熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

新日本フィル定期演奏会鑑賞を卒業?

2010年07月31日 | クラシック音楽・オペラ
   昨夜、トリフォニーホールで、今年度最後の定期演奏会を楽しんだ。
   プログラムは、アルミンクの肝いりで、現代音楽ばかりの意欲的な演目であり、コダーイの「ハーリ・ヤーノッシュ」はどこかで聴いた記憶があるが、他の二曲は初めて聴く曲でもあり、いずれにしろなじみの薄い曲だったが、非常に楽しいコンサートであった。
   現代曲については、クラシック音楽が趣味となった学生時代など若い頃には、極めて拒絶反応が強かったのだが、アムステルダムに居た頃、3年ほど、コンセルトヘボーの3シリーズ全定期公演のシーズンメンバー・チケットを買っていたので、Cシリーズの現代曲演奏会にも、出来るだけ通ったので、少しずつ慣れるように成って来ていた。
   尤も、馴染めないという意味では、シュトックハウゼンなどは、今でも苦痛ではある。

   世代から言っても、あるいは、オーストリア人と言う位置から言っても、指揮者のアルミンクは、今回のプログラムのリゲティやヴェレッシュやコダーイの曲には、何のためらいもなく極めて親近感があるのであろうか、非常にぶれのないオーソドックスな演奏のように感じて聴いていた。
   人気を博していたのは、最初のリゲティのヴァイオリン協奏曲を弾いたモルドヴァ出身のパトリツィア・コパチンスカヤで、超絶技巧と言うか、緩急自在、凄い演奏で、その音色もそうだがテクニックの確かさは格別であった。
   現代曲には珍しいと言うカデンツァの凄さも目を見張る(?)ばかりで、楽譜にあるのかないのか知らないが、声が聞こえると思ったら彼女が歌っていた。
   弦楽部が小編成なのだが、オカリナや木琴など変わった楽器が共演する一寸異様な小オーケストラ編成だが、現代音楽のオンパレードのような曲を奏する面白い演奏であった。

   ところで、このコンサートを最後に、新日本フィルの定期公演の更新をしないことにしたので、あとは都響だけになる。
   元々、この新日本フィルの定期は、海外ではボストン響などのコンサートを追っかければ良かったのだが、日本で、小澤征爾のコンサートを確実に聞きたいために始めた。
   東京文化会館での定期からだから、既に20年近く続いており、名残惜しいが、アルミンクに変わってからは、小澤征爾のタクトは、2回が1回に成り、数年前から定期から完全に消えてしまっていた。
   アルミンクのコンサート・オペラや外人客演指揮者の質など、アルミンクの音楽つくりには文句はないし、次年度などハーディングの客演や、プログラムにも魅力はあるが、定期は一つで良いと思ったのである。
   トリスタンやイゾルデやバッハのロ短調ミサ曲には魅力があるが、バイロイトやMET,カール・リヒターとミュンヘン・バッハなどで極め付きを聴いており、それに、ヴェルディのレクイエムも、ロンドンで凄いのを聞いており、そのまま封印すれば良い。 

   歳の所為か、昔ほど、クラシック音楽の鑑賞に興味がなくなっていると言うのが正直なところで、若かりし時は、ウィーンやベルリンが来日すると言えば、無理をしてでもチケットを手に入れて演奏会に出かけた。
   ジョージ・セルとクリーブランド、シャルル・ミュンシュとボストン、エルネスト・アンセルメとスイス・ロマンドなども聴きに行った。
   海外に居た時には、フィラデルフィア菅、ロイヤル・コンセルトヘボー菅、ロンドン響、フィルハーモニア菅の定期会員券を持っていたし、目ぼしい音楽家のオペラやコンサート、リサイタルに通い詰めていたが、日本に帰ってからは、まず、異常な高額チケットに嫌気がさして、だんだん疎遠になって行き、何故か、CDやDVD鑑賞からも遠ざかってしまっている。

   有り難いことに、HNK BShiが、時々、珠玉のように素晴らしいオペラやコンサートのプログラムを放映してくれている。
   これも、DVD録画をしても、観ないものが多くなってきたが、芸術鑑賞は、私の最も重要な趣味でもあり、一寸、LDやビデオやDVDなど、もう一度古い作品から整理をして、ゆっくり楽しみたいと思っているのだが、何時のことになるであろうか。
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「人生はピンからキリだけ知ればいい わが父、森繁久彌」と「夫婦善哉」

2010年07月29日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   先日、書店で、森繁久彌の次男建と長女和久昭子の対談本「ピンからキリだけ知ればいい わが父、森繁久弥」を見つけて読み、NHK BShiで放映された森繁の出世作「夫婦善哉」と「新・夫婦善哉」を見て、久しぶりに天下の名優森繁久弥を思い出していた。
   私が、森繁久彌を始めて見たのは、映画で、それも社長シリーズや駅前シリーズと言った喜劇モノで、建氏が言っているように、眼鏡にちょび髭を生やして、いつも、淡路恵子や新珠三千代のお尻を触っていたにやけた喜劇役者の森繁であった。
   その後、森繁のテレビ番組や映画を随分見続けて来たのだが、残念ながら、あの「屋根の上のバイオリン弾き」も含めて森繁の舞台を見たことがない。
   著作は、二冊くらい読んだと思う。中身は忘れてしまったが、軽妙酒脱な味わいのある文章が印象的であったのを覚えている。

   ところで、この本のタイトル「ピンキリ」の話だが、屋台の安酒を飲んでいた健氏に、灘の銘酒を飲ませて、 
   「いい酒とはこういう味がするのだと覚えておけ。人生は、ピンとキリだけ知っておけばよい。真ん中というのは普通に生きておれば嫌というほど味わえる。仕事でも人間関係でも、あらゆる物事は、ピンとキリを知っていれば、自然と真ん中も知るようになってくる。」と言ったと言う話を披露している。
   一寸ニュアンスが違うが、藤十郎が、武智鉄二に、クラブでも女性でも一流のところで遊べ、一番いいものを見て、一番いいものの中に育っていないと芸が貧しくなると言われて、全部払って貰ったと語っていたが、最高のもの、本当のものを知っておくことが何よりも肝要だと言うことであろう。
   刀の目利きを育てるためには、本物の名刀しか見せないと言われているのも、このことであろうか。

   この森繁久彌の人生哲学は、絶対に過去を振り返らないと言うことで、子供に対しても、最後まで徹頭徹尾威厳のある父親として通しぬき、馴れ馴れしくは出来ないオーラを発していて、親しみと近寄りがたい怖さが同居していたと言う。

   船場の化粧品問屋の跡取り若旦那が身を持ち崩す男の一代記である「夫婦善哉」を見ていて、本来は極めてシリアスで真面目かつ聡明な役者である森繁が、あれほどまでにがしんたれの馬鹿たれ男を地で行くように熱演できたのか、この本からいくらか面白いヒントがあったような気がした。
   大阪財界の大立者であった実父菅沼達吉氏の残した相当な遺産を、早稲田時代に、芝居に芸者にダンスホール、しまいには株に手を出してすっからかんになると言う学生の枠を超えた放蕩三昧の生活をおくっている。
   満州から日本に引き揚げて来て生活に困窮していた時に、魚を闇値で卸すおいしい仕事を聞きつけて徳島に乗り込んで、それに賭けるのだが、南海地震による津波を受けて総てパーになる。
   細々と役者人生が始まって落ち着き始めても、稼いだ金はすぐ仲間たちと飲み食いに使ってしまって、森繁家の生活費は、奥方の内職で賄うと言う始末で、満州時代から晩年まで、森繁家には、毎日の如く知人友人が集い、多くのお手伝いや雇い人や、良く分からないような居候が住んでいたと言うのだから、森繁久弥の並外れた人間のスケールの大きさが分かろうと言うものである。

   この森繁久彌は、なければトイレや風呂は勿論、庭の大きなプールまで自分で作り、ベニア板を買ってきてセスナのエンジンをつけてプロペラ船を作ると言う器用さなのだから、子供たちに縫い包みや飾りを作ってやるなどは序の口、とにかく、人並み外れのオールマイティだったと言うことである。
   「新夫婦善哉」のラストシーンで、蜂の養殖を勉強して王乳つくりに賭けようとする姿が映されていたが、本物なら成功するであろうと、変な思い入れを感じて見ていた。
   
   この「夫婦善哉」だが、法善寺横町にある善哉屋「お福」が、一人前の善哉を二つのお椀に入れて出すことから来ているのだが、船場の安化粧品問屋の息子維康柳吉(森繁)と曽根崎新地の売れっ子芸者蝶子(淡島千景)のデート場所でもある。
   これは、織田作之助の小説だが、箸にも棒にも掛からない底抜けの能天気でがしんたれの大阪男と、健気でどこまでも男を思い続ける一途な大阪女の夫婦の物語で、謂わば、一寸した現代離れの今様近松門左衛門の世界である。
   戦前の法善寺やお初天神のある曽根崎新地、それに、船場の問屋の雰囲気がむんむんした昔懐かしい大阪風景が活写されていて、そのまま、近松の世界までタイムスリップするような錯覚に陥る。
   森繁の映画のディスコグラフィーを見たが、近松らしき作品は一もない。尤も、鴈治郎父子が曾根崎心中を復活初演したのが1953年だと言うから、近松の作品が舞台にかかることは殆どなかったのであろうが、大阪で生まれて大阪で育った不世出の名優森繁久彌が、近松門左衛門の舞台踏んでいたら、どんなに素晴らしかったかと思うと、本当に惜しい気がして仕方がない。

   ところで、森繁久彌が素晴らしかったのは当然としても、奥方の杏子さんが、それに輪をかけたような素晴らしい人だったようで、特に裁縫の腕はプロ級以上で、久彌の服は勿論、自分の服も子供の服も瞬く間に立派に作り上げ、欧州旅行でも、出かける時には、裁縫道具の入ったトランク一つで出かけて、帰国時には、自分の作った服で一杯になっていたと言う。
   二人の話では、戦中戦後、杏子さんは絶えず裁縫をしていたと言うことで、この卓越した杏子さんの腕と才覚が、名優森繁久彌を公私ともに支えて来たのであろう。
   森繁が売れない役者だった頃、フィルムの缶を弁当箱にして豪華な弁当を作って持たせて、弁ブル(弁当ブルジョア)と勇名を馳せて撮影所中に知らしめて森繁を売り出したと言うから、正に、スタイリストのみならず名プロデュサーだったのである。
   この杏子さんが、シュヴァイツアー博士に会いにアフリカに行ったのだから、その行動力に驚く。

   仕事で殆ど家を開けていて、杏子さんも長期の海外旅行で二人が会わない日々の連続であった筈だが、余程妻を愛し頼りにしていたのであろう。杏子さんに先立たれてから、急激に森繁は衰えて行って、長期療養とリハビリ生活に明け暮れたと言う。
   森繁久彌の実人生こそが、人間森繁久彌の最高の舞台だ思うのだが、その壮大な舞台を二人の子供たちが、父への限りなき愛情を込めて描き切ったのが、この本であろうと思う。
   
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わが庭の歳時記・・・アゲハの幼虫をどうするか

2010年07月28日 | わが庭の歳時記
   最近、モンシロチョウやモンキチョウなどの小型の蝶が消えたと思っていたら、大きなアゲハチョウが、頻繁に訪れるようになった。
   名前は良く分からないのだが、インターネットで写真などをチェックしていると、普通のアゲハチョウの他に、クロアゲハやアオスジアゲハなど何種類か飛んでいる。

   ところで、この口絵写真だが、トマトの葉っぱを精力的に食べている何らかの種類のアゲハチョウの幼虫のようである。
   全く気付かなかったのだが、ところどころ、トマトの葉っぱが丸裸になっていると思ったら、10センチくらいもある良く太った幼虫が葉を食べているのである。

   もう一つ、同じような形だが、少し体色が濃い緑の幼虫が、ミナリクチナシの葉っぱにしがみついて、激しく口を動かしている。
   何時も気がつくのが遅くて、クチナシの葉を丸裸にされてしまうのだが、このアゲハチョウの幼虫の仕業だったのである。
   まだ、見ていないが、柑橘類の葉にチョウの幼虫が群がるのも時間の問題であろう。

   問題は、これらのチョウの幼虫をどうするかである。
   駆除して捨てるのは簡単だが、折角ここまで大きくなって、綺麗なチョウになって羽化するのは間違いないのであるから、いかにも勿体無いし可哀想である。
   と言って、トマトの葉を丸裸にされるのも困る。
   
   このような昆虫ばかりではなく、トマトや枇杷やイチジクなど、野鳥によって実を食い荒らされて台無しになることもあるし、生き物との共存が難しいことが多いのだが、ただでさえ、地球温暖化と環境破壊によって、多くの生き物が死滅して行って種の保存が危機に瀕しているので、出来るだけ一緒に暮らしたいのだが、悩むところである。

   昔、子供の頃にカイコを育てたことがあるが、カイコは桑の葉しか食べなかったし、蛍も蛍草しか駄目だったような気がする。
   しからば、昆虫の幼虫は食べる草や葉っぱが特定されていて、緑なら何でも良いと言うわけには行かないようである。
   蓼食う虫も好き好きと言うのだが、殆どの動植物は単食で、何でも食う雑食動物の人間のようには行かないのであろう。
   エコシステムの維持の難しさでもある。

   結局、トマトの葉の幼虫は、実付きの悪い徒長苗のトマトの木に移して様子を見ることにしたが、クチナシの葉の幼虫は、ミナリクチナシの実が成り始めており、これを犠牲にするわけにも行かず、似通った木がなかったので、隣の空き地の葉っぱの豊かな木に移した。
   戦時中の我々と同じで、何かの代替物を食べて生きて欲しいと思う。

   
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リチャード・フロリダ教授「クリエイティビティ時代へのグレイト・リセット」を語る

2010年07月27日 | 経営・ビジネス
   「クリエイティブ資本論」で一斉を風靡したリチャード・フロリダ教授が、日立のuVALUEコンベンションで、「クリエイティブクラスの世紀、そしてその後」と言う演題で講演を行った。
   都市経済学者として有名だが、やはり、脚光を浴びているのは、先年邦訳本が出た「クリエイティブ・クラスの世紀」で論じられていたように、今日の経済社会の主要プレイヤーは、クリエイティブ・クラス、すなわち、創造的な経済社会価値を生み出す知的かつクリエイティブな人々に移ったとする資本主義の大変革論にあろう。

   何故、成長し繁栄する都市があれば、立ち遅れたり衰退する都市があるのか、その原因を研究する過程で、隆盛を誇っていた都市から、技術、企業、ベンチャーキャピタルなどの資金が、優秀でクリエイティブな人々の集まる地域に向けて流出していくことが分かり、クリエイティビティこそが、究極の経済資源であり経済成長の原動力であり、グローバルベースで、クリエイティブ・クラスの人々を最も集積結集した都市が世界の中心となって繁栄すると言うことに気付いたのだと言う。
   フロリダ教授のハイテク産業の成長を示す指数が、「ゲイ指数」や「ボヘミアン指数」と非常に相関関係が強いと発表して物議を醸したが、都市や地方の指導者は、すぐにこの研究結果をもとに開発戦略を策定し始めたと言うから面白い。
   経済発展は、寛容性が高く、多様性に富み、クリエイティビティに対して開かれた地域で起きるのであるから当然の筈だが、頭の固い日本では無理であろう。

   この都市文明論への考え方は、ジャック・アタリの「21世紀の歴史」にも展開されていて興味深いのだが、現代資本主義を論じる場合の核が、知であり都市であることを考えれば当然であろうか。

   ところで、今回のフロリダ教授の講演のメインテーマは、演題とは一寸ニュアンスが違っていて、5月に米国で出版された著書「THE GREAT RESET」についてであって、我々が現在その渦中にある歴史的な経済社会の革命的ともいうべき大変革についてであった。
   フロリダ教授は、この150年の間に、既に、二回 GREAT RESETを経験しており、第一回目は1870年代の経済恐慌を発端とした産業技術の発展によるマス産業社会の到来、第二回目は、1930年代の大恐慌と世界大戦後の自動車電気などの技術革新に沸く爆発的な大量生産工業化社会の到来だと言う。
   フロリダ教授のRESETは、経済的不況の暗黒時期から発明発見イノベーションなどによって活性化しより健全かつ豊かになった社会変革を想定しているので、単なる新テクノロジーやビジネス・モデルの変革に止まらず、人間の生き方や働き方、職場や余暇の過ごし方など全般的で恒久的な社会変化をも包含した広い概念である。

   尤も、現在の新しい、かってと違ってはるかに大きくて激しいGREAT RESETは、今日の世界的不況以前から始動しているのだが、都市経済学者のフロリダ教授は、例として、著書で、新しいより大きな人口稠密な風景を示すのは、ボストンからニューヨーク・ワシントンへの回廊、グレイター・ロンドン、上海から北京と言った巨大なメガ・リージョンの台頭だと述べている。
   既に、経済や社会で顕著に現れているクリエイティブクラスの時代への胎動を詳しく語りながら、経済不況や多くの困難を克服しながら、どのようにして、より豊かな新しい時代にリセットして行くのか、フロリダ教授は、1時間に亘って、THE GREAT RESETへの思いを語り続けたのである。

   このほぼ50年サイクルの大経済循環は、コンドラティエフの波を思い起こさせるのだが、フロリダ教授は、マルクス、シュンペーター、ケインズを引き合いに出して、GREAT RESET を語っているのが興味深い。
   近代資本主義が、最もイノベイティブで革命的なシステムだが、金融パニックや経済危機を引き起こす。しかし、これらの困難を克服しようとする人間の営みが、創造的破壊を生み出して、次の更なる高度で豊かな経済成長の種を蒔く。
   更に、民間企業の経済活動の不足を政府が補って経済の健全化を図って行く。
    
   シュンペーターが、創造的破壊を牽引するのは、企業家・アンテルプルナーとバンカーだと指摘していたが、フロリダ教授は、クリエイティブ時代の中心プレイヤーは、クリエイティブ・クラス(クリエイティブ資本論で指摘していたのは、科学者、技術者、建築家、デザイナー、作家、芸術家、音楽家、あるいは、ビジネス・教育・医療・法律などに関る職務に就き、その中心的な部分においてクリエイティビティを発揮することを求められている者)だと言う。
   ポスト・インダストリアル社会をコインしたダニエル・ベルには言及したが、知識情報化産業社会とかICT革命とかの概念を一切前面に出さずに、クリエイティビティと都市化を語りながら、リチャード・フロリダ教授は、新しい資本主義発展論を展開したのである。
   クリエイティブクラスの世紀については、このブログで何度か言及しているので蛇足は避け、「THE GREAT RESET」のブックレビューは、読書途中なので後日に譲りたい。
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トマト栽培日記(12)・・・桃太郎ゴールド

2010年07月25日 | トマト栽培日記2010
   口絵写真は、タキイの桃太郎ゴールドが、色付き始めた状態である。
   これは、3番花房のトマトなので、その下のトマトは、尻腐れ症の被害で摘果したり、食べてしまったと言うことになる。
   手前の花房の5つ目の小さな実は、本来なら摘果するのだが、気付いた時にはかなり大きくなっていて、可哀想になって摘果せずに残したものである。
   このトマトは、色形と言い外観は、全く富有柿と紛うばかりである。
   大きな実は、200グラムをはるかに超えているので、相当の重みだが、木はしっかりとしていて、葉も立派に茂っていて、衰えを見せないのが流石である。

   ミニトマトや中玉トマトは、どんどん実が成って成熟して行くのだが、やはり、木に体力がないのか、収穫が終わって実が上段に行くに従って、下の葉などに元気がなくなって疲弊して行く。
   梅雨が終わって、暑い太陽に照り付けられて成長が促進されるのか、完熟したトマトを摘果せずに放置しておくと、すぐに、傷んで柔らかくなってコガネムシなどが集まってくる。
   今、私のプランタートマトは、最盛期にあるのだと思うが、かなり植えたので、やはり、収穫が多くて食べきれない状態で、娘家族に送ったりしているのだが、昨年成功したので、今年も家内にトマトジャムを作って貰おうと思っている。

   今年は、梅雨が限定的で、びしょびしょした湿度の高い梅雨ではなかったので,
トマトの病虫害に殆どあわずに済んだので助かっている。

   ところで、先日、銀座を歩いていて、露天でトマトを売っているのを見かけた。
   何の気なしに見ると、パックに10コくらい入ったミニトマトが150円、6コ入った中玉トマトが250円であった。
   高いのか安いのか知らないが、そうすると、私のトマトの収穫は、かなりのものであると言うことになる。
   尤も、私自身が投入したコストがいくら位かは知らないが、家内は只だと思って心置きなく楽しんでいるので、これで良いのであろうと思っている。
   収穫云々よりも、私自身のガーデニングの楽しみの一つだから、趣味と実益を兼ねている言うことになるのであろうか。
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ドナルド・キーン著「私と20世紀クロニクル」

2010年07月24日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本は、謂わば、ドナルド・キーンの讀賣版「私の履歴書」で、キーン先生の語る自叙伝であるのだが、私には、日本文化に心酔して、日本文学を深く研究し続けて来た一寸変わった視点から見たアメリカ人の日本文化文明論であるような気がしている。
   子供の頃のヨーロッパ旅で、外国語の習得の必要性を感じ、その後、ホーマーやギリシャ悲劇を古典ギリシャ語で読むなど、8~9ヵ語の外国語を勉強したらしいが、「もし、何かの事故で日本語の知識を失ったら、私にはたいしたものが何も残らない。日本語は、今や私の人生の中核部分を成している。」と言うまでになったのだが、
   老齢に備えて日本に適当な隠居ホームを見つけるように勧められたが、いくら味噌汁が好きでも、毎朝そこで和風の朝食を食べねばならないと思うと、つい探すのが億劫になった。クロワッサンとコーヒーの朝食には飽きたことがないのだが・・・と、そんなことを言うキーン先生の日本への熱い思いが、随所に語られていて、その異文化の香りがする日本感が非常に興味深い。

   コロンビア大学の学生の頃、授業で隣り合わせた中国人学生との交流が東洋文化への初めての関りだが、戦時中の暗い悶々とした生活の中で見つけたウェイリー訳の「源氏物語」に没頭し、友人に誘われて日本語の勉強会に参加した。フランス文学に打ち込むか、中国語と日本語の研究を続けるか迷っていた時に、友人より、フランス語に堪能なアメリカ人は山ほど居るが、日本語が分かるアメリカ人は皆無に近いと日本語の勉強を勧められたと言う。
   丁度、日本が、パールハーバーを攻撃した頃のことである。

   海軍語学校で日本語を教えると言うことを聞いて応募して許可され、日本語を勉強して、卒業後は海軍に入って押収された日本語の文書を翻訳する部署に配属された。
   興味深いのは、アメリカには、日本語を得意とする日系二世が沢山居て、陸軍は彼らを通訳や翻訳者として活用していたが、海軍の方は、日系アメリカ人を一切信用せず、日本語学校を設立して、日系人ではない通訳を育成したのだと言う。
   この日本語学校には、全米から優秀な学生が集まってきて日本語を勉強し、その後、日本関係における多くの学問的業績を残していると言う。

   戦後、日本へ行きたくて堪らなかったキーン先生の奮闘努力が面白いが、正式な命令書もなく北京からの帰途、厚木から入国し、ジープに乗って日光を訪れたことを語りながら、戦後の日本人の優しさや敵兵アメリカ人に対する日本人の憎しみのかけらさえないのに感動している。
   床屋に行って、髪を刈り髭を剃って貰ったのだが、敵の将校の喉笛を掻き切られる心配などなかったし、別れを惜しむ米兵と若い日本人女性が悲しみの涙に暮れていたと言うのである。

   ケンブリッジ大学への奨学資金を得てイギリスに渡り5年間日本文学を勉強したのだが、日本行きの切符を買うだけの資金的余裕がなかった。
   幸い、研究テーマである「芭蕉の生涯と詩歌」を隠して日本の古典文学の影響にテーマを絞ったのが功を奏して、アメリカの財団から奨学資金を受けるのに成功して、この日本留学に便乗して、ロンドンから、エジプト、インドは勿論、インドネシアにまで足を伸ばしてアジア各国を歴訪したと言うのである。
   1953年8月、京都に落ち着いたキーン先生の日本での学究生活が始まる。
   夜、先斗町を歩いて、あまりに美しくて自分の目を信用出来なかったと言う。
   美しくてシックな京都の町並みにすっかり魅了されていたキーン先生にとっては、戦前の京都がもっと良かったと言う京都人には腹が立ったと言うのである。

   しかし、その後の京都の大部分が、便利さを追求する人々の情熱と貪欲さによって破壊されてきたと嘆く。
   現代生活を発明前の状態に戻せるなら、自動車を消したい。自動車が一台もなかったら、京都はどんなに素晴らしいであろうと言う。
   私が、京都で学生生活を送ったのは、まだ、それより大分後だったが、運転席と車掌席が吹曝しに露出したチンチン電車が今出川を走っていたし、祇王寺や滝口寺などは鬱蒼とした藪の中にあったし、詩仙堂など歴史記念建物なども最上屋に上れたし、古風な良き時代の息吹を感じさせてくれる風情があっちこっちに残っていたので、キーン先生の感嘆と慨嘆の気持ちは痛いほど良く分かる。
   
   さて、興味深かったのは、キーン先生は、「歌舞伎を救った男」で有名なマッカーサーの副官フォビアン・パワーと親しかったようで、彼の紹介でグレタ・ガルボに知己を得て彼女を芝居を見に連れて行ったという。
   と言うことは、グレタ・ガルボが、歌右衛門のニューヨーク興行に、毎日劇場に通いつめて、LOVE LOVE LOVE の熱烈な電報を打っていたのも、フォービアン・パワーが、歌右衛門の芸の素晴らしさを語っていたからであろうと思ったのである。

   もう一つ面白いのは、キーン先生が我が家と呼ぶ京都の下宿先で永井道雄と言う生涯の知己を得たことで、寸暇を惜しんで過去に没頭して芭蕉を勉強したかったのだが、毎日の会話を通して現に生きている日本の文化を無視することは出来ないと悟ったとして、平安時代にしか興味のなかったアーサー・ウェイリーが、日本訪問の招待を断ったことに言及していることである。

   キーン先生は、谷崎潤一郎を皮切りに日本の文豪や文筆家との豊かな数々の交友について語っているが、一番力を入れていたのは三島由紀夫のようで、小説の翻訳やニューヨークでの戯曲上演に奔走するなど語っているのだが、ノーベル賞作家は、三島だと確信していたようである。
   関西人として私が引っかかるのは、三島はキーン先生を歌舞伎や能には誘ったが、東京で生まれ育ったことを誇りにしていて、人形浄瑠璃を田舎芸術と軽蔑していたので、一度も文楽には行かなかったと言うことである。
   ところで、キーン先生は、「心中天網島」の太兵衛の歌の原文を英訳したのを載せているが、この方が良く分かって面白い。
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日立uVALUEコンベンション~アマルティア・セン教授大いに語る

2010年07月23日 | 経営・ビジネス
   日立グループが、毎年、大々的にプロパガンダを兼ねて社会への貢献として展示会を交えて大コンベンションを開催していているのだが、今回は100周年記念であるから、大いに気合の入ったイベントとなった。
   二日目の、ノーベル賞経済学者アマルティア・セン教授の講演と緒方貞子さんとの対談には大変な人出となり、東京フォーラムの会場を埋め尽くす盛況で、色々な講演を梯子して、私自身も大いに勉強させて貰った。

   セン教授の本は何冊か持っていながら積読で、読んだことがないので、ぶっつけ本番の聴講だったが、非常に示唆に富んだ、正に、東洋の知恵に根ざした感動的な話に感銘を受けた。
   日本文化に心酔していたと言うタゴールの思い出から説き起こして、唯一の非西洋産業国家として成功を収めた日本の歴史を振り返りながら、これらの貴重な日本の過去の経験や知恵が、貧困や環境問題、人間の安全保障など深刻な問題を抱えたグローバル世界に、如何に貢献できるかについて語った。

   セン教授は、日本が、非西洋的なバックグラウンドを持ちながら、何故、経済的に成長発展を遂げることが出来たのか、日本の豊かな過去の歴史の積み重ねと知恵の集積にあるとして、特に、明治期以降の基礎教育の充実と、聖徳太子の17条の憲法に根ざした皆の衆知を集めてものごとを決する意思決定の方法が重要な役割を果たしてきたと強調していた。
   既に、江戸時代における寺子屋の普及で国民の識字率が非常に高かったことに加えて、木戸孝允などによる明治新政府の基礎教育重視の教育制度が、日本人の民度と潜在能力を高めたと言うことであろうが、人間開発指数の展開など潜在能力アプローチがセン教授の重要な研究テーマであることを考えれば、人間のケイパビリティの拡大に必須の教育を重視するのは当然かも知れない。
   
   ネール首相が今を時めくITTの推進者であることは有名だが、しかし基礎教育をおろそかにしたとセン教授は言及してしたが、ITTあったが故に、情報産業化社会における最高度のICT産業において、眠っていたインドが、グローバル展開で勇名を馳せ世界に雄飛し得たということも紛れもない事実であろう。
   基礎教育の充実が必須だが、高等教育・専門教育の充実も当然必要で、両輪だと述べていた。
   何十年も前に、ケネディにインド大使に任命された経済学者ガルブレイスが、インドに最も必要なのは教育で、教育を充実させれば、はだしで走っている人々も鍬を持つことを覚えるであろうと演説したのを記憶しているのだが、正に今昔の感である。
   日本の教育システムやそのあり方などには、大いに疑問があり、これからの新しいグローバル社会には、問題山積みだとは思うのだが、西洋の思想宗教などの背景を持たなかった日本が、短時間に欧米にキャッチアップして更に凌駕してきたと言う歴史的事実において、日本の教育の果たした役割については、セン教授の指摘は、ほぼ当たっていると思う。

   もう一つの、公開討論など話し合いを基礎として、人々の衆知を集めて意思決定すると言う討論による統治の重要性について、セン教授は、聖徳太子やジョン・スチュアート・ミルなどの考えを披露しながら、熱っぽく語った。
   アメリカのアロガントな覇権主義や、トップダウンによる一方的な意思決定などと言った西洋社会に根ざした文化的バックグラウンドの対極にある考え方であろうか。
   今回のサブプライムで暗礁に乗り上げ世界的大恐慌を目前にした世界的経済不況がいまだに解決を見ないのも、世界的な地球温暖化の危機にありながら、COP会議が一向に前進しないのも、総て、十分に議論し話し合って衆知を集めてコンセンサスを得ようとする姿勢と努力が欠如していたからだと言う。
   当然、環境問題においても、未開かつ貧困で力はないけれど、アフリカにも意見を聞くべきだと言うことである。
   G8がG20になったのも、覇権国が凋落して多極化した世界においては必然だと言うことであろうが、いくら、バカな議論であっても受け入れられないような意見であっても、真摯に耳を傾ける姿勢がなくては、これからのグローバルな問題は解決しないと言うのである。

   欧米中心の世界からアジアの世紀に回帰しつつあると言われる昨今だが、暗礁に乗り上げた現在社会の深刻な問題を解決する為には、東洋の知恵が求められていると言うことであろうか。
   非西洋で、歴史と伝統に裏打ちされ育まれて来た日本の知恵を、インド中国など広くアジアで営々と培われて来た哲学宗教など豊かな文化を糾合しながら、未来の人類のあるべき姿をプロジェクトして、グローバル世界に貢献することこそ、日本の果たすべき役割ではないか、とセン教授は示唆したのかも知れないと思って聴いていた。
   
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野口悠紀雄教授・・・クラウドとグーグル・フォービア

2010年07月21日 | 経営・ビジネス
   最近、やたらと、ITC関係のセミナーで、クラウドと銘打ったセミナーが多くなった。
   従来のコンピューター利用は、企業などユーザーが、コンピューターのハードウェア、ソフトウェア、データなどを、自分自身で保有・管理して居たのに対して、
   クラウドコンピューティングでは、ユーザーは、インターネットの向こう側からサービスを受け、サービス利用料金を払う形になる。ユーザーが用意すべきは最低限度の接続環境のみであり、ハードの賃貸のみならず、必要なソフトも、サービスを提供する企業が用意してくれ、要するに、使っただけ使用料金を払えば良いだけなのだから、急成長しようと景気が波を打とうとも、どんなに事業環境が変わろうとも、コンピューターのキャパシティや、ICTシステムの成長発展などを心配する必要がないので、非常に有り難い制度であろう。
  
   しかし、問題は、ソフトもハードも一切外部の企業に任せるのであるから、ユーザーのコンピューター上の情報やデータが、総て外部に出てしまうので、そのセキュリティや漏洩が、ユーザーにとっては死活問題となる。
   尤も、サービスを提供する企業が、ユーザー企業にとって必須な秘密情報やデータなどは、自前のコンピューターシステムで維持管理し、それ以外をクラウドにすると言うハイブリッド・システムを提供するなど、秘密情報の処理などには万全を期すと言うのだが、日本企業には、大事な業務を外部に委託するなど言ったことに対して、それも、情報を扱うので、ICTシステムのクラウド化には、根強い抵抗がある。

   インターネットなど多くの通信情報は、既に、当初から、エシュロンで傍受されていると言うのは公然の秘密で、いずれ筒抜けになるのであろうが、このクラウドコンピューティング・システムなどの活用如何が、世界のICT競争力を決しているようで、世界フォーラムの発表では、ブロードバンド環境や最先端の器機を誇っている日本の筈だが、国際競争力比較では第21位と惨憺たる結果に終わっている。
   このコンピューティング等のICTシステムでも、日本企業は、自前主義が根強いと言うことであろう。

   野口悠紀雄教授は、「企業の競争力を高めるクラウドの可能性」と言う講演で、日本企業にとっては、このクラウドに対する企業の姿勢が問題で、社内の重要情報をクラウドに載せられるかどうか、そして、日本型の企業文化との親和性があるのかどうか、供給者の競争の確保の問題なども含めて、疑問を呈していた。
   このクラウドを、単なる技術の問題として見るのではなく、GPT,すなわち、あらゆる部面で必要な電気と同じような技術GENERAL PURPOSE TECHNOLOGYとして受け入れるべきで、基本的なものの考え方そのものを、根本から変えない限り上手く行かないであろうと説いていた。

   所謂、グーグル・フォービアで、自分自身の恐怖症克服について、グーグルのgmailの活用について語っていた。
   gmailを通じて、自分自身の情報処理を行えば、完全に、その情報やデータは、グーグルに筒抜けなので、当初は心配したが、活用しないよりは、活用した方が、メリットが大きいと感じて、今では、外部への原稿送付などは、総て、gmailで行っていると言う。
   記録として残るのみならず、資料データの保存にもなっていて、検索すれば、総てが、適時適切に表示されると言うのである。
   ところで、野口教授は、超整理法など整理に関する本が多いが、これらの本の目的は、整理の達人になるための本ではなく、如何に整理をしないですむかと言う方法を語っているのだと言っていたが、このgmailこそは、その究極の手段なのであろうか。
   
   私自身は、この野口教授の話を昨年聞いて、gmeilを開いたのだが、他にも、二つメールアドレスがあって、長年続けているので、まだ、gmailには、移れて居ない。

   ところで、私の資料の整理だが、著述家でも学者でも何でもないので、その必要がないのだが、幸いなことに、この私のブログ「熟年の文化徒然雑記帳」が、非常に役に立ってくれている。
   このブログを始めてから6年目に入っており、もう少しで、2000日目に入るのだが、投稿した記事は1500篇をはるかにオーバーしているのだが、総てが、そのままの形で保存されている。
   カテゴリーの項目をクリックすれば、そのカテゴリーに関する過去の記事が総て出てくるのだが、もう少し、絞り込みたい時には、このブログのページの一番右上の欄外に検索の扉があって、ここに、例えば、「ドラッカー」と書き込んで、となりのウェブのところを、「このブログ内で」に変えてクリックすると、私の書いたドラッカーについての記事が総て表示される。
   グーグルのように、複数の項目を書き込む検索などは駄目で、時には、検索で出てこない記事もあるが、論文やエッセイなどを書く時には、この方法で過去の記事を引き出して、活用している。
   これも、私にとっては、クラウドコンピューティングの活用だと思っている。
   著作者でもない私のブログ記事を、毎日、500人近くの人に読んで頂けるのも、gooの提供してくれるクラウドあっての幸せだと感謝している。
   
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わが庭の歳時記・・・セミが鳴き始めた

2010年07月20日 | わが庭の歳時記
   一気に、百日紅の花が咲いた。
   私の庭の一番街路に面したところに、一才百日紅が植えてあって、今、赤色の勝った濃いピンクの花をびっしりつけて咲いているのだが、比較的、花の少ない夏には、格好の花である。
   良く枝先がこぶになった百日紅の木を見かけるが、かなり剪定はしているつもりだが、まだ、私の庭の百日紅には、そのこぶが出来ていない。
   しかし、真っ青に晴れ渡った夏空をバックに、激しく抗するかのように、咲き誇る百日紅の雄姿が、私は好きである。

   その木の横に、ピラカンサの木が競い合って伸びている。
   昔、この位置にピラカンサを植えてあったのだが、むやみやたらに枝を伸ばして樹形が乱れるので切ってしまったのだが、その後、小鳥の落とした種が残っていたのか、毎年何本も伸び始めて実をつけているので切っているのだが、今年は大分花芽をつけているので切らずに居る。

   この口絵写真は、プランター植えにしたリリカシャワーの蜜を吸うために、蜂が飛んでいる様子である。
   移動が激しくて、オートフォーカスが間に合わずにピンボケで、それに、早く動く翅が写らず、不完全な写真になってしまったが、今まで、紫式部の花を渡っていた蜂だが、花がなくなり、移って来たのである。
   同じように植えているのだが、色盲なのであろうか、黄色い花には見向きもせず、濃いピンクと、この紫の花だけを渡っており、瞬間、花の中に頭を突っ込んだだけで、忙しく、次の花に移って行く。

   アゲハチョウが、庭に頻繁に飛んでくるようになったが、卵を産むためであろうか、最近、トマトやパセリなどの葉が食い漁られているのに気付いてよく見ると、大きな芋虫のような蝶の幼虫が枝の上を歩いている。
   作物や花木には良くないのだが、綺麗な蝶になるので、生物の維持の為にも、殺す訳には行かないので、無難だと思う緑の葉の上に、移動させている。
   ひらひら二匹のアゲハチョウが、空中で愛のランデブーを繰り広げ始めた。
   カメラを取りに部屋に入って帰って来た時には、もう、消えてしまっていて、傑作を撮り損なった。

   鉢植えでは、インパチェンスを改良したと言うサンパチェンスが咲いている。
   インパチェンスと変わらないように思うのだが、大株になると言う。
   小さな菊のような花を沢山つけたアスターも、派手に咲き始めた。

   イングリッシュローズのメアリー・ローズは、株が大分大きくなって、後から後から、ピンクの綺麗な花を咲かせて、楽しませてくれている。
   返り咲きなのでよく咲くのだが、しかし、暑くなると花数が少なくなるようである。

   夕方、初めて、私の庭で一匹のセミが激しく鳴き始めた。
   梅雨が明けたので、土の中では落ち着かず、出て来たのであろうが、やはり、焼け付くような響きのセミの鳴き声を耳にすると、もう、本格的な暑い暑い夏なのである。
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トマト栽培日記2010(11)・・・一日の収穫

2010年07月19日 | トマト栽培日記2010
   この口絵写真のトマトは、ある一日の朝の収穫である。
   植えたトマトの全種類ではないが、同じ種類の苗でも、数本ずつしか植えていないので、取れたトマトの形や種類はマチマチだし、それに、素人のプランター植えなので、大きさも様々だが、これが、夫々に微妙に味が違っていて面白いのである。

   これだけ収穫できれば、食事時以外にも、間食として適当に楽しめるのだが、イタリア系などの味の淡白なトマトの収穫があった時には、家内は、料理用の材料として使っている。
   ヨーロッパに居た時には、敬遠気味であったトマト料理も、工夫次第では結構美味しく頂けるもので、例えば、かなりこってりとしたソースにすると肉料理にも合って、イタリアンワインが楽しめる。

   先日、NHKの昼時列島で、トマトに蜂蜜をかけて食べるところがあると紹介していたので、早速、完熟前の比較的若い大玉トマトをロースト切りにして、蜂蜜をかけて食べてみたら、これが、美味で行けるのである。
   この口絵写真の大きな黄色いトマトは、タキイの桃太郎ゴールドなのだが、完熟すれば、果物のようにスイートでありながら、少し若くて硬めのトマトを切って蜂蜜をかけて食べるとサクサクと食感が爽やかで美味しい。

   早いもので、最初の実が完熟し、収穫が始まったかと思ったら、あっちの木でもこっちの木でも、どんどん実が色付いて、気がついたら、既に、一番房や二番房の収穫も終わって、実が上の方の枝に移り、黄色い花も殆ど、天辺だけになってしまっている。
   木も疲れたのであろう、下の方の葉などは、黄ばんで来て落ち始めている木もある。
   しかし、桃太郎などの大玉トマトの木は、流石で、まだ、上も下も、しっかりとした太い主柱から出た葉は、びっしりと茂っていて、むしろ、支えている支柱の方が傾いて耐えている感じである。

   脇芽を掻くのを忘れて、二本仕立てにしている木が何本かあるのだが、やはり、二本目の木は、生長が弱くて、全体に貧弱で、実も小さなような気がする。
   しかし、主柱の方の木の成長や実成りなどは、全く、一本仕立てと変わらない感じで、キャロルロゼなどはミニトマトなのに、中玉のような大きな実が鈴なりになっていて、豊作である。

   また、掻いた脇芽を挿し木にして育てた苗を、何本か植えてみたのだが、まだ、どのように成長するのか分からないので、様子を見ようと思っているのだが、やはり、市販苗よりは、多少劣るのかも知れない。
   しかし、昨年は、遅れて育った苗でもあったので、トマトの季節が終わりかけた9月でも、結構実が成ったので、楽しめたような気がしている。

   
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エリエッテ・フォン・カラヤン著「カラヤンとともに生きた日々」

2010年07月18日 | クラシック音楽・オペラ
先日、BShiのドキュメンタリー番組で、「ヘルベルト・フォン・カラヤン・その目指した美の世界」を放映していたので、久しぶりに、クラシック音楽の世界にどっぷりと漬かり、懐かしい音楽家たちのインタビューを聞きながら、色々なところで聴いたオペラやコンサートの思い出を反芻していた。
   私が、カラヤンの演奏に直接接したのは、たったの二回で、それも、万博の年に、大阪フェスティバル・ホールで聴いたベルリン・フィルの演奏会で、この時、カラヤンは、ベートーヴェンの交響曲を全曲演奏したが、その内の「運命と田園」、そして、「合唱」であった。
   第5番運命演奏中に、激しいタクト捌きで、指揮棒が折れて吹っ飛び、その後、指揮棒なしでの華麗な指揮姿のカラヤンの演奏を楽しむことが出来たのだが、同じ時期に、バーンスティンがニューヨーク・フィルを振って、「幻想交響曲」のワルツを踊るように指揮していた姿とともに、私自身の長いクラシック音楽鑑賞旅の始めの頃の思い出である。

   このテレビ番組に触発されて、積読だったカラヤン夫人のエリエッテが書いた本「カラヤンとともに生きた日々」を思い出して、読んでみたのだが、これが、実に興味深かった。
   エリエッテとは、カラヤンにとっては3度目の結婚だったが、二人の立派な娘を得て幸せだったカラヤンの後半生の私生活を交えた音楽人生を、実にビビッドに描いていて、興味深いばかりではなく、カラヤンのクラシック音楽に対する取り組み方や思想などが良く分かって参考になる。

   エリエッテは、クリスチャン・デォオールのトップ・モデルだったが、カラヤンとの最初の出会いは、18歳の時で、母の友人の招きで出かけたサン・トロペの船上でのパーティで、気分が悪くなって苦しんでいたのを、助けてくれて、陸に上がってレストランで癒してくれたのがカラヤンだったと言うのである。
   その後、偶然も重なり秘密裏の逢瀬を楽しんでいたのだが、ジーナ・ロロブリジーダのパーティの時に、エリエッテは盲腸に罹って入院して手術を受けた。目覚めた時に、大きな花束が目に付き、カラヤンの心配そうな表情を見て、その献身的な世話を感じて、自分が彼にとって如何に大切な存在であるかを知って結婚を決意した。世界で最も多忙を極めている人物が、病気で寝ている自分の元に駆けつけてくれるほど素敵な愛の証は、他にはないと言うことである。

   次から次へと不安が沸いてきたが、エリエッテは、彼の音楽への献身ぶりを100%理解したいと決心し、学ぶ意欲のある生徒になりたいと彼に告げ、先のことは神を信じて待つことにした。
   エリエッテは、カラヤンのリハーサルや演奏会に殆ど付き合って、徐々に隠されていた音楽に関する能力が目覚めて来た。
   毎夜のように二人は、リハーサルなどについて、その流れや全体の印象や感想や意見を交換したようだが、エリエッテの芸術的なことに対する直感的な見方が、分析的な見方のカラヤンにとって貴重な見解の補足になると彼も指摘していて、彼女自身も、この関係はドリームチームだったと言う。

   オペラやシンフォニーを新しく習得するやり方についても、内容の理解に止まらず、彼の理解ある話し手でありたいと願って、正に解剖の手法でスコアを徹底的に分析し、その尖鋭な理解と能力で音楽を頭で聴き、作品の深みと意義を知ることが出来るカラヤンに対して、感情人間であるエリエッテは、人間の高みと深さ、そしてエモーションのドラマとその行間にある感情で作品を感じてカラヤンに伝えたと言っており、その完璧な補完関係故に、カラヤンは、余人を一切近づけずに、エリエッテただ一人だけをリハーサルに立ち会わせたのである。
   尤も、例外もあって、カーネギーホールでの殆ど最晩年のウイーン・フィルとの演奏会の毎日3時間のリハーサルには、バレンボイム、マズア、小澤征爾が立ち会って、81歳のカラヤンに感服していたと言う。

   芸術家であり、実業家でもあるカラヤンの描写も、非常に鮮やかで、ウイーンを離れてから、取り組んだザルツブルグ復活祭フェスティバルの創設と祝祭劇場の杮落としと言った総ての分野を取り仕切って夢を実現した一連の事業なども、ベターハーフの立場から丁寧に描写している。
   カラヤンの正に臨終のベッドに立ち会った大賀社長や盛田会長などによるソニーの貢献にも言及している。
   ステレオ録音などもカラヤンは遥かに先駆けていたようだが、映画など音響機器をフル活用して映像芸術の深化と発展を追及し続けたカラヤンの提案やアイデェアを実現すべく、最新のテクノロジー駆使してカラヤンをサポートしたソニーの存在も大きいであろう。
   ウィーンとスカラ座の共同オペラ制作を皮切りに、ザルツブルグで実現したオペラシステムを、そっくりそのまま世界のトップ歌劇場で連続上演して、更に、ビデオに残して販売するなどと言うのは、実業家カラヤンの面目躍如であるが、グレン・グールドを限りなく愛していたと言うのも面白い。

   この本には、バーンスティンとの演奏旅行計画の話、マリア・カラスやレオンタイン・プライス、それに、パバロッティとの出会い、ダライ・ラマに病気の指南を受けた話、天才である幼いアンネ=ゾフィー・ムターとの出会いや16歳のエフゲニー・キーシンの演奏に涙した話等々、びっくりするようなカラヤンの逸話が充満しており、とにかく、興味が尽きない。
   カラヤンは、賢いが知的なインテリではなかったと言われているが、この奥方エリエッテは、かなりの知恵者であり、中々の語り部である。
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七月大歌舞伎~傾城反魂香「土佐将監閑居の場」

2010年07月17日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   夜の部の最初は、「暫」で、朱塗りの社殿も鮮やかな鶴岡八幡宮の社頭をバックにした華麗な舞台で展開される荒事の代表作だが、中身も内容もない魅せるだけの芝居と言うと御幣があるのだが、私には、何回見てもいまだに馴染めない。
   その点、最後の舞踊劇である「馬盗人」の方は、如何にも人を食った他愛もない話だが、底抜けに馬鹿馬鹿しくて、馬が主役(?)と言う至ってコミカルな舞台で、これだけ徹底しておれば、それはそれで面白い。

   この二つの芝居に挟まれた、極めて真面目で深刻な舞台が、近松門左衛門作の「傾城反魂香」の「土佐将監閑居の場」で、吉右衛門が、真面目一方実直そのものでうだつの上がらないども又を、死を賭して手水鉢に描いた会心の作が認められて免許皆伝を許されると言う、夫婦の慈愛溢れる泣き笑い人生を、感動的に演じていて爽やかである。

この舞台の主役は、当然、吃音の言語障害があって思うように喋れないので、何事も妻お徳(芝雀)の陰に隠れて代弁をさせて自己の思いを伝えている冴えない又平なのだが、この又平が、土佐の苗字を許されたいばっかりに、悪戦苦闘しながら大変身すると言うところも、この吉右衛門・又平の芸の見所である。
   毎日、律儀にも、大津から山を越えて山科まで、蟄居の身の師匠将監(歌六)の見舞いに妻と通っているのだが、この日は、狩野元信の描いた寅が絵から抜け出たのを弟弟子の修理之助(種太郎)が描き消した功績で土佐の苗字を許されたので、必死になって、お徳を焚き付けて自分への苗字下付を願うのだが一蹴される。お徳の陰に隠れて懸命に意を伝えようとする又平の姿が哀れである。

   ところが、そこへ、息も絶え絶えに、将監の旧主にあたる女性・銀杏の前が浚われたので助けてくれと雅楽之助(歌昇)が飛び込んで来る。
   土佐の苗字を許されたいばっかりに、画才でなくても何でも良いから、どんな手段であっても手柄を立てて師匠に報いて功を立てたいと思った又平は、吃音も何のその、必死になって自分を助太刀に行かせてくれと止めるお徳を地べたに押さえ込んで、階を駆け上がって将監に直訴する。それも許されず、命じられた修理之助が発とうとするのを、必死で止めて役を変わってくれと哀願する。
   しがない大津絵を描いて旅の客に売って糊口をしのいでいた弱気な又平が、必死で自分の道を自分で切り開こうと飛び出した瞬間である。

   しかし、将監に、絵で功績を立てよと一蹴され望みを絶たれた又平夫妻は、万策尽き果てて、死を決心する。
   切腹しようとするのを止められて、せめて遺作をとお徳に勧められた又平は、手水鉢に自画像を描くべく、一筆一筆精魂込めて筆を運ぶ。
   描き終えて座り直した又平のために、死に水を取りに手勺を拾い上げて手水鉢に向かったお徳が、描いた自画像の裏側の石の表面に、同じ自画像が浮かび上がっているのに気付いて仰天する。
   妻に促されて半信半疑で手水鉢を前後左右から見た又平、「かか、抜けたァ!」

   この手水鉢の反対側、すなわち、客席側の絵だが、一寸、タイミングがずれて表れるので、四角柱の手水鉢の中に入った黒子が描いているのであろう。

   一部始終を家の中から見ていた将監が表れて、当然、即刻免許皆伝。
   北の方(吉之丞)から、紋付と羽織袴、脇差を下付された又平は、喜び勇んで、お徳の鼓に合わせて大頭の舞を舞う。
   免許状と筆を貰った又平夫妻は、意気揚々と銀杏の前救出に向かう。

   このような地獄から天国への、起承転結の激しい泣き笑い人生、それも、たったの一日の又平の心の軌跡を、吉右衛門は、万感の思いと感動を込めて、丁寧に描き切っている。
   舞の文句を口上で言えばどもりが治るだとか、舞を舞うなどと言うことが近松の原作にあるのかどうかは知らないが、大頭の舞は、中々面白く、歌舞伎の舞台でのサービスのような気がしている。

   夫思いで健気な世話女房を、芝雀が、可愛く器用に演じていて好感が持てる。
   特に、冒頭の、無口な夫の代わりに、ぺらぺら喋り続ける表情や仕草など、有りがちな嫌味がなくて好ましい。
   吉之丞の渋い北の方、沈着重厚、それに、実に品のある歌六の将監、歌昇・種太郎父子の溌剌とした演技など、脇役の素晴らしさも特筆モノの、素晴らしい舞台であったと思っている。
   
(追記)口絵写真は、新橋演舞場のロビーだが、歌舞伎座と雰囲気が随分違う。


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食:生物多様性と文化多様性の接点

2010年07月16日 | 学問・文化・芸術
   人間文化研究機構が、非常に興味深い表題のシンポジウムを開催した。
   今回は、京都にある総合地球環境研究所の担当で、京大グループが、食について、その生物多様性と文化多様性をテーマに、石毛直道教授の基調講演を皮切りに、環境問題との絡みも含めて現在文明を語った。

   雑食動物ゆえに、世界中の異なる環境に進出した人間が、食用植物の栽培化と動物の家畜化、そして、料理をすると言う文化を持ったことによって、民族文化の枠を超えた普遍性が食文化にもあらわれ、更に、食材の多様性と料理方法の交流による多様性が著しく進展して世界中の食文化を豊かにし、大きく変えて来た。
   それは、和洋中の料理法の折衷とも言うべき日本の家庭料理が進化した新日本料理を見れば良く分かることだとして、石毛教授は、トンカツやラーメンが、既に、オリジンとは様変わりの立派な日本料理となっていることを語った。
   パン粉を使って炒めたようなカツレツが、日本では、天麩羅の技法を使って油で揚げたトンカツと成った。
   昔、ウイーンで、トンカツのつもりで、シュニッツェルを食べたのだが、全く美味くなかった。
   天麩羅は、ポルトガル人が、何かの宗教儀式の時の特別食として油で揚げた料理らしく、テンプル(寺院)が訛って伝わったと聞いたことがあるが、天麩羅料理をこれ程までに洗練された料理に仕上げた日本の食文化は大したものであると思う。

   石毛教授は、人間は、料理をする動物であると同時に、共食する動物であると語った。
   近代社会で発展したのは、外食と食品産業だが、やはり、ヒトの食事の基本集団は家族であり、この家族と言うヒトの社会の集団単位が消滅することはないであろうが、しかし、文明が都市化して、人工的な環境でヒトが生活すればするほど、社会の食と家庭の食の調和をはかることが大切だと言う。
   生活の中で、環境の産物ともっとも関りの深いのが食であり、人々は、栽培植物や家畜のように限られた種であっても、食材を通じて植物の種類や季節の認識をしてきた。
   ところが、現在の日本の都市民は、畑の作物を見て大麦と小麦との区別さえ分からず、魚は店頭の切り身でしか知らないので魚の名前を当てられなくなってしまっているのは、正に、食の社会化と環境離れの典型であり、ヒトの自然認識に関る由々しき問題だと指摘する。

   最近、朝日新書「コシヒカリより美味しい米」を著した佐藤洋一郎教授が、食文化を考え直すとして次の提言を行っていた。
   自分でとごうコメくらい
   おいしいものは当地で
   安かろう悪かろう 
   考え直そうダイエット
   要するに、食べると言う人間にとって大切な行為をもっともっと大切にしようと言うことのようで、夕方帰宅途中で、百貨店のデパチカによって夕食の用意をしたり、何千キロも食材を運んで来て握られた寿司をニューヨークで食べたり、無茶苦茶な価格破壊の外食で昼飯代を浮かせたり、無理に食事を抑えたり、と言った愚行は止めて、食べることを楽しもうとと言うことであろうか。
   アメリカ文化の象徴のようなファーストフードよりも、イタリア文化の香りがするスローフードを、と言うことであろうが、あまりにも世の中の生活テンポが速くなり過ぎて、悲しいかな、現代人は、食を楽しむ余裕がなくなってしまったのであろう。

   さて、石毛教授の話だと、縄文遺跡時代には、日本人は、哺乳類70種、鳥類35種、魚類71種食べていたようだが、現代人は、家畜の牛、豚、鶏が大半で、他に、羊、馬、小鳥など極僅かで限られた肉しか食べていないし、穀物に至っては、大半が、小麦とコメで、更に、佐藤教授の話では、コメの70%は、コシヒカリとその子孫のコメだと言うから、文明が進めば進むほど食材の多様性から遠ざかって行く。
   以前に、このブログで取り上げたマイケル・ポーランの「雑食動物のジレンマ」には、何万年何十万年と人類が自然環境の中で食べ続けて来た自然の中の食材には、慣れているので体が適当に対応して病気に罹りにくいが、人工的に作り上げた食材や食べ物は危険であると書いてあったような気がする。

   毎日、30種類の食べ物を取るべきであるとお医者さんが言っていたが、食の多様性は、人間にとって必須なのであろう。
   しかし、美食と言わないまでも、豊かで美味しい食を満喫するためには、それ相応のヒマとカネがいる。
   それに、もうひとつ歳の問題もある。
   昔、若かりし頃、ヨーロッパで頑張っていた頃には、ミシュランの赤本を小脇に抱えて、あっちこっちを旅しながら、星つきのレストランを渡り歩いていたのだが、このあたりになると、食は、文化であると言うことが痛いほど良く分かるのである。
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フレンチローズ:アニエス・シリジェル咲く

2010年07月15日 | わが庭の歳時記
   大苗を買って来て、遅れて鉢植えにしたフレンチローズ・アニエス・シリジェルが咲いた。
   中輪の房咲きを交えた10輪程だが、びっしりと詰まったピンク色の花弁はイングリッシュローズそっくりだが、咲き切るとカップ咲きではなくロゼット咲きである。

   イングリッシュローズと同じように、高さも幅も1メートル少しの株に止まるのなら、丁度、今植えている9号鉢のままにして、置き場所を移動しながら楽しめば良いと思っている。
   芝庭の正面のパイプ椅子の上に置いたり、玄関先に置いたり。都合10鉢ほどあるので、適当にローテーションすれば面白い。
   本当は、芝庭の真ん中にでも、単植にして支柱なしで楽しむのが良いのであろうが、周りに花木を植えすぎて、鬱蒼と茂ってしまったわが庭には、10坪も芝庭が残っていないので、それは無理である。

   今、私の庭に咲いている花木は、紫陽花で、今まで色が浅かったのだが、真っ青と言うか濃い紺色に近い鮮やかなブルーに染まって、木漏れ陽を浴びてちらちら揺れる風情は、実に優雅で美しい。
   鎌倉の明月院の紫陽花もさぞ素晴らしく咲いているのだろうと思う。
   これまで白かった柏葉紫陽花のがくが、急に褐色に近いピンク色に変わって風情を増していて面白い。
   この紫陽花は、花も面白いが、たっぷりとした柏葉にも特色があって、秋に紅葉すると実に美しくなる。

   紫式部の放射状に勢い良くぴんと伸びた枝に、二列縦隊にびっしりと黄色い蘂をつけた淡い紫色の花が並んで咲いていて、くまん蜂であろうか、少し大きなミツバチが、せっせと花を移動しながら蜜を集めている。
   こんなに小さな花のどこに蜜があるのであろうか。大きなミツバチが、何故こんなに小さな花に執着するのか不思議だが、しかし、何匹かのミツバチが、この紫式部にだけ群れて、他の花には見向きもしないのが面白い。
   受粉した小さな実が黄緑色のキャビアのように並んで壮観だが、花の位置も、枝先に近付いて来たので、もうすぐ花も終わり、秋が深まると、この実も綺麗な紫色に色付いて光り輝くのである。

   次から次に咲く八重クチナシの花は、芳香が良くて咲いている時は優雅だが、寿命が短くて直ぐに黄変して枯れてしまうのが難である。
   それに、花が開く前から、花の中にはゴマ粒よりも小さな黒い虫が入り込んでいて美観を損ねており、切花にして花瓶に生けても直ぐに駄目になってしまう。

   フェジョアの花が、まだ、咲き続けており、ホタルブクロが、また、咲き始めた。
   
   アマガエルが、あっちこっちの葉裏に張り付いていて、雨が近付くと鳴きはじめる。
   トンボが、トマトの支柱の天辺で翅を休めている。
   アゲハチョウが華麗に舞い始めた。真っ黒なアゲハも訪れてくる。
   ここ何日か、風が強くて、椿の鉢がころころ転げて困っている。
   九州中国など大雨で大変なようだが、この千葉は、梅雨明けを思わせるような真夏の日照り。梅雨なのに、今日も、トマトに水をやったのだが、今年の梅雨は、異常である。
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トマト栽培日記2010(10)・・・収穫期に入ったわがトマトプランター

2010年07月14日 | トマト栽培日記2010
   この口絵写真は、キャロルミニの一房だが、綺麗に色付いて、完熟した上の方の実は食べ頃である。
   このトマトは、ミニだと言うのだが、私のプランターでは、立派なミディトマトで、堂々とした実が、上の方の花房までついている。
   比較的実付きが良くて上出来なのは、このキャロルミニとピンキーで、他のトマトも植え場所と日当たりの関係で、大分差があるのだが、同じ種類でも出来に差が出て味も微妙に違い中々面白い。

   何故か理由が良く分からないのだが、種類には関係なく、木によっては、まだ、尻ぐされ症が続いていて、実の尻が黒ずんで駄目になるので、見つけては摘果を続けて、せっせと、その株元には石灰を振りかけている。
   昨日今日の強い風邪に煽られて、トマトの支柱が外れて、トマトの木が大きく傾いたり倒れかけたりしたので、支柱を調整した。
   勢い良く伸びた先の方には、固定ひもが間に合わなくて、風で折れたので横に支柱を立てて固定したのだが、トマトの生命力は流石で、僅かに繋がっている皮から水分と栄養素を吸収して枯れないのだから不思議である。その先の実が大きくなるかどうかは分からないが、様子を見ようと思っている。

   不思議なのは、関東地方の梅雨が異常なのか、雨が少なくてトマト栽培には幸いなのだが、毎日何らかの形で雨が降っているにも拘らず、蒸散が激しいのか、毎日、水をやらないとプランターが干上がって、トマトの木が萎れてしまうのである。
   水遣りと同時に、かなり、実がついているので、時々、野菜用の肥料を、株元に撒いているのだが、与え過ぎかも知れない。
   殆どの苗の主枝が支柱を超え始めたので、最上部の花房の上2枚の葉を残して摘心した。

   また、殆どの木が実をつけて赤く、あるいは、黄色く色付いて完熟したので、摘果して賞味しているのだが、摘果のタイミングにもよるけれど、色々な味がしていて面白い。
   ホーム桃太郎のような大玉トマトは、やはり、トマトを食べたと言う実感がする。タキイの桃太郎ゴールドは、富有柿の実と見間違うような形をしているのだが、実に美味しいトマトで、これは、果物と言っても全く遜色がない。

   トマトが赤くなると、医者が青くなると言うことわざがイタリアにあるようだが、トマトのお陰か、血圧が少し下がって調子が良くなり、毎晩飲む血圧降下薬を半分に減らしている。
   家内と二人では、一寸オーバー気味の収穫なので、せっせとトマトを頂いている勘定だが、その分、水分の摂取量が減っている感じでもある。

   
コメント
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