熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

都響定期A・・・アンドリュー・リットンのチャイコフスキー交響曲第4番

2019年05月30日 | クラシック音楽・オペラ
   今回の都響定期公演は、次の通り。

指揮/アンドリュー・リットン
ピアノ/アンナ・ヴィニツカヤ
曲目
 バーバー:管弦楽のためのエッセイ第2番 op.17
 プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番 ハ長調 op.26
 チャイコフスキー:交響曲第4番 ヘ短調 op.36
 (アンコール)チャイコフスキー:「四季」op.37b より3月 ひばりの歌(アンナ・ヴィニツカヤ)

  チャイコフスキーの交響曲は、今回の4番から6番の悲愴までが、大曲として良く演奏される。
  私は、ロンドンから帰る時に、カラヤンのチャイコフスキー:交響曲第4番 第5番 第6番 悲愴 のCDを買って帰ったのだが、その後、CDやDVDで、音楽を鑑賞することはなくなったので、今回会場で聴いていて、殆どメロディーをフォローできたのは、コンサート会場で結構聴いていたお陰だろうと思っている。

   この第4番は、丁度、メック夫人がパトロンになったので、経済的な余裕が出来て作曲に専念できるようになった時期の作品で、非常に意欲的でダイナミックなのであろう、
   冒頭の全曲の主想旋律となるホルンに始まる金管楽器が轟くファンファーレのモチーフから、ロンド主題が金管楽器中心に、さらに第2副主題が長調で力強く奏され、圧倒的な迫力で終結部に突き進む。
   メック夫人への手紙で、「苦悩から喜びの勝利へ」の作曲意図を伝えたと言う。
   ホルンやトランペットが放列を敷き激しく唱和する金管楽器の咆哮、大太鼓の大地を突く連打の迫力・・・白鳥の湖やくるみ割り人形などのような美しいメロディーとは、全く違った、別世界のチャイコフスキー節。
   アンドリュー・リットンのタクト裁きが冴え、都響が、素晴らしいサウンドで応える。
   私など、熱狂的な拍手喝采で湧いている会場を後目にして、いつも、直ぐに席を立って帰ってしまうので、余韻も何もあったものではないのだが、ロンドンに居た時には、車で、ビッグベンや電光に映えた奇麗な夜景を楽しみながらキューガーデンに帰っていたので、それなりの感慨はあった。

   プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番は、殆ど100年前の作曲。
   プロコフィエフは、日本にも滞在しており、私が子供の頃にも生きていたので、現代の作曲家。
   ピアノのアンナ・ヴィニツカヤが、ロシア人で、民族の血がそうさせるのか、感動的。
   ヴィニツカヤは、アンコールのひばりの歌では、中空を仰いで、しばし茫然、ピアノ協奏曲とは打って変わったような、美しいメロディを楽しませてくれた。
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サンドラ・ナビディ著「SUPER-HUBS(スーパーハブ) ─世界最強人脈の知られざる裏側」

2019年05月29日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   金融エリート人脈を持つ国際金融コンサルタントの著者が、世界の金融経済を支配する最強の人脈を解き明かすと言う本である。
   冒頭、ダボス会議から説き起こして、会議出席者が、アメリカ大統領を筆頭に国家元首から、世界の政財界のトップ、超有名富豪などが糾合する超エリートのネットワークの最たるもので、世界経済の命運を征しているのだと言う。
   ダボス会議、すなわち、世界経済フォーラム(World Economic Forum)、IMF、ビルダーバーグ・グループ、アスペン研究所、サンバレー会議などが、強力なプラットフォームとなって、金融超エリートが、大移動を繰り返し、閉鎖社会を形成する。これらの特定の機関や集団、ネットワークへのアクセスが、いかに重要か、超金融エリートへ上り詰めたジョージ・ソロスなどのスーパーハブの軌跡を描きながら、同質化する金融エリートたちのスーパーハブが、強烈な閉鎖的ネットワークを形成して、世界を動かしている。と言う。

   著者は、ニューヨーク大の経済学者ヌリエル・ルビーニと事業を展開していたドイツ人弁護士で、ルービニを通じて、金融界のスーパーハブに知己を得て、かなり、深部に入り込んだスーパーハブの内部情報、知られざる裏側情報を開陳していて、面白い。
   私自身は、特別、各スーパーハブの故事来歴など個々の情報には興味がなく、前世紀末から最近の金融世界情勢や国際経済の流れを読もうと思った。
   しかし、知ってはいたが、リーマン・ブラザーズのCEOリチャード・ファルドが、人望がない上に、スーパーハブとの有効なネットワークを結べず、ゴールドマン・ザックスとの軋轢があり、腹を立てていた救済側の財務長官ヘンリー・ポールソンに見限られて、崩壊に追い込まれて、本人も完全に失脚したと言う話や、何度も危機に陥りながら這いあがってきたラリー・サマーズの話、「元首相」の肩書で金融ビジネスを展開して億万長者になったトニー・ブレアの裏話なども面白い。

   私は、ロンドンに居た頃、このダボス会議とアテネで開かれたダボス会議に参加したことがあり、雰囲気は分かっている。
   スイス観光局によると、ダボスは、
   標高:1560m 山々にはさまれた谷あいの小さな村ダヴォスは、世界経済フォーラムが開催されることで有名なスイス屈指の山岳リゾート。プラッツとドルフの2地区に分かれており、雄大な自然の中でハイキングやサイクリング、スキーなど多彩なアクティビティが楽しめます。 美しい自然に抱かれた山間の小さな村からは周囲に広がる山々やのどかな谷へのエクスカーションが魅力。
   とにかく、全くの田舎で、ダボス会議の会場横からスキー場へのケーブルが上っていて、会期中は白銀世界。
   世界の超トップエリートと雖も缶詰状態で、ネットワーク形成のプラットフォーム以外の何物でもなくなる、凄い世界である。

   この本、表紙カバーに、美人の著者の写真、それに、一寸異質で、出版社がTAC。
   トンデモ本ではないかと思って読み始めたのだが、ある意味では、砕けた調子ではあるが 、人脈を通しての世界金融経済史として参考になった。
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国立能楽堂・・・狂言「末広がり」「二人袴」「蝸牛」

2019年05月28日 | 能・狂言
   狂言だけの国立能楽堂の◎家・世代を越えてと銘打った狂言の夜
   人間国宝がシテを務める定番狂言3曲の素晴らしい公演で、次のようなプログラム。

   狂言 末広かり (すえひろがり)  野村 萬(和泉流)
   狂言 二人袴 (ふたりばかま)  山本 東次郎(大蔵流)
   狂言 蝸牛 (かぎゅう)  野村 万作(和泉流)

   「末広がり」は、先日鑑賞したので、印象はビビッド、
   今回は、萬の気迫の籠った迫力のある果報者に圧倒された。
   資産家のシテが、一族を集めて饗応の席を設けて、引き出物に末広がり(扇)を進上するために、その調達に太郎冠者を京都へ向かわせると言うことであるから、それ相応の威厳と風格があってしかるべきだが、これほどの元気な舞台は初めてである。
   それに、来年90歳と言う大ベテランでありながら、機嫌を治して、太郎冠者に引き込まれて、「傘をさすなら春日山」と、軽快に飛び跳ねて舞うと言う軽やかさ。
   ほかの人間国宝の狂言を観ていても、そうだが、歳は取っても、芸の衰えはなく、年輪を重ねた芸の深み豊かさのみが加わって、いぶし銀のような風格を滲ませていて魅せてくれる。

   「二人袴」は、親が、親離れしない幼稚な聟の聟入りに付いて行ったのだが、聟の袴しか用意せずに行ったので、舅に、二人一緒に会いたいと言われて、袴を取り合いしている間に、袴が二つに割けて、夫々、前だけ袴を着けて、舅の前に出るのだが、三人の相舞いの途中で、それがばれて、恥をかくと言う話。
   迷惑至極だが、バレない様に、恥をかかないように、細心の注意を払って舅の前に登場する親に対して、ボーっとした能天気な聟は、無頓着、それを、必死になって注意するも、仕方なく同調する東次郎の演技が秀逸である。
   東次郎家のベテラン兄弟と彌右衛門宗家の若い狂言師との「家・世代を越えた共演」は、相性抜群で、非常に面白かった。

   「蝸牛」は、主が、祖父への長寿の薬として蝸牛(カタツムリ)を贈ろうとして、太郎冠者に取って来いと命じるのだが、蝸牛を知らない太郎冠者が、「藪に住み、頭が黒くて、腰に貝をつけ、時々角を出すもので、大きいのは人ほどもある」と教えられて、藪で昼寝をしていた山伏に揶揄われて連れて帰ると言う突拍子もない話。
   蝸牛さえ知らない太郎冠者の無知ぶりにあきれた山伏が、いかにも主の説明にぴったりのように太郎冠者を言い含める頓珍漢な掛合いの面白さ、それに、帰りに、囃して行こうと言われて、「雨も風も吹かぬに出ざかま打ち割ろう」と言う太郎冠者の囃子に乗って「でんでん虫々」と謡い戯れる山伏の姿が面白いのだが、とにかく、現実離れしたストーリー展開。
   真面目で誠実一途、何でも知っていると言う学者然とした万作が、大真面目で山伏の口から出まかせに調子を合わせると言う落差の激しさ、このあたりの正攻法で直球の万作の芸に、滲みだすような可笑しみ笑いを感じて、いつも、楽しませて貰っている。

   三宅派の萬と万作の舞台には、先日ブックレビューした野村又三郎家の野村派の狂言師が加わっての「家・世代を越えた共演」で、私など、どこが流派の差でそれがどのように融合したのか、全く分からなかったのだが、面白かった。

   能の場合には、もっと、大きな差のある筈の五流派間の共演もあり、色々舞台芸術の分野で異業種の交流があって、どんどん、新しい分野の芸術や芸能が生まれており、望ましい傾向ではないかと思う。

   次元は違うが、
   異人種間の結合によって、素晴らしい子孫が生まれ出でる確率は結構高いし、90年代に純粋培養主義のソニーがMITレポートで疑問を呈されたのだが、今では、オープン経営も良いところ。
   とにかく、異文化異文明が文明の十字路で炸裂し融合して生まれたメディチ効果がルネサンスを生んだように、異分子の衝突の凄さを、軽視してはならない。
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国立劇場・・・神々の残照-伝統と創造のあわいに舞う-

2019年05月26日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   ジャンル等の垣根を越えて広く舞踊(ダンス)の魅力を見せるプログラムだと言う。
   今回の「神々の残照」では、「神」をキーワードに、日本舞踊、インド舞踊、トルコ舞踊、コンテンポラリーダンス(新作)を上演すると言うことで、プログラムは次の通り。

【日本舞踊】
長唄 翁千歳三番叟(おきなせんざいさんばそう)
翁   尾上墨雪
千歳  花柳寿楽
三番叟 若柳吉蔵
【インド古典舞踊】
オディッシー
マンガラチャラン/バットゥ/パッラヴィ/パシャティ・ディシ・ディシ/モクシャ
小野雅子
シルシャ・ダッシュ
ラシュミー・バット
アビシェーク・クマール
【トルコ舞踊】
メヴラーナ旋回舞踊〈セマー〉
トルコ共和国文化観光省所属 コンヤ・メヴラーナ楽団
【コンテンポラリーダンス】
構成・振付・演出=笠井叡 衣裳=萩野緑
マーラー作曲〈交響曲第五番〉と群読による
古事記祝典舞踊
いのちの海の声が聴こえる (新作初演)
テキスト=古事記~大八島国の生成と冥界降り~
 近藤良平・酒井はな・黒田育世・笠井叡/
 浅見裕子・上村なおか・笠井瑞丈/
 岡本優・小暮香帆・四戸由香・水越朋/
 〔群舞〕ペルセパッサ・オイリュトミー団/
 〔群読〕天使館朗唱団

   若い頃に、ロイヤル・バレエやニューヨーク・シティ・バレエなどで、チャイコフスキーの「白鳥の湖」などを観に結構劇場に通ったり、家族が好きであったので、クラシック・バレエの舞台を観ており、海外の劇場で、古典劇や古典舞踊、民族ダンスなどを見てはいるのだが、いずれにしても、舞踊と言う分野の観劇経験も希薄だし、感心も薄い。
   従って、今回の舞台でも、インドとトルコの舞台では、バックの民族音楽的な楽団演奏の方に興味を持って楽しませてもらった。

   【インド古典舞踊】オディッシーは、バックのどこか神秘的で哀調を帯びたサウンドに乗って踊り続ける優雅な舞踊は、やはり、素晴らしかった。
   この日は、やや上手よりの最前列で鑑賞していたのだが、小野雅子はじめ奇麗な民象衣装に着飾ったダンサーたちの、目や手や腰の微妙にモノ言う表情豊かな動きを、感動して観ていた。
   シタールのもの悲しい優雅な流れるようなサウンドに呼応して、女性歌手の祈るような朗詠、マルダラが単調なリズムを軽快に刻む・・・そんなエキゾチックな音楽が、魅力を倍加する。
   私は、タイとインドネシアの民象舞踊しか観ていないのだが、何となく雰囲気が似ていた。

   【トルコ舞踊】のメヴラーナ旋回舞踊〈セマー〉は、これも、独特なサウンドの民族楽器と歌い手が奏する素晴らしい古典音楽に乗って、5人の男性舞踊手が、くるくる、時計回りと逆方向に舞い続ける群舞で、楽団員は黒衣、舞踏手は白衣、
   羊毛の粗衣(スーフ)を身にまとって、アラーへの絶対的な服従を実践する修道士が起源となったスーフィー教団の踊りだと言うことで、音楽や身体的表現によって神を祈念し、白い布の裾を翻して旋回する。
   この典礼音楽で、最も重要な楽器は葦笛のネイで、神が創った人間が、別離の悲哀・苦痛に咽び泣くような葦笛のサウンドに、世界観を象徴させているのだと言う。
   宗教色の色濃い旋回舞踊なのだが、優雅で哀調を帯びた一心不乱の舞と音楽が胸を打つ。

   さて、冒頭は、能「翁」を、基礎にして生まれた【日本舞踊】長唄 翁千歳三番叟。
   遅刻常習犯である私は、1時間鎌倉を出るのを遅れて、開演に間に合わず、劇場に入った時には、翁の舞に入っていた。
   能なら、翁が退場して三番叟の舞が始まるまで、見所への入場は禁止だが、入場OKで、後方立ち見を許してくれた。
   能の「翁」と、この舞台と、どのように差があるのか、微妙なところは分からないのだが、見られなかった前半は、能と殆ど変わらないのであろう、
   三番叟の「鈴ノ段」の後,千歳が舞い、その後、千歳と三番叟が相舞いが続いた。
   舞も唄も三味線も囃子も、最高峰の舞台だと思うのだが、私には、もう、10回以上も観て、頭にしっかりと入り込んでいる能「翁」の印象が強くて、一寸、別バージョンの優雅な舞台を観ているような気持であった。

   【コンテンポラリーダンス】の、古事記祝典舞踊 いのちの海の声が聴こえる (新作初演)は、今回の最大の話題作であったのであろう。
   テキストが、古事記~大八島国の生成と冥界降り~構成・振付・演出=笠井叡 衣裳=萩野緑で、
マーラー作曲〈交響曲第五番〉をバック音楽として、群読によるストーリー・テラーが加わって、舞台狭しと、神々のソロダンサーを中心に華麗な群舞が展開されて、古事記の冒頭の国造りから、天岩戸伝説までが、繰り広げられる。
   月初に、能「絵馬」で、天岩戸隠れした天照大神が、天鈿女命の裸踊りで岩戸から出てきて光が戻ったと言う舞台を観たところなので、興味深く観ていた。
   チャイコフスキーの古典バレエしか、楽しんで見たことのない私には、コンテンポラリーダンスは、ちょっと無理で、聞き慣れたマーラー、特に、ラストのアダージョなどの美しいサウンドに乗った素晴らしいソロダンサーの踊りや群舞に見とれていたが、ストーリーとバレエの関わりや群読には、十分には付いて行けなかったのが、一寸、残念ではあった。
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国立演芸場・・・立川流落語会初日」

2019年05月25日 | 落語
国立演芸場開場四十周年記念
5月特別企画公演
「立川流落語会」
24日(金)
落語 立川三四楼 遠山の金さん制度
落語 立川晴の輔 寿限無
落語 立川談修  狸の札
落語 立川龍志  片棒
―仲入り―
落語 立川雲水  天災
落語 立川談春  野ざらし
落語 立川談之助 最後の真打試験
江戸の唄 さこみちよ
落語 立川談四楼 一回こっくり

   私は、「赤めだか」の談春を聴きたくて、出かけた。
   三日間続く立川流落語会のうち、何故か、この日だけ一番売れが悪かったのだが、夫々、大変な熱演で、流石に、立川流だと感心した。

   談春は、「野ざらし」を語った。
   初めて聞く談春の本格的な落語なので、楽しませてもらった。
   「野ざらし」は、色々バリエーションがあるようだが、
   長屋で寝ていた八五郎(?)が、女の声が聞こえるので、女が出来たのかおかしいと思ってその主を問い詰めると、向島に釣りに行き野ざらしの髑髏を見つけて可哀想だと思って持って帰って供養したところ、その骨の幽霊がお礼に来たのだと言う。あんな美人が来てくれるのなら幽霊でも何でも構わないと、無理に釣竿を借りて釣場に勇んで出かける。沢山の釣り客を相手に、頓珍漢な受け答えをしたり、美人との妄想にふけっったりして繰り広げる醜態が面白く、とうとう、自分の鼻に釣り糸を引っかけて苦し紛れに、「こんなものが付いてるからいけねぇんだ、取っちまえ」とつり針を切って、川に放り込んでしまう。
   リズミカルで歯切れのよい語り口が実に巧妙で、色っぽい仕草なども抜群であり、人気絶頂の噺家の面目躍如である。
   足のない幽霊に、八五郎が、足があったかと執拗に聞くあたりなど、男の助兵衛心を覗かせるなど、とにかく、微妙な語り口のメリハリ、テンポ間合いに笑いと擽りを、豊かなしぐさと表情に込めて語り続ける、これこそ、落語の世界であろう。

   談四楼の「一回こっくり」は、「地震雷火事親父」と言うのだが、落語では、地震の話がないので、創作したと語り出した。
   談四楼の著書のタイトルでもあり、相当思い入れがあるのであろう。
   幼い息子を事故で亡くした大工夫妻がの前に、ある暑い夏の日に、幽霊となって現れて、突発した地震から助けると言う人情噺。その地震で、孤児になった可愛い女の子を貰って幸せに暮らすと言うオチがつく。
   談志とは、対極にあるような好々爺の談四楼のしみじみとした語り口と人情噺は、胸に染みる。

   立川談之助の「最後の真打試験」は、落語界の真打試験の実名入り(?)暴露ストーリー。
   八百長は、相撲から始まった言葉で、相撲の伝統であるから八百長がないと伝統違反だと勇ましい話から語り始めて、落語界の真打試験の裏話を語った。
   師匠談志が、落語協会真打昇進試験制度運用をめぐって、会長で師匠・小さんと対立して、落語協会を脱会し、落語立川流を創設したのもこの真打試験で、因縁深い話題だが、有象無象、面白い実話(?)で、落語より面白い。
   先の高座で、志らくが、三平を叩いていたが、談之助も、「こぶ平」の真打昇進に疑問を呈し、三平にも辛口批判をして、あの家で面白いのは、泰葉だけだと語っていたのだが、何か、あるのであろうか。
   
   
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我、狂言たれ―又三郎家の楽屋裏でござる

2019年05月23日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   能楽堂で、結構、野村又三郎の狂言を観ているので、この本を興味深く読んだ。
   又三郎は、狂言和泉流三派:山脇、三宅、野村の一つ野村派の野村又三郎家の当主で、2011年5月に、十四世・野村又三郎を襲名しており、その時に出版された本である。

   400年の歴史を持つ野村派の旗頭でありながら、まだ、一門は小規模なのだが、本拠が名古屋にあると言うことだけではなく、又三郎が、仙人のように世間離れした先代又三郎の50歳の時に生まれた嫡男であったと言うことでもあろうか。
   しかし、400年中絶することなく続いたのは、あまり政治的に動かなかったこと、権利主義や権威主義に走らず身内で潰しあいをしなかったこと、京都に住んでお屋敷をもって御所に出入りしていてこれ以上のことを望まず、自分たちが喰えれば良いと思ってきたことが、奏功したのであろうと述べている。

   幼い頃、必ず風呂に一緒に入って、稽古は、このお風呂の中であって、師匠と弟子が向かい合って稽古したと言う記憶がないと言う。
   父とは50歳、母とは45歳の年齢差があったので、世間さまには、祖父母に育てられているように見えたであろうし、ドラマもスポーツ観戦もマゲもので、同世代の子供と比べて、好みなど、年寄り臭かったと思うと述べている。

   初舞台は、4歳の時で、「靭猿」。
   猿曳は父だが、相手の大名と太郎冠者は、今の人間国宝野村萬と万作だったと言う。

   先祖は、尾州家へ御召抱、禁裏御用の呉服商で狂言方、
   呉服商は、屋敷の奥まで入ることのできる仕事で、世間話などしながら、奥方に取り入って情報を入手し、それを流す。
   松尾芭蕉もそうではないかと言われていたが、先祖はスパイではなかったかと、一人妄想していると言うのが面白い。

   東京藝大邦楽科に行く時に、父の反対を受け、萬斎の出身校だと知って、母は乗り気だったが、父は、「いらない」とピシャリ。
   「なぜ、野村萬・万作兄弟に狂言を習わなければいけないんだ?」
   又三郎が在学中に70歳になり、「釣狐」や「花子」も教えなければならないのに稽古がつけられなくなり、芸が三宅派に染まってしまっては、と言った思いからであろう、強い拒否反応を示したが、井の中の蛙になっては絶対にいけないと言う母の説得で許したと言う。
   藝大卒業後、2年別科におり、この間、東京では舞台が多くて、亡き家元や萬・万作師たちから、度々役を貰って、通いの内弟子のようにお世話になって、食事や酒の席に招かれて、貴重な勉強ができた。
   新宿の「どん底」に行けば、素晴らしい演劇の話が聞けて、ふらっと入った店でも、俳優座や青年座の人達がいて、様々な芸術論が飛び交い、名古屋に居たら絶対に受けられない刺激を受けたと言う。
   
   映画「ラストサムライ」に出演して、憧れのスター渡辺謙から、「クリエーターになりましょう」と教えられた逸話など、狂言師野村又三郎の興味深い話が満載で、面白い本である。
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ロシアにとってウクライナは生命線か

2019年05月21日 | 政治・経済・社会
   ロシアが、ウクライナ問題で、欧米の制裁を受け続けている。
   欧米のメディア情報に慣れている我々には、独立国家の国土クリミアを併合したり東部に侵略するのは、どうしても国際法違反であって、ロシアが悪玉に見えるのだが、事情は、結構、複雑なようである。

   T・マーシャルの「恐怖の地政学」を読んでいて、叙述の相当部分は、ウクライナ関係であり、丁度、座右にあったピーター・ゼイハンの「地政学で読む 世界覇権 2030」の中の「ロシア:近づく黄昏」を読んで見てもそうで、最近、地政学が気になっているので、ロシアの地政学的位置づけが、どのように、ロシアの政治に関わっているのか、考えてみた。
   日本では、北方四島の返還が最大の関心事だが、何の記述もなく、要するに、ロシアにとっては、地政学的には問題意識が低いと言うことであろうか。

   まず、ゼイハンだが、ロシアの人口減少が致命的で、数世代後には、ロシアの国家としての存続、ロシア人が民族として生き延びるのは不可能になってくると言わざるを得ない、と、信じられないようなことを言っているのだが、これは、これとしても、
   ロシアにとって唯一かつ最大の不安要素、それはウクライナだとして、独立したウクライナは、どのような形を取ろうと、ロシアにとって脅威となり、2020年までに対応すべき一つ目の脅威だ。と述べている。
   ウクライナは、
   小麦生産地帯としては唯一最も生産性の高い最も低投資・高収益の土地
   モルドバと共にベッサラビアの開口部で対トルコの重要拠点
   国外で最大のロシア民族の居住地
   ウクライナ東部の産業基盤を統合すれば国力増強
   ヨーロッパへの石油およびガスパイプラインの政治的利用
   緩衝地帯として重要
   不凍港セヴァストポリスのロシア軍港の存在
   それに、ロシア立国の故地でもある

   ロシアにとって、ドニエプル川の河口に位置するクリミア半島にある、ロシアの唯一の不凍港セヴァストポリスの完全確保支配は死活問題であって、クリミアの統合は、必然だと言うわけで、まして、ウクライナを南下する旧ソ連の唯一の航行可能なドニエプル川は、黒海、マルマラ海、その先の世界と経済的に統合されていて、ウクライナは、最も資本が豊かな国であって、完全に独立して運命を切り開ける国であり、安々と、ロシアを袖にして、西欧側に加担するなど、絶対に許すわけには行かない。と言うことである。

   マーシャルによると、プーチンは、ロシアの防衛力が弱まったのは、ゴルバチョフの責任だとして毛嫌いしており、1990年のソ連の崩壊は、「今世紀最大の地政学的惨事」だと呼んでいると言う。
   本来、ロシアの一部であったクリミア半島を、1954年に、ウクライナに譲渡したのは、フルシチョフなのだが、当時は、ソ連が健在で、モスクワの永遠管理だ考えられていたので問題はなかったのだが、ソ連が崩壊して、ウクライナがロシア寄りでなくなった以上、プーチンは、これを看過するわけには行かなくなった。

   プーチンは、この状況を変えなければならないとして、「初心者のための外交述」における基本ルール、「国の存続にかかわる脅威に直面した時、大国は武力行使をする」を実行しただけだと言う。マーシャルの指摘が興味深い。
   このことを、西側の外交官は知っていたのかどうか。
   気づいていたのなら、ウクライナを現代のヨーロッパと西洋勢力の影響下に組み入れるのなら、プーチンのクリミア併合を価値ある代償としたに違いない。と指摘しているのは、興味深い。
   ロシアの軍港が、クリミア半島の不凍港セヴァストポリスに存在し続ければ、ロシアとウクライナの利害衝突は永遠であって、ウクライナのままクリミアが西欧世界に組み入れられれば、戦争の導火線となるのは必然的であって、既成事実が成立してしまった以上、両陣営とも国際紛争を避けるためにも、実行支配が継続するのであろう。

   さて、ロシアだが、人口は、1億4680人 (日本 1億2667万人)
            GDPは、1,630,659百万US$ (日本 4,971,929百万US$〉
   人口は、ロシアの方が、少し、多いようだが、経済力は、購買力平価で表示すれば、もう少し、差が縮小するであろうが、ほぼ、日本の3分の1、
   産業と言えば、宇宙・航空・情報通信産業等の軍需産業は突出しているとしても、さしたる工業大国でもなく、輸出の6割以上を原油や天然ガスなどの鉱物資源に頼る資源依存の経済構造であり、BRICSの一角と言われながらも、経済成長は停滞している。
   外観を展望しただけだが、このブログのロシア紀行で書いたように、モスクワもサンクトペテルブルクも、古色蒼然たる町並みで、殆ど振興の近代ビルの姿はなく、近代建築が林立する中国やアセアンの大都市などと比べて、ビックリした。
   さすれば、あの世界に冠たる強大な軍事力と国威の発揚とそのプレゼンスは、どこから来るのか。
   GDPが、アメリカの1100分の1の北朝鮮の驚異的な軍事力と同様に、私には、脅威であり驚異なのである。

   チャーチルが、「ロシア人がもっとも礼賛するのは、強さである。そして、弱さ、中でも軍事的弱さを忌み嫌う。」と言っている。
   民主主義のマントを纏っていても、本質的には専制政治のままで、その根底には国益があるから、現代のロシアの指導者にも当てはまる。

   ロシアの永遠の悲願は、「凍らない港」。
   シリア政府をサポートして必死になってシリアの地中海沿岸のタルトゥースの小さなロシアの海軍駐留軍を守るのも、クリミアを併合して不凍港セヴァストポリスのロシア軍港を完全に掌握するのも、すべて、このため。

   次にロシアにとって大きな問題は、北ヨーロッパの国境地帯に位置するポーランド、ベルラーシ、エストニア・ラトビア・エストニアのバルト三国で、中立でいてくれれば良いが、それは不可能であり、プロロシアのベルラーシとの同盟なり統合があり得るであろうが、解決すべき脅威だと言う。
   ロシアが崩壊して、一気に、ソ連の構成国が分離独立し、多くの東欧諸国は、EUに加盟し、NATOの構成員となり、今や、隣国からミサイルが飛んで来ようとしている。
   
   四面楚歌で、経済制裁下にあるロシアが、どのようにして、活路を見出そうとするのか。
   窮鼠猫を嚙むと言う状態に、陥らなければ良いのに、と願っている。
   
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わが庭・・・ベルサイユのばら、ザ・ポエッツ・ワイフ

2019年05月20日 | わが庭の歳時記
   HTで、最初に咲いた花は、ベルサイユのばら。
   千葉から持ってきたばらなので、よく今まで咲き続けてくれたと思っている。
   花形は、やや、不整形だが、ビロードのような深紅の大きな花弁が風格があってよい。
   
   

   イングリッシュローズのザ・ポエッツ・ワイフも咲いた。
   花芯は、濃いイエローだが、外に向かって、徐々にグラデュエーションで、淡いクリーム色から白く変わって行く、柔らかな雰囲気が実に美しい。
   イングリッシュローズは、フレンチローズと似通った、何とも言えない、独特のムードを醸し出す秘密のようなものを持っていて、イギリスに住んでいたと言うよしみもあるのだが、失敗を続けながらも、栽培を続けている。
   
   
   

   もう一つ咲き始めたのは、アメジスト・バビロン。
   オランダの花で、まだ、株が小さいので、花付きが悪いのだが、房状に咲くと、豪華である。
   
   

   ユリは、まだだが、ユリによく似たラッパ状のオレンジが勝った黄色い花、ノカンゾウが咲きだした。
   房状に数輪蕾をつけるのだが、花の命は短くて、の典型で、朝顔のように、朝開いたかと思うと夕刻には萎んでしまう、
   
   

   葉が茂ってスタンドバイしているアジサイの陰から顔を出しているのは、スイカズラ。
   吸筒に蜜腺があって、吸うと甘いとかで、「吸い葛」と言うのだと言う。
   
   
   
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国立小劇場・・・文楽:通し狂言『妹背山婦女庭訓』(2)

2019年05月19日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   この浄瑠璃の興味深いところ、ヒーローたる主役がおらず、殺される大悪人蘇我入鹿が主役であると言うことについて、橋本治は、別な表現をしている。
   三大浄瑠璃のすべて、この「妹背山婦女庭訓」もそうだが、「善なる人、あるいは善であってしかるべき人達が、不幸に遭遇してのたうち回る話」だと言う。
   善なる人は、運命に弄ばれて、襲い掛かる不幸を回避することが出来ず、「悲劇」としか言いようのないゴールに真っ逆さまに突き進む、「不幸な結果を甘受することしかない者への鎮魂」を謳い上げる。と言うのである。
   例えば、「菅原伝授手習鑑」は、藤原時平の謀略によって、菅丞相の一族は不幸のどん底に追い込まれ、梅王丸・松王丸・桜丸は、切腹したり子供を見殺しにしたり、不幸の中でのたうち回る。
   確かに、悪の権化が特定されなくても、忠君愛国、義理人情など、当時の社会の規範に雁字搦めに縛られて、不幸に沈んでいく人々を活写することが多いのだが、これは、シェイクスピアなど欧米の劇や芝居と比べても、多少、異質と言えば異質であろう。

   比較ついでに、この「妹背山婦女庭訓」の若い恋人同士の久我之介と雛鳥の恋愛劇は、不仲で敵対している両家の悲恋を描いたシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」と相通じるものがある。
   しかし、「ロミオとジュリエット」の方は、若い二人は一直線に死へと突き進む展開で終わっているのだが、「妹背山婦女庭訓」の久我之介と雛鳥の恋の顛末には、両家の親、すなわち、久我之介の父大判事と雛鳥の母定高が、大きく関わっており、むしろ、両家の不仲を背負って呻吟する親の方が重要な役割を果たしていて、むしろ、ストーリーとしては、この方が、深みと奥行きがあるような感じがして、素晴らしい作品であるような気までしてくる。

   2時間の大舞台「山の段」の冒頭は、吉野川を挟んで、上手の「背山」の久我之介と、下手の「妹山」の雛鳥が、成さぬ恋心の交感、その後、入鹿より難題を命じられて苦悶する大判事と定高が登場。入鹿は、鎌足の娘采女に執心で、その行方を詰問するために拷問すべく、大判事に久我之介を差し出せと出仕を命じ、久我之助との関係を知りながら、定高に、雛鳥を側女として入内させよと命令するのだが、子供たちが自害することを承知の両方の親が、二人の首を討つ決心をする。定高が、雛鳥の首に死化粧を施して、その首を小さな籠に乗せて、雛人形と一緒に、吉野川を流して悲しい嫁入りが行われる。この時、下手の妹山の仮床に、琴があしらわれて悲しくも美しい雛流しの名曲が奏されるのだが、日本古典芸能の美の極致と言うべきであろう。籠を引き寄せた大判事が、瀕死の状態の久我之介に雛鳥の首をかき抱かせて、首を討ち、両首を抱えて、吉野河畔に仁王立ち。

   歌舞伎のこの舞台は、上手にも花道が設えられて、左右の両花道から大判事と定高が登場して、客席が吉野川と言う設定で掛合いが展開されるのだが、
   文楽の「山の段」は、上手に背山を語る本床と、下手に妹山を語る仮床がしつられられて、竹本座系の力強い染太夫風と、豊竹座系の華やかな春太夫風の義太夫の共演と言う凄い舞台が展開される。
   背山の大判事は千歳太夫、久我之介は籐太夫、三味線は前・藤蔵、後・富助
   妹山の定高は呂勢太夫、雛鳥は織太夫、三味線は前・清介、後・清治、琴は清公
   プログラムで、千歳太夫と呂勢太夫が、意気込みなど芸について語っているが、両者必死の競り合いで、丁々発止で火花の炸裂する凄い共演を見せて魅せて貰って感激であった。
   私など、簑助の雛鳥と和生の定高を間近に観たくて、下手前方の席に居たので、この義太夫の凄い共演の直近で聴くと言う臨場感たっぷりの幸せを噛み締めることができた。
   勿論、大判事の玉男、久我之介の玉助も、最高峰の人形を遣って観客を魅了し、これだけの素晴らしい文楽を魅せるのであるから、チケットが、早々に、ソールドアウトになっていたのは当然であろう。

   3年前の秀山祭歌舞伎で、「妹背山婦女庭訓 吉野川」を大判事清澄に吉右衛門、その子久我之助に染五郎(現幸四郎)、そして、太宰後室定高に玉三郎、その娘雛鳥に菊之助、さらに、腰元桔梗に梅枝、小菊に萬太郎と言う願ってもない布陣で、素晴らしい舞台を魅せて貰ったのを思い出す。
   理屈はともかく、この「山の段」「吉野川」は、凄い舞台なのである。
   

   感動の舞台を、国立劇場のHPから、写真を借用して掲載しておく。
   
   
   
   
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五月晴れの緑陰の中での読書

2019年05月18日 | 生活随想・趣味
   五月は、天気が不安定で変わりやすいのだが、スカッと晴れた五月晴れになると、非常に気持ちが良くて、一年でも一番良い季節ではないかと思う。
   わが庭では、シャクヤクやばらが咲いていて、昼咲き月見草やミヤコワスレ、イモカタバミなどが咲き乱れている。
   鎌倉山から下りてきたウグイスが、しきりに鳴き続けていて、快適な涼風が、頬をなぜる。

   しかし、一番嬉しいのは、庭一面に萌出る緑の新芽と若葉の輝きで、わが庭の椿が、一気に活気づいて一回りも二回りも大きく育って行く姿を見ていると、まだ、一年も先の華やかな椿の乱舞を思う。
   玄関から門扉の間のアプローチに、右に大きなヤマボウシとアメリカハナミズキ、左に梅や梨の木が植わっていて、一気に緑の葉をつけて、豊かな緑陰を現出した。
   それに、庭の中央垣根越しに、大きなクロガネモチなどモチノキの木が、葉が生え変わって、すっぽりと庭を覆って、緑陰を広げて、林の中のような雰囲気を作りだしている。

   
   こんな中でも、これから咲き始めるゆりやアジサイには、それ程、悪影響はないのだが、日当たりの悪くなるところで、ばらを育てて、ミニトマトのプランターを置いているのだから、良いわけはないのだが、可哀そうになって、日当たりの時間は限れれているのだが、裏庭や西や東側の庭の空間に移動して、凌ぐこともある。
   あれも植えたいこれも植えたいで、後先を考えずに、庭木や花木を増やして行くので、木々も、自衛手段で、必死になって緑陰を広げる。

   しかし、私にとっては、このわが庭の緑陰が、格好の書斎替わりで、新聞や本を持ち出して、涼風を楽しみつつ、庭に設えたテーブルと椅子に座って、コーヒーや紅茶をすすりながら、読書を楽しむのである。
   4畳半の和室のわが書斎とは、大分、雰囲気が変わって気分転換になるのだが、パソコンが、目の前にない分、開放感が違っていて良い。
   読む本は、殆ど昔と変わらずに、いわゆる、多少専門的なかたい本だが、同時に、写真とエッセイを交えた本や、古い先哲の論文集と言った、一寸息抜きの本を持って出て、気分転換にページを繰る。
   書斎とは違って、集中力に欠けてはいるが、そこは、半分、緑陰での憩いのひと時を楽しむと言うニュアンスがあるので、カメラを側に置いていて、小鳥が訪れてきたり、庭の花の光の当たり具合などが良くなると、写真を撮ることがあるので、まあ、気晴らしのようなものである。
   いずれにしろ、本は、数冊並行読みで、昔は、一冊の本を読み始めたら最後まで読まないと気になる主義であったが、この頃は、歳の所為もあって、途中で、打っ棄る本も多くなってきた。

   良書は、読めば必ず教えられることがあって、いつも、新鮮な喜びと新しい知恵と知識に巡り合えて、この喜びは、何事にも代えがたいので、止められない。
   後期高齢者になっても、相変わらず、月に10冊くらいは本を買い続けているので、はずみ車のハツカネズミのように、止まるわけにはいかないのである。
   と言うよりも、それが、生き甲斐であるのだから、幸せだと言うべきであろうし、
   わが庭の緑陰が、わが憩いの時間と空間を増幅してくれているのであるから、一石二鳥なのである。
   
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国立小劇場・・・文楽:通し狂言『妹背山婦女庭訓』(1)

2019年05月17日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   通し狂言『妹背山婦女庭訓』。
   五段目 志賀都の段、入鹿が討たれて帝が復位し、平和が訪れ、新都志賀の都で忠臣たちへ恩賞が授与され、久我之助と雛鳥の供養が行われる。 と言うこの段だけは、省略されているのだが、全段、丁寧に上演されたので、今回の通し狂言は、朝10時半から、夜の9時までの長時間にわたる非常に意欲的な舞台であった。
   しかし、20何年も、劇場に通って、歌舞伎や文楽に通い詰めていると、みどり公演ではあるが、殆どの舞台を、切れ切れだが観ていることが分かって、その鑑賞履歴を、つなぎ合わせながら観ていると言うことであって、不思議な感じがした。
   それに、朝から晩まで、連続して観ていると、いくら期待の通し狂言だと言っても、正直なところ、三段目の、あまりにも充実した素晴らしい「山の段」が頂点で、その後の「道行恋苧環」の冴えない義太夫に興ざめして、大舞台である四段目の「三笠山御殿〈金殿〉の段」さえ、苦痛になって来た感じで、先日のワーグナーとは、違った思いだったが、緊張は、5時間が良いところだと、一寸、歳を感じてしまった。

   昼の部は、義太夫を聴こうと思って、上手側前方に席をとったのだが、夜の部は、簑助の遣う雛鳥をじっくりと観たくて、妹山に直近の下手前方の席に移った。
   好都合だったのは、右手に設えられた演台にも直近で、凄い義太夫の掛合いを、臨場感たっぷりに堪能できたことである。

   通し狂言としては、「仮名手本忠臣蔵」や「菅原伝授手習鑑」や「義経千本桜」と言った三大浄瑠璃が傑出しているのだが、「妹背山婦女庭訓」も、人気浄瑠璃で、みどり公演では、三段目の「山の段」や、四段目の「杉酒屋の段」や「道行恋苧環」や「三笠山御殿〈金殿〉の段」などは、文楽でも歌舞伎でも、頻繁に上演されていてお馴染みである。
   今回は、傍若無人の蘇我蝦夷が息子の入鹿の策謀で自害に追い込まれて、その後、入鹿が帝位を簒奪すべく更なる巨悪となって台頭する初段と、宮中に乱入した入鹿を避けて、盲目の帝を、鎌足や息子の淡海が、猟師芝六じつは家臣玄上太郎の山中の家に匿って目を治し、鎌足たちによる反撃準備が始まると言う二段目が加わったので、面白くなっている。
   入鹿は父蝦夷が白い牡鹿の血を妻に飲ませて産ませた子供なので超人的な力を持っており、芝六は、入鹿を滅ぼすためには、爪黒の鹿の血と嫉妬深い女の血が必要と知って、この二段目で、禁を破って葛籠山で爪黒の神鹿を射殺す。
   疑着の相の女の血は、四段目で、騙し抜かれて嫉妬に狂ったお三輪が鱶七に殺されて、その血と爪黒の鹿の血とを混ぜて注いだ笛を吹いて、入鹿の正気を失わせて殺すと言う手はずになっているのである。

   さて、橋本治の「浄瑠璃を読もう」によると、この浄瑠璃は、「超人的な悪人である入鹿が対峙される話である」。誰が、入鹿と対峙して殺すのか、その他大勢が寄ってたかって入鹿に立ち向かうので、誰だかよく分からないし、ストーリーを支える主役がいない。入鹿を退治する話でありながら、全編の主役が、退治される入鹿なのである。と言っている。

   もう一つ、面白い指摘は、入鹿と対峙したのは誰だか分からないと言いながら、誰が大悪人入鹿に立ち向かうのかと言うと、男ではなく、女の入鹿の妹橘姫なのであると言う。
   確かにそうで、鎌足も淡海も大判事も、男らしく入鹿に対峙している人物は誰もおらず、淡海に至っては、お三輪を誑し込むだけの卑怯な優男で、座頭役者が重々しく格好をつけて演じる大判事など、何処が偉くて立派なのか、全く分からないほど骨がない。
   強いて、男らしく筋を通してい生き抜いたのは、久我之介くらいであろうか。
   
   それでは、何に感動して、この「妹背山婦女庭訓」を観るのであろうか。
   
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わが庭・・・イングリッシュローズ咲く

2019年05月16日 | わが庭の歳時記
   今年も、何故か、ばらの花付きが悪くて気になるのだが、そのうち、まず、イングリッシュローズが咲き始めた。
   次女に、孫たちが怪我をするのでダメだと言うことで、日当たりのよい庭の正面から奥に追いやられた所為もあるのだろうが、いずれにしろ、庭一杯に植木や花木で覆われてしまえば、いくら広い庭でも、日当たりが悪くなる。
   咲き始めたのは、グレイスとベンジャミン・ブリテン。
   グレイスは、アプリコット色のシャロ―カップ咲きで、非常に優雅である。
   ベンジャミン・ブリテンは、偉大なイギリスの作曲家の名前だが、サーモンピンクで、花弁の数が、かなり、少ないのが面白い。
   
   
   
   
   

   一本だけ庭植えしているクレマチス湘南が、門扉よこの塀を越えて伸びあがってきた。
   濃い赤紫の十字型の花弁がすっくと伸びて、変わった形が、結構気に入っている。
   もう少しすると、新芽をびっしりと付けた鹿児島紅梅を這い上る勢いである。
   
   
   

   シャクヤクが、どんどん、咲き始めている。
   非常に華やかな花で、素晴らしいのだが、牡丹と同じで、花にもよるのだが、花弁が薄くてか弱くて、花の命が短いのが、少し、残念ではある。
   
   
   
   
   
   
   
   

   もうすぐ咲きだすのが、ユリとアジサイ。
   蕾を膨らませて、スタンドバイしている。
   
   

   下草で、ひっそり、咲き始めたのは、アヤメ。
   
   
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METライブビューイング・・・「ワルキューレ」

2019年05月13日 | クラシック音楽・オペラ
   久しぶりのワーグナーの「ワルキューレ」である。
   METで2回、ロイヤルオペラ、ギルギエフ指揮のマリインスキー、良く覚えていないが、ほかにも何回か、それに、11年のMETライブビューイングも観ているので、結構、私にとっては、馴染みのワーグナーの楽劇の舞台であるが、休憩を含めて、5時間以上の長大なオペラであるので、感動も一入である。
   幸い、ロンドンに居た時に、ロイヤル・オペラで、ゲオルグ・ショルティやベルナルド・ハイティンクが、ワーグナーのオペラを殆ど振ったので、一気に、ワーグナーの魅力に取りつかれてしまった。
   最初に聴いたバイロイトのトリスタンとイゾルデが、一番好きだが、タンホイザー、ローエングリン、パルジファル、ニュルンベルグのマイスタージンガー、ニーベルングの指環の他の3曲、さまよえるオランダ人・・・、とにかく、ワーグナーのオペラは、長時間なので、鑑賞の日は、殆ど、劇場に釘付けであったが、ファンにとっては、たまらない程幸せな時間である。

   この「ワルキューレ」は、楽劇「ニーベルングの指環」四部作の「序夜」に続く「第一日」。
   とにかく、この「ニーベルングの指環」は、途轍もない壮大な楽劇で、この「ワルキューレ」は、鑑賞回数も多いので、かなり、ストーリー展開も分かっているのだが、ほかの曲は、英文の解説文を多数読んでも良く分からず、当時は、字幕もなかったので、到底、ストーリーさえ、いい加減で観ていたと思うと、残念ではある。

   「ワルキューレ」は、
   フンディングの妻ジークリンデは、戦いに負けて逃れてきたジークムントを助けるが、2人は、神々の長ヴォータンが、人間の女性に産ませた双子の兄妹だと分かるが、お互いに恋に落ちて、邪悪なフンディングから逃げるべく駆け落ちする。ヴォータンの妻フリッカは、兄妹の近親相姦禁断の愛を認めず、ジークムントを、追ってきた宿敵であるフンディングとの戦いで、ヴォータンに、彼を殺すように迫る。ヴォータンの娘で戦乙女ワルキューレのブリュンヒルデは、仕方なく翻意した父からジークムントを倒すよう命じられるが、兄妹の愛に感動して彼らを助けようとする。しかし、戦いの場に、ヴォータンが現れて、自分がジークムントのために用意した必殺の宝剣「ノートゥング」を叩き割ってジークムントを死なせる。命令に逆らった娘にヴォータンは激怒するが、ブリュンヒルデは、英雄ジークフリートを身籠っているジークリンデを助けるべく、馬に乗って逃げ去る。8人のワルキューレ姉妹に匿われるが、逃げられず現れたブリュンヒルデは、ヴォータンに神聖を解かれてワルハラから追放される。ヴォータンは、力を失ったブリュンヒルデを岩山に横たえ、体を盾で覆い、槍を振りかざし、岩を3度突いてローゲを呼び出し、ブリュンヒルデは炎に包まれ、壮大な「魔の炎の音楽」が鳴り響いて幕。

   この楽劇では、前半のジークムントとジークリンデ、後半のヴォータンとブリュンヒルデと役者が交代して二部に分かれている感じで、私が観たMETの2回とも、ジークムントを歌ったプラシド・ドミンゴが、途中のカーテンコールで消えて、その後、登場しなくなってしまった。
   寂しく感じたのだが、ほかのオペラの2倍以上もある長い楽劇であるから、2曲のオペラを観たと思うべきであろう。
   ロイヤルオペラのルネ・コロもそうだったし、前のMETライブビューイングのヨナス・カウフマンもそうであった。
   
   ヴォータンの「遠大な計画」は、「自由な意志を持ち、自発的に行動する英雄」を作り出すことで、それを、兄のジークムントに託して、神々の束縛・掟から自由な英雄となるべき存在とすべく、英雄としての宝剣「ノートゥング」をジークムントに授ける手はずも整えていた。
   ところが、兄妹の近親相姦と言う神の掟を破ったのみならず、ヴォータンの「遠大な計画」が、ジークムントの自由な意思どころかヴォータンが操っているだけだとフリッカに見抜かれて、自己矛盾に陥ったヴォータンは、翻意して挫折してしまう。
   この神の意志を継ごうとしたのが、ヴォータンが涙ながらにも縁を切って決別した最愛の娘ブリュンヒルデで、ジークリンデを助けて、英雄ジークフリートの誕生へと伏線を張る。

   この第3幕の終わりに近い「ヴォータンの告別」から続くブリュンヒルデとの感動的な別れから、真っ赤に炎に包まれて咆哮する「魔の炎の音楽」で収束して行く、この壮大て途轍もなく美しい幕切れは、忘れえないワーグナーの世界である。
   この楽劇は、「トリスタンとイゾルデ」の、螺旋状にどんどん高揚して行く限りなく美しい愛の二重唱とは、一寸、雰囲気が違ってはいるのだが、第1幕でのジークムントによる「冬の嵐は過ぎ去り」(ジークムントの「春と愛の歌」)に応えて、ジークリンデも「あなたこそ春です」と歌う、二重唱の感動はまた秀逸で、プッチーニなどのベルカントの美しいアリアとは違った、深い感動を呼ぶ。

   今回の「ワルキューレ」のキャスティングは、
   指揮:フィリップ・ジョルダン
   演出:ロベール・ルパージュ
   出演:
     ブリュンヒルデ:クリスティーン・ガーキー、ジークリンデ:エヴァ=マリア・ヴェストブルック、ジークムント:スチュアート・スケルトン、ヴォータン:グリア・グリムスリー、フンディング:ギュンター・グロイスベック、フリッカ:ジェイミー・バートン

   前回、ブリュンヒルデを歌っていたデボラ・ヴォイトが、今回のMETライブビューイングの進行役を務めていたが、正に最良のキャスティングで、私は、彼女のブリュンヒルデやイゾルデが好きであった。
   ゲルブ総裁が、ヴォイトの後継者だと言っていたブリュンヒルデのクリスティーン・ガーキーも凄い歌手で、とにかく、ゲルブが最高のキャストを揃えた舞台だと語っていたが、流石に、METだと言うことであろう。
   性格俳優ぶりで異彩を放ったフンディングのギュンター・グロイスベックが、来季、バイロイトでヴォータンを歌うのだと嬉しそうに語っていたのが印象的であった。
   このMETライブビューイングの良さは、主要歌手が、休憩時に、インタビューに登場してくれることである。

   この「ワルキューレ」の舞台で特筆すべきは、ロベール・ルパージュの演出で、ゲルブが、マシーンと表現していた大掛かりな上下に動く24枚の巨大な羽根状のシーソーのような舞台。
   巨大な左右の2本の柱から渡された心棒が羽板を串刺しにして支えていていて、24人のスタッフが板を操作する。
   第3幕の序章「ヴァルキューレの騎行 Der Ritt der Walkueren」の素晴らしいサウンドにのせて、8人のワルキューレたちの騎馬シーンが現出され、ワルハラの岩山の舞台になって、ラストシーンの炎として燃え上がる。
   
   

   ロベール・ルパージュは、アイスランドの風景と北欧神話にインスピレーションを得たのだと語っていたが、確かに、このワーグナーの「ニーベルングの指環」は、ドイツの英雄叙事詩ではあるが、北欧神話やケルト神話などの影響も大きく受けているのであろう。
   感動的な5時間のワルキューレであったのだが、松竹のMETライブビューイングのHPからの借用画像を追記しておく。
   最初の画像は、ジークムントとジークリンデ、続いて、ワルキューレとヴォータン、フリッカ、
   
   
   
   
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国立能楽堂・・・狂言「素襖落」:能「絵馬」

2019年05月12日 | 能・狂言
   今回の演目は、意欲的な舞台で興味深かった。

   能「絵馬」は、初めて観る能であったが、斎宮絵馬の行事と天照大神の天岩戸の話を結び付けて目出度い曲にしたのが、面白い。
   後場で、天照大神が、左右の袖をかずいて、舞台正面の一畳台の上に置かれた小宮の作り物に近づき、自ら開き戸を押し開けて中に入り姿を隠して、暫くして、二神の舞を見て、扉を開くのである。
   
   勅使(ワキ/福王茂十郎)が伊勢神宮を訪れると、日照りを占う白絵馬を持った老人(前シテ/観世清和宗家)と雨を占う黒絵馬を持った姥(前ツレ/角幸二郎)が現れ、どちらの絵馬を掛けるか争うのだが、天下万民が喜ぶように両方を掛けて、自分達は伊勢の二柱の神だと明かして消える。蓬莱の鬼達が宝物を捧げに来る。天照大神が天鈿女命(後ツレ/観世三郎太)と手力雄命(坂口貴信)を従えて現れ、舞を舞い宮に入り、天の岩戸に隠れるのだが、天鈿女命が神楽を舞い、手力雄命が神舞を舞うと、天照大神が「面白や」と岩戸を少し開いたので、手力雄命が天照大神を岩戸から再び高天の原に呼び返して、長閑な太平の世が戻る。

   このくだりを、ウィキペディアの古事記の記事を引用すると、
   ・・・ここで天照大御神は見畏みて、天岩戸に引き篭った。高天原も葦原中国も闇となり、さまざまな禍が発生した。
   天宇受賣命が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りして胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊った。すると、高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。これを聞いた天照大御神は訝しんで天岩戸の扉を少し開け、・・・
   天鈿女命は、この「岩戸隠れ」の伝説で、ストリップ紛いの派手な踊りを踊ったことで、芸能の女神であり、日本最古の踊り子だと言うことになっていると言うのが面白い。

   この能の舞台では、天鈿女命が優雅に神楽を舞い、手力雄命が勇壮な神舞を舞い、天照大神の岩戸隠れとともに、殆ど動きのない前場と違って、魅せてくれた。

   京都の茂山家の狂言「素襖落」は、狂言の大曲で、お豆腐狂言の両巨頭千作と七五三兄弟、そして、千作の次男茂との舞台であるから、いぶし銀のような磨き抜かれた芸の冴えが抜群。
   太郎冠者の千作と、伯父の七五三の老たけた滲みだすような可笑しみ、打てば響く芸の絶妙な受け応えや、そのテンポと間合いの確かさ。

   主が、伊勢参りに、伯父を誘いに、太郎冠者を呼びにやらせるのだが、行かないと言う筈だが、お土産を買わざるを得なくなると困るので、自分がついて行くことも言うてはならず、餞別は絶対に貰うなとケチなことを言う。ところが、律儀な伯父は、太郎冠者にたっぷり酒を飲ませてもてなし、餞別に、素襖まで与える。家に帰った太郎冠者は、伯父とのことを主に説明している間に、隠し持っていた素襖を落として、主に拾われてしまう。落としたことに気づいた太郎冠者が、困り果てて探していると、主に、何か落としたものはないかと聞かれて、ばれてしまい、奪い返して橋掛かりに逃げ込むのを、主に追い込まれる。

   真面目が着物を着たような一寸惚けた調子の律儀な七五三の伯父に、酒を振舞われて、調子よくどんどん酔いが回って冗長になって行く千作の面白さが秀逸で、このあたりの愛すべき好々爺ぶりは、やはり、上方の芸だと思って観ていた。
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国立能楽堂・・・能「浮舟」

2019年05月11日 | 能・狂言
   今日の国立能楽堂の普及公演は、次の通り、

   解説・能楽あんない 「浮舟」のドラマトゥルギー  河添房江(東京学芸大学教授)
   狂言 二人大名 (ふたりだいみょう)  善竹 大二郎(大蔵流)
   能  浮舟 (うきふね)  長島 茂(喜多流)

   浮舟は、「宇治十帖」後半の中心人物であり、悲劇のヒロインでもある。
   浮舟は、光源氏の弟の宇治八の宮の三女で、宇治の大君、中君の異母妹であるのだが、母が八の宮に仕えていた女房・中将の君であったために、父八の宮から娘と認知されなかった。
   浮舟は、薫の愛人として宇治の山荘に囲われるが、薫は放置したままで訪れるのも間遠であったために、匂宮が二条院で見かけた浮舟に執心して薫の留守に忍んできて契りを結んでしまう。浮舟は、消極的な薫と激しい匂宮と言う両極端の二人の貴公子に愛されて悩むのだが、やがてこの事が露見し、追い詰められて切羽詰まった浮舟は、自殺を志すが果たせず、山で行き倒れている所を横川の僧都に助けられる。僧都の手によって出家して小野に蟄居していたが、薫に居場所を捉まれて元に戻るよう勧められたが、拒絶し続ける。
   源氏物語は、ここで終わっている。

   能「浮舟」は、多少バリエーションを加えながら、殆ど源氏物語をそのまま踏襲している感じである。
   勿論、夢幻能であるので、前場では、旅僧が登場して浮舟の霊である里の女に会って故事を語り、後場で、浮舟の霊が現れて、物語を反芻すると言う展開ではあるが。
   河添教授は、この源氏物語では、浮舟の魂は宙ぶらりんで終わっているのだけれど、この複式夢幻能では、浮舟は、旅の僧の回向によって、執心晴れて兜率天・天界へと生まれることができたと謡って成仏して終わっている。と、ここが違うと指摘していた。

   この宇治十帖の浮舟の関連物語だけ読んでみても、流石に小説で、結構、複雑な物語が錯綜していて内容が豊かで面白いのだが、能は極めてシンプル。
   しかし、銕仙会の解説を引用させてもらうと、
   ”不遇の身であった自分を見出してくれた薫への愛、小舟に乗って束の間の逢瀬を楽しんだ匂宮との恋の記憶、俗世のしがらみに苦悩していた自分を救ってくれた僧都への感謝の念…。『源氏物語』最後のヒロインの“心の内”を鮮やかに描き出した作品となっています。”と言うことで、もう少し、能鑑賞の修練を積むべきと反省をしている。

   この能「浮舟」は、世阿弥は、憑き物と言う設定の「葵上」や「夕顔」とともに、女体の能のなかでも、「玉の中の玉」と特別に高く評価しているようだが、非常に上演されることが少ないと言う。
   喜多流では、この能「浮舟」は、参考曲だと言うから、本日の舞台は特別なのであったのであろうか。

   さて、薫は光源氏の子であるが、実は正妻女三宮と柏木(頭中将の子)との密通による子であり、
   匂宮は、冷泉院の皇子であるから光源氏の孫である。
   紫式部の関知するところではないかも知れないが、やはり、匂宮の方が、源氏の血を受けているだけに、色好みであるところが面白い。

   匂宮は、薫に負けじと、雪の中を宇治に赴いて、浮舟を小舟に乗せて宇治川を渡って対岸の隠れ家へ連れ出し、そこで二日間を過ごしたことになっているのだが、
   シテは、この宇治川でのこの小舟の話を引いて、〔カケリ〕を舞って、茫然自失の姿を見せる。
   シテの舞は、実に優雅で美しく、私には、宇治川での絵のようなシーンを彷彿とさせてくれた。
   尤も、宇治川は、琵琶湖から天ヶ瀬ダムをへて、急斜面を流れ落ちているので、非常に流れが速くて、むしろ平家物語の宇治川合戦の雰囲気で、雅な舟遊びの場所ではないことも事実であるが、しかし、春夏秋冬、いつでも絵になる風景が現出される。

   私は、学生時代、宇治分校に通って居た頃、この宇治で1年間下宿していて、平等院や宇治川河畔が、私の散歩道であったので、源氏物語の宇治十帖のイメージは、何となく、自然に湧いてくるのである。
   宇治に行くと、直ぐ側の国宝で世界遺産の宇治上神社を訪れて、源氏物語ミュージアムに行くのだが、ここに来ると、源氏物語の世界が、走馬灯のように駆け巡って来て、しばらく、その余韻を楽しむことにしている。

   和辻哲郎や亀井勝一郎、入江泰吉や土門拳、随分お世話になったが、何よりも、大切であったのは、源氏物語と平家物語。
   平家物語は、原典そのまま読んだが、源氏物語は、原典と谷崎潤一郎訳を併読、
   とにかく、勉強は程々にして、京都や奈良など関西の古社寺散策、歴史散歩に明け暮れていたあの頃が懐かしい。
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