熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

Rioオリンピック2016とリオの思い出

2016年08月09日 | 海外生活と旅
   Rioオリンピックでの日本人選手たちの活躍を見ていると嬉しい。
   開会式の放映で、リオの風景が映し出されて、見慣れた風景が浮かび上がると、無性に懐かしくなった。

   はるか昔、1974年から1779年まで、ブラジルのサンパウロに在住していたので、リオへは、仕事や観光で良く訪れていた。
   その前は、フィラデルフィアでのMBA留学の2年間であったので、何となく、腰掛気分の海外生活であったのだが、ブラジルでは、仕事をして実績を上げなければならないし、家族も帯同しての本格的な海外生活なので、緊張を要した。

   当時のブラジルは、大変な好景気で、鳴り物入りで囃されたBRIC'sの比ではなく、大変なブラジルブームで、草木も靡く勢いで、日本企業が大挙してブラジルに殺到した。
   しかし、最近のブラジル経済の失速と同様に、ブームは長続きせず、世界でも屈指の経済的資源に恵まれながらも、何時まで経っても、ブラジルは「未来の国」である。
   
   あの当時も、サンパウロには、高層ビルが何千棟も林立する巨大な近代都市であったが、一方、中心から離れると貧民街ファベーラが広がっていると言う二重国家の様相を呈していたが、今も、リオの風景を見ていると、美しい海岸沿いの近代都市の横に山手に向かって、びっしりと低層のファベーラが広がっていて、殆ど変わっていない。
   ルーラ大統領の時に、大規模な貧民救済政策を実施したが、深刻な経済格差は解消されず、治安の悪さが依然として問題となっている。

   尤も、私自身は、リオを訪れても、コパカバーナやイパネバ海岸沿いの高級街や官庁ビジネス街しか行ったことがないので、ファベーラは知らない。
   しかし、一度だけ、友人の紹介で、日本にサンバ演奏団に参加して訪日したと言う演奏者を訪れて、サンパウロのファベーラに行ったことがあるのだが、あのリオのカーニバルでもそうだと思うのだが、多くの音楽家やダンサーたちは、ファベーラに住んで居たりするようで、正に、「黒いオルフェ」の世界であった。

   もう一つ、印象的であったのは、カーニバルやサンバに繰り出すブラジル人の多くは、庶民たちであって、金持ちたちは、ホテルや大会場を借り切って大パーティを開いて、自分たち自身のカーニバルやサンバを楽しむようで、私も一寸覗いただけだが、華やかで楽しそうであった。
   もっと金持ち連中は、外国に出て、楽しむのだと言う。
   何時まで経っても、ブラジルは二重国家のままなのである。
   これによく似た現象は、アルゼンチンのタンゴにも見られるようで、世界遺産に登録されても、まだ、庶民の芸術のようである。

   リオでもサンパウロでも、街の一角でのカーニバルの雰囲気を味わったが、大変な雑踏と人混みなので、本格的なカーニバルには見に行かずに、テレビで実況を見ていた。
   日本でも、祇園祭くらいで、祭り見物には行っていないので、まあ、仕方がないと思っている。

   リオとサンパウロを飛行機で往復すると、チャンスに恵まれると、あの巨大なキリスト像コルコバード(Corcovado)が、機内の窓から綺麗に見える。
   車で上ると、かなり高いところへの一本道なので、下手をすると上り切るのに時間がかかる。
   ケーブルカーもあるようだが、私は、マイカーで上った。

   もう一つ、上から遠望できるリオのシンボルは、頭のないライオンが伏せているようなポン・ヂ・アスーカル(Pão de Açúcar)で、砂糖パンに似ていると言うのでこの名前がある。
   とにかく、リオの上空を飛ぶと、飛行コースにも寄るのだが、コルコバード、ポン・ヂ・アスーカル、そして、弧を描くコパカバーナとイパネマの白砂の海岸などの美しい風景が眼下に迫り、最初に見た時には、非常に感動した。
   あまりにも美しくピクチャレスクな光景は格別で、ぐんぐんと迫りくる風景は圧倒的であり、その後、プラハで、私が見た一番美しい都市景観だと思って感激した、あの印象と同じである。

   さすがにリオでは仕事にならなかったが、多少、時間にも余裕があったので、コパカバーナで、美女たちの写真を撮ったこともあった。
   赴任を終えて、ブラジルを離れる前に、コパカバーナ海岸のリオ オットン パレス(
(Rio Othon Palace)に何泊かして、名残を惜しんだ。
   薄暗いホテルの高層の窓から望んだ、大西洋のかなたの地平線に浮かび上がる朝日の美しさは、今でも、印象に残っている。


   ブラジルについては、このブログの「BRIC’sの大国:ブラジル」ほかで随分書いて来たので、蛇足は避けるが、私にとっては、初めてのかなり長い海外生活の地で、永住権も取得した第二の故郷にも近い思い入れのある国なので、今回のオリンピックについては、平穏無事に成功裏に終わって欲しいと願っている。
   少し前に、大分追加勉強して、2年間、群馬県立女子大学で、単発のブラジル学講義を行ったことがあるのだが、歴史上も非常に特異な国ではあるけれど、協創には最高の国だと思っており、日本としては、特に、注目すべき国であろう。

   テレビで、オリンピック放送を見ていたら、窓の外で、アゲハチョウが、カノコユリにたわむれ始めたので、フッと、同じような光景を見たブラジルを思い出し、この文章を綴ってみた。
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海外旅行は何を楽しみに行くのであろうか

2015年08月16日 | 海外生活と旅
   産経の電子版に、「「タトゥーOK」浴場増加…外国人旅行者に配慮」と言う記事が掲載されていて、「訪日外国人が次回に訪日した時にやりたいこと」と言う次のような、表が添付されていた。
   この数年、円安の影響もあって、日本への外国人旅行者数が急増して、中国人の爆買いが、日本景気を牽引すると言う考えられないような現象さえ起こっている。
   訪日した外国人観光客の次回の希望であるから、日本の何に関心や興味を持って、日本を訪問したいのか、直の意見なので、観光誘致に、非常に役に立つ。
   

   1位が日本食を食べる、2位がショッピング、3位の温泉入浴と言う項目が入っていて、外国では、一種のファッションと言うか化粧の一種であるタトゥ(刺青)を禁止していては、観光誘致にはマイナスだと言う意向が芽生えたのであろう。

   さて、私の関心事は、自分自身は、何を目的に海外旅行に行くのであろうかと言うことである。
   若い頃とか、海外には縁のなかった頃なら、このような一般論の答えをした可能性もあるが、1泊以上した外国が45以上にもなって、行きたいところ見たいところへは、かなり行ってしまうと、もう、目的は極めて限定されてくる。
   この表から選べば、8位の日本(私の場合は外国)の歴史・伝統・文化体験しかなく、強いて追加すれば、4位の自然・景勝地観光であろうか。

   今、5~6日海外へ行くならどこに行くかと言われれば、時間的な余裕がないので、オペラハウスのあるニューヨーク、ロンドン、ミラノ、ウィーンでの観劇予定を優先して行き先を選んで、空いた時間を活用して、足の延ばせる歴史的文化遺産を訪れたり、博物館・美術館やミシュランの星付きレストランなどを行脚できたらと思っている。
   もう少し時間的な余裕があれば、まだ行って居ないポーランドやルーマニアや旧ユーゴを訪れて、歴史散歩や観劇三昧の文化的な鑑賞行脚を楽しめたら幸せだと思う。

   まだ、エジプトやイラクなど中東の歴史遺産には縁がないのだが、時代の激しい潮流もあって、何となく関心が薄れて来ているのが不思議である。
   出来れば、旅が億劫になる前に、インドへは、行ってみたいと思っている。

   しかし、今は、何度も行って居たところでも、やはり、ヨーロッパへ行って、どこでも良いので、その土地の歴史や文化の香りを感じながらゆっくりと時間を過ごせたら幸いである。
   仕事や旅の合間に、ふっと、訪れて時間を過ごした、今では、その土地の名前さえも思い出せないヨーロッパの片田舎や古都の街角などの懐かしい思い出が、彷彿と蘇って来て、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。

   異国を訪れると言うことは、異文化異文明の環境にどっぷりと浸かって、非日常の感覚を味わうと言うことであろうが、しかし、どこかに日頃の生活に通じた懐かしさ心安さがなければ楽しめないような気がする。
   このような風景はどこかで観たような気がする、このような感じはどこか忘れたが味わったことがあるetc.前に一度来たような気持ちになれば、旅が一層楽しくなる。
   そんな経験を何度もしてきたが、そう思うと、むしろよけいに、新しい土地の印象が鮮烈となるのが不思議である。

   いずれにしろ、一人で外国を歩くことが多かったのだが、特別に緊張を感じたりすることなく、どこへ行っても案外気楽に過ごせたのは、自分には、そんな思いがあったからかもしれないと思っている。
   
   
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「春雨じゃ、濡れてまいろう」は日本だけ?

2015年08月10日 | 海外生活と旅
   「春雨じゃ、濡れてまいろう」
   これは、月形半平太が、馴染みの芸子と料亭から外に出て見たら、しっとりとした春雨が夜の風情を醸し出して、ほろ酔い気分には気持ちよく、思わず呟いた言葉とか。
   好きな女と酔いが回って夢見心地でしっぽりと春雨に濡れて味わう幸せなひと時・・・粋なシーンである。
   
   何故、こんな話から始めるのか、それは、
   デイヴィッド・ピリングの「日本―喪失と再起の物語」を読んでいて、「国家の品格」の藤原正彦と、自然との調和について議論していて、雨に対する日本人と英国人の対応の違いについて語っているのを面白いと感じたからである。
   自然を愛する筈の日本人は、雨がぱらつくとすぐに傘をさし、にわか雨が降っただけであっという間に雨傘で埋め尽くされる、それ程、雨に濡れるのを嫌がるが、英国人の著者は、びしょ濡れになっても平気だし、雨傘なんて持とうと思ったことさえない、
   つまり、自分の方が豊かな自然と調和していると思いませんか、と言う。
   この雨に対する国民感情の差に、思い至ったのである。

   日本人には、何となく、英国紳士と言えば、雨が降っても降らなくても、何時もアンブレラを抱えて歩いている姿が定着している感じであるが、確かに、言われてみれば、あれは、いわば、紳士のアクセサリーと言うべきか、私の経験では、英国では、雨の時に、傘を使っている人が少なかったような気がする。

   傘で思い出すのは、英国在住ながら文化勲章を受けた世界的に高名な経済学者森嶋通夫教授とロンドン・スクール・オブ・エコノミクス構内を歩いていた時に、雨がぱらついて来たので、傘をさしかけたら、「そんなこと、しーないな」と言われたことがある。
   大先輩でもあるし、偉大な経済学者でもあり尊敬していたので当然だと思ったのだが、今考えてみれば、イギリスでは、小雨に濡れるのは平気で気にしないと言うことだったのかも知れないと言う気がしている。

   イギリスでは、防水の利いたバーバリーやアクアスキュータムのコートが普及しており、ハットやハンチングなど帽子が結構重宝されていて、常備着のような態をなしているのだが、これなどは、何時雨が降っても、少々の雨なら平気だと言う生活の知恵であろうか。
   しかし、確かに、日本人の雨と傘との関係は神経質なくらいであり、英国人の方が、雨に無頓着だと言うことは、5年間の英国在住の経験から言えそうな気はしている。

   ここで、考えなければならないことは、雨に対する国民感情の差も大切であろうが、むしろ、雨の質であり、雨の降り方の違いにあるような気がする。
   日本の雨は、春雨に始まって、五月雨、時雨、梅雨、狐の嫁入り、氷雨・・・等々、最近のゲリラ豪雨など含めれば、場所と季節によって千差万別であり、時間によっても微妙に変化する。
   これに比べて、イギリスの雨は、原則的には極端な差がないにしても、もう少し単純と言うか、比較的豪雨が少なくて単調であったような気がしている。
   車での生活が多かったが、確かに、8年間のヨーロッパの生活では、折り畳み傘など携帯用の傘は持ったことはなかったし、大雨に難渋したと言う記憶もない。

   雨のことで思い出すのは、サウジアラビアの雨である。
   砂漠地帯が延々と続いていて、殆ど、雨などとは縁のない国なのだが、出張の時に、一度だけ、大雨が降って大洪水(?)に見舞われたことがあった。
   バーレン空港は、大雨で空港の建物は、ズタズタ。
   サウジアラビアの砂漠は、延々と俄か湖に覆われて、高低差のあるところは滝のように濁流が渦巻き、風景が一変してしまっていた。

   興味深かったのは、提携先の地元会社が、その日は休日にして、社長一家が、我々日本からの出張者を誘って、濁流が渦巻く暴れ川と俄か滝を見に行くために、日帰りツアーを行ったのである。
   郷に入っては郷に従えで、ネゴの進捗が気になったが、日本では、何のことはない、一寸した田舎の川が増水して暴れていると言った感じの風景を楽しみにつきあった。
   しかし、砂漠の民にとっては、干天の慈雨どころの比ではなく、豪雨の齎す天変地異は、正に、途轍もない自然の脅威なのである。

   前述したように、日本には、どう表現すれば良いのか分からないくらいの変化に富んだ雨が降るのだが、サウジアラビアでは、雨は、すべて雨。
   降り出したら、正に、日本の花見や紅葉狩りと同じように、弁当を持って見物に行く。

   また、日本には季節によって、無数の花が咲き乱れるのだが、寅さんが、どんな花でもタンポポでしょ、と言ったように、サウジアラビアでは、花は、花だと聞いたことがある。
   その代わり、日本は、ラクダは、ラクダだが、サウジアラビアでは、ラクダは、歳や性別、親族関係などによって、色々な呼び方で使い分けられているのだと言う。

   さて、本題に戻るのだが、確かに、日本は四季の変化が激しくて自然環境や自然現象の移り変わりについては、千差万別で、世界でも珍しい国であり、日本人の自然への対応なり感受性の豊かさには定評があるのであろうが、私は、藤原教授が言うほど、日本人が特別だとは思っていないし、ピリングの見解にも納得している。
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「モン・サン=ミシェル」は「行ってはいけない世界遺産」なのか

2015年08月09日 | 海外生活と旅
   ニューズウィークの電子版を観ていたら、「こんな人は、モン・サン=ミシェルに行ってはいけない Mont Saint-Michel」と言う記事が載っていた。
   『行ってはいけない世界遺産』を著した花霞和彦の記事のようである。

   読んで見たが、モン・サン=ミシェルでは、プレサレ羊とオムレツが有名で、オムレツを食べたが高くて美味しくなかったとかで、何故、「モン・サン=ミシェルに行ってはいけない」のか、よく分からない。どうも、遠くてぽつんとある世界遺産なので、コストパーフォーマンスが悪いと言うことのようである。

   著者の真意を知りたくて、アマゾンで、この本の説明書きを見たら、
   ”見どころ×コストパフォーマンス 行ってガッカリしないためのリアルガイド
   モン・サン=ミシェル、グランドキャニオン、ストーンヘンジ、ガラパゴス諸島、アマルフィ、セーヌ河岸、マチュピチュ、オペラハウス、ナスカの地上絵、アンコール……
   高いお金をはたいて、長時間の移動に耐えて、やっとたどり着いたら「え? たったこれだけ!?」とガッカリした経験はないでしょうか?
   いまや世界に1000件以上もある世界遺産。限られたお金と時間の中で選ばなくてはいけません。
   本当に行く価値があるのか、値段と時間と労力に見合うのか、ガイドブックの美辞麗句に惑わされず、しっかり検討しましょう。
   数多くの世界遺産に足を運んだ著者が、コストや体力度などのデータとともに、20の世界遺産を徹底検証。”
   と言うことらしい。
   このような世界遺産への旅のアプローチは、私には全く論外で、まず第一に、旅行用のガイドブックなどの埒外の旅であり、世界遺産の世界遺産たる所以を全く分かっていないと言う以外に言いようがない。

   多少は世界遺産を見て歩いた経験のある私自身の感想だが、人類が営々として築き上げてきた人類の貴重な遺産や自然の造形した神秘に対する一種の冒涜であり、基より、コストパーフォーマンスを考えるのなら、最初から旅をするなと言うことである。
   写真家土門拳が、不自由な体を吊り上げられて撮った日本第一の建築と称賛した三佛寺投入堂の写真の凄さが示しているように、崇高な歴史遺産には、人知を超えた価値と魂が凝縮されているのである。

   私は、モン・サン=ミシェルには、2度訪れている。
   直接日本から行ったのではないので、コストは限られているので偉そうなことは言えないが、一度は、出張先のレンヌからタクシーで、二度目は、ノルマンデー旅行の時に、サンマロからシェルブールへ向かう途中車でアプローチし、夫々、一日過ごしただけだが、アップダウンの激しい島内をあっちこっち歩いて、フランスの中世の宗教都市にタイムスリップした思いで、感動しながら時を過ごした。

   さて、花霞氏の記事だが、
   ”結論としては、モン・サン=ミシェルは、対岸のバス乗り場から眺めるシルエットがクライマックスであります。でも、せっかくなので島内に入り、修道院も見学しましょう。しかし、有名店のオムレツには注意してください。どうしても名物オムレツを食べたいなら、・・・”
   ”でも、せっかくなので島内に入り、修道院も見学しましょう。”と言うに至っては何のためにモン・サン=ミシェルに行くのか、何をか況やであり、
   「こんな人は、モン・サン=ミシェルに行ってはいけない」のは当然である。

   花霞氏の本『行ってはいけない世界遺産』には、
   モン・サン=ミシェル、グランドキャニオン、ストーンヘンジ、ガラパゴス諸島、アマルフィ、セーヌ河岸、マチュピチュ、オペラハウス、ナスカの地上絵、アンコール……
etc.が掲載されているようだが、私の行ったのは、 モン・サン=ミシェル、グランドキャニオン、ストーンヘンジ、セーヌ河岸、マチュピチュ、オペラハウスくらいだが、夫々、感動と感激の一語に尽きる思い出ばかりである。
   これらについては、これまでに、このブログで何度か記事にしているので蛇足は避ける。

   この口絵写真は、フランス政府のHPから借用した写真である。
   私が撮った何百ショットの写真があるのだが、倉庫に眠っていて探せないのが残念である。
   欧米などの旅には、必ずミシュランの英語版のグリーンとレッドのガイドブックを持って歩いているが、旅は、その地を訪れて物見遊山すれば良いだけではなくて、その地の歴史や文化などにも敬意を払って、それなりの知的武装なり心の準備をして行くのは当然だと思っている。
   特に、歴史的な世界遺産は、永く熾烈な歴史の風雪に耐えぬいた人類の永遠の英知が凝縮されている貴重な財産であって、アダや疎かで見過ごせるものでは決してない筈だと思っているので、人類の偉大さ崇高さに感動しながら、どっぷりとその環境に没頭して時を過ごしたいと願い続けている。
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日経:「シニアを癒やす南国の風 」と言うのだが

2015年06月21日 | 海外生活と旅
   今日の日経電子版に、「シニアを癒やす南国の風 155万人 海外長期滞在人口 」と言う記事が掲載されていた。
   ”年金生活を迎え、第二の人生は海外で--。長期滞在を支援する「ロングステイ財団」(東京・港)によると海外で2週間以上滞在した日本人は155万6000人で過去最高を記録した(2013年度の推計値)。健康的で長生きするシニア層の増加が、旅行スタイルを多様化させている。”と言うのである。
   この海外長期滞在人口155万人と言うのは、ビジネスでの海外在住も含めているようで、この記事に該当する60歳以上は、約21万4700人で、04年度の6割増だと言うことであるが、第二の人生は海外でと言う人の実数は、遥かに少ないであろうが、ともかく、増えていると言うことである。

  ”最近は物価が安く日本以上の生活水準が期待できる東南アジア各国に注目が集まり、特にマレーシアは06年度から9年連続で滞在したい国の首位を維持していて、マレーシアでの10年間ビザの邦人取得は428件(2014年)”だと言う。
   次表を見ると、マレーシア、タイであろうが、安定した先進国と言う意味では、ハワイ、オーストラリア、カナダと言う選択肢は、良く分かる。
   

   老後の海外移住についての自論は、これまでに何度も書いているので、蛇足は避けるが、私自身の今の心境は、この日本での生活に満足しており、海外移住の気持ちはないと言うことである。
   留学やビジネス主体ではあったが、海外を随分歩いて来たし、アメリカ、ブラジル、オランダ、イギリスで、トータル14年を過ごし、かっては、ブラジルとイギリスで、永住ビザを持っていて、海外での生活には、殆ど不都合を感じない筈の私だが、やはり、日本での老後生活の方が、はるかに良いと思っている。
   多少、億劫にはなってきているが、海外に旅に出たいと思ったら、その時に、何時でも出て行けば良いのである。

   要するに、何のために、海外移住をするかと言うことだが、
   ”長期ビザは「自分へのご褒美」”と言うサブタイトルのところで、
   ”「毎日が日曜日ですよ」。首都近郊のゴルフ場には、長期滞在するシニアたちが連日集まり笑い声が響き渡る。企業戦士として仕事に明け暮れた「自分へのご褒美」と口をそろえながら、ゴルフ三昧の日々を満喫している。海外生活での楽しみ方は様々だ。”として、「ラウンドを終え食事する日本人の長期滞在者。ゴルフ三昧の生活に笑顔もはじける」と銘打った老人たちが寄り集まって談笑している写真が掲載されている。

   私には、このような生活には、全く興味はないし、耐えられなくなって三日も持たないと思う。
   永住しろと言われれば、ロンドンかニューヨークを選びたいと思ってはいる。
   もう一度、キューガーデンに居を構えて、ロイヤルオペラやロイヤル・シェイクスピア・カンパニーなどのシーズン・メンバー・チケットを取得して、暇に飽かせて大英博物館などに通って勉強しながら、思い立っては、ヨーロッパの古都や文化遺産を訪ねて文化三昧に耽る・・・そんな夢を見るのも悪くはなかろうと思って、暫く、イギリスの永住権を維持していたことがある。

   ところで、この記事は、「パンや牛乳など食料品の価格も上がってきた・・・アベノミクスによる円安で、為替メリットも享受できなくなってきている。健康に不安をかかえ、よりどころを日本に求めて帰国を考える人たちも少なくない。」と言ったネガティブなことも書いてあるが、
   「生活防衛や終のすみかにも」として、「将来、シニアが直面する健康や介護への不安を払拭できれば、東南アジアは「理想のすみか」であり続けるかもしれない。」と締めくくっている。
   果たして、そうであろうかと言うのが、私の正直な感想である。

   さて、何故、日本に居たいのか。
   私にとっては、色々な理由があるのだが、自分勝手な言い分に限れば、例えば、今興味を持ち始めて通っている国立能楽堂での能・狂言の鑑賞など、日本文化や歴史に触れながら日本の良さ味わい深さを、もっともっと身近に感じたい、勉強したい、と言う気持ちは、この東京を離れては、満たし得ないであろう。
   学生時代を過ごした京都など故郷でもある関西も良いのだが、あの神保町の雰囲気なども含めて、東京が与えてくれるトータルのパワーは、桁違いに大きいのである。

   私のような生き方も、「アホとちゃうか」と言う友もいるので、 正に、人、夫々であって、私は、自分の選んだ道を歩む以外に仕方がない。
   今のところ、健康上も生活上も、特にこれと言って問題がないので、勝手なことを言って居られるのだが、一寸先は闇で、将来、どうなることかは、全く分からないので、出来るだけ、納得しながら生きて行きたいと思っている。
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中国切手を鑑定して見たら

2014年09月20日 | 海外生活と旅
   1980年の夏に、出張で、北京に行ったことがあり、その頃、長女が切手集めをしていたので、少し買って帰った。
   昨年末、鎌倉への移転で、色々なものを整理していたら、その一部が出て来たので、最近、中国の切手に人気が出ていると聞いていたので、どんなものか、鑑定して貰おうと思って、新宿の専門店へ持ち込んだ。

   100枚ほどの切手を、店主が非常に丁寧に一枚一枚、1時間ほどかけて鑑定してくれた。
   結果的には、〆て8000円くらいで、多少、高ければ、買い取って貰おうとしたのだが、1枚100円以下と言うことは、原価にもならないし、面白い切手もあるので、孫には記念になると思って、感謝して持ち帰った。

   
   文革の頃、すなわち、1966年から1977年頃までの、中国切手品薄時代の特別な切手は高いようなのだが、それを外れると二束三文のようである。
   私の場合には、この口絵写真の切手のような1977年の切手など、文革終期の切手が大半だったので、ダメだったのであろう。
   しかし、私の持ち込んだ切手は、中国切手コムの、
   価値の高い可能性のある切手は、・・・T1~103、J1~99になります。と書いてあるのだが、それに該当する切手が、大半であったことは確かである。

   偶々、切手のことで、その頃のことを思い出したので、中国の思い出を記しておきたい。
   
   丁度、文革後の混乱期が終息して、中国政府が海外に門戸を開き、日本企業が中国にオフイスを開き始めて、中国との商談で日本からの出張が認められた頃である。
   しかし、中国には、オフィス・スペースなどなかったので、商社など日本企業の事務所は、ホテルの部屋が使われていた。
   また、出張の場合には、入国ビザが中々下り難くて、長い間待たされた。
   聞くところによると、宿泊施設がないので、ホテルの部屋が空くのを待って、その空きスペースによって、ビザを発給していたようであり、入国前から部屋が決められていて、私の場合には、同僚とツインであった。

   我々は、シンガポールの強力な華僑ビジネスマンに誘われて、ホテルプロジェクトの建設許可の可能性打診に出かけた。
   商談は、当然、政府の役人とで、彼らは、事務所が貧弱なので、我々の部屋にやって来てネゴをした。
   一回で終わらず、何回かにわたるのだが、いつ来るのか分からず、殆どホテルに釘付け状態であったが、万里の長城には行けなかったものの、合間を見て、紫禁城や天壇、頤和園などには、行くことが出来、貴重な経験をした。
   写真撮影には制限がなかったので、紫禁城など、当時の中国の姿を随分写真に撮ったのだが、どこにあるのか。
   余談ながら、まだ、北京随一の目抜き通り王府井を、荷馬車が走っていた頃なので、空気は綺麗であったし、良き時代であった。

   さて、買い物だが、我々外人は、入国時に、外人と華僑に特定された兌換紙幣と交換させられて、その紙幣で、主に、外人及び華僑用の特別な指定店で買い物をさせられていた。
   その紙幣の一部が、次の口絵写真の右半分である。
   
   尤も、同じ店で、1階が華人用、2階が我々様と言った店が多くて、普通の店でも買い物は出来た。
   百貨店に行って、商品を見たが、勿論、交換レートで換算しても、物価は非常に安くて、最高級の胡弓でも非常に安かったので、まがい物だと思ってしまって買えなかったのだが、買えば記念になったのにと思って、今になって後悔している。
   当時買った景徳鎮の鶴首の花瓶が、残っていて懐かしい。

   さて、この時、これらの切手も、確か、外人用の店で買ったと思うのだが、その時買った切手で、梅蘭芳の切手セットだけは異常に高かったの覚えており、大切だと思って別に保管していたのが仇となって、なくしてしまった。
   もう35年も前の話で、オランダやイギリスや、あっちこっち宿替えを続けて来たのだから、少しでも、中国切手が残っているだけでも、奇跡と言うべきだと思っている。
   
   とにかく、中国がこれだけ成長発展するなどとは夢にも思わなかったのだが、私にとっては、終戦時代のどん底からの人生のスタートであったので、天変地異でなければ、それ程の驚きでもないことも事実である。
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「世界一正直な街」はヘルシンキ? 財布を落として実験

2013年09月25日 | 海外生活と旅
   CNNが、世界各地の都市でわざと財布を落とし、拾い主が届けてくれるかどうかを試してみたら――。米誌リーダーズダイジェストがこんな実験で市民の「正直さ」を比較しランキングを発表した。と報じている。

   世界の16都市でそれぞれ12個ずつ、公園や歩道、ショッピングセンターの近くなどに財布を落としておき、拾った人がどうするかを見届けた。財布には50ドル分の現金と携帯電話の番号、名刺、クーポンと家族写真を入れた。
   計192個の財布のうち、返却されたのは90個。都市別ではフィンランドのヘルシンキがトップで、12個中11個が返ってきた。2位はムンバイの9個、3位にはハンガリー・ブダペストとニューヨークが8個で並んだ。
   最下位はポルトガル・リスボンで、1個しか返却されなかった。しかもその1個を拾ったのは地元住民ではなく、オランダからの旅行者だった。と言うのである。

   財布を返すかどうかを年齢や性別、外見上の貧富などから予測することは難しく、「どの都市にも正直な人とそうでない人がいる」という結論が出た。と言うことだが、因みに、16都市のランキングは次のとおりである。
   16都市のランキングと戻ってきた財布の数
   ◇
1.フィンランド・ヘルシンキ(11)
2.インド・ムンバイ(9)
3.ハンガリー・ブダペスト(8)
3.米ニューヨーク(8)
5.ロシア・モスクワ(7)
5.オランダ・アムステルダム(7)
7.ドイツ・ベルリン(6)
7.スロベニア・リュブリャナ(6)
9.英ロンドン(5)
9.ポーランド・ワルシャワ(5)
11.ルーマニア・ブカレスト(4)
11.ブラジル・リオデジャネイロ(4)
11.スイス・チューリヒ(4)
14.チェコ・プラハ(3)
15.スペイン・マドリード(2)
16.ポルトガル・リスボン(1)

   残念ながら、東京が調査の中に入っていないのだが、滝川クリステル嬢が、ブエノスアイレスの東京オリンピック招致演説で、落とした現金が必ず返って来る安心安全な都市だと言っていたように、ダントツの一位だってであろう。

   ところで、非常に恣意的で独断と偏見が強くなって書くべきではないとは思うのだが、私自身の正直な感想を綴ってみたいと思う。
   私自身が、一度も行ったことのない都市は、ムンバイ、モスクワ、リュブリャナ、ワルシャワ、ブカレストの5都市で、これらについては、本来、コメントすべきではないかも知れない。

   しかし、私が最初に注目したのは、ムンバイの2位で、インドと言う国に対する先入観が強すぎる所為もあってか、最貧層が最も多くて深刻な都市問題を抱えている筈のインドの大都市ムンバイが、これ程の好成績を挙げていると言うのは、意外であった。
   ヘルシンキの1位は、良く分かるし、半数以上が返って来たニューヨークやモスクワ、アムステルダムについても、まず、異論はない。
   ロンドンには、5年も住んでいたので、5つしか返って来ないと言う現実は、何となく分かるような気がしている。
   スイスのチューリッヒが、非常に悪い結果であるのには、一寸、驚いている。
   マドリードとリスボンが最低なのは、まず、現在、経済的にも、EUの中で最も困窮を極めている国であり、それに、平時でも、これまで、旅行者にとっても危ない最も注意すべき都市であったことを考えれば、仕方のない結果ではないかと思う。

   興味深いのは、東欧の都市の結果が上下に分散していることで、国境を接しているハンガリーのブダペストとチェコのプラハが、何故、これ程、差がつくのかは、私には分からない。
   ハンガリーの方が、民主化は早かったが、チェコは、元々、最も工業化が進んでいた民度の高い国であったし、甲乙付けがたい程、東欧では、優等生であり、両都市とも、世界で最も美しい都市として観光客の憧れでもある。

    
   尤も、場所の選び方にも問題があろうし、僅か、12か所で財布を落としての調査であるから、至って信憑性の危うい調査なので、これで、都市の正直度や安全度を測られては、たまったものではないが、面白いと思ったので、コメントして見た。
   

(追記)口絵写真は、トップのヘルシンキ、最後の写真は、リスボンで、CNNの記事から借用した。
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トルコ中部カッパドキアでの女子大生事故に思う

2013年09月10日 | 海外生活と旅
   メディアの報道によると、新潟大の女子学生2人が、夏休みを利用してトルコに入国して、カッパドキアのゼミ渓谷を散策中に襲われた。現場は当時、人けがなかったとみられ、倒れている2人を別の観光客が発見して通報した。と言うことである。
   実に悲しい事件であり、被害にあわれたお二人そしてご家族の皆様には、心からお悔やみとお見舞いを申し上げたい。
   
   詳細が分からないので、何とも言えないが、私自身の経験や娘たちの海外旅行のケースなどを参考に、日本人の若者たちの海外旅行が、如何に、危険と隣り合わせの状態にあるかについて、私見を綴ってみたいと思う。

   結論から先に言うと、とにかく、日本人は、あまりにも恵まれた単一民族単一文化の日本と言う素晴らしい国に住んでいるので、異文化異文明、外国事情には全く免疫がなくて、どこもかしこも同じだと思って、日本にいるような感覚でものを考えて行動する、平和ボケだと言うのが最大の特徴であって、これが、外国で、あるいは、異文化との遭遇で、問題を起こす。
   滝川クリステル嬢がブエノスアイレスで世界に宣言したように、日本ほど、全土に渡って、安全安心の行き渡った国は、世界何処にもないと言うことを努々忘れてはならないのである。

   私自身、トルコは、イスタンブールに二回しか行っていないのだが、一度、仕事の関係で、イスタンブールから、タクシーで、マルマラ海沿いに回って、イズミットを経てプルサからかなり奥の田舎まで行ったことがある。
   カッパドキアは、奇岩で有名なトルコの観光地であるが、まだ、行ったことはない。   しかし、私のイスタンブールなどの観光地での経験では、トルコは、新興国とは言っても、まだまだ、文明世界と非文明の混在した環境で、それに、イスラム教国であると言う特殊性が絡んで、日本人が容易に溶け込めるような雰囲気ではないし、第一、不測の事態には、適切な対応は無理である。
   ハギア・ソフィアの大聖堂を訪れた時には一人だったので、カーペット商人に絡まれて振り切るのに大変な思いをしたし、とにかく、ヨーロッパの観光地を旅行するのとは違って、かなり、緊張感を要する。

   海外生活に完全に慣れ異文化の遭遇にも違和感を感じないくらいの人なら、まず、問題ないところであっても、何度か海外へ行った程度の若い女性が二人で、それも、全く違った国で、ガイドや地元の人の同行がなくて、今回のように人気のないところを歩くなどと言うのは、考えられない暴挙と言う以外にない。


   ヨーロッパが長かったので、その間に、多くの日本の若者の旅行者に会ったことがある。
   殆どは、観光地や美術館、劇場などで、大概は、女子学生など若い女性であったが、一人旅もかなり多かった。
   好奇心の強さと勇気に感心はしたものの、何処も危険に満ちていて、何時、不幸に遭遇するか分からないし、その防御ができるのか、私自身、そんな恐怖を絶えず感じながら海外生活を送っていたので、他人事ではなかった。
   比較的安全な、イギリスやドイツ、オランダなどと言う国では、それ程気にはならなかったのだが、イタリアやスペイン、ギリシャなど、男性旅行客でさえ、頻繁に被害にあっている国では、何でも見てやろう風の若い女性が多かったので、特に一人旅では、好奇心本位で無理をしないか、心配ではあった。
   

   ロンドンでは、何人かの友人や同僚の子女が旅行の途中に立ち寄ることがあったので、数日、預かることがあったが、大概二人旅の大学生で、大体、無難なスケジュールで動いていて、イギリスの場合には、無理をしなければ、問題はなさそうであった。
   それでも、深夜になっても、ウエストエンドの歓楽街でうろうろする日本の若い観光客が結構多かったのには、旅のハイテンションがなせる業か、眉を顰めざるを得なかった。

   中には、娘の大学の同級生だと言うことで、娘自身全く面識のない女学生が、ロンドンで泊めてくれと言うので、止む無く泊めたところ、言わなければ何日も居たり、また、アムステルダムの時には、失恋して男性を追っ駆けてヨーロッパに来て英語の研修を受けていて、同じ学校で娘と知り合って、娘の部屋にそのまま長逗留した女性もいたり、とにかく、よくも知らない女性をどう扱ってよいのか困ったことがあった。   
   もう一つ、アムステルダムへの帰途、KLMで会った夫人が、イスラエル人との結婚を反対された娘が、オランダに行って住んでいるので連絡を取ってくれと頼んだので、電話をしたら、その夜エルサレムへ飛ぶ寸前で、スキポール空港で二人は会えたが、止められなかったと言った経験もある。
   海外旅行の動機はともかく、色々な若い日本女性が、外国に憧れて旅をしている。
   しかし、ニュースにならないだけで、実際には、恐ろしい経験や事故に合っているケースは、かなりあるのではないかと思うのだが、どうであろうか。

   先日、イタリア人男性と結婚して長くイタリアに住んでいたハイセンスの女性に聞いたのだが、ローマなどに在住する若い日本女性が、結構いるようだが、必ずしも、しっかりとした目的を持って住んでいるのではなく、何となく、住み着いていると言う人が、かなり、いると言う。
   何かに憧れて、あるいは、日本に居辛くなって、イタリアに来たが、帰るに帰れないと言うのである。
   それに、仕事をするにしても勉強するにしても、あるいは、趣味に生きるとしても、一所懸命に、現地に溶け込んだ生活をしない限り、外国に住んでいると言うだけでは、海外経験は、何のプラスにならない筈である。

   私の娘の場合には、殆ど家族旅行で各地を回り、次女の英国での大学・大学院卒業を記念してアメリカと中国を回った時も、私が連れて歩いた。長女は、一度同級の女子大生とポルトガルとスペインを旅したことがあるが、英語も問題なく海外生活も長いし外国での教育も受けているので、十分注意して行かせたのだが、いずれにしろ、夫々、同居ないし単独で海外で生活していたので、自分自身で十分に注意して、身を持って危険予知を身に着ける以外にないと思いながら、細心の注意は怠らなかった。

   ところで、私自身、海外生活14年の経験者だが、これは、自分の希望も多少加味されたとしても、会社命令の留学であり赴任であり、幾分恵まれた海外生活ながら、それでも、望郷の念醒めやらず、異国で生活すると言うのは、楽しいことばかりではなく辛いことも結構多い。
   やはり、日本に住んでいて、時おり、計画を立てて、好きな時に好きな外国へ行くのが、一番良いと思うのだが、絶えず心しなければならないのは、日本ではない、異国なんだと言う認識を絶えず持って、旅の安全に心掛けることである。
   海外旅行は、楽しいであろうし有益ではあろうが、同じくらい、辛くて苦しいものでもあると言う思いを、頭のどこかに置いて置く必要があることも事実なのである。

   これまで、かなり、海外旅行について、辛口の私見を述べて来たが、私の本意は、ここになく、世界に飛び出すことが、如何に素晴らしいことであり、そこでの経験は、人類が営々として築き上げてきた文化文明の遺産の凄さ素晴らしさに感激感動することであり、どんな苦しい努力をしてでも、得るもの感じるものは、無限であると言うことである。
   この素晴らしい人間賛歌を感じることなく、人生を送ることが如何に無味乾燥であることか。
   私が、知盛の心境になり、「見るべきものは見つ」と何度か感じたのは、海外での経験であったことを記して、地球を歩くことは、愛することと同様に、人生における最も素晴らしいことの一つであることを、強調しておきたい。
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深夜、言葉の全く通じない異国で放り出されたらどうするか

2012年08月21日 | 海外生活と旅
   グローバル時代だと言うけれど、兎角、コミュニケーションは難しい。
   私など、米国製MBAだから、英語は、多少人様よりはましだと思うのだが、ドイツ語は、大学の教養で習った第二外国語のドイツ語と、ブラジル在住時に少し習ったポルトガル語くらいで、これが総ての知識だから、グローバルコミュニケ―ション能力など、極めて限られている。
   しかし、これで、私自身は、外国人を相手にして欧米他で仕事をして来たし、1泊以上した外国は、40ヵ国を越しており、チャルーズ王子やダイアナ妃とも話をしたし、結構大変な人物を相手に丁々発止の戦いをして来た。
   やれば、この程度の語学力でも、やれないことはないと思うのだが、しかし、全く、言葉の通じないところに放り出されて、やれと言われれば、全く自信はない。

   これは、もう、20年以上も前の経験だが、ハンガリーのブダペストで、それも、午前一時と言う全くの深夜に、一度昼にしか行ったことのない森の中の住宅の前で放り出されたことがある。
   提携先のハンガリー人エンジニア・プロツナーの家で、しこたま飲んで、タクシーで送り届けられたのだが、どう考えても、自分の記憶していた家と違うような気がした。
   エンジンをふかして去ろうとするタクシーを追っかけて必死の思いで止めたのだが、全くハンガリー語しか分からない運転手にどう話せばよいのか、困ってしまった。

   その前に、事情を説明しないと分からないが、その時は、ベルリンの壁が崩壊した直後のブダペストで、外国人が留まれるまともなホテルは総て外資系であって、外貨を持たないハンガリー人は予約さえ出来なかったので、プロツナーは、東京からの上司夫妻と私のための宿舎として、バカンスに出た友人の住宅を借りてくれていたので、そこに帰ったつもりだったのである。
   昼に案内されて、スーツケースなどを置いただけで、良く見ていないし家そのものも覚えていない。
   まして、当然、夜は送って貰えるものだと思っているし、上司夫妻とも同道なので、その家の住所さえ聞いてもいないし、たとえ聞いていたとしても、人跡まばらで外灯さえない深夜のブダペストの森の中で、訪ねる相手もいないし、当然、留守だから、目的の家に人がいるわけがない。
   それに、運悪く、いい気分になった上司夫妻は、プロツナー宅で泊まることとなり、私一人で、タクシーで送られたのだが、まさか、プロツナーがタクシーの運転手に嘘を言っている筈がないと思ったのだが、草木も眠る丑三つ時に、思い当たりのない家の玄関にキーを差し込んで、ガチャガチャ開けるわけには行かない。

   どのように説明したのか、全く記憶がないのだが、あの手この手を使って、とにかく、もう一度、プロツナーの家に帰ってくれと説得(?)した。どうにか分かったのか引き返してくれたので、既に外灯を消して寝静まっていたプロツナーを叩き起こして、事情を言って、もう一度、正確に、運転手に指示するように頼んだ。
   同じ家に引き返したのかどうか全く記憶はないが、キーを差し入れたらドアーが開いたので、運転手に礼を言って、家の中に入った。

   ところが、不思議なことに、昼に入った時には、点けた筈のない電気が、リビングに点いていて明々としている。
   見るともなく見ると、ソファーの上で、見知らぬ男が寝ている。
   バカンスに出た家族が寝ている筈がないし、万一、寝るのなら寝室で寝ている筈だし、まして、私たち以外の人間を泊めるのなら、事前に言っている筈である。
   明らかに招かれざる客のこの寝ている男を起して、トラブルになっては拙いので、とにかく、一部屋おいた隣の寝室に入って、部屋のカギをかけて寝ることにした。
   ベルリンの壁崩壊直後の混乱状態のブダペストの、それも森の中の深夜の一軒家で、見知らぬ異人と一緒、と言う万事休す状態だが、どう足掻いても、ここで夜をあかす以外に他に選択肢がない。

   図太くも、昼の疲れが出て寝てしまったのであろう。
   朝早く、外から声がするので出てみると、プロツナーと上司が庭から覗き込んでいる。
   心配しての訪問だろうが、プロツナーに、おかしな男が寝ていたぞ、と言うとびっくりしていたが、リビングに行ったら、もう、その男はいなくなっていた。

   いずれにしろ、これがインターナショナル・ビジネスなので、その後は、お互いに何もなかったかのように、それ以上、プロツナーとは何も話さなかったので、真相は藪の中である。
   ブダペストへは何回か来ていて、マネージャーとも馴染みだったので、その日から、米系のトップ・ホテルに移動した。
   ベルリンの壁の崩壊前後のハンガリーは、とにかく、混乱と激動に翻弄されていて、豪華絢爛たる議事堂内でネーメト首相に会ったかと思うと、うらぶれた廃墟のようなビルの片隅の執務室で大臣に会ったこともあり、とにかく、多くの苦難を生きて来た壁の向こうの世界は正に異次元の空間であった。
   しかし、20世紀の前半で成長の止まったような廃墟の様なブダペストではあったが、流石にハプスブルグの二重帝国の首都だけあって、破壊から免れたレストランの優雅さと洗練された美しさは正に特筆もので、時間の経つのが恐ろしいくらいに感動的であったのを覚えている。
   先のトラブルや、このような面白いと言うか、思いがけないような経験を、幾度となく繰り返しながら、少しずつ、ヨーロッパに馴染んで行ったような気がしている。

   たとえ言葉が分かっても、全く異質な文化と文明、そして、全く違った歴史などバックグラウンドを異にした人々といかにコミュニケートして理解し合えるのか、ICT革命で、情報や知識が爆発的に増えれば増えるほど、難しくなる。
   しかし、とにかく、言葉が通じなければ、話にも何も成らないことは事実で、グローバル時代に生きて行くためには、最低限度、それ相応の英語力くらいは、身に着けておかなければならないと言うことであろう。

   もう半世紀も前の話だが、英語が不自由な大阪の大会社の社長が(余談だが、同行者を連れて行く余裕など、当時の貧しい日本にはなかった)、ニューヨークで、オムレツを食べたくて、大阪弁でおむれつと言って注文したが、通じないので、椅子から立ち上がって、両手を横にしてバタバタはためかせて、お尻から卵をポトンと落とす仕草をして説明したと言う話を聞いたことがあるのだが、もう、そんな時代ではないと言うことである。コケコッコーと言ったのかどうかは聞いていないが、アメリカの雄鶏は、cock-a-doodle-dooと鳴くのなどは勿論知らなかったのであろうけれど、所変われば品変ると言う世界、とにかく、異国でまともに生きて行くと言うのも大変なのである。
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ダニー・ボイル:ロンドン・オリンピック開所式模型を発表

2012年06月13日 | 海外生活と旅
   朝のNHK BS1のワールドWAVEモーニングで、BBCが、ロンドン・オリンピックのオープニング・セレモニー会場の模型を放映したと報じていた。
   この口絵写真は、その冒頭で、ダニー・ボイルが、模型を覆っていた白布を取り払って見せたところで、ロンドン・オリンピック・スタディアムが、イギリスの心地よい緑の大地に変貌するのである。
   

   ボイルのコンセプトは、私たちの住む現在と未来で、なだらかに広がるイギリスの温かくて調和の取れた田園風景の伝統イメージで、現そうととしたのだと言う。
   動物が草を食み、模型の雲から雨が降る。クリケットの試合、羊、牛、馬、畑を耕す農夫。四方には、イギリスの四つの地方を代表する花で飾った柱が立ち、一方には、野外のロックフェスティバルとダンス会場、反対側には、クラシック音楽のプロムスの観客席を設えてある。
   それに、イギリスのショウで、ユーモアがなければ誰も相手にしないので、イギリス人の誇る選りすぐりのユーモア感覚を秘めた笑いを提供するのだと言う。
   
   確かに、イギリスと言えば、ロンドンを離れて地方に向かうと、真っ先に印象的なのは、美しい田園風景であり、そして、イギリス人と付き合っていて、感心するのは、ウィットに富んだユーモア感覚で、ボイルの選択は、イギリスを最も特徴づけるキャラクターに間違いないかも知れないと思う。

   このブログでも、イギリスの風景や田園、イギリス人のガーデニング好きやイングリッシュ・ガーデンなどについて書いて来たし、賭け事好きやユーモア・センスなどのイギリス人気質についても書いて来たが、これまでのオリンピックが、モダンで最新のテクノロジーを駆使した演出やかっての歴史の栄光などをショウ化したスペクタクルなシーンで開幕することが多かったので、今度のイギリス人の選択は、正に、人間本来への回帰であり、一寸、意外ではあった。

   ところで、まず、イギリスの田園の美しさと言うことだが、あのコンスタブルの絵画で描かれている昔懐かしいイギリス風景は、今でも、イギリスの田舎に残っている。
   私は、5年間イギリスに居たので、田舎を自動車で良く走ったし、シェイクスピア劇を観るためにストラート・アポン・エイヴォンに良く通ったので、行き返り、あっちこっちを寄り道して田舎に迷い込んだり、それに、スコットランドとウェールズへは、2週間ずつくらい車で旅をしたので、結構、大都会以外のイギリスを知っている心算である。

   しかし、普通に私たちが感じている美しい田園風景は、四つに分かれている連合王国グレート・ブリテンの内のイングランドが主で、スコットランドやウェールズ、そして、北アイルランドに入ると、はるかに荒削りの自然が残っていて、大分雰囲気が違う。
   イングリッシュであったシェイクスピアの描いた森や林や田園風景は、あのドイツの黒い森のような原始を思わせるような荒々しさはなくて、随分、優しくて温かみと親しみのある雰囲気であることからも、このことが分かる。
   やはり、走っていて心地よく美しいと思ったのは、コツワルドやハリー・ポッターの農場のある湖水地方で、同じ、イングランドでも、エミリー・ブロンテのヒースの生い茂る嵐が丘の田園風景は、荒涼としていて全く雰囲気が違う。
   私は、どこか分からないような田舎を走っていて、古風でムードのあるパブや古い旅籠を見つけると、そこに潜り込んで、生ぬるくてコクのあるビールを味わいながら小休止するのを楽しみにしていた。

   この美しいイギリスの田園だが、昔から、このような風景であった訳ではなく、悪く言えば、イギリス人は、原始の荒野を切り開いて、自分好みの自然環境に訓佳してしまったのである。
   と言うよりも、七つの海を支配して、海洋王国として大英帝国を繁栄させるためには、船を造る必要があり、木を総て切ってしまったと言うか、国家の繁栄のために、森や林、山や森林を総て食べつくしてしまったと言うことで、その代わりに、自分たちの住む環境を思い通りに美しく造形したと言うことであろうか。

   イギリス人の憧れた自然風景は、ローマやギリシャなどの廃墟のある自然風景で、大陸ヨーロッパのような幾何学模様のように造形した人工的な風景は性にあわず、自然な佇まいを強調した修景庭園で、それが、変形して、今日のイングリッシュ・ガーデンに至っていると言うことでもある。
   その思いが、イングランドの田園風景に体現されているのであろうが、イングリッシュ・ガーデンもそうだが、イギリス人が最も好ましいと思えるような最も自然に近づけた自然風の風景である。

   尤も、ダニー・ボイルが意図した田園風景は、今日のイギリスのモダン社会の田園ではなく、もう少し前の、シェイクスピアや、少なくとも、ハリー・ポッターの意図した田園であろうと思う。
   ブラウニングの詩のように、良き人々が幸せに暮らしていた温もりのある心の安らぎに満ちた田園生活のあったイギリスの田舎であり、それを、今日と明日の人々の生きる世界として、現したかったのではなかろうかと思っている。
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NHK:桂三枝 夢のブラジルへ

2012年02月21日 | 海外生活と旅
   再放送のようだが、見過ごしたので、今夜、BSで放映された標記番組を見て、久しぶりに、ブラジルの風景を見て懐かしくなった。
   私は、4年以上もブラジルのサンパウロに住んでいたのだが、それも、もう、40年近く前の、かってのブラジルの奇跡と言われた大ブラジル・ブームの時である。
   しかし、真っ赤な鳥居や大阪橋のあるガルボン・ブエノ街の雰囲気などは、殆ど当時そのままで、当時あった宝石店や土産物店も健在のようだし、今では、QBハウスに駆逐されて全く町から消えてしまった昔懐かしい散髪屋も、昔の姿で残っていた。
   尤も、この日本人街と言われていたガルボン・ブエノも、今では、日本人の影が薄くなって、東洋人街になってしまったと、日本に来ているブラジル日系人の知人が言っていた。

   桂三枝は、”自らの笑い”をもう一度見直そうとブラジルへと向かったと言う。
   サンパウロには数多くの日系人が暮らし、かつての日本同様のコミュニティーがあり、それは、まさに三枝が育った大阪市大正区と同じ。そこを旅することで“自らの笑い”の原点を探ろうと言うのである。
  確かに、ガルボン・ブエノの土産物店に、招き猫の人形が飾ってあったように、私の居た頃にも、古い日本が、そのまま、化石のようにフリーズして、ブラジルの日系人の家庭にあったのを覚えている。
   勿論、天皇皇后両陛下の御影写真が飾られている家もあった。

   昨秋、女子大学の国際コミュニケーション学部で、ブラジル学について、3回講義をすることとなったので、丁度、1年前からBRIC’sの大国ブラジルの視点を皮切りに、ブラジル全般について、改めて勉強し直したのであるが、ブラジルについての日本語の良書は、極めて少ないことに気付いた。
   BRIC’sの大国と騒がれ、オリンピックやサッカー・ワールド・カップの開催が予定されていて、正に、脚光を浴びているブラジルの筈なのだが、日本人の関心はかなり薄くて、一般の人も、ブラジルについては、アマゾンやコーヒー、今盛りのリオのカーニバル、サッカーなどと言った断片的な知識しか持っていない。

   結局、私のブラジル学の勉強の大半は、英語で書かれた専門書やメディアや政府関連の資料に頼らなければならなかったのだが、講義の資料をも兼ねて、ニューヨーク・タイムズの記者ラリー・ローターの著書「BRAZIL ON THE RISE」を種本にして、このブログで「BRIC’sの大国:ブラジル」と言うカテゴリーで、20数編記事を書いて残した。
   大学の講義では、大航海時代以前のポルトガルから説き起して、ラテン国家のモノ・カルチュア経済から、レアル・プラン成功による超インフレ克服、そして、今日の工業農業食料大国としての超大国への道へのブラジルの軌跡を軸に、サンバやカーニバル、アミーゴ社会等々、自分自身、結構楽しみながら、ブラジルの魅力を語って来た。
   私は、ブラジルと言ったラテン系の国よりも、欧米での在住の方が長くて、米国製MBAでもあり、どちらかと言えば、アングロ・サクソン文化の方に傾斜しているのだが、全く対照的な、両極端の文化や政治経済を、浮き彫りにしながら俯瞰できるのも、幸せかも知れないと思っている。

   尤も、講義の重要な課題の一つは、日本人のブラジル移民とブラジルの日系社会、そして、日伯間の切っても切れない重要な経済関係など、正に、日本のブラジルとの関係である。
   その準備を兼ねて、私は、NHKで放映された橋田壽賀子の「ハルとナツ 届かなかった手紙」を録画してあったので、見始めたのであるが、不覚にも、最後まで5回あるのだが、あまりにも、胸が詰まって、とうとう、2回目の途中で、その先が見られなくなってしまった。
   今回、桂三枝の番組で、50年の風雪に耐えて成功した迫田農園の人々の大家族の今日を放映していたが、未来を信じて新天地を求めて雄飛した13万人の日本人たちが、如何に、過酷な試練と闘って生き抜いて来たか、随分、色々な人から話を聞いて来たが、筆舌に尽くし難い苦難の連続の筈だったのである。
   しかし、それ故に、日本に対する望郷の念は冷めやらず、そのような多くの日系ブラジル人が居たからこそ、桂三枝が感じたような、どこか、昔の大阪の下町にあったような、懐かしくて暖かい、どこか、タイムスリップしたような古き良き日本の温もり・雰囲気が、ブラジルには残っているのである。
   
   ところで、桂三枝の「ブラジルは夢の中」と言う新作落語を、是非、聴いてみたいと思っている。
   
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オランダ生活の思い出

2012年01月08日 | 海外生活と旅
   先日、NHKで向井理のオランダ旅を放映していたが、雑用の合間に、ちらちら見ていたが、懐かしい風景が映し出されると、無性に懐かしくなる。
   ところで、古いフィルムの整理ついでに、何故か、手元にあるフィルム100本分くらいの内、外国分の一部をスキャンし始めたら、殆ど、最初は、オランダの頃の写真ばかりであった。
   家族写真が多いので、大半は観光地でのものだが、やはり、近くのチューリップ公園であるキューケンホフに良く行ったのか、チューリップに関係したものが多く、次に多いのは、各地にある有名な建物を、精巧なミニチュア模型にして小さな都市を作り出しているマドローダム公園での写真である。
   それに、オランダなどヨーロッパの博物館や美術館などでは、写真が自由に写せるところが多いので、レンブラントやフェルメールの絵の前で写した写真もあり懐かしい。
   1985年以降だから、当時は、フィルムもASA100くらいで感度も良くなかったのだが、ニコンでF1.2、ライカでF1.4の標準レンズで手振れを注意して写せば、まずまず、写せた。

   最初にオランダに行ったのは、もう、22~3年前になるのだが、その時、美術館では、ゴッホやレンブラントよりも、真っ先に感激したのは、フェルメールの「牛乳を注ぐ女」で、それから、私のフェルメール行脚が始まり、幸い、海外生活や海外出張が多かったので、最大36点くらいだと言われている彼の作品の32点は、既に、お目にかかっている。
   オランダに住んでいた時には、日本からお客さんが来て芸術に多少の関心のある人には、必ず、アムステルダム国立博物館やハーグのマウリッツハイス美術館に案内して、フェルメールの素晴らしさを語っていたのだが、久しぶりに会ったら、殆どがフェルメールに入れ込んでいて嬉しくなっている。
   フェルメールの故郷デルフトにも良く出かけて行って、当時の面影が残っている建物の中に入って、窓から差し込む淡い光を感じながら、絵の感触を反芻していたのだが、オランダの旧市街の古い建物の中に入ると、今でも、レンブラントやフェルメールが、ふっと飛び出してくるような気がするのが不思議である。

   この口絵写真は、今回スキャンした1986年春の写真だが、チューリップ畑が延々と続いているリセの農場である。
   緑の部分は、既に花が咲いて、球根肥培のために花弁が刈り取られた畑か、まだ蕾の畑である。
   遠くの方まで極彩色の帯が横たわっていて、その向こうに絵のようなオランダの家々が遠望できる。
   花が咲けば、ほんの数日で花弁が刈り取られてしまうので、チューリップの種類によっては、開花時期が異なるので、全畑が、同時にカラフルな色のカーペットになることはなく、見ごろは極めて限られていて、タイミングが難しい。
   刈り取られた花弁は、うず高く畝の縁に積み上げられて廃却されるのだが、勿体ないような気がするが、使い道がないのであろう。

   チューリップは、トルコの原産で、砂地で育つようで、このリセの農地も、パラパラとした砂交じりの土である。
   経済のバブルの始まりは、このオランダのチューリップで、新種の逸品は、球根一個が大邸宅に匹敵したと言うから相当なもので、丁度資本主義経済が軌道に乗り始めた商業オリエンテッドな市民社会の勃興期とも一致したこともあって、金に聡い猿どもが狂奔したのだと言うから面白い。
   何を間違ったのか、逸品の球根を食用と間違えて食べてしまって、大騒ぎになったと言う泣くに泣けない悲喜劇もあったとか、昔も今も、欲に駆られた人間の引き起こすバブルは、ずっと人を泣かせてきたのである。
   汚名を晴らすためにも、今でも、オランダはチューリップの国で、このリセ近郊で栽培された膨大なチューリップと球根が、すぐ近くのアルスメールの世界最大規模の花市場でセリにかけられて、隣のスキポール空港から、瞬時に世界中に送られて行く。

   さて、スキャンだが、それまでは、キヤノンのプリンターのスキャン機能を使ってスキャンしていたのだが、時間が掛かり過ぎるので、ケンコーの簡易なフィルムスキャナーに切り替えた。
   解像度は低いが早いし、2L版程度の引き伸ばしには耐えそうだし、とにかく、整理もままならず、すてるだけのフィルムなら暇に飽かせて、少しずつ、思い出を反芻しながら、貴重な体験を探し出そうと思ったのである。
   まだ、この何十倍もの膨大なフィルムが、押し入れに眠っているのだが、世界中の珍しい土地にも出かけているし、あっちこっちで、シャッターを押し続けて来たので、自分でも忘れている面白い写真を見つけ出せるのはないかと、楽しみにもしている。
      
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ギリシャ雑感

2011年09月03日 | 海外生活と旅
   今、ギリシャは、財政の悪化で危機的な状態にあるのだが、私の印象では、比較的国家財政に対して甘いラテン系の国とも違って、この国は、ヨーロッパでも、もう少し、中東のイスラム国家に近い独特な雰囲気を持っているように思う。
   あの偉大なギリシャ文明を築いたギリシャ人が、今日のギリシャ人と全く同じなのかは知らないが、落差はかなり大きいように思う。

   この古代ギリシャの遺跡のかなり多くは、トロイやミレトスもそうだが、エーゲ海を隔てた対岸のトルコにある。
   ところが、宗教が違うのも勿論だが、キプロスでの対立でも顕著だが、両国の関係は悪い。
   私は、イスタンブールへは2度行ったことがあるが、イズミールを経てブルサくらいまでタクシーで走ったが、残念ながら、ギリシャの遺跡には接することが出来なかった。

   この口絵写真は、パルテノン神殿のエレクテイオンの有名な6人の少女の姿の柱像のカリアティッドの玄関だが、私が最初に見たのは、南西隅の少女像で、大英博物館でであった。
   一番きれいに残っていた柱をイギリス人が持ち出したのだが、私が最初にパルテノンに行った時には、残りの少女像はそのままだったと思うのだが、次に行った時には、博物館の中に安置されていたので、この写真は摸刻像である。
   エルギンマーブルとして有名なパルテノンの正面東ペディメントに残っていた彫像や波風の壮大な絵巻物とも言ううべき一連の彫刻を見てから、益々、アテネに行きたくなったのだが、イギリスに運び込んだのが良いか悪いかは別にして、トルコ軍に爆破されて廃墟になったパルテノン神殿をそのま間、風雨に晒されしまうのも問題であったことも事実であろう。
   「日曜はダメよ」のメルクーリが大臣の時に、返せとイギリスに怒鳴り込んだのだが、文化遺産がオリジンの母国に帰るのなら、ヨーロッパやアメリカの博物館は空になってしまう。

   このアテネにある古代ギリシャの遺跡は、結構手入れされているのだが、私が、コリントスやミケーネやエピダウルスなどに行った時には、まだ、沢山の建造物の欠片ががれき状態で残っていたし、けしの花が鬱蒼と茂っていたりして、正に、兵どもが夢の跡と言った感じの廃墟があっちこっちに残っていた。
   メソポタミアやエジプト、インド、中国の遺跡からすれば、随分若い文化なのだが、あの勇名を馳せたスパルタなどほんのチッポケな集落に過ぎないと思うのだが、大帝国を築かずに、吹けば飛ぶようなギリシャの都市国家が、世界の文化文明を総なめにした時期が歴史上にあったと言うことは、驚異と言う外ない。

   そんなギリシャが、今、世界の文明国で、一番弱い貧弱な国家経済に泣いている。
   古代ギリシャ人が、今のギリシャ人かどうかと問うたのは、そんな気持ちからだが、この危機から早く脱して欲しいと思っているのだが、ソクラテスやプラトンやアリストテレスはどう思っているであろうか。
   
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世界遺産:トリニダー遺跡~懐かしいパラグアイの思い出

2010年09月04日 | 海外生活と旅
   NHKの番組「世界遺産への招待状」で、パラグアイの世界遺産トリニダー遺跡(口絵写真、グーグル・アースから借用)を放映していた。
   私が、ここを訪れたのは、30年以上も前のことで、パラグアイとアルゼンチンの国境の町エンカルナシオンからほど近く、国道6号線をイグアス瀑布に向かう途中、右手南方のジャングルの中にある巨大なキリスト教会を中心とした遺跡である。

   スペインのイエズス教会の宣教師たちが、原住民であるインディオ・グアラニー族を糾合して作り上げた自給自足の布教の為の共同体レドゥクションの跡だが、1706年に建設を開始し、1755年頃に、スペイン・ポルトガル連合軍に攻め込まれて宣教師が追放されて、指導者を失った社会ゆえに自然崩壊したと言うのだから、正に夢の跡でもある。
   大地と同じ色の赤褐色の煉瓦で築き上げられた壮大な建物の残骸で、彫刻が施された壁面や柱などが、かなり、綺麗に残っている。
   私が訪れたのは、この国道6号線の工事中で、訪問者などは全くと言ってよいほどなくて、ジャングルの小道を踏み分けて、雑草の生い茂った大地に横たわる遺跡群に至ると言った感じで、よくも、こんなところにこれだけの建物を建てたものだとびっくり頻りであった。

   尤も、私自身、メキシコと南米各地を歩いていて、スペインやポルトガルの残した遺産の壮大さとその影響力に圧倒され続けていたので驚くのも不思議だが、ラプラタ川を遡上してイグアスの滝に至る圧倒的な辺境のジャングル地帯に、僅かな人数の宣教師たちが、未開のインディオを巻き込んで、ローマのバチカンをモデルにして一大コミュニティを建設したのだと言うのである。
   このあたりの話は、映画「ミッション」で、少し見た記憶があるのだが、このNHKの番組では、イエズス会の宣教師を、文化文明の伝道者として捉えている一般パラグアイ人と、インディオ搾取と圧政の主だとするグアラニー族末裔の話を伝えていて興味深かった。

   私は、サンパウロに駐在して、パラグアイの仕事も見ていたので、頻繁に、首都アスンションやこのエンカルナシオンを往復していたが、パラグアイ人は、殆どが、スペイン人とグアラニー族の混血児だが、あの、ワールド・サッカーで日本が負けてしまったように、非常に誇りの高い民族で、丁度日本が江戸から明治に変わろうとする頃、三国同盟戦争で、ウルグアイ・ブラジル・アルゼンチンの強敵3国を相手にして5年間も闘い続け、国民の半分以上を失ったと言うのだから恐れ入る。
   その結果、男の人口が極端に減り、長い間、パラグアイでは、婚期を逸した女性が多くて、女が木から降って来ると言われていたようで、私に、ブラジルの友人が、まことしやかに語っていた。

   このNHKの番組では、今でも、貧しい掘立小屋に住んで慎ましやかに生きているグアラニー族の生活を放映していたが、その中で、村の長老が、パラグアイのハープ(確かアルパと言っていた気がする)を習慣にしていると言って爪弾いているのを聞いて、無性に懐かしくなった。
   このハープは、コンサートで見る素晴らしいハープとは違って、ペダルも何もない弦を張っただけのシンプルなハープで、非常にこじんまりとしていて、演奏は比較的易しそうで、私は、アスンションのクラブなどで、楽師たちの伴奏に合わせて、カラフルな民族衣装を身に着けた乙女たちが、頭に土器の壺をのせてフォークダンスを踊るのをよく見た。
   激しいパラグアイ気質とは全く違って、極めて穏やかで優雅で、じっと目を瞑って、聞き惚れていると、憂さや疲れが消えて行くのである。
   グアラニー族にとって、スペイン人征服者や宣教師の到来が良かったのか悪かったのか分からないが、こんなに、今なお貧しい生活を送っているグアラニー族に、アルパを残しているのが、何とも言えず切なくて胸が痛む。

   さて、このトリニダーの近くに、確か、チロルと言うところがあって、ドイツ移民が、コツコツと自分で煉瓦を積んで建てたと言う瀟洒で雰囲気のあるヨーロッパ風のホテルがあって、滞在したことがある。
   かなり、美味しい欧風料理を賞味出来、南米だからワインも美味かった。
   このあたりには、ドイツ、イタリア、ロシアなどの移民たちの集落があって、あの当時も、かなり本国との繋がりが強くて独立した生活をしていたように思うのだが、この近くで、戦後何十年も経ってから、アイヒマンだったか名前を忘れたが、ナチの高官がユダヤ警察に逮捕されたと聞いたことがある。

   話がそれたが、このトリニダー遺跡の傍で、全く光の無い漆黒の闇の中で、光り輝く南十字星を仰ぎ、本当に漢字通りに頭(目)が光る螢を見たのを思いだしながら、全く、アナログだけの、歴史の歯車が止まったような若き時代の思い出の数々を反芻しながら、NHKの番組を楽しんでいた。
   
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イングリッシュ・ガーデンの魅力

2010年03月26日 | 海外生活と旅
   NHK BSで、アガサ・クリスティの「ミス・マープル3」を放映していて、久しぶりに、花の咲き乱れる綺麗な庭を見て、イギリスの庭を思い出した。
   日本では、イングリッシュ・ガーデンと言えば、一般的には、自然な植栽と自生植物を重視して自然風を装いながら色彩の調和を重視した、色々な花が美しく咲き乱れる色彩豊かな庭園を言うことが多く、実際にも、イギリス人たちがこよなく愛するガーデニングに明け暮れている自分たちの庭は、殆ど、この新しいイングリッシュ・ガーデンである。

   新しいと言ったのは、本来のイングリッシュ・ガーデンと言うのは、広大な池や川を廻らせた自然の景観美を追求した立体的な風景式庭園を言うのであって、フランス庭園に代表されるような大陸型の平面的幾何学式庭園の対極にはあるが、背景には、ギリシャやローマ風の廃墟を思わせるような建物が散在するような古典的なイメージの強い壮大な庭園なのである。

   私自身、5年間の在英中に、イングランドからウェールズ、そして、スコットランドと、多くの庭園を見て歩いたが、特に典型的な風景式庭園で印象に残っているのは、オックスフォード近くにあるチャーチルの生家でもあるブレナム・パレスやストーヘッドである。
   私が、散歩道として楽しんでいたキュー・ガーデンなどは、もっと自然に近い荒削りのイギリス式風景庭園かも知れない。
   イギリス各地に、古城や歴史的建造物が散在していて、実際に活用されている名所旧跡には、立派な庭園が併設されていて、立派に維持管理されていて、楽しめるのだが、トピアリーなどが幅を利かせる幾何学文様に造形された人工的な大陸ヨーロッパの庭園とは、全く雰囲気が違うのが面白い。

   しかし、考えて見れば、ギリシャやローマへの憧れと同時に、自然風の風景を愛するイギリス人だが、徹底的に自然の景観を破壊しつくして、原始の大地を自分好みの風景に造形し直した結果だと言うところが実に面白い。
   イギリスの何処を探しても、原始時代のイギリスの景観など、跡形も残っていないと言うのが、如何にもイギリス的であり、あれだけイギリスの田園風景が美しいのは、どこまでも人工的である故なのである。

   私が、美しいと思った今様イングリッシュガーデンの一つは、記憶が定かではないが、ストラトフォード・アポン・エイボンで見たシェイクスピアの母の家メアリー・アーデンの家の庭だったような気がする。
   イギリス人の友人に誘われて毎夏の夜長を楽しんだグラインドボーンでの、午後から真夜中にかけてのオペラ三昧も素晴らしい思い出だが、この広い庭園に散在するイングリッシュ・ガーデンも美しかった。
   開演前と長い休憩の間には、気に入った庭園の芝生にシートを敷いて、ピクニック・スタイルのディナーとワインを楽しむのだが、少し、寒いくらいだが、美しい池畔や花々に囲まれての会食は実に楽しい。
   庭園の向こうの方では、羊が草を食んでいる長閑な風景が展開されているのだが、これは、庭園と牧場の境界線に、見分けが付かないような細い空掘り(ハーハーと称する)が掘られていて、あたかも、一体の風景のように見えるのである。
   
   さて、この口絵写真の庭は、私の年来の友人であるアブラハムズ夫妻のギルフォードの自宅の庭で、非常に広大であり、一寸した昔の公団住宅の敷地くらいはあると思えるほどなのだが、ジムが噴水や池のメインテナンスは手伝うにしても、主に、夫人のマーゴが一切の世話をしている。
   かなりの部分は芝地としても、邸宅周りには、小さな回遊式イングリッシュ・ガーデンがあり、温室で、盆栽まで栽培しており、広い網を張った農場では、色々な果物を栽培しており、ジャムは総て自家製である。
   時々、近くのロイヤル・ガーデンに出かけて、講習を受けたり園芸の勉強もしているのだが、結構、経験と知識は深い。

   私のキュー・ガーデンの自宅にも、かなり広い庭があったが、多忙を極めていたので、全く手が回らず、庭のメインテナンスは、庭師や園芸助手などに世話をして貰っていた。
   イギリス人は、庭付きの家を郊外に持って、多少遠くて不便であっても通勤したり、あるいは、田舎に邸宅を持って週末に帰って庭仕事をすると言うほど、ガーデニング好きだが、当時の私は、まだ、それ程ガーデニングには興味がなく、美しい花を写すと言う趣味に留まっていたのである。

   さて、イギリスの住宅の庭だが、前庭が小さくて、家の裏側の後庭が、広大だが、大抵は、隣との境界は生垣などで遮蔽されていて外部から入れないし見えない。完全にプライベートな自分たちだけの世界が作り出されているのである。
   ところが、同じ花好きの国民であるオランダだが、普通の家は、北海道のように、隣との境界があいまいな所為もあってか、チューリップなど季節の花は植えているが、イギリス人のようなガーデニングと言った感覚がないのが面白い。
   ぼつぼつ、チューリップ公園として有名なキューケンホフがオープンした頃で、五月の最盛期にかけて、世界中から花好きを集めるのであろう。この公園だが、花に囲まれ続けているオランダ人が、殆ど、訪れないと言うのが面白い。

   ヨーロッパも花のシーズンである。
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