熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

都響・・・プロムナード・コンサート

2014年11月30日 | クラシック音楽・オペラ
   今日のサントリーホールでの都響プロムナード・コンサートは、垣内悠希指揮で、スッペ:喜歌劇「美しきガラテア」序曲、チャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番 変ロ長調」(ピアノ:HJ リム)、ベートーヴェン「交響曲第8番 ヘ長調」であった。
   休日の午後のコンサートなので、曲目には関係なく、何となく、リラックスした雰囲気で、楽しめるのが良い。

   チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番は、大分前に、ニューヨークのアベリーフィッシャー・ホールで、ロリン・マゼール指揮ニューヨーク・フィルとの共演で、凄いテクニックと華麗な演奏のラン・ランを聴いてから久しぶりに聞くのだが、この曲は、私が、クラシックファンになって一番最初に聞き込んだ曲なので、特別な思い入れがある。
   ピアノのHJ リムは、幼くして韓国から単身フランスに渡り、パリ国立高等音楽院でアンリ・バルダ教授に師事して首席で卒業したと言う彗星の如く登場した大型新人ピアニスト。
   可愛い女の子と言った感じで現れたと思ったら、鮮やかなタッチでピアノに対峙し、静かなパートでは、顔を観客の方に傾けてじっと耳を澄まして囀るように弾き込み、終楽章のクライマックスに差し掛かると、長くてしなやかな髪を振り乱して獅子吼の形相で豪快に鍵盤を叩きつけ、華麗で甘美などこか哀調を帯びたチャイコフスキー節を、緩急自在に、実に流麗に美しく奏で続ける。
   この後、アンコールに応えて弾いたのが、プロコフィエフの「トッカータ op.11」。
   目にも止まらぬ速さで、豪快に鍵盤を叩きつけるように、ほぼ5分くらいであろうか、弾き続けて、終わってからも、にこにこしながら、観客の拍手に応えている。
   昨年ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集(8枚組)でCDデビューしたと言うから、並の新人業ではなかろう。

   指揮の垣内は、ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝した若いハンサムな指揮者で、流れるように踊るように、中々、魅せて楽しませる指揮スタイルで、昔、ベルリオーズの「幻想交響曲」のワルツのところで、指揮台で踊っていたバーンスティンを思い出した。
   
   ベートーヴェンの8番は、よく演奏される第1番を除く奇数の交響曲や第6番と違って、有名曲ではないが、岩城宏之さんが亡くなる前に、9曲の中で一番好きな曲だと言っていたし、ウィキペディアによると、ベートーヴェンは「聴衆がこの曲(8番)を理解できないのはこの曲があまりに優れているからだ」と語ったということで、素晴らしい曲なのであろう。
   弦により歌唱的な主題が歌われる愛らしい楽章だと言うことだが、私は、どこか天国から聞こえて来るような、この美しい第2楽章が好きで、昔、レコードで良く聞いていた。
   垣内の指揮は、オーソドックスと言うのか、癖のないダイナミックな演奏で、この曲だけを聞くと、中々、素晴らしいと思った。
   入り口で貰ったチラシを見ていたら、小澤征爾さんが、近く、水戸室内管弦楽団で、この8番を指揮するようであった。
   

   さて、サントリーホールのロビーも、カラヤン広場も、少しずつ、クリスマス・ムード。
   カラヤン広場では、蚤の市が開かれていて、色々な雑貨や工芸品、西洋の骨董品などの露店が店を開いていた。
   昔、ヨーロッパにいた頃には、あっちこっちのシティ・ホール前の広場やマーケットの空き地などで開かれていた蚤の市に出かけて、今でも、その頃に買ったマイセンやドレスデンが手元に残っているが、楽しかったのを覚えている。
   
   
   
   
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晩秋のロシア紀行(7)エルミタージュ美術館:その2

2014年11月29日 | 晩秋のロシア紀行
   エルミタージュ美術館で、やはり、圧巻は、レンブラントであろう。
   ピヨートル大帝が、オランダ遊学時に持ち帰ったものに加えて、エカテリーナ2世が、ベルリンで一気に買い集めた絵の中にも多くのレンブラントがあり、この美術館のレンブラントの間には、10点以上の作品が、展示されていて壮観である。

   真っ先に目に飛び込んで来るのが、有名な「放蕩息子の帰還」である。
   随分前に、グランドボーンで、ストラヴィンスキーのオペラ『放蕩者のなりゆき』を見たのだが、これは、ホガースが基になっていて違うストーリーのようで、レンブラントは、新約聖書ルカ伝15章にあるイエスの語る「放蕩息子」の物語の方で、ブリテンのオペラ「放蕩息子」の方であろう。
   かなり大きな絵で、右側の窓の光が乱反射して、全体像は見難い。
   帰って来た放蕩息子を、父親が優しく抱きかかえている。
      

   私が、エルタミージュ美術館で最初に記憶したのは、レンブラントとは思えないような、ドラマチックで美しく蠱惑的な「ダナエ」である。
   先日、触れたティツィアーノのパッシブで美しい「ダナエ」と比べて見れば、歴然だが、このレンブラントの「ダナエ」には、ゼウスを暗示する雲も金の滴も何も描かれてはいないが、右手を上げてはっきりとゼウスを受け入れる強い意志が表現されていると言う。
   ところが、この絵が、精神病のリトアニア人青年によって、硫酸を浴びせられ2回刃物で切り付けられて致命的な損傷を受けた。
   直後から12年間にわたって専門家の修復を受けたが、完全修復は不可能だったと言う。
   ルーブルの「モナリザ」は、頑丈な囲いで防御されているが、この絵は、今でも、額縁ながら、他の総ての絵のように、簡単に手の届く位置に置かれている。
   もう一つ、日本にも来たと思うが、ここにも、妻のサスキアを描いた「フローラ」の絵があった。
   
   
   

   余談ながら、あのモナリザも、1911年に盗難にあっているし、戦争となれば、必ず、最初に襲われるので、疎開させられるのは、美術館博物館の絵画などの重要文化財で、例えば、ヒットラーとスターリンの絵画争奪戦は熾烈を極めており、また、ナショナル・ギャラリーの美しいベラスケスの「鏡のヴィーナス」が、1914年に過激婦人参政権論者のカナダ人女性に切り刻まれる等、とにかく、素晴らしい人類の遺産とも言うべき絵画の悲劇は、後を絶たないのである。

   エカテリーナ2世が買い集めた絵の中で、やはり、異彩を放っているのは、ルーベンスやヴァン・ダイクなどのフランドル絵画の素晴らしさであろう。
   ルーベンスの「ペルセウスとアンドロメダ」や「大地と水の結合」など大作がならんでいて、とにかく、絵が色彩豊かでドラマチックであり、それに、巨大なキャンバスに展開されているので、見ていて、想像を掻き立てられて興味深い。
   
   
   
   
   
   
   

   スペイン絵画は、多少、希薄だが、エル・グレコの「ペトロとパウロ」や、ゴヤの「女優アントニア・サラーテ」などをはじめ、ヴェラスケスやムリーリオなど珠玉の作品が並んでいる。
   
   

   この日、最初に訪れたのは、「ダイヤモントの間」で、豪華なダイヤモンドが展示されているのかと思ったら、トルコのスルタンから贈られた馬具一式と言うか、特に、馬の背にかける何千何万と言うダイヤモンドや宝石で飾られ縫い取られた目を見張るような豪華絢爛たる装飾カバーであった。
   飾り刀は勿論、馬具一式の贅を尽くした装飾の凄さは、流石である。
   本場のトルコのイスタンプールで見たトプカピ宮殿の宝物殿の凄い展示品を思い出した。
   しかし、私が、この部屋で興味を持ったのは、スキタイの黄金細工など、中々、見る機会のないスキタイの文化遺産がかなり展示されていたことである。
   この部屋での写真撮影は禁止されていたので、記録は残せなかった。

   さて、この美術館の呼び物である印象画の作品は、新しい展示場に移転していてピカソだけが数点残されていただけであった。
   そのほか、彫刻や黄金の孔雀時計、騎馬のはく製、等々面白い展示品を駆け足で回ったのだが、他にも、中国の敦煌の壁画など東洋美術の充実した展示があるのだが、とにかく、駆け足で、一寸かすっただけと言うことであった。
   あの大英博物館やナショナルギャラリーにしても、ペンギン・ブックなどを小脇に抱えて、一つ一つ、何日もかけて見て回ったのだから、今回のエルミタージュ散策は、極めて有意義であったと言うべきであろう。
   
   
   
   
   
   
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晩秋のロシア紀行(6)エルミタージュ美術館:その1

2014年11月28日 | 晩秋のロシア紀行
   サンクトペテルブルグのエルミタージュ美術館は、収蔵数から言ってもその質においても、世界最高峰の美術館ではあるが、イギリスの大英博物館とナショナルギャラリ―、ルーブル博物館、メトロポリタン・ミュージアムなどと比べて、偏りがあって、例えば、エジプトやメソポタミア、ギリシャなどにおいては、かなり、貧弱である。
   今回は、JALパックツアーなので、3時間と言う短時間のエルミタージュなので、欲は言えないのだが、私の目的であった盛期のヨーロッパ絵画を鑑賞することであったので、良くアレンジされたガイドツアーであり、ほぼ、満足であった。
   美術館は、ロマノフ王朝の冬宮なので、建物も内部の装飾も、他のヨーロッパの名だたる美術館や博物館と比べて、遥かに高級で素晴らしい。
   2階展示場に上る大使の階段など、目を見張るくらい煌びやかで豪華である。
   祖国戦争の間には、戦いを記念する大作が掲げられており、広い玉座の間には、深紅の玉座がセットされている。
   
   
   
   
   

   さて、レオナルド・ダ・ヴィンチの作だが、2点展示されている。
   「リッタの聖母」と「ベヌアの聖母」で、幼子のキリストをマリアが抱いている優しくて慈愛に満ちた絵である。
   特に、前者の「聖母子」のマドンナの眼差しの優しさ温かさは格別で、よくもこれ程までに精緻に描き、魂を吹き込めるのか、しばし、茫然と見つめていた。
   かなり小さい作品であり、油絵そのものが光り、ガラスの額縁に収容されているので乱反射しているが、無造作に架けられており、真近まで接近できるので、十分に楽しめる。
   やはり、ルーブルやウフィツィやナショナルギャラリーのダヴィンチの作品と比べると、質もスケールも違うが、私にとっては、これで、殆どのダヴィンチの作品を見たことになるので、感激であった。
   
   

   更にタリア絵画で注目すべきは、ラファエロの2作品、「コネスタビレの聖母」と「聖家族」である。
   ウフィツィにミケランジェロの凄い「聖家族」があるが、ラファエロの聖家族は、実に優しくて愛らしい。
   バチカンの雰囲気を真似たのであろう、素晴らしい「ラファエロの廻廊」が創られている。
   余談だが、ミケランジェロの「うずくまる少年」は、貸し出しで見ることが出来なかった。
   
   
   

   もう一つ興味深いのは、ティツィアーノの作品で、「悔悛のマグダラ」、そして、プラドにもあるのだが「ダナエ」である。
   ティツィアーノは、ウフィツィにも「ウルビーノのヴィーナス」と言う作品があるのだが、このダナエのように豊満な女性の絵が上手い。
   
   

   勿論、イタリア絵画関連室には、他にも注目すべき絵が沢山あり、特に、キリスト絵画が多くあるのだが、ギリシャ正教を継承して、独特なイコン絵画を発展させたロシアにおいて、どのような位置づけにあるのか、調べたかったが、とにかく、短時間で、延長22キロメートルもあると言うエルミタージュを、それも、さわりだけを見て回るのであるから、そのような余裕はない。
   とにかく、フラッシュなしの写真撮影なら許されているので、シャッターを切るのがやっとであった。
   今は、ロシアの観光シーズン・オフなのであろう、客が少なくて自由に写真が撮れたのだが、夏は、盛時の銀座並の込みようで、写真の前でポーズをとるなど不可能だとか、幸せであった。
   

      
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新宿御苑~晩秋の装い

2014年11月27日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   久しぶりに良い天気なので、東京に出た合間をぬって新宿御苑を訪れた。
   菊花展も終わっていて、それに、紅葉した落葉樹の落ち葉が地面一杯に敷き詰められていたので、秋も終わりで、冬支度を始めた感じである。
   私は、何時ものように、新宿門を入ると、すぐに右折れして、林を抜けて上の池の方に出た。
   中ノ島のススキが、夕日に映えて真っ白に輝いている風景が好きだからで、池畔の休憩所からの眺望が、中々風情があって良いのである。
   
   
   
   
   

   新宿御苑に出かけるのが、何時も遅くて、陽が陰りかけてから行くので、逆光で紅葉を撮りたいのだが、既に、日陰になっていて、中々、被写体になる紅葉がない。
   それに、やはり、東京の気候が一寸紅葉に向かないのか、京都や奈良の素晴らしい紅葉とは、大分雰囲気が違っていて、素晴らしいなあと思える木が少ないように思える。
   
   
   

   フランス式整形庭園のバラは、ほぼ終わりで、ぱらぱら咲きであった。
   プラタナス並木は、落ち葉の方が多かったが、秋色一色で、夕日に輝くと美しい。
   暇があると、この木陰のベンチで、小休止しながら本を読むのだが、静かな雰囲気が良い。
   
   

   新宿門へ向かう途中に、タムケヤマと言う葉が細く切れてぎざぎざの珍しいモミジが、濃いオレンジ色に輝いていて非常に美しかった。
   ヒマラヤ桜やジュウガツサクラなどが咲いていて、面白い。
   結局、一番綺麗な紅葉は、出口近く、すなわち、新宿門を入ったところにあったが、既に日没であった。
   
   
   
   
      
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晩秋のロシア紀行(5)EU経済制裁を感じさせない

2014年11月26日 | 晩秋のロシア紀行
   ロシアのウクライナ進行など領土問題のために、欧米など自由主義諸国が行っている経済制裁が、どのように、ロシアの経済に影響を与えているのか、特に、消費財など品不足に困っているのではないかと言うことに、多少関心があった。
   NHKのワールド・ニュースでは、困っているのは、輸出が出来なくて苦しんでいるフランスの農家やドイツの工業などの報道はあったが、ロシア国民の生活を圧迫していると言った報道はなく、私にわかることは、ウクライナ問題と石油価格の低落などによって、ロシア・ルーブルが大幅に下落しているくらいであった。

   今回、ロシアに来て、真っ先に感じたのは、8年間暮らしたEU,特に、イギリスやオランダでの生活と、殆ど異質観がなく、ロシアも、ヨーロッパの一員だと言うこと、そして、サンクトペテルブルグとモスクワの街を歩いていて、大変な大国であると言うことである。
   日本で我々が接するロシアに関する情報なり知識は、プロアメリカ過ぎると言うか、正確なロシア情報が入っておらず、どうも一面的なような気がしたのである。

   今回、私が行ってみたのは、モスクワの国営百貨店グムとガレリア風のショッピングセンターと4個所のスーパーだが、商品は、どの店にもふんだんにあって、品揃えも、日本の店と、全く遜色がない。
   スーパーなど、日本よりダイナミックで、
   外国製なのかどうかは、外国企業がロシアで製造販売しているのもあるので銘柄だけでは分からないのだが、私がオランダで愛飲していたハイネケンやアムステル・ビールなどが並んでいて、500ミリ缶が250円くらいであったから、まずまずの価格だし、フランスやイギリスの高級酒も並んでいて、ロシアで良いと言われているグルジア・ワインの影が薄いくらいなのである。
   
   

   野菜や魚、肉などと言った生鮮食料品から、加工品まで、食料品はないものがない程で、外国人への入場料や土産物品など外国人価格のものは異常に高いが、普通のロシア市場の商品の価格は、日本並のような気がした。
   多少違いがあるとすれば、日本のスーパーよりは、客が少ないような気がするのだが、一般的な商店の状況を見ていないので、庶民の生活実態は分からない。
   
   
   
   
   
   
   
   
   キャッシャーのところは、次の通りで、サービスの感覚は多少希薄かも知れないが、それ程悪くはない。
   

   一方、ショッピングセンターは、細長い4~5階建てで中央吹き抜けのビルなのだが、一階の一部がスーパーになっていて、電気関係の量販店や外国の専門店などが並んでいる。
   スターバックスやマクドナルドなどレストラン階もあって、一応、買い物が出来るようになっている。
   この日は、スーパー以外は、客数が少なかった。
   
   
   
   
   

   さて、昔から、よく知られている国営百貨店グムは、赤の広場のレーニン廟の対面にあって、夕刻には電飾で飾られていて、ロビーや吹き抜けには、クリスマスの飾りつけがなされていて華やいである。
   ロシア人ガイドが、ここは非常に高いので、買い物は、スーパーなどでやれと忠告していた。
   パリやロンドンの百貨店や高級ショッピング街と全く同じ雰囲気で、出店しているのは、殆ど海外のブランド店である。
   KENZOやSONYの店舗があった。
   ロシアでは、免税店などがないので、空港の店が貧弱なので、外国のブランド品を買いたければ、このグムで買うべきなのであろう。
   街の中心に、歩行者天国のショッピング街アルバート通りがあるようだが、行けなかった。
   店舗には、殆ど客が入っていなかったが、簡易なレストランコーナーなどは、かなり混んでいたので、モスクワ中心街には、適当に寛げるレストランが少ないのであろう。
   この日、制裁問題で閉鎖されていたマクドナルドの1号店が、オープンしたとモスクワ・タイムズが報じていた。
   
   
   
   
   
   
   
   

   さて、EUなど欧米の経済制裁問題だが、閉鎖されればされるほど、私は、むしろ、ロシア経済にとっては、自国経済の近代化や高度化のためには、千載一遇のチャンスだと思っている。
   広大な国土を有し、天然資源は何でもあるのだから、豊かな潜在力と、かなり高い人的資源をフル活用して、現在導入可能な科学技術を駆使して、これまで、手を抜いていた経済成長政策を果敢に推進すれば、国力を一気に引き上げられるのではないかと思っている。
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晩秋のロシア紀行(4)マリインスキー劇場でバレエ「ジゼル」

2014年11月25日 | 晩秋のロシア紀行
   このマリインスキー劇場の起源は、1783年にエカテリーナ女帝によって開設された帝室劇場だが、現在の劇場は、農奴解放令を出したアレクサンドル2世が、妻マリアのためにと1860年に建設されたロシアきってのオペラ・バレエ芸術の殿堂である。
   残念ながら、夜に直行したので、昼の劇場の雰囲気は分からないのだが、劇場の内部は、非常にシックでクラシカル、風格のある落ち着いた雰囲気が、実に良い。
   座席は、木製ビロード布張りの変哲もない一脚一脚の椅子で、移動自由であったが、中々、歴史を感じさせる雰囲気にマッチしていて悪くはない。
   幸い、私たちの席は、ストール・ボックスの一番センター寄りの良い席を予約できたのだが、当夜は、満席のようであった。
   

   ニューヨークのMETは、巨大なオペラ劇場だが、このマリインスキーも、ロイヤルオペラや古いパリのオペラ座やスカラ座などと同じで、客席が馬蹄形に積み重なったかなり小規模な劇場で、贅を凝らした内装が実に美しい。
   前方と後方の情景は次の通りである。
   ロイヤルの場合には、正面ではなく、二階の一番左側の舞台に近いところに女王の席があるが、この劇場は、多くの劇場と同じように、中央二階に貴賓席がある。
   
   
   
   
   

   ストール席の横から舞台を見た写真だが、座席の状況が良く分かる。
   また、桟敷席のサークル線が、光に映えると綺麗である。
   舞台正面の左右の柱の彫刻が美しい。
   
   
   
   

   さて、当夜のプログラムは、アドルフ・アダン作曲のバレエ「ジゼル」であった。
   1841年にフランスで初演されたバレエ作品だが、翌1842年に、この劇場でも初演されたと言う由緒ある作品である。
   病弱な村娘ジゼルが、身分を隠した貴族のアルブレヒトと恋に落ちるのだが、ジゼルに思いを寄せる村の青年ヒラリオンに身分を暴かれ、アルブレヒトの婚約者バティルドが村を訪れたるに至って総てを知り絶望して息絶える。
   ここからが、結婚前に死んだ娘達が妖精ウィリとなり、夜中に森にきた男性を死ぬまで踊らせるというハインリッヒ・ハイネのオーストラリアの伝説が基となるのだが、ヒラリオンは踊り殺されてしまう。
   ジゼルを失って傷心のアルブレヒトが彼女の墓を訪れ、亡霊となったジゼルと再会するのだが、ウィリの女王ミルタにつかまって瀕死の状態に追い込まれるまで舞い続けるので、ジゼルはミルタに許しを乞う。
   その内、鐘がなり夜が白み始めるとウィリたちも消えて行くので、アルブレヒトは命拾いするのだが、ジゼルも消えてしまう。
   

   そんな、実に切ない話なのだが、アダンの美しくて流れるような音楽に乗って、優雅で華麗な夢のようなバレエが展開される。
   ジゼルを踊るオレシア・ナヴィコワ、そして、アルブレヒトのイゴール・コルプも、夫々、マリインスキー劇場のトップソリストで、ロシア功労芸術家であり、素晴らしいテクニックと人間業とも思えないような華麗な舞が魅了して止まない。
   それに、白鳥の湖のように、あるいは、それ以上であろう、白衣のウィリたちの群舞が、息を呑むほど美しくて感動的である。
   もう、何十年も前に、METやロイヤルオペラで、バレエを楽しんでいたことがあり、どちらかで、ジゼルを観た記憶があるのだが、あの頃感激した優雅なバレエの世界を思い出した。
   指揮者は、ロシア人民芸術家のボリス・ブルージンで、期せずして、願ってもない素晴らしい経験を、この華麗なマイインスキー劇場で体験することが出来た。
   問題は、マリインスキー劇場は、やや中心街から離れたビジーロードに面したところにあって、交通事情の悪いサンクトベルグでの冬季の帰路の交通が非常に不便であり、今回は、JALパックのコンダクターのMさんに、大変お世話になった。
   
   
   
   
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晩秋のロシア紀行(3)ロシア美術館

2014年11月24日 | 晩秋のロシア紀行
   サンクトペテロブルグのミハイロフ宮殿を改修して、ロシア美術を集積したのが、このロシア美術館。
   王宮の面影を残しつつ、ロシア美術の最高峰が集められている。
   王宮や美術アカデミーにあった収蔵作品やエルミータージュ美術館からの移管、そして、革命後に国有化された個人所有の作品から成り立っている。
   
   

   まず、最初の作品は、ビザンチン時代のイコンや教会などの宗教絵画で、かなり年代を遡る。
   しかし、多くの作品が、ロシア草創期の首都キエフにあった作品なので、ロシア人ガイドは、ウクライナの事を語らざるを得ないので、何となく歯切れが悪く、期せずして、国際問題の複雑さを感じて、興味深かった。
   ヨーロッパのどこの国も、日本のように、国境がはっきり画定しておらず、取ったり取られたり、国が一時消滅したり、入り組んだ複雑な歴史を辿っているので、自国だけのまともな国内史は著し難いのである。
   EUでは、「ヨーロッパの歴史―欧州共通教科書」が発行されているが、当然であろう。
   歴史認識などと中韓から言われる日本の場合と、次元が桁違いなのである。
   
   
   

   18~19世紀前半の美術の部屋に来ると、正に、ルーブルに居るような威容で、素晴らしい巨大な作品が壁面を飾っている。
   ブリューローフの「ポンペイ最後の日」の凄い迫力は圧倒的。ドラクロワの絵を見ているような錯覚を覚える。
   もう一つ、巨大なカンバスに描かれた荒れ狂う大海原で、木端のように漂いながら、死闘を繰り広げる人びとを描いたアイヴァゾフスキーの「第九の波」。
   この写真は、人物部分の一部だが、所詮死を待つのみの運命に翻弄される人間の断末魔を描いて凄まじい。
   
   
   

   この美術館の収蔵品で注目を集めているのは、やはり、レーピンの作品で、私は、「ザポロージェ・コサック」が、一番好きである。
   当時、ウクライナ南部にまで勢力を張っていたトルコのスルタンが、ロシアの自由の民コサックに臣従するようにと迫った最後通告に、コサックは、罵詈雑言を書き連ねて嘲り蹴った返書を書いたのだが、正に、その手紙を書いている瞬間を描いた絵である。
   様々な服装や恰好をした誇り高き軍師たちの表情が実にリアルで、迫力抜群の作品であり、圧政から逃れて自由民となって辺境地帯で暗躍していたコサック武装集団の面目躍如である。
   

   レーピンの有名な絵「ヴォルガの舟引曳き」は、横長のかなり小さな絵だが、貧しい舟曳き人夫を活写していて、当時の農奴の悲しさを実感させる。
   搾取に搾取を重ねて築き上げたロマノフ王朝の繁栄は、一体何だったのか、得体のしれないロシア史の暗部を覗き見た思いである。
   もう一つレーピンの大作は、「帝国枢密院設立100周年記念の儀礼」。
   最後の皇帝ニコライ2世の姿が見える。
   
   
   

   後進国ロシアは、モンゴルやトルコ、スエーデンやポーランドと言った強敵と国境を接していたので戦争の絵が多い。
   川を挟んで熾烈な白兵戦をダイナミックに描き切ったスリーコフの「エルマークのシベリア征服」の凄さは圧倒的で、日本画の侍の戦闘絵と迫力の差は歴然。
   もう一つ、スリーコフの絵で、興味深いのは、「ステバン・ラージン」、歌にもあるステンカ・ラージンの絵である。
   小町文雄氏によると、カスピ海を暴れ回ってペルシャで拉致した美姫を、「女にうつつつをぬかすのか」と部下に揶揄され、腹を立てて水の中に放り込んだので、その直後で浮かぬ顔だと言う。
   ステンカ・ラージンも人の子、恋をしたのであろう。
   
   
  
   荒涼とした荒野に馬上で佇む兵士を描いたヴァスネツォーフの「岐路に立つ騎士」。
   スリコフの「スヴォーロフ将軍のアルプス越え」。
   トルストイやニコライ2世の絵画等々。
   このロシア美術館の散策は、私自身が、良く知らなかったロシア絵画の大作が目白押しで、ロシア芸術の奥深さを体感した重要な経験であった。
   
   
   
   
   
   

   なお、人が少なくて、絵画写真は自由に撮れたが、位置を工夫しても、額縁のガラスなどの乱反射で、偏光フィルターがなかったために、残念ながら、写真に霞がかかってしまった。
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晩秋のロシア紀行(2)エカテリーナ宮殿・琥珀の間

2014年11月23日 | 晩秋のロシア紀行
   サンクトペテルブルグから南へ25キロ離れた郊外に、ツアールスコエ・セローと言う「皇帝の村」があって、壮大な「エカテリーナ宮殿」がある。
   ナチスドイツに壁面の琥珀を剥離されて、行くへ知れずとなり、最近修復された有名な「琥珀の間」がある宮殿である。
   この宮殿は、ピヨートル大帝の娘エリザヴェータによって18世紀中葉に建てられた母帝エカテリーナ1世の名を冠した宮殿で、後のエカテリーナ大帝もこよなく愛したと言うから、ロシア史における女帝の権威の凄さが分かろうと言うものである。

   ブルーの壁面に、真っ白な列柱などの枠組みと浮き彫りで華麗に装飾荘厳された310メートルのバロック建築の威容は、流石に、盛期のロマノフ王朝を忍ばせる燦然たる遺産である。
   鋳物製の門扉も美しいが、朝日を浴びて輝く5本の礼拝堂のドームが素晴らしい。
   
   
    

   ところで、このエリザヴェータだが、紛れもないピヨートル大帝とエカテリーナ女帝の子供であり帝位継承者でありながら、結婚前に生まれたので庶子扱いとなり、枢密院が即位を拒否し姉のアンナに冷遇される等、「陰鬱な10年間」を過ごしたと言う。 
   治世20年間に、ドイツ人重用からロシア人重視に改め、著しい商工業に発展につくし、この時期に、エルミタージュの基礎となる冬宮など豪華な建築が始まった。
   晩年には、政治への情熱よりも、観劇や舞踏会などあらゆる贅沢に身を委ねるようになり、フランス文化と思想の影響が高まったと言う。
   このエリザヴェータの精魂傾けて築きあげた宮殿であるから、凄くて当たり前なのであろう。
   私の印象では、ヴェルサイユ宮殿やウィーンのシェーンブルン宮殿など、当時の先進ヨーロッパの宮殿とも遜色ないと思っている。
   広大な大広間に入ると、ヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」を彷彿とさせる。
   この間で、エカテリーナ2世に、大黒屋光太夫が謁見を許されたと言う。
   

   金ぴかに壁面を荘厳された煌びやかな部屋を経由して、ずっと奥まったところに「琥珀の間」がある。
   ここだけは、写真撮影が禁止されているので、ロシア人ガイドは、部屋に入る前と後に、ドア越しにシャッターを切れと言う。
   琥珀は何種類かあって、白っぽいものから濃い琥珀色までバリエーションがあり、壁面一面を飾って、金色の内装とマッチして光り輝いている。
   第二次世界大戦で、レニングラードに迫ったナチスドイツ軍が、総て剥がし取って略奪してしまったので、最近、復元されて、観光客で溢れかえったと言うことで、今でも、夏の観光シーズンには、見学が大変だと言う。
   プロイセン王が、ピョートル大帝に贈った琥珀のモザイクで飾られていたと言うから、ドイツ人が持ち帰ったと言えないまでも、行方知れずと言うのは、昔、アメリカに送られる途中に消えた北京原人の骨や、台湾への移動の途中に多く消えた故宮博物館の宝物などを思いださせて、悲しい。
   
   
   

   壁面一面の「絵画の間」、豪華な食器をセットした「緑の食堂」、布地の壁面の「青の客間」等も美しい。
   とにかく、夫々の部屋が、色々なデザインで作り上げられていて、その創造性に舌を巻く。
   
   
   
   
   

   欧米の美術館や博物館には、子供たちの野外移動教室が盛んで、この宮殿にも何組かの小学生のグループが来ていた。
   ニューヨークのメトロポリタンなどでは、子供たちが床に座って模写をしたり記録を取っていたが、勉強には格好の場所なのであろう。
   
   

   入り口を入って、踊り場に二つの天使像があり、手前に「目覚める天使」、奥側に「眠れる天使」の可愛い大理石彫刻が置かれていて面白い。
   
   
   
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晩秋のロシア紀行(1)久しぶりの海外旅行

2014年11月22日 | 晩秋のロシア紀行
   ロンドンの赴任を終えて、帰国途中に、ザサクトペテルブルグのエルミタージュ美術館に立ち寄って帰ろうと思った。
   しかし、ソ連邦が崩壊してロシア経済が最悪の時期で、治安が悪くて、断念せざるを得なかった。
   東欧は、東独とハンガリーとチェコ、それに、エストニアくらいしか行ったことがなかったが、これらの国はベルリンの壁が崩壊してから、かなり、政情も生活も安定していて、大国ロシアも大丈夫だろうと思ったのだが、実情は、最悪であった。

   大英博物館やナショナル・ギャラリー、それに、ルーブル博物館やメトロポリタン・ミュージアム、アテネ、ウィーン、ベルリン、ローマ、マドリード、フィラデルフィア、ワシントン等々、目ぼしい欧米の博物館や美術館を回ってはきたが、エルミタージュだけは機会がなかったので、今回、思い立って、JALパックの「ロシア紀行7日間」に参加することにした。
   
   

   サンクトペテルブルグとモスクワの目ぼしい観光地は回ることになっていたので、マリインスキー劇場とボリショイ劇場の観劇チケットを、自分で手配すれば、ほぼ、楽しめそうだと思ったのである。
   パック旅行や団体旅行は、経団連の視察旅行など以外には参加したことがなく、個人旅行は、1週間でも2週間でも、総て、自分で手配して欧米を歩いて来たのだが、ロシアは違っていて、ビザの取得からして、ロシアの旅行社が絡まない限りダメであり、JALパックのように、少人数で上手くアレンジされた団体旅行に参加するのが、最善の方法であったのである。

   ビザの取得は、JALパックに必要書類を用意して貰って、自分自身で申請書類を作成して、ロシア大使館に行って取得した。
   ザンクトペテルブルクのマリンスキー劇場は、到着した夜に、ギルギエフ指揮で、プロコフィエフの歌劇『戦争と平和』が上演されていて、後半の1時間や2時間くらいなら、観劇可能であろうと思ったが、ロンドンやパリならいざ知らず、ロシアでの厳寒の深夜なので諦めた。
   結局、チャンスがあったのは、1日だけで、無駄でも良いと思って、旧劇場でのアドルフ・アダンのバレエ『ジゼル』と新劇場Ⅱでのドミートリイ・ショスタコーヴィチのオペラ『鼻』のチケットを取って、どっちへ行くかは、現地で考えることにした。
   
   
   
   ボリショイ劇場は、ニコライ・リムスキー=コルサコフの歌劇『皇帝の花嫁』のチケットは、間一髪でソールドアウトとなり、結局、遅れて売り出された『Golden Voices of MONNGOLIA』のガラ・コンサートのチケットを取得した。
   ロシア国立管弦楽団をバックにして、モンゴル国立歌劇場のトップソリストたちが覇を競う。
   かっての宗主国であり、タタールの軛で苦しめられてきたモンゴル後裔の歌手たちの凱旋公演とでも言ったコンサートであろうか。
   面白いと思った。

   本格的なロシア・オペラを鑑賞したかったが、天下のマリインスキーとボリショイで、鑑賞できる機会を得て、幸せであった。
   勿論、両劇場のチケットとも、スカラ座やメトロポリタンと同じように直接劇場のホームページから取得したので、現地価格で安く、間髪を入れずにeーチケットがインターネットで送られて来たので、全く雑作がなかった。
   
   

   さて、今回の旅行は、晩秋とは言え、両都市の気温は、-4~-9前後の温度で、日本では正に厳寒で、それに、緯度が高いので、日が非常に短い。
   心配したが、1週間全日晴天で、現地では、稀有なる好天気。 
   私も、アムステルダムとロンドンで、8年間生活したが、冬は、毎日、リア王の世界で、晴天など数えるほどしか経験していない程、北部ヨーロッパの冬の天候は悪い。
   青空をバックにした写真を撮ることが出来たのが不思議である。

   カメラは、とても、大型の一眼レフを抱えて歩ける筈がないので、今回は、望遠レンズ装着のミラーレス1眼のニコン1 J3とコンデジのソニーのDSC-RX100を」持って出た。
   小型で、両カメラとも、極めて性能が高いので、結構役立ってくれた。
   ロシアは、美術館は勿論、教会内部でさえ、フラッシュナシなら撮影を許されているので、意外に、シャッターチャンスは多い。
   良い写真は撮れなかったが、ブログ用には、まずまず、面白い写真が撮れたと思う。 

   色褪せてしまったが、BRICS'sで、まだ、行ったことがなかったのは、インドとロシアで、今回は、ロシアに対して、かなり、有益な情報を得られて喜んでいる。
   思うままに、私のロシア観を交えながら、ロシア紀行を綴ってみたいと思っている。
   
     
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国立劇場:十一月歌舞伎:通し狂言「伽羅先代萩」

2014年11月15日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の国立劇場の歌舞伎は、通し狂言「伽羅先代萩」である。
   藤十郎と成駒屋一門の舞台で、特に、「竹の間」「御殿」の場は、上方歌舞伎の伝統を踏襲した舞台なのであろう。
   藤十郎の政岡は、2006年1月の襲名披露公演以降3回目で、あの時には、今回省略されていた「まま炊き」の場も感情が迸るような素晴らしい舞台を演じていた。
   枯淡の境地か芸の進化か、そして、上方歌舞伎の伝統である工夫に工夫を重ねた結果か、今度の舞台は、研ぎ澄まされたように動きをセーブし、観客にじっくりと想像を掻き立たせるような芸に徹していたように思う。
   人間国宝藤十郎が到達した政岡像の究極の境地なのであろう。
   

   「三千世界に子を持った親の心は皆一つ、子の可愛さに毒なもの食うなと云うて叱るのに、毒と見えたら試して死んでくれと云うような胴欲非道な母親がまたとひとりとあるものか。 武士の胤に生まれたは果報か因果かいじらしや、死ぬるを忠義と云う事はいつの世からの習わしぞ」と必死と千松を抱きしめて天を仰いで号泣していたが、
   今回は、あの姿は消えていて、肺腑を抉るような慟哭を、体全体で表現していた。
   私が、これまでに見た政岡は、雀右衛門と玉三郎の江戸歌舞伎の伝統だが、殆ど記憶にないので、私の政岡像は、この藤十郎と文楽の簑助の政岡であり、丸本系統と言うことであろうか。

   ウィキペディアによると、
   歌舞伎『伽羅先代萩』は、伊達騒動を鎌倉時代に託して描き、忠義の乳母・政岡とその子・千松を登場させた。『伊達競阿国戯場』は、騒動の舞台を細川・山名が争う応仁記の世界にとり、累伝説を脚色した累・与右衛門の物語と併せて劇化した。現在『伽羅先代萩』の外題で上演される内容は、「竹の間」「御殿」「床下」は前者、その他は後者の各場面を原型としている。とある。
   今回の通し狂言は、「花水橋」「竹の間・御殿・床下」「対決・刃傷」の3部に分かれており、2部は、政岡主役の女の舞台であり、1部と2部は、伊達騒動そのものを主体にした男の舞台と言うべきか、芝居の主題も舞台展開も全く違った運びになっていて、がらりと変わるその落差の激しさが面白い。
   1部は、藩主足利左金吾頼兼の放蕩であり、2部は、あまりにも有名な政岡の忠臣、そして、3部は、仁木弾正などの簒奪者たちのお裁きで、大岡越前や遠山の金さんのお白洲のシーンを見ているようで、爽快でさえある。

   竹の間の政岡は、扇雀が演じている。
   藤十郎の芸の継承者たる堂々とした政岡で、控え目ながら毅然とした忠臣ぶりは爽やかで感動的である。
   孝太郎の沖の井の安定した芸の冴えは、本領発揮と言うべく文句のつけようがない。
   面白かったのは、粋な若者などで颯爽として演技を披露していた亀鶴が、女形で松嶋を演じていて、素晴らしい舞台を務めていたことである。
   東蔵の栄御前は、貫録十分。千松が、八汐にいたぶり殺されているのを耐え忍んでいる政岡を、長い間凝視し続けていた。
   若君鶴千代と千松の取り替えっ子の発想はこの舞台では唐突だが、その前に、忠臣方の小槙が栄御前に嘘を吹き込んでいたという設定なので、それが分かっておれば、スムーズに話が進む。

   さて、翫雀の八汐だが、器用なので上手く演じているが、どこか、これまでの人情味豊かな、あるいは、コミカルタッチの演技の印象が強いので、毒々しさと言うか悪に徹した嫌らしさエゲツナサに欠けていたようで惜しいと思う。
   四代目中村鴈治郎を襲名するのであるから、これから開くべき新境地であろう。
   團十郎や仁左衛門や梅玉の八汐を見ているので、その印象に引っ張られるのかも知れないが、この舞台での八汐は、政岡と対等の大役であり、あのオテロのイヤーゴに匹敵する重要な役柄なので、その出来不出来が舞台の帰趨を決するのである。

   第3部の「対決・刃傷」の場だが、理路整然と裁いて悪人を追い詰める颯爽たる細川勝元の梅玉、大きな極悪人を豪快に演じる仁木弾正の橋之助、忠臣一筋で実直な渡辺外記左衛門の彌十郎、何時もはハシッパの悪人を演じているが大分出世した山名宗全の市蔵など人物を得て、テンポの早い心地よい舞台を展開して、一気に大詰めに持ち込む爽快さが、魅せてくれる。

   丁々発止の梅玉と橋之助の対決が良い。
   勝元は、弾正の主君の管理監督と言うかサポートを疎かにした、いわば、善管注意義務違反と、コーポレートガバナンスの杜撰さを突いて一気に追い上げて、架空の願い書を書かせて、お家転覆教唆の密書と照合して私文書偽造を立証して、ぐうの音も言わせずに追い詰めて行く。
   ところが、弾正も曲者で、自分の印判を押す時に、鬢の毛を抜いて印象を誤魔化そうとする知能犯ぶり、面白いが所詮ばれるのは明白、今も昔も、変わらないようである。
   梅玉は、序幕の花水橋の場で、放蕩三昧ながら粋で品格のあるお殿様を演じて中々の出来、いずれの役柄も梅玉にうってつけで魅力全開の舞台である。
   また、彌十郎も、床下の場で、豪快な荒獅子男之助を演じて、橋之助の弾正と渡り合って好演している。
   やはり、出色の出来は、橋之助の極悪人ながら風格のある豪快な弾正で、芸風の大きさを見せつけた素晴らしい進境であろう。
   幸四郎の弾正を何度か見ているが、この舞台が決定版としたとして、橋之助の弾正は、正に、直球勝負で、端正そのもので強烈な印象を残していた。

   素晴らしい「伽羅先代萩」の舞台だが、何しろ、歌舞伎座は、吉例顔見世大歌舞伎で観客を集めていて、明治座では、猿之助が、花形歌舞伎を演じており、競争が激しいので、かなり、空席があるのが惜しい。
   しかし、通し狂言としての歌舞伎公演は、極めて貴重であり、歌舞伎そのものの本領発揮だと思っている。

   次の写真は、この日の国立劇場のロビー風景、広い空間が実に良い。
   庭に茶の花が咲いていた。
   この日の半蔵門お堀端からの霞が関は、綺麗であった。
   
   
   
   
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観劇やコンサート鑑賞は実演で

2014年11月13日 | 生活随想・趣味
   結構熱心に、歌舞伎などの古典芸能やMETのライブビューイングなどのオペラやBSプレミアムのクラシック演奏会などテレビの番組を録画する。
   大げさに言えば、何十年にも亘って随分撮り置きしながら、昨年の宿替え時に、整理に困って、膨大なビデオテープやDVDを廃棄処分してしまった。
   整理がついていなかったので、どれを残すべきか、それさえ出来ずに、殆ど粗大ゴミとして捨ててしまったのである。

   オペラでも、METライブビューイングに、NHK BSプレミアムのオペラ番組を加えただけでも、毎年、相応なボリュームになる。
   これに、ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートを筆頭に、BSで放映されるコンサート番組が加わる訳であるから、クラシック音楽だけでも、大容量のブルーレイに録画しても、相当な枚数になる。

   問題は、この録画した番組を、殆ど見ないことである。
   見る時間がないと言うこともあるが、実際は、それ程見たいとは思わないと言うのが正直なところである。

   市販のDVDも結構買っていて、偶に、気が向いた時に、見るのだが、確かに、実演を見るよりも良く分かって楽しめるのだが、リピートしても、同じシーンの繰り返しであり、何となく、臨場感に欠ける所為か、よそよそしくて、実演の舞台のように感激できないのである。
   実演の場合には、正に、一期一会で、その場限りで、一瞬のうちに役者の演技も舞台も終ってしまうのだが、見ている限り、実際に、役者や奏者が目の前にいて芝居をし楽器を奏でていて、観客の自分も舞台の演者と一緒に呼吸している。
   芝居やコンサートの音楽などが良く分からなくても、その気持ちや感情の起伏が、実際に目の前で展開されている芸術なり芸とともに、こころ踊ったり泣いたり、時には激しく時にはゆったりと、リズムを打ちながら呼吸をしている感じなのである。

   もう一つ、実演とテレビやDVDなどオーディオビジュアルの世界との差は、ヒューマンタッチと音響の質の差だと思う。
   昔、テレビの番組で、音響機器のサウンドとは違って、実際の人間の歌声と楽器の音色は、実に美しくて心地よいのだと、小澤征爾さんが語っていたように思うのだが、これである。
   記録に残された舞台は、ほんの僅かで、どんな素晴らしい芝居や演奏でも、殆ど一度限りで消えてしまい、惜しいといつも思うのだが、強烈な印象を観客の心に残すからこそ意味があるのであろう。
   分かってか分からずかは別にして、私は、このブログでも、観劇やコンサートの記事は、殆ど総て、実演の舞台の感想を書いている。

   更に付け加えれば、その芝居なりオペラが演じられている劇場や周りの雰囲気を味わう素晴らしい経験を、楽しめる良さである。
   日本の古典芸能の舞台も、同じ文楽でも、大阪の国立文楽劇場と東京の国立劇場小劇場では、雰囲気が大分違っていて、面白いと思っている。
   これが、オペラになれば、ウィーン国立歌劇場、ミラノスカラ座、MET,ロイヤル・オペラ等々、コンサートなら、フィラデルフィア、アムステルダム、ロンドン、ベルリン等々、都市とその国の文化風物まで、感激の対象となり強烈な思い出となるのである。

   そんな楽しさを味わいたくて、これまで、随分あっちこっちを行脚しながら、実演の舞台を散策して来たような気がしている。
   それ程、見る機会がなくても、録画し続けているのは、それらの実演の楽しみを反芻できるような気がして続けているのかも知れないと思っている。
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井本沙織著「ロシア人しか知らない本当のロシア」

2014年11月12日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   1991年末にソ連が崩壊したが、その直前に、中大研修生として来日し、その後経済博士号を取得して日本に帰化したロシア婦人が書いたのがこの本。
   殆ど崩壊に直面していたロシア経済の生々しいレポートから書き起こしていて、女性としての心配りとキメ細かさを匂わせたロシア生活を交えたドキュメンタリータッチの現在のロシア論で、経済専門家としてのロシア政治経済報告もビビッドで非常に面白い。

   昔、石油危機の時代に、日本でもトイレットペーパーが、スーパーから完全に消えたことがったし、ブラジルでも激しいインフレと品不足で、スーパーの棚が殆ど空っぽになったのを見ているが、毎日長蛇の列でも買い物が出来なかったと言う、ソ連時代の末期のソ連経済の惨状は、筆舌を尽くし難い状態だったと言う。
   冷戦時代に、アメリカと覇権を争った超大国ソ連が、戦争や天変地異と言った大異変に遭遇したわけでもないのに、大恐慌より酷い経済状態に陥り、更に、98年ににも、アジア通貨危機のあおりを受けて、通貨危機に突入して国債利回りが100%超、デフォルトを宣言、ロシアの終わりという瀬戸際までに至った。

   ところが、デフォルトで国際社会の信用を失墜して前途を危ぶまれたロシアが、この危機状態から、奇跡の回復を遂げた。
   焼け跡状態になっていたロシア経済を回復させ、国民の心をいやしたのは、何と、石油価格の高騰だったのである。
   2年も経たない間に、ロシア経済は回復し、プーチンが大統領に就任した時点では、財政も黒字転換、危機以前には想像もつかなかったような好景気を享受した。
   この本の帯の如く、ロシア経済を救ったのは、ロシア人自身ではなかったのである。
   

   新生ロシアは、1992年、IMFの指導下で、資本主義経済化を図ったのだが、旧体制の制度を維持したまま、経済転換を進めたために、マヒ状態であったのが、マクロ経済の好転で、プーチンは構造改革に積極的に取り組むことになった。
   しかし、ロシア経済は、4割が統計で把握できない闇経済だと言うことであり、その上に、税制の複雑さはともかくも、企業も国民も税金を払わずにすむ「スキーム(知恵を絞って得をする)」を考えるのに必死だと言うから、石油価格高騰による好景気が、逆に、公務員の汚職をも増進して、行政の品位が高まる筈がないと言う。

   ロシア経済で最も重要な問題は、税制改革で、透明性を高め、税の負担を軽くし、税金の比重をエネルギー、資源輸出企業にシフトさせることであった。
   この実行によって、所得税と資源使用税の徴収が増加し、法人税のGDP比率は減少し、税負担は、製造業から石油天然ガス鉱石等の一次産業へシフトしたと言う。
   収入隠しをなくすために、個人所得税を軽くすることで、徴税額が増えたと言う。

   深刻な問題は、行政手続きの非効率と官僚の汚職で、ロシアの官僚の質の悪さは、BRIC'sのみならず、途上国でも、断トツに悪い。
   ドラスティックな規制緩和や行政の簡素化等など役所の体質改善プログラムを推進しても、執行者であるお役所の体質が変わらない限り状況は良くならず、ロシアの行政改革は、中々終わりそうにない。
   車通勤などでは、理由もないのに頻繁にお巡りさんに止められて、金すなわち一寸した賄賂を払わないとしょっ引かれるとかで、これが副収入となっていて、他の役所も似たり寄ったりだと言うから、無理に、お役所仕事を複雑に非効率にしているとしか思えない。

   これは、随分前の話ではあるが、私がブラジルで経験したのと全く同じである。
   インフラの未整備、税制の複雑性と高率、労働問題の頻発、行政の非効率等々、過重なブラジルコストとして外資がブラジルを避ける要因だが、これとまったく同様のロシア・コストがロシアに存在しているようで、その上に、透明性やオープン性がもっと希薄なロシア政治経済社会であるから、外資のカントリーリスクは、高くなるのであろう。

   ロシアの今後については、政府も意識的に、オランダ病を避けるために、石油や天然ガスなど一次産業依存から脱却すべく、経済発展計画を推進しているようだが、やはり、ロシア経済の活性化のためには、最大の課題は、民間の力を如何に伸ばして活用するかであろう。
   ところが、共産主義的な計画経済の名残であろうか、経済的な政策や権力は、益々、中央政府に集中しているようで、肥大化する「クレムリン株式会社」の様相を呈していると言う。

   政府の投資ファンドの創設や、インフラ事業や経済特区の事業、ロシア企業の海外事業、ベンチャー企業等への投資を目的として設立されたロシア開発銀行などに、膨大な資金が投入されるのだが、心配なのは、汚職の改善どころか、汚職しやすい職務のリストを作るのではないか、汚職塗れの役人にこれだけ巨額の資金を預けて大丈夫なのか、と著者が按じているのが面白い。

   これまで、このブログで、何度かロシア経済に触れて、例えば、
   ダレン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソンの「国家はなぜ衰退するのか」の第五章「収奪的制度のもとでの成長」で、収奪的制度のもとでも、経済は成長するが、その成長はいずれすぐに終息して、経済は一気に沈滞してしまうと言うプロセスを、ソ連を例にして語っていた。のを紹介した。
   しかし、ハルフォード・マッキンダーの「ハートランド論」を援用すれば、ユーラシアを基点とした国際関係の地政学では、ロシアが、長らく世界を動かしてきた「旧世界」の歴史の回転軸(pivot)の中心である。
   いずれにしろ、ロシアは、未来の大国、日本にとっては、極めて重要な隣国である。
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顔見世大歌舞伎・・・吉右衛門の「井伊大老」

2014年11月11日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   白鸚三十三回忌追悼公演なので、古典歌舞伎の名作が並ぶ豪華な舞台だが、私が観たかったもう一つの公演は、北條秀司作の「井伊大老」。
   随分前に見たのは、歌右衛門の晩年最後の舞台で、同じく吉右衛門が、感動的な芝居を見せてくれていたので、あの素晴らしい舞台の再現を期待しての観劇であった。
   実父白鷗と歌右衛門が演じた伝説的な舞台を、吉右衛門が、歌右衛門を相手にして継承して行ったと言うことでもあろう。
   重厚で泰然自若、それでありながら、実に情愛に満ちた人間味豊かな直弼像を、これだけ格調高く演じられるのは、吉右衛門の独壇場であろう。

   もう一度、国立劇場で、「大老」と言うタイトルの通し狂言で、吉右衛門の直弼、魁春のお靜の方、それに、今回、お靜の方を演じた芝雀が、昌子の方を演じた素晴らしい舞台を観ている。
   この時には、歌六の剛直で強情な水戸斉昭や、大谷桂三のヒュースケンや澤村由次郎のハリスと言ったアメリカ組が登場するなど当時の雰囲気を醸し出したりして面白かった。

   後述するが、今回の「井伊大老邸の奥書院より桜田門外まで」だけの舞台を観ていると、安政の大獄などで有為の若者を窮地に追い詰めて行く直弼の苦悶と、それをご政道の為にと強引に押し通す長野主膳(又五郎)の行動ばかりがクローズアップされてきて、一寸、史実からもバランスを崩すので、そう言う意味では、通し狂言の良さが、分かって興味深い。

   私の直弼に対する思いだが、
   前にも書いたように、例え方便であっても、直弼の開国論は正しい選択で、惰眠を貪っていた日本を開国して富国強兵策を取る以外に日本が生きる道はなかったと思っている。
   直弼の死後、遺品として大部の洋書や地図などが残されていたと言うから、アヘン戦争で西洋列強の餌食になった中国の苦衷を知り過ぎるほど知っていた筈であり、英明な直弼ゆえ、日本の進むべき道は、はっきり見えていたと思う。

   坂本竜馬と同じで、二人とも時代の流れより早過ぎたのだが、アメリカ領事タウンゼント・ハリスが、修好通商条約締結のため来日し、江戸城へ登城して来た以上、直弼の場合には、朝廷に上奏したが勅許を得られなかったものの、時間的な選択の余地はなかった。   
   しかし、問題は、安政の大獄のやり過ぎで、多くの有能な人材を殺めたのみならず、米国との和親条約の無断調印の責任を取らせて開国派の重鎮堀田正睦や松平忠固を遠ざけ、また多数の有為の幕臣を排除するなど、最後の詰めの段階で、徹底的な恐怖政治を敷いて専横を極めたと思われているところであろうか。
   
   これには、直弼の師であった国学者長野主膳の影響が大きいようで、戊午の密勅問題などインテリジェンスの不備が云われているが、日本全体の国論が大きく分断されて熾烈な戦いに鎬を削っていたのであるから、どっちにころんでも、流血は避け得なかった筈である。
   この直弼と主膳の対話だが、シチュエーションは違うが、真山青果の元禄忠臣蔵の「御浜御殿綱豊卿」の綱豊卿と新井勘解由とのしんみりとした会話を思いださせて、当時の権力者と御前学者との関係が滲み出ていて面白い。

   この芝居だが、もう一つ大きなテーマは、日陰の悲哀をかみ締めながら直弼を思う健気で一途な気持ちを何時までも持ち続けている初々しいお靜の方と直弼の純愛である。
   菊之助の演じる高貴で美しい正妻昌子の方が、あまりにも素晴らしい女性なので、一層、お靜の方の嫉妬心が分かろうと言うもので、枯淡ないい味を出している歌六の仙英禅師に仏門に入りたくも悟りきれない心の内をしみじみと語る芝雀のお靜の方が出色である。
   その後、儚く逝った二人の間の娘の命日に訪れて来た直弼に、貧しくも幸せだった埋木舎での豆腐生活を思い出しながら、生涯の妻だと言われて幸せを噛みしめる感動のシーンも、中々良い。
   鬼畜、国賊と世間の謗りに苦しむ直弼が、最後に、一緒に死ぬ覚悟をしているお静の「それでよいのでは」と言う言葉に宿命を悟って、「信じる道を貫いて、捨石となる」と決然と意を決して、お静を抱きしめながら、やっと平安を覚える直弼の暗殺前夜の物語である。

   歌六の仙英禅師の仙人のような好々爺ぶりは勿論のこと、控えめながら決然とした学者肌の主膳の又五郎、熱血漢で有為な若者たちの将来を憂う水無部六臣の錦之介、老女雲の井の歌女之丞、中泉右京の桂三など、わき役陣の充実したサポートも功を奏して、格調高い舞台を作り上げていて、感動的な公演であった。
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アウトレットに行ってみた

2014年11月09日 | 政治・経済・社会
   今日、佐原からの帰り道、酒々井のプレミアム・アウトレットを訪れた。
   娘たちが立ち寄りたいと言うのでついて行っただけなのだが、随分昔に、幕張などのアウトレットへ何度か言った記憶があるくらいで、久しぶりであった。
   どんな店が出店していて、どう言うシステムなのか、見てみようと言うのが私の関心事で、とにかく歩いて見た。

   かなり広いと思ったが、一部工事中で、来年、増築してパワーアップ・オープンすると言うことであった。
   欧米ブランドのアパレルなどの衣料品店や雑貨主体の店舗展開で、やはり、若者をターゲットにしているのであろうか、顧客の大半は、若い男女が占めていた。
   ファッション感覚豊かな欧米の高級ブランドも出店していて、かなり、安くなっているので、アウトレットであろうと、お買い得感があるので、人気が出るのも当然かも知れない。

   私は、衣料品などには関心がないので、あまり店舗には入らなかったのだが、それなりの買い物は楽しめそうで、日曜日でもあった所為か、どこの店も結構賑わっていた。
   孫は、Legoに入っていたが、私は、ムーミンの食器などが目についたので、イッタラに入って、ARABIAの食器を見ていた。
   フィンランドのヘルシンキに2回行っており、ARABIAの飾り皿や食器などを買ったこともあり、懐かしくなって、娘や孫たちにムーミンの新作食器などを買い求めた。
   

   もう一つ、ベルギーのブラッセルやロンドンのヒースロー空港で、良く買っていたゴディバ(GODIVA)も出店していたので、何故、アウトレットにゴディバなのか分からなったので、入ってみたら、かなりディスカウントしていたので、これも、衝動買いしてしまった。
   

   やはり、行列が出来ていたのは、ギャレット・ポップコーン・ショップスの前で、向かいの、大きなFood Courtの方には、昼食時間でもなかった所為か、殆ど、客が入ってなくて閑散としていた。
   私は、空いていたので、隣の成田ゆめ牧場で、「飯盒でプリン」と言う昔懐かしい飯盒に入れて作った大きなプリンを買って帰った。
   飯盒に入ったままの冷凍プリンなのだが、娘2組の家族も含めて食べたが、食べきれなかったものの、実に濃厚な味の素晴らしく美味しいプリンであった。
   アウトレットに行きながら、私が買ったのは、関係ないものばかりであった。
   

   欧米のショッピングセンターと比べれば、まだまだ、規模が小さく、アウトレットと言うだけで客を引っ張っている小規模な小売業施設なので、もう少し、フード・コーナーや娯楽性のあるエリアの展開がないと、将来への展開は難しいと思った。 

   
   私が、最初に巨大なショッピングセンターを見たのは、確か40年以上も前に、ヒューストンかニューオーリンズか忘れたのだが、アメリカの地方都市のガレリアと言うショッピングセンターで、巨大なビルの全階吹き抜けの巨大な商業施設で、その後、欧米に、似たようなショッピングセンターが、あっちこっちに出来て行った。
   ロンドンでは、両端に百貨店と巨大スーパーが陣取り、その間を10階近く、専門店が並ぶと言う展開であった。
   欧米では、週に1~2回、車で、このようなショッピングセンターに行って買い物を済ませると言うのが生活習慣であったので、非常に助かっていた。

   地方型の途轍もなく巨大なショッピング娯楽コンプレックス様のショッピングセンターが出現したのは、その後の事のように思うのだが、ショッピングを満喫しながら一日中楽しめると言うような施設が生まれると言うことは、生活空間の充実であり、素晴らしいと思うが、その構築は、ビジネスとしても非常に難しいことであろうと思う。
   このアウトレットは、三菱地所の経営であろうか、三菱地所グループカードなら5%引きだとキャンペーンを張っていて、ルミネなどと同じシステムで、客を囲い込むと言う手法である。
   
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国立能楽堂・・・観世清河寿の「安達原」

2014年11月08日 | 能・狂言
   観世流では「安達原」だが、他流派では「黒塚」、猿之助が襲名披露公演で、素晴らしい舞台を見せた舞踊劇「黒塚」のオリジナルバージョンである能の舞台である。
   今回は、観世流清河寿宗家がシテで、「白頭 急進之出」の小書きがつく特殊演出であり、面も前ジテは「霊女」、後シテは「白般若」と変わったようだが、私は、始めて見る舞台なので、その辺の事情は良く分からない。
   私の関心は、能の舞台が、どのような形で歌舞伎化されたのか、そして、その違いは、と言うことで、その意味では、能の原曲を見たことは、大変な収穫であった。

   舞台の始まる前に、馬場あき子さんが解説で、シテの老女を最初から鬼だと考えない方が良いと語っていた。
   この能の素材は、『拾遺和歌集』雑下、平兼盛の「みちのくの安達原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか」の和歌で、この和歌の背景には、安達原の鬼女の伝説の存在があると言うことなので、鬼女が主題なのだが、この老女は、最後には裏切られて鬼と化すが、この舞台では、実に人間的なのである。

   すじがきは、大略次の通り。
   熊野の祐慶阿闍梨が、陸奥の安達ヶ原で宿に困って老女の家に頼み込んで宿泊する。女は、糸繰りの様子を見せながら、憂い自分の生き様などを語り持て成すのだが、夜が冷えるので焚き火用の薪を採りに山に行く。出かける前に、自分が帰るまで寝室を覗いてはならぬときつく言い渡す。
 止められたが好奇心の強い能力が閨を覗くと、累々と死体が転がっている。ここが鬼女の住み処かと悟った祐慶たちが逃げ出す。その後を、約束を破ったと怒りに燃えた鬼女が追いかけ、襲いかかりってくる。祐慶たちは、激しく攻める鬼女を必死になって祈って調伏するので、鬼女は、法力に負けて退散する。

   さて、この老女を鬼と見るか、人間と見るかということだが、二代目猿之助の「歌舞伎 黒塚」が答えを出してくれている。
   文化デジタルを引用させて貰うと、
   ”老女が男に捨てられた身の上を語り、人を恨む気持ちが捨てられないので、成仏できないだろうと打ち明けると、祐慶は仏の教えを守れば誰でも成仏できると導きます。老女は長年の心の憂いが晴れ、祐慶たちのために裏山に薪を取りに行きます。中秋の名月がススキの原を照らす中、老女が救われる喜びに、月が映す自分の影と戯れ踊る部分が最大の見せ場です。ここは能にはない部分で、ロシアンバレエの趣を取り入れたといわれています。”

   私は、猿之助の「黒塚」の印象記で、次のように書いた。
   この歌舞伎の場合には、第二景の場で、安達ヶ原に薪取りに出た老女が、阿闍梨から仏の道を説かれ心の曇りが晴れたのであろう、童女の頃を忍び月に戯れて無心に踊ると言う素晴らしい舞踊の舞台を挿入することによって、はっきりと、人間に立ち返って平安を願おうとする老女の心が表出されており、裏切られたから故に鬼女にかえってしまったのだと言うストーリー展開を明確にしたと思っている。

   馬場あき子さんは、老女が、糸車を繰りながら、憂い一人暮らしの悲しさを語りながらも、源氏物語の夕顔の場や光源氏の雅な都の物語を語るのだが、鬼がこんなことを謡いますかと言っていたが、随所に、そこはかとした人間臭い悲しみや苦しみが滲み出ているのである。

   村上湛氏の解説にも、辺境の地「みちのく」に住むこの女も、人でなしの鬼女という自己存在の悲哀と殺生の罪業をたまたま仏縁によって癒され清められると信じ、来世には人間と生まれる幸福を夢見たのでしょう。と言っている。
   薪を捧げると言う釈迦の厳しい修業を思って、仏法に触れ心和らげられた鬼女は、その奉仕を模倣して、祐慶の弟子たろうとしたのです。とも言っている。

   この人間に帰ろうとしていた老女が、約束を破られたのみならず、最も見られたくない究極の羞恥心を暴露されて一気に怒り心頭に達して恐ろしい鬼女に変身してしまった。
   銕仙会の解説では、能は、ただ鬼女伝説をそのまま舞台化したのではなく、前半では不気味さを漂わせつつ、女の孤独と輪廻の苦しみをも描きます。シテは人を襲う鬼女なのですが、人間的な心も感じられ、二面性のある役です。と言っているように、本当には鬼でなかった人間が、本当の鬼になってしまった、この虚実の綯い交ぜが、この能の姿なのかも知れない。

   私は、清河寿宗家の後ジテの鬼女を観ていて、激しく怒りを表現しているけれども、実に端正で優しい、どこか悲哀の慟哭を必死になって噛み殺しながら祈りを込めて舞っている生身の女神のような感じがして、不思議な思いがした。
   あのように美しい修羅場を演じる舞台があるのだなあと言うのが、私の正直な気持であった。
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