熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

METライブビューイング・・・「エウゲニー・オネーギン」

2007年02月28日 | クラシック音楽・オペラ
   おそらく、今シーズンのMETでの最高のプログラムではなかったかと思うほど素晴らしい「エウゲニー・オネーギン」が、ル・テアトロ銀座で放映された。
   チャイコフスキーの奏でる民族色の強いロシアの美しいドラマチックなメロディーが、全編を流れている愛の物語。タイトルは「エウゲニー・オネーギン」だが、本当は、初心で清楚な乙女が優雅な公爵妃に羽化するタチアーナが主役で、その激しい恋をルネ・フレミング(Renee Fleming)が実に感動的に歌う。
   タイトルロールのディミトリー・ホロストフスキー(Dimitri Hvorostovsky)がカリスマ的と言うべきか得意中のロシア物で、フレミングに煽られてか激しく心情をぶっつけるシンパクの演技で、演技音痴の汚名を返上、それに、レンスキーを演じるラモン・ヴァルガス(Ramon Vargas)のダイナミックで美しいテノールが素晴らしい。
   この3人は、昨年、来日して素晴らしいMETの「椿姫」を魅せてくれたコンビで、NHKホールでの興奮を髣髴とさせてくれる。
   これだけ素晴らしい「エウゲニー・オネーギン」の舞台を創り出せたのは、やはり、指揮者のワレリー・ギルギエフ(Valery Gergief)のなせる技で、彼のMETへの貢献は計り知れない。

   このオペラは、プーシキンの戯曲をオペラにしたもの。
   地方貴族の娘タチアーナが、ペテルブルグの社交界に飽きて遺産相続を受けて田舎に来た貴族オネーギンに一目ぼれし、ラブレターを書くが、子ども扱いにされてこっ酷く振られる。
   時移って、オネーギンが放浪の旅を終えて親戚のグレーミン公爵の舞踏会に出てみると、見違えるほど堂々として社交界の女王然として登場したのは、グラーミン公爵妃となったタチアーナ。オネーギンは、激しい恋に身を焦がしてタチアーナに迫るが、恋心を押さえながらタチアーナは貞節を守って立ち去る。
   初々しい乙女と優雅な公爵妃をフレミングが、どこか人生に飽きて放浪癖のある退廃臭を醸し出す青年貴族をホロストフスキーが、夫々実に味のある演技をしていて、ビバリー・シルスに、「二人のケミストリーが漂う最高の舞台」と言わしめた。

   一幕の後の舞台裏で、シルスと語りながら、悲しくて、と言って涙を拭いていたフレミングが印象的であった。振られた直後の舞台の後、正に感情移入しての会心の演技であったのであろうと思った。
   フレミングには、ロイヤルオペラで、自著にサインを貰って二言三言喋ったが、本当に気さくで素晴らしいヤンキー婦人。まだ実際の舞台は、デズデモーナとヴィオレッタだけだが、現在では、最高のソプラノであることは間違いないと思うが、あれだけ素晴らしく豊かな美声で物語を演じられる歌手は数少ないと思っている。

   ホロストフスキーは、今やMETの看板スターで、とにかく、白髪のスマートな好男子振りが客席を魅了するのか、今回のオネーギン役も、なで肩のスマートさが退廃貴族の雰囲気を良く出していて実に朗々としたバリトンが舞台を圧倒する。
   最初に観たのはロイヤルのリゴレットで上手いと思ったが、前回のジェルモンと比べても、今回のチャイコフスキーは遥かに素晴らしいと思った。
   何処となく余所余所しかったリゴレットやジェルモンと違って、今回は、グレーミン公爵妃のフレミングにしがみ付いて愛を絶叫するのである。
   
   ところで、これまでに「エウゲニー・オネーギン」を観たのは、一回だけで、随分以前になるが、ロイヤル・オペラの舞台である。
   ビデオになって出ているが、ウォルガング・ブレンデルのオネーギンとミレッラ・フレーニのタチアーナの舞台である。
   グレーミン公爵は、夫君のニコライ・ギャウロフだったので息があっていた。
   いまだに印象的で忘れられないのは、フレーニの10代の乙女のような恥じらいのある実に初々しいタチアーナで、当時既に孫が居た筈だが、演技も歌声もその途轍もない若さと華やぎに舌を巻かざるを得なかった。グレーミン公爵妃としての威厳と理想的な女性像の素晴らしさは言うまでもない。
   同じ時期だったと思うが、一度、ロンドンからパリに向かうエールフランス機でフレーニと隣り合わせに座ったことがあった。
   ケーキを少しつまんだくらいで、最初から最後まで殆ど機内ではボナンザ・グラムに熱中していた。
   個性的な顔立ちで美人ではないが、ややピンクがかった抜けるような肌の美しさにビックリして見とれていたが、イタリア人には珍しい実に物静かな婦人であった。
   話しかけようと思ったが遠慮して、下りる時に荷物おろしを手伝ったくらいだが、シートの背もたれの上に残したチケットの半券を貰って本に挟んで帰ったが今はもうない。ちゃんとMirella Freniと印字されていた。

   ところで、今回のMETの舞台だが、全くシンプルで三面は平面の壁だけで、照明だけで舞台設定を変えていて、スター達の登場口は、バックの左右の切れ目だけ。彩を添えて変形する舞台一面に敷き詰められた秋の落ち葉とイスなどの小物だけが舞台セットだが、歌手達の衣装が当時そのままの華麗な衣装なので舞台は実に美しい。
   アバンギャルドな、或いは、サイケデリックな舞台設定が結構巾を利かし始めた現在のオペラ演出に比べて、このような嫌味がなくてシンプルで美しい舞台は清々しくて気持ちが良い。

   

   
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世界らん展日本大賞2007

2007年02月27日 | 展覧会・展示会
   東京ドームで世界らん展日本大賞2007が開かれている。
   3000種類10万株の華麗ならんが、あの広いドーム球場を覆っているのだから大変な祭典で、見方によっては世界一美しくて華麗な展示会といえるのかも知れない。
   私は、帰国してからだから、もう10年以上も毎年このらん展に出かけて写真を撮り続けているが、今回は、あまりの人の多さに辟易、気がついたらカメラのレンズ・フードがなくなっていた。

   私のらん展鑑賞は、とにかく、直感的にじぶんが美しいと感じる花に出会えるかどうかの判断だけで、展示場を回っていて、他には特に関心はない。
   まず、最初に、個別審査部門と言う個々の花が一鉢づつ個別に展示されているコーナーのらんを、一鉢ずつ見ながら気に入ったらシャッターを押す。
   次に、日本大賞などの一群の入賞作品が展示されている中央の円形トロフィー状の台のあるコーナーに行って、望遠レンズで適当に気にいった部分を切り取る。
   ディスプレィ部門は、花壇のような絢爛豪華と言うかボリューム感のある大掛かりで華麗な寄せ植えなのだが、ここには夫々に物語があって面白い。しかし、私は全体像には興味がなく、部分的に電光に照らされて輝いているらんに焦点を合わせて写真を撮っている。
   私の好きな展示部門は、こじんまりした生け花状に設えられた寄せ植えやフラワーデザイン部門で、らんを主体にしたディスプレイが実に美しい。
   それに、らんに因んだ美術工芸の部門も作品にバリエーションがあり、夫々の作品に創造性を感じて楽しくなる。写真の部門は、自分が撮っているので多少興味があるが、この展示会ではスナップ程度なのだが、場所が違えばあの程度は撮れると思って見ている。

   ところで、今回の日本大賞は、青森の小泉進さんのデンドロビュームで、濃いピンクの美しい花が全面にびっしり咲いている素晴らしい作品、この口絵写真の花である。
   優秀賞は、赤みがかった濃いチョコレート色の花が絢爛豪華に咲いている牧久雄さんのリカステ、そして、真っ白な蝶のような華麗な花がびっしり6列に垂れ下がっている素晴らしい慮博昭さんのファレノプシス。
   もうこうなれば、常人の域を遥かに通り越した神業と言うべきか、神の手に導かれて作り出したらんとしか思えない。
   自然による神の造形も素晴らしいが、そこに更に素晴らしい価値を付加して作り出す匠の技の計り知れない力にも脱帽である。

   素晴らしいと思ったフラワーデザインは、最優秀作品・松島勇次さんの『静寂』で、白と黒で座布団状にセットされた地の真ん中からひょろりと伸びた枯れ木のような歪な螺旋状の幹に上から下までポイントを着けながら強弱色々ならんが生えていたりぶら下がったりしてデコレイトされていて実に優雅なのである。
   もうひとつ素晴らしいと思ったのは、同じく最優秀作品で絵画の永野志津香さんの「蘭が咲いた日」で、エキゾチックな若くて綺麗な乙女の顔と白いシャムネコを描いた絵で、乙女の髪が赤系統の華麗な蘭で荘厳されていて左耳から白い蘭が大きなイヤリングのように下がっている。

   普通は、人を避けて夕刻閉館前に出かけるのだが、今年は時間が取れなくて平日だったが昼前後に出かけたのが悪かった。東京は、美術館、博物館もそうだが、とにかく、何でもファンが多すぎるのかも知れない。
   2回も行くほどのことはないので、今年は、これで諦めようと思う。
   本当は、じっくり日本のらんを観賞したかったのだが、雰囲気が全く違う、ひっそりと主張するあの清楚な素晴らしいらんは、こんな雑踏の中では、悲しいけれども、似つかわしくないし可哀想である。
    
   
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冬の庭仕事

2007年02月26日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   今年は、暖冬異変か、日本各地で雪が降らなかったり氷が張らなかったりして、ウインタースポーツなどが出来なくて大変なようである。
   その所為か、わが庭の春の花や花木の芽吹きが早いような気がする。
   いつもならまだ殆ど芽が出ない筈の牡丹や芍薬の芽が動き出して来たのである。
   ヒヤシンスや水仙やチューリップの葉も一気に伸び始めた。
   地面に手を触れると地熱の所為か温かい。
   
   ところが、昨日曜日は、急に寒くなって千葉も今年初めて氷点下を切ったと言う。
   庭の小鳥達の為の水溜めにしっかりとした氷が張っていた。
   最近は縁がないので知らないが、昔、小学生の頃は、宝塚だったが、朝学校に行く途中に池の氷が張っていたので恐る恐るその上に乗って遊んだことがあった。
   一度、氷が割れて足を水に突っ込んだことがあって冷たくて往生したが、少し時間が立つと急に足がポカポカと温かくなったのを良く覚えている。
   千葉と阪神間とそれ程気候は変わらないと思うし、ここでは、最近氷結をあまり見ないので、やはり、地球が暖かくなった証拠ではなかろうかと思っている。

   私にとっての冬の庭仕事は、施肥とバラなどの剪定、それに、寒い日の石灰硫黄合材の撒布である。
   バラの剪定は、今年は一寸早くて1月初旬に終えてしまったが、もう芽が出始めている。
   施肥は、ガーデニングの本を読むと詳しく書いてあるが、神経質になることもないので、色々と肥料を合わせて造った市販の混合肥料を適当に花木の根元に撒いたり鋤き込んでいる。
   今の所に家を建ててからもう20年にもなるし、それに、結構、色々なものを植えたり植え替えたりしてきたので土壌も落ち着いて来ている。

   ところで、石灰硫黄合材の撒布だが、プロの植木屋さんの書いたガーデニングの本に、真冬の石灰硫黄合材の撒布が良く効くと書いてあったので、それからこれを実行している。
   昔は、春から初冬にかけて2週間おきくらいに、丁寧に複数の殺虫剤と殺菌剤に展着剤を混ぜて水で希釈して薬剤散布していた。
   しかし、最近では、冬2回の石灰硫黄合材撒布が主流になっていて、その他の薬剤散布は花木の状態を見てやっている。
   この方法が結構効いてそれに効果的で、他には2~3回撒布すれば済んでいる。

   この石灰硫黄合材の難点は、硫黄の匂いが残るのと薬剤を被ったところが黄変することである。
   実際には、落葉樹と常緑樹と水の希釈度を変える必要があるのだが、気にせず同じ20倍くらいで通しているが、副作用はなさそうである。
   愛犬リオが生きていた頃には、薬剤散布には気を使ったが、最近は、小鳥達が啄ばむ花や実に薬剤をかけないように注意はしている心算である。

   今年は、芝を張り替えようと思っている。
   最初に庭を造ったときには、プロの植木屋さんが植えてくれたまともな庭木だけで寂しかったので、まず、空間を埋めるために芝を張った。
   その後、素人知識で好き勝手に花木や草花を植え続けてきたので、庭がうるさくなってしまったのと、それに、雑草が混じってしまってみすぼらしくなってしまっている。
   とにかく、洋庭なのか和庭なのか分からないようなおかしな庭になってしまったが、芝を張り替えれば少しは良くなるのではないかと思っている。
   あんなに、京都の古社寺を訪ねて日本の美しい庭園を見続けてきたのだからと思うのだが、生来の怠け者の所為か、自分の庭ながらままにならない。

   
   
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新世界無秩序の時代・・・企業のグローバル戦略の転換

2007年02月25日 | 政治・経済・社会
   ダイヤモンド社から、ハーバード・ビジネス・レビューが出版されているが、経済や経営に関して時流に合わせた問題をテーマにした論文を集めた特集本が出ていて結構便利で興味深い。
   その一冊「2010年の『マネジメント』を読み解く」の中で、国際政治経済情勢の動きについて書かれた、ブッシュ政権の政策転換に関して面白い記事があった。
   ニコラス・チェカ他の「新世界無秩序」と言う論文で、ブッシュになってから、世界は秩序から無秩序に移ったと言うのである。

   今、ブッシュ嫌いのジョージ・ソロスが新しい本「世界秩序の崩壊 The Age of Fallibility 」でブッシュをこき下ろしているが、スティグリッツ教授だってブッシュをコテンパン。イギリスまでイラクから撤退を始めるらしいが、ブッシュをバックアップするのは小泉以来の日本だけなのであろうか。

   前ブッシュ(今の大統領の父親)の「新世界秩序」のアメリカの対外政策には、二つの仮説、即ち、健全な経済と堅固な金融制度が政治的安定をもたらすということと、事業が双方で成立している国家間では戦争は起こらない「マクドナルドのある国同士は戦争しない」が成立していて、ワシントンコンセンサスの時代が続いていて、民主主義をバックボーンとする自由でオープンな世界秩序が維持されていたと言う。
   ところが、今のブッシュの時代になって、アメリカの国際関係におけるスタンスが、経済面ではなく安全保障上の配慮重視にがらりと変わってしまった。
   エネルギー安全保障が、アメリカの貿易と外交政策における最優先課題になったのである。
   国家安全保障戦略的に重要な同盟国との2国間関係と、それ以外の国々との一方的な関係に分けて、国際関係を考えており、アメリカが発展途上国への経済援助を意図的に絞るにつれ、これらの国々の政府でも企業寄りの改革を推し進めようとしなくなった。
   子供のブッシュが父親の外交政策を葬ってしまったと言うのである。

   ところで、これは企業向けの経営学の論文なので、企業に対してグローバル市場での戦略転換を説いている。
   アメリカの対外政策の変換によって、例えば、確実な儲け先であった発展途上国の安全性が揺らぎ始めており、企業のグローバル市場での市場参入や撤退、市場リスクに纏わる経済判断において根本的な変更を余儀なくされてしまった。
   アメリカの対外政策の変換で、メキシコやアルゼンチン経済は大打撃を受けたが、逆に、トルコの安定と地理上の位置がアメリカにもたらす戦略上の価値故にトルコへの梃入れが進んでおり、更に今後、インド亜大陸も極めて重要だと言う。
   
   90年代にには、グローバル市場での事業環境の予測は可能であったが、今日の不安定な環境下では、新市場への参入や企業経営に対する戦術の策定が難しくなっており、不安定な政治環境を考慮して既存市場への参入に関しても発想の転換が必要である。定石が通じなくなったと言うのである。
   新市場のリスクとチャンスの全容を俯瞰する為には、カントリーリスクの3要素「政治」「経済」「金融」を加味すると同時に、自社の戦略上の将来像に関連した地政学的見通しについて敏感な感覚を養って、考慮すべき対象期間について詳細なシナリオを書くことが大切であるとも言う。
   ロシアに例を引いて、事業環境の変転極まりない変化を語っているが、確かに、サハリンプロジェクトのように原契約を破棄してロシアの持分比率を引き上げるなど国際ビジネスにおいて非常にアンフェアだが、更に、アメリカ等との安全保障戦略での政治環境の激変の可能性等を考えれば、BRIC'sだからと短絡的にロシア市場を考えるべきではないのかも知れない。 

   日本人は、BRIC's、ネクスト11、等と言われると、すぐにこれらの国々がばら色の投資先、進出先と考えてしまうのだが、ひと頃以上にカントリーリスクを考慮しなければならない時代に至ったということであろうと思う。
   今や世界無秩序時代。経済のグローバル化が進めば進むほど、政治や法制度等の遅れとのギャップが拡大して行くので、投資環境は悪化して行く。そんな側面があると言うことを肝に銘じて置くべきかも知れない。


   ところが、この本の次の論文がC.K・プラハラッドの「第三世界は知られざる巨大市場」と言う開発途上国の市場開拓に限りなく可能性を認めた論調である。
   世界の最貧国市場に、大手の多国籍企業が参入し投資をすれば、多国籍企業には、経済ピラミッドの底辺で暮らす数十億の人々の生活を根本から改善する力があるので、貧困層市場でビジネス取引と経済開発を刺激すれば、より安全で、より安定した世界を実現出来る一助になると言うのである。 

   実際にも、世界の底辺市場に参入して高い収益とオペレーション効率を実現し、イノベーションを追及している企業があると言う。
   最貧国地域を発展させるには、多国籍企業が継続して直接関わること以外に他に道がない。このような関わりによって最貧国地域だけではなく、多国籍企業も一層の発展を遂げることになるのである、とプラハラッドは夢のような多国籍企業のグローバル戦略を説いている。
   手元に、プラハラードの大著「ネクスト・マーケット 「貧困層」を「顧客」に変える次世代ビジネス戦略 THE FORTUNE AT THE BOTTOM OF THE PYRAMID Eradicating Poverty Through Profits」があるが、まともに読んでから考えてみようと思っている。
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デビッド・S・ランデス著「ダイナスティ」・・・大企業家の系譜

2007年02月24日 | 経営・ビジネス
   「強国論」の著者デビッド・S・ランデスが、世界の企業王国の繁栄と衰亡についてスケールの大きい面白い本「ダイナスティ」を書いた。
   副題は、「世界の偉大なファミリー・ビジネスの繁栄と不運」で、強国論の時もタイトルは「国家の富と貧困」と言うことだったが、主題を明暗の両面から浮き彫りにするランデスの史観が鮮やかで、ロスチャイルドやロックフェラー、フォードやトヨタ等の企業王国の興亡の歴史が、大きな世界史をバックにダイナミックに描かれていて、卓越した経済学や経営学の視点からの分析がさらに本書の価値を増幅している。

   ファミリー企業とは、創業者あるいはその家族によって所有され経営されている会社だが、ランデイは、ダイナスティの規定として、少なくとも三代は続き、アイデンティティと利害が継続しているものとしている。
   ランデスの選んだダイナスティは、トヨタ以外は総て欧米の企業だが、これらの国が経済成長、イノベーションを牽引し現代を創造したからだと言う。
   ランデスは、ダイナスティは二つの要因、即ち、ビジネス活動の内容とビジネス活動をどう捉えているかに因るとして、銀行と自動車と鉱業に焦点を当てて論述している。

   企業家を育成し新しいベンチャービジネスを開発するには、ファミリー企業に勝るものはなく、経済成長著しい開発途上国にあっては、ファミリー企業の起業と活力に期待する側面が強いと一般的には言われているが、しかし、世界企業の過半がファミリー企業であるし、大企業においても「フォーチュン500」の3分の1は、ファミリーの経営か創業者の家族が経営に参加していると言われている。
   経済が進歩し、技術が急速の進歩を遂げてくると、当初はファミリー企業に適していた産業も、家族の枠を超えて、経営資本主義へと変貌して行き、更にファミリー企業は合併してコングロマリットやトラストを形成するなどして大きく変質して行った。

   ランデイが最もファミリー企業に向いているとした銀行業において、ロスチャイルドは今でもファミリーバンクとして健在で、この銀行に口座を持つことは信用と名声の証となると言うのだが、資本や規模などその影響力においては株式組織の大銀行に太刀打ちできなくなっているし、ベアリングも消えてしまったしモルガンも僅かに名を残すのみとなってしまった。
   IT革命を一番活用して成長を遂げて来たのは金融業だと言われているが、ハイテクのグローバル時代においては、信用と人脈が命であった銀行業も過去のものとなってしまったと言うことであろう。
   ランデイのこの本で、一番興味深いのは、やはり、フランクフルトのユダヤ人ゲットーから身を興したマイヤー・アムシェル・ロスチャイルドに始まるロスチルドの壮絶な歴史で、ランデイは、良くも悪くもユダヤ人と言う過酷な運命を背負って生き抜いてきた資本主義の代表とも言うべきダイナスティの興亡を余すことなく活写している。
   ロスチャイルドの成功の秘訣は、どうも、子孫の血統維持と厳格なビジネス倫理の継承にあったようで、多くのダイナスティは、有能な後継子孫にビジネスを継承できなかくて消えて行っている。
   
   自動車の場合は、大分趣が違っていて、イタリアのアニェッリ家とフィアット、フランスのプジョー、ルノー、シトロエンと言ったファミリー色の強いダイナスティの系譜を扱っているが、やはり、面白いのはフォードの話である。
   T型の大量生産方式で正にアメリカ資本主義の発展を始動したフォードだが、晩年には、海軍上がりのセミプロのボクサーである用心棒ハリー・ベネットを重用し過ぎて、組合潰しを謀ってルーズベルト大統領と対峙したり息子のエドセルを見殺しにするなど晩節を汚してしまった。
   未亡人や夫人連中に株を売却すると脅されてフォードもベネットへの政権移譲を思い止まったようだが、後を継いだヘンリー2世が、台頭著しいアイアコッカと対立し追い落としに四苦八苦した話などとにかく面白い。
   余談だが、あのフォードでさえそうなのだから、出井伸之氏の本を読んでいてソニー改革の為に何故リーダーシップを強力に発揮出来なかったのかもどかしさを感じていたが、強力な抵抗勢力の多いソニーでは当然であろうと出井氏の苦衷が分かったような気がした。
    
   トヨタについては、非常に好意的な叙述だが、豊田英二会長までで話が終わっていて、プロ経営者に移ってからのトヨタの大躍進について語っていないのが一寸残念である。
   何故なら、自動車産業では、銀行と異なり個人の人脈や顧客の信用以上に、知識、イノベーション、洞察力を必要とし、ひとつの家族の域を超えて、外部から専門的知識や技術を導入しなければならないとランデス自信が説いているからである。

   現在の経済学の通説では、ビジネスの世界にダイナスティは本質的に不可能であり、過去の産物に過ぎない、同族企業は経済に牽引車としては不適切で非能率で、既に役割を終えたとされ、かわりに法人組織や株式組織が好まれると言う。
   アルフレッド・D・チャンドラーJrが、企業が成長して行けば複雑化して数々の問題が生じ、そのためのスキルや知識は、いくら才能に恵まれた家族でも対応できなくなり、外部から有能な専門家や技術者を導入しなければならないと経営者資本主義への移行を説いている。
   所有の面では、ファミリービジネスとしての側面を残す可能性はあっても、経営の分野においては、大企業化して企業そのものが複雑化して行けば、必然的にプロの経営者のマネジメントに頼らざるを得なくなる、そんな趨勢にあると言うことであろうか。
   結局、ファミリー・ビジネスのDNAは、トヨタウエイ、松下ウエイ、ソニーウエイ、キヤノンウエイと言った形で発展進化を遂げながら継承されて行くのであろうか。
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企業価値向上のために経営者がなすべきこと・・・中谷巌多摩大学学長

2007年02月23日 | 経営・ビジネス
   日経産業新聞の「いま、あらためて考える、新興企業経営者の倫理観」と言うフォーラムで、中谷巌学長が「企業価値向上のために経営者がなすべきこと」をテーマにして基調講演を行った。
   何やらホリエモンを想定したようなテーマであるが、中谷氏は、アメリカのビジネス・スクールで教えられていることだと前置きして、非常に意識の高い経営者像を語った。

   経営者に要求される資質として重要なのは、
   ①高い志を持っている
   ②ビジョン、戦略を持っていて、説明能力に長けている
   ③愚直なまでに実行する力がある
   ④「身を以って示す」ことが出来る
   であると言う。

   『高い志を持つことについて』
   私利私欲だけでは駄目で、社会に対して感謝の念を持つことが大切で、ホリエモンは、真のエリート意識(如何にして自分が社会に役立つか)が欠如していた。
   しっかりした人間観、歴史観、世界観を持つと同時に、人間に対する好奇心(教養)を持ち続けること。
   岩倉具視欧州視察団が尊敬の目で迎えられたのは、古典的教養、高度な道徳、倫理観等で裏打ちされた立派な立ち居振る舞いである。
   勝海舟は、貧しかったので、膨大な「蘭学事典」を寝食を忘れて2回筆写して勉強したが、その博識と凄い使命感に坂本竜馬も西郷隆盛も舌を巻いた。
   坂田藤十郎は、「絶対的な自信」が持てるまで芸を追及してからでないと弟子には教えられない、その域に達すると弟子は心服すると言っている。

   『ビジョン、戦略について』
   ビジョンや志、戦略を実行に移すためには、そのドメインを示し、方法論を確立する必要がある。
   しかし、いくら立派なビジョンや戦略が出来ても、説明能力がないと実践的な力にはならない。
   山本五十六が、ミッドウエー海戦で、島の背後にある米軍艦隊の撃滅作戦を指示したが、部下への説明不足で部下達が島の攻撃だと誤解して大敗をきっした。
   毛沢東の「十六字憲法」は、たった十六字で戦略を農民達に示して革命を起こした。
   カルロス・ゴーンがニッサンの経営を立て直したのは、明確な戦略戦術の社員への説明提示であった。

   『愚直なまでの実行力について』
   ビジョナリーカンパニーのジェームス・コリンズが、高収益を長期に亘って続けている企業の共通点は、
   「個人として謙虚で、職業人として強固な意思を持っている」経営者が居ること。一人のテンサイを1000人が支えるのではなく、全員がやるべきことをDNAで持っている会社であること、だと言っている。
   カイゼンのトヨタの「今日よりは明日、・・・少しでも前進しないと落ち着かない社員のDNA」。
   「過去の製品塩ビ」に拘り続ける信越化学。
   ビジネス・モデルより、カスターマーサービスに徹するデル。

   『身を以って示すことについて』
   自己犠牲が人を感動させる。
   リーダーシップとは、命令することではなく、身を以って示すことであり、模範となることである。
   アブラハムは神から最愛の息子イサクを犠牲に奉げよと宣告される。悪魔達はその演技だけをすれば良いと誘惑するが、意を決して殺害しようとした時神に許された。演技は必ず見破られる。
   二宮尊徳は、飢饉の救済策を頼まれたが、代官に絶食を勧めて農業改革を行った。
   ウイリアム征服王は、イングランドに攻め入った時、退路を立つ為に一切の船を燃やしてしまった。1066年、1万5千人のフランス人が、150万人のイングランドを征服した。
   ガンジーの不服従レジスタンスがインドの独立を勝ち得た。インド人大衆を動かすと同時に、感激したイギリスのジャーナリストがガンジーの運動をロンドンにレポートし続け、これがイギリス人を目覚めさせた。
   
   日本のリーダーシップについては、日本的な特質があるので留意すべきとして、次のようなことを指摘した。
   「当事者意識に火をつけること」
   アグネス・チャンが日本に来て驚いたのは、百貨店で1時間も試着しても探せなかった時、満足行く商品がなくて申し訳ないと店員が誤ったことで、香港では店員に悪口のかぎり怒られるのに、と言うことだった。
   日本人は、問題を自分のこととして引き受けるところがある、これに火をつけろと言うのである。
   もう一つは、河合隼雄氏の説で組織の「中空構造」。
   昔から日本の組織は、真ん中に絶対的な権力者が居なくて、権力が分散した合議制構造になっており、この構造を無視して俺が俺がと言ったリーダーシップを指向すると失敗する。
   
   聖人君子のようなリーダーシップ論を展開してきたので、最後に、そうは言っても、マキャベリの「君主論」では、権謀術数、目的を遂げる為には悪であろうとなんであろうと手練手管の限りを尽くすべきだと言っているではないかと言う考えにも言及した。
   これも、孟子の説「不仁にして国を得た者はあるが、天下を得た者はいまだにない」を引用して切り替えしていた。
   社会への恩返しと貢献を念頭にして、絶えず自分の生き方を模索追求する、基礎的な教養をしっかりと身につけて、人間力全体を涵養することが肝心であることを強調していた。
   
   ところで現実的な話だが、小林陽太郎さんが、日本人経営者には、リベラル・アーツの教養が欠けていると言っていたし、東大の法学部の某看板教授が、日本の大企業の理系のトップには、コーポレートガバナンスや会社法遵守・コンプライアンス重視などと言った意識の全くない人が結構沢山居ると言っていた。
   身近にも、部下を自殺に追い込んだり廃人同様にさせた「一将功なり万骨枯る」型のトップが居るが、現実の世界は、中谷先生の言うように素晴らしい経営者像からは程遠い。
   不祥事を起こしている会社のトップについては、違法行為等が明確になっておれば必勝間違いないので、最近下火になっている8000円でやれる株主代表訴訟を起こして粛清すると言う方法でも取らないと、毎日、これでもかこれでもかと出てくる企業不祥事を排除出来ないのではないかと思っている。  
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新生日本の課題・・・伊藤元重教授

2007年02月22日 | 政治・経済・社会
   日経の「経営者未来塾」が経団連ホールで開かれ、伊藤元重東大教授が「新生日本の課題」と言うテーマで75分間ほど熱弁を振るった。
   
   要旨は、大略次のようなものであった。
   これまで、金融政策で異常な低金利を続け、財政では毎年30兆円と言う膨大な赤字を続け、為替では大変な円安基調であり、日本は、経済政策ににおいてはアクセルを過剰に踏み続けて大変な事態に至っている。
   高度成長から成熟へと日本の経済社会体制が大転換を遂げてしまった今日、かって経験したような高度成長は望むべくもないが、この変化の中で、多くの課題を抱えた日本の経済社会をどうすれば再生できるのか真剣に考えなければならない。
   需要サイドの促進には多くを期待出来ないので、供給サイド、サプライ・サイドを活性化することによって経済成長を促進することが大切である。
   ①日本の持てる資源をフル活用すること
   ②日本人一人一人の能力を高める・人的資源のパワーアップすること
   ③外国の力を活用すること
   が有効な方策として考えられる。
   東京で六本木のミッドタウン・プロジェクトなど大規模な開発が行われているが、これは、不動産の証券化・流動化の賜物であり、また、情報通信関係の分野では、ブロードバンドの普及等大変な革新が進んでおり、経済社会の構造改革によって、新産業の創出等明るい未来が見えつつある。

   冒頭、円安等外国為替の動きについての巷の経済評論家のいい加減な説明に噛み付いた。
   円金利が安いので、円を借りてドルに転換して日米金利差を利用して稼ぐ円キャリートレードが円安の原因だと説明している人がいるが、これは経済学では逆であり、それに、円転する必要があるので同じだと言ってのけ、ケインズが指摘したように外為の動きは美人投票と同じで、人びとの思惑によって動くのだと言う。
   かって貿易黒字が拡大すると円高になると言っていたが、今や異常な貿易黒字なのに円安である。金利差が問題なら、ドルより金利の低いユーロが何故高いのか。と畳み掛けて、巷の経済評論の誤謬を突く。
   同じ様なことを、WBSで経済学者がファンダメンタルが悪いので円安だと解説していたのを、大前研一氏が、これまで為替がファンダメンタルで動いた為しがないと切り捨てていたが、要するに、為替は色々な要因が重なって、多くの人びとの思惑で、上がりそうだと思えば上がり、下がりそうだと思えば下がるということなのである。
   ガルブレイスが、「悪意なき欺瞞」と言う著書で、主流経済学理論に如何に欺瞞が多いかを論破していたが、兎に角、経済学ほど黒白をつけ難い学問も少ない。

   伊藤教授は、これまで日本経済の基調であった低金利、財政赤字、円安が、今後も続くのかと言う問題を論じて、円安基調の崩壊が一番可能性が高くて心配だという。
   現在の円レートを、実質実効為替レート(Real Effective Exchange Rate 物価変動を考慮した世界全体の通貨との比較レート)に直すと、1985年1月時点の円レート、即ち、1ドル240~5円に等しいのだと言う。
   もしそうなら、これは非常に円安レートで、円高に動く可能性が強くなる。
   円高に大きく振れるとなるの、回復基調の日本経済の動きは微妙になってくる。
   確かにそう言われれば、私自身、イギリスと比べて、いくら金融で経済が持ち直したからと言っても、イギリスの物価が円換算で異常に高くなっているのには驚いている。EUもそうである。

   さて、日本の活性化のための戦略だが、とにかく、ケインズの影響が強すぎたのであろうか、経済をGNP、即ち、三面等価のうち国民所得統計の需要サイドから分析して、その構成要素である個人消費や設備投資、公共支出、貿易収支等の浮沈のみから経済を語っていた。
   そのために見えなかったのだが、要するに、別な供給サイド、分配サイドから見れば、全く違った経済像が現れて、新しい戦略戦術が浮かび上がってくる。
   伊藤教授の理論のみならず、供給サイドから見れば日本の産業構造が見えて来るし、分配サイドから見ればワーキングプアーや労働分配率の問題なども明確になってくるなど政策の視点や質も当然変わってくる。

   日本の資源のフル活用だが、伊藤教授は、まず、放棄されている農地(東京都の面積の1.7倍)を、農業の株式会社化等やる気のある人びとに活用してもらう施策を考えるべきだと言う。
   東京駅前の中央郵便局は資源浪費の最たるもので、超一等地で郵便の仕分けなどモッテのホカだという。大前研一氏も、IT時代に膨大な面積の駐車場をそのままにして土地の有効利用を阻害するのみならず、大型車を出し入れして交通事情を悪化させていると噛み付いていた。

   人的資源のパワーアップだが、intangeble assetの有効活用は、大量生産方式の経済構造が有効であった時期にはスペアーパーツのような互換性の利く単質の人材の育成は日本が得意だったが、知識情報経済社会にマッチした人材の育成の為には、日本の教育・訓練システムを根本的に変えなければならないであろう。

   外国パワーの活用だが、製造業においても、ある程度、アメリカのようにオフショアリングやアウトソーシングをもっと促進して、デザインやブランディング、マーケティング等知的ワークに人材の活用を図る必要があろうが、これも程度問題で、アメリカが心配しているように知的ノウハウや知財まで外国に移転してしまって空洞化してしまうという心配もある。
   
   最後に、政府税調の会長人事で名前が挙がったが、申し出があったわけでもなく全くのマスコミのでっち上げで、讀賣の記者など一日中張り込んでいたようだが、もっと、考えなければならない大切なことがある筈なのに、とぼやいていた。
   この世の中、どうでも良いことに皆が精力を注ぎ過ぎて、大切なことを見失っていると言う事を言いたかったのであろう。
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異邦人たちのパリ・・・国立新美術館

2007年02月21日 | 展覧会・展示会
   良い天気だったので陽気に誘われて六本木の新名所国立新美術館に、「異邦人たちのパリ」展を見に出かけた。
   都知事選挙に出馬を表明した黒川記章氏の設計で、正面ガラス張りのファサードの曲線が美しく、中に入ると、全階吹き抜けの広々としたオープンなロビー空間が開放的で素晴らしい。
   黒川氏とは、ロンドンの同氏の作品展で会ったことがあるが、その時は勿論奥さんの若尾文子さんとばかり話をしていた。

   開幕を飾ったのは、パリのポンピドーセンターからの作品で構成した「異邦人たちのパリ 1900-2005」で、近現在の絵画と彫刻と写真が展示されている。
   英国人リチャード・ロジャース設計のの近代的な巨大な博物館であるポンピドーセンターには一度出かけて半日過ごして絵画などを鑑賞したのだが、兎に角膨大な量の美術品が展示されていて、それに、近現在の作品ばかりで、あまり趣味でもなかったので、殆ど記憶は残っていない。
   右翼のイスラム人排斥で揺れるフランスだが、本来はオープンな国際都市パリに世界各地から多くの異邦人達が集まって来て豊かなフランス文化を育んで来たのであり、その成果が今回の展覧会である。

   会場に入ると真っ先に目に付くのは、ジゼル・フロイントの8枚の文人達の肖像写真で、1938年の作品だが退色はしているが綺麗なカラー写真で、アンドレ・ジード、アンドレ・マルロー、ジェイムス・ジョイス、ジャン=ポール・サルトルなどの表情が実に良い。
   反対側に、マン・レイの女性写真で、まず最初は「黒と白」で妻キキが黒いアフリカの仮面を持った写真で、隣は小さなヌード作品だが、実にエロチックで、ゾクッとするほど美しくて、凄い写真家であった事が分かる。
   他に写真はブラッソンのパリ風景が素晴らしい。
   ウィリー・マイワルドのクリスチャン・ディオールやヴォーグの為に撮った女性達の写真が素晴らしく、パリの街角で歴史的な建物や自動車などを背景に配して撮った写真が中々洒落ていて面白い。
   

   絵画で一番最初に出てくるのは、藤田嗣治の「カフェにて」ほか4点で、自画像を描いた「画家の肖像」が面白い。
   おかっぱ頭で丸い大きなめがねをかけてイヤリングをしたちょび髭の惚けた調子の男が寅猫を抱いて喉をつま先で撫でている。恍惚境の猫の表情が秀逸である。

   アメデオ・モディリアーニが2点、黒いドレスを着て手を組んで横座りの若い乙女を描いた「テディーの肖像」が面白く、長い優雅な首をやや傾げて曲線を描いた華奢で何処か儚い女の特徴が良く出ている。
   それに、パブロ・ピカソの大作が数点、4次元の世界と動きを表現したグラマーな女性のヌードの絵「トルコ帽の裸婦」が私にとって一番ピカソらしかった。目や手があっちこっち向いている絵である。

   私が最も素晴らしいと思ったのは、マルク・シャガールの「エッフェル塔の新郎新婦」。1938-39年の作品だから第二次世界大戦が勃発した頃である。
   藍色のエッフェル塔をバックに、鶏冠の真っ赤な鮮やかな白色鶏に寄りかかるように白いヴェールの新婦と青紫色のスーツの新郎が寄り添っている綺麗な絵で、この3者が右寄りに傾いて絵の中を大きく対角線状に中空を舞うように描かれている。
   右下には、故郷ベラルーシのヴィテブスクの田舎風景が、そして、左端中央には、ユダヤの結婚式の新郎新婦が小さく描かれている。
   中空には、天使や山羊やヴァイオリンなどが舞っていて、明るい太陽が輝いて二人の前途を祝福している。
   右端の下から上まで大きく描かれた椿のような木は故郷の田舎の木であろうか。
   ロバはないが、鶏や山羊や楽器などが中空を舞うのは何時ものシャガールのモチーフであり、同じ美しい鮮やかな色彩だが、この絵は、しっかりと描かれている。
   この絵を見ながら、「屋根の上のヴァイオリン弾き」の映画を思い出していた。

   シャガールは、随分あっちこっちで見てきたが、やはり、印象深いのは、パリ・オペラ座の天井画とニューヨーク・メトロポリタン歌劇場正面の赤と青の大きな素晴らしい壁画である。
   最初、パリ・オペラ座の絵を見た時は、何とファンタースティックな絵かと思ったが、壮大な色彩の美しさにビックリして、それから、シャガールの鶏やロバや人間が空を泳ぐ不思議な絵にも異質感を感じなくなった。

   最近までの現在の絵画や彫刻など面白い作品が沢山展示されていたが、私の理解力は、カンジンスキー辺りまでで、無題やコンポジションと言った何を描いたのか分からないような世界に入るとついて行けなくなる。
   私は、いつでもそうだが、芸術は何でも究極は美しくなければならないと思っているのだが、チンパンジーが描いても同じ様に見える絵にはあまり興味がなく理解出来ないのは修行が足らない所為だとも思っているがどうしようもない。
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情報セキュリティガバナンス・・・IT革命とは何だったのか

2007年02月20日 | 政治・経済・社会
   経産省と日経の主催で「情報セクリティガバナンス・シンポジウム2007」が東京フォーラムで開かれたので出かけた。
   基調講演が、寺島実郎氏の「日本の経済安全保障と情報セキュリティ」だったので、それを聞きたくて出かけたようなものだが、最後のパネル討論は端折ったものの結構充実した講演会で面白かった。
   激しい国際競争の中で企業が生き抜くためには、安全を確保しながら効果的かつ有効にITを活用することは必須であり、そのための情報セキュリティ戦略はどうあるべきかと言う問題意識で、情報セキュリティをコーポレートガバナンスの一環として捉えて掘り下げたのが今回のシンポジウムである。

   寺島氏は、IT革命とは何だったのかと問いながら次のような話題から話を始めた。
   米国防省が、核攻撃等の軍事攻撃を受けても通信網が維持できるようにと開発されたアーバネット技術が、冷戦終結後の1990年代になって、民間に解放されたて、一挙にインターネットとして民間に普及した。
   平和の配当と言われた、このアメリカの軍事技術の民間への解放と言うパラダイム転換が、1993年に商業ネットワークとリンクして、アメリカはITによって蘇った。
   
   この情報ネットワーク技術の革命的な進展によって、これまで、特別なルートやコネでしか得られなかった情報に誰でもアクセス出来るようになった。
   典型的なIT技術の変化を、阪神淡路大震災とその10年後の新潟大地震に見ることが出来るが、それは、IT技術の成果であるコンビニと携帯電話の活躍だったと言う。
  
   IT技術が便利で効率的であればあるほど、セキュリティ等の問題が深刻化する。
   逆に失ったものも多く、ITのディファクト化とブラックボックス化で、世界標準化され囲い込まれて一切手を触れさせなくなっている。
   カーナビのGBSも24個の衛星をアメリカは無料で使用させているが、インターネットのエシュロンの問題も含めて、アメリカはIT技術の首根っこを押さえていて、場合によっては完全に情報を捕捉されて国家の存亡に関わることにもなりかねない。
   EUはこれを恐れて、ガリレオプロジェクトで独自の衛星を打ち上げた。

   寺島氏は、IT革命の陰の部分として、多くのIT関連技術者たちは生産性を高める為とか本物のIT革命を目指しているが、中にはITを利用してゲームに人びとを誘い込んで悪を働く輩が出現していると非難し、ホリエモンを筆頭に「ITの旗手青年実業家」などと言うのは一番信用出来ないと言って糾弾する。
   もう一つ、ワーキング・プアーの問題について触れ、IT技術が労働の平準化とFool Proof(馬鹿でも出来る)を促進して、技術や能力、知識や資格等のない人々を仕事から益々駆逐していく弊害を説いていた。

   ところで、今回、講演者たちが指摘していたのは、ITそのものが我々の経済社会に基盤化してしまって、生活から切っても切れなくなってしまった。
   ITによって、経済社会のシステム事態が革命的な変化を遂げてしまった、と言うことである。

   IT革命を第3の産業革命と捉えるのが一般的で、これを知識情報産業化社会と言う認識で把握しようとしている。
   しかし、私は、知識情報産業化社会への革命が本筋の革命であって、ITはあくまでエンジンで、特にインターネットがその革命を加速したのだと考えている。
   第一次の産業革命は農業で富を生み出す基本は土地、第二次の産業革命は工業革命で基本は資本、第三次の革命は知識情報革命で基本は人間の知識、と言う認識である。

   IT革命で高揚した景気が、2000年初にITバブルが崩壊してIT革命が幻想であったように揶揄されたが、これは、特にIT関連新興企業の投機を伴った異常なブームが生み出した徒花現象で、1990年代初頭より始動したインターネットとコンピューターが生み出したIT革命は、その後順調にビルトインされて、大きく経済社会に浸透して革命的な産業構造の変化を起こしている。
   それは、蒸気機関や電気等のエネルギーが、或いは内燃機関や飛行機が、経済社会に革命的な変化を惹起したのと全く同じである。

   従って、ITをあくまで知識情報化社会を推進するエンジンだと考えれば、堺屋太一氏が言うように情報産業化社会を知価社会と捉えて、知識が価値を生む、エルメスやグッチのような人間の叡智が創造した美意識が価値を生むのだと言うコンセプトと全く矛盾はしない。
   知識情報化社会を、技術的な側面と真の人間力が生み出す真善美の側面を持った経済社会革命だと言う理解が必要なのである。

   しからば、この産業社会において、ITは技術的な色合いは強いが所詮エンジンでありエネルギーであるなら、やはり、人間自身がコントロールして訓化すべきであろう。
   少なくとも、ITに内部統制システムで振り回され、今回また、情報セキュリティガバナンスで振り回されれば、何のためのITか分からなくなってしまう。
   
   
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同族経営ダイナスティの功罪・・・凋落する名門不二家のケース

2007年02月19日 | 経営・ビジネス
   不祥事に揺れている洋菓子の老舗不二家の経営が危機に瀕しているが、誰が考えても、外の世界が見えなくなった井の中の蛙の同族経営の弊害の最たる結果であると言えよう。
   1910年に横浜の元町に洋菓子店が開店した、これが不二家の創業で、翌々年にはアメリカに出かけて菓子業界の視察をするなど斬新な経営で、やっと欧米に門戸を開いてハイカラ気風が漂って来た日本に、新しい食と嗜好の世界を開いた功績は大きい。
   殆どの日本人は、ペコちゃんポコちゃんの人形と甘くて美味しい不二家の洋菓子と供に何らかの形で祝ったイヴェントや記念日の思い出があると思う。
   それ程、日本人の心の中に故郷のような懐かしい思い出を残しているブランドを、雪印乳業や幾多の食品会社の不祥事を他山の石に出来ずに、無残に踏み躙った無能な不二家の体たらくは、やはり、連綿と100年間続いた藤井家の閉鎖的な小さなダイナスティ経営故に起こった悲劇であろう。

   しかし、このような同族経営・ファミリービジネスが悪いわけではなく、むしろ、業績が良い方で、老舗の立派なファミリー企業が多いヨーロッパで最近注目を浴びて、INSEAD,IESE等のビジネス・スクールでファミリービジネスの研究が急速に進んでいると言われている。
   スイスのローザンヌにあるファミリービジネス・ネットワーク(FBN)には世界中から1200のファミリーが参加しており、日本も含めて各国に支部が出来て活発に活動している。

   起業時点では総ての企業がファミリービジネスなのだが、自由主義経済圏では、実は、ファミリー企業がGDPの50%から90%を占めていて、米国雇用の60%は小規模なファミリー企業によって支えられていると言う。
   また、ファミリーが、フォードの株の40%、ウォルマートの株の39%を所有しており、業界によっては圧倒的な支配力を有するなど、大企業でもファミリー企業が可なり存在し、大食料会社カーギルなどはいまだに株式非公開のファミリー企業である。
   華僑の世界では、クローニーキャピタリズムが主体で、むしろ、同族以外には企業が拡大しないケースもあり、開発途上国ではむしろ同族企業経営が普通である。
   それに、実際には、ファミリー企業の方が、利益率は全体の平均より高く企業成績が良いと言われている。

   
   最近、IMDの研究を基にD.K.ルヴィネ氏とJ.L.ウォード教授が著した「ファミリービジネス 永続の戦略 FAMILY BUSINESS KEY ISSUES」と「強国論」の著者D.S.ランデス教授の「ダイナスティ 企業の繁栄と衰亡の命運を分けるものとは DYNASTIES Fortunes and Misfortunes of the World Great Family Busunesses」を読んで、少し、ファミリービジネスを勉強したのだが、ファミリーと言う特異な視点から企業経営を見ると見えなかった経営戦略が垣間見えて面白い。
   前者は、ファミリービジネスへの指南書に近いが、後者は、銀行、自動車、地の宝(石油)に分けて世界の名だたる名門大企業の創業者やカリスマ経営者に焦点を当てて夫々のダイナスティの帰趨を企業経営の視点から分析している。

   ハーバードの研究によると、ファミリー企業は多角化や垂直統合に積極的に取り組み、利益を伸ばしていることが明らかになり、IMDの研究では、ファミリー企業には実益をもたらす際立った企業文化があることが分かったという。
   そして、増加傾向にあるM&Aの対象となる通常の企業よりも、ファミリー経営の企業は財務上の業績が上回るだけでなく、ファミリー企業は固有の問題を解決しながらも平均寿命がより長いことが分かっていると言う。

   ランデス教授は、A.チャンドラーJrの経営者資本主義の考え方、即ち、ファミリー企業は過渡的段階の一形態に過ぎず、遅かれ早かれ外部から経営陣や技術者を導入し、経営や技術の変化に対応し、事業の運営を一族以外に任せることになる、と言う考え方を認めながらも、ファミリービジネス、ダイナスティの良さを強調しながら経営論を展開している。
   ダイナスティを知ることは、経済やビジネス行動だけではなく、社会・人間・文化を理解する鍵となるからだと言っている。
   
   ランデス教授は、ファミリー企業の戦略的に最大の利点は血統だと言う。ファミリー向きの最たるビジネスは銀行だと言って、人間関係、信頼・信用、コネクションが最重要であり、他の産業と違って扱うのが単一で均質な法定通貨と言う商品で技術革新の必要もないので家族以外の人材に頼る必要がないのだと言う。
   ベアリング、ロスチャイルド、モルガンのダイナスティを語りながら、血統を残す為に如何に嫁探しに奔走したかなどと言った卑近な話から、ヨーロッパ王朝との軋轢など、歴史的な展開も面白い。

   一方、自動車の方は、創業者は大体が発明家でメカに特殊な才能を発揮し新しいマシーンの開発に情熱を燃やした。
   しかし、自動車産業で成功を収める為には、銀行のように個人の人脈や顧客の信用以上に、日進月歩で進歩する技術にキャッチアップするために、知識、イノベーション、洞察力など創造性を必要とするので、外部から専門的知識や技術を導入しなければならない。 
   技術的な熟練度とセンスだけではなく、自動車にはひらめきと天分、創造的才能が重視される。しかし、生産は第一に個人の手になり、車に生産者の名前がつけられ、その大部分はダイナスティの創業者の名前だと言う。
   銀行では一族と人間、人脈と信用が何よりも重視されるが、自動車では知識とノウハウが総てを左右するので、一族は後継者として会社の要職には就くが、家族以外から人材を登用せざるをえなくなる。  
   
   ところで、不二家の同族経営の話が横道に反れてしまったが、やはり、根本的な問題は、ファミリー経営における独善と偏見、驕りと傲慢の弊害、そして、社員の積極性と創意工夫を圧殺してしまった経営体質等と、時代の波を感知して経営を行えなかった経営者の無能等に帰するのではなかろうか。
   イノベイテイブで進んでいた不二家の企業魂がいつの間にかさび付いてしまったのであろう。
   まだ、ほんのファミリービジネス学の走りだと言う感じだが、先のルヴィネとウォード共著の「ファミリービジネス 永続の戦略」は役に立つかも知れない。
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国立劇場二月文楽公演・・・簔助のお三輪

2007年02月18日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の文楽の目玉の一つは、やはり、「妹背山婦女庭訓」の簔助の遣うお三輪で、「道行恋苧環」と「金殿の段」の素晴らしい舞台である。
   簔助のお三輪は、これまでにも観ているが、何時もの綺麗で高貴なお姫様や近松の大坂女のような雰囲気のある女と一寸違って、鎌足の息子・淡海(和生)に恋する田舎娘で、初々しくていそいそとした、健気で一本気の垢抜けしない乙女であるが、中々、上手くて楽しい。
   このお三輪も、蘇我入鹿(文司)を成敗する為に、前回の「摂州合邦辻」の玉手御前と良く似た話で、鎌足の忠臣に殺されてその鮮血が愛しい淡海の助けとなる話である。
   文楽や歌舞伎では、若い女人の生血が霊験あらたかなのか、或いは、血判のように血を大切なものとして重視する日本文化のなせるわざなのか、忠義の為の死が多い。

   幕が開くと「道行恋苧環」の美しい舞台で、入鹿の娘・橘姫(清之助)の艶姿が美しい。淡海(お三輪にとっては隣家の烏帽子折の求馬)と橘姫の恋の語らいに、お三輪が割り込んできて、淡海の不実を恨み、橘姫と淡海をめぐって争いとなる。
   ここで、橘姫に求馬を横取りするなと、お三輪が、
   「外の女子は禁制と、締めて固めし肌と肌。主ある人をば大胆な、断りなしに惚れるとは、どんな本にもありやせまい。女庭訓躾方、よう見やしゃんせ、エエ嗜みなされ女中様」と、実際の夫婦同然であるから、女庭訓を持ち出して、お姫様に挑むが、この辺りは、封建時代とは言え、身分などなんのその随分大らかで興味深い。

   この段の人形遣いの3人は、主に女形なので、人形の立ち居振る舞いが何となく優しくて優雅で美しい。
   夜明けの鐘の音に驚いて帰りを急ぐ姫の袂に、淡海が苧環の赤い糸を結びつけて後を追うが、お三輪も淡海の袖に苧環の白い糸を結びつける。
   一人取り残されたお三輪の苧環は最初は勢い良く回っていたが急に止まる。糸を手繰り寄せたら切れていた。そんな些細な田舎娘の仕草にも、人間国宝簔助の芸は実に細やかで、心憎いほど乙女のいじらしさが滲んでいて感動的でさえある。

   近松の世話物などの道行は、大抵心中への道中だが、時代物では次ぎへの余韻を残した道行で、舞台も華やかで美しくそれにこの場合は物語りもあって中々楽しい。それに、五挺五枚で華やかであり音楽が実に良くて素晴らしい。

   この桜井の三輪の里は、三輪そうめんの特産地で、日本の最古の神社である大神神社があり、そのご神体が、後の三角錐型の美しい三輪山である。
   若い頃に何度か行ったことがあるので、鬱蒼とした参道や立派な社殿やなだらかで美しい三輪山の雰囲気を今でも覚えている。お三輪は、この里の杉酒屋の娘なのである。
   日百襲姫が毎夜通って来る夫が何処から来るのか気になって衣服に糸をくくり付けて後をつけて行くと三輪山の蛇であったと言う三輪山伝説があるが、お三輪の苧環の糸の話もこの伝説から取っている。

   「金殿の段」では、糸の切れたお三輪が煌びやかな御殿に辿り着くが、聞くと、今夜三輪の里から来た男と姫の祝言があると言う。
   求馬に会いたくて必死になって頼むが、淡海の田舎の恋人と知った官女たちが難癖をつけてよってたかってお三輪を苛め抜く。
   この場のいじめは、歌舞伎だと厳つい顔の立役の男達が演じるので凄まじい限りだが、現在の学校や職場でのいじめを連想させてあまり面白くもない。

   恥ずかしさと悔しさで泣き崩れ、橘姫への嫉妬で逆上したお三輪を、疑着(嫉妬)の相のある女の生血が役に立つと、出て来た鱶七(桐竹勘十郎)が、髪を鷲掴みにして脇腹を刺す。
   敵の入鹿は、母が白鹿の血を飲み誕生したので、爪黒の牝鹿の血と疑着の相の女の生血を注いだ笛を吹くと力が弱まって討てると言う設定で、お三輪が殺される。淡海の為に役に立った「北の方」と言われてことの次第を悟るのだが、そんなことよりも一目会いたい、喜びながらも会いたい一心で苧環を胸に死んで行く意地らしいお三輪が哀れである。
   この悲劇を、簔助・勘十郎の師弟コンビが、道理の通らない無茶な話だが、感動的に演じていて清々しい。
   それに、豊竹嶋大夫の語りと清助の三味線が、これまた秀逸で、特に、なぶり者にされてのたうつお三輪の嘆きと断末魔の哀れさを万感の思いを込めて語る嶋大夫の語りの素晴らしさに脱帽である。

   
   

   

   
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東京都交響楽団演奏会・・・金聖響指揮とソプラノ森麻季の魅力

2007年02月17日 | クラシック音楽・オペラ
   都民芸術フェスティバルで都響の演奏会が、東京芸術劇場であった。
   指揮は、今急速に人気が出ている金聖響で、スメタナの歌劇「売られた花嫁」序曲、ソプラノ森麻季独唱でモーツアルトのモテットとオペラのアリア、それに、最後は、チャイコフスキーの交響曲第6番ロ短調「悲愴」であった。
   
   私は、去年のトヨタ・マスター・プレイヤーズ・ウィーン演奏会でモーツアルトのオペラの素晴らしいアリアに感銘を受けていたので、特に森麻季に期待して出かけた。
   白い綺麗なコンサート・ドレスを身に着けて手をしっかり前に組んで、訴えかけるように歌う実に優雅な佇まい、それに、素晴らしく美しいソプラノで、オペラの舞台を見たいと思いながら聴いていた。
   プラシド・ドミンゴ・世界オペラ・コンテストで優勝し、ワシントンを皮切りに世界のヒノキ舞台で活躍中と言うことだが、リゴレットのジルダや、「こうもり」のアデーレ、「ホフマン物語」のオランピア等を歌っているようで、私は、モーツアルトのオペラを聴きたいと思っている。
   その日、シアターコクーンで、蜷川幸雄の「ひばり」で松たか子の舞台を楽しむ為に、ニコンの双眼鏡を持って行っていたので、2階の中央真ん中だったが、時々、森麻季の表情を追っていた。やはり、同じ様なファンが居るもので、隣の青年も双眼鏡を離さなかった。
   
   コンサート会場には、最近、無料雑誌PLAYBILLが置かれている。
   アメリカでは、コンサートホールや劇場で、パンフレットを兼ねていて、昔から配布されていたが、可なり、しっかりした小冊子で、カレント・トピックスなどクラシック音楽やプレイに関する話題が載っていて面白かった。
   日本でも、その劇場のプログラムや世界の音楽ニュースなど盛り沢山の記事が載っていて、それに、質も高く面白い。
   
   今回、QUEEN OF OPERAとしてビバリー・シルスの面白い記事が載っていた。
   その中で、シルスが、「この世で最も美しい音は、訓練され磨き上げられた人の声。」と言っており、「美しいものには誰もが敏感に反応します。天井を突き抜けるようなソプラノを聴き、感動で涙するお客様が確実に居ることを私は知っています。」とも言っている。
   昔、ライブ・コンサートを聴くことの重要性について語った時に、小澤征爾が、人間の歌声と楽器の音色が一番美しいのだ言っていた。
   私は、森麻季のモーツアルトを聞いていて、その美しさを実感していた。

   ところで、ビバリー・シルスだが、もう80歳に近いと思うが、先月、METライブ・ビューイングで、若々しくてチャーミングな元気な姿を見せていた。たった一度だけだが、フィラデルフィアに居た時、ニューヨーク・シティ・オペラに「アンナ・ボレーナ」を聴きに行った。
   当時、アメリカNO.1のソプラノであった筈だが、殆ど、シティ・オペラで歌っていて、METで本格的に歌ったのはもっと後になってからであった。
   しかし、大学院の試験の合間をぬってのニューヨーク行きだったが、丁度絶頂期のシルスの素晴らしい舞台に感激して深夜にフィラデルフィアに帰った。
   シルスが言うように、素晴らしいソプラノで、人びとを泣かせて来たのであろうと思う。
   その時に買ったシルスサイン入りの自伝の書「Bubbles: An Encore」が今も手元にある。
   
   ところで、金聖響の「悲愴」だが、冒頭から、ロシアの陰鬱な暗さや陰りのない、実にからっとした、しかし、非常にダイナミックな素晴らしいチャイコフスキーであった。
   東京都交響楽団は、やはり、凄いオーケストラであると思う。

   しかし、コンサートで嫌なのは、良く知っていると言うことを示したくて真っ先に拍手をする人、それも、タイミングが早すぎる人で、今回も、あの『悲愴』の最後で、金聖響がまだ指揮台の上で静かに下を向いたままの指揮姿なのに手をたたく人が居て雰囲気をぶち壊してしまった。
   第3楽章の終わりで拍手しかけた人が居たが、コンサートには最低限度のマナーがあり、特に、演奏終了直後の余韻と言うものは極めて重要なのである。
   私自身は、殆どのオペラやクラシックのコンサートでは、感激して堪らずに拍手すると言うことはなくて、良ければ良いほど、その余韻をじっくりと楽しんでから、一呼吸置いて拍手したいと思っている。
   
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蜷川幸雄の「ひばり」・・・松たか子のジャンヌ・ダルク

2007年02月15日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   シアターコクーンで、ジャン・アヌイ作「ひばり」を蜷川幸雄の演出で観た。
   英仏の百年戦争で突如としてフランスの救世主として現われたオルレアンの乙女ジャンヌ・ダルクをモデルにした裁判戯曲で、イギリス軍に捕虜となったジャンヌ・ダルクのルーアンでの異端審問裁判の場が舞台となり、その中で劇中劇の形で彼女の半生が演じられる。
   正に、主役を演じるジャンヌ・ダルクの松たか子あっての劇で、彼女の魅力がジャンヌの姿を通して全開している素晴らしい舞台である。

   私の印象に残っているジャンヌ・ダルクは、映画で、古い1948年のアメリカ映画のイングリッド・バーグマンと、最近のリュック・ベッソン監督の映画のミラ・ジョヴォヴィッチのジャンヌ・ダルクである。
   映画の場合は比較的史実に近いが、アヌイの舞台で面白いのは、処刑台で火炙り途中のジャンヌ・ダルクが助けられて、その後シャルル7世の戴冠式が行われて、その側でジャンヌが王家の旗を持って立っている、そんなハッピーエンドで幕が下りる。

   舞台は、正面の壁面に大きな十字が切られていて、ドミニク・アングルの作品であろうか、その左に旗を持ったジャンヌ・ダルクの絵、反対の右側に馬に乗ったシャルル7世の大きな絵が描かれている。
   舞台の中央に高さ1メートル程の大きな正方形の舞台が設えられていて、回りが、裁判官や司教達、それに、傍聴人の席となっていて、芝居は中央の舞台上で演じられている。
   照明を工夫することによって多少の舞台展開はあるが、真ん中の舞台にベンチやテーブルなどを使って簡易セットが設営されるが、最初から最後までこのシンプルな舞台のままで劇が進行する。
   舞台背景そのものが、しっくりした暗いトーンで統一されていて、役者たちの衣装が当時のと思われる姿を忠実に再現しており、最初から最後まで殆ど全員が舞台に出ずっぱりで、演技者だけにスポットライトが当たっているので、背景と溶け込んでいて素晴らしいムードを醸し出している。
   RSCのシェイクスピア劇を見ているような感じになる。
   それに、何時も、蜷川の舞台に流れる音楽は効果的で美しい。

   私は、松たか子の舞台は、父親幸四郎との「ラマンチャの男」と蜷川の「ハムレット」しか知らないし、映画やTVドラマでもそれ程多くはない。
   しかし、染五郎や紀保の妹であり幸四郎の次女であるから、そのDNAは抜群で、あのくせのない美貌と天性の役者気質が花開くと大女優間違いなしと思って注目していた。
   今度のジャンヌ・ダルクの衣装は、グレーのトレパン様スタイルのボーイッシュな姿で押し通していたが、ある意味では、等身大の役作りで伸び伸びとジャンヌを演じていた。
   もっとも、ここまでに至るには、蜷川と大変なバトルがあって、蜷川の厳しいジャンヌ像と松たか子の必死なジャンヌ像造りとの葛藤を経た結果生み出されたものであろう。全く奇跡としか思えない歴史の偶然を、若くて強烈なエネルギーを秘めた松たか子の演技を通して、舞台に敲き付けた、そんな印象を受けた。

   私は、ジャンヌが囚われていたルーアンのブーヴルイユの「ジャンヌ・ダルク塔」へは行っていないが、ルーアンの大聖堂やジャンヌ・ダルクの活躍していたロワールの辺りを歩いたことがある。今も、謂わば、中世の雰囲気を残した田舎である。
   15世紀中葉のフランスは国家の体をなしていなかったし、それに、イギリス自身フランスの血を引いた王家に支配されていて、今の英仏の戦争をイメージすると全く間違ってしまうが、あの頃のフランスの田舎も都会(?)もそれ程違いはなかった。
   私の言いたいのは、ジャンヌ像で、その地方の有力者の娘であったようだし、極めて敬虔なキリスト教徒で、可なりの知性と教養があったと思われ、所謂単なる田舎娘だと言うイメージとは違う筈だったと言うことである。
   しかし、非常に無垢で純真で、字は殆ど書けなかったが極めて聡明で、聖ミカエル、聖女カトリーヌと聖女マルグリットの天の声を何年も聞き続けて、使命感と激しい若さのエネルギーに突き動かされて走り始めたと言うことではないであろうか。
   そうでないと、あれだけ、王家を筆頭にフランス中を巻き込んで、イギリス軍を撃破しシャルル7世に戴冠式を挙げさせると言った芸当が出来る訳がない。
   昔、小澤征爾が、モーツアルトの音楽を評して、神がモーツアルトの手を取って書かせたとしか思えないと言っていたことがあるが、正に、神がジャンヌ・ダルクに乗り移ってフランスに奇蹟を起こさせたのである。

   そのような目で見ると、松たか子のジャンヌが如何に適役で素晴らしいジャンヌ像を造り出しているかが良く分かるし、蜷川がまず松たか子ありきで演目を選択し「ひばり」に焦点を当てて、松たか子の役者としての資質、そして、パワーと魅力全開の舞台を生み出そうとしたことも良く理解できる。
   冒頭の陳述で、松たか子が、ジャンヌと聖ミカエルとを交互に演じるが、その声音と台詞回しの上手さに舌を巻く。
   それに、純真無垢な表情で畳みかけるような語り口で説得する機転と聡明さ、一途に打ち込む健気さ、そんな斬新で強烈な若い松たか子のイメージを、本人を自由奔放に泳がせながら引き出した蜷川の匠の技が冴えている。

   脇を固める役者も上手い。
   シャルル7世の山崎一、司教の益岡徹、ウォーリック公の橋本さとし、それに、ボードリクールを演じた役者、コケティッシュで魅力的な小島聖、兎に角、端役まで共演した役者たちの素晴らしい演技が松たか子のジャンヌを支えている。
   日本人には縁遠い話で、宗教裁判や当時の中世の時代背景を多少でも理解していないと、少し煩わしくなるが、久ぶりに蜷川幸雄の面白い舞台を楽しませて貰った。
   立見席も若い観客で一杯、小劇場の雰囲気の良さが劇を盛り上げている。TVカメラが放列をしいていたが何時放映するのであろうか。

      
   
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春の足音・・・庭の花と野鳥

2007年02月13日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   温かくて良い天気が続くと真冬であることを忘れてスコップを持ちたくなる。
   何となく庭を見ると、沢山の球根が芽を出し始めて急に地面が賑やかになっている。
   スノードロップが花を着け、黄色いクロッカスが一気に花を咲かせた。ジッと地面に張り付いた小さな株からスミレの可憐な薄い青紫の花びらが見えている。

   花木は、椿が何種類か咲いているが、我が家の枝垂れ梅の蕾はまだ固い。
   白羽衣の蕾が動き始めたので、もう少しすれば、庭の椿が咲き乱れる。

   昨日、庭に、また、新しい小鳥がやって来た。シジュウカラとツグミである。色々な小鳥が訪れてくれているのだが、少し離れていると同じ様に見えるので、良く観察していないと気付かない。
   我が家は、住宅街の一番はずれにあって、田畑や林に近いので、野鳥天国の北総の所為もあって、小鳥達の訪れが多い。
   もうすぐ、ウグイスが来て鳴く。キジバトが枯れ草をつつき始めたので、また、ヤマモモの茂みに営巣するのかも知れない。
   シジュウカラとメジロのように小さな鳥は、敏捷に飛び回るが、大きくなるほど動きが穏やかになるのが面白い。
   このような野鳥の訪れを見ていると、千葉のトカイナカの自然も、まだ、捨てたものではないと思ってしまう。
   
   オランダの路傍に咲くクロッカスの花を思い出した。
   春の訪れを狂喜して喜ぶヨーロッパでも、今ごろ、道端や公園の芝生からクロッカスが顔を出しているのであろうか。
   日本では、クロッカスは庭に植えるのが普通だが、ヨーロッパでは路傍の花である。

   ヨーロッパの路傍の花で風情があって美しいのは、ケシの花である。真っ赤なケシの花が一番印象的だが、色とりどりのケシの花がか細い茎に支えられて、風に揺れる姿の優しさは格別である。
   ギリシャの廃墟で、遺跡の間から顔を覗かせるケシの姿は、歴史の重みを感じさせて感傷的になってしまったのを思い出した。真っ白な大理石の欠片の間に、真っ赤な鮮血のような花が咲いているのである。
   初秋に信州の田舎を車で走っていると、農家の庭や路傍にコスモスの花が揺れているが、あの風景も旅情を誘って中々素晴らしい。
   大原の田舎道を歩いていても季節毎に色々な花が民家の軒先や路傍に咲いているが、私はそんな風景が好きで、奈良や京都の里山を良く散策した。

   ところで、野鳥達の訪れだが、一番多いのは、やはり雀である。水田の刈り取りの季節には、雲霞の如く押し寄せてくるが、普段は、数羽ずつチュンチュン喧しく囀りながら小枝に止まって小休止しているか、せわしく地面を突きながら歩いている。
   最近、カラスの姿が、何故か少なくなった。
   鳶も殆ど見ない。
   今、頻繁に庭を訪れるのは、ヒヨドリとムクドリ、それに、何度も訪れてはすぐに何処かへ飛んで行くメジロである。
   口絵の写真は、匂い椿・港の曙の蜜を吸いに来たメジロ。つがいであろうと思うが、メジロは、二羽で飛んで来ることが多い。

   私は、別にバードウォッチングの趣味がある訳ではないが、鳥は飼うよりは自然の姿で見る方が良いと思っている。
   もう何十年も前になるが、新宿のマンションに住んでいた時に、セキレイインコが一羽舞い込んできたので、少しの期間、番にして卵から雛を育てるなどして飼っていた事がある。
   しかし、死んでゆく姿に耐えられなくなって止めてしまった。
   籠の鳥は良くない、そう思っている。

   野鳥に興味を持ったのは、ロンドン郊外のキューガーデンに住んでいた時で、休みになって時間が取れるとカメラを持って、ロイヤル・キューガーデンに出かけて花の写真を撮っていたのだが、途中公園の中で、沢山の野鳥に出会った。
   雉や山鳥がひよこを従えて前を横切るし、綺麗な色をした鳥が草むらから飛び立つし、それに、池には、白鳥や鴨などあらゆる水鳥が群れていた。 
   黒歌鳥の綺麗なさえずりを聞きながら、人懐っこいイングリッシュ・ロビンに近づいたり、その当時は200ミリの望遠レンズしか持っていなかったので、満足な写真は撮れなかったが、それなりに楽しかった。

   もう一つの野鳥の思い出は、ブラジルで、アマゾンで見た極彩色のオウムや、熱帯植物園などで見た色々なハチドリ達である。
   動物の方は好き嫌いがあるが、野鳥の場合は、どんな鳥も美しいし、それに、動きが敏捷で、そのバリエーションを見ているだけでも厭きない。
   それに、鳴き声の美しい鳥の声を聞くと嬉しくなる。

   余談だが、その所為もあって、年がら年中、駅のスピーカーで、ウグイスの鳴き声を流している京成八幡駅の教養のなさと悪趣味には閉口している。
   それに、この京成電鉄で最悪なのは、表玄関である筈の上野駅の公衆便所の劣悪さで、他の私鉄と比べれば、カスタマー・サティスファクションを如何に蔑にしているかのが分かろうというもの。
   寅さんも乗っていた電車であるが、都心に乗り入れておりながら、何処もかしこも垢抜けしないこの電鉄の不思議さ、天然記念物でもある。
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国立劇場二月文楽公演・・・住大夫の「摂州合邦辻」に文雀の玉手御前

2007年02月12日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   大黒柱・吉田玉男の去った文楽だが、今月は会場に欠場者の張り紙のない、そして、充実した出し物と演出で9日初日から華やかな舞台がスタートした。
   12月に欠場していた文吾が元気な姿を見せて豪快な舞台に花が咲いた。
   住大夫の「摂州合邦辻」合邦庵室の段の素晴らしい語りに文雀の玉手御前が応えてた舞台、それに、「妹背山婦女庭訓」での簔助のお三輪など、三部構成で親しみ易いアラカルト演目の充実した舞台で、朝の11時から夜の9時前まで、結構楽しませて貰った。

   この摂州合邦辻だが、主人公の玉手御前は、20歳に成るか成らぬかの乙女ながら後妻に入り、義理の息子達のお家騒動を命と引き換えに回避すると言う話である。
   しかし、もっと凄いのは、義理の息子に激しい禁断の恋を仕掛けて、激昂した実父に殺されると言う設定で、人間世界の愛憎劇がビビッドに描かれていて、到底江戸中期の作とは思えないほどモダンなのである。
   この玉手御前の恋心が、本当の恋かかりそめの恋かと言う野暮な愚問だが、住大夫の義太夫も文雀の人形も、もうそれを超越しており、肺腑を抉るような慟哭の中に、しみじみと義理と人情の板ばさみに呻吟する魂の崇高さを描いているような気がして感激して観ていた。

   恋する義理の息子俊徳丸(清三郎)とその妻浅香姫(勘弥)が、実父合邦道心(玉女)に匿われているのを知って、玉手御前が、その後を追って家を出て里に帰ってくる。両親に激しく諌められるが、俊徳丸への恋を諦められないと言いはる。
   それを立ち聞きした二人が逃げようとするところに玉手御前が割って入って、俊徳丸に邪恋を諌められるが聞かずに口説き始めて、浅香姫との激しいバトルが始まる。
   そこへ、堪り兼ねた合邦が飛び出して来て玉手御前を刺す。
   人形とも思えないような真に迫った激しい動きも特筆ものだが、住大夫の名調子は、この激しい愛憎劇を余すことなく語り尽くして強烈な余韻を残す。
   
   怒りに吾を忘れて娘を刺し殺そうとした合邦が、「憎うて憎うてどうもこうもたまらぬ故、十年以来蚤一疋殺さぬ手で現在の子を殺すも、浮世の義理とは云いながら、これが坊主のあろうことかい、あろうことかい、あろうことかい、・・・」と慟哭すると場内は凄い拍手、これが、正に浄瑠璃の醍醐味と言う瞬間である。
   抉る拳を手負いは押さへ「ヲヲ道理でござんす道理でござんす道理ぢや道理ぢや憎い筈ぢや、ガこれには深い様子のあること、物語るうちこの刀、必ず抜いて下さんすな」と苦しい息をほっと継ぎ、玉手御前が、何故、このような悲劇的なことに及んだのか苦しい息の中から語り始める。
   父娘の肺腑を抉るような会話が、住大夫の語りに増幅されて胸を締め付ける。
   
   妾腹の兄が正妻の子・弟俊徳丸を殺害してお家を乗っ取ろうとしているのを知り、二人とも義理の子ゆえに夫に告げ口も出来ず、命を助ける為に俊徳丸に毒を飲ませてライ病にして家を出させる。 
   この病気は、寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に生まれた女の生血を、毒を飲んだアワビの杯で飲めば病気は回復すると言う。
   自分がその条件を満たした女であることを知っているので、自分さえ側におれば何時でも俊徳丸の病気は治る。
   義理の息子に恋狂いをしたと見せかけて、父親合邦に殺させるよう画策したのである。
   
   このことを苦しい息の中で説明し父に悟らせて、「父様、父様、エエコレ申し父様いな、なんと疑いは晴れましたでござんすかえ」と言うと、
   「ヲイヤイ、ヲイヤイ、ヲイヤイ、スリヤそちが生まれ月日が妙薬に合うた故、一旦はライ病にしてお命助けまた身を捨てて本復させうと、それで毒酒を進ぜたな」
   「アイナア」
   「ヘエエ出かした出かした出かした、娘ヤイ、モモモモなんにも云わぬ、堪忍してくれ堪忍してくれ。・・・」
   もう、殆ど目も見えず耳も聞えなくなった娘を前にして、自分の短慮で最愛の娘を刺し殺した悔恨と屈辱に、父親合邦は、胸も張り裂けんばかりの断腸の思いでかき口説き慟哭する。
   中空を仰いで、万感の思いを込めて激しく訴える住大夫の何と感動的な義太夫の迫力とその感動。
   ぴったりと陰のように寄り添う錦糸の三味線に合わせて、たった一人で、玉手も合邦も、そして、筋も素晴らしく感動的に語り続ける住大夫と云う大夫は一体何と言う芸術家なのであろうか。
   錦糸の終曲真近のソロの三味線の音は凄く感動的で、久しぶりに錦糸が住大夫を一寸リードした感じのところであった。

   ところで、玉手御前がかりそめのカモフラージュで俊徳丸に恋をしたことになっているが、私は、本当に恋をして果てたのだと思っている、そう思いたい。
   比較的老け役の上品な感じの婦人役が多い文雀が、久しぶりに水も滴るいい女を遣った。若くて美しいだけではなく、後妻と言う一寸女の色気と成熟した女の雰囲気をむんむんさせた女を、実に魅力的に演じていて、品を保ちながら、恋に狂うあの激しさ、それに、父親合邦を徹底的に怒らせて自分を殺害させなければならないので周りを挑発する健気さ、住大夫も上手いが、文雀の人形遣いの素晴らしさも群を抜いている。

   先日、外人記者クラブで、桐竹勘十郎が、「年よりは一所懸命頑張ってドンドン先へ進んで行くので、追いつくのが大変だ。」と云っていたのが良く分かる。

   合邦道心を遣った文吾は、一寸顔色が冴えないのが気になったが、流石に上手くて風格のあるタイトルロールを実に巧みに演じていて、玉男の居なくなった立役のトップとして素晴らしい舞台を見せてくれた。
   浅香姫を遣った勘弥も、一寸控え目だが、素晴らしい舞台でくんずほぐれつの玉手とのバトルに迫力があり、お姫様然とした姿も美しい。先日の外人記者クラブでは、勘十郎のお園の左遣いを受け持っていたので、何となく親しみを感じて観ていた。

   
   

   
   
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