熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

葉山のフレンチ・レストランでの午後

2017年10月31日 | 鎌倉・湘南日記
   鎌倉の佐助に住んでいる長女が、穏やかな秋の午後のひと時を一緒に過ごそうとと言って車でやってきたので、久しぶりに逗子の方へ行って食事をしようと言うことになった。
   腰越に出て、海岸線を東に走ったのだが、先日の台風による激しい高潮の被害を受けた沿岸は、何もなかったように落ち着いていた。
   江の島から鎌倉にかけての海岸道路は、日頃は、交通渋滞が激しくて時間を要するのだが、この日は、難なく稲村ケ崎も簡単に通り越した。
   中国で、人気があるのであろうか、いつも、七里ガ浜海岸を走ると、鎌倉高校脇の江ノ電と北行きの道路の交差点で、海を臨む中国人観光客が犇めいているのである。
   

   やはり、港に出ようと言うことになって、葉山のヨットハーバーに近いフレンチレストランのラ・マーレに入った。
   後で、気付いたのだが、このレストランは、この葉山で300年の伝統を持つ日本料理店日影茶屋のCHAYAグループの創業1977年の店だと言うから、中々のものなのである。
   来月のコンサートの夜にプレコンサート・ディナーで予約を入れていたカフェ・チャヤマクロビが、この系列店だと言うことで、偶然とは不思議なものだと思っている。

   本格的なフレンチレストランなので、新しく入荷した新鮮な魚介料理の特別メニューが提供されていたのだが、昔の様に、ヨーロッパで、ミシュランの星付きレストランをグルメ行脚をしていた若き頃とは違うので、結局、ランチ・コースにして、フランス白ワインで通した。
    メニューは、次の通り
    烏賊のフライと海藻のサラダ
    焼き芋のポタージュ
  サーモンのグリエ スイスチーズ焼き
    とにかく、料理が美しい。
    デザートやコーヒーも、まずまずで、楽しませて貰った。
   
   
   
   

   すぐそばのヨットハーバーの方へ出て、港の雰囲気を味わおうと思ったが、少し風邪気味でもあったので止めた。
      

   しかし、家内や娘は、逗子駅直近のOKストアに寄って買い物をしたいと言う。
   Everyday low priceと言うウォールマートと同じ触れ込みのスーパーだが、やはり、随分安い。
   商品の値札に、堂々と何割引きと明示されていて、それがかなりの割引率なのである。
   千葉から鎌倉に移ってきてから困ったのは、物価が非常に高いことで、市役所前の紀伊国屋などは論外で、最寄りのコープでも、このOKストアから比べれば、かなり高い。
   
   

   余談だが、鎌倉には、大船撮影所があったにも拘わらず映画館さえなく、勿論、OKストアさえない、とにかく、庶民には全く住みにくいところなのである。
   古都、観光地と言うのだが、京都に比べればけた違いに小規模で貧弱であり、すぐに行きついてしまう。
   尤も、まだ、鎌倉もよく知らないので、奥深い魅力なり味があるのであろうと思ってはいるのだが。
   この鎌倉を起点にして、旧東海道など近くを歩こうと思った頃には、歳のこともあって、運転免許書を返上してしまい、電動自転車での遠出も不安になってきて、思うに任せられなくなっている。

   この日は、曇り模様の空で、わずかに太陽が漏れるくらいだったが、富士山は見えなかったが、七里ガ浜の向こうには、江の島が浮かんでいた。
   交通が激しくなければ、この海岸線は良い散策路である。
   
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モンブランの美味しい喫茶店が西鎌倉に

2017年10月30日 | 鎌倉・湘南日記
   NIKKEIプラス1の「なんでもランキング」と言うページに、ケーキのモンブランのランキングが出ていて、珍しく、鎌倉の店舗が2位に入っていた。
   モンブランは、私の好きなケーキなので、知らなかったので、どんな店なのかインターネットで調べてみたら、その支店が、西鎌倉にあることが分かった。
   「レ・ザンジュ 西鎌倉店」で、モノレールの西鎌倉駅からすぐである。
   

   この西鎌倉には、「レ・シュー 西鎌倉本店」と言う湘南ではかなり人気のあるフランス創作菓子の店があって、誕生日など日頃から結構お世話になっている。
   この店は、販売が主体で、店舗の中には、喫茶用としては、数人が座れる木製の簡易な席はあるが、喫茶店の用はなさない。

   ところが、レ・ザンジュの方は、洋風の民家を転用した感じで、玄関わきの応接間風の部屋を喫茶室にして、かなり、雰囲気のある独立した空間を作っている。
   偶々、当日は、我々だけだったので、クラシック音楽が流れていて落ち着いた時間を過ごせたが、狭いので、混むとそうでもなかろうと思う。
   

   当日は、モンブランは、家族で賞味しようと思って、帰ってからと言うことにして買って帰り、他のケーキを試みようと、季節品だと言うアップルパイを頂くことにした。
   私の経験からくる独断と偏見だが、味としては、特にどうと言うことはなく、コーヒーも普通であった。
   1000円が、コストパフォーマンスとしてはどうかは分からないが、普通の住宅街にポツンとある喫茶店としては、ムードなり雰囲気としては、上等であろうと思う。
   ちなみに、モンブランは、評判通り、美味しかった。

   ところで、違和感を感じたのは、トレイでサーブされるコーヒーとケーキである。
   コーヒーカップには受け皿もなければ、ケーキは、ラベル付きの店頭に並べてあるケーキをそのまま、トレイに載せて持ってくる。
   日本風のサーブを意図したのであろうか、私は、随分、欧米を歩いてきたが、コーヒーカップと受け皿、ケーキ皿と言う、カップソーサーのセットには、ヨーロッパ文明の長い歴史と伝統が息づいており、それなりの知恵と作法がビルトインされていて、これが文化だと思っている。
   ランチョンマットを使用するイギリスでも、必ず、コーヒーでも紅茶でも、趣味のよい同系統の陶器や磁器の、受け皿付きカップで、ケーキはケーキ皿に載せてサーブされて、格調と品位を魅せて楽しませてくれる、これこそ、憩いのひとときなのである。
   
   
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国立能楽堂・・・寺社と能《四天王寺》

2017年10月29日 | 能・狂言
   国立能楽堂の企画公演で、寺社と能特集で、四天王寺の「天王寺舞楽」と能「弱法師」が上演された。
   先日、宮崎の神楽を鑑賞した後なので、能の原点の一つでもある舞楽の公演に、期待して出かけた。

   会場に入ると、能舞台の四隅に、三つの擬宝珠を頂いた朱塗りの直角三角形の欄干が置かれ、囃子座に、打物の鞨鼓、太鼓、鉦鼓が並べられていた。
   そのほか、楽人は、ワキ座から地謡座にかけて、鳳笙、篳篥、竜笛、夫々、三人ずつが並んで奏する。
   楽人たちも、鳥甲を頂き、舞人同様な豪華な衣装を身に着けて、しずしずと橋掛かりを渡って席に着く。
   
   舞楽は舞を伴った雅楽で、中国・インドや朝鮮半島から請来したものなので、その後日本の社会から生まれた申楽などとは違って、音楽も衣装も、非常に大陸的で、色彩豊かで豪華かつ豊かで、目を見張るものがある。
   四天王寺の舞楽は、聖徳太子の御霊をなぐさめるための法要で奉納される舞楽で、独特の仮面を付け色あざやかな装束を身にまとった舞人たちが、優雅な雅楽に奏されて、舞う。

   この日、舞われたのは、
   採桑老(さいそうろう)
   甘州(かんしゅう)
   蘇莫者(そまくしゃ)の三曲。

   採桑老は、老人の面をつけ、真っ白の装束を身に着け、手に鳩杖を持ち、腰に薬袋を下げた老人が、長寿を寿ぐ舞を、ゆっくりゆっくりと、優雅に舞う。
   甘州は、起源は玄宗皇帝に遡ると言う四人の舞人が、流れるように優美に舞う、私には最も舞楽の典型の様に見える優雅な平舞で、同じ舞を舞っているのだが、夫々の舞人の個性が出ていて、面白かった。
   蘇莫者は、聖徳太子が、信貴山の麓の川を馬で渡りながら笛を吹くと、信貴山の神が猿の姿で現れて舞を舞ったと言う、これを舞楽にした曲。
   能面の癋見を大人しくした感じで猿面をミックスしたような、頭のてっぺんから左右二筋に細長い白髪を垂らし、長い白い顎髭を引いて、見開いた目と口は金色で、一寸愛嬌のあるコミカルタッチの黒い面をかけ、実に豪華で細工の込んだ装束を身に着けた舞人が、飛び跳ねたり速足で進んだり、軽妙に舞い続ける。
   四天王寺の聖霊会の舞楽は、随分、素晴らしいであろうと思う。
   
   後半は、
   能「弱法師」 シテは、人間国宝の大槻文藏(観世流)。
   この能は、何度も観ているが、動きが殆どないので、正に、想像で鑑賞する舞台である。
   私には、文楽や歌舞伎の「攝州合邦辻」の俊徳丸のイメージの方が強い。

   今は、四天王寺は、込み入った住宅街なので、
   淡路絵島、須磨明石、紀の海までも・・・などと言った世界ではない。
   昨年2月に、この四天王寺を訪れてブログに書いているので、舞楽が演じられる舞台と、弱法師の舞台の西門の写真を転写して置く。
   口絵写真は、インターネットより借用した。
   
   
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「琵琶湖周航の歌」に思うことども

2017年10月28日 | 生活随想・趣味
   今日の日経の林真理子の小説「愉楽について」を読んでいたら、「琵琶湖周航の歌」の話が話題になっていた。
   主人公のこの歌に対する思いについては、多少違和感があるのだが、
   雄松が里の乙少女は 赤い椿の森蔭に はかない恋に泣くとかや・・・と言うところを引用して、主人公田口が、激しい恋に落ちたと言う導線になっていて、明日から、その展開があるようである。

   私は、この「琵琶湖周航の歌」の話で、一気に、あの懐かしい青春に引き戻されてしまった。
   この歌を友人たちを謡い続けながら、私の青春が始まったような気がする。

   古い話になるが、私が、京大の新入生になって、コンパで初めて友人から習った歌が、二つあって、その一つが、この琵琶湖周航の歌であった。
   もう一つは、後で題名を知ったのだが、「残念ソング」とかと言う、”向こうとおるは女学生 3人揃ったその中でいちばんビューティーが気に入った・・・” と言う歌であった。
   この中の歌の文句、”ロンドンパリを股にかけ、フィラデルフィアの大学を・・・卒業した時にゃ・・・・”と言う部分は、そのずっと後になって、奇跡的と言うべきか、私自身が経験してきた道であった。

   今日はそのことではなく、「琵琶湖周航の歌」である。
   この歌は、京大の前身三高の学生歌であるために、バイブルのようなもので、学生たちが集まると、何かの拍子に必ず、蛮声を張り上げて唱和し、思い思いの青春を噛みしめながら感慨に耽った。
   私は、船では、竹生島を往復したくらいだが、車で琵琶湖を一周したり、大津、彦根、長浜は勿論、琵琶湖北岸の十一面観音巡りや湖東三山、甲賀甲西など、随分、琵琶湖および周辺地域を歩いたのだが、比良山系を見上げる湖畔でキャンプをはった思い出や、真っ暗闇の中を比叡山から坂本へ歩いた思い出など、今思い出しても随分あって懐かしい。

   しかし、私にとっては、この琵琶湖周航の歌は、琵琶湖や滋賀の話と言うよりも、それから始まった、ある意味では、旅に開け旅に暮れたような私自身の漂泊人生への限りなき思い入れと、今では遠くになってしまった、情熱と爆発的なエネルギーにドライブされた青春時代そのものの象徴なのである。
   大分、ニュアンスは違うが、私は、何となく、寅さんのような人生を送ってきたような気がすることがある。
   あの琵琶湖周航のの歌を謡いながら、恋に思いを馳せ、夢に突き動かされて馬車馬のように突進し、あっちこっちを彷徨いながら人生に感動しつつ、情熱一杯に突っ走って来たように思う。
   上手く表現できないが、この歌を口遊みながら、何十年も前の思い出に浸っている。
   
(追記)口絵写真は、インターネット掲載の画像を借用した。
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国立能楽堂・・・椎葉神楽 悠久の舞 〜能舞台に神々が舞い降りる〜

2017年10月27日 | 能・狂言
   昨26日、宮崎県の二度目の神楽公演は、今度は、国立能楽堂で行われた。
   「椎葉神楽 悠久の舞 〜能舞台に神々が舞い降りる〜」である。
   
   

   ウィキペディによると、椎葉村は、
   ・・・約400mの標高があり、可住地面積は村域の僅か4%に過ぎず、川沿いや、山の主に中腹域の緩斜面に点々と集落が存在し・・・十根川地区には国の天然記念物に指定されている八村杉(別名:十根の杉)があり、不土野地区には日本で唯一、焼畑農業を継承している農家がある。村内の26地区で国の重要無形民俗文化財である椎葉神楽が伝承されており、また、平家の落人伝説の地でもある。その地理的特徴・民俗的特徴から日本三大秘境の一つに数えられ、毎年11月には椎葉平家まつりが開かれるなど、今なお伝承文化が息づく村である。
   と言うことである。
   那須与一宗高の弟の那須大八郎宗久が頼朝の追討の命を受けて、攻め入るも、ひっそりと農耕をやりながら暮らす平家一門の姿を見て、哀れに思い追討を断念して、屋敷を構え、この地に留まり、平清盛の末裔である鶴富姫と出会って恋が芽生えたと言う。
   11月の椎葉平家まつりも間近く、ポスターが展示されていた。
   
   

   高千穂にも、子守歌の五木にも近く、熊本との県境の人口2700人の村に、26地区に夫々伝承された神楽があると言うから驚く。
   今回公演した「向山日添神楽」は、集落は25世帯で、人口100人足らず、そのうち、神楽人口は、僅か17人で、12月2・3日に神楽が催行されるのだが、今回の公演では、33演目の内9演目が上演され、この17人が、熱演の後も、入れ替わり立ち代わり、地謡を含めて出演し続けていた。
   伝統芸能の底力とこれを継承し続ける人々の途轍もないパワーを感じて感嘆の一語である。
   夫々の演目は、30分をゆうに超すと言う大曲で、椎葉神楽の特質であろうか、笛や鉦などの鳴り物は太鼓一つで、押し通す爽快さで、これ程、太鼓が雄弁な楽器であったかと驚いてしまう。

   國學院大學小川直之教授の論文では、
   宮崎県の神楽は、「地域神話と生活に根差した歴史性と創造性、多様性」が特徴で、
   政権の中に組み込まれた神話とは別に、夫々の土地にある神話、生活に根差した、狩猟や稲作、さらには漁労活動と言う長く継承されてきた生活様式を表現する演目が歴史過程で創造されてきたと言う。
   そして、神楽や採物の謂われを語る唱教と呼ばれる唱え言も貴重なのだが、平安後期の歌唱も含まれており、仏教色を一掃する唯一神道の影響が少なく、古い形の神楽が残っており、神仏混交の唱教が多いと言うのも興味深い。

   神楽は、千年の歴史、
   能は600年で、歌舞伎は400年、
   日本のパーフォーマンス・アーツの系譜であろうか。

   当日公演された神楽のスナップショットを示すと次の通り。
   開演45分前に行ったのだが、座席(自由席)は7割方埋まっていたのだが、幸い、前に障害のない中正面6-1が空いていたので、写真が撮れた。
   本来、能楽堂での上演中写真は禁止だが、この時はフラッシュなしで許された。

   案永(あんなが)
   
   
   
 
   大神(だいじん)
   
   
   
   
   
   鬼人
   
   
   
   
   
   

   ちんち
   
   
   

   かんしん
   
   
   
   
   
   
   

   手力男(てぢから)
   
   
   
   
   森の弓
   
   

   泰平楽
   会場の全員に、御幣が配され、全員で唄い舞う
   
   
   
   

   最後の「弓通し」では、能楽堂の見所の出入り口に、二人が弓を立て、弦を引いて開き、観客は、その弓の間を潜って見所を出た。
   
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林真理子著「六条御息所 源氏がたり 二、華の章」

2017年10月25日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この章は、澪標から玉鬘・初音の中途くらいまでで、源氏が、玉鬘(夕顔の娘)の床に忍び込むところまでで終わっている。
   明石からの物語なので、この玉鬘へのように、源氏が、若かりし頃の愛人たちの娘たちに、モーションをかけ始めるのだが、流石の名うてのドンファン源氏も、望み通りに恋が成就しない展開が続いていて面白い。
   尤も、著者は、紫式部の原文をそのまま踏襲するのではなく、自分なりに読み解いて六条御息所の視点を借りて林真理子の源氏物語を展開しているので、省略や増幅がかなりあって、独自の章付けをするなど、ストーリーも必ずしも、原書通りでもない。
   私自身も、源氏物語を読んだのは、ずいぶん昔のことなので、殆ど記憶になく、改めて源氏物語を読む感じなのだが、ところどころ、紫式部とは違うなあと思う箇所がいくつもあって興味が尽きない。

   第一巻で、源氏にとって、重要な女性は、藤壺と六条御息所であったが、二人とも逝去してしまうので、この巻では、紫の上と明石の君が、重要な位置を占める。
   特に、明石の君は、女児をもうけたので、源氏は、占い師に皇后になるであろうと言われて、その子を将来の后にするべく、紫の上の養女として引き取るのだが、大堰川の屋敷に移り住んだ明石の君に通い始め、六条院に住まわせてからはその美しさと魅力に惚れて入れ込むので、紫の上を動揺させ続ける。
   この女遍歴の次第を、一つ一つ、源氏は気を使いながら、苦し紛れに、紫の上に説明して許しを請い、既成事実を積み上げて行くのだが、昔も今も、妻には男は頭が上がらないようである。
   明石の君の姫君誕生についても、子供が出来て欲しいところにはなかなか生まれず、女の子だから面白くも何ともなく、ほっておいてもよいのだが・・・と、紫の上を傷つけるようなことを言うのだが、紫の上が子供好きと言うことで一件落着。後に、密かに、紫の上は、本当の母になりたかったのであろう、胸をはだけて乳を含ませて飲ませる仕草をしたと言う。
   初夜の屈辱から源氏を全く信用しなくなってしまった紫の上が、源氏の不誠実のすべてを察しながらも、機嫌取りの寝物語で、聞き流しながら、理想的な夫婦生活を続けていたと言うのが、興味深い。

   ところで、著者は、御息所と源氏の母の桐壷の更衣とは同じ祖を持つ一族の女で、明石の君の父入道と、桐壷の更衣とは、従兄妹の間柄で、親族だと言うこともあって、明石の君については、非常に好意的にストーリーを展開している。
   明石の入道は、大臣の子でありながら田舎へ流れる運命を辿り、桐壷の更衣は、健気にも家名を取り戻すべく宮廷へと向かったが道半ばで逝去し、御息所だけが東宮妃に上ったものの、東宮の逝去で夢破れ、今や、やっと、明石の君の姫君が、后の座を狙う位置に辿り着いたのである。
   尤も、明石の君が、田舎者で、都の相当な家に生まれていなかったと言うことが、源氏にとっては苦痛であり、ずっと、後まで尾を引いているのだが、帝が実子(これは、藤壺と源氏の子であることを、唯一知っている僧都から聞いて知っている)であって、源氏が太政大臣であったとしても、清盛の様に権力を揮えなかったのであろう。

   さて、源氏の恋の遍歴だが、六条御息所は、死ぬ間際に、源氏に、自分の娘には、絶対手を出すなと釘をさして、認めさせたのだが、勿論、そんなことを聞く源氏ではなく、モーションをかけ続けた。
   このあたりの経緯を、オリジナルにはさらりと叙述されているだけなのだが、御息所は、死霊として、はらはらしながら見ながら、克明に描いているのが興味深い。
   結局、源氏は、この斎宮を養女に迎えて、実子である11歳の冷泉帝の元へ女御として入内させるのだが、それでも、女御への恋心は収まらず口説き続け、御息所の遺言の諌めが利いて、未練たらたらながら後見役に徹したのである。

   このほかにも、従兄弟の式部卿の宮の姫君で斎院をしていた朝顔の宮にも、しつこく言い寄るのだが、源氏は、振られている。

   もう一人、前述した夕顔の娘(頭の中将の娘でもある)玉鬘を、夕顔の元侍女右近が偶然、長谷で見つけたのを娘として引き入れて、六条邸の花散里に後見させることにするのだが、恋焦がれて執拗に愛して儚く世を去った夕顔の子供であり、美しくて魅力的な女性であるから、源氏の執念が燃え上がって、親権を装って、アプローチする。
   この巻では、「あの方は下着だけになると、するりと娘の傍に横になります。娘は恐ろしさと情けさで涙をこらえることが出来ません。」と言うところで終わっているのだが、紫式部は、穏やかな表現ながら、林真理子は、リアリティに徹するので、分かり易い。
   次の巻だが、源氏は玉鬘への思いも空振りで、玉鬘は、黑髭にさらわれてしまう。

   尤も、この巻は、源氏の老いらく(?)の恋の失敗だけではなく、大切な左大臣や藤壺や六条御息所の逝去など、色々な話題満載なので、結構、面白いのである。
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旧東海道・・・増上寺から品川宿

2017年10月24日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   増上寺への手前に、芝大神宮がある。
   神社の由緒によると、
   芝大神宮は、伊勢神宮の御祭神、天照大御神(内宮)、豊受大神(外宮)の二柱を主祭神としてお祀りしています。御鎮座は遠く平安時代、寛弘二年(1005年)一条天皇の御代に創建された由緒あるお社です。と言うことで、随分古く、頼朝や家康も社参しており、関東一円の庶民信仰を集め、「関東のお伊勢さま」として多くの崇拝を集めていると言う。
   「厳粛」で「和やか」且つ「華やか」な神前結婚式を執り行います。と言うことで、当日も、本殿で結婚式が挙げられていた。
   私の関心は、この芝大神宮が、歌舞伎でしばしば観る「め組の喧嘩」の舞台であったと言うことである。
   芝大神宮境内で開催中だった相撲の春場所を、この界隈を管轄していため組が無銭見物しようとしたのが発端で起こっため組と相撲取りの喧嘩を主題にした歌舞伎で、「火事と喧嘩は江戸の華」と言うくらいであるから、芝居や講談のメインテーマとなるのは当然であろう。
   神社の両脇を固める狛犬の台座石に「め組」と彫られていたのが面白かった。
   
   
   

   大門を潜って、増上寺に向かった。
   増上寺と言えば、徳川家の菩提寺。
   時間も殆どなかったので、三解脱門を通り抜けて、右手に、鐘楼堂を仰ぎ、正面の石段を登って、巨大な大殿に入った。
   殆ど参拝客がなく、広い堂内は、厳粛な静寂に包まれて、格別な雰囲気を醸し出していた。
   正面には、木造阿弥陀如来坐像(本尊)が、薄暗い堂内に光を放ち荘厳な佇まいで、鎮座ましましておられる。
   しばらく、堂内で思いを馳せ、雨の中に帰って行った。
   
   
   
   
   

   三田駅にほど近い道路沿いに、三菱自動車ビルの前に、西郷南洲・勝海舟会見の地の記念碑が立っている。
   東征軍の江戸城総攻撃を目前にした慶応4年(1868年)3月14日に、東征大総督府下参謀の西郷隆盛と、旧幕府徳川家陸軍総裁の勝海舟の会談が、この田町にあった薩摩藩邸(蔵屋敷)で行われて、江戸開城が決定されたのである。
   私の印象は、やはり、歌舞伎で観た、真山青果作の新歌舞伎の「江戸城総攻」三部作(連作)で、感動的な舞台である。
   この時は、江戸の街は救われたが、馬鹿な戦争で、東京は火の海に包まれてしまった。
   
   

   港区高輪二丁目まで来ると、石垣が残っていて、高輪大木戸跡がある。
   ここは、東海道における、江戸府内への入口であり、京都へ上る出口として設けられた大木戸の跡で、元は街道の両側に築かれた幅約20メートルの土塁の間に大きな木戸を設け、明け方六ツに開き、暮れ六ツに閉じて、治安の維持と交通規制の役割を果たしていた。
   江戸から旅立つ人は、いよいよ旅の始まりだと言う感慨に耽り、京から下ってきた人は、とうとう江戸に来たと言う喜びに浸った貴重な関門であったのであろう。
   日本地図を作った伊能忠敬は、ここを全国測量の基点としたと言われている。
   

   この大木戸からすぐのところに、忠臣蔵で有名な赤穂浪士の墓地がある泉岳寺がある。
   この萬松山泉岳寺は、慶長17年(1612年)、徳川家康が幼年、身を寄せた今川義元の菩提を弔うため、江戸城に近接する外桜田の地に創建し、門庵宗関和尚(1546年~1621年)を迎えて開山となったと言うから徳川家ゆかりの由緒正しい寺なのである。
   また、赤穂藩主浅野家の菩提寺であったことから、元禄15年の義挙(1702年12月14日)の後は、赤穂四十七義士の墓所としても知られ、討入り約50年後より上演された歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の興行が盛んになるに伴って一層多くの参詣者が訪れるようになったと言う。
   私も、イメージは、歌舞伎や文楽の世界からで、結局、この日は、ひげの梶さんの話を境内で聞いて、吉良の首を洗ったと言う首塚と大石内蔵助や主税などの墓を見ただけで寺を出た。
   墓所の右側祠が内蔵助、左端の建屋が主税の墓で、その間に、他の義士の墓が立っている。
   
   
   
   
   
   
   

   さて、品川駅から、大分、東海道を上ったところに、品川宿がある。
   京急北品川駅近くの踏切近くに、観光地図の立て看板があって、そこから、京急新馬場駅の方向に向かって、旧東海道の品川宿が走っていたようで、今は、商店街が続いている。
   途中にあったのは、家光と沢庵和尚が問答をしたと言う「問答河岸の碑」。
   高杉晋作や久坂玄瑞たちが、御殿山のイギリス公使館焼き討ちの密議をした「土蔵相模跡」。
   「日本橋より2里」の道標がある「品海公園」。
   後は、延々と商店街が並んでいるのだが、江戸時代には、「こちゃえ、こちゃえ」の飯盛り女が手招く宿が軒を連ねていたと言う。
   地方へ行くと、完全にシャッター通りなのだが、流石に、品川で、綺麗な商店街の町並みは生きている。
   
   
   
   
   
   
   
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旧東海道・・・日本橋から銀座まで

2017年10月23日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   先日歩いた旧東海道の第一歩、まず、日本橋から銀座までの印象記を記して見たい。

   東海道は、律令時代に設けられた五畿七道の一つで歴史は古いのだが、我々の意識にあるのは、徳川家康が、1601年(慶長6年)に「五街道整備」により、五つの街道の一つとして、日本橋(江戸)から三条大橋(京都)に至る宿駅を、53箇所置いて制定した東海道五十三次ではないかと思う。
   箱根と新居に関所を設けて、その後、1603年(慶長8年)には、東海道松並木や一里塚を整備したと言うのだが、映画やテレビで記憶にある、参勤交代で、大名行列が行き来した旧東海道のイメージである。

   この日本橋の橋のたもとに、日本の道路の起点となる日本の道路元標が置かれている。
   この日本橋は、何も、東海道だけの起点ではないが、広重の日本橋図や童謡の「お江戸日本橋」は当然、東海道であろう。
   

   お江戸日本橋 七ツ立ち 初のぼり 行列そろえて あれわいさのさ コチャ高輪 夜明けて 提灯消す(コチャエー コチャエー)
   夜明け前の4時に日本橋を出立すれば、高輪あたりまで来ると夜が白み始めるので提灯の灯を消すと言う。
   面白いのは、元々この歌は、東海道の宿場には、必ず、女郎(飯盛り女と言う)が居て、「こちゃえ、こちゃえ」、すなわち、「こっちへ、こっちえ」呼び込む声で、「こちゃえ節」だと言っていたと言うから、文部省も罪なことをしたものである。

   さて、今の日本橋だが、明治44年に、米元晉一が設計し、慶喜が橋名を揮毫した御影石の橋で、6本の橋塔には、東京市章を支えたブロンズ製のキリンやシシが置かれたルネサンス式の明治の文明開化を象徴したと言う立派な橋である。
   しかし、その上に、無粋な高速道路が走っていて風景をぶち壊しており、如何に、開発成長とは言え、当時の日本の文化意識や民度が低かったかと言うことを如実に示していて、悲しい限りである。
   道路元標の道路を隔てた対面に、江戸時代の魚河岸があったと言うことで、これが築地市場に移ったのだと言う。
   元々は、将軍家御用達の魚のための魚河岸であったのを、残り物を商ったと言うのだから面白い。
   
   
   

   京橋の手前に、江戸歌舞伎発祥の地がある。
   江戸歌舞伎は、寛永元年(1624)に、京都からやってきた猿若勘三郎が中橋南地に、猿若座を立ち上げて、その後、中村勘三郎と名を変えたので、中村座となったのだが、今の木挽町の歌舞伎座とはかなり離れた距離にある。
   阿国が、慶長8年(1603年)に、京都河原町で、「かぶき踊」を始めたと言うから、江戸歌舞伎の幕開けも、それ程、上方と比べて遅いわけでもない。
   

   さて、中央通りの一丁目と二丁目の間のTiffanyビルの前あたりが、銀座の発祥地で、右手に記念碑が見える。
   家康が、駿府銀座をそのまま移したのだと言う。
   銀座は、連日大変な人込みだが、休日になると、銀座を歩いているのは、殆ど、中国人であるのが興味深い。
   
   
   
   

   ところで、銀座八丁目に銀座カフェーパウリスタがある。
   大隈重信らの助けを借りて、明治43年にブラジルサンパウロ州政庁専属ブラジル珈琲発売所「カフェーパウリスタ」を設立したと言う銀座初のコーヒーショップだと言うから、100年を超す老舗である。
   銀ブラと言う言葉の発祥は、このブラジル・コーヒー店からきていると言う説もあると言うから面白い。
   私も4年間サンパウロに居て、パウリスタに住んでいたので、ブラジルコーヒーはよく知っているが、この店では、どんなコーヒーがサーブされているのか興味がある。
   ブラジルコーヒーは、濃厚なエスプレッソで、デミタスカップ様の小さなカップに、同量くらいの砂糖を入れて飲むのだが、その砂糖をどの程度かき回して甘さを加減するのかが問題である。
   これを、訪れる家や事務所毎に、サーブされるので、最初の内は、甘くて美味しいと思ったが、体が持たなかった。
   このコーヒーを気楽に飲めるのが、日本のタバコ屋の様に街角に沢山あるバールで、ドトール・コーヒーは、この止まり木形式を模して100円コーヒーを始めた。
   このドトールが、銀座の一等地三愛ビルの1・2階を占めているのであるから、これも、時代の流れであろう。
   
   
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国立演芸場・・・十月国立名人会

2017年10月22日 | 落語・講談等演芸
   台風接近中で、交通の心配があったが、夕刻、早く跳ねるので、思い切って、半蔵門の国立演芸場に出かけた。
   この写真の様に、雨が激しく、傘置きが満杯で、満員御礼ながら空席がかなりあった。
   
   
   
   演目は、次の通り

   第412回 国立名人会

   落語 「源平盛衰記」 春風亭柳朝
   落語 「千早ふる」   立川談笑
   落語 「鮑のし」      古今亭志ん橋
     ―仲入り―
   落語 「片棒」       立川龍志
   曲芸             翁家社中
   落語 「寝床」       春風亭 一朝

   トリの春風亭一朝の「寝床」は、殆ど、マクラなしの30分以上の熱演。
   「下手の横好き」の典型的な落語で、
   聞くに堪えない下手な義太夫に入れ込んでいる大店の旦那が、料理など接待の準備万端整えて、長屋の連中を集めて、自慢の浄瑠璃を語って聞かそうと、番頭の茂造に長屋を回って呼び集めさせる。
   しかし、皆は、聞きたくないので、すった転んだと勝手な理由をつけて、断わって誰も来れないと言い、店の雇人にも誘いを入れても、病気だ調子が悪いなどと言って、誰も、良い返事をしたいので、怒った旦那は、番頭に、店子の長屋の連中に明日12時までに店を明け渡せ、雇人には、暇をやるから国に帰れと、伝えろと指示する。
   もう一度長屋を回った番頭は、追い出されては困るので、店子たちは、さわりだけでも聞きたがっているとお世辞を言いながら集まってきたので、気をよくした旦那は、語り始めるのだが、義太夫が直撃すると即死だと言って頭を下げて聞き、酔いが回って、皆寝込んでしまう。
   感動しているだろうと思って御簾を上げた旦那は、この醜態に腹を立てるが、隅に座っていた丁稚の定吉が一人泣いているので、感激して、どこが良かったのかと聞くと、そこだと言って指さすところは、旦那が義太夫を語った床。
「そこは、私の寝床です。」

   千字寄席によると、
   この噺の長屋は通りに面した二階建ての表長屋で、この旦那は、居附(いつ)き地主といって、地主と大家を兼ねていて、表長屋の店子たちは、鳶頭など、比較的富裕な中産階級であり、単なる賃貸関係でなく、店に出入りして仕事をもらっている者が大半なので、とても「泣く子とだんな」には逆らえない。
   と言うことで、この長屋の住民の苦境が分かって興味深い。

   とにかく、長屋の住人の断わり方が、夫々、当時の生活や風習などを彷彿とさせて面白く、仲を取り持つ番頭の旦那との語り口が秀逸である。
   春風亭一朝を聞くのは、2~3度程度で、この「寝床」を聞いたのも2度くらいだが、とにかく、今回は、じっくりと、一朝の話術の冴えと噺の面白さを堪能出来た感じで、十二分に楽しむことが出来た。

   談志門下の談笑と龍志が登場したが、実に上手くて流石だと思った。
   談笑は、トランプや現今の政治などカレントトピックスをマクラに、面白い「千早やぶる」を語ったが、古典のパロディ化としても、
   在原業平の 千早ぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは
   も、こうなると、顔色なしである。

   龍志の「片棒」は、大店の旦那が、後継ぎを選ぶのに、三人の馬鹿息子に、自分の葬式をどの様に営むかと聞いて、突拍子もない答えに振り回わされると言う噺で、浮世離れした発想と、その語り口を、臨場感たっぷりに縦横に語り続ける噺家の力量は、大変なものである。

   志ん橋の「鮑のし」は、初めて聞いたが、面白かった。
   噺家の芸の年輪をじっくりと味わわせてくれた語り口で、このような蘊蓄を傾けた話題を扱いながら、頭の弱い人物を泳がせると言う話も、落語の豊かさであろうと思った。

   柳朝の「源平盛衰記」は、わずかな時間に、さわりの殆どを語ろうとする一寸変わった落語で、みんなが知っている話の連続なので、分かると言うところが、ミソであろうか。
   語り口の爽やかさとリズミカルなテンポの畳み掛けが、面白かった。

   前座のかな文の「金明竹」の早口の流れるような語り口に、拍手喝さい。

   とにかく、台風にも負けず、国立演芸場にやってきたお陰で、楽しむことが出来た半日であった。
   
       
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東海道五十三次街道歩き:日本橋から品川宿

2017年10月21日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   JTBの東海道五十三次街道歩きの第一回目に参加した。
   日本橋から品川宿まである。
   台風接近の影響はまだだったが、一日中雨の中を、JRで言えば、新日本橋から品川の先まで、約9キロの道を歩いたのだが、老骨に鞭を打ったものの、やはり、強行軍であった。

   当然、傘の使用は禁止であるから、レインコートで通したのだが、孫の幼稚園・保育園の送り迎えのためにと思って買ったミズノのコートとキャップが役に立った。
   カメラは、孫娘が、SONYのRX100を壊してしまったので、NIKON 1 J3のズーム10-100を持って行ったので、すこし大きくて、雨の中での使用に苦労した。
   尤も、旧東海道歩きが目的であるから、気楽に写真を撮っている時間はなく、遅れ遅れの行程を気にしなければならなかったのだが、二組に分かれた主に老人グループながら、写真を撮っている人は少なかった。

   関西から東京に来て、結構長いのだが、今回歩いたところで、訪れたり知っていたところは、日本橋の道路元標と芝の増上寺くらいで、殆ど、知らないことに気づいて驚いている。
   江戸歌舞伎の発祥地が京橋の近くにあることも、勝海舟・西郷隆盛会見の地が三田にあることも、歌舞伎で観ため組の喧嘩が芝大神宮であったことも知らなかったし、東京の街を歩いてみれば、結構、あっちこっちに、歴史的な故地や遺跡の跡地に指標や説明札などがあることを知って、注意しておれば、結構面白い気付きや発見ができることを知ったのである。
   
   歩いていて結構おもしろいと思ったのだが、遺跡や旧跡と言っても、殆ど、実物なり、遺跡そのものの片鱗さえ残っていないのが殆どで、あの話は、ここのことで、ここで起こったんだと言うことは分かっても、それ程、実感として湧いてこない。
   昔、随分、京都や奈良を歴史散歩したり、ヨーロッパを歩いた時には、ふんだんに遺跡や実物が残っていて、歩いていて、どっぷりとタイムスリップする楽しみがあったように思う。

   やっと、第一宿目の品川宿に辿り着いたところなのだが、次は、品川から川崎宿、その次は、川崎から神奈川宿、保土ヶ谷、戸塚、藤沢と来ると、私のいる鎌倉の直近である。
   旧東海道全体に興味があるわけでもないので、次はどうするか、街道歩きの日帰りツアーを続けるか、興味のある所だけ、ツアーに参加して、後は、適当に自分自身で旅程を組んで歩くか、どうしようか思案中である。

   これまで、公私ともに、殆ど自分で旅程を組んで旅をしてきたので、まず、団体旅行に抵抗がある。と言うよりも、団体行動は苦手であり、思うように融通が利かない。
   まず、結構、東海道五十三次街道歩きのガイドブックも出ているし、関連書籍も多いので、バスですぐの藤沢宿を起点にして、保土ヶ谷と平塚を歩こうかととも思っている。
   
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ジャック・オー・ランタン(ハロウィン・パンプキン)を作る

2017年10月20日 | 生活随想・趣味
   ハロウィンの季節になると、ハロウィンパンプキンでジャック・オー・ランタンを作る。
   これまで、二人の孫息子のために、夫々、作ってきたので、今年は、1歳の孫娘のために作ったのである。

   一番最初に、ジャック・オー・ランタンを作ったのは、もう何十年も前、アメリカでの留学時代で、フィラデルフィアの学生寮にいた時に、ナーサリースクールに通っていた長女のために作った。
   この時は、娘も、人形の面をつけてハロウィン衣装を着て、近所のアメリカ人の子供たちと一緒に、家々を、「トリック・オア・トリート、トリック・オア・トリート 騙されたくなかったら お菓子を頂戴」と声をかけて回って、沢山のお菓子を貰って帰ってきた。

   季節になると、アメリカでは、スーパーやコンビニなどに、オレンジ色の大きなパンプキンが並ぶので、買ってきて、家でジャック・オー・ランタンを作る。
   それ程、難しいことはないのだが、結構、カボチャが肉厚なので、くりぬいて、目鼻や歯の出た口を作るのが、一寸、大変なのである。
   パンプキンの底に穴を開けて、綺麗に、中の種や内容物を取り出して肉厚の壁面だけ残すまでに、かなり、時間がかかる。
   マジックで、パンプキンの表面に、目鼻口を書き入れて、鋭利な包丁で、なぞって刳り抜く。

   ところで、日本では、このオレンジ色のハロウィンパンプキンを手に入れるのが、一寸、一苦労である。
   大きな園芸店などに行くと、売っている場合があるのだが、普通の花屋さんなどでは、まず、取得は難しく、あっても僅かな数で、30センチくらいの大きなハロウィンパンプキンとなると、中々、手に入らない。
   インターネットで買えば買えないこともないのだが、大きなものは、すぐにソールドアウトになり、送料を入れると、3~4千円する。
   別に高価なものではないのだが、アメリカで、ほんの数ドルで買っていた私にとっては、馬鹿らしいと言う気がある。

   幸い、今回は、コープの花屋の店頭に、二つ、鮮やかなオレンジ色のパンプキンが並んだ。
   少し出来が悪くて、形は歪だが、大きい方が、1500円。
   迷わず買って帰って、しばらく置いて、ボツボツ、ハロウィンが近づいたので、ナイフを入れた。

   昨日作ったので、ローソクに火を入れて、保育園から帰ってきた孫娘に見せたら、気づいて、手を叩いて喜んだ。
   作った甲斐があったのである。
   
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国立劇場・・・歌舞伎・仁左衛門の「霊験亀山鉾」

2017年10月19日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   歌舞伎座が、定評のある演目をみどり形式のアラカルトプログラムで上演するのに対して、国立劇場は、歌舞伎を通し狂言で上演したり、上演が途切れていた演目を舞台に掛けるなど、非常に意欲的なプログラムを提供するので、いつも楽しみにしている。
   歌舞伎でも文楽でも同じだが、やはり、芝居は、一巻完結の通しで見るのが、一番楽しめる筈だと思っている。

   今回は、鶴屋南北の「霊験亀山鉾」、仁左衛門が、悪役二役を務める惡の華満開の歌舞伎で、久しぶりの上演だと言う。
   先月、あぜくら会予約解禁の9月4日朝10時には、歌舞伎としては珍しく、国立劇場のチケットセンターのインターネットが、長い間輻輳して繋がらなかったのだが、その割には、結構空席があった。

   この歌舞伎は、小諸の石井源蔵・半蔵兄弟が、父と長兄の仇・赤堀源五右衛門を、親族が何度も仇討を試みるが返り討ちに合い、28年後に、伊勢国亀山で討ち取ったと言う話が元になっており、曽我兄弟の仇討に似ていることもあって、元禄曽我とも呼ばれていると言う。
   鶴屋南北と提携して悪役で名演を残した五代目松本幸四郎が、赤堀源五右衛門をモデルにした主人公藤田水右衛門ほか二役を初演したと言うのだが、今回、どちらかと言えば、二枚目役者として華麗な舞台を魅せる仁左衛門が、演じる。
   これまでにも名演を演じて定評のある舞台なので、観客の期待も大きかったようで、本来なら、極悪人の憎々しい舞台を観ると、観客は、腹を立てる筈なのだが、仁左衛門の場合には、むしろ、惡の華と言う表現があるように、錦絵から抜け出たような美しい見得の数々を見たくて来ており、拍手喝さいであったのが面白い。

   水右衛門の最初の返り討ちは、立ち合いに負けた腹いせで兄を闇討ちにされた石井兵介を、立ち合いの審判・掛塚官兵衛(彌十郎)と図って杯に毒薬を仕込んで殺害し、
   続いて、養子の源之丞(錦之助)を、偽手紙で誘き出して、安部川堤で、仲間に落とし穴を掘らせて陥ったところを返り討ちにし、
   駿州中島村の焼き場で、源之丞の愛人芸者おつま(雀右衛門)と腹の子諸共に殺害する。
   しかし、最後は、重臣の大岸頼母(歌六)・主税(橋之助)の援助で、源之丞の女房お松(孝太郎)と長男源次郎たちによって、水右衛門は、無念の形相で殺害され、石井家苦節の本懐が遂げられる。

   勿論、歌舞伎は、このような単純な筋書きではなく、どこかで見たようなシーンが展開されるなど、綯い交ぜ歌舞伎を得意とする南北の面目躍如で、とにかく、魅せて見せてくれる。
   と言っても、水右衛門の悪辣ぶりも、極めて姑息で、悪人面が出来るような代物ではないが、そこが歌舞伎で、千両役者の仁左衛門が、その度毎に、格好よく大見得を切って、目の覚めるようなシーンを展開して、観客を釘付けにする。
   ただ、気になるのは、あのシェイクスピアのオセロー(Othello)を見れば、イアーゴーに対してムカつくほど悪辣ぶりに腹が立つのだが、仁左衛門の水右衛門やチンピラやくざ風の八郎兵衛を見ていても、表情は、阿修羅や閻魔以上に地獄顔なのだが、絵になっていて、少しも憎さ悪辣さを感じないのである。
   これを、團蔵や市蔵が演じていれば、石を投げたくなるほど、そのエゲツナサや姑息なやり方に腹が立つのだろうと思うと、逆に、魅力的な舞台を見せる仁左衛門の芸の奥行の凄さに感嘆せざるを得ないと思うのである。

   仁左衛門は、インタビューで、
   この作品は、“色気”と“冷酷さ”、“華やかさ”と“暗さ”、“陽”と“陰”がうまく入り混じって構成されています。悪人が活躍する残酷なお話ではありますが、お客様には残酷と感じさせずに「ああ、綺麗だな、楽しいな」と思っていただけるような雰囲気を出したいです。そして、“退廃的な美”と言うか、昔の“錦絵”を見ているような色彩感覚や芝居の色を楽しんでいただければ、何よりです。と言っているので、正に、意図通りに成功した舞台であろう。

   見せ場は、「駿州中島村焼場の場」で、燃え盛る火に煽られた樽型の棺桶が四方八方に吹き飛んで水右衛門が格好良く飛び出したり、舞台前面に幕状に本物の雨が降りだして、水右衛門とおつまとのくんずほぐれつの凄惨なシーンが繰り広げられるところ。
   仁左衛門の舞台なので、近松門左衛門が草葉の陰で喜んだと思うほど凄かった、大分前に観た「女殺油地獄」のお吉の孝太郎との舞台を思い出した。

   先に役どころのところで紹介した名優たちのほかに、何を演じても威厳と風格のある秀太郎、石井兵介と袖介を演じた又五郎、丹波屋おりきの吉弥、縮商人ほかの松之助などのベテランの活躍など、脇役に人を得て素晴らしい舞台を見せてくれた。
   こう言うめったに見られない舞台を、新しく練り直して、通しの形で芝居として見せてくれる国立劇場の歌舞伎公演は、非常に有難いと思っている。
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孫の幼稚園と保育園の運動会

2017年10月18日 | 鎌倉・湘南日記
   土曜日と今日の水曜日、孫の運動会があった。
   本当は、両方とも土曜日に予定されていたのだが、雨のために、上の孫息子6歳の幼稚園の運動会が、二転三転、唯一の晴天日である今日に順延されたのである。
   孫娘1歳の方は、最寄りの小学校の体育館を借りて実施されたので、両方の運動会に、どうして掛け持って参加できるか、母親の娘は苦慮していたので、幸い雨のために、両方とも別の日となって助かったのである。

   両方の孫の朝晩の送り迎えは、祖父たる私の担当で、観劇や何かの用事が出来て東京などに出かけたりしない時は、大体、日に二回、両方を往復する。
   幼稚園は、ダウンしてアップする坂道で、保育園の方は、ダウンする坂道で、落差は2~30メートルはあるであろう。返りは逆である。
   鎌倉は山勝ちで殆ど平地がなく、我が家は、鎌倉山の斜面の西鎌倉山に位置するので、とにかく、坂道が多くて、アップダウンが激しい。
   両方を送り迎えすると、夫々、1キロ弱の道のりなので、8000歩弱なのだが、アップダウンが激しいので、気候に依ってはかなりきつい。
   スクールバスゾーンではなく、近隣の関係上車はダメ(尤も、私の場合は、運転免許証を返納したので問題外」)で、自転車は娘に禁止されているので、結局、歩いて、乳母車を押して、送り迎えせざるを得ないのである。
   いずれにしろ、良い運動になるし、趣味と実益を兼ねて、元気なうちは、やり続けようと思っている。

   そう言うわけで、幼稚園にも保育園にも、非常に緊密に付き合っているので、孫の運動会だと言っても、知らぬ顔は出来ないので、当然、最優先で、行くことになる。
   娘たちの運動会に行ったかどうか、全く記憶はないのだが、殆ど行けてなかったように思うが、今は、子供の大学の入学式や卒業式に、両親、時には、祖父母まで行くと言うから、時代が変わったのであろう。

   さて、私が孫の運動会に行くと言っても、要するに、記録写真係である。
   最近は、ピアノ発表会などでは、写真禁止で、プロが入って写真やDVDを発売する形式となっており、幼稚園でも、この運動会もそうだが、合宿やイベントによっては、プロの写真家が入って、インターネットで販売しているケースが多くなっている。
   下手でもどうでもよく、親にしてみれば、自分で子供の写真を写したいと思うのが人情で、他人の迷惑さえなければ、プロ任せはどうかと思う。
   ところで、子供の運動会となると、それなりのビデオやカメラを使用しており、流石に、スマホで写真を撮っている人は少なかった。
   いくら、子供の運動会写真を撮ると言っても、やはり、望遠ズームレンズを使って連写できるカメラが必要だと思うのだが、どうも、皆がそうと言うわけではなく、やはり、プロの写真家の記録写真の需要が強いのであろうと思う。

   私が、多少、驚きながら見ているのは、保育園や幼稚園の運動会と言っても、馬鹿には出来ない程、内容豊かでソフィスティケートであり、相当、手の込んだプログラムを組んでいて、我々の子供の時の小学校の運動会と比べても、進歩のほどは著しい。
   就学前の年長組などは、既に、しっかりした子供たちであるから、相当なことは何でもできる感じで、我々敬老者へのバッジの作成や運動会のプログラムの作成、飾りつけなどは園児たちがやったようだし、運動会のプログラムの大半は、プチ小学校運動会とも言った感じで、それ程、差を感じさせないように思った。
   1歳半の孫娘など、母親の付き添いではあるが、踏台やトンネルなど障害を越えて、プールで魚を釣ると言うのをやっていたが、一等賞でニコニコしながら、釣竿を突き出しながら先生に飛び込んで行ったのには、一寸、感動であった。
   まず、我々の子供の頃の1歳児の感覚とは様変わりである。

   子供は、3歳までが勝負だと言われているが、よく分からずに、私自身も、娘たちに対しても、過ごしてきたように思うのだが、この頃、幼稚園や保育園に出入りして、孫たちの生活や成長ぶりを見ていると、子供たちにとって、如何に、幼稚園や保育園が、重要な役割を果たしているかが、よく分かる。
   鎌倉にも、待機児童がいるようだが、これは、母親の働き支援と言うことも重要だが、子供の成長のためには、絶対、入園の門前払いはやってはならないと思う。
   そのためには、教育費の無償化も大切だが、幼児教育環境を抜本的に整備して、そして、従事する人たちの待遇を一挙にアップすることであろう。
   最低賃金のアップもそうだが、絶対必要な部門への待遇アップは、政治のみが出来る伝家の宝刀であり、富裕層やITに振り回されて大きく正義からスキューしてしまったこの社会を如何に変えられるか、今度の選挙の課題の一つである。
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林真理子著「六条御息所 源氏がたり 一、光の章」

2017年10月16日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   源氏物語を、六条御息所の視点から語る林真理子の本だと言うことで興味を持った。
   源氏物語に登場する女性の中でも、この御息所に一番興味を持っており、それに、男女の物語については、独特な感性を持った作家なので、面白くない筈がないと思ったのである。
   この世の者ではなくなった私には、沢山のものが、あの方の今も、過去も様々な景色が目の前を通り過ぎて行くのです。と言う御息所の源氏がたりである。

   三巻本で、まだ、一巻目の「光の章」を読んだだけだが、この章は、第一帖桐壷から第十帖賢木までをほぼ踏襲している。

   この第十帖の「賢木」は、最もエポックメイキングな帖だと思うのだが、
六条御息所が、野宮で最後の源氏との逢瀬を過ごして、斎院となった娘とともに伊勢へ下り、
   桐壺帝が重態に陥り崩御し、源氏は、里下がりした藤壺への恋慕激しく迫るも、藤壺に強く拒絶され、事が露見し東宮の身に危機が及ぶことを恐れた藤壺は、誰にも知らせず桐壺帝の一周忌の後突然出家してしまって、高貴で最も素晴らしい女性二人を失う。
   尤も、この時、15歳になった紫の上を強引に女にして、裳着を執り行い、紫の上は実質上の正妻となる。

   その前に、源氏は、弘徽殿女御の妹である東宮への入内が決まっている右大臣の六の君(朧月夜)と出逢い契りを交わして、この件で格下げで尚侍となっての入内後も愛を重ね続けており、これが引き金となって須磨に隠棲せざるを得なくなるのだが、
   それにも拘らず、東宮が桐壷帝の実子ではなく源氏の不義の子だと言うことが露見すれば、大変なことになるにも拘わらず、藤壺の御簾に侵入して迫り続けると言う常軌を逸した無軌道さ。

   いずれにしろ、六条御息所の立場から、と言うよりも、御息所の視点を借りて林真理子が激しく迫る光源氏像であるから、死霊になっても取り憑いて源氏の最期を見届けたいと言う執念を感じて面白い。

   例えば、紫の上との初夜について、
   姫君にとっては、ただ苦痛と暴力が通り過ぎて行っただけで・・・紫の上は、この時の破瓜の屈辱と恨みを、生涯お忘れにはならなかったのではありますまいか。心のどこかで、決してあの方を信用していなかったのではないでしょうか、ですから、あの方より先に逝くことで最大の復讐を遂げたような気がいたします。と御息所に語らせている。

   光源氏が、北山で幼い紫の上を見初めて、強引に手元に引きとって、自分好みの理想的な妻に仕立て上げた手法は、正に、和製ピグマリオン。
   ギリシア神話のキプロス島の王であるピュグマリオン(Pygmaliōn)が、自ら理想の女性・ガラテアを彫刻して、この自らの彫刻に激しく恋をして、次第に衰弱していく姿を見たアプロディーテーが同情して、ガテリアに生命を与え、ピュグマリオンは妻に迎えた。
   恋焦がれて禁断の恋を犯して子までなした藤壺の姪であるから絶世の美女なのであるが、これを並びなき高貴な源氏が慣れ親しみ愛しんで育てたのであるから、光源氏は、いわば、映画『マイ・フェア・レディ』のヒギンズ博士と言うところであろうか。
   しかし、最も理想的な伴侶であった筈の紫の上に、屈辱と恨みを与えて、信用されずにいて、最後に復讐されたと言うこの悲劇は、物語の底流で、光源氏の理想像をぶっ壊しにしていているのが面白いと思った。

   さて、この小説で一番興味を引くのは、林真理子が、語り手である六条御息所をどのような人物と考えてどのように源氏語りを行なうかと言うことである。
   随分前に源氏物語を読んでいるので、記憶は定かではないのだが、この六条御息所については、それ程詳しい記述はなかったような気がする。

   林真理子によると、抑々の二人の馴れ初めだが、未亡人となった元東宮妃の御息所は、邸で、若い人々が集う歌や管弦を披露しあう会を催していて、その一人の17歳の源氏が、侍女中将の導きで御帳台の中に押し入ってきて、甘く低く息苦しくなるほどの切実さで口説かれ、契られたのだと言う。病弱であった東宮と比べて、・・・私の体は骨ごとしびれて蕩けていくのでした。と言う出会いである。
   
   美しく気品があり、教養、知性、身分ともに申し分なく、はるかに人より優れている元東宮妃であるから、光源氏は、
   年上の優しいものわかりのよい女、聡明さで定評のある身分の高い女は、決して嫉妬せず、自分を柔らかく居心地よく包んでくれると思って女にした光源氏だったのだが。
   こうなる定めだったのですと口説かれ、屈服させられ辱められ、息も絶え絶えにされた甘美な屈辱に溺れて、
   御息所がどうしようもなく激しく愛してしまったことを知った源氏は、愛すれば愛するほど、愛してくれなくなっていく、愛情をもらえない屈辱、男が去って行こうと言う屈辱に、御息所は必死に耐え抜いたと言う。

   女の鏡であり手本だと称賛される自分、あの光源氏の永遠の憧れであった藤壺に劣るのは若さだけだと思っている自分をないがしろにして、
   源氏が、受領の妻空蝉に入れ込み、あばら家に住む夕顔にうつつを抜かし、象のような赤鼻の常陸宮の姫君末摘花と言ったどうしようもない女を愛するなど許せないと言う心境であるから、このあたりの描写は、辛辣を極める。
   
   例えば、夕顔について、
   女はそれ程の美貌と言うわけではなく、教養や才気があると言うわけではないのだが、物腰が柔らかくとても可憐で、幼いと言っていいほどあどけないのだが、男とと女の中を知らないわけではなく、閨のなかでは、驚くようなことが多々ある。と述べている。
   この夕顔の舞台で興味深いのは、源氏が夕顔を連れ込んだ廃院が、御息所の一族のものだったと言う設定で、屋敷に蠢いている先祖の女性たちの亡霊が二人の逢瀬に怒って御息所を生霊にして苛むと言うことで、一般には、この生霊が誰だかはっきりとしないところなので面白い。

   「葵」の帖の、葵の上との車争いや葵の病床を襲う生霊の話などは、林真理子の機知と詩心が冴えて面白いが、能「葵上」との落差とその現出する世界の差が面白い。
   源氏と御息所の最後の別れ、能「野宮」の舞台だが、林真理子になると、
   ”あのような神聖な場で、契ることの恐ろしさにおののきながらも、私もあの方も、夜が明けるまで体を離すことはありませんでした。・・・することはただひとつ、汗と涙で体を濡らした激しい愛撫が繰り返されたのです。どれほど寛大な神でも・・・”となるのだが、これも、能とは大違いで、能にはならないであろう。
   
   とにかく、源氏物語の原文や翻訳本を見ても、よく分からない微妙なところを、紫式部の意図は兎も角、自由に羽ばたきながら独自の視点で展開する、この六条御息所 源氏がたり は、非常に面白い。

   
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日経・・・「コーヒー店、高級に活路」と言うのだが

2017年10月14日 | 生活随想・趣味
   日経にこんな記事が出た。
   サブタイトルは、「働き方改革で「仕事場」に」と言うことである。

   毎日、朝の朝食から何杯かコーヒーを飲む生活を続けており、外出すると、友人たちとの会話を楽しんだり、暇つぶしや読書がらみの小休止などで、結構、喫茶店に入ることもある。
   イスラムの修道士が使い始めたと言うアラビカが、今や、人類文化の最高の嗜好品として我々の生活を潤しているコーヒーだが、私自身の長いと言うか短いと言うか人生においても、結構、喫茶店の形態や嗜好方法が、変わってきていて、その変遷が面白い。

   昔は、友人知人などに会ったり、来客が来ると、「お茶でも」と言って、近くの喫茶店に入って、時間を過ごすことが普通であった。
   その後、喫茶店が、軽食を出し始めて、昼食時には満杯になり、それに、禁煙の意識もなかったので、店内は、嫌な臭いともうもうたる煙がたちこんで来たので、余程のことがないと、喫茶店には入らなくなった。

   しばらくして、ドトールの立ち席や止まり木方式の100円コーヒーが誕生し、アメリカで生まれたスターバックスの革命的な快進撃で、一気に、喫茶店文化が、様変わりしてしまった。
   ドトールは、ブラジルのバールを模した簡易喫茶で、低価格志向に軸足を移し、
   スターバックスは、美味しい上質なコーヒーを提供することによって、喫茶店がなく日本の様な喫茶文化のなかったアメリカ市場に、雨後の筍の様に展開し始めて、類似店舗の誕生を促して、喫茶文化を変えてしまったのである。
   イギリスの紅茶文化さえ徐々に駆逐しつつあると言うスターバックスの快進撃を、日本の喫茶店文化を考えれば、顧客志向のバリエーションの提供くらいで、殆ど新味はないのだが、ピータードラッカーは、イノベーションだと言った。
   このあたりの話は、このブログで、随分書いてきたので蛇足は避ける。

   さて、日経は、「働き方革命で、コーヒー店が「仕事場」になって、ビジネスマンやオフィスレディたちが殺到し始めたので、単価が高めの店が好調となり、「高級」に活路を目指し始めた。」と言う。
   頭をリフレッシュして書類などをゆっくり見て仕事ができる、とか、落ち着いて仕事の考え事が出来る、と言ううことに加えて、
   働き方改革で、オフィス外勤務を認める企業や退社時間を早める企業が増えて、ワーキングスペースとして喫茶店の価値が高まった。と言うのである。

   この記事では、星乃珈琲店の話が出てくるが、何度か行ったが満席続きでまだ入ったことがないので分からないのだが、応接室代わりの高級志向なら、昔から、「ルノアール」があったし、時代の潮流に乗れなかったのは、ビジネスポリシィなりビジネスコンセプト、セグメンテーションの拙さであろう。
   現役を離れて、大分経つので、ビジネスマンたちの最近の動向には疎いながら、この傾向は何となく分かる気がするものの、オフィス替わりと言うのなら、一寸、寂しい気がするのは否めない。

   私自身、ブラジルにも長く居たし、世界中を歩いて、色々なレストランや店で、色々なコーヒーを味わってきたが、味音痴なのか、味に拘ると言うよりは、コーヒーは、雰囲気で飲むものだと言う気がしている。
   したがって、コーヒーが美味しいか拙いかも、その雰囲気なり、どの様なシチュエーションで飲むかによって、全く、味が違ってくるし、そのコーヒーの価値が違ってくる。
   高級レストランや素晴らしい晩餐会やパーティの食後のコーヒーは、過不足なく、結構美味しい。

   喫茶店では、正に、その店の雰囲気が総てで、私は、今でも、古色蒼然たるハプスブルグ王朝時代の名残を残したウィーンやプラハやブダペストのコーヒー店が、良い雰囲気を醸し出していたので、最も印象に残っている。
   旅人としての経験なので、憧れもあるのだが、ここで、学者や文人たちが憩っていたのかと思うと歴史を感じるし、特に、ベルリンの壁崩壊直後のプラハやブダペストのコーヒー店やレストランの雰囲気など、廃墟に耐え抜いた文化遺産と言う感じもあって感無量であった。
   あのウィーン国立歌劇場裏にある「カフェ モーツアルト MOZART」は、一時、三越が所有していたのだが、古いウィーンのカフェ文化の名残であろうか、尤も、ケーキだけではなくて軽食を出しているようで、私が行っていた何十年前の雰囲気とは変わってしまっているのかも知れない。

   ところで、日本の喫茶店は、何よりも、静かで落ち着いた雰囲気の店が良い。
   少し、古風な雰囲気で、バックにショパンなどが流れていて。
   
   鎌倉山に近いので、散策を兼ねて、コーヒーを楽しもうと出かけることもある。
   しかし、最近は、自分で、雰囲気のある喫茶店を探して訪れると言うことも少なくなったので、結局、自宅で、コーヒー・タイムを楽しむ工夫をすることになる。
   幸い、離れた和室があるので、縁側に面した庭には季節の花々が植わっており、咲き誇っている花木の鉢植えなどを持ち込んで雰囲気を出して、一寸した喫茶店の佇まいを作り出して楽しんでいる。
   蝶々が飛んできたり、メジロなど小鳥がやってくるなど、結構変化があって面白く、雨嵐でも楽しめるのが良い。
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