「饗宴」を読み始めて久しぶりにプラトンに出会った感じだが、肝心のプラトンをよく知らないので、イロハを勉強しようと思って、一寸古い本だが、藤沢令夫京大教授のこの本を手に取った。
さて、冒頭から面白い。
プラトンは、はじめから哲学を自分の仕事として考えたわけではなく、そう定めたのはようやく40歳に差し掛かった頃であった。政治的伝統の濃厚なアテナイでは、成年に達すれば「国家公共の仕事」に携わる政治家になろうというのが大多数の若者たちの共通した気風であって、有力な家柄に生まれ素質にも恵まれていたプラトンにとっては特にそうであった。と言うのである。
ソクラテスとの出会いは、興味深い逸話もあるが、兄や近親が古くから親しい間柄にあり、ソクラテスの言行は、幼少の頃からの長い間に、目立たないが確実に若い魂の内に影響を蓄積したと言う。
しかし、この潜在的な影響の蓄積が顕在化したのは、30人政権がソクラテスをサラミス島のレオンへ強制連行しようとしたことに憤慨し、その後、28歳のプラトンにとっては驚天動地のソクラテスの刑死であった。
プラトンは、ありし日のソクラテスを生き生きと伝える一連の対話篇「ソクラテスの弁明」「クリトン」「ラケス」「カルミデス」等々を執筆した。ただしこれは、プラトンが、一挙に政治への志を捨てて、哲学に向かったのではなく、最後まで政治への志を捨てることはなかった。
かくして、プラトンは、このように根強い政治の実践への志向と、今やその影響が顕在化してきたソクラテスの教える哲学の生き方との相容れないような二つの方向のはざまで、これからの生涯をいかに生き、何をなすべきかを見定めるための長い遍歴を12年間も続けた。のである。
どのようにして、プラトンは回答を得たのか。
ソクラテスは、不正なこと不敬虔な事を何一つ行わず、言葉ではなく行動によって、「よく、正しく、美しく」という価値規範を芯とする人間の幸福を追求する営みに徹していた。
しかるに他方、「政治(国事)の実践」が本来目指さなければならないのは、まさにそのような生き方と行動の価値規範と、それに基づく真の幸福を、国民の間に実現させることである。
「社会の片隅での発言」にとどまっているソクラテス的な「哲学」を、望ましからぬ状態にある政治の実践のあり方に影響を与え、その内実を規制し得るまでに強力な営為へと、成長させること、そのようにして、二つの相反する方向と思われているものを一本の大道に合流させた。
正しく真実に哲学している人々が国政の支配の座に就くか、あるいは、現に諸国において政権を握っている人々が、何らかの神の配慮によって、本当に哲学するようになるか、このどちらかが実現するまでは、人類が災いから免れることはないであろうと、
正しく哲学する者の政治、「哲人王」か「哲人統治(者)」と呼ばれる思想に至ったのである。
こうした考えを胸中にして、プラトンは、十二年間にわたる遍歴生活の締めくくりとして、イタリアとシケリアに赴いて、アテナイに帰還後、
何よりもまず、先の結論の必然性に応えるだけの〈哲学〉の内実を確立すること、そのためには、ひとつは、「アカデメイア」と言う学園を創設して、自分の理想と目的にかなった教育活動を行うことであり、もうひとつは、それと並行して、既に始められていた著作活動の継続を通じて、自分自身の哲学思想を形成し発展させて世に問うことであった。
このようにして、プラトンの「生の選び」は完結した。アカデメイアの教育活動も、著作〈対話篇〉の執筆活動も生涯の最後までたゆみなく続けられ、両者相まって、ここに〈哲学〉は、社会における人間の営為としても、学問的な内実そのものにおいても、はじめて確立されたのである。
ここまでが、この本の冒頭部分だが、こんな初歩さえ分からずにプラトンを読んでいたのが恥ずかしい限りであるが、これから、少しずつ、対話篇を読んで勉強しようと思っているので、どこまで、入り込めるか楽しみである。
さて、余談ながら、藤沢教授は、ラファエロの「アテネの学堂」のプラトンとアリストテレスの複製画に触発されて書斎にかけていたという。
私も、システィナ礼拝堂のミケランジェロの「最後の審判」とラファエロのこの壁画が、中学時代から目に焼き付いていて離れなくて、実際にこの巨大な壁画の前に立った時には、感激しきりで、長い間佇んでいた。
中央の赤い衣服がプラトン、その右隣がアリストテレス、また、二人の左側の群像の中で左側を向いている鶯色の衣服がソクラテス、
すべてラファエロの創作だが、実在のレオナルドダヴィンチをモデルとしたプラトン像が、現実美を見せて興味深い。