おそらく、今シーズンのMETでの最高のプログラムではなかったかと思うほど素晴らしい「エウゲニー・オネーギン」が、ル・テアトロ銀座で放映された。
チャイコフスキーの奏でる民族色の強いロシアの美しいドラマチックなメロディーが、全編を流れている愛の物語。タイトルは「エウゲニー・オネーギン」だが、本当は、初心で清楚な乙女が優雅な公爵妃に羽化するタチアーナが主役で、その激しい恋をルネ・フレミング(Renee Fleming)が実に感動的に歌う。
タイトルロールのディミトリー・ホロストフスキー(Dimitri Hvorostovsky)がカリスマ的と言うべきか得意中のロシア物で、フレミングに煽られてか激しく心情をぶっつけるシンパクの演技で、演技音痴の汚名を返上、それに、レンスキーを演じるラモン・ヴァルガス(Ramon Vargas)のダイナミックで美しいテノールが素晴らしい。
この3人は、昨年、来日して素晴らしいMETの「椿姫」を魅せてくれたコンビで、NHKホールでの興奮を髣髴とさせてくれる。
これだけ素晴らしい「エウゲニー・オネーギン」の舞台を創り出せたのは、やはり、指揮者のワレリー・ギルギエフ(Valery Gergief)のなせる技で、彼のMETへの貢献は計り知れない。
このオペラは、プーシキンの戯曲をオペラにしたもの。
地方貴族の娘タチアーナが、ペテルブルグの社交界に飽きて遺産相続を受けて田舎に来た貴族オネーギンに一目ぼれし、ラブレターを書くが、子ども扱いにされてこっ酷く振られる。
時移って、オネーギンが放浪の旅を終えて親戚のグレーミン公爵の舞踏会に出てみると、見違えるほど堂々として社交界の女王然として登場したのは、グラーミン公爵妃となったタチアーナ。オネーギンは、激しい恋に身を焦がしてタチアーナに迫るが、恋心を押さえながらタチアーナは貞節を守って立ち去る。
初々しい乙女と優雅な公爵妃をフレミングが、どこか人生に飽きて放浪癖のある退廃臭を醸し出す青年貴族をホロストフスキーが、夫々実に味のある演技をしていて、ビバリー・シルスに、「二人のケミストリーが漂う最高の舞台」と言わしめた。
一幕の後の舞台裏で、シルスと語りながら、悲しくて、と言って涙を拭いていたフレミングが印象的であった。振られた直後の舞台の後、正に感情移入しての会心の演技であったのであろうと思った。
フレミングには、ロイヤルオペラで、自著にサインを貰って二言三言喋ったが、本当に気さくで素晴らしいヤンキー婦人。まだ実際の舞台は、デズデモーナとヴィオレッタだけだが、現在では、最高のソプラノであることは間違いないと思うが、あれだけ素晴らしく豊かな美声で物語を演じられる歌手は数少ないと思っている。
ホロストフスキーは、今やMETの看板スターで、とにかく、白髪のスマートな好男子振りが客席を魅了するのか、今回のオネーギン役も、なで肩のスマートさが退廃貴族の雰囲気を良く出していて実に朗々としたバリトンが舞台を圧倒する。
最初に観たのはロイヤルのリゴレットで上手いと思ったが、前回のジェルモンと比べても、今回のチャイコフスキーは遥かに素晴らしいと思った。
何処となく余所余所しかったリゴレットやジェルモンと違って、今回は、グレーミン公爵妃のフレミングにしがみ付いて愛を絶叫するのである。
ところで、これまでに「エウゲニー・オネーギン」を観たのは、一回だけで、随分以前になるが、ロイヤル・オペラの舞台である。
ビデオになって出ているが、ウォルガング・ブレンデルのオネーギンとミレッラ・フレーニのタチアーナの舞台である。
グレーミン公爵は、夫君のニコライ・ギャウロフだったので息があっていた。
いまだに印象的で忘れられないのは、フレーニの10代の乙女のような恥じらいのある実に初々しいタチアーナで、当時既に孫が居た筈だが、演技も歌声もその途轍もない若さと華やぎに舌を巻かざるを得なかった。グレーミン公爵妃としての威厳と理想的な女性像の素晴らしさは言うまでもない。
同じ時期だったと思うが、一度、ロンドンからパリに向かうエールフランス機でフレーニと隣り合わせに座ったことがあった。
ケーキを少しつまんだくらいで、最初から最後まで殆ど機内ではボナンザ・グラムに熱中していた。
個性的な顔立ちで美人ではないが、ややピンクがかった抜けるような肌の美しさにビックリして見とれていたが、イタリア人には珍しい実に物静かな婦人であった。
話しかけようと思ったが遠慮して、下りる時に荷物おろしを手伝ったくらいだが、シートの背もたれの上に残したチケットの半券を貰って本に挟んで帰ったが今はもうない。ちゃんとMirella Freniと印字されていた。
ところで、今回のMETの舞台だが、全くシンプルで三面は平面の壁だけで、照明だけで舞台設定を変えていて、スター達の登場口は、バックの左右の切れ目だけ。彩を添えて変形する舞台一面に敷き詰められた秋の落ち葉とイスなどの小物だけが舞台セットだが、歌手達の衣装が当時そのままの華麗な衣装なので舞台は実に美しい。
アバンギャルドな、或いは、サイケデリックな舞台設定が結構巾を利かし始めた現在のオペラ演出に比べて、このような嫌味がなくてシンプルで美しい舞台は清々しくて気持ちが良い。
チャイコフスキーの奏でる民族色の強いロシアの美しいドラマチックなメロディーが、全編を流れている愛の物語。タイトルは「エウゲニー・オネーギン」だが、本当は、初心で清楚な乙女が優雅な公爵妃に羽化するタチアーナが主役で、その激しい恋をルネ・フレミング(Renee Fleming)が実に感動的に歌う。
タイトルロールのディミトリー・ホロストフスキー(Dimitri Hvorostovsky)がカリスマ的と言うべきか得意中のロシア物で、フレミングに煽られてか激しく心情をぶっつけるシンパクの演技で、演技音痴の汚名を返上、それに、レンスキーを演じるラモン・ヴァルガス(Ramon Vargas)のダイナミックで美しいテノールが素晴らしい。
この3人は、昨年、来日して素晴らしいMETの「椿姫」を魅せてくれたコンビで、NHKホールでの興奮を髣髴とさせてくれる。
これだけ素晴らしい「エウゲニー・オネーギン」の舞台を創り出せたのは、やはり、指揮者のワレリー・ギルギエフ(Valery Gergief)のなせる技で、彼のMETへの貢献は計り知れない。
このオペラは、プーシキンの戯曲をオペラにしたもの。
地方貴族の娘タチアーナが、ペテルブルグの社交界に飽きて遺産相続を受けて田舎に来た貴族オネーギンに一目ぼれし、ラブレターを書くが、子ども扱いにされてこっ酷く振られる。
時移って、オネーギンが放浪の旅を終えて親戚のグレーミン公爵の舞踏会に出てみると、見違えるほど堂々として社交界の女王然として登場したのは、グラーミン公爵妃となったタチアーナ。オネーギンは、激しい恋に身を焦がしてタチアーナに迫るが、恋心を押さえながらタチアーナは貞節を守って立ち去る。
初々しい乙女と優雅な公爵妃をフレミングが、どこか人生に飽きて放浪癖のある退廃臭を醸し出す青年貴族をホロストフスキーが、夫々実に味のある演技をしていて、ビバリー・シルスに、「二人のケミストリーが漂う最高の舞台」と言わしめた。
一幕の後の舞台裏で、シルスと語りながら、悲しくて、と言って涙を拭いていたフレミングが印象的であった。振られた直後の舞台の後、正に感情移入しての会心の演技であったのであろうと思った。
フレミングには、ロイヤルオペラで、自著にサインを貰って二言三言喋ったが、本当に気さくで素晴らしいヤンキー婦人。まだ実際の舞台は、デズデモーナとヴィオレッタだけだが、現在では、最高のソプラノであることは間違いないと思うが、あれだけ素晴らしく豊かな美声で物語を演じられる歌手は数少ないと思っている。
ホロストフスキーは、今やMETの看板スターで、とにかく、白髪のスマートな好男子振りが客席を魅了するのか、今回のオネーギン役も、なで肩のスマートさが退廃貴族の雰囲気を良く出していて実に朗々としたバリトンが舞台を圧倒する。
最初に観たのはロイヤルのリゴレットで上手いと思ったが、前回のジェルモンと比べても、今回のチャイコフスキーは遥かに素晴らしいと思った。
何処となく余所余所しかったリゴレットやジェルモンと違って、今回は、グレーミン公爵妃のフレミングにしがみ付いて愛を絶叫するのである。
ところで、これまでに「エウゲニー・オネーギン」を観たのは、一回だけで、随分以前になるが、ロイヤル・オペラの舞台である。
ビデオになって出ているが、ウォルガング・ブレンデルのオネーギンとミレッラ・フレーニのタチアーナの舞台である。
グレーミン公爵は、夫君のニコライ・ギャウロフだったので息があっていた。
いまだに印象的で忘れられないのは、フレーニの10代の乙女のような恥じらいのある実に初々しいタチアーナで、当時既に孫が居た筈だが、演技も歌声もその途轍もない若さと華やぎに舌を巻かざるを得なかった。グレーミン公爵妃としての威厳と理想的な女性像の素晴らしさは言うまでもない。
同じ時期だったと思うが、一度、ロンドンからパリに向かうエールフランス機でフレーニと隣り合わせに座ったことがあった。
ケーキを少しつまんだくらいで、最初から最後まで殆ど機内ではボナンザ・グラムに熱中していた。
個性的な顔立ちで美人ではないが、ややピンクがかった抜けるような肌の美しさにビックリして見とれていたが、イタリア人には珍しい実に物静かな婦人であった。
話しかけようと思ったが遠慮して、下りる時に荷物おろしを手伝ったくらいだが、シートの背もたれの上に残したチケットの半券を貰って本に挟んで帰ったが今はもうない。ちゃんとMirella Freniと印字されていた。
ところで、今回のMETの舞台だが、全くシンプルで三面は平面の壁だけで、照明だけで舞台設定を変えていて、スター達の登場口は、バックの左右の切れ目だけ。彩を添えて変形する舞台一面に敷き詰められた秋の落ち葉とイスなどの小物だけが舞台セットだが、歌手達の衣装が当時そのままの華麗な衣装なので舞台は実に美しい。
アバンギャルドな、或いは、サイケデリックな舞台設定が結構巾を利かし始めた現在のオペラ演出に比べて、このような嫌味がなくてシンプルで美しい舞台は清々しくて気持ちが良い。