熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

四月大歌舞伎・・・「一條大蔵譚」と「封印切」

2011年04月30日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   四月の大歌舞伎で興味深かったのは、昼の部の方で、私自身、舞踊は苦手だし、それに、「絵本太閤記」の何となく陰に籠った芝居に興味が持てない所為もあって、夜の部で面白かったのは、「権三と助十」だけであった。
   昼の部の「お江戸みやげ」については、先日、書いたので省くが、やはり、「一條大蔵譚」は、菊五郎の一條大蔵長成と言え、「封印切」の藤十郎の亀屋忠兵衛と言え、現在の歌舞伎界では、最高峰の舞台であろうし、とにかく、何度見ても、芝居の面白さを感じさせてくれて楽しいのである。

   「一條大蔵譚」は、私は、襲名披露の時の勘三郎と、それに、吉右衛門の決定版とも言うべき素晴らしい舞台を見ており、元敵方であった高貴の公家が、平家全盛の乱世とも言うべき時代に如何に生き抜いて行くか、作り阿呆と常人の狭間での葛藤を、実に器用に感動的に演じていて面白い。
   「篤姫」で登場した徳川将軍家定なども、作り阿呆だと言う設定だったが、考えてみれば、あの大石内蔵助も、バカを装って吉良方を出し抜いたと言うことになっているし、とにかく、古今東西何処にあっても、作り阿呆で、世を生き抜いてきた人は五万といる。
   いわば、能ある鷹は爪を隠すと言う処世術の一種の変形であろうが、逆に、そんな生き方を潔しとしないとして正攻法で生き抜いて散って行った硬骨漢も沢山いて面白い。

   菊五郎の大蔵卿は、阿呆さ加減も国宝級だが、何よりも品があるのが良い。
   逆臣勘解由(團蔵)を御簾の中から刺し殺す正気に戻ってからの大蔵卿の凛々しさと威厳は、また、格別で、ただ単に、正気の姿が実で、作り阿呆が虚だと言うその虚実の演じ分けだけが眼目ならうまく演じる役者は、いくらでもいるであろうが、菊五郎を見ていると、虚実が、ふっと入れ替わったような瞬間があって、実は、虚も実も、大蔵卿そのもであって、生活そのものを、正に二重人格で生き抜いている、そんな生き方を十二分に楽しんでいると言う風情を感じさせて、流石だと思った。
   20年間も、作り阿呆で押し通し続けるなど不可能であって、実際にも、自分から兵を挙げて、平家追討に立ち上がる意思も能力もなければ、常盤御前(時蔵)を守りながら、時が来るまでは意思だけはしっかりと保ち続けて、とにかく、芸を嗜み表舞台で世の中を楽しみながら生きるに越したことはないと言う、そんな平安貴族の人生観が現れていて面白い。

   この大蔵卿の作り阿呆と直接関係はないのだが、今や、義朝の妻であった常盤を妻に迎えており、その常盤の本心を探ろうと屋敷に潜り込んだのが源氏の忠臣吉岡鬼次郎(團十郎)と妻のお亰(菊之助)で、平家調伏のために清盛の隠し絵を弓で射抜く常盤の本心を知り、勘解由を討った大蔵卿から、牛若丸へのメッセージと源氏の剣を託されると言うのだが、筋と言えばこれがこの芝居の筋であろう。
   大蔵卿のたった一度だけ正気に戻った瞬間だが、また、勘解由の首を弄んで阿呆の大蔵卿に戻って幕。結局、心は、正気でも、生きて行くのは阿呆ただ一筋、本心を隠し通す苦悩や後ろめたさなどはなかった筈である。

   さて、「封印切」だが、近松門左衛門の浄瑠璃「冥途の飛脚」である。
   恋飛脚大和往来と言う持って回った題名より、冥途の飛脚と言うタイトルの方が、はるかに味があって良い。
   私は、この近松の芝居を、歌舞伎でも文楽でも、何度か見ているが、一番、感激して観た舞台は、文楽では、2度見た玉男と簔助の舞台で、歌舞伎では、残念ながら、実際の舞台ではなく、一昨年の京都南座での公演のNHK録画の舞台である。
   忠兵衛を藤十郎、梅川を秀太郎、八右衛門を仁左衛門と言う関西歌舞伎の重鎮が勤め、井筒屋おえんの玉三郎に左團次と言う東京歌舞伎のベテランが加わっての東西名優の競演と言う触れ込みの豪華な舞台で、藤十郎と秀太郎の醸し出す上方和事のしっぽりとした情感の滲み出た舞台は、正に様式美溢れる近松門左衛門の世界そのものであるばかりではなく、現在感覚にもマッチした出来栄えで、それに、本来二枚目俳優の仁左衛門が、軽妙で洒脱な(?)な何とも言えないやくざな助演男優賞ばりの素晴らしい舞台を見せていて、実に楽しませてくれた。

   今回は、忠兵衛は藤十郎、梅川は扇雀、井筒屋おえんは秀太郎、槌屋治右衛門は我當、それに、興味深いのは、丹波屋八右衛門は三津五郎で、これが、実に上手い。
   私は、近松門左衛門は、徹頭徹尾、上方人だと思っているので、ベートーヴェンやブラームスを演奏させれば、二流であってもドイツの指揮者や楽団が演奏すれば、感動ものとなるのと同じで、上方役者でないと、本当の味が出ないと思っている。
   あのどうしようもない、煽られただけで、われを忘れて地獄へ突っ走てしまう、がしんたれの大坂男と、健気できっぱりと人生を甘受する潔い大坂女の生き様は、関西人だと、他人ごとではなく自分のこととして分かると思うし、それこそが、上方の和事の世界だと言う気がしている。
   人形浄瑠璃は、大阪弁やないとあきまへんと、住大夫は、良く言っているが、近松の世界も、正に、大坂の魂抜きでは語れないグローカルな世界だと思っている。
   藤十郎、秀太郎、我當の至芸は言うまでもないが、藤十郎の薫陶を受けて、扇雀が、実に、ムード十分の大坂女の哀歓と情の濃さを滲ませていて感動的であった。

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カザルスホールの真髄を未来につなぐコンサート~賛歌 カザルスホール

2011年04月28日 | クラシック音楽・オペラ
   久しぶりに、涙が溢れるほど感激したコンサートを聴いた。
   昨夜、4時間近くにわたって3部形式で催された紀尾井ホールでの「カザルスホールの真髄を未来につなぐコンサート〜賛歌 カザルスホール」である。
   昨年3月に閉鎖された御茶ノ水のカザルスホールを復活させるべく立ち上がった音楽家たちの「カザルスホールを守る会」主催のコンサートで、賛同した日本屈指の多くの音楽家たちが挙って参集して演奏された、アラカルト形式の極上の音楽会であった。
   勿論、「東日本大震災復興支援のために」開かれたコンサートであることは言うまでもない。

   最後の曲目チャイコフスキーの「弦楽セレナードより フィナーレ」など、徳永二男を筆頭に、各パートとも、コンマスやソリストなど殆ど第一人者ばかりの弦楽奏者が全員参加しての、サイトウキネンオーケストラにも引けを足らないような素晴らしい演奏で、正に、感激の一語に尽きる。
   それでは終わらず、このカザルスホールを守る会の呼びかけ人の中心人物であり、パブロ・カザルスに直接師事した日本人チェリストの最高峰の一人である岩崎洸が、カザルスと言えばこれしかないと言って、チェリスト13人全員と岩崎淑のピアノで、万感の思いを込めて静かに、そして、荘厳に、「鳥の歌」を演奏した。
   当日、このコンサートに参加した全員が、静かにステージに登場して、奏者を取り囲んだ。聴衆は、この荘厳な儀式に、じっと感動を噛みしめていた。

   この「鳥の歌」は、1971年10月24日、カザルス94歳のときにニューヨーク国連本部において「私の生まれ故郷カタロニアの鳥は、ピース、ピース(peace peace)と鳴く」と語ってチェロ演奏したあの『鳥の歌』 (El Cant dels Ocells) である。
   私は、テレビで、このカザルスの崇高な素晴らしい演奏の様子を見て感激したのだが、独裁者フランコに徹底して反旗を翻し続けたカザルスであればこその平和宣言であった。
   同じような思い出は、マドリッドのプラド美術館の別館に展示されているパブロ・ピカソの「ゲルニカ」を見た時、フランコのゲルニカ爆撃に激しく抗議した平和主義者ピカソの魂を痛い程感じて、カザルスに思いを馳せたことである。

   アルフレッド・コルトー(ピアノ)とジャック・ティボー(ヴァイオリン)とで結成したカザルス三重奏団の時代を超越した演奏のレコードを、若い時に聞いた記憶があるのだが、カザルスが、プエルトリコで亡くなったと知ったのは、留学中のフィラデルフィアであった。
   私にとっては、全く、伝説上の偉大なチェリストである。
   私が最も沢山コンサートに出かけて聞いたチェリストは、ロストロポーヴィッチで、チェロ演奏だけではなく、奥方のガリーナ・ヴィシネフスカヤのソプラノ・リサイタルでのピアノ伴奏や指揮者としての演奏にも接している。
   しかし、良く考えてみれば、あの朗々とした低音の得も言われぬ魅力を何度もチェロ協奏曲などで聴いている筈だが、私の思い出せるチェリストは、ヨーヨー・マとピエール・フルニエくらいである。

   ところで、この日の演奏会は、チェリスト総出演のカザルスの「東方の三賢人」で始まり、他にも全チェリストでのユリウス・クレンゲルの「賛歌」が演奏されたのだが、タイトルが、カザルスホール賛歌であるから当然としても、実に感動的なチェロ演奏であった。
   カザルスホールは、日本初の室内楽専用ホールとして設立されたので、今回の演奏会には、この舞台で活躍した色々な分野の音楽家たちが登場して、夫々、室内楽曲を、一部の楽章だけだったり、小品の演奏にとどまっていたのだが、日本でも指折りのトップ奏者たちの演奏であるから、多少緊張感を抑えたとは言っても、一切手抜きはなく、正に、数分にかけた演奏で、非常に幅広くて盛り沢山の素晴らしい音楽を披露してくれた。

   私は、久しぶりに、相曽賢一朗のヴァイオリン演奏が聴けるので期待して出かけた。
   この日は、彼としては異例とも言うべき重鎮ピアニストの岩崎淑のピアノ伴奏で、フリッツ・クライスラーの「ウィーン奇想曲」と「ウィーン小行進曲」を演奏した。
   恒例の晩秋のリサイタルとは違って、一寸、リラッススした感じであったが、世紀末のウィーンの香りを漂わせた実に繊細でありながらリズミカルな素晴らしい演奏であった。
   私が、ロンドンで初めて会った時には、ロイヤル・アカデミーの大学院生であったのだが、あれから、かれこれ20年。ロンドンを起点にして東欧までヨーロッパを縦横無尽に駆け回りながら演奏活動を続けているのだから、ヨーロッパの生活風土と言うか、ヨーロッパの文化が体に染み込んだのであろう。あのウィーン訛りがムンムンするようなクライスラーの世界が醸しだされた相曽独特のグローカルの音の世界が垣間見えて興味深かった。
 
   私の最初に興味を持った室内楽は、ヴァイオリン・ソナタであったので、良く演奏会にも出かけた。
   今回は、徳永二男(V)と小森谷裕子(P)のヴィエニャフスキの「華麗なるポロネーズ第1番」
   川久保賜紀(V)と岩崎淑(P)のバルトークの「6つのルーマニア舞曲」
   和波孝禧(V)と土屋美寧子(P)のベートーヴェンの第8番の第1楽章
   などのヴァイオリン・デュオがあり、非常に高度な洗練された演奏が聴けて感激頻りであった。
   当夜、他にも、ヴァイオリンの豊嶋泰嗣、漆原啓子、原田幸一郎はじめ錚々たるプレイヤーが登場し、他の弦楽パートやピアニスト、それに、池辺晋一郎の自作指揮で「ブラック・ブランク・ブレイズ」を演奏した9人の素晴らしいクラリネット奏者の方々など、特筆すべき人々が続々登場しての壮観であった。

   もう一つ、強烈な印象が残っているのが、仲道郁代のショパンのポロネーズ第6番「英雄」の豪快な演奏である。
   これも20年ほど前の思い出だが、ロンドン交響楽団かフィルハーモニア菅か記憶は定かではないが、マリア・ジョアン・ピレスの代役として、仲道郁代が、ロンドン・デビューした舞台を聴いたのである。
   当時のプログラムを探せばあるかも知れないが、曲も覚えていないが、私たち家族は、必死になって拍手を続けていた。
   今も当然魅力的だが、あの頃は、人形のように可愛くて実に初々しかった。

   フルートの南部やすか、マリンバの有賀誠門とジャンベの平方真希子とダンスの梅礼、琴の西陽子、ギターの福田進一、ピアノの舘野泉、バリトンの河野克典と言った多彩なジャンルの素晴らしい演奏も楽しませてくれた。
   
   さて、カザルスホールだが、良く分からないが、やはり、先日書いたフィラデルフィア菅の破産のように、根本的には、日本では、室内楽専門の小ホールでは、不況下の日本では、採算が成り立たないのであろう。
   所有権が、主婦の友社から日本大学に移って、日大は、行く行くは、更地にして、大きな建物を建てる予定だったらしい。
   このカザルスホールは、カザルスの没後、音楽の重要な拠点として後世のために末永く守ってくれることを条件にカザルス夫人からその名の使用許諾を受け、その名を冠してきた。館内のチャイムは、カザルス編「鳥の歌」の旋律で、ホール名のマークはカザルスの頭文字「C」にオリーヴをくわえる鳥をあしらった安野光雅(「鳥の歌」にちなむ)のデザインで、カザルスがホールの随所に行き届いている。と言う。
   日本の多くの素晴らしい音楽家のためにも、存続を死守すべきであろう。
   現在地で維持出来なければ、磯崎新の設計で、オルガンもある素晴らしいホールであり、建物がポンコツである訳がなく、立派に永続できる建築物であるから、東京のどこかへ移築して存続させられないであろうかと思う。

   NHKが、合理化だとして、竹中大臣時代にBS2の廃止を指示されたようだが、これなど最低だと思うし、逆に、朝から晩までタレントとか言う芸人がドタバタ騒がしい馬鹿番組を放映し続ける民放がペイする国が日本。
   高度な本物の芸術は、天然記念物と言うべきで、必死になって守らないと生きて行けないのである。
   衣食足って礼節を知ると言うことで、日本が不況を託って益々貧しくなれば、文化国家日本の芸術の質も落ちて行く。
   企業のメセナ活動も、目覚めて発憤しないのであろうかと思っている。
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「日本国民と共に行動を」帰化決意のキーンさん

2011年04月27日 | 生活随想・趣味
   先日、讀賣新聞に次のような記事が載った。

 【ニューヨーク=柳沢亨之】日本文学研究の第一人者で、日本文化を欧米へ広く紹介してきたドナルド・キーン米コロンビア大名誉教授(88)が22日、ニューヨーク市内の自宅で読売新聞のインタビューに応じ、東日本大震災の発生から日本国籍取得と永住を決意するまでの心境を吐露した。
   キーン氏は「災難を前に、『日本国民と共に何かをしたい』と思った。自分が日本人と同じように感じていることを行動で示したかった」と決意へ至る思いを強調。「日本は震災後、さらに立派な国になると信じる。明るい気持ちで日本へ移る」と語った。9月までに東京・北区の住まいに移るという。
   キーン氏は、太平洋戦争で日本語通訳として沖縄戦を経験。以後、長く日本と交わってきた。被災地の東北地方は「松尾芭蕉の『奥の細道』(の研究)で度々訪れた」。そして、日本留学時代は「無名の私を助けてくれる人たちに囲まれた」。日本国籍取得で「これまで示せなかった日本への感謝を伝えたい」という

   私は、昨年、初めてキーン先生の「世界の文化と日本の文化」と言う演題の講演を聴いて、その会場で買ったキーン先生の私の履歴書とも言うべき「私と20世紀クロニクル」を読んで感激して、このブログでも書いた。
   先生を、歌舞伎座やグローブ座のシェイクスピア劇の会場などで、お見かけしたことがあるが、アメリカ人としては小柄な、正に、真面目実直そのもののような雰囲気の紳士であった。

   今日、ニューヨークタイムズ電子版に次のような記事が出た。Columbia Professor’s Retirement Is Big News in Japan
   日本のTVでも、キーン先生のコロンビア大学での最後の講義の様子が放映されて、生徒から花束を受け取って喜ぶキーン先生を大写しにしていた。(口絵写真)
   ゼミなので、かなり、小さな部屋で、アメリカ人の生徒数も少ない感じだったが、教室の後方には、多くの日本人ジャーナリストやカメラマンが詰めかけていたのであろう。
   最後の大学院の講義は、能講座で「松風」について語った。He quoted the final lines of “Matsukaze,” a play by the writer Kannami, the last line of which says “all that is left is the wind in the pines. "松風ばかりや残るらん"である。

   1938年に入学して、学士、修士、博士号すべてをコロンビア大学で取り、57年間教職について、トータル73年間をコロンビア大学とともに過ごしたと言う。
   結婚もせず、子供もなく、日本文学と日本文化一筋に研鑽を積み重ね、多くの本を書き、翻訳し、編纂編集をし続けて、その素晴らしい功績によって、日本で多くの受賞や名誉に輝いた。
   コロンビア大学の日本学部の超重鎮であるばかりではなく、世界屈指の日本文学者であり、アマゾンでキーン先生の本を検索するだけでも、その膨大な書籍群に舌を巻く。
   そのキーン先生が、「多くの外人が、日本を離れて行くが、この時こそ、自分の余生を日本で過ごすべきだと考えて、日本に永住して日本国籍を取ることにした。アメリカより、日本の方が友人が多いし、多くの賞も日本で貰った。日本の人たちに感謝の気持ちを伝えたいし、私には、大悲劇の時であればこそ、貴方たち日本人と一緒にいたいと言うこと以外に選ぶべき道はない。」と、学生たちに、さよなら講義をしたと言う。

   あのピーター・ドラッカーも、日本びいきで、日本の絵画などについて非常に造詣が深ったと言うのだが、世界的な大学者が、日本の文化や日本の国そのものに惚れ込んで認めてくれると言うことは、非常に嬉しい。
   キーン先生の日本帰化は、驚きではあるが、国をもっともっとオープンにすれば、世界中の叡智を魅了することも可能であろうと思う。
   古書店で見つけて49セントで買った「源氏物語2巻本」が、キーン先生の日本文学への傾斜の切っ掛けだというから、チャンスは、いくらでもあると思うし、それだけ、日本そのものが素晴らしい宝物を持っていると言うことである。
  He said he wanted to show his appreciation to the Japanese people, and that, “I could think of no other way than to say I’d be with them” despite the disastrous events.

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わが庭の歳時記・・・ミニバラの剪定と植え替え

2011年04月26日 | わが庭の歳時記
   リビングの出窓に、リアドロの人形や季節の切り花を生けた花瓶などとともに、イギリスで買った陶磁器の鉢カバーに、小さな鉢植えの花や緑の植物などを飾っているのだが、丁度綺麗に咲いたカラフルなミニバラが便利で重宝している。
   しかし、一応、咲き終わると、そのままにしておれば、次に、自然に咲く訳ではないから、それなりの手当てをしなければならない。
   庭の大きなハイブリッド・ティーのバラと同じように世話をすれば良いのだが、小さなバラなので、ついつい、手を抜いて枯らせてしまう。

   しかし、最近では、イングリッシュ・ローズやフレンチ・ローズと同じように、ミニバラの人気も高まってきたようで、園芸店には、結構、沢山の種類のミニ・バラが店頭に並び、賑やかである。
   花の終わったミニバラの鉢や最近買ったミニバラも含めて、次の花を咲かせるために、剪定をし直して、少し大きめの鉢に植え替えようと思って、作業に入った。

   園芸店で売っているミニバラは、精々5号鉢くらいに植えられた小さなバラだが、殆どは四季咲きのようだし、それに、種類によっては、1メートル近くの大きさに育つと言うから、取り敢えず、7号鉢くらいに植え替えるのが適当なようである。
   園芸店には、バラ用の培養土を売っているが、これまで不都合はないので、私は、いつも使っている草花用培養土で代用している。
   まず剪定だが、終わっていないバラは、これも、昨年、イングリッシュ・ローズで学んだのが、花がら下3分の1くらいの所の芽の上で切った。
   鉢の底に少し土を入れて、根鉢を崩さずにミニバラを移して、周りに培養土を加えて鉢に馴染ませる。
   バラは、非常に肥料を好むので、これも、なまくらを決め込んで、バラ用の肥料を、周りにばら撒いて、水をたっぷりとかけて、後は、日当たりの良い庭先に置くと言った寸法である。   

   ところで、ミニバラは、木立性で、つるバラ系統はないようだが、昨年買ったミニバラの2鉢は、横張り性の性格が強いのか、プラスティック製のネット型スタンドに這わせた混植であったので、今年は、多少剪定して、周りに追加した円形支柱に誘引して置いたら、結構、上手く伸びて蕾が付いている。
   しかし、今回、小さな鉢から植え替えたミニバラは、直立性であろうから、こんもりとした雰囲気で育てようと思っている。
   剪定の終わっていたミニバラは、まだ、花芽が出ていないが、古い葉が少しずつ落ちて、小さな綺麗な葉がびっしりと出始めて来ている。

   連休明けくらいから、庭植えのバラや、鉢植えのイングリッシュ・ローズやフレンチ・ローズが、咲き始めてくれるであろう。
   今まで、ミニバラには殆ど注意が行かずに枯らせていたのだが、今年は、綺麗に植え替えたので、どんな花が咲くのか、楽しみになってきた。
   昔、オレンジがかったコーヒー色のテディ・ベアのミニバラを何鉢も育てていたことがあるのだが、門口の階段に置いて楽しんでいたのを思い出した。
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台頭するブラジル(仮題 BRAZIL ON THE RISE)(7)人種的なパラダイスと言う神話~その1

2011年04月25日 | BRIC’sの大国:ブラジル
   ブラジル人は、自分たちの国を人種差別のない人種的民主主義の国だと考えるのが好きで、世界中にこの考え方を、これ宣伝に努めて来た。
   実際にも、米国、南ア連邦、マレイシアなどの代表がやって来て、どうすれば、ブラジルのように、人種的な緊張やトラブルなしにやって行けるのか調査したり、米国の社会学者が、ブラジルには人種主義などは存在しないとする教科書を書いて、世界中の大学で教えられていた。
   しかし、ブラジルの本当の人種問題は、もっと、複雑で、ブラジルの美しさや、人々の温かさや、或いは、白人のブラジル人が殆ど人種問題を語ったり考えたりしないのに魅せられた一般外人訪問者が感じるほど、単純なものではないと言うのが、ローターの考え方である。
   プライドの問題以上に、人種は、ブラジルの秘密であって、隠れた恥だと言うのである。

   ブラジルには、2億人のアフリカ系の国民が住んでいて、海外では勿論最大であり、アフリカでもナイジェリアに次ぐ人口である。
   ブラジルでは、「アフリカの末裔」と称されて、国民生活の重要な局面から疎外されており、実際の日常での生活において差別を受け、最も重要な社会的指標において最下層にラック付けされている。
   大都市の犯罪が多い貧民窟ファベーラにおいては最大の人口集団であり、黒い肌をしたブラジル人は、警官に殺される確率も高く、賃金は低く、寿命も短く、教育機会も白人よりはるかに少ない。

   ところが、ブラジル人は、この異常な不平等・不均衡を認めているのだが、ブラジル社会に根深く存在しているこの不平等は、人種の為ではなく、階級格差によるものだと言うのである。
   ブラジルは、伝統的に、世界でも類を見ない程所得や富の所有格差が激しく歪んだ国であり、一握りの白人ブラジル人がピラミッドの頂点に立つものの、人口の大半が黒人系ブラジル人であるから、黒人が貧困層の大半を占めるのは当然で、肌の色ではなく、階級差別と偏見の犠牲だと言う。
   しかし、現実には、豊かで学歴の高い黒人ブラジル人であっても、貧しい白人ブラジル人が享受しているような特権さえ与えられなくて、色々な差別的待遇や扱いに泣いているのが、現実のブラジル社会なのである。

   尤も、現実の日常生活では、人種的な寛容や親睦関係において、少し、ニャンスが変わってくる。
   ブラジルでは、人種間の垣根を越えた結婚が比較的多くて、それが、階級が下がって来ると益々頻繁となる。貧しい白人が、貧しい黒人とが軒を連ねて生活していることが多いからでもあるが、豊かなもの同士では、こんなことは殆ど有り得ない。
   また、実際の日常生活においても、カーニバルは勿論、仕事場やアフターファイブにおいても、白人黒人入り混じって、飲み食い語り、生活を共にしている光景が普通に見られて異常でも何でもない。
   この日常生活での人種的こだわりの無さは、私自身、アメリカに2年、ブラジルに4年、住んでいたので、ローターの指摘は、確かにそうだと思う。
   アメリカでも、私が住んでいた頃には、まだ黒人差別が激しかった。この国は、法治国家であり民主主義的な政治が進むと、勢い、法律や社会制度上、差別がどんどん撤廃されて平等化して行く。
   しかし、ブラジルの場合には、法や社会制度の民主化など遅々たるもので殆ど期待できないので、どうしても社会的に根深く息づいている因習や制度、価値観などが、一朝一夕に変る訳がなく、社会的制度上は、黒人差別が徹底的にビルトインされて染みついているものの、実際生活は、如何にも現実的だと言うことであろうと思う。

   面白いのは、アメリカ人と違って、白人も含めて、一般的にブラジル人は、カーニバルや音楽や料理などに、自分たちの国のアイデンティティやポップ・カルチュア―にアフリカ・オリジンの要素があるのだと言うことを、認めるのにそれ程抵抗を感じていない。
   例えば、アメリカでは、ジャズは芸術かどうかなどと大真面目に議論するなどアフリカの影響を認めたがらないのだが、ブラジルでは、カーニバルが、アフリカとヨーロッパ中世の慣習の混交であることを自明であると思っており、白人たちも、アフリカ讃歌であるサンバを何の躊躇もなく歌っているのである。

   さて、ブラジルには、日系ブラジル人など、世界中から多くの移民が集まっており、人種の坩堝と言うべき人種民族混交のマルチ国家であるが、実際には、人口的には、原住民のインディオを含めても、夫々極めて少数のマイノリティであって、ブラジルでの人種問題は、あくまで、白人と黒人との間の問題なのである。

   私たちが、ブラジルに大挙して行ったのは、1970年代のブラジルブームの時であって、先進工業国日本からの企業進出であるから、日本人に対する人種差別は、それ程なかったであろうし、私自身も、あまり感じたことはなかった。
   尤も、一度だけ、秘書が、役所への提出書類に、私の人種欄に、白と黒の区分だとと考えてブランコ(白)と書き入れたところ、アマレロ(黄色)と訂正されて突き返されたことがあった。調べもしないで、日本人の名前だから、黄色人種だと言うことである。
   現実には、NHKで放映された「ハルとナツ 届かなかった手紙 」で、その片鱗が見えるのだが、多くの日本人移民は、大変な迫害や差別を経験させられたようで、私も、そんな苦難の生活経験について、サンパウロで聴く機会があった。
   レストランに入ったら、ハポネの来るところじゃないと罵倒されて叩き出されたと言っていた人もいた。
   何故、日本のTVのコマーシャルは、白人のモデルを使うのか、バカじゃないかと、日系ブラジルの友人に言われたことがあった。

   しかし、日本人移民たちは、必死になって頑張って活路を切り開いてきた。
   いくら貧しくても、子供たちに教育を付けるために学校へ行かせたお蔭で、人口1%にも満たない日系人が、最高学府のサンパウロ大学の学生の10%以上を占めるなど、その教育水準の高さと勤勉さを示した。そして、日系ブラジル人が、原野を開墾して生み出した野菜や果物など農作物が、如何にブラジルの生活文化を豊かにしたか、柿をカイゼイロと言うのもその名残で、結局、実力を示すことによって、人種差別を突破して来たと言うことであろう。
   私は、この血を分けた日系ブラジル人と言う貴重な存在が、日本の将来を切り開くための最も貴重な財産であり、BRIC’s展開への最も信頼に足るパートナーであると同時に、最高の架け橋だと思っている。
   
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トマト栽培日記2011~(2)桃太郎ゴールなどを植える

2011年04月23日 | トマト・プランター栽培記録2011
   少し遅れて、タキイから第一陣のトマト苗が届いたので、プランターに移植した。
   今回、買ったのは、昨年に引き続いて、黄色い大玉の桃太郎ゴールドと、ミニトマトの小桃、桃太郎ファイトのセット、そして、料理用トマトのティオ・クックとクック・ゴールドである。
   すべて、しっかりとした接ぎ木苗だが、まだ、花芽は出ていない。
   花芽が出た苗を買って植えよと色々な本に書いてあるので、しばらく、送られて来たポット苗のままで肥培して、花芽が出た時に植え替えるのが良いのかも知れないが、昨年、まずまずの出来だったので、そのまま、プタンターに植え替えて支柱を立てて、株もとにオルトラン顆粒を撒いて、水遣りしておいた。

   今回料理用のトマトに拘ったのは、やはり、ヨーロッパ生活で、トマト料理に慣れた所為かも知れない。
   最初は、トマト料理など考えられなかったのだが、馴染んでくると、結構いけるもので、それに、ラテン人の健康の元だと言うから、興味を感じたのである。
   良く分からないが、普通のトマトのように軟らかくはなく、かなり果肉がしっかりしていて、熱を加えても、形が崩れないようである。
   色々な種類があるのであろうが、いくらか、生食してみて、味が非常に淡泊なのが気に入ったと言うこともある。

   タキイの説明書きには、そのまま植える場合には、元肥をゼロにするか少なめにするようにと書いてあり、他の会社のトマト苗の説明でも、最初は肥料を控えるように書いてあるのもあるのだが、NHKの放送やテキストだと、肥料分が含まれた培養土に更に完熟牛ふん堆肥とリン酸肥料を加えるようにとしており、どちらが正しいのかはともかく、私は、市販の肥料入り培養土を、そのまま使ってみて、肥料切れと言う1か月くらい経ってから追肥しようと思っている。
   いずれにしろ、1段果房が付くか付かないかが勝負のようなので、花房の付くのを待ってから授粉に努力しようと思っている。
   歩いてみたら分かるのだが、あの荒涼としたアンデスの麓が原産のトマトだから、それ程、地味が肥えているとは思えないので、肥料は、実が成るまで、それ程、必要でないのかも知れないと思っている。

   先週、プランターに植えた国華園のトマトだが、接ぎ木苗ミニトマトのアミティエは、大分、大きくなって、花房が付いて順調に成長している。
   このトマトが、一番早く実を結ぶであろうから、今年は、思い切ってすべて2本仕立てを試みてみようと思っている。
   昨年、1本、面白いと思って試してみたら、まずまずの出来であったので、やり方次第だと思っている。
   中玉の完熟むすめの方も、しっかり、定着したようである。

   ところが、貧弱なもやしのような状態で届いたピュアクリームは、4本とも、頂端部の軟らかい新芽が真っ黒にちりちりに枯れてしまって、残った二葉とひょうろりとのびた下の葉だけが元気だと言う惨めな状態になってしまっている。
   ただ、虫めがねで見ないと分からない程だが、芽の先端部が生きているようだし、残った茎がしっかりしているので、とにかく、生きるか死ぬか、これから、だんだん暖かくなってくるので、様子を見ようと思っている。
   植え替えのショックや、九州で育った苗の移植であるから、多少、問題があるのであろうが、いずれにしろ、今までに見たこともないような非常に変わった種類のトマト苗なので、これが、まともな木になってトマトを実らせるのかどうか、興味を持って挑戦したいと思っている。
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田舎暮らしとガーデニングの楽しみ

2011年04月22日 | 生活随想・趣味
   私は、イギリスに5年住んでいた。
   その前、3年間、オランダに住んでいたけれど、仕事の関係で、あまりに頻繁に、アムステルダムとロンドンを往復するので、ヒースロー空港の入管の係員が、イギリス在住のビザを取れと言った。
   ヨーロッパの拠点の開拓で、最初は、アクセス便利なアムステルダムに本拠を置いたのだが、結局、ロンドンでの事業の比重が増してきたので、移転を考えていた矢先でもあり、渡りに船とロンドンに移った。
   
   ロンドン市内でも、そうだが、特別な中心街以外では、殆ど一戸建てか、二個一のセミデタッチ・ハウスが多くて、必ず、各戸に広い裏庭がついていて、夫々、住人が、思い思いの庭を造って楽しんでいる。
   私は、途中1回宿替えをしているので、都合、二軒のイギリスの家に住んでいたわけだが、両方とも、かなり、綺麗な整った裏庭があって、季節の花々が咲いたり、果樹が実ったりと、季節感を感じながら、庭に出て、憩ったものである。

   ところが、とにかく、今日はパリ、明日はブラッセルと言った調子で、休日さえまともに取れない程多忙を極めていたので、イギリス人のように、休日には、ガーデニングを楽しむと言った余裕などは、全くなかった。
   当時は、それ程、ガーデニングに興味があった訳でもなかったので、庭仕事は、殆ど、専門のガーディナーに任せていた。

   ところが、オランダにいた時には、写真が好きだったので、キューケンホフ公園やその周りの広大なチューリップやヒヤシンス、水仙などの極彩色の球根畑に興味を感じて、良く訪れたりした。
   それに、ロンドンに移ってからも、近所の公園や住宅街のバラを写したり、近くに移り住んだので、暇が取れれば、世界最高峰の植物園キューガーデンにカメラを抱えて通い詰めたことなどが重なり、休暇には、イギリス国内の名園や植物園などを回ることが多くなって、遅ればせながら、少しずつ、花木や草花、ガーデニングに興味を持つようになっていった。

   ガーデニングと言えば、狭い庭しかない日本では大袈裟に聞こえるのだが、要するに、庭仕事と言う結構厄介な雑事を熟しながら、花木や草花の世話を厭わずにやれるかどうかと言うことであろうか。
   私は、最初の頃、花咲き実成る講座と言う通信教育を受けて、勉強したことがある。
   用土を買って来て、花木の苗を植えて、水をやっておれば、何でも花が咲くと思ったら、大きな間違いで、苗や球根を成長させて、美しい花を咲かせるためには、それ相応の基礎的な知識が必要なのである。
   それに、かなりの努力と経験を積むことによって、一人前になる。

   若い時に、サラリーマンと言えども、自分の家かマンションくらいは持たなければダメだと思って、あっちこっち入居の応募をしたが、幸か不幸か当たらなかったので、会社の関係で、まず、土地を買った。
   今、考えてみれば、あの時、土地を買っていたから、庭仕事が出来るのであって、マンションを買っておれば、ベランダ栽培しか出来なかった筈だから、喜ばなければならないのかも知れない。

   門被りの槇や玉仕立てのツゲ、金木犀、生垣の伽羅やツゲ、モッコクと言ったメインとなる木々は、植木屋さんに植えて貰ったが、その他の多くの木々は、すべて、長い間に、私自身が、園芸店や通信販売で買って、植えては切り、植えては間引いて、現在の庭になったのである。
   我流で植えたい木々や草花を勝手気ままに植え続けて来たので、非常にアンバランスな不安定な庭だが、季節の移り変わりを忠実に反映し、花を咲かせたり実を結んだりして楽しませてくれているので、私自身は、結構、満足している。
   尤も、家族からは、かなり、不評で、それに、手入れに手を抜くので、美しい時ばかりではない。
   しかし、いずれにしろ、私にとっては、人生の対話を交わしながら接してくれている実に貴重な友であり、同輩なのである。

   田舎だからこそ、多少、それなりの広さのある庭のある家を手配出来たのではあるが、それよりも、都会の中ではなく、田舎故に自然と直結したガーデニングを楽しめる良さがある。
   まず、田舎の自然とわが庭が、境界線なく結びついていることで、自然界の息吹や呼吸が直に感じ取れることである。
   遅ればせながら、イギリスの友人たちが、ロンドンに住んでいて仕事をしていても、必ず、週末には、家族の居る田舎に帰ってガーデニングを楽しんでいた気持ちが、少しわかって来たような気がしている。
   
(口絵写真)咲き始めたわが庭の牡丹。
   
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わが庭の歳時記・・・椿から牡丹・芍薬へ

2011年04月21日 | わが庭の歳時記
   並木道の八重桜が、満開になった。
   急に暖かくなって、一気に夏支度で、私の庭の花たちも、主役が交代し始めた。
   この口絵写真は、夕日を受けた満開の椿・崑崙黒と枝垂れ梅の新緑で、バックは、広場の葉桜直前のソメイヨシノである。
   小さく写っている椿は、ピンクがジョリーパー、白色が羽衣、赤が玉の浦と紋繻子で、庭の椿で、今咲き誇っているのは、花富貴と紅乙女、天賜、四海波くらいで、殆どの椿は花が終わって、新芽が出始めている。

   梅の下の白い花は、開きかけた牡丹で、他の牡丹も、大きな蕾がほんのりと色づき始めた。
   芍薬は、まだ、小さな蕾だが、日に日に大きさを増して来ている。
   咲き誇っていた椿から、牡丹・芍薬に、庭の花が入れ替わってくるので、また、一寸雰囲気が変わって面白くなる。

   草花は、水仙が、ぼつぼつ終わりだが、ムスカリやチューリップは、まだ、今が盛りである。
   佐倉のチューリップ祭りも29日まで続くらしい。
   恐らく、もう少しすると、オランダのキューケンホフ公園では、あらゆる春の草花が一気に咲き切って、最も美しいシーズンになるのだが、私の花への傾斜は、このオランダのリッセの公園と一面に広がるチューリップ畑、それに、キューガーデンの花々が切っ掛けであったので、初春から、バラの咲き誇る初夏にかけて、ヨーロッパの春が無性に懐かしくなる。

   日当たりの良い木陰から、青紫のミヤコワスレが咲き出してきた。
   一株植えたのが、株分けを続けたので、今では、庭のあっちこっちに広がって、青系統の花の少ない私の庭の、貴重な存在である。
   それに、路傍で一株貰って来て植えたスミレも、今では、随分、庭に広がって、木陰の下草として、中々、素晴らしい雰囲気を醸し出してくれている。
   やや青色の勝った典型的な菫色の野生種だが、その上に、小磯椿の落ち椿が乗っている風景も、乙なものである。

   バラは、イングリッシュ・ローズもフレンチ・ローズも、小さな蕾を沢山つけ始めた。
   垣根に這わせたファルスタッフにも蕾がついているので、小ぶりのつるバラとして定着してくれるであろう。
   月が替われば、久しぶりに、京成バラ園に出かけようかと思っている。

   庭に植えっぱなしのユリも、鉢に植えたユリの球根も、元気な大きな芽が出て、ずんずん伸び始めた。
   ユリは、同じ球根でも、花後に葉を沢山残して管理さえ良ければ、翌年、同じように咲くので、他の球根草花よりも、続けて楽しめるので良い。

   八重桜が咲いたので、朝顔の種蒔きの時期到来である。
   今年は、昨年、種を採って置いておいた種を蒔いた。
   ごっちゃ混ぜになっているので、どんな花が咲くのか分からないが、かなり高いところまで、庭木を這い上がらせたので、今度は、あまり邪魔にならないように、枝を誘引したいと考えている。

   今、馬酔木が、綺麗なピンクのスズラン状の花をつけている。
   肝心のスズランの方は、まだ、芽が出たところである。
   久留米つつじも咲き始めた。
   それに、ハナミズキが、ややクリーム色の鮮やかな苞を広げ始めて美しい。

   まだ、アジサイは、花芽が出始めたところで、今年は、大きく切り詰めてしまったので、フェイジョアの花が咲きそうにはないが、梅雨に入って、この二つの花が、私の庭を彩ると、一挙に暑い夏が近づく。
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ピエルルイジ・コッリーナ著「ゲームのルール」

2011年04月20日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   著者のピエルルイジ・コッリーナは、、2002年の日本と韓国でのワールドカップで、日本対トルコ、決勝戦のドイツ対ブラジルなどの対戦の主審を務めたサッカーの偉大な国際審判員である。
   偶々、古書店で見つけて、サッカー・ファンでもない私が、この本を読んだのは、著者略歴に、経営コンサルタントとしての顔を持つと書いてあったからで、往々にして、その道に秀でて名を成した人には、特別なマネジメントの才があり、貴重な一家言を必ず持っているので、それに、触れたかったからである。
   このユル・ブリンナのような風貌は独特で、残念ながら、日本が負けてしまったけれど、テレビで見ていたので、コッリーナの姿は覚えている。

   私は、一度だけ、サッカーの試合を見に行ったことがある。
   ブラジルに赴任してすぐに、誘われて、サンパウロの競技場にでかけたのだが、子供の頃に習ったルール程度で良く知らなかったし、それに、観客席では、興奮した観客が焚火はするは、コカコーラの瓶が後ろから飛んで来るは、とにかく、スポーツ観戦と言った雰囲気ではなかったので、その後は、一度も行っていない。

   しかし、サンパウロでは、サッカーに関して、強烈な印象が、二回ある。
   最初は、サンパウロの地元チーム・コリンチャンズが、優勝から見放されていた昔の阪神のように奇跡的に優勝したとかで、サンパウロ中が、革命騒ぎのように、昼夜、熱狂したファンで、大変な騒ぎであったこと。
   もう一つは、隣のブエノスアイレスでのワールドカップで、ブラジルとアルゼンチンの優勝決定戦が行われたのだが、当日は、官公庁も民間企業も早々にすべてシャッターを下し、そして、街の店舗と言う店舗はみんな店を閉めて、町中は、水を打ったように静かになり、全ブラジル人が、テレビに見入ったのである。
   勿論、バスもタクシーも、走っていない。
   途中で、ブラジルにゴールが決まった時には、高層ビルのアパートや事務所から、爆竹音と歓声があがって、ところ構わず、紙吹雪で、この時も、正に、革命騒ぎの凄まじさであった。
   サンパウロのバス会社の社長が、男気を出して、無料で、沢山のファンを、ブエノスアイレスに送り込んだとか、大新聞に、競技場へ行かなくても、ブラジルを勝たせる応援の仕方と言った社説が掲載されたとか。
   しかし、ブラジルが涙を飲んだと記憶しているのだが、優勝していたら、どんな騒ぎになっていたか、それ程、ブラジル人のサッカーへの入れ込みは尋常ではないのである。

   これ程、日本でも、サッカー・ブームになるのなら、4年間もブラジルにいたのだから、本場で、素晴らしいプレーや名勝負を見ておくべきだったと思うのだが、イギリスに5年間もいて、一度も、ゴルフをしなかったのと同じで、趣味でもなく興味がないと言うことは、言うなれば、恐ろしいことなのである。
   しかし、私から言わせれば、イギリスに何年も住んでいながら、シェイクスピア戯曲を見たこともなければ、私が出張で行けなくて何度もロイヤルオペラのチケットを与えても、一度も、行かなかった同僚が、殆どだったと言うことを考えれば、何でも、好きでなければ、猫に小判なのである。

   駄弁が長くなってしまったが、コッリーナは、日本対トルコの対戦に対する思い出を語っている。
   試合終了のホイッスルが鳴ったその直後に、降り続く雨の中で、2時間にわたって間断なく続いた、耳をつんざく4万人の日本人による大声援が止まって、10秒間の完全な沈黙。
   その10秒間は、永遠に続く非現実的なもののように思えて、「鼓膜が破れるほどの静寂」が何を意味するのか、その後の、嵐のような感動的な長い拍手が続いて、それまで自分には沸き起こったことのない感動的な瞬間であった。
   日本代表の夢は潰えたが、拍手を送る全観衆は、とにかく結果を出したと言うチームに感謝の気持ちを表したかったのだと言う。

   トルコの選手が勝利を祝う中、日本選手の多くは泣いていたが、自然に日本のキャプテン宮本に近づきたい衝動に駆られて、「自分たちのしたことに誇りを持っていいと思う。悲しむんじゃない。胸を張れ。」と言った。
   大会前に期待された以上のことを成し遂げ、決勝トーナメントまで辿り着き、誇りを持って負けたことは尊敬すべき結果であって、宮本への語りかけは、自分の感動を伝え、勝つために全力を尽くした人たちに、尊敬の意を表したかったからだと言う。
   英語で伝えた自分の言葉の本質を、宮本の微笑みによって理解されたと確証し、観衆の止むことのない拍手は、まるで二人のやり取りを、彼らも共感しているかのように感じたと述懐している。

   蛇足だが、実に感動的な素晴らしい本である。
   
(追記)口絵写真は、同書掲載の写真を転写借用。
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フィラデルフィア管弦楽団が11条破産保護を申請

2011年04月18日 | クラシック音楽・オペラ
   フィラデルフィア管弦楽団が、16日、米連邦破産法11条の適用を裁判所に申請したと言う記事が、インターネットの見出しに出たので、ニューヨーク・タイムズとワシントン・ポストの電子版を開いて読んだら、やはり、真実で、詳しい経緯や事情が分かってきた。
   あのリーマン・ショック前に、破廉恥極まりない悪徳ウォール・ストリート・マンや金融機関が操っていたマネーに比べれば、ほんの誤差範囲にしか過ぎない微々たる資金難のために、人類が営々と築き上げてきた文化の偉大な牙城の一つとも言うべき世界屈指のオーケストラが、破産の危機に直面せざるを得ないと言う、暗澹たる悲劇を感じて、言葉を失ってしまった。
   あのストコフスキーがフィラデルフィア管弦楽団を指揮してディズニーが制作した音楽アニメ「ファンタジー」は、世界中の子供たちばかりではなく、多くの大人達にも大変な感動を与えたのである。

   私には、このフィラデルフィア管弦楽団には、特別な思い入れがあって、今でも、涙が零れるほど懐かしい。
   ペンシルヴァニア大学のウォートン・スクール大学院に入学を許可されて、フィラデルフィアに移り住み、どうにか新学期の準備が完了して、真っ先に出かけて行ったのが、ダウンタウンにあるアカデミー・オブ・ミュージックであった。
   フィラデルフィア管弦楽団のシーズン・メンバー・チケットを買うためで、幸いにも、直前にキャンセルがあったと言うことで、友人と二枚、1階前列中央の席を確保できた。
   1972年のシーズンから2年間この席で、フィラデルフィア管弦楽団の定期公演を楽しみ、ロビンフッドデルの夏季野外コンサートを始め、他にもフィラデルフィア管弦楽団の演奏を聴く機会もあったし、それに、世界中の名だたるオーケストラやオペラ、音楽家などの演奏を、このスカラ座を模したと言う美しくてシックな劇場で楽しむことが出来た。
   マリア・カラスやフィッシャー・ディスカウ、それに、就任早々の小澤征爾のボストン響を聴いたのも、この劇場であった。

   時には、終演後、楽屋に出かけて、ユージン・オーマンディや色々な音楽家に会って話を聴いたり、レコードにサインを貰ったりしたこともあった。
   丁度、オーマンディが、初めて中国に渡ってフィラデルフィア管弦楽団の公演を行って、その時、演奏した中国のピアノ協奏曲「黄河」を演奏したことがあったが、この時も、コンサートの後で楽屋に行って、中国の話などを聴き、ピアニストのダニエル・エプスティンと日本人の奥さんと一緒に写真を撮らせてくれた。
   残念ながら、その写真は、どこへ行ったのか分からなくなってしまったが、実に愛想の良い、好々爺のユージン・オーマンディの優しい顔を思い出すと、無性に、フィラデルフィアの生活が懐かしくなる。
   後年、ずっと経ってから、ベルリンの壁崩壊前にオーマンディの故郷ブダペストを訪問して、ドナウ川の滔々とした流れを眺めながら、オーマンディの数々の演奏を思い出して感激であった。

   その後、何回か、フィラデルフィアの演奏会を聴いたような気がするが、4~5年前に、折角、フィラデルフィアに行きながら、都合がつかず、エッシェンバッハ指揮のコンサートをミスってしまった。 
   その時は、新しい本拠地であるキンメル・ホールに移っていたのだが、懐かしいアカデミー・オブ・ミュージックのホールのロビーに入って、若かりし頃の思い出を反芻していた。

   破産法第11条による再建と言うことで、フィラ管は、資産を保護し、その間に将来計画の構築に専念する訳であるから、演奏会の開催など顧客に対する取り組みをそのまま継続し、保護することが中断されることのないように法廷に破産保護の申請を出したと言うのである。
   オーケストラの理事会は、生き抜くためには、11条の破産保護の申請は必須であり、決定が下されるまでは、必死になって寄付や支援を求める機会が取れて、破産保護下で事業を継続しながら再建を図る計画だから良いのではないかと言うのであるが、オーケストラの団員たちは、大反対で、リーフレットを観衆に配布して、取り下げを訴えていた。
   The leaflets said such a filing would make it hard to attract “the best new players” and hurt the orchestra’s ability to raise money. すなわち、破産保護など不必要であり、提出すれば、オーケストラの質に対する最大のダメッジになるばかりではなく、優秀な新団員を集められないし、寄付や献金さえ集まらなくなると言うのである。

   アメリカのどこのオーケストラやオペラ劇団も同様に、経済的危機に直面しているようだが、フィラデルフィア管弦楽団の場合には、何年もまえから深刻な経営問題を抱えていたようで、切符の売れ行きが異常に悪かったことも破産の一因だったと言う。
   私の居た頃には、アカデミー・オブ・ミュージックのキャパシティが小さいと言うこともあろうが、メンバー・チケットは、祖父母から子供、そして、孫へと引き継がれるので、途中での取得は至難の業であったので、切符が売れないなどとは信じられないのだが、このシーズン・メンバー・チケット取得困難は、アムステルダムのロイヤル・コンセルトヘヴォ―の場合でも同じであった。時代が変わったのであろうか。
   音楽監督も、エッシェンバッハが去ってからは、シャルル・デュトワに断られて空席で、総裁兼CEOにも人を得ていない。
   家主のキンベル・センターの高い家賃や旧本拠地アカデミー・オブ・ミュージックでの公演の益金の流用などにも問題があり、長い間頓挫している団員たちとの契約なども含めて、根本的な経営見直しが必要だとも言う。

   しかし、誇り高きフィラデルフィア人の命とも言うべきフィラデルフィア管弦楽団が、現実には、たったの二か月分の支払で資金がショートしてしまう。今シーズンは、公演などの収入が14.1百万ドルで献金・寄付金・ガラ収入が18.9百万ドルで、合計33百万ドル(28億円)の収入しかなく、必要資金は46百万ドル(39億円)であり、たとえ、緊急資金援助を追加したとしても、収支のギャップは大き過ぎて、どんなに足掻いても5百万ドル(4億2500万円)足が出るとマネッジメントは主張しているようである。

   わが母校ウォートン・スクールは、世界でトップ・クラスの最古の名門ビジネス・スクールで、フィラデルフィア管弦楽団と目と鼻の先にある。
   フィラデルフィア管弦楽団の素晴らしさと芸術の質の高さは、夙に有名で、長い歴史と伝統に培われて正に屈指の世界的オーケストラであることには疑いの余地がない。
   しからば、問題は、オーケストラのマネッジメントにあるとするのなら、どうして、ウォートン・スクールに駆け込まないのか。
   まあ、これは、冗談としても、とにかく、たったの4億円何がしかの資金ショートで、芸術の精華とも言うべき名門オーケストラが、窮地に追い込まれざるを得ないと言うアメリカ社会の悲劇を垣間見たようで、また、今日も、人類にとって文化とは何か、文明とは何かと考え込まされてしまった。
   今日も又、強い余震があった。自然でさえ、人間を激しく叱っている。

(追記)この口絵写真は、11条破産保護申請反対のリーフレットを配布した後のキンベル・センターの会場。ニューヨーク・タイムズ記事から借用。





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3D映画:ロイヤル・オペラ・ハウス「カルメン」

2011年04月17日 | クラシック音楽・オペラ
   ロンドン・コベントガーデンのロイヤル・オペラ・ハウスの2010年の公演である「カルメン」が、3D映画として登場した。
   鮮明な画像と圧倒的なオペラ・サウンドで、オペラの忠臣蔵とも言うべきビゼーの「カルメン」が、立体映像で映し出されると言うことは、正に、3Dとしてはエポックメイキングなことで、ビゼーの音楽の魅力のみならず、スペクタクルでダイナミックなシーン展開は、劇場オペラの域をはるかに超えており、実際のオペラ劇場での観劇とは、全く違った次元のパーフォーマンス・アートであることを実感させてくれる。

   私の場合には、イギリス駐在の5年間を含めて、シーズンメンバー・チケットで、コベントガーデンに通い詰めていたし、前後10数年間、何度もロイヤル・オペラを見ているので、特に、特別な感慨はないが、あの独特なROH劇場での雰囲気は、他の世界の名門オペラハウスとは、かなり違った、やはり、イギリスのオペラハウスであると言う印象を与えてくれる。
   私の個人的な感じかも知れないが、グラインドボーンの場合でも同じことが言えるのだが、やはり、シェイクスピアの国だけあって、オペラでありながら、歌手たちが非常に芸達者で、あたかも、上質な芝居の舞台を見ているような感じがするのである。
   観客そのものが、芝居気のないダイコン歌手を排除する雰囲気があるのか、シェイクスピア戯曲であろうと、オペラであろうと、芝居を見せなければ、満足しないと言う芸術環境がビルトインされていると言うことであろうか。

   今回のカルメンも、その典型で、タイトル・ロールを謳ったクリスティーン・ライスを筆頭に、ドン・ホセのブライアン・ハイメルは勿論、エスカミーリオもミカエラも、そして、多くの歌手や子役まで、正に、千両役者と言うべきで、この素晴らしい芝居に、極上のビゼーの音楽が、ダイナミックに奏されるのであるから、楽しくない筈がない。
   RealDのカルメン3Dオペラのホーム・ページを開いて、1分22秒の予告編を見れば、良く分かるが、とにかく、見せて魅せるオペラ映画である。

   最近、本格的なオペラから、やや縁遠くなっているので、この映画に登場するオペラ歌手の舞台は一度も見ていないが、(尤も、大半の歌手がROHデビュー)、私が、コベントガーデンで見て強烈に印象に残っているのは、アグネス・バルツァのカルメンと大病前のホセ・カレーラスのドン・ホセの舞台だが、既に、クラシックの舞台になってしまっている。
   もう一つの強烈な思い出は、フィラデルフィアで聴いたフェアウェル・コンサートでのマリア・カラスとジュゼッペ・ステファノのカルメンの終幕のシーン、後にも先にも、私にとって唯一のマリア・カラスの舞台である。
   今回のオペラについては、舞台監督のフランチェスカ・ザンベロの意図なのであろうが、非常に丁寧に筋を追って舞台が展開されており、これまで、見たオペラや映画などでのカルメンより、はるかに、物語の細部までが描かれていて、非常に面白かった。

   カラヤンと喧嘩したと言う程の向こう意気の強いバルツァの強烈なカルメンと違って、クリスティーン・ライスのカルメンは、非常にオーソソックスなカルメンで、ジプシーの血を引くスペイン女の雰囲気がむんむんしていて魅力的である。
   縄に繋がれて牢獄に送り込まれようとするカルメンが、ドン・ホセを誘惑して陥落させるシーンの凄さは、非常に、強烈である。
   この予告編にも出ているが、椅子に座ったドン・ホセに向かって机に腰を掛けたカルメンが、右足をドン・ホセの肩にかけて迫ると、堪らなくなったドン・ホセが、カルメンの左足に顔を埋めるのだが、勝ち誇ったように、カルメンは、机の上に仰け反って、頭を海老反りにして恍惚の境地に入る。
   ホフマン物語で、ローランド・ビリャソンを相手に、ジュリエッタを演じた時のデイリー・テレグラフ評が、Christine Rice was dazzlingly erotic and glamorous as Giulietta..."と言うのだが、必ずしも、美人歌手と言うジャンルではないが、ライスは、非常に蠱惑的かつセクシーで魅力的な女性で、声とその表現力の素晴らしさは抜群な上に、オックスフォードで、物理学を学んだと言うのであるから恐れ入る。

   ドン・ホセのブライアン・ハイメルは、ニューオルリンズ出身のテナーで、イングリッシュ・ナショナル・オペラで、ピンカートンを歌っているが、ROHへは、このドン・ホセがデビュー。Hymel delivers a powerful portrayal of Don Jose's degeneration from dutiful soldier to an outlaw who is gradually consumed by his passion.と言う評だが、芝居が上手いと言うことでもある。
   ホセ・カレーラスを少し偉丈夫にした感じの甘いマスクの歌手で、私は、第二幕で、カルメンに帰れと突き離されて、切々とカルメンへの思いを訴えて歌う「花の歌」のハイメルの素晴らしいアリアに感激した。
   何故か、脈絡はないのだが、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の愛の二重唱を思い出して聞いていた。
   この赤いバラの花は、最後まで、ドン・ホセの愛の証で、終幕、横たわったカルメンの上に干からびて粉々になった花が注がれる。

   私は、このオペラのミカエラが、「トーランドット」のリューとともに、好きなキャラクターで、この歌手に人を得たオペラ公演だと、非常に嬉しくなる。
   今回のミカエラのマイヤ・コバレヴスカは、ラトヴィア出身の30歳。実に美しく清楚で魅力的なソプラノ歌手である。
   ROHへは、今回がデビューだが、メトロポリタンでは、ドミンゴ指揮で、「ラ・ボエーム」のミミを歌っているのだが、素晴らしかったであろうと思う。
   17歳の一途にドン・ホセを思いつめる初々しい乙女だが、第一幕で、ホセと分かれのキスを交わす時に、思い余って切羽詰ってホセの頬を抑えて唇に激しく接吻し、はっと我に返って一目散に走り去る、このシーンは非常に印象的だが、物陰に隠れて、ドン・ホセとカルメンとの一部始終と襟章を外されて営倉入りまでの経緯を見ている。第一幕は、ミカエラが登場して、追放されて行くホセを見送るシーンで幕。
   第3幕のミカエラのアリア、ドン・ホセを思い止まらせようと切々と歌う堪らなく感動的なアリアなのだが、コバレヴスカは実に上手い。
   こんなに素晴らしい乙女に恋されながら、あばずれのカルメンに入れ込むホセは、何てバカな男なのだろうと思うのだが、男と言うものは、何故か、毒に翻弄される愚かな性が顔を覗かせることがある。
このコバレヴスカは、ミレッラ・フレーニに師事したと言う。フレーニとは、一度、ロンドン行きのAF便で隣あわせたのだが、実に魅力的な「エフゲニー・オネーギン」のタチアーナを見ているので、コバレヴスカの雰囲気も何となく分かる気がする。

   カルメンは、何と言っても闘牛士の歌を歌うエスカミーリオ。
   アテネ出身のギリシャ人で、長身で目の鋭い個性的な風貌の歌手で、エスカミーリオに似つかわしい雰囲気だが、そればかりではないであろうが、ハンブルグでも、ドイツ・ベルリン・オペラでも、ストックホルムでも、デビューは、エスカミーリオだったと言うアリス・アリギリスだが、非常にどすの利いたパンチのある素晴らしい闘牛士を見せてくれた。

   ところで、この映画を、ワーナーマイカル・シネマで見たのだが、500人ほど入る劇場に、聴衆は、たったの4人。
   私は、何時ものように、e席リザーブなので、L-17の一番良い席だったが、とにかく、勿体ない程、素晴らしい映画であった。
   
(追記)口絵写真は、RealDホームページから借用
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トマト栽培日記2011~(1)トマト苗をプランターに植える

2011年04月16日 | トマト・プランター栽培記録2011
   通信販売で注文したトマト苗が送られて来たので、プランターに植え付けた。
   国華園から送られて来たのは、ミニトマト(バイオ)のアミティエ、中玉トマトの甘熟むすめ、大中玉トマトのピュアクリームだった。
   最後のピュアクリームと言うのは、クリーム色のユニークトマト。甘味が濃厚で、サラダは勿論、トマトソースにもgood!草丈が低くまとまる芯止まりタイブ、ということなので、多少興味本位に買ったのだが、店頭なら売れないようなひょうろりとして立たない、非常に弱々しい苗なので、大丈夫かどうか、とにかく、当分、ポットのままで肥培して様子をみようと思っている。

   1本、穂先が枯れてちじれていたので、電話を入れたら、すぐに代替品を送ると言う。
   苗が弱いと、不思議に、やってやろうとファイトが湧いてくるもので、別に、悪いことでもないと思う。
   昨年、タキイの桃太郎ゴールドの苗が1本、最初から成長が遅れていたのがあって、注意して育てたが、やはり、ダメであったので、店頭で、苗を見て買う方が、確実かも知れない。
   しかし、地元千葉で生産された接ぎ木苗を植えたが、あまり、芳しくもなかったので、必ずしも定石通りには行かず、やはり、苗が生まれながらに持っている生命力がものを言うのであろうと言う気がする。
   
   説明書には、いろいろ植え付けについて注意書きがしてあったが、市販の培養土を使用するのだし、特別な準備も必要がないので、九州からの苗なので少しは環境に馴らせるために2~3日置こうかと思ったのだが、結局は同じことだろうと考えて、小さなポットから苗を出して、そのまま、プランターに移した。
   
   とりあえず、ミニとミディだけだが、近く、タキイからも送られて来るので、これには、大玉トマトもあるので、これらをメインにして、後は、ケーヨーD2かジョイフル本田に行って、サカタやカネコ、デルモンテやサントリーなどの苗を選んで、追加しようと思っている。
   園芸店では、色々な種類の新苗が、次から次へと出てくるのだが、グッドタイミングに、意図した苗が売り出されるとは限らないので、その点は、通信販売だと、思った苗が買える。
   今回は、タキイは、ファンタスティックと言った大玉苗や5~10ミリのマイクロ・トマトと言った新種を出す。単価500円は、かなり割高だが、試みてみるだけでも面白いと思う。
   それに、料理用のトマトをと思っていたら、ティオクックやクックゴールドを出したので、これも試してみようと思っている。

   とにかく、昨年は、異常な猛暑のために、8月以降、トマト栽培は、実がならず、花が咲かなくなるなど、全くダメになってしまったが、一昨年のように、10月の初め頃まで、楽しめたら良いのにと思っている。
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バッハのエールで黙祷~都響定期公演

2011年04月15日 | クラシック音楽・オペラ
   今夜、東京文化会館での都響定期公演の開幕に、指揮者のモーシュ・アツモンが東日本大震災への追悼の言葉を述べて、照明を落とした会場に、静かに荘重なバッハのエールが奏されて、全員起立して黙祷を捧げた。
   演奏会の後、アツモンが楽団員とともに、募金箱を持って立つとのことだったが、私自身は、開場前に済ませたので、失礼して、何時ものように、演奏が終わるとすぐに立って会場を出たので、その様子は分からない。
   開演前には、ロビーで、楽団員たちが一列に並んで、募金箱を持って、聴衆に対していたが、中々、荘重な(?)雰囲気で身が引き締まる思いであった。

   随分前になるが、スマトラ沖大地震の時には、大晦日の「ベートーヴェンは凄い!」演奏会で、指揮の岩城浩之が、同じように、聴衆に寄付を呼び掛けていたのを思い出した。
   岩城浩之が逝って随分経つような気がするのだが、スマトラの大惨事は、何故か、ごく直近のような気がするのが不思議である。

   当夜のプログラムは、竹澤恭子のヴァイオリンで、エルガーの「ヴァイオリン協奏曲 ロ短調」、そして、ブラームスの「交響曲第2番 ニ長調」であった。
   竹澤恭子も初めてで、このエルガーの曲も初めてだったが、クライスラーがエルガーに依頼したとのことで、とにかく、演奏時間が50分と言う協奏曲としては大曲で、豪快でありながら非常に繊細な美音を響かせた竹澤の冴え切ったテクニックは抜群で、聞きなれてお馴染みのブラームスの第2番よりも、この曲の方に感激して聴いていた。
   ブラームスの方は、田園交響曲と呼ばれるくらいで、非常に自然描写の際立った穏やかで心和む美しい曲なので、聴いているだけで幸せを感じるのだが、クララ・シューマンを思い続けていたブラームス故に作曲できた交響曲だったのではないかと思いながら楽しませて貰った。

   大震災後の自粛ムードが、少しずつ緩んできたようだが、多くの外国人が日本を脱出して、観光客も半減したと言う悲しい状態なので、日本人の誇りを胸に頑張って、出来るだけ早く、東北の被災地にも、明るくて元気な音楽が流れるようになることを祈りたいと思う。
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花はさくら、山は富士と言うけれど

2011年04月13日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   今、千葉の田舎は、春の真っ盛りである。
   今日、少し風は強かったが、花曇りと言った感じの穏やかな日であったので、四六時中、余震に大地が揺れ続けている憂さ晴らしのために、郊外を車で走った。
   どこへ行っても、淡いピンクのソメイヨシノが満開で、白い綿帽子が、濃い霞のように野山に張り付いた感じで、穏やかな春である。
  
   ところが、桜はソメイヨシノばかりで、全く変わり映えがしないのに気が付いた。
   色と雰囲気が違った花と言えば、モモやモクレンなのだが、桜と比べてスケールが小さいので、あまり、パッとしない。
   
   夕方近くになって、佐倉城址公園に出かけたが、ソメイヨシノは、散り始めて最盛期は過ぎており、まだ、八重桜は時期が早いので、かなり人出があったが、あまり、趣がある風ではなかったので、歴博の駐車場サークルでUターンしてすぐに出て来てしまった。
   この公園には、かなりの種類の桜の木が植わっていて、少し時期をずらしながら咲くのだが、八重桜が美しく咲くのは、10日くらい後のことであろうか。
   今日は、歴博の事務所入り口のピンクの枝垂れ桜は満開で、まだ、小さいが、中々、情趣があって綺麗であった。
   関東地方の桜は、京都や奈良など関西と違って、殆どソメイヨシノばかりで、至って単調なのだが、この公園は、ソメイヨシノが散って観光客があまり来なくなった時期の桜見物の方が面白いのである。
   開花宣言などもそうだが、花見をソメイヨシノの開花時期に合わせて人々が動くけれど、学生時代に、京都で、遅咲きの桜を静かな古社寺などで楽しんでいたので、多少、天邪鬼かも知れないが、この方が楽しめると思っている。

   ついでに、印旛沼畔に出て、オランダ風車のあるチューリップ公園の傍に出てみた。
   私は、このチューリップ畑より、湖畔の桜並木の方が趣があって良いと思うのだが、丁度、チューリップ祭りと同じ時期なので、日中は、観光客で一杯になる。
   夕方で、大分、お客さんも少なくなっていたが、ものものしい交通整理が興ざめなので、傍を通り抜けただけだが、それほど大きくないが、整然と一列に並んで白く霞んだソメイヨシノ並木の遠望は、印旛沼のほとりの鄙びた農家の長閑な雰囲気と調和していて、趣があって良い。
   その傍に、オランダ風車がゆっくりと回っていて、足元には、極彩色のチューリップ畑が張り付いている。

   歳の所為か、私は、人ごみや花見客で雑踏するようなところでの、春の花の鑑賞は苦手で、花のクローズアップ写真を撮る目的以外には、行かないようにしており、たとえ1本の花木でも、田舎や路傍にひっそりと咲いているのを見る方が、はるかに好きである。
   この印旛沼からすぐのところに、樹齢400年と言う吉高の大桜があり、真っ黄色の菜の花畑にすっくと立つ鮮やかな円弧を描いて咲く素晴らしい山桜があるのだが、ぼつぼつ、見ごろであろうから、週末には、満開かも知れない。
   昔は、人も少なくて、綺麗な写真が撮れたが、今では、人の切れ間がなく、人物の入らない写真など撮れないし、それに、まず、近くまでの車でのアクセスさえ至難の業であろう。

   さて、この口絵写真であるが、わが庭に咲く天賜椿である。
   この頃、桜を求めて花見に出かけるのが、少々苦手になってきたと言うか、それよりも、自分の育てた椿やバラなどを、その日々の成長を眺めながら楽しむことの方が多くなった。
   醍醐の桜、東福寺の桜、宇治河畔の桜、仁和寺の桜、大原の桜、嵐山・嵯峨野、伊賀上野や奈良のあっちこっちの古寺の桜、宝塚の桜、思い出せば、走馬灯のように、沢山の桜のイメージが、脳裏を駆け巡るのだが、ヨーロッパや世界の各地で眺めた桜の思い出も懐かしく、すべて、今は夢の中である。

   花はさくら、山は富士というのだが、私は、どちらかと言うと、春の花は、桜より梅、そして、椿の方が好きである。
   穏やかで爽やかな日には、庭に出て、椿に囲まれて、紅茶かコーヒーを片手に、小鳥たちのさえずりを聞きながら、蝶やミツバチの草花との対話を眺めることが多くなった。
   もう少しすると、八重桜に遅れて、ほんのりと色づき始めた牡丹が咲きだし、芍薬が、バラと妍を競って咲き乱れる。
   朝顔の種を蒔き、トマトを植える好機である。

   余震に平静を乱されながら、被災地の春を思うと、無性に悲しくなる。
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四月大歌舞伎・・・三津五郎の「お江戸みやげ」と「権三と助十」

2011年04月12日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   大震災の自粛ムードの最中だが、松竹の歌舞伎は、多少、使用電気をセーブしながらも公演されていて、相変わらずの賑わいである。
   今月は、所謂、團菊祭に近く、古典ものの「一條大蔵譚」では菊五郎が、絵本太功記では團十郎が、夫々、主役を演じ、交互に準主役に代わると言う趣向だが、他に、藤十郎と松嶋屋の「封印切」と言う重厚な舞台が加わるなど、非常に意欲的な舞台展開だが、私にとっては、川口松太郎の「お江戸みやげ」と岡本綺堂の「権三と助十」の方に興味があった。
   両方とも、三津五郎が出色で、それに、「封印切」では、名うての上方役者と互角に組んでの「丹波屋八右衛門」を、そして、「絵本太功記」では豪快な「佐藤正清」を演じるなど、魅力全開の大車輪の活躍であった。

   まず、「お江戸みやげ」だが、結城紬の行商人のお辻(三津五郎)とおゆう(翫雀)が、湯島天神の境内にある宮地芝居を、江戸みやげに見に来て繰り広げられるお辻の人気役者阪東栄紫(錦之介)への恋物語である。
   しみったれで倹約一途のお辻と鷹揚で大らかなおゆうとの弥次喜多バリの小気味よい掛け合いが、実に面白いのだが、そのケチのお辻が、酒を飲むと急に気が大きくなって後先を忘れてしまう。
   おゆうに勧められた酒で、豹変してしまったお辻が、栄紫の芝居を観て一目惚れ、ゾッコン惚れ込んでしまって、座敷で面会するのだが、栄紫の恋仲のお紺(孝太郎)が養母常磐津文字辰(扇雀)が金欲しさに妾奉公へ出されそうになるのを知って、せっせと貯め込んだ全財産大枚をはたいて二人を助けると言う人情話。
   仕事オンリーで爪に火を灯すように倹約一途に生きて来たお辻が、一世一代の初めて知った恋に、われを忘れてしまうのだが、握られた手を愛しく眺め、栄紫にお礼に貰った片袖を嬉しそうに握りしめる健気で愛しい純粋無垢の姿が胸を打つ。
   私は、三津五郎の女形を初めて見たのだが、実に上手い、感動的である。

   それに、負けず劣らず、芸達者な翫雀のおゆうが、また、どこにでもいるようなおばさんなのだが、その歯切れの良い人間臭さが、実に良い。
   扇雀のいけ好かない根性の悪い文字辰だが、「封印切」の傾城梅川との落差の激しさを見ると、中々の役者である。
   錦之助の人気役者ぶりは、地で行くような当たり役で、孝太郎の情のあるお紺との相性が良い。

   「権三と助十」は、神田橋本町の裏長屋に住む駕籠かきの権三(三津五郎)と助十(松緑)の物語で、それに、権三の女房おかん(時蔵)と家主六郎兵衛(左團次)、小間物屋彦三郎(梅枝)を絡ませて描いた、江戸情緒を漂わせた人情味豊かな物語で、大岡越前の名裁きを背景にした世話物歌舞伎であり、しんみりとさせる。
   この芝居の発端となる井戸替えだが、私の子供の頃には、宝塚の農家などには固有の井戸が各戸にあったので、毎年、行われる年中行事で珍しくも何ともなかったが、この場合には、井戸端会議で華やぐ長屋の共同井戸なので、長屋の全員が参加する謂わばお祭りのような普請であるから、賑やかで面白い。

   この裏長屋に長年住んでいた小間物屋彦兵衛が人殺しの罪を着せられて牢死。その父の無実を晴らすために、倅彦三郎が大坂から来て無実を訴える。
   権三と助十が、事件の夜に左官の勘太郎(市蔵)が殺人現場の傍で刃物を洗うのを目撃したと言うので、必死になって、ない知恵を絞って考え出した家主六郎兵衛の迷案(?)が、また、秀逸で、権三と助十と彦三郎に縄をかけて奉行所に突き出すと言う突拍子もない話なので、二転三転、人の良い江戸の善意の市井の人々が振り回されるのだが、結局、泣き笑いの庶民劇を芽出度し芽出度しで終わらせる楽しい物語である。 

   江戸庶民の典型のような三津五郎の権三は特筆ものだが、これまた、威勢が良くて喧嘩速いがどこか気が弱くてお人好しの助十の松緑などは、正に水を得た魚のような小気味良さで、二人の醸し出すこの芝居のテンポと間、舞台展開の素晴らしさは、格別であろう。
   時蔵も、今月は、「一條大蔵譚」での八剣勘解由と言い、いつもの立女形のイメージとは違った役回りだが、長屋のおかみの役も、器用に庶民性を醸し出していて、長屋の連中との掛け合いなども堂に入っている。時蔵の素晴らしいところは、どんな役を演じても、その役毎に役柄を作り出して、時蔵のイメージを引きずらないことだと思っている。
   左團次は、当然とも言うべき適役だが、今回は、気の良い一寸温厚な大家を、スローテンポで訥々と演じていて味わい深い。
   市蔵の灰汁の強さは、この舞台で全く異質な存在である下手人としての役どころに凄みを利かせていて面白い。
   とにかく、この芝居には、とびぬけた主役はいないのだが、正に、水戸黄門や南町奉行の世界の物語で、安心して楽しめるし、江戸の庶民生活が滲み出てくるような味があって実に良い。

   私には、歌舞伎も現代劇も、芝居としてしか見ていないので、良く分からないが、歌舞伎役者は、実に上手いと、いつも舞台を観ながら感心している。
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