熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

鹿島茂著「エマニュエル・トッドで読み解く世界史の深層」

2017年12月31日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   トッドは、ソ連の崩壊、アメリカ今金融危機、アラブの五春、イギリスにEU離脱などを予言して、ことごとく的中した。
   しかし、卓越した文明史家でもなければ未来学者でもなく、預言者でもない。
   鹿島茂に言わしめれば、専門としている家族人口学と人口動態学から割り出した数値に基づいて、蓋然的な予想を述べたに過ぎない、数字にすべてを語らせただけだと言うのである。

   もう一つ、鹿島茂の言いたいのは、目先の派手さだけにしか興味のないジャーナリストたちが、トッドの著作を全く読まずに(読めずに)、経過を無視して結論だけ追う姿勢に我慢できなくて、トッドの言っていることはそうじゃないといいたくて、抗議のためにペンを執ったと言うことである。

   鹿島茂は、この本で結構深遠な理論を展開しているが、基本となるのは、トッドの理論のエッセンスは、四つの家族類型とイデオロギーとの関係性の展開で、その起点となった出生率転換をもたらした最大の要因である識字率の分析である。
   トッドは、まず、
   親子関係が「権威主義的」か「非権威主義的」か、「子供が結婚後にも同居する」のか「結婚後は同居する」のかという変数、
   子である兄弟関係が遺産相続において「平等」か「不平等」かという変数を媒介変数として、この二つの変数をX軸Y軸に配して、四つに分類している。

   その四つの家族類型とは、
   ★絶対核家族「イングランド・アメリカ型」
    自由主義、資本主義、二大政党、小さな政府、株主資本主義
   ★平等主義核家族「フランス・スペイン型」
    共和主義、無政府主義、小党分立、大きな政府
   ★直系家族「ドイツ・日本型」
    自民族中心主義、社会民主主義、ファシズム、政権交代の少ない二大政党制、土地本位主義、会社資本主義
   ★外婚制共同体家族「ロシア・中国型」
    スターリン型共産主義、一党独裁型資本主義

   この四類型が互いに影響し合いながら歴史は変容して行き、多様なイデオロギーや思想、文化を生み出して行き、これに、「識字率」と「出生率」が、重要なパラメーターとして作用する。
   鹿島茂は、この四類型の家族理論を展開しながら、歴史上重要な転換点なりエポックメイキングな「世界史の謎」や「日本史の謎」を、明快に解いていて興味深い。

   まず、英米型の絶対核家族の場合だが、直系家族の長男が一切を相続するので、はじかれて無産のあぶれた次男・三男が、十字軍に参加してエルサレムを奪還し、傭兵となって百年戦争を長引かせ、イギリスでは、ドライな親子関係が賃金労働を拡大して産業革命を起こした。と言う説明も何となく分かるような気がする。
   こんな調子で、何故、フランスでフランス革命が起こり、ドイツでヒトラーが誕生し、ソ連で世界初の共産主義国家が誕生したのかなどを説いている。
   経済的な発展においても、イギリスが失速しドイツがヨーロッパでNo.1になった理由や、第二次大戦後、ドイツと日本が復興した理由なども、この直系家族関係で説明していて面白い。
   「日本の謎」においても、面白い理論を展開しているのだが、この方面では、私には、説明に無理があるような個所もあって、そんな考え方もできるかも知れないと言った感じであったが、トッドが説明すればどうなるのか、興味のあるところでもあった。

   いずれにしろ、鹿島茂は、高名な仏文学者であるようだが、読書量が膨大だとかで、博学多識で、トッドを出しにして、滔々と持論を展開していて、教えられることが非常に多い、素晴らしい本である。
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いつもの年末の大掃除なのだが

2017年12月30日 | 生活随想・趣味
   大晦日が近づくと、何となく気ぜわしくなって浮足立つ。
   実業から離れて大分経っているので、年末年初を意識をする必要もないのだが、一応、生活のリズムを整理して、リセットしようと言う気持ちにはなる。

   さて、私のやることだが、まず、ガーデニングでは、ばらの剪定、寒肥の施肥など、庭木や花木の冬の仕事が結構あって忙しい。
   それに、家の中では、書籍など書斎周りの整理整頓である。
   一年間、買った本でも数十冊あるし、積読や机の陰に放り込んだ本なども選り分けて、新年の読書計画を立てなければならないし、沢山来た郵便物や資料、手紙の整理や処理も残っている。
   日頃、手を抜いているわけではないが、忘れたり未処理のことが結構出てきて、毎年、慌てている。
   書斎に籠ると、どんどん仕事が出てきて、きりがないのだが、あらたまって書斎のことどもにかまけるのは、この年末しかない。

   ところで、家族分担の年末の大掃除だが、まず、私の外回りの仕事は、窓ふきと外装周りの掃除である。
   窓と言っても、外回りだけでも、2階分を含めると、大変な面積になる。
   特に、風呂やガラス製の鎧戸の掃除は、結構大変で、同時に、網戸の掃除も当然である。
   ガラスの洗剤は、薬局で買ってくるが、刷毛やブラシなど掃除用具は、どうせ、使い捨てなので百均で買って間に合わせる。
   ここ数年、ジャパネットたかたで買った高圧洗浄機を使っているが、これは、威力十分で、重宝している。
   洗剤を吹き付けて、モップ状の刷毛で擦って拭い、高圧水を噴射する、これを、二回くらい繰り返すと、綺麗になる。
   しかし、これだけでは、すべてOKと言うわけには行かないので、あれこれ、残った汚れを取るのに、手間をかける。
   網戸は、洗剤を吹き付けてブラシで擦って、高圧水を吹きかける。
   まず、こんな調子だが、綺麗になると嬉しい。
   今年は、掃除の後、雨が降らないので綺麗だが、何年か前に、ガラス拭きの後、すぐに風の強い雨が降って、一気に、汚れてしまったことがある。

   もう一つの年末仕事は、餅を搗いてお鏡餅をつくることである。
   長女宅の分を含めて、小さなお鏡餅を二組。
   残りは、元旦のお雑煮用の餅にするために、以前は、丸い小餅を丁寧に作っていたが、熱くて大変なので、最近は、平たく伸ばして、切り餅にしている。
   ところで、この餅つきだが、勿論、子供の頃のように、石臼で搗くのではなくて、電動餅つき機を使っている。
   東芝の餅肌美人と言う機器で、もう、随分お世話になっているのだが、1キロのもち米を搗くのに、もち米を洗ってから2時間くらいで搗きあがるので、非常に便利で重宝している。
   餅を丸めたり形を整えたりするのは、子供の頃、祖父たちが石臼を使って餅を搗き、一緒にやっていたので、結構、手慣れたものである。

   他にも、家内に言われて、あっちこっち右往左往しながら、雑用に勤しむ、こんな年末を過ごしている。
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十二月大歌舞伎・・・「瞼の母」「楊貴妃」

2017年12月27日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の大歌舞伎は、3部編成だが、私が観たのは、第3部だけで、玉三郎と中車の舞台を観ようと思ったのである。

   演目と配役は、次の通り。

   長谷川 伸 作 石川耕士 演出
  一、瞼の母(まぶたのはは)

   番場の忠太郎 中車
   金町の半次郎 彦三郎
   板前善三郎 坂東亀蔵
   娘お登世 梅枝
   半次郎妹おぬい 児太郎
   夜鷹おとら 歌女之丞
   鳥羽田要助 市蔵
   素盲の金五郎 権十郎
   半次郎母おむら 萬次郎
   水熊のおはま 玉三郎

   夢枕 獏 作
  二、楊貴妃(ようきひ)

   楊貴妃 玉三郎
   方士  中車

  『瞼の母』は、幼い頃に経験した自分自身の母との別れを題材にした長谷川伸の新歌舞伎で、渡世人となった番場の忠太郎が、幼い頃に別れた母を一途に思い続けて、母を訪ねて旅を続けて、江戸で、やっと探し当てて母おはまと対面する。しかし、娘の将来のことを考えて冷たい態度をとる母おはまは母と名のらず、突っぱねられた忠太郎は涙を飲んで家を出て、親子は再び別れてしまうと言う、実に悲しい、あまりにも有名な親子の物語である。
  一心に母の面影を求め続ける息子と、娘可愛さにヤクザを許せない母との肺腑を抉るような心の葛藤と命の鬩ぎ合い、激しい言葉の応酬が胸を打つ。

   この「瞼の母」を、6年前に、一度だけ見ている。
   場末の劇場と言う感じの日本青年館の舞台であったが、獅童の忠太郎、秀太郎のおはま、笑也の娘お登勢と言う素晴らしいキャスティングで、今でも、感動的な舞台の印象が鮮明に残っている。
   この時に強烈な思いがあるので、今回の舞台への感慨は、大分違っていたのである。

   さて、凄い役者であり、歌舞伎役者へ転身後も必死に頑張って快進撃を続けている中車だが、今回、中車の忠太郎で注目したのは、中車自身が、同じような親との関係、すなわち、実父猿翁との不幸な確執を経験しており、普通の役者以上に、感情移入もあって、凄い芝居を演じるのではないかと言う思いがあった。
   中車が、1歳の時に父が家を捨て、3歳の時に両親が離婚以来、父子は没交渉となった。
   しかし、中車が、大学を卒業して俳優デビューした25歳の冬、思い切って公演先の父を訪ねて行ったのだが、大事な公演の前にいきなり訪ねてくるなど配慮が足りないと叱責され、家庭と訣別した瞬間から関係を断ち、父でも子でもない、と冷たく言い放たれ、その後、長い間確執が続いていた。
   しかし、中車は、それでも、父の舞台を何度も観続けていたと言う。
   父の偉大さ、血の騒ぎ・・・煮え盛る芸術への疼きをじっと耐えていたのであろう。

   この芝居「瞼の母」でも、繰り返し出てくる親子の血のつながりと言う切っても切りきれない宿命が、そうさせるのかどうかは分からないが、中車の父親への思いは、この番場の忠太郎とダブルのである。
   作者の生い立ちと中車の父への思い、ダブルの親への愛憎が綯い交ぜに渦巻いて、慟哭を押し殺した肺腑を抉るような感動的な芝居、 
   これを受けて立つ人間国宝の玉三郎の至芸が、正に絶品である。
   健気に、二人の間を取り持とうとする娘お登勢の梅枝が泣かせる。
   二時間弱の素晴らしい「瞼の母」であった。

   次の歌舞伎舞踊「楊貴妃」は、
   長編詩「長恨歌」と能「楊貴妃」を題材として、夢枕獏が坂東玉三郎のために書き下ろした作品だと言う。
   しかし、白居易(白楽天)の「長恨歌 」にすべてうたわれているので、パーフォーマンス・アーツとして、どう表現するかと言う違いが重要なのである。

   馬嵬で亡くなった楊貴妃への思いがつのった玄宗に、楊貴妃の魂を探すよう命じられた方士(中車)が、蓬莱山の宮殿で楊貴妃を呼び出すと、楊貴妃の魂が在りし日の美しい姿で現れて、玄宗との幸せな日々を回想しながら舞い続ける。名残は尽きないが、去ろうとして行く方士にかんざしを渡して静かに消えて行く。
   能舞台の作り物のような宮殿から現れた楊貴妃が、二輪の牡丹を描いた艶やかな二枚扇を巧みに遣って華麗な舞を舞い続ける、これが実に優雅で、天国からのサウンドの様に浄化された美しい、琴5、十七絃3、笛1、胡弓1、謡いをバックに、正に、夢幻の境地へ誘う燦爛たる舞台を見せて魅せてくれるのである。
   「長恨歌」の
   在天願作比翼鳥 在地願爲連理枝「天にあっては比翼の鳥となり、地にあっては連理の枝とならん」
   の詞章を、素晴らしい謡と楽の音に乗って舞い続ける玉三郎の艶やかで優雅な舞姿を観ながら聴いていると、感慨ひとしおである。

   以前に、一度、玉三郎の「楊貴妃」を観たように思うのだが、記憶と言うものは悲しいもので、いつか消えてしまう。
   脳裏に焼き付けようと、舞台を観続けていた。
     
   今回は、年末最後に、素晴らしい歌舞伎を観た。
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国立能楽堂・・・野村萬斎の新作狂言「鮎」

2017年12月26日 | 能・狂言
   クリスマス前の国立能楽堂の特別企画公演は、新作狂言「鮎」を主体とした非常に充実した公演で、夜の部のプログラムは、次の通り。
   小舞 鵜飼 (うかい)  野村 萬斎(和泉流)
   狂言 宗八 (そうはち)  野村 万作(和泉流)
   一調一管 瀧流延年之舞(たきながしえんねんのまい)藤田 六郎兵衛・大倉 源次郎

   池澤夏樹=作 野村萬斎=演出・補綴 国立能楽堂委嘱作品・初演
   新作狂言 鮎 (あゆ)     野村 萬斎

   「鮎」は、池澤夏樹の短編「鮎」を、狂言へと脚本化した作品で、ストーリーは、ほぼ、次の通り。
清流手取川のほとりに住む才助が、手取川で鮎を釣っていると、喧嘩をして山向こうから泥まみれ血まみれになった男が逃げて来た。才助は、人の顔を見るとその者の人柄や将来を見通せると言う不思議な力を持っているので、この男を小屋に連れ帰り、釣れたばかりの鮎を振る舞いながら、この地で暮らすことを勧めた。しかし、この小吉と名乗る男は、町へ出て一旗揚げるつもりだと才助の言を聞き入れず村を出て行く。小吉は才助の紹介で金沢の大きな宿屋に職を得て、一生懸命働いて、風呂焚きから下足番、番頭へと出世し、ついには入り婿となって宿屋の主人へと上り詰める。出世した小吉はお城の殿様とも昵懇だと聞いたので、才助は、甥が徴兵に取られたために、危なくない仕事へ転属の配慮の口利きを頼もうと、甥を連れて、久しぶりに小吉を訪ねて仙台へ行く。その頼みごとを聞いた小吉は、ケンモホロロニ断わり、諦めて村へ帰る前に、夜通し山道を歩いて帰るので夜食を振舞って欲しいと頼んだところ、食事をたかったと腹を立てて金を払わなければ食べさせる米は一粒もないと言う。

   さて、この後が、非常に面白い。
   原作では、「それでは、わしは村へ帰って、九頭竜川の鮎を焼いて食べることにしよう。ご一緒にいかがかな、小吉どの」
   そう言われた途端に、小吉は一瞬スーッと気が遠くなった気がした。部屋がなくなり、壁が消え、河合屋もなにもなくて、自分は暗い夜の道を必死に走っているようだった。…もう駄目だと思った時、小吉は本当に気を失った。
   気がついてみると、小吉は牛首の山の中、才助の小屋の囲炉裏の前に座っていた。・・・

   才助も小吉も、30年前の姿のまま、鮎の焼けるいい匂いの中で囲炉裏端に座っていて、小吉は、まぼろしの出世の実感はたちまちのうちに薄れて行って、18歳だと言うことだけは分かった。
   才助は、「だから言っただろ」・・・「おまえさんは町へ出てはいかん。杓子定規で、権柄ずくで、人に気に入られることばかりうまく、立身だけを願うような嫌な奴になってしまう。この村にいた方がずっと真っ正直でいい人間になれる。悪いことは言わんから、このまま牛首で暮らしなされ。さて、そろそろ飯をよそおうか」
   これで、池澤夏樹の小説「鮎」は終わっている。

   正に、能「邯鄲」の世界である。
   「邯鄲」は、一睡の夢であったが、この「鮎」は、才助が、芥川龍之介の短編小説「杜子春」のように、夢ではなくて、フィルムを巻き戻したように、小吉の現実の経験と言う形式をとって描写されているところが面白い。

   ところで、新作狂言、野村萬斎の狂言「鮎」の舞台だが、詞章がそうなのであろうが、殆ど、綺麗に原作を踏襲して素晴らしい狂言の舞台に仕上げていて、感動して鑑賞させて貰った。
   この舞台は、小吉の萬斎、才助の石田幸雄、大鮎の深田博治と言う極めて有能な狂言師あったればこその舞台だと思うが、流石に、タイトルが「鮎」で、五人の小鮎との乱舞や鮎が徐々に焼けて行くシーンなど、実に優雅で面白く、清流に遊びながら人間に喜ばれる生を謳歌しながら厳粛な大自然の営みを滔々と語る劇作の冴えは、流石である。

   ただ、私が引っかかった一点は、この狂言の舞台の結末。
   才助も、優雅に泳いでいた鮎も消えて、たった一人舞台に取り残された小吉が、
  「銭が欲しい」「夢が見たい」と絶叫して幕引きとなる。

   何故か分からないが、全く関係ないとは思うのだが、この時、危機状態にある宇宙船地球号の悲劇を思い知らせたのみならず、その運命の針を逆回転させようとして、パリ協定離脱やTPP撤回をごり押ししたトランプを思い出したのである。

   この舞台の少し前、絶好調の小吉が、一挙に牛首村のシーンに引き戻された時に、「都に行きたい」と言った時に、まず、違和感を感じたのだが、何故、最後に、「銭が欲しい」「夢が見たい」と、あまりにもストレートで、否定された筈の言葉を吐かせてまで止めを刺さねばならなかったのか。
   トランプの様に、人間は、ポピュリズムのためには、と言うよりも、所詮は何も悟れないと言うことに念を押したいのであろうか。

   原作でも、最後の才助の小吉への説教は蛇足だと思っているのだが、「邯鄲」のように、夢が消えて現実に引き戻される、それだけで十分であり、この狂言の舞台でも、いくら、諧謔とアイロニーの舞台芸術とは言え、虚実皮膜の世界であり、まして、乞食でも絹を纏う日本の古典芸術の世界である。

   萬斎は、
   「狂言を人間賛歌の劇として面白おかしく見せることも重要ですが、父からは“まず美しい狂言であれ”と言われました。そこは肝に命じていますね。人がわざわざ足を運んで見るものは、美しい芸術でなければいけません。面白いものをやるけれど、そこに美しさを出すことで作品に嫌みや臭みがなくなる。それが、江戸前なんだと思います。」
   と語っているのである。
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国立演芸場・・・国立」名人会:歌丸の「ねずみ」

2017年12月24日 | 落語
   今日の「第414回 国立名人会」のトリは、歌丸の「ねずみ」。
   この「ねずみ」だが、これまでに、歌丸でも1回、正蔵で2回、入船亭 扇遊で1回、聴いているので、お馴染みであり、左甚五郎の落語は、「竹の水仙」「三井の大黒」ともども、心の琴線に触れる人情噺で、いつも、感動して聴いている。

   歌丸は、開口一番、2017年1月2日に誤嚥肺炎で入院、今年は良いことがなかった、家にいるよりも、病院にいる方が多かった、と話し始めたが、肺炎の方は良くなったが呼吸の方が困難で、鼻に呼吸器の管を通しての登壇であった。
   先日のNHKの「ファミリーヒストリー」で、同じような境遇の人が、100万人おり、力になるのならと登壇しているのだと円楽に語っていたと言うが、「執念」だけではなかろう、正に、脱帽である。
   随分小さくなった感じだが、今まで体重は最高でも50キロ、44~5キロ平均だったと言うから、元々、スマートなのであろう。
   体調は悪いのかも知れないが、高座に座れば、全くそんなそぶりは一切見せずに、矍鑠たる噺家スタイルで、絶好調の時と少しも違わない、瑞々しくパンチの利いた綺麗な語り口で、30分の予定を大きくオーバーして、50分、「ねずみ」を実に丁寧に、むしろ、今まで以上に感動的な熱演で、私など、2列目のかぶりつきだったが、涙が出るほど感激して聴いていた。
   噺家の中には、非常に素晴らしい芸人であって語り口が秀逸であっても、結構聞きにくい噺家がいるのだが、歌丸ほど、功成り名を遂げた噺家で、これほどクリアーに分かり易く綺麗に話す噺家は珍しいと思う。
   いつも思うのだが、この歌丸が、人間国宝でなくて、何が人間国宝なのかと思っている。

   この日のプログラムは、
   落語「親子酒」     桂文治
   落語「七段目」     桂小文治
   落語「阿武松」     桂米助
       ― 仲入り ―
   落語「親子酒」     桂文治
   落語「七段目」     桂小文治
   落語「蒟蒻問答」  滝川鯉昇
   歌謡漫談           東京ボーイズ
   落語「ねずみ」     桂歌丸

    桂米助は、テレビなどで見てはいたが、落語を聞くのは今回が初めてで、 落語「阿武松」 も初めてであった。
   面白い落語ではなくて、相撲取りの出世話だったけれど、大飯食いの話ばかりの印象しか残っていないのだが、講談話の方が、と思って聞いていた。
   桂文治の落語「親子酒」、桂小文治の落語「七段目」、滝川鯉昇の「蒟蒻問答」は、噺家も落語も、夫々、何度か聞いているので、語り口の違いなどを味わいながら楽しませて貰った。
   鯉昇は、ベテランのオーソドックスな噺で、年季の入った語り口を楽しませて貰った。
    文治の酒の飲みっぷりや酩酊して行く酒飲みの表情など実に上手く、小文治の仮名手本忠臣蔵の七段目の寺岡平右衛門やお軽の声音や舞台の表情など、本当に上手い。

   文楽の太夫の浄瑠璃語りにも思うのだが、噺家も、一人で、ナレーションから登場人物の総てを語りきる。その語り口の豊かさ奥深さ、その多様性に、びっくりしながら聞いている。
   

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国立演芸場:「復活円丈 文七元結」を聴く会

2017年12月23日 | 落語
   今日の国立演芸場の「12月特別企画公演」は、
   「復活円丈  文七元結」を聴く会

   演題は次の通り。
   落語  三遊亭わん丈  時そば
   落語  春風亭百栄   ホームランの約束
   落語  林家彦いち   長島の満月
   落語  柳家小ゑん   ぐつぐつ
    ― 仲入り ―
   落語  三遊亭白鳥   シンデレラ伝説
   落語  三遊亭円丈   文七元結

   新作落語の噺が多いのだが、聞いていた時は、それなりに面白かった。
   しかし、これを書いている現在、どんな話であったかはっきりと思い出せないくらいだから、私には苦手だし、余程の名作であるとか、意表を突いた話でないと駄目である。
   「ぐつぐつ」は、おでんのタネを擬人化して、ネタの立場に立って夫々のネタが恋をしたり心境を語る噺で面白いけれど、むしろ、小ゑんの熱演の方が印象的。
   「シンデレラ伝説」は、白鳥自身の作だが、忘れてしまって、師匠円丈のラジオ録音をダウンロードして思い出して演じることにしたと言う。
   創作落語(新作落語)では、桂文枝のが面白いと思う。

   円丈の「文七元結」は、圓朝原作で、円丈脚色。
   しんみりとした人情噺で、歌舞伎を見ても感動するし名作だと思う。

   円丈の名調子は、相変わらずだが、認知症上がりの復活公演であるので、演台を前に据えて台本を置いて、時々は、読みながらの熱演。
   しゃべり始めると調子が出て、何時もの語り口に戻るのだが、時々、どこまではなしたかなあ、とか、ページを飛ばして一挙に話が進んでしまうところが、ご愛敬である。

   満員御礼で、客席は沸いていた。
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佐渡裕 指揮 シエナ・ウインド・オーケストラ演奏会2017 佐渡×シエナが贈るクリスマス・プレゼント!

2017年12月22日 | クラシック音楽・オペラ
   鎌倉芸術館へは、コンサートと言うこともあるのだが、子供や孫の演奏会やほかのプログラムでも良く出かけるのだが、今回は、娘の招待で、「佐渡裕 指揮 シエナ・ウインド・オーケストラ演奏会2017」に出かけた。

   黄金コンビがついに登場! 渾身の「音魂」が轟く、大興奮のブラス・サウンド
   と言うふれ込みであった。
   ウインド・オーケストラとは、吹奏楽団と言うことで、初めて聴くコンサートでもあって、多少違和感があったが、要するに、木管楽器・金管楽器を主体とし、打楽器やその他を加えて編成されたオーケストラで、シエナの場合には、クラリネットがヴァイオリンに入れ替わって演奏していた。
   やはり、最初のサウンドを聞いた時には、弦楽に慣れた私には、異様な感じで戸惑ったが、しばらく経つと、不思議にも、全く気にならず、全く初めて聴く吹奏楽史上に燦然と輝く名曲中の名曲と言う所為かは分からないが、現代曲R.ジェイガー作曲の「シンフォニア・ノビリッシマ」であるにも拘わらず、楽しむことが出来た。

   カリスマ性と白熱のステージで魅了するマエストロ、佐渡裕がついに鎌倉へ!日本最高峰の管楽器のプロフェッショナル「シエナ・ウインド・オーケストラ」とともに輝かしい響きをお届けします。生命力みなぎる表現力、圧倒的なスケール感をライブでご堪能ください。と言う能書き通り、最初から最後まで、楽しかったのである。
   全く、いつもの状態で楽しめたのは、キュウ・ウォン・ハンが、何回も聴いているビゼーの「カルメン」第2幕でエスカミーリョ(バリトン)の「闘牛士の歌」を歌った時で、オーケストラのサウンドが、すんなりとオペラに調和していたのである。

   後先になったが、プログラムは、
   佐渡裕(指揮) キュウ・ウォン・ハン(バリトン)
   シエナ・ウインド・オーケストラ(吹奏楽)
 
   ジェイガー:シンフォニア・ノビリッシマ
   音楽のおもちゃ箱~クリスマス・スペシャル!
   L.バーンスタイン:キャンディード序曲
   A.リード:アルメニアン・ダンス(全曲)
   アンコール:見上げてごらん夜の星を(ハン歌唱)、ジングルベル、スーザのマーチ

   バリトンのキュウ・ウォン・ハンは、佐渡裕が、ボルド―でオペラを振った時からの知り合いで、ずっと一緒していると言う事であった。
   朗々と豊かに響く素晴らしいバリトンで、ほかはポピュラーだが、マイウエィとホワイトクリスマスを歌った。

   バーンスタインの「キャンディード」は、幸いにも、ロンドンにいた時に、最晩年のバーンスティン自身の指揮で、コンサート形式でロンドン交響楽団の公演を聴いたので懐かしい。
   バーンスタインは、何度か聴いているが、最初は、大阪万博記念公演の大阪フェスティバルホールのニューヨーク・フィルで、指揮台で、ベルリオーズの「幻想交響曲」のワルツで、優雅に踊るようにタクトを振っていた姿や、アムステルダムでのコンセルトヘボウ管弦楽団の天国からのサウンドのような「未完成交響曲」の素晴らしさなど忘れられない。

   最後の「A.リード:アルメニアン・ダンス(全曲)」は、私には、凄い交響曲を聴いているような感慨で、終曲で熱狂した観客と共に熱烈な拍手で応えた。
   第一楽章は、クラシック音楽における「運命」や「第九」に匹敵する吹奏楽史に残る名曲と言うことだが、交響曲のように、本来なら拍手すべきところではないのであろうが、楽章の終幕に観客は感激して拍手し、佐渡裕も一寸客席の方に向きを変えて応えていた。
   尤も、第1楽章と他の楽章を、パート1とパート2に分かれ発表されて演奏されていたと言うのであるから、拍手はどちらでも良いのかも知れない。
   第2楽章以降は、<風よ、吹け>(農民の訴え)、<クーマー>(結婚の舞曲)、と急にローカル色の強い民族音楽的な曲調に変わり、第3楽章<ロリ地方の農民歌>になって、一気にテンションが高揚して壮大な終曲で締めくくる。
   恥ずかしいけれど、吹奏楽に対する認識を変えた瞬間であった。

   アンコールの最後は、ジョン・フィリップ・スーザ(作曲)の行進曲「星条旗よ永遠なれ」。
   佐渡裕の肝いりで、吹奏楽をやっている観客たちが、数十人舞台に上がって、シエナ楽団と一緒になって演奏するお祭り騒ぎの華やかな演奏になった。
   面白いのは、佐渡裕に代わって大人の指揮者が一人、幼稚園児と思しき3人の子供がタクトを持って登場した。
   子供たちに、2拍子の振り方を教えた佐渡裕が、「そんなもんやな」とほろりと関西弁が出て面白かったが、3人とも器用にタクトを振り続けていた。
   最後の方になって、観客の手拍子の誘導あたりから、佐渡裕が、タクトを振り始めた。

   とにかく、楽しいコンサートであった。
   佐渡裕が、コンサートマスターの催促で、紹介していた、忘年会費用の捻出のためだと言う、手塚治虫とのコラボレーションで制作した綺麗な袋に入った菓子を、娘への土産に買って帰った。
   本人自身、法外な値段で、みんなの金銭感覚が分からないと言っていたが、確かにそう言うことかもしれないが、記念品と言うものは、「そんなもんやな」と言うことである。
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2030年ジャック・アタリの未来予測 ―不確実な世の中をサバイブせよ

2017年12月21日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ジャック・アタリの未来予測論である。

   最悪の事態は誰にでも訪れる。
   しかし、多くの人は、予測もしたくなければ、最悪の事態が起こっても立ち向かう気力がなし、尽力しなければそこから逃れられないのに、そのことを怖くて認められない。
   怠慢であるがゆえに、すべては予定調和で終わり、最悪の事態は訪れないというように、未来を自分に都合の良いように考える。

   ジャック・アタリは、今から、2030年までに、成長をもたらす人口爆発、中産階級の増加、イノベーションの大波などを考えれば、健康をはじめ教育、労働、住宅、農業、娯楽芸術等々多くの分野において、ポジティブな変化が起こり、経済成長と社会調和の変化が好循環を生み出して、世界をより良い方向に向かわせる。と一般論を紹介しながら、一挙に、転身して、
   このままでは、世界は大混乱へと向かう。
   人類にとって最悪の事態が起こる可能性は極めて高い。その場合、2030年までに大きな危機や壊滅的な戦争が起きる。そして、世界的な危機や戦争は、人類に不可逆的な被害をもたらす。と警鐘を鳴らしている。

   このままでは、世界は大混乱へと向かうと言う項のサブタイトルを列強するだけで、ジャック・アタリの意図は分かる。
   先進国の少子高齢化や最貧国の人口増加などの人口学観点、益々悪化する公害、気候変動による影響の深刻化、水資源の枯渇、悪化する食糧事情、移民の増加、イノベーションが労働市場に衝撃をもたらす、富は集中し続ける、
   これらのことによって、世界中の社会に蔓延する憤懣は、次第に激怒に変わる。
   と言うのである。

   この世を耐え難く思う人が増加の一途を辿って、あらゆる方策を講じても、経済、イデオロギー、政治などに関する些細な危機が発生すれば、2030年、世界は大混乱に陥る。世界各地で激しい怒りが渦巻き、フラストレーションが蔓延し、暴力がまかり通る。理論的に、世界相互依存を強める世界では、これらすべてのことが、金融や軍事などさまざまな方面において、破壊的な危機を引き起こす。と言うのだが、
   もうすでに、イスラム国の出現、トランプ大統領の登場、Brexit、フランスのルペンの台頭やオーストリアでの右翼の政権参画等のヨーロッパの右傾化等々、実際に、似た現象は起こっており、
   「"We are the 99%" ウォール街を占領せよ」運動で象徴されているように、ジャック・アタリの説く「九九%が激怒する」時代は、到来しているのである。

   日本も安全ではないとして、まず、巨額な国家債務の問題を取り上げている。
   マネタイゼーションを積極的に行っており、退職者の割合が増えるので、今後五年間財政収支は赤字で推移する。日本の危機により、日本円の価値は大幅に下落し、円暴落は、すべての政府の資産クラスに影響を及ぼし、預金やゴールドへの逃避が加速し、世界経済は崩壊する。
   また、軍事的脅威についても、
   中国は世界最大勢力の座を早急に手に入れるために、尖閣諸島などがある日本の領海に人工島をつくるなど、挑発的な行動に出る。
   北朝鮮は核兵器を使って日本を攻撃しようとする。
   これらの問題については、平和ボケと言うべきか、心配はしても、日本人の多くは、何の変化もなく、このまま、推移するものと思っているようである。

   それでは、どうすれば、危機的状況を避け得るのか。
   ジャック・アタリは、人間の利他主義の発露を喚起する哲学的な論を展開している。

   「自分は世界の幸福のために何ができるのか」「自分自身ができる限り高貴な生活を送りながら世界を救う」
   この奇妙な文句は、自己と他者の利益の見事な一致であり、いかなる時代であっても、どれほど多くな危機の直面しても、適用可能な革新的な寸言である。と言う。

   エマニュエル・マクロンに説いているなら、ともかく、この混乱した宇宙船地球号と言う人種の坩堝のなかに生きる70億人に言っているのなら、殆ど、空論であろう。
   「衣食足って礼節を知る」理論である。

   私自身は、ジャック・アタリの危機意識を共有したいと思っているが、国際政治が動かない限り、問題は、解決しないと思っている。
   そのためには、高潔な哲人政治家なり、理想に燃えたリーダーシップのある指導者の登場が必須であろうと思う。
   やはり、弱体化したとは言え、まだ、覇権国家であるアメリカの大統領に人材を得る以外に、あるいは、EUの実質トップなりが、リーダーとなって、グローバル政治の刷新を図る以外に方法はないと思う。
   また、今の様に、資格要件を満たせないようなメンバー国が常任理事国として拒否権を行使するような国連が、有効な国際機関と思えないし、世界政府がない以上、国際機関に多くを期待できないので、八方塞がりである。
   公害問題と同じで、このままでは、ジャック・アタリの言うように、人類は、茹でガエル現象で、徐々に、破局への道を進んで行くのであろうか。
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わが庭・・・椿・ピンク加茂本阿弥・菊冬至咲く

2017年12月20日 | わが庭の歳時記
   新しく咲いてきた椿は、ピンク加茂本阿弥と菊冬至。
   ピンク加茂本阿弥の方は、千葉から移植して大分大きくなっているので、沢山蕾をつけているが、菊冬至は、庭植えして二年なので、今年は、一輪しか花を咲かせなかった。
   しかし、この椿は、花もちが非常に良くて、長く咲き続けるのが良い。
   
   
   
   

   タマアメリカーナとタマグリッターズが、並んで咲いている。
   両方とも、玉之浦を親にした洋椿だが、微妙に違っていて面白い。
   面白いのは、これまで、タマアメリカーナに似た、二段咲きや三段咲きのように、花弁と黄色い蕊が入り組んで咲いていたタマグリッターズが、平凡な八重咲になって、ヤブツバキの様に、真ん中に雄蕊周りに円周形の雄蕊がついた椿になったので、今年は、種を取れそうである。
   タマアメリカーナよりは、やや、赤色が濃くて鮮やかであり、蕾の頃の抱え咲きが良い。
   
   
   
   
   

   三河雲竜も咲いている。
   久寿玉は、別の枝の蕾が咲き出したが、今回は、本来の吹掛絞ではなく、どちらかと言えば、縦絞で、先に咲いた無絞と言った風に、花弁の絞り模様が変化するところが面白い。
   
   
   

   万両の実が色づいてきた。
   赤い万両は元気だが、白い万両は、実付きが悪い。
   千両は、寒さに弱くて、枯れてしまっている。
   
   
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映画「DESTINY 鎌倉ものがたり」

2017年12月17日 | 映画
   鎌倉に住んでいて、鎌倉が舞台で、お馴染みの風景が出てくるので、内容など全く関係なく、映画館に行った。
   現実と幻想が入り混じった奇想天外な映画であったが、結構面白かった。
   江ノ電風景や極楽寺駅、浄智寺など北鎌倉の雰囲気、鳩サブレや井上蒲鉾、とにかく、あっちこっちに、鎌倉が出てきて、地元の雰囲気が楽しい。

   大体、ストーリーは、次のような感じ。
   鎌倉在住のミステリー作家・一色正和(堺雅人)と結婚した年若い新妻・亜紀子(高畑充希)は、河童が道を横切り、街のあっちこっちに、魔物や幽霊、妖怪や死神までも現れる新生活に驚くのだが、鎌倉が、人間とこの世の者でないものたちが同居する街であることを知る。
一色は、本業の小説家業以外に、鎌倉署の心霊捜査課の捜査協力者でもあり、鉄道模型収集や熱帯魚飼育の趣味があって、実年齢130歳の家政婦・キン(中村玉緒)を雇っている。原稿を取りに来る編集担当・本田(堤真一)が死んでガマになり、貧乏神(田中泯)が家に住み付き、亜紀子が不慮の事故で亡くなり黄泉の国に行ってしまう。
一色は、亜紀子の命を取り戻すため、毒キノコを食べて仮死状態になった抜け殻で、一人黄泉の国へ向かい、亜紀子を黄泉に連れさった魔物たちと戦って黄泉の国逃亡に成功して、亜紀子を地上に連れ戻す。
一色には、父(三浦友和)と母(鶴田真由)との生活に疑問があり悩んでいたのだが、父は、親の反対で止むを得ず学者として生活を送りながら作家甲滝五四朗と言うペンネームで小説を書く別々の二重生活を送っており、絶筆となった彼の小説が黄泉の国から死者を呼び戻すところで切れており、その後を聞くために、一色は、まず、黄泉の国で彼に会って、初めて父母の秘密を知って喜び、亜紀子の救い方を教わる。
と言う別の男のところへ通う母の浮気が誤解であったと言うサブストーリーがあって面白い。
   それに、一色と亜紀子は、古い古い前世から、面々と夫婦であって、一目惚れして結婚したのも当然で、この関係を、亜紀子に横恋慕した天頭鬼(声:古田新太)が、断ち切ってものにしようと黄泉の国に連れ去ったと言うのが、亜紀子の死去の原因で、CGを駆使して、ディズニー映画の向こうを張って、逃げる一色と亜紀子を追って、怪獣として暴れ回る活劇シーンは、凄い迫力で見ものである。
   それに、一色が、空中に浮かぶ線路を走る黄泉行き江ノ電に乗って到着すると、眼前に展開される幻想的な空中都市。
   黄泉の国は、各人各様の心象風景だと言うのだが、中国風の深山幽谷の岸壁にびっしりと香港並の住居が犇めき合って天を衝く凄い風景で、その中の小さな一軒家が一色の父母の家。
   お化けや妖怪が店を出すお祭りの夜店のシーンは実写が主体であろうが、この黄泉の国と天頭鬼たち妖怪との戦いは、正に、CGの世界で、時空を超えた舞台が展開されて面白い。

   いずれにしろ、これらすべてが「DESTINY」と言うことであろうが、虚実皮膜どころか、どこが現実でどこが仮想の世界か、いくら、デジタル革命でバーチャル・リアリティー入り混じった時代であっても、とにかく、魑魅魍魎の仮想世界を、鎌倉を舞台に描いたところが面白い。
   川端康成など、鎌倉を愛した文豪たちは、どんな顔をして、この「DESTINY」世界に躍り出てくるのであろうか。
   
   さて、主役の堺雅人と高畑充希は、生まれながらの役者、とにかく、文句なしに上手い。
   堤真一は、舞台でも映画でも、どんな役でもこなす凄い役者で、「ALWAYS 三丁目の夕日」で証明済み、私には、NHKの「マッサン」で、鳥井信治郎役を演じたのが圧巻。甲子園球場近くで生まれたと言うから、私の後輩である。
   中村玉緒と田中泯は、実に上手く、謂わば、骨董の値打。
   三浦友和と鶴田真由は、理想の俳優、今回特に風格がある。
   現実の世界と黄泉の国の仲介役として、死者の現世との仮生活をアレンジする若き死神を演じる安藤サクラが、コミカルタッチで器用に難しい役を熟しているのが面白い。
   行きつけの呑み屋の女将に薬師丸ひろ子、黄泉の国に行った夫婦に橋爪功と吉行和子、警察署長に国村隼などベテランたちが、ちょい役で登場しており、華を添えている。
   刑事役の要潤、大倉幸二、神戸浩も、独特な雰囲気で味を示して面白いし、本田の妻の市川実日子、その恋人ムロツヨシも、しっとりとした佇まいが良い。
   主題歌は、作詞作曲宇多田ヒカルの「あなた」。

   とにかく、何が何だか、何が鎌倉なのか、よく分からないままに、映画は終わったのだが、爽やかであった。
   
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映画「オリエント急行殺人事件」

2017年12月16日 | 映画
   ケネス・ブラナー監督・主演の新しいアガサ・クリスティーの映画「オリエント急行殺人事件」。
   期待通りの素晴らしい映画で、美しくてダイナミックでピクチュレスクな映像と心に染み入る素晴らしい音楽が堪らなく魅力的で、正に、映画の醍醐味を満足させる作品である。

   ケネス・ブラナーは、 CBE Sir Kenneth Branaghであり、若き頃から、「ローレンス・オリヴィエの再来」と称されて、最高のシェイクスピア俳優であった。
   私が、ロンドンで、初めて、ケネス・ブラナーの舞台、すなわち、ハムレットを観たのは、30年近くも前で、バービカン劇場でのRSCの公演であった。
   勿論、大変な人気で、チケットが、かなり早くから取得困難となり、私も、シェイクスピア戯曲鑑賞に、RSCやロイヤル・ナショナル・シアターのシェイクスピア公演に入れ込み始めて通っていた頃であったので、鮮明に覚えている。
   舞台鑑賞は、一回きりだが、著書「私のはじまり ケネス・ブラナー自伝」を読んだり、映画は、「ヘンリー五世 Henry V 」「から騒ぎ Much Ado About Nothing」「ハムレット Hamlet」などのシェイクスピア作品などを観ている。
   今回、ブラナーは、この作品制作を希望し、ポアロの出る作品長編33短編50すべてを読破することから始めたと言うのだが、シェイクスピアを知りすぎるほど知っているブラナーであるから、次から次へと役作りと映画製作のイメージがほとばしり出たのであろうと思う。
   ファンと言えばファンなので、今回は、流石にケネス・ブラナーだと、ユスティノフやフィニーとは違った感覚で見ながら、感心しきりであった。

  映画では、1074年のMGMのポワロ役にアルバート・フィニーの「オリエント急行殺人事件」、それに、日本バージョンとしては、2015年新春テレビで放映された、三谷幸喜の脚本で、ポアロにあたる勝呂武尊を野村萬斎が演じた「特急東洋」の、「オリエント急行殺人事件」、そして、イギリスTV作品でNHK BSで放映されていた、ポワロがデヴィッド・スーシェであった名探偵ポワロ「オリエント急行の殺人」で、お馴染みなのだが、何回観ても、流石に、アガサ・クリスティーで、ぞくぞくしながら観ている。

   あまりも有名な映画なので、ストーリーにも、そして、名優たちの素晴らしさについて語るのも野暮なので、触れるつもりはない。

   この映画が大きく展開するのは、
   列車がヴィンコヴツィとブロドの間で積雪による吹き溜まりに突っ込み立ち往生する中、翌朝、ラチェットの死体が彼の寝室で発見されたところである。
   さて、この両都市は、今のクロアチアの田舎町で、アルプスに入る大分手前なのだが、イスタンブールを出たオリエント急行が、バルカン半島の西岸方向の、冬山で凍てついた峩々たる急峻な断崖絶壁を縫うように走る姿は、観ていて、感動の一語に尽きる。
   実に美しく、正に、映像芸術の粋である。
   尤もこの雪山は、10メートルの雪山を作ってデジタルで拡大し、その雪山をバックに、2~300mに及ぶ鉄橋を設計して機関車など4台の車両をクレーンで釣り上げて、実際に雪を降らせてリアリティを持たせたと言うから、なみ大抵の映像づくりではなかったのである。

   イスタンブールには、3回ほど行って、何日か滞在して歩いているので、懐かしく観ていたのだが、実にエキゾチックで、巨大なモスクが威圧する一寸貧しい感じの古色蒼然とした巨大な都市で、正に、アジアとヨーロッパを繋ぐ架け橋に位置し、オリエント急行の起点であると言う素晴らしい位置づけであることがよく分かる。

   歴史の偶然と言うべきか、このすぐ近くで、第一次世界大戦の引き金が引かれ、先のユーゴスラビア崩壊後のセルビアなどの一連の不幸な事件の故地であり、現代文明史の火中の原点でもあり、それを思うと不思議であった。
   ラストシーンで、何も遮るもののない荒野にポツンと立つ「BORD」と駅看板が立つ駅で、エルキュール・ポアロは降り立ち、オリエント急行は、何もなかったように、カレーに向かって走り去る。
   何もなければ、殆ど世界の人々から、一顧だにもされない、地球の辺境のようなところなのである。

   ところで、私自身、汽車の旅が好きでもあり、最初のヨーロッパ旅行は、フィラデルフィアからの学生の頃でもあり、家族旅行の時もそうだが、当然、移動はユーレイルパスであったのだが、ビジネスの時でも、大陸では、よく列車を使った。
   まだ、結構古い車両が走っていたのだが、この映画の様に、扉のがっしりした個室のコンパートメントの客室に入るのが、苦手であった。普通車では、ドアを通して中が見えたが、相手にもよるが、全く知らない異邦人(自分の方がそうだが)と小さな個室で、過ごすのが大変だったのであり、意識して、オープンで近代的な列車を選んで乗っていた記憶がある。

   この映画の汽車は、殆ど一世紀前のものなので、唯一スイスに残っている「484列車」を基にして、オリエント急行の機関車と炭水車、保存車、客車、食堂車、サロンカーを作り上げ、車両重量25トン、2~3台のジーゼル入替車を取り付けて動かし、車両から蒸気がが上がり、エンジン臭が漂ったと言うから、凄い熱の入れようであり、正に実写なのである。
   映画のHPには、興味深い話題が満載されているが、とにかく、コダック社がロンドンに特設したラボで処理したと言う65ミリフィルム映像の素晴らしいその迫力を観れば、ケネス・ブラナーの作品の魅力が倍加する。

   余談ながら、やはり、タイはタイ、イノベーションの波に後れを取って潰れたはずのコダックのクレジットを見て感激した。
   
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国立演芸場…12月中席”三遊亭小円歌改メ二代立花家橘之助襲名披露公演”

2017年12月15日 | 落語
   東京へ出て、時間を見て、国立演芸場に向かった。
   中席で、”三遊亭小円歌 改メ 二代立花家橘之助襲名披露公演”で、10日間連続公演なので、確か、相当空席があった筈だったので、直に劇場に行った。
   これまで、トリを取る圓歌の前に、三遊亭小円歌として登場する美人三味線漫談家として、浮世節と言うのか俗曲というのか、よく知らないのだが、粋な小唄を歌って楽しませてくれていたのだが、やはり、襲名と言えば、大したものなので、それに、トリであるから、聴いておきたいと思ったのである。
   知らなかったのだが、初代の立花家橘之助は、大した女流音曲師(女道楽)と言うことで、師匠は三遊亭圓朝で、落語家ではないのに、落語の寄席の主任(トリ)を常時とり続けたと言う。
   それに、舞台作品「たぬき」は、この立花家橘之助を主人公としたもので、山田五十鈴主演で、大変な人気であったと言うことで、橘之助もこの「たぬき」を演じ、襲名披露口上で、 吉原朝馬が、山田五十鈴に、一番太鼓を教えた逸話などを語り、本舞台でも、落語は語らず、「たぬきこぼれ噺」を語って盛り上げていた。

   二代立花家橘之助は、落語界一の美人で魅力的な女性であり、落語家たちがアタックしたが誰も成功出来なかったが、初代立花家橘之助は、男女関係が極めて派手で浮名を流し続けたので、襲名を機会に・・・と言って笑わせたら、二代立花家橘之助は、魅力的で良く語る流し目で、意味深に応えていた。
   私など、小粋な小唄を聞くような宴会などに殆ど縁がなかったので、このような立花家橘之助の舞台は、非常に新鮮で興味深いのだが、「たぬき」は、下座音楽も華やかで、このために特別出演した師匠級の 古今亭志ん陽が演じ、自ら、タヌキのぬいぐるみを着て舞台に登場して、二つ並べた木魚を器用に演奏し、腹鼓まで打って、 華を添えていた。
    浮世節から始まった二代立花家橘之助のトリ高座は、素晴らしかったが、花柳流日本舞踊の名取りと言うこともあって、何時ものように、今回は、特に意欲的に、玉三郎の向こうを張って、道成寺を踊って、観客を喜ばせた。

  今回の15日(金)1時の高座プログラムは、次の通り。
  新しく聞いた落語はなかったが、夫々、熱演で、楽しませて貰った。
  久しぶりに、女流落語家三遊亭歌る多を聴いたが、やはり、新鮮で面白かった。
  朝馬が、落語家で、美人No1は橘之助で、あの歌る多は、No3だと言ったら、楽屋で聞いていた歌る多が、舞台に出てきて横切ったので、No2だと、改めて笑わせていた。

  落語     三遊亭伊織  転失気
  落語     古今亭志ん陽 代書屋
  落語     五明樓玉の輔  宗論
  曲芸     翁家社中
  落語     三遊亭歌る多  変わり目
  落語     三遊亭歌司   抜け雀
        ―仲入り―
  襲名披露口上  伊織の司会で、朝馬、小さん、歌司
  落語    吉原朝馬   たぬきこぼれ噺
  落語    柳家小さん  たいこ腹
  浮世節   三遊亭小円歌改メ
          二代  立花家 橘之助  なぬき 道成寺

  
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国立劇場・・・12月歌舞伎 『今様三番三』『隅田春妓女容性 ―御存梅の由兵衛―』

2017年12月14日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   「今様三番三」は、曽我二の宮実は平忠度の息女・如月姫(中村雀右衛門)が、烏帽子に素襖の姿で踊る三番叟を舞い、そして、振袖姿での艶やかな踊りを踊ると言う美しい舞台で、三番叟とは、全く違う世界。
   箱根権現で源頼朝が奉納した源氏の白旗が紛失し、源氏の武者・佐々木小太郎行氏(中村歌昇)と結城三郎貞光(中村種之助)が詮議するも、曽我二の宮が、白旗を晒しに見立てて華麗に振り、捕らえようとする二人や軍兵たちを蹴散らすと言う勇壮な舞踊劇で、雀右衛門が、華麗な舞台を披露して興味深い。

   「今様三番三」は、主筋の姫君を救出しお家の重宝を探してお家の再興を図ると言う歌舞伎でお馴染みの常套テーマ。
   金谷金五郎(中村錦之助)と駆け落ちして芸者となっている由兵衛の旧主の娘・小三(中村雀右衛門)を見受けして救出し、紛失したお家の重宝を、由兵衛(吉右衛門)と信楽勘十郎(中村東蔵)が、源兵衛堀の源兵衛(中村歌六)、土手のどび六(中村又五郎)や曽根伴五郎(大谷桂三)ら悪人一味から取り戻すと言う話である。
   悪者に、やぶ医者・三里久庵(中村吉之丞)を絡ませて、惚けたどび六との諧謔とコミカルタッチの笑い満開の演技が、悪を笑い飛ばす解毒剤で面白い。
   一方、由兵衛の女房・小梅(尾上菊之助)は、夫を助けるべく、米屋で丁稚奉公をしている弟の長吉(尾上菊之助)に身請けの金の工面を頼むのだが、長吉は、姉を助けるべく、長吉にゾッコンの、米屋佐治兵衛(嵐橘三郎)の娘・お君(中村米吉)に、その金の工面を頼んで、その金を持って、姉の許へ急ぐ。
   その邪魔をするのが、狂言回しの、小梅に恋する米屋の居候の長五郎(中村歌昇)。
   長吉は、姉の許へと急ぐ道中、由兵衛と行き会い、金策に困った由兵衛が、その金を貸してくれと哀願するも、絶対金を姉に渡す必要のある長吉が抵抗し、もつれ合っている間に、由兵衛は、忠義のためとは言え、女房の弟と知らずに長吉を殺めてしまう。
   断腸の悲痛の由兵衛、夫の思いを察して身替わりに罪を被ろうとする小梅、互いに相手を深く思いやる夫婦の情愛が実るなど、由兵衛は、源兵衛堀の源兵衛からお家の重宝を奪い返して、解放された金谷金五郎と小三を、国元へ送り出す。

  義理と人情に篤い侠客「梅の由兵衛」の心意気と苦衷を描いた並木五瓶の名作
  忠義を貫き通す由兵衛の意気地と周囲の人々への情愛、そして様々に織り成される人間模様をお楽しみください。と言うことだが、通し狂言として、推敲を重ねて、久しぶりに再演された歌舞伎で、
   由兵衛が、紫の錣頭巾を取り、尻からげの勇ましい姿になって啖呵を切る、目にも鮮やかで痛快なシーンや見得
   「米屋塀外」では二役を演じ分け右菊之助の早替りによる小梅と長吉のやり取り、
   米屋奥座敷」で、隣家から聞こえてくる浄瑠璃『ひらかな盛衰記』<梅ヶ枝無間の鐘の段>が、金の調達に苦心する長吉の心象風景の表現
   本所大川端の殺戮の場で、二人が客席を通る間に川辺の風景が変わる演出
   等々、舞台展開に施された工夫や面白さも、中々捨てがたい。

   脚本作家としても高名な吉右衛門であるから、定番ではない新作に近い歌舞伎でも、創意工夫を加えて、演出に工夫を凝らして、座頭として、名優たちを存分に活躍させて、素晴らしい舞台に仕上げているのは、流石である。

   テレビで語っていたが、もう大分以前になるのだが、播磨屋に加わった歌六と又五郎、その子息たちの米吉と歌昇と種之助の活躍やサポート、その貢献が、実に著しく、今回の歌舞伎を更に、充実させているように感じる。 

   ただ、今回の舞台で、一寸引っかかったのは、どび六に騙されて贋金をつかまされた金谷金五郎に、景気よく100両をポンと差し出して助けた由兵衛が、何故、最後の100両の金策に切羽詰まって窮地に立ち、会ったことがなくて顔を見知らなかったとは言え、義弟長吉を殺してまで、金を奪わなければならなかったのか、と言うこと。
   尤も、詳しい台本などを読んでおらず詳細は分からないのだが、これは、並木五瓶の作であるから、舞台上には関係ないことかも知れない。

   いずれにしろ、自分の金策のために奔走していた義弟を、知らずに誤ってとは言え殺してしまったことは、由兵衛にとっては、悔いても悔い切れない、嘆いても嘆き切れない、断腸の悲痛であるのだが、その時に、長吉に食い切られた小指の先を、妻小梅が、自分の指を切って身替わりに罪を被ろうとする健気さ熱いほどの由兵衛への熱愛に、胸が詰まる。
   今回、この重要な役割を演じる小梅と長吉を、菊之助が担っているのだが、非常に、格調の高いしっとりとした芸を見せてくれており、感動的であり、娘婿になって、吉右衛門劇団に加わった菊之助の貢献も、限りなく大きいと思う。
   
   錦之助と雀右衛門の瑞々しさ、東蔵の芸の風格、橘三郎、吉之丞、桂三たちベテランの芸の冴えと味、とにかく、脇役陣の活躍も見逃せず、素晴らしい大晦日の歌舞伎を見せてもらって楽しかった。
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METライブビューイング・・・「魔笛」

2017年12月13日 | クラシック音楽・オペラ
   近くの109シネマ湘南で、METライブビューイングが上映されることになったので、「魔笛」を鑑賞する機会を得た。
   ジュリー・テイモア演出の舞台なので、歌手などは異なっているが、2007年正月に、歌舞伎座で上映された同じバージョンの「魔笛」を観ている。
   ライオンキングのような動物がバックで動き回るティモアの舞台を微かに覚えていたが、全く忘れてしまっていたので、初めて見るような感じで、久しぶりにMETの舞台を堪能することが出来た。

   METで初めて鑑賞したのは、1972年、ウォートン・スクールで勉強していた時で、学生の身分であったので、安い鈍行のアムトラックで、ニューヨークに出かけて、深夜にフィラデルフィアへ帰り、危険な夜道を寮へ帰ると言ったMET通いを2年間繰り返していた。
   その後、出張や個人旅行で、ニューヨークへ行くことが何度もあったので、METへはかなり通っていて、ロイヤルオペラの次に、よく通ったオペラハウスなのだが、最近では、このブログにも書いているが、ニューヨーク旅行時に、マノンレスコー、セビリアの理髪師、ヘンデルとグレーテル、そして、NHKホールで、ドミンゴのワルキューレくらいで、一寸離れていたので、今回の魔笛の映画で、一気に懐かしい日々が蘇ってきた。
   カール・ベームの「薔薇の騎士」、アンナ・モッフォのネッダなど、思い出しても懐かしい。

   この「魔笛」については、随分前だが、ロイヤルオペラの来日公演で観ており、その後、ロンドンなど、ヨーロッパにいた時に、モーツアルトのオペラは好きであったので意識して劇場に通っており、何度か、別のバージョンの「魔笛」を観ている。

   今回のMETのキャストは、
   指揮:ジェイムズ・レヴァイン
   演出:ジュリー・テイモア
   出演:
   ルネ・パーペ、マルクス・ヴェルバ、キャスリン・ルイック、 ゴルダ・シュルツ、    チャールズ・カストロノヴォ、クリスチャン・ヴァン・ホーン

   指揮者のジェイムズ・レヴァインは、クリーヴランド管弦楽団のジョージ・セルの弟子なのだが、1970年にフィラデルフィア管弦楽団の客演指揮者となったと言うから、1972年から2年フィラデルフィア管のシーズンメンバーチケットを持っていたので、コンサートを聴いていたかも知れないが、その後、METで随分聴いているので、METの主のような指揮者である。
   ロンドンで、ウィーン・フィルを指揮をしたのを聴いており、アンコールで指揮した軽快なシュトラウスのワルツが印象的であった。と言っても、確か、暫くタクトを振って、後は、ウィーン・フィルに任せて、指揮台から消えて行ったのだが、・・・
   身体の調子が大分悪いのであろう、いつものMETライブの様に、「マエストロ、ピットへどうぞ」と言われる前に、指揮台で座っており、カーテンコールでも、指揮者席に座ったままで拍手を受け、舞台には上がらなかった。

   やはり、驚嘆するのは、夜の女王のキャスリン・ルイックの凄さ、脱帽である。
   パパゲーナのゴルダ・シュルツは、METデビューだと言うことで、最初は一寸不安定だったが、後半持ち直して、表情も歌唱も実に素晴らしく、将来有望なソプラノだと思った。
   タミーノのチャールズ・カストロノヴォは、サンフランシスコでキャリアをスタートしたが、METのLindemann Young Artist Development Programでの研修や経験を経て、Don Ottavio, Ernesto, Fenton, Ferrando, Tamino、Alfredo.など、テノールの重要な役を歌い始めて脚光を浴びたと言う、絶頂期の歌唱で圧倒する。
   パパゲーノのマルクス・ヴェルバ(バリトン)は、オーストラリアの歌手で、正に、千両役者で、今回の舞台では最高に輝いており、ウィーン国立歌劇場でのパパゲーノは勿論、ザルツブルグやバイロイト、ロイヤルオペラなどでも人気絶頂と言うからさもありなん。  
   ザラストロのルネ・パーペは、文句なしに、ドイツが生んだ現代最高峰のバス歌手で、私自身、これまで何度か舞台を観ており、このザラストロは、正に適役で、これ以上の舞台は期待できないと思う。
   最近、本格的なオペラを観ることが少なくなったので、流石は、METで、若い歌手など最近のスター歌手を知らないのだが、どんどん、凄い新星が派出されているようで、びっくりしている。
   私など、マリア・カラスやレナータ・テバルディ、マリオ・デル・モナコやディートリッヒ・フィッシャーディスカウ、それから、プラシド・ドミンゴやルチアーノ・パバロッティなどに入れあげた時代なのである。

   私がMETに通っていた時から考えれば、舞台展開は、正に、巨大な工場の機械装置が移動するような感じで、回り舞台を上手く活用して、左右に回転させて瞬時に移動。
   それに、ジュリー・テイモアの動物やファンタ―スティックなオブジェが、縦横無尽に踊って飛び回り、エキゾチックな舞台空間を作出して、実に楽しく、幻想的でドラマチックな魔笛の世界を創出して感動的である。

   実際に、METで見るオペラは、臨場感豊かで凄いのだが、映画で見ると、とにかく細部がよく分かって、一か所から見るのではなく、舞台を移動して複眼で鑑賞できるのが良い。
   
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映画・・・「ラストレシペ」

2017年12月12日 | 映画
   先日、辻堂の映画館で、「火花」と「ラストレシペ」を見た。
   「火花」は、何の感慨も印象もなかったが、「ラストレシペ」は、考えさせられた。


   彼は、愛に人生を捧げた悲運の天才料理人。
   1930年代、満洲国― 満漢全席を超える、究極の日本料理を開発せよ。
   これが、触れ込みだが、

   そのストーリーをHPを借用しながら引用すると、

   天皇の料理番・山形直太朗(西島秀俊)は国命を受けて、究極の日本料理フルコース[大日本帝国食菜全席]のメニュー開発のため、妻・千鶴とともに満洲国に移住する。現地での助手は満洲人の楊晴明(笈田ヨシ)と、日本人青年の鎌田正太郎(西畑大吾)とで、満漢全席を超える料理を考案せよと言う指令だが、山形には特殊ともいえる才能:一度食べた味を記憶し再現できる、絶対味覚=“麒麟の舌”を持っている。世界中の食材が集まる満洲で、山形の才能は大きく開花していく。やがて山形は、日本と他国の料理を融合して新たなレシピを生み出すことが民族間の相互理解の助けとなり、料理で和を成すことができると考えるようになり、これまで以上にメニュー開発に没頭していく。妻(宮﨑あおい)の死と言う愛する家族のことも顧みず必死になって開発したのだが、ハルビン関東軍司令部の陸軍大佐・三宅太蔵(竹野内豊)から、満洲国への天皇行幸が決定したという知らせを受け、その晩餐会で、[大日本帝国食菜全席]をお披露目するのだが、しかしその裏には、料理に毒を盛れとの、戦争へと傾倒する日本軍部が画策した、巨大な陰謀が渦巻いていた。それに気付いた山形は、レシピを、晩餐会予行の宴会で、衆人環視の元で、焼き払ってしまう。
   勿論、拷問になって山形は獄死するのだが、その後のストーリーが救いで、複製されて保存されていたラストレシペが、数奇な運命を辿って、楊晴明や鎌田正太郎の助力で、麒麟の舌を持つ孫(二宮和也)に継承される。

   この映画は、非常によくできた素晴らしい感動的な作品だと思うのだが、
   満州国については、映画「ラストエンペラー」でも、日本軍が、世継ぎを出生時に抹殺すると言うシーンがあったが、史実かどうかは分からないが、悲惨な軍国時代の日本の歴史を反芻して、やりきれない思いで見ていた。
   天皇行幸の晩餐会と言う国家の命運をかけたような大変なセレモニーに、あってはならないような陰謀を企むと言う考えられないようなことが、かって、軍部によって画策されていたのかと思うと、暗澹たる思いであった。
   このような映画が、上映されると言うのも、正に、時代。

   映画そのものは、感動的なストーリー展開で面白かった。
   西島秀俊と宮崎あおいのしっとりとした夫婦関係が、爽やかで好感度抜群。

   余談だが、最近見た映画で面白かったのは、岡田准一主演の映画「関ヶ原」。
   去年の大河ドラマもそうであったが、必ずしも、徳川家康に焦点を当てていないところが良い。

   いずれにしろ、話が飛躍しすぎるが、万人共通の究極のレシピを作れるのかどうか、そのような挑戦が意味を持つのかどうか、いわば、経営論で言えば、最高度の戦略論であろうが、非常に興味を感じている。
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