熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ベートーヴェン:交響曲第九番合唱つき・・・レニングラード国立歌劇場管弦楽団

2005年12月30日 | クラシック音楽・オペラ
   日本では、年末になるとコンサート・ホールで、ベートーヴェンの第九が演奏される。
昨日も、NHK交響楽団がアシュケナージ指揮の第九が、BSで放映された。
随分以前に、プロムの時のアルバート・ホールでアシュケナージが、ベルリンラジオ響を指揮した第九を思い出したが、あの時は、ロンドンで欧米の国際会議があって、メイジャー首相やパウエル長官等各国のトップが沢山来ていた。

   ところで、この日本での第九ブームは、黒柳徹子さんの話によると、彼女の父上がN響の前身のコンマス時代に、音楽家の生活が苦しくて、年越しの餅を買う為に始めた演奏会が定着して広まったのだとか。
最近では、本場のドイツでも、何故か真似をして、年末に、第九が演奏されると聞く。
   しかし、独墺では、大晦日に、シュトラウスの「こうもり」で笑い飛ばして新年を迎えるのが慣わし。
ウイーン国立歌劇場で一度だけ経験があるが、タキシードとイブニング・ドレスで正装した紳士淑女が集い集まり、中々の壮観。休憩の時に、華麗な劇場の中を、綺麗に着飾ったカップルが腕を組んで何故か一列に並んで歩いていたが、旅先である私とアメリカのビジネスマンだけ背広姿で、一寸違和感を感じながらシャンパンをすすりながら横目で見ていた。

   私が始めて第九を聴いたのは、大阪万博で来日したヘルベルト・フォン・カラヤン指揮のベルリン・フィルハーモニーの演奏会である。
   幸いにも大阪に居たので切符を取得できたのだが、感激的な経験であった。
   別な日の演奏会で、カラヤンが第五番「運命」を指揮中に、激しいアクションで、指揮棒が折れて吹っ飛んでしまって、その後、バトンなしで華麗な指揮を始めた。
   あの頃までは、カラヤンは指揮棒を持って、目を開いて指揮をしていたのである。

   余談だが、まだまだ、あの頃は日本のオーケストラの水準は低くて、私は本物を聴きたくて外来オーケストラが来日すれば無理をして出かけて行った。
   バーンスティン指揮のニューヨーク・フィル、ショルティ指揮のウイーン・フィル、アンセルメやミュンシュ、セルも聴きに行った。

   ところで、第九の演奏時間であるが、シャルル・ミュンシュの59分から、朝比奈隆の82分まで長短まちまちだと聴いた事がある。
   下手なオーケストラだと、長くなると、第一楽章と第二楽章が、煩わしくなる。
   
   今回のレニングラード国立管だが、やはり、音楽の都と言ってもキーロフ・オペラやザンクトペテルブルグ・フィルと比べれば随分差があり、それなりの演奏であったが、第三楽章あたりから調子が出始めて、歓喜の歌に入ると素晴しく歌い始めた。
   バスのアレクサンドル・マトヴァーエフの「オー・フロイデ・・・」の第一声から響き渡る朗朗たる歌声はやはりロシアの大地の声で、ソプラノのマリーナ・トレグボヴィッチ、アルトのナタリア・ビリュコーワ、テノールのドドミトリー・カルポフとも歌手陣は素晴しい声を聞かせてくれた。
   初めてだったが、バックのTCF合唱団が、また、素晴しい歌声を披露してくれた。
   指揮のアンドレイ・アニハーノフだが、エネルギッシュで体全体で音楽を表現しているような指揮ぶり、エグモント序曲と第九を無難にこなしていた。

   好きだけで続けてきた私の音楽鑑賞遍歴も長くなったが、やはり、第九は何時聴いても素晴しい。
   これだけでも、ベートーヴェンの人類への貢献ははかり知れないと思っているが、アムステルダム・コンセルトヘヴォーやフィラデルフィア管、ロンドン交響楽団等あっちこっちで聴いた第九が思い出として残っていて、その時々の自分をふっと思い出すよすがともなっている。

   アバード指揮ベルリン・フィルの第九合唱交響曲のDVDを聴いて今年を締めくくろうと思っている。

(追)写真は、無関係のNYPOのもの。
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年末買い物客で雑踏するアメ横・・・東京も値切れる街になった

2005年12月29日 | 政治・経済・社会
   年末恒例のベートーヴェンの第九交響曲を東京文化会館で聴いた帰り道、御徒町のアメ横商店街に寄り道した。
   大晦日までまだ二日あるので客足も程々であったが、魚屋の前では人だかりで歩行が困難になり、雑踏していた。

   店先の台の上に立ったアンちゃんが、1万円の値の付いたマグロのトロの切り身を握り締めて、大音声で、9千円、8千円と値を下げながらがなりたてると横に立つ若い店員が鸚鵡返しに唱和する。
   ドンドン下げて3500円まで、下げたが客の反応はもうひとつ、結局諦めて棚に戻す。
   取替え品を変えて同じ様に叩き売るが、タイミングが合うと面白いように売れる、値段が3分の1位に下がるのだから、群集心理と言うのか、我先にと言う気持ちになるのであろうか。

   マグロのトロを筆頭に、タラバガニや毛蟹、荒巻サケ、すじこ・たらこ、するめ、色々な魚が所狭しと並べられて威勢良く叩き売られて行く。
   ところが、不思議なもので、隣の魚屋は、がなりたてずに静かだが、隣のアンちゃんが値を下げるプライス・セッターとなっているので、客が値切るとほぼ近い値段まで下げて売っている。

   ところで、大阪では客は百貨店でも値切ると言うが、東京では、普通正札でモノを買って値切ることはしない。
   しかし、最近では、他より高いものはありませんと言って1円でも高ければ負けますと言う家電製品などの量販店が出来てから、東京でも、結構、商店で値切る客が多くなったと言う。
   とにかく、ビックカメラやヨドバシカメラ、コジマ等では、ひとまず値切らないと損をするとまで言われていて、実際に値切り交渉が成功する。
   小売希望価格などと言うのは、あくまで、小売店の希望であって、いくらなら買って頂けますかと言うことで、値切って下さい、値段を交渉しましょうと言うことである。

   この頃、価格コムとかconeco.netと言った便利なサイトがあって、実勢価格を総て暴露してくれて、一番安い店は何処でいくらで売っているかも教えてくれる。
   値切り交渉をしてモノを買わないのがおかしい位になってしまった。
   それに、この世は何でも知らなかったら損をするようになっている。
   早い話が、NTTの定置式電話の料金、今、いくらするか知らないが、NTTの光電話でもIP電話でも、日本全国何処へでも3分間8円程度で架けられるが、知らない人は、今までどおりに高い料金を払わされている筈である。

   外国は国よって違うが、中国は値切らなければ馬鹿にされる国のようで、それまで正札で買っていたが、前回、値切り始めたら、まともな店でも20%は負けてくれた。

   アラブでは、いかに客に吹っかけて高く売りつけるか、それが商人の才覚であり実力だとされている。
   客は才知を働かせて商人を打ち負かして安くさせない限り馬鹿にされるのである。
   ナニシ負うレバシリ、そのレバノンの客を案内して京都に行った時、悉く買い物で値切れと言われて、ダメだ、商習慣が違うと言っても聞き入れないので、正直なところ非常に困ったことがある。
   値切り文化の特徴は、交渉が継続されて行くと言うことで、リターンマッチもあり、適当なところで交渉を打ち切って妥協できると言うことである。
一回限りで勝負がつくと言うことではない。
   アラブのバザールで、カーペットを買う為に交渉した時、これを試してみたが、半分まで値切って決裂したふりをして止めだと言って店を離れたら、ミスターミスターと追っかけてきて、更に値段を下げてきた。

   昔、フセインがクエートに侵攻したが、これも同じ考え方で、反抗がなければ攻撃得で、悪くても、フセインはネゴで有利な条件で解決できると思っていた。
   ところが、アメリカの論理は違っていたので湾岸戦争になったのである。
   もっとも、最近ではアメリカも、存在しない大量破壊兵器があると言って攻撃をかけて戦争に巻き込んでしまって、モラルも秩序も怪しくなってきた。
   
   同じく酷いのはフォークランド戦争である。
   アルゼンチンの大統領が、南極に近いイギリス領のフォークランド諸島を占拠する為に軍隊を送り込んで支配してしまった。
   怒ったのはサッチャー首相で、たった30数家族しか漁民の住んでいない島を回復する為に、王家の次男ヨーク公爵まで乗船させた大艦隊を、大西洋、赤道を越えて南極洋まで派遣して、アルゼンチン軍を打ち負かしてしまった。
   余談だが、皇位継承問題で憲法・皇室典範を変えようとしたり、たった10数人の拉致被害者を救出できないでいる何処かの国とえらい違いではないであろうか。
   アルゼンチン大統領の言い種が振るっている、「イギリスがこんな所まで攻めて来るとは思わなかった。」
   これもラテン系の、上手く行けばやり得で悪くても有利に交渉できるとする値切り文化の発想であり、正札の国の宰相サッチャーには通じなかったと言うことである。

   国際舞台でさえこの体たらく、さて、東京も、価値の多様化か、商品の値段が定まらなくなり、値切り、即ち、バーゲニングが横行するようになった。
   経済社会や文化はどう変わるのであろうか。   
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先進国以外で高級品が売れるわけ・・・市場も経済も二重・平均国民所得の罠

2005年12月28日 | 政治・経済・社会
   伊藤元重教授との対談で、キッコーマンの茂木友三郎会長が、醤油はグローバルスタンダードな調味料で、日本の醤油の醸造技術は世界一で、中国では現地醤油の価格が5~6倍でもキッコーマンは売れるのだと語っている。
   少子高齢化で、口数が減る上に、老人増で消費が減り、醤油の需要増は見込めないので海外に進出し、アメリカではシェアー一位になり、今や、海外での売上高23%で、利益の半分は海外で稼ぎ出していると言う。

   日本の市場では過当競争でしのぎを削り薄利であるが、その商品に競争力があれば海外で利益を上げていると言うのが、日本の製造業の大方の現状であろう。
   しかし、私が、ここで問題にしたいのは、海外市場でのマーケット・セグメンテーションで、平均国民所得・人口一人当たりのGDPで、その国の市場を判断すれば、戦略を誤ると言うことである。
   結論から先に言えば、発展途上国など、欧米などの先進国と比べれば、確かに一人当たりのGDPは低く生活水準等も低いが、このような国には、一部の富裕層と貧しい大衆、即ち、先進国と後進国が水と油のように同居した二重構造になっていることである。

   日本の場合、小泉政権になってから、機会の平等を進めた為に貧富の差や地域格差が拡大したと言われているが、欧米は別としても、中進国以下貧しい国での人々の貧富の差や地域格差は目を覆うばかりで日本の比ではない。
   即ち、一つの国に、例えば、中国を例に取れば、上海のような超先進国と奥地の田舎のような超後進国が同居しており、経済も商品市場も全く違ったセグメンテーションで動いていると言うことである。
   私は、これまでに、随分多くの発展途上国を歩いてきたが、何れの国にも、豊かな上層階級の金持ちが居て、隔離されたような高級住宅地域に住み、貧しい庶民とは違った別世界を謳歌しているのを見ている。

   分かり易い例をブラジルのサンパウロのホテル事業で考えてみたい。
   これは、このホテル事業の異常な成功で不動産事業に深入りしすぎて消えていったある建設会社の話で、ビジネスモデルの帰趨を物語っていて面白い。
   
   A社は、現地の建設会社G社と合弁で、ホテル会社を設立し、サンパウロの目抜きのショッピング街に土地を取得して、客室200室程度の小さなホテルを建設した。
   小さなホテルで公共的なファシリティも極めて限られた不十分なホテルではあったが、ホテルの建物と内部設備等ファシリティについては、それまでブラジルにはなかった最高級のものを目指してセットアップした。
   当時、ヒルトンなどの外資系や地元の高級ホテルは可なりあったが、冷暖房等設備等の機能は悪く、また、治安の問題があるなど顧客の満足度が低かったので、開業早々、客が設備の整った快適な新しいホテルに殺到して、連日、占拠率100%とかで、嘘か本当か初年度で資金を総て回収したと言う。
   ブラジルには、桁外れの一握りの金持ちがいたが、人口が多いので、新ホテルの顧客予備軍としては多過ぎるほどの数であり、世界中からブラジルブームで訪れたトップ・エクゼクティブを引きつけてたので、まさにこのホテルは人気絶頂であった。

   後日談だが、この建設会社は、この事業に味をしめてリオ・デ・ジャネイロ、パナマへとホテルをチェーン展開して、更に世界有数のホテルチェーンを買収して、日本各地でも高級ホテルの開発・建設を行ったが、バブルの荒波に飲まれて消えていった。
   ビジネスモデルは、必ずしも悪くはなかったのであろうが、あの未曾有の激動の時代に、翻弄されてしまったのである。

   台湾では、日本の高品質なりんごが高値で飛ぶように売れていると言う記事を新聞で読んだことがあるが、東アジアの金持ちは、欧米に比べて全く遜色のないほど豊かであり、その数はドンドン増えており、巨大な高級品消費市場を形成し始めている。

   一人当たり国民所得の高さは、その国の市場の成熟度をある程度示してはいるが、高級市場があるかどうかは別問題である。
   これからの日本の目指すべきは、これ等の豊かな人々をターゲットにした真似の出来ない付加価値の高い高級なモノやサービスを提供することではないかと思っている。
   コモディティ化するような、マスプロダクションや、安物を提供するのではなく、日本でしか開発できない、日本人しか創れない様な質の高いイノベイティブなモノやサービスを志向すべきなのである。

   その為には、中国など後から追いかけてくる国々でのマーケット・セグメンテーションを十分分析してターゲットを絞って対応すべきで、巨大な市場と言う観点ではなく、案外、二重市場の富裕層を狙った世界一のモノやサービスで勝負をする戦略戦術が有効ではないかと思っている。
   
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十二月大歌舞伎・夜の部・・・「重の井」「船弁慶」「松浦の太鼓」

2005年12月27日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   「恋女房染分手綱 重の井」は、福助と児太郎父子の舞台である。
   10年前に演じているとは言え、父芝翫や雀右衛門の世代から完全にグンと若い次の成駒屋の世代に移った、そんなことを感じさせてくれる福助の舞台であった。
   実子児太郎も、来年中学生でぎりぎりの自然薯の三吉役とのことだが、まだ幼さの残った型を忠実に辿った初々しい演技が、大人と子供の境を彷徨う役柄とマッチしていて見せてくれる。
   
   お姫様を道中双六で慰めた子供の馬方三吉が、今や乳母となっている重の井の実子と分かるが、縋りつくわが子を引き離して別れて行かざるを得ない悲しい母を福助は感動的に演じている。
   実子である児太郎が、母様じゃと縋り付いてくるのを必死になって抱きしめたい一心で突き放すのであるから、実際に親子でこんなことになればどうなるかとの思いが込上げてきて、それが芸に現れて来るのは当然であろう。

   武士の子でありながら、「昼は馬追い夜は沓打ち」、健気に生きる三吉を見捨てて、主家の為、義理と人情の相克に慟哭する全く理不尽な世界であるが、江戸中期の封建制度の世の中、観客が当然のこととして涙に咽ぶ舞台であった。
   昼の部の「弁慶上使」も、やっと巡り合えたわが子を殺さざるを得なかった弁慶の苦衷を描いており、「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋」でも、義理の為にわが子を身代わりに殺させて首検分をせざるを得ない松王丸を描き、そして、「芦屋道満大内鑑」の「葛の葉子別れ」でも、母親は子供を残して去る。
   ヨーロッパでは、長い間子供と言う概念がなく、小さな大人として扱われていたようであるが、日本では、子供は親の所有物であり、人格などさらさらなく、歌舞伎の世界でも、こどもの人格など考慮の外で、親の義理人情、忠君愛国の世界が総てであった。

   しかし、この「重の井」の三吉は、少し違う。
   主家への義理に咽ぶ母親に向かって、「あまり遠慮が過ぎまする」と抗議するし、母が小遣いを渡しても「親でも子でもないならば病もうと死のうと要らぬお構い、胴慾な母様、よう覚えていさっしゃれ」と言って叩き返す。
   子供の主張と個性が強烈に示されていて、全く人格を無視されて死んでゆく、或いは、消えていく封建社会の子供を描いた舞台においては異色のヒューマニズムの発露(?)ではないであろうか。
   それだけに、これに応えて対応する親の演技に深みと工夫が要求される。

   次の「船弁慶」は、完全に玉三郎の世界である。
   普通、能「船弁慶」を素材にした舞踊劇で演じられるが、今回は、玉三郎が、これより古い二世杵屋勝三郎作曲、藤間勘吉郎振付で新しい「船弁慶」を創り、南座で初演したのを歌舞伎座の舞台にかけた。
   玉三郎は、前シテの静御前と後シテの平知盛の幽霊を、前半は赤を基調とした四種の花をあしらった唐織の衣装で能楽師のように殆ど動きのない荘重な舞を舞い、後半は、銀箔地に金の稲妻と龍の文様の衣装で白顔に隈取りしてなぎなたを持って勇壮に演じる。
   玉三郎の楊貴妃などの珍しい舞台も見ているが、今回も玉三郎の新しい舞踊の世界を見せて貰った様で感激であった。

   「松浦の太鼓」は、吉右衛門と勘三郎の得意とする舞台であるから、見ていて面白くない筈のない舞台だが、今回は、特に、勘三郎のバカ殿ぶりが板について楽しませてくれた。

   祖父芝翫が、勘太郎は女形が向くと言っていたが、私としては始めて見る娘役の勘太郎で、流石に、勘三郎と息が合っていて、大高源吾(橋之助)の妹でお縫役を上手くこなしている。
   昼の淀君役の七之助が、父親の勘三郎秀吉の奥方で、この勘太郎が父親勘三郎の松浦鎮信がちょっかいをかける腰元だが、芸の上とは言え、言うならば一寸複雑な関係で、面白い。
   下手な俳句で、取り巻きから「よいしょ」されると有頂天になり、敵を討たないと言っては、大石や源吾を嫌って、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、妹のお縫まで暇に出す単純バカの殿が、山鹿流の陣太鼓を数えて討ち入りを知って助太刀じゃと言って馬に乗ってハシャギ、源吾の報告で、天晴れじゃとその忠義心を褒める。
   とにかく、勘三郎が地で言ったような舞台で、こんな忠臣蔵の世界もあったのかと、楽しませてくれた。
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十二月大歌舞伎・・・成駒屋の「弁慶上使」・福助の素晴しい芸

2005年12月26日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   歌舞伎座の十二月は、勘三郎と成駒屋、そして、玉三郎の歌舞伎である。
   勘三郎と玉三郎の舞台には、観客の人気も高く期待も大きいが、今回は、福助と橋之助、児太郎の活躍が印象的であった。
   「弁慶上使」の橋之助と福助の兄弟、「恋女房染分手綱 重の井」の福助と児太郎父子、の舞台である。

   橋之助は、先月団十郎の代役で素晴しい武智光秀を演じたし、今回の弁慶、そして、「松浦の太鼓」での大高源吾で、益々、立役での風格を増してきている。
   NHKの大河ドラマの毛利元就の頃と比べれば、その成長は著しい。

   ところで、今回の「弁慶上使」での福助のしのぶの母おわさであるが、実に情感豊かなしっとりとした舞台であった。
   私が始めて「弁慶上使」を観たのは、もう10年以上も前で、この歌舞伎座であった。
   弁慶は故羽左衛門、おわさは芝翫で、福助はしのぶで出ていた。
   あの時は、自分の始めて契った相手が弁慶だと知った時の芝翫の初々しい恥じらいと嬉しそうな仕種が印象に残っているが、羽左衛門の弁慶も豪快で凄かった。
   このおわさは、近年殆ど故歌右衛門と芝翫が演じており、謂わば成駒屋のお家芸で、福助にとっては成駒屋の芸と伝統の継承と言う大変な舞台であった筈である。
   
   この「弁慶上使」は、弁慶が生涯に一度しか女性と契らず、一度しか泣かなかったと言う伝説を踏まえた身代わり狂言で、とにかく、奇想天外だが面白い。
   話は、
   義経が平家の平時忠の娘卿の君(芝のぶ)を正妻にしているので、頼朝が謀反を恐れてその首を差し出せと言う。
   その使いに弁慶が来るが、侍従太郎夫妻(弥十郎、竹三郎)と語らって、良く似たしのぶ(新吾)を身代わりに差し出すことに決める。
   母おわさは、しのぶの父親を探して対面させるまではダメだと反対して、実家である本陣宿に泊まった稚児と契りを交わしてしのぶを身ごもった経緯を語りながら、ちぎれた稚児の振袖の片方を見せる。
   主君の為に侍従はしのぶを殺そうとするが、何者か襖の後からしのぶを刀で刺す。武蔵坊弁慶であった。おわさは動転する。
   弁慶は、おわさと同じ振袖の片方を見せる。おわさは、恋焦がれたい思い人に会えた喜びを全身で示す。
   弁慶は、襖の陰でおわさの話を聞いてしのぶが自分の娘であること知ったが、生きて対面すれば未練が残ると思って刺したと言う。
   しのぶが意識のある間に、自分が父であることを明かせられなかった身の不運を悔い弁慶が号泣する。
   
   重要な役割を果たすのは、弁慶の残した「ちぎれた振袖の片袖」。おわさは着物に縫い付けてある片袖を示して一夜を交わした稚児に会いたい一心を掻き口説く、弁慶も大紋を脱いで片方を見せて、二人がしのぶの両親であることが分かる。
   しのぶが殆ど虫の息なのに、弁慶が契りを交わした相手だと分かると、側ににじり寄ろうとして近づき、嬉しさに表情を変えて、乙女のようにうっとりそわそわ恥らう福助のおわさ。
人生の中で、一番嬉しいことと一番悲しいことが同時に起こった時のおわさの心境はいかばかりか、その時の心の分裂・喜びと愁嘆場を福助は実に巧みに演じていたが、やはり、咄嗟に出るのは、一生涯思い続けていた瞼の夫のことであろうか。
   弁慶にとっても、おわさにとっても、人生たった一度の契りが翻弄した二人の人生を、福助と橋之助兄弟は、実に情感豊かに演じてくれて胸が痛かった。

   父親芝翫が、「芝翫芸模様」の中で、福助の襲名のところで、福助について興味深い話を語っている。
   父親と同じ様に、一時期俳優になりたくないと思っていた福助は、高校を中退してから芝居に専念するようになったのでスタートが遅くなった。
   他人より遅れているので追いつくためにはどうしたらよいかと聞かれたので、「芝居を沢山見なさい。お前のタイプなら女形なので、女形の舞台をノートを取らずにジックリ見なさい。」
同じ舞台でも、歌右衛門、梅幸、雀右衛門の舞台を全部見て覚えるように、そして、どんな役が来ても大丈夫な役者になるようにと教えたと言う。
   客席から、黒御簾から、舞台の袖から、同じ舞台でも色々な所から、福助は確実に実行した。

   このおわさもそうだが、夜の部の重の井も実に上手い。
   あの何とも言えない滲み出すようなしみじみとした温かい色気と言うか人間味のある豊かな品格は何処から来るのであろうか、父親とはタイプが違うが、実際には、当然父親である人間国宝芝翫の芸を一番継承しているのであろうと思う。
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クリスマス・ディナーの思い出・・・オランダ・ビューケンホフ

2005年12月25日 | 海外生活と旅
   留学と仕事で、都合14年間、海外生活を送ってきたのだが、あまり、クリスマスについての記憶はない。
   大概、その時期には、休暇を取って旅に出ていたので、その行き先で、クリスマスの雰囲気を感じたと言うことであろうか。
   アメリカ留学時は、一年目はヨーロッパの旅に出ていて、二年目に、アメリカ人宅に招待されて夕食を共にしたが、別に特別な雰囲気ではなかった。
   ブラジルの4年間は、とにかく、真夏であるから、イメージがぜんぜん違っていて戸惑った記憶はあるが、殆ど何も覚えていない。
   ヨーロッパでの8年間は、やはり、旅に出ていたが、ウイーンやザルツブルグ、コペンハーゲン、パリ等、そして、住んでいたアムステルダムやロンドンでの思い出だが、やはり、キリスト教徒ではないので、外国の祭日と言った程度で異邦人としての印象しかない。
   
   クリスマスのイルミネーションであるが、アメリカ(私の場合はフィラデルフィア)の家庭の飾りつけ、特に、夜の屋外のディスプレイが実に美しい。
   各家庭の庭先には競って飾り付けが輝いており、照らし出されたベスレヘムの厩をデザインした舞台設定の側で、クリスマスツリーが、チカチカしているもの等凝った物もあって、寒い夜道を歩くのも楽しかった。
   イギリスでは、あまり気付かなかったが、家族中心のクリスマスと言うことで、翌日もボクシングデイと言ってボックス、即ち、プレゼントを交換する日とかで祭日であった。
   友人は、貰ったクリスマスカードを、部屋に糸を張って万国旗のように飾って楽しんでいたが、これは、日本の年賀状よりは都合が良い。

   ヨーロッパの冬は、夜が長くて厳しいので、クリスマス時期の商店やデパート等の飾りつけは、特に素晴しくて、毎年、人々は、どのようなデイスプレィをするのか楽しみにしている。
   リージェント街のオモチャの百貨店ハムリーズの前には子供たちが集まっていて動かない。
   毎年、商店は大変な意気込みでディスプレィに力をかけて物語を創作する。
   特に、夜のイルミネーションに輝くショウウインドーは美しくて、何度かカメラを持って出かけたことがある。
   旅をしていて、ヨーロッパの街々での思い出が沢山あるが、どんなに寒くても、クリスマス・シーズンのショウウインドーを見るとホッとする。

   クリスマス・シーズンに旅行をしていてレストランで食事を取るのだが、予約制なので、中々、クリスマス・ディナーを経験したことがない。
   ところが、偶々、その時は、オランダに居て、予約が取れたので、はじめてクリスマス・ディナーに出かけた。
   ライデンの郊外のミシュランの星付きのレストラン「ビューケンホフ」であった。
   古い貴族の館を改造したレストランで、オランダ在住中は、お客さんを誘ったり、家族でも良く出かけた私のお気に入りの店であった。
   田園地帯の住宅街にある店で、庭木の多い綺麗な庭があって、窓からの眺めが良かった。
   いくらか小部屋もあって、個室でディナーを取っている感じにもなり、こじんまりした館のレストランは、中々、アットホームで雰囲気も良い。

   当然、タキシードで、家内も、それなりの服で出かけたが、客は、殆ど、オランダ人の様であった。
   もう、15年も以上前の話なので、何を食べたのか忘れてしまったが、フルコースで、ワインは注文する必要がなく、料理毎に、ウェイターが、違ったワインを注いでくれた。
   こんな食事を、別の機会に、ベルギーで、やはり、ミシュランの星レストランで取ったが、ヒュー・ジョンソンが言うように、本当は、皿ごとにワインを代えないと食事が美味しく頂けないのかも知れない。
   私の場合は、前菜と魚に合わせて、まず白ワイン、そして、メインの肉に合わせて赤ワインを通してきたが、最初は、不遜にも銘柄を指定していたが、途中から好みと予算を示してソムリエに聞くことにしている。

   途中で小休止、別室に行ってハープの演奏を聞いた。優雅である。
   また席に戻って、メインコースが始まり、店を後にしたのは深夜であった。

   イギリスに居た時、夏に家族でスコットランドを旅した。当然、あのネス湖も行ったが、特別に少し無理をして、古城や領主の館をホテルにした宿をハシゴした。
   勿論、ホテルは街の中などにはなく、半島の先にあったり、奥深い森の中にあったりで不便であったが、どうせ車なので、気にはならなかったし、朝晩の散策など素晴しい経験が出来た。
   この時の朝夕の食事であるが、当然、この古城ホテルで取る。
食前酒は、リラックスしてゆったりとしたリビングで頂き、用意が出来るとシャンデリア輝く食堂に案内される。
大きな館でも客室数は限られているので客は少なく、こじんまりした雰囲気が良い。
食事が終わると、また、別室に移って食後酒とコーヒーを頂く。
寝室は階上にあるので、ゆっくり夜長を楽しんで、部屋に戻る。
   ミシュランのレストランとは、また違った食事の楽しみ方である。
   

   
   
   
   
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ベトナム椿ハイドウンキング・・・蕾が優雅で

2005年12月24日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   私は色々な椿を栽培しているのだが、このベトナム産の椿ハイドウンキングだけは、鉢を室内に取り入れている。
   この椿は、ベトナム・グエン王家の庭園で大切に育てられてきた椿だと言うが、椿原種分布の南限である。
   最低でも5度の温度がなければ育たないようなので、時には室内でもダメかもしれないが、とにかく、優雅で美しい赤い蕾を一つだけつけているので、これを是非咲かせてやりたいと思っている。

   咲いた花の写真を見ると、厚手の受け咲きの花容なので、黒椿のナイトライダーやブラックオパールに一寸似ている感じである。
   今付いている蕾の先は、少し白い帯が付いている様で、玉之浦に似ている。
   葉が日本椿とは全く違っていて、びわの葉に近い。
   しかし、枝先の方の葉は、ピンクがかった明るい色をしていて観葉植物のように美しくて、室内において鑑賞するのには丁度良い。

   何時もなら咲いている椿が今年は殆ど咲かなくて、毎年、年賀状に庭に咲いた椿の花の写真を使っているのだが、今年は、上野の寒牡丹に変えた。
   春に咲く椿は、美しく咲くが、真冬に咲く椿は、寒さや寒風にやられて花弁が痛んでしまって可愛そうである。
   蕾が膨らみ始めると、室内に取り入れるようにしているのだが、庭植えの大きな木の花は、そのまま、寒さに震えている。

   安達曈子さんの本「椿しらべ」に、冬の椿について面白い話が書かれている。
   少女時代に、庭の手水鉢に散椿を浮かべる役目を師匠の父から仰せつかっていて、ある日、大切なお客と聞いたので、紅侘助椿を一枝浮かべようとしたが、上手く行かないので花が見えるように葉を切り落として浮かべた。
   「これは2月の椿ではない。」といたく叱られたと言う。
   冬の椿は花を寒さから守る為に、”霜よけ葉”が花を覆って守っているのである。
   それを邪魔だからと言って除くと、裸で木枯らしの中にいるような冷え冷えと不自然な姿になる、自然界の叡智を教えられたと言う。
   そう言われれば、確かに、真冬の椿の花は、葉に隠れている。
   良く雪をかぶった椿の凛とした花の写真を見ることがあるが、これは、春に咲いた花に雪が降った偶然の写真か、或いは、やらせかもしれないと変に気をまわしてしまう。

   真冬に咲く椿は、もう少し待てばよいのにと思うのだが、咲く時期を違えずに花を開いて霜や木枯らしに痛めつけられている。
   しかし、どんなに痛めつけられて花弁が無残に滲もうとも厳しい自然に抗して凛と咲いていて、その美しさにビックリすることがある。
   
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ドラッカー先生さようなら・・・英米紙追悼電・経営学の教祖の残したもの

2005年12月23日 | 政治・経済・社会
   ピーター・ドラッカーが、11月11日に亡くなった。
   その直後、夥しい数の弔意を表す記事がTVやラジオ、新聞等で報道されたので、主なものをインターネットから取り出していたのだが、やっと、読む機会が出来た。

   あのアラブのアルジャジーラさえ、経営の神様、近代経営の父、卓越した思想家、と言うタイトルでその死を悼む。
   1987年株式市場の暴落で、あれを、経済的な理由ではなく、審美的道徳的な理由で予測していたとか、ウオールストリートのブローカーは全く非生産的な連中、と言ったドラッカーのコメントを引用しているのが面白い。

   また、ロシアのプラウダは、ウォール・ストリート・ジャーナルの記事を引用して告別記事を書き、従業員が、企業の成功のキイだとするドラッカーのコメントもロシア風。

   ところで、欧米の新聞などは多くはAP電などで代用しているが、経済専門紙や大新聞などは独自の可なり詳細なドラッカー論を展開しており、改めて、ピーター・ドラッカーの偉大さを強調している。

   興味深かったのは、やはり、ロンドンのエコノミスト、ビジネスウイーク、FT,NYT等の記事である。
   ドラッカーが、偉大な経済学の発明者であり教祖であり、経営思想家である、と言った褒め言葉とその偉大な業績については、どの雑誌も新聞も大差はないが、陰の部分については、夫々ニュアンスが違っていて、興味深いのでまとめて論評してみたい。

   エコノミスト誌は、ドラッカーに対する巷の批判に対して論評している。
   第一の批判は、ドラッカーは、小企業に対しては、非効率で全く生産的ではないとして、大企業礼賛論を展開して、大組織ブームを招来した。
   特に、アントレプルヌール的なビジネスのスタートアップについては無視した。
   しかし、現実は、イノヴェイティブな企業家精神に燃えたアンテルプルヌールの事業スタート・ブームが、実業界を主導している。
   第二は、目標管理に熱心なあまり、ビジネスをデッドエンドに追い込んだ。現在では、優良企業の殆どはこの考え方を避けて、トップダウン方式ではなく、組織の下部からのアイデアなり提言を重視する方向に進んでいる。
   第三は、ドラッカーは、経営学界においてはマベリック・一匹狼で、それに、特定の専門分野がないと言う批判。

   エコノミストは、第一と第二については、ある程度認めているが、第三については、ドラッカーは、マネジメントを発見し、マネジメントをプロフェッションにした偉大な先達ではないかと批難はアンフェアだと反論している。

   第三の問題については、ファイナンシアル・タイムズが、別な視点から面白い論評をしている。
   トム・ピータースの意見を引用して、ドラッカーはアカデミック界で過小評価され過ぎていると言うのである。
   スタンフォードの大学院では、ドラッカーが引用されることは全くなく、4回の招請にも拘らず、ハーバード大学でも同じで、とにかく、アカデミック・サークルでは、ドラッカーは完全に無視されていると言うのである。
   尤も時代は移り変わり、今や、イエール大、今ハーバードののR.M.カンター等が、その業績の評価をし始めたと言う。

   とにかく、ドラッカーの偉業は、経済や経営学分野にとどまらない。本人が「ソーシャル・エコロジスト」と言っているように、その専門分野は人類の文明・文化総てに渡っており、早い話、日本美術のエキスパートでもある。
   ハーバードを蹴って、カリフォルニアのクレアモントに引きこもり、秘書も置かずに、自分でタイプを打ち原稿をファックスし電話も自分で取って話す、仙人のような偉大な学者であった。
   ビジネスウイークには、指南を受けにクレアモントに来た客に、
「一寸、リラックスしてプールに飛び込まないか。」「水着を持って来てません。」「今日は男だけだ、水着は要らないよ。」と言って、裸でプールで楽しんだ、と言った逸話などが語られていて面白い。

   ところで、何十年も前に、コンピューターが経営に革命を起こし、グローバライゼーションが世界を席巻することを、誰よりも早く予言して、ビジネス界をリードしてきた。
   世界の偉大な経営者と接触してアドバイスしてきたが、一番ドラッカーを尊敬して、そして、その恩恵を受けたのは日本のビジネス界かも知れない。

   ところで、最後に言及しておきたいことは、大企業と経営の神様であったはずのドラッカー先生が、もう、ずっと以前に、資本主義の将来とコーポレーションには幻滅を感じて見切りをつけていた事である。
   このあたりはビジネスウイークに詳しいが、CEO等による利益収奪にも等しい高額の役員報酬やウオールストリートの金に狂奔するブローカーの暗躍、秩序なき敵対的企業買収等々。
ドラッカーは、こんなことは道徳的にも社会的にも許されざる悪行で、必ず、その付けは巡って来ると警告する。
   最早、コーポレーションをコミュニティを創造する理想的なスペースと見なくなり、コーポレート・アメリカに対する最も厳しい酷評家になっていたのである。

   晩年、ドラッカーはビジネスを越えたマネジメントに没頭し始めた。
   マネジメントはコーポレーションだけのものではなく、あらゆる現代の組織に適用できる基本的な概念思想であることを示して、ガール・スカウトは勿論のこと、政府、教会、公共団体、NPO,ボランティ団体等にマネジメントやビジネス・テクニークを伝授していた。
   一世紀にも近い偉大な人生を、戦争と平和のハザマで伝道者のように駆け抜けて逝ったドラッカー先生の冥福を心からお祈りしたい。
   ドラッカー先生さようなら。   
   
   
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国立劇場・十二月歌舞伎・・・「天衣紛上野初花」・アウトローの世界

2005年12月22日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   国立劇場では、毎月、歌舞伎の通し狂言を公演していて、歌舞伎座のようにアラカルト版とは違うので、筋が通っていて話が分かりやすくて楽しめる。
   今月は、河竹黙阿弥の「天衣紛上野初花」である。
   河内山宗俊と片岡直次郎(直侍)と言う江戸時代の名うてのアウトローを主人公にしているのだから面白い。

   質屋の大店・上州屋の後取り娘腰元波路(宗之助)が、奉公先のお殿様松江出雲守(彦三郎)に妾になれと強制されて困り、値打ちのない木刀を質入れて大金を強請りに来たお数寄屋坊主の河内山宗俊(幸四郎)に、その救出を頼む所から話が始まる。
   上野寛永寺の御使僧に化けた宗俊が、松江邸に乗り込んで、松江侯をはじめ重臣達を脅し上げて娘を取り戻し、賄賂まで貰って帰ろうとするが、顔を見知った重役大膳(幸右衛門)に宗俊だと見破られる。
   しかし、御家の面目を保つ為に、家老高木小左衛門(段四郎)のとりなしで事なきを得て、騙されたと知って地団駄踏む松江侯を尻目に、「馬鹿め」と痛快に罵って館を立つ。

   後半は、直侍(染五郎)と花魁三千歳(時蔵)の恋と別れ。
   情人直次郎の為に大金を借りて困っている三千歳に、横恋慕の金子市之丞(左團次)が金を貸して身請けを迫るが、宗俊が、上州屋で貰った手付金を直侍に貸して助ける。
   しかし、悪事を重ねてお尋ね者の直侍は、三千歳に会いに行けない。蕎麦屋で三千歳の病気を聞き、按摩丈賀(芦燕)に手紙を託し会いに行く。
   別れを惜しんでいると市之丞が身請けしたと証文を持ってくるが捨て台詞を残して証文を叩きつけて出てゆく。腹違いの三千歳の兄だと分かる。
   捕り手が雪崩れ込むが、宗俊の助けで直侍は、落ち延びて行く。

   私は、幸四郎・宗俊が、松江邸に乗り込んで、出雲守や重臣を脅し上げているのを聞いていて、少し前の株主総会の模様を思い出していた。
   法令の整備や取締りの強化などによって、総会屋も少なくなってその活動も下火になってきたが、一頃は、株主総会対策と言えば即ち総会屋対策でもあった。
   会社自身が公明正大で、全く問題がなければ良いのだが、どこか脛に傷を持つ身であれば、総会屋が怖いので、会社は必死になって防戦する。
   無償の利益供与を行って商法違反となるのが分かっていてもであった。

   今回のお殿様が、腰元に手を懸ける等は罪にもならないが天下の名藩松江18万石に傷が付く、何でも思い通りに出来ると思っている出雲守の一寸した出来心がとんだ事件になってしまった。
   じわりじわりと慇懃無礼に胆振ながら締め上げる幸四郎の宗俊、それに、威厳と強がりを見せながらもぐらりと揺れるお殿様を演じる彦三郎は、実に、どうに入った素晴しい舞台を勤めている。
   もみ消して当座の難を逃れようとする家老・段四郎が忠臣のように見えて、偽を暴露する重役・幸右衛門が悪者のように見えるところが歌舞伎の面白さだが、真面目一直な近習宮崎数馬の高麗蔵など、家来を演じる役者たちも上手い。

   後半の染五郎の直侍を見ていて、いなせで格好よく、それに、一寸斜交いに人生を見たニヒルな風貌など、片岡仁左衛門を見ているような錯覚を覚えた。
   同じ親子でも、幸四郎は近松の和事の世界は不向きだが、染五郎は素晴しい近松のガシンタレの大阪男を演じることが出来る。
   坂田藤十郎が、関西歌舞伎の復興に意気込んでいるが、染五郎の近松への傾斜を期待したい。

   ところで、大詰めの「入谷蕎麦屋の場」は、独立で上演されることが多くて、何回か見ているが、 あのしみじみとした詩情豊かな雪の夜の情景が堪らない。
   按摩を演じる芦燕が、美味そうに蕎麦をすすりながら世間話をする風情など実に上手くて、蕎麦屋の孝太郎と女房の扇緑とともに江戸の庶民の心情を見せて貰った様で感激であった。
   時蔵と左團次の素晴しさは当然。
   とにかく、4時間と10分の舞台に堪能して、三宅坂を後にした。
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駅中ビジネス活性化・・・ビジネス革命に気付いたJRの逆襲

2005年12月21日 | 経営・ビジネス
   東京駅の再開発計画が進んでいる。
   東京駅の丸の内のレンガ造りの駅舎を、戦争で吹き飛ばされた3階部分を復元して創建当時の姿に戻し、駅前広場を整備し、駅前広場から皇居に至る御幸通りまでを統一された景観地区にする。
   更に八重洲側広場の南北に40階建て規模、200メートル級の高層ビルを2棟建てる。
   伊藤元重教授とのインタービューで、JR東日本の大塚陸毅社長はこう言っている。

   アムステルダムの中央駅に似た駅として有名だが、当初の駅ならまだしも、今の駅舎では、外観の美しさは月とスッポンほどの差があり、日本の鉄道駅舎は、世界的にも美的水準はあまり高い方だとは思えない。
   勿論、ヨーロッパの駅舎も色々で、宮殿のような芸術的価値の高い駅もあれば、鉄骨支柱剥き出しの工場のような駅もある。
   ワシントンの駅舎など国家行事にも使われており、壮大な駅舎がショッピングやレストラン等を併設した公共の場として賑わっており、また、パリのオルセー美術館は元の美しい駅舎を改造したものである。
   欧米の大都市の駅は、日本のように通過駅ではなく、大体、ターミナル・ステーションとなっていて、列車が入って来て出る時はバックする終着駅システムなので、駅舎もデザインなり計画し良いのかもしれないが、駅を見るとその国の個性が見えて面白い。

   さて、本コラムの目的は、最近様変わりしたJRの大型駅でのショッピングやレストラン等の「駅中ビジネス」についてである。
   私が最初に変化に気付いたのは上野駅で、地方のみやげ物などを並べて売っていたワゴン車のような売場が、大きな書店やレストランに変わって一寸した買い物や会食は乗り継ぎの合間に済ませられるようになった。
   寅さん映画に出てくるうらぶれた感じの暗い雰囲気の駅舎の改札の外の建物内部も改装されて、華やかな店が入りレストランが並んで、一寸した地下街風の一大アムーズメント・ゾーンに変わってしまったのである。

   一時、イラン人が群がっていた上野公園周辺は、まだ、多くのブルーのテントが残っているが、上野駅上から公園前にかけて整備され、それに、美術館や芸大等学術文化施設が改築・改装されて、文化の中心上野の面目を取り戻しつつあり、これと呼応した上野駅中ビジネスの活性化は、実に望ましい。
   広い東京駅も、入り組んでいて道に迷うが、駅中には夥しい数の店や飲食店が軒を並べており、大概の物はここで調達可能であるし、それに、時間つぶしには事欠かない。

   JRが、民営化されて生き抜くためにはどうしたら良いかの考えて、はじめて、「最高の場所に膨大な顧客を抱え込んでいる」「大変な経営資源・膨大な顧客をビジネスモデルが間違っていた為にみすみすドブに捨てていた」事に気付いたのである。
   私鉄の駅には昔から百貨店が併設されていたが、これも消極的で、郊外の宅地開発など不動産事業には熱心であったが、なぜ、人が駅に集まってくるのか、駅に何があってどのようなサービスを提供すれば、顧客が喜びビジネスになるのかと言う発想はなかった。
   イギリスの囲い込み運動ではないが、一度抱え込んだ客に、あらゆる可能性を検討してモノとサービスを提供してビジネス・チャンスを創設することである。
   名古屋駅や京都駅に巨大な駅ビルのコンプレックスが出来て、商圏が変わり、老舗のショッピング・ゾーンに異変が起こり駅ビジネスが活性化していると言う。
   特別なショッピングセンターやアムーズメントセンター、或いは、特別な付加価値とブランドネームのあるスポットなら別だが、人が集積する駅に勝る場所はあり得ないのである。

   大宮駅の線路の上に人工地盤を創ってその上にスペースを確保して商業ゾーンを創ったと言う。
   一番価値のある、駅に至近距離の空間を遊ばせておくなんて愚の骨頂であり、有効活用は必須であり、それを可能とする技術は日本には十分ある。
   あのロンドンのシティ政府は、路上を貸して人工地盤を作らせて都市開発を推進しており、平坦な筈のシティを車で走るとない筈のトンネルが結構多い。開発と同時に、地代をも儲けているのである。

   駅中ビジネスは、駅舎を有効活用してビジネス・チャンスとしている例であるが、自動改札システムの延長であった筈のSuicaが、ショッピングカード、決済カード等として色々な新しい展開を始めている。
   駅を利用する膨大なお客がJRの抱え込んでいる顧客であり、Suicaであろうと何であろうと、この顧客を縦横に活用しない手はない。
   表現は悪いが、ほって置いても集まって来て必ず改札を通ってゆく鴨葱を一網打尽、考え方によっては、これほどマーケティングやセイルスプロモーションの努力をしないで済むビジネスは他にはない。
   発想を変えればいくらでもビジネス・チャンスは転がっているはずである。
   日本政府は、ダメ国鉄を民営化して、大変な資産、駅と言う膨大な人の集積する途轍もない資産を顧客付きでJR各社に与えた。それが、資産であることに気付いているかどうかがJRの将来を決する。

   郵政民営化も、正にこれ。独占的な事業の総てが、郵政公社に譲渡された。これを、重要な資産として認識して、上手く活用してビジネス・チャンスを摑めるかどうかに懸かっている。
   
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十二月大歌舞伎・・・情感たっぷりの「盲目物語」

2005年12月20日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   昼の部の演目は、福助と橋之助の「弁慶上使」、勘太郎と七之助の「猩々」「三社祭」、勘三郎と玉三郎の「盲目物語」だが、やはり、感動的な舞台は、最後の盲目物語であった。

   乞食になって彷徨う座頭弥市が、琵琶湖の波打ち際に座って、昔仕えたお市の方を忍びつつ三味線を爪弾きながら「おもうとも その色ひとに しらすなよ 思わぬふりで わするなよ・・・」と歌い出す。
   目の見えない弥市の心の中にある深層風景の中に居るはずのお市が、ベールの陰から浮かび上がって琴を弾きながら唱和する。
   真っ暗な舞台に当った二つのスポットライトに照らし出された二人の奏する哀調を帯びた素晴しい音楽がフェーズアウトしながら幕が引かれる。

   この盲目物語の舞台は、架空の人物座頭の治療師弥市に語らせた同名の谷崎潤一郎の小説を基にしているが、逆に弥市を主人公にして、お市に対する弥市の限りないプラトニックラブに焦点を当てている。

   夫長政と男子が兄信長に殺され、信長に引き取れれるが、本能寺の変で信長の死後、柴田勝家に嫁ぐ。しかし、勝家も秀吉に滅ぼされて運命を共にし悲劇的な最後を遂げるお市に、小谷から清洲を経て最後まで仕えた弥市が、当時の信長や秀吉などの物語を交えながら、お市の生身の生き様を語っている。

   谷崎の原作と歌舞伎では、ニュアンスが大分違っていて面白いのだが、弥市の場合は、目が見えないので、お市や側近の話とお市の療治を通じて触れる手の感触だけが情報源のすべてだが、
お市への生身の愛を実感させる描写は、小説も歌舞伎も、弥市がお茶々を背負って城から逃げる時、お茶々の臀部に触れてその艶かしさが若い時のお市の方とそっくりの感触だと感じて、死んだ筈のお市が生き返ったような気がしてお茶々と共に「生きたい」と思うところである。
   それを嘴った為に歌舞伎ではお茶々に逃げられてしまうが、谷崎では、秀吉の許しを得てお茶々の側に仕える。
   あんなにお市に執心していた秀吉がお茶々を見て、お市が死んでも嬉々としているのは当然だと弥市が感じたと谷崎は書いているが、弥市は、お市の生き返りを感触で感じたのである。弥市は、療治を通じて手の感触の総てを通してお市を感じながらお市を愛し続けた。
   中国の宦官と同じで、男子禁制の奥へ唯一招じ入れられた弥市は、盲目ゆえに禁断の恋をし、幸せだったと言う。

   このお市への、止むに止まれぬ秘めた恋心を主題にしながら、当然だが、お市が全くこれには無関心。お市は、同じくモーションをかける秀吉を嫌い抜き、勝家に恋心を吐露するあたり、谷崎とは違った歌舞伎の黒白をつけた舞台展開が面白い。
   
   玉三郎のお市は、気品があって実に清清しい演技で、信長の妹としての威厳と毅然たる振る舞いと女としての優しさの綯交ぜが実に巧みで、素晴しい。
   夜の部の「船弁慶」の静御前も格別だが、奏する琴の調べも胸を打つ。
   イギリスのシェイクスピア役者は、歌って踊って演技して、とにかく、パーフォーマンス・アートは何でもこなすが、この点、日本では、歌舞伎役者と宝塚スターは同じだと思っているが、しかし、玉三郎の場合は、それぞれに秀でていて群を抜いている。

   勘三郎も、秀吉と弥市を演じたが、勘三郎になってから、大きくなったのであろう。
   秀吉は、何時もの勘三郎の地で行けるが、弥市の心象風景を膨らませながらの抑えた演技が上手いと思って見ていた。
   
   橋之助の勝家、薪車の長政、七之助のお茶々、夫々風格と艶があって良かった。
   玉三郎の起用とかで、笑三郎が侍女真弓で琴を弾いていたが、もっと聞きたかったし、もっと重要な役どころで観たかったと思っている。

   舞台設定だが、本来のしっかりした歌舞伎の舞台セットよりも、前述した視覚的な照明を上手く活用した舞台の方が効果的な場合もあるので、7月のニナガワ十二夜の様に、もっとアドホックなセットをドンドン取り入れた演出も面白いのではないかと思っている。

   余談だが、谷崎の物語では、勝家の最後の晩餐で、秀吉の間者である芸人朝露軒が三味線でお市の方をどう救い出すか音に乗せて問うたので、お市を救い出したい一心で弥市が、豊臣方に加担する返事を三味線でモールス信号のように弾きかえすくだりを描いているのが面白い。
   それを知ったお茶々が、弥市を嫌って遠避けたので、弥市は傷心して城を出て放浪の旅に発った。

   私の谷崎は、谷崎源氏物語からで結構読んだが、「鍵」には強烈な印象を持っており、京マチ子と先代中村鴈治郎の生々しい映画を今でも思い出す。
   この「盲目物語」だが、耽溺的な谷崎の小説にしては、さらっとした歴史小説であるが、ひらかなが多くてワーグナーの楽劇のように何時終わるのか分からないような谷崎独特の文章が、雰囲気を出していて読ませてくれる。
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美しい英国の田園、そして英国庭園・・・徹底的な原始林破壊

2005年12月19日 | 地球温暖化・環境問題
   先にもシェイクスピアの森は優しくて美しいと言う感想を述べた。
   ヨーロッパの森の概念は、森は生活の場から乖離されたいわば海の様なもので、一度入り込むと下界に戻れない極めて危険な所である。

   ところが、シェイクスピアの森は、そんな暗い雰囲気は全くなく、異質だがどちらかと言うと別の世界で、時には夢のような雰囲気を持っている。

   私は、イギリスを歩いていて、イングランドには、全く原始林が残っておらず、徹底的に破壊されて、美しい田園地帯に変えられてしまって居るのに気が付いた。
   コンスタブルやターナーの描く牧歌的で、しみじみと田園生活の幸せを感じさせてくれるような、そんな優しくて美しい田園地帯が延々と続く。
   山がなくて起伏が緩やかなので、いっそう、野山の風景は美しさを増す。

   世界への雄飛と言えば聞こえが良いが、世界を制覇する為、軍船を建造する為に、木を切り倒して、原始林を破壊し、或いは、自然を囲い込んで森や林を破壊して羊や家畜の牧場にしてしまった。
   産業革命を先導して経済社会を発展させ、世界の国々にイギリスの文化文明を伝播させたが、貴重な原始からの人類の遺産である自然を破壊してしまって、その後を糊塗する為に、自分好みの訓化された見かけは美しいがエコロジーを無視した自然に変えてしまった。
   イギリスには、ストーヘッドやロングリート等素晴しく美しい英国庭園が随所にあるが、すべて、人工の庭園で、山がちのスコットランドやウエールズなどには山岳地帯はあるが、鬱蒼とした森は少ない。

   オランダやベルギーを車で走っても、初夏には緑滴り秋には黄金に染まる美しい森や林はあるが、殆ど原始の森は残っていないし、ハイジの世界のアルプスの麓にも野生の森はなくなっている。
   肉食を旨とするヨーロッパは、牧畜の為に、原始の森を破壊してしまったのである。
   CULTUREと言うのは、CULTIVATE、即ち、耕すと言うことであるが、文化とは、原始林を破壊して畑を耕すことなのであろうか。

   昔、アマゾンの上空を何度も飛行機で飛んだが、行けども行けどもジャングルの上であった。しかし、そのジャングルも、今や、少しずつ消えつつあると言う。
   一度破壊すると自然は元に戻る為には大変な年月を要する。
   今、自然を容赦なく破壊した文明国が、自然保護を叫んでいる。
   少子高齢化で騒いでいるが、人口増加が60億から100億、そんなに遠くない時期に、地球に人間が乗れなくなってしまうが、どうするのか。

   私は、一時、何故日本の自然、特に、森林地帯は欧米のように美しくないのかと思ったことがあるが、今は、大変誇りに思っている。
   ブナやタブの木の原始林が残っていて、まだ、豊かに自然が息づいているからである。
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歳末ジャンボ宝くじの季節・・・賭け好きのイギリスとアスコット競馬

2005年12月18日 | 生活随想・趣味
   有楽町の駅、牛丼の吉野家の前に、宝くじ売場があり、列が続いている。
   初日など発売前から長い列を作っている数寄屋橋の交差点の売場程ではないが、ここも、大当たりが出るとかで人気が高い模様で、老若男女、色々な人が並んで宝くじを買っている。

   籤運と言うのがあるのかないのか知らないが、福引でも殆ど当たった経験のない私には宝くじには興味がなく、何時も売場の列を見ながら側を素通りする。
   最近、行列など殆ど見なくなったが、その長い列の側で、献血の協力を呼びかけるスピーカーががなりたてている。
   チェルノビリの時にオランダに、そして狂牛騒ぎの時にイギリスに居て、献血の資格がないので、両方とも私には縁がない。

   ところで宝くじ、縁起を担ぐのか、初日や大安吉日、それに、良く当り券が出る店は客が多いとか。私は、確率の問題だと思っているが。
   この有楽町の売場は、とにかく、赤色を無闇に使った店のディスプレイで、香港か台湾の場末の屋台のような雰囲気で、横に大黒天の祭壇まで併設されている。
   懐かしさを覚えたのか、中国人の老夫婦が近づいて来て、賽銭のつもりか赤い大きなお札を取り出して大黒天の前に立った。

   日本人も賭け好きだが、やはり、世界一の賭け好きはイギリス人であろうと思う。
   街のあっちこっちにある賭け専門のボックスは流行っており、鉛筆でマス目を埋めている人が多い。
   スポーツの殆どはイギリス発だと言う。文武両道と聞こえの良いことを言うが、やはり、賭け好きのなせる業だと思っている。

   私が、賭けをしたのは、ほんの数回。子供の頃の村祭りでの夜店でのパチンコ、ラスベガス等でのルーレットとスロットマシン、それに、アスコット競馬での馬券、そんなところであろうか。
   負ければ面白くないし、勝てば相手が気の毒になるし、とにかく、勝負には向かない。それに、一攫千金などと言うことは、起こりえても自分には関係のない話だと思っているが、ラスベガスのスロットマシンの時には、幸い、あのチップと同じ大きさの古いアメリカの銀貨やアイゼンハワーの1ドル硬貨が沢山出て来た。
   その硬貨も宿替を繰り返している間になくなってしまった。

   イギリスに居る時、アスコット競馬には、イギリスの友人に招待されて何度か出かけた。
   あのオードリー・ヘップバーンが出ていた「マイ・フェア・レイディ」のアスコットである。
   当日は、グレイのモーニングに山高帽の正装で、家内も帽子着用の正装。
   ベンツとは言え、当日は、自分で運転して行く訳には行かないのでリムジンを手配して早くからロンドンを発って行く。
   とにかく、ロンドンからアスコットの道は渋滞で、広い駐車場へのアクセスがまた大変、ヘリコプターをチャーターして乗りつける客もいる。
   昔なら優雅に馬車に乗って、と言うところであろうが、馬車で入場するのは、エリザベス女王陛下と王室の人々だけ。
   右側の特別のゲートが開くと、映画の一場面とそっくり同じ馬車に乗って両殿下とチャールズ皇太子ダイアナ妃等皇室の方々が正面のコースを通って入場されてメインスタジアムの特別席に着かれる。

   競馬場には、6階建てだか何階建てだか忘れてしまったが横長の中層の大きなスタジアムの建物が立っていて、夫々、長い廊下に沿って個室が並んでいてレース場に面した窓側に個別に張り出した観覧席がある。
   一階の中央が貴賓席である。
   各階の廊下の中央がホールになっていて、その階の馬券売場がある。
   私は何時も、この個室の方に招待されて居たので良く分からないが、一般客は、建物の正面の広い立ち見席で見ているようであった。
   この立ち見客もすべて正装、そうでないと入場できないし、カメラも取り上げられてしまう。
   ここにも、馬券売場があるが、広場には、キャンデー売りのようなボックスを持ったダフ屋風の馬券売り(勿論ダフ屋ではない)があっちこっちに居る。

   ところで、レースは障害も含めて6レースだったと思うが、とにかく、レースとレースの間が長いので、個室に入って四六時中飲み食いと談笑、良い気持ちになって、レースが始まるぞと言うと、外の観覧席に出て馬を見る。
   日本の競馬場と違って、長距離レースになると、スタート地点が遥か彼方に移動して、馬が近づくまで時間がかかる。
   レースについて書かれた小冊子を貰って読む。ここには、この馬は親がどんな馬でレース歴はと言ったことがコト細かく書かれており、また複雑な賭け方など伝授してくれているが、私は、馬には全く拘らずに単勝で3番の一点張り。
   これで、大体何時も、勝ち負けトントンで少し負け程度であった。

   女王陛下の馬がどうだとか、勝ち負けがどうだとか、と言うよりは、マスコミは、観客の婦人方の帽子のファッションを写真入で大々的に報道する。
   たまに、興奮してこぶしを握り締めて叫んでいる女王陛下の写真が掲載されることがある。

   何でも楽しむ為にショー化してパーティに変えてしまい、それに、賭けの楽しみがあれば、なお結構と言うことであろうか。
   イギリスに居て、パーティ等の機会が多いのにビックリした。
   タキシードは、必須である。
   それに、音楽会や観劇、スポーツ観戦などは恰好の社交の場で、私がオペラを好きなのを知っているので、英人の友は、グラインドボーンやロイヤル・オペラに誘ってくれた。
   しかし、何故かシェイクスピアに行こうと言ってくれた英人はいないし、シェイクスピアについて話をしたことも殆どない。
   やはり、イギリスでもシェイクスピアは、日本の歌舞伎や文楽なみで、一寸特別なのであろうと思った。

   何れにしろ、イギリス人の人生を楽しむ為の生きる知恵には限りがない。
   あの何時間も何日も続くクリケットもその一つ、とにかく、延々と続いているクリケットなどたまにチラリと見る程度で、後は飲んで食べて駄弁っている、これについてはまた稿を改めて書いてみたい。
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文楽・一谷嫩軍記・・・熊谷直実の忠義と無常

2005年12月17日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   仁左衛門の素晴しい熊谷直実の舞台の後だが、国立劇場の舞台にかかっている文楽・「一谷嫩軍記」を観た。
   薩摩守忠度の部分を省略した「一枝を伐れば一指を剪るべし」の部分、即ち、熊谷直実の忠義と無常に焦点を当てた通し狂言である。

   12月は、吉田玉男師等人間国宝の御大方は大阪から来ないので、夫々の一番弟子達が舞台を務めるのだが、これが、また迫力があって素晴しいのである。
   熊谷直実を吉田玉女、女房相模を吉田和生、敦盛の母・藤の局を桐竹勘十郎、義経を桐竹紋豊、弥陀六を吉田玉也、等々が演じており、玉女、和生、勘十郎が、玉男、文雀、簑助の人形を彷彿とさせてくれる。

   平家物語の一の谷の合戦で、平敦盛が熊谷直実に討たれる部分を題材に換骨奪胎して、敦盛を助ける為に自分の子供小次郎を身代わりに殺さざるを得なかったと言う設定にして、熊谷直実直実の苦衷を前面に出した舞台になっている。
   敦盛が後白河院のご落胤と言うことになっており、平家滅亡によって、安徳天皇にもしものことがあれば皇統が絶えるので、義経の意向で、熊谷直実をして、敦盛を救出させると言う筋書きである。

   陣屋の桜の木の前に立っている弁慶が書いた「一枝を伐れば一指を剪るべし」と言う制札が、義経の意向を熊谷に指示した明確な謎掛けであり、敦盛を助ける為には自分の子供小次郎を身代わりにせざるを得ないと語っている。
   この制札が、義経の面前での首実験で重要な役割を果たす。

   歌舞伎では、この熊谷陣屋でもそうだが、渡辺保氏の説明によると、二つの型、即ち、芝翫型と団十郎型があり、現在は、団十郎型主体で、芝翫型は、文楽に近いと言う。
   それを意識しながら、前回の仁左衛門の熊谷と今回と文楽との型の違いに興味を持ちながら観ていた。

   例えば、敦盛の首実験の場であるが、やはり、大分迫力と雰囲気に差があった。
   直実が、義経に示す為に首桶の蓋を開けようとすると、横で見ていた妻相模が自分の子・小次郎であることを知って動転して駆け寄る。
   直実は、鷲掴みにして右足の下に相模を組み伏せ、駆け寄る藤の局には右手に握った制札で制して面前を塞ぐ。
   正面を見据えて、左手でしっかり構えた首桶に据えた小次郎の首を義経に示す。
   蹴飛ばされた相模は、庭先に転げ落ちる。

   あの「16年もひと昔。ア夢であったなあ」と言う直実の肺腑を抉るような言葉だが、仁左衛門は、そう言って皆を残してひとり花道から去って行ったが、人形は、みんなの中に居て舞台の真ん中で述懐する。
そして、
   「ご縁があらば」と女子同士
   「命があらば」と男同士
   直実と相模は上手へ、藤の局と弥陀六は下手へと、「さらば」「さらば」『おさらば』の声も涙にかき曇り、別れてこそは出でて往く

   能、文楽に続いて、歌舞伎も世界遺産に登録された。
   日本の伝統芸術は、お互いに垣根越しに影響されながら育ってきた。
   歌舞伎と文楽も、お互いを意識しながら同じ狂言を演じてきている。
   今回、歌舞伎座で、玉三郎が素晴しい「船弁慶」で能の舞の様に幽玄な静を演じた。
   
(追記)これも伝統芸術、この夜、落語の林家正蔵師匠が観劇。
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厳寒の中のホットなRSC「夏の夜の夢」・・・シェイクスピア喜劇の饗宴

2005年12月16日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   現在、東京芸術劇場中ホールで、来日中のロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(RSC)が、「夏の夜の夢」の素晴しい公演を行っている。
   随分多くのRSCの舞台を見ているが、これほど素晴しい視覚的に豊かな舞台を見るのは久しぶりである。

   演出は、RSCの副芸術監督のグレゴリー・ドーランで、前回は、サー・アントニー・シャー(恋に落ちたシェイクスピアで、恋人にこの腕輪を与えれば戯曲の着想が湧くとシェイクスピアに言ったイカサマ占い師)を起用した「オテロ」で、日本でも御馴染みである。
   舞台は、床を鏡様の反射板を使用して登場人物の影絵をバックに投影したり、背景や中空に浮いた月をスクリーン様に使って映像を変化させて舞台設定を変えたり、星のきらめく夜景や森の幻想的な風景が美しい。
   夢のある喜劇に仕上げている。

   この「夏の夜の夢」の筋書きは次のとおり。

   恋人との結婚を許されず、死か尼寺かと追い詰められた娘が恋人と森へ駆け落ち。それを許婚が追いかけて森へ、その彼に恋する乙女がまたこれを追って森に行き、4人の若者が森に入る。
   森を支配する妖精の王オベロンと女王ティターニアとが、インド人の子どもをめぐって仲違い。王は、要請のパックに命令して、起きた時に最初に見たものを恋すると言う惚れ薬を取りに行かせて、王女と仲違いの恋人達に振りかけるよう指示する。 
   パックは、公爵の結婚祝いの祝典劇の練習の為に来た職人ボトムの頭をロバの頭に変えたが、ティターニアはこの怪物を見て恋に落ちる。
   一方、若者の方は、間違って媚薬を振り掛けたので、恋愛関係が逆転して、相手にされなかった乙女が二人の男に追いかけられてドタバタ喜劇。
   王が、媚薬解凍用の薬を振り掛けて各々正常な恋愛関係に戻ってめでたしめでたし。
   公爵と2組の結婚式の祝宴に、職人達がドタバタ悲劇を演じて祝福して幕。

   森に入って妖精たちに翻弄されて夢の中を彷徨い、目覚めて正気に戻って吾に返る。しかし、夢かウツツか幻か、とにかく、仮想か現実か、分からないことがこの世の中には多すぎる。
   ドイツの森は、あの「黒い森」のように一歩踏み込むと外に出られないグリム童話の世界のように恐ろしい所だが、イングランドの森はどうなのか、外国には行ったことのないシェイクスピアのイメージする森を知りたくて、故郷ストラトフォード・アポン・エイボン近くの森を少し歩いたことがある。
   イギリスの田園地帯は何処もなだらかで美しくウオーリックシャーの森も牧歌的で美しかった。

   一歩森に入ると、結界を越えて非現実の世界に入り込む、実際の現実世界と隔離された森が非日常の夢を叶えてくれるかもしれない、シェイクスピアにとっては、変身して別の世界を現出させてくれる恰好の舞台なのだと思った。
   「人生は劇場」と言わせた「お気に召すまま」の森も、「ウインザーの陽気な女房たち」でファルスタッフを降参させた森も、シェイクスピア劇では重要な舞台で、夫々美しい演出の森の風景を見られる機会が多い。

   蜷川は、この森を竜安寺の石庭に変えて「夏の夜の夢」を演出し、ティターニアに白石加代子を起用して素晴しい舞台を作った。
   俄か仕立てのようなベニサン・ピットで見たが、その後、エイドリアン・ノーブル演出のRSCの「夏の夜の夢」をこれも東京で鑑賞したが、起死回生で打った蜷川版の方が本場で人気が高かったと言う。

   今回の舞台は、文楽を見て感激したドーランが、インド人の子どもの代わりに実物大の裸の男の子の人形を使った。
   主遣いは、後頭部に差し込んだ棒を操作し、手遣い、足遣い等複数の人形遣いが器用に人形を操って実にリアルであった。文楽人形ともパペットとも違う、不思議な人形である。
 
   ボトムは、座頭俳優が演じるのだが、マルコム・ストーリーは緩急自在で、喜劇ながらしみじみした演技で実に上手い。頭には、大きなロバの縫ぐるみを被っていた。
   ティターニア役のアマンダ・ハリスは、前回、「オテロ」の時のエミリア役で御馴染み、妖艶な怪しげな役も上手い。
   妖精のパックだが、蜷川は京劇の俳優を起用して飛び跳ねるなど動きの早い妖精を使ったが、今回の妖精ジョナサン・スリンガーは、どこかのどら息子風の道化に近い妖精で、一寸人間味のあるイギリス本来の小悪魔ロビン・グッドフェローを演出したのであろう。
   大男のジョー・ディクソンだが、重厚なオベロンを演じて存在感十分。
   若い4人の恋人達は、女性陣が妖精役の若い俳優と代わって居たので少し経験不足ながら、まずまずの舞台。

   ところで、数年前に、20世紀フォックスが、素晴しい映画「夏の夜の夢」を作った。ティターニアを演じたミッシェル・ファイファーの妖艶な魅力に圧倒されて見ていた。
   ソフィー・マルソーが、ヒポリタ役で、一寸端役。森の中の泥沼での二人の乙女の喧嘩は凄まじい。

   メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」の素晴しい音楽が聞こえてくるような楽しいRSCの舞台であった。

(追記)開演前、フラッシュが激しかったが、皇太子殿下がご観覧。
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