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熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

鎌倉はアジサイの季節

2025年06月07日 | わが庭の歳時記
   今、鎌倉はアジサイの季節で、路傍にも民家の庭先にも、カラフルなアジサイの花が咲き乱れている。
   以前には、明月院や長谷寺や、鎌倉の古社寺などのアジサイを訪ね行脚して、このブログでもアジサイ鑑賞記を書いていたが、歩行が苦しくなり始めてからは、近場のアジサイや自宅の庭に咲くアジサイで済ませている。
   しかし、流石に鎌倉で、それぞれの居場所で絵になっており、それで十分である。
   これから、梅雨に入ると、益々、アジサイが鮮やかな色彩に輝き始める。
   最近、日本原種のガクアジサイも、趣があって面白いと興味を感じ始めている。
   



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イタリアでの鉄道旅の思い出

2025年06月05日 | 海外生活と旅
   インターネットを叩いていたら、シエナのパリオの記事が出ていたので、急に、懐かしくなって、何度かのイタリア旅を思い出した。
   素晴らしい思い出も多いが、やはり、記憶から離れないのは、困ったことの方が多い。

   まず、パリオだが、世界一美しいと言われているシエナの市庁舎前のカンポ広場で年に2回行われる地区対抗競馬競争で、カラフルな衣装に身を固めた地区代表の騎手が裸馬に乗って狭い広場を馬場にして派手な競争を展開する。(口絵写真は、インターネットから借用)
   遅くシエナに着いたので会場に出かけたが既に立錐の余地なく、広場に入る出入り口は殆どブロックされていて建物や観客の隙間から会場がちらちら見える程度で、仕方なくホテルに帰ってTV観戦した。
   兎に角狭い馬場で90度近いカーブを裸馬で疾走するのだから危険極まりない。壁面にぶち当たってもんどりうって騎手が吹っ飛ぶ。

   遅くシエナに着いたのは、列車の乗り継ぎをミスったこと。
   アッシジからシエーナへ移動したのだが、乗り継ぎ駅で列車が異常に遅れて、次の列車を待っていては間に合わなくなるので、案内所で聞いて、ローカルバスで次の乗換駅に行くことにした。
   ヒマワリが咲き乱れ、のぞかな葡萄畑を眺めながら、緩やかに起伏するイタリアの田舎のバス旅も悪くはないのだが、とにかく、のんびりした田舎のおんぼろ路線バスのことであるから、何時着くかこの方が心配になって後悔したが後の祭りであった。
   駅に着くと、丁度列車が走り込んできたので、とにかく、乗ろうと行き先を確認せずに、発車寸前の列車を止めて乗り込んだ。
   しかし、この列車が反対方向の列車だった。仕方なく、次の駅で、対向する列車を待とうと下りたのだが、全く廃墟のような無人駅で、駅横には、放置された工場跡があるだけで、駅前には何もなければ誰もいない。
   地図も何もなく、何処にいるのかさえも分からない状態で、イタリアの廃墟の様な田舎駅には時刻表もある筈がなく、いつ来るのか分からない列車を待つ不安。
   2時間近くも待ったらやっと反対方向からローカル列車が来たので、ほっとして乗って、随分遅れてシエーナに着いた。
   この日は、たまたま、あの有名な競馬パリオの当日であったのである。
   今でも、残念だと思うのは、早朝にアッシジ駅に着いた時には、シエナ駅行きのバスが止まっていたので、これに乗り換えればよかったのだが、イタリアであること忘れてしまって、日本並みの乗り継ぎサービスを期待したのが間違いであった。

   もう一つの列車の嫌な思いでは、この前のアッシジへの旅。
   ローマだったかフィレンツェだったか、始発のローカル列車だったと思うのだが、大幅に遅れて、プラットフォームも変わってしまって、大慌てした思い出である。
   駅の放送がイタリア語なので殆ど理解できなくて、駅のサインボードもコロコロ変わり、本来のプラットフォームで待っていても、一向に列車がくる気配がない。
   目的の列車のアナウンスらしきものに気付いたけれど、イタリア語なので分からなかったのだが、ホームの端にいた尼さんグループが走り出してホームを移動したので、とにかく、ケースを引っ張って娘を抱えて後を追った。
   幸い、目的の列車だと分かったのだが、発車寸前なので、急いで飛び乗った。
   一番後ろの車両だったので、予約席はずっと前方である。
   どうして移動すれば良いのか、分からなかったのだが、とにかく、日本方式に、車内を移動しようと思って、少しずつ歩き始めたのだが、列車が長くて、途中に貨車風の列車があって、開けっ広げの戸口から放り出されないように、必死になって前に進んだのだけは鮮明に覚えている。
   いずれにしろ、世界標準から程遠い、言葉も通じないイタリアで、失敗の連続にも懲りずに、何度も、田舎旅を決行したものだと、今では、冷や汗ものなのだが、しかし、良くも大過なく無事に通せたものだと不思議なくらいである。

   ヨーロッパ旅は、飛行機や車を使うことが主であったが、ユーレイルパスを使ったりビジネスでも、鉄道を使うことが、結構多かった。
   苦労の連続だったが、ことごとくトラブルの原因は、どこの列車も、日本の首都圏並みのパンクチュアルで安全安心で正確に機能するものだと考えて、そのサービスを期待し続けていたことであった。
   しかし、ヨーロッパで鉄道を使おうとすれば、トーマスクックや国鉄の時刻表を頼る以外に選択肢はなく、遅延や行き違いなどトラブルは覚悟しておけと言う事であろうか。
   いわば、日本の鉄道運行システムの信頼性や正確無比は、国際標準ではなくて、世界には皆無の天然記念物なのである。
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日本の病院経営が赤字だという

2025年06月03日 | 政治・経済・社会
  先日、NHKが、
  “全国6割以上の病院が赤字” 調査団体「地域医療は崩壊寸前」と報じていた。
  こうした背景には物価高などによる経費の増加が大きく、病院給食などの「委託費」は、2023年に比べて4.2%上昇したほか「給与費」も2.7%増えたということで、物価や人件費の上昇に診療報酬などの収入が追いつかず、地域の医療は崩壊寸前だと指摘している。
   調査を行った日本医療法人協会の太田圭洋副会長は「病床の利用率が90%を超えないと黒字にならない病院もあるとみられ、地域の病院が突然無くなるような事態にある。国には、物価などの上昇に応じて診療報酬が上がる仕組みを考えてもらわないと、持続的に医療を提供することは不可能だ」と話している。と言う。
   もう一つ深刻なのは、病院の建物や設備などの老朽化で、経済的に再構築不可能であり、廃業の危機に瀕する病院がある。と言うことである。

   イギリスでも、財政の悪化で、深刻な医療崩壊の危機に瀕しているようであり、事情は個々の国情によって違っていても、先進国の医療情勢は、悪化の一途を辿っていると報じられている。
   私など、医療制度に恵まれている日本を離れて、海外での生活や旅行が多かったので、その地の医療事情の如何は死活問題であり、看過できなかったが、分からない異国で分からない医療に頼るのは不安であったし、若かった所為もあり、多少の病気は無視して押し通してきた。
   日本でも、地歩医療の崩壊の危惧だけではなく、首都圏だけではなく大都市でも、病院経営が危機に陥っている場合があるというから、抜本的な救済策なり政策変更が必要であろう。

   さて、私の場合だが、幸いと言うべきか、今のところ、病院には恵まれていて、現役引退後も、長く、赤坂の山王病院にお世話になり、鎌倉に移ってからは、湘南鎌倉総合病院に通っていて、特に苦労することはない。
   海外に居た時には、費用に関係なく現地の信用できる健康保険に加入できたので、最高の医療サービスを受けられる状態になっていた。
   それに、サンパウロでは、日本人街に日本人医師の病院があり、アムステルダムには日本で医師免許を取った医師が居たし、ロンドンには、何らかの日本の医療機関の出先があり、日本人医師が常駐していたので、頼ることができた。私自身は、現地の医療制度で十分であったが、家族などは、簡単な手術などお世話になった。

   幸せだと思ったのは、日本の国民皆保険制度で、健康保険があれば、日本中どこででも、リーゾナブルな料金で医療サービスを受けられると言うことである。これほど、恵まれた制度はないと思っている。
   これが普通でないことを知ったのは、ブラジルに居た時で、詳細は忘れてしまったが、一般のブラジル人は、無料制度であっても、何日も待たされて、受診さえ受けられないと言うことであった。医療サービスを受けるためには、結構高い民間の健康保険に加入する必要があったのである。
   アメリカの一般的な医療制度の劣悪さは、世界周知の事実であり、論述は避けるが、国民の何十パーセントの貧民は健康保険さえなく医療とは無縁であり、オバマケアさえ叩き潰されて、メディケアやメディケイドさえ縮小傾向になっている。それに、アメリカの医療費は異常に高い。
   オランダとイギリスはどうであったか記憶にはないが、真面な医療サービスを受けるためには、それなりの民間の医療保険に加入する必要があったように思っている。
   良く分らないが、病気の治療を受けられるか、真面な医療サービスを享受できるかどうかは、金次第と言うのが、世界の趨勢であるようである。

(追記)はてなブログに、引っ越ししました。
   https://harunak0404.hatenablog.com/
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アメリカの海外留学生拒否に思う

2025年05月30日 | 政治・経済・社会
   アメリカのトランプ政権は、ハーバード大学に対して留学生を受け入れる機関としての認定を取り消すと発表した。在学中の留学生もほかの大学に転出しなければアメリカでの滞在資格を失うと説明していて、日本人を含め各国の留学生の間に混乱や不安が広がっている。と言う。
   更に、アメリカに留学するための学生ビザ(査証)の取得に必要な面接の予約受け付けを停止するよう、各国の米大使館に命じた。同政権は学生ビザ申請者について、ソーシャルメディアの調査を強化する準備を進めている。と言うのであるから、
   最高の学問教育そして研究開発の砦であり理想の知の宝庫であり巨人であったアメリカへの門戸を閉ざそうという暴挙であり、文化文明に対する恐ろしい反動である。  

   本件に対するコメントは避けて、私自身がアメリカに留学していた、何の問題もなく学生生活を送れていた、あの牧歌的な良き時代の思い出を回想してみたい。
   1972年から74年にかけて、フィラデルフィアのペンシルベニア大学のビジネスクール:ウォートン・スクールで勉強してMBAを取得した。この口絵写真のベンジャミン・フランクリン創立の全米最古の総合大学であり、最古のビジネススクールでもある。

   人事部長に呼び出されて、海外留学せよとの命令を受けての泥縄式の準備なので、何が何だか、どうすれば留学できるのかさえ分からなくて、四苦八苦した。
   内示を受けたのは、前年の中秋だったので、赤坂のフルブライト委員会の事務所に出かけて調べてみると、留学先を決めて願書を出し、ビジネススクールなら、TOEFLとATGSBを受験する必要があることが分かった。
   英会話など正式に習ったこともなければ、映画館に行ってアメリカの映画を見ても良く分らない状態からスタートしたので、まさに難行苦行であった。
   ローレンス・クラインのエコノメトリックス・モデルで名前だけ知っていただけで、ウォートン・スクールが、全米トップのビジネススクールだとも知らずに、まさに暴挙敢行で、色々助けて貰って、膨大な論文や資料を添えて出願書類を提出した。
   全く、天の恵みであろう、初春に入学許可通知を貰た時には、嬉しくてすぐに入学申し込みをした。しかし、トラブったのは、返送書類で封印しろと言う意味が分からなくて、郵便局で指示を仰ぐと、蝋を流して密封することだとして、おかしな形で送ったのだが、間違わずに良く着いたものだと思う。
   入学許可書など一式書類が来た時には、冷や汗が出たが、嬉しかった。

   初夏に、はじめての海外へ、羽田を発った。
   入管の指示だと言うことで、聖路加病院で検診を受けて撮った大きなレントゲン写真を手元に持ってである。とにかく、飛行機に乗れば、もう異国で何が起こるか分からない。
   JAL便の窓からサンフランシスコの風景を見た時には、無性に日本が恋しくなって、これから異国での生活が始まるのだと思うと身が引き締まる思いで緊張しきりであった。

   アメリカでの学生生活は、全く、日本での生活の延長と言った感じで、多少のカルチャーショックは感じても、特に苦労も不安もなかった。
   勉強のボリュームやハードさは、日本とはけた違いで、流石にアメリカであった。
   たとえば、経済学では、マクロとミクロの2科目で、日本の経済学部の2年間の全専門教育に匹敵するほどの量と質で価値が高く、サミュエルソンのECONOMICSなど、3回くらいの授業で終わり、夫々の授業の最後には最新の経済論文を読めるまでのレベルに上げる。
   これ以外に、専門は勿論、20科目近くを履修するのであるから、MBAコースの完遂は非常にハードルが高い。
   一晩に、100ページを超えるリーディングアサインメントは常態で、アメリカ人でさえ、学期中は、勉強勉強で手を抜けないと言うのであるから、我々海外留学生は大変であった。
   別な例では、人事関係を専門にして、2~3科目関連科目を履修したMBAが、即刻、しかるべき企業の人事部長に採用されたというから、プロフェッショナル・スクールとしての威力は傑出しているのである。
   
   この2年間のアメリカ生活の後、ブラジルで4年、ヨーロッパで8年の海外生活が始まった。
   ロンドンパリを股にかけ、切った張ったの国際ビジネスに邁進できたのも、このMBAが、パスポートになったお陰だと思っているので、アメリカには、一宿一飯の恩義を感じている。
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ブログ引っ越しのトラブル

2025年05月28日 | 
   このgoo blogが、11月に閉鎖されるので、どうするか迷った。
   21年も続けていて、記事数も5000をはるかに超えており、結構皆様にお読みただいているし、自分自身の備忘録の意味も兼ねて残すことにした。
   移転先は、理由もなく感で、はてなブログを選んだ。
   まず、はてなIDの取得から始めて、マイブログを立ち上げ、はてなブログproを契約した。

   ここまでは良いのだが、ドメイン問題で、トラブってしまった。
   まず口絵の詳細設定画面で、冒頭のドメイン設定で、「独自ドメインpro」となっていて、独自ドメインを取得して、インプットしなければならないようになっている。そう思って、抱き合わせ広告のように掲載されている「お名前.com」から得るものだと思って、手続きをした。
   どのようにそうなったのか、全く記憶はないのだが、hatenablog.shopと、hatenablog.xyzが、表示されたので、これを取得した。

   これで、OKだと思って、「独自ドメインpro」の空欄に、これらを、何度も、そして、コピペで打ち込んでも、間違っていますと埒が明かない。
   ところで、下記のように、はてなブログの独自ドメイン機能では、hatenaと言う文字列を含むドメイン名を設定することができません。と言うことであるから、もとより、跳ねられるのは当然であった。

   実際には、この「独自ドメイン」欄は、空白にして打ち込めば、はてなブログで登録されたドメインhatenablog.comが、機能して、問題なく詳細設定が完了するのであった。
   どこに、そんな指示が書いてあるのか。何度も、四苦八苦してメールのやり取りで教示を受けたのだが、後の祭りであった。
   それに、はてなブログは、カスタマー対応では、電話機能は一切排除して、全てメールで対処しているので、手間暇時間が掛って、苦労は尋常ではない。

   冒頭の「独自ドメイン」の独自と銘打った記入欄の説明不足や抱き合わせ広告の掲示、空欄にすればはてなブログで登録できるなどと言ったカラクリが、85歳のITデバイドに分かる筈がない。

   とにかく、お名前ドットコムが、全く役に立たないことが判明したし、良く分からないメールがひっきりなしに鉄砲玉のように入ってきて、良く分らなくて応答している度に課金が加算されるなど、恐怖を感じたので、お名前ドットコムとの関係を即刻切った。まだ、契約期間の1年間は尾を引くようである。
   手間暇と費用を失したが、自分の愚かさの結果だと
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商業国家の美徳、誠実さ几帳面さは、鐘楼とコンビ

2025年05月23日 | 学問・文化・芸術
   J.ヘンリックの「WEIRD 現代人の奇妙な心理」の中で、なぜ、記念碑的な素晴らしい鐘楼がヨーロッパの都市の中心に鎮座ましましているのか、その由縁が書かれていて面白い。
   
   アダム・スミスの「商業が発達してくると、商人たちが必ずや、誠実さや几帳面さを社会に広めるので、これらが商業国家の第一の美徳となる」と言う文章を引用して、
   それらは、まず最初に、13世紀の北イタリアのミラノ、モデナ、パルマのような都市に現れ、たちまち、イングランド、ドイツ、フランス、そして、ベネルクスに広がって行った。それらは、鐘楼とコンビなって、鐘の音が届く範囲にいるすべての人々に、起床、労働、食事の時刻を告げて、活動の同期を取らせた。と言うのである。
   それらは、住民会議、訴訟手続き、地方市場の開始時刻を告げ知らせた。これら、世界初の機械式時計が、しだいに中世後期のヨーロッパ中の都市で中心的な位置を占めるようになり、市庁舎、市場広場、大聖堂を飾ることになった。どの町も都市も、より規模が大きく、より繫栄している町や都市の時計を模倣したので、機械式時計は、まるで流行り病のごとく、あっという間に広がって行った。
   時計は、修道院や教会にまで感染し、修道士や司祭や教区民に対し、労働や食事や礼拝の時刻を指図するようになった。公共の場に設置された時計は、秩序ある都市生活や厳格な信仰生活を象徴するものとなった。と言うことである。

   この本は、何も時計について書いた本ではなく、
   欧米人に典型的なWEIRD、
   ((W:Western(西洋の)/ E:Educated(教育水準の高い)/ I: Industrialized(工業化された)/R:Rich(裕福な)/ D:Democratic(民主主義の)))が、世界の人類社会の標準からはかけ離れた、普通ではない( Weird奇妙な)と著者が特定するWEIRDの心理を、経済的繁栄、民主制、個人主義の起源 を追求しながら、その特異性を書いた本で、この章では、時刻に埋没する市場メンタリティーについての冒頭の部分である。

   ヨーロッパの古都など、歴史と伝統のある古い都市に行くと、街の中心には、広い広場の周りに、立派な市庁舎を核に大聖堂や鐘楼や時計台など格調の高い建物が取り囲んでいて、独特な雰囲気を醸し出していて、感動する。
   この鐘楼や時計台が、ヨーロッパの都市文化のみならず、資本主義の胎動期からの歴史遺産だと思うと文化の香りを感じて興味深い。
   時刻がくると、時計台の人形が踊り出して綺麗な音楽が流れて時を告げるのなどは、まさに、文化そのものである。
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時事雑感:世の中、分からなくなってきた

2025年05月20日 | 政治・経済・社会時事評論
   幼少年期に、第二次世界大戦の残像が残っていた終戦後の混乱を経験して、これが常態と思っていたのだが、あれよあれよと言う間に平和日本が、Japan as No.1に昇りつめて豊かになった。と同時に、グローバリゼーションの進展で、世界が動き出してフラット化して一つになり、実に、恵まれた環境下で、老境を迎えている。
   そう思っていたのだが、世紀末から世の中が、おかしくなってきて、歴史の歯車が反転し始めた。
   虎の子の民主主義体制が軋み始めて、暗黒時代への予感が台頭してきたのである。

   大国に踊り出た中国が、大驀進して、千載一遇のチャンスだと、2049年を目標に大唐帝国の再興を目指して「総合的な国力と国際影響力という点で、世界をリードする」覇権国家へと邁進しており、
   ロシアは、ウクライナを統合して更にEUに食指を伸ばして、「ソ連」の栄光を再構築すべく軍事力を強化して拡大政策を押し通している。
   中国、ロシアとも、政権が変わらない限り、この国是からブレることはない。
   また、中近東やインドパキスタンでの紛争、中南米の政情不安など、世界各地の火薬庫が、何時火を吹きだしても不思議ではないほど、世界は危険に満ちている。
   今や、アメリカが覇権を失ってGゼロ時代に突入した上に、さらにトランプの登場で、アメリカの国力と権威が急落して、国際社会は心棒を失ってしまった。国際秩序が、迷走するのは当然であり、全く、先が見えなくなってしまったのである。

   米中貿易戦争だが、関税アップで輸入出来なくなって困るのは、中国を徹底的に搾取して製造させていた(?)低品質低価格の商品に依存していたアメリカであり、中国は一時的に経済的に打撃を受けても、アメリカからの高品質の輸入品には早晩キャッチアップするであろうし、輸出の落ち込みは貿易の多角化でカバーして、アメリカ抜きの中華経済圏を構築するであろう。

   日米の関税などの経済交渉だが、日本は、アメリカへの直接投資などでアメリカ経済に大いに貢献しているからなどと甘く考えているが、すでに、最も重要なはずの同盟国日本に対してさえ、トランプは常軌を逸した対応を迫っているのであるから、日本有利でウィンウィンの解決など有り得ない。いい加減にアメリカ頼みを卒業して、
   最後の切り札である米国国債の売却カードをテーブルに乗せるべきである。ムーディの格下げ報道は絶好の機会であり、アメリカ経済を窮地に追い込み、トランプを覚醒させるためには、この方法しかない。
   実際に売却となると、日米関係は破綻の危機に直面するであろうが、テーブルに乗せれば、トランプは分からなくても、ベッセント財務長官には、如何に強烈なダイナマイトであるかが痛いほど分かる筈である。

   とにかく、トランプが、勝手気ままな関税政策で、国際経済秩序をズタズタにして、国際貿易のみならず、国際経済を縮小傾向に追い込んだ罪は重い。歴史の針を何十年も巻き戻してしまったのである。

   しかし、慙愧に堪えないのは、この人類が営々と築き上げてきた文明社会に、信じられないような阿鼻叫喚の生き地獄が展開されているガザの惨状、
   人類が、何のために、この青い宇宙船地球号を支配し続けて行く資格があるのか、行く末が恐ろしい。

   それに、お粗末な限りではあるが、日本国民にとっては、命ともいうべきコメ行政の目も当てられないような惨劇が、平和ボケ日本の姿を象徴しているようで悲しい。
   利権に巣食う岩盤組織を叩き潰す和製トランプの出現を期待したい。
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モーツァルト: 歌劇《フィガロの結婚》カール・ベーム

2025年05月16日 | クラシック音楽・オペラ
   モーツァルトの歌劇《フィガロの結婚》のDVDを探していて、カール・ベーム指揮の古いオペラに巡り合った。
   巡り合ったというのは大げさだが、私にとっては憧れの指揮者であったので、まさにそうである。
   ベームのレコードは嫌と言うほど聴いてきたが、実演の舞台を観たのは、METでシュトラウスの「ばらの騎士」を、一度だけだったが、非常に感激した。
   それに、このオペラは、
   ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン国立歌劇場合唱団をカール・ベームが指揮し、演出はジャン=ピエール・ポネルと言う極上のバージョン。
   尤も、実際の舞台のDVDではなくて、制作は、1976年6月 ロンドン(映像)、1975年12月 ウィーン(音声)と言う合成の映画の歌劇《フィガロの結婚》なのだが、それが、舞台以上に上出来で、満足であった。
   


   それに、登場する歌手が、夢のような当時のトップ歌手たちで、次の布陣。
アルマヴィーヴァ伯爵・・ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
伯爵夫人・・・・・・・・キリ・テ・カナワ(ソプラノ)
スザンナ・・・・・・・・ミレッラ・フレーニ(ソプラノ)
フィガロ・・・・・・・・ヘルマン・プライ(バリトン)
ケルビーノ・・・・・・・マリア・ユーイング(メッゾ・ソプラノ)
マルチェリーナ・・・・・ヘザー・ベッグ(メッゾ・ソプラノ)
バルトロ・・・・・・・・パオロ・モンタルソロ(バス)
バジーリオ・・・・・・・ヨーン・ファン・ケステレン(テノール)
ドン・クルーツィオ・・・ウィリー・キャロン(テノール)
アントーニオ・・・・・・ハンス・クレーマー(バス)
バルバリーナ・・・・・・ジャネット・ペリー(ソプラノ)  

   これらの歌手については、殆ど全て、METやロイヤル・オペラなどで実演に接してよく知っているので、往年の懐かしい舞台を思い出して懐かしさ一入であった。
   それに、この映像は映画なので、実に入念にストーリー展開を追っていて、上質なシェイクスピア戯曲の舞台を観ている感じで、歌手たちの芸達者ぶりと演出の巧みさに舌を巻くほどで、オペラの醍醐味を映画芸術が増幅している。

   この歌劇のメインの主題は、好色なお殿様伯爵が、奥方に飽きて来て、家来のフィガロの結婚を直前にして、その相手の伯爵夫人の侍女スザンナを、初夜権を復活してでも、ものにしたいと言う色事師のドタバタ劇。
   私は、フィラデルフィアで、ドイツリートのリサイタルで、フィッシャー=ディースカウを聴いている。あの時の端正で威儀正しい姿とは、想像もつかないようなにやけた好色男の、しかし、ほどほどに威厳を保った実に芸達者な彼の役者ぶりに驚嘆した。
   


   もう一つ、フレーニの実に瑞々しい匂うような魅力的なスザンナに魅了された。まず、歌い始めた冒頭から、ビロードのように艶やかで美しく若々しい歌声に引き込まれて、そして、最初から最後まで、豊かな顔の表情のみならず全身を躍動させて演じ切る優れた演技力には脱帽で、当代キッテのソプラノ歌手 の面目躍如である。
   フレーニの舞台は、ただ一度だけだが、ロイヤル・オペラで、チャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」の素晴らしいタチアーナを鑑賞した。
   もう一つフレーニの思い出は、偶々、ロンドンからパリに飛ぶエール・フランスの機内で隣り合わせになったことである。話はしなかったが、下りるときに棚から荷物を取って彼女に手渡した。機内では、ずっと、「文字埋めクイズ」に熱中していて、軽食にも手を付けなかった。透き通るような真っ白な綺麗な肌が眩しかった。座席にチケットの半券を置いて下りたので、貰って本に挟んだのだが忘れてしまった。 
   タイトルロールのフィガロのヘルマン・プライだが、ロンドンに居た頃、ハイティンクが殆どのワーグナーの楽劇を振っていたし、モーツアルトなど、ロイヤル・オペラで聴く機会があったので、あの好男子然とした舞台姿が記憶に残っている。しかし、このブログでは、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の公演でベックメッサーを歌ったコミカルなヘルマン・プライの記録しか残っていないのが残念である。
   この舞台での素晴らしい歌唱は言うまでもなく、狂言回しの卓越した演技の冴えは群を抜いていて、フレーニとの相性は抜群である。
   




   さて、伯爵夫人のキリ・テ・カナワだが、私にとっては、一番多くの実演に接した名ソプラノかも知れない。
   一番記憶に残っているのは、ショルティ80歳記念のドミンゴとの「オテロ」でのデズデモーナ。METでの「ばらの騎士」の侯爵夫人や、ロイヤルオペラでの「ドン・ジョヴァンニ」のドンナ・アンナなどのモーツアルトもの。
   この舞台でもそうだが、恋に悩む高貴なレィディの憂愁を帯びた陰影のある舞台など、しっとりとした心にしみる演技が秀逸である。
   





   びっくりしたのは、ケルビーノのマリア・ユーイングの白鳥への脱皮ぶり。
   この舞台では、METへのデビューと同時に、伯爵夫人に恋い焦がれる小姓のズボン歌手で登場し、まず、「自分で自分が分からない」を歌い出すとその素晴らしさに圧倒され、可愛い小悪魔のような軽快なコミカルタッチの演技に魅せられたのだが、
   このマリア・ユーイングが、10数年後には、円熟したソプラノ歌手に成長した。
   ロイヤル・オペラ(チケットが取れなくて私が鑑賞したのはケンウッドでの野外オペラ)で、プラシド・ドミンゴがカバラドッシ、ユスチアス・ディアスがスカラピア を演じた「トスカ」で、タイトルロールを歌うという、その凄い舞台を聴いて驚嘆したのである。
   また、ロイヤル・オペラの「サロメ」で、タイトルロールを演じたこのマリア・ユーイングが、「7枚のヴェールの踊り」を全裸で踊りぬくという偉業(?)を遂げた。慌てて(?)、双眼鏡を外したのも懐かしい思い出である。
    



   何故か、登場歌手の思い出談議に終わってしまったが、この歌劇《フィガロの結婚》は、誰でも知っている超ポピュラーなオペラ。
   とにかく、このDVDは、記念すべき超大作であり、これほど素晴らしい作品も珍しい。

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マーク・コヤマ 他「「経済成長」の起源: 豊かな国、停滞する国、貧しい国」

2025年05月13日 | 書評(ブックレビュー)・読書
  この本のタイトルは、
  How the World Became Rich: The Historical Origins of Economic Growth
  どのようにして世界は豊かになったのか 経済成長の歴史的起源

  まず、第1部で、成長要因を、地理、制度、文化、人口統計、植民地主義に分けて、経済成長発展の歴史を詳細に分析して、経済成長がなぜ、いつ、どこで起こったのかを論じた主要な経済成長理論を紹介。
   これに基づき、近代の豊かさへの端緒を開いた北西ヨーロッパを皮切りにして、なぜ産業革命が18世紀のイギリスで始まったのか、そして、その後の工業化を分析して、ヨーロッパ諸国やアメリカなどが成功して成長発展を遂げて近代経済に至った道への軌跡を追う。
   最後に、後発国の章を設けて、中国やインドなどの国家経済を取り上げて、キャッチアップ型成長の前提条件が整っていたかどうかによって、19世紀以降20世紀後半から21世紀にかけて、成長発展の命運を分けた浮沈の歴史を詳述しており、また、日本やアジアのリトルドラゴンの成功物語を展開するなど、非常に興味深い。
   サハラ以南のアフリカ、中南米やアジアの貧国国などは、何故、キャッチアップできずに貧しいのか、暗黒の裏面史にもメスを入れるなど成長発展論を深堀して、人類の未来を問う。
   非常に幅の広い視点からの世界経済発展論なので、総復習のための教材としても示唆に富んでいて面白い。

   さて、それでは、「なぜ産業革命が18世紀のイギリスで始まったのか」
   これに対する著者の見解は、ほぼ、次の通りである。
   まず、産業革命前夜、イギリスに備わっていた前提条件について記し、それは、権力がある程度限られた代議制による統治、大規模な国内経済、大西洋経済圏へのアクセツ、そして高度な技術を持つ大勢の機械労働者が存在していたことであった。こうした条件のすべてを備えていたのはイギリスだけであり、こうした前提条件の多くは、ほかの条件と互いに作用しあって、一つの条件はほかの条件が揃って初めて意味を持つ。と言う。
   そして、更なる工業化への前提条件として、イギリスの高い賃金と比較的安価なエネルギー価格をあげ、続いて、イギリスに伝播していた「産業的啓蒙主義」精神の効用を説く。特に、啓蒙主義の精神には、ヨーロッパ各地の最新の科学原理が取り込まれており、イギリスだけが、科学上の成果を技術的な熟練で補うことができた。この結びつきによって、産業革命において数々の技術革新が生まれて、イギリスの工業化は単なる一時的なものに留まることなく、それどころか、以来、技術革新のペースが一貫して上昇を続けた。と説く。
   特定の単独の要因ではなく、幾多の産業革命を始動する前提条件が揃っていて、これらの前提条件がお互いに作用しあって好循環を生みだしてイギリスで産業革命が起こったという総合説である。
   先日論述した、成り上がり者社会に群生したイノベーション論を展開したアセモグルの見解と比べると面白い。
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びーやまの「「高学歴と低学歴の思考の差」。」

2025年05月10日 | 生活随想・趣味
   インタネットを叩いていたら、ダイヤモンド・オンラインのびーやま氏の「「高学歴と低学歴の思考の差」。学歴社会だからこそ身に付く「本当の頭の良さ」とは。」と言う記事が目についた。
   何となく読んでみて、自分の考えに近いのに気づいた。
   著書『17歳のときに知りたかった受験のこと、人生のこと。』に詳しいようだが、勉強の意義と、大学受験勉強の重要性を強調していることである。

   まず、高学歴な人と低学歴な人には「思考の差」がある。と言う。
   大学受験の勉強はとてもむずかしく、難関大学の問題に関しては解説を読んでも理解できないなんてことが多々あり、それを複数科目やるのが大学受験。そんな過酷な大学受験を乗り切り、合格を勝ち取るためには正しい思考力が必要となり、その思考力とは「考える」「調べる」「自分の中に落とし込む」の3ステップからできている。
   要するに、目の前の問題について考えて、解けなかったら「どこができないのか」調べて、次は解けるように自分の中に落とし込むのが大学受験での思考力で、そうすることで、自然と知識は増えていき、思考力も磨かれていき、その意味で、高学歴の人は本当の意味で考える力を持っている。
   低学歴の人はそうではない 。勉強から逃げて低学歴になった人は、思考の3ステップが第1段階の「考える」だけで終わってしまって、そのあとに続く「調べる」と「自分の中に落とし込む」という段階がないため、いつまで経っても知識が増えず、視野が広がっていかないので、高学歴の人に比べて思考力は劣る。

   なぜ「受験勉強」が社会でも役立つのか。
   「考える」「調べる」「自分の中に落とし込む」の3ステップは普遍的な思考力であり、社会に出てからもこの思考力を駆使すれば、仕事の効率は上がるはずだし、答えのない課題にも挑める。その意味では、大学受験の勉強は社会にしっかりと繋がっている。
   「大学受験はそのときだけのものだから意味がない」と言う大人がいるが、もし本当にそうなのだったら、なぜ大企業や政治家、官僚は高学歴で占められているのであろうか。説明がつかないはずである。 

   受験生にはぜひ、大学受験を通してこういった本物の思考力も磨いていってほしい。しかもそれは特別意識せずとも、勉強を頑張りさえすれば自動的に手に入るものであるから、まずは目の前のことに集中すればいいだけである。 少しでも多くの学生が受験を通して考える力を磨いていくことを願っている。

   以上が、この記事のびーやまの見解である。
   一寸、表現には多少問題なしとはしないが、ほぼ同感である。
   大学の受験勉強に関しては、京大の経済学部であったので、私の受験科目は、英語、国語、数学は数1、数2、幾何、社会は世界史と地理、理科は化学と生物、と多岐にわたっていてウエイトも同点であったので、全科目とも手を抜かずに勉強せざるを得なかった。
   これらは高校の授業で勉強してはいたが、受験勉強では更なる知識の深堀であり、特に、基本の英数国以外に、社会や理科の勉強で積み重ねた知識が以降大変に役立った。視野の拡大と思考力の深化であり、海外に出てから特に生きてきた。
   この受験科目の多い受験勉強が、リベラルアーツの涵養に大きく貢献した意義は大きいと思っている。特に、旧帝大の大学生の教養水準の底上げ効果である。

   更に、世界屈指のアメリカのビジネススクールのMBAを取得しているので、この受験勉強も大いに役に立っている。
   しかし、びーまるは言及していなかったが、これらの受験勉強による貢献よりも、更に、重要なのは、
   最後の6年間の最高学府で学び研鑽した多くの貴重な学問とその学び舎で経験した知的環境の凄さ素晴らしさであって、いくら強調してもし過ぎることはなく、特筆に値する。

   尤も、これらの学問経験が、私の人生に益したかどうか分からない。
   しかし、真善美を追求して、あっちこっちを駆け回り、勉強をし続けてきた。紆余曲折、大変な苦難の連続ではあったが、長い人生、やっと、見るべきものは見た、と言う心境まで、人生を歩んで来ることができた。と言う自負だけは感じている。
 
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新緑に萌えるモミジが鮮やか

2025年05月08日 | わが庭の歳時記
   わが庭は、春の花が殆ど終わって、今は、一斉に新芽が芽吹き始めて、新緑に萌えて輝いている。
   鶯がしきりに囀り続けて、初夏の訪れを謳歌していいて清々しい。
   秋に紅葉して美しいモミジだが、新芽が萌える初夏も美しい季節で、秋までの長い間楽しめるのが嬉しい。
   鴫立沢、獅子頭、琴の糸など、 





   もう一つ、目を引くのは、一斉に芽吹き始めた椿の新緑。
   温かくなり始めてから、株にもよるが、10センチほど新芽が伸びた。
   もう少しすると、この新芽の先から、新しい蕾が見え始めて、新春の開花の準備を始める。椿にとって一番大切な季節である。
   梅雨時に十分体力を整えて暑い夏を乗り切って、晩秋から新春にかけて、綺麗な花を咲かせてくれる。
   毎年開花するが、花の色や形などが年によって変わっていて、同じ花が咲かないのが面白い。
   


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黄色いボタンが1輪咲きだした

2025年05月06日 | わが庭の歳時記
   今日は雨模様だが、ゴールデンウィークは、結構素晴らしい天気で、五月晴れの良い気候に恵まれていた。
   子供や孫たちは、友人家族を招待して、庭でバーベキューパーティーを楽しんでいた。
   虫が出る前の快適な気候なので、絶好のバーベキュー環境である。

   わが庭では、花が少なくなって、椿もミリンダだけ、
   しかし、残っていた黄色いボタンが、一輪だけ咲いてくれた。
元の木は枯れてしまって、今春根元から急に伸びてきた新芽に花をつけたのである。
   千葉から移植した庭植えのボタン2株が消えてしまったので、生き返った感じがして嬉しい。
   



   咲き続けているアヤメの横から、白いアヤメらしき花が咲き始めた。
   結構、新芽が、芝庭のへりに飛び出ているので、今年は、楽しめそうである。

   今春も、鶯が、わが庭を訪れて、囀り続けてくれている。
   ほんの数メートル近くまで来るのだが、保護色で良く見えず、非常に敏捷だし、飛び去る姿しか見えない。
   しかし、天は二物を与えずで、美しい声とはウラハラの冴えないくすんだ姿が興味深い。鶯色と言うが、あれは、メジロの色である。


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発展途上国の経済援助、「債務の罠」は必然?

2025年05月05日 | 政治・経済・社会
  先日、クリステンセンの「イノベーションの経済学 「繁栄のパラドクス」に学ぶ巨大市場の創り方」について論じて、
   成長発展を目的に実施された公的なトップダウンプッシュ型の繁栄計画、繫栄するはずの計画が繫栄せず、ことごとく失敗しているという「繁栄のパラドクス」論を紹介した。

   近年、中国の開発途上国への投融資による「債務の罠」が問題となっている。 重点国に対し過剰な融資を行う傾向があり、債務残高に占める中国の割合が高い「中国依存国」のなかには、債務不履行に陥るリスクが「高い」ないし「窮迫」と評価される国が多く、国家経済を窮地に追い込んでいる。
   しかし、中国の融資が良いとか悪いとか言う以前に、この「繁栄のパラドクス」論によると、貧困国への融資は殆ど失敗している。たとえ、中国の融資が善意であり優良なものであろうとも、債務の罠が起こるのは当然だと言うのである。

   世界の貧困は、支援を必要とする地域を特定し、資源を投入し、時間の経過ととも発展を期待して、教育から医療、インフラ整備から汚職の撲滅に至るまで、多くの解決策を実施して、貧困国の経済軌道を変えるべく開発計画を推進してきた。しかし、この期待は効果的な戦略ではなく、殆ど失敗しており、数十億ドル相当の援助を受けた少なくとも20カ国が、現在ではより貧しくなっている。と言う。
   「繁栄のパラドクス」論から言えば、開発計画を実施した国に、その計画を受け入れて活性化するだけの国力、自律的能力と体制が備わっていなければ、失敗に終わるのは必然であって、経済力がなく自律能力の乏しい貧困国が、「債務の罠」に陥るのは、当然なのである。先進国のインフラの複製のような分不相応な近代的な空港や港湾、鉄道などいくら建設しても、使われずに閑古鳥が鳴いているケースが多く、資金は回収不能であり、過重な債務だけが残っている。

   アメリカでは、初期の道路、鉄道、運河の殆どは、個人起業家や民間企業によって建設された。初期の起業家がインフラ構築のために何百万ドルも投資したのは、インフラ自体から利益を得るためではなく、道路や鉄道、運河、快適な通信環境が彼らの本来のビジネスを成功させるために必要だからであった。フォードやエジソンなどが膨大なインフラや事業環境整備を実施したのは必然であった。
   同じ状況を、今日、貧困国で活動している多くの企業にも見ることができる。低所得国および中所得国で成功するためのプロセスと、市場を創造する必要性をよく理解していて自社のビジネスに必要だから投資をしているのである。
   「市場創造型イノベーション」の場合、この傾向は特に顕著で、イノベーションがインフラに先行して起こって機動力となり、遅れた国民経済を一気に活性化して、経済成長を牽引する。

   現実には、インフラ開発は、経済的、政治的、社会的にも高いコストをかけながら、富裕国でも、10中8、9のプログラムが、遅延が発生し、予算超過を起こし、計画段階の成果の見通しを下回っている。
   これらは、大規模プロジェクトに必要な制度、技術、運営能力が備わった富裕国での事例であるから、インフラ投資の資金も持ち合わせず、新たにインフラを構築し維持管理してゆくための投資を引き寄せる魅力にも乏しい最貧国に、インフラを押し付けても成功は一層困難になる。
   「一帯一路」の鳴り物入りで注ぎ込まれる中国の膨大な海外援助融資などは、もとより、貧困国に砂上の楼閣を積み上げ、窮乏化させるだけ。
   クリステンセンは、最期に、シュンペーター張りの「市場創造型イノベーション」による壮大な経済発展論を説いて逝ったのである。

   追記すべきは、これらのイノベーションや新市場開発についての理論は、もう、20年前に、C・K・プラハラード教授が著書『 ネクスト・マーケット「貧困層」を「顧客」に変える次世代ビジネス戦略 』で先鞭をつけており、このブログでも論じてきた。
   ブルーオーシャン戦略や、多くの経済成長発展論と併読すると面白い。
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椿ミリンダ、アヤメ、ツツジ

2025年05月03日 | わが庭の歳時記
   五月に入って、一株だけ咲き残っている椿が、ミリンダ。咲き乱れていたのだが、最後の花は、何となく弱弱しくて華奢である。
   



    5月の花は、やはり、アヤメとツツジである。
   アヤメは、数株、場違いのような芝庭の片隅に、植えっぱなしの球根が咲きだして楽しませてくれる。
   ツツジはサツキと同じで、生け垣の片隅に咲いていて、わが庭では、点景で、それほど、主張しないところが気に入っている。
   最近は、新しく草花や花木を庭植えすることも殆どなくなったので、既存の花たちが、居場所を整えてかってに咲いてくれる。
   それに甘えて季節の移り変わりを楽しんでいると言うところである。
   





   花壇のはずれから、スズランと都忘れが顔を覗かせている。
   植えるときには、適当に空地を見つけて植えるのだが、これも、植えっぱなしなので、花が咲いたのを見て、毎年気付いている。
   



   
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クリステンセン他:イノベーションの経済学 「繁栄のパラドクス」に学ぶ巨大市場の創り方

2025年05月01日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   2019年に逝ったクリステンセンの最後の著書『イノベーションの経済学 「繁栄のパラドクス」に学ぶ巨大市場の創り方』
   原題は、『The Prosperity Paradox: How Innovation Can Lift Nations Out of Poverty 繁栄のパラドックス:イノベーションはいかにして国家を貧困から救い出すのか』
   従来の経営学の著作ではなく、経済発展論を論じた経済学書である。
   成長発展を目的に実施された公的なトップダウンプッシュ型の繁栄計画が、ことごとく失敗しているのに対して、イノベーターの推進する大勢の無消費者を消費者に変える『市場創造型イノベーション』が成功を収めているという「繁栄のパラドクス」論が啓発的で非常に面白い。

   世界の貧困は、支援を必要とする地域を特定し、そこに資源を投入し、時間の経過とともに変化が見られることを期待する計画で、教育から医療、インフラ整備から汚職の撲滅に至るまで、多くの解決策を実施して、最終的には貧困国の経済軌道を変えることができると信じて開発計画を推進してきた。
   しかし、この期待は効果的な戦略ではなく、殆ど失敗であった。数十億ドル相当の援助を受けた少なくとも20カ国が、現在ではより貧しくなっている。のである。

   クリステンセンは、本書で、自身の得意とする厳密で理論に基づいた分析を応用し、より良い方法を提案した。適切なイノベーションは企業を育成するだけでなく、国家をも育成する。として、
   この『繁栄のパラドックス』は、まず、トップダウン型の取り組みになりがちな一般的な経済発展モデルの限界を明らかにする。そして、これとは逆に、意欲的な新規イノベーターによる起業家精神と『市場創造型イノベーション』に基づく経済成長のための新たな枠組みこそが、後進的経済を発展に導くことを提示している。
   クリステンセンは、共著者のオジョモ、ディロンとともに、経済成長をドライブした『市場創造型イノベーション』として、フォード、イーストマン・コダック、シンガーミシンといったアメリカ自身の経済発展における成功事例を挙げ、日本、韓国、ナイジェリア、ルワンダ、インド、アルゼンチン、メキシコといった他の地域でも同様のモデルがどのように機能してきたかを詳細に説明しており、非常に興味深くて面白い。

   クリステンセンは、この書では、イノベーションを、持続的、効率的、市場創造型の3つに分類している。持続的イノベーションは、これまでの概念と同じで、効率化イノベーションは、プロセスの変革など、より少ない資源でより多くのことを行える効率化を目指すもので、両方とも、ターゲットとする顧客は変わらない。
   一方、『市場創造型イノベーション』は、新しい市場を創造する、すなわち、それまでプロダクトが存在しなかった、あるいは、高すぎて買えなかったとか何等かの理由で入手できずにいた人たちを対象にした新規市場の創造である。
   この『市場創造型イノベーション』が、強大な力を持つのは、不便や苦痛の低減に役立つ解決策を大勢の人に届けれれるからで、無消費をターゲットとする市場は、投資家やイノベーター、社会にとって莫大な利益を生む可能性を持つ。新市場が成功すると、3つの成果物、すなわち、「利益」「雇用」、そして、最も強い影響力を持つ「文化的変容」を生み、これらが合わさって将来の経済社会の成長の堅固な土台がとなる。フォードのT型車やケニアのMペサを見れば分かる。

   さて、この『市場創造型イノベーション』論だが、先にブックレビューした「W・チャン・キム &レネ・モボルニュ「破壊なき市場創造の時代 これからのイノベーションを実現する」)」の『非ディスラプティブな創造』と相似た概念で興味深い。
   両説とも、無消費、無市場を創造するイノベーション戦略を展開する最先端の経営学書で、非常に示唆に富む。
   本書でもそうだが、発展途上状態から国家を貧困から救い出す方法を展開しているように、クリステンセンのイノベーション論は、ローエンドやボトムアップから捉えているのが面白い。 
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