドイツ・レクイエム」・・・新日本フィル定期公演

2005年10月22日 | クラシック音楽・オペラ
   昨夜、トリフォニー・ホールで演奏された新日本フィル定期公演の「ドイツ・レクイエム」を聴いて久しぶりに感動した。
   随分長い間、新日本フィルのシーズン・メンバー・チケットを保持しているが、9月は忘れてしまって行けなかったので、久しぶりの演奏会だった。
   シーズン・チケットは、それなりに安いが、この新日本フィルも小澤征爾の演奏会だけは確実にマークしているが、手帳に日程を書き込みながら、忘れてしまう。特にシーズン初めが多いが、昔からだから、年の所為でもなさそうである。

   シーズン・メンバー・チケットを始めたのは、もう随分前からで、フィラデルフィア管弦楽団が最初で、次に、アムステルダム・コンセルトヘボウ、イギリスに移ってからは、ロンドン交響楽団とロイヤル・オペラ、日本に帰ってからは、新日本フィルである。
   外国での場合は、忘れると言うよりは、出張など仕事で行けなかった事が多かったが、とにかく、バーンスティンが指揮すると言っても特にチケット手配する心配がない分助かった。
   フィラデルフィアやコンセルトヘボウ等は、祖母から娘、そして孫へと引き継がれるので市場に出るチケットは極めて限られていて、とにかく、手に入れるのが難しかったので貴重であった。
   日本でも、N響や都響も考えたが、まず、小澤征爾の演奏会を抑えることが先なので、後は、シングル・チケットで対応している。

   ブラームスのドイツ・レクイエムであるが、何故か、学生の頃から、レコードで良く聴いていた曲で、今回の演奏会でも、全く時の隔たりを感じなかったくらいだから、印象深い音楽である。
   ところが、誰の演奏だったのか全く覚えていない。記録を見ると、フルトベングラーのストックホルム・フィルだとかクレンペラーのフィルハーモニアがあるようだが、後者だったかもしれない。
   演奏会に通い始めて、オペラに比重が移りだしてから、ジックリ、CDやDVDでクラシック音楽を楽しむことがなくなったが、まだ、フィラデルフィアの院生時代に集めたものも含めて沢山のクラシックレコードを押入れに保存している。
   先年、瀬戸内の田舎町の小奇麗な喫茶店で、棚にビッシリ古いレコードを並べて、くすんだジャズのレコードをかけていたが、カップをいとおしそうに磨きながら微笑んでいた老夫婦の幸せそうな姿が忘れられなかった。

   ところが、ドイツ・レクイエムであるが、まだ、実演を聴いた事がなかった。
   随分前に、某日本企業の記念行事で、ロイヤル・アムステルダム・コンセルトヘボウが、ザバリッシュ指揮で演奏することになっていたが、ソプラノの都合でキャンセルされ、プログラムが変わったことがあった。
   もう一つ好きな、ヴェルディの「レクイエム」の方は、何度か聴いている。
   亡くなったシノーポリがフィルハーモニア管を指揮、ソプラノのリッチャレルリ等が歌って素晴しかったが、これを聴きながら、何故、ブラームスが、オペラを作曲しなかったのか、何時も残念に思っていた。
   ヴェルディのレクイエムは、極めて劇的な、正に、オペラ作曲家ヴェルディの面目躍如たるものがあるが、ブラームスも歌曲を作曲しており、素晴しいオペラを作曲していた筈だと思っている。

   バイオリン抜きの低音の弦で始まるこのドイツ・レクイエム、「悲しむ人々は、幸いである」とマタイの予言を晋友会合唱団の素晴しいコーラスが歌い出すと、もう、どっぷりとブラームスの世界。
   私は、好きでクラシックを聴き続けているだけで音楽のことは良く分からないが、新日本フィルでは、合唱団は、小澤征爾の関係か、何時も、この晋友会合唱団だが、実に感動的な歌声を聴かせてくれる。
   ベートーヴェンの第9も、カルミナ・ブラーナも凄いが、この曲のように、「人生は辛いもの、しかし、一生懸命生きようじゃないか」と言ったシミジミと胸に響く大曲も本当に上手い。

   このドイツ・レクイエムは、死者のためのレクイエムではなく、一つのドイツ語のレクイエム、聖書の言葉を引いてはいるが、ブラームスの言わば生きる証のような歌であろうか。
   ブラームスはプロテスタントなので、基になっているのは、マルチン・ルター訳の新約聖書のようであるが、私は、ベルリンの壁が崩壊した直後、ルターが51か条の提題を貼り付けたウイッテンブルクの城教会を訪れている。
   あの頃の東ドイツの佇まいは実に貧しかったし、ウイッテンブルクも暗く沈んでいたが、正に、このドイツのこの町で、ルターが命の叫び声を揚げたのだと思うと感動的であった。

   ソプラノのカテリーナ・ミューラーの澄み切った清楚な歌声が、感動的で、「貴方たちは、今は悲しみを抱いていますね」と歌う。ベルリンやバーゼル等でスザンナやパミーナ、ゾフィー等を歌うようだが、また、名だたる教会合唱團のソリストもつとめていると言う、私は、昼、歌舞伎で使っていた双眼鏡で彼女の歌唱を見ていた。
   カテリーナ・ミューラーの歌うバッハを聞いてみたいと思ったが、ドイツに行かなければならない。

   もう1人のソリスト、バリトンの石野繁生だが、第3曲の、「主よ教えてください、ぜひ私に」の第一声で、そのパンチの効いたボリュームのある素晴しい歌声にビックリしてしまった。
   世界のあっちこっちで、ベートーヴェンの第9を聴いているが、「オー・フロイデ」の第一声で感動する男性歌手に遭遇することが稀だが、私には、この石野繁生の歌声は、カテリーナ・ミューラーの歌声とともに、今回の演奏会の大きな収穫であった。

   指揮者のミヒャエル・ボーダーだが、バーゼル歌劇場の音楽監督をしていたようで、この二人のソリストもバーゼルで活躍しており、その関係のソリスト起用かも知れないが、今回のドイツ・レクイエムの感動的な演奏は、二人のソリストと晋友会合唱団の素晴しい歌唱に負う所が大きいと思う。
   ボーダーは、ウイーン国立歌劇場では、新しい作曲家のオペラが多いようだが、ドレスデンでは、ワーグナーのオペラを演奏することが多いようである。
   しかし、リカルド・ムーティやズービン・メータに師事したとか、とにかく、このように感動的なブラームスを引き出した実力は、たいしたものであると感激した。
   もっとも、演奏したオーケストラは、新日本フィル、時々音を飛ばすが、益々、素晴しく成長しているのが頼もしい。

   
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スターバックス英国紅茶を駆逐・・・アフタヌーン・ティの危機

2005年10月21日 | 生活随想・趣味
   昨日のウオールストリート・ジャーナル(アジア版)に、「紅茶は誰のものか?」と言う面白い記事が出ていた。
   世界の金融市場の中心シティのセント・ポール寺院の3ブロック内に、8店のスターバックスの店があり、ロンドン市内には200店舗で、ニューヨークの190店舗より多いのだという。
   最初の英国店は、1998年に開店し、現在では466店舗で、普通世界的には80%の客がテイクアウトなのだが、イギリスでは逆に80%が店内で飲み、食べ物も食べてくれるのでスターバックスにとっては上得意になっている。

   10年ほど前から、大陸ヨーロッパやアメリカに旅行したイギリス人が、ラテやエスプレッソなどと言う強くて少し高いが美味しいコーヒーに味を染めたのを皮切りに、ヤングや都会人、ロンドンウオーカーの間で人気が出た。
   イギリス人の開発チームが、ストロベリー・クリーム・フラペッチーノを開発して米国で売り出されており、イギリスでも、ローカルのチーズ・マルミット・サンドイッチを作る等工夫している。

   このスターバックスの侵略により、不味いインスタントコ-ヒーしか知らなかったイギリス人の嗜好が変わって、この5年間に紅茶の売れ行きが12%も落ち込んでしまった。
   イギリス人は、朝は、朝食前、中、後に飲み、昼食、夕食には欠かさず飲み、それに、アフタヌーン・ティやハイ・ティと、紅茶を飲む習慣が染み付いている。
   しかし、イギリス人は、紅茶を90%家庭内で飲んでいて、レストランやパーティ等は勿論コーヒーで、外で紅茶を飲む機会が少なく、それに、日本のような喫茶店に相当するものが殆どないのが、スターバックスにやられた一因かもしれない。
   
イギリスでは、フィリップ殿下の出られた晩餐会やチャールズ皇太子のレセプションなど多くのパーティ等に出たが、食後は必ずコーヒーで、立派なレストランでの会食でも、食事の後は必ずコーヒーであった。
   昔英国の軍隊では、下士官以下は紅茶で、上官は、コーヒーが供されたと聞くが、イギリスでは、何故かハレの場では、コーヒーである。
   紅茶は、イギリス人の生活に極めて密着しているが、プライベートな生活空間を豊かにする飲み物と言う位置付けであろうか、そんな気がする。

   何れにしろ、1600年代に紅茶を飲み始めて、紅茶を輸入する対価が欲しくて中国にアヘンを売りつけてアヘン戦争を引き起こし、アメリカでは、ボストン・ティ・パーティ事件までやらかしたくらい、イギリス人にとっての紅茶は特別なのである。

   リッツやドルチェスターなどトップホテルでも、アフタヌーン・ティやハイ・ティのメニューを必死になって見直して、サンドイッチや食べ物を変えたり、紅茶にペパーミントやリコリスやクランベリ・フレイバーを加えたり、レモン・ベルガモット入りのブラック・ティを出すなど工夫を凝らし始めた。
   世界屈指の食品会社ユニリバーが、紅茶ラテやダーク・リプトン紅茶等を抽出できるT-Birdと言う特別なティ・メーカーを開発して、リゾートやサッカー場やオフイスに50機据えつけた。
   また、PG2GOと言うティ・バッグを巻き上げる糸の付いた紙コップを開発し、これを、ベーグル・ファクトリィが大々的に使用し始めて、大当たりだとか、とにかく、涙ぐましい努力が続いているようである。

   この7月に、10日間ほどイギリスにいたが、パブでギネスばかり飲んでいたので、とうとう一度もスターバックスに行かなかったので、残念ながら、このコーヒーショップ事情は分らなかった。
   しかし、前述したように、適当な喫茶施設のないイギリスでは、スターバックスが、大人に恰好のミーテイング・スポットを提供したわけだから、必ずしもアメリカのソフトパワーに負けたわけではないと思う。
   お茶を楽しもうと思えば、イギリスでは、レストランかホテルしかなく、四六時中パブと言うわけにも行かないし、マクドナルド等も不都合だし、と言うことであろう。
   しかし、やはり、美味しいバラエティに富んだスターバックスコーヒーの味には勝てないのかも知れない。

   余談だが、昨年、アメリカでは、ニューヨーク、ボストン、フィラデルフィアで、何箇所かスターバックスの店に入ったが、ペンシルバニア大学キャンパス内を除いて、ビジネス街でも、何となくうらぶれた感じで気持ちの良い雰囲気ではなかった。
   しかし、食べ物の量と大きさは、遥かにボリュームがあった。
   
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通し狂言「貞操花鳥羽恋塚」・・・鶴屋南北の世界

2005年10月19日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   鶴屋南北の通し狂言「貞操花鳥羽恋塚」を、三宅坂の国立劇場で観た。
   正午から5時間、可なり長いが、まあ、仮名手本忠臣蔵など1日を要する通し狂言から比べれば短いし、それに、昨年、大晦日の午後から除夜の鐘の後翌日の元旦明けまで続いた岩城宏之のベートーヴェン全交響曲演奏会より短い。
それに、ワーグナーの楽劇のような緊張感がない分気楽であった。

   今回の舞台で話題を呼んでいる尾上松緑の宙乗りであるが、全館真っ暗の中で客席中央に光が当たったかと思うと、私の眼前3~4メートル先の中空に、凄い形相で睨み付けている天狗が浮かび上がり、意表を衝かれた。
   私の席は、11列目の30、一階客席のまんまん中で、宙乗りのロープが、舞台の下手正面左端から客席3階の上手右端へ対角線状に張られているので、正に、斜め真上の眼前に松緑の朱徳院の天狗が泳いでいるのである。
   静止していた天狗が、舞台上手に、こちらを凝視したまま舞いながら後退して行き、真っ赤な雷の縫い取りの華麗な衣装に早代わりするなど松緑の優雅な演技が見所であった。
   真っ暗な館内に、2条のスポットライトを浴びて2重に滲んだ松緑の天狗の姿がバックに影絵のように浮かび上がって幻想的であった。

   猿之助のスーパー歌舞伎の宙乗りも普通は花道の上を移動するだけだが、今回は、筋交いの宙乗りなので、客席を対角線状に飛び、全長29メートル、高さ9メートル。
   かなりの大仕掛けで、高所恐怖症の松緑だが、中空を上手奥へ凄まじい天狗風を伴って大魔王となって魔界へ消えて行く趣向で、上出来であった。
   襲名披露公演以降、少し低迷気味だと思っていた松緑だが、7月の蜷川十二夜で演じた道化紛いの安藤英竹のコミカルの演技や今回の奴音平とこの朱徳院で、進境の著しさを感じた。  

   今回のこの恋塚は、25年ぶりの再演とか。
   舞台は、平家全盛の時期で、奢れる平家を追討せよとの院宣を巡ってのあれこれで、盛遠の源氏蜂起勧誘の鎌倉への旅立ちで終わるのであるが、その中に、平家物語や雨月物語などを取り込み、三井寺の頼豪阿闍梨、保元の乱で追われた朱徳院、頼政の鵺退治、袈裟と盛遠の鳥羽の恋塚等の話をごった混ぜにしたオムニバス形式の舞台なので、筋があってないような芝居である。
   
   作者の鶴屋南北であるが、貧しい生まれで、満足に読み書きも出来ず学問もない。
   しかし、芝居小屋の近くに生まれ育って、芝居の世界は骨の髄まで沁み込んでいて、目学問・耳学問で得た知識と鋭利な洞察力と感受性で、客が見たいもの、客が喜ぶものを必死になって追求し、四谷怪談などの多くの大衆的な歌舞伎狂言を書き続けた。
   経済不況で庶民の暮らしは苦しく悲惨で残酷な事件が後を絶たず閉塞感漂う文化・文政期に、社会の底辺に生きる人々のどろどろした生活を生世話と言われるほど生き生きと写実的に書いた。
   残酷、狂気、エログロナンセンス等などの怪奇の世界を凄まじい迫力で舞台が展開され、大衆を熱狂させたのである。
   歴史を知らないので世話物しか書けないと言われた南北。この歌舞伎は源平の歴史などを取り入れているが、やはり、伝説の人物や歌舞伎などで出てくる人物や耳学問で得た情報を繋ぎ合わせて書いたのであろうか。

   袈裟と盛遠の物語で思い出すのは、もう半世紀前の映画で、原作菊池寛、監督衣笠貞之助の「地獄門」。
   見たのは随分後だが、京マチ子の袈裟、長谷川一夫の盛遠で、幻想的で、生の儚さをシミジミ描いた素晴しい映画であった。
   因みに、渡(亘)は山形勲。映画では、二枚目は、盛遠の方だが、今回の歌舞伎では、梅玉演じる亘の方が二枚目で、逆転しているのが面白い。 

   今回は、殆どの役者が二役を演じていた。
   主役の3人、富十郎は、油坊主はちょい役なので盛遠が主体だが、頼政と亘を演じた梅玉、小磯と袈裟を演じた時蔵は、比較的同じペースで演じており、夫々に風格があり、舞台を引き締めていた。
   奴長谷平の信二郎とこの3人で演じるがらりと変わった劇中劇の長屋の庶民の夫婦生活の真似事をする件は、全く奇想天外な南北の世界ながら、実に芸達者で流石に面白い。
   女形としては美形ではないが、何時もながら雰囲気のある演技をする孝太郎だが、待宵の侍従と薫を実に情感豊かに演じていた。
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エコノミストの見る日本(その3)・・・アジア外交、そして、靖国参拝

2005年10月18日 | 政治・経済・社会
   私が、今回のビル・エモットの日本特集で一番賛同するのは、「新しい東アジア、古い敵意~中国の対等が日本の地域を変えた、しかし、また、日本の政治をも変えている」と「靖国のあいまいさ」と言う部分である。
   イギリス人の良識とビル・エモットの大人の考え方が良く出ていて、日本への提言として適切だと思ったからである。

   まず、要約から入る。
   戦後の日本は、外交は別として、北朝鮮問題と中国の台頭が起こるまでは、歴史上大きな問題はなかった。
アメリカの核の傘でのミサイル防衛構想の下で安全が保障されていたからである。
   もっとも、中国と雖も、現時点では、経済的にも、軍事的にも日本の方が力が上で、当面の脅威ではない。日本の今日の経済的な脅威は韓国の方である。
   しかし、今日の脅威ではなくても、現在のように急速に国力を増し台頭してくると将来の脅威となり、やがて、中国が、貿易、投資、環境、更に、安全の分野での行動規範まで設定するようになる。
   これまで日本は、アメリカとの結束で良かったが、中国の経済成長がこのまま継続すると、中国とのリーダーシップ競争に負けて、あらゆる分野で覇権を握られてしまう。
   このことが、日本のプライドを傷つけ、国益を害する事となる。

   これを回避する為には、両国で協力して、他のアジアの諸国とアライアンスを形成して域内の共通のルールや手続き等を確立して、中国の力を削ぐことで、そのために国際組織や条約を活用することである。
   日本の位置はEUで言えば、敗戦国という意味ではドイツに近いが、アメリカとの関係が密接であるとか色々な意味ではイギリスに近い。
   しかし、フランスがEUを形成して、EUの威を借りて国際問題でより大きな発言力を行使し、或いは、域内の強力なライバルを押さえ込んだように、日本は、これ等の組織を活用して日本の大望を実現すべきである。

   ビル・エモットの言いたいのは、このまま座視すれば中国が日本を追い越してアジアの覇権を握る。
その前に、日本の国力と影響力のある間に、アジア諸国を糾合して、日本の意向と影響力を行使できるような国際組織を立ち上げ、アジア共通のルールを作って置け。
そうすれば、中国の覇権を抑制でき、日本の国益を守れる、と言うことであろうか。
   お説は御尤もなれど、アメリカ一辺倒で、中国や韓国とは靖国で揉めており、アジア諸国との外交もギクシャクしている小泉外交では当面、残念ながら無理である。

   靖国問題に移ろう。
   何処の国も戦死者を慰霊するのは当然である。
   しかし、靖国神社の場合は、新憲法によって政教分離されたが、1975年以降天皇の参拝は取りやめられたが、大祭には天皇の勅旨が行き、戦没者の名簿のある文書館は天皇の私募金で建てられている等関係がある。
   靖国神社の遊就館は、他国の公式博物館と違って、戦争のエネミーについて一切触れていないし、戦没者をアジア開放の英雄として賛美し、ここに日本の近代史の真実があると言っている。
   政府見解ではないが、公式には、日本は、サンフランシスコ平和条約の調印と同時に戦争判決を承認しながら、戦争に対する議論として、民主主義の為に止むを得ない戦争であったと主張している。
   控えめに言っても、この議論は、極右ではなく、首相と関係ある神社や自民党議員等によって行われていることが、ことをあいまいにしている。
   明確な解決方法の一つは、他の公式なメモリアルをつくること。千鳥が淵の戦没者慰霊碑や天皇皇后両殿下が参加される武道館での終戦の日の式典で機能している。
   私的であろうとなかろうと、特別なステイタスの靖国、その靖国そのものが問題なのである。

   昨日の小泉首相の靖国神社参拝について、英米のメディアは、比較的冷静に報道しているが、どちらかと言えば、呆れ顔であろうか。
   特に、強い論調は、日本の報道にあまり興味を持たない英国の良識の象徴であるインディペンデンス紙であるが、その報道を要約すると次のとおりである。

   小泉首相の靖国参拝は、既に摩擦含みの近隣諸国との関係ににさらにダメッジを与えた。靖国をアジアの人々は、日本軍国主義の象徴と考えている。
2週間前に、大阪高裁が、首相の靖国参拝に違憲判決を出した。
小泉首相は、選挙の勝利で、靖国参拝をプライベートだと主張すれば、外交の嵐を乗り切れると思ったフシがある。
小泉支持者は、首相が来年の退任前に、最も起爆力のある8月15日に参拝してくれることを期待している

   タイムズやニューヨークタイムズ、ファイナンシャル・タイムズ、ワシントンポスト等の報道だが、中国や韓国の対応を報じながら、8月15日を避けたが、終戦記念60周年に秋の大祭での私的な参拝、大阪高裁の違憲判決、悪化しているアジアとの関係修復が急務であるはずなのにそれを無視した参拝、等々ほぼ論調は同じであり、肯定した報道はなかった。

   地球にある総てのものを神にするヤオヨロズの神々の国日本。
政敵も、その怨念を静めるために神に仕立てて祭り上げる国日本。
この地球上の総ての森羅万象を神とするアニミズムの日本人の独特の宗教観が、ある意味では一番優れているのかも知れないが、世界の人々にこれを理解してもらうのは至難の業。
従って、靖国問題は、日本独特の宗教問題だから、ほって置いて欲しいといっても無理であろう。

   アジア外交では、ビル・エモットの言うように今一番重要な時期であり、大人としての対応をとって、国際社会の尊敬と信任を得て、国際社会で名誉ある地位を築くことが先である。
   靖国参拝を堅持して国の威信を守るというのなら、国際社会のあっちこっちで恥を忍んでいることを考えれば、もっと正攻法で堂々とした発揚の仕方はいくらでもある。
   それに、アジアには、強力な華僑社会があり、日本とコリアを除いて殆どアジア諸国が緊密に繋がっていることを忘れてはならない。
   これが中国と結束して日本に対応してくれば、日本の国益などひとたまりもなく吹き飛ばされてしまう。

   しかし、参拝問題だが、ハッキリしているのことは、日本には幸い同じ様な人物は存在しなかったとは言え、ヒットラーやムソリーニが祭られている神社や神殿には、たとえ日本人の私でも参拝しないであろうと言うことである。
   
   
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エコノミストの見る日本(その2)・・・小泉の政治革命

2005年10月17日 | 政治・経済・社会
   ビル・エモットは、「新しい政治、古い政治家」とタイトルを打って小泉首相の政治改革についてレポートしている。
   自民党を改革して日本を変えると言って、最初は、選挙の才は、写真写りの良いライオンヘアとe-mail magazineを含めた賢いマーケティング技術に限ると思われたが、今回の九月11日の大勝利は、それを遥かに凌駕したと言う。

   小泉首相の政治改革の特色は3つあるとして、派閥の解消、権力の幹事長と官邸への集中、そして、国民にアピールしリーダーシップのジェスチュアを示し変化を演出し権力を握ることだとしている。
   面白い指摘は、改革を、官僚や政党内部の人間の手を借りずに、全く政治には素人の猪瀬直樹氏を起用して道路公団改革を実施し、竹中平蔵氏を任用して郵政民営化を進めたことである。
   ここでも、ビル・エモットは、小泉政治によって更に小さな政府に対する改革が進むものと期待していて、民主党のお株を奪ったと考えている。
   

   小泉首相の後継については、安倍と福田の名前を挙げているが、新しく勝利した政党では、個人的なサポートは変わりやすいと、結論は避けている。

   国民の世論の力のアップについても触れており、ジェフ・キングストンの説を引き、口約束のあいまいな政治やビジネスが法律や契約で律せられる社会、即ち、法化社会への変質にも言及している。

   しかし、小泉首相が、国民投票の総数では過半数少しでありながら、今回の選挙で大勝利したのは、小選挙区制の所為のみならず、小泉首相の「郵政民営化に反対か賛成か。改革を止めるな」と言う極めて単純なポジショニングで機先を制して主導権を握った天才的な選挙上手にあったのではないであろうか。
   これは、セルジオ・ジーマンが、ブランド・ポジシャニングの章で、対話の主導権を取れと言う箇所で言っていることなのであるが、湾岸戦争の緒戦で勝利して人気の高かったブッシュを、クリントンが逆転したのは「いいかい、問題は経済なんだ」と言った言葉だと言う。
   クリントンは、有権者に、自分が雇用、失業、福祉、税金等、経済を気にかけている唯一の人間であるとしてポジシャニングして対話の主導権を握って選挙戦を自分の土俵で戦ったからだと言うのである。

   前々回の選挙で民主党が勝利したのも、これに良く似たマニフェスト選挙のポジショニングで機先を制したからではなかったのか。
   岡田民主党ももう少し賢ければ良かったのかも知れない、プロの選挙コンサルタントを使ったようだが、ジーマンのマーケティング論さえ知らない素人だったのであろうか。
   小泉の独壇場になった舞台で、2番煎じの「年金と子育て」と言っても誰も聞いていさえいなかった、勝てる訳がなく、ランドスライド的勝利を許してしまったのである。
   我々は、日本は民主主義の成熟した立派な先進国だと思っているが、そうとも言えない事は、ほんの少し前の「ノック・青島現象」を見れば分る。
   一番賢い筈の東京と大阪の有権者が、どうしょうもない素人の知事を選んで、失われた十年の過半を改革もせず無為に過ごして、あたら貴重な機会を棒に振ったのである。

   小泉首相の場合も、郵政民営化反対が(実際は小泉自民党案の民営化反対かと言うことであるが)、即ち、改革を止めること、改革に反対であるということに直結してしまって、それ以外は、総て保守反動と言った印象を与えてしまった、これが勝利の原点である。
   現実に、小泉自民党の方が、民主党より改革に意欲があると言う印象のほうが強くなっていて、完全に民主党のお株を奪ってしまったのである。
   ビル・エモットが指摘するように、日本も今や一党支配の国に成ってしまったのであろうか。
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ドイツ企業のグローバル戦略・・・日独経済シンポジューム

2005年10月16日 | 経営・ビジネス
   10月14日、日経ホールで、日経とベルリン日独センター共催の「日独経済シンポジューム~大競争時代を勝ち抜くグローバル経営~」が開催されたので聴講した。
   ヨーロッパから帰国してから時間が経ち、国際ビジネスからも遠ざかってしまったので、ドイツ企業がどのように変貌を遂げてきたのか興味があった。

   ドイツから、SAP,ヘンケル、トルンプ、EADS,ルフトハンザ、ダイムラークライスラー、ドイツ・ポスト・ワールドネット等のトップが参加して、夫々の企業の世界戦略等について熱っぽく語っていた。

   総じて、特別変わった印象を受けなかった。
   ボーイングを射程距離に捉えて躍進中のEADSが、独仏西などの全く異質なヨーロッパ諸国の国際コンソーシャムでスタートし苦難の連続だったが、(例えば、各国の機関がまちまちでCEOが2人居たりで組織的にもなっていなかったが、)エアーバスA380の開発を通じて国際協力の実が表れてやっと企業の体をなしてきた話等は面白かった。
   しかし、EU,EUと言いながら、いまだにドイツ企業は、純粋のドイツ企業として個別の戦略戦術で経営をしていて、EU内の企業としてのアプローチ希薄なのが意外であった。

   私の興味を持った論点は、民営化とグローバル化への対応であった。

   まず、民営化であるが、ドイツ・ポストのツムヴィンケル会長(ビデオ参加)の話は、赤字を垂れ流し非効率極まりなかった国営企業を民営化し、いかにして、今日の世界的な優良企業に再生したのか、日本の郵政民営化にとっても役に立つ興味深い話であった。
   特に、郵便事業や国際的なロジスティック方面の話が主体であったが、経営トップの確たるビジョンと明確な戦略の保持がいかに重要であるかを強調していた。
   郵便事業の自動化率を急速にアップして経営を合理化し全国展開を実現して、現代では1.06日以内に総て配送可能だと言う。
   グローバル展開は必須で、世界の優良企業をM&Aでローカルのノウハウごと吸収合併して世界トップのブローバルプレイヤーを目指すとしている。
   民営化とグローバライゼーションが、最大の企業改革と躍進のチャンスを与えてくれたと言う。
   印象的だったのは、このシンポジュームを企画推進したコンサルタント会社のローランド・ベルガー会長が、利益や効率性を追求する企業形態としては、公営企業は、全く不向きであると、吐き捨てるように言っていたことである。
   ソ連だけではない、ドイツも官僚機構の強い国で、同じ問題を抱えていたのであろう。

   グローバル化戦略であるが、SAPのようにハイテクでアメリカンスタンダードが巾を利かせる世界では、いかに、アメリカ企業に遅れずに対応できるかが問題であるが、興味深かったのは、他の企業は、まず、ローカルでの事業で確乎たる地歩を築いて、その上でのグローバル戦略の確立が大切であることを強調していたことである。

   ヘンケルは、ハーバードのセオドア・レビット教授の「マーケティングの革新」で消費者や製品やブランドが単一化すると述べたが、全く現実は逆で、個々の市場に合ったローカルの顧客を満足させ得る商品を開発し生産するのが大切であると言う。
   その為に、プロダクツを性能、ブランドを心理的な消費者の好み、と捉えて、夫々の製品をマトリックスで位置付けてローカル市場に合わせた製品の開発戦略を打っている。

   ルフトハンザは、航空業界では、コスト競争力が最大のポイントで、他業種のように事業場を移転不可能である以上、ローカル拠点で成功しない限り事業の成功はあり得ないと言う。
   その上で、世界のブルーチップ・キャリアーとのアライアンスを確立して、グローバル化に対応することが大切だと強調する。

   トルンプは、工作機械や工業用レーザーの会社だが、非上場の同族会社で完全に社会的に閉鎖された会社で、昔の日本企業のように専門性の高い優秀な社員を擁した超優良企業で、ローカル重視ながら、世界最先端を行く事業でグローバル化を推進している。

   ダイムラー・クライスラーは、トラック部門だけに限られていたが、製品の基本的な開発や設計はドイツ本社が担当するが、ローカル市場にあった製品の開発生産、販売等はローカル企業に任せており、アジアでの三菱FUSOの役割は極めて貴重なのだと言う。

   これ等の話を聞いていて、やはり、堅実なマイスターの国の伝統が息づいていることを、改めて強く感じた。
   しかし、ドイツの最大の特色は、労働組合なり労働者の力が強いことが問題であり、これが、ドイツ企業の競争優位の足かせとなりドイツ経済の足を引っ張っており、抜本的な労働市場の改革が必須であると言われている。
   現実に、同じ様に民度が高く技術重視の伝統を持ちながら、労働コストの安いチェコやハンガリー等中欧への生産拠点の移動が進んでいるなど、ドイツ国内で解決しなければならないことが多い。
   ドイツ企業が、まず、EU域内でどのような支配体制を敷くのか興味深い問題でもあるし、最近、急増しているアメリカ企業のM&Aがどのように展開するのかも知りたい。

   面白そうなので、改めてドイツ経済なりドイツの産業構造について勉強しなおそうと思っている。

   
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