熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ペンデレツキ:東京都交響楽団定期を振る

2008年06月30日 | クラシック音楽・オペラ
   ペンデレツキが、今回の東京都交響楽団の定期演奏会で、自作「弦楽のための小交響曲」「ホルン協奏曲」とメンデルゾーンの「スコットランド」を振った。
   現代作曲家で、多くの作品を残している素晴らしい作曲家だが、昔、ウィーンで、シェーンベルクの音楽を聴いてから、現代音楽が嫌いになってしまって、十把一絡げに現代音楽と呼ぶのには問題があるが、その後、何となく現代の作曲家による現代音楽を敬遠してしまったので、ペンデレツキの作品も初めて聴いた。
   尤も、現代音楽と言っても、これも昔だが、私が持っていたコンセルトヘボーのシーズン・メンバーチケット3種類の内一つが、完全に現代音楽シリーズだったので、これで聴いていたかも知れないし、多くのコンサートで現代曲がプログラムに組み込まれていたので、その中で聴いたかも知れないが記憶にない。

   大体、クラシック音楽の場合には、作曲家自身が初演などで指揮しているケースが多く、いくら指揮が下手でも、これは、これなりに意味があり、貴重なことだと思っている。
   有名なところで聴いたのは、ロンドン交響楽団の定期公演で、バーンスティンが振った「キャンディード」。この時は、残念ながら、期待したジューン・アンダーソンがキュンセルしたが、クリスタ・ルードヴィッヒがまだ元気であったし、偶々、オックスフォードへ留学中の皇太子殿下が二階最前列中央の席で鑑賞されていた。
   他にも、ピエール・ブーレーズ指揮などがあるが、映画で、ベートーヴェンやモーツアルトなどが指揮するシーンが出てくるが何時も楽しみながら見ている。

   ところで、この日のペンデレツキの曲だが、70年代以降は、それまで前衛的であったのが「ネオ・ロマン主義」と呼ばれる聴き易いスタイルに変化したと松本學さんが解説していたように、特に違和感なく聴くことが出来た。
   顎鬚を蓄えた精悍ないでたちのペンデレツキの指揮ぶりも奇を衒うことなくオーソドックスで、特に、強烈な印象はなかったが、どれも、20分足らずの短い曲だったので、あっという間に終わってしまったと言う感じであった。
   ホルン奏者のラドヴァン・ヴラトコヴィッチの演奏も非常に温かい雰囲気で、アンコールで演奏したメシアンの「恒星の呼び声」で、実に表情豊かで多彩で雄弁なホルンのサウンドを楽しませてくれた。

   メンデルゾーンの「スコットランド」は、冒頭から美しい哀調を帯びた流麗なメロディで、私には、実際にこの足で何度も歩いて実感したスコットランドの思い出が沢山あるので、都響を詩情豊かに歌わせていたペンデレツキのサウンドにどっぷりつかって感激しながら聴いていた。
   エジンバラ城址に対面した丘の上に、メンデルスゾーンがこのスコットランドの冒頭の部分を着想したと言うホーリーロード宮殿がある。
   悲劇の女王メアリーの思い出深い宮殿に佇んで、若きメンデルスゾーンがどのような感慨を持ったのか、その思いが、この交響曲第3番スコットランドに投影されているのであろう。

   イギリスは小さな国だが、スコットランドは、今でも、独立したポンド札を流通させているし、法律も英米法ではなく大陸法で、自治権は非常に強い。
   イングランドから車で入ると境界線に国境と言う立て札が立ってくらい独立意識が強い。
   心なしか、スコットランドに入ると一挙に風景が変わったような気がして、国花のアザミの花がいやに目に付く。
   スコットランド人に、イングリッシュと言うと即座にスコッツと言う反応が返って来る。イギリス人だと思っていないので、他にも北アイルランドやウエールズなど民族意識の強い人々の混合の連合王国なので、私は、イギリスでは、イングリッシュと言うのではなくブリティッシュと言う言葉を意識して使っていた。
   
   日本の小学唱歌には、スコットランド民謡が多いが、私もスコットランド人の友人と親しかったし、素晴らしい国だと思っている。
   メンデルスゾーンには、他に第4番のイタリア交響曲があるが、あの「夏の夜の夢」は当然としても、物語と言うか情景が髣髴としてくるような音楽で、聴いていて楽しい。
   同じ北国でも大分雰囲気が違うのであろうか、ペンデレツキが、現代的な自作とは違った、オーソドックスなメンデルスゾーンと真っ向から対峙していて素晴らしい「スコットランド」を聴くことができた。
   当然のこととして、都響は上手い。

   ところで、定期公演は、新日本フィルも続けているが、やはり、都響とコンサート会場の雰囲気から客の反応まで大分違っていて面白い。
   新日本フィルの4月も6月も、馴染みのない曲が多かったので、コメントを端折ったが、10年以上も続けていると、多少、マンネリになったような感じがしている。
   ウィーン・フィルやベルリン・フィルなど外国の有名オーケストラが、結構来日しているが、これまで、若い時には必ず出かけていたし、それに、欧米で随分聴き込んで来たので、とにかく、外国では考えられないような法外に高いチケットを買う気にはなれず、最近では敬遠している。
   この頃、東京の楽団の水準は桁違いに向上しているし、下手な邦人音楽家のコンサート・チケット(学芸会程度のコンサートでも3~4千円する)の代金に一寸足したくらいで、定期公演のシーズン・チケットが手に入るので、これで、クラシック鑑賞は一応楽しめると思っている。
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石油高騰は生活水準のダウン・・・竹中平蔵教授

2008年06月29日 | 政治・経済・社会
   民間に戻った竹中教授は、以前のように、歯に衣を着せぬ爽やかな経済評論でTVに登場することが多くなったが、相変わらず、市場至上主義とは言わないまでも、自由競争による市場原理が働く経済を唱え続けている。
   最近の物価上昇について、規制緩和を推し進めて、グローバルベースで、安いものを調達する努力をすること、あらゆる政策を駆使して生産を増加させることなどによって切り抜けるべきだと発言していたが、
   石油価格高騰については、100円であったものが200円になると言うことで、国民の生活水準がそれだけ下がったことを意味しており、総てを消費者に転化するわけには行かないので、関係者総て、すなわち、消費者は勿論、生産者も、流通業者も、それを使用して業を営む人々等総てが、少しづつ痛みを吸収する以外に方法はないと言う。
   政治の問題だと言いながら、先の石油危機の時に、政府が特に軽減措置など取らなかった唯一の国が日本で、その為に、国民の努力により日本が世界一エネルギー効率の高い国になったのだと付け加えた。
   グローバル経済のインフレの嵐に翻弄されて、益々貧しくなって行くのか、血の滲むようなイノベーション努力で乗り切るのか、それが問題である。

   石油高騰によって、フランスなど漁民が激しく抗議活動を展開し、日本でも、イカ釣り漁船が赤字になって操業を中止して居るなどと報道されており、運輸業をはじめ、石油を原材料やエネルギーとして利用している産業に甚大な打撃を与えている。
   行き場を失った金融資本のマネーゲームによるとか、中国など新興国の需要拡大によるとか、石油高騰の原因については、色々、議論されてはいるが、国境を越えて収益を求めて動き回る金融資本の動きは勿論、グローバル経済そのものをコントロール出来ない現状では、政府といえども、手の打ちようがないと言うことであろうか。
   戦争のない平和な世界であっても、自然界の天変地異以外にも、人為的に構築された経済社会においては、これまでに経験したことのないような未知数の悲劇が、国民生活に打撃を与えると言う厳粛な現実が突きつけられている。

   先日から、このブログで、ライシュ教授の超資本主義による経済社会の弊害について書いて来たが、要するに、金融商品となってしまった石油や食料、原材料等の価格高騰については、現在の政治システムでは有効な解決手段はなく、多少の緩和策が機能しても、これによって被害を受ける国民は、すべからく自分自身の裁量によって自己防衛なり身の保全を図らなければならないと言うことである。
   超資本主義の論理がそのまま野放しになって進行して行くと、経済のグローバリゼーションによって、天然資源に恵まれず経済的に脆弱な国は益々貧困度が増し、また、知識と技術のない労働者は益々低賃金に追い詰められるなど、地域格差や経済格差などの溝がどんどん深まって行くのは必然である。
   それに、日本の場合には、原材料などの輸入品はどんどん高くなって行くのに、日本の得意とする電気製品など工業製品の輸出価格はどんどん下落傾向にあり、交易条件が更に悪化すると考えられるので、かってのように貿易収支の黒字維持には一段の努力が必要となり、報われない傾向が続く。産油国など資源国に、膨大な税金を支払っていると言われる由縁である。

   ところで、先の石油危機は、国民経済も上り調子にあったので克服できたが、今日では、庶民生活へのダメッジは極めて大きい。
   しかし、良く考えてみれば、輸出立国を標榜して外貨を稼ぎ出して、金を出せば何でも買えると言う安易な方針で生きて来た日本人にとって、石油以外に多くの天然資源や原材料、そして、食料を輸入に頼っているが、どの一つを取っても、輸入や供給が止まってしまうと、日本人の生活は瞬時に干上がってしまって危機に陥る。
   現に、食料や鉱物資源など自国の利権を守るために、輸出規制や制限を課して、国際市場への供給をストップする国が現れて来て、国際価格を高騰させている。インフレの足音が、もう、そこまで近付いているのである。
   日本人が、安全で安心して生活を送れる為には、何が、緊急の課題であるのか、救急バッグを備えるように、もう一度、防衛、食料、資源等々じっくり考えて対策を取るべき時期に来ているのではなかろうか。
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ロバート・B・ライシュ著「暴走する資本主義」・・・ウォルマート効果

2008年06月28日 | 政治・経済・社会
   ライシュ教授は、今日の資本主義をSupercapitalism超資本主義と捉えて、資本主義の暴走が、社会的正義を犠牲にして国民生活ををどんどん窮地に追い込んでおり、この暴走を止めるためには、法律や制度で方向付けを行って規制する必要があると説いている。
   多少ニュアンスが違うが、何十年も前に、ガルブレイスが、ソーシャル・バランスの欠如、すなわち、民間企業分野の成長発展に比べて、国民の厚生や社会福祉や正義など公的部門の著しい立ち遅れによって社会的な価値のバランスが欠如していると説いて当時の社会に警告を発したが、丁度、その現在版の再来のようで面白い。

   ライシュの説を概説すると、次のとおり。
   超資本主義では、経済的な権力が、消費者と投資者に移り、かってない程の選択肢を持ち、何時でも簡単により良い条件に乗り換えられるようになった。
   彼等を振り向かせ引きつけておく為に、企業間の競争が益々激しくなり、その結果、益々安い商品や、より高い投資収益が提供されるようになった。
   しかし、超資本主義が勝利すればするほど、それによる社会的な影の部分、すなわち、経済格差の拡大、雇用不安の増大、地域社会の不安定や消失、環境悪化、海外における人権侵害、人々の弱みに付け込んだ様々な商品やサービスの氾濫、etc.が拡大して人々の生活環境を益々悪化させる。
   本来、これらの社会問題に対応することが出来る最良の方法は、民主主義である筈だが、資本主義の暴走により、政治経済社会などあらゆる分野において、経済的な力が、益々、民主主義の機能麻痺を引き起こしている。

   ”毎日低価格”を標榜して、アメリカ人の消費生活を革命的に変えてしまったウォルマートを例にあげながら、人々が益々安い商品を期待するので、ウォルマートは、消費者の期待に応える為に、タダでさえ労働条件が劣悪の上に、益々、従業員の雇用・福祉・環境を切り詰めてコストを削減しており、更に、ウォルマートが出店すると、その地域の賃金水準を引き下げて雇用条件を悪化させて地域住民の生活水準を下げている、と、企業の経営努力が、生活環境を悪化させていく現状を詳述している。
   同じ様に、企業のCEOは、高配当や企業価値のアップなど、厳しい投資家の要求を満たすべく、激烈な競争に勝つ為に社会的な価値の向上や外部不経済の排除などを犠牲にしながら、徹底的に情け容赦なく利益至上主義を貫かなければならない現状を説きながら、超資本主義の暗部を浮き彫りにしている。

   この価格下落への消費者、投資の高収益への投資者の飽くなき要求が、企業に対して、社会的価値の崩壊への動きを加速させて、資本主義を益々民主主義から乖離させていくということだが、今回は、エブリデイ・ロー・プライスのウォールマート効果とも言うべき低価格への強力なプッシュ現象について考えたい。

   これまで、中国などの途上国の生産市場への参入によってどんどん価格が下がって行くデフレ現象が主体であったが、最近では、原油や食料、鉱業製品などの原材料、それに、ヨーロッパなどの労働賃金の高騰等によるコスト・プッシュ・インフレーションの心配が急速に台頭してきた。
   これに、世界的な経済不況が呼応して、何十年前に死滅したと思われていたインフレと不況が同時に起こるスタグフレーションが蘇ってしまったのである。

   ところで、日本でも、ガソリンや食品など生活必需品が急速に値上がりし、国民生活を圧迫し始め、更に景気減速が加わって、消費を切り詰めるなど、国民自らが生活防衛をしなければならなくなってしまった。
   こうなると、前述のウォルマート効果を期待した消費者のロー・プライスへの企業への圧力が益々強くなる。

   最近、スーパーでも、自社開発のブランド商品に力を入れ始めた。
   イオンの場合には、トップバリューと言うブランド商品が並んでいるが、特別なブランド意識がなくて、あれこれ選択に迷う時には、このマークの商品を選べば、価格は割安だし、製品の質には殆ど問題ないので、苦労することがない。
   このスーパーなどでのプライベート・ブランド開発が進んでくると、OEMなのでメーカーに注文が行くであろうが、スーパーから価格ダウンの強力な圧力がかかるので、ウォルマート効果と同じ現象が生じることになる。
   この傾向は、スタグフレーションが進行し、国民の生活への自己防衛が進めば進むほど激しくなり、スーパーのみならず、メーカーの価格競争を激化させて、労働条件や生活環境を悪化させる心配が生じることになる。

   消費者が生活防衛の為に安い商品を求め、スーパーが、必死になってメーカーにコストを削減させて安い商品を求める、この資本主義では当然の経済原則が、益々、生活者としての市民の生活を追い詰めて行く。
   このジレンマをどのようにして解決して行くのか、ライシュ教授は、消費者であり投資者である善良な市民に問いかけている。
   
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三菱UFJフィナンシャル・グループ定時株主総会

2008年06月27日 | 経営・ビジネス
   例年通り三井住友FGの総会に行くべきか迷ったが、今までに行ったことがなかったので、九段下の武道館で開催された三菱UFJFGの株主総会に出かけた。
   システム統合の問題以外では、サブプライム問題の被害も少なく、これと言った深刻な問題もなかったので、非常に平穏無事な総会で、株主質問も取り立てて目ぼしいものもなく、面白くなかったので、多くの客に従って12時過ぎに会場を出た。
   外からの印象だけだが、最初に統合された東京銀行の面影など全くなくなり、東海は勿論、灰汁の強かった三和も吸収されてしまって、完全に三菱カラーに染まったメガバンクになったと言う感じであるが、誤解であろうか。

  ところで、武道館の入場口までは、大変な距離だが、その通路に沿って黒い背広を身につけた行員が並んで株主に挨拶、武道館の上の階まで、等間隔で、びっしり行員が並んで待機しているのは異常な雰囲気である。
   みずほや三井住友と違って、三菱UFJは、入口でユーハイムのクッキーをお土産に手渡し、ドリンク・サービスを行っていて、一寸、和む感じである。
   会場は、平土間はほぼ満席になったが、二階以上は殆ど空席で、みずほの場合もそうだったが、ソニーやニッサンの時のようには株主客数は多くない感じである。

   定刻少し前に、役員達が入場を始めたのだが、数秒も違わず、10時ジャストに、畔柳社長が議長席に登壇して総会の口火を切るなどと言う、ヒットラーでも不可能であったと思われるような神業を演じるなどは、流石に三菱である。
   カンニング・スクリーンは、演台の机上にあるのだろうが、みずほの前田社長と違って、畔柳社長も、他の役員達も、殆ど、見ずにぶっつけ本番で株主の質問に応答していた。

   やはり、問題となったのは、他行と比べて損失が少ないと言っても、サブプライム関連の損失である。
   最初の説明では、サブプライム直接の損失は、815億円と回答していたが、その他の損失を加えて、3月末での損失は、1230億円で、バランスシート上では、経常費用のその他業務費用の項目に計上されていると修正。
   あれだけ問題になっているのに、添付書類の第3期事業報告書には、サブプライム関連の損失について何も説明されていないと株主から苦情が出ていた。
   更に株主の追及で、畔柳社長が、第2次、第3次の証券化商品はやっていないと説明していたのだが、斎藤専務が、3月末現代で、更に、サププライム関連の第2次、第3次やレバリッジの高い証券化商品などを3兆3千億円所有しており、10%毀損しているとすると、損失は3000億円強であるが、格付けの高いリスクの少ない商品なので、評価損は少なく、中長期で保有し続けたいと説明していた。
   サブプライム問題は緒に就いたところで、まだまだ、どんどん悪化していくと言う観測もあり、そんな暢気なことを言って居れるのかと思っている。

   ここでも、全体として200兆円もの資産を、十分にリスク管理に意を用い投資内容を検討して分散投資をしており、それに比べれば、サブプライム関連投資は少なく、それに、世界全体の損失から言ってもインパクトが少なく、想定内の損失に過ぎないと言う認識が働いている。
   銀行業務に対する顧客としての不満等質問が分散しながら終盤に差し掛かっても、まだ、株主からサブプライムに関する質問が続いたので、会場を出てきてしまったが、畔柳社長は、つまらない質問にも実に辛抱強く付き合っていて、株主にしゃべらせるだけしゃべらせて、上手く毒気を抜いていたのは流石だと思った。

   ところで、MUFGのキャッチフレーズであるQuality for You とは一体何なのか。
   総会前に、会場のスクリーンで、MUFGが、如何に、世の為、人の為に貢献しているか、CSR(企業の社会的責任)活動について、盛んに宣伝していた。
   丁度、会場に来る途中の電車の中で、ロバート・B・ライシュの「暴走する資本主義」を読み終えたところで、この中で、ライシュが、まやかしの企業のCSR活動が如何に企業の本来の目的に反する行為であるかを、ミルトン・フリードマン以上に激烈な調子で非難していたのを知っていたので、しらけながら見ていた。
   尤も、役員は誰も、CSRやグローバル・グッド・シティズンシップについてなど語らなかったし、対処すべき課題にも、触れられていないので、ただの社会へのリップサービスであろうか。

   コンプライアンスと内部統制に力を入れること、そして、とにかく、懸案のシステム統合を完成させて新システム移行によって業務を合理化して業績を上げたい、企業価値を向上させたい、と言うのが当面の最大の課題であろうか。
   今、NHKの土曜ドラマ「監査法人」で、銀行が自分達の利益の追求の為に、如何にえげつないことをしてきたかと言うことを報道し続けている。
   お客さまや社会から強く支持される『世界屈指の総合金融グループ』を目指すと言う事だが、道は遠い。
   一寸気になったのは、みずほと違って、グローバルの話が殆ど聞かれなかったけれど、世界に冠たる地歩を築いて世界に雄飛していた東京銀行のDNAはかき消されてしまったのであろうか。
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みずほフィナンシャルグループ定時株主総会

2008年06月26日 | 経営・ビジネス
   今回の総会でも、みずほFGの戦略説明は、顧客のニーズに基づいて設定したと言う全く意味不明のChannel to Discovery Planによるグローバル、グローバル、グローバル何とか。
   要するに、コーポレート関係のみずほコーポレート銀行、リテールのみずほ銀行、アセットとウエルスマネジメントのみずほ信託銀行を核とした3事業にブループ会社を色分けして、そのグループにグローバルと言う形容詞を冠しただけとしか思えないような戦略を語るに止まり、分ったことは、サブプライム関係で6450億円の欠損を出して、当期純利益が3112億円に止まったと言うことだけ。
   そのグローバルにしても、海外ネットワークの拡充の為に、中国に現法を設立したとか、欧米拠点と連携してシンジケート・ローンに注力したとかと言った程度の説明だけで、リテールや信託業務などでは、グローバルのグも出てこない状態で、ミラノやトロントに支店を開設したことが第6期報告書に記載される状態だから、1980年代の頃の興銀や富士や第一勧銀時代の方が、はるかにグローバル化していた。

   非常識を覚悟で言わせて貰えば、総会屋全盛時代の方が、株主の質問や会社側の答弁にしても、もう少し、程度が高く迫力があった筈だが、一般株主中心の株主総会になってからは、総会の質も低下して面白くなくなった。
   特に、今回は、サブプライム問題と言う銀行の直面した未曾有の金融危機下における総会にも拘わらず、双方共に危機意識と緊張感なく、平凡な総会であった。
   2時間くらい居て株主質問の途中で会場を後にしたので、その後の推移は不明だが、その限りで雑感を記してみたい。

   やはり、問題になったのは、サブプライム問題に端を発したみずほ証券の4000億円の欠損とその経営責任の問題であった。
   前田社長の話を聞いていると、謝っていたはいたのだろうが、先ほどのグローバルと言う言葉にも連動するが、グローバルだからサブプライムの証券化投資にのめり込んだと言わんばかりで、何もしないよりは、リスクを取って事業を展開するのが銀行経営だとのたまう。
   サブプライム問題は、市場が機能しなくなって世界的規模で拡大し、世界全体で40兆円の損失を出しており、これほどの危機とは予測できなかったし、努力して回避しようとしたが出来なかったけれど、経営には手抜かりがなかった、と言う。
   世界全体で巻き込まれた危機で、いわば不可抗力であり、それに、欧米の金融機関と比べれば微々たる損失であり、経営責任などある筈がない、馬鹿を言うなと言う口ぶりである。
   責任を取って止めろと詰め寄る株主の発言に対して、「議長解任動議と解釈する」として動議を株主に諮って否決して突破を図るに至っては、弁護士の遠隔操作ではあろうが一寸寂しい。

   このみずほ証券については、過去にも、システム障害があり、また、コンピューター売買で一株単価と株式数の入力を間違えて何百億の損失を出した前歴があり、今回の4000億の損を出すなど、損失を出す会社なら潰してしまえと株主から発言があった。
   これに対して、銀行は、フィナンシャルグループとしては、証券業の役割は必須であり、通常は、何百億の桁だが利益を計上しているので潰す訳には行かないと答えていたが、利益への貢献と言う視点だけから言えば、均せば10年以上も、赤字であったと言うことになる。
   このサブプライム騒ぎで、当期純利益3112億円の2倍以上の6450億円を掏ってしまったのであるから、金銭感覚が麻痺してしまったのか、経営責任意識が希薄なのか、いずれにしろ、みずほFGが標榜するグローバル経営とその事業展開に対する能力など全く欠如していることだけは事実であろう。

   もう一つ興味深かったのは、役員の持株数が少な過ぎると言う株主の質問に対する塚本副社長の答弁である。
   はっきりとは言わなかったが、報酬が低すぎて株式購入に手が出ないと言うニュアンスの回答、そして、法令のインサイダー規制が強いので買い難い、従業員持株会で買っている、と答えていた。
   インサイダー規制については、手続きさえ間違えなければ問題ない筈と株主から言われていたが、私自身は、副社長の誠実な答弁を聞いていて、ここまで、日本社会が銀行を追い詰めてしまっているのかと思って暗い気持ちになってしまった。
   インサイダー規制などやりすぎだと思っているが、銀行のトップとしてやれない程神経を使って経営をしなければならないと言う現実、そして、良し悪しは別として欧米では欠損銀行のCEOでも、何十億円と言う年俸を得ているにも拘わらず、みずほFGでは、(株主に報酬を減らせと攻められて開示した年俸が)役員一人当たり2100万円と言う薄給で、日本経済の屋台骨を担うメガバンクのトップに何が出来るのかと言うことである。

   話は、全く飛んでしまうが、役人の腐敗も、政治の貧困もそうだが、今日本が直面している問題の多くは、我々国民の質の低下に起因しているような気がして仕方がない。
   みずほFGの例だけではないが、結局、国民同士がお互いに萎縮させてしまっており、もっともっと日本人が勇気を出して誇りを持って頑張れる環境を構築しないと、このまま、どんどん、世界の成長に取り残されて行くような気がして仕方がない。
   
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ジョン・P・コッター著「幸之助論」その2

2008年06月25日 | 経営・ビジネス
   コッターが、「幸之助論」で引き出した最大の教訓は「艱難汝を玉にす」に近い。「人は経験から学ぶ。それも、苦境を経験してこそ一皮むける。」と言うメッセージに凝縮される。と、監訳者の金井壽宏教授は言う。

   しかし、コッターは、最終章で、
   幸之助の基本思想は、生涯にわたって学び続けると言うことで、家柄や学歴、抜群の知性や優れた容姿や豊かな個性は素晴らしいことだが、もっとこれよりも重要なことは、信念とそれを支える理想である。
   謙虚で素直な心があれば、人はどんな経験からも、どんな年齢でも学べる。人道的な大きな理想を抱けば、成功も失敗も克服し、そのどちらからも学び、成長し続けることが出来る。
   彼の驚嘆すべき業績は、これらの主張の力強い証明にほかならない。と言っている。
   艱難辛苦が、幸之助を「20世紀で最も驚嘆すべき企業家」として育て上げた切っ掛けにはなったかも知れないが、幸之助にとって重要なことは、常人には往々にして欠けている彼独特の特質、すなわち、生涯にわたって成長を続けようとした信念と理想、そして、絶対に人生を後ろ向きに見ない理想主義的・人道主義的な激しい生きる情熱であったと思う。

   ところで、最近は、経営学教育の重要性が説かれる一方、MBAの功罪についても喧しく論じられているので、幸之助経営との関連で、学歴や経営学教育について考えてみたい。
   MBAについては、このブログでも触れたミンツバーグの「MBAが会社を滅ぼす MANAGERS NOT MBAs」で、経営実務を重視したマネジメント教育について論じられおり、また、折に触れてMBA論を展開してきているので、ここでは、直接の言及は避けたい。

   面白い話だが、コッターが「幸之助論」のなかで、幸之助が、東大を閉鎖すると、資産1兆円を売却して年間10%の利子を得れば1000億円の収入となり、年間運営費の500億円を加えて、日本政府は、1500億円の節約が出来る、と高等教育改革案で論じていると紹介している。
   何故引用したのか意図が分らないが、コッターは、ハーバードやプリンストンやエールを閉鎖した時にどれだけ節約できるかを計算する以上に乱暴な考えであると指摘している。
   幸之助の名誉の為に、あくまで日本の高等教育に対して活を入れるためのコメントとして受け止めるが、学問や教育、知や真善美に対して人類が営々として築き上げて来た崇高なる遺産を守り抜き発信して来た東大の配電盤(司馬遼太郎の言葉)としての使命は、銭金では計り知れない無限・無窮の価値を持っていることを努々忘れてはならない。

   幸之助の学問に対する考えの一端だと思うと興味深いが、この見解を考えるのに、「暴走する資本主義」の中で、ライシュが論じている企業のCEOの革命的な変質論が非常に参考になる。
   現在のように革命的な変貌を遂げてしまった超資本主義下でのCEOは、何よりも、投資家を満足させなければならない。激烈な変化に抗して競争に打ち勝って企業価値を高める為に、過酷かつ熾烈な試練に曝されており(従ってこれが極めて高額で法外な報酬に繋がっているのだが)、経営以外にわき目を振っている贅沢など全くない。
   しかし、超資本主義以前の大量生産時代の産業社会においては、今日と比べると変化や技術革新が極めて緩慢であり、自学自習で仕事から学ぶ幸之助のような後追いのキャッチアップ経営を行う余裕があった。
   ところが時代が変わってしまって、超資本主義の時代においては、中村会長の言うように、まねした電器ではダメで、先頭を走るイノベーターでありナンバーワンでなければこのデジタル時代でを乗り切って行けなくなってしまった。

   今日のCEOは、艱難汝を玉にすと言ったぶっつけ本番で成長して行く時間的余裕など全くなく、臨戦態勢に入った段階で、既にプロとしての経営者としての高度な経営知識と理論武装を伴っていることが必須となってきてしまったのである。
   その場合に考えられるのは、やはり、MBA等の経営者ないしマネジメント教育だが、経営におけるエクセレント・パーフォーマンスやベスト・プラクティス等の体系化やエッセンスの集積だとするならば、この教育訓練を受けることは、いわば、高度かつ凝縮された代理経験の体現化であり、最も手っ取り早く短時間で効率的に、経営学なり経営手法を身に付ける為の手段と考えられないであろうか。
   知識と情報が爆発している今日、企業経営においてこそ、従前には考えられなかったような高度な経営知識が必須となってきており、大学院や最近脚光を浴びている個別企業などにおける高度なプロとしてのマネジメント教育を益々充実させて行くことが大切となってきている。
   時代が変わってしまったのである。
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地元の書店の閉店・・・ロバート・B・ライシュの場合

2008年06月24日 | 政治・経済・社会
   私の住んでいる郊外の住宅街にあった大型チェーン書店の支店が、最近閉店した。
   かなり大きな駐車場のある郊外店の一つで、周りには、自動車の販売店やファミリー・レストラン、それに、ツタヤなどのある幹線道路沿いの書店だが、確かに、休日は家族客などが入っていたが、繁盛していると言うような店ではなかった。
   先日、旭屋書店の銀座店の閉店について触れたが、暇を見ては、散歩の合間に出かけるなど重宝していたので、少し残念に思っている。

   日本人の書籍離れが騒がれてから既に久しいが、全国的には、地方の個人書店は勿論、大型の全国的チェーン店でもどんどん潰れていて、書店数が減っていると言う。
   TVやインターネット、それに、携帯電話など、書籍に代替するメディアが、手を変え品を変えて魅力的な情報ツールを提供してくれるので、わざわざ、重い本を抱えて活字を目で追うと言う苦労までして、本を読む必要がなくなったと言うことなのであろうか。
   私のように、本の好きな人間にとっては、何となく寂しい気がしている。

   ところで、今読んでいるロバート・B・ライシュの「暴走する資本主義 Supercapitalism」の中で、ライシュが、自分の家から程近いハーバード・スクェアの個人書店の閉店について面白いことを書いている。
   この本では、
   ”民主主義に連動していた筈の資本主義が、最近、暴走し始めて、超資本主義(Supercapitalism)に取って代わられてしまった。
   消費者と投資者としての我々は、より多くの選択肢から良い条件を得られると言う幸運に恵まれ飛躍的に成長して来たが、公共の利益を追求し、富の分配を調整したり、市民達の共通の価値観を守って行く制度は崩壊の危機に瀕している。
   例えば、消費者が、ウォルマートでの安い買い物に執着すればするほど、それを実現する為に、経営者は、労働者の所得や福利厚生を徹底的に削減して益々市民生活を悪化させ、投資家が、投資のリターンをアップする為に企業のCEOをプッシュすればするほど、環境保全や公共の福祉を悪化させることになる。
   消費者と投資家としての個人的な経済的利益を追求すれば追及するほど、自分達の生活を悪化させ窮地に追い込んで行くと言う、このジレンマが、超資本主義に陥った我々の悲劇である。”と言ったことを書いている。

   ところで、ライシュ先生は、慣れ親しんだ地元の雰囲気の良い商店街の書店をこよなく愛していたが、さて、自分の書棚を見ると、殆どの本は、この書店に行って買ったのではなく、アマゾンやバーンズ&ノーブル、空港のボーダーズで買ったものばかりで、何時の間にか店が潰れているのに気付いたと言うのである。
   地元の商店街の賑わいが懐かしいだとか、暖かい雰囲気の歴史と伝統のある文化の香りのする商店街を大切に維持しなければならないと、人々は口々に言うのだが、そんな人に限って、郊外の大型店のあるショッピングセンターやディスカウントショップに出かけたり、インターネットで最も安い店を探してネットショッピングするなどして商品を買い、肝心の地元の商店街など眼中になく行かないと言う。
   主張と行動が全く違う、この市民としての自分と消費者・投資者としての自分と言う自分自身の乖離が問題なのである。
   
   ビジネス革命と言えば聞こえが良いが、安いものを買いたい、利回りの高い投資をしたいと言った自分達の経済的なエゴが、どんどん、経済合理性を企業に突きつけて締め上げを促進して、結局は逆に、自分達の生活を窮地に追い詰めて行くこの超資本主義において、
   内なる市民が、内なる消費者・投資家に打ち勝つ唯一の道は、購入や投資を個人的な選択ではなく、社会的な選択にする法律や規制を作ることだとライシュは説く。
   オバマが大統領になれば、ブレーンの一人だと目されているこのライシュ先生が、クリントン大統領の時のように、もう一度、アメリカの民主的資本主義への軌道修正へ貢献できる機会が巡ってくることになる。

   地元の個人書店が消えて行くのも、大きな資本主義のうねりに翻弄されてのことだが、ライシュのスーパーキャピタリズムについては、項を改めて、じっくり考えてみたいと思っている。
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インカ文明を垣間見た思い出

2008年06月23日 | 海外生活と旅
   ブラジル移民100周年記念行事が、ブラジルで行われているが、私がサンパウロに居た時には、70周年記念で、現在の両陛下が皇太子御夫妻の時に来伯されてガイゼル大統領と共に式典に参加された。
   私は、大競技場で行われた記念式典と州宮殿での晩餐会に参加して、つぶさに、両陛下と感激する日系ブラジル人との感動的な出会いを感激しながら見ていた。
   私のように日本企業の駐在員として参加する人間と、移民された日系ブラジル人との思いには、格段の思い入れと気持ちの格差があったと思ったが、あの時は、正直な所、一緒になって、心から日本人であることを実感して感動した。

   話はブラジルとは違うが、先日、雑用をしながら見ていたので、何の番組か忘れてしまったが、NHKで、南米のインディオの一家の生活を追いながら、氷河を頂くアンデスの聖山でのお祭と聖なる宗教儀式を放映していた。
   私が、南米の各地を仕事で歩いていたのは、丁度30年も前のことだが、多少現代化した程度で、殆ど、当時のインディオたちの生活の雰囲気が変わらずに残っていたので、急に懐かしくなって当時のことを思いだした。
   この写真のように、雪を頂いたアンデスの山の中を、インディオが、アルパカやリャマ、ビクーニアを追っていた。
 
   南米が担当であったので各地を歩いたが、原住民のインディオの人々の生活に直接身近に接したのは、やはり、ボリビアのラパスやチチカカ湖など田舎に出た時で、家畜の放牧や野良仕事、時には、村祭等を見ることが出来た。
   ラパスなど富士の頂上と同じ高度で、ボリビアは高地なので結構寒く、インディオたちは伝統的な袴姿で厚着をしているのだが、太陽の光が強いので、みんな真っ黒に日焼けした顔をしている。
   我々日本人と同じモンゴロイド人種で、アリューシャン列島を渡って南米まで渡って来た人々なので、顔かたちは良く似ているのだが、どちらかと言えば顔の道具が立派なので、中々美男美女で、良い顔をしている。
   遠く雪を頂き氷河に覆われた急峻なアンデスの山並みを、或いは、芦の生えた静かなチチカカ湖をバックに佇む姿など立派な絵になる。

   ボリビアは、富や権力を握る白人たちは豪華な住居に住み豊かな生活をしていたが、ラパスに住む貧しくて家のないインディオたちは、毛布一枚で、大聖堂の軒下の石畳の上で寝ていて、夜が明けると働きに出かけるようであった。
   財産は、風呂敷包み一つなので、大事そうに背中に襷がけにして持って歩く。
   現在、インディオ出身の大統領のようだが、人口の大半がインディオだから当然であろう。

   夜には、インディオ楽団の音楽を聞きに出かけた。今、日本のあっちこっちの街角で演奏しているインディオたちの演奏姿と良く似ているが、
   むんむん人いきれのするナイトクラブなどでの演奏は、実に哀調を帯びてもの悲しく、特に、あのケーナのすすり泣くような響きを、米搗きバッタのように激しく首を振りながら必死になって演奏するインディオ奏者の姿を見て聞いていると涙が零れて来た。
   マチュピチュの遺跡で聞いたエル・コンドル・パッサのケーナの響きと共に、いまだに耳について離れない。
   ブエノスアイレスのボカで聞いたタンゴのバンドネオンの哀調を漂わせた音色、アスンションのクラブで聞いたハープの何とも言えない郷愁を誘う音色など、何故か、南米で私が聞いた音楽の思い出は、寂しく悲しいものばかりのようである。
   尤も、ブラジルでは、陽気なサンバやボサノバが多かった筈なのだが。

   ところで、NHKで放映していた宗教儀式は、街の教会にあるキリスト像を氷河の頂上まで運び上げて、日の出に輝くキリスト像を祈って荘厳するということで、インディオたちは完全にキリスト教徒になっているのである。
   南米各地には、立派なキリスト教会があり、インディオ信者が熱心に祈っている姿を良く見たが、どこの大聖堂だか忘れてしまったが、最後の晩餐の宗教画のキリストの前に置かれている皿の上の食べ物が、モルモットだったのを覚えているが、やはり、スペイン人宣教師達のインディオたちへのキリスト教への改宗努力と熱意は大変だったことが分り興味深かった。

   ところで、ボリビアには、インディオ文化を残すティワナコ遺跡があり、綺麗な彫刻のある石柱が残っていたような気がするが、やはり、インカ文明の遺跡は、マチュピチュやクスコ、リマの博物館などペルーで見たと行った方が正解かもしれない。
   クスコには、かみそりの刃一枚も隙間に入らないくらい精巧に積まれたインカの石垣の上に、立派なスペイン風の建物が建っていると言った文化の融合風景も見られるが、先ほどのインディオたちのキリスト教も、インカの伝統文化を同化しているのかも知れない。
   学生の頃から、インカ文明のことは関心を持って勉強を続けており、今、網野徹哉先生の「インカとスペイン」を読み始めている。随分新しい発見などがあって興味深い。
   
   
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六月大歌舞伎・・・高麗屋と福助の「生きている小平次」

2008年06月22日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   鬱蒼と茂った林間、人里離れた奥州郡山の安積沼に浮かぶ一艘の船の上で、二人の男が釣り糸を垂れている。
   一人は一座の太鼓打ちの那古の太九郎(幸四郎)、もう一人は、役者の木幡小平次(染五郎)。
   実に陰鬱な雰囲気で、小平次が、太九郎に、沈痛な面持ちで頼み込んだのが、自分と不義を働いている太九郎の女房おちか(福助)を譲って欲しいと言う頼みごと。
   諍いの後、怒った太九郎が、小平次を、船板で打ちつけ、船から突き落とし、血まみれになって這い上がってくるのを打ち据え続ける。
   普通の歌舞伎の舞台と違って、実に、写実的でリアルな、裏磐梯あたりの湖を模したような薄暗い雰囲気での舞台であるから、不気味さが増す。

   10日後、死んだ筈の小平次が、怪我を負ったままの姿で、太九郎より早く太九郎の家に現れて、太九郎を殺したので、おちかに一緒に江戸へ逃げてくれと頼む。
   ところが、そこへ、太九郎が帰って来て、三人で諍う内に、夫婦で、小平次を刺し殺す。ところが、いつの間にか、死骸は消えてしまう。
   その後、恐ろしくなった夫婦は江戸を指して逃げるが、何時までも、小平次らしき人物が、後を追い続けて来る。

   喩えは悪いが、あのディズニーの「ファンタジア」の魔法使いの弟子が、水汲みの箒を叩き潰せば潰すほどどんどん増え続けるのと同じで、振り払っても振り払っても、小平次の亡霊が追いかけて来る、そんな恐ろしい話が、この舞台のテーマである。
   ところが、この話は、虚実皮膜と言うべきか、どこまでが本当で、どこからが幻想なのか分らないくらい真に迫っていて、剛直な感じだった筈の太九郎が、小平次の出没に精神の平成を失って、底知れない恐怖にどんどん追い込まれて行く心理状態の綾を、流石に幸四郎で、実に巧に演じていて、恐怖感がひしひしと伝わってくる。

   優男風の染五郎が、ねっとりとおちかを譲ってくれと頼み込むシーンから、幽霊になってまで何度も何度も付き纏う小平次の執念深さとその陰湿さを、幸四郎には演じ切れないような粘着質な芸を見せていて、これも、実に素晴らしい。

   一方、女房のおちかの方だが、不倫の恋の間柄としては小平次には淡白で、一旦、太九郎が死んだと思って小平次と江戸へ逃げようとするが、夫と一緒になって小平次を刺し殺す。
   太九郎が、茶店で小平次らしき姿を見て生きていると思うと言うと、おちかは、小平次が生きておれば罪が軽くなるし、怖いのであれば何度でも殺してやればよいと言う。
   したたかな女と言うか、よく分らないキャラクターだが、このあたりの福助の芸域は随分広くて、先月の「お岩」も上手かったが、「ふるあめりかに袖をぬらさじ」のメアリや、「伊勢音頭恋寝刃」の万野などの舞台で見せた特異な性格俳優的な芸と同じ様に、緩急自在に演じ分ける器用さは抜群である。

   たった登場人物三人の、極めて心理描写に特化した歌舞伎の舞台であり、恐怖に慄きながら逃げて行く夫婦の後をジッと見送る小平次の姿で幕が下りるのだが、舞台セットの雰囲気が実に物語とマッチして良く、複雑な余韻を残した面白い歌舞伎だった。
   
   ところで、この歌舞伎の物語の幽霊など特にそうだが、日本の幽霊は、どこか陰湿でどこまでも付き纏う感じで、人々に不気味な恐怖感を与えるが、
   あんなに陰湿で暗いシェイクスピアの悲劇を生む国でありながら、イギリスの幽霊は、人に愛されているのが不思議である。
   イギリスでは、古い家が好まれて、古くなればなるほど高くなるのであるが、幽霊が出ると言う噂などがある家だと、人気が出て、特別にプレミアム価格が付加されて、更に高くなる。
   現に、不動産物件にその旨明記されていて、優良物件扱いとなっている。

   ニッサンの英国工場のあるニューキャッスルを旅した時に、古くて由緒のあるホテルに泊まったのだが、薄暗い廊下の片隅に、このホテルで時々出ると言う美しい女の幽霊の絵を描いた額が飾ってあったが、国が変われば品も変わるものだと思った記憶がある。

   

   
   
   
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「最強の読書術」などあるのであろうか

2008年06月21日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   週刊東洋経済が、「最強の読書術」と言うタイトルで、多方面の達人達のウラ技を開陳するなど面白い特集を組んでいる。
   読書を趣味としている私としては、多少興味があったので、書店で立ち読みをしたのだが、こんな場合には、極端な読書人のケースが論じられているので、一般には、殆ど参考にならない。

   人生黄昏に差し掛かった私には、今更、これが最強の読書術だと言われても、真似る訳には行かず困るのだが、どうも、読書家の関心は、速読術や利便性を考えた手っ取り早く便利な読書術にあるようである。
   速読ではなく、じっくりと読むべきだと言う人が一人居られたが、人生を重ねて行くと、どうしても若い時のように手当たり次第に本を漁ると言うよりは、気に入ったマトモナ本にじっくり挑戦しようと言う気持ちが強くなり、それと同時に何故か歳を取っての読書の方が理解力が増し楽しめるような気がしている。
   私の場合には、ヨーロッパへ赴任した40代に入ってから読書量が増えた感じだが、これは意識してそうしたからで、やはり、読書の楽しみは人生と同じで、経験と知識の蓄積に応じて深まってくると言うことではなかろうか。

   情報や実務的な知識を得る為には、速読などして出来るだけ沢山の本を早く読むことが必要かも知れないが、智恵や人生を噛み締めながら知的な楽しみを得る為には、如何に、良質な本に遭遇できるかと言うことが総てのような気がする。
   読書に関する限り、下手な鉄砲数打ちゃ当たる、と言うケースは殆どなく、やはり、人生における経験と感性が重要で、それなりの修練が必要だと思っている。
   それに、本を読むことが仕事ならいざ知らず、知と情報が爆発し溢れている今日、月間200冊読むと豪語する速読の大家でもタカが知れているのであって、むしろ、本を如何に選別して、良書に出会うか、その良書選別眼を養う腕を磨く方が、最強の読書術である筈である。
   
   これは、私の自論だが、読書を楽しむ為には、或いは、良書を咀嚼し理解して血肉とする為には、出来るだけ人生や経験を豊かにして裾野を広げるように心掛けることだと思っている。
   富士が高く聳えているのは、裾野が広いからであるが、この喩えである。

   このことに最初に気付いたのは、アメリカのビジネス・スクールに行った頃で、それまで、大学や実務で学んだつもりで居た経済学や経営学が、アメリカで生活を始めて、実際の現場に触れることによって一挙に理解が深まった感じがしたのである。
   事実、あの頃の経済学や経営学の多くは、アメリカの実際の世界を知っているかどうかによって理解力が全く違ってくるし、当時の翻訳本でも、翻訳者が欧米の経済社会制度を知らなくて誤訳していたケースが結構多かったのである。

   このことは、経済学や経営学だけに限ったことではなく、美術書や芸術、音楽、文学等々多くの分野の読書においても言えることで、私の場合には、欧米は勿論、世界のあっちこっちを歩くことが多かったので、実際に接する異国の自然や生活空間と読書や観劇などが直結呼応して、お互いに増幅しながら楽しめたと言うことで、いやが上にも理解が深まったと思っている。

   尤も、外国とは関係なく、例えば、私が文楽関係の本を読んで楽しめるのは、文楽劇場に良く通っているからと言うだけではなく、私自身がもともと関西人であり、義太夫の大半が大阪弁で語られていることと無縁である筈がないと思っている。
   良書と言うものは、歳を経る毎に、新しい発見があって楽しめると言うが、読み手のバックにある経験や知識の深さに応じて、隠れていた値打ちが滲み出して来て心の対話をしてくれるのである。

   暇があると、本屋を覗く生活を続けているが、素晴らしい知や美に接し、新しい発見があると無性に嬉しくなる。
   時間的な制約があって、読める筈がないと分っていても、いそいそと本を買い続けていて、床が抜けると家内に小言を言われ続けているが、止められない。
   
   
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四川地震被災者パンダは北京で資金集めに

2008年06月20日 | 地球温暖化・環境問題
   四川大地震の最も有名な避難者はパンダで、8匹のパンダが、地震で閉鎖されたウーロン自然保護センターから北京動物園に送られて、連日、満員のお客の人気を集めていると、ロサンゼルス・タイムズが報じている。
   四川地区には全体の80%に当たる1400匹のパンダが生息しているようで、保護センターの32のパンダ舎のうち14が倒壊し、1匹パンダが死んだが、他は恐怖に慄いて皆逃げてしまって、木の上に上ったパンダは呼んでも降りてこないのだと言う。
   パンダの餌である竹林が地震で崩壊し、アクセスロードが使えなくなってしまったので、一年以上保護センターは使用できないらしい。

   この2歳の8匹のパンダは、大変な人気で、ガラス越しに観光客は”可愛い”を連発。
北京オリンピック用広告塔として呼ぶことは決めていたのだが、地震対策費用の資金集めの為に、繰り上げて早く呼び寄せられたとかで、まさしく客寄せパンダ。
動物園のあっちこっちに集金箱が置かれて、更に、アメリカの911を意識した四川大地震の512を打ち込んだパンダグッズまで売り出している。
   とにかく、いずれにしろ、大変な人気で、朝早く来ても見られれないのだと言うのである。

   ところが、世話の為にウーロン・センターから北京に来た4人の飼育係たちは、地震を経験したパンダの精神状態や、新しい生活環境に慣れるまでは病気が心配で、隔離しなければならないのにとやきもきしていると言うのである。
   繊細なパンダであるから、トラウマが心配されているのだ。

   今回の岩手・宮城の地震においてもそうだが、被害にあった人々は、大変な苦渋を舐めて苦しんで居られるのだが、直接被害のない外野は至って無関心と言うか冷たく非情で、まして、相手が物言わぬ動物でパンダとなると、一切お構いなしに、楽しみに集まってくると言う、情けない話になってしまう。

   私は、上野でも何度かパンダを見ており、ずっと以前だが、ワシントンやロンドンの動物園でもパンダを見ているので、比較的御馴染みだと言えそうだが、この地球上に2000頭もいないとすると極めて重要な貴重動物。神様が何億年もかけてお創りになった貴重な超傑作なのである。

   また、環境問題、地球温暖化問題の深刻さを思い出して、苦しくなってきた。
   ところで、逃げて野性に戻ったパンダもそうだが、四川の多くのパンダたちも、竹薮や竹林がなくなった四川の山の中で、何を食べて、どんな生活をしているのであろうか。
   今回の大地震も、決して地球温暖化が無関係だと言い切れない筈で、一刻も早く、手を打たなければ、大切な動植物の多くを、どんどん絶滅の淵まで追い込んでしまうことになる。
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ジョン・P・コッター著「幸之助論」その1

2008年06月19日 | 経営・ビジネス
   リーダーシップ論の権威ジョン・P・コッター教授の「幸之助論」を読んだが、ハーバード大総長に呼び出されて、冠講座のマツシタ・コウノスケ教授の拝命を受けた時に、
   松下幸之助が何ものかを知らなかったので、痛く失望したのだが、資料を読み進めるうちにぐいぐい引き込まれて行き、不世出の偉大な大経営者であることを知って驚嘆して本書を著したと言う。まともな経営学の専門書だが非常に面白い。

   まず、今回は、先日コメントした松下電器の「まねした電器」戦術について、コッターが、松下幸之助の経営哲学においてどのような位置づけをしているのか、興味を持った。
   実際には、コッターは、一般に言われているような形でまねした電器説には直接言及していないが、技術開発によって新製品の開発を行うことは松下幸之助の念頭にはなかったことを明確に記述している。

   このイノベーション戦略について、コッターは、ソニーと対比しながら面白いコメントをしている。
   ”東京のソニーは、都会的でインテリっぽく洗練された会社で、大阪の松下は、どこか野暮ったい。
   ソニーは、全く新しいコンセプトの機器や新たな製品分野を開拓してきたハイテク企業だが、
   松下は、既存の製品を改良して、大衆消費できるような低価格で売り出してきた。
   松下に批判的なアメリカ人は、ソニーを「最先端」と呼び、松下電器を「猿まねコピー・キャット」と呼ぶ。
   会社の成り立ちと中心人物の違いが、企業のビジョンと文化の違いとなって表れる。幸之助は、高等教育など受けることのできない貧困のなかで育ち、火鉢店の丁稚として仕事を始めた。一方、盛田と井深は、裕福な環境で育ち、大学で科学の教育を受け、第二次世界大戦中は技術開発に没頭した。”
   しかし、三人とも正真正銘の傑出したリーダーだが、60代、70代、80代になっても成長し続け、新しい仕事に手を出し続けたのは幸之助だけだと、幸之助を持ち上げている。

   私自身は、確かに、生い立ちから言っても、或いは、人間性やステイクホールダーに対する気配りや責任感においても、幸之助が新規で未知数なものに対して積極的に手を出せなかったことは分かるが、幸之助には、電気製品を湯水のように使って生活を楽にするために、安くて良いものを大量に世の中に提供したいと言う「水道哲学」が経営の根幹にあったことを忘れてはならないと思う。
   コッターは、これも立派なイノベーションであると言っており、確かに、シュンペーターの説く新しい生産方法と言うジャンルのイノベーションであり、強烈な差別化戦略である。
   この日本的なものづくりへのアプローチが、クリステンセンの持続的イノベーションであり、この一種であるローエンド・イノベーションを追求することによって、トヨタも日本の家電メーカーも欧米企業を凌駕して来たのである。

   更に、コッターは、競争相手と一線を画した松下の事業戦略と営業手法としての
   ”強い顧客志向、生産性とコスト削減に対する執着、リスクに挑戦して他社が発明した製品を改良しようとする意思、画期的なマーケティング、迅速な製品開発、アフターサービス、絶えざる改革への意欲、従業員に対する信頼、専売の販売流通制度、事業対象の限定など、総ての要因が”
   企業の規模の拡大と収益の面での成長を促進させたと説く。
   この基本的な技術革新は他社に任せて、生産と販売の分野で大胆な戦略を展開することによって、いくつかの製品分野を支配できることに世界のどの企業が気付くよりも先に模範を示し、トム・ピーターやロバート・ウォータマンが「エクセレント・カンパニー」で書いた営業方法を、幸之助は優に60年以上も前に発見して使っていた、と絶賛するのである。

   この発想は、「そんな事業なら、やめてしまえ!」のセルジオ・ジンマンの、「イノベートする前に、リノベートせよ」と言うリノベーション論、すなわち、新製品や新サービスの創造だけが能ではなく、既存のものを活用してより良いものにグレードアップして付加価値をつけろと言う戦略とも相通じるところがある。

   コッターは、この戦略は、1929年以降の大不況の時には、特に有効であったと言っているが、松下の中村会長が言うようにデジタル時代以前には有効であった。
   知識情報化産業社会、知価社会、そして、デジタルとインターネットの時代に入ってからは、創造的なイノベーション、特に、製品やサービスにおいては、全く革新的なイノベーションによってブルー・オーシャン市場を目指さない限り、競争に勝てなくなってしまった。
   製品開発もイノベーションの手法も全く変わってしまった。恐らく、幸之助だったら、このようなビジネス戦略を打ったであろうと言うのが中村改革だが、さて、あの世の幸之助翁は、どう思っているであろうか。
   
(追記)写真は、松下記念館の資料よりコピー。
   
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何故バークレイにはプリウスが多いのか?・・・エコノミスト・コム

2008年06月17日 | 地球温暖化・環境問題
   猛烈なグリーン旋風。地球環境に責任を持った新製品と銘打った商品が新発売されない日はないくらいで、今日も、水を使用しないカー・ウォッシュ、省エネパソコン・モニター、バクテリア殺菌食器棚等々、本来、グリーン・コンシューマリズムと言う言葉自体が二律背反だが、そんなことは忘れよう。
   このような商品が、効能書きのような効果と便益があるのかどうかはとも角、一体誰が、エコ商品を買うのであろうか。金持ちか、理想主義者か、ケチ人間か、或いは、罪の意識を持った人間か。
   そんな書き出しで始まる記事を、ロンドンのエコノミスト誌の電子版で見た。(この口絵写真も、記事中のプリウス)

   UCLAの経済学者マシュー・カーン氏とライン・ヴォーン氏が、カリフォルニアのグリーン・コンシューマリズムのパターン研究を実施し、バークレイ地区が、最もプリウス、オーガニック食品、太陽電池多くて、ハンマー車などはないと言うことに気付いたと言う。
   二人は、グリーン建築、ハイブリッド車などエコ商品の所在を地図上にプロットして、年齢、所得、人種、それに、その地区の政治傾向など克明に調査し、グリーン・コンシューマリズムの地理的分布図を作成し、349地区を、グリーン度順にランク付けを行った。
   しかし、同じ裕福な白人の居住区である、マリブでは、プリウスが多かったが、ビバリーヒルズでは、少なかったのだが、それだけで、マリブの方がグリーン度が高いとは推論できなかったと言うように、何故、特定の地区にプリウスが多いのか、グリーン度が高くなったのかを、はっきりと学問的に特定出来なかったようである。
   
   それでは、何が、その地区のグリーン度を高めているのかについて、カーン博士は、最初の切っ掛けは、非常に些細な、例えば、海岸に近いとか、或いは、公共交通機関の利便性だとかが最初のシーズとなってグリーン・コミュニティへの引き金を引いていると推論している。
   このシーズが、豆腐レストランやバイク店などのグリーン・ビジネスを惹きつけ、次々とグリーン環境を拡大して行く。
   このグリーン環境が、環境維持派の議員を選出し、環境維持の法制度や社会体制を作り上げて、更に、その地区を、益々、環境維持者に対して魅力的にして行き、グリーン化が進んで行くのだと言うのである。
   
   グリーン派は、まだ、アメリカでは少数派だが、ある特定の地域に集中する傾向があるので、プリウス効果を軽視してはならない。
   一人の住人がプリウスを買えば、触発されて隣人もプリウスを買う可能性が高いと言うのである。
   類は友を呼ぶと言う関係が、グリーン派には顕著なのかも知れない。

   しかし、エコカーや省エネ電球、省エネ住宅などが、将来の環境問題を重視する人々に対してアピールしている割には、一般の人々が、実際に、省エネ電球に切り替えたり、TVのスタンドバイ電源を切るとかと言った行動を取っているケースは少ないと言うのである。
   
   この調査は、エコビジネスを推進して行く上に、非常に示唆に富んでいて、エコビジネス関連の商品やサービスを提供している企業にとっては、特に、マーケットセグメンテーションに対する戦略構築には非常に役に立とう。
   例えば、グリーン・コンシューマリズムが強烈な地域において、集中的に事業を展開して橋頭堡を築くことによってブランドを確立し、その後にグローバル市場へと打って出ると言う手法なども一考の価値はあろう。

   カリフォルニア州の地球環境保護のための運動や経済社会の取り組みは、アメリカでも突出していると言われているが、ある特定の地域に特化したエネルギーの凝縮したグリーン思想の他地域への影響力や伝播は強烈な筈で、アメリカ世論をリードする起爆力となり得る可能性が非常に高いと考えられる。
   アメリカの場合には、ブッシュ政権が環境問題に対しては、極めてネガティブな方針を取っていたので、むしろ、地方や個人、或いは、企業などの目覚めたパーティの行動の方が進んでいるのが現状である。

   さて、日本政府も洞爺湖サミットに向かって低炭素社会への行動を始動し始めたが、保守反動とも言うべき経済界に足を引っ張られての福田総理の桧舞台なので、殆ど目ぼしい成果が上げられずに、お題目だけで終わるような気がして仕方がない。
   結局、先のUCLAの報告のように、個人的な草の根運動的な盛り上がりが重要であって、これに、不倶戴天の決意の強力な政府のリーダーシップが上手く呼応することが大切なのであろう。
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六月大歌舞伎・・・「新薄雪物語」

2008年06月16日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   昼の部は、最後に福助と染五郎による「俄獅子」があるけれど、実質は「新薄雪物語」の重厚な舞台で終始する。
   鎌倉将軍家の時代が舞台で、良く知っているのは名刀正宗の名前くらいで、その息子刀鍛冶団九郎(段四郎)が、大悪人秋月大膳(富十郎)の手下として、奉納された競争相手来国行(家橘)の刀に将軍調伏の為に鑢で鑢目を入れる。
   自分の押した正宗ではなく国行が推薦されたのに恨みを持ち、奉納者の園部兵衛(幸四郎)を、その娘・薄雪姫(芝雀)をもものに出来ないので、貶めるべく大膳が企んだ罠だが、その調伏の罪を、薄雪姫と恋人園部左衛門(錦之助)に擦り付ける。
   詮議に来た葛城民部(富十郎)の温情ある裁きにより、兵衛と伊賀守(吉右衛門)は、互いに交換して預かった若い子供たちの命を助ける為に逃がして、その責任を取るべく陰腹を切って、重体の身体をおして首桶を抱えて六波羅に向かう。

   250年以上も前に舞台にかけられた芝居なので、随所に現代感覚では理解に苦しむシーンがあって、見せ場の多い歌舞伎なのだが、やはり、芝居と言う感じで観てしまう。
   大体、子供の不始末、それも、清水寺への刀奉納の場で、恋心を語って結婚を約束したじゃらじゃらした二人の為に、重臣である筈の立派な武士が、代わりに腹を切ると言う設定自体が理解の域を超えている。
   夜這いの誘いの為に薄雪姫が書いた判じ物のような手紙、出刃包丁の絵の下に心と言う字を書いて、「忍」を表して偲んで来いと読ませると言う、この幼稚な手紙を左衛門が落として、大膳に拾われて訴えられるのが悲劇の発端である。
   私などは、どうしても、シェイクスピア戯曲のように、多少時空のずれがあっても理屈に合った欧米流の芝居に慣れているので、古典ものの歌舞伎を観る時には、特別な心の準備と意識の切り替えが必要となり、身構えて観ている。

   序幕の「新清水花見の場」だが、清水の舞台と本堂、それに舞台上手にあしらった音羽の滝など、爛漫に咲き誇る桜をバックに華やかで豪華絢爛たる美しい舞台が設定されていて、薄雪姫一行の綺麗どころが揃うのだから、最初は目を見張るように美しいのだが、第二幕、第三幕と舞台後半に進むに連れて、暗く陰惨になってくる。
   ところで、最初のところで、左衛門が登場するのに、腰元たちが当時珍しかった遠眼鏡見たり、秋月大膳の登場の派手さや、恋を取り持った左衛門の奴妻平(染五郎)と水奴たちとが非常に趣向を凝らした華麗な立ち回りを演じるなど、視覚的にも見せ場があって、結構楽しい舞台となっている。

   ところで、第二幕の「寺崎邸詮議の場」は、左衛門が、約束どおりに薄雪姫の父寺崎伊賀守の館に偲んでくるところから始まり、二人のつかの間の逢瀬が中断され、上使の民部、秋月大学(彦三郎)、園部兵衛が登場して、濡れ衣を着せられた二人の詮議が始まる。
   序幕はお伽話のような虚構の物語だが、このあたりからは、左衛門と薄雪姫が途轍もない重罪人としての嫌疑がかかって詮議されると言う設定となり、忠君愛国、封建武士道の精神が動き出し、夫々の登場人物の運命を締め上げて行く。
   
   錦之助の優男風の若殿の清々しさと芝雀の初々しくて一途な薄雪姫が、実に爽やかで素晴らしく、陰鬱で暗くて重厚な舞台に、一服の清涼剤のような雰囲気を醸し出していて中々良い。
   将軍調伏の鑢目を入れたかどうかを説明できる国行が、殺害されてて戸板で登場するが、民部は手裏剣による致命傷を見て大膳の仕業と悟って、二人に温情を示すが、どこの世も同じで、「悪い奴ほど良く眠る」で権力に居る大悪には手が付けられず、両方の親に子供の詮議を託す。結局、罪人として扱う以外に道は残されていない。

   威風堂々、威儀を正した富十郎の上使民部の威厳に呼応するかのように、兵衛と伊賀守も、幸四郎・吉右衛門兄弟の熱演であるから、ハイテンションで、正に火花が散るような舞台だが、フッと詰らない封建時代の運命の揺らめきによる事件に過ぎないのにと思うと、急に隙間風が吹いてきた。
   何故だか分からないが、当時の高級官僚は、これだけの威厳と高潔な使命感をもって命を全うしていたのだと感に堪えなくなってしまった。
   最近、幸四郎と吉右衛門との共演が多くなって来ているが、幸四郎の方は、理知的に頭で考えながらじっくりと噛み締めながら役作りをして芸を展開している感じであり、一方、吉右衛門は、十分に考え抜いた上で、自分のパーソナリティを前面に押し出して、非常に自然体で演じている感じがして、その対照の妙が面白い。

   この舞台で、感激したのは、兵衛の奥方梅の方を演じた芝翫で、風格のある演技のみならず、夫兵衛に命じられて、「夫の命令が聞けないのか。笑え。」と言われて、夫が陰腹で腹を切って切腹しているのに笑わなければならない「三人笑」の走りの演技が秀逸で、あれだけ僅かな瞬間に悲喜こもごもと言うか苦衷を滲ませながら真に迫った泣き笑いの表情を見せるのなどは神業だとしか思えないと思って見ていた。
   それに、伊賀守の奥方松ヶ枝を演じた魁春の風格のある堂々とした姿を仰ぎ見て、その芸の伸張の著しさを感じた。押しも押されもしない重厚な女方役者になりきったのである。
   この舞台だが、二人の仲を取り持つ恋人同士の腰元籬の福助と奴妻平の染五郎や、団九郎の段四郎、秋月大学の彦三郎等脇役にも人を得て、勿体ないほど豪華な舞台になっている。
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「ECO2の時代へ」・・・地球温暖化もエコノミーの問題

2008年06月15日 | 地球温暖化・環境問題
   庭の萩が咲き始めて、蝶が花から花へ蜜を求めて舞っている。
   もう少し咲くのが遅かったように思うのだが、最近では、地球温暖化の所為か、段々花の時期が早くなって来たような気がする。
   動植物の四季による生活リズムが変わってきたので、エコシステムが崩れ始めて、餌となる生き物達の発生や成長がちぐはぐになってしまって、餌が取れなくなって消えて行く動物達が多くなったと言う。
   また、先日、NHKクローズアップ現代で、人間の自然に逆らった農業によって、ミツバチが地球上から消えて行く蜂群崩壊症候群が発生し、蜂蜜の収穫減のみならず、果物などの受粉が出来なくなって大変な問題を引き起こしていると放映していた。

   UR都市機構の主催で都市再生フォーラム「EC2の時代へ」が開催され、基調講演「脱・温暖化の都市づくり」を行った東大山本良一教授の、地球温暖化に対する警告のトーンが益々激しさを加えて来た。
   特に、北極海の海氷が昨年度は異常に氷解してビックリしたが、今年は今現在で昨年の水準を突破してもっと酷くなる模様で、5年以内に消滅してしまうと言うのである。
   北極海が氷解すれば、太陽熱の反射が逆に吸収体となって温暖化を促進して、グリーンランドの氷床を融かして、更に、ツンドラを氷解してメタンガスを放出し、寒帯の森林を消滅させ・・・とにかく、現在ある地球温暖化地獄の一丁目からどんどん地獄へ突き進むだけだと言うのである。
   こうなれば、ロッキー山脈の東側では、必ずカタリーナ級の天変地異のような異常気象が発生し、アメリカに甚大な被害を与える。
   CLIMATE CHANGEを気候変動と訳しているが、これは間違いで、良くなったり悪くなったりする変動ではなく気候変化であり、後戻りは効かない、既に、チッピング・ポイントを超えてしまったと警告を発する。
   
   この日は、77万戸の住宅のオーナーであるUR機構主催のフォーラムだが、6%削減目標など時代遅れでCO2排出ゼロを目指せと、山本教授は、UR機構に噛み付く。
   太陽電池を屋上に設置して全戸オール電化マンションを建設して脚光を浴びている芝浦グループの新地哲也代表取締役が、自社開発のプロジェクトを説明していたが、余った電気を九州電力に売ることになるので、月の電気代が50円で、毎日の自分のアパートの部屋の発電量がいくらだったか主婦間での話題だと言っていた。

   エコイノベーション/エコビジネスを推奨する山本教授にとっては、住宅のグリーン化が緊急関心事で、住宅と家電を最新技術でエコデザインして建設すれば、60%CO2排出量を削減出来ると松下が報告しているとして、
   UR機構こそ、率先してサステイナブルなライフスタイルを目指してエコイノベーションに励むべきで、回りに木を植えた擬似的林間を作ってCO2削減だと言ってお茶を濁した住宅作りなどまやかしに過ぎないと言わんばかりの剣幕である。
   
   ところで、EC2は、ECONOMY と ECOLOGYを掛け合わせた単語だが、山本教授が主張するように、エコ対応の技術や製品は素晴らしいが、コストが高かったり実用化の目途が立たないなどエコノミーの段階に問題があり、この難問をブレイクスルーする為に、エコイノベーションの促進と加速が必須である。
   しかし、現段階では、例えば、グリーン住宅対応の最先端のエコ住宅に住もうと思っても、先日書いたように、小宮山東大総長のように、金に余裕のある人しか、省エネ等文化生活を享受出来ないのが現状である。
  
   すなわち、ここでも、今日本の深刻な問題でもある格差問題が顔を出す。
   金持ちでないと子供を東大に行かせられないと言った問題と同じ様に、金持ちでないとエコ住宅に住めないと言うことで、金持ちのエネルギー消費コストはどんどん下がって行くが、貧乏人は益々高騰するエネルギー価格の高騰に泣くと言う構図である。

   競争原理に徹した弱肉強食の市場原理に任せて、総て、自己責任と言うことで押し通すか、或いは、弱いもの貧しい者の味方となり公平な社会を目指して公権力が介入する福利厚生を重視した厚生経済学の立場に立つか、昔から政治経済学においても、政治の場でも、議論され続けている重要な論点だが、経済社会の発展と言う視点から考えると非常に難しい。
   経済成長が良いのかどうかと言うことは別な問題として、ヨーロッパでは、エコイノベーションを推進してエコビジネスの拡大によって雇用を創出して、経済成長を図ろうと言う方針に立っており、山本教授は、その考え方に立っている。

   とにかく、先述のエコ住宅は、地球温暖化対策に関しては良いことだから、その普及の為にどのような政策を打つかと言うことである。
   政府は、雀の涙のような補助金や促進費を出すのではなく、極端に言えば、社会全体が、その方向に行くように、強力なバックアップ体制を整備してインセンティブを生み出すことである。
   例えば、太陽電池を屋根に取り付けても、普通の住宅建設コストと変わらなくすると言う方策が立てられないかと言うような卑近なケースからでも、前へ進む筈である。

   しかし、私は、毎年同じことを唱え続けている山本教授の話を聞いていると、やっぱり、人類は地球温暖化地獄に、どんどん加速度をつけて突っ走っているような気がして仕方がない。
   ありとキリギリスの世界である。
   
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