インターネットを叩いていたら、シエナのパリオの記事が出ていたので、急に、懐かしくなって、何度かのイタリア旅を思い出した。
素晴らしい思い出も多いが、やはり、記憶から離れないのは、困ったことの方が多い。
まず、パリオだが、世界一美しいと言われているシエナの市庁舎前のカンポ広場で年に2回行われる地区対抗競馬競争で、カラフルな衣装に身を固めた地区代表の騎手が裸馬に乗って狭い広場を馬場にして派手な競争を展開する。(口絵写真は、インターネットから借用)
遅くシエナに着いたので会場に出かけたが既に立錐の余地なく、広場に入る出入り口は殆どブロックされていて建物や観客の隙間から会場がちらちら見える程度で、仕方なくホテルに帰ってTV観戦した。
兎に角狭い馬場で90度近いカーブを裸馬で疾走するのだから危険極まりない。壁面にぶち当たってもんどりうって騎手が吹っ飛ぶ。
遅くシエナに着いたので会場に出かけたが既に立錐の余地なく、広場に入る出入り口は殆どブロックされていて建物や観客の隙間から会場がちらちら見える程度で、仕方なくホテルに帰ってTV観戦した。
兎に角狭い馬場で90度近いカーブを裸馬で疾走するのだから危険極まりない。壁面にぶち当たってもんどりうって騎手が吹っ飛ぶ。
遅くシエナに着いたのは、列車の乗り継ぎをミスったこと。
アッシジからシエーナへ移動したのだが、乗り継ぎ駅で列車が異常に遅れて、次の列車を待っていては間に合わなくなるので、案内所で聞いて、ローカルバスで次の乗換駅に行くことにした。
ヒマワリが咲き乱れ、のぞかな葡萄畑を眺めながら、緩やかに起伏するイタリアの田舎のバス旅も悪くはないのだが、とにかく、のんびりした田舎のおんぼろ路線バスのことであるから、何時着くかこの方が心配になって後悔したが後の祭りであった。
駅に着くと、丁度列車が走り込んできたので、とにかく、乗ろうと行き先を確認せずに、発車寸前の列車を止めて乗り込んだ。
しかし、この列車が反対方向の列車だった。仕方なく、次の駅で、対向する列車を待とうと下りたのだが、全く廃墟のような無人駅で、駅横には、放置された工場跡があるだけで、駅前には何もなければ誰もいない。
地図も何もなく、何処にいるのかさえも分からない状態で、イタリアの廃墟の様な田舎駅には時刻表もある筈がなく、いつ来るのか分からない列車を待つ不安。
2時間近くも待ったらやっと反対方向からローカル列車が来たので、ほっとして乗って、随分遅れてシエーナに着いた。
この日は、たまたま、あの有名な競馬パリオの当日であったのである。
ヒマワリが咲き乱れ、のぞかな葡萄畑を眺めながら、緩やかに起伏するイタリアの田舎のバス旅も悪くはないのだが、とにかく、のんびりした田舎のおんぼろ路線バスのことであるから、何時着くかこの方が心配になって後悔したが後の祭りであった。
駅に着くと、丁度列車が走り込んできたので、とにかく、乗ろうと行き先を確認せずに、発車寸前の列車を止めて乗り込んだ。
しかし、この列車が反対方向の列車だった。仕方なく、次の駅で、対向する列車を待とうと下りたのだが、全く廃墟のような無人駅で、駅横には、放置された工場跡があるだけで、駅前には何もなければ誰もいない。
地図も何もなく、何処にいるのかさえも分からない状態で、イタリアの廃墟の様な田舎駅には時刻表もある筈がなく、いつ来るのか分からない列車を待つ不安。
2時間近くも待ったらやっと反対方向からローカル列車が来たので、ほっとして乗って、随分遅れてシエーナに着いた。
この日は、たまたま、あの有名な競馬パリオの当日であったのである。
今でも、残念だと思うのは、早朝にアッシジ駅に着いた時には、シエナ駅行きのバスが止まっていたので、これに乗り換えればよかったのだが、イタリアであること忘れてしまって、日本並みの乗り継ぎサービスを期待したのが間違いであった。
もう一つの列車の嫌な思いでは、この前のアッシジへの旅。
ローマだったかフィレンツェだったか、始発のローカル列車だったと思うのだが、大幅に遅れて、プラットフォームも変わってしまって、大慌てした思い出である。
駅の放送がイタリア語なので殆ど理解できなくて、駅のサインボードもコロコロ変わり、本来のプラットフォームで待っていても、一向に列車がくる気配がない。
目的の列車のアナウンスらしきものに気付いたけれど、イタリア語なので分からなかったのだが、ホームの端にいた尼さんグループが走り出してホームを移動したので、とにかく、ケースを引っ張って娘を抱えて後を追った。
幸い、目的の列車だと分かったのだが、発車寸前なので、急いで飛び乗った。
一番後ろの車両だったので、予約席はずっと前方である。
どうして移動すれば良いのか、分からなかったのだが、とにかく、日本方式に、車内を移動しようと思って、少しずつ歩き始めたのだが、列車が長くて、途中に貨車風の列車があって、開けっ広げの戸口から放り出されないように、必死になって前に進んだのだけは鮮明に覚えている。
駅の放送がイタリア語なので殆ど理解できなくて、駅のサインボードもコロコロ変わり、本来のプラットフォームで待っていても、一向に列車がくる気配がない。
目的の列車のアナウンスらしきものに気付いたけれど、イタリア語なので分からなかったのだが、ホームの端にいた尼さんグループが走り出してホームを移動したので、とにかく、ケースを引っ張って娘を抱えて後を追った。
幸い、目的の列車だと分かったのだが、発車寸前なので、急いで飛び乗った。
一番後ろの車両だったので、予約席はずっと前方である。
どうして移動すれば良いのか、分からなかったのだが、とにかく、日本方式に、車内を移動しようと思って、少しずつ歩き始めたのだが、列車が長くて、途中に貨車風の列車があって、開けっ広げの戸口から放り出されないように、必死になって前に進んだのだけは鮮明に覚えている。
いずれにしろ、世界標準から程遠い、言葉も通じないイタリアで、失敗の連続にも懲りずに、何度も、田舎旅を決行したものだと、今では、冷や汗ものなのだが、しかし、良くも大過なく無事に通せたものだと不思議なくらいである。
ヨーロッパ旅は、飛行機や車を使うことが主であったが、ユーレイルパスを使ったりビジネスでも、鉄道を使うことが、結構多かった。
苦労の連続だったが、ことごとくトラブルの原因は、どこの列車も、日本の首都圏並みのパンクチュアルで安全安心で正確に機能するものだと考えて、そのサービスを期待し続けていたことであった。
しかし、ヨーロッパで鉄道を使おうとすれば、トーマスクックや国鉄の時刻表を頼る以外に選択肢はなく、遅延や行き違いなどトラブルは覚悟しておけと言う事であろうか。
いわば、日本の鉄道運行システムの信頼性や正確無比は、国際標準ではなくて、世界には皆無の天然記念物なのである。