熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

「就職心配」で、文系大学院に進学しない

2023年10月27日 | 学問・文化・芸術
   毎日新聞が、「文系大学院進学しない理由、学生48%が「就職心配」 理系の倍」と報じた。
   理系に比べて低調な文系学部生の大学院進学について、文部科学省が現役学生の意向を調査したところ、進学を考えていない人の約48%が「就職が心配」を理由に挙げたことが分かった。理系学生で同じ回答を寄せたのは約26%だった。学生が文系大学院を出た後のキャリア形成を不安視している実態が明らかになった。と言うのである。

   文科省によると、SDGs(持続可能な開発目標)や生成AI(人工知能)といった新分野に注目が集まる中、時代に即した法制度や倫理面に関する研究が求められるようになり、人文・社会科学系の専門知識がある人材の養成を大学に期待する声も高まっている。ただ、学部卒業後の進路を見ると、理工農学系は3人に1人が修士課程へ進むのに対し、文系は20~30人に1人の割合で、進学率の低さが課題とされている。
   文系・理系双方で進学を考えていない学生にその理由を尋ねると、文系は「卒業後の就職が心配」との項目に「とてもあてはまる」「ややあてはまる」とした学生が約48%となり、理系(約26%)の倍近くに上った。進学予定の学生を含めた全体に対し、大学院のイメージを聞いた設問でも「学部卒より就職に有利」の項目に「そう思う」「どちらかと言えばそう思う」とした文系学生は約43%にとどまり、理系(約85%)と差が大きく開いた。と言うことらしい。

   既に傘寿を越えて、大学を出てから60年、米国の大学院MBAを出てから50年も経て、現状には全く疎い老兵なので、頓珍漢な考え方になるとは思うが、この傾向に対して今の心境を述べてみたいと思う。

   文系の場合、「そもそも考えたこともない」と答えた学生が、、進学意向のない文系学生の半数以上を占めたと言うのだが、私自身も、大学院は学者になるための課程だと考えていて、頭にはなかったし、同級生で大学院に進んだのは1人か2人であったように思う。専攻の経済学や経営学が何たるかも分かっていなかったし、特別深く勉強したいと思ってもいなかったし、日本の場合、学問を目指さない限り、それが普通だったのである。しかし、後述するが、この考え方は、米国留学で木っ端微塵壊れてしまった。
   ところが、当時でも、京大工学部では、学部だけでは学業が全うできないので大学院へ進むカリキュラムを組んでいて、それを前提に受験するように推薦していたのを覚えている。

   ここで、まず、強調しておきたいのは、文理の比較で、理系の学問の場合は、奥が深くてどんどん勉強を重ねて深掘りする必要があって、途中下車の必要はなく、創造的段階を目指せば限界がなく、大学院へ進学は必須かも知れない。
   一方、文系の場合、私は経済と経営しか知らないのでこれに限定して語るが、科学のように確固として確立された学問や理論から積み重ねて進化して行く学問と違って、極論すれば、特に経営学はそうだが、世につれ人につれと言うか、時代の潮流によってどんどん変っていき決定版がないので、勉強を何処で切っても、世間知で補い得るのである。経済学では、スミスやマルクスやケインズなど古典理論はそれなりに命脈を保ってはいるが、この半世紀間だけを考えても、経済学理論は、変転が激しくて、学問としても様変わりである。

   日経が前に、”過剰な学歴批判や、学問より社会経験を重視する一種の「反知性主義」、大学院軽視の岩盤構図の強固さ”を指摘して記事にした。
   私は、米国製MBAで修士なので、博士について口幅ったい言い方は出来ないが、暴論を承知で言うと、この背景には、日本の政治経済社会の上に立つトップの学歴が殆ど大学卒止まりで、低いことに問題があると思っている。
   欧米では、学歴が高いほど高い地位に就き報酬が高いという厳粛なる事実が機能していて、教育程度が、決定的要因となっている。
   最近のアメリカの大統領では、トランプだけは大卒だが、クリントンもブッシュもオバマもバイデンも、総て、大学院を出ており、欧米の為政者や政府高官は勿論、大企業の経営者などリーダーの大半は、大学院を出て、博士号や修士号を持っており、大学しか出ていない殆どの日本のトップ集団とは大いに違っている。それに、欧米の場合には、文理両方のダブル・メイジャーや学際の学位取得者、T型人間、π型人間など多才な学歴を積んだリーダーが多いのも特徴である。
   欧米の教育では、大学はリベラル・アーツを学ばせる教養コース的な位置づけで、専門分野の高度な深掘り教育は、大学院の修士・博士課程、プロフェッショナル・スクール(大学院:ビジネス、ロー、エンジニアリング、メディカルetc.)で学んで習得する制度なので、桁違いに水準の高い、この過程を通過しなければ専門知識なり高等教育を受けたことにはならないし役に立たない。
   グローバル・ビジネスにおいて、欧米のカウンターパートと比べて、特に、日本のトップやビジネス戦士が引けをとっているのは、リベラル・アーツなどの知識教養の欠如と専門分野の知見の低さで、その上に、欧米人は、高度な専門分野の大学院教育を受けて知的武装をしているのであるから、太刀打ち出来るはずがない。国際政治においても同様である。

   したがって、根本的な問題は、日本の大学制度の欠陥である。
   大学のたったの4年間に、教養課程と専門課程を組み込んだどっち付かずの中途半端なシステムが問題であって、
   日本の社会なり政府が、リベラルアーツも専門教育も両方ともこの4年間の大学教育で完結したと考えているからである。
   頭の固いトップが、”過剰な学歴批判や、学問より社会経験を重視する一種の「反知性主義」、大学院軽視の岩盤構図の強固さ”に凝り固まって、大学院卒の従業員を拒否するのみならず、たとえ雇っても有効かつ真面に活用できない。
   学歴が高いほど高い地位に就き報酬が高いという厳粛なる世界の常識に反した経営をし続けているので、可哀想に、文系の大学生は、「就職に不利」だという理由だけで、大学院教育を忌避している。

   激しい時代の潮流に抗するためには、益々、学問が必須になって教育の高度化を目指す必要がある。
   思い切って、大学を完全に教養課程に切り替えて、文系の専門教育は、欧米流に、大学院、ロー・スクールやビジネス・スクールなどのプロフェッショナル・スクールに移管して、更なる高度化と充実を図ることである。高みを目指す有為な人材は、必然的に大学院突破を目指すはずである。
   尤も、現在でも、大学によってはビジネス・スクールなど制度改革を試みているようだが、そんな付け刃ではダメで、根本的な大学制度にメスを入れると同時に、更に、「反知性主義」のトップの意識改革なり、保守反動の岩盤構造を打破するなど大鉈を振るわない限り、無理かも知れない。

   GDPがドイツに抜かれて世界第4位に転落、Japan as No.1の時代は遙かに遠くなって、夢の夢、
   寂しいけれど、日本の政治経済社会の制度疲労が地鳴りを伴って軋んでいる。
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