熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

円安政策が日本製造業を直撃・・・伊藤元重東大教授

2009年01月30日 | 政治・経済・社会
   現在の為替レート1ドル90円は、決して円高ではなく、むしろ、円安である。
   日本がデフレ不況で呻吟していた間に、アメリカは30%以上のインフレでドルは減価しており、為替レートが、歴史上最高の円高であった79円の水準に上昇すると仮定すると、1ドル60円となり、現在の90円は、危機的な数字ではない。
   これが、以前からニューヨークで語られている見解のようだが、その所為ばかりではないであろうが、中国の元高ばかりが問題になって、日本やアジアの通貨高は問題にならなかったのであろうか。

   しかし、これまで維持してきた円安基調の日本政府の為替政策が裏目に出て、円安状態にどっぷり浸かった製造業が輸出ドライブをかけて、内需が弱い日本の経済成長(?)を支えて来たのだが、世界同時大不況に拠るドラスティックな輸出の減少で、壊滅的な打撃を被っている。
   日本経済の下支えは、輸出によってなされてきた。今回の日本の経済不況は、企業の財務状況は良好であるにも拘らず、行過ぎた円安政策がアダとなり、ものを造り過ぎた製造業が、輸出ダウンによる売り上げ減少で経営状態が極端に悪化しているので、製造業不況の様相を濃くしている。

   伊藤元重教授は、翔泳社のセミナーの現下の国際経済情勢を語る講演のなかで、こんな話をした。

   日本の製造業の国際競争力とイノベイティブな革新性については、世界屈指の実力を持っているので、イノベーションを推進するためにも、円安維持の外為政策を止めて、為替は自由市場の趨勢に任せるべきで、むしろ、円高政策を国是とすべきであったと、私自身は、このブログで持論として述べ続けてきた。
   伊藤教授の見解は、日本経済を輸出に頼り過ぎたところに問題があると指摘しているが、優良企業の大半が、輸出比率が異常に高く、それにも拘らず、国内生産の比率が低くて輸出に依存しておれば、当然、外需頼みで、かつ、為替の影響をモロに被ってしまう。
   それに、日本の製造業は、オープン性に欠けた自社主義を固守する傾向が強く、国内に膨大な工場等生産研究開発拠点を温存しており、極めて固定コストが高くて腰が高いので、ITやサービス産業と比べても、或いは、ファブレスやアウトソーシングなどで製造拠点持たない米国製造業と比べても、製造売り上げ高の減少による稼働率の低下は、致命的な結果を招く。

   私は、ソニーの苦境については、TVの業績悪化が問題となっているが、既にコモディティに成り下がってしまったTVをコアビジネスとして維持し、持続的イノベーションを追及しているからで、この世界は、中国やアジア新興国の分野であり、
   かってのソニーのように革新的で他社の追随を許さないようなファンをワクワクさせるようなものを作り出せなくなった、即ち、破壊的イノベーションの追及が出来なくなった歌を忘れたカナリアになってしまったら明日は暗いと思っている。 
   世界の趨勢は、マスプロダクションを意図するのなら、1にも2にも安くて品質の良いものの製造販売で、有能な新興国の製造業が虎視眈々と狙っており、最早、日本製造業の目指すべき道ではないと思う。

   伊藤元重教授は、この講演で色々と面白いことを語っていたのだが、IT関連のセミナーでありながら、日本企業がITにうつつを抜かすのは止めて、全く後塵を拝し得意でもないITは、グーグルなどに任せて、もっと、付加価値の高い将来の趨勢を見越した製造システムを開発推進した方が良いと言う。
   代替(コーヒーと紅茶)と補完(コーヒーと砂糖)の話で、経営では、代替で成功したケースはなく、日本は、補完を目指すべきだと言う。(蛇足だが、代替でも成功例はあるが、それらは、悉く、破壊的イノベーションによる。)
   コンピュータに弱いので、故障すれば学生を呼んでお金を払って直して貰い、操作は秘書に任せて、自分は価値創造的な仕事に勤しむ方がはるかに効率的であることが分かり、そうしているのだが、これと同じだと語る。

   日本の今後目指すべき道として、伊藤教授が提起したのは、医療、環境、住宅関連のフルパッケジでのシステムの開発で、日本の需要を喚起するのみならず、将来無限の可能性を秘めたアジア市場をターゲットにすべきだと言うのである。
   今回の不況で、苦境に立って散々苦しんでおり、活路を見出すべく、日本の製造業は必死のブレイクスルーを追求するので、創造的でイノベィティブな素晴らしい産業が生まれてくると期待している。
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意識を作る・認識を変える~東京外大の総合人間学シンポジウム

2009年01月28日 | 学問・文化・芸術
   東京外大アジア・アフリカ文化研究所と日仏東洋学会が、恵比寿の日仏会館で、非常に興味深い総合人間学国際シンポジウム「意識を作る・認識を変える よりよい地球共同体を求めて」を開いたので聴講した。
   ブッダの認識の転換、ドストエフスキーと父殺しから始まって、西欧と仏教の出会い、シャーマンの意識の変化、夢語りが神話を作ると続き、最後は、こころの形成の脳科学と言ったタイトルの、非常に専門的で高度な講演の連続なのだが、私自身、日ごろあまり馴染みのないテーマでもあったので、興味深く勉強させて貰った。

    最初の中谷英明東京外大教授のブッダの認識論の話から難しい。
    ブッダ逝去直後の最古のテキストからの認識論だが、人の認識は、その人の側の精神様態(志向性)に左右され、人の苦しみは、この嗜好性のなせる業だと言う。
   この志向性の桎梏から開放されるためには、人里離れた自然の中での孤独な生活が必要で、自然からの無限の刺激を受けつつ内省することが、新しい、活力に満ちた認識、すなわち大きな安心を獲得する唯一の方法であると述べていると説く。
   しかし、これは、自然以外に何もなかった何千年も前の話であり、こんなに文明化して地球上が人工の文化文明で満ち溢れている時代に、そんなことを言われてもピンと来ないと言うのが正直なところではないであろうか、と変なことを考えて聞いていた。

   東京外大亀山郁夫学長のドストエフスキーの父殺しの話。
   まず、カラマーゾフの兄弟自体、読みかけて面白くないので止めてしまい、トルストイの戦争と平和の長いのに辟易して読むどころではなかったので、ロシア文学には縁が殆どないし、陰鬱な上に父殺しの話であるからいい加減に聞いていたが、
   ドストエフスキーの根源とは父殺しで、総ての人間が抱え持つ恥部=原罪であり、普遍的なドラマであり、それをより壮大なスケールで再現できると言う自信が生まれた時こそ「カラマーゾフの兄弟」誕生の瞬間だと言う。
   私には息の詰まるような到底縁のない話であったが、これも高邁な学問なのかも知れない。

   私が興味を感じたのは、ハーバード大ヴィッツェル・ミヒャエル教授のシャーマニズムの話と、新宮一成京大教授の神話作りの関係と言うか連続性で、原始的な人間の宗教や神話などは、人間の知的な知識の積み重ねではなくて、天啓や夢など人知を超えたパワーによって生まれたのだと言うことである。
   シベリアのシャーマンは、突然の危機的な状態に陥った人物が、天の啓示を受けて、その天啓に導かれて選ばれた人間であることを悟ると同時に、その霊を体現して、異世界に自由に飛翔して神や霊と交信する超人たるシャーマンになるのだと言う。夢遊の境地で踊ったりドラムを叩いてシャーマンの儀式を行うなど、世界中で見られるシャーマンのプロトタイプだが、要するに、異常な体験を経て天啓を得て神になると言うことであろうか。

   一方、精神科医の新宮教授の話では、夢を見た体験を語り合って、それが顕著な構造を生み、そうして生まれた構造が語り継がれて神話になったと言うことらしい。
   神話は、夢と夢語りから生まれて、一部は書き留められて固定化しているが、人間が夢を見る限り、今も、絶えず夢語りの中で生成し続けている動的構造なのだと言うのである。
   
   フランスCNRS今枝由郎理事の「西欧と仏教の出会い」は、フランスでの東洋学への関心の推移も含めて語られたが、アメリカの方がはるかにオープンで、フランスの文化的学問的な閉塞性を感じながら聞いた。

   新潟大の中田力統合脳研究センター長の「こころの形成の脳科学」が、私にとっては最も新鮮で強烈なインパクトがあったのだが、とにかく、知識情報面で最も遠い世界の話だったので、非常に難しい。
   脳はエントロピー(確率)の場であり、情報を扱う。脳は情報を処理する毎に学習し、学習により情報の処理が変わる。
   情報の蓄積が心であり、小脳の学習と大脳の学習と染色体記録・本能の脳の働きによって情報が集中されて心が形作られる。
   要するに心は脳で形成されると言う話のようだが、
   パネルディスカッションの司会も勤めた中田氏が、最後に、人間は理解し合えるのかと自問して、
   これまで積み重ねられて出来上がってしまったものについては理解し合えないが、マイクロソフトのお陰で共通言語が出来上がったので、これからは分かり合えるであろうと語っていたのが印象的であった。

   
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田淵俊夫画伯の智積院襖絵の森と鹿島神宮の森

2009年01月27日 | 展覧会・展示会
   高島屋日本橋店で開催されている「田淵俊夫展」では、京都の智積院に奉納された襖絵60面が展示されている。
   墨一色で、日本の春夏秋冬の時間の流れと空間の広がりを、宗教的な荘厳さと奥深さを体現しながら描ききった素晴らしい作品で、これまでにあった墨絵の襖絵とは違った現代感覚タッチが感動的である。

   不二の間、胎蔵の間、金剛の間、大悲の間、知恵の間と言ったテーマで、日本の自然風景が描かれているのだが、夫々の絵には、熟考を重ねて磨き上げられた田淵画伯の哲学があり、極普通の日本の自然が、独特の宇宙空間を体現しているようで、非常に繊細だが、大きな鼓動を呼ぶ。

   知恵の間に描かれたススキをテーマにした襖面では、場内のビデオ・スクリーンで作成の状況を細かく説明されていたが、現代の映写テクニックを活用したその作画手法が面白かった。
   膨大な量のスケッチの中から必要なススキの絵を選び出して、はさみで切って他の絵と重ねあわせてパターン画を作成し、それを透明なセルロイド紙に焼き付けて移動させながら構図を創り上げ、他のセルロイド画と合成しながら、最終の下絵を作成する。
   そのセルロイド製下絵を、プロジェクターで、原寸大の襖紙に投影して、その紙の上に、墨で移して行く。
   しかし、なぞるのではなく、計算づくで墨を置いて行くので、はっきりしない大きな点描画のようであり、あくまでも構図の投影に過ぎない。
   あのフェルメールも、初期の写真機オブスキュラを使って絵を描いたのだが、どうしていたのか思い出しながら見ていた。

   このススキの絵だが、右端には、初夏に勢い良く茎が伸び穂を出し始めた幼年期のススキが描かれていて、左に移りながら、直立した元気な夏の壮年期のススキに変わり、徐々に、光り輝く秋のススキに移り、最後には、風雨に打たれて先が千切れた老年期のススキへと、ススキの一年が描かれている。
   瞬間のススキを描く気持ちはないと言うのである。
   夏の生い茂ったススキの所では、地面に近い株元が黒々と描かれて力強さが表現されているが、左に移動するにつれて墨が薄れて行き、穂の輝きを表現するために点描画のように墨が浮き、少しづつ、背景の襖表面の地色にフェーズアウトして行く。

   墨一色の絵であり、特にバックを暗く描くのではなく、自然の背景の中に絵を描いて行くので、光のあたる明るい部分は、バックのくすんだ襖地の白色の地色と全く同じになり見分けがつかなくなるが、それが、胎蔵の間の「春」の枝垂桜の豪華絢爛と垂れ下がる花の輝きが、浮かび上がって見えて来るのだから恐れ入る。
   不二の間には、「朝日」と「夕日」を浴びて移り行く壮大な森を描いた6面づつ12面の襖絵が描かれているが、不二とは二つに見えるが本来は一つだと言う意味なので朝夕二題をテーマとしたとかで、とにかく、画面全体に、微妙にリズムを刻みながら静かなクラシック音楽を聴いているように移り変わる墨の濃淡の変容は、喩えようもなく美しい。

   ところで、田淵画伯の素晴らしい襖絵を見ながら、ここに描かれている森や林は、綺麗な三角錐をした針葉樹林ばかりで、所謂、杉、ヒノキ、松と言った人工林で、日本本来の森である、宮脇昭先生の言う鎮守の森・どんぐりの森ではないことに気付いた。
   東山魁威画伯の森はヨーロッパの森が多いので、この場合も針葉樹林が多いのだが、やはり、すっくと天に向かって直立して行儀良く並んで立つ木々の森でなければ絵にならないのであろうか。

   先日、天気の良い日に、友人を訪ねて鹿嶋に行き、鹿島神宮の森を散策する機会があった。
   この森は、正しく鎮守の森で、大鳥居の手前に、切り払われて殆ど幹だけになっていたが、素晴らしく巨大なタブの木が鎮座ましましていて、森全体は、シイ、タブ、カシなどの常緑広葉樹に覆われた照葉樹林で、その下には、椿、サザンカ、ヤツデ、アオキなどの中低木が生えた自然の植生による混植の森である。
   宮脇先生の本の説明のとおりなので、感慨深く、森の景観を楽しみながら広い森の中を通り抜けて帰った。
   雑多な沢山の木が、鬩ぎ合いながら混在する森なので、決して美しくはないが、この森こそ、日本の文化を生み育んできた貴重な鎮守の森の本来の姿なのであろう。
   遠望すれば、ずんぐりむっくりの森で特色がないので、絵にはならないのかも知れない。

   気付かなかったが、この森は、鹿島神宮駅の方向に向かって大きく断崖状に陥没している。
   しかし、直根性の大地にしっかり根を張った照葉樹の森なので、最近の大地震で山崩れして無残な地肌を晒して崩壊した針葉樹の人工林とは違って、宮脇先生の話では、少々の天変地異ではビクともしないと言うことなのである。(勿論、神社内の鯰の神とも関係ない。)
   昔、京都の北山杉の森を美しいと思ったことがあるが、宮脇先生の影響か、この頃は、日本本来の大地に根ざしたどんぐりの森の方が素晴らしいと思うようになっている。
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金融危機がMETやカーネギー・ホールを直撃

2009年01月26日 | 学問・文化・芸術
   アメリカの金融危機による経済不況は底なしの恐怖だが、その影響が、ニューヨークのオペラ芸術の殿堂であるメトロポリタン歌劇場や、歴史に残る多くの名演コンサートで有名なカーネギー・ホールなどの文化的な機関の経営に波及して、経営を圧迫し始めたと言う。
   恐らく、ブロードウエーにも不況の波は押し寄せているのであろうし、もっと、経済状態が悪いと言うロンドンのロイヤル・オペラやウエスト・エンドのミュージカル劇場の苦境は大変なものであろうと思われる。

   日本の劇場はどうなのか、今月は、歌舞伎劇場、都響の定期と映画館だけしか知らないが、確かに大入り満員ではなかった。
   しかし、名門オペラではあるまいし、ベルナルド・ハイティンク指揮のシカゴ響のチケットが3万5千円で売り出されているような非常識な国であるから、不況の影響がないのかも知れない。
   余談ながら、私は、最盛期のハイティンクを、コンセルトヘボーやロイヤル・オペラ、それに、ウィーン・フィルやベルリン・フィルで直接かなり聞いており、随分前だがシカゴ響も聞いており、確かに魅力的な組み合わせではある。しかし、400ドルとは法外で、現地と比べて4倍ほどの高値だと思うが、直前になってディスカウント・チケット発売無しに客が入れば、ご同慶の至りで、もしそうなら、日本のクラシック音楽ファンが別人種だとしか考えられない。

   ところで、METだが、今夜のNHK「クローズアップ現代」で、「芸術を変革せよ ピーター・ゲルブ氏に聞く」と言うタイトルの番組が、ニューヨーク訪問中の国谷アナウンサーがMETで、ゲルブ総裁にインタビューする形で放映されていた。
   世界中の劇場に、最新の技術を駆使して、METの公演を同時上映して好評を博しているMETライブ・ビューイングなどのイノベイティブな経営等について、ゲルブ総裁の芸術革新をレポートする番組だったが、私が興味を感じたのは、今回の金融危機の影響を諸に被ってMETの経営状態が悪化して、経営建て直しと言う新しい挑戦を受けていると言うことである。
   (今年度は、まだ、行っていないが、METライブ・ビューイングやゲルブ総裁の経営については、何度か、このブログでも書いているし、昨年1月にはMETで4演目見ておりレポートも書いている。)

   ゲルブ氏の報酬を30%削減したり、スタッフの給与の引き下げを求めており、コストのかかる大掛かりな演目を取りやめるなど、相当大変なようだが、公的資金のサポートのあるヨーロッパの歌劇場と違って、主に、法人や個人の献金や寄付、入場料収入、基金の運用益等と言った劇場だけの収入に頼った経営であるから、景気が悪化すれば、一挙に企業や個人からの資金がダメッジを受け、また、同時に入場者が激減するのであろう。
   普通、欧米のオペラやオーケストラ公演の場合には、年間を通して定期会員券を取得している客が多いのだが、METは劇場が大きいこともあり、また、ニューヨークの特性もあり、かなり、観光客の観客が多いので、そのためのチケット売り上げの減少も大きいのではないかと思う。

   このMETライブ・ビューイングだけでも、コストが1回に1億円掛かると言っていたが、折角、斬新かつ革新的な経営革新で、新しい芸術の創造と普及のために始動し始めたゲルブの試みが、後退しないことを祈るのみである。
   オペラが民衆に愛されるためには、野球と同じで、実況放送が最も望ましいと考えて、METライブ・ビューイングを企画したようだが、これから、益々進展発展を続けてゆくITデジタル技術を駆使すれば、全く、想像も出来ないような素晴らしいオペラの楽しみ方が生まれるかも知れない。

   カーネギー・ホールの苦境については、今夜の日経夕刊の「音楽の殿堂に不況の波 来期の公演1割減」と言う記事で知ったのだが、この劇場も、興行収入と寄付金等で運営されており、個人の寄付金や企業のメセナ社会貢献活動の減少で経営悪化に見舞われていると言う。
   この劇場は、前世紀の古き良き時代のアメリカの音楽文化の息吹をむんむんと感じさせてくれる素晴らしい雰囲気のホールで、ニューヨーク・フィルが本境地を移してからは、色々な公演が行われているのだが、やはり、アメリカ文化を発信し続けている文化財的な存在でもある。

   いずれにしろ、経済不況は、人々の生活を窮地に追い込むのみならず、不要不急で最もナイーブで脆弱な文化を真っ先に直撃し蝕む。
   ところで、この頃、NHKが、デジタル放送で、毎週のように素晴らしいオペラ番組を放映しているので、当分は、これをDVD化して楽しむのも手かもしれない。
   録画しか利かないが、NHK教育TV3など毎月曜夜に、海外名門劇場のオペラ公演を放映していて、中々魅力的である。
   一回のチケットが6万円以上もする海外オペラ公演鑑賞の楽しみから程遠いが、相撲と同じで、安い切符を買って米粒のような力士や歌手の姿を見るよりも、臨場感豊かで、この方が良く分かって別な楽しみ方が出来て良いのかも知れない。
   
(追記)写真は、METライブ・ビューイングで、マスネのタイスの幕間で、ルネ・フレミングを案内役のプラシド・ドミンゴがインタビューするシーン。NHKTVより。
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オバマ政権の公共事業と減税、そして、麻生政権の定額給付金

2009年01月24日 | 政治・経済・社会
   アメリカの資本主義が崩壊の一歩手前まで行ったとまで言われた今回の大不況に対して、オバマ新政権は、果敢な経済再生政策を打ち出し戦おうとしている。
   私自身は、長期的な経済回復には、強力なイノベーションの到来以外にはないと思っているが、アメリカ経済の場合は、現在、極めて巨大な需給ギャップによって深刻な需要不足に陥っており、益々経済がシュリンクして負の経済スパイラルに突入しているので、強力な公共投資を行うなど、所謂、ケインズ政策的な財政出動が必要であると思う。

   景気対策法案の作成に当たり、公共事業か減税かで綱引きがあるようだが、オバマ政権の財政出動自体でさえ規模が小さいと言われている程であるから、現時点では、減税効果は薄いと思われるので、時間的即効性には問題はあるが、出来るだけ公共事業の積み増しを図るなど、公共投資に比重を置いた方が良いであろう。
   リチャード・クーの提言を待つまでもなく、いくら減税されても、バランスシート不況に落ち込んでしまった個人は、消費より借金返済や貯蓄に回すであろうし、経済が冷え切った現下の経営環境では、企業は、投資する意欲など殆ど起こり得ない筈で、需要創造に向かう支出は極めて少ないので、減税効果は限られており、全額、直接そのまま需要増加に結びつく公共投資の方が経済拡大効果は大きい。

   オバマ政権の公共投資は、本来の道路や橋と言ったインフラ整備のみならず、グリーン・ニュー・ディールと称される如く、地球温暖化や地球環境保護を目的としたエネルギー資源の開発など、エコ・イノベーションを誘発して、新産業を育成すると同時に雇用を創出しようと言う中長期的な経済発展を企図した政策に立っている。
   当面の需要創出によって経済を浮揚させようとする財政政策のみならず、経済社会の成長発展のための起爆力であり牽引車であるイノベーションを生み出すことによって、アメリカ経済を正常な成長軌道に乗せようとする一石二鳥の政策であり、非常に意義深いニュー・ディル政策である。

   ところで、アメリカのインフラだが、私が、アメリカに居た30年以上も前にも、アメリカ経済を世界一に押し上げた原動力ともなっていたインフラが、老朽化と疲弊が極に達して、その崩壊などが非常に危惧され始めていた。
   橋梁や巨大ダムの崩壊の心配みならず、鉄道や道路交通網の劣化も激しくなり、経済社会の発展のために足枷となると、政府の重要な関心事となっていた。
   今でも、ケネディ空港からアプローチしながら、ニューヨーク市街を遠望すれば、何十年も前から少しも変わっていない古ぼけた姿を見ることが出来るし、市街を走ればインフラの不都合は随所で目に付き、アメリカのインフラの劣化は一目瞭然である。

   世界の警察を自認し、民主主義の守護者として、イラク戦争にうつつを抜かしていたもっと以前から、寛大なアメリカは、自分たちのインフラを酷使し、食いつぶしながら、世界経済の発展のために貢献して来たのかも知れない。
   日米安保条約頼みで、自国防衛のために、殆ど世間並みにも国費を使う必要がなかったにも拘わらず、その余禄さえフイにして、何かと言うと政治家主導で道路や文化ホールばかりを作リ続けて、公共工事は、悪であり不要であるとまで蔑まれるほどになり、歴史始まって以来の巨大な借金を次代の子孫に付け回して平然としている日本とは違って、アメリカでは、経済浮揚のためにも、経済社会構造の活性化のためにも、オバマが言うまでもなく、現実にも、巨大な公共投資は必須なのである。
   
   ところで、何時まで経っても議論の絶えない定額給付金だが、本来は、生活防衛のための「生活支援定額給付金」であったと記憶しているのだが、生活に苦しむ国民の殆どは貯蓄に回すので、経済浮揚効果が殆ど期待できないとして総スカンを食ってからは、政府や与党議員たちが、集票のための政策とは言え、振上げた刀を下ろす訳にも行かず、景気浮揚策のケインズ政策であるから、受け取ったら大いに使って欲しいと言い出した。
   日本国を背負って立つ筈の大臣までが、貰うと言うのも問題だが、貰ったら喜んで地元で使うなどと恥じも外聞もなくとうとうと喋っており、それをNHKなどマスコミで喜んでトップ番組で放映すると言う文明国としては稚拙極まりない事態になってしまった。

   もう一度、リチャード・クー先生の名前を借りるが、バランスシート不況に陥った個人も企業も、余分な収入は総て、借金返済か貯蓄に回して、投資や消費には回らず、有効需要を減らす効果しかない。
   まして、現在は、先の全く見えない大不況の最中であり、国民の多くは、貯蓄や借金の返済に回して消費などには回さないので、2兆円の殆どが市場から消えて行き、消費税アップだけが現実となる。
   2兆円もあれば、オバマのグリーン・ニュー・ディールの真似事をしてでも、エコ・イノベーションを誘発して、日本のものづくり企業を支援し、経済社会の発展のために役立たせることが出来る。例えば、太陽光発電装置を設置する家計に100万円補助すれば、200万戸がエコ住宅化するのみならず、日本の太陽光発電の技術とコスト効率が一挙にアップして世界をリードする起爆力となり、世界の化石燃料離れが加速する。
   国債の償還に回すのも手だろうが、
   いずれにしろ、これだけ、政治の質が劣化すれば、日本の一人当たり国民所得が、先進国の最低に堕ちて来たのも当然だと言うことであろうか。
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鎌倉鶴岡八幡宮の冬ぼたん

2009年01月22日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   今、鎌倉鶴岡八幡宮の冬ぼたんが咲き誇っている。
   上野の東照宮のぼたん苑とは違った雰囲気で、同じ冬ぼたんでも大分印象が違う。
   まず、咲き方だが、上野の場合には、満開もあれば蕾もあり、少しづつ花の咲き頃が微妙に違っている感じだが、鎌倉の方は、今が丁度満開で殆どの花が一番美しい姿を保っている。
   八幡宮のぼたん庭園のパンフレットには、当園内の牡丹は約100種1000株が植えられていると書かれているが、多いと言う意味だけのようで、上野の方がはるかに品種にバリエーションがあって豊かであり、そのために、花期が異なり雰囲気が変わるのだと思う。
   それと比べると、鎌倉の方のぼたんは、同じ種類の花が多い感じで、多少変化に乏しく、やや面白みに欠ける感じがする。

   しかし、この八幡宮のぼたん庭園の良さは、やはり、狭くて箱庭のような上野とは違って、源氏池をくるりと回り込んだ回遊式庭園なので、ぼたんを楽しむだけではなく、オープンな庭園を散策する楽しさがあり、サザンカの生垣越しや植栽の切れ間から、水鳥の戯れる広々とした源氏池を眺めながら鎌倉のなだらかな山並みを遠望するのも、一服の絵画を見るようで楽しい。
   それに、この庭園は、ぼたんのためだけの庭園ではなく、庭そのものが本格的な日本庭園なので、植栽のみならず石組みや庭園の機能などにも意を用いており、季節季節の楽しみ方が出来るので、その点庭園の魅力が倍加する。

   この庭園の面白い所は、神苑ぼたん庭園「湖石の庭」で、中国の江蘇州の太湖から掘り起こされた奇岩を石組にした庭にぼたんが植えられていて、わらのこもや唐傘に守られてぼたんが咲き誇っていると言う中国人好みの庭の風景である。
   この石組に対する日本人と中国人の好みの差と言うか違いの大きさには、注目していて、蘇州や西湖、上海、北京などの名園を垣間見ただけで偉そうなことは言えないが、ものの考え方なり自然に対する感受性なり接し方が随分違っているようで興味を感じている。
   私自身は、学生時代に京都の名園を行脚し続けていたのでその影響か、どうしても、中国の作庭の基本は、三つの峰と点石が基本で、湖石は最も珍重されると言うものの、その良さには残念ながらまだ馴染めていない。

   豪華に咲き誇るぼたんと湖石を描いた中国絵画などは、何度か見た記憶があり、美しいと思ったことはあるが、日本人はシンプルで質素な切り詰めた本質的なものへの憧れが強くて、その中に美を求めようとする傾向が強いような気がしている。
   日本人の花に対する感覚が、全く、欧米人や中国人とは違っているのに、何時も、驚かされている。

   例えば、私の好きな椿の花だが、日本人は、小さな一重咲きの侘助椿をこよなく愛するが、イギリス人に話したら、あまり興味を示さなかったし、欧米で品種改良されて里帰りして来た日本の椿は、悉く、バラのように派手で豪華な椿に変わってしまっている。
   清楚な日本のユリも、オランダでは、カサブランカに改良された。
   日本の野ばらも、豪華なバラの花の改良に大きく貢献した。
   つつじが、ベルギーでは、アザレアに変わってバラのように変身した。
   モンドリアンの絵画などは、オランダのチューリップ畑を見れば当然生まれてくる発想だが、墨絵で宇宙を描こうとする日本画の対極にある。

   八幡宮の境内から飛んできた一群れのはとが、湖石の傍らで一心に小石(?)を啄ばんでいる。
   綺麗なぼたんなど眼中にない。

   池面には、鴨が戯れている。
   よく見ると同じ種類の鴨だけではなく、何種類かの鴨が入り混じっている。
   この日は、鴨だけで、かもめも鷺の姿も見られなかった。
   建物の塀の上には、白いはとが数羽止まっているが、神社などの境内に多いはととは違って、やはり、何となく優雅で、身のこなしもやさしい。

   赤い毛氈の床机に座って、しばらく池面を眺めながら、取りとめもないことを考えていたが、何故か、ぼたん園を訪れるお客は、デジカメや携帯を構えて写真を撮るために立ち止まる程度で、そそくさと立ち去ってしまう。
   小さなノートを持った老婦人の団体がいたが、句か歌をものしているのであろうか。
   そう言えば、上野のぼたん苑には、ぼたんの花の隣に和歌の立て札があり、それに、苑内に歌をものするコーナーがあって、客たちの作品がボードに張られている。

   こ一時間ほど、ぼたん庭園にいて、雑踏の小町通りを通り抜けて家路についた。
   佐助からは、散策に丁度良い。
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国立劇場:初春歌舞伎公演

2009年01月19日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   三宅坂の国立劇場で、長い間眠っていた演目が、再演されたり復活上演されたり、非常に意欲的で素晴らしい舞台が展開されていて楽しい。
   まず真っ先に、半年振りに病気快癒してA型からO型に血液が変わったと言う團十郎が、お家の芸歌舞伎18番の内「象引」を、文献などを紐解いて新しい演出を考案し、新しい象を登場させて豪快な演技を披露しており、正に、正月気分を高揚させるのに十分な舞台で、江戸歌舞伎の華やかさを見せている。
   
   象引は、京都から来た大悪人大伴大臣褐麿(三津五郎)が連れて来た南蛮渡来の象が暴れだして世を騒がせたので、江戸代表の豪快で力強い正義の味方箕田源二猛(團十郎)が大人しく手なずけて、象を引いて意気揚々と花道を下がって行くと言う奇想天外な話である。
   二人の豪傑が一つのものを引き合って腕力を競う「引合事」は歌舞伎などの演出の一つで、ヒーローが悪を退治する、所謂、悪霊退散を意図した荒事は縁起が良いとされていて、團十郎家の超ブランドだと言う。
   悪である京都の貴族上方文明と戦って、江戸の豪傑ヒーローが、東西対決で勝利するので、江戸庶民の喜びはいやが上にも盛り上がると言うのだから、単純と言うか全く馬鹿馬鹿しいと言うか、しかし、とにかく、見ていて楽しめる。
   三津五郎が、正月早々、象を持ち込んで世を騒がせ、無理難題を吹っかけて、美しい豊島家息女弥生姫(福助)を掻っ攫っていこうと言う大悪人を演じているのだが、全くこれまでと違ったイメージながら、中々風格があって、團十郎との互角の対決が面白い。

   次の演目は、「十返りの松」。
   昭和天皇のための祝賀の曲を、天皇陛下御在位二十年記念の歌舞伎に演出換えして、本邦初演の華やかな舞踊に仕立て上げられた舞台だが、芝翫を筆頭に成駒屋三代が華やかな舞踊を見せる。
   松の精の芝翫の芸は申すまでもなく、息の合った男女カップルの福助・橋之助の梅と竹の精の美しさ、それに、随分大きくなった橋之助の3人の男の子たちの芸達者振りは、流石であり、華やかで艶のある山勢松韻ほかの山田流筝曲連中と囃子連中の音曲に乗って展開され、正に、豪華な祝賀気分横溢の舞台である。
   舞台の合間に、ロビーに3人のお母さん三田寛子さんが出ていたが、もう二十年近くになるが、ロンドンのロイヤル・オペラ劇場で見かけた時の印象と殆ど変わっていなかったのには驚いた。
   
   最後の演目は、全く当時から消えてしまって200年ぶりに演出されたと言う鶴屋南北の「競艶仲町」。
   竹田出雲たちの「双蝶々曲輪日記」から主題を取って江戸歌舞伎に移し変えた書き換え狂言で、場所や登場人物など、オリジナルを模倣しながら脚色しているのが面白い。
   しかし、誰も見たことも演じたこともない江戸中期の歌舞伎の舞台を、考証に考証を重ねて、現在の芝居に蘇らせて、全く異質感なく楽しませているのであるから、苦労とその努力は大変なものであったと思う。

   双蝶々では、主人筋のために殺人を犯した大坂の大関・濡髪長五郎が、本編では、下谷の鳶頭与五郎(橋之助)となっているが、それが、逃げて行く先が、双蝶々では、八幡(京都の淀川の畔)の代官南方与兵衛(後に十次兵衛)で、これが、本編では、下総八幡(千葉県)の郷士南方与兵衛と変わるが、八幡の地名を上方から江戸に換え、ヨド川をエド川に変えているだけで、殺人を犯して逃げて行き助けられると言う筋書きも同じそのまま踏襲している。

   エリザベス時代のイギリスでも、シェイクスピアの戯曲が盗み取られて、すぐに、別の劇場で良く似た芝居が演じられるのなどと言うのは当たり前で、シェイクスピア自身の作品もオリジナルは少ないと言われている。
   芝居と言うものは、どんどんテーマが発展・展開して、決定版に育ってきたと言うことであろうか。

   面白いのは、テーマは同じでも、やはり、上方歌舞伎と江戸歌舞伎の違いの明確さで、
   上方の場合には、長五郎が御用になる前に、一目、分かれた後妻に出た母親に会いたくて帰る先が代官南方の家で、義理の兄弟の人間関係とその板ばさみに泣く母親の苦衷がテーマで、肉親間の切羽詰った苦しみと義理人情が大きな比重を占めていて、泣かせる舞台となっているが、
   江戸の方は、二人の間に深川の遊女都(福助)が介在する恋に纏わる男の意気地とその都を巡る出生の秘密を利用して暗躍する悪人などを介在させた南北話に転換していて、題名の「(いきじと読む)」が示す如く、鳶頭の与五郎と深川遊女の都と武士の与兵衛が、自分たちのプライドをかけて威勢の良い啖呵を切るバイタリティのある明るい舞台に変わってしまっている。

   座長役者が三津五郎だが、最初は、人の良い一寸間抜けな武士で、都を嫁に迎えたいと決めて来た深川仲町吾妻屋の座敷では、待てど暮らせど、都は来ず、来ても言い交わした人がいると振られ、同じ座敷で衝立を立てて相客(橋之助の与五郎)と寝ると言う全く考えられないような設定。後半、下総八幡村与兵衛町宅の場で、与五郎と都が追われて逃げてくる所あたりからは、中々、風格のある正統派の武士に戻り、癖のない鷹揚な演技で面白くなる。
   妹役の中村志のぶが良い味を出してサポートしている。

   橋之助の、粋で威勢が良くてメリハリの利いた江戸っ子鳶職人はうってつけで、福助が、遊女都と全くおぼこな町娘お早の二役を、器用に演じ分けて面白い女性像を演出していて楽しめる。
   悪巧み2人組の平岡郷左衛門の團蔵と丸屋番頭権九郎の市蔵のコンビは、相変わらず抜群の性格俳優ぶりで実に上手い。

   とにかく、今月の国立劇場の歌舞伎は、やはり、日本文化芸術振興会の日本の隠れた伝統文化を掘り起こし更に豊かに育てて行こうとする努力が実った舞台であり、非常に素晴らしいことだと思っている。    

(追記)写真は、象引の團十郎で、NHK TVより。
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わが庭を訪れる小鳥たち

2009年01月17日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   年末年始から、天気の良い日が続いている。
   最近急に寒くなってきた感じだが、枯れたり葉が散った所為か、明るい日には、わが庭に小鳥たちが訪れてきて、木の実を啄ばんでいる。
   何組かの番で飛んで来て、乾燥してしまって黒ずんだムラサキシキブや百日紅の実を一頻りつついては、さっと飛び去って行くのが、メジロ。小さな鳥なので、大きな実は挑戦できない。
   枝の中に潜り込んで、黒光りのするツゲの実を啄ばむのが、ヒヨドリ。
   木の上から、ツゲの実をつつくのが、ツグミ。この口絵写真の鳥だが、今年は山に餌が少ないのか、頻繁に、わが庭を訪れてくる。
   木の実ばかりを啄ばんでいるヒヨドリと違って、このツグミやジョウビタキやアカハラは、庭を歩き回って、土を掘り起こしながら、昆虫やミミズを食べている時の方が多いような気がする。

   殆ど外観からでは気付かないが、ツゲには、結構多くの黒い実が成っていて、今、小鳥の訪れが一番多いが、やっと、真っ赤に色付いた万両の実には、まだ、小鳥たちはアタックをかけていない。
   ヤブランの黒光りのする綺麗な実も残っている。
   南天は、風雨に晒されているところに植えてあるので実付きが悪い。それでも、庭には、小鳥が落とした種で幼苗が生えているので、小鳥たちの好物なのであろう。
   オスの木を植えたので、今年も、アオキの実が沢山実っている。まだ、色付きはじめたところなので、これからだろうが、かなり大きな実なので、大型のヒヨドリの餌だが、アオキの木の近くに幼苗が生えている所を見ると、重い所為もあって、遠くまで拡散できないのであろうか。
   いずれにしろ、春には、これらの実は、小鳥たちに食べられて、完全になくなってしまう。
   
   高い木の天辺や電線に止まって、周りを睥睨するように鋭い目つきでにらみつけているのが、百舌鳥だが、かぎ状の嘴が獰猛で、昆虫やネズミなどの小動物を餌にしているようで、最近、ジョウビタキの訪れが少なくなったのも、百舌鳥の来訪が多くなった為かも知れないと思っている。
   スズメより一回り大きな鳥だが、自分より大きな獲物にも敢然と戦いを挑むと言う敢闘精神逞しところが気に入っていて、子供の頃、宝塚の田舎でよく見ていたので、何となく懐かしく、ふるさとを思い出させてくれる野鳥なので親しみを感じている。

   今年は、ユリの球根が安かったので、各種取り混ぜてたくさん買って、鉢植えにし、庭にも植えた。
   何年か前のユリも、鉢植えでほったらかしだけれど、球根が小さくなるので年によって差はあるが、毎年花を咲かせてくれている。
   肥料と薬品散布に注意すれば、かなり、長生きするが、庭植えのユリは、みんな消えてしまった。

   毎年、気が向けば、少しずつ、球根を増やして行くが、ヨーロッパで生活してみて感激したので、クロッカスや水仙が路傍で咲いているように、植えっぱなしの球根や宿根が春に芽を出して咲き続けるのが理想である。
   オランダのキューケンホフは、多くの花壇は担当の園芸会社が絶えず植え替えて綺麗な姿を保っているが、オリジナルの景観を維持しそのまっま植えっぱなしの林間などでは、植生が落ち着いたのか、かなり、魅力的な花壇を形作っていて面白いのである。
   日本は、梅雨時の湿度が問題なので球根は掘り起こした方が良いとか言われているが、貧弱にはなるが、土壌などに気を使えば、自然に任せるのも園芸の楽しみだと思っている。

   最近、寒くなって、地面がいてついて霜柱が立ち、土が盛り上がって踏むとサクサク音がして面白いが、急に、春の草花が一斉に芽を出し始めた。
   チューリップ、水仙、クロッカス、スノードロップ、芍薬、ムスカリ等々、夫々、思い思いの姿で頭を出し始めたが、どの新芽も、新緑のはちきれそうな姿で輝いているのが素晴らしい。
   そっと、表面の土に手を触れると、地熱の温もりか、温かいのである。
   もう、そこまで春が来ている。
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住まいは人の巣である~大林宣彦監督

2009年01月16日 | 生活随想・趣味
   私たちの住処である自然界は、生物の巣で出来上がっており、家は、人の巣であると言って、映画の大林監督が、面白い文明文化論を語った。
   やはり、映画監督であるから、スクリーンは命なのであろうか。会場に登場すると、真っ先に、スクリーンに向かって恭しく一礼して、スクリーンをお尻にして話すのは気が引けると言いながら、話を始めた。
   撮影の時は、こんな声を出すのだと言って、演台から離れて、口元に手をあって「ヨーイ! スタート!」と大きく叫び、声が出る限り現役だと言いながら、マイクが言うことを聞かず必ずストライキしたと黒沢監督の逸話を語った。

   映画は、人の喜怒哀楽を伝えるジャーナリズムだと言う。
   映画は、人間が傷つけ合い、許しあって愛を覚える、そんな人間の世界を描く。
   ゆっくり話し合えば許しあえる、そして、共に生きる喜びを感じる、その幸福感が、愛であり、映画を通じて、人々に発信し続けてきたのだと言う。
   失われつつあるスローライフ、温故知新の世界を、ふるさとの尾道の生活や風景とを重ね合わせながら、熱っぽく語り続けた。
   監督の作品は、「虹をかける少女」しか見ていないが、WOWWOWで「22才の別れ」を放映していて録画したので後で楽しもうと思っている。
   
   18歳まで住み、父親が亡くなって空き家になっていた尾道の家に、建築以前からあった老松が枯れたので伐採したら、2個のカラスの巣が出てきた。
   野山に囲まれた田舎である筈の尾道なのに、それらの巣は、150本のハンガーで出来上がっていたと言う。
   そこで生まれて育った子供のカラスは果たして幸せだったのかどうか、考えてぞっとしたと言いながら、良く考えてみれば、我々現代人も、同じようなコンクリートジャングルの、命のない鉄とガラスの無機物で出来上がった住まいに、近代文明生活だと言って喜んで生活しているのではないかと示唆する。

   戦前を知っている世代であるから、木と紙と土で出来ていた昔の家の話をする。
   質素な佇まいの家であるから、隣の部屋で誰が何をしているのか手に取るように分かるし、家族の生活が総て筒抜けだが、この気配、けわいの住まいが、日本人の家族の気綱を維持してきたのだと言う。
   言葉なしで、人の喜怒哀楽を共にしながら、体を寄せ合いながら生きていた、これが日本の文化を育ててきたのだと言う。

   これに対比して、欧米の文化は、石の家の文化で、孤独であり、言葉が必要な文化であり生活だと言う。
   しかし、この見解には、欧米で14年間生活してきた私には、多少異論がある。
   確かに、ロンドンやパリ、ニューヨークなど大都会では、鉄筋コンクリートやレンガ造りの中高層の連続住宅や集合住宅が多いが、基本的には、木造ないしレンガ造りの一戸建てが基本である。
   ロンドン郊外のキューガーデンで、建築後100年以上も経ったレンガと木で出来上がった古い家に住んでいたが、英国人の知人などは、建築後何百年も経ってお化けが出ると言われる家を探して移り住んでいた。

   私の住んでいたイギリスもオランダも、ガーデニング好きで自然との共生をこよなく愛する人々が住んでいて、決して、日本人と違った、孤独で言葉を必要とする人々だと言えないと思う。
   違いは、日本の古い庶民の家より、自然が厳しい分、ヨーロッパの家の方が、多少立派でしっかりしていたと言うことくらいであろうか。
   それに、科学万能主義的なプラグマティズムが比較的強いので、自然を押さえ込んで開発するのが文化文明の進歩だと言う傾向が強かった分、人間生活がどんどん自然世界の営みから遊離してきたと言うことであろうと思う。
   
   この講演会は、不動産流通経営協会主催の「住まいとくらしのセミナー」で、前座は、三井の西田恭子さんが、「理想の住まいを求めて」と言う演題で、中古住宅とリフォームについて、その新しい価値創造の展開事情について語った。
   私自身、今住んでいる家は新築だが、若い頃は、社宅や公団住宅に住んでいたので、殆ど中古住宅であったし、海外生活では、総て古い家に住んでいたし、その宿替え人生は、海外だけでも10回近く移転したので、中古住宅については、ベテランと言えよう。
   尤も、リフォームしたのは、ロンドンから帰ってきた時に、今の家に多少手を入れた程度なので、ボツボツ、大掛かりなリフォームをする時期かも知れないが、効率の悪さ以外には、あまり不満がないので、特別なことがない限り、このままで行こうと思っている。

   ところで、この口絵写真は、歌舞伎座横の某ショップだが、デザインや内装によって雰囲気が違ってくるので、折角の住宅だから、リフォームなど工夫を凝らして模様替えしてみるのもクリエイティブ・ライフの新しい楽しみ方かも知れない。
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新春景気討論会・・・日経ホール

2009年01月14日 | 政治・経済・社会
   恒例の日経、日本経済研究センター主催の「新春景気討論会」を聴講した。
   今日の日経朝刊に、”景気底入れ「年後半」大勢 プラス成長、10年度復帰”と言う見出しで、討論会の概要が掲載されている。
   戦後最大と言うか、100年に一度と言うかニュアンスは異なるが、大変な世界的規模の大経済不況であると言う認識では共通していたが、結論から言うと、パネリストの捉え方が、不況の深さは未曾有の規模であり、時間的空間的広がりが非常に大きいと言う感じであって、今回の不況が一時代の終わりを画する経済社会の構造変化を伴った深刻なものであると言う認識が希薄であったのに違和感を感じた。

   昨年の新春景気討論会では、殆ど、現在の未曾有の世界的不況を予測するような雰囲気は皆無で、その後の経済ないし景気討論会においても、殆どの専門家は、明るい見通しを述べていたが、
   今回も、オバマ新政権の大々的な経済政策や中国政府のドラスティックな景気浮揚策などへの期待が強く、深尾理事長が多少弱気ながら、これらを中心とした財政金融政策の効果が出てきて、今年後半に景気が底入れし、来年には徐々に回復して翌年にはGDPがプラス成長となると言うのが大勢の見解であった。
   私は、そんなに甘い筈がないと言う考えなので冷めた気持ちで聞いていた。
   たとえ、一時的に回復基調に乗ったとしても、波を打ちながら深刻な不況局面が長く続くと思っている。

   ジョージ・ソロスが、近著「ソロスは警告する The New Paradigm for Financial Market」で、今回の危機は、これまでの国際金融システムの危機とは全く異質な、世界資本主義システムそのものが崩壊の一歩手前にあり、一つの時代の終わりだとして、その深刻さを、住宅バブルと途轍もなく大きな「超バブル」の複合体だと捉えて、短期に収束する筈がないとしている。
   (尤も、アメリカの不況入りは不可避だが、中国やインドの経済活力は強靭なので、そのまま世界不況になると決めつけるべき理由はないと言っているが、ソロスが筆を置いたのは、昨年3月のようなので、その後の現実と記述との乖離がかなりある。)
   超バブルは、際限のない長期にわたった信用膨張、金融市場のグローバル化、金融規制の撤廃の進展とその結果としての金融技術の加速度的な発達と言う3つのトレンドと、それらに付随する欠陥とが結びついた結果だと言う。
   更に、モラル・ハザード、世界経済のエンジンとしてのアメリカ経済の悪化、信用膨張から急速な収縮への転換などが、その深刻さに輪をかけたと言うのである。

   ところで、この巨大な金融危機の先さえ見えない現実では、その後に勢いを増す実体経済への深刻な影響は予測さえつかない。
   ここでは、一例だけだが、アメリカのGDPの70%を占める個人消費が、今回の住宅バブルの崩壊によって、革命的な変革を遂げ、これまでのような経済成長の牽引ファクターではなくなってしまったことについて論じてみたい。
   (この資産価値の増加による借り入れで賄っていた消費が、資産価値の下落による逆資産効果の発生で、ドラスチックに下落する筈だと言うことは、スティグリッツの見解を引いて、昨年のこの欄でコメントした。)

   ソロスによると、バブル時には、アメリカの家計は、住宅資本が年率10%以上の高率で上昇し続けると言う異常事態に依存する度合いを高め、家計貯蓄はゼロを割り込み、家計は、住宅ローンの借り換えを使って住宅資本をどんどん現金化していた。
   現金化されて引き出された住宅資本は、2006年のピーク時には、GDPの8%、日本の国家予算をオーバーする1兆ドル近くに達し、アメリカの経常収支の赤字を上回ったのである。
   さらに、株など他の資産バブルで膨れ上がった資産の差額を現金化し、カードローンで借りまくった資金など、即ち、借金まみれの家計の膨大なマネーが、個人消費を促進しアメリカ経済の成長を支えて来たのである。
   
   米国ウォールマートのリー・スコットCEOが、ニューヨークの講演で、この家計の「過剰消費」トレンドが筋目を迎えて、ぎりぎりの切羽詰った生活に晒された人々が、これまでの消費を断念して「節約と貯蓄」に走っていると語ったとメディアは報じている。
   アメリカの住宅などの資産バブルが生みだしていたマネーが、中国やインドなどの新興国の経済を潤してグローバル規模の同時経済成長を実現してきたと言っても言い過ぎではないであろう。
   その借金まみれの過剰消費は泡のように消えてしまった今、果たして、アメリカ人が、これまでのようにトヨタの車を買い、ソニーのTVを買うであろうか。
   ヨーロッパ経済の現状は、アメリカより酷いと言うが、欧米とも、失業率がどんどん上がっており、所得の減少で、更に、消費が縮小して行く。

   サプライサイドからの考察については、先月、今回の不況は、コンドラチェフ長期循環の不況局面にあり長引くのみならず、次の強力なイノベーションが起こるまでは急速な経済成長はないと書いたので、今回は端折る。

   この新春景気討論会でのパネリストの見解が、何故、これほどまでに甘いのかは、今回の異常な不況を、財政金融政策の効果などに対して、従来どおりのマクロ経済分析的な視点(特に岩田一政氏および中島厚志氏)からしか見ていないからであって、もっと構造的に掘り下げて根本的な視点から見ない限り展望できない。
   前に書いたが、異常事態においては、従来の学説なり、分析手法が働かなくなると言う現実も認識しておくべきであろう。
   市場至上主義原理の行き過ぎによって金融システムそのものがリバイヤサンとなり、今回の未曾有の経済不況を引き起こしたのであるから、ドラスチックな規制強化や国際的な経済機関の大幅改革などが実施されて、金融システムが大きく変化するであろうし、経済社会構造が変われば、経済政策が様変わりする筈でもある。
   
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初春大歌舞伎・・・勘三郎「春興鏡獅子」と玉三郎「鷺娘」、そして「鰯賣戀曳網」

2009年01月13日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今年3月で、歌舞伎座が建て替えのために閉館されるので、この新春大歌舞伎から、「歌舞伎座さよなら公演」と銘打って意欲的な舞台が展開されている。
   私が真っ先に見たかったのは玉三郎の「鷺娘」で、それに、勘三郎の「春興鏡獅子」にも特別な思いがあり、懐かしい思いで歌舞伎座に出かけた。

   もう20年近くになるが、ロンドンでのジャパン・フェスティバルの時に来演した歌舞伎が、この玉三郎の「鷺娘」と勘三郎の「春興鏡獅子」、それに、二人の「鳴神」であったが、実は、私にとって、歌舞伎鑑賞を本格的(?)に始めたきっかけになった舞台であった。
   それまでにも、歌舞伎には出かけたが、芸術鑑賞の一つと言った位置づけで、舞台鑑賞といえば、もっぱらオペラでありクラシック音楽であり、シェイクスピアであった。
   この時、日本名は忘れたが、染五郎がオフェリアなど3役を演じた歌舞伎版「ハムレット」や、玉男と簔助の文楽「曽根崎心中」なども観て感激し、日本に帰ったら、歌舞伎と文楽に通おうと思った。

   学生時代に歌っていた歌の文句ではないけれど、フィラデルフィアの大学を出てロンドンパリを又にかけて根無し草のように海外を飛び回っていた時には、オペラやシェイクスピアなどの西洋戯曲を鑑賞する機会に恵まれていたけれど、日本に帰ればその機会も少なくなるであろうしと思って、俄然、学生時代に古社寺めぐりなどの歴史散歩に明け暮れた日本文化鑑賞にのめり込んだ時のあの鮮烈な思いが蘇ってきたのである。
   私自身は、海外で、人類の素晴らしい沢山の文化遺産や芸術に接して感激しきりではあったが、日本文化の素晴らしさとその価値への誇りは人後に落ちず、海外の友へも、これ宣伝に努めてきたつもりであるし、のめり込めばのめり込むほど、その奥深さに驚かされている。

   玉三郎の「鷺娘」を見て、その美しさと優雅さに感激したのは、実は、ずっとそれ以前、メトロポリタン歌劇場のセンティニアル・ガラ・コンサートの映像をNHKの番組で見た時であった。
   ビデオ撮りして何度も見たが、ソニーのベータだったので、廃却してしまって残念ながら今はないが、この実際の舞台を、ロンドンで観た時には正に感激であった。

   今回、あらためて歌舞伎座の舞台で鑑賞してみると、鮮烈に記憶に残っていたのは、最後の鷺の精に早代わりして雪が降りしきる中を狂おしく舞いながら死んで行く幕切れまでの、玉三郎の生の悲しさ愛しさをなんとも言えないほど感動的に体全体で表現した哀調を帯びた舞姿であった。
   玉三郎の後振り、特に、見返り美人スタイルの優雅さと美しさは格別だと思って何時も感激しながら観ているが、
   今回も、斜めよりに後へゆっくりと反り返りながら顔を上げて静かに正面に向ける表情の何と美しく神々しいことか。
   雀右衛門が、歌舞伎の女形が美しいのは、この世にない女を演じているからだと言っていたが、正に、このことであろう。

   勘三郎の春興鏡獅子は、やはり、若かりし頃のロンドン公演の時の、溌剌とした華やかさと輝きにはやや欠けた感じではあったが、その分、弥生の舞には、しっとりとした優雅さが加わった感じで、中々良い舞台であった。
   今度の胡蝶は、千之助と玉太郎だったが、ロンドンでは、小さな女の子のように可愛かった勘太郎と七之助が演じており、時代の流れを感じさせたが、勘三郎の優雅な弥生の舞姿も勇壮な獅子の狂い舞も、そのまま全く変わらず健在であった。
   その勘太郎も恋をして結婚すると言う。

   勘三郎と玉三郎との、コミカルでしっとりとした大人の恋の物語が、今回最後の演目「鰯賣戀曳網」。勘三郎の襲名披露公演の時に一度観ている。
   御伽草子から取って三島由紀夫が昭和29年に文学界に発表した作品で、元紀州のお姫様で今や高名な傾城・蛍火(玉三郎)が、一目見て見て恋焦がれた鰯売りの猿源氏(勘三郎)とめでたしめでたしで結ばれる今様お伽噺である。
   いくら恋しくても、大名や豪商しか相手にしない傾城相手では所詮無理だが、そこはお伽噺で、親父が元遊び人で遊郭にも通いつめた海老名なむあみだぶつ(彌十郎)であるから、猿源氏に、こともあろうに、宇都宮のお殿様・弾正を騙らせて茶屋の座敷に入り込ませる。
   蛍火たちに、合戦の話を所望されるが、猿源氏は、仕方なく鯛と平目の合戦話をでっち上げて語るところが面白いのだが、酔いつぶれて蛍火の膝枕で寝込んでしまう。
   しかし、そこはしがない鰯売りの悲しさ、寝言で、鰯売りの口上である
   「伊勢の国に阿漕ヶ浦の猿源氏鰯こぅえい・・・」を言ってしまう。
   蛍火に、寝言の説明を求められて、ばれじとばかり、習い覚えた和歌の薀蓄を傾けた苦し紛れの弁解が秀逸だが、何故か、猿源氏が鰯売りでないと知ると蛍火は落胆。
   実は、蛍火は、鰯売りの口上に魅せられて後を追ってお城を抜け出したものの、道に迷って誘拐されて遊郭に売り飛ばされたのだが、ずっと、鰯売りに憧れていたと言うのである。

   実に、有り得ないような馬鹿馬鹿しい話ではあるが、勘三郎のイタズラと遊び心12分のコミカルでおかしみ溢れる軽妙な芸が秀逸で、それに丁々発止で受け応える実に温かくて人情味溢れた玉三郎の演技が何とも言えないほど見ていて楽しい。
   なむあみだぶつの彌十郎の遊び人風の洒落た演技、ほんわかとしてとぼけた調子の染五郎の博労六郎左衛門、調子の良い東蔵の遊郭の亭主、庭番に窶して蛍火を監視している実直な亀蔵の藪熊次郎太等など、助演陣の達者な演技も素晴らしい。
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ジョセフ・S・ナイ著「リーダー・パワー」・・・麻生太郎殿は良きリーダーか

2009年01月11日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ハーバード大学のジョセフ・S・ナイ教授が、駐日米国大使に起用されそうだと言うニュースが伝わったが、非常に素晴らしいことだと思っている。
   そのナイ教授の新しい著書「リーダー・パワー The Powers to Lead」を、先月の「米新政権と日米同盟の課題」シンポジウムの講演の当日、会場で買って読んだが、経営学者の書いたリーダーシップ論とは一寸趣を異にした論調が興味深い。

   やはり、発端は、悪名高いブッシュ大統領の施政が、ナイ教授の問題意識を喚起したのか、アメリカ人の3分の2が自分たちの国は「リーダーシップの危機」にあると考えていると言う指摘から書き始めている。
   リーダーを信じると言うアメリカ人は40%で、かなり前からリーダーについて尊敬と反感が入り混じった感情を抱くようになっているが、他の国でも同じ状況で、リーダーシップをめぐる状況は変化しつつあるのに、今日のリーダーの多くが、その流れに追いついていないからだと言う。

   イラク戦争など力で押さえつけるブッシュ政権の外交を批判して、ナイ教授が、著書「ソフト・パワー」を出版し、力で威圧する「ハード・パワー」に対して、人を引き寄せる力である「ソフト・パワー」の重要性を説いた。
   これについては、小泉外交と対比させながら、このブログでもコメントしたことがあるが、文化文明総てを動員し、人を魅了するような文化的交流を主眼とした武力的威嚇抜きの外交が如何に大切かと言うことである。
   今でも人気のイソップ寓話「北風と太陽」に似ているかも知れない。

   この本では、力とリーダーシップの両方と、リーダーシップの関係を論じながら、力が、威圧する力である「ハード・パワー」と、人を引き寄せる力である「ソフト・パワー」と言う両面を備えたものと看做すなら、リーダーシップと力とは対立したものではなく、解き難いほど深く結びついたもので、
   効果的なリーダーシップは、ソフト・パワーとハード・パワーとの両方のスキルを兼ね備えて、状況を正しく十分に把握して、それらの力をどのような比率で組み合わせれば最も有効なのかを判断・実行する「スマート・パワー」が求められると説く。

   リーダーの定義は、人間の集団が共通の目的を設定し、それを達成する手助けをする存在であると言うことで、目標達成のために人々を動員すると言うのが主眼であるから、リーダシップは社会関係であり、鍵となるのは、リーダーとフォロワーたちと、両者が相互作用を及ぼし合う状況の3要素だとして、これらの関係を分析検討する。

   ナイ教授が力点を置いて説明しているのは、「状況を把握する知性 CONTEXTUAL INTELLIGENCE」で、EQとも相関関係を持った状況の理解、「状況への鋭敏さ」、「状況判断」であり、他人のニーズを察知出来ず、ただ単に認識論的な分析能力と長い経験を身につけているだけでは、有効なリーダーシップには不十分だとする。
   ハード・パワーとソフト・パワーをうまく組み合わせて、スマート・パワーの戦略にするためには、状況を把握して理解する能力であるCONTEXTUAL INNTELLIGENNCEが必須だと言うのである。

   情報化時代の今日では、より広帯域なブロードバンド環境を持ち、異なる状況に対してきめ細かに対応できるスキルを持ったリーダーが求められるとして、ナイ教授は、
   状況把握の知性に含まれる直感的スキルにとって重要なのは次の5つ、即ち、文化の状況、力の資源の分散の程度、フォロワーのニーズ、時間の切迫、情報の流れだとして詳しく説明し、良いリーダーと悪いリーダーへと論を進めている。

   ところで、ブッシュ大統領についての論述が当然多くなるが、冒頭の「はじめに」で、大統領は「決めるのはわたしであり、何が最高かはわたしが決める」と言ったことがあるが、リーダーシップはもっと奥が深いものだと述べている。
   このリーダーシップの役割が決定者だとする見解について、最終決定が重要なわけではなく、いつ、どのように決定するのかも同じくらい重要で、リーダーは、集団の構成をどういう方向へ変えるつもりか、その決定の背景となる状況はどういうものなのか、どのように情報が伝えられるのか、決定に対してどの程度の支配力を維持できるのか等々、
   これらの要因について誤った判断を下しながらも断固たる決定を下すことは可能だが、状況把握の知性を欠いた決定は、大きな誤りになることは間違いないと断じている。
   
   さて、支持率が20%を切ったわがリーダー麻生太郎どのだが、「解散をするかしないか、その時期については、総理大臣である私が決めます」と大見得を切り続けている。
   マンガを読み過ぎて演説原稿の読み違えが多い本来のインテリジェンスさえ疑られている総理だが、ナイ教授の説く「状況を把握する知性」を持ち合わせて、スマート・パワーを発揮して日本の経済社会を好転させ得るのかどうか。
   
   余談だが、いつ解散して総選挙を行っても、自民党が壊滅的な敗北を喫して敗軍の将に成り下がる運命なら、好きなパーフォーマンスを行いつつ解散時期を引き延ばして様子を見ながら、一日でも二日でも総理のイスに座っている方が良いと言うのが、麻生太郎殿の本音のように思えて仕方がない。

(追記)写真は、春を待つ牡丹の新芽。
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小売業の失速~変われぬ百貨店とスーパー閉店

2009年01月10日 | 経営・ビジネス
   世界的な未曾有の経済不況の波に飲まれて製造業の業績悪化が急速に進んでいるが、サービス業の失速も懸念されている。
   先進国のGDPに占める個人消費の比率が60%以上を占めているので、比較的健在な筈の小売業にも、不況の波は大きく押し寄せており、中でも、生活防衛を意図した消費者の消費構造の変化が、その趨勢に大きく影響している。

   日経によると、消費者の「費用対効果」選別志向への動きによって、小売業の業績に、大きく明暗が分かれていると言う。
   百貨店・総合スーパー苦戦、高額商品不振と言う趨勢だと言う事だが、こんなことは、デジタル革命によってグローバル経済が拡大した前世紀末から起こっていたことで、目新しいことでも何でもなく、時代の潮流を読めない経営者の無能のなせるわざ以外の何ものでもない。
   百貨店などは、何十年も前から欧米では凋落の一途を辿っており、どんどん消えて行っており、高級品などは専門店への移行が急速に進んでいる。

   私などは、最近、百貨店にはあまり行かなくなったが、時々、地下鉄の日本橋で下りて高島屋に出かけて、地下の食品売り場を経てエレベーターに乗って8階の催し会場の特別展を見に行くことがある。
   地下鉄からの唯一の入り口を入ると、当然のごとく宝石店のような高級菓子店舗が並んでいるのだから客足は少なく、更に、デパ地下で人気の高い生もの食品や惣菜などの店舗がその奥にあるのだから、謂わば、庶民はご遠慮くださいと言った感覚の店舗経営だとしか思えない。
   新しくなった東京駅の大丸の地下食料品売り場の雑踏と賑わいとは雲泥の差である。

   この地下鉄からのエントランスだが、店の顔である筈だが、殺風景で魅力のないこと限りない。顧客が、アプローチするだけで、ワクワクするようなショッピングを楽しむ喜びを演出する、そんな魅力を持ったエントランスの雰囲気を作るだけでも最大の宣伝効果で、イメージアップ&ブレークスルー間違い無しだと思うのだが、その才覚さえなさそうである。
   この百貨店だが、各階を歩いてみても、何十年前の店舗の雰囲気と殆ど変わっておらず、閑古鳥が鳴いている売り場が多い。商業革命で小売業の業態が様変わりし、ネットショップが売り上げを蚕食するなど、大きく時代の潮流が変わっており、百貨店は冬の時代。経営環境の変化について行くためには、顧客が何を求めて、どのようなサービスに満足するのか原点に立ち返って考えなければ、煮えガエルと同じで安楽死しかない。

   
   もう一つ、高島屋の経営感覚を疑うのは、綺麗なお姉さんが乗っている骨董のエレベーターで、6台並んでいるのだが、2台づつしか押しボタンが連動しておらず、3つボタンを押さなければ役に立たない。
   そのボタンを押して待っていても、コンピューター制御のエレベーターではなく、綺麗なお姉さんが運転しているので、何時も6台とも同じ方向に行き、丁寧に止まっているので、待っても待っても中々来ず、やっと来ても団子状態で1階からのお客などは積み残しが多い。

   大体、エレベーターに乗るのは、老人か子供連れなど要するにシルバーシート族のはずだが、仕方がないと言った風情で文句を言わないが、カスタマーサティスファクションの「か」も知らない経営感覚だとしか思えない。
   エレベーターの不満は、昔から顧客の最も顰蹙を買う問題で、30年以上も前に、フィラデルフィアのウォートン・スクールの授業で、資金がなかったので、周りに鏡を設置して客の気を散らして無事解決したと言う会社の話を聞いたことがある。
   今や、IT革命と言われて既に20年、多少カネが掛かっても、一寸ハイテク技術を使えば解決する筈の顧客満足さえも軽視していては、いくら、合併を繰り返して経営改革しても、このような百貨店の明日は暗い。

      話は変わるが、もう一つの小売業の雄である総合スーパーだが、近くのイトーヨーカドーがオープン10年で閉店することになった。
   この口絵写真は、そのスーパーのホームページからの借用だが、この店は、新興住宅街でやや高級化した地域の顧客を見越して、少しグレードをアップしたコンセプトで設営された。
   しかし、その数年前からバブル崩壊で、その地域の高級住宅(?)の売れ行きは頓挫し始めていたのだが、高級品を扱う百貨店でもないし安売りの普通のスーパーでもないと言う中途半端な店舗経営が裏目に出て、最初から苦戦していた筈である。
   近所に、もっと大きくて時代にマッチした(?)店がオープンしたので、閉店せざるを得なくなった。
   
   最近、イオンやイトーヨーカドーなどが、核店舗として巨大なショッピングセンターを展開し始めたが、先日、デザイン・フォーラムで聞いたトップの話では、顧客のニーズを先取りするとかと言うコンセプトで、店舗内に、立派な化粧室や談話室を併設した便所を設けるなど努力していると言うことであった。
   果たして、これがスーパーの目指す道なのかどうか、コンセプトなりマーケットセグメンテーションを誤ると経営の蹉跌を招くこととなる。

   ユニクロの新戦略が功を奏して健在だという事だが、衣料関係でも、ザラやH&Mなど、顧客の嗜好に敏で価格が安くてファッション性の高い商品を輩出するイノベィティブな企業が快進撃している。
   IT革命によって、インターネット等で情報武装したスマートな消費者が増えてくると、顧客のニーズも様変わりとなる。
   一人の素晴らしいデザイナーなり企業家が一気に企業を変革するクリエイティブ・クラスの活躍する時代となった今日、時代の潮流の読めない無能な経営者は消えて行かざるを得なくなる。
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初春大歌舞伎・・・幸四郎の「俊寛」

2009年01月07日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   一昨年の初春歌舞伎も「俊寛」が舞台に掛かったが、俊寛が吉右衛門から幸四郎に代わったのみならず役者が全部代わって、舞台設定は同じだが、雰囲気ががらりと変わった。
   同じ吉右衛門や幸四郎の芸を継承している筈の兄弟だが、例えば、赦免状に俊寛一人が抜け落ちていることを知った時の対応にしても、確か、吉右衛門は、手足を刷り合わせて地面をのた打ち回って哀切の限りを演じていたが、幸四郎は腑に落ちないと言った理知的で冷めた演技を優先するなど差があり、印象が大分違っていたのが面白い。

    この作品は、近松の晩年の作で自筆原稿が残っているようだが、実際に読んだわけではないので分からないが、平家物語の中の俊寛の方が自然な感じがするので、何故、近松が、この浄瑠璃のような話に脚色したのか、興味を持っている。

   平家物語の俊寛は、心も猛々しい無骨な男で、喜界が島に島流しにあったあとの二人(丹波少将成経・染五郎、平判康頼・歌六)は、信心深く、島に熊野権現を祀って毎日帰還を祈り、歌を添えて流した千本の卒塔婆のうち一つが厳島に流れ着き清盛を感激させるなどそれなりの努力はしているが、俊寛は全く無関心。
   赦免が許されないと知ると、少将の袂に縋り付き、お前の親父がつまらぬ謀反を企んだからこんなことになったのだと毒づく始末で、自分勝手に帰り支度をして船に乗り込もうとする。
   艫綱が解かれると、綱に取りついて、足が立たなくなると船端にしがみ付いて九州まで連れて行ってくれと口説くが使いの者に手を引き離される。
   仕方なく渚に上がり倒れ伏して、子供のように足摺りして「連れて行け。乗せて行け。」と喚き叫ぶ。
   まだ遠くに行っていないが、高いところに上って、涙にくれて見えなくなった船に手招きする哀れさ悲しさは、松浦小夜姫の比ではなかろうと琵琶法師は語る。

   この近松本で、大きく平家物語を脚色した点は、最愛の妻あづまやが、清盛に迫られて拒絶したので殺されてしまったことを聞かされて、生きて都へ帰る意味がなくなったと思って、少将の現地妻である海女千鳥(芝雀)を代わりに乗船させて、自分ひとり島に残ると言う設定にして、俊寛を義の人として主人公にしたことであろうか。
   そうなると、島に一人取り残されて、子供のように喚き泣き叫ぶ俊寛ではなく、強い義侠心と決意の結果から生まれ出た別れの悲しさ寂寥感である筈で、平家物語の俊寛とは全く違った幕切れであるべきであろう。

   ところで、平家物語によると、俊寛の北の方は、命を懸けて操を守り抜いたのではなく、鞍馬の奥に移り住み、鬼界が島に連れて行けと俊寛に纏わりついた幼女を亡くして悲嘆にくれて亡くなった。
   「有王島下り」の章で、俊寛が可愛がって使っていた童・有王が、鬼界が島を訪れて、俊寛にこの話をすると、妻子にもう一度会いたいばっかりに生きながらえて来たのだが、一人12歳の娘を残すのは不憫だけれど、これ以上苦労をかけるのも身勝手であろうと絶食して死んでしまう。
   歌舞伎では、妻あづまやが清盛に殺されてこの世に居ないと使いの瀬尾太郎兼康(彦三郎)に憎憎しく毒づかれ、一挙に、千鳥乗船の決意が固まり瀬尾を殺して罪人となるのだが、平家物語でも、妻への思いのみが俊寛の生きがいであったことを語っており、
   それだけに、この舞台で唯一明るい少将と千鳥の祝いの杯と、俊寛のふたりの門出を祝うひとさしの舞が、あづまやへの愛を象徴していて大きな意味を持つ。

   この歌舞伎で、最初からよろよろしながら藻屑をぶら下げて俊寛が登場するが、このように憔悴しきった俊寛の姿は、二人が京へ帰った翌年の有王下りの時で、三人揃っていた頃には、二人が夜具や法華経を形見に残しているので、もう少しましな生活をしていたのであろう。
   いずれにしろ、俊寛をどのような姿で演じるかが歌舞伎役者の力量だが、近松が、架空の人物千鳥を登場させて、登場しない筈の妻を前面に押し出して、赦免状に洩れた悲哀を犠牲的正義感に変えて行くところから、大きく俊寛の心の展開が開けて行き、最後の、高みに上って船陰を、声も枯れて茫然自失の空ろな目で見送る俊寛の孤独が生きて来る。

   理屈が長くなってしまって、実際の芝居の感想が書けなくなったが、やはり、幸四郎は千両役者で、お家の芸と言うだけではなく、計算し尽くした緻密に積み重ねた芸を披露しながら、俊寛の人間的な悲しさ孤独感、それに、腐っても鯛である法勝寺の執行としての風格を滲ませていて、実に上手い。
   唯一の女形の芝雀の千鳥だが、吉右衛門の「日向嶋景清」の糸滝の芝雀を思い出して見ていたが、初々しさと健気さ、それに、癖のない素直な演技が実に良く、祝いの杯で、嶋の湧き水を「酒と思う心が酒」と粋なことを言う。
   颯爽とした梅玉の丹左衛門尉基康も良いが、彦三郎の憎々しい赤面の瀬尾も正に適役である。
   俊寛の引き立て役のような染五郎と歌六の二人も、夫々存在感のある充実した演技で、初春歌舞伎に華を添えていて素晴らしい。
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ポール・R・クルーグマン著「クルーグマンの視座」~経営者は経済政策提言は無理(その2)

2009年01月06日 | 政治・経済・社会
   「一国の経済政策は経営戦略と違う」として、クルーグマンは、企業の経理が分かる経営者なら国民所得勘定も読めると思ったら大間違いで、国の経済政策諮問委員などと言って大口をたたくのなら、経済学の専門用語と一連の概念を、数学も含めて新たに学び直すべきだとのたまう。
   経営戦略と経済政策の根本的な違いは、最も巨大な企業ですらオープン・システム(開放系)であるのに対して、国際貿易がここまで盛んになってもなお、アメリカ経済は、クローズド・システム(閉鎖系)であるということだと説く。
  
   このシステムを説明するために、クルーグマンは、廃棄物処理と「パーク&ライド」で例証する。
   ごみ処理場については、各市町村は、その場所をよその土地にカネを払って自由に選択して廃棄できるが、(第3国への輸出を無視すれば)、国家は、出るごみ入るごみの原則が働いて、持って行き場がない。
   パーク&ライドは、家から駅まで車で行き電車で通勤するシステムだが、駅の駐車場はスペースが限られているので早く行かなければ駐車出来なくなる。個々人は時間を調整して駐車場を確保出来るが、通勤者全体としては駐車場はパンクしている。

   要するに、各個別企業は、いくら巨大であっても、他者の犠牲において駐車スペースを確保するのと同じように、持てる経営資源を最大に活用して、成長拡大戦略を打てるが、しかし、アメリカの貿易黒字が数%伸びるだけでかってない規模の資本輸出国となるなど、マーケット・シェアの1~2%の拡大さえ現下の国際経済ではインパクトが大きすぎて許されないと言うのである。

   ここで、クルーグマンは、オープン・システムとクロズド・システムにおける「フィードバック」の性格の違いに言及する。
   昨日言及した特定産業の輸出の拡大が雇用を創出する効果も、公定歩合のアップを惹起するなど他者の犠牲を伴うと言う形でフィードバックすると言うことで、オープンとクロズドの効果に差が出る。

   オープン・システムの企業の世界では、フィードバックは軽微で不確かなものだが、国民経済と言うクロズド・システムでは、強いフィードバックが働き、殆どの場合は、ネガティブだと言う。
   一地方のポジティブ・フィードバックは、他の地方のネガティブ・フィードバックによって相殺され、特定産業に吸収される追加資本は、別の産業から奪ってきたものと考えざるを得ず、国民経済としては、オープンシステムの企業のポジティブ効果は、必ずしも、ポジティブには働かず、むしろ逆の場合が多いと言うのである。

   企業の経営者は、殆ど自由に経営戦略を打って事業活動を行うことが出来る。
   しかし、その結果トータルとして現れてくる、雇用の減少が平均賃金に与える影響や、海外からの投資の増加が為替レートに与える影響と言った、個々の企業や産業から見ると軽微で不確かな影響に過ぎない事柄が、国民経済全体に関わる政策についてその影響を拾い出していく段階では、致命的な重要性を持ってくる。
   したがって、クルーグマンは、政府の経済政策への諮問委員会の委員になる経営者は、経済政策でアドバイスを求められた場合には、実業界の成功から学べるものと学べないものがあると言うことを認識すべきだと言うのである。

   クルーグマンは、ケインズの言葉を引用して、「経済学は非常に専門的で難しい学問である」と強調する。
   尤も、経済学が経営学より難しいと言っているのではなく、全く違った学問であり、立派な経営者と立派な経済学者とは全く別物だと言っているのである。
   この経済学と経営学とは違う学問だと言うことは、あまり勉強したとは言えないが、大学で経済学を専攻し、大学院(ビジネス・スクール)で経営学を勉強したので理解できる。

   私自身、大分前に、このブログでも、例えば、散髪屋さんでも八百屋さんでもどんな職業でも、経済活動を行っているから経済が分かっているような気になるかも知れないが、経済学はもっともっと難しい学問だと書いたことがある。
   日経新聞を読むのも、実は、相当の経済学なり経営学の知識がないと読めないとも思っている。
   例えば、不良債権の処理と言う言葉でも、如何ほどの人が、その意味を理解して日経を読んでいるのか考えてみれば分かる。

   ところで、クルーグマンの主張は良く分かるが、多少疑問に思うのは、マクロ総量で見たり、膨大なストック経済へのインパクトと言う観点から見ているので、個々の経済現象や時間の経過などを殆ど無視していることである。
   例えば、「第三世界の成長は第一世界の脅威となるか」など随所で論じており、中国など新興国の競争力が先進国の経済に影響を及ぼすなど微々たるもので、恐れる正当なる理由はないと述べているが、現に、アメリカやヨーロッパなどの産業や地方が壊滅的な打撃を受けて経済社会構造を変えてしまったケースはいくらでも発生している。
   新興国の生産性の向上が、新興国の労働者の賃金を先進国並みに平準化するといってみても、その平準化する前に、先進国の労働者が駆逐され、製造業はリストラなど構造改革を迫られる。
   クルーグマン自身、逆に、経営学の視点に多少欠けているのではないかと思われるふしがあると思うのは、不遜であろうか。
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