熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

アメリカでも所得格差の拡大が教育機会を左右

2012年05月31日 | 政治・経済・社会
   ロバート・B・ライシュは、「アフター・ショック」で、格差の拡大と中間層の没落が、アメリカ社会を益々窮地に追い込みつつあると論じているのだが、その格差拡大の影響が教育分野にも影を落としており、豊かな家庭の師弟は教育機会には恵まれているが、中間層以下の子供には、名門大学へのアクセスさえ難しくなってきていると言っている。

   まず、富裕層の子供は、レベルの高い私立高校や、富裕層しか住めないような場所を通学圏とするトップクラスの公立高校に通っていて、苦手科目の勉強を家庭教師に手伝ってもらったり、SAT(大学進学適性試験)などの入試試験のためのテスト準備サービスを利用したり、入学願書作成の助言をしてくれるアドバイザーを雇ったりできる。まして、中には、親がその大学に沢山の寄付をしていて、入試担当者から特別扱いを受ける者もいる。
   しかし、一方、大多数の中間層の子供は、程度の低い公立高校に通わざるを得ず、自力で道を切り開かなければならないので、益々、名門大学への入学機会は、少なくなる。
   名門大学は募集定員が限られていて、これが大学の評判を保つひとつの手段でもあるが、こう言った大学は多くの場合、最高の職業への登竜門の役割を果たすために、入試での競争は非常に激しく、富裕層の子供には、益々、有利になっていると言うのである。

   私が、アメリカのビジネス・スクールで学んでいたのは、1972年から1974年で、ライシュが、大繁栄時代(1947年から1975年まで)と呼ぶ、アメリカの歴史でも最も民主的で、米国全土できちんと「基本的な取引」が実施されて、労働者が生産したものを購入できるだけの十分な給与が、労働者に支払われていた、大量生産と大量消費が補完関係にあった幸せな時期であった。
   従って、世界最古で全米屈指のトップクラスのビジネス・スクールであったが、学生は、金持ちの師弟ばかりという感じではなく、比較的真面目に勉強してきた中間層の師弟が平均的で、アファーマティブ・アクション(Affirmative Action / Positive Action )と言う差別を受けてきた黒人(アフリカ系アメリカ人)等の少数民族や女性の社会的地位の向上のために雇用・教育に関わる積極的な優遇措置をとる施策で入学した学生や、復員兵援護法(G.I. Bill)により除隊後に奨学金や学生ローンを得て進学してきた学生などもいたし、外国からの留学生もかなりいて、タイや香港からの留学生は金持ちの子供ではあったが、ヨーロッパからは普通の学生が来ていたし、日本からの留学生は殆ど官庁、銀行、企業からの派遣なので、ほぼ質素で貧しい学生生活であった。
   それに、ビジネス・スクールであるから、キャリア・アップが目的で、職を離れて再入学をしたり、共稼ぎで夫婦かわりばんこに入学したりと言った、自分たちの経済力で、MBAに挑戦していた学生が大半だったような気がしている。
   本当に、当時のアメリカは、ライシュが言う大繁栄時代であり、国民すべてが、アメリカン・ドレームを信じて、一生懸命に生きていた黄金時代であったのであろう。

   ところで、よく考えてみれば、私が、大学生を送っていた1960年代の安保反対に明け暮れていた頃の日本も、結構、平等社会で、私が通っていた京大など、学生は非常に貧しくて苦学生が多かったような気がする。
   当時、新聞に、同志社の構内には自家用車が駐車しているが、京大の構内には、一台もなく、自転車ばかりだと書かれたことがあったが、平均して、国公立大学の学生は、私立大学の学生よりは、はるかに貧しかったはずである。
   英語の講師が、今日は金がないので、昼食にバンを買って代わりに歩いて帰るか、パンを諦めて電車に乗って帰るか考えているのだと、授業で語るほどの時代であり、祇園祭や葵祭の行列の大半は京大生のアルバイトだと言う時代だったのである。
   とにかく、いくら貧しくても、歯を食いしばって頑張れば、アルバイトで食いつないで、どうにか最高学府を卒業できたと言う時代だったのだが、今では、東大生の大半は、富裕層で学歴の高い家庭の師弟だと言うから、教育さえも金次第と言う時代になってしまったのである。
   この傾向は、前述したライシュのアメリカのみならず、韓国も中国も、ロシアやインドさえも、優良な教育機会を得るためには、豊かでなければならなくなって来てしまっている。
   
   しからば、国民に、教育機会を均等に付与するためには、どうするのか。
   格差の是正と中間層以下の経済力アップ、すなわち、ライシュの言う大繁栄時代の復活ができれば理想的なのであろうが、経済が成熟段階に入ってしまって成長から見放されてしまったアメリカや日本、そして、多くのヨーロッパ先進国にとっては、殆ど実現不可能であろう。
   さすれば、政府なり公共機関が、教育機会均等付与政策を編み出して推進する以外にはないのだが、既に、無い袖を振れなくなってしまった悲惨な公共財政状態では、多くを望めない。
   私には、今のところ、突っ込んで、これぞと提案できる成案はないが、高校無償化や児童手当でさえ議論の多い昨今であり、生きるも死ぬもすべて自己責任と言う極めて冷たい議論さえ幅を効かせている世の中であり、考え込まざるを得ないと言う深刻な思いである。
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日本のものづくり再生へ

2012年05月30日 | 経営・ビジネス
   先日、日経朝刊に、「パナソニック本社人員半減」と言うトップ記事が掲載された。
   先期に、7721億円という過去最大の連結赤字を計上したので、V字回復を目指して、国内従業員約10万人のうち、本社部門の7000人、すなわち、調達や品質保証、情報システムなどの事務部門4000人、研究開発部門2000人、生産技術部門1000人を対象に、新会社に配転したり、希望退職を募って、削減するのだという。
   潰れる寸前だったと中村会長が述懐していた中村改革直前の松下危機の再来と言うことであろうが、既に液晶との勝負がついていた筈のプラズマへの巨額投資を強行して2年後に尼崎工場を閉鎖すると言う愚挙をなしたのであるから当然ではあろうが、同じ経営陣で、同じようなコモディティ紛いの、全く差別化の気配さえ乏しいプロダクト構成で、何のブルー・オーシャン的な市場を開拓することなく事業を推進する限り、合理化とコスト削減のみで、辻褄を合わせて食いつないで行く以外に道はないのであろう。

   日経は、3日連続で、経済教室で、「ものづくり再生の視点」と言うタイトルで、専門家の論文を掲載した。
   夫々、興味深い論点について議論を展開していて、非常に面白いのだが、難と言えば、一般的に言われていることの掘り下げ程度で、特に、新しい指摘はなかったと言うことである。
   しかし、分かっているけれど、そのものづくり再生のビジョンなり戦略を、日本の製造業が推進なり実行したりすることが出来ないと言うことである。

   まず、最初の延岡健太郎一橋教授の「顧客が喜ぶ「価値づくり」を」。
   日本企業は、品質の高い商品を開発・製造するのが得意だが、独自性がなく、顧客が客観的に評価できる機能や使用に関する「機能価値」を重視するも、もっと重要な、顧客が共創しながら主観的に価値を意味付ける「意味的価値」を内包した顧客価値を持ったものづくりに適応出来なくなってきており、価格競争のみが激烈なコモディティ的なものづくりではなく、過当競争を避けるためにも、高度なものづくりで意味的価値の高い真の顧客価値を持ったものづくりに徹しなければ、生きる道はないと言う。
   延岡教授は、ソニーに勝利した任天堂のWiiやアップルを例に挙げて、意味的価値を説明している。

   この点を別な観点から述べているのが、遠藤功早大教授の「戦う土俵、冷徹に見極めを」と言う論文。
   これから、日本のものづくり企業が選択すべき土俵は、二つで、
   一つは、事業特性の変化を冷静に見極めて、「規模型事業」ではなく、「特化型事業」に狙いを定めることで、独自技術やブランド、流通網、サービスなど多様な差別化要素などで独自のポジショニングを追求するなど、規模以外の競争要因で優位性を構築すること。フィリップスの医療機器分野、ダイキンのエアコン特化を例示。
   二つ目は、完成品ではなく、部品や素材を戦う土俵として選択すること。
   この分野では、世界の市場を抑えている日本の中小企業がかなりあるが、これこそ微かだが光の部分であろう。
   いずれにしろ、テレビやパソコンと言った、大型の製造装置を用意すれば、比較的容易に製造できる、品質も均一化して、価格が唯一最大の差別化要素となるコモディティ化が急速に進んでいるものづくりなど、日本の製造業の対象では、最早なくなってしまったということであろうか。

   1990年代から急速に進展して来たモジュール化、標準化、デジタル化と言うICT革命による巨大な産業革命の胎動に、一番無神経であったのが、日本の製造業ではなかったかと、私自身は、いつも思っているし、今でも、日本の製造業は、その軛から解放されていないと思っている。
   ものづくりでは、以前から、スマイル・カーブ論が展開されていて、何度強調されても、日本の巨大なリーディング製造業の多くは、一番利益率が薄くて競争の激しい中間の製造部門に留まって激烈な競争に明け暮れていて、最先端の素材や部品の部門や、最終段階の顧客直結のソフト・サービス部門を軽視し続けており、その典型は、コンシューマー・エレクトロニクス産業の惨状であろうと思う。

   もう一つ面白いのは、新宅純二郎東大准教授の「経営者は現場の力結集を」と言う論文。
   日本の経営の問題点は、現場力にあるのではなく、素晴らしい素質と力を持った強い現場を生かしきれていない経営にあると言う考え方。
   とりわけ、経営悪化からの脱出のために、「苦境に立っている事業からは思い切って早く撤退すべし」と言う議論は極めて危険だという。
   経営者の役割は、社内の有用な資源を売ることではなく、有効に活用することで、各部門の現場力を結集して、部分最適を全体最適に結びつけて、全体としての成果を上げることだというのである。
   新宅准教授は、経営学者のようだが、この理論は、特定の企業には当て嵌っても、デッドロックに乗り上げてしまって先の見えなくなってしまった今の日本のものづくりには、何の解決策にもならないと思う。
   企業としては、これまで積み上げ蓄積してきた経験やノウハウ、人的資源やコーポレートカルチャー重視は当然であり、軽々に、盲滅法事業の再編成にのめり込むことは危険だと思うが、日本の製造産業に関する限りは、リシャッフル、ドラマチックな再編、荒療治は必須であり、正しく正確に、企業を取り巻くグローバル環境とその潮流を把握して、できるだけ早く対応を考えない限り生きる道はない。

   これまで、クリステンセンの「イノベーターのジレンマ」を引いて、日本の企業は、既存技術の深追いばかりして持続的イノベーションには極めて熱心だが、今や、クリエイティブ時代に突入して、価値の創造が益々重要性を増しており、新しいはるかに夢のある高度な価値有るものを追求する破壊的イノベーションが出来なくなってしまっていることが、日本ものづくり産業の最大の問題だと指摘し続けてきており、ブルー・オーシャンへの強力かつ爆発的なブレイクスルーなくしては再生が有り得ないと言うことを、もう一度、強調しておきたい。
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能・狂言の鑑賞に少し慣れて

2012年05月29日 | 生活随想・趣味
   日本に帰ってからは、と言っても、もう随分経つのだが、それまでのオペラやクラシック音楽、シェイクスピア戯曲鑑賞から、一気に、歌舞伎と文楽に切り替えて、それに、この半年くらい前から、狂言から入って、能楽鑑賞にも幅を広げて、最近では、国立能楽堂には、月に3回程度は通うようになった。
   まだ、一度、式能に出かけたくらいで、高砂や羽衣、砧、巴、海人、藤戸、嵐山・・・と言ったスタート段階なのだが、心なしか、能楽堂の雰囲気にも慣れて、それに、能舞台の進展を追いながら、少しづつ、曲そのものを楽しめるようになってきた。

   良いのか悪いのか分からないが、私は、何か新しいことを始めようとすると、読書家の性癖であろうか、どうしても、関連本を読んで、理解を深めようとしてしまう。
   歌舞伎でも、あるいは、シェイクスピアでも何でも、とにかく、劇場に出かけて、舞台そのものに接して、少しづつ経験を積みながら、関心を深めていけば良いと言われるのだが、実際には、そんなに易しいものではないと思っている。
   これも、最近行き始めたのだが、比較的分かり易いと思われる落語でさえも、客席で皆が笑っているのに、ついて行けないことがあるので、それ相応の理解力と感受性、それに、経験が必要なのだと言うことがよく分かる。

   ところで、これまで随分色々なパーフォーマンス・アートや舞台芸術の鑑賞を、それも、外国でも、沢山観たり聴いたりして来たのだが、私にとって、能楽は、最も特殊な総合芸術だという気がしている。
   プリマ・アクター、アクトレスが登場し、音楽の伴奏が入り、ギリシャ劇のコロスに似た合唱団のような地謡が加わる等、劇形態の舞台芸術では、最もオペラに近いような気がするが、しかし、オペラは、いわば、音楽劇と言うか楽劇と言うか、セリフが歌曲に変わったと考えても、それほど間違っているとも思えない。
   しかし、能楽の場合には、曲の成り立ちから、公演形態から言っても、随分、他の舞台芸術とは違っていて、初心者の私には、まず、最初に能楽堂に入った瞬間から、別世界に入ったようなカルチュア・ショックを覚えた。
   実際には、シェイクスピア戯曲を能楽の曲に転換した舞台があるようなので、テーマや主題については、差はないにしても、とにかく、猿楽や田楽からの継承はあるにしても、室町と言う独特な時代に生まれ、その後武士に寵愛庇護されて発展してきた歴史そのものにも、その特質が根ざしているのかも知れないと思っている。

   さて、能楽関係の本だが、初歩的な解説書からノウハウ本から始めたのだが、私が興味を持って読めたのは、観世銕之丞八世および九世、観世清和、梅若玄祥の書かれた本で、自伝的なことや、能の歴史や宗家のことども、曲や能舞台のこと、芸術論等々と幅が広いのだが、最高の芸術を極めた能役者にして始めて開陳できる実に含蓄のある滋味豊かな内容で、分かった分からないと言った次元を超えて、能への傾斜を誘う本で、読後の満足感も充実している。
   もう一つ興味深かったのは、実際に能を学んで能楽にのめり込んだ(?)白洲正子、馬場あき子、林望の方々が書かれた能に関する本で、どちらかと言えば、鑑賞者の立場にたって、豊かな知識と芸術論を交えながら解説風に展開されている本で、非常に面白い。

   能楽鑑賞の前には、まず、岩波講座「能・狂言」の能鑑賞案内と狂言鑑賞案内を開いて、当該の曲の解説を読んで、その後、前述の本の中に書かれておれば、その曲に関する記事を再読する。
   実際には、最も参考になるのは、国立能楽堂で発行されているパンフレットではある。
   岩波講座の本には、大概の曲の解説は網羅されてはいるが、先月の、世阿弥自筆本による復曲能で初演の「阿古屋松」や、老体で見る高砂の「高砂」の老体バージョンなどないのは当然であり、仕方がないから、例えば、阿古屋などは、原典の平家物語に当たる。
   日本の古典や、万葉集はじめ勅撰和歌集、中世以前の日本の歴史等、復習を兼ねて勉強を始めないと、中々、能・狂言の鑑賞は覚束無いとも感じ始めている。

   ところで、この辺の能楽本をどう探すかなのだが、国立能楽堂には、ロビーに、書籍やDVDの販売コーナーがあって、結構沢山の本を並べていて参考になる。
   しかし、本を探すのに一番良いのは、やはり、アマゾンである。
   能楽で検索すると沢山の本が表示されるので、目星をつけてタイトルをクリックして解説を読みながら、しらみつぶしに当たるのであるが、これこそ、一網打尽で、大体気に入った本が出てくるので、買えば良い。
   絶版なら、古書店が展示しておれば、古書ではあるが、手に入るのだが、正に、ネットショップのロングテイル商法の勝利である。
   三省堂に行っても、丸善に行っても、紀伊国屋に行っても、行けば分かるが、能楽関係等品揃えは貧弱で、能楽堂の方が揃っている。
   今や、私の書架の方が、まともな能楽本は、多いかも知れないと思っているのだが、シェイクスピア本にしてもそうだが、私が死ねば、娘たちは、すぐに、ブックオフを読んで処分するのであろうから、複雑な気持ちになっている。
   
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トマト栽培日記2012~(4)フルーツルビーEX結実し始める

2012年05月27日 | トマト・プランター栽培記録2012
   フルーツルビーEXの1番花房が結実して、大きいのは大豆大になった。
   この苗木が一番しっかりと成長していて、脇芽をどんどん伸ばして、こまめに脇芽かきをしている。
   トマトの苗にも個性があって、TVで人気だと言うトマトベリーガーデンなどは、何故か、成長が遅くて、同じに植えた他の苗木よりも、はるかに成長が遅くて貧弱である。

   ミニトマトを一部二本仕立てにしようと思って、アイコとアイコイエロー、キャロル7のいずれもサカタの苗木なのだが、1本ずつ、やってみることにした。
   普通は、脇芽を全部かき取って、一本仕立てで育てるのだが、勿論、二本仕立てにしたからといって、収穫が二倍になるわけではないのだが、結構、それなりのテクニックが要って面白いのである。
   昨年始めてやってみたのだが、二本仕立ての仕方は、いろいろあるけれど、私は、脇芽の一番元気なものを選んで、それを二番枝にしている。
   今回のアイコは、一番下からの脇芽だが、ほかは、いつも大体3~4芽くらいのところからである。
   

   花付きだが、大玉は、いくら花がついても、一房3個くらいに摘果するし、中玉は、7~8くらいにして、ミニトマトは、自然に任せている。
   この写真は、キャロル7だが、結構花付きが良い方である。
   

   ところで、少し、トマトを追加して植えようと思って園芸店に出かけてみたら、トマトの苗木等はなくて、すべて、他の夏や秋の野菜苗に変わってしまっていた。
   わずかに売れ残っていた白根トマトホーム桃太郎と白根ミニトマト・ピコを2本ずつ買って植えた。
   いつも、遅れて出荷されているトマト苗なのだが、きれいな雪解け水と自然の中で育てた野菜苗と言う触れ込みだから、新潟産なのであろう。
   もう少し植えたいと思っていたので、残念だが、奥の手と言うほどでもないが、今植えているトマトの中から元気な脇芽を挿し木して、その挿し木苗を植える手もある。
   遅くても6月中旬くらいには、苗木となって移植できるであろうから、9月の収穫には間に合うかも知れない。
   
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ロッテ対巨人・・・QVCマリン球場

2012年05月26日 | 生活随想・趣味
   ひょんなことから、久しぶりに、プロ野球を見に行くことになった。
   幕張のQVCマリン球場でのロッテ対巨人戦で、両方共私の贔屓球団ではないけれど、両球団とも破竹の勢いであり、好カードだと言うので、有り難く切符を頂いて出かけることにしたのである。
   最近で、プロ野球を見たのは、大分前で、神宮球場での阪神対ヤクルト戦であったが、随分昔に、後楽園へ、阪神対巨人戦をしばしば見に出かけたくらいで、元々、プロ野球を球場に出かけて楽しむと言うほどの趣味でもない。

   結果としては、結構楽しませて貰った。
   巨人の澤村拓一投手も、ロッテの成瀬善久投手も、それほど、調子が悪くもなかったので、3回裏まで殆ど動きはなかったのだが、3回裏に井口の2塁打でロッテが1点先行し、その後、サブローの3ランで一挙に勝負が決まった感じで、巨人は、土壇場まで、たったの2安打と言う10連勝中のチームとも思えないような凋落ぶりで、明暗がくっきりした感じであった。
   しかし、最終回に、巨人は意地を見せて、加治前のヒットの後、長野がホームランを打って2点を返して面目を保った。
   1枚目の写真は、澤村の投球で井口が2塁打を打つ直前だが、2枚目は、長野がホームランを打った瞬間である。
   別に写真を撮るつもりはなかったのだが、井口は、昔、ホークスと阪神とのワールドシリーズで、大切な時に、星野阪神にダメッジを与えた選手でよく知っていて、何かをするだろうと思って、シャッターを切ったのと、最後の土壇場だから、ここらあたりで、いくら何でも、巨人だから、簡単に討ち死にしないであろうと思って、シャッターを切ったのが、偶々、当たっただけである。
   小さなデジカメなので、思うように望遠とシャッターが利かないし、それに、バックネットが入って見苦しいのだが、仕方がない。
   
   

   試合は、2時間40分で終わった。巨人のやや元気なさで盛り上がりに欠けたが、ロッテはかなり打っていたし、完封を逸したが、手堅い成瀬のピッチングは光っていたし、ホームグラウンドでの勝利なので、観衆は湧いていた。
   両方共、外野スタンドは、正に、応援合戦なのだが、私が居たネット裏の内野席は非常に大人しく、私の席はややロッテ寄りだったが、ファンは混在していて、隣の若者二人は熱心な巨人ファンであり、前の席には、上下ロッテのユニホームで固めたおじさんが座っていたし、後ろでは、ロッテ・ユニホームの小学生が、しきりに黄色い声を張り上げて応援していた。
   ヒーロー・インタビューになると巨人席は、殆ど、客は引いたが、ロッテ席は満席で、外野の応援団席は、立錐の余地なくインタビューに聞き入っている。
   ヒーロー・インタビューは、成瀬投手と、3ランを打ったサブロー。
   蛇足ながら、非常に気になったのは、一塁側の外野席が日陰で気持ち良さそうなのに、ホームベース側の内野席は南向きで、炎天下。スペインの闘牛場では、入場券は、ソル(日向席)、ソル·イ·ソンブラ(半日陰席)、ソンブラ( 日陰席)と三種類あって、値段が異なり、ソンブラ(日陰席)が最高で、貴賓席などはここにある。マリン球場のオーナーなり設計者は、タダでさえ日射が強くて猛暑の日本の気候が分かっていたのか、常識の差と言うか文化力の差を痛切に感じた。
   その辺の写真を並べて、久しぶりのプロ野球観戦記を終える。
   
   
   
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京成ばら園~バラ満開

2012年05月25日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   一週間前から、京成バラ園(千葉県八千代市)でローズフェスティバルが始まっていて、園内のバラは満開で、たくさんの人で賑わっているとTVでも、放映されていたので、雨交じりの曇り空を気にしながら出かけた。
   ところが、途中の国道296号線は、大変な渋滞で、普通なら30分もかからないところを、車が動かないので、1時間半もかかってしまい、やっと着いたら広い駐車場は満車状態。大概空いているので、強引に突っ込んで駐車に成功したのだが、切符売り場は結構混んでいたが、私の場合は、年間パスを持っているので、そのまま入園したが、思ったより賑わっていて、バラは殆ど満開状態の最盛期であった。
    
   
   
   

   今回のフェスティバルの目玉は、どうも、フランスのメイアンが開発した”ビロードのようになめらかで、つややかな輝きを帯びた真紅のまさに情熱的な大輪花「ベルサイユのばら La Rose de Versailles」”のようである。
   このバラだが、前人気が上々で、京成バラ園からネット販売のメールが入った瞬間に完売したとかで、会場では、明日26日(土)、池田理代子さんや宝塚の紫苑ゆうさんが来場して「ベルばら」のテラスをオープニングするとかで、会場作りをしていて、この真紅のばらを数株植えていた。
   雨模様の中では、黒々とした感じで艶も鮮やかさも台無しなのだが、「株が小さいうちはやや細立ちですが、大きくなるにつれ、花つきがさらによくなります」と言うことで、ひょろりと伸びた枝に数輪といった感じで、まだ、少し寂しい。
   会場には、池田理代子さんの描いた「ベルサイユのばらカラー版画展」が催されていて、アニメとは違った鮮やかさがあって面白い。
   ベルばらの写真は、次のとおり。
   
   
   
   
     
   さて、会場は、よくもこれだけ素晴らしいバラを咲かせたものだと、正に、驚嘆すべきほどの華麗さで、私は、イギリスにも長い間居たけれども、これほど凄いバラ園は、本場の筈のイギリスでもなかったと思う。
   良く通ったキューガーデンにも、申し訳程度にバラ・コーナーがあり、あっちこっちにバラが咲いているが、美しいと思ったことは一度もない。
   デビッド・オースチンのイングリッシュ・ローズも、沢山咲き乱れているのだが、昨年、素晴らしい花姿であった株が、何となく元気がない感じだったのは、やはり、隔年周期と言うことであろうか。
   メイアンなどフレンチ・ローズも、昨年ほど感激する出来ではなかったのだが、私は、イングリッシュ・ローズとフレンチ・ローズが植えられているバラの丘が好きで、ここで時間を過ごすことが多い。
   今日は、一応一回りしたのだが、美しい花を撮そうと思うと結構難しく、これだけ沢山一気に咲くと、目移りして大変でもある。
   次に、何種類か、名前は覚えていないが、写真をお示しする。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   午後遅く、会場の入口近くで、ガーデン・デザイナーの吉谷桂子さんが、「吉谷桂子流ガーデニングスタイル」と銘打って講習会をしていた。立錐の余地もない程の混み様で、ちらりと観察しただけだが、非常にチャーミングなレイディであり、ワンショット失礼したのが、この写真。
    
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今日の日記・・・東大から国立能楽堂

2012年05月24日 | 今日の日記
   今日、午前中は、書斎に篭って、論文作成のために、パソコン相手に資料整理に没頭し、早い昼食を済ませて東京に出た。
   京成とメトロを乗り継いて、本郷三丁目に着いたのは、午後一時をはるかに回っていて、東大法文1号館25番教室にたどり着いた時には、杉本和行(元財務事務次官)氏の「ユーロをめぐる問題についての法的側面を含めた考察」の講義は、始まっていた。
   この講義は、「東京大学ビジネスローセンター(BLC)公開講座」で、殆ど毎月一回くらいのペースで、法学関連の時宜を得たトピックスで、その道のオーソリティが登壇して講義を行なっているので、時折受講して勉強させて貰っている。
   東大では、他にも、色々な組織が公開講座を開いていて、非常に勉強になるので、若い学生たちに混じって勉強しているのだが、京都やフィラデルフィアでの学生生活を思い出しながら、その雰囲気を楽しんでいる。

   この日の杉本和行氏の講義は、正に、超一級と言うべき密度の高い内容で、経済学的な講演が多い中では、法的な側面をも重視した両面からの分析と掘り下げ、それに、実際にヨーロッパでの経験を交えての講義なので、非常に勉強になった。
   私は、いずれにしても、ギリシャの将来については、絶対に必要な経済成長を実現する能力を殆ど喪失してしまっていて、いくら足掻いても、今のままでは、プライマリバランスさえプラスに出来ないような状態に陥ってしまっているので、自力での再生は無理で、EUが、ギリシャ問題を抱えている限り、相当長い間、EU経済の好転は有り得ないと思っている。

   東大から本郷三丁目までの間で、目立つのは、古本屋(医学書等難しい本が多い)、古風な喫茶店、和菓子屋、それに、よく分からないが、これで商売になっているのかと思うような店が、結構あることである。
   一度時間があれば、神田明神や湯島天神を抜けて、上野の杜あたりまで、歩こうと思っている。

   18時開演の国立能楽堂での企画公演「老体で見る高砂」まで、時間があるので、神保町に出た。
   時間があると、いつも間違いなしに、神保町に出て、三省堂から古書店をハシゴするのである。
   経済、経営、政治、社会、歴史、文化と言った関連本に興味があるので、いつも行く店は決まっているのだが、最近は、能楽や狂言、それに、落語関係の本にも興味を持ち出したので、歌舞伎や文楽関係で行っていた店で、過ごす時間が長くなった。
   今日買った本は、
   エリック・リース著「リーン・スタートアップ」 これは、今話題の経営学書である。
   北康利著「吉田茂の見た夢 独立心なくして国家なし」 あまりにも、政治が貧困なので、サンフランシスコ講和条約で日本独立を達成した骨太の宰相を忍びたいと思ったのである。

   いつも、遅刻をするので今日は早めに、能楽堂へ向かった。
   国立劇場には、夫々の独特の雰囲気があるのだが、能楽堂が、やはり、一番、日本的な佇まいが濃厚で、気持ちが良い。
   中庭の日本庭園等、休憩の時間等に出て寛ぐのに、格好である。
   展示室で、「能楽入門」と言う特別展示をしていて、能装束や能面、扇等が沢山並んでいて、興味深く鑑賞させてもらった。

   この日の公演は、本来の後シテの住吉明神は若い神なのだが、世阿弥が、高砂(相生)を老体にジャンル分けしていたので、老体で演じようという新趣向の意欲的な舞台である。
   シテを演じるのは、重鎮の梅若玄祥。私は、このブログでもブックレビューを書いたが、玄祥氏の本「梅若六郎家の至芸」と「まことの花」を読んでファンになっており、是非、実際の舞台を観たいと思っていたので、今回は、正にチャンスであった。
   能「高砂」は、昨年の12月に、金春流の櫻間右陣のシテの舞台を観ているのだが、何しろ、殆ど最初の能楽鑑賞なので、殆ど覚えていない。
   今回は、事前に、馬場あき子さんの「能の世界」の「祝禱の舞 高砂」林望の「これならわかる、能の面白さ」の「名曲に匿された意味「高砂」」などを読んで多少勉強して行ったし、それに、公演の前半で、馬場あき子と天野文雄の対談があって、解説されていたので、大分、舞台をじっくり観ながら、楽しませてもらった。
   どこが、本来の「高砂」と違っているのか、その差については、良くわからなかったが、特に、後シテの玄祥の住吉明神の終曲の舞の輝くような荘厳さ、その気迫と優雅さに感激して見ていた。

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わが庭の歳時記・・・庭木の剪定

2012年05月23日 | わが庭の歳時記
   昨年同様、シルバー人材センターに頼んで、庭木の選定・整枝等庭仕事を頼んでやって貰った。
   若くて元気な時には、休日等を利用して私自身で一切やっていたことがあるのだが、そうもいかなくなって、いろいろなところにやって貰っていたのだが、結局、仕事が水準以上で、とにかく、プロの植木職人に頼むより安くて、60代のセミ・プロ級がやるので問題もないので、これに決めたのである。
   緑萌ゆる季節なので、一番、庭木が茂っている時でもあり、一日で済まなかったので、後日、門被りの槙や主木の剪定を行うことにしたのだが、放射能汚染観察地区でもあるので、除洗になるのかどうかは分からないが、バシャバシャ、派手に剪定をして貰った。

   私も、多少、剪定枝の整理や袋詰めを手伝ったのだが、一つ賢くなったのは、ビニールのゴミ袋の中に、ダンボールでもゴムシートでも何でも良いのだが、板状の輪っかを作って、内張り状態に立てかけて、適当に、剪定枝を詰め込んだ状態で、その輪っかを抜き取れば、結構、沢山の剪定枝を、袋を破らずに収納できると言うことである。
   剪定枝の処理が、費用がかかるし大変なんだと、友人の元日本植木協会の会長が言っていたが、幸い地元では、燃えるゴミのビニール袋に詰めれば、ゴミ収集で処理してくれる。
   こんな単純な仕事でも、袋に詰めるためには、剪定枝をかき集めて、短く細かくしたり、慣れない仕事を老骨にムチを打ってやるのだから、結構疲れるものである。
   大分、庭がすっきりして空間が出来て、太陽が当たるようになったので、週末に、追加のトマトをプランターに植えようかと思っている。

   さて、庭仕事で、トマト苗や咲きかけのユリの枝や植裁等に、大分被害を受けたのだが、これは、やむを得ないとして、少し、先週から芍薬やバラが咲き始めた。
   昨日の雨で、大分、可哀想な目に合わせたのだが、その前に、芍薬もバラも何輪か切って、花瓶に生けたのだが、大きく膨らんで、良い香りを漂わせてくれている。
   咲いた芍薬は、
   
   

   バラは、この口絵写真が、アブラハム・ダービーで、非常に花弁の豊かなアプルコット・ピンクの大輪で、非常に豪華な花で、微かにフルーツの香りがする。
   次は、庭に這わせたリッチピンクのガートルード・ジェキルで、まだ、咲き始めたところなので、開くと、オールドローズのような大輪ロゼット咲きになると言う。
  濃赤紫色の豪華な花は、エル・ディ・ブレスウェイトで、一輪咲きが多いとかで、枝の先端に一輪だけ、堂々と咲いている巨大輪で、まさに女王の風格である。
   これまでは、イングリッシュ・ローズだが、つるバラで咲き始めたのは、トキ色がかった黄色のロココで、これは咲き始めなので、普通のバラのイメージなのだが、花弁数が少ないので、開くと、平咲きで、真ん中の蕊が目立ってくる。
   オレンジ気味の赤くて鮮やかな一重咲きは、プリンセス・ミチコ。本で見るとプリンセス・ミチコは、もっと淡いオレンジ色なのだが、私の木は、イギリス直輸入で、写真入りのタグが付いているので、間違いないと思っている。
   真ん中がピンクで、外に行くに連れて白くなる小輪は、ミミエデンで、枯れずに残った唯一の京成バラ園で買ったバラ。びっしりと花を付けていて、房状に花が咲き綺麗になる。
   もう一つが、これも、一鉢だけ残ったミニバラで、手持ちの望遠で撮ったので、ピンボケ。
   バラが咲き始めてみると、肥料のやりすぎて枯らせてしまった鉢バラには、申し訳なかったと思っている。
   植物は、喋らないし泣かないので、馬鹿に育てられると、悲劇なのである。
   
   
   
   
   
   

   ところで、柚子の花が咲き、結実し始めた。
   去年は、一昨年より収穫が少なかったので、今年は豊作になるかも知れない。
   オレンジレモンの木は、今年の冬の寒さに耐え切れなくて枯れてしまった。一本だけ、細い側枝が伸びているのだが、生き残れるであろうか。
   キンカンは、まだ、木が小さいのか花付きが悪い。
      
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春風亭一之輔の「竃幽霊」・・・真打昇進披露公演

2012年05月22日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   21人抜きと言う快挙を遂げて真打に昇進した春風亭一之輔の「真打昇進披露興行」は、今月21日の鈴本演芸場夜席から、新宿末広亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場、国立演芸場と5月20日まで続いたのだが、私は、18日に国立演芸場定席の中席で、聴いた。
   落語協会の小三治会長が、「世間では私が決めたようになっているが、理事会の総意として名前が出てきた。私は、それから一之輔の高座を聞きました。これは久しぶりに見た本物。芸に卑屈なところがない。『この人以外に考えられない』という気持ちにさせてくれたのがうれしい。なかなか希有な素質ですよ。選ばしてくれてありがとう」と絶賛した(産経)。と言うくらいだから、大変な逸材であり、久々の落語会のスーパー・スターである。

   この日は、師匠の春風亭一朝をはじめ、先輩の春風亭勢朝や春風亭柳朝が高座に立ち、仲入り前の落語(落語協会幹部日替)には、大御所三遊亭圓歌が登場し、この四人が、披露口上を行なった。
   寄席は当時、灯が全てロウソクだったため、トリで出演する芸人が最後にロウソクの芯を打ったので、真打と言うのだが、最高位で、その上はないと、圓歌師匠が披露した。上方落語には、この真打制度がないのが興味深い。
   今月の国立演芸場の国立名人会のトリは圓歌で、聴きたいと思ったが、チケットは完売だったので、期せずして圓歌の名調子を聴けて幸いであった。
   歴代の落語協会の会長についての思い出話や逸話等を披露すると言った砕けた語りではあったが、非常に味があって面白かった。

   さて、一之輔は、新聞報道によると、毎回ネタを替えて高座を努めているようだが、この日の出し物は、竃(へっつい)幽霊であった。
   昔、ラジオか何かで、同じ話を一回聞いたことがあるので、微かに覚えていたが、竃などと言うのは、私が子供の頃には古い農家等では使っていたし、今でも、大きな旅館・料亭や観光レストラン等には残っているのかも知れないが、もう既に、死語と言ってもいいくらいであろうか。
   竃でも、かまどでも、辞書では同じに出てくるのだが、この落語のオリジナルは、18世紀に生まれた上方の古典落語「かまど幽霊」のようだが、江戸落語として残っていると言う。

   ある古道具屋で買った竃から夜中に幽霊が出る。その幽霊は、生前、鳥越に住んでいた左官の長五郎で、博打で 自分の名前に引っ掛けて『丁』を張り続けて、ある晩大もうけした。友達が借りに来てうるさいので、金を三百円だけ商売物のへっついに塗りこんだのだが、その夜フグで一杯やったら当たってあえない最期を遂げたので、恨めしくて迷い出る。その三百円を、竃を買った熊五郎と徳さんは山分けして使ってしまうのだが、幽霊が「金返せ」と出てくるので、徳さんの親元から三百円を借りてきた熊さんは、竃の前に三百円を積み上げて待っていると幽霊が出てきて、交渉の結果百五十円ずつ山分けする。半端な金額なので丸めようと言うので、丁半博打をやるのだが、丁を張った幽霊が負けてしまう。もう一度しようと幽霊が言うのだが、徳が金がないじゃないかと言うと、「親方、あっしも幽霊です。決して足は出しません」とオチになる。

   出だしは、客席に置かれた携帯電話のマナーモードがブルブル震えてチカチカ光り、動き出したと言う話から入ったのだが、確かに、真打後の研鑽を重ねた先輩たちに比しても、臆することたく堂々とした語り口で、グイグイ話を進めて客席を引き込む。
   落語家には、非常に個性の強い人が多いのだが、この人は、非常にオーソドックスと言うか直球勝負で王道を行く感じで、極めて稽古熱心だと言うことだし、年輪を重ねるに連れて話術が磨かれて益々深みを出し、いぶし銀のように渋さを増してゆくのであろうと思う。
   落語家としては、すごくスマートなダンディぶりで、一寸、iPS細胞の山中伸弥教授に似た風貌の良い男であるから、女性ファンも多いのであろう。
   私の後ろの客席で、綺麗な若い母娘が、笑い続けていたのだが、毎日大入り袋が出ていると言うのであるから、やはり、どんな芸能芸術でもスポーツでも、若いスターの登場は、必須だと言うことであろう。
   私は、分からないなりに、歌舞伎、文楽、能、狂言、芝居、戯曲、オペラ、クラシック・コンサートと、顔を突っ込んでいるのだが、最近、其々のお客さんの雰囲気が微妙に違っているのに気づき始めて、客席やロビーなどで、その差の面白さを楽しんでいる。
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ウィーン・フォルクスオーパー・・・ウインザーの陽気な女房たち

2012年05月20日 | クラシック音楽・オペラ
   フォルクスオーパーが来日して、3演目を公演するのだが、シュトラウスの「こうもり」とレハールの「メリー・ウィドウ」の両オペレッタは、何度か見て知っているし、シェイクスピアのこの「ウィンザーの陽気な女房たち」は、イギリスで実際に戯曲の舞台も見ているし、ヴェルディの「ファルスタッフ」をウィーン国立歌劇場で見ているのだが、オットー・ニコライのオペラは見たことがないし、とにかく、シェイクスピア劇でも最も人気の高いファルスタッフの舞台には、元より興味津々である。
   結局、三回も出かける余裕もないので、「ウィンザーの陽気な女房たち」の第二夜に出かけた。

   私が、この誇りは高いがどうしようもなく不埒な無頼漢で、ほら吹きで口先ばかりの臆病者で、それに、威張り屋、盗みもすれば暴力沙汰も起すと言う突拍子もない、しかし、太鼓腹の巨漢で愛嬌があってどうしても憎めないファルスタッフに初めて接したのは、ロンドンで見たRSCの「ヘンリー四世」の舞台であった。
   怪しげな居酒屋に入りびたりのファルスタッフと放蕩無頼の仲間であったハル王子が、次の「ヘンリー五世」では、ヘンリー五世として即位すると、ファルスタッフは、たちまち知らぬ存ぜぬでお払い箱にされしまうのだが、この「ウインザーの陽気な女房たち」は、その後事談で、ウインザーに移り住むも、生活にも事欠いてきたので、持ち前の好色ぶりを発揮して、金持ちの婦人たちを口説いて金蔓にしようと企むのだが、その浅はかな悪知恵を逆手に取られて、散々に嘲弄され滑稽な悪党として甚振られて笑いものにされると言う非常にコミカルな話である。
   曲がりなりにも、ナイトの称号を持つサー・ジョン・ファルスタッフ騎士殿で、庶民でないところがミソ。ストラトフォード・アポン・エイヴォンに堂々たるビヤ樽ポルカの銅像が立っていて、観光客の人気を集めている。

   嘘か本当か知らないが、エリザベス一世女王が、「ヘンリー四世」の舞台を観てファルスタッフがいたく気に入って、今度は、彼を主人公にした恋の物語を書いてくれとシェイクスピアに言ったので、生まれ出てたのがこの喜劇だと言うのだが、あの映画「恋に落ちたシェイクスピア」でも女王陛下の観劇シーンがあったが、宮内庁大臣一座があったなど、結構、女王陛下はシェイクスピア戯曲を観ていたようで、箸にも棒にもかからない憎めない無頼漢のファルスタッフの恋物語とは、ロマンチックであるはずがないとしても、中々冴えた注文である。
   
   シェイクスピアに傾倒したヴェルディは、「マクベス」や「オテロ」と言う非常にシリアスな悲劇をオペラ化しているのだが、晩年に、ボーイトに、喜劇は人を元気にするとか華やかにキャリアを終えようとかとおだてられて、この「ウインザー・・・」を下敷きにした「ファルスタッフ」を作曲したのだが、このほぼ半世紀前に、ウィーン・フィルの創設者であるこのオットー・ニコライの「ウインザー・・・」が作曲されている。
   シェイクスピアの原作に近いのは、ヴェルディの方だが、とにかく、功成り名を遂げたヴェルディが最晩年に、不埒な無頼漢を主人公にオペラ・ブッファを残したのが興味深い。

   ところで、このニコライのオペラだが、かなり複雑なシェイクスピアの物語を簡略化していて、コミカルタッチで話を展開し、散々、男どもを懲らしめながら、一つの恋の物語を纏めて、最後には、鹿の角をつけてハーンに扮装したファルスタッフ(フランツ・ハヴラタ)を、妖精たちに仮想した人々が痛めつけて笑い飛ばす幻想的な愉快なハッピーエンドで終わる。
   まず最初は、ファルスタッフが、フルート夫人(エリザベート・フレヒル)とライヒ夫人(スーリエ・ジラルディ)に全く同文のラブレターを送りつけるのだが、それを知った二人が懲らしめてやろうと、フルート夫人が恋の相手を装ってファルスタッフを呼び出し、同時に、嫉妬深いフルート氏(メティアス・ハウスマン)も同時に懲らしめようと、あの手この手で男たちを振り回して笑いものにすると言うのがメインテーマで、それに、ライヒ氏(シュテファン・チェルニー)の美人の娘アンナ(ベアーテ・リッター)を娶りたい三人の男を絡ませフェントン(ユンホー・ヨウ)と結ばれるサブテーマが加わり、ファルスタッフが、最初の逢引きの時には、洗濯籠に入れられてテムズ川に投げ込まれ、二回目には、フルート氏の大嫌いな伯母に変装させられて散々ぶちのめされ、最後には、森の仮想大会の夜に懲らしめると言う趣向である。

   このオペラで凄いのは、ファルスタッフを歌ったフランツ・ハヴラタで、極め付きは、ばらの騎士のオックス男爵で、バイロイトでは、ニュルンベルグのマイスタージンガーでザックスを演じた。
   Since 1994 Franz Hawlata is regularly appearing at the Vienna State Opera: in more than 200 performances he sang Baron Ochs, Orest, Morosus, Rocco, Caspar, Leporello, Papageno, Osmin, Figaro, Sarastro, Wozzeck, Daland and Pogner.ウィーン国立歌劇場の常連で、バスのロールは目白押しである。
   ヘフリガーやハンス・ホッターが先生だと言うが、とにかく、凄い歌手であり、ワーグナーを聴きたいと思った。

   フルート夫人を歌ったエリザベート・フレヒルだが、パンチの利いた非常に魅力的なソプラノで、今回は、こうもりのロザリンデにも登場しているオーストリアの歌手で、フィガロの結婚の伯爵夫人ロジーナやドン・ジョバンニのドンナ・エルヴィラなどを歌っていると言う。
   ファルスタッフのハヴラタを相手に達者な芸を披露していて、楽しませてくれた。
   アンナのベアーテ・リッターは、オーストラリアの若いソプラノで、中々、チャーミングであり、デビューはペレアスとメリザンドのイニョルドだったと言うのだが、スザンナやパパゲーナなどは分かるのだが、魔笛の夜の女王やコンサートのソプラノパートなども積極的に歌っていると言うから器用なのであろうか。
   飛行士として戦闘機に乗ってアンナとの逢引きの場へ颯爽と登場するフェントンは、韓国人のユンホー・ヨウで、甘い歌声が爽やかかである。やっと、勉強を終えたと言う非常に若い歌手で、ドレスデンのゼンパーオパーで魔笛のタミーノでデビューしたと言うから、これからが楽しみである。

   他の歌手についても書きたいが、演出は、アルフレート・キリヒナー。とにかく、このオペラのセットが非常に面白く、ファルスタッフが逗留しているガーター亭は、フォルクスワーゲンのミニバスで移動自由で、結構様になっていて、上空には、フェントンの戦闘機が宙吊りになっている。
   また、フルート家とライヒ家は、小さなミニハウスで、これも滑車がついていて移動自由であり、必要に応じて役者たちが押しながら出て来て、箱のように壁の部分は開け閉め出来て、隠れたり役者が出入りしたり、二坪ほどのハウスだが面白い趣向である。
   最後の、妖精たちが乱舞して派手に繰り広げられる夜の森のフィナーレは、ウィーン国立バレー団のダンサーたちが彩りを添えて、非常に美しくて楽しい。
   このフィナーレは、シェイクスピア劇もそうだし、ヴェルディの「ファルスタッフ」もそうだが、中々、豪華で綺麗な舞台が演出されるので、見ごたえがあって面白い。
   最後になったが、指揮者のサッシャ・ゲッツェルは、ウィーン生まれ、メータやムーティや小澤に師事し、名だたるオーケストラを指揮し、ドミンゴやカレーラス、ネトレプコやフレミング等と共演してオペラを振る三面六臂の活躍で、今回も、ムンムンとしたウィーン訛りの徹頭徹尾美しくて愉快な流れるようなフォルクスオーパーの芳醇な音楽を紡ぎ出して魅力全開である。
   
   余談だが、私は、この「ウインザーの陽気な女房たち」」を脚色した狂言「法螺侍」をロンドンで見た。
   野村萬斎たち2人が担ぐ籠の中を転げまわる法螺侍を野村万作が演じるのだが、勿論、天秤棒もなければ籠もないのに、コロコロ転げ回り、実に、上手く演じるのに、狂言の芸の凄さに驚嘆した。
  私の庭の垣根を這っているのがイングリッシュ・ローズのファルスタッフなのだが、とにかく、ファルスタッフは、人気絶頂で、不滅なのである。

(追記)口絵写真は、ホームページから借用。
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トマト栽培日記2012~(3)殆どの苗に一番花が咲く

2012年05月19日 | トマト・プランター栽培記録2012
   中玉のフルーツルビーEXの一番花が咲き、三番花房まで、はっきり形を現してきた。
   背丈も50センチくらいに伸び、木もしっかりと太くなってきたし、今のところは、何の問題もなく順調な生育ぶりである。
   他の薬剤散布で枯らしてしまった苗は残念だったが、仕方がない。

   サカタのアイコも、レッド、イエローとも、追っかけるように一番花が咲き、二番花房も見えて来た。
   他のトマト苗も、同じような状態で、順調に育っている。
   昨年は、大玉トマトを植えたので、受粉を助けるために、電気歯ブラシを花に当てていたが、今年は、ミニと中玉に絞ったので、止めることにした。
   水やりは、適当に雨が降っているし、それに、苗が小さな時には、結構地面が湿っているので、追加したことはない。
   シンディー・スィートと言う中玉トマトは、花付きの苗を買って植えたので、もう、一番花房に実を結び始めた。
   植えた時には、1メートル弱の簡易支柱を建てていたのだが、結構、風が強い日があるので、本格的に、1・8メートルの支柱を立てて、苗を、結び直した。
   支柱は、プランター外で地面に差し込んで固定する支柱は、金属性のビニール巻のを使ったが、プランターの中で苗近くに立てる支柱は、取り敢えず、シノダケにして、固定具合に応じて二本支柱と三本支柱にした。
   私は、ズボラを決め込んで、支柱に固定するのに、針金の芯が入った平たいビニール線を使っている。相当余裕を持って結んでいるので遊びもあり、とにかく、仕事が極めて楽なのである。
   苗によっては、旺盛に脇芽が出ていたので、適当に脇芽かきをした。
   
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国立劇場五月文楽・・・「傾城反魂香」「艶容女舞衣」「壇浦兜軍記」

2012年05月18日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の国立劇場の文楽では昼の第一部は、かなり空席があるのだが、夜の第二部の公演の方は、人気が高くて沸いている感じである。
   やはり、プログラムの関係であろうか、国立劇場でも32年ぶりの公演だと言う加藤清正をテーマにした「八陣守護城」が、ポピュラーではなく、それに、玉女や和生や清十郎と言ったエース級の人形遣いの熱演や、咲大夫と燕三の名調子をもってしても、
   第二部の方は、吃又の抜け絵の「土佐将監閑居の場」、お園の口説きの「酒屋の段」、それに、阿古屋が琴、三味線、胡弓を演じる「阿古屋琴責の段」と言ったお馴染みの有名舞台に、人間国宝を筆頭に、素晴らしい三業の演者たちが芸を競うのであるから、人気の出るのも当然であろう。

   まず、土佐将監閑居の場だが、今の文楽は、近松門左衛門の原作とは大分違った改作で、最後の方は歌舞伎とも違っていて面白い。
   原作では、浮世又平の吃音は治らず終いだが、歌舞伎では、節がつくと吃らないことになり、この文楽では、更に故事を引いて、将監が、餞別にと手水鉢を真っ二つに切ると吃りが治ることになっている。
   とにかく、宮中お抱えの絵師仲間の争いで勅勘を受けて山科でわび住いをしている将監から、土佐の名字を貰いたくて、観光客相手に大津絵を売りながら糊口をしのいでいる極貧の浮世又平夫婦が、手土産を持って見舞いに日参しているのだが、弟弟子に先を越されてしまって、絶望して、この世の名残に決死の覚悟で、石塔と定めた手水鉢に描いた自画像が、突き抜けて反対側に浮き出ると言う奇跡が現出して、認められると言う話。

   幸田露伴ののっそり十兵衛を思わせる物語なのだが、土佐の名字を貰いたくて吃音でままならないながらも必死になって師匠に苦衷を訴える浮世又平を、昼の部で豪快な加藤正清を遣った玉女が、一転して、非常にキメ細かく世話物の貧しい絵描きを演じており、夫思いの健気で優しい女房おとくを、付きつ離れつ甲斐甲斐しく、人間国宝の文雀が演じていて感動的であり、それに増幅して、人間国宝の住大夫の語りと錦糸の三味線が、難しい吃音を操りながら、時には肺腑を抉り、時には、感涙を催させ、深い感動を与える。
   ただ一点だけ気になったのは、クライマックスとなる自画像が御影石を抜けるシーンだが、
   ”・・・又平うなづき筆を染め、石面に差し向かひ、『これ生涯の名残の絵、姿は苔に朽ちるとも、名は石魂に止まれ』とわが姿を我が筆の、念力や徹しけん。厚さ尺余の御影石。裏へと通って筆の勢ひ、墨も消えず両方より一度に書いたるごとくなり   将監大いに驚き入り・・・”
   と住大夫が語り続けるので、あまりにも間が短すぎて、すぐに、背後の衾が開いて将監夫妻が出て来てしまって、ワンテンポ・タイミングがずれてから、絵抜けをおとくが見つけて驚嘆して、手探りでにじり寄って又平の手を引いて抜け絵を見せて狂喜すると言うアクションが続くことになって、歌舞伎のような、感動の余韻が薄れてしまうのである。
   
   次の「艶容女舞衣」の「酒屋の段」の見どころは、何と言っても、嫁になりながら一度も夫と情を交わしたことのない処女妻お園が、「今頃は半七様、どこにどうしてござらうぞ。今更返らぬことながら、・・・」と、夫の憂き目は自分故にと、自らを責めて泣き咽ぶ「お園のクドキ」のシーンで、簔助の遣うお園がせつせつと胸の苦衷をかき口説き訴えかける悲しさ哀れさが堪らないほど感動を呼び、その人形とも思えないお園が醸し出す悲哀に満ちた優雅さ女らしさ神々しいような美しさが絶品であり、これだけ観るだけでも観劇の価値はある。
   ”こそは入相の 鐘に散り行く花よりも、あたら盛りをひとり寝の、お園を連れて父親が、・・・”茜屋の門口に佇むお園の登場から舞台が高揚し、正に絵になる素晴らしい舞台で、それに、切場の嶋大夫と富助、人間国宝源大夫と藤蔵の語りと三味線が、更に輪をかけて感動的であり、話としては、現代離れはしているが、親子の情、夫婦の情など、人間の愛おしさが理屈抜きに胸に迫って堪らなくなる。

    最後は、『壇浦兜軍記』の「阿古屋琴責の段」で、勘十郎の遣う阿古屋は、傾城の中でも大役の一つとされていて、豪華な打掛や俎板帯という典型的な傾城の姿で登場するのだが、私は、歌舞伎で一度、玉三郎の舞台を観たのだが、阿古屋の玉三郎は、舞台上で実際に琴・三味線・胡弓を見事に演奏したので感激したのを覚えている。実際には、阿古屋の心情も表現しなくてはならないとかで、歌舞伎では非常に難しい役なのであろうが、文楽では、実際の三曲は、三味線を弾く人間国宝鶴澤寛治の孫である鶴澤寛太郎が弾いていた。
   7年前に、国立劇場で見た時には、簔助が阿古屋の主遣いで、勘十郎が左を遣っていた。
   この阿古屋は、人形遣いの三人とも、出遣いなので、顔が見えるのである。
   私の席が、寛太郎にかなり近かったので、人形と寛太郎の指遣いを両方見ながら聞いていたのだが、人形が実際に演奏しているように見せるためには、三曲の演奏の実際を知っていなければ、中々うまく行かないのではないかと思う。
   前回と今回と見ていて、勘十郎の手つきが一番正確だったような気がしている。
   ところで、勘十郎の阿古屋だが、登場の時点から、正に、遊女の中でも最上級の貫録十分で、花魁道中の雰囲気で出て来て、一歩も臆することなく詮議する代官秩父庄司重忠(和生)と岩永左衛門(玉志)に対する。
   お尋ね者の景清の行方を吐かせるために阿古屋を詮議するのだが、三曲を演じさせて、その演奏に微塵も狂いがないので、知らないと判断して放免すると言うこれだけの話なのだが、非常に、見栄えのする素晴らしい舞台だと思う。
   実際の太夫は、京都島原の輪違屋でかしの式を観たくらいで、良く分からないが、勘十郎の阿古屋は、堂々たる貫録で、流石にと思って見ていた。
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わが庭の歳時記・・・芍薬とバラの季節到来

2012年05月17日 | わが庭の歳時記
   牡丹が潔く散って、厳つい実を結び始めたと思ったら、小さかった芍薬の蕾が急に膨らんで、咲き始めた。
   まだ、一二本、それも、一輪二輪であるから、咲き誇るのは、まだ先の話だが、結構一株に沢山花が咲き、それに、牡丹より、少し小さめで微妙に入り組んだ色彩や花姿が魅力的で、私は好きである。
   牡丹は、接ぎ木苗で、その台木が芍薬であるから、時々、根元から、芍薬が芽を出すことがあり、どんな花が咲くのか興味を持って、根元をかき切って移植したのだが、成長が遅くてまだ咲かない。
   芽をかくのを忘れたのか、牡丹の花の間から芍薬の枝がひょろりと伸びて来て、小さな蕾を付けているので、そのままにしてあるのだが、花が咲くかも知れない。
   
   

   今、私の庭に咲いている花は、木を這い上がっているのがクレマチス、花木の根元でひっそりと咲いているのが紫蘭、チューリップなどの後の花壇には紫とピンクのミヤコワスレ、それに、皐月が咲き出してきた。
   
   
   

   急に蒸し暑いような陽気になったので、バラが咲き始めた。
   花を開いたのは、まだ、このエデン・ローズと言うつるバラだけだが、昨秋、垣根越しに庭植えしたのだが、花数が少ないと思ったら、かなりの大輪で、近づくと、プーンとバラの香りが漂ってくる。
   同じ時期に垣根に沿って庭植えしたのは、イングリッシュ・ローズのガートルート・ジェキルとツルバラのポールヒマラヤン・ムスクで、後者は、随分長く伸びて、沢山の小さな蕾を付けている。
   他の庭植えや鉢植えのバラも蕾が色づき始めたので、もうすぐに咲いてくれると思う。

   ところが、今年不注意で残念なことに、イングリッシュ・ローズとフレンチ・ローズ、それに、京成バラ園で買った鉢植えなど合わせて7鉢を、枯らしてしまったのである。ミニバラは、全滅である。
   原因は、極めて単純で、肥料のやり過ぎで、もやしのように枝葉が伸びたと思ったら巻き上がって、一気に枯れてしまったのである。
   長年の慣れに胡坐をかいて注意を怠ったのだが、元々、京成バラ園特製の肥料を置き肥していたにも拘らず、NHKのテキストか何かを見て、ハイポネックスの液肥を、パンジーなどの鉢花に合わせて、施していたのが間違いで、気付いた時には、既に遅しであった。    
   結局、遠くに離していた鉢植えと庭植えのバラは、手を抜いたお蔭で助かったと言う訳で、笑うに笑えない失敗であった。
   
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アメリカ発展の活力の源は移民政策

2012年05月16日 | 政治・経済・社会
    アメリカは、ブラジルと同様に、完全に移民によって建国され移民によって発展してきた国である。
    世界に冠たる超大国でありながら、いまだに、成長志向の活力ある若さを保っているのは、やはり、世界に門戸を開いた国であるからであろう。

   ところで、昨日引用したエイミー・チェアの「最強国の条件」の「アメリカ」の章では、アメリカの発展と移民や移民政策の展開について語っていて非常に面白い。
   まず、興味を感じたのは、建国当時のアメリカでは、独立を遂げたものの、深刻な人材不足で、アメリカ対ヨーロッパの熟練労働者の争奪戦が熾烈を極めたと言うことである。
   アメリカ側は、優れた技術を持ったヨーロッパ人を呼び寄せるために、出来ることは何でもやったし、ヨーロッパの政府は、自国の労働者が新生アメリカへの移住を防ぐために、大変な努力をしたと言うのである。
   ヨーロッパでは、自国労働者の外国企業による採用を制限する厳しい法律が施行されたり職人のアメリカ移住を禁止する法律が次々制定されたり、
   19世紀のイギリスでは、海外移住希望者は、「羊毛の紡織、鉄、鋼鉄、真鍮その他の金属の鋳造鍛造、時計などの機械細工職人ではない」と言う証明書を、教会教区の委員に署名して貰わない限り、どこの港からも乗船できず、違反すれば、国籍を奪われたり財産を没収されたり現行犯逮捕なら反逆罪にされかねなかったと言う。
   しかし、アメリカ移民への魅力を増幅したのは、アメリカに移民した者たちから旧世界の友人知人たちに宛てた新世界での夢のある豊かな生活に関する情報であったから、「非合法移民」が後を絶たなかったと言うから面白い。

   アメリカ産業革命の父と言われるサミュエル・スタイナーは、器具も技術的な図面も何一つ持って来ずに素手で渡米しながら、イギリスで馴染んだ設備を、記憶を基に再現し組み立てて、最新鋭の紡織技術を移植したのだが、このような多くのヨーロッパ移民によって、19世紀のアメリカ産業が爆発的に発展し、たとえ新来の移民でも、政治的、経済的手段によって社会の上層部まで上り詰めることが許されたと言う。
   尤も、歴史上は、常に、新移民を歓迎と言う風潮ばかりではなく、民衆レベルで激しい外国人排斥やアメリカ生まれ優先主義などが台頭したり、紆余曲折があったが、今でも、外国移民に対しては、かなり寛大な国であることには間違いなかろう。

   エイミー・チェアは、ベンチャー・キャピタルで名を成した「シリコン・バレーの父」ユージン・クライナーを引き合いに出して、このベンチャー資本主義が、過去の大帝国の”寛容戦略”が20世紀後半に復活したものだと説いている。
   古代ローマや大モンゴル帝国同様に、アメリカは世界中から最先端の人材と知的財産を吸収して、動員することによって、世界覇権を実現したのだと言うのである。
   出身地、人種、性別などに関係なく、多額の報酬が得られる可能性を夢見て、世界中から集まった若い科学者や発明家、実業家たちは、まさにアメリカで自分たちの着想を試し、次々と大輪の花を咲かせることになった。
   ICT革命によるフラット化とグローバリゼーションによって世界が一体化させればされるほど、そのような寛容政策の極致とも言うべき場を提供できる地域こそ、世界の中心になると言うことであろうか。
   
   エイミー・チェンの論点は、「多様な人種と宗教に対する寛容さが最強国への決定的に重要な要件」と言うことだが、日本は、宗教は兎も角としても、外国移民に対しては非常に閉鎖的な国であり、グローバルベースでのクリエイティブ・クラスの争奪戦には消極的であるので、少なくとも、シリコン・バレーのような産業クラスターは、生まれないであろうと思うと、一寸、先行きが暗くなる。
   
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寛容政策を維持出来なかったイギリス

2012年05月15日 | 政治・経済・社会
   エイミー・チェアの「最強国の条件 DAY OF EMPIRE」は、非常に示唆に富んだ素晴らしい本で、How globally dominant empires—or hyperpowers—rise and why they fall? すなわち、世界帝国として君臨してきた最強国が如何に台頭し崩壊して行ったかを、アケメネス朝ペルシャから説き起こして、壮大な帝国史絵巻を展開していて、非常に面白い。
   「最強国」のうち、世界支配に近づいた国ほど、勃興期には寛容であり、没落期には不寛容だと言うことが歴史の趨勢であったと言う理論展開で、征服者に対する寛容と同化政策(policies of tolerance and assimilation toward conquered peoples)が如何に帝国建設に重要な役割を果たしたかを説いているのだが、時空を超えたスケールの大きな叙述が詩編のようで興味深い。(尤も、枢軸の蹉跌の章での、日本に関する叙述については、異論反論を禁じ得ない。)

   少し前に、映画「ガンジー」について、このブログで触れたので、私が一番長く在住したイギリスについての章を題材にして、イギリスのインド支配について考えたいと思う。
   著者は、宗教的な不寛容さについては大陸ヨーロッパと大差なかったイギリスが、1688年の名誉革命で、イギリス議会が「権利章典」と「信教の自由法」を制定し、一挙に「地上で最も肝要な国」になったエポックメイキングな歴史から語り始めている。
   この寛容政策のお蔭で、イギリスで勢力を得て台頭して来たのは、ユダヤ人、ユグノー、スコットランド人の三集団で、彼らの力を存分に引き出すことによって、イギリスは世界覇権を確立して行ったと言うのである。

   イギリス国王となったウィレム三世は、長年にわたってイベリア半島から追放されてオランダに住んでいたユダヤ人と有利な関係を結んでいたのだが、このユダヤ人たちが一緒に入国し、ウイレム国王の支配下に入ったイギリス軍の補給を独占すると同時に、フランスと戦争を続けるための戦費を調達したと言う。
   英仏は、中世末の百年戦争以来、長年のライバルで、1689年から1763年にかけての英仏抗争は、地上戦、海戦、海外植民地戦争、アフリカと両アメリカ大陸における奴隷貿易の権益争奪戦と、まさしく、世界戦争を戦っていたのだが、勝敗を決したのは、資金調達力の差であったと言うから、ユダヤ人金融のサポートは絶大だったのである。
   これに呼応して、フランスを追われてイギリスに移住したユグノーたちが、時計工業など産業への貢献のみならず、イギリス政府の巨額債務の2割を引き受けたと言うのであるから、寛容政策による効果大である。
   更に、スペインを逃げ出したユダヤの金融業者が、破産寸前のスペイン政府の弱みに付け込んで、融資を餌にフランスから離反させて反仏同盟に加わらせたと言うのである。
   スペインとフランスに吹き荒れた厳格なカソリック宗教革命に国を追われたユダヤ人やユグノーが、まず、オランダで活路を見出してオランダを世界帝国に押し上げ、続いて、大英帝国の建設に貢献したと言うこの歴史の大異変は、まさに、資本主義経済の勃興期と期を一にする経済戦争の幕開けと言うことであろうが、君主の気まぐれ(?)な宗教観が国家の明暗を分けたと言うのが興味深い。

   丁度、この時期、1694年に英国議会がイングランド銀行の設立(構想したのはスコットランド人)を決定し、ユダヤ人金融業者たちが、既に、オランダで繁盛していた証券取引所を再現してロンドン証券取引所を設立し、海洋貿易、産業および商業、軍事債など長期資金調達の場を提供するなど、19世紀における大英帝国の世界覇権確立の礎を築くこととなった。ダイヤモンドや金塊は勿論、主要商品の殆ど、ワインさえも、ロンドン市場が中心となったのも、ユダヤ商人のなせる業であった。
   丁度、同盟国であったポルトガルが、膨大な南米の金をロンドンに持ち込んだ時期とも呼応して、ロンドンのシティが一挙に、世界の金融センターに躍り出た訳である。

   さて、イギリスのインド統治であるが、最初は、イギリス東インド会社で、進出時には、かっての大帝国ムガールは崩壊寸前であった。
   東インド会社は、北部のラージプト族など、戦闘能力の高い集団を見出して、積極的に雇い入れて、これらの土着兵士を用いて、広大なインド亜大陸を征服して行き、平定後は彼らを使って統治した。
   ウエリントン将軍が打ち立てたインドの「古来の法、習慣、宗教」への介入は政治的に危険だと言う原則に忠実に従って、軍隊同様、商人に対しても、インド支配のための行政においても、寛容政策を貫いた。
   ジャイナ教の金貸し、グジャラートの銀行家、ヒンズーやパルシー教徒の商人、マドラスのドウバッシュやベンガルのバニアンと言った資本家たち商才の長けた少数民族との提携で、大儲けさせて、インド支配の協力者として取り込み、インド内陸部にまで勢力を広げて行ったと言う。

   実際には、インド統治に対する現地と本国との思想的な軋轢がきしみ始めたのだが、1857年にイギリス軍が導入したエンフィールド銃の弾薬筒の潤滑油に、豚の油脂と牛の脂肪を混ぜたものが使われていると言う噂が流れて、セポイ兵たちが反乱を起して全土に広がった。
   セポイの乱後、1976年に、イギリスは、インドを直轄地として」ヴィクトリア女王が女帝に即位し、統治方針を改めて「分裂させて、支配する」戦略を実行し、インド人の教育にも巨額を投じ、インド人エリートを法律家、行政官、官吏などに」に任用し、その忠誠心をたよりに、1000人のイギリス人が何億と言うインドを支配した。

   その後、インド支配に対する考え方が保守党と自由党との間で揺れ動き、民主的な自由党がインドに対して改革的な政策を実行しようとすると、インド在住の民間イギリス人が反対し、
   この人種差別的な現地イギリス人が、セポイの乱後のインド人のナショナリズムの高揚に恐怖感を感じ、益々、人種隔離政策に走り始めたと言う。
   1898年にインド提督となったカーゾン卿の露骨な弾圧統治政策が国民会議派などのナショナリズムに油を注ぎ、一挙にガンジーたちの独立運動に繋がって行くのだが、著者は、アイルランドと同様に、寛容政策が実施されたのがあまりにも遅く、しかもそれが生ぬるい内容だったので、イギリスはインドを失ったのだと言う。
   インド人の指導者たちは、終戦と同時に、カナダやオーストラリアなどの白人植民地と同等の地位を勝ち取るものと信じて多くのインド人を戦場に送って英国に加勢したのだが、第一次世界大戦後には、その報酬は、自治ではなく、ショッキングなほど暴力的な弾圧だったのである。

   1922年に、植民地大臣であったウインストン・チャーチルが、「後進的な人種どもには、自治の能力などありはしない」と言う理由で、有色人種への自治権付与の提案を一蹴したと言うのだから、驚かざるを得ない。
   しかし、歴史の皮肉と言うべきか、ほぼ、それから一世紀を経る2022年には、BRIC'sの大国インドは、経済力で、元宗主国のイギリスをはるかに凌駕している筈である。
   インド企業による大英帝国産業の支配は夢ではなかろうし、ウインブルドン現象が極に達して、ウインブルドンそのものがインド化してしまうであろうと思うと、歴史は面白い。
   インドが、寛容政策をイギリスに対して取るかどうか、興味深いところである。   
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