熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

シーボルトが紹介した日本文化

2016年01月30日 | 学問・文化・芸術
   人間文化研究機構主催で、【公開講演会・シンポジウム】 第27回「没後150年 シーボルトが紹介した日本文化」が、ヤクルトホールで開催されたので聴講した。

   基調講演は、ボン大学のヨーゼフ・クライナー名誉教授の「シーボルト父子の日本コレクションとヨーロッパにおける日本研究」
   続いて、
   大場 秀章東大名誉教授の「ジャポニズムの先駆けとなったシーボルトの植物」 
   松井 洋子東大教授の「近世日本を語った異国人たち:シーボルトの位置」の講演
   最後に、歴博の大久保純一教授の司会で、講演者全員に、歴博の日高薫教授が加わって、
   パネルディスカッション 「シーボルト研究の現状とこれから」が行われた。

   もう、20年以上も前の話になるが、オランダに住んでいた時に、ライデン大学は、シーボルトゆかりの土地なので、ライデン大学付属の植物園を訪れたことがある。
   シーボルトが日本から持ち帰ったイチョウやフジなど、日本の花木が、そのまま生育していて、無性に、懐かしさを覚えた思い出がある。
   今、素晴らしい日本博物館のシーボルトハウスが建設されて、人気を博しているようだが、あの時、何か、その前のシーボルトの遺品などを集めた展示施設があったのか、それを見る機会があったのか、全く、覚えていない。

   クライナー教授は、ヨーロッパにおける日本学について語った。
   最初は、文献、書物、文学なおど献学的な文学中心の日本学が、社会学的な側面を加え、更に、VISUAL TURN 美術芸術を包含するように進展していったと言う。
   しかし、最初に体系的・総合的に日本研究が試みられ、それを成功させたのは、1820年代に、ヨーロッパに渡ったシーボルトコレクションであったり、著作NIPPONだったと言うから、非常に最近のことなのである。

   大場教授は、シーボルトが、日本の庭園が、多様な自生植物を取り入れた豊かな多様性の高い庭園植物相を具えているのを実感して、貧弱な庭園植物相しかもっていなかった庭を、日本の植物で変えたいと考えて、沢山の鑑賞用に供される日本植物をオランダに移送したとして、その後の推移など、興味深く語った。
   ユリ、つつじ、アジサイ、もみじ等々、オランダで品種改良された話などを含めて興味深い話が続いた。

   ところが、チューリップがオランダで注目され始めたのは、1620年で、チューリップバブルの崩壊は、1637年2月3日であり、実際に、チューリップの品種改良が全盛期を迎えたのは、1700年代と言われている。
   また、花を中心に描く静物画が脚光を浴びたのもこの頃だが、まだ、オランダでも、非常に富裕な家庭でさえもデルフト陶器のチューリップ用花挿しに一本ずつ花を飾るのが精いっぱいだったと言われており、シーボルトの時代でさえ、今のように、家の内外に花が咲き乱れる風景は、皆無だったのである。

   余談だが、シーボルトの日本植物の移送は、かなり、プリミティブであったようで、移植できたのは非常に限られていたと言う。
   世界中の植物の収集移植などに関しては、イギリスのキュー・ガーデンの右に出るものはないはずで、地球上のあらゆるところにプロのプラント・ハンターを送り込んで植物を採集して、船舶に温室や特別な保蔵設備を設置したり、イノベーションにイノベーションを重ねて珍しい植物を集めて運び込んで、育成し品種改良するなど学術的な調査研究を行っている。
   私は、近所に3年以上住んで通い詰めたので、良く知っているが、桜は季節には咲き乱れるし、もみじや椿など、多くの日本の花木が、広大な庭園のあっちこっちに、土地の種のように普通に植えれれていて、全くの異質感がない。

   松井教授は、出島を通じての日蘭関係や当時の交易や情報収集状況などの仕組みや歴史などを語りながら、シーボルトはじめ日本に関係した外国人たちの資料を通して、江戸時代以降の日本像を語った。
   私には、出島の組織や機能、その歴史など、初めて聞くような話が多くて非常に興味深かった。

   私が、一番気になっていたのは、今回のシンポジウムで、シーボルトの日本学への貢献など偉大な業績については、全く、頭が下がり、尊敬に値するのだが、以前にNHKのドキュメントで放映されていた伊能忠敬の作った日本地図を持ち出そうとした所謂シーボルト事件に対する疑問である。
   その目的は、何だったのか、クライナー教授に質問したら、教授は、シーボルトは、何でも熱心に集めて研究する人間であって、地図もその中の一つであり、スパイの意図はなかったと回答されていた。
   興味深かったのは、これほど、詳細で精密な地図が出回っているのであるから、最早、日本は鎖国の意味がないと言う考えがあったと言う指摘であった。

   さて、日本学と言うか日本に対するヨーロッパの感心だが、ドナルド・キーン先生が、
   ケンブリッジで勉強していた頃、(1950年代の前半のよう)何を勉強しているのかと聞かれて「日本文学」だと答えると、何故、猿真似の国の文学を勉強するのだと、10人中9人から聞かれたようで、当時、日本に関して欧米人が知っていた唯一のことと言えば、日本が猿真似の国であると言うことだったと語って、それ程、日本のことが知られていなかった。と語っている。
   私が、アメリカの大学院で勉強していた1970年代には、少しずつ、日本に対する関心が高まり始めて、日本経済が台頭し始めた1980年代、JAPAN AS NO.1の頃には、一気に日本人気が世界中を駆け巡ったのだが、1990年代に入ると、欧米の新聞やメディアのASIAのタイトルのトップはCHINAで、JAPANは消えてしまった。
   私のこれまでの経験では、日本学の方は良く分からないが、日本人が思っているほど、世界の人々は、日本にもそれ程関心を持っていないし、日本のことを知らないと言うことである。
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