熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

鎌倉日記・・・桜咲き乱れる(そのⅡ)

2015年03月31日 | 鎌倉・湘南日記
   大町を南に向かって歩き始めた。
   ぼたもち寺の常栄寺、八雲神社、
   大通りに出て、再びわき道に入って、妙法寺、安国論寺
   
   
   
   
   
   
   
   

   横須賀線の踏切を渡って、長勝寺。
   長勝寺は、やや、境内が広くて、桜が綺麗に咲いていた。
   鎌倉は、禅寺以外には、日蓮宗の寺院が多いようである。
   来迎寺、九品寺、バス通りを南下して、光明寺に向かった。
   京都や奈良の古社寺のように、建築物や仏像、そして、庭園などに、特に、特別なものがある訳でもないので、境内を覗き見て、綺麗な花が咲いているかどうかを見るだけなので、どこも素通りである。
   
   
   
   
   
   
   
   

   光明寺は、天照山蓮華院光明寺と称する浄土宗の大本山だと言う。
   境内のオープンスペースが広くて、桜が咲いていて、解放感がある所為か、近所の人たちの子供の遊び場や犬の散歩道として活用されていて、結構、観光客も多い。
   普通の寺院なら拝観料を取るのだが、この寺では、本堂に上がって庭園を見るなども自由であり、写真を禁止すると言う指示もないので、非常に大らかで良い。
   庭園は、小堀遠州作と言う蓮池を中心とした庭も手入れが行き届いていて綺麗だし、「三尊五祖来迎の庭」と称する枯山水庭園も京都の石庭風で面白く、鎌倉には珍らしい京都風の雰囲気が、私にはほっとして好ましい。
   
   
   
   
   
   
   さて、花だが、境内には、沢山のソメイヨシノが植わっているのだが、殆ど総てが太い老木で、上部をトリミングしているので、それ程大きくはなっていない。
   若木を見ると、背丈2メートルくらいの所で、主木を切ってしまって、上に伸びないように剪定していて、横に広げるべく育てているので、丁度、盆栽のように太い幹のまま成長して、風格のある古木になるのであろう。
   このようにすれば、ソメイヨシノ60年寿命説もクリアできるのであろうか。
   面白いと思っている。
   
   
   

   鎌倉山をバスが下る時に、霞のかかったようにあっちこっちに遠望出来た桜風景を見ようと思って、帰りに長谷寺へ寄ろうと思ったのだが、かなり、疲れたので、バスで鎌倉駅に引き返して、鎌倉山に向かった。
   ぼつぼつ、観光シーズンなのであろう、鎌倉駅とそれに続く小町通りの雑踏は大変なものであった。
   
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鎌倉日記・・・桜咲き乱れる(そのⅠ)

2015年03月30日 | 鎌倉・湘南日記
   上野や千鳥ヶ淵の桜が満開だと言うので、久しぶりに鎌倉駅に向かった。
   私の場合は、バスで行く時には、鎌倉山バスストップからスタートするのだが、このバス停から鎌倉山のバス通りを鎌倉に向かって何キロも、道路の両側に樹齢を重ねたソメイヨシノが植えられていて、今、咲き乱れている。
   この桜並木も、鎌倉を代表する桜の名所の一つである。

   問題は、鎌倉山を通り抜けて鎌倉に通ずる唯一の道路なので、アップダウン起伏の激しい曲がりくねった道路を、バスや車が結構走っているビジーロードであること。
   車さえ走っていなければ、素晴らしい道なのだが、現状では、林間の遊歩道を愉しみながら散策すると言う気分になれないことである。
   見晴らし台からは、江の島方向の景色も見下ろせるなど見所もあるのだが、悲しいかな、日本の都会地の山間の道路の多くは、全くムードなく、そんなものである。
   

   鎌倉で最もポピュラーな桜並木である鶴岡八幡宮の参道「段葛」が、再整備工事で、閉鎖されている。
   知らずに期待してきたので、残念ながら、しょっぱなから肩透かしを食らった。
   ひび割れが進んだ石積みの補強や、老化した桜の植え替えなどを実施すると言うことのようだが、現在約250本あるソメイヨシノなどの桜は大正時代に植えられたものが多く、立ち枯れした幹も目立つため、再整備では育成に適した180本程度に減らす。また桜とともに植えられているツツジは桜の育成を阻害するので撤去すると言うことで、完成後は、景観も大きく変わって、昔日の面影はなくなるのであろう。

   段葛の外れから海岸方向に向かう若宮大路も、桜並木として有名だが、この方は、まだ、7~8分咲きと言ったところで、少しさびしい感じである。
   
   
   

   鶴岡八幡宮に向かって歩いて、建長寺のある北鎌倉に抜けるつもりでいたが、段葛を歩けないので、諦めて南に下り、左折れして、本覚寺に方向を変えた。
   何年か前に歩いたことがある材木座にある光明寺まで行ってみようと思ったのである。
   お寺には興味がなくて、大体、古社寺には、綺麗な花木が植えられており、その花を見に行こうとしているので、特に計画的な散策マップは必要なく、立札や案内板を見ながら気ままに歩けば良いのである。

   この本覚寺には、本堂の前に、素晴らしい枝垂れ桜が満開に咲き乱れていて、春の陽を浴びて輝いていた。
   
   
   

   本覚寺を出て、東に歩いて、比企谷の妙本寺に向かった。
   日蓮宗最古の寺院と言うことで、参道を登って行くと、大きな二天門があって、広々とした境内の正面に祖師堂がある。
   二天門の左側に大きな桜の木があり、満開に咲いていて、コントラストが絵になっている。
   この門と祖師堂を結ぶ石畳の左右にカイドウの大木が何本か植わっていて、まだ、咲きかけたばかりで淡いピンクだが、満開になると、華やかであろう。
   この寺の祖師堂の正面に張り出した庇を支えている柱頭や張りの彫刻が実に素晴らしい。
   
   
   
   
   
   
   

   丁度、結婚式を挙げた新婚夫妻が記念写真を取っていた。
   境内には、写真を撮る人、絵を描く人たちが集まっていて、他の寺よりは、賑やかであった。
   祖師堂横の廊下で、アメリカ人であろうか、3人の若者が床に座って、ヨガ風の体操をしていて異様な感じがした。
   
   
   

   境内には、椿やツツジなどが咲いていて、雰囲気があった。
   鶯が鳴いていたが、先輩が良くなかったのか、ホーホケキョがツイストしていたのが、少し、残念であった。
   
   
   
   
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トマ・ピケティ著「新・資本論」

2015年03月29日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ピケティが、ヨーロッパの経済危機について、どう考えているのかを知りたくて、著書「新・資本論」を読んで見た。
   興味があったのは、最後の第4部 「経済成長はヨーロッパを救うのか」であったのだが、2012~2014.05のリベラシオン紙のコラム記事であり、直近ではないので、正確ではないかも知れないが、ほぼ、論点が分かったような気がしている。
   今回は、この論点だけについてレビューしたい。

   アメリカでは成長が復活し、日本にもその兆しが見えてきたにも拘らず、ひとりヨーロッパだけが、景気低迷と信頼欠如の悪循環に閉じ込められたままになっている。
   ヨーロッパの社会モデルは世界で最も優れており、ヨーロッパ人の保有する資産の総額は、世界で最も多い。
   しからば何故ヨーロッパが、社会・経済・金融面での優位を保ちながら、危機を克服できないのであろうか。

   答えは、枝葉末節で何時までも対立し、政治では小人、税制ではザルであることに満足し、互いに張り合う小さな国(遠くない将来、フランスもドイツも、世界基準で小国になるのは確実)の集まりであり、様々な地域機関は現状に適応できておらず、機能不全に陥っている。こと。
   17の国が金利の異なる国債を発行し、異なる税制を持つ国が互いに隣国の税収の横取りを狙っている状態では、単一通貨は機能しない。それが嫌なら、共同債の発行や共通税を実現するために、ヨーロッパの政治構造を根本的に変えなければならない。と言うのである。

   ドイツは、貿易収支の好調によって巨額の外貨準備を持ちながら、内需を極端に抑えた抑制政策を取るなど、他のEU諸国との経済格差は巨大となり不均衡の拡大を惹起しており、
   EUの17国の夫々が金利の違う国債を発行して、それに対して市場が自由に投機を仕掛け、しかもどの国にも自国通貨を切り下げて対抗すると言う荒技を使えない状態では、どこかの経済状態の悪い国が債務危機を引き起こして、通貨同盟が機能しなくなるのは当然であり、ユーロそのものの消滅をも惹起しかねない。

   解決策の要諦は、一国で出来ないことは共同でやること。
   ユーロ圏の公的債務の共同管理が急務で、このために、
   各国の国債が絶えず市場の力に晒されて利回りがのべつ乱高下をするのを防ぐこと、そして、
   多くの多国籍企業が税逃れをしている法人税について、ヨーロッパ全体で対応するべく、連邦制の下で管理し、監督することが望まれるとして、ユーロ圏の財政問題を扱う「欧州上院」の創設を提案している。
   債務危機への唯一の備えとなり得る公的債務の相互化が必要で、共同債を導入して、どの国も安定的な低い金利にアクセスできるようにすべきで、また、通貨同盟を政治・財政同盟へ格上げするための具体案の作成が必須だと言う。

   フランスとドイツが、通貨同盟を政治・財政同盟に格上げしようとしないのは、両国が1%以下と言う極めて低利の国債金利で得をしているからで、この目先のことだけしか考えない近視眼的なエゴイズムは救いようがなく、結局、EU経済を益々窮地に追い込むだけだと言う認識である。
   ドイツの貿易黒字はどう見ても大きすぎ、あれ程の外貨準備が必要である筈がなく、EU情勢の悪化に対するドイツの責任は極めて大きいと述べている。

   経済情勢が悪いと言うことで、イタリアの国債金利が異常に高いのだが、プライマリーバランスが黒字で、対GDP比で2.5%に達しているにも拘わらず、これまで積み上がった政府債務の利払いが対GDP比6%に達しているためであり、通貨同盟で通貨主権を放棄した見返りとして、共同債を導入して、どの国も予測可能な低い金利で資金を調達できるようにすべきは、当然だと言うわけである。

   ところで、「経済成長はヨーロッパを救うか」と言うことだが、ここで、ピケティは、例の大著「21世紀の資本」で展開している r>g 論を持ち出して、経済格差の拡大に触れている。
   国の生産高が増える理由は二つで、一つは、人口増、もう一つは、国民一人あたりの生産性の増加で、
   過去3世紀間で、人口増は0.8%、生産性の向上は0.8%で、世界のGDPの年平均は1.6%であった。
   今後も、過去3世紀の成長率は維持できるとしても、技術面で世界の先頭集団に位置した時から、どんな国も年1~1.5%以上の成長を維持することは出来なくなるとピケティは言う。

   不平等が拡大する一方のこの世界において、ヨーロッパが希望を託せるのは、社会モデルと、そして公的債務を大幅に上回る潤沢な個人資産である。今日深刻な機能不全に陥っている政治制度を抜本的に見直すと言う条件付きではあるが、これを活かすことができるなら、ヨーロッパは経済成長よりも有効な手段を手にし、民主主義が再び資本主義を生業出来るようになるだろう。と言うのが、ピケティのこの項での結論である。

   さて、ピケティのEU経済危機に対する見解を掻い摘んで纏めてみたのだが、考え方は、これまで、ブックレビューや私見なりで述べて来た見解にほぼ近い様に思っている。
   EUの連邦制なり政治・財政同盟への格上げについて論じているのを考えてみても、既に、中途半端な通貨同盟状態ではダメで、EUをアメリカのような一国体制と同じような、政治経済・財政金融政策を打ち得る体制に改組しなければ、問題は解決しないと言うことであろう。

   少なくとも、財政政策を決定可能な「欧州上院」を創設して機能マヒのEU機構を活性化し、共同債を発行するなど、ドイツが覇権国として政治決着をつけて主導しなければ、EU危機は益々暗礁に乗り上げて行くだけだと言うことであろう。
   先日来論じて来た、ケインズの清算同盟案で提議していた対内均衡と対外均衡の同時実現と言う貴重な教訓を、何故、賢い筈のドイツが分からないのか、と言うことである。
   
   
   
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日生劇場・・・シェイクスピア「十二夜」

2015年03月28日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   久しぶりに、ウィリアム・シェイクスピアの「十二夜」を観に日生劇場に出かけた。
   RSCなど英国のシェイクスピア劇団が来日しなくなるなど良質なシェイクスピア劇を、蜷川の舞台以外では、観られなくなった・・・尤も、これは、私の認識不足で、上演されているのかも知れない・・・ので、RSC(ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー)のディレクターでもあるジョン・ケアードの演出と言うことで、大いに期待したのである。
   それに、美術・衣裳は、ヨハン・エンゲルス、音楽・編曲は、ジョン・キャメロンと言うのであるから、役者などが日本人だが、英国版の上演だと言うことであろう。
   


   私の場合、シェイクスピアの舞台は、イギリスでの5年間で、殆ど主に、ストラトフォード・アポン・エイヴォンとロンドンでRSCの舞台に通い詰めながら、その楽しさを味わって来たし、蜷川の舞台も「マクベス」や「テンペスト」なども、ロンドンで観てファンになった。
   今回の舞台は、 松岡和子の翻訳だが、当時は、小田島雄志訳のシェイクスピア全集にお世話になった。

   ジョン・ケアード(John Caird)については、以前は、演出家に関しては殆ど意識をしていなかったのだが、彼の演出記録をチェックすると、私はイギリスで、彼の演出によるLes Misérables、A Midsummer Night's Dream、As You Like It、The Beggar's Operaを観ていることになる。
   殆ど、記憶に残っていないのだが、乞食オペラ(The Beggar's Opera)は、しっかりしたオペラの舞台を観ているような感じがした気がしている。
   この舞台やレ・ミゼラブルは、日本でも彼の演出で上演されたようだが、私は観ていない。
   
   双子の兄妹セバスチャンとヴァイオラ(音月桂・二役)の乗る船が難破して、偶然にも、夫々離れてイリリアの岸にたどり着く。兄が溺れたと絶望したヴァイオラは、兄の服を着て男装してシザーリオと名乗り、オーシーノ公爵(小西遼生)に、小姓として仕える。
   オーシーノは、父と兄の喪に服している伯爵家の美しきオリヴィア(中嶋朋子)に恋焦がれており、拒み続けるオリヴィアへの恋のメッセンジャーとして、シザーリオを送り込む。
   ところが、オーシーノに恋してしまったヴァイオラ(シザーリオ)は、切ない気持ちを抱きながらオリヴィアの元へ向かうのだが、逆に、オリヴィアの方が、シザーリオを本当の男性だと思って恋してしまう。
   一方、ヴァイオラの双子の兄セバスチャンが、同じイリリアに辿り着き、そこで偶然に出会ったオリヴィアにシザーリオと間違って恋を迫られて、何が何だか分からないままに、訪れた幸運を掴もうと、牧師の前で結婚式を挙げてしまう。
   全く良く似た兄妹セバスチャンとヴァイオラの区別は服装だけと言う状態であるから、兄弟を取り違えた悲喜劇が展開されるのだが、結局はハッピーエンドで、二組の結婚が成立する。
   この舞台では、同じ服装をしているシザーリオとセバスチャンの区別は、腰のバンドとタスキ掛けの飾りの色で区別して、前者は黒、後者は赤にして、音月桂は、微妙に声の表現を変えて演じている。
   
   ところが、ラストの大詰めの舞台で、ヴァイオラとセバスチャンが同時に登場する、せざるを得ないシーンがあるのだが、蜷川歌舞伎では、菊之助に良く似たマスクをつけた別人を登場させていたが、この舞台では、良く似た別の女優を起用して、バンドとタスキを外して、どちらがどっちか分からないようにして、台詞の大半を音月桂に振って出来るだけ正面を向かせて演じていた。
   この舞台では、二役が出来ても、「間違いの喜劇」では、二組の双子の兄弟は、頻繁に登場するので、良く似た役者を登場させざるを得ないのである。

   このストーリーに、サブ・ストーリーとして、オリヴィアに恋する執事マルヴォーリオ(橋本さとし)が、日頃威張り散らされている腹いせに、居候の伯父サー・トービー(壤晴彦)とバカだが金持ちのサー・アンドルー(石川禅)と道化のフェステ(成河)たちに、侍女マライア(西牟田恵)がオリヴィアに似せて書いた偽ラブレターに仕掛けられた悪戯で、散々に苛め抜かれてコケにされると言う物語が加わっており、益々面白いドタバタ喜劇が展開される。

   この「十二夜」を観ていると、シェイクスピアの戯曲のテーマなりキャラクターが、次々と綾織のように紡ぎだされているのが分かって面白い。
   「間違いの喜劇」で、双子の兄弟と双子の従僕が間違われて展開される喜劇、そして、兄弟ではないが、良く似ている二組の恋人たちが、妖精パックの惚れ薬に翻弄されて繰り広げる互いに入れ替わる「真夏の夜の夢」の話、
   また、男装して恋人のために活躍する「ヴェニスの商人」のポーシャ、「お気に召すまま」のロザリンドも男装して事態を縺れさせながら結婚すると言うハッピーエンド、
   酒飲みのトービーは、「ヘンリー4世」や「ウィンザーの陽気な女房たち」のファルスタッフそっくりだし、セバスチャンを助けた友のアントーニオ(山口馬木也)などは「ヴェニスの商人」のアントーニオとよく似ており、恋の仲立ちになると騙されて貢がせられる金づるのアンドルーなどは「オセロ―」のイアーゴーに騙されるロダリーゴーと生き写し、
   道化の気鋭妙洒脱な可笑しみ滑稽さアイロニー・・・、いくらでも、シェイクスピア劇のキャラクターを思い出すことが出来る。
   この物語の材源は、「アポロニウスとヘラ」だと言われているが、
   あのロダンが、巨大な「地獄の門」に、「考える人」など、それまでに制作した多くの彫刻作品を集めて集大成したような面白さが、この戯曲にはあって興味深い。

   さて、この「十二夜」だが、強烈な印象に残っているのは、蜷川幸雄が演出した歌舞伎の「十二夜」の舞台で、シェイクスピアが歌舞伎バージョンに生まれ変わると、こんなに新鮮な舞台になるのかと言う驚きを感じた。
   「十二夜」の舞台は、これまでに、RSCなど何回かは観ている勘定だが、私など、観てはすぐに忘れてしまうので、記憶は残っておらず、観た舞台でも、ケネス・ブラナーの「ハムレット」など僅かな舞台の断面やシーンなどしか残っておらず、惜しい限りである。

   今回の舞台は、日本語で、日本の役者が演じているので、非常に分かり易くて、舞台も綺麗であるし面白い。
   ただ、ケアードがどう思っているのかは分からないが、やはり、シェイクスピア劇を殆どキャリアの中心においてシェイクスピアどっぷりの芸術環境にあって日夜切磋琢磨している英国人役者の演じるRSCの舞台とは、全くと言っても良い程、雰囲気が違う。
   娯楽作品としては、素晴らしく楽しい舞台だし、水準の高い芝居だと思うが、シェイクスピアの舞台としては、笑いにしろ、恋の交感の表現にしろ、どこか、お芝居をしていると言う感じで、滲み出てくる深刻さ真剣さなり奥深さなど、上質なシェイクスピア戯曲の味が出ていない、シェイクスピア劇を鑑賞するつもりで出かけたら、一寸肩透かしを食った、と言う感じである。

   一つは、音月桂が、トークセッションで言っていたが、ケアードが、何度もシェイクスピアについて語っていて勉強になったと言うようなニャンスのことを語っていたが、まず、若い役者たちの間には、シェイクスピア劇とは何なのか、シェイクスピアそのものの理解や経験が不足しているために、シェイクスピア戯曲を演じることが如何に特別かと言う認識がないので、普通の、喜劇と捻った悲劇との綯い交ぜの悲喜劇を、真剣ながらも、普通の芝居と同じように演じていると言うことではなかろうか。

   尤も、私自身は、宝塚のトップスターとして男役を演じて高みに上り詰めた音月桂の、いわば、女のヴァイオラ(変装して男のシザーリオ)、そして、男のセバスチャンを演じ分ける舞台を観たくて行ったようなものであるから、十分に愉しませて貰って満足している。
   ウイキペディアでは、”現代的で華のある容姿に歌、ダンス、芝居と3拍子揃った実力派雪組トップスター”と言うことだが、
   歌は、道化との二重唱で、恋心を歌う素晴らしい歌声を聞いたし、ダンスは見られなかったが、華麗(?)なサー・アンドルーとの決闘シーンを見せて貰ったし、宝塚アクセント濃厚な台詞回しの、本職の男役と本来の女を器用に演じ分ける素晴らしい芝居を見せて貰った。
   

   「北の国から」から始まって、テレビや映画で良く観ている人気女優中嶋朋子は、勿論、二枚目俳優の小西遼生、一歩群を抜いている芸達者な橋本さとし、年季の入ったベテランの壤晴彦と青山達三、ミュージカルの舞台で経験の深い石川禅、才気煥発な演技で楽しませる西牟田恵、颯爽とした男振りを披露する山口馬木也と宮川浩に加えて、この舞台では極めて重要な歌を美声で歌いながら闊達な道化で狂言回しを演じる成河など、素晴らしい脇役陣が、存分に楽しませてくれる。

   舞台は、どんどん時間や空間が飛んで行くシェイクスピアの舞台だが、固定してあるのは、舞台袖の左手に女性の石像、右手に庭園の塀と木戸口、そして、舞台中央後方に鉄製の立派な門だけで、
   その間の舞台中央の回り舞台上に左右3列に設置された円弧の壁面を、上手く回して移動させながら、舞台照明を変えたり小道具をアレンジしたりして、瞬時に舞台展開を図るなど、極めてスムーズで気持ちが良い。
   私の知る限り、RSCの舞台と較べれば、かなり、立派な舞台セットである。
   ヴァイオリンとヴィオラとチェロの3重奏と道化などが歌うジョン・キャメロンの音楽が美しく舞台を包み込んで爽やかである。
   
   老年大半の能・狂言や歌舞伎・文楽と違って、蜷川シェイクスピアもそうだが、圧倒的に若い観客が多くて、この日の観客の80%以上は若い女性で、とにかく、客の殆どは女性で、私のように年かさの男性客は、天然記念物的存在であった。
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ケインズ学会編「ケインズ派、≪今≫、何故必要か?」

2015年03月26日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   グローバルな視点からの現在的意義と言うサブタイトルが付いたこの本”ケインズ学会編「ケインズ派、≪今≫、何故必要か?」”だが、「経済成長か、はたまた縮小均衡か、さらに別の道もあるのか?資本主義を世界的視野から問う」と言うことで、出版されたようだが、
   「グローバルな視点から、ケインズの現代的意義を考える」とした海外の学者たちの論文と、
   「世界経済の危機的状況をめぐって」と「ケインズと現代の危機」と銘打った2回の日本の学者たちのシンポジウムが混載されていて、総花的で論点に纏まりがない分、綜合的に読者が判断しなければならない。
   しかし、2回のシンポジウムや事後コメントなど、日本の学者たちの議論や見解は、この本のテーマには、十分に答えていないと思っている。
   
   私としては、先にレビューした”ピーター・テミン+デイビッド・バインズ著「リーダーなき経済」”で論じられていたケインズの清算同盟案で示された理論を、現在の世界的経済危機やヨーロッパの金融危機に、適用すべきと言う論点が、最大の関心事であった。
   この点については、海外の学者が論じていたが、日本の学者たちの意識にはなかったようである。

   テミンなどの著書では、このケインズ案を発展させたスワン・モデルを活用して、対内均衡と対外均衡の同時実現を持って経済安定と経済成長を論じていたが、この本では、小論文形式で、数人の学者が断片的に論じていた。
   これまで、有効需要の拡大、特に、国内経済において、公共投資などの財政政策によって、経済を維持すべしと言ったケインズの需要政策が、一般的な我々の理解だが、現在深刻な国際経済問題の解決のためには、テミンなどが論じたケインズのバンコール案で示された国際決済清算システムの現代化こそが、重要な課題であると言うことである。
   
   第二次世界大戦終戦後、巨額の対外余剰を保有していたアメリカは、一般援助に加えて、ギリシャで共産主義政府が出来るおそれに対抗して、ヨーロッパ復興計画を通じて、アメリカのGDPの2%に匹敵する輸入品の購入資金をヨーロッパに提供し、これが効を奏して、膨大なアメリカ製産物に対する海外需要を生み出した。
   このプロセス、マーシャル・プラン援助は、IMFや国際復興銀行を生みだしたブレトンウッズ会議でケインズが提案し拒否された原理の、期せずした応用となった。
   ところが、面白いのは、復興なったヨーロッパが、その後、アメリカから多くを輸入しなくなったので、アメリカの国際収支の悪化を招き、アメリカを、ドル紙幣と金との兌換一時停止に追い込み、ブレトン・ウッズ体制の終結への導火線となったのである。

   ケインズが重視した基本点は、調整がグローバルな所得を減少させることなく起こるためには、黒字国が赤字国に対する蓄積された請求権を免除するか放棄しなければならないと言うことで、これこそ、アメリカがマーシャルプランの援助計画で行ったことである。と言う。
   ケインズの提案は、国際貿易不均衡を解決するシステムを求めたもので、そうしたシステムは、金本位制に本来から伴う債権国と債務国との「非対称性」を「対称的」な調整システムに取り替えるもので、いわば、国際収支の不均衡の解消には、黒字国も赤字国も、同様な負担を負うべきだと言うことである。
   
   これは、ヤン・クレーゲル教授の論点の一部だが、同じことを、アンナ・カナベリとマリオ・チェドリーニが、次のように述べている。
   ケインズ案は、双方勝ち組になる状況の設定で、つまり、債務国は、債権国の余剰を再循環させることによって、可能となる当座貸越機能に頼ることが出来るし、債権国には、劇的な緊縮プログラムの実施による自らのポジションを矯正する必要に迫られるとすれば購入できなかったであろう債務国に対して、財を輸出する可能性が与えられる。

   現在のヨーロッパの危機は、その国際的イン・バランスの縮小には、ケインズの体系的アプローチが妥当であることを完璧に示しており、ケインズが生きておれば、今日のドイツを非合理的な債権国であると批難し、その「反社会的」な態度を批判するであろう。と言っている。
   このケインズの理論を応用してのヨーロッパ危機や米中対決を含めたグローバル経済の危機への対応については、先の”ピーター・テミン+デイビッド・バインズ著「リーダーなき経済」”のレビューで論じたので、蛇足は避ける。

   さて、日本の経済学者は、難しい議論もしているが、カレントトピックスで日本経済を語っている。
   アベノミクスについては、相対的に批判的なようである。
   ベストセラー「資本主義の終焉と歴史の危機」の水野和夫教授が、経済成長や国債について論じているのが面白い。
   経済成長については、成長を高めればいいかというと、高まらないと思う。成長に拘らなくてもいいと思うし、ゼロ成長で十分だ。と言う。
   国債については、65歳以上の人が650兆円持っているので、税率を上げれば、平均余命を終えた段階で、1000兆円が少しずつ方向としては減って行ので、それ程、問題ない。
   90兆円の歳出に対して、40兆円しか税収がないというところは、消費税でお願いするか、あるいは、社会保障費関連である年金と介護と医療で、2割から3割ぐらいは削る。と言う。
   一方、浅子和美教授は、国債は、成長では基本的には無理で、インフレしかない。と言う。

   私など、経済成長か緊縮財政しか国債問題の解決はないと真面に考えていたのだが、先生方は、いわば、あなた任せ。
   インフレで国債がチャラになると言うのなら、その時には、日本の政治経済社会は壊滅的な状態になっている筈であろうし、老年資産家から相続税で没収するのはともかく、なりふり構わずに税金や福祉切捨てで辻褄を合すのなら、一種の徳政令の施行。

   ケインズ先生は、どう言うであろうか。
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フラワーセンター大船植物園(2)・・・春の花が咲き始めて

2015年03月25日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   温室では、今、プール状の水槽に、沢山の睡蓮が咲いていて綺麗である。
   昔、キューガーデンで、巨大なオオオニバスを見たことがあるが、朝に咲いて午後には萎むようであったが、ここの睡蓮は、午後遅くても花を開いている。
   この園内には、大きなすいれん池があるので、自然に咲く豪華なすいれんが、もう少しすると楽しめそうである。
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   さて、園内には、色々な花が咲いている。
   モクレンは大木が多いので、桜のように、遠くからでも良く目立つ。
   ツツジやサツキには、まだ早いのだが、ちらほら咲き始めたものもあって、同系統のアザレヤやシャクナゲ等があざやかな花姿を誇示している。
   馬酔木は、木陰にひっそり、ボケは、華やかである。
   
   
   
   
   
   
   

   ところで、私の目当ては、やはり、椿で、椿園コーナーもあって、かなり咲いている。
   真っ先に目に入ったのは、ピンクの八重咲きの乙女椿である。
   私が最初に庭植えしたのがこの椿で、関東では非常にポピュラーである。
   この椿園で植えられているのは、殆ど一株ずつだが、かなりの種類の椿が植わっている。
   椿の花弁は、非常に柔らかくてナイーブなので、すぐに傷がついて、完全な形で鑑賞に堪える花は非常に少ないのが難である。
    
   
   
     

   興味深かったのは、かなりの洋椿が植わっていて、同じように花を咲かせている。
   勿論、これらの洋椿も、元は日本の椿で、品種改良されて里帰りしているのだが、やはり、バラ好きの欧米人の改良であるから、花弁が派手で大輪系が多いのが面白い。
   バーバラ・クラークとレッド・エンシャインと言う名前の椿が綺麗に咲いていた。
   
   
   
   

   まだ、これらの花の時期ではないが、園内に、かなり大規模な、牡丹、芍薬、ばら、花菖蒲などの庭園があって、どんどん、芽が出てスタンドバイしている。
   5月から6月になれば、一斉に咲いて、壮観であろうと思う。
   それに、大きな藤棚もあるし、季節の移り変わりの花ごよみを、十分に追いかけられそうで、丁度、私にとっては、往復徒歩分は6000歩、園内散策を加えれば恰好の散歩道が出来た感じで嬉しい。
   
   
   
   
   

   京成バラ園が遠くなってしまったのだが、今夏は、ここに来れば、バラの花の写真も楽しめそうであり、ほっとしている。
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フラワーセンター大船植物園(1)・・・桜が咲き乱れている

2015年03月24日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   神奈川県にも、植物園や花の名所は、数々あるようだが、近くにあってかなり大規模な植物園だと言うことで、春の花を見たくて、フラワーセンター大船植物園に出かけた。
   大船駅から、東海道線に沿って、1.5㎞くらい西に歩けば、すぐで、東京などにある大名庭園などとは違って、全く、現在的に整備された庭園で、情趣には欠けるが、良くまとまった素晴らしい都会地の植物園である。
   ゲートを入れば、もう、目の前のオープンスペースから、何本か満開に近い桜の花が目に入る。
   
   
   
   
   何種類か桜の花が咲いていて、染井吉野などが植わっているのかどうか気付かなかったのだが、良く咲いている桜の多くは、玉縄桜と言う品種で、この植物園で、染井吉野の実生から選別育種したオリジナル品種で、気温が低くても咲く早咲きで、2月下旬から3月にかけて咲き続けるのだと言う。

   ところが、本来の染井吉野は、総て、クローンで、実生などはない筈。
   そう、理解していて、寿命が来ると滅び去るのだと聞いていた。
   ウィキペディアを引用すると、
   ”ソメイヨシノは種子では増えない。各地にある樹はすべて人の手で接木などで増やしたものである。自家不和合性が強い品種である。よってソメイヨシノ同士では結実の可能性に劣り、結果純粋にソメイヨシノを両親とする種が発芽に至ることはない。このためソメイヨシノの純粋な子孫はありえない。不稔性ではなく、結実は見られる。ソメイヨシノ以外の桜との間で交配することは可能であり、実をつけその種が発芽することもある。これはソメイヨシノとは別種になる。”
   育種の方法を聞かずに帰って来たので、玉縄桜の出生は不明だが、植物園の奥に大きくなった原木が植わっていて、園内に、その子孫が何本か植えられていて、綺麗に咲いている。
   このページの最初の桜が入り口正面にある木で、下記の写真が原木の玉綱桜の大木である。
   

   ところで、東京も横浜も、一昨日の開花宣言なので、花見には、まだ早いが、この植物園では、何種類かの桜の花が咲いている。
   まず、良く似た一重の淡いピンクの桜が、春めきと言う足利桜。
   その、隣に咲いているやや抱え咲きの濃いピンクの一重のおかめ桜。
   重なって咲くコントラストが美しい。
   
   
   
   

   おかめ桜に似た花形で、もっと濃いピンクの寒緋桜も鮮やかで美しい。
   小さな木だが、真っ白な一重の三波川寒桜も目を引く。
   実生だと言う大寒桜の大木も、圧倒的な迫力で、鮮やかな黄色いハナミズキの枝越しの美しさも捨てがたい。
   
   
   
   
   
   

   温室の中には、異国の花が多くて、被写体としては面白い。
   ブラジルに居た時には、一寸、変わった花木や草花を見て来たが、創造主の匠の妙を感じるのは、こんな時である。
   
   
   
   

      
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わが庭の歳時記・・・レンギョウ、ユキヤナギetc.

2015年03月23日 | わが庭の歳時記
   レンギョウとユキヤナギが放物線を描いたように、綺麗に咲き始めた。
   自然界では、白い花と黄色い花とで、全体の70%以上を占めると言うことであるが、私の前の千葉の庭には、ピンクの花が多かった。
   意識していたわけではないのだが、黒い花が好きで、黒いチューリップや椿を集めて植えたこともあったし、深紅の花に魅かれて深い真っ赤な椿ばかりを集めたこともあったし、とにかく、花の色には色々な思い出がある。

   さて、レンギョウは黄色。
   ユキヤナギはピンクがかっていた筈だが、今は、何故か、真白である。
   レンギョウは、少し変わった花形をしているが、両方とも、株が小さかったので、千葉から持ってきて庭植えにした。
   大株になると、春の庭を、一気に華やかにするので、貴重な花である。
   
   

   地面に張り付くように咲き始めて、グラウンドカバーのように広がっているのは、ツルニチニチソウで、スミレが咲き始めるまで、青紫色の清楚な花を咲かせ続ける。
   それに、びっしりと庭に広がった青々として緑の葉の間から、花を咲かせ始めたのが、ハナニラ。
   これも、生命力の旺盛な植物で、どんどん、庭に広がって行く。
   水仙に遅れて咲き始めたのが、スノードロップとムスカリだが、確か、オランダなどでは、かなり、早く咲いていたように思う。
   花付きが悪いので、肥料が足らなかったのかも知れない。
   この鎌倉の庭も、住宅街の一番外れに近いところにあって、山林に近い所為か、温度が少し低くて、開花期が、かなり遅れるような気がしている。
   
   
   
   

   クリスマスローズが、どんどん、葉が出て来て株も大きく育って、沢山の花芽が出て来て、咲き乱れている。
   やはり、気になるのは、椿で、今年は、咲かない木もあって寂しかったが、今、咲き出したのは、ジョリーパー。
   越の吹雪、ブラックマジック、そして、卜伴に似たエレガンス・シュープリームが、咲いている。
   椿が咲き乱れる庭になるのには、まだ、10年はかかりそうである。
   
   
   
   
   
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綺麗な鳴き声:ガビチョウ・・・侵略的外来種ワースト100

2015年03月22日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   ウグイスは、まだ、鎌倉山からおりて来ず遠鳴きなのだが、朝から、綺麗な小鳥の鳴き声で春眠を覚まされる。
   あまりに近くで鳴き続けているので、静かに裏庭に廻ってみると、境界の外の雑木の梢に、雀よりかなり大きな野鳥が囀っているのが分かった。
   褐色に見えたので、モズだと思ったのだが、一寸スマートである。
   良く分からないので、取りあえず、写真を撮ってから、パソコンで拡大して調べてみようと思って、カメラを取りに行き、和室の窓から近づいて、望遠レンズを向けた。
   

   先日、国立能楽堂の3月号パンフレットの細川博昭氏の「鶯と鳥刺し―日本の中の鳥飼い文化」を読んだら、ウグイスの囀りは、親なり先輩の美麗な囀りを聞いて習得するので、最初から「ホーホケキョ」と鳴けるわけではなく、ヘタな鶯が周りにいると悲劇的だ書いてあった。
   江戸には良い鶯がいなくて、美しく囀っていた京都周辺の鶯を大量に捕獲してきて江戸に放ったと言う。
   文化同様に鶯さえも、上方から下ったと言うところが面白い。

   この話を知っていたので、子供の鶯が「ホーホケキョ」と鳴けなくて、鳴き声の練習をしているのかと、最初は思った。
   勿論、単純な鳴き声だけではなく、連続的にかなり長い間鳴き続けているし、遠くで鳴いている仲間にかけあいながらの伴奏状態なので、おかしいとは思ったが、それ程、綺麗な鳴き声なのである。

   とりあえず、分かったのは、口絵写真のように、特徴は、目の周りが白いこととと、黄色いくちばしである。
   パソコンで、日本野鳥の会の野鳥図鑑などを調べてみたが出ていない。
   やはり、グーグルは便利で、「くちばしの廻りが白い野鳥」と打って叩けば、その鳥の一覧写真が現れて、その中の良く似た写真を開くと、外来種の「ガビチョウ」と出てきた。
   ウイキペディアの「ガビチョウ」を開いて読むと、ほぼ、間違いない。

   ところが、真っ先に目についたのは、「侵略的外来種ワースト100」と言う文字である。
   あのカミツキガメやブルーギルと同様の日本の生態系や人間活動へ悪影響を及ぼす忌むべき生物なのである。

   ウイキペディアの被害の現状をそのまま引用すると、
   ”独特の大きいさえずりが華僑に好まれ、江戸時代頃から愛玩鳥として輸入が始まった。1970年代に大量輸入されたが、日本ではさえずりが騒音として好まれず、遺棄された個体が野生化した。鹿児島を除く九州、宮城県から愛知県にかけての太平洋岸と中央高地、島根県に定着する。穀物など植物の食害と大音量のさえずりが問題視される。”

   かなり大きな音色で美しく囀り、ウグイスやキビタキ、オオルリ、サンコウチョウといった他種の囀りをまねることがあると言うのだが、
   確かに、偶に聞けば美しい声だが、四六時中囀られると、騒音になるかも知れない。
   もう一つ嫌われた理由と言うのは、体色が全体的に茶褐色でかなり地味であり美しくないと言うことらしい。

   一寸、恋をして、すぐに醒めてしまったと言う心境である。
   
   
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国立演芸場・・・中席:小柳枝の「柳田格之進」

2015年03月20日 | 落語・講談等演芸
   桂米朝師匠の死を悼む落語界、上方落語復興の立役者と言う功績を遺し、小さんに続く二人目の人間国宝と言う偉大な落語家であったが、残念ながら、テレビとラジオだけで、実際に、高座で拝聴する機会がなかった。
   ご冥福を、心からお祈り申し上げたい。

   さて、久しぶりに、国立演芸場に出かけて、落語を聞いて笑わせて貰った。
   とにかく、落語だけではないのだが、大衆芸術である演芸の世界の奥深さが、少しずつ分かりかけてきた感じで、回を重ねるごとに面白さが増してくる。
   落語を聞くことによって、歌舞伎や文楽、能・狂言にたいする理解も深まって来るし、その逆も真なりで、結構楽しいのである。
   それに、能を通じて、青春時代に歩き回った京都や奈良など、懐かしい故郷を思い出しながら、日本の古い文化や芸術などを反芻する喜びを味わえて、二重の喜びである。

   ところで、国立演芸場では、講談や漫才や俗曲を聞いたり、曲芸や奇術を見たり、日頃見る機会の少ない芸に接することが出来て面白いのだが、大阪とは違って、東京の寄席は、落語が主体のようで、話術の冴えも、まちまちである。
   春風亭柳好の「長屋の花見」は、貧乏長屋の大家に誘われて、酒盛りならぬ茶か盛りの話で、何とも侘しい庶民の花見だが、この江戸版:長屋の花見に対して、米朝師匠が語った貧乏花見と言う上方版があって、その差が面白い。

   一方、春風亭笑好の「長命」と柳亭楽輔の「錦の袈裟」は、同じ庶民の話でも、色気たっぷりの笑話で、後の和服姿のご婦人が、必死に笑いを噛み殺していた。
   「長命」は「短命」と言う題でも演じられるようで、質屋の伊勢屋の婿養子がまた死にましたと言う八五郎に、隠居が「伊勢屋の婿たちは房事過多で死んだのだろう」と言う話だが、娘夫婦の生活を事細かく語る八五郎が、男女の機微を理解できないので、房事過多を悟らせようと語り続ける二人の頓珍漢な会話が面白い。
   「錦の袈裟」と言うのは、金襴の袈裟、錦の下帯、ちん輪とも呼ばれているようだが、元は上方落語の「袈裟茶屋」を吉原遊廓に置き換えた落語だと言うことらしい。
   町内の若者たちが、錦のふんどしで吉原へ繰り出して芸者たちの度肝を抜こうと言う計画に、錦のない与太郎が、吉原行きを許した妻の入れ知恵で、和尚さんから派手な錦の袈裟を借りて来て、締めて吉原に行き、「前に輪がついたふんどしの、一番おっとりした人がお殿さま」と誤解されて大持てになる話。
   大持てで、花魁たちに抱き付かれて「今朝は返さない」と言われた与太郎が、「袈裟を朝返しに行く」と和尚に約束したのに気がついて、「ケサ(今朝=袈裟)は返さない? お寺をしくじっちゃう」と言うオチ。

  トリの春風亭小柳枝の出し物は、「柳田格之進」、侍物の人情噺である。
   彦根藩士の柳田格之進は、文武両道に優れた高潔な武士でありながら、清廉潔白で正直者の堅物故に、讒言されて浪々の身。 浅草阿倍川町の裏長屋に貧しく娘のきぬと二人暮らし。
   囲碁で親しくなった質屋・万屋源兵衛の店の離れで対局中に、五十両が紛失したので、番頭の徳兵衛が、長屋に柳田を訪ねて行き、出て来なければ奉行所に届けると言う。柳田は金子を用意するので翌日取りに来いと番頭を帰すが、自害すると悟った娘きぬが、吉原へ身売りして金を用意する。金を取りに来た番頭に、金が出てきた時には、番頭と主人源兵衛の首をもらうと約束させ、行方知れずとなる。
   大掃除の時に、万屋の離れの額縁の裏から源兵衛が置き忘れた五十両が出て来て、番頭が、探し回っていた、帰参が叶って出生した格之進に、偶然出会う。
   後日万屋を訪れた格之進が、二人を並べて大刀を振り下ろすが、切れずに碁盤を真っ二つにする。
   急いで、源兵衛が吉原からきぬを呼び戻して、格之進は、二人を切れなかったことを詫びて許しを得る。
   後、きぬと番頭徳兵衛と結婚して跡を継ぐハッピーエンド。
   オチも何もないが、善意の者ばかりが登場する、実に爽やかな人情噺で、小柳枝が、静かな穏やかな語り口でしみじみと語って感動的である。
   この噺を、志ん朝が語っているのを、Youtubeで見られるが、殆ど同じで上手いが、年季を積んで芸の深まりが滲み出た味のある小柳枝の語りは、また、格別である。
   私は、歌丸の落語もそうだが、オチのついた笑わせる落語よりも、このようなしみじみとした語り口の落語の方が好きである。
   小柳枝の出囃子は、「梅は咲いたか」のようだが、この日、檜山うめ吉が披露した俗曲梅は咲いたか」と同じ曲なのであろうか。

   漫談の新山真理は、落語界の業界図や演芸場などの動きを語りながら、歌丸師匠の率いる落語芸術協会(芸協)の宣伝 をしていたが、根拠薄弱ながらも、芸協を日本、もっと大きな落語協会を中国、立川グループを韓国、円楽グループを北朝鮮と、言っていたのが、面白かった。
   檜山うめ吉の歌う俗曲や踊りは、日本のお座敷とは縁のなかった私には、しみじみとした雰囲気があって、面白い。
   若い山上兄弟のマジックは面白かったが、何時も、何故、そんなことが出来るのかばかり考えて、手品を見ているので、フラストレーションがたまって仕方がない。

   とにかく、3時間の気楽な時間をリラックスして楽しめるのが、国立演芸場の舞台である。
   
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三月大歌舞伎・・・「菅原伝授手習鑑」夜の部

2015年03月18日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   昼の部は、何と言っても仁左衛門の菅丞相が突出した舞台で、この神性を帯びた崇高とも言うべきキャラクターが、最も重要であろう。
   菅原道真については、史上、色々な解釈があり、死後に、天変地異が多発したので、朝廷に祟りをなしたとして、天満天神として信仰の対象となったとされているが、神様であることには間違いないので、観客にとっては、やはり、俗物的な舞台であってはならないのであろう。
   京都北野の天満宮や大宰府天満宮を訪れたことがあるが、梅の季節には、境内は輝いているし、学問の神様でもあるので、多くの受験生が訪れて、熱心に絵馬を書いて奉納している。

   ところで、「筆法伝授」や「道明寺」のように神様のような丞相ではなく、この「菅原伝授手習鑑」でも、今回は省略されているのだが、「天拝山の段」が、「道明寺」と「寺子屋」、正確に言えば、「桜丸切腹」と「寺入り」の間にあって、丞相が、落ちぶれた都落ち姿で白太夫にともなわれて安楽寺に向かい、その途中で、時平の謀反の企みを知って、形相を一変させて、帝を守護するために雷神となって都へ飛んで行くシーンがある。
   先の文楽の通し狂言では、雷神と化した天神様を、玉女が、高みに上って猛々しく豪快に演じていて、ニュアンスの違った丞相を見て興味深かった。
   半世紀前に、国立劇場の舞台で、市川中車がこの天拝山の菅丞相を演じたようだが、仁左衛門なら、どう演じるであろうか、興味のあるところである。

   さて、夜の部は、「車引」「賀の祝」「寺子屋」であり、昼の部と同様に、非常に中身の詰まった重厚な素晴らしい舞台が演じられていて、楽しませてくれる。
   特に、夜の部は、ベテラン歌舞伎俳優の出演が少なくなって、菅丞相の染五郎を筆頭にして、梅王丸の愛之助、桜丸の菊之助、武部源蔵の松緑、八重の梅枝、戸浪の壱太郎などの中堅・花形が、大車輪で大活躍する非常にフレッシュで意欲的な舞台が展開されていて、非常に面白い。

   「賀の祝」は、
   白太夫(左團次)の七十歳の賀を祝う宴に、三つ子の兄弟が夫々の妻を伴って集まる筈だったが、桜丸だけ現れない。宴が終わって、桜丸の妻八重だけを残して両夫婦が帰った後で、悲壮な面持ちで桜丸が登場する。
   斎世親王と苅屋姫の逢引きをアレンジして、それが発覚して菅丞相の追放の因を造った罪を感じて、切腹するつもりで、暇乞いに来ていたのである。
   断腸の思いで運命を悟った白太夫と動転する八重を残して、従容と死に着く桜丸。
   悲劇の舞台である。
   この「桜丸の切腹の段」を、引退狂言で、住大夫は、一世一代の名演を残して舞台を去った。

   心の動揺を押し殺して従容と死に直面する菊之助の立ち居振る舞い、そして、確かな発声法と話術の冴え、大きく羽ばたく大役者の貫録と器量の片鱗を見せた素晴らしい舞台が感動的である。
   それに、梅枝の八重が、また、瑞々しくも情感たっぷりの芝居で応えていて、魅せてくれる。
   「賀茂堤」での二人の新鮮な演技にも、ほんわかとした夫婦の触れ合いを感じて興味深かったが、菊之助と梅枝の進境著しい舞台を観た感じであった。
   勿論、白太夫の左團次の円熟した芸のサポートヨロシキも得た。

   「寺子屋」は、いわば、「菅原伝授手習鑑」の代名詞のような代表的な舞台で、「寺入りの段」から、悲痛ないろは送りの終幕まで、正に、感動的な舞台で、いつ見ても、非常によく書かれた舞台だと思って観ている。

   三兄弟の内、松王丸だけが、時平の舎人で、敵方であり激しく梅王丸や桜丸と諍うのだが、心の底では、ご恩のある菅丞相に報いることが出来なくて悩んでいる。
   しかし、この「寺子屋」で、松王丸は、菅丞相がいみじくも認めてくれた「何とて松のつれなからうぞ」を証明して、恩を返す。
   時平の家来が襲おうとした北嵯峨の隠れ家から、園生の前(高麗蔵)を、救い出して匿っておき、菅秀才に対面させると言うのは、菅丞相に対する忠義の証だが、
   この舞台では、菅秀才の首を差し出せと命じられた源蔵に、身替わりとして、実子小太郎を寺子として差し出すと言う子供を犠牲にして、菅秀才の命を救って、忠義を果たす。
   今の世の中では、「あほとちゃうか」と言うことだが、忠君愛国の封建時代では、美徳であった。

   この芝居で、主の御曹司の首を差し出せと言われて、傷心して帰って来た源蔵が吐く「せまじきものは宮使え」と言う名せりふに対応して、
   松王丸が、「松はつれないつれない」と世間から言われ続けて、源蔵に語るのが、倅がなくば何時までも人でなしと言われんに、「持つべきものは子なるぞや」と言う言葉。
   これが、この芝居のメイン・テーマであるだけに、名調子のいろは送りの葬送シーンが、実に悲しくて切ない。

   この「寺子屋」については、幸四郎や吉右衛門の舞台や、文楽の舞台について書いて来たので、蛇足は避けたい。
   父幸四郎や叔父吉右衛門の得意とする松王丸を染五郎が演じたのであるから、微妙な差はともかく、その伝統と決定版とも言うべき芸を継承した舞台は、流石である。
   お小姓弥生を演じ、近松の大坂の優男を演じて名優ぶりを発揮する染五郎が、先の弁慶に続いて、スケールの大きな松王丸を演じ切っているのであるから、流石である。

   武部源蔵を演じる松緑だが、これまで見ていた富十郎はじめベテラン俳優の重厚な演技と比べて、非常に芝居がかった演技で、一寸違和感を感じたのだが、後で、松緑のこのようなその場その場のシチュエーションをメリハリを付けて強調した演技の方が、正解なのかも知れないと思い始めた。
   とにかく、新鮮な感覚の芝居であった。
   先日も書いたが、源蔵の妻戸浪を演じた壱太郎も実に上手い。
   染五郎や千代の孝太郎などは、これまでの伝統的な演技だが、今回の松緑と壱太郎のモダンと言うかフレッシュな夫婦像も面白かった。
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ケインズ:善きもの、愛と美の鑑賞

2015年03月17日 | 生活随想・趣味
   ケインズ関係の本を読んでいて、経済学者として偉大なケインズが哲学者でもあったと言う記述の中の、「論理と道徳」の項で、ムーアの”世界における善の量を増加させることが、「人間の活動の合理的で究極の目的であり、社会進歩の唯一の基準である」と言う倫理哲学の追従者であったと、ロッド・オドネルは述べている。
   ケインズは、これを修正して、蓋然的な善の量を増加させるとしており、多くの客観的な善きものが存在するが、そのうち最も重要な二つは、愛と美の鑑賞であると言っている。

   ケインズ哲学の詳細は、勉強しないと分からないけれど、偉大なケインズ先生が、愛と美の鑑賞だとまで言っており、私なりに、長い人生を、美の鑑賞と言うか、美しいものを求めて歩いて来たような気がするので、一寸、花に託して振り返ってみたいと思う。

   海外にいて、あっちこっちを歩いていた頃には、美しい風景や素晴らしい歴史遺産を求めて歩いて来たような気がするが、やはり、その中でも、貴重だったのは、博物館や美術館を巡りながら素晴らしい芸術作品を鑑賞し、劇場に出かけてオペラやコンサート、観劇を通して、芸術を鑑賞しながら、凝縮した形で人類の偉大な遺産を感じて感激しながら過ごせたことだと思っている。

   さて、忙しくて寸暇を惜しんで動き回っていた頃、イギリスに住んでいたので、チャンスを見つけては、名園として有名な大庭園やイングリッシュガーデン、そして、湖水地方やコッツウォルズなど、素晴らしいイギリスの自然風景を求めて出かけて行った。
   幸いにも、キューガーデンの入り口に住んでいたので、10分でも暇が出来れば、カメラを抱えて出かけて行って、花の移り変わりの神秘を、心の片隅に残そうと務めていたような気がする。

   帰って来てから、イギリスを思い出しながら、庭にばらを植えて、華やかな庭の風情を楽しんでいたのだが、孫が生まれて危ないと娘に言われて、ばらの木を皆切ってしまった。
   何故か、庭師が切りのこした古株から、芽を吹きだして唯一残っているのが、鉢植えにして鎌倉に持ってきたキャプリス・ド・メイアン。
   ばらに代えて、椿を庭に、片っ端から植え続けて、30種類は越えたであろうか、椿の庭になった。
   
   さて、丹精込めて、花木や草花など、花を植え続けて、私なりに育て上げた千葉の庭も、私の手が届かないところに行ってしまった。
   今、新しく移り住んだ鎌倉の家の庭も、それなりに造園されたしっかりとした庭なのだが、やはり、花の咲き乱れる私のイメージの庭とは違っているので、その後、大分色々な花木や草花の球根を植えつけた。
   かなり、時間はかかるであろうが、少しずつ雰囲気が変わりつつある。

   椿は、大きくなるので、取りあえず、あっちこっちに植えつけたが、様子を見て移植しようと思っている。
   今年は、ばらの苗を、五月の咲き具合を見て、庭への移植を考えようと思う。

   汝! 何故、そんなにも美しいのか!
   日々、刻々と姿を変えながら、美しさとその感動を伝えようと、必死になって健気に咲き続けるばらを眺めていると、無性に生きる喜びを感じる。これが、ケインズの言う美の鑑賞であろう。

   通算すれば、都合、栽培歴20年を越す筈なのだが、病虫害や肥料など手間暇がかかって注意の必要なばらの栽培は難しい。

   さて、薔薇色と言うのだが、ばらには色々な種類があって、特定するのは難しいようだが、広辞苑によると、うすい紅色、淡紅色、とある。
   やはり、イメージとしては、ピンクのばらと言うことであろうか。
   若き日の思い出だが、オレンジ色のカーディガンが記憶に焼き付いていて、オレンジレッドやアプリコットのばらも、気に入って育てている。
   美しく咲き乱れたばらの花を見ると、創造者の偉大さに畏敬と感嘆を禁じ得ない。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   


   
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わが庭の歳時記・・・クリスマスローズ咲く

2015年03月16日 | わが庭の歳時記
   陽が長くなって、大分温かくなって来た所為か、わが庭の装いも、一気に春めいてきた。
   長い間、蕾が下を向いていたクリスマスローズが、殆ど一斉に花を開き始めて、無色に近かったわが庭にも、彩が蘇って来て、少し、明るさを増してきた。

   昨年、タキイから購入したクリスマスローズは、まだ、小さな株だったのだが、一年の間に株が大きく育って、今年は花を咲かせてくれた。
   最初は、ポット苗を6号鉢くらいの鉢に植え替えて、昨秋早くに、庭植えしたのだが、かなり成長が早く、2~3年もすれば、株分けできそうである。
   バラの苗木は、新種だと言って、いくら高くても、1万円もしないのだが、クリスマスローズは、一株ものが多い所為か、高くなると何万円もするようで、趣味が凝って来ると一寸大変かも知れない。
   夫々、まだ、新しいので、品名プレートがあるのだが、馴染みのない名前を憶えても仕方がないので、当分、気にしないでおこうと思っている。
   
   
   
   

   クリスマスローズは、キンポウゲ科の花だと言う。
   キンポウゲの属に、トリカブト、クレマチス、アネモネなどの種類があると言うことだが、イギリスから入ってきた洋花の所為か、何故か、クリスマスローズの人気が高い。
   しかし、美しいものには毒があると言うが、この種類には、毒があるものが多いと言うのが面白い。
   それに、 "Winter Rose","Christmas rose" , "Lenten rose"などと呼ばれているが、バラとは何の関係もないと言う。
   
   
   
   
   
   
   
      

   ばらと言えば、大分、新芽が吹いて来た。
   昨年は、トマトの栽培にかまけて、世話が十分ではなかったので、綺麗な花を咲かせられなかったので、今年こそはと意気込んでいる。
   京成バラ園から、大苗や6号鉢植えなど、新しく8株を買ったので、今年は、大分、ばらを楽しめそうである。
   ベルサイユのばらや、キャプリス・ド・メイアンなど、深紅に近いばらの芽は、黒ずんでいるのだが、黄色いばらの「快挙」などの新芽は、淡いグリーン色をしていて、葉の様子なども違っていて面白い。
   HT系と違って、イングリッシュローズ系は、私にとっては、何となく、こじんまりとして優しい感じのばらなので、枝ぶりもそうだが、新芽も最初は大人しくて爽やかである。
   ファルスタッフは、栽培歴が長いので、今年は期待しており、元気な枝が伸びれば、つる仕立てにして、フェンスに這わせようかと思っている。
   とにかく、五月が楽しみである。
   
   
   
   
   

   五月と言えば、牡丹や芍薬、それに、ユリやアジサイの新芽も出始めた。
   もう、2か月も経てば、わが庭は、花でいっぱいになる。
   涼風に吹かれながら、庭に出て、アフタヌーンティを楽しめる。
   
   
   
   
   
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ピーター・テミン+デイビッド・バインズ著「リーダーなき経済」(2)

2015年03月15日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   先日は、ヨーロッパの国際均衡について論じたので、今回は、世界の国際均衡をどうして取り戻すかについて考えてみたい。
   ヨーロッパの場合には、問題解決のためには、対内、対外均衡を取り戻すために、ドイツが同地域の覇権国として協調的な解決策の遂行を主導しなければならないと言うことであった。
   スワン・モデルによる分析であるから、世界経済においても、実質為替レートと国内需要の動向に注目した展開となる。

   アメリカと中国の関係も、ヨーロッパ諸国の関係に憂慮すべき程似ていると言うのである。
   特に、中国がドルペッグ制を取っているので、中国とアメリカの間には、いわば、固定相場制が介在していて、重要な点は、中国の為替レートの変動が競争力の水準を左右する点である。
   また、例え中国が資本規制を行っていても、国境を越えた国際資本市場の統合により、中国が、ニューヨークにおける金利引き下げの影響を受けずにいることは難しく、中国の雇用の増加に繋がり、国内のデフレと、直接投資による外国からの技術力の輸入を通じて、競争力の向上を実現させてきた。
   21世紀に入って、米中は、経済成長と対内均衡は確保されたが、この競争力格差の拡大によって、経済収支の不均衡は悪化の一途を辿り、対外不均衡が拡大して行った。
   中国の元の変動相場制への移行、ないし、現状にあった切り上げによって実質為替レートを調整して、両者に存在する競争力格差を解消すべきということである。
   一方、米欧の関係は、いずれの地域もインフレ・ターゲティング政策を採用しており、変動相場制となっているので、対外均衡は成立している。

   ヨーロッパ域内での不均衡を是正するためには、GIIPS諸国のドイツに対する競争力の向上と、GIIPS諸国との相対比較で見たドイツの需要拡大の双方が必要であるが、世界的な不均衡を是正するためには、中国や東アジアとの相対比較で見た欧米の競争力の向上と、欧米との相対比較で見た中国・東アジア諸国の需要拡大の双方が必要である。と説く。
   中国の政策当局が意図的に調整の進展を遅らせて、不均衡が拡大しており、対内均衡を達成するために実施する、アメリカの量的緩和がヨーロッパの量的緩和を誘発し、世界経済にとって思わしくない状況が続けば、結果的には、中国にとっても利益にならず、バブルに突入すると、中国の手におえなくなると言う。

   中国の戦略の転換には、幾多の政治的困難が伴う。
   まず、必須の国内の消費拡大を促す家計への分配を行わず、資金を投資に振り向け、財政支出の大半を、消費拡大ではなく、公共インフラ投資の大規模な拡充に費やしている。
   多くの暗黙の補助金が一部の要素価格を引き下げており、投資と輸出の拡大には資するが、労働、資本、土地、資源等の要素価格の自由化を進めて、市場志向型の生産要素市場を育成しない限り不均衡は是正不可能である。
   国内の消費拡大と国外との相対比較で見た国内コストの上昇も必須である。
   いずれにしろ、喧伝されているように、輸出と投資主導の成長戦略を、国民に対する分配を厚くするなど経済構造の改革を進めて内需主導成長を目指すべきだと言うことであろう。

   ところで、ギリシャのケースを考えればよく分かるが、
   財政再建自体は、既に、緊縮財政を行っている国の支出減少を招くだけで、その減少分を埋め合わせる支出の増加は起こり得ないので、財政再建は絶対的な支出水準の低下を齎し、縮小均衡に導く。
   世界の成長率を引き上げるためには、世界全体の財政再建と中国やヨーロッパなどにおける不十分な内需の伸びの影響を埋め合わせるために、十分なペースで、その他の需要が拡大することが必要である。
   需要拡大に失敗すれば、財政再建は、需要不足によって頓挫し、世界的な問題の悪化に繋がり、国際経済を危機に追い込むので、特に、民間部門の成長を促進するなど、財政引き締めの影響を埋め合わせるべく、世界経済の成長に向かって果敢に挑戦しなければならない。

   著者は、次の協調的なシナリオを取れば、世界が成長目的を達成できると言う。
   その「協調的シナリオ」とは、
   ★対外収支黒字国で支出が十分に増加する
   ★対外収支赤字国で支出が十分に減少する
   ★ヨーロッパ域内、東アジアとその他諸国とのあいだの双方で、実質為替レート、ひいては相対価格の調整が進み、支出転換を齎す

   これが実現できれば、対内均衡へと向かうことが達成でき、世界全体で需要の不均衡是正が少しずつ進み、夫々の対外不均衡の是正に同時に着手することが可能になると言うのである。
   尤も、この条件が、完全に満たされれば、と言う前提である。

   中国の輸出主導型の成長戦略によって、米欧の双方は、需要低迷を余儀なくされており、この国際不均衡が対内不均衡に繋がっている。
   中国が動かない以上、その痛みを両大陸がどのように分けあうのかは、両者の政策によって決まる。
   米欧における総需要不足の問題は、政府支出の拡大によって解決しなければならない。財政引き締め政策を保留する必要、あるいは、一時的にそれを逆転させる必要がある。と、著者たちはケインジアンであるから当然ながら、クルーグマンばりの主張をしている。
   勿論、中国が、米欧での需要拡大を補完する内需拡大政策へと転換すべきなのは当然である。

   財政引き締めによって債務を減らそうとする現在の試みは、まず、間違いなく失敗に終わる。
   景気が拡大し、緩やかなインフレが起これば、債務は返済しやすくなる。
   とにかく、需要拡大に舵を切って、経済成長を起動させよと言うことである。

   固定相場制の存在が、必要とされる調整を阻害するのを防ぐための諸ルールを作るためにも、ブレトンウッズ以降の一連の国際的な金融体制のようなシステムが必要だと言う。
   覇権国のなくなってしまった今、著者たちは、G20に期待しているのだが、どうであろうか。

   「ケインズの国際貢献を再評価する、温故知新の傑作だ」と北村行伸一橋大教授は、言うのだが、私自身が、ケインジアンの著作でいつも不満に感じるのは、需要サイドの分析と理論展開が主体で、経済成長が大切だと説きながら、その経済成長を促進する筈の供給サイドについては、殆ど言及しないことである。
   経済成長が軌道に乗るまでは、とにかく、需要の拡大によって経済を維持しようと言う説には全く異存はないが、それでは、ダイナミックな経済成長を、どのようにして実現するのか、今こそ、サプライ・サイドの経済学が必要ではないかと思っている。
   レーガノミクス華やかなりし頃とは大きく時代の潮流が変わっており、ニュー・サプライサイド・エコノミクスが生まれ出でる時期ではないかと言う気がしている。
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ピーター・テミン+デイビッド・バインズ著「リーダーなき経済」(1)

2015年03月14日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   世界経済を大混乱に陥れる危機が訪れることがあるが、このような危機は、世界経済を支配する体制が、求められているリーダーシップを発揮出来ない、すなわち、「覇権国」不在の「体制終焉危機」発生の時に起きる。
   「覇権国」とは、国家間の協調を促すことができる経済的な力を持った国で、19世紀のイギリスや20世紀のアメリカがまさにそうであった。
   1929年の大恐慌は、丁度、覇権国がイギリスからアメリカに移行する空白期間で、リーダーシップなく国際協調が欠如していたために起こった大規模な経済後退であった。
   アメリカ経済が覇権を喪失した今、世界が直面している危機は、別の体制終焉を意味する。
   これが、著者たちの、本書のタイトル「THE LEADERLESS ECONOMY」の直面している現状認識である。

   サブタイトル「Why the World Economic Systemu Fell Apart and How to Fix It」が示すように、著者たちは、
   ケインズが提唱しながらも未完に終わった理論、すなわち、経済の対内均衡と対外均衡を一緒に考えると言う理論を弟子たちケインズ・サーカスが確立したスワン・モデルと、ゲーム理論を用いた「囚人のジレンマ」など経済理論をを駆使して、イギリスの世紀から大恐慌、ブレトンウッズ体制、そして、世界金融危機から現在のヨーロッパ経済や米中間の経済など一連の国際経済の歴史を分析しながら、世界の国際均衡を取り戻すために、如何にあるべきか、壮大なドラマを展開している。
 
   スワン・モデルは、当然、開放経済を前提にしており、二つの変数によって二つの市場の関係を示す。
   二つの市場とは、国内生産物の市場と輸出生産物の市場。
   二つの変数とは、国内生産量と実質為替レート。
   丁度、IS/LMモデルと同じようなグラフを描き、ヨコ軸に国内需要、タテ軸に実質為替レートをプロットし、タスキ掛けとなる対内均衡線と対外均衡線が交差する点が均衡点で、
   国内生産を適切な水準に保つことによって対内均衡を達成する試みと、経常収支を適切な水準に保つことによって対外均衡を達成する試みは、一緒になされなければ、国家経済の均衡は保てないと言うことである。
   
   現状のヨーロッパ経済や世界経済は、このスワン・モデルの均衡点から乖離しているために、深刻な不均衡に苦しんでいる訳なのだが、著者たちの分析は極めて明快で、非常に興味深くて面白い。
 
   まず、私が関心を持ったのは、現在のヨーロッパ経済の分析である。
   経済危機に対するEUの反応は、放漫財政が問題の元凶と言う前提に基づいたものだったが、ドイツにおける低インフレと、スペインなど南欧周辺国、特にGIIPSにおける高インフレが、ヨーロッパの経済システムを次第に均衡から遠ざけた。
   ドイツと周辺国との国際競争力の格差が、大きな要因だと言うことである。

   ユーロ導入後、EU域内は統一通貨で同一金利であるから、投資家は、周辺国への融資に誤った安心感を持って、中核国から周辺国へ大規模な資金移動が起き、それに伴って経常収支不均衡が生じた。
   GIIPSへの資金流入は、国内の支出拡大につながり、これらの国の景気拡大に拍車をかけ、インフレ率をさらに高進させ、ドイツは逆の現象が起きた。
   両者の相対的インフレ率が誤った方向へと変動したために、ドイツと周辺諸国との競争力の調整・格差拡大が大幅に超える水準まで進み、周辺国の輸入超過の増大により深刻な対外不均衡を生み出し、周辺諸国の放漫財政政策が状況をさらに悪化させ、内需の高どまりと対内不均衡の持続に繋がった。
   政府需要の拡大と税率引き下げと言う財政政策は、景気拡大に拍車をかける働きをして、競争力の低下の影響を増大させた。と言うのである。
   統一通貨ユーロを導入しているので、どの国も、競争力の回復のための為替切り下げが出来ないので、益々、ドイツと周辺国との対外不均衡が拡大して行き、どんどん悪化する経常収支の不均衡が、やがて、過剰な対外債務となり、ソブリン・リスク、為替リスク、金融リスクを齎すのは、当然の帰結であった。

   経済政策には、二つの目標があり、それは、インフレなき完全雇用と持続可能な国際収支、すなわち、対内均衡と対外均衡の実現であることは、スワン・モデルで明確である。
   GIIPSなどのドイツとの国際競争力の回復など、今や、不可能であろう。
   著者は、対外均衡の目標とその達成のために必要な競争力の水準に関する政策立案システムを確立すること、そして、両者の競争力の面での関係について合意するする必要があると言う。
   ドイツから周辺国への輸出攻勢を和らげ、両社間の望ましい対外収支について合意するとともに、周辺国経済が対外均衡に向けた成長を実現できるように、両者のマクロ経済の拡大状況を調整する必要がある。と言うのである。
   ところが、現在は、ドイツ自身が、GIIPSなどの輸入を吸収し内需の促進に必要に十分な拡大政策を取らずに、また、国内経済を立て直して競争力を強化すべき筈のGIIPS等周辺国に、過酷な緊縮財政を強いて、成長政策を圧搾する、いわば、退路さえ断っている状態であるから、EU経済は、益々、窮地に追い込まれて行くと言うことであろうか。

   さて、著者の解決策だが、非常に常識的で、
   ドイツなど中核国も、GIIPSなどの周辺国も緊縮政策を受け入れるなど調整に伴う負担を引き受けることで、ECBは、GIIPSの銀行や政府に対して「最後の貸し手」の役割を果たす必要があり、そのために、ドイツはECBに巨額の資金拠出の負担を負うべきである。
   また、ドイツは、より拡張的な財政政策を遂行し、競争力を調整しなければならない。と言う。
   最早、政治的決着以外に方法がなくなっている。

   それに失敗すれば、ユーロ解体も視野に入ると言うことであろうが、生かすも殺すも、EUでの覇権国ドイツの動向にかかっていると言うことである。

   ドイツが、EUの存続を願うのなら、EUがアメリカ合衆国のように一体の体制と考えて、ドイツ自身が、国内問題として、EUの経済を立て直すべくイニシャティブを取って、果敢に挑戦しなければ、問題は解決しないと言うことは、このブログでも何回も書いてきた。
   今回のように、リーマンショックによって惹起された世界的な金融恐慌によって、通貨だけ統合したものの、財政政策は勿論、政治統合されていない経済同盟に近いEUが、一挙に、馬脚を現したと言うことであり、EUへの期待と願望が如何に幻想であったかと言うことが良く分かる。
   フランスがドイツを抑え込むために、東西ドイツの統一を許す条件にして、ユーロ導入が実現したと言う背景があるようだが、国家も国家連合も生き物・・・リバイヤサンのように、どこへでも動くのであろうか。
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